09-03 Wed , 2008
クローゼット時代の自分を思い出してみる
薬を変えたのが悪いのか、夜、ほとんど眠れた感じがしなくなって、すごく困っている。一応「歯科心身症」という病気にかかっている(そのうちの「口腔異常感症(口腔内セネストパチー含む)」というのがわたしの具体的な病気の名前)ので、不眠も仕方なかろうという感じはするが、しかし、口の中の変な感じは寝ているときには感じていないわけで、ではなぜこんなに不眠なんだろうか、という気持ちがする。単にうつ病だったときの方がよっぽどよく眠れていたというか寝た気がしていた。ホント、もう「いい加減にしてくれ」状態。彼女から「明日、病院に電話するからね」と言われている。都市対抗は観に行けないかも知れない。

それは置いておいて、今日はずっと家の中で休んだり寝てたりしてたんだけど、その間「自分が完全にクローゼット(レズビアンであると言うことを周囲に言っていなかったとき)だったとき」について、いろいろ思い出したりしていた。

今は、ブログにも顔出ししちゃったり、実際に付き合いのある人っていうか、初めて会う人にだって本名が書いてある名刺渡したり、カミングアウトする際も「他の人に言っちゃっても構わないから」とアウティングを奨励するようなことをやっているが(だって、一人一人に同じこと言うの、めんどくさいんだもん)、それでもわたしにはまだまだカミングアウトを自分からしたくない人とか、そういう人だって存在する(だから、アウティングして欲しいなと思っているわけで。。(苦笑)それによって、遠ざかるんだったら、勝手に遠ざかって、って感じだし)。

だけど、こういうわたしだって、完全なクローゼットな時代はもちろんあったんだよね。このブログを書き始めた頃(2005年10月中旬)は、身内の中では唯一、叔母にカミングアウトしていた。それは、地方から東京に引っ越してくる際、部屋を借りる保証人が必要だったから。でも今振り返って考えてみると、別にカミングアウトする必要はなかったんだよねー。まぁ、仕事辞めてまで東京に来る理由を聞かれると答えに迷ったと思うけど。だって、単身上京ではなく、一緒に住む人がいるんだもん。「友達だ」と言えないこともないけど、でも、長くからの友達ではなく、地方にいるときに知り合って、それで仕事を辞めて一緒に暮らす「友達」ってなんか不自然極まりないし。。なんで、叔母には東京に引っ越してくる前にあらかじめカミングアウトしておいたのだ。叔母にはカミングアウトしても「絶対大丈夫」ってほど自信はあったし、まあ、それは現実にもそうだったんだけど。

わたしが自分のことについて気がついたのは、20代中半。あのときはまだ学校に在籍していたので、インターネットというものがある、というのを知り、そこにアクセスしたりしたのは、多分、他の人よりは割と早かったと思う。家にはもちろんPCなんかないから、やるのは専ら学校、というか研究室で(苦笑)。しかも、あの当時、わたしは某プロ野球球団の大ファンで、ある日、新聞を読んでいたら「NECと球団が共同製作したサイトがある」と書いてあった('96年春のこと)。あの当時は「URLはここ」というものが一つも書いていない時代だったので、どう探し付いたのか全く覚えてないけど、とにかく見つけて「掲示板」なるものに「本名で」書き込みをしたのが、わたしの初めてのネットへのアクセス。なんで本名かというとね、そこではみんな、当然のように「本名」を名乗ってたから。

でも、アクセスしたのは、それっきりで、次にアクセスしたのは秋になってからだった。そのときは既にもうみなHNを使った書き込みがされていたので、わたしも高校当時からラジオに投稿していたPNをそのまま使って、そこに書き込みをし、で、友達がたくさんできた。

だけど、わたしは野球以外の、例えば同じレズビアンの人がやっているサイトなど、探そうという考えもなかった。確かにわたしはその頃、レズビアンのミニコミ誌を取っていて、いろんな人に「転送手紙」なんて書いてたりしたんだよ(笑)けど、ネット上でそういうのを探そうという考えすら起こらなかった。

そのうち、野球サイトに掲示板だけでなくチャットシステムが導入されてから、わたしはPCの購入を考えるようになった。だって、チャットしてるのは、主に夜だったからさ。で、あの当時は一人暮らしで部屋も狭かったことから、ノート型のPCを購入。30万円したけど、あの当時からすると、これでも一番安いのを探したんだ。その証拠に、よくブルー画面になるPCで、ブルー画面になるともう再インストールするしかない、というめちゃくちゃ怖いPCだった(苦笑)だから、メールなんかは随分頻繁にバックアップを取っていたものだった。

