----- -- , --
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--:-- | スポンサー広告 | page top↑
11-08 Sun , 2015
真実は一つじゃない
真実は一つだ、って思ってたときがあった。と言ってもそれは「わたしにとっての真実」であり「あなたのとっての真実」ではない。そこまでは分かってた。でも最近、自分の中であっても「真実とは一体なんだろう?」って思うことがある。自分の置かれた状況と気持ちが複雑すぎて、何が「自分にとっての真実」なのか、自分は一体どう考えるべきなのか、それが全く分からないことがある。

ちなみに。「あなたの真実」というのがいつも正しく、そこに対して誰も何も言えないかというとそう言うわけではない。なぜかというと誰にとっても「事実は一つ」だからだ。だから「あった」ことを「なかった」ということは、それは真実どころか事実でも何でもなく、それに対しては「あなたは間違っている」としか言いようがない。もちろんわたしが「あった」ことを「なかった」として「それが真実である」、としたときも当然わたしは間違っている。そのことは前置きの一つとしてあらかじめ書いておく。

さて。この夏は戦後70年だったってことで、その時期にいろんな催し物があったのだけど、わたしもその中でいくつか興味あるものに参加した。まぁそれ以前にその数ヶ月前に元日本軍「慰安婦」についての勉強会に参加したことがそもそものきっかけになっていたりする。その勉強会は全く知らない人に向けての勉強会だったので、とてもためになった。今まで元日本軍「慰安婦」関係の本は何冊か読んだことがあるのだけど、本を読むよりずっと分かりやすくて細かい話も頭に残っている。その後、公開された「『記憶』と生きる」という元日本軍「慰安婦」の人たちを撮影したドキュメンタリー映画を観たりしたので、わたしはまず、8月14日に行われた「戦後70年 東アジアフォーラム-過去・現在・未来-」というイベントに関心を持った。

20150814 124704


イベントを聞いてて感じたのは「これは、初級向けの内容じゃないじゃん!」ってことだった。まぁこういう話に初級も中級もないとは思うけど、全体的に話がとても難しくて、前提条件として「歴史を知っている(加害行為と言うよりも、その後の戦後補償の歴史など)」ということだったので、そういうのはほとんど知らなかったわたしには理解すると言うよりも「なんじゃこりゃ」という思いが強かった。しかし基調報告の中で「日本の外務省は、当時の連合軍捕虜の人たちを毎年何人か日本に呼んで、その人たちに毎年公式に謝罪している」ということが話されたんだけど、わたしはこのことを初めて知った。てか、巷でそのようなこと、今まで聞いたことありました?そしてその都度報道されてましたっけ?

2010年から年に2回ほど(当初は2回以上ある年もある)、元アメリカ軍兵士と元オーストラリア軍兵士を日本政府が招聘し、その中で毎年、外務大臣が公式に彼らに謝罪をしているらしい。わたしはそのことを聞いてすごくびっくりした。そしてそのことはわたしの中で妙に頭の中に残った。

このときは「東アジアフォーラム」での話だったので「こういうことがある一方、元日本軍『慰安婦』の人たちにはそのようなことは全くない。これは差別としか言いようがない」、そんな感じで出てきた話だった。

次に「話を聞いてみたい」と思ったイベントは、韓国・朝鮮人元BC級戦犯の人の話が聞けるという、むさしの平和のための戦争展「朝鮮半島と日本」というイベントだった。失礼ながら、そういう人たちがいらっしゃることをわたしは全く知らなかったし、おそらく今回の機会を逃すと聞くことは出来ないだろう、そう思ったから行った。

20150816 132927


てっきり元BC級戦犯の人だけの話が聞けるのかと思いきや、その前に「『戦後70年』・未解決の戦後補償を考える」という題での講演があり、またその話が前回の「東アジアフォーラム」よりも数段上の話で、なんだかもう本当に知らなかったことばかりだったし、今まで考えたこともないような「横断的」な戦後補償の話だったので、妙に感動して帰ってきた。わたしの中では今までは「補償問題」って元日本軍「慰安婦」の人たちとか、あとは在外被爆者の人たち、どっちかというと外国(っていうか、そのほとんどは日本の元植民地であるというイメージなのだが)から日本に向かってのこと、というイメージが強かった。国内でシベリア抑留されていた人たち、その中で亡くなった人たちのことのことが最近、話が動き出したことは少し知ってたんだけど、そういう人たちとか、それどころか日本で空襲に遭った民間人とかそういう人たちまで「戦後補償問題」に入ってるとは思いもしなかった。そしてその中にも元連合軍の捕虜の人たちの補償問題が入っている、ということ、そして何より元BC級戦犯というのは、戦争中の捕虜の扱いに関する「人道的な罪」によって極東裁判で死刑になったり懲役を科せられたりしてた人たちのことだ、ということをそのとき初めて知った。ちなみにこのとき元BC級戦犯として話をして下さったのはここで少し触れたんだけど李鶴来(イハンネ)さんという人だ。そう、わたしこの「若者から若者への手紙 1945←2015」という本を読む前に、直接、李鶴来さんからの話を聞いてたんだよね、偶然。

