11-27 Fri , 2015
「蒼のシンフォニー」特別試写会に行った
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だいぶ前の話になるが、「蒼のシンフォニー」(そらいろのしんふぉにー)という映画の試写会に行った。

きっと「何その映画。全然知らない」という人が多いと思う。これは「ウリハッキョ」「60万回のトライ」と同様に朝鮮学校を扱ったドキュメンタリー映画だ。実は「ウリハッキョ」「60万回のトライ」にもちらっと出てくるが、実際の映像はほとんどなかった場面がある。それは朝鮮高級学校(日本の高校に相当する)の「祖国訪問」の場面だ。朝鮮高級学校においての「祖国訪問」というのは、おそらく日本の高校でいう「修学旅行」に当たるとわたしは認識してるんだけど、まぁ「祖国訪問」の行き先は当然のことながら朝鮮民主主義人民共和国、いわゆる「北朝鮮」だ。

ではなぜ先の「ウリハッキョ」と「60万回のトライ」ではその映像がほとんどなかったかというと、「ウリハッキョ」の監督さんは本国の韓国の人で、当然のことながらいわゆる「北朝鮮」には行くことができない。「60万回のトライ」は2人の監督さんで、一人は本国の韓国の人、もう一人は在日だったと思う。しかし、この在日の監督さんは確か、朝鮮学校には通ったことがない人なんだよね。だからこの映画も監督さん自らいわゆる「北朝鮮」には行けなかったのだ。で、この「60万回のトライ」では一人の生徒にカメラを託してて、「祖国訪問」の様子がちょっとだけ映像であることはあるんだけど、まぁ生徒が撮ったものだから、当然のことながらきちっとしたものではないのね。

ところが今回の「蒼のシンフォニー」は監督さんがいわゆる「北朝鮮」に行って「祖国訪問」の様子を撮ってきたという。わたし、それがとても「興味深かった」のね。単純に「観たい」って思った。だから、この映画に対しての「後援金」、いわゆる映画の制作費に当たるものだと思うけど、その募集をしていたときに、応援の意味を兼ねて少額だけどもお金を出してたのね。今回はその特典。そしてこの映画の一般公開は来年の春になるということで、そんなに先まで待てないよってことで行ってきたのだ。

ただ、行った後、映画の感想がここまで長い間書けなかったのは2つ理由がある。一つ目は「素直なわたしの気持ちを書いたら、当事者(この場合は在日認識がある当事者)の気持ちを傷つけてしまう可能性があるのではないか」と思ったこと。もう一つは「わたしが素直な感想を書いたとして、そこに全く悪意がなくても、悪意を持とうと思った人に対してはどうやったって悪意を持てるような印象を与えてしまうだろう」と予想されるからだ。当事者の気持ちを傷つけるのは嫌だし、悪意を持った人に悪い意味での「宣伝」になって伝わるのはわたしの本意ではない。それでずっと「どういう風に書けばいいのか」を考えていた。「書かない」という選択肢はなかったが、その「書き方」をずっと悩んでいた。が、あるとき思った。「正直に書こう」と。ただ、誤解や悪意を持たれるのは嫌なので、その都度、わたしがそれに対してどう考えたかを長々しく書こう、と。それでもきっと、文章ではわたしの気持ちはすべて伝えられないだろう。そのことについては予め言っておく。そして多分、これは「映画のレビュー」にはならないと思う。わたしが映画を観て印象に残ったこと、それについて考えたこと、それが主な内容になるだろう。

しかし、既にここから長々しい説明の一端に入るけど、これはあくまで「朝鮮学校」に関わりがある人たちの話だ。「朝鮮学校」=「在日」ではあるけれど、「在日」=「朝鮮学校」ではない(朝鮮学校は在日の「部分集合」ということ)。むしろ、在日の中で朝鮮学校に関わっている人たち(関わるというのは、朝鮮学校関係者、いわゆる朝鮮学校の卒業生やら家族やらということ)は在日の中でも少数の人に過ぎない。朝鮮学校とは全く関わりのない在日の人たちはいるし、数からするとこちらの方が「多数派」だ。朝鮮学校は今、生徒数が減少している。戦後70年近くの民族教育を担ってきた朝鮮学校が今、このような現状を迎えているのは、わたしはとても悲しいと思う。人数が少ないコミュニティの中に子どもを入れたくない(狭い世界の人間関係しか持てないことを避けたい)という理由で朝鮮学校に通っていても途中から日本の学校に転校してしまう、という例もよくあるらしい。現にこの映画では一人、中学時代はずっと1人で過ごした、という生徒が出てくる。それまでは同級生は5、6人いたんだそうだ。が、自分一人を残してすべて別の学校に行ってしまったと。この人、映画の中では言ってなかったけど多分、以前わたしが観た「アフタースクール 東日本大震災 東北朝鮮学校の記録part.2」というドキュメンタリーで出てきた子だよね?この「アフタースクール 東日本大震災 東北朝鮮学校の記録part.2」という映画は「東日本大震災 東北朝鮮学校の記録 2011.3.15-3.20」というドキュメンタリー映画の続編で、制作したのは先に紹介した「60万回のトライ」を制作した監督さんたちだ。東日本大震災で校舎が壊れてしまった東北朝鮮学校が、仮校舎を作って移転した先での話なのだけど、そこで中級部にたった1人だけで学んでいる生徒がいる話が出てくる。その子が多分、東北朝鮮中級学校を卒業したあとに、茨城の朝鮮学校に来たんだろう。

