----- -- , --
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--:-- | スポンサー広告 | page top↑
04-11 Fri , 2014
非当事者であること/ルポ京都朝鮮学校襲撃事件を読んで
「ルポ京都朝鮮学校襲撃事件」って本を読んだ。

図書館で借りてきた本だったので、期日前に読まなければいけなかったのだが、最初の一週間ほどは読むのがつらくて最初の一章だけ読んで、ほとんど放置していた状態だった。けれど、それでは期限が来てしまう。意を決して続きを読んだ。苦しかった。何度も泣きそうになった。いや、実際涙が流れた。けれど不思議と「続きが読みたい」って思わせるような本だったので、残りは2日ほどで読めた。

んーなんて言えばいいんだろう。「差別を受けるってこういうことなのか」って改めて思わせられる本だった。この本には差別を受けた人の心理状況がどうなっていくかが丁寧に書かれている。それは「いじめを受けた子どもの心理」だったり「DVを受けている人の心理」だったりに、ものすごく似ていると思ったりする。過去にいじめにせよ、DVにせよ、被害者の心理状態を綴った本を読んだり、テレビを見たことがある。だから「差別を受ける」ってことはどういうことかについて、これが初めて読む本じゃない。初めてじゃなかったんだけど、大きな衝撃を受けた。もちろんだからといって、わたしは特に「朝鮮学校が受けた差別はいじめやDV被害と比べてもひどい」って言うつもりは全くない。わたしはこれらを比べるつもりはない。ただ「心理状態が似ている」って思っただけだ。

そしてこのような朝鮮人差別は今に始まったことではない、というか、昔からずっとずっとあって、戦争が終わってからもあって、そして恥ずかしいことに今も続いている。そう、これは恥なのだ。政府や警察、裁判所、文科省、国のすべてが朝鮮人差別をしている。国民の大半はそれを黙って見ている。一部の国民は直接朝鮮人差別をする。これが恥じゃなくて一体何が恥なのか。

人間には本能として「誰かを差別したい」って気持を持っていると思う。わたしにだってある。わたしだって「人を差別してはいけない」ってこういう場所で書くけどさ、実際はしてると思うよ(笑)人の心なんて裏では何を考えてるか分かんないよ(笑)黒くてドロドロしたものが自分の中にあることをわたしは自分で知っているし、そういうものを持っていることについてはいけないことだとは思わない。でもわたしはそれを絶対に表には出さないでおこうと思っている。表に出さないことが「自分のプライド」だと思っているから。まぁこの「プライド」に対してもいろいろあるのだけれど、まぁそれは自分が書きたくないことなんで書かない(笑)

だから「差別はしてはいけない」と書いても、実際は「差別は自分の表に出すな」ってことだと思ってるんだよね。

あ、差別をすることと人を嫌いになるってことは違うことだと思っている。自慢じゃないが、わたしには嫌いな人がたくさんいる。今、現在でもね。わたしは人を好きになることは滅多にないが、嫌いになることはものすごくたくさんある。よく「好き嫌いが激しい」っていうけど、わたしは好きがなくて「嫌いが激しい」人間だ。そして「嫌いな人と嫌いあう」ってことは「好きな人と好きあう」ってことよりも嬉しいって思ってる。中学生の時にクラスですごく嫌いな人がいて、向こうもわたしのことが嫌いみたいだったので、とても嬉しかった。今でもその人の名前と顔を覚えてるくらいだから、嫌いあってたことがよほど嬉しかったのかしらね。ただ、それはあくまで「個人対個人」のことだ。誰かを味方に付けて「一緒にあの人を嫌いあおうよ」と誘ったりはしない。人の好き嫌いなんて、極めて個人的なものだからだ。

