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09-22 Tue , 2015
若者から若者への手紙 1945←2015
このカテゴリの日記が続くね。でもこれはちょっと書いておきたかったことだから。

この本は「ころから」ってところから出てる本。わたしはこの本を図書館で借りて読んだ。と言っても割と出たばかりの本なので、読みたい人がたくさんいたみたいで、予約してたんだけど。で、順番が回ってきて借りられたわけ。

それがちょうど安保法案の採決への動きが激しくなってきたときだった。借りられる期間は2週間あるのだが、他の本の兼ね合いとか、家を出てて本が読めなかったりして、この本の大部分を読んだのは、ちょうど横浜であった地方公聴会が終わった日(9月17日)だった。そして翌々日未明に法案は可決されてしまった。

この本は1945年(終戦時)に若者だった人たちからの戦争に対する証言、その証言を読んだ今現在の若者が、1945年当時の若者だった人たちへの返事、という構成で成り立っている。確か全員で15人だったか(それに対する返事も15人)。証言者はいろいろな人たちだ。東京大空襲で家族を失った人、中国で何をやったかを話す人、広島の被爆者で顔がケロイド状態になって長く家から出られなかった人、フィリピンに行って飢えに苦しんだ人、731部隊に所属していた人、長崎で被爆者の看護をした人、沖縄の離島から離島に強制移住させられた人など。一般に言われる被害者もいるし加害者もいる。

わたしは「この法案では日常に巻き込まれるほどの戦争はそう簡単には起きないだろう」、そう思ってたんだけど、でもこの中でその当時教師をしていて、子どもたちと一緒に田舎に疎開した人の話の中で、真珠湾攻撃が起こった日(1941年12月8日)、朝、家を出るときに空を見上げて「この青い空の一体どこで戦争をしているんだろうと思った」という文字を読んで震えが止まらなくなった。今の、今までの平和な暮らしはどこまでも永遠に続く平和じゃなくて本当に薄氷を踏むようなものだったんだ、そう思うととても怖かった。

この教師のお父さんはこの日、真珠湾で戦争を仕掛けたことを新聞で知り「アメリカと戦争をするなんて、なんて馬鹿なことを」と叫んだそうだが、きっと少しの知識を持っていれば、そういう考えを持てたんだろうと思う。そしてそれから終戦に至るまで、こういう考えを持っていた人たちはどのように考えながら過ごしたんだろう。「勝てるわけがない」と思いながらも戦争に協力したんだよね、多分。

その一方、この時代に教育を受けた人はバリバリの軍国少年で、そういう人たちは「日本が負ける」とは信じてなかったし、戦争が負けて終わったと知っても、直後に戦争が終わって嬉しいとかそういうことは全く思わなかった、らしい。全部が全部ではないけど。「日本は勝つ」としか思ったことがなかったんだから、負けた場合のことなんて考えたこともない、そういうものだろう。改めて「教育」の恐ろしさを感じる。

あと印象的だったのは、一般に「加害者」って呼ばれている人たちは、どんなに冷酷無比なことをしていても全然そう思ってない、自分がどんなに恐ろしいことをしているかが分かったのは、もっともっと先のことなんだってこと。自分の罪に苛まれている加害者って、実はとても少数なんじゃないだろうかと思えてきた。確か今年の夏にどこかのテレビ番組で元日本軍「慰安婦」の人たちを取り上げてたのを見たが、そのときに「慰安所に行っていた」という元日本軍兵士の人がインタビューされてた。その人は慰安所に行っていたことに対しても「明日死ぬかも知れないんだから、まさに『突撃一番』です」(突撃一番とは、当時配られていたコンドームの名前)と全く悪びれずに答えていた。今でも「あのときは仕方がなかった」と考えていて、自分が加害者とは思っていないようだった。きっと、そういう人たちが圧倒的多数なんだろう。そして自分の加害を認識していたとしても証言まではする気がない人たちもたくさんいただろう。とすると、こうやって加害の証言を残してくれた人って本当に一握りしかいないってことだよね。それを思うと加害証言をするのもつらかったと思うが、本当に貴重な証言を残してくれて有難うございますと言いたくなる。