あ、大事なことを言い忘れていた。この映画の舞台となっているのは茨城朝鮮初中高級学校だ。そこの高級学校の生徒に焦点が当てられている。朝鮮学校がどこにどのくらいの規模である、ということはわたしはよく知らないのだが、初級から高級まですべてある学校っておそらく数が少ないと思う。前に出てきた東北の朝鮮学校は初級と中級しかない。その上に行くには、家から離れた高級部がある学校に行かなければならない。茨城朝鮮初中高級学校には生徒たちの寄宿舎がある。実家が遠くてとても通えない人たちのためだ。中には実家が新潟で、初級学校から1人、寄宿舎にいるという生徒も出てくる。初級学校といえば、日本の学校では小学校だよ。小学1年のときから親元を離れて寮生活って、本当にすごい。来た当初は寂しくて仕方がなかったそうだけれど。土日に親元に帰って、月曜日の朝、親が新潟から茨城まで車で送る。子どもも大変だけど、親も大変だったと思う。しかしこの子はとても面白い子だった。そういや「60万回のトライ」にも面白い子が1人いたな。いわゆるムードメーカーというか。その子はもともとそういう性格だったんだろうけど、でも、小学1年生、あ、違った。初級学校1年生って言えばいいのかな?からの寮生活でも伸び伸びと育てられたから、その子のもともと持っていた性格が発揮されたんだろうな。

というか。ここからずるずるといろんな話が出てきそうになるんだけど、話を元に戻す。というわけで、わたしが言いたかったのは「在日」=「朝鮮学校」ではないこと。むしろ朝鮮学校に通っていない在日の方が多数派であるということ。そして「多数派」にも関わらず、普段のわたしの目からはそれはほとんど見えない、ということだ。だから、この映画を観て在日の人はこういう人たちなんだーって思うのは違う。わたしはわたしの目からはほとんど見ることができない多数の在日の人に思いを馳せる。ただ、うっすらとだけど「内部は複雑」だろうとは察しながらもね。性的少数者もそうだけど、世の中で「透明人間」をやってるのもつらいことです。

朝鮮学校が目立っている理由というのは、わたしが言わなくても大半の人は分かるだろうと思うが、朝鮮学校無償化排除問題、というのが大きい。そしてその背景にあるのは「朝鮮学校は朝鮮総聯と関係があること」、そして「朝鮮総聯がいわゆる『北朝鮮』に結びついていること」、そしていわゆる「北朝鮮」の拉致問題、というのがどうしても出て来ざるを得ない。

ただ。わたしは基本的に朝鮮学校は民族教育権にあたると思っている。権利というものは制限が付けられないから権利なのであって、そこで「こういう教育はするな」と介入するものは権利ではないと思っている。もちろん権利は無制限ではない。しかし「無制限ではない場合」というのは、あくまでも「他者が持つ権利とぶつかり合う場合」にのみ何らかの制限が付けられるべきだ。だからいくら「表現の自由は無制限だ」と言っていても、そこに他人の人格を貶める発言(特にマイノリティに対して)を無制限にしていいはずはなく、そこでは一定の制限を設けるべきだと思っている、というか、これはわたしだけがそう思っているわけではなく、これが国際標準な考え方で、わたしが今言ってるのは単に「ヘイトスピーチ」だけの話ではないです。というかヘイトスピーチ自体が「表現の自由に当たらない」、だからヘイトスピーチは規制できるとする考えもあるだろう。そこら辺の細かな違い(ヘイトスピーチは表現の自由に当たり、しかし、公共の福祉(これは各人が持っている権利がぶつかり合ってしまった場合の話で、人に迷惑掛けるとかそういう意味では全くない)を考えると一定の規制が必要であるという考え方と、ヘイトスピーチ自体が表現の自由には当たらないのだ、という考え方)はさておき、どちらにしても、どういう表現方法でも「差別はしてはいけない」というのは当然のことだろう。

