09-12 Sat , 2015
彼は秘密の女ともだち
昨日、観てきた。

この映画を知ったのは、6月だったか「パレードへようこそ」って映画を観に行ったときにその映画館にこの映画のチラシがあって。題名を観たときにすぐに「これはトランスっぽい感じだな」と思ったの。でも、その後、その映画館でこの映画の予告を観たときに「あ、なんだ。つまらなそ」と思って観に行くの止めたのね。それがまたなんで観ようと思ったかというと、友だちが「よかったよー、この映画。フランス映画だからか単純な話ではなかった」みたいなことを言ってきて。だから「んじゃちょっと観に行こうかな」と思って観に行ったのだった。

観た感想。面白かった。結末が「ああ、これが一番いい結末だよね」って思えるものだった。

どういう映画かというと、一口で言えば、MtFレズビアンと結婚後にレズビアンって気が付いた人のお話なんだけど、まぁ正直、今のわたしは誰か人を一口で「この人はこうだ」ってカテゴライズしてしまうことがとても危険だと思ってるので、ここにはわざとカテゴライズして書いたけど、本当はどういう解釈をしようがどーだっていいと思ってる。例えば結婚後にレズビアンだって気が付いたって書いたけど、もしかしたらバイセクシャルかも知れない可能性もあるし。パンセクシャルかも知れない。どちらかというとバイよりパンかもって気もする。きゃー、カテゴライズはしないって言ってるのに!(笑)

主人公は女性で、7歳のときに出会った親友とずっとずっと親しく過ごしてきた。その過程が映画始まってから5分くらいですんなり描かれる。が、最初の場面はその親友のお葬式の場面なのだ。主人公(クレールという名前)は親友(ローラという名前)の弔辞を読みながら、二人が出会って共に過ごしてきた日々を思い出す。大人になり二人とも何人かの男性と付き合って、それからそれぞれの男性と結婚する。ローラの方が先に結婚するのだが、複雑そうな顔を見せるクレール。クレールが結婚したときはローラは既にお腹が大きかった。そして子どもが生まれたときはローラは既に車いすに乗るようになってて、それからしばらくして亡くなる。

この二人が過ごしてきた場面でわたし「あれっ」って思ったのね。親友だとしても、お互いに手の平を傷つけて血を出してそしてその手と手を握り合って「永遠の誓い」なんかするかなあ、とか、木に大きなハートマークの中に自分たちの名前を彫ったりするかなあとか。確かに女同士には「シスターフッド」って概念があって、ものすごく親しい関係が想定されているけれど、その「友情」と「恋愛感情」の間って何が一体違うんだろう?って。これはわたしがレズビアンだからそう思うのかも知れない。わたしが「この人は友情止まり」って思う人と「この人とは付き合いたい」って考えるその「差」って、もしかしたら肉体的な欲求だけなのかな、とか。まぁこれは異性愛者も同じではあるんだけどね。異性はみんながみんな恋愛の対象ではないでしょう。「この人は友情止まり」って人だってもちろんいるよね。ただ、それが同性であると、付き合い方は異性より親密になるんだよね。友だちと一緒に旅行するというんだって、異性の友だちと一緒に旅行するというとなんとなくハードル高く感じるけど、同性の友だちとはすんなり行けちゃうもんね。そして同じ部屋に泊まるし、一緒に風呂入ったりして、同性の友だちは異性の友だちより「近い関係」になれちゃう。だからこそ、わたしは自分自身「親友と恋人の違いって、自分ではどこで区別を付けているんだろう?」と思うわけです。まぁこの映画は結局、そこら辺がすべて「鍵」だったわけなんだけど。

死んだローラはダヴィッドという男性と結婚したのだけど、このダヴィッド、結婚前から女装してたという。ローラはそれを知っていて「自分の前なら女装してもいい。けど、外ではしないで」と言っていたと。そのことを主人公のクレールはローラの死後、ダヴィッドの家を訪れたときに知るんだけど、最初はすごくびっくりしてそのことを拒絶する。

