01-24 Tue , 2006
ありのまま-ていねいに暮らす、楽に生きる。
この本は、mate!さんから薦められた本である。「京都の法然院の住職が書いた本なので、途中、仏教的な教えも入っていますが、その部分を気にしなければ、なんだか前向きになれる本でした」とのことだったので、すかさず購入。

本の中身は、それぞれ「ていねいに暮らす」「豊かな一日のために」「ともに生きる」「ありのまま」と4章に分かれており、その一つ一つの章にたとえば「おはようございます」「掃除する」などの短いエッセイ風にそのことが書かれている。

一番初めにこの本を読んだとき「掃除する」のところに「同じことを繰り返す日常の積み重ねで人生はつくられているのではないですか」と書かれていて、きれい好きのくせに掃除嫌いなわたしは、ちょっとハッとさせられる言葉だった。そういえばそうなのだ。毎日起きて、朝ご飯食べて、後片づけして、顔洗って、寝て、昼ご飯食べて、後片づけして。。少なくとも今のわたしはこのような生活を毎日続けている。この積み重ねが人生なのだ、と思ったら、いつもは苦になる食後の後片づけも「人生、人生」と思ってそんなに苦にならなくなった。

あとは「お風呂に入る」。わたしはどうしても風呂桶の中に長くは浸かっていられない。風呂桶の中でボーッとするのが我慢できないのだ。それをこの本では自分と風呂の水とを「内と外」という表現をし、「内と外とが溶け合う一体感は、深いリラクゼーション」へとつながる、と書いてある。それを読んで、今までは熱いお湯に一気に入ってパッと出るわたしだったが、少し温めのお湯に浸かって、内と外とを意識している。なかなか一体感は得られないが。。

それから「花を飾る」という項で、花を手向けるということが、自分の命の代わりに、花が自分の命を捧げているという意味を持つ、ということを知って、花を贈るときは自分の命を贈るつもりで、もらうときは相手の命をもらうつもりで、大切にしようと思った。この意味は、自分の中でとても感動した。今まで思ってもみなかったことだからだ。花を飾るということは、花の命をもらうことなのだ。そしてその命をもらって、またどこかに返せばいいのだ。そうやって命は循環し、宇宙のしくみを畏れ敬う気持ちが生まれ、「わたし」はこうして生かされているのだから、今日一日を大切に生きよう、という思いに至るのだ。

この本は最後に行くほど佛教的な教えが簡単に書かれている。そのキーワードは「縁」だとわたしは思う。昨日のわたしと今日のわたしは違う。その違いは自分の身の回りに於ける人とのかかわり、すなわち「縁」なのである。それによって、例えば自分が将来やりたいことが変わったり、思った通りにいかなかったり、逆に思い通りになったりする。でもそれでもよいのだ。それが「縁」であり、そうやって自分の人生に対して真剣に向き合い、努力する。この世の生き方はそれでよいのだ。

法然や親鸞は「この世では悟りは得られない」との結論に達し「他力」を言い「南無阿弥陀仏」を唱えることによって、あの世で悟りが得られる、と考えている。「他力」というのは他人に依存することではない。自力で悟りが得られないために、仏さまの力を借りるという意味で、他力なのだ。先ほども書いたが、人は、この世で自分の人生をただただ一生懸命生きればよい。

「南無阿弥陀仏」の意味も、恥ずかしながらこの本で初めて知った。「すべて仏さまにお任せします」「阿弥陀さまを信じます」そのような意味だそうだ。自分の人生を一生懸命生きながら、この「南無阿弥陀仏」を唱える。するとあの世で悟りを得ることができるということなのだ。

実はわたしの実家は浄土真宗である。熱心な信徒である祖母は毎日3回、仏壇の前に座ってお経を唱えている。折に触れ「阿弥陀さまが守って下さっているんだよ」とは聞いていたが、何しろわたしは無神論者。「はぁそうですか」てなものだった。

だが、この本を読んで、わたしは少しずつ考えを変えられているような気がする。もちろん、あの世で悟りを開きたいわけではない。この世で阿弥陀さまに見守ってもらわなくてもよい。だが、この世で、一生懸命、自分が思ったように生き、縁によってそのときどきで考えを変え、無理矢理に初志貫徹しなくてもよい、自分自身にそんなにこだわらなくてもいいんだよ、という考え方に、そんなに肩に力を入れて生きなくてもいいんだな、と思った。特に、今、わたしは病気療養中で、毎日、同じようなことをして過ごしている。自分の病気がよくなっているのか悪くなっているのかよくわからない。そんな中で、昨日の自分と今日の自分は違う、と言われると、ふっと気が楽になるような気がする。

ただ、一つ分からなかったことがある。それは宇宙観。本にも何度か宇宙とつながっているようなことが書かれているが、それがどういうイメージを持てばいいのかが、わたしにはよく分からなかった。風呂の中での内と外から宇宙をイメージする、命の循環から宇宙をイメージする、しかしそのどれも、わたしにはどうしても宇宙まで想像できなくて、宇宙観の項があったらよかったのになぁと思った。

実家で病気療養中、仏壇の前に座ったのはたったの2回。それを今、少し悔いている。もう少し、座ってもよかったのではなかったのか、と。また、今度実家に帰ったときは、なんか今までとは違った気持ちで仏壇と迎えあえそうだ。とともに、生前に戒名が決まっている祖母。そのことがわたしにはどういう気持ちか信じられなくて「どんな気持ち?」と聞いたことがある。そのとき「ホッとした気持ち」と答えられたが、そのときは訳が分からなかった。でも、それも今はなんとなく分かるような気がしてきている。今年90になる祖母、まだまだ元気だが、きっとあの世で悟りを開けることと、そのことを阿弥陀さまに感謝する気持ち、日常を感謝する気持ちで、毎日仏壇の前に座っているのだろう。

mate!さんには「仏教的な教えも入っていますが」と言われていたが、わたしは見事にその部分にはまってしまった。
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