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08-09 Sat , 2014
8月9日午前11時2分 ー長崎にて
去年の8月9日、わたしはこのような日記を書いた。

何度目かの長崎の平和祈念式典(最近、特に気になって言うけど、広島は平和「記念」式典で、長崎は平和「祈念」式典で字が違うのよ)を今日、テレビで見て「ああ、いつか長崎の式典に行ってみたいな」って思った。中継時間の関係かも知れないけど、長崎は城山小学校の生徒が歌う「子らのみ魂よ」と純心女子高校の生徒が歌う「千羽鶴」があって、それがかなり後に残る。年に1回聞くだけだけど、メロディーを聞くと思い出す。その歌を、生で聞きたいなあって思ったのだ。



で、ですね。じゃじゃーん。

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昨日、東京を出発し長崎に来た!

うーんと、あのとき考えたのね。「2年後くらいはどうかなあ?」って。でも2年後って70回っていう節目の年なんだよね。単なる「歌が聞きたい」ってだけじゃ、節目の年に行くことはなんか、不謹慎な気がしたの。「じゃ、3年後?」って思ったんだけど、わたし、今後3年間元気で生きてられるかなんて自信がない。ということは、、行くなら今年しかない!ってことで、かなり思い切って今年行くことにしたのだ。

今朝。祈念式典の開場は8時半だというので、8時過ぎに会場に行った。ぼちぼち人が並び始めてるころで、わたしは割と先頭の方だった。座席指定図を見たら一般客の椅子がほんの少ししかなかったので、大丈夫かなと思ったんだけど、何のことはない、開場後に聞いたら一般人でも遺族席に座っていいとのことだったので、遺族席のかなり前の方に座った。

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式典開始時間は10時35分なので、2時間近く待つことになるんだけど、その間、ボランティアの子どもたちが水のペットボトルや冷たいおしぼりを配ったりしてたのでちょっとびっくりした。

前にも日記に書いたかも知れないが、わたしは過去に1度、広島の方の平和記念式典には行ったことがある。もうかなり昔の話でほとんど記憶に残ってないんだけどね。そのときはそういうサービスは全くなかったと思う。これも時代なのかな。

今日の長崎は、台風の影響で風がものすごく強かったんだけど、それでも当初予想されたような雨は全く降らなくて。最初は曇り空かなと思ったんだけど、徐々に晴れて来て、最後の方はめちゃめちゃ天気がよくなってとっても暑かった。

しかし、広島の方は「あの日。。」って想像できるのに、なぜ長崎では想像ができないんだろう?原爆ドームっていう、リアルに残っているものがないからなんだろうか。それともやっぱりここはわたしと「無関係」だからだろうか。。だけどね、こういうことを言ってはなんなんだけど、わたし、広島の原爆で身内が行方不明になってても、全く悲しみはないのよね。だって会ったことない人たちなんだもん。生きてるところが全く想像付かないし。「この人たちが生きていたら」なんてことも思ったことがない。だけど、広島の原爆に対してはなんか知らんが「痛み」があるんだよねえ。昔からちょろちょろ話を聞かされてたからだろうか?正直、広島の平和記念式典にはもう参加したくないんだよね。広島の方はすごく生々しい感じが自分の中でするの。それなら毎年遠く離れた東京で、テレビに向かって黙祷してる方が気が楽なの。なんかとっても不思議な感じだよね〜。

そうそう、会場に入ってから、式典内容が書かれた冊子とレインコートをもらいました。式典内容を見ると、あれ、あれれえ〜?

城山小学校の児童が歌う「子らのみ魂よ」じゃなくて、山里小学校の児童が「あの子」って歌を歌うことになってる〜!@@;

ええーっ、なんでなんで?なんか年ごとに変わるの?これ。でも「子らのみ魂よ」ってわたし、もう数年間聞いた覚えがあって、結構曲も覚えてるんだが。特にこの8月になってから、わたしの頭の中では「せーんせいよー、こらのみたまよー♪」ってメロティが鳴り響くほどになってたんだけど。。正直なところ、これには随分ガッカリしてね。いや、山里小学校の人には全く罪はないのだけれど。ってわけで、当初の目的の半分しか達成できなかったんだよね、実は。しかし、何か歌うローテーションみたいなのが存在してるのかしら??

