09-09 Tue , 2008
同性愛が性倒錯ではなくなりかけた時代
最近、自分が同性愛者だと気がついたときに、本屋でそれ関係の本を探しまくって買っていた頃の本をまた再読している。この間のD・J・ウェストの「同性愛」もそうだったが、この「ゲイ―新しき隣人たち」ってのもそう。

この本は、実はまだ大学院生だったときに、確か春に仙台で学会があったんだよね。そのとき、仙台の繁華街をふらついていたら「東北で一番大きい本屋」だったっけなあ。。なんかそんな看板が目について、ふらりと寄った本屋でこの本を発見したんだった。見ると'94年3月25日に買ったらしい。が、この本自体はモートン・ハントってアメリカ人が'77年に書いた本の訳本で、初版発行が'82年4月5日。わたしが持っているのは再版で'92年10月20日発行のヤツ。

P1020668.jpg     P1020669.jpg


まず、'77年のアメリカの状況を述べておくと、アメリカの精神医学会が定める判断基準であるDSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)の中に精神疾患として記載されていた「同性愛(homosexuality)」は'73年に「性指向障害(sexual orientation disturbance)」に名称変更され、そのときから「同性愛」という言葉はDSMの中から消えることになった。それ以降も「自我異質性同性愛(ego-dystonic homosexuality)」という名前に変更されたが、実際にはこの診断名は使用されることはなかったという。そして、'87年に改訂されたDSM-III-Rで、同性愛に関係する診断名は全く姿を消した。また、'73年のアメリカ精神医学会の決定を受けて、'75年にはアメリカ心理学会も「同性愛それ自体が、判断力、安定性、信頼性、社会的・職業的な能力において欠陥を持つものではない」という決議を採択している(同性愛者における他者からの拒絶と受容―ダイアリー法と質問紙によるマルチメソッド・アプローチ (シリーズ・臨床心理学研究の最前線 1)より)。ちなみにWHO(世界保健機構)が同性愛を国際疾病分類(ICD)から外したのは、'90年なので、同性愛が精神疾患でなくなったのはアメリカの方が早い。

こんな中で'77年に書かれたこの本。本の帯に堂々と「俗説のほとんどは誤りである」云々、と書いてあるが、中身を読んで愕然とした。この本を書いたのは、帯の裏側によるとアメリカの著名な性問題ジャーナリストだそうだが、本の中身は偏見だらけ(苦笑)まー、この「目次」を見てもらえば、なんとなく分かるような気がするが。。

前に読んだ「同性愛」の方は、専門書だけあって「性倒錯」が前提にあったけれども、非常に「公正な目」で書かれているのに対し、この本は、なんと言えばいいのか、まぁ一言で言ってしまえば「学術書」でないので、この人の思ったことや経験したこと、見聞きしたことそのまま書いてある。だから、かなり偏見が大きい。これ、この題名が付いていなければ、一瞬「ゲイを差別した本」かと思うような内容で、まるで「羊の皮を被ったオオカミのような本」だった。なので、またもやわたしを気分悪くさせた(苦笑)

最初の「同性愛にかんする九つの俗説」、例えば「<俗説>同性愛者は、男でも女でも、その外見や動作によって見分けることができる。ゲイの男性は着ているもの、歩き方、話し方、手の使い方などが女性的である。ゲイの女性は髪をショートカットにし、男っぽい服装をしている。声も低く、動作も男っぽい」に対して「<事実>インディアナ大学の性研究所が1965年に行なった研究によると、ゲイであると簡単に見分けることのできるのは、男性のゲイでその8分の1にすぎない。8分の7はストレートの男性と同じようなものを着ているし、歩き方や話し方、動作にも変わった点はない。レズビアンになると、外見や動作の男っぽい人の割合はさらに少なくなり、ほとんどがストレートの女性と同じような服装、動作をしている」、「<俗説>ここ数年の間にゲイの人口が急激に増加している。ゲイ解放運動は、ゲイに対する差別を撤廃させるための全国的な運動である。この運動のために、同性愛を自分でも体験してみようという若者が多くなり、ゲイの数がふえている」に対して「<事実>少なくともこの30年間、同性愛者が増加したことを示す調査はひとつもない。性科学者の意見もそうである。ある研究では、現在の同性愛者の数は、1940年代とかわらないという。ただし、私たちの目にする同性愛者の数はずっと多くなっている。それはゲイであることを世間に公表するゲイがふえてきたからである」など、まあ、この間書いた「同性愛」に書いてあるようなことがそのまま載っている。しかし、同じようなことを挙げていても、一方はまだ「性倒錯」でこちらの方は「性倒錯でない」んだからなあ~。まぁ、わたしとしてはあそこまで書いておいて、まだ結論は「同性愛は性倒錯である」という方が信じられないくらいなんだけど。