先ほど「国際標準」と言ったのは、その元になる国連の「人種差別撤廃条約」が既にそういうことを決めているからだ。そしてよく、これを持ち出すと「でも日本政府は第4条の(a)と(b)は留保しているからヘイトスピーチは規制できない」と言われるが、だいたい公人の差別発言を禁止した(c)は留保していないし、それより何よりこの条約の第4条というのは第2条に対して特別に「刑法で定めなさいね」ということを言っているに過ぎなく、その大前提になるのは第2条なのだ。もちろん、日本政府はここの部分は留保してない。ていうか、ここの部分を留保したら人種差別撤廃条約の締結国になった意味がない。第2条には「締結国は、人種差別を非難し、また、あらゆる形態の人種差別を撤廃する政策及びあらゆる人種間の理解を促進する政策をすべての適当な方法により遅滞なくとることを約束する。このため」とある。そしてこのために第2条では具体的に(a)から(e)が規定されているが特に(d)では「各締結国は、すべての適当な方法(状況により必要とされるときは、立法を含む。)により、いかなる個人、集団又は団体による人種差別も禁止し、終了させる。」と決められている。そして日本の裁判所は2009年12月に起きた京都朝鮮高校襲撃事件の裁判において、あのときに朝鮮学校の人たちに向けられた言葉はヘイトスピーチで、そのヘイトスピーチは「人種差別に当たる」とした(平成22年(ワ)第2655号 街頭宣伝差止め等請求事件、69ページ「5 本件活動による業務妨害及び名誉毀損が人種差別撤廃条約上の人種差別に該当すること」)。また裁判所は「このことから,わが国の裁判所は,人種差別撤廃条約上,法律を同条約の定めに適合するように解釈する責務を負うものというべきである。」(、63ページ「第3 人種差別撤廃条約下での裁判所の判断について」)としている。なお、この件に関しては2014年(平成26年)12月9日に最高裁が上告棄却して判決は確定している。

話を戻した割に、あんまり戻ってない感じがするが(汗)、なぜこのような話が出てくるかというと、この手の話をすると必ず「どっちもどっち」ということを言われるからだ。違う。圧倒的に差別をする方が悪いに決まっている。ヘイトスピーチを撒き散らす方が悪いに決まっている。そのことを一番最初に言いたいからだ。先ほど「朝鮮学校に通う子どもが少なくなっている」と書いたが、こういうところも影響しているとわたしは思う。差別の標的にされるようなところに子どもを通わせたくない、そう思う親もいるはずだ。だとしても、それは朝鮮学校が悪いわけではなく、そこに対してヘイトを撒き散らす人たちが悪いのだ。「だってそこには朝鮮総聯が絡んでいて、北朝鮮と繋がっていて、北朝鮮は日本人を拉致したから朝鮮学校は攻撃されるのだ」って意見が絶対に消えないことは分かっている。しかし、どういう理由にしたって「だから差別していいのだ」という理由にはならない。差別はどういうことがあってもしてはならないのだ。朝鮮学校が朝鮮総聯と関わっていること、朝鮮総聯はいわゆる「北朝鮮」側であること、いわゆる「北朝鮮」が他国に住んでいた人を拉致したこと、これは事実だろう。でも、そのことをなぜ「個人」が引き受けなければならないのか、と思う。だって、わたし自身のことを考えたとしても、わたし=国ではない。

だが、本当のところを言えば、わたしだってそこのところはどう考えていいのかよく分からない。分からないことは2つ。一つ目は、国と個人の関係。国はどこまで国で、個人はどこまで個人なのか。国と個人は明確に違うとは分かっていても、今のわたしにはその間にまっすぐな線を引くことは出来ない。わたしは「国」として、自分の意見を言うつもりはないけれど、もし相手が「国」として発言した場合はどうすればいいんだろう?この間体験した「原爆を落としたことで早く戦争が終わったことを理解して下さい」という言葉。あのとき感じたのは、これは個人の言葉ではなく、国の言葉だよなあということ。そのような言葉に対して、わたしは何をどう言ったらいいのか。