式典がようやく始まって。献花のときにケネディアメリカ大使が花輪持ってこっちに向かっておじぎをしたとき、結構な数の人たちが立ったり、自分のデジカメや携帯電話などで画像を取ったりね。一体、これは何?って思っちゃった。何かこの人にあるの?それともあのケネディ家の人だから?よー分からん。なんでそこまで人気なのか?本当によく分からなかったです。

てなわけで、あっという間に11時2分になって。立って黙祷しました。鐘の音といくつも重なって聞こえるサイレンの音、それから蝉の鳴き声。それだけが聞こえて来て、なんかとても印象的だった。長い長い1分間でした。ひたすら、鐘の音とサイレンの音と蝉の声に耳を傾けてた1分間でした。

そのあと市長の平和宣言。事前から集団的自衛権について言及するってことで、まぁ広島よりはまともだった。それに核兵器を使った戦争だけじゃなく、戦争自体に反対ということを明確に打ち出してたところもよかった。あと広島市長は全く触れなかった福島の原発事故のこともちゃんと触れてたし、そう考えると広島の方がかなり腰抜けだったんだよね。。本当に情けないな。

ところがそれを上回ったのが、被爆者代表が宣言する「平和への誓い」。実は市長の平和宣言も被爆者の平和へ誓いも事前に式典内容が書いてある冊子の中に既に載ってて、どういうことを言うのか、わたしは事前に読んで知ってた。ところがね。この人の誓いはものすごく説得力があった。事前に読んでたけど「え?こんなに厳しい内容だったっけ?」って思ったもん。

孫娘を亡くしたことの話の中で「自分が被爆者でなかったら」というところでは声を詰まらせていたし、集団的自衛権のこと、武器輸出しないでくれと言ったところ、ものすごく迫力があった。

わたし、思わず涙してしまったんだけど、ふと気がつくと会場整理のために、わたしの近くの通路で正面と反対向いて座ってた市役所のおじさん(わたしより年上だと思いたい(笑))が、うなづいていたか何かで、近くの遺族席に座っている人と目が合ってたのを見ちゃった。おじさん、ちょっと照れ臭そうに笑ってた。

この誓いは来ていた人の共感をかなり得たようで、まだ誓いが終わってない、これから年月日を言おうとするところで既に拍手が起きていた。市役所のおじさんも拍手してた。

児童合唱を挟んで首相の来賓挨拶があったんだが、怒りを感じるほどの内容で。広島のときも思ったが、復興して美しい街にしたのをなんでそんなに強調せねばならないんだろう?この式典は復興したことを褒め称えるものではなく、なぜ原爆が落とされたのか、そもそも戦争になったこと自体を反省し、再びこのようなことをしない、という決意を述べる場ではないのか。確か「先人に感謝する日でもある」みたいなことを言っていたような気もするが、感謝って何?原爆で死んでくれてありがとうと感謝しろというのか?(かなり悪意に取ってます)どうもこの人は復興に身を捧げたことがとてもお気に入りみたいだ。まぁしょうがないよね。ここしか褒め称えるところがないんだもん。この人は「日本人としての誇り」とは先人を褒め称えることだと思っているらしい。その先人とは、国を愛することを強要されて死んだ人だ。戦いなんかせずに生きたいと思った先人はどのくらいいたんだろう?そういう思いを全部無視して死を美化している。おまえなんか先人に呪い殺されてしまえ!と思ってます。まぁ一方でわたしは死んだ人が生きている人を呪うとは全く思ってませんがね。

被爆者による平和への誓い後の、市役所の案内係のおじさんに注目してたんだけど、おじさん、首相の挨拶のときは拍手してなかった(笑)会場の拍手も弱かったです。まぁ当然といえば当然。わたしもしなかったし。

次の県知事の挨拶も首相の挨拶とあまり変わらず。長崎市長と被爆者代表が明確に「戦争はNO」と言ってるのに対し、首相と県知事は「核兵器を使った戦争にNO」と言っただけで、戦争自体には反対は全くしてなかったね。そこが彼らの本音だろう。そしていつの間にか戦争を初めてしまって「こんなときに核兵器に反対なんてできますか」といってなし崩しに使うんだろう。これって今の「近隣諸国が日本を狙っている」というのとあんまり大差ないんだよね、実は。国民に危機感持たせて自分の思い通りに操っているだけだ。

