02-05 Wed , 2014
自殺/末井昭
本来なら、わたしはこういう類の本は読まない。
読むとウンザリするのが分かっているから。
本の根底に「自殺はしてはいけない」ってのがあって、それに沿って書かれてるから。
そしてその内容はどうせ「人生は素晴らしい。だからもうちょっと生きてみよう」ってものだから。

ここで自分の思ってることや、やってきたことなどを素直に書くと、自殺したいと思っている人の後押しをしちゃうような気がして怖いのだが(過去にかかってた心療内科の先生に注意されたことがある)、基本的に今のわたしは「死にたい」と思って生きている。これはうつという病気のせいだと思っているが、一方で、うつ病が治ったとしても(もうほとんど治ってると思うけどね。落ち込みは全くないし)希死念慮だけはこの先も消えないと思っている。

死にたい理由、ってのは特にない。ただもう生きるために息をするだけでしんどいのだ。まぁうつ病に3回かかってるうちに、この感覚が染みついちゃったわけだよね。こういう考えの人に「いいことがあるかも知れないからもうちょっと生きてみよう」って言ったとしても、自分にとっては息することさえしんどいんだから「もっとしんどい目に遭え、もっとしんどい思いをしろ」って言われてるのと同じなのね。絶望的な気分になる。だから自殺防止のサイトなんか見ようとは思わないし、人に相談しようとも思わないし、ましてや本なんて読もうとは思わない。

で、実際、何度か死のうとした。けどダメだった。怖くてダメだった。

でもね、この「怖い」というのはね、よく言われる「人間は本質的には生きていたいんだ」っていうのとは違うのよ。生きていきたくはない、けど死ぬのは怖い。死は怖くないけど、自分の手で自分を殺すのが怖い。何回か自殺しかけてね、でもやっぱり死ねなくて、最終的に「あ、わたしは自殺ができない人間なんだ」と悟った。それからは自分で死のうとは思ってない。やろうと思ってもできないことは十分分かったから。それより「なんか空からでっかいものが自分の上に落ちてこないかな~」とか「事故に遭わないかな~」とか「心筋梗塞になって急死しないかな~」と思って生きている。そういうことで今すぐ死ぬのは全然怖くないし、むしろそれを望んでいる。

ただ、今思っていることが生涯変わらないかというと、それは分からない。特に「自分の命が今すぐではなく、何年か後(または数ヶ月後)に死ぬことが確実」って分かってしまったときはどうなるか分からないと思っている。もしかしたら「死にたくない」って思うかも知れない。それはそのときが来なければ分からない。

随分話が逸れたね(笑)だから、わたしはこの手の本は読みたくない本だった。

それがなんで読もうかなと思ったかというと、実はよく分からない(笑)この本は多分、twitterで知ったのだと思うけど、いろいろな人のツイートを見て、なんとなく嘘くさい「自殺防止啓発本」じゃない気がしたのかな。本の帯に西原さんの言葉が書いてあるって知ったからかな。西原さんのは前に「この世でいちばん大事な『カネ』の話」って本を読んだことがあって、それは題名からしてもそうなんだけど(笑)、正直な話だったんだよね。あとどこかに書評とか載ってたのを読んだんだっけ。よく覚えてないけど。「ちょっと普通の本とは違うかな」って思えてきて、それで買ったのだった。

で、読んだのだが、わたしが一番最初に読みながらずっと気になってたのは「これ書いたのは一体どういう人なんだろう?」ってことだった。いや、この本を書いたのは末井昭という人で、この本の中にはこの人が生まれてからどういう風に生きてきたかが割と詳しく書いてある。でもその内容と文体がチグハグなのだ。文体は「です、ます」で書いてあって、その書き方からして書いている人の印象はとても気が弱くてオドオドしながら生きている、って感じに思える。でも中身に書いてあることは、結婚していても何人かの女の人と付き合ってて、パチンコと麻雀が大好きなギャンブラーで、バブルの時は先物取引などに手を出して借金を莫大に作って、っていう、とても「オドオドした人」とは思えないようなことをしている人なのだ。それにまだ意外な点は、こんな人がキリスト教を信じている、ということだった。

