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12-30 Wed , 2015
もうこんな時期か
ブログに書きたいことはたまってるのに、忙しくて書く時間が全くないうちにもう年の瀬を迎えてしまった。
でも明日も忙しい予定だから、時間がある今日のうちに書いておく。

と言えども、最近はあまり季節感を楽しみたいと思うこともなく、365日(あるいは366日)普通の日で十分、という気がしている。まぁ猫の誕生日は祝いますけどね。

しかしまぁ、区切りではあるので、今年1年を振り返ってみると、今年はわたしにとって、とても不思議な年だった。

生きて考えてれば「なんでこれはこうなってるんだろう」と思うことが多々ある。本を読んでても疑問に感じることがあるし、日常を暮らしてても疑問に感じることはあるし、何かを見ても疑問に思うことがある。単純な知識問題ならともかく、何を手がかりに探せばいいのかさっぱり分からないこともある。

ところが今年はそれが「繋がる」ことがとても多かった。人に会ったり、イベント行ったり、学習会に参加したり、映画を観たり、劇を観たり、でもそれは特にその疑問を解決したいと期待して行ったわけではない。全く関係ないところで、でも自分の中で「あっ」って思うことがとても多かった。答えは見つからずとも、そのヒントになるものと出会うのだ。そのことをヒントにまた自分の中で思考を深め、そして行き当たる。しかしまた別のところでヒントと出会う。ヒントであったり、同じ思いをしている人に出会ったり。

今年はそんな、不思議な年だった。

ただ、だからといって「答え」が見つかったわけではない。というか、答えなんか見つかるような問題ではないと自分では分かっている。しかし、だからといってなぜ考えるのを止めないかというと、それは自分が人間だからだ、「人間は考える葦である」ではないか、なんて書くとカッコイイ~んだろうけどね(笑)別にわたしは人間だから考えているわけではなく、答えを探す行為が、今後自分はどうすればいいのか、自分は何が出来るのか、というある種の答えには繋がっていると思うからだ。要するに副産物で自分の行動が決められる、と言えばいいのか。疑問に思っている「答え」そのものは見つからないにしても。

多分、この中で一番大切なのは、疑問に思っている「答え」そのものではなく、「自分がどう行動するか」なんだと思う。ぐだぐだ自分の頭の中で考えてたって、それで世の中変わるわけはないんだもの。もちろん自分の行動には限界があって、行動したとしても世の中変わるわけはない。わたしは一声で世の中が変えられるような絶対的な権力者じゃないし、逆にそういう権力を持った人を忌み嫌っているから、自分は権力者にはなりたくないし。自分ができることは所詮、微々たるものだと思っている。けど「どうせ行動しても世の中変わらないよね」とブツブツ言ってるよりは、行動する方がよっぽどいい。それが自己満足に過ぎない、ということも十分承知だし、わたしはそれが自己満足であることに満足してるので、それはそれで構わない。とにかくわたしは行動をしなければならないと思う。そのこともはっきり分かった年でもあった。

わたしが主に考えていることは、過去のブログを読んでもらえば分かると思うが、「死刑」「宗教」「在日外国人(特に在日朝鮮人)」のことについてだけど、「死刑」については、今年、自分の考えに決着を付けることが出来た(もしかしたら、その結論についてはブログに書いてないかも)。「宗教」については、これは今も興味の対象。今年はいくつかイスラム教について書かれている本を読み、外観はどんな宗教なのかは一応分かったけど、でも人に出会ったわけではないので、まだ疑問満載。ただ、一つ一つの宗教についてではなく、「宗教」全体(なぜ宗教があるのだろうという疑問など)として考えるのもまた面白い。絶対に答えなんか出ないと分かってるけど、今のところは「人間がそれを必要としていた」と思っている。要するにひっくり返すと「宗教は人間が作った」なんだけど、それは仕方ないよね、わたしは宗教を信じてないんだから。また、わたしはずっと「宗教とは何か」という疑問もあったが、これはそれぞれの宗教、個々に「エッセンス」というものがあり、それは何かというものをそれぞれの教典から読み取っていく作業なのではないかと思っている。要するに、聖典に書かれていること一言一句が正しいのではなく、全体を読んだときに「共通する何か」があるんだろうと。そう考えると、おそらく仏教もキリスト教もイスラム教も(その他の細々した宗教についてはよく知らない)、根底に相通ずるものがあるのではないかと思う。