それと県知事の挨拶は事実上、原発容認であったのもとても残念。核兵器による放射能と原発による放射能の違いがあるんだろうか?原発の放射能は安全とでも?前にも書いたけど、わたしは決して原発の技術を人類が捨て去る必要はないと思っている。ただ、国土全体に渡ってこんなに地震が起きる国、それも巨大地震が起こる可能性がある国では原発の技術は使うべきではないと考えている。この地球上ではね、有史以来、地震など起こったことがない地域もたくさんあるのよ。地震があっても何万年に1度とかね。そういうところでは使えるんじゃないかな。ただ、事故の危険性は残っていて、それは人類がどうすべきなんだろうけど。事故が起こり得るから原発技術は捨て去るべき、って考えもわたしにはよく分かるのだ。だって事故が一旦起きれば悲惨だもの。チェルノブイリみたいにね。

ああ、話が逸れた。

市役所のおじさんは県知事の挨拶ではまあまあ拍手してた。最低限、って感じだったかな。もうわたしはあの時点でおじさんに惚れた(笑)ちなみにわたしは拍手しませんでした。

それからいよいよ「千羽鶴」の合唱。これを聞きに来たんだもん、わたし。

言っちゃ悪いけど、決してうまくはないと思うのよ。でも、この曲はもうこんな感じ!ってイメージ出来上がっちゃってるから、これでいいの。しかもやっぱり生の声だと強弱がよく分かってよかった。最後の盛り上がりなんか、あー実際はこんな感じなんだって思ったからね。なんか「合唱聞きに来たんか!不謹慎だ」って感じなんだけど、でも、わたしの中では長崎の平和祈念式典って言ったらこれだからね。

そして広島と比べちゃいけないとは思うんだけど、式典としては長崎の方がわたしは圧倒的に好きです。まぁ広島のは自分が当事者なんで、どうしても自分の中のつらい思いとリンクしてしまってるところはあると思う。なので単純には比較はできないけど、戦争反対のメッセージは広島より長崎の方が上だと思うし、わたしには好感が持てました。本当に今回、思い切って来てよかったと思いました。

ただ残念なのが、最初の方にも書いたけど、城山小学校の「子らのみ魂よ」が聞けなかったこと。いろいろ調べても今回、なんでこの曲じゃなかったのか書いてないし、一体どうしちゃったんだろう?

ってわけで、長崎の方は1回だけじゃなく、もう1回くらいは来たいなあと思ってる。それ以外にも教会を中心にしていろんな行事があるのよね。でもそれも今回、台風の影響で中止になっちゃったりしたのもあってね。これはもう一回来いってことだろうと勝手に決めつけました(笑)ただ、東京からはすごく遠いんで、そう簡単には来られるはずもなく。。まぁ生きてれば5年後くらいに来ようかなと。でも5年後の日本を考えるとどうなってるか恐ろしいね。もしかしたら「時局を考えて」平和祈念式典なんか70回を最後に中止に追い込まれてるかも知れないし。

一回行った広島の平和記念式典はね、実は覚えてることと言ったら、場外で機動隊と中核派みたいなヘルメット被ってタオルで顔隠した人たちがもみ合ってるところなの。わたしあのとき、なんで8月6日にこんなことするんだろう?って思ってた。正直今もそう思ってるところはある。中核派の人たちは何が目的なの?って。

実は今日も式典が始まる少し前から場外で何言ってるんだか分からないけど、シュプレヒコールが聞こえて来てね。「こんなときくらい静かに祈りを捧げろ!」って思っちゃった。でもね、式典が始まって献花くらいの時間になるとその声は静まってたし、きっと彼らも分かってるんだと思うんだ。こんな日に大声を上げることについて。そしてきっとわたしたちと同じように11時2分には黙祷したんだと思う。そのあと少ししてからまたシュプレヒコールが始まったんだけど(笑)でもさ、わたし思ったんだよ。首相に抗議の声が直接あるって分からせるためには、こういう手段しかないってこと。確かにわたしでも彼らが何言ってんだかちっとも分からなかったんで、首相にも分かんなかったと思う。けど、いろんな人が、いろいろな方法で抗議してもいいじゃんって思えたの。被爆者代表の人は、平和への誓いで訴えた。長崎市長は平和宣言の中で訴えた。みんな、同じ方法を取らなくてもいいじゃん、いや、取れないよって。だったらわたしは一体何ができるんだろう?そんなことも思った(ただやっぱ、わたしが広島の記念式典行ったときはこんなに状況が荒れてなかったと思うし、一体あれは何だったのか?と今も思う。。)。