そしてわたしはこの本を読んで「戦争ってのは、一人の人の中にでも被害と加害が入り交じったものなんだ」ってことがよく分かった。確かに被害者の度合がものすごく強い人もいる。広島、長崎の被爆者もそうだし、沖縄の離島で強制移住させられた人もそうだろう。特にあの当時は女性には参政権がなかった。あの当時の人たちが「戦争は嫌だ」と思ってたかどうかは知らないけど、少なくとも国政に自分の意志を表明する機会はなかったわけで、そういう人たちの加害者度は少ないと思う。生まれた頃から軍国教育をされて「お国のために戦う。自分は長くは生きられない」と疑いもなく育てられた人たちもある意味被害者だと思う。あと戦地によってもだいぶ違うと感じた。戦争末期にフィリピンのジャングルに送り込まれた人は、そもそもフィリピンに着いたこと自体が奇跡のようなものだし(ほとんどの人は輸送船が撃墜されて沈没して死んでしまった)、既にそこは制海権も制空権もなんにもないところで、ただただジャングルを彷徨って食べ物でないものまで食べてやっと生き残った、という人たちだ。中国に行って中国人を無残に殺しまくっていた、という人たちとは加害度合は少ないだろう。

でも教師はどうなんだろう。疎開先で空襲を受けたりしたので一面は被害者と言えるが、子どもたちに軍国教育をして、その戦争を支えていたのは確かだ。「お国のため」と信じ込ませて戦場に送り込む。それは立派に加害の一面を持っていると言える。だから加害者は何も戦場で戦っていた人たちだけとは限らない。また、この証言者の中には当時植民地だった朝鮮半島の人で、そこから戦場に行って、そしてそのときの行為が「戦犯」だと言われて死刑判決を受けた人もいる(のちに死刑判決は撤回され、生き残れた)。この人は戦争中は捕虜の監視をする仕事だった。当時の日本軍は捕虜に対して過酷な労働とほんの少しの食べ物しか与えなかったから、完全なジュネーブ条約違反に当たるのだけど、そういうものがあるとは全く知らされていなかった。捕虜の扱いが甘いと見られれば、自分が上官からひどい目に遭う。それだけでも加害と被害が入り交じっていると思うが、もっと不条理なのは、戦後、1951年サンフランシスコ講和条約において旧植民地から来た人は「日本国籍剥奪」されたのに、その当時巣鴨プリズンで服役していた朝鮮半島出身の戦犯の人たちは「当時は日本国籍だったから」という理由で、その後もずっと服役をさせられていたということだ。しかもこれだけじゃない。巣鴨プリズンから出たあとは、日本国籍を持っている人であればいろいろ国の恩恵を受けることができた。が、日本国籍を持っていない(剥奪された)人たちには何もなかった。都合のいいときは「日本人だったでしょ」と言われ、都合の悪いときは「だってあなた日本人じゃないでしょ」と言われる。ものすごいひどい話だよね。

でも、こういう人たちだって加害と被害の両面を持っている。でないと戦犯にはならないわけで。しかし圧倒的多数の人は加害者の面を持っていてもこうやって裁かれることはなかったし、この人たちは服役して罪を償っただけでもその罪は消えているのかも知れない。そして当然、「自分は加害者です」と加害証言をしている人たちも100%加害者なわけではない。悲惨な戦場に送り込まれた上でのことだから、その点では被害者とも言える。いろいろな人の証言を読みながら「誰もが被害者で、誰もが加害者だ」、そんなことを思った。

ただし、だからといって「誰もが被害者で、誰もが加害者だったのです」というと、これまた「だからみんなで反省しなければならない」になるからやっかいな問題だ。この考えは、本当に戦争を始めようとした人や、自分は激しい戦場には行かないで、遠くから命令を下していた人たちなどの「加害性」を批判することができなくなる。そうじゃない。一般国民よりもっと悪いのはその当時、国を動かしていた人びとだ。そのことがはっきり追及されなかったので「一億総ザンゲ」になってしまったのだ。一般庶民は物事を動かせる権限は少ない。その少ない権限のうちでの加害、被害なのだ。わたしたちはそのことを忘れてはならないと思う。一番追及されるべき人間は、戦争を始めた当時、国を動かしている人間だったのだと。次に何かがあったときのためにもね。

15人の証言を読んで、わたしが一番印象に残ったのは品川正治さん、という人の証言だった。わたし、これを読むまでこの人全く知らなかったのだけど、戦後、日本の経済界の重鎮だった人らしい。

この人は旧制高校のときに召集されて中国に行った。普通だと旧制高校に行ってたら士官の身分で行けるんだけど、学校でいろいろあって「二等兵で行きます」ってことになったらしい。一二四〇高地で戦ったときに相手の迫撃砲で撃たれて、足にその破片が残ってる、レントゲンを撮ったときに写るって書いてあった。その後、戦争が終わった3ヶ月後に俘虜収容所に入れられ、5ヶ月後に復員船で日本に帰れたのだが、この人の証言で一番印象的だったのがこれだった。