わたしは既に何人か女装して過ごしてる人を知ってるし、女装できないけど自分は女だと思うって言う人と何人か話したりしたことがあるので、正直、女装に対しては見てもなんとも思わない。ただ逆に世間から向けられる目の怖さを知ってるので「すごいなあ」とは思ってるけど。こういう感覚を持っているので、映画を観て「あ、フランスでも女装に対しては世間の風当たりは強いんだ」とちょっとびっくりした。だってフランスってPacs(市民連帯契約法)が一番にできて、同性同士の法的な保障がされるようになったかなり初期の国であり、同性愛にはかなり寛容な国のイメージがあったからだ。

このことはこの後の話にも出てきて、話が突然飛躍するんだけど、クレールのダンナ、ジルにクレールとダヴィッドが「女友達」として一晩泊まりに行ったことがばれたときに、クレールが考えたのは「ダヴィッドが女装している」という本当の話ではなく「ダヴィッドはゲイだと気が付いて自分に相談するために一晩一緒に泊まった」というウソの言い訳だったのね。それはジル自体も「同性愛は許せるけど、女装は許せないだろう」と考えてのことだった。ジル自体も映画の中で「周囲はみんなゲイだらけ」という発言をしてて、ゲイに対しては何も思ってないようだ。まぁ最初に取ったクレールの態度やジルの女装の受け入れなさ=フランスの現実かというと、それはわたしにはよく分からないけど、でも、少なくともそういう現実が少しはあるからこそ、こういう映画が作られるんだろうしね。

最初はダヴィッドの女装を受け入れられないクレールだったが、ひょんなことから女装したダヴィッドのことを「ヴィルジニア」と名づけて、その当たりから徐々に受け入れ始め、一緒にショッピングを楽しんだりして、かなり大胆な行動を取るようになる。ダヴィッドは自分がするのは「女装」ではなく、自分は「女なんだ」ということが分かってくる。ただし、性的指向は変わらずに「女性」なので、まぁカテゴライズはしたくないんだけど、MtFレズビアンってことになる。これねー、なんかどっかで「なんで女性になりたい人なのに女性が好きなままなの?」って感想のコメントを読んだんだけど、日本ではさー、異性愛者の性同一性障害の人しか出て来ないので「同性愛だとおかしいから、自分が異性になる」って理解してる人もいるんだよね。だけど性的指向(何の性が好きか)と性自認(自分の性別は何か)は別物なので、自分の性別を変えたい人であっても、好きになる対象は変わりません。実際、男→女に変わりたい人の中で、女性が好きな人の割合は約半数です。逆に女→男に変わりたい人の中で、男性が好きな人の割合は約10%くらいしかいなく、この差がなぜ生まれるかはまだ良く分かってない。けど、女性になりたい人で女性が好きな人は現実的にもかなりたくさんいます。この映画、そのまま受け取ればその事実を知らなくても「この人はそうなんだ」で済むんだけど、異性愛規範が強い人が観ると「え、なんで?」ってことになっちゃうんだよね~。映画を観る上でこのような予備知識は特に必要はないとは思うけど、観るなら自分の「固定観念」を外してみないとよく分からない映画になっちゃう恐れはある。

で、ヴィルジニアと「女同士」として楽しんでいるうちに、クレールにも変化が訪れる。ローラとの日々を思い出すのだ。そしてあることがきっかけでクレールは「ローラとはただの親友という気持ちではなかった自分」に徐々に気が付いていく。この辺の描写はかなりうまいと思った。この辺の気付かせ具合が複数のシーンに渡って出てくるの。これはねー、わたしのような割と歳を取って自分が同性愛者だと気が付いた人にとっては、自分の体験と重ね合わせてちょっと懐かしくなったりするかも(笑)クレールは自分が同性愛者(か、または女性も好きになることができるか、それ以外かは断定はできないけど)であることに気が付き始める一方、ヴィルジニアのことも好きになっていく。そのことに気が付かされるのは、ジルにダヴィッドがゲイであるって気が付いたみたいだから、自分は相談に乗っていると言った後、3人で一緒にテニスをした後にシャワーを浴びるシーン。ここでクレールは男性のシャワー室に忍び込み、ジルとダヴィッドが一緒にシャワーを浴びているところを覗き込む。ここの「妄想」ね。ここもうまいと思ったなあ~。結局この後、クレールは女装を辞めていたダヴィッドに「ヴィルジニアが恋しいの!」と告白してしまう。

