----- -- , --
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--:-- | スポンサー広告 | page top↑
09-09 Sun , 2018
ショックな出来事
彼女の従兄弟が亡くなった。

その従兄弟とは、一昨年、彼女のお父さんのお葬式の席でお会いした人でここに書いた人。その人はわたしが今まで何人にもカミングアウトした中で初めて「○○さん(彼女)のどこが好きになったんですか?」って聞いてくれた人。カミングアウトしたときにそういう「普通」の会話をしてくれた人って初めてで、すごく素敵な人だなって思ってたのに。

あれから2年くらいしか経ってないのに亡くなってしまった。
あれからまたお会いできると思っていたのに会えなくなってしまった。

たった1回しか会ったことなかったんだけど、お葬式に行った。
キリスト教形式のお葬式だったんだけど、そこで説教した牧師さんはその従兄弟さんが亡くなる前に読んだ般若心経の本を読んでみたとかで、そこにどんなことが書いてあったかを簡単に紹介した。なんかキリスト教の牧師さんが仏教の聖典のことについて言及するのは珍しいと思ったが、多分通ずるところがあるんだと思う。従兄弟さんはその本を読んで「空」という言葉について考え、「空」という概念が気に入っていたようだ。

お葬式に行って帰って来てから、そういえば彼女のお父さんのお葬式の日記にわたしはなんて書いたっけ、と思って上にリンクを貼った以前書いた日記を読み返してみた。

実はそれまで前にお会いしたときの顔や姿をあまり思い出せなかったんだけど、その日記を読み返したときにぐわーとその光景が戻ってきてそのときの従兄弟さんの顔を鮮明に思い出したのだ。そしたらものすごくショックを受けてね。お葬式に出たときはそんなにショックではなかったのに。そこからひたすら「なぜだ、なぜ今さらショックを受けるんだ?」って考えたらさ、なんとなく分かったのだ。

わたしは幼い頃から不思議でたまらないことがある。

唐突だけど夏に自分の血を吸う蚊を叩いて殺したとき。もうこの世にいない蚊なのに確かにわたしの身体の血を吸って、わたしは痒い思いをしている。あの蚊は確かにこの世で生きていたんだと思うととても不思議なのだ。うーん、伝わらないかなあ。不思議でもなんでもないって思う人もいるかも知れないけど(時系列的にはわたしの血を吸ったあとにわたしが叩いて殺すのでそんなに不思議なことではない)、わたしは「もうこの世にいない蚊が自分を痒がらせている」ということが、幼い頃から不思議に感じられてならない。

今回のこれは、その話と相似形だ。従兄弟さんと蚊を一緒くたにするのはとても失礼なんだけど、2年前に従兄弟さんにお会いしたことは、多分、蚊がわたしを刺したのと同じことなのだと思う。従兄弟さんの場合は蚊のようにわたしの身体の表面ではなく心が刺されたというか、わたしの心に痕跡を残したという感じになるが。で、心に痕跡はあるのに、痕跡を付けた人はもうこの世にはいない。それがとても不思議でたまらないし、そのことがショックなのだ。

ただ一方、人間もこの世で生きる生物の一つと見ると、単に従兄弟さんは生命体としての役割を終えたに過ぎない。生命体は生まれてきたら必ず死ぬことになっている(病気だろうが不慮の事故だろうが自殺だろうが)。そこにどうこういう感情はない。ただ生まれてきて寿命が尽きただけとも考えられる。太古の昔から生物は生きて死んでそれが積み重なっているだけ。わたしもじきにその中に入るのだろうし、別にそのことについて何か感傷的になることもない。事実だけをフラットに見れば生き物の生死なんてそんなものだ。

だがそこにどうこうと意味や説明を付けたくなるのが人間なんだと思う。「人はなぜ生まれてきたのか」とかね、「人は生まれてきたことに意味がある」とかね。今、この境遇にいるのは運命なのかとかね。