例えば聖書、キリスト教の教典である聖書だけども、旧約聖書の一番始めは「創世記」、いわゆる「天地創造」について書かれている(旧約聖書はキリスト教だけでなく当然ながらユダヤ教、そしてイスラム教の聖典でもある)。しかし、その1章と2章、全然違うことが書かれているのだ。1章では神は最初にいろんなものを創って、そして一番最後に人間を造った、と書いてある。それが6日目だったと。だがその直後の2章では、神はまず人間を造って、人間を助けるものを創ろうといって、他のものを創ったと書いてあるのだ。全く矛盾していることが書いてあるよね、直後に。しかも、大多数の人が読み始める最初のページ、おそらく一番読まれることが多いであろう箇所に。聖書ってどんなことが書いてあるんだろうと思っただけの信者以外の人だって1ページから普通読むだろうよ。これ、編纂するときになんでこんな矛盾しているものを載せてるんだろう、どちらか一方を削って「こちらが正解です」ってしなかったのはなぜだろう、そちらの方が都合がいいのになぜ敢えてそうしてないんだろう、と考えると、「聖書とは、一言一句を信じるものではないものである」と聖書自身が言いたいのではないかと思える。「聖書には矛盾していることも差別的なことも含んでいますよ。けども、それが聖書の本質ではないのです。しかし、この中には一本貫いていることは確実にあります。それが信じるものに値するものです」と言っているように思えるのだ。だから聖書で自分の都合のいいところのみを切り取ってそれを「聖書にはこう書いてある」と「教え」ている原理主義は、聖書自身が否定していることなのではないか、と。

尤も、わたしはだからといって聖書全部読んだことはありません(笑)ただ聖書というものは本当に奥が深い「読み物だ」とは思ってる。バベルの塔のところなんて、いつもいつも「よく昔の人がこんなこと考え付いたよなあ」って感心する(そういう意味ではわたしは聖書は「人が作ったもの」と思っている)。昨今の出来事で「バベルの塔」を思い浮かべることが、わたしはよーくあるから。

また、わたし、今年分かったことに「神(仏でもいいんだが、以下同じ)を信じる人は、神を通して人間を見ることができる人だ」ということがある。神を信じられない、わたしのような人間は「人間」でしかものが考えられない。別の視点から「人間」を見ることができない。しかし、神がいる人たちは、「神を通して人間を見ることができる」。このことが分かったときに正直「ちと悔しいな」って思ったのね。わたしは人間を「相対的」に見ることができない。わたしの中には「人間」しかないから。でも「神」という別の概念がある人は、神を通して人間を「相対的」に見ることができる。複数の視点を持っていることは、自己の考えを深められるだろう。そういう点で「悔しい」のだ。まぁだが、神を持っている人は「絶対的」なことが分かるかというと、そうじゃないけどね。神を信じている人たちの中の神は、やっぱり「相対的」なんだと思う。イメージ的には、この宇宙、絶対の座標軸があったとして、そこから見ると、個々の神の位置が違っている、みたいな感じになるかな。でもそれは仕方がないんだよね。人間自身が相対的なものなんだから。複数の視点が持てないから悔しいと思えども、神には出会わないと出会えない、ということもわたしは知っている。今後、出会うかどうかは今のわたしには分からない。出会ってないのだから、出会っていないまま、わたしは考えて行く。ただそれだけのことだ。