あ、これはあらすじ通りに語ってません。わたしが語りたいと思った場面から語ってます(笑)なので、映画を観てない人にとっては「なんのこっちゃ?」って思うかも。

わたしが一番印象に残って、好きなシーンは、この「ヴィルジニアが恋しい」とダヴィッドに告白した後、ダヴィッドはヴィルジニアとなり、その名前の元となったヴィルジニアホテルにクレールを呼んだシーンです。彼女らは自分たちが愛し合っていると知り、部屋に行ってセックスをする。けど、身体をまさぐっている間にヴィルジニアの身体には男性器が付いている、ということに気が付いたクレールは思わず「あなたは男だ!」と言って部屋を出て行ってしまうのね。その言葉にヴィルジニアはベッドの上で涙をこぼす。

このシーンは本当にせつなかった。ヴィルジニアにとっては、別に身体に男性器が付いていようが自分は女なんだよね。シリコンの胸であっても自分は女なんだよね。でも、相手にとってはそうではない。そこの「ギャップ」なんだよね。

わたしはこの日記、過去にもよく書いてるけど「自分は女が好きだけども、では一体女とはどの範囲のことなんだろう」ってよく考えるのね。例えば染色体、性ホルモン、内性器、外性器がすべて「女性形」の完璧な女性しか女性として愛せないんだろうか、と考えると、特にそうと思えない。特に染色体とか性ホルモンとか内性器とか、外から見て分かんないものはそれの「あるなし」は判断しようがないし、あるから好きになって、なかったら好きにならないなんて保障はどこにもないと思う。のようなことを考えると「では胸がなかったら」とか「男性器が付いていたら」ということまで押し広げて考えることができる。まぁここは想像の世界でしかないけど、ここの部分は個人個人で異なってて「別に男性器が付いていても本人が女だって言ってるし、自分にもそのようにしか思えないからセックスできる」って人だって確実にいる。「やっぱり男性器が付いてたら女性とは思えないからセックスできない」って思う人もいるだろう。「胸はなくても男性器がなかったら大丈夫」って人もいると思うし、それは人それぞれだ。で、自分はどうなの?って思ったとき、まぁよく分かんないよね(笑)そうなってみなければ。ただ、基本、わたしは外見が「ボーイッシュ」な女性が好きなので、そういう外見をしたMtFを探すのはまず困難、ってことにはなる。ただ、MtFの人であれば、わたしは「どこから見ても女性にしか見えない人」はあんまり好きじゃなく(これはわたしが女性っぽい女性が苦手だと言うことがあるからだろう)本人はそう思ってないと思うけど周囲から気が付かれたりする「中途半端な女装」の人の方が好きなんだよね~ってこれ、すごい本人にとっては失礼な言い草であろうというのは百も承知です。

女装にもいろいろあって、本人がどのような「女の人」になりたいかはそれぞれだよね。みんながみんな「完璧に女を目指している」わけでもない。無精髭生えたままで女装したい人だっているはずだし、「それが女としての自分」って思ってる人だっているはず。そういう人がいる中で、わたしの好みは「無精髭生えたままで女装してる人」だったりするわけです。好きなのに理由はないけど、わたしはその中にとてもその人なりの「女性」を感じるんだよね~。わたしが評価するなんてすごくおこがましいんだけど「ああ、この人はこの姿で十分女性だ」と思う。

この映画に出てくるダヴィッドも実はあまりきれいな女装、って感じじゃない。けどそれが本当に魅力的。そういうのを見ると、今度は「性的な対象」ではなく「じゃあ、女性って何?」と思う。