この戦後補償の話を聞いて思ったんだけど、戦後補償のことについていろいろ運動している人たちは、実にいろんな人たちを横断的に見ていて支援しているんだってことだった。元日本の植民地だった人たちだけじゃなく、元連合軍の人たち、そして今日本に住んでる日本人の人たち。あの戦争で被害に遭った人たち、すべての人に対して「国は補償すべきだ」と思って活動しているんだなと思った。なんかわたし、それがとっても新鮮だったんだよね。これまでに補償に対してどういう運動をしてきたかの説明もあったんだけど「わー、すごい」って単純に思った。司法だけでなく立法や行政、すべてにアプローチしている。どういう「立場」の人だったかは全く関係がなく、「被害者」という一点ですべて共通している人たちを支援している。しかしその運動の結果の動きを見ると、政府は補償する相手を選んでいる。誰にも何も補償していないわけじゃない。「何回謝罪すればいいのか」と言うことなく何度も謝罪している相手がきちんと存在する。一方、「当時は日本人だったから」と言って罪だけ償わせて、勝手に日本国籍を剥奪した挙げ句「今は日本人じゃないから」ということで補償は全くしていない人たちもいる。「何度も謝罪を繰り返すことは未来志向ではない」ということで切り捨てられる人たちもいる。そこに「差別」が厳然としてある。今までその「差別」の部分だけ見えてたんだな、わたしはそう思った。このことを知っただけでもわたしの世界は随分広がった。

で、これからが本題。あるときなにげに開いたウェブサイトから偶然に「元連合軍の捕虜の人で、日本に連れて来られて強制労働させられた人たちの話を聞く会がある」ということを知った。日本の外務省が毎年、何人かの元連合軍捕虜の人たちを日本に呼んで公式に謝罪しているという、それだ。そのことを知ったときに「そういう人たちの被害の話を聞いてみたい」、そのことを真っ先に思った。直接被害を受けたという人の話は、あと数年すると一生聞けなくなってしまうのだ。でも、そういう人たちがいる、と言うこと自体、8月14日の東アジアフォーラムに行っていなければ知らなかっただろう、元BC級戦犯の人の話を聞かなければ、その被害者の人たちの具体的なイメージも湧かず、たとえそのウェブサイトでそんな交流会があると知ったとしても、絶対に自分のアンテナには引っかかってこなかっただろう。そういう意味では一つ何かに参加してみたことが、次々に思いも寄らない方向に繋がっているんだと実感した。

20151013 133622


交流会会場に入った途端、すごい違和感を感じた。そこには英語が飛びかっていた。なんとなく英語が飛びかう空間って「陽気」なイメージがあるのだ、わたしには。とても「被害の話」がされるような雰囲気には感じられなかった。それって多分、自分が知らず知らずのうちに身に付けた「英語」のイメージなんだろう。そして、これはそのときまでになんとなく薄々感じていたのだけど、「戦勝国」でありながら、敗戦国の被害者である、ということが、わたしには複雑に感じられて仕方がなかった。いや、頭では分かる。国が戦争に勝つことと、自分自身が戦争の被害に遭うことは関係がない。関係がないことは頭では分かっているのになぜかとても違和感がある。そしてもう一つ。わたし自身は被爆二世で、アメリカが広島に原爆を落としたからこそ、自分はある意味、その「被害者」でもある。あ、今回来日したのはすべて元アメリカ軍兵士の人たちね。もちろん彼らが直接落としていないことは明らかだ。国と個人は次元が全く違う。そこのところは切り離して考えなければならない。そう、そのことは頭の中では分かってる。けど、心はなぜかとても複雑だった。しかし、その複雑さというのはこういう場面でもない限り滅多に味わうことは出来ない。わたしは自分の中でその複雑さに対してかなり興味深かった。こう表現することは語弊があるかも知れないが、実に「面白かった」。そしてその違和感は、会が進むにつれ大きくなっていった。