差別と嫌いの違いって、「人間としての尊厳を傷つけるか否か」ってことじゃないかって思う。「人間としての尊厳」、まぁ別に「人間としての」って付けなくてもいいかなとは思うんだけど、「自分が自分であること」というのが尊厳なのかなあ。そして「自分であること」は決して「変えられない属性」じゃないと思うの。以前「自分で変えられない属性について差別するのは止めましょう」ってツイートがどこからか流れてきたときにわたし、「だったら変えられる属性について差別するのはいいのかなあ?」って思ったんだよね。自分で変えられない属性ってのは、人種だったり民族だったり性的指向だったりするわけだよね。じゃあ、変えられる属性って何だろう?って思ったんだけど、例えばね、人間が太ってるとか痩せてるとか、そういうのかな?って思ったんだよね。まぁいくら食べても太らない人は属性が変えられないかも知れないが、太ってる人は食べるの制限したら痩せられるでしょ。でもさ、太ってる人に「デブ」って言ったら言われた方は傷つくよね。それってゲイが「ホモ」って言われて馬鹿にされて傷つくのと同じだと思うの。そこに「変えられる属性」と「変えられない属性」の違いはないよね?それにさ、今や性別だって変えられるわけだよ?性別が変えられるから女を差別していいってことにはならないよね。

だからさ、結局さ、どういうことでも、変えられる属性でも変えられない属性でも、それについて差別することを表に出してはならないのだとわたしは思う。

なんかいつも感想を書くつもりが、話が変な方向に飛んじゃうんだけど(苦笑)

この本、よくできてて「ルポ」っていいつつ、いろいろな登場人物の過去の話とかうまく絡み合っててね。でもわたし、人の名前を覚えるのが苦手でね。日本の名字とか名前はそれでもあまり忘れないんだけど、不思議なことに名前が漢字でも横に朝鮮読みのフリガナが振ってあると途端に覚えられなくなる(笑)なので、取り敢えず申し訳ないんだけど勝手に漢字を「日本語読み」させてもらっている、この手の本は、、そして何度も登場人物が出たり入ったりするんだけど、これがね~。「あれ、この人誰だっけ?」って思うのよ、毎回。特に朝鮮の人は「金」って名前の人が多いもんですごく戸惑う、、まぁ半分くらい読んだら「ああ、この人だったよね」って思い出すけどさ。

しかし登場人物の過去の話などを読むと、本当に日本は昔から国を挙げて朝鮮人差別してたんだなと思うし、在日の人はこんな誰も味方がいない中でよくここまでやってこられたなあって思う。周りに味方がいなかったから、結束力が強いのだろうし、身内意識も強いのだろう。

わたしさ、この「結束力」や「身内意識」を目の前にすると、ああ、わたしはどんなに仲間に入りたくても仲間になれないなって思って寂しい気持ちがするの。それはわたしは決して「当事者」にはなれないってこと。前はそれが理解できなかった。なんとか一生懸命努力して認められたら「当事者」の仲間入りができるかなって思ってた。けど、逆に考えてね。アライ(=性的少数者を支持したり支援したりする多数者)が当事者になれるかというと、それは絶対に無理だから。第一、差別されて差別される気持ちは痛いほどに分かっても、それは自分に突き刺さってこない。差別されて身を引き裂かれるようなつらさは当事者じゃないと絶対に分からない。だから「所詮、シスヘテ(=シスジェンダーヘテロセクシャルのこと。シスジェンダーとは身体と自分が考えている性別が一致している人のこと、ヘテロセクシャルは異性が好きになる人のこと。要するに世間一般の人のこと)はシスヘテだよね」って心の底で思っちゃう。結局のところ、それなのだ。いくら、わたしが朝鮮の人に理解を示そうと、わたしは彼らにとって「差別する側の人間」なのだ。そういう危険性を持っている人間を身内扱いなど絶対にできないだろう。

でも。ってわたしは思う。非当事者なら、非当事者にしかできないことがあるのではないかと。それがね、この本には結構書いてあるのよ。ヒントがいろいろ。そういう意味ではこの本はとてもわたしの役に立ったし、今後、わたしは自分自身どうしていけばいいのかが少しだけ分かったような気がしている。