ただし、ただしですけど、女性というのは「外見」だけじゃない。生まれてから「女性ジェンダー」で育てられたか、「男性ジェンダー」で育てられたか、というものすごい大きな違いがある。簡単に言えば「女としてしつけられたか」と「男としてしつけられたか」。MtFは「男としてしつけられた人」が大半だと思うので、物事への気が付き方などがやっぱり「男性だなあ」って思うことが多々ある。「男としてしつけられてきた人」は基本とても鈍感です。逆にFtMは「自分は男性だ」と思ってても、すごく周囲に気を使ったり、すぐに気が付いてくれることが多い。これは今までの育てられ方だから、本人のせいではないのだけど、外見さえ女らしくすれば女としてちやほやされるMtFとか見てると「女性のいいとこ取りだよな~」ってつい思っちゃうこともある。あ、でも生来よく気がつくんだろうというMtFの人ももちろんいるし、そういうのを自覚して振る舞ってるMtFの人も当然いるのは確かです。ただ数は少ない。まぁだから、わたしなんか生物学的な男女差はあるけど、社会的な男女差って本当に「作られてる」ものなんだなと思ってるんだけどね。で、そんなことをいうと「ジェンダーフリー」とか言って叩かれる。いや、だから、生物学的な男女差はあるんですってば。力の差などは歴然としてるし、体格差もあるし、そこのところは男女同等とは思ってない。けど、「女性はよく気がつく」とか「細かい」とか言うのは、持っている性質と言うよりはほぼ生まれてからの「しつけの成果」だと思う。もちろん男性だってよく気が付く男性や細かい男性がいる。だから、本質的にはそこは男女の差というよりも「気が付く人間と気が付かない人間の差」というだけで。そして「気が付かない人間もしつけをすることによってある程度は気が付くようになる」んだとわたしは思う。だから「よく気が付く人」は決して「女性らしい」ことではない。

とはいいつつ、わたしはやっぱり「女性ジェンダーとして育てられた人」としか付き合えないと思う。それは「男は泣くもんじゃない、感情を顔に表すな、耐えろ、強くあれ、物事に動じるな」と育てられた人は物事に対して鈍感になってて周囲に気が配れず、自分の大まかな感情は分かるけど細かい感情が認識できないってことを意味すると思っているから、それが抜け落ちている人はわたしは好きになることはないだろうなーということです。自分がそう育てられたことがないからどうしてそういう風に考えるのか理解できないってことがあるけど、わたしにとっての「同性愛」の「同性」は、こういう部分が一致してなければならないってことなんだろうなーって思ったりする。でも異性愛女性も「自分の好きな男性の範囲はどこまでなんだろう?」って考えることが可能だし、考えてみると案外面白いかも知れないですよね。まず、染色体、性ホルモン、外性器、内性器(って男性にはないよね?あ、前立腺があるか)が全部揃った「男性」しか男性として好きにならないかって考えて、ああ、案外外性器はあんまり関係ないかもって思えるかも知れないし、胸があってもいいかもと思えるかも知れない。女装する人であっても、性自認は男性の人もいるから、パートナーが女装してても許せるなって思う人もいるかも知れないし、いや、わたしは絶対に嫌って人もいるかも知れない。絶対に「男らしい」人でなきゃやだって人もいるだろうし、マッチョな人はあんまり好きじゃない人もいるでしょう。そんな感じで「性の概念」ってどんどん広がるもんだし、境界は本当に微妙なもんだし、個人的なもんだし、あいまいなものなんだっていうことです。

あ、映画と全然違った話になっちゃったね。ただ、このヴィルジニアのふるまいや気が付き方などがどこまで「女性か」は分かんないです、映画では。まぁそこまで細かくは描けないでしょう。この映画は「肉体」を介して性の概念の曖昧さを描いた作品だと思うし、それはとてもうまくいってると思う。

話は元に戻るけど「身体に男性器が付いている」という理由で「あなたは女性じゃない」と言われて涙したヴィルジニアの気持ちを考えると本当に胸が痛い。まぁ「女になりたいって思う人がなんで男性器を付けたままで平気なの?」って疑問を持つ人もいるだろうけど、これも個人差です。日本では今の法律で男性器が付いたまま女性の戸籍に変更はできないので、強制的に取られてるのが現状だけど、これはとても乱暴な法律で、外国では性別適合手術を受けなくても望む性に変更できたりするところもある。だからアメリカでは元女性の父親から子どもが生まれたりすることもあるんだよね。こう書くと「ええー、性の秩序が乱れている」と思う人もいるかも知れないけど、でも、子どもが欲しいのと自分が男性でありたい、というのはどちらを断念しなければならないものなんだろうか?「それが秩序だ」って考えたとして、ではその「秩序」を守ったからといって、得するのは誰でしょう。誰もいないよね。残るのは「秩序を守らせた」という人たちの自己満足と、子供を産めなくなった元女性の男性の悲しみだけです。しかもこのような人は本当にごく一部の人たち。その他多数の人は「性別を変えたい」とも「性別を変えた上で子どもを産みたい」とも思ってない。思ったこともない。それができるようになったからといって「そうしたい」と思うはずがない。だったら「秩序」の枠組みだって破壊されるわけではない。まぁだから、破壊されるはずのないちっぽけな「性秩序」を守るための今の日本の「性同一性障害特例法」はとても乱暴な法律なんだってことが言いたいわけだけど。