そしてもう一つ。朝鮮民主主義人民共和国、という国のこと。国の事情からしても、もともとあまり情報が入ってくるということはないのだけれど、今の日本に住んでいるとあまりにも「偏った情報」しか入って来ない。日本では日々「北朝鮮は悪い国だ」という情報ばかりが流れてきて、知らないうちに「洗脳」されている。そりゃもちろん言論の自由がない国とか独裁とか思うよ。No.2であっても気に入らなければすぐに粛正されてしまうとか、あるもん。でも、入ってくる情報と言えばそういうことだけ。あとは核問題か。今の日本に住んでて、そういう情報しかわたしたちには与えられない。これは「洗脳行為」に等しいだろう。だから、わたしは知りたいのだ、あの国の、それ以外のことが。何かを判断するためには、まず、多くのことを知らなければならない。だからわたしは知りたいのだ。どういう人たちがそこでどういうことをして暮らしてるんだろう、どういう風に暮らしてるんだろうって。多分「何を思って」ということを知るにはとてつもなく難しいとは思うけど。っていうか、おそらくそれは今のところはそれは不可能だと思うけど。あーそこで「でも近づきすぎたら北朝鮮に洗脳される」って言うよね、すぐ(笑)んなわけないじゃん。逆にわたしは今のこのような日本の状況で、自分がかなり「洗脳」されていることに気が付いている。ともすれば「悪意」を持って見兼ねない。先ほど上で「映画の感想を書くまで、こんなに長くなってしまった理由」の2つ目に「わたしが素直な感想を書いたとして、そこに全く悪意がなくても、悪意を持とうと思った人に対してはどうやったって悪意を持てるような印象を与えてしまうだろう」と書いた。けども、何のことはない、どうしてこういう見方ができるかというと、知らず知らずのうちにわたしだって「悪意」を持って見てしまう自分に気が付いていたからだ。「これは、わたしを洗脳させようと思ってこんなに都合のいい、きれいな場面をみせてるんじゃなかろうか」って、つい、そういう「疑いの目」で見てしまう自分がいることに気が付く。そういうことを考えている自分自身がものすごく嫌でなんとかしたいけど、でもこの「洗脳」はなかなか解けてくれない。。。わたしの場合、そっちの方が相当深刻だ。

いわゆる「北朝鮮」のことばかりについて言い過ぎたけれども、この映画の中にも出てくるけど、実は近年、朝鮮学校を支えようとする韓国の人たちがいる。「モンダンヨンピル」という、東日本大震災に遭った朝鮮学校を支援することがきっかけで団体なんだけれども、韓国の歌手とか俳優さんとかなんかいろんな人が支援していて、毎年1回、韓国から日本にやってきて、コンサートなんかを開いてる。高校無償化の問題も応援してくれている。なので朝鮮学校は今や、北と南、両国で支えられているのだ。わたしには分からないけど、きっと、双方でとても難しかったりすることがあるんじゃないかと想像したりもする。けど、この輪が韓国でもっともっと広がって、そして朝鮮学校のことを知る韓国の人が増えればいいなあと思う。

なかなか話が元に戻らない(汗)もはや、映画の中の話をしているのかそれともまだ始まってないのか分かんなくなってきたけど、取り敢えず自分の中ではまだ話は始まってません(汗)長かったけど、ここから話は始まります(汗)

この特別試写会の会場に着いたとき、わたしはすごい「違和感」を感じたのね。それは、言葉だった。わたしは今まであんなに日本語と朝鮮語をちゃんぽんにして話している空間にいたことがなく。そこから感じた「違和感」だった。けど、違和感というとなんか言葉が悪いけど、なんていうのか、悪い意味ではなく、興味深いとか面白いとか、そういう感覚だろうか。この日本に住んでいて、こういう経験なんか滅多に出来ない。来ていた人はおそらくほとんどが朝鮮学校関係者だろう。なんか、来ている人はわたし以外はみんな親しい知り合いなんじゃないだろうかと思うほどだった(でも多分、わたしみたいな人もいたはずだと思うんだよねー)。まぁこの映画は朝鮮学校を題材としてて、それを朝鮮学校出身者が作ってるんだから当然の話だ。要するにわたしは「同窓会会場」に「別の学校の出身者」として紛れ込んでしまったのだ。そう思えば理解しやすい。ただ、違和感に拍車を掛けているのは言葉なんだけどね。

以前わたしは「60万回のトライ」の感想を書いた日記で、

わたしは、その時折混じる「日本語と同じ発音のような朝鮮語(かも知れない?)」と「使い分け」によって話される日本語に、違和感をものすごく感じた。多分これはわたしが一カ国語でしかしゃべれないからだと思うが、多分在日の人たち、特に朝鮮学校に通ったことがある在日の人たちにとってはこれが普通なんだよね。



