07-18 Fri , 2014
ゆりかごのうた 大松達知歌集/大松達知
無知を晒すようで恐縮なのだが、一応学校教育で、短歌、俳句、川柳などは習ってきたはずなのだが、学校を卒業してうん十年経つと、正直「あれあれ?俳句は季語があって5・7・5?川柳は確か季語がなくて5・7・5・7・7だっけ?じゃあ短歌ってなんだっけ?」などということが起きていて、、これって生まれたときから日本に住んでいて、しかも日本語を母語としながらものすごく恥ずかしいことだよねとは思うのだが、でも、自分の暮らしの中に「歌」というものが本当に無縁なので、仕方がない部分もあるのかな、なんて思っている。

だからといって、「歌」に興味が全くないわけではなく、斎藤茂吉の歌集なども持ってるし(文庫本だが)、俵万智なんかも知ってるし、俳句はなんかしみじみとした趣があっていいなあと思ってるし、なんというかな、ここだけの部分で言えば「一般的なフツーの日本人の感覚」なんだろうという認識だ(普段は「フツー」というカテゴリーも「日本人」というカテゴリーも使いたくないんだけどね)。ただ、「歌」については今まであまり接点がなかったんだよね。積極的に探そうとも思わなかったし。

今回のこの「ゆりかごのうた」を知ったのは、偶然、東京新聞を読んだからだ。確か書評じゃなくて、コラムみたいなところだったと記憶しているのだが、「父親になった人の父親の目から見た短歌」みたいな感じでこの人ともう一人の人が紹介されてたんだよね。確か5月頃だったかなあ?その2人のいくつかの歌が紹介されてたんだけど、わたしはこっちの人の歌の方がなんとなくいい感じだなって思ったのと、歌集を出したばかり(もう一人の人のは確か雑誌で発表だったかな?)だというので「もしかしたら図書館にあるかもね」と思って探したら、案の定、図書館に置いてあって(ただし、新刊だったのでだいぶ待たされた)それで予約して読んでみたのだった。

題名が「ゆりかごのうた」なのと、新聞に紹介されていたのが「父親の目」ってことだけだったので、この歌集、全般にわたって「子育て中の父親の歌」なのかなって思ってたけど、実際に読んでみるとそういうことは全くなく、「2009年から2013年(38歳から42歳)までに書紙誌に発表した作品の中から444首を選び、第4歌集とします。」とあとがきに書いてあるように、実にいろんな歌が入った歌集だった。

この人のことは、東京新聞を読むまで全く知らない人で、どういう背景を持つ人なのかも全く知らなかったのだが、歌集を読んでいるうちに「あれ、この人、野球が好きな人なのかな?」って分かってきた。他にもお酒がすごく好きそうだとか、英語教師をやっているとか、子供が産まれたとか、誰かが亡くなったとか、どこそこに旅行に行ったとか、そういうことがぽつりぽつりと分かる歌集だった。

わたし、今まで俳句とか短歌って、「句を通して読んだ人の気持ちを想像する」とか「読んだ人を通して情景を思い浮かべる」ことだと思っていた。学校教育でもそういう教わり方をするからさ。もちろん、それは間違ってはないだろう。「何が書いてあるかを文法的に正しく解釈して、そしてその句が何を言おうとしているのかを考える」ことは、句の本質的なものを捉える上ではとても大切なことだとわたしも思う。けどね、わたしはこの歌集の中の一つの短歌に出会ったとき、それまでとは違うものを感じたの。「ああ、短歌を読むってことは、自分の中にこういう感情を湧き起こすことがあるんだ」って思った。

打者を見つつ走者を見つつ送球を見つつ過ぎたりこの世の五秒


この句を読んだとき、「うわっ!」と思ったのね。それはまさしく、わたしが経験したことだった。

わたしは今はほとんどプロ野球オンリーになっちゃったけど、かつては社会人野球が大好きで、休みのほとんどを社会人野球観戦に注ぎ込んでた時期があった。年間100試合ほど観ていた。いろんな球場へ観に行ったけど、わたしは大抵バックネット裏の中段で、ホームより少し3塁側の席が定位置だった。そこからだと投手も打者も守っている人たちもランナーもみんな、一瞥できるからだった。

