03-08 Sun , 2015
そういうふうにできてない
何日か前に「そういうふうにできている」という題名で日記を書いた。

「そういうふうにできている」と思ったきっかけは、実は「そういうふうにできてない」と思ったことがあったからだ。「そういうふうにできてないんだな」と思った先に「そういうふうにできている」というものがあったのだ。

「そういうふうにできてない」と考えたきっかけは、「人間は、言わなきゃ分からない」ということだった。言葉に出さないものはないものとみなされる。いくら心の中で強く思ってても、言わなければ伝わらない。

あ、でもこれ。いいとか悪いとかではない。別にだから「自分の意志をはっきり相手に伝えなければならない」と言いたいわけじゃない。単に現実として、そうなんだなというだけだ。人間は、声にしたことでしか相手に伝わらない。あ、もちろん態度なんかでも分かる場合はあるけどね。だけど態度より言葉にした方がより詳細に伝わるだろう(言葉を使わないジェスチャーでは自分の意志を明確に伝えるのが困難だし)。

それはひとえに、人間には「言葉を使わないで相手の言いたいことが分かる能力」を持ってないからだと思うのよ。以心伝心できないというか。

最初、このことを思ったときに「だから不便なんだよね」って思った。もしも人間に「相手が何も言わなくても何を考えているか伝わる能力」があるとすれば、すごい便利だなって思った。その能力があれば、人がどういうことを考えているかを想像しなくて済む。本音と建前の両方が分かる。自分も口に出していいにくいことをわざわざ口にしなくても済む。言いたくないことも相手に伝わる。もし、人間にこういう能力があれば、この世の中は今と全く別世界になっていたに違いない。

そう、この「別世界になっていたに違いない」というところから、「今の世界も別の世界から見ると『別世界』になるんじゃないの?」って思って、「そういうふうにできている」ことについて考えを進めたのだけれど。

実は、ここでわたしの考えることが2つに分かれちゃったんだよね。「そういうふうにできている」世界のことと「そういうふうにできていない」世界のことに。そして「そういうふうにできている」の方は、前に書いたけど。

「そういうふうにできていない」方のこと。「そういうふうにできてない」、今の世界はどうなんだろうかって。上に書いたように、以心伝心で伝わらないってことは、ある意味不便だし、「なかったこと」にされる恐れもある。以前、何かの本で読んだのだが、昔の(昔って大昔。豪族とかいた頃?)罪に対する一番重い刑は「死んだ後にその人の名前を言ってはいけない」ということだったんだそうだ。残された人は、その罪を犯した人の名前を言ってはいけない。すると、何代か後には、その人はまるでこの世に「存在していない」ことになる。誰も存在を知らない人になってしまう。それが刑だったんだって。まぁここには人間って自分の存在が死んだ後でも、いつまでも「この世に存在していた」と思われたい欲望があるのかなあとも思うんだけど(わたしなんかは自分が死んだ後はわたしのことはとっとと忘れて欲しいが)、言わなかったらいない人になってしまうんだよね。同様に、先の戦争においてもあまりに悲惨な体験をしたとか、加害の事実は言いたくないからと言って言わないままこの世を去ってしまった人たちがおそらく大勢いる。都合の悪い文書はすべて焼却してしまって、だんまりを決め込む。だからこそ、後世にその事実が伝わらない。伝わらないことによって、歴史はまた繰り返されようとしている。

この世の中「そういうふうにできている」。

一方、だからこそ「見せたい自分」だけを見せることができるのも事実だ。

ブログなんかで書き散らかしてるものなんか、本当にそう。ブログには見せたい自分しか見せない。一部「どこかに吐き出したくてたまらないから書いている」というのもあると思うけど、それだって「見せたい」とまでは言えないけど「絶対に他人には見せたくない」と思ったらブログには書かないだろう。吐き出すのは他人の目に触れられる可能性があるブログだけじゃなく、別に公開しないメモ帳に書いたって、手書きの日記だっていいのだから。

もちろんこのブログだってそうなんだけどね(笑)ただ、このブログ、今年の10月で10年続けてきたことになるんだけど(そう考えるとすごいな(笑))、ときによってスタンスが変わりまくってるよね。前は思いっきり何でもかんでも全部書いてたけど、今は自分が考えて「書きたいな」と思ったことは書くけど、事実について詳細なことはほとんど書かなくなったし。長い時間の中ではそのときどきによって「見せたい自分」が変わるんだなと思う。だから、過去の見せまくってた自分の書いたものはお蔵入りにさせてしまいたいと思ってたりもするんだが、そうするとどこまでお蔵入りにしてどこから出すかって判断するのが難しいんだよなー。それに正直、過去に書いた自分の文章はなんか気恥ずかしくてもう読みたくないってのがあるし(笑)

なんか段々話がずれてきたな。

ただ、こんな風に思ったのは、とある人のブログを読んでそう思ったんだよね。わたしは人のブログを読むのが結構好きで、いろんな人のブログを読んでるけど、一つね、忘れられないブログに遭遇してね。そのブログは探したんじゃなく、ただなんとなく猫ブログを読みたいなと思って、一つそれっぽいキーワードを入れたらたまたま出てきた、猫ブログとは全然関係ないブログだったのだけど。その人は残念ながらもうだいぶ前に亡くなられてしまったのだが、今でもその人のブログに出会えて本当によかったと思ってるし、もう再び更新されることはないであろうそのブログをブックマークしてときどき読んだりしてるんだ。ただ、最後の方に書いてあることを読むと「この人は敢えてこういう自分を見せたかったのだろうか」と思うことがある。それはわたしにとっては永遠の謎なのだが、きっと「そういう風に見せたい」と思ってたのであれば、それは多分成功してる。

人間には以心伝心の能力がないから、表現力に多様性があるのだ、とも言える。ただだからといって今の人間に「以心伝心の能力がなくてよかった」とは思わない。「以心伝心の能力があればよかったのに」とも思わない。上にも書いたし、前もそう書いたけど「どっちの方がいいか悪いか」ではなく、こういう現実が自分の前にただ横たわっているだけだから。

「そういうふうにできている」と「そういうふうにできていない」が組み合わさって、今の世界ができている。それは必然だったのではなく、単なる偶然だったと思う。ただ、物事には原因と結果があるというのはある種の真理だろうけれど(ここら辺になるととても仏教っぽくなるんだけども)。だけどいくら考えても分からない原因と結果を考えるより(考えて分かる原因と結果は考えなければならないけれども)「そういうふうにできてるんだなー」って、ただ淡々と事実を受け止めるのもいいのかも知れない。必然ではないって考えること自体、運命を否定していることになるのだが(笑)ただ、100%唯物史観で生きようとしてもなかなか難しいんだよね、これが。心のどこかに「絶対的」なものを求めてしまうのも、また人間なのであって、おそらくこれも「そういうふうにできている」のだろう。
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