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10-12 Sun , 2008
いつ変わったんだろう
最近「ハートをつなごう」(「ゲイ/レズビアン」、「LGBT」)を見るのと、いろいろな本を読んでいることで「性の多様性ってどういうことだろう」ということを考え始めたのだが。

ちょっとその前に自分について考えたくなった。最近、家族関係の夢を見て気分が悪くなるのは、このせいなのか。今日も彼女と一緒に昼寝をしていたのだが、見た夢の内容は忘れていたのに、気分の悪さだけが残っていて、起きたとき、隣に彼女がいてくれて、本当によかったと思った。彼女は「そんな夢を見たことなんて、忘れちゃいなさい」って言ってくれた。だけど、気分の悪さだけは自分の中に残るんだよね。これは、何とかして欲しい。。

で、自分の何について考えていたかというと、ずばり「結婚について」。

わたし、ホントに小さいときから、自分が結婚している姿が全く思い浮かばなかったのね。よく「大きくなったらおよめさんになるの」なんていう答えをする子供がいるが、わたしにとっては、それは信じられないことだった。もちろん、その頃は結婚というものは、自分の家族の中にしか見いだせなくて、そして、わたしは自分の将来の姿を母親と重ね合わすわけだけれど、考えてみるに付け「絶対に無理」と思わざるを得なかったのだ。

何がそう考えさせたのか、とも思うけれど、幼心に「母親のように毎日料理が作れるはずがない」とか「母親のようにはなれない」ってことが、自分の中で想像が付いてたんだよね。「母親のようになれない」のと同時に「男の人とは一緒に住みたくない」とも思っていたのではないかと思う。んー、別に父親が嫌いだったとか、そういうのはなかったんだけど、どうにも「見知らぬ(とつい思ってしまっていた)男の人と一緒に住んでいる姿を想像できない」というか。「子供を産んで母親になっている姿を想像できない」というか。ホント、小さいときからそういう想像はしていたのだ。だから自分が「結婚したくない」のは生まれつきだと思っていた(笑)

だから、わたしは本当に幼い頃から、「わたしは結婚しないから」と言っていた。というか、これは随分大きくなって、高校の頃くらいには「結婚しない、というよりできない、だろうな」と思っていた。それに対して母親は、わたしが結構いい歳になったときでも(その頃は既にわたしはレズビアンだと分かったあとだったが)「結婚しなくていいから、子供だけでも産みなさい」とは言われてはいたが、わたしはこれまで一回だって親から「結婚しろ」とは言われたことがないのだ。これって、親にしてみたらすごい進歩的(?)な考えだと思うんだけど。。(笑)

しかし「子供だけでも産め」と言われても、わたしゃ、まず、男性とはSEXしたいとは思ったことがないし、それに痛いことが嫌いなので、子供を産むのは恐怖ってところがあるし、あと、子供が自分似だったら、わたしは自分の子供を絶対に殺す、と思ったので(わたし、幼い頃は本当に親がよくわたしのことを殺さなかったなと思うほど、親を困らせる悪い子供だったのだ。それも恣意的にやってたので、それをもし、自分の子供の中に見いだしていたら、相当ひどい目に遭わせそうで(苦笑))、ま、わたしは子殺しで刑務所に行くのはまっぴらだったしね(ってすごい理由だな、これ(笑))。

ただ「結婚はしない」と思っていた割には、一方で「なかなか人を好きにならない」とも思っていたわけで(これは高校くらいの時か)。「好き」の延長線上がもしかしたら「結婚」になる可能性になるなんて、考えもしていなかったんだよね。それでも、何人かの男性は「好き」な人はいたし、だけど、一対一で付き合いたいとは思っていなかったので(部活動かなんかで、特定のグループがあったのよね)、例えば新年にみんなで初詣でに行ったときも「ずーっとこういう関係が続きますように」と願っていた(笑)あの頃は、わたしもまだ寺や神社に行ったときは一応、願い事をしてたのよね(笑)今は、確かに賽銭箱の前に行って、柏手打ってきたりするけど、頭の中は「真っ白」にしている。わたしには神も仏もないから。先祖はいるけど。

大学の時に、無理をして男を好きになろうとしたけど「あー、なんかめんどくさいからやめちゃえ」って思ったら、心がすーっとして、まるで生き返ったようになった。苦しかったのは、恋をしていたわけじゃなく、恋をしなければいけないと思いこんでいたからなんだ、ってそのときよーく分かった。しかし、そのときわたしはなぜ「誰かを好きにならなければならない」なんて思ったんだろう?恋人がいる友達が羨ましかった?いや、そんなことはないような気がする。わたしはどちらかというと「自己完結」する人間で、しかも、高校時代からはずっと「自分はどういう生き方をしていくんだろう。どんな人間になるんだろう。将来はどうなっているんだろう」って、そればっかり思って生きていたんだよね。しかも、そこには「他人」は当然登場してこなかったし、入り込む余地もなかった。ともかく「将来、わたしはどういう生活をしているか」ということが自分の一番の関心事で、いろいろと取り留めのないことを考えている時間が一番好きだった。