なんて話がとんでもなく抽象的なものになってしまったが、基本的に宗教とそこに住む人たちの文化や慣習、というものは非常に密接に関係してくるので、そういう意味でも個々の宗教を知ることは大切なことだと思っている。来年も個々の宗教を知ること、そして「宗教とは何か」「宗教はなぜあるのか」、この問題は引き続き考え続けて行きたい。まぁ、この疑問に答えなんかないと分かってるけどね(笑)

そして「在日外国人」、主に在日朝鮮人、在日韓国人、在日コリアン、なんて呼べばしっくりくるのかは分からないけど、その話。このことについて考えることは、本当にいろんなことを知らなければならない。歴史的な話だったり、法律的な話だったり、言語的な話(イメージ的には法的な論理というよりも感情的な言語を使用した論理と言えばいいのか)だったり、そしてその縁辺には元日本軍「慰安婦」の人たち(これについては現在、大きな動きがあったけれども、到底納得できない。だいたい謝罪する側が「このことは蒸し返すな」と言いつつする謝罪ってそれは本当に謝罪と言えるのか?まぁその他もいろいろ言いたいことがあるが)、そしてそこから「戦争被害」「戦争加害」、被爆二世としての自分、そして平和が脅かされている現在の「日本」。「在日」の問題を考えるとき、わたしの中にはこういうものがずっと連なって来ている。だからこそ、まずは「知ること」だと思っても、一度にたくさんのことを知ることは出来ないし、何しろ「知ること」といっても多岐に渡っているので膨大な量があるし、知ったらますます疑問が湧いてくるしで、そう考えると到底全部知ってから考えることなんて出来ない。だからこのことに関しては、今までわたしが「出会ってきた」人やものから少しずつ考えて行くしかないだろうと思っている。

ただ、今年に関して言えば、自分の中で一番はっきりしたのは「国とはなんだろう?個人とはなんだろう?国と個人との関係とはなんだろう?国と個人との線引きはどこなんだろう?」という疑問の方だった。これは今年わたしはいろんなものに出会ったけれど、何かに出会うたびにこの疑問はますます膨れあがってきた。そしてその答えは今のところ全く掴めてない。手がかりすらも分からない。しかしこのことが疑問になってきて、わたしは確実に前と変わってきていることを知った。わたしはつい最近、数年前に自分がこのブログに書いてたことを読んだ。そこには

わたしは決して、ジョン・レノンの作った「イマジン」のように「国が存在しなかったら」とは思わない。国家というものは必要なものだと思うから。ただし国家というアイデンティティを失わずに国と国とが緩い連帯を取ることはできないのかな、とは漠然と思っている。



って書いてある。このときは「国」というものに疑問を持っていなかった。でも、この考えは今年、変わった。上のことをわたしが書いたときに思っていたことは「もしこの地球が一つの国だったら」ということだった。でもこれは現実的に考えて有り得ないだろう。だって、一つの国になるとしたら、資本主義なの?社会主義なの?共産主義なの?とか、法律はどうなるの?とか通貨紙幣はどうなの?とか、そういう「現実的」なことを考えると「有り得ない」話だからだ。そういう意味でわたしは「国」というものに疑問を持たず「国家というものは必要だ」って書いた。

その理屈は今でも変わらない。しかし、一方、これまた現実的な話だが、国家が存在することによる弊害だってかなりあるのだ。「民主主義」とか「人権」という概念は、近年になり人間が発明したものだと思っているが、やはり根本的にこの世に生まれてきた人間は「人権」を持っているはずだ。幸福に生きる権利、自由に生きる権利は誰にでもあるはずだ(ただし「公共の福祉」に反してはならないと思う。「公共の福祉」って日本国憲法の文言だけど。で「公共の福祉」って「他人の人権を脅かさないこと」であって、単なる「人の迷惑にならない」とか軽い意味じゃないし、ましてや「国の都合の悪いこと」ではない)。ではその実現を果たすために「国」は絶対に必要なものなのか。「国」がなければすべての人は幸福に生きる権利、自由に生きる権利が持てないのかというと、全然そうじゃない。そのことの実現のためには特に「国」である必要性は全くないのだ。

