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02-11 Tue , 2014
矛盾すること
前に「歳を取ったってことなのかな」って題名で日記を書いた。つい1ヶ月ほど前だけど。

そこには「自分の感覚が広くなってきた」って書いたんだけど、具体的に感覚が広くなるとはどういうことか。思い付いたので書いておく。

ある事象Aに対して
「これに対する自分の意見は○○である」

と決めてきた(決められた)のが「自分のことがある程度分かってきた」ということの根拠だった。事象Aに対して、意見を求められればはっきりと自分の意見が言えると思っていた。そしてはっきりと言える自分は理性的だと思っていた。

そうやって、事象A、事象B、事象C、、と事象ごとに「自分の意見」を持ってきたが、最近、異なった事象に対しての「共通点」を探すようになった。そしてそれに対しての自分の態度に共通点と矛盾点がある、ということを感じるようになった。共通点はまだいいのだが、矛盾点はそれ自体、どう考えていったらいいのか、、矛盾は矛盾のままでいいではないか、という考えももちろんあるのだが、もし矛盾しているのなら、自分はどこでどう判断して共通する事象Aと事象Bに対して矛盾を許しているのかという「原因」が知りたいと思っていろいろ考えている。

なんて書くと難しげに見えるのだが、例えば、今はオリンピック(ソチ)の最中だ。ソチでの五輪は正直、ロシアの反同性愛法の関係で、見ること自体に抵抗感があるのだが、それとは別にわたしは最近あまりオリンピックには興味がない。こないだのロンドンのオリンピックもあまり見なかった。だけど、オリンピックが終わったあとに行なわれるパラリンピックは積極的に見た。オリンピックに比べて圧倒的に放送時間が少ないことに憤りも覚えた。オリンピックはあまり見なかったのに、パラリンピックは見た、というのは、そこに「自分にはあるとは思えない能力」が見られるからだった。例えば「ゴールボール」(鈴の入ったボールを投げてゴールに入れる競技)とか「盲人サッカー」とか。とにかく「自分の持ってないすごさ」が見たかった。

こう書くと「オリンピックでも人間のすごさが分かる競技があるよね」と思われるだろう。その通りだ。100mを如何に短く走れるか。金属の玉を如何に遠くまで投げられるか。人間はどのくらい重いものが持てるのか。実はわたしはこのような競技を見るのは好きだ。だけど、これらの競技って「日本人」はそんなに得意じゃない。オリンピックというのは日本人がメダルが取れると期待される競技を主に中継されている。なので、わたしが見たい番組と放送される番組の内容に乖離がある。なので、興味ないのであまり見ない、ということになってしまう。ゴールボールは日本チームが強いのもあって、それで放送された。まぁそういうことなのだ。

それとは話が変わって、最近、交響曲を作ったという人が実は指示書だけ書いて、別の人が作曲してたってことが分かった。その人はわたしと同じ被爆二世で、耳が聞こえない、という人みたいだ。NHKで以前、その人のドキュメンタリー番組が作られたということだが、実はわたしもその番組を見ていた。そこで初めてその人を知ったのかな?だけど、あまり感じることがなく、別にその人が作曲した音楽が聴きたいと思わなかったので、それはそれきりになっていた。そしてこの事件が発覚しても、わたしは「作られた曲に罪はないのに」と思っていた。別にあまり腹も立たなかった。それはテレビを見ただけで、具体的に自分がCDを買うなどお金を払ったわけじゃないからだろうなと思った。「騙された」と騒いでいる人に対しては「耳の聞こえない人が作った音楽っていうだけで寄ってたかって持ち上げときながら」と思った。「素晴らしい曲は誰が作っても素晴らしいんじゃないの?どうしてそこにその人の『属性(しかも不幸な)』のが入っちゃうの?それっておかしいんじゃない?」と。

ところが先に「パラリンピックが好きだ」と思っちゃう自分の気持ちと「耳の聞こえない人が作った音楽」に対して感動している人の気持ちって、もしかしたら共通点があるんじゃない?って思い始めた。確かにわたしはあからさまに「健常者より劣った障害者にこんな能力があるなんて」と思っているわけではないが、でも思っていることはそれにかなり近いことなのでは、と。

そう考えている自分は「障害者は差別されてはいけない」って思っておきながら、一方では「健常者より劣った障害者」とどこかで感じているんじゃないだろうか。こういうのが仏教で言う「偏見」なのかな。わたしは人間なのでどうしてもそういうことは克服できないと思う一方、やはり自分が偏見を持っているということは許せない。

ただ、ニセ作曲者さんに対して「騙された」ことから発せられる、個人を非難中傷する言葉だとか、他の障害者を貶めかねないような発言とか、そういうのは止めた方がいいのでは、と思うのだが、これもどこからどこまでが非難中傷で、どこからが個人的な怒りか、と線引きするのが難しいんだよね。特にこういうことでわたしが思ってしまいがちなのは「騙される方が悪い」だが、それはわたしがこの件に対しては騙されなかったから。

しかも、騙された方が悪い、は、実は非常に危険な論理だ。騙す、騙されは、騙した方が悪いに決まっている。騙した人がいなければ、騙される人もいないのだから。

まぁわたしは別に「普遍的な真理」を求めているわけじゃない。でもせめて「自分が納得できるような結論」は欲しいと思っている。けど、こういうのって考えても簡単に答えが見つかるわけじゃないんだよね。そうすると、前の日記に書いたように「物事がすごく曖昧でしか捕らえられないようになっ」てしまう。

それはとても気持ちが悪い状態だ。特にわたしは一旦「自分で結論を出した」と思っているのだから。自分に対する矛盾をどのように考えたらいいのか。一番簡単なのは矛盾している自分をそのまま受け入れることなんだろうが、それはいろいろ考えた末、どうしようもなかったらだと思っている。今すべきなのは、矛盾を受け入れる自分にするように努力するんじゃなく、どの時点で矛盾が生じたのかを分析し、そしてそれに対してどのように整理していくかだと思う。

まぁこういうことをすることに対しても「それが何か意味があるの?」と思ったりするけどね。「半年後にこの世にいないと分かっていたとしても、同じことをするのか」とかね。そう考えると「無常」を感じざるを得ないけどね、、
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