最初、この人をわたしは全然知らなかったし、ただ「キリスト教を信じている」ってことが先に書いてあったので「あ、だからこんなにオドオドした感じの人なのかなあ?」って思ったりした(笑)いや、わたしにはなんかキリスト教を信じている人って自分を卑下しているイメージがあるのよ。「神さま、どうぞわたしを憐れんでください」とか、聖書に出てくるじゃん。「わたしを憐れんでください」ってことは、自分は憐れみの対象か!って信じてないわたしはつい、そんな風に思ってしまうので。。それはキリスト教を信じている人への偏見だろうなって思うのだけど。

でさ、最初の4章くらいまで読んだとき、人となりはまだよく分からないけど、書いてあることで思想的に自分と似ている人だと思ったので、まず「多分この本は最後まで読めるな」って思った(最近、思想的に合わない本が増えてきてつらい)。特に4章の「世間サマ」の話の中で「殺人事件の犯人が裁判で無期懲役の判決を受けたとき、その被害者の家族がテレビのインタビューで『残念です。極刑にして欲しかった』と言っているのを見てゾッとしますが、被害者の家族の心情よりも、被害者の家族の発言をさも正義のように放送するテレビ局と、それを見て被害者の家族と同じ気持ちになって『殺せ!』と思っている世間サマにゾッとするわけです。」云々のところは、本当にそうだと思ったのよね。

わたし前に死刑に関する本を読みまくったとき、自分の中で出した結論は「今のところ、死刑制度に賛成」だったわけだけども(っていうか、この結論に対する日記ってわたし書いてなかったのね。今見たら「自分なりの結論が出ました」って書いてるだけだった。あのときはそう書きたくなかったんだな、きっと(笑))あの時点で自分がそう結論を出した理由はただ一つ、「人を殺したんなら、やっぱり自分は殺されるべきなんじゃない?」(人の人権を侵害した人は、自分の人権も侵害されても構わないんじゃないか)ということからだった。要するに「目には目を」ってヤツだけれど、でもそう自分で結論を出したとしても「でも冤罪だったらどうするか」とか「死刑になった人を殺さなければならないのもまた人じゃないのか」ってことが頭の中をぐるぐるして、結局スパっと「これが結論です」って出せた結論じゃない。だからわたしも「殺せ!」と脊髄反射している世間サマに対しては非常に違和感がある。

あとその後引用されたひろさちや、という人の本は、わたしも読んでみたいって思った。この本全般に対して言えるんだけど、所々にわたしにとって、非常に興味深い本が紹介されてるのよ。「イエスの方舟」の千石さんの本なんて、紹介されたの全部読んでみたいと思ったし、近くの図書館に所蔵されているかを早速確認しちゃった。全部あったんで、今度読んでみようと思っている。わたしは一つの本から次の読みたい本を探すのに、こういう「参考文献」を利用することがよくある。そうすると世界が広がるんだよね。もともと興味ある本を読んでるんだから、そういう方向にどんどん広がる。しかも自分で探す手間がない。こういうのは本当に有難いと思う。

で、肝心の「自殺」に対してなんだけど、わたしは「うつと自殺」についての章がとっても気になってたの、4章まで読んだ時点では。この人、うつ病によって自殺しようとしてる人に対してはどういう風に書くのかなって。でもね~、この人もうつ病って診断されたことがあるらしいけど、死にたいって思ったことないらしいんだよね(それは初めの方にも書いてあるけど)。上に書いたけど、わたしの死にたい理由は、息するだけでしんどい、とか、この世に自分が存在することが許し難い、とかいうもので、そういうのを納得させるような言葉はないように感じたの。まぁ自分で言うのもなんだけど、こういうのは病気なんだよね。理由なく死にたいのは病気だ。だからまず、その病気を治さないといけない。多分、それくらいしか言いようがないと思うんだよね~。