ジョン・レノンの「イマジン」については、わたしはよく知らない。彼がどういう気持ちを込めて、この曲を作ったのかも全然知らない。けれど「国がないって想像してみて」というのは、まさにこういうことなんじゃないだろうかと。「地球上から国をなくす」というのは、アナーキストと言われるかも知れないが、わたしはそうじゃないんだよね。「人権」「民主主義」、そして「国家」このすべては人間が発明したものだとすると、わたしたちは国という概念を超える「何か」を発明することが必要なのではないかと。「この世に住む人たちがみんな自由に、幸せに生きている」そのことを想像しながら「では『国家』を超えるシステムとはなんだろう」って考えることが必要なのではないかと。

このことが、今年、わたしの分かったことで、去年までとはちょっと違ってきた部分だった。

「国と個人の関係」を考えたのは、正直、ここの部分だけの話ではなくね。ただ、今までは「国のイデオロギー」ってよく分からなかったんだけど、いろんなものに接しているうちにそれが見えてきた。と同時にわたし自身も知らないうちに国のイデオロギーによって洗脳されているんだ、ということも見えてきた。多分それはこの国で「日本人である」ということがどういうことか、少しながらも自分に「見えてきた」からだろうと思う。それまでは「日本人は日本で多大な権力を持っている」と言いつつ、でもそれは自分自身感じられなかった。が、そういう自分自身はべったりと「日本人の論理」で生きていた。そのことが少し感じられただけでも、わたしはとても嬉しかった。これを少し感じることができたということは、自分の「座標軸」をずらすことが可能だと言うことだから。

そしてこのずらした「視点」を保ちながら、来年に繋げていきたい。

最後に、うつ病的な視点から今年の自分を見てみる。

今年は比較的よく動けた年だった。多分、端から見ると「うつ病の人」には見えないだろう。そういう意味ではわたしも最早「うつ病」ではないと思っている。ただ、過剰に無理はしないように気をつけている。無理をしたら再発確実な反復性うつ病だからね。しかし以前と違ってきたのは「休んだら元通りになる」ってことだ。病気のときは身体がだるくてだるくて仕方がなかった。何をやるのもやる気が出ずに、多大に努力して動いていた、という感じがする。もう普通に動けていたときの状態が自分では分からなくなっていて「昔もやる気が出なかったけど、無理して身体を動かしていたのではないか」とずっと思っていた。何も考えずに身体がスッと動くなんて夢じゃないかって思ってた。

ところが、やっぱり身体って何も考えずにスッと動くものなんだよね。「やる気が出ない」というのは、出なかった頃は自分が怠けているのではないか、自分を甘やかしているのではないかってずーっと自分を責めてたけど、やっぱりそういうのは「病気の症状」だったのだ。そしてあのときは休んでも休んでも、寝ても寝てもずっとずっと身体のだるさは変わらないし、やる気も出たとは思えなかった。でも、今振り返って思うのは、やっぱり休んでも休んでも、寝ても寝ても身体が動かなかったりやる気が出ないときは、やっぱりそれは「休み方が足りない」んだってこと。休みが足りてきたら何も思わなくても身体がスッと動くし、何より何かやりたくなることができてくるのだ。

今も朝起きるとき、すごくだるくて起きる気がしない、起きるのが嫌な気分になることがある。そういうとき「あれ、自分はこれがデフォルトだったっけ?」って思う。だけど、その日、一日休むと翌日は動けるようになっている。朝、すんなり身体が動く。だから「あ、昨日はわたしは疲れてたんだ。だから起きれなかったのだ」って思える。うつ病のときは休んでてもあまりにも日々変わらなかったので、だるいのがデフォルト、みたいに思えちゃうのね。その感覚が今も残っているので、自分自身だるいときもそれは疲れではなく元からだと思ってしまうクセがある。けど、違うのね。今は一日で回復するようになったので、そういう意味でも「治ってきてるなあ~」って実感はあるし、身体がだるくて起き上がれなくても「今日は休もう」と素直に思える。