でもね、これが中身に入ると、書いていることがめちゃくちゃだったりするのだ。例えば「同性愛の多様性」でクィア(変態)なゲイ、ハスラー(男娼;この場合も「彼らは自分たちはゲイではない」と言っているとかいてあるが、どうやら著者はそうは思っていないようで)、ゲイらしい要素を持たないゲイ、既婚者ゲイでハッテン場に通うゲイ、夫婦のように一緒に暮らしているゲイカップル、一夜のSEXを楽しむ”男役”(ダイク)のレズビアンと”女役”のレズビアン、一見ルームメイトのように見えるが実は恋人同士のレズビアンカップル(誰にもカミングアウトできない)、などを挙げて「ここに示したいくつかの例は現代アメリカの同性愛のごく一部にすぎないが、それでも相違は著しい。精神に欠陥があるのではないかと思える人もいれば、全く正常に思える人もいる。(中略)同性愛にただひとつの考えを押しつけたり、すべてを同じ態度で処理しようとすることは正しくない。偏見にとらわれることなく、理性的な姿勢で同性愛に接しようと思うのなら、どのタイプの同性愛を相手にしているのかを明白にしておく必要がある。一つの考えで割り切ってしまえば、問題が簡単になるのは当然だが、それは無知というものだろう。いや、それはむしろ、差別と呼ぶべきだろう」って書いてあるんだけど、、、これって、ちょっとおかしくない??言うなれば「この人はちょっと精神的に欠陥がありそうな同性愛者だから、そういう風に付き合いましょ」とか「この人たちは普通そうだから、普通に付き合いましょ」とか、そういうことを考えて付き合えってことを言ってるわけだよね。これって、異性愛者のものすごい「上から目線」で「奢りや高ぶり」を感じてしまうんだけど。

確かに人との付き合いは一通りではない。これは同性愛者だって異性愛者だって同じことだ。だから、自分が「この人とは気が合いそうにないな」と思えば、付き合わなければ済むことだし、気が合いそうだと思えば、別にその人が精神的に欠陥がありそうでも(っていうのはとても失礼だと思うけどね、本当は)付き合えばいいのであって、なんか「はい、この同性愛者はこんなタイプだから、こんな付き合い方をしましょう」だなんてよく言うよ、全く、って感じだ。しかもいろいろなタイプの同性愛者がいるのは確かだけど、それさえ知っておけば、別に差別も何もないと思うんだけど。。例えばとても「クィア」なゲイは苦手だと思えば、付き合わなきゃいいんだし、付き合わないこと=差別している、わけでもないよね?どうも「ゲイにはいろいろなタイプがいます。けど、選り好みをしてはいけません。適切な判断をして、適切に付き合いましょう」と言ってるとしか思えないのだが。

「同性愛の原因」も同じ。誘惑説、影響説、魅力のなさ説、性的隔離説、遺伝説、先天的欠陥説、ホルモンのアンバランス説、家庭環境説、逃避説、心の病気説、自然な衝動説、趣味説とまぁ、いろんな説を挙げているんだけど、この人は、どれも「有り得る」といい、「原因によって、同性愛の種類にも相違が生じる」「すべてとはいえないにしても、ほとんどの同性愛は複数の原因が重なって生じる」「現在のアメリカで最も重要な同性愛の原因、証拠がはっきりしていて、きわめて多くのケースで最も重要な役割を果たしている原因は、親子関係における問題である。ふつう、親子関係の問題だけで同性愛になることはなく、子供の側にその性向が備わっていなければならない。最も重要な原因は、子供の生活体験、それも家庭内における生活体験ということになる」って書いてあるんだけど、うーんと、わたしは自分のことを考えてみても、どーも親子関係とか自分の生活体験とか、あんまり関係がないような気がするんだよねー。まー、わたし、アメリカ人じゃないからかな(笑)わたしははっきりいって、なぜ自分が同性愛者なのか、未だにさっぱり分からない。もうそれは「生まれつき」としかいいようがないんじゃないかなって感じてる。他の人で「自分が同性愛者になった原因」っていうのがはっきりしているって人はいるのかなあ??逆に異性愛者で「自分が異性愛者になった原因」というのがはっきりしている人っているのだろうか?