交流会が始まった。被害者の元日本軍捕虜たちの人はみな90歳を超えていて、みな家族や身内の人たちと一緒に来ていた。中には自分が話さずに、身内の人が代読する場面もあった。全部で9人の人たちが来ていたんだけど、最年少が90歳、最高齢が97歳。中には車いすの人もいた。

一人一人が自分が受けた被害について話す。あらかじめ用意した紙を見ながら話す人、紙など見ずに、それでも何年の何月何日にどこでこういうことがあって、その結果どういうことがあって、ということを蕩々と述べる人。いろんな人がいた。中に1941年12月8日の真珠湾攻撃の日から捕虜になった人が数人いて(当時の北京のアメリカ大使館を警護していた人たちが逃げる途中で捕まったらしい)、自分の中で「捕虜として捕まる」というイメージがなんか全然違っているような気がした。あと「自分は生き延びることが出来たのは神のおかげである」と神に感謝している人たちも結構いた。それから「空腹で仕方がなかった」ということを訴える人がほとんどだった。

当時の日本軍に対して何をされたかということについて具体的に言うのかと思いきや、「殴られたのはこういうことをしたときのただ一度きりで、それ以外は言うことに従っていれば何もなかった」という話や、逆に「労働の行き帰りに通る道になっていたマンゴーがすごく熟れていたときに、食べることを見逃してくれた兵隊がいた」という話もあった。戦争が終わって国に帰ったあとに妻と出会って子どもが出来て、とか、国に戻ったときに妻がちゃんと待っていてくれたとか、そういう家族に関する話も多かった。あと「軍でこういう働きをしてこういう功績を残し、表彰された」とか、なんというか、、、あと「日本人のヒーロー的な存在が自分の中にいる」って話した人もいた。その人は真珠湾攻撃の際に成功して「トラ・トラ・トラ」って打電した人。あとで質問時間の時に「なぜその人があなたにとってのヒーローなんですか?」と質問があったんだけど「勇気ある行動だったと思うから」って答えていて、わたしは逆に変な気持ちになった。なんか違う。うーん、なんというのか、本当の気持ちを言っていない、ようにも受け取れる。変に日本に対して「配慮」しているようにも思われる。しかし、穿った見方かも知れないがそれは「戦勝国」の人だから?いや、そうではなく「本音」を言うのはとてもつらいことだから、話せないのでは。。といろんなことを感じた。

それは質問時間に「ヘルシップ(地獄船の意味で、わたしは今回初めてこれも知ったのだが、日本に運ばれてくる船での彼らの扱いはとてもひどく、最終的には1坪当たりに7、8人という感じで押し込められ、それこそ身動きが一切出来なかったらしい)での話を聞かせてくれ」という質問があったときのことだった。誰が答えてもいいと言う質問に対しては、発言したい人が手を挙げて発言するのだが、この質問についてはまったく手が挙がらず。しかも「あなたたちは知らない方がいい」という人もいた。この発言は「配慮」とも受け取れるし「そのことは話したくない」ということにも受け取れる。結局、わたしだって複雑な気持ちだったが、彼らだって複雑な気持ちなんだろう、そう思った。だからこそ「その後は幸せだった」と強調したくなるのではないか、とすら思った。

一番驚いたのは日本では敗戦後の新憲法で「憲法9条」、すなわち「戦争放棄をしたこと」が憲法で定められたことを知っているか、という質問に対しての答えだった。元捕虜の9人のうち、そのことについて知っているのはたったの4人。同伴した家族、年代はちょうどわたしと同じくらいの人が多く、主に40代の人たちと思われたが、その人たちですら知っていたのは半数以下。元捕虜のうち知っている人の家族は知っている、という感じだったけど、中には「そんなこと全く聞いたことがないわ」という、わたしくらいの年代の人がいた。これにはすごく驚かされたし、会場内でもどよめきが起きた。日本に憲法9条があることを、日本はもう戦争をしないと70年前に誓ったことは、全く「世界の常識」ではなかったのだ(アメリカ=世界、でないのは分かってるけど、敢えて)。如何に今まで「日本には憲法9条があります」と世界に訴えて来なかったのだろう、わたしたちはその努力を怠っていたのだ、と思った。

が、そうなのだ。この人たちは「退役軍人」なのだ、って、彼らの話を聞きながらちょっとずつ思っていたときのことだった。「アメリカの退役軍人」、、、何かとても複雑な気がする。と思ったら。最後の最後に「原爆を落としたからこそ、戦争が早く終結したと言うことを理解して欲しい」と発言した人がいた。