ちなみにこんなところで紹介するのはなんだけど、以前(一昨年だったかな?)朝日新聞か毎日新聞で片岡鶴太郎のインタビューがあってね、そこに書かれたことがとてもわたしにとって「ああ、そうだな~」って思われたので、その記事を切り取って壁に貼っておいたの。普段は格言とか名言とか言われているものはとても安っぽく感じられて、わたしは大嫌いなのだけれど、その言葉は彼の実感したことだからか、すんなりと入ってきた。インタビューの中の一部がこれ。

-30代でボクシング、40代で絵画を始めるなど迷いなく全力疾走していますね。

(片岡さん)いえいえ、私だって、50歳を目前に八方塞がりの閉塞感にさいなまれたことがありました。きっかけなど、なかった。男の更年期ってヤツですかね。「どーせ俺なんか、ダメなんだ」と独り言を繰り返したり、「バカヤロー。おい、辛気くさい顔すんなよ。笑え、笑えっ!」と自分に対して呪文のようにつぶやいたり。
 いえね、仕事をしている時はいいんです。他人の人生を演じていられるから。自分自身でいることがこの上もなく大変な時期でした。
 あの時ばかりは、絵を描いても気持ちは晴れなかった。むしろ書き終わった時の孤独が身にしみる。ええい、こうなったら体を動かそうと、ジム通いを再開しました。動いて汗流して、ようがくたどりついた結論が、「自分の言葉で自分を傷つけるのはやめよう」でした。初めて知りました。他人の言葉でなくても、「自分なんてダメだ」と繰り返せば人は傷つくんです。


うつ病で動けなくなったとき、多くの人は自分を責めてしまうと思う。「なんで気力が湧かないんだ」とか「自分の努力が足りないのではないか」とか「自分は甘えているのではないか」とか。それで自分で自分を傷つけて、結局死にたくなる。わたしが自分のことを「この世に存在することすら許せない」と思うのは、まさにこれだと思った。ああ、自分は今まで散々自分のことを傷つけてきたのだなあと思ったら、なんか涙が出て来た。それは「世間サマ」に「お前は甘えている」と言われるのよりもっとつらいのだ。「世間サマ」だったら自分がそれを気にしなければいい。他人は無視しやすい。でも自分自身の「お前は甘えている」という言葉を無視することは難しい。自分の言葉で自分を傷つけていると自覚していないと無理だと思う。だって何に自分が傷ついているのか、自分が傷ついていることすら分からないのだもの。

わたし自身は「自分がこの世に存在することすら許せない」という考えをもう自分の中から取り除くことは不可能だと思っているので、そう思いながら生きていこうと思っているけど、それでも「なんで身体が動かないのだ」とか「気力が湧かないのだ」とか「甘えてるんじゃないか」という直接的に自分を責める言葉を自分に浴びせるのは止めたら、随分精神的に安定してきたように思う。

なんかまた話がだいぶずれたね(笑)

まぁ結局さ、この本は自殺についていろいろ書かれてて、確かに樹海の話とかは面白かった。「人間に精神など存在しない。あるのは脳内の化学変化だけ」ってのは読んでて「おお、そうだよな」と思ったし。けどこの本の結末もやっぱり「自殺は否定しないけど、できるならもうちょっと生きてみよう。そうすればきっといいことがあるよ」という感じだったので、まぁ「お前もか」みたいなね。

