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12-03 Sat , 2005
<新編>ぼくは12歳
この本を見つけたのは、本当に偶然だった。

実は実家に帰る日に、別の本を買いに新宿の紀伊国屋に寄っていったのだが、そこでふと「ちくま文庫」のコーナーが目に入り、「ここには(橋本)治ちゃんの本は絶対に全部揃ってるよね」と確認しに行ったところ、偶然、この本が先に自分の目に入ってきたのだった。

「ぼくは12歳」。忘れもしない、この本。なぜかというと、わたしも12歳の時に小学校の図書館でこの本を読んだから。自分と同じ歳の人がなぜ、自殺なんかしたんだろう、そう思って読んだから。真四角の全体的に青っぽいハードカバーの本がまざまざと目に浮かんでくる。それが単行本化されたのか。。<新編>となっているのは、ハードカバーのあの本に「未知の若い人々と」という少年の両親と読者との往復書簡を併収してあるからだ、と本の裏表紙に書いてあった。

しかしそのとき、わたしはその詩の内容を思い出そうとしても思い出せなかった。思い出したのは、上に書いたハードカバーの四角い青い本、ということと、自殺した子供は、有名な高史明という人の子供だった、ということだけだった。(どうしてその当時、高史明氏を知っていたかは、今でもよく思い出せない)

25年ぶりに手に取った本である。一体、どういうことが書かれていたのか、今読んだらどんな感想を持つだろうか、と思って買うことにした。

この本は、著者である少年が小学6年の晩秋から、死に至る中学1年の7月まで書いた詩と、小学2年から中学1年までの作文・読書感想文、そして両親が書いた「悲しみの中から」という追悼文(?)と今回新たに併収された「未知の若い人々と」という読者との往復書簡で成り立っている本である。

詩を読むと、その当時の自分と比べてかなり早熟な子供だったことが分かる。きっと内容がまったく思い出せなかったのは、まだまだ未熟だったわたしが、その意味をほとんど理解できなかったからだろう。中には素直にそのまま読める詩もあるが、ときどき「これが小学生の書く言葉なのか?」と思わせる難しい表現などが出てくる。

また、小学校6年の時に書かれた「愛の合しょう」という詩の中ではベンチに座る恋人たちの「チュッ」という音が愛のクライマックスとして描かれている。小学6年でもう「せい春のたび立ち!」という言葉が使われている。でもそこには死を予感させるものは何もない。「かなしい気がする/うれしい気がする/不安な気がする」と「せい春」について無邪気な心で書かれている。

彼には好きな人がいたんだな、と思われる詩もいくつかあった。あるいは好きな人がいるとして想像して書いていたのかも知れない。また彼は、自分が大人になった姿を想像しながら書いた詩も何編かあった。大学に入学したとき、ハタチになったとき、結婚したとき、、

そして彼は「自由」と言う言葉を何度も使って詩を書いている。自由とは一体なんなのか、自分の中に自由はあるのか。最初は無邪気に書かれていた「自由」だったが、次第にそれが悩みとなっていくような気がした。そして何かによってばらばらになっていく自分。「ひとり」と題された詩は悲しい。

ひとり
ひとり/ただくずされるのを/まつだけ

彼は一体、何から崩されようとしていたのか。自由になることに極度に不安を覚えていたのだろうか。それとも段々大人になっていく自分に違和感を感じていたのだろうか。それともまったく、別の意味がそこには隠されていたのだろうか。。

そして彼は「ぼくはしなない」という詩を書いた日に、近くのマンションの屋上から飛び降り自殺をする。これは一体どういうことなのか。「ぼくだけは/ぜったいしなない/なぜならば/ぼくは/じぶんじしんだから」(「じぶんじしんだから」のところに点が打ってある)詩の後半にはこう書いてある。こう書きながらもなぜ、彼は死んでいったのだろう?この世から自由になるために?それとも自分自身になるために?

自分自身のことについては深く考えていたわたしだが、自由という言葉はあまり考えない青春時代だった、と今思う。それだから、今、彼の詩を読んでもあまりピンとは来ないのだろう。

むしろ、わたしには後半部分の両親の「悲しみの中から」や読者とのやりとりである「未知の若い人々と」の方が分かりやすかった。両親の「なぜ我が子は死んでしまったのだろう」と嘆く姿、後悔する姿、「真史くんの気持ちが痛いほど分かる」という読者とのやりとり、中でも父親である高史明氏が、赤ん坊の持つ『本能の知恵』から徐々に成長して行くに連れ獲得される『言葉の知恵』によって、人間は生と死を分裂させ、本能で生きていく動物と違い、あらゆる存在と一体となる道を失っていくと言い、だが『知恵』を超越するものは決して『死』ではない。『言葉の知恵』によって導かれる『死』はやはり『言葉の知恵』から生まれたもので、『死』は『言葉の知恵』を超越することはできない、と述べている。

そして、分裂した生死を『言葉の知恵』によって生きることを、全面的に善とし、万物の霊長と見る見方をひるがえして『罪悪深重』(ざいあくじんじゅう:罪深く、悪重きもの)の身としてみること、で生と死を統一し、他のあらゆる存在と、あらためて生きたつながりを回復してゆくのではないか、と結論づけている。

わたしにとってはまだまだ「死」というものが長く遠い先にあるもの、しかも「生」と絡ませて考えてみたことがないので、高史明氏が言いたいことはよく分かるが、実はこれもいまいちピンとはこなかったのだった。しかし、いつかわたしも「生と死」が身近に迫ってくることがあるだろう。そのときわたしはなんと思うのだろうか。
16:57 | (一般)本のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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