このPCを買ったことにより、わたしは夜から朝にかけてずっとチャット、って生活を送るようになった(苦笑)そして、初めて「レズビアンのサイトはないのかな?」って思った。だって、学校じゃ、そんなものは絶対に探せないじゃん。それで、検索して一つのレズビアンの人がやっているサイトにたどり着いた。

んー、そこには掲示板もチャットもあったんだけど、チャットに入るのが怖くてね。別窓から中で何が話されているか覗けるようになってたんだけど、それでも怖いというか、緊張して、何日もロムってたりした。おっと、その前に。野球で使っている以外の自分のHNを考えた。それが、今、まさに使っている「Ron」ってHN(当初は「ろん」というひらがなだが、というか、このブログの名前も「ろんちゃん」だしね)。そして、一つしか持っていなかったメールアドレスを、二つに増やした。そう「表の自分のメアド」と「レズビアン用のメアド」。これについては、考える余地もないほど「当たり前」のことだった。それをやった上で、勇気を振り絞ってチャットに参加した。あー、掲示板にはその前から書き込んだりはしてたんだけどね。野球の時はチャットに参加するのなんかためらいもしなかった。だけど、レズビアンのチャットに参加するのには、本当に本当に勇気がいったし、そしてすごく怖かったのね。なんでかよくわからないけど。でも参加してしまえば、面白くて面白くて、それでそっちの方のチャットに出入りするようになった。

時には野球関係のチャットとレズビアン関係のチャットを掛け持ちしながらやってたときがあるかも知れない。けど、わたしは自分の中で「2つの顔」を何の苦労もなく使い分けることができた。野球のチャットでは、野球のことばかり話してればよかったし、レズビアンのチャットでは、たわいない話をしてたし。

その後、わたしは学生を辞めて就職することになったんで、引っ越した。で、引っ越してから割とすぐ、社会人野球にはまってしまって、今度はそっちの世界に首をつっこむことになった。相変わらずわたしは2つの顔を持っていたし、それに対しては何も思っていなかった。要するに「それが当たり前でしょ?」って思って疑いもしてなかったし、特に「つらい」とも思っていなかった。「表の顔」の方では社会人野球関係のウェブサイトも作り(今は表紙だけ存在してます(笑))、そこでもたくさんの友達ができた。職場では社会人野球の話しかプライベートな話はしなかったし「今度は○○大会であそこに行ってきますから休みます」だの、そういうことしか言ってなかった(爆)だって、野球の大会は日にちがちゃんと決まっている。だいぶ前から「この日は休みます」って言っておかなければ、その日に会議とか入れられたら困るもんね(爆)最初の配属先がまー、支店みたいなところだったんで、休みやすかったんだよね。で、出張も大会があるときは避けて、予定を組んでたから、すごい年では年間に100試合以上、社会人野球等の試合を観たこともある。平均すると7~80試合、というところだったが。

まー、社会人野球を中心とした生活を送っていたのは確かだったが、一方、他の性的少数者のサイトも探して、面白いのは毎日読みに行ったりしていた。主にゲイの人のサイトだったが。レズビアンはその頃はまだまだ少なかったのよね。サイト自体。で、ゲイで一緒に暮らしている人のウェブサイトだとかを見ながら「そういう人もいるんだなー」って思ったりしていた。けど、決して連絡を取ろうとは思ってなかった。全部「ロム専門」だった。ある日、2年近く日記を読んでいたあるゲイの人のサイトが、突然日記の更新が止まったと思ったら、数日後、彼の掲示板に彼の知人という人が「彼は突然亡くなりました」という書き込みをした。実は、同じ県に住んでいるみたいだな、ということは、彼の日記から薄々感じていて「いつかはメールしたいな」と思っていたわたしは、ものすごくショックだった。

「すこたん企画(今はすこたんソーシャルサービスになっている)」のニュースで、たまたま、わたしが住んでいる町に「出前」で彼らが講演することを知ったんだけど、、、その会場は、本当に家から近かったから、十分歩いていける距離だったんだけど、、わたしはやっぱり行けなかった。怖かったから。家の近く、というのにもとても抵抗感があったし、どういう人が来てるか分からないし、と思うととてもじゃないけれど、行く気にはなれなかった。行ってる途中に誰か、知り合いの同僚に出会わないかとか、そんな心配さえしていた。