なぜか同性愛者だけが「同性愛者になる原因」を探られていて、異性愛者は「異性愛者になる原因」を研究している人っているんだろうかと思う(そういうの、聞いたこと、あります??)。異性愛者になる原因が分かるんだったら、多分、同性愛者になる原因だって分かるんじゃないだろうか?

んで、次に続く。今日はまた長い日記になりそうだなあ~(爆)

「同性愛の性行為」なんだけど、いやー、ここまで書かれるとね(苦笑)最初に「同性愛のテクニック」ときたもんだ。これって、、、なんかゲイの理解について関係があるのかなと思ってしまうんだけど。。だってさ、なんでゲイと付き合う際について、ゲイのSEXについて知らなきゃいけないわけ?異性愛者と付き合うときに「この人はどういうSEXをするんだろう?」なんて考えて付き合っているとでも言うのだろうか?少なくともわたしは、異性愛者と付き合おうが、同性愛者と付き合おうが(この場合の「付き合う」というのは友達として、ってことね)、その人がどういうSEXをするか、なんて考えないよ。だって、関係ないじゃん。友達としてのその人と、その人がどういうSEXをするかどうかなんて。なのに、なんでこんなことをわざわざ取り上げて書くんだろう、って気がした。

しかも「本題に入る前に、理解しておいて欲しいことがある。読者の中には、同性愛者が一般に用いる性的テクニックの描写を読んで、ショックを受ける人がいると思う」って。。。でもそれについて書く理由は「しかし、性的な行為を具体的に説明しない限り、同性愛に関する真実を述べることはできない」って。。。んー、そうかなあ?じゃあ、異性愛者と付き合うに当たって、異性愛者がどういう性行為をするか、具体的に説明しない限り、異性愛に関する真実を述べることはできなくて、その挙げ句、異性愛者とは付き合えないというのだろうか。

どーもねー、興味本位に書いているとしか思えないんだよねー。だから、同性愛者が多様性を持っているってことだけでいいじゃん、って感じがするんだよね。だいたい、異性愛者だって「四十八手は裏表」とか言うんだから、いろいろあるんじゃん。それをいちいち、分かってないと異性愛者とは友達にはなれないのか???

あ、個人的には「ディルド(張形)の使用。レズビアンは互いにディルドを用いると広く信じられている。しかし、それはほんの一部に限られており、その愛好者は極めて少ない」って書いてあるところに「あ、そう。ふーん」って思いました(爆)その「極めて少ない」の中にわたしは入ってるわ(爆)こんなん、使おうが使うまいが関係ないじゃん。だって、ディルドを使うからと言って、それは別に男の代わりでもなんでもないわけで。道具の一つなのだ。自分を気持ちよくしてもらうための。えー、使って何が悪い、と思っておりますが、何か?(爆)わたしゃ、気持ちよければ、ディルドだってバイブだって使うし、それが必須ってこともないし、ホント、そのときどきの気分によって違うのよ。だから、わたしは彼女とそれこそ同じSEXをしたことが今まで一回もない!と言い切れるわ(笑)って自分たちのことについて詳しく語ってしまった(汗)

でさー、次に同性愛のSEXと異性愛のSEX、どちらが快感か、なんてことが書いてあるけど、そんなこと、関係ないじゃん!!「急進的なゲイの活動家の中には、ゲイのセックスの方がストレートのセックスより快感が大きいと主張するものがいる」ってさぁ~、、、真に受けて書かないでよね、こんなこと。だって、同性愛者だったら、同性とのSEXの方が異性に比べると断然快感があるだろうし(わたしは異性とSEXすることすら考えたくない。多分、多くの異性愛者も同じだろうと思う。同性とSEXしてるところなんて考えたくないよねえ?(爆))、異性愛者だったら、異性とのSEXの方が断然気持ちいいと思うよ、同性とするより。そんなこと比較すること自体間違っていると思うのだが。ここでの理由は「同性カップルの方が、相手の身体がどのように感じるか、よく知っているからである」とか「生物は、お互いに似ている方が、相手の基本的な機構をよく理解できるからである」とか書いてあるけど、確かにこういう「俗説」はある。けど、これはウソだ。みんながみんな、同じところが感じやすいわけがないじゃないの。こういうのってお互い、話して分かるものでしょう?なんかさ、レズビアン小説でも「ものすごいテクニックを持っていて、一発で相手をメロメロにさせてしまう」なんてこと書いてあるけど、あれはウソだと思う。。(誰の小説を指してるか、分かるかな?(爆))まー、わたしは所詮、今まで一人の人としか体験したことないけどね(苦笑)でも、確かにゲイはある意味単純である、と思う、レズビアンより。放出してしまえば、それが快感なんだから。ま、ゲイでなくとも男性一般がそうなのかな。けど、女性はそうはいかないんだよな~(笑)あ、もう、今回はSEXについて語ってるね、わたし(爆)もういいや。彼女に多分、怒られるだろうけど。