って書いた。この日記を書いたのは2014年の3月で、わたしはこのとき朝鮮語は全く知らなかった。わたしが朝鮮語を習い始めるのは、この翌月の4月からだ。そして1年半後。わたしは彼らが日本語と朝鮮語をちゃんぽんで話す理由がちょっと分かる気がする。なんていったって語順が同じだから、途中で言葉を挟みやすいのだ。だからきっと、彼らの頭の中では「思い付いた言葉」をただ発してるだけなんだね。朝鮮語、日本語関係なく。そして、使ってる言葉はそんなに難しくなかった(笑)「あー、わたしでも意味分かるなあ」って思った。

そうそう、映画の中にね、「60万回のトライ」とは逆に、朝鮮学校唯一の日本人教師である藤代先生、という人が話す場面があるんだけど、あ、この藤代先生という人は、サッカーやってる人なのね。「祖国と母国とフットボール」だったかなあ。以前読んだ本の中にもこの人出てきて、わたしはこの本で彼のことを知りました。んでね、この人が映画の中で喋ってた言葉がね、主に日本語ではあるんだけど、ところどころ朝鮮語が混じってるのよ。もうどんなこと喋ったかは覚えてないけど、一言「オプソ」って言った場面だけは覚えてて、オプソって、없어、日本語でいうと「~ないので」って意味になるのね。あれ、「~ないので」は「없어서」じゃないかなあ?まぁ、それはいいんだけど、とにかく本来日本人である彼がそういうような言葉遣いをしてたものだから、会場から思わず笑いが漏れてね。それがとっても印象的だった。

でね、多分、わたしは「60万回のトライ」を観たときよりも言語に対しては意味が分かるようになっているし、言葉にしてもどうしてそういう言葉遣いになっちゃうかも分かるような気がするので、そちら方面は格段に理解力が上がったから、そういう面では「みんな、わたしの知らない言葉を喋ってる!」って感じではないのよ。だからあのときと比べると違和感は少なくなるはずなのに、実際自分がいる場面で、日本語と朝鮮語がちゃんぽんな場って今まで体験したことがなかったから「60万回のトライ」を観に行ったときよりもその場の違和感が強くて(あのときはどういう人たちが観に来てるかは全然分かんなかった)。でもね、なんだか分からないけどわたしはそういう「違和感」っていいなあと思うのよ、自分で。あのときわたしは違和感を感じながら「今の時間は貴重な体験だなあ」って思ってた。だって別の学校の同窓会に紛れ込むことなんてまずないじゃない(笑)ただ裏返せば、人生のほとんどの時間を違和感なく過ごせているこの空間では、わたしは紛れもなく「マジョリティ」側なんだなあと。うーん、細かいところを言えばちょっと違うところもあるけれどってこれについても、あとで書きます。

会場はほぼ満員でね。映画は確か日本語字幕付きだったか。まぁ字幕はいいんだけど、どういう人が話しているという身分とか名前とか出てくるんだけど(ドキュメンタリーに付きものの)、あの色彩のコントラストがちょっと見づらくて、結局誰が誰なのやらよく読めなくて分からなかったという。。それが残念でした。

映画自体は確か100分ちょっとではなかったかと思うんだけど、おそらく半分以上が「祖国訪問」のシーンだったかな。案外長かった、というのが正直なところ。わたしは「ウリハッキョ」や「60万回のトライ」のように祖国訪問はその映画の「ワン・シーン」みたいな位置づけかと思ってたから。

そしてこの映画、監督自らがナレーションやってるんだよね~。結構監督があれこれしゃべってるところも多かったけど、これはどうなのかな。例えば会場でもらったパンフの中に「韓国籍の生徒の両親に送られてきた1通の文書-『北韓(北朝鮮)を訪問した場合、国家保安法により処罰される可能性があります。パスポートが必要なら、朝鮮学校をやめさせてください』」と書いてあるんだけど、映画の中ではこれがほとんどそのままナレーションで説明される。朝鮮学校に通う子どもの国籍はさまざまで、韓国籍、朝鮮籍、日本国籍が入り交じっている。ちなみに朝鮮籍はいわゆる「北朝鮮」の国籍を持っているということではないのでご注意を。これは日本政府がかつて植民地時代に強制的に与えた日本国籍(その実、戸籍制度やいろいろな面で差別してたんだけど)をあるとき突然「あんたたち、外国人とみなすから」と言って取り上げて、取り上げた相手を勝手に「朝鮮籍にする」って決めたもの。だから、朝鮮籍自体は記号みたいなもので、国を表すものではない。いわば「無国籍」状態なわけだ。これ、外国に行って何かトラブルが起きたとしてもどこの大使館にも駆け込んで助けてもらえないと言うこと。とてつもなく怖い状態のままに置かれているのだ。まぁだけど、いわゆる「北朝鮮」には入国できる、朝鮮籍の人たちは。だが、いわゆる「北朝鮮」に入国できるのは実は日本国籍を持ってる人でも可能だ。