野球っていうのは、ものすごく奥が深いスポーツで、一人一人の心理状態、配球、守備位置、作戦、選手が持っている技量など、いろいろなところにアンテナを張り巡らせて、いろんなことが感じられるからわたしは好きなのだ。ただ野球をほとんどやったことがないわたしには、セオリー通りの作戦などは分かるけれど、配球とか細かいことは実はよく分からない。分からないし、それが間違っているかも知れないんだけれど「もしかしたらこうなんだろうか?」って自分なりに感じて解釈する。それがまたたまらなく面白い。

ああ、言葉にするとすごくつまんなくなってうまく説明できないな。ある場面、一方のチームはチャンスに、一方のチームがピンチに追い込まれる。ここでキャッチャーはピッチャーにどういう球を放らせるか、ピッチャーはキャッチャーの構えたところにボールを投げることができるか、バッターの狙い球はどんなものか、ランナーのリードの具合はどうか、ベンチの指示はどう出ているのか、野手の守備位置はどうなってるか、キャッチャーが打たせようとしている方向に野手はちゃんと守っているのか、高まる声援(社会人野球の応援はすごい!)、いろいろなことを観察して感じようとするわたし。「野球ってなんて面白いんだろう!」と感じる瞬間。そしてピッチャーがボールを投げて、、

この句を読むとね、あのときのわたしの気持ちがばーっと蘇ってくる。この句の中の「五秒」っていうのは、まさにわたしが打者を見て投手を見てランナーを見る、その「五秒」なんじゃないかと。

わたしがこの句を読んで真っ先に思い出した試合がある。

1999年7月25日、都市対抗野球大会3日目の第3試合。横須賀市(日産自動車)対大阪市(日本生命)の試合。7-8で迎えた9回の表、横須賀市の攻撃。2アウト1塁からタイムリーで1点返して同点にしたあと、大阪市のピッチャー土井は四球を出して2アウト1塁3塁。ここで横須賀市の黒須がセンター前にタイムリーヒットを打って逆転するのだが、まさにヒットを打つ直前、わたしは上に書いたとおり、投手を見、打者を見、ランナーを見、野手を見、盛り上がる応援を聞いた。これから起こることについてワクワクし、息を呑んだ「五秒間」だった。そしてその後、センターに抜けた黒須のヒットはスローモーションの映像としてまだわたしの頭の中に鮮明に残っている。あの試合を観た帰りにわたしは繰り返し「野球って本当に素晴らしい」って思った。野球を観ることは、わたしにとって数少ない「生きててよかった」と思えるものだった。

野球は間延びして面白くない、と言われることが多々あるけれど、あの「間」があるからこそ、野球は面白い。その間、いろんなことを感じられるから。それは独りよがりで事実とは違う解釈だったとしても、全然構わないと思っている。だって、そう感じたのはわたしだから。わたしがそう感じたということは「事実」なのだ。そして自分で感じたことは、自分の胸にだけに留めておく。自己満足でいい。

と、ここまで書きつつ。。この句を再び見ると

を見つつ走者を見つつ送球を見つつ過ぎたりこの世の五秒


なんと、「打者」だと思っていたのが「打球」ではないか!

あー、なんということ。ここが「者」であるか「球」であるかによって、この「五秒」は全く別の「五秒」ではないか!たった1文字の違いで場面が全然違ってくる。ああ、やっぱり俳句とか短歌って怖い。。

打球を見て、走者を見て、送球を見る、というのは、打者が打った後、のことだ。この人はロッテファンらしく、千葉マリンスタジアムに行ってロッテを応援する様子をいくつか短歌にしてるんだけど、きっとロッテの選手がヒットを打ったんだろう。その打った打球を見て、それからおそらく塁上にいたランナーの様子を見て、そして相手のチームの野手からの送球を見たってことなんだろう。それはそれで緊張感が伝わってくる一句なのだけど。。

わたしは特定の社会人野球チームは応援してない。けれど、プロ野球だったら、もう誰がなんと言ってもカープファンだ。同じ野球でありながら、社会人野球とプロ野球、特定の応援しているチームがある場合とない場合によって、わたしは野球の見方が全く違う。社会人野球は純粋にゲームとして楽しんでいる。どっちが勝っても負けても別に関係ない。ただ、緊張感のある試合が観たい。けれど、プロ野球は何が何でもカープの勝ちが観たい。どんなに大量得点差でゲーム自体は全然つまらなくなってしまったとしても、カープが勝っていたら満足するし、僅差で負けたらやっぱり悔しい。まぁそりゃあ、「いい勝ち方」ってのはあるから、いくら勝っても「こんなんじゃダメだよ!」って思うこともあるが、、