が、今ひとつ「治った」と言い切れないのは、疲れすぎると眠れないからだ。なぜか疲れすぎると眠れなかったり、眠りが浅くて全然寝た気がしなかったり、ってことは今でもある。なので「よくなってきている」けども「完全に治った」とまでは行ってないのだろう。だから、まだまだ油断大敵なのだが。。

今年1年は本当に充実した年だった。だが希死念慮は全然消えてない。むしろこれだけ活発に動いているのは「いつ死んでもいい。だけど悔いのない人生を送りたい」って思ってるからだし、もし明日死ぬとしても、わたしはそれで全然構わない。むしろその方が嬉しい。この世に自分が存在しているだけで苦痛だから。考えることも苦痛だから。息をしてるだけで苦痛だから。この世に未練なんか全くない。死んでこの世から早く消え去りたい。死んだら他人から自分のことを一切忘れられたい。この世にいたという痕跡を残したくない(死んだらこのブログも消去してもらう予定)。そしてわたしには「あの世」もない。「あの世」で自分が存在する、なんてそんな絶望的なこと、考えたくもない。わたしは「死んだら無になる」と思えるから、今、頑張れるのだ(だからわたしは宗教は信じたくても信じられない。宗教には「あの世」があるんだから)。死んでからいくら「あの世は何の悩みもない幸福な状況です」と言われても、自分が存在すると思っただけで苦痛なんだから、わたしにとっては幸福な状態であろうと苦痛なのだ。なんにせよ、わたしはわたしの存在自体をどこからも消し去りたい。これは明らかに「病的」なのは分かってるけど、これだけはもうどうしようもない。それは「病的」といっても、もうわたしの「一部」なのであり、そういう意味ではわたしは死ぬまでうつ病と「共存」していかねばならないのだろう。

よく他人から「生き生きしてる」とか「前に比べて元気になった」とか「顔色が良くなった」って言われるんだけど、確かに端から見るとその通りなんだろうと思うが、自分自身はあくまで「後ろ向き」に前に進んでいる感じだ。だって時間軸は前にしか向いてない。過去には絶対に戻れない。だとすると、前に進むしかないじゃないか。だけどわたしは自分が「生きたい」と思っては生きていない。自分で死ぬことができないから仕方なく生きている。だけど、生きている以上、悔いなく生きたい。「ああ、あれもやりたかった、これもやりたかった」「あそこに行きたかった、ここに行きたかった」と思いつつ死んでいくのはイヤだ。だから、わたしは今、できることを精一杯やる。一日一日を精一杯生きる。

来年もやりたいことはたくさんある。けど、それがいつ打ち切られても構わない。そんな思いを持って生きていく。

【追記】上の方で「創世記」云々、という話を書いたけど、あれは別にわたし自身が発見したことではない。このことについては、今年の不思議さを象徴するような話なのだが、直接的に「創世記」の1章と2章の書いてあることが矛盾している、ということについては今年読んだ「罪と死と愛と」という本に書いてあったものだ。そして「ではどうして矛盾しているものを直後に並べたのか」についての考察は、そこに書いてあったことを参考にわたしが大きく膨らませたものだ。実はここの部分、もう一つ、「男女」の造られ方が全く違う。このことについてはフェミニスト神学などが指摘しているということは以前から知っていたものの、問題はそこだけなのかと思っていたし、それがどういう意味を持つのかは考えたことがなかった。