でも、それを知ってなんになる?というのが本当の本音。
別にそんなこと知らなくてもゲイとは友達になれるのだ。

で、次は「ゲイとストレートの分かれ道」なんだけど、これも必要あるの?というか、これ、すごく誤解されやすいと思う。だって「なかには同性愛の傾向がまったくなかったり、わずかしかなかったりしても、家族や同級生がゲイだというレッテルを貼り、ゲイとして取り扱っていると、自分でもゲイだと考えるようになり、ゲイ仲間に友人と慰めを求めるようになる」って。。じゃあ、この反対をやってみれば、ゲイでなくすることもできるよね?すなわち「異性愛の傾向がまったくなかったり、わずかしかなかったとしても、家族や同級生が異性愛者だというレッテルを貼り、異性愛者として取り扱っていると、自分でも異性愛者だと考えるようになり、異性愛者仲間に友人と慰めを求めるようになる」

これだったら、この世の中からはゲイは消えることになるよね?この記述、どう考えてもおかしい。この人、何考えてこれ書いたのかと思うよ。これだったら、前に書いた「同性愛」で「同性愛者は治療しても治癒しにくい」って書いてある方がよっぽど真実だと思う。

んでさ、ゲイはいつか自分のことをゲイだと自己認識するようになるわけだけれど、この本ではこの「自己認識」を”カミング・アウト”と呼ぶって書いてあるのよね。初めて聞いたわ、こんなこと。普通のカミングアウトというのは「coming out of the closet」の略で、押し入れから出てくる=他の人に自分がゲイであることを告白すること、なんだけれどねえ。。'70年代のアメリカの「カミングアウト」ってこういう意味だったのかしら??だとしたら、とても興味深いんだけど。

あと、偏見でめちゃくちゃなのが、実はバイセクシャルのところの記述。確かに本当はゲイなのだけれど、取り敢えず女性ともSEX可能、という意味でバイセクシャルと名乗ろう、といったことはある。かつてのElton Johnのようにね。でも、実際のバイセクシャルは、本当に相手の性別は関係ないのだ。なのにこの本には「現代の社会においては、本物の両性愛者になるのは、ほとんど不可能だということもある。人間は幼年期と10代において他の人間を愛するという複雑な性的・精神的感情を学び取るわけで、それは人間の極めて奥深い部分に関わっているから、その対象を簡単に切り替えるわけにはいかない。女性を愛するように教え込まれてきた男性が、急に男性を愛するようになることはないし、男性を愛するように教え込まれてきた女性が、急に女性を愛するようになることもない。人間は両性を愛するようになる可能性をもっているのかもしれないが、それが実現するためには、子供の育て方に全面的な革命が起こらなくてはならない。そして、いまのところそうした革命的変化の兆候は現われていない」「たとえば、『リンゴとミカンの両方が好きなのと同じだ』といった言い方をする。しかし、人間はリンゴやミカンではない。人間をリンゴやミカンのように取り扱う人間は、他人と真の人間関係を作ろうとしていないことになる」って、これ、バイセクシャルの人が読んだら、すごく怒ると思うよ。バイセクシャルの人は、愛する人の性別は関係ない人たちで、だから、男とも女とも付き合えるのよ。別にいっぺんに付き合うわけじゃなくてね。「ある人を好きになった。たまたま異性だった」「ある人を好きになった。たまたま同性だった」ってだけなのに。。

そしてなんと「ほとんどの両性愛者は情緒的に発達の遅れた人物で、対象を取り替える主要な原因は、両性の誰をも愛することができないことや、自分の生き方を選び取ることができないことにあると言われる」って、、、これ、めちゃくちゃ差別的な表現ではないか。ゲイは差別しないけれど、バイセクシャルは差別してもいいと言わんばかりだ。ただ、この人の周りに「真の両性愛者」がいなかったことから、このような記述になったと思われるが、、それにしてもすごい書き方だよな、これ。