だからわたしはこの人が「打者を見つつ走者を見つつ送球を見つつ」と詠んでいて、その中に投手のことが入っていないのは、それは「応援しているチームがあるからだ」と思っていた。そして「その瞬間」の前の「五秒」のことを詠った歌なんだとばかり思っていた。そして「ああ、短歌って人の詠んだ句から自分の経験したことを思い出せる手段でもあったんだ」って、そう思った。

けど、あー、そうだったんだ。今回はそうではなかったんだね。

この句を作った人からすると「自分が作ってない句を勝手に作り上げてあれこれ言うな」って思われるだろうけど、確かに作った人を冒涜する行為ではあるよな。。ごめんなさい。だけど、わたしは本当に嬉しかったのだ。だって、あの句を読めば、あのときの、わたしの気持ちが自分の脳の中にパーッと蘇ってくるんだもの。

ちなみに、正しい句を読んで、これまた思い出した試合がある。

1995年6月20日。カープヤクルト戦。わたしはこの試合を広島市民球場で観ていた。9回裏4-6でカープは負けていたが、なんとノムケン(野村謙二郎現カープ監督)が逆転3ランを打ったのだ。このときは、ファンとしてすごく興奮した。「ノムケン、ありがとう!よー打ったな!!」って言いたかった。試合が終わったあと、球場前でノムケンの出待ちをした。「ありがとう、ありがとう!」って気持ちを伝えたかった。けど、本人を目の前にしてわたしは何も言えなかった。。言葉にしなければ相手には伝わらないが、「ありがとう」という言葉では自分の気持ちが伝えきれないと思ったからだ(それ以上に声を掛けるのが恥ずかしかったんだけど(^^;)。

「この世の五秒」はきっと、球場はファンの声援でいっぱいだったんだろう。「走れ、走れ」という声や「やったー」という声や「いいぞー!」って声が聞こえたんだろう。この句にはそういうことは何も書いてないけれど、でもわたしにはそれが聞こえる。

この人の野球に関する一連の句は、この人が球場のどこに座ってて、どういう応援をしているか、それがものすごく分かってね。全く見も知らぬ人なんだけど、球場でビールを飲みながら応援している姿がありありと浮かんでくる。それがとても不思議な感覚だった。わたしは人の短歌を読んでてあんまりその人の「生きている姿」を思い浮かべたことはない。どちらかというと、なんかセピア色のフィルターを通して見るような、なんとなく古ぼけていて、自分とは関係ない遠い世界であるような感覚がある。だけど、この歌集は全然違ってた。ちゃんと色が付いてた(笑)

この歌集、この人の生きている痕跡みたいなのが分かって、とても面白かった。歌集なんて、本当に今まで無縁で、あとこういうのを読むと「何か正しいことを感じなきゃ」みたいなプレッシャー?があって(学校教育の弊害か?)すごく敷居が高かったんだけど、これは本当に自然に読めた。

例えば英語教師として生徒のことをを詠んだ歌などもユーモアがあって面白かったし、あとこの人、お酒が好きなのね。「子供が産まれた」ってことでどんなことが書いてあるのかなって思ってたけど、まぁ正直それは「ふーん、そうなんだ」としか思えなくて(なんせ、わたしは人の親にはなったことがないからね)、実際のところはわたしは別のところ(=野球)に大いに反応した。

この歌集は「第4歌集」ということらしいので、前に3作出てるはずなんだよね。そっちの方も読んでみたいな。

ただ、一文字で意味が全く変わってしまう怖さ、ってのをこれを書いててモロ感じてしまった。正直、文語体はあまり正確に捉えることができなくて「まぁ適当でいいよね」って思ってたのだが。。あんまり適当でもよくないってことだよね。でも、それを気にしてたらまた敷居が高くなっちゃうしなあ。難しいとこです。でもこんなこと言ってたら、真剣に三十一文字を考えて作っている人に対して悪いなとも思う。

【追記】奇しくも今日は、プロ野球はオールスターゲーム第1戦。カープの選手がびっくりするほど多くスタメンで出場している。そして、東京ドームでは都市対抗野球大会が始まった。もう何年も観に行ってないけどな~、今年はどうしようかな。観るとハマるからなあ、あれは。
18:26 | (一般)本のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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