これは想像に過ぎないが、あのときにもし誰かに強引に「付き合ってくれ」と言われたとしたら、わたしはどうなっていたんだろう、と思うことがある。もしかしたら人と付き合うのはいやだから断わっていたかも知れないが、案外、好奇心で付き合ってみたりしたのではないか。もうそれは想像するしかないのだけれど。

で、恋というものから離れて「すーっ」としてから数年間、わたしは本当に自由で楽だった。しかし、楽なはずなのになぜか「わたしはなぜ人を好きにならないのだろうか」と再び思い始め、そして、いろいろ過去を振り返って、レズビアンであることに気がつく。ここら辺は、他の同性愛者とはちょっと違った自分の気がつき方ではないかと思っている。同性愛者の中でもまたさらに少数派になるだろう。なので、わたしは自分が同性愛者であることに対して、全く悩まなかったし、「レズビアンはこの世に自分一人だけ」などとは全く思わなかった。そのときには割と自分で情報を集められるだけの能力は持っていたし。

しかし、「レズビアンである」と気がついてから、わたしはまず、同じレズビアンの友達が欲しかった。そして、できれば誰かと付き合ってみたい、と思っていた。確かに「友達は欲しい」という気持ちは分かる。やはり自分の本当のことを話せる相手は欲しかったから。でも、なぜ「誰かと付き合いたい」と思ったんだろう。確かに同性同士で付き合ったとしても、今の日本では結婚はできない。しかし、わたしが幼い頃「自分は結婚しない」と思ったのも、高校の時に「結婚しないというというよりはできないだろうな」と思ったのは、同性同士の付き合いを想定して考えたものではない。

そこのところの自分の気持ちを今、いろいろと考えているところなのだが、全く分からないのだ。わたしは結婚しなくても、人とは付き合いたいと思っていたのだろうか。

付き合いたいと思ったのが事実だと言うことは、ミニコミ誌を取っていたときに「転送手紙」を利用したり、ネットが普及したときに出会い系(ではないけど、それに近いところ)に書き込みをしたりしていたことから、そのような意志があったことは明かである。そして、ネットで出会いと別れを繰り返して(付き合うまでに至らずにメールで出会いと別れを繰り返していた(爆))、そしてわたしは悟るのだ。「ああ、わたしはもう誰とも付き合うことはないだろうな」と。そして、その時初めて「具体的」に「一人で生きていく決意」をするのだ。

しかし、この行動は、幼い頃「結婚はしないからね」と言っていたときからすると、随分矛盾していることが分かる。一体、わたしは「結婚しない」と言いつつ、何をしていたのか。

そして、そのような決意をしたにもかかわらず、わたしは今の彼女と出会う。そして、なんと「一緒に暮らす」という選択をする。これは「結婚しない」と言っていた自分と明らかに矛盾する。一体、わたしはいつの間に変わってしまったのだろうか?それが考えれば考えるほど、不思議でならない。

男女の区別は別として、今、わたしは他人と一緒に住んでいるのだ。

しかし、それは幼い頃想像していた「結婚」というものとは、全く違ったものであるが。わたしは彼女と出会い、そして本当に自然に「この人と一緒にいたい」と思った。幼い頃から「誰かと一緒に暮らす」ということが全く考えられなかったのにもかかわらず、今のわたしは誰かと「一緒に暮らしている」。幼い頃は、その「誰か」はもちろん男性だった。だが、そこでもし「女性」を思い浮かべていたのなら「誰かと一緒に暮らせる」と思っただろうか?それは今さらわたしが幼稚園児に戻れないので、一生の謎ではある。しかし、仮に「女性となら一緒に暮らせる」と思ったならば、わたしはその時点で同性愛者だった、ということにならないか。

幼い頃に思った「母親」のようには、今の自分は全くなっていないし、しかし、今のわたしは「一人で暮らしていこう」と思っていたときより、十分すぎるほど幸せだ。

幼い頃、「わたしは結婚しないからね」と言っていた自分。それなのに、誰かを捜していた自分。そして、今、誰かと一緒に住んでいる自分。その自分が今、どうしても繋がらないのだ。ただわたしは「不連続的」に生きてきたわけではない。不連続に生きてきたのなら、この3つの自分が繋がらない理由にはなるのだが、不連続的に生きてきたような感じがしないのだ。わたしは確かに「連続的に生きてきた」。この証明はできないが、自分が連続的に生きてきたと思っているのだから、きっと連続的に生きてきたのだろう。

というわけで、今は矛盾している自分の中を見つめている最中である。

ただし、明確な答えは得られないだろう、というのが本音ではあるが。
なんで、本当はこんなこと、考えててもしょうがないんだけどね。
これを書かないと、なぜか次に行けないような気がしてしょうがなかったから、吐き出してみた。
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