でも、地元のレズビアンの友達は欲しいと思って、掲示板を見ては、せっせとメールしてたりしていた。そしてオフ会などにも出たりしていたのだが、どうも話が合わない。東京で何回かレズビアンのオフ会に参加したことはあったんだけど、そのときはみんなと普通に話せるのに、あそこのオフ会ではどうしても話の中に入れなかった。そう、わたし、地元人じゃないから、その地域の「○○でどうこうして」って話に全然付いていけなかったのね。そういう話ばかりしていたんじゃないと思うんだけど、本当に恋人はおろか、友達さえできない状況で。地方だから、滅多に違うメンバーとも会えず、会えたと思っても向こうが「面白くないヤツ」と判断したのか、メールしても返事が来なかったりして。。それで、わたしは完全に「もうこのまま一生一人で暮らしていこう。野球観ているだけで十分幸せじゃないか」って思うようになった。

だけどね、ある日、たまたま見たサイトで、これは前も書いたことのある話なんだけど「どうやら、同じ会社に勤めているらしい」ゲイの人を見つけた。で、早速メールを送った。そのときまでには、掲示板に載っているレズビアンの人たちにメールし慣れていたのか(苦笑)、すんなりメールができたのね。で、もう最初のメールから「もしかしたら、あなたは○○に勤めてませんか?」って聞いちゃったの。そうしたら、やっぱり同じ会社で働いているゲイの人だった。けど、、前にも書いたけど、それから半年するかしないかのうちに、彼は亡くなってしまったのだった。病院からメールをくれたりして、病気なのは知っていたけれど。そのときは、わたしは最初の異動があって、支店から本社に転勤になってたのね。で、彼の訃報がわたしの職場にも回ってきて、、彼の年齢が死ぬにはあまりにも若かったので、隣に座っている同僚から「この人、どうして亡くなったのかね~?」って聞かれたんだけど、わたしは(本当は彼のウェブサイトにどういう病気で亡くなったのか書いてあったから知ってたんだけど)「さぁ」としか答えられず、本当はメールを何回もやりとりした相手だったんだ、とは答えられなかった。それが初めて「ああ、クローゼットってこういうつらいときもあるんだな」って知った瞬間だった。

でも、それだって「実はネットで知り合って」って言えないこともなかったんだよね。ウソになるけど「野球関係で」って言えば、誰だって納得するように、もうわたしの「社会人野球好き」は同僚中に知れ渡ってたし、その辺はなんとでも誤魔化せたんだ。けど「実は知っている人です」というと、わたしまで「レズビアン」ということがばれてしまう、と思って、それで答えられなかったんだ。。

その彼と知り合う前後に、わたしは今の彼女と出会った。そして付き合うことに決めてから、お互いの家を行き来していた。お互い、一人暮らしだったから、泊まるところは苦労しない。で、わたしは春から秋にかけては野球のシーズンだったので、その時期は彼女がうちに泊まりに来て、野球シーズンでなくなると、今度はわたしが彼女のところに泊まりに行く、という生活を3年くらい続けた。だいたい1ヶ月に1度の頻度で会ってたんだけど、わたしが会社に行くときは、ベランダから見送ってくれたりして、とても嬉しかった反面、彼女が帰ってしまうときは、悲しくて悲しくて、見送ってくれてるベランダに向かって、何回も振り返っては手を振って、会社に行きながら泣いたりしていた。でもそんな態度は職場では見せられないから、会社に着いたら努めて明るく振る舞ってたけどさ。冬の間の連休は東京に行ったりしてたけど、職場ではプライベートな話は一切しなかったから、何も話さなかったしね。

最後の1年はうつ病になって、入院したりしてたし、彼女がこっちに来るばっかりだったと思う。そのときにどうしてもわたしの家族と会わなければならないことになって(だって、わたしが入院するときに、彼女が家にちょうど遊びに来てたんだもん)、そのときは「友達」って紹介した。

「一緒に住もう」って言い出したのはいつからかよく覚えてないけど、わたしが東京出身であることや、東京の方が何かと住みやすいと思って、会社を辞めてわたしが東京に行くことになった。

で、話は最初に戻って、東京に行く前に叔母にあってカミングアウトしたのが、わたしの一番最初のカミングアウト。それはもう、必要に迫られて、って感じだった。

しかしね、わたしが学生時代、東京にいるとき、既に第1回目の「ゲイパレード」が東京で行なわれてたんだよね。Wikipediaによると「東京レズビアン・ゲイ・パレード」が'94年から'99年にかけて毎年行なわれてる。けど、わたし、そうものがあること自体、全然知らなかったんだよね。わたしが東京を離れたのは'98年だからさ。ちょうどネットで東京のレズビアンの人と友達になったりした時期だったんだけど、誰もそういうものがあるなんて言いもしなかったし、ミニコミ誌を取ってたのは、まさに'94年、'95年だったんだけど、そういう情報が載ってたことすら覚えてない。ま、そのミニコミ誌は今でもちゃんと手元にあるから、確認すれば載ってるかどうか分かることなんだけど。それでもね、渋谷であった「第1回レズビアン アンド ゲイフィルムフェスティバル('94年)」(今の「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」とは別物。何かあの当時は2つが混在していたらしいね)は、ドキドキしながらでも一人で行ったんだけど。。でもあれがあるという情報はどこで仕入れたのだろうか?なんでパレードの情報は入ってこなかったんだろうか?