というか、いわゆる「北朝鮮」とは国交がないから日本国籍を持ったものは行くことができないって思ってる人も多そうだけど、実はそうじゃない。わたしだってお金払えばいわゆる「北朝鮮」に行くことができる。いわゆる「北朝鮮」は旅行することが可能な国だ。国交のあるなしは関係ない。だって、台湾だって日本は国交を持ってないけど(つか、日本は二つの中国を認めてないので台湾とは国交がない←てか、この件に関しても日本は台湾に対して本当にひどいことをしてるのだ。台湾を国と認めてた時期もあったんだからね)旅行できるでしょ。そしてもちろん日本国籍を持っているものは韓国にも行くことができるよね。でも「朝鮮籍」という記号を与えられた人は今現在、韓国に入国することは出来ない。李明博の前の政権、盧武鉉のときまでは朝鮮籍でも入国できたらしい(盧武鉉のときまでというか、金大中から盧武鉉までのたったの8年間のみ)。が、李明博以降、その流れを汲む今の朴槿恵も入国は出来ない。渡航はその時期の政権によって左右されるのだ。だから要するに、両国を何の問題もなく行けるのは、日本国籍を持ったものだけ、ということになる。韓国に住む韓国人は北にはもちろん行けないし、いわゆる「北朝鮮」に住む人たちだって南に行くことはできない。これを考えるとわたしは本当に複雑な気分になる。

というわけで、高級学校に通っているみんながみんな「祖国訪問」できるわけではないのだ。そのようなことを初めて知る。ついでにナレーションに話を戻すと、この場面ではそのことだけがサラッと伝えられ、それに伴う画像などは一切出て来ない。そりゃ当たり前のことだけど。プライバシーあるし。だからある程度、そういうことを説明するナレーションは必要だったと思う。が、最後の最後まで、あんなにしゃべるかなあ。まぁ、わたしはドキュメンタリーにはあまりナレーションは必要がないと考える人間なので、どうしてもそう思ってしまうのだけどね。あそこが一番、この映画で監督が言いたかったこと、ということなんだろうけど、もうちょっと自由にさせてもらいたかったな、というのが正直なところ。ネタバレになるのでここは具体的に何を言ったかには触れないけど。

平壌のホテルに着いたらすぐにテレビ付けて「テレビのチャンネルが2つしかない!!」って騒いでる生徒がなんともおかしくてね。でもきっと、日本で生まれ育った彼らにとっては、そのような部分を目の当たりにして考えることも多いだろうなと思った。

ただやはり、祖国訪問をして生き生きとしている姿は何というか、、どう理解すればいいのだろうと思う。確かに画面に写るいわゆる「北朝鮮」の人たちはとても親切で優しくて、素朴な感じがする。あんなに一緒に歌ったり、歌を熱く指導されたりすれば、別れるときは涙が出るだろう。しかし悪意を持って見るとそれがとてつもなく悪意を持って見れてしまう。「彼らは所詮『お客さま』扱いなんだろうし」とか「これで祖国に対して良い印象を持たそうと思ってるのか」とか「どうせ彼らにはいい部分しか見せないんだろう」とか「案内員と称して監視された中での行動だろう」など。もしかしたら「やはり朝鮮学校の生徒はみんな『洗脳』されてるんじゃないか」って印象を持つかも知れない。

だけどね、こうも考えたりする。わたしはいわゆる「悪意を持て」と洗脳されている人間だ。物事の片側しか知らされていない。しかし、彼ら(朝鮮学校に通っている生徒)は生まれたときから日本で育ってきてある程度裕福で自由な世界も知っている。彼らの方がわたしよりずっとずっと「両面」から物事を見ているはずだ。そして多分わたし以上に長く「国とは」とか「自分は」と悩み、考えているに違いない。上で「悪意を持って」と考えた部分なんか、きっと彼らだって十分そんな風に思える感覚も持っているに違いない。その部分は表には出せないけれど。