1946年4月、やっと山口県の仙崎港に復員。上陸を待つ間、船の中で配られた新聞に「憲法草案」が出ていました。九条二項の「国の交戦権を認めない」というところ、最初は信じられなかった。だが、別の新聞にも同じことが書いてある。ぼくの部隊の人たちは、それを読んで全員泣きました。俘虜収容所で「われわれのこれからの生き方は、二度と戦争しない国をつくれるかどうかだ。でなければ死んだ戦友の魂が浮かばれない」と話し合ったのだから。しかしまさか、国家の成文憲法にここまではっきりと書いてくれるとは……。これがぼくの日本国憲法との出合い、一生忘れられない出合いなのです。
ぼくは、かつては「国家が起こす戦争」を前提に、ものを考えていた。でも、戦地で戦争の現実を目の当たりにし、すぐに疑問が湧いてきた。
「いったい誰のために戦っているのだろう」「勝ったとしても日本が幸せになるだろうか、こんなに中国の人を殺して」と。こんな戦争、やるべきではない。国民同士はなんの恨みもない……。
誰のために、何のためにと考えていたら、戦争を起こすのは国家という抽象的なものじゃない。満州にいた関東軍をはじめ、軍の中枢にいる人たちと日本の軍需産業、戦争をやればもうかる連中が仕掛けたのだ、と腑に落ちた。
戦争を起こすのも人間ならば、それを許さず止める努力ができるのも、人間なんです。ぼくは兵隊だったからそれがわかった。将校として戦争に参加し、最高の待遇を受けた人たちがのちに政界、財界の指導者になりましたが、彼らに戦争の悲惨さはわからない。実際に戦闘させられるのは兵隊だからね。



「戦争を起こすのも、そうさせない努力ができるのも人間」。憲法を変えると言っている今ならよく分かります。だれが憲法を変え、戦争を起こさせようとしているのか、今の日本でははっきり見えるから。
政治家も財界人も「日本はアメリカと同じ価値観を持っている」と言って憲法を変えようとしているけれど「憲法で戦争をしないと決めている日本と、絶えず戦争をして軍需産業が国を支えているアメリカとは、価値観が違う」とはっきり言えば、ベルリンの壁が崩れる以上に画期的なこと。言い切ったら、日本がふたたび武装することを心配しているアジア諸国との関係も変わってくる。何よりアメリカも、戦略を変えざるを得ない。
日本が憲法九条を捨ててしまったら、地球上にこの理念はなくなってしまう。しかし二十一世紀には否定できない理念だからね。今や旗はボロボロだけれど、「日本には九条が必要だ」と国民が選びとれば、いっぺんに金色の旗に変わるよ。



この部分を読んだらもう泣けてね。まさしく、今、まさしくわたしたちは憲法九条二項を捨ててしまおうとしている。旗はボロボロどころか穴が開けられる寸前だ。この人が今、生きていたら(この人は2013年8月29日に惜しくも亡くなられています)なんて思うだろうか。なんで人の命は長くてもせいぜい80年なんだろうか。前の戦争を体験した人がどんどんいなくなって、そして戦争を体験したことがない人たちが再び戦争をしようとしている。戦争は古代から繰り返されているけれど、どんどん技術が進んでいっぺんにたくさんの人が殺せる武器や爆弾、落としたあとも生物に被害を与え続ける兵器(核兵器)が開発されている。今や「原子力の平和利用」で各地に原発があり、その上に一発の普通の爆弾が落とされるだけでもどんなに周囲に被害が及ぶか。その被害がなくなるまで一体何年かかるのか。その間、人は住み続けられるのか。もうそんな時代になってしまった。

そして兵器を開発するのは抑止力のためではなく使うために開発されているのだ。開発するためには厖大な金が掛かるし、開発された兵器を買うのにも厖大な金がいる。そういうことで経済を回していっていいのか。経済についてはわたしは全く詳しくはないが、品川さんも書いているように、軍需産業に依存し始めればそこから抜け出すことは難しくなる。アメリカのように戦争をし続けなければ国が保てなくなる。あの法案が通ることで、日本はこの道を歩めることが可能になろうとしている。