「当事者」と「非当事者」っていうのはね、いろんな場面でわたしの中に出てきて考えさせられる。わたしは「性的少数者当事者」だけど、非当事者であるものの方が圧倒的に多い。当たり前だけど。例えばさ、「凶悪犯罪被害者」について、わたしは非当事者だ。「自死遺族」についても非当事者だ。「北朝鮮拉致問題」に対しても非当事者だ。世の中の、ほとんどのことに対して、わたしは「非当事者」だ。

だからね、わたしは「非当事者」であることを貫きたいと思う。物事の、一つ一つによって自分の思いから立ち位置が変わってくると思うんだけど、一つ一つのものに対して「どういう角度で物事に向かうか」というのを意識的にやっていきたい。

世間は一般に「当事者(被害者)の気持ちになって」考えがちだ。例えば凶悪犯罪で重罰化をして欲しい、という被害者や関係者がいる。死刑制度存続を訴えたり、加害者を死刑にして欲しいと考える人たちもいる。それはそれでいいし、そういう思いは止められないと思う。けど、被害者や関係者以外の「非当事者」まで「同じ」になることはないと思う。非当事者は、非当事者であるからこそ、「加害者の犯罪に至った境遇、同じ事件を起こさないためにも社会をどう変えていったらいいのか」や「死刑制度があっても犯罪の抑止にはならないこと、であれば、どのようにしたら犯罪が減るのか」など、様々な視点からアプローチすることができる。もちろん中には被害者に寄り添う人もいるだろう。非当事者に課せられた使命は、長期的な展望で「どうやったら悲しむ人が減るのか、生きづらい人が減るのか、多くの人が住みやすい世界になるのか」を考えることだと思う。

それは「北朝鮮拉致問題」でも同じでね。っていうか、在日の人は「加害者」でもなんでもないんだから、攻撃する先が間違ってると思うけど、あんまりにも被害者寄りの人が多いと思うのよ。非当事者として何ができるか、この問題に関しては非常に難しいと思う。基本、国と国の問題だし。だけどさ、だからといって、在日の人を責めるのは間違ってる。もちろん彼らの中には北朝鮮を支持する人がいるだろう。けど、それはね、今までいろんな政治的な事情に翻弄されてきたっていうのがあるわけなんだよね。人の心っていうのは、そう簡単にすぐには変わるもんじゃない。もちろんわたしはその気持ちを「変えるべきだ」とは思わない。それは個人の自由だもの。ただ、誰が見ても国による拉致はいけないことだよね。それは多分、分かってると思うし、だからこそ複雑な思いを抱いている人もきっと多いんじゃないかと想像する。そういう気持ちは全く無視して、ただ拉致被害者とその周辺の人のことしか考えてなくて、在日の人を非難中傷していいものなんだろうか?

非当事者というのは、当事者じゃないから双方の気持ちや状況を考えることができるんだよね。それはきっと非当事者「特権」なんだろうと思う(笑)

こういうことを言うとね、すぐに「自分が被害者になったらどうするんだ」とか「被害者の気持ちを考えろ」って言う人がいるんだよね。それはね、被害者になったときに考えるよ。もちろん、今のわたしとは全く整合性が取れない考えになるかも知れない。だけどそれはそれでいいじゃないと思う。当事者になって、当事者でなければ分からない苦しみや痛みを持ったときに、わたしがどう考えるかは、今のわたしじゃ分かるわけがない。加害者が憎くて憎くて「死刑にして欲しい」って考えるかも知れない。でもそうじゃないかも知れない。それはそのときになってみないと分からないことだ。