今日という日はもうじき終わるけど、2014年の8月9日はわたしの心の中に深く残った日だった。

 1945年6月半ばになると、一日に何度も警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り始め、当時6歳だった私は、防空頭巾がそばにないと安心して眠ることができなくなっていました。
 8月9日朝、ようやく目が覚めたころ、魔のサイレンが鳴りました。
 「空襲警報よ!」「今日は山までいかんば!」緊迫した祖母の声で、立山町の防空壕(ごう)へ行きました。爆心地から2.4キロ地点、金毘羅山中腹にある現在の長崎中学校校舎の真裏でした。しかし敵機は来ず、「空襲警報解除!」の声で多くの市民や子どもたちは「今のうちー」と防空壕を飛び出しました。
 そのころ、原爆搭載機B29が、長崎上空へ深く侵入して来たのです。
 私も、山の防空壕からちょうど家に戻った時でした。お隣のトミちゃんが「みやちゃーん、あそぼー」と外から呼びました。その瞬間空がキラッと光りました。その後、何が起こったのか、自分がどうなったのか、何も覚えていません。しばらくたって、私は家の床下から助け出されました。外から私を呼んでいたトミちゃんはそのときけがもしていなかったのに、お母さんになってから、突然亡くなりました。
 たった一発の爆弾で、人間が人間でなくなり、たとえその時を生き延びたとしても、突然に現れる原爆症で多くの被爆者が命を落としていきました。私自身には何もなかったのですが、被爆三世である幼い孫娘を亡くしました。わたしが被爆者でなかったら、こんなことにならなかったのではないかと、悲しみ、苦しみました。原爆がもたらした目に見えない放射線の恐ろしさは人間の力ではどうすることもできません。今強く思うことは、この恐ろしい非人道的な核兵器を世界中から一刻も早くなくすことです。
 そのためには、核兵器禁止条約の早期実現が必要です。被爆国である日本は、世界のリーダーとなって、先頭に立つ義務があります。しかし、現在の日本政府は、その役割を果たしているのでしょうか。今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじる暴挙です。日本が戦争できるようになり、武力で守ろうと言うのですか。武器製造、武器輸出は戦争への道です。いったん戦争が始まると、戦争は戦争を呼びます。歴史が証明しているではないですか。日本の未来を担う若者や子どもたちを脅かさないでください。被爆者の苦しみを忘れ、なかったことにしないでください。
 福島には、原発事故の放射能汚染でいまだ故郷に戻れず、仮設住宅暮らしや、よそへ避難を余儀なくされている方々がおられます。小児甲状腺がんの宣告を受けておびえ苦しんでいる親子もいます。このような状況の中で、原発再稼働等を行っていいのでしょうか。使用済み核燃料の処分法もまだ未知数です。早急に廃炉を含め検討すべきです。
 被爆者はサバイバーとして、残された時間を命がけで、語り継ごうとしています。小学一年生も保育園生も私たちの言葉をじっと聴いてくれます。この子どもたちを戦場に送ったり、戦禍に巻き込ませてはならないという、思いいっぱいで語っています。
 長崎市民の皆さん、いいえ、世界中の皆さん、再び愚かな行為を繰り返さないために、被爆者の心に寄り添い、被爆の実相を語り継いでください。日本の真の平和を求めて共に歩みましょう。私も被爆者の一人として、力の続くかぎり被爆体験を伝え残していく決意を皆様にお伝えし、私の平和への誓いといたします。
 平成26年8月9日
 被爆者代表 城薹美彌子



【追記】被爆者の「平和への誓い」、事前に用意してあった式典次第の冊子に書いてあったことと違ってたんですね。今日(10日)、地元の新聞読んで初めて知りました。だから読んだときと印象が違ってたんだー。新聞には「文中にない言葉が、自然とあふれ出た」って書いてあったけど、そうだったんだ。その勇気を賞賛します。

それから、昨日の平和祈念式典は台風の影響で異例ずくめだったようですね。開場時間を1時間繰り下げたり、献茶会、ってものが中止になったり。献茶会ってなんなんだろ?それにあそこ、例年はテントの中でやるのね。あの日差しの中でやったことはなかったのか。いや、ホント、暑かったです。高齢者には酷だったと思いますが、わたしの体験として、あの日差しが経験できてよかった。でもそれを知ってますます「普段の平和祈念式典」を体験してみたくなりました。またここに必ず来たい。
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