その瞬間、わたしはちょっと頭を殴られたような感じがした。その言説がアメリカ内にある、特に退役軍人の人たちにとっては根強いものである、ということはもちろん知っていたが、わたしはこのことをまともに誰かから直接言われた経験はなかった。そしてこの言説についてわたしは、ある意味一種独特の考えを持っている、というか、よく分からないところがある。よく分からない、というのは、この発言を聞いて「その考えは許されない」と激怒する人たちがいる、それは主に被爆者の人たちである、ということだ。わたしは二世であるにも関わらず、身内があの原爆で亡くなっているにも関わらず、実はなぜ「その考えは許されない」ものであるのか、よく分かっていない。

戦争が終わったのは8月15日だ。これは事実だ(「ポツダム宣言受諾日」は8月14日で、「降伏文書」の調印は9月2日だけど)。

だから、8月16日以降に特攻する予定の人たちは助かった。8月15日に戦争が終わったから特攻せずに生き残れた、という人の話は今までたくさん読んだことがあるし、その日以降の空襲もなかったから、その日以降空襲で死んだ人はいない。8月15日に戦争が終わったから、死ななくていい人が死なずに済んだ、ということはある。

が、問題は「原爆が落とされたことによって8月15日に戦争が終わることになったのか」なんだけど、これは本当のところは誰にも分からない、というか、「本当のところって何?」と思う。15日に戦争を終わらせたい人たちと終わらせたくなかった人たちがいた。それまで中立宣言をしていたソ連が8月9日に参戦した。8月6日と8月9日に原爆が落とされた。日本各地で空襲があった。そのどれ一つ取って「このことが100%の原因で戦争が終わった」ということはないだろう。どれもが戦争が終わった原因たり得るし、そのどれもが100%戦争終結の理由にならない、ということも有り得ない。原爆投下だけを「戦争終結の理由ではなかった」とは言えないだろう。だとすると「原爆投下も戦争終結の一因であった」としか言えないのではないだろうか。だからわたしは「原爆投下したことが戦争の終結を早めた」という言説を真っ向から否定できない。

被爆者やその家族、原爆で身内をなくした人がこのことに対して猛反発する意味が実は全くわたしにはわからない。「戦争を早く終結させるために殺されたのか」と思うのであれば、では逆に「戦争を早く終結させると考えられていない、その他の空襲などで亡くなった人はどう考えればいいのか」と思ってしまう。人が一人死ぬ、ということは、そこには意味づけなどなーんもないと思っている。軍人が国を守るという意識の中で敵艦に突っ込んでいって死ぬのも、ジャングルで餓死するのも、空襲で爆撃されて死ぬのも、原爆によって一瞬の内にこの世からいなくなるのも、「水をくれ」と言いながら死ぬのも、「死」という意味ではみんな平等だ。誰の死が尊くて、誰の死はそうでなかったか、なんてことはないのだ(そしてもう一つ踏み込んで言うと、戦争で亡くなった人たちは言い方は悪いがみんな「犬死に」だと思っている。誰一人「死にたい」と思って死んだ人はいない。みな国によって無理矢理殺されたのだ)。そう考えると「なぜ、原爆投下が戦争を早く終わらせるという言説に問題があるのか」と思えてしまう。

ただ「戦争の早期終結の原因は原爆だった」と考えることがまずいことになるのは、「だから再び戦争に原爆が使われる正当な理由になる」、この一点だけだと思う。それは「再び自分たちのような目に遭う人が起きないように」と思っている被爆者や二世の人たちにとっては特に許せないことになるだろう。

が、わたしはそうは考えない。あ、もちろんわたしも「再び原爆が投下されるようなことがあってはならない」と思ってますよ。しかし、その理屈は上のようなものではない。確かに太平洋戦争において、原爆投下は戦争の早期終結に繋がっただろう。しかし、そうであったとしても、もう二度とそれを理由として原爆を投下してはいけない、そう考えている。人間は「自制心」というものを持たなければならない。いくら誰かが憎くてその人を殺したいと思ったとしても、その人を殺してはならない。それと同じだ。人間である以上、一定の「自制」必要で、「自制」はこのような場合にこそ使われるべきなのだと思っている。それが今のところのわたしの考えるところか(しかしこの考えだと核兵器は「抑止力」にならない、ということになるんだよね。持ってたとしても「使えない」んだから。ということは「核兵器は抑止力だ」と思っている人たちには「使わない」という自制心なんてものはないと考えられる。「使わない」という自制心を持たないアンタらは本当に「人間」なのかね?と言いたい)。