でも、、すこたん企画が自分の町にやって来たときすら怖くて聞きに行けなかったわたしだ。そういうパレードがあったとしても、まず、参加しようとは思わなかったと思う。よくて沿道からチラッと見るくらいだったろうけれど、、でも、もしその記事があったとしても、読んだ記憶すらないんだから、怖いの怖くないのじゃなくて、単に「興味がなかった」としか言いようがない。

しかも、2000年から復活したという「東京レズビアン&ゲイパレード」だって、ネットでそういう情報を仕入れても全然おかしくないはずなんだけど、まったく目に入ってこなかった。わたしがパレードというものがある、って初めて知ったのって、2006年なんだもの。

だからさ、そういうサイトに出くわすとか、参加した人の日記を読むとか、そういうことでもなければ、わたしはその存在を知り得なかったわけで。だって、わたしのその頃読んでた、ゲイ関係のウェブサイトにはそういうことは一言も書いてなかったんだもの。今思うと不思議で不思議でたまらないのよね。もしかしたら「そういうものに興味がない」あるいは「そういう存在を知らない」人たちのサイトばかり読んでいたというのか。いや、多分「知らなかった」人がたくさんいたのではないだろうか。だから、今でもパレードがある、ということを全く知らない人たちだってたくさん存在するんじゃないかと思うんだよね。情報は、興味を持ち出すとこっちが放っておいてもどんどん入ってくるが、興味を持たないものには出くわさないものなんだと思う(スルーしてしまって)。だってほとんど「レズビアン・フェミニスト(多分)」が作っていたミニコミ誌にパレードのことが載っていないとは思えないもの。だから、その当時はそういうものには全く興味がなかったんだよね、わたし。

ただ、わたしが「レインボートーク2006」とか、その後にあった「IDAHO」のイベントに出ようと思ったのは、かなり「うつ」が混ざってたので、誰も知らない人がいるところに行くのが怖いとか、顔出しするのが怖いとか、そんなこと、思ってもなかったんだよねー(苦笑)。あ、あと彼女が付いてきてくれる、というのも怖さをカバーするものだったのかもしれない。彼女自身は「IDAHO」のイベントに行くときは、内心顔出しするのに「えーっ」って思った、っていうから。多分、普通の感情だったらあんな人の多いところ(新宿駅東南口)で、いきなりの顔出しは躊躇するだろう。でもわたしはうつ特有の「行きたい、やりたい」一心で、顔出しするとかそんなことは一切考えの中には入っていなくて怖くも何もなかったのだ。

親にカミングアウトするハメになったのも、うつ病が悪化した結果だし、わたし、あのときにうつ病じゃなかったら、もしかしたら今でも2人で密かに暮らしてたかも知れない(笑)

あれからいろいろなことがあり、わたしは彼女との関係を隠したくなくて、友人に会うたびにカミングアウトを繰り返し、そしてパレードなんかにも出るようになったし(しかも今は、トロンボーンって先頭で吹けて目立てる!なんて喜んでるし(爆))、メインのメールアドレスは、かつては「レズビアン専用」だったメールアドレスになってしまっているし、そして、かつてのHNである「じんた」よりも、今は「Ron」って呼ばれることの方が多いというか、もう既にそれでしか呼ばれない。裏の顔が完全に表に取って代わられてしまったのだ。けれど、そんなことをするなんて考えられもしない時期だってわたしにはちゃんと存在してたんだよな、ってそう思う。「誰も知らないところに行く怖さ」は今でも思い出せるしね。

こうやって初めて、レズビアンのサイトを発見したときの喜び、そしてそのチャットに参加したときの怖さとドキドキ感があって、そしていろいろなことを経験して、今の自分がある。今では「2つの顔」を持つことの方が自分では苦痛で耐えられないことなんだけれど(もうああいう器用のいいことはできない)。

そういう頃があった自分を決して忘れてはいけないと思うんだ。

テーマ:性的少数者(LGBTIQ) - ジャンル:日記

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