実はわたしにはもう一つ不思議なことがある。生命体としての自分というか、わたしは人間だから頭と胴体と手足がある丸ごとの自分が「自分としての生命体」なわけだが、そう思えない自分もいる。自分の内部に「自分」というものがあり(具体的に言ってしまえば脳が自分なような気がする)、外を見ている「目」は生物的なものというよりも「スコープ」のような機械であり、手足も「自分の外部」にあるもので、自分が単に動かしている機械、のような気分になることもある。まぁこれはわたしだけの感覚なのかも知れないが。これが何とも言えない不思議な気分なのだ。こういう感覚に見舞われると「自分って何?」という感覚になる。

よく人を肉体と精神に分けるけど(宗教なんかもそうだよね)、それに近いのかな?とも思ったりする(今のところは自分の持っている不思議さはあまりそれらに繋がってるとは思えないのだけど)。でも自分の身体という丸ごと一つの生命体をわたし全体と捉えられない感覚がある、というのはとっても不思議だなと思うのだ。

わたしにとって人を肉体と精神に分けて考えることは生き残った人が少しでも死から心を軽くするための手段としか思えない。まぁこれから死に向かう人もそうなのかな。ただわたしは今までうつ病3回やってきて、希死念慮が消えなくなっている。希死念慮っていうのは「こんな自分がこの世に生きていても無駄だ」とか「この世に生きて存在している自分に耐えられない」というものだから、わたし自身はもし死んだときはこの世からの一切の消滅を願っている。

ただ一般の人はその考えとはまったく逆みたい。以前読んだアイヌの歴史、って本の中に「罪に対して一番重い罰は、その人が亡くなってから一切その人の名前を言ってはいけないことだった」って書いてあった。これは残された子孫に対する罰ではなく、罪を犯した本人への一番重い罰とすると、人間って言うのは大昔から「自分が死んでから後々の世まで自分がこの世に生きていた痕跡を残したい、みんなに忘れ去られたくない」って思ってるんだよなあってことが分かる。なのでわたしはこの自分の持っている感覚はとっても歪んだ、病的なものなんだなって自覚はしている。だからといって歪んでしまったものを元に戻したいとはまったく思っていない。なぜってここまで認識が歪んでしまったってことは、歪むまでにものすごいつらい目にあったってことだから。

で、何が言いたいかというと、わたしは「死んだら無になる」と思っている(そういう願望ももちろん入っている)。しかしお葬式で聞いたように従兄弟さんは般若心経の本を読んで「空」という言葉について考え、気に入ったと聞いた。「無」と「空」は似ているようで違うものだろう。だけど何が違うんだろうかってそのときに思ったの。「無」は「なにもない」ことだが「空」も「なにもない」って意味じゃないか?だって「空(から)」って中に何も入っていない、ってことではないかと。ただ違うのは「空」は何か箱のようなものがあるってことだろうか。でも「空気」の「空」はそうじゃないよな。あるけど見えないってことだろうか(ここで唐突に思い出す「星の王子さま」。読んだことないけど)。

というわけで、基本的にわたしはなんにしてもそうだけど死に対してはできるだけ客観的に捉えるようにしているのであまり感傷的にはならない。確かに2年前に元気だった人が今はもういないことにショックを受けているが。そして客観的に捉えてはいるが上にも書いたとおり、自分の経験から生と死の関係に「不思議でたまらない」という感覚を持っているものはあり、それはそれでなぜだかは分からないが自分はそれが不思議なんだということ、そして「無」と「空」の違いってなんなんだろう、これは今後考えてみたい。
22:30 | カミングアウト | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
<<修了見込証明書が来た | ホーム | 第4回スクーリング終了!!!>>
コメント
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する

トラックバック
この記事へのトラックバックURL
http://rontako.blog39.fc2.com/tb.php/1981-896eb8c8
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
| ホーム |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。