なお、なぜ朝鮮学校がいわゆる「北朝鮮」と関係するかは、戦後(彼らにとっては解放後)すぐに在日の人たちは子どもたちに朝鮮語を教える「国語講習所」というものを作った。ただ、設立の目的は「いつか本国に帰ったときに子どもたちが朝鮮語で話せないのはまずいから」という理由だったらしい。だが、歴史上、ここからいろんなことがあって彼らは本国に戻るよりも日本に残ることを選択した。そして、その後、朝鮮学校もいろいろな困難を乗り越えて今がある。その、一番苦しい、貧しい時代に在日の人たちに「彼らは我が国の同胞である」からと言ってお金を出してくれたのが、朝鮮民主主義人民共和国の金日成だったのだ。その当時の大韓民国は彼らのためには何もしなかった。だからこそ、今の朝鮮学校がある。

ということは、わたしは知識として十分知っている。ただ、当時の貧しい中、日本政府も韓国も自分たちを見捨てた中で、いわゆる「北朝鮮」だけは見捨てなかった、そのことに対しての「嬉しさ」というか、「感謝の気持ち」というか、それはわたしは「実感」はできないの、当事者じゃないから。確かに「嬉しかっただろうな」というのはある程度は分かるよ。でも、それはあくまでも「想像」でしかなく、「実感」ではない。きっと多くの日本人(と敢えて言うが)も同じだろう。まず第一、わたしなんか「貧しい」というのがよく分からないし。「貧しさ」が実感できないのだから、その上にある「助けてもらったという感謝の気持ち」だって当然実感できないだろう。だから、彼らの姿が「洗脳されている」ように見えてしまうのだ。今の若い彼らも多分、わたしと同じように「貧しい」ということがどういうことかは実感できないに違いない。けれど、自分たちのおじいさん、おばあさんたち、もしかするとお父さんお母さんだったり、ひいじいさん、ひいばあさんかも知れないが、彼らはそれで確実に救われた。それを考えるとやっぱり今現在の若い彼らだって「当事者」なんだよね。

映画の中で板門店を訪れるシーンがある。監督は北側から南側を見ているある生徒に「今どんな気持ちか」って聞くのね。その子は南側にルーツを持つ子で、でも朝鮮籍だから今、韓国に行くことはできない。おそらく今でも親戚や血の繋がる人は南側に住んでいるだろう。けど、会えない。わたしは「なんて残酷なことを聞くんだー、止めてあげてよ!」って思ったんだけど。この場面を観ると分かるように、「国」が彼らに対して直面しているのは確実だし、そして何も板門店に来て初めて分かることじゃない。きっと自分が気が付かないほど幼い頃から「国とは何か」「自分とは何か」という問いに直面して生きているんだろうと想像する。

だからね、わたしはそう考えると「何も言えないな」とも思うのよ。わたしが考えることなんて、彼らにとっては「まだそんなことを考えてるんだ、その歳で」って思うような初歩的なことなんだろうなと。「お前に言われんでも分かっとる」(カープの前田(智徳)風)って多分、思ってるだろうと。

それともう一つ言えるのは。祖国での彼らは本当に生き生きしているということだ。この気持ちはわたしにも分かる。いや、分かるような気がする。というのは、上にわたしは「人生のほとんどの時間を違和感なく過ごせているこの空間では、わたしは紛れもなく「マジョリティ」側なんだなあと。うーん、細かいところを言えばちょっと違うところもあるけれど」と書いた「細かいところ」に相当すること。

基本、わたしはほとんどの日常を違和感なく過ごしている。が、実はそうじゃないと気が付かされるときがある。それは、性的少数者のお祭り「プライドパレード」の会場に行ったときだ。あの時間、あの場所でいつも感じるのは「ああ、ここでわたしはありのままの自分でいていいんだ」ということ。あの会場では性的少数者もそうでない人も両方いるけど、少なくとも「性的少数者を受け入れている人たち」が集まる場所だ。性的少数者であることを否定されない場。気持ちはとてもすがすがしくて自由で、そして安心感がある。裏を返せばわたしは日常、意識してないけど緊張して窮屈な気持ちで生きてるんだなと思う。日常に戻っていくとその緊張も窮屈な感覚もよく分からなくなるんだけど、パレードの会場に行くと毎回毎回気持ちが解き放たれる。そして毎回毎回思う。「ああ、日常生活知らない間に抑圧されてるんだな」って。

きっと祖国に行った彼らもそういう風に感じたんじゃないだろうか。性的少数者は日常生活で予期しない部分で突然揶揄される言葉が出て来たり、異性愛者とは話が合わない部分もあったりするので話を合わせたりしなければならないことがあるけど、しかし日常的にヘイトに晒されているということはない。その点では朝鮮学校に通う彼らとは負担が違う。しかも祖国では自分たちを本当に大切に思ってくれて接してくれる。そりゃ、生き生きとして幸せな気分になるのは当然のことだろう。