で、極めつけが「”異常な”ゲイ」。この人の言う「異常なゲイ」とは、ドラァグの人だったりするのよね。あとはどうも性同一性障害っぽい人も混じっているような気がする。まぁこの時代「性同一性障害」という概念がなかったから仕方がないのかも知れないが、、しかもここに書いてある「ドラァグ」(あのね、この本には「ドラッグ」って書いてあるんだけど、これじゃ「drug」で「薬」の意味になってしまうのだ。これは「誤訳」ね。「ドラァグ」は「drag(引きずる→ドラァグの人が長いスカートを引きずっていることから)」が語源で、まー、一般には「ドラァグ・クイーン」なんて言われてるわね)の人って、この本に書いてあるように、女性っぽい仕草とかなよなよなんか全然してないし、むしろ「男を降りたことによって、何でもずけずけと言いたいことをしゃべれるおばちゃん」みたいな感じなんだよ(笑)うーん、その時代のアメリカのドラァグってそうだったのかも知れないけどね。

あとはハッテン場ばっかり通っているゲイだとか、レザーフリークのゲイだとか、そういうゲイはぜーんぶ「”異常な”ゲイ」にされてしまっている。

それと反対に「ストレート・ゲイ」というのは、一般の男女間の夫婦のように一緒に住んで、浮気もしないで、っていうゲイなんだそうだ。まぁ、ここには若いときには「”異常な”ゲイ」だった人が年を取ると「ストレート・ゲイ」に移行するみたいに書いてあるけど。。確かに異性愛者にとっては「ストレート・ゲイ」の方が付き合いやすいことだろう。「彼らは二人の男性、はっきりしたゲイの男性であるが、多くの点でストレートの男性と女性によく似ており、その関係は最近の解放された夫婦の関係に極めて近い。だからこそ、異性愛者の友人が彼らと親しく付き合い、異性愛者のカップルが二人の関係に男女の結婚の場合と同じような敬意を払うのである」って書いてあるけど、これも完全に異性愛者の「上から目線」だよね。「男女と同じような付き合い方をしているカップルじゃないと、付き合えませんよ」って言ってることと同じだよね?

でも、友達にハッテン場好きの友達がいても、別にいいじゃんか、って思うし、この人は、一体、ゲイってものをなんて考えているんだろうって、本当に「よき理解者」のふりをして、実は自分との共通点がなければ差別していい、みたいな書き方をしてるんで、はっきりいって、こないだの「同性愛」よりもかなり偏っている本だと思った。

現に訳者のあとがきでも「ハントがストレート・ゲイを評価する前提には、健康で幸福なストレートの家庭と人生が存在しているのであろう。だが、そんなものは古ぼけたフィクションでしかない。既存の価値観や生活様式の中に人間を押し込もうとする”善意”は、とっくに破産している。同性愛は人類の財産の一つであり、その投げかけている問題は、近代西欧文明の幸福のイメージより遙かに根深い。ゲイとストレートの和平を求めるハントの善意はさておき、このような判断は簡単に下すべきではない。訳者はハントの”健全”指向にはいささか疑問を覚えたので、ここに一言注記しておいた。」って書いてあるのよね。やっぱり、この訳者も訳しながら「これはどうかな~、、」と思いつつ訳したのね。ってわけで、この訳者あとがきを読んでちょっと「ほっ」とした部分はあるんだけれども。

この本、アメリカで出た当時はどんな評価をされたのかって思ったりする。ゲイのことを「新しい隣人たち」と呼びながらも「ある一定の模範的な夫婦像(しかもその当時の)に近いゲイカップル」しか受け入れられない、とこの本の著者は言っているようなものだ。しかも、ゲイの原因や性行為など、本来、友人になるためには関係のない、ただの「興味本位」のことに(しかも内容に誤りがある)多大なページを割いている。こんな「粗悪」なものでも翻訳されて出版されるくらいだから、よっぽどこの手の本はなかったのかな。しかし、この年代にこれを読んだ人って、かなり同性愛に対して誤解してるだろうなー、、、こういう本が出版されるから、また同性愛者がいらぬ誤解を受けるのだ。そういうわけで、この本、全然オススメの本じゃない。読むだけ無駄。Amazonでは1円から売ってますけど(爆)
23:31 | (性的少数者)本のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
<<自分 | ホーム | 少し早い病院の日>>
コメント
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する

トラックバック
この記事へのトラックバックURL
http://rontako.blog39.fc2.com/tb.php/938-157bce44
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
| ホーム |
AX