少なくとも、今の「非当事者」としてのわたしは、非当事者のうちに非当事者の立場でやっていきたいって思ってる。もちろんできる範囲のことでしかやれないけどね。

また本の話に戻るけどねー。わたし、一番グッと来たのが「裁判を起こすかどうかの話し合い」のところだった。わたし、もっともっと軽く考えてた。そういう意味では「裁判所は公正だ」って思ってたの。もちろん、いろいろな思惑があって裁判所が公正じゃないことは知っていたが、でもまだどこかでそういうものに対しての「信頼」があったんだよね。でもさぁ、そこでも国を始めいろいろな人に痛めつけられた人たちは、躊躇してしまうんだよね。「そうなのか」って思ってちょっとショックだった。そして前に書いたけど今、朝鮮学校無償化排除問題で、全国で何ヶ所か、裁判を起こしている学校や生徒たちがいる。その裁判を起こすときも、こういう悩みや苦しみがあったんだろうなと推測される。わたしはあのとき「生徒が痛々しい」って書いたけれど、そして本当にそう思ったのだけれど、そういうのは通り越してるんだ、そう思ったらショックだったし、涙が出て来て仕方がなかった。だって理不尽なんだもの!どう考えても理不尽じゃん。国もそこに住んでる国民も誰も味方してくれないんだよ。味方どころか国を挙げて自分たちを攻撃してくるんだよ。わたしはなんで無条件に人が差別されている土地に平然と暮らしているの?誰かが傷つけられてて、それをどうして黙っていられるのか。

こういうこと書いてると「朝鮮人に味方する反日」とか「嫌なら日本を出て行け」とか思ってる人もいると思う。正直、わたしは「国」という枠組みは好きじゃない。「国」という枠組みがあるせいで、わたしたちは「国」からいろんなことを管理され、抑圧される。だから「国」という概念なんて滅びてなくなれって気持ちもある(かといって、アナーキストと言ったら全然違うのだが。。っていうかそこまで深くは考えていない)。しかしね、今現在「国」という枠組みがある以上、「こういう国でありたい」「こういう国であったらいいな」っていうのをわたしは持っている。今の日本はそれからどんどん外れて行ってるの!国はそこに住む人々のためにあるものであって、決して国があるから人々がいるわけじゃない。わたしは人々に寛容な社会であって欲しいと思う。人権が護られる国であって欲しいと思う。それは引いては「わたしが住みやすい社会」に繋がっているから。わたしが「こういう国になって欲しい」という要求は、それはやっぱりこの国が好きになりたいんだという思いがあるからだと思う。今の世の中が嫌いだからと言って、すぐ出ていくか、出ていかないかと考えるのは、わたしはよく分からない。好ましくない状態だからこそ、好ましい状態にしたい。ただそれだけだ。

この本ね、読んでて2箇所違和感があった。

1回目、学校が襲撃されたあとにバザーをやるんだけど、やった後にね、近隣住民に挨拶に行ったときにこう言われるの。

応対した(マンションの)副会長の対応は違っていた。大人たちのマナーの悪さを指摘しつつ、彼は言った。「ここのマンションは鴨川沿いで景観が良い、環境が良いということで入居してくる。新興住宅地のような感覚で入ってくる新しい人たちは、在日が多い地域だとか、歴史的経緯とか何の予備知識もない。だからこの公園や学校の様子を見てびっくりして反応してしまうのもやむを得ない側面もある。誤解、偏見から悪感情を持ってしまうところもある」。そして付け加えた。「努力せなアカンで」(51p)


終了後、地域に挨拶に回った。「行ってもいいのものかアカンものか分からなかったけど、『やっぱり行かなアカンやろ』って、二、三人で組んで、一組二、三ヶ所を回った」という。すると地域住民の何人かはバザーにも来て、物品を購入していた。ある年配の女性にこう言われた。「こんなんやったら全然問題ないんや。アンタら大人がちゃんとせなアカンねん。子どもらはきちんと挨拶するええ子ばかりやで」
 一緒にいたオモニ数人で思わず声を出して泣いた。「(略)でも会ってみると、何のことはない同じ人間だったんですよね。同じように、人間として、同じ目線で、年長者として私たちを諭してくれたのがうれしくて。私たち、何か自分たちを一段下のところで考えてしまってたのかなって。学校の問題だけじゃないと思う。在日ってどこか根無し草みたいなところがあるから。ほっとしたら涙が出た」(51p-52p)