この時期にわたしがこの本を読んだのは単なる偶然に過ぎない。でも、あのときに読んだからこそ、わたしはこの本に対して強烈な印象を持った。

証言者一人一人宛てて、今の若者からの返事がある。ほとんどの人が「そのときの状況じゃないので、本当のあなたの気持ちは分からないと思うのだけれど」と書いていた。中に「生きているうちに会いたかった」と書いている人がいた(この本で登場する1945年当時若者だった人たちはこの本が出版される前に既に約半数ほど亡くなられてます)。本当に、わたしも生きているうちに直接話を聞きたかった。だが、本人は既に亡くなられていても生きていたときに語られたこの本を読めば、思うことはたくさんあるはずだ。この本の中には一つの戦争によってさまざまな経験をした人たちがいる。今まで戦争の話で聞いたこともない人たちもいる(沖縄の離島から離島に強制移住させられて、その移住させられた島でマラリアにかかって移住させられた人の1/3が亡くなっていたと初めて知った)。それを知るうえでも是非多くの人に読んで欲しいと思う。

この本、最後に「あなたも手紙を書いてみませんか」と書かれていた。まぁ自分で買った本ではないので実際に送りはしないが、わたしはやはり品川さん宛てに書いてみたい。

「2015年9月18日未明、安保法案が可決され、あなたが『一生忘れられない出合い』と書いた憲法九条二項は効力を失いました。国民に託された旗はボロボロどころかもう穴が開いてしまいました。けれど、わたしはここからこの旗をみんなで金色の旗に変えてみせます」

ここからは蛇足なんで読まなくていいんだけど、この本の中で、中国で加害体験を語った人と731部隊にいて同じく中国の人たちに対して人体実験をした人の加害証言が載ってたのね。その人たちは戦争が終わってから2人とも「撫順戦犯管理所」ってところに送られている。その記述を読んでたらね、「なんかどーも、おじいさんの戦争体験として、わたしが親から聞かされた話によーく似てるなあ」って思い始めたのね。わたしは親から祖父は中国でひどいことをしてシベリアに送られた、そこで徹底的に反省したら認められてもう少しで戦犯になるところを免れた、しかし一番最後に日本に復員してきた、って聞かされてたのね。その「徹底的に反省して許される」ってところがとてもよく似てたのよ、祖父の話と。でもそこは中国であってシベリアではない。祖父はシベリア抑留されてたんだから、シベリアから帰ってきたはずだと。「一体どういうことかなあ」って思い、それでちょっと調べたんだけど、どうもシベリア抑留された人の中の1109人がシベリアから1950年に中国に移送されたらしいのね(Wikipedia「中国帰還者連絡会」による)。そして撫順戦犯管理所に送られてきた人の中に、愛新覚羅溥儀がいると。「ああ、うちのおじいさんもこの1109人の中に入ってたんだ」ってそのとき初めて分かったの。だって祖父は1990年代だったかに「ラスト・エンペラー」というこの愛新覚羅溥儀が主人公になった映画があったのだけど、それが公開されてるときにうちの叔母(祖父にとっては自分の娘、当たり前か)に対して「溥儀君か」と言って、その当時溥儀と一緒にいたって言ってたらしいのだ。わたしはその叔母からその当時、そのことを聞いた。この話は過去に日記に書いたことがあるんだけど。

ただ「日本に一番最後の復員船」は、Wikiを読むと1964年みたいなんだけど、それだと叔父や叔母が生まれたときを考えると計算が合わない。おかしいな~、と思ったら「1956年6月から7月の間に重要戦犯容疑者以外の容疑者たちは管理所内の臨時法廷で「起訴免除、即時釈放」の判決を受ける。」と書いてある(「中国帰還者連絡会」の項)。ああ、なるほど。「危うく戦犯になりそうだった」というのはこれか。祖父はここで起訴免除、即時解放になった人のうちの一人なのだ。ということは、親から聞かされてた「一番最後に復員した」というのはまぁ事実ではないけど、それ以外はこういうことだったんだ。

わたしは祖父と一緒に暮らしたことはなく、お盆とお正月の年に2回、会うだけだった。高校以降は「わざわざ行くのは面倒。それより家族でお正月がしたい」と帰省自体しなかったことも多々あった。だから、祖父に戦争体験を聞いたことは皆無だ。ただ、今、わたしが記憶している「祖父の雰囲気」は、ちょっと口では言い表せない独特のものがあった。わたしに対しては本当に優しいおじいさんだったんだけどね。その「雰囲気」は子どもながらに「そこは触れてはいけない」ように感じていた。まぁでもこれってわたしが本当に小さい頃の印象だから、今じゃ自分の中ではほとんど「おぼろげ」なのよ。だがそれは今思うと多分「加害の事実」に対してではない。「シベリア帰り」が復員後の日本でどういう風に見られていたか。多分わたしが受け取った雰囲気はそちらの方が大きかったのではないかと今、推測する。

そういう点でもこの本はわたしにとって、とても印象深い本になってしまった。
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