あとそれから。先ほど「とても親切で優しくて、素朴な感じがする」って書いたけど。これについては複雑な気持ちもするんだよね。なぜかというと彼ら(いわゆる「北朝鮮」に住んでいる人たち)については確かにそういう面を持ってると思うんだけど、それは、苦しい中で生きてるからじゃないかとも思うのだ。敗戦後、日本人だってみんな貧しくて肩寄せ合って暮らしてきたということがまるで「美談」のように話されることがある。貧しかったけど「お前は大学に行け」といって兄は自分は進学せずに働いて自分の学費を稼いでくれた。そのおかげで自分は頑張って勉強して大学に進学した、という話も「美談」になる。一昔前までは田舎の人は純情で素朴な人たちと呼ばれていた。きっとこれらの話は全部「共通点」がある。

それとは別に、この映画の中で初級学校のときにパソコン入力コンクールで全国2位を取った子の話が出てくる。そのときその子はなぜか表彰式に呼ばれなかったそうだ。そこで「優勝なら誰も文句は言わないだろう」と言って、すごく努力をしてその後、優勝を勝ち取った。それも「文部科学大臣賞」だったそうだ。彼らを高校無償化から排除している文部科学大臣からその子は表彰された。

それは確かに「よくやったね!」と思う。が、その原動力は間違いなく「逆境の中」であったことも一因だろう。彼らに対してそのような目に遭わせてしまっている有権者であるわたしが素直に「よかったね」と言えるんだろうか。だけど先ほど書いたようにわたしはわたしで国ではない。だけどわたしは高校無償化排除を(自分の考えとは違うが結果的には)許してしまっている有権者であって、、と考えるとわけが分からなくなる。そしてその「栄光」を褒め称えることは「逆境」であることを許してしまっていることにはならないかと。

いわゆる「北朝鮮」に住んでいる人たちのことも同じで、国の体制のことや、国自体が不便なこと(停電もしょっちゅうするみたいだし)、そのことが彼らを「素朴」で「優しく」しているんじゃないかとすれば。そのことは「わー、いい人たちですね」って単純に思ってしまってはいけないのではないかと。だって「人間関係が昔のように濃密になりたいから再び貧しくなりたい」という人がいるだろうか?「一生懸命勉強するために再び貧しい生活になりたい」という人がいるだろうか?そう考えると「わー、いい人たちですね」って単純に言うことは「お前たち、ずっとその生活のままでいろ」と言っていることにならないか。

だからね、わたしはこの映画を観て、本当に複雑な気持ちがしたんだよね。。会場では結構すすり泣きの声とか聞こえてきて、やー、わたしとは全然違った視点から観てるんだろうなあとは思ったんだけど。

あ、そうだ。わたしがもらった試写会のパンフにはこの場面のことについて「そして、手にした優勝トロフィーに刻まれていた文字とは?」って書いてあるんだけど、その部分、カットされてなかったですかねー?映画の前にこの部分を読んでてちょっと期待してたんだけど、とうとうその部分は出てこなかったような?映画が終わってから監督を始め、この映画を制作した人たちの舞台挨拶があったんだけど、なんでも監督は当日まで映画を編集していたそうで。だからきっとその部分、削っちゃったんだよね(悲)パンフ作ったときにはあったけど。一体どういう文字が刻まれてたんだろう。。とても気になります。

20151030 205753


映画が終わったあと、挨拶する監督さん。

監督さんは「一人でも多くの日本人にこれを観て欲しい」と言っていた。わたしもそう思う。が、中には「悪意を持って」観てしまう人もいるのではないかと心配になったりもする。なんせ日本人の大半は「洗脳」されてるからね。どうか、そんなことにはならないで欲しいと思う。

しかし映画が終わったあとは本当に「同窓会」みたいで、わたしは映画を観てこの複雑な思いを事前にもらったアンケート用紙にどうやって書けばいいかとか思ってたんだけど、みんな感想書かずにすぐに会場から退出してしまって(会場がもう時間いっぱいだったと言うこともある)、ロビーでわいわいやってた。わたしはもちろんその中には入れないので(誰も知り合いおらんかったし!)アンケート書いて帰ろうと思ったんだけど、その時間もスペースもなかったので、仕方がないからそのまま帰っちゃったよ!(苦笑)

でもあの場で感じた「違和感」、あれは本当に貴重な体験だった。きっとこの先、あんな場に行けることは滅多にないんだろうな。そういう意味でもあのとき本当に行ってよかったと思う。
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