読んで「えっ!?」っと思ったのね。これを書いた人でさえ、どうやらこの住民たちの発言を好意的に受け取っているようだ。でもさ、この本を読むと本当に朝鮮学校の教師を始め、保護者たちは近隣住民に対して理解を求めようといろんな努力してるのね、ずっとずっともう何十年も。もうそれは涙ぐましいほどで。なのにまだ「努力しなきゃならないの?」。わたしさぁ、これ読んで本当に腹立たしかったんだよね。歴史的経緯とか予備知識がないのは、それは誰の責任だよと。性的少数者のことでもさ、マジョリティは「知らないのが当たり前。教えられるのが当たり前」って思ってる人がいるけど、そんなん冗談じゃないよ!ちゃんと本読めよ!たくさん出てるよ!!知らないことを恥と思えよ!「分からないので教えて下さい」っていう気持ちで教えてもらえよ!もう、こういう「マジョリティの横暴さ」が嫌でさ。まぁ言われた在日の人たちの反応を責める気はなくて、本当によくやってるなと思うんだけど、こういうね、近隣住民の「横暴な」発言。さも「認めてやった」と言わんばかりの発言。わたしすごーく腹立った。

あと2箇所ほど気になるところがあった。それは金尚均さんのところで

金尚均も彼のパートナーも

って書いてあるのが2箇所ほどあるのよ(1箇所は39p、もう1箇所は63p。)。

これさぁ。ドキッとしたよ。「えっ、彼はゲイなの?」って。「パートナー」っていう言葉はわたし、どうしても「同性パートナー」に結びつけて考えてしまうところがある。そういうところに「ゲイダー」がピピピッと働く。まぁこんなのはゲイダーとは言わないかも知れないけどさ(笑)だけどね、続きを読むと彼には4人も子どもがいることが分かるの。ああ、なんだ、ノンケさんね。。(ふっ)みたいな(爆)

でもね、この本、他の人の夫婦関係のときに「パートナー」という言葉は使ってないのだ。しかも1箇所だけじゃなく2箇所ともなると、この金さんは取材を受けるときに「ここ、こういう風に書いて」って著者に注文付けたんじゃないだろうかって想像したりする。となると、金さんがこういうところの表現に気を配ってるってことは、例えばジェンダーの問題なんかにも気を配ってる人なんじゃないかと推測する。

それからねえ、1箇所、誤植を見つけた。

「朝鮮人が井戸に妻を入れた」(76p)

これさぁ、見つけたときに思わず不謹慎だったけど、笑っちゃいました。妻じゃないよね。これさぁ~、なんでこうなっちゃったんだろうね。字が似てるからかな?なんにせよ、次の版が印刷されるなら、改めておいた方がいいんじゃないかなと思います。

結局のところ、この事件に対しては裁判が行われ、一審では勝訴したものの、裁判所は「民族教育権」について全く触れなかったというところに、もうなんていうかね、国の機関の汚さを感じるというか(これを認めると後の「朝鮮学校無償化排除裁判」に不利になると予想される)この期に及んでまだ朝鮮人差別するのかって思って情けなかった。それに「ヘイトスピーチ」を犯罪とすると表現の自由と絡んでくるそうだ。もしそういう法律ができたとしても国に逆手にとられて「正統な批判」が犯罪になってしまう恐れがある、と。確かにそうだよね。でもだったらさ、ヘイトスピーチを犯罪にするんじゃなくて、わたしが前に書いたように「人種差別禁止法」の制定を目指すのはどうだろうかと思ったりする。もちろんこれでは性的少数者に対するヘイトスピーチは取り締まれないことになるけれど、でも、正直、わたしは今、一番問題なのは「外国人に対する差別」だと思っているから。もうずっとずっと100年くらい続いた(日韓併合が1910年だからね)朝鮮人に対する差別、もうこんなこと止めようよ。本当に切に切に願う。
18:23 | (一般)本のこと | トラックバック(0) | page top↑
トラックバック
この記事へのトラックバックURL
http://rontako.blog39.fc2.com/tb.php/1744-3219497f
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
| ホーム |
AX
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。