そう。わたしは「原爆投下が戦争を早期に終結させた」、この言説はある一定程度「真実だ」と思っている。頭の中ではそういう結論が出ている。しかし、自分の目の前で「原爆投下は戦争終結を早めた。それは理解して欲しい」その言説を聞いたとき。それは発言した人にとっては「真実」なんだろうと思った。そしてわたしだって一定程度「真実だ」とは思っている。しかしそう思っていても、「理解」していたとしても。気持ちはものすごく複雑だった。ともすれば「理解」などできないと思った。なぜなんだろう。なぜ自分はこんな気持ちになるんだろう。とても不思議に思った。それはやはりわたしが「被爆二世」だからか。身内に原爆で亡くなった人がいるからなのか。自分の気持ちが複雑すぎて、言葉では到底言い表せなかった。なんて考えていいのか全く分からない。このような状態になるのはなぜなんだろう、いっぺんにいろんな気持ちや思いが出てきて、頭が本当に混乱した。そしてそのようになる自分の現象がとても興味深かった。なかなかこんな状況になれるもんじゃない。その後、数日間はそんな感じだった。頭がクラクラしていた。

そして思った。その発言をした人は、中に原爆で身内を殺された人がいたと知っていてもその発言をしたのか。決めつけては悪いのだが、おそらく彼らは原爆のあのキノコ雲の下で何が起きたかおそらく知らない。だって憲法9条のことだって知らなかったんだもん(覚えてるけど、この発言をした人も9条のことは知らなかった)。しかし、原爆投下当時日本にいた彼らは、もしかしたら自分の上でその原爆が落とされた可能性があったのだ。現に原爆で亡くなったアメリカ人捕虜の人は存在する(偶然だが、11月4日の東京新聞朝刊にその記事が載ってた。丸木位里・俊さんの「原爆の図」の中に「米兵捕虜の死」という絵がある。その前で退役軍人が号泣したという話だった)。「原爆が戦争終結を早めた」という言説は特に問題ではないとわたしは考えているが、少なくとも、このような事実を知った上での発言だったら、もしかしたら少しは印象が違っていたのかも知れない。

あと一つ。わたしは今まで気が付かないうちに「被害者のイメージ像」というのを持っていたんだなあと改めて気が付かされた。今までは圧倒的に「被害者」=「この日本で差別されている人たち」だったから。この中にはもちろん性的少数者も含まれるよ。そういう人たちのイメージは共通していて、今までわたしは違和感を感じたことはない。けどもそのことは同時に自分の中で格差をつけていることにならないか。もちろん、相手のことがあってではあるけど、なぜかこの交流会では「被害者」という感じが薄かった。それはいいとか悪いとかじゃなく、被害者はこうあるべきだとかそうじゃないとかではなく。でも多分、それは「格差」じゃないのかも知れない。「立ち位置」と考えた方がしっくりくるのかも知れない。でもやっぱり彼らは「被害者」であることには変わりはない。なのになんでわたしは違和感を感じてしまうんだろう。。

そんなこんなの交流会だったんだけど、でも、話が聞けたこと自体はとてもよかった。会の締めの挨拶に代表の人も言ってたけど、特に全く知らなかった「ヘルシップ」についてはもっと知らねばならないと思った。わたしはこのことについては本当に全く、その言葉すら知らなかったからね。ちなみに「東アジアフォーラム」で基調報告した人と、この会の最後の締めの挨拶をした人は同じ人でした。こうやって「戦後補償」全般に関わってる人なんだなあ~。本当にすごい人だなあ~って思った。

戦争被害者については、いろんな分野にたくさんの人たちがいる。わたしは今のうちにもっともっといろんな人たちの話が聞きたい。きっとこれが最後の機会となるだろう。そうしたら、わたしはもっともっと今以上に複雑な気持ちになるかも知れない。でも、戦争って、物事って多分、そういうことなんだ。一つの「事実」があらゆる「立ち位置」から見ることによって、全く別の「真実」があるはずなのだ。いろんな人の「真実」を見た上で、わたしは自分にとってどんな「真実」を得るんだろう。今のわたしはそんなことを思っている。
21:05 | 被爆二世・戦争などのこと | トラックバック(0) | page top↑
トラックバック
この記事へのトラックバックURL
http://rontako.blog39.fc2.com/tb.php/1838-73434fb5
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
| ホーム |
AX
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。