ではヴィルジニアには男性器が付いていた、だから男だ、だからクレールは男性器が付いているヴィルジニアは愛せないか、というところで事件が起こります。ここで交通事故を使うのは、とても安易だから、この部分はもうちょっと違ったものにならなかったのかなーって気はするけども。ただこの事故の直前のメールのやりとりでヴィルジニアがクレールに対して送った「わたしは女よ!」というメールも一つの「鍵」だと思います。この「鍵」を踏まえてクレールがここを乗り越えるためには、デヴィッド(ヴィルジニア)を意識不明にさせておく必要があるんだよね~。意識不明から戻すために、クレールは一つの行動に出ます。このシーンは亡くなったローズにデヴィッドがやった行為と対になる行為なのね。ローズにやった行為によってデヴィッドは再び女装しようと決意する。そしてそのデヴィッドにクレールがやった行為が、デヴィッドをヴィルジニアにする(=クレールがヴィルジニアを女性として受け入れた)という行為。登場人物の一つ一つの行為にすべて意味がある。こういう理屈っぽさはフランス映画っぽいって言えるのかな。ただ見てる分にはあまり理屈っぽさは感じられないけど。あとで振り返ったときに気が付くって感じ。

そしてヴィルジニアは意識を取り戻し、そして退院したヴィルジニアとクレールはジルの元に行く。「話があるの」と。そして7年後。

まぁ結末までネタバレさせたら面白くないのでここは伏せるけど、わたしとしてはとっても爽快な結末だったです。正直、現実的にかなりありそうな結末だなーと思った。ただ、この結末に対しては「意味がわからん?」って人もいるようです。まぁ上にも書いたように「異性愛規範」が強い人は「??」だらけの話だし、納得いかない結末なのかも知れないですね。

そうそう、あと一つ。わたしが気に入ったシーン。
上にクレールとヴィルジニアが一緒に泊まりに行く、というシーンがあったって言ったけど、そこで彼女たちは夜、女装の人がショーやってる性的少数者が集まる場所(なんて言うんだろう、クラブとも違うし)に行って女装の人が「わたしは女」とかいう歌を歌ってるのを聞いたり踊ったりしてるんだけど、そこで踊ってる最中に一人、わたしの好みのちょっと少年っぽいレズビアンの子がクレールに近づいて来てモーションかけるのね。でもクレールはその子には目もくれず、ヴィルジニアの方しか目に入ってないし、そのうちヴィルジニアと一緒に踊り出しちゃうの。だから、そのモーション掛けて来た女の子がすごい名残惜しそうにクレールのことを見てるんだけど、もー、そのシーンの女の子、すんごくかわいかった!!!思わずかわいくて笑っちゃった(笑ってる人他にいなかったけど)。こういう細かいシーンなど、本当にこの映画、よくできてます(ただわたしの好みの子が出てきただけか(^^;)。

だけどこの映画、もう封切られてかなり経つけど、セクマイ界でもほとんど話題になってないように思えるのはなぜなんだろう?「パレードへようこそ」はあんなに話題になったのに。これは「新しい家族の形」の話です。ストーリーに無理がなく(交通事故のところを除いては)登場人物の行動も突飛ではなく、心理描写もとても緻密に描けてると思う。本当にお勧め映画です。東京では18日までシネスイッチ銀座というところでやってますが、19日からはアップリンクでやるようです。関西近辺も18日まで梅田でやってたかな。それ以外の地方はこれからみたいなので、是非。
16:39 | (性的少数者)映画のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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