そしてこの「罪と死と愛と」という本を知ったのは、「絞死刑」という大島渚の映画を観たからだった。そしてなぜそもそもこの映画を観ようと思ったかは、たまたま偶然チラシを見て知ったからだ。そう、順番を追って話すと、わたしはたまたまチラシを見て「絞死刑」という映画を知った。「観たい」と思ったのは、「小松川事件」という、これまたわたしは初めて知った事件だが(まあわたしが生まれる前の話なので)、貧しい在日の少年が2人の女性を殺害して死刑になった、という話を知ったからだった。事件は確か'56年頃起こって、'62年に死刑が執行された。死刑が確定した後、日本国内で助命嘆願が行われたらしい。それはあまりにも在日の少年が過酷な境遇におかれていたからだ。そして大島渚は'68年に「絞死刑」という映画を制作して上映した。'68年と言えば、ちょうどわたしが生まれた年だ。大島渚は「日本における在日朝鮮人の問題」としてこの映画を作ったらしい。わたしも「在日」のことについて描かれた作品だろうと思って観に行ったのだった。

ところが実際に映画を観ると「この映画のどこが在日朝鮮人に焦点を当ててるんだ?」という内容だった。わたしには「死刑制度について疑問を呈している」という映画としか思えなかった。そして内容も当時の人だったらそんなに細かい事件の背景は必要じゃないよね、というような映画だったので、事件自体のことははっきりしたことはよく分からないままの「なんか変な映画」だった。しかし観終わったときに、この映画を上映した主催の人が「小松川事件については、2冊の本が出ています」と教えてくれ、そのうちの1冊がこの「罪と死と愛と」だったのだ。ただこの本は少年死刑囚だった人と同じ在日の朴寿南さんという人との往復書簡集の一部だ。要するに手紙のやりとりのうちの重要な部分だけが抜粋されている本だった(重要な部分といっても、約300ページに2段組で書かれ、結構読むの大変だった)。そしてその他の1冊というのはこの2人の手紙のやりとりのすべてである「全書簡集」だ。けっきょく両方の本は手紙のやりとり、という形の本だったということだ。

「罪と死と愛と」を読んだら、これは在日というよりもキリスト教の話じゃないかと思った。そこに死刑囚ということは密接に絡んでいるが。というのは、この少年死刑囚は死刑が確定した後にキリスト教を信仰するようになっていたからだ。そこでは自分が死刑囚であるということと自分が犯した罪のこと、そして神とは信仰とは、ということが書いてある。確かに日本で生まれた朝鮮人、ということについても書いているが、この少年は生まれてから罪を犯して警察に捕まるまで、自分をあまり「朝鮮人」とは意識してないというか、本人は差別されるのでいつ周囲に自分が朝鮮人であるということがばれるか非常に恐れていたけれど、周囲は誰も彼のことを朝鮮人だと知った人はいなかったんだよね(雇い主は知ってただろうが。だって彼は就職の際も「朝鮮人だから」ということで大企業には就職できないのだ)。逆に「犯人は在日の少年だった」ということがクローズアップされすぎて本人はとても途惑っていただろうと書いてあった。彼は朴寿南さんとの手紙のやりとりにより、獄中、自分の民族意識に目覚めるのだ。だが、本を読んだ感想として、やっぱり主題は「信仰」にあるのではないだろうか、というのがわたしの感想だ。それくらい、信仰について書いてある内容が面白かった。上で「神がいる人は人間が客観的に見られて羨ましい」と書いたが、わたしがそう思ったのもこの本を読んでそう思ったからだ。

で、もうお気付きだろうが、なんとこの本は「死刑」「宗教」「在日」とわたしがそれまで別々に単独で興味を持ったことすべてが絡んでくる話で、その偶然さに非常にびっくりしたのだった。この話は今年、わたしに起こった「不思議さ」を象徴しているような話なんだけど、結局のところ、これは「象徴」に過ぎなくて、それ以外の分野でもあちこちで繋がったことが多かった。だから今年は本当にわたしにとって「不思議な年」だったのだ。
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