ただ、わたしがこの本は面白かった、と思うのは、初めにも書いたとおり、「この人ってどんな人なの?」ってことなのだ。4章以降はこの人がやってきたことがつらつらと書いてある。一見、気弱そうな文章だけれど、やってきたことは全然気弱じゃない。気弱だと周りに流されていく感じがするけど、そして確かにずるずると別れられないまま何人もの女性と付き合ったりするところとか、先物取引でずるずるお金を注ぎ込んじゃうところなんかは「決断力がないのかな?」って思わないところもないけれど、でも一方で、エロ雑誌作ってるときに毎月警察から呼び出しがあっても「お役目ご苦労さん」という気持ちで通ってたとか、ある程度社会的に成功しているところを見ると、気弱じゃこんなことできないとも思うんだよね。だって会社を大きくすることって決断の固まりだと思うから。本人は別に「会社を大きくしようとは思ってなかった」と言うに違いないのだけれど。本には「会社には会議に出ることと書類にハンコ押すのが唯一の仕事」みたいに書いてあるけど、きっとそんなんじゃなかったと思うよ。なんでもかんでもホイホイ判子押してたら会社なんて大きくならないと思うし。女の人にはまったときも、麻雀やパチンコにはまったときも、会社なんて二の次、みたいな書き方してあるけど、実際は仕事もしてたと思う(本人は仕事はしてないって思っているかも知れないが)。だから、この本ではこういう書き方をしてあるけど、本当はもっと違う感じの人、例えば男ジェンダーバリバリの人なんじゃないだろうかと思ったりしてる(やってることは男ジェンダーバリバリだし)。本にもチラッと「キレてものを投げつけたりする」って書いてあったり(ただこういう感情は怖いとも書いてあったけど)、「おまえらバカか!」と心の中で思ったりしたことがある(ただし口に出しては言えない)と書いてあったりするので、文章から印象づけられる「気弱さ」とは違う面もあると思うんだよね。

この人は今まで何冊か本を出してるみたいなんだけど、全部こんな口調で書いてあるのかが今、とても気になって仕方がない(笑)もし違うとすれば「ああ、やっぱりね」って思うし、逆に全部こんな口調だったら「なぜ?」って思っちゃう。「そういう風に見せることによって、何かがあるのか?」とかね。うーん、わたしは普段はあんまり文章からする人となりってのは疑問を抱かない。例えば上に出てきた死刑制度について、森達也と藤井誠二が書いた本をたくさん読んだけれど「この本を書いたこの人ってどんな人だろう?」とは思わなかった。それは今考えると「言文一致」というの?イメージ的に書いてる文章と性格が一致しているように思えたからだ。でも、この人は違う。読んでてすごく違和感がある。それは計算されたものなのか、そうじゃないのか、、どうなんだろう?

あとは宗教ね。この本の「観光気分で被災地巡礼」の章は、わたしはとてもじーんと来た。そこには旧約聖書の「ヨブ記」の話が書いてあって、そこに書いてあるヨブの3人の友人と、被災地を取材に来て「こういう災害が起きたのに神はいると思ってるんですか」と聞いた取材陣が同じだっていうの。もう何度も書いてるけど、わたしには神も仏もいない。けど「神がいる」ってことはこういうことなんだなあと。「宗教を信じるとはどういうことか」ってことをわたしはここ数ヵ月間考えてて、やっと分かったのは「宗教は頭で信じるものじゃないんだ」ってことだった。信じると信じないというのは、連続的なものじゃない。コンピュータの0と1のように不連続なものじゃないか、というのが、わたしの今のところ出した結論だ。だから人にいくら「これこれこうで、こういうことがあって信じるようになりました」というのを説明されても(実際「神を信じるようになった理由」などで検索を掛けると、キリスト教の洗礼を受けた人の言葉がたくさん出てくる)、どこかで飛躍しているように感じられてしまう。以前読んだ「イエスはなぜわがままなのか」という本の中に、著者が「何かを信じると言うことは、一目惚れするようなものだ」と書いていたけど、多分そういうことなんだろう。だからいくら「これがきっかけでわたしは神の存在を信じるようになりました」と言われても、信じてないわたしには理解できないだろうと思う。

でね、この本を読んでるうちに、わたしは自殺の話じゃなくて、この人がどうやってキリスト教と出会って、そして信じるようになったんだろうって、それが気になり始めて仕方なかった(笑)目次を読むと後ろの方に「聖書との出会い」という章があるのを発見してね。もう、早くそこが来ないかなって、そればっかり思いながら読んでた(笑)で、読んだら「うう、これだけじゃ足りない」って思った(笑)この人の書く、キリスト教への思いがもっと知りたいって思った。なぜなんだろうね。多分、今、わたしがもっとも興味があるのはそれだからかな。最近の日記はなんか宗教に絡んだことばかり書いてるけど、まったく予想してなかったが、この本はとてもそういう点でも「興味深い」本だったんだよね~。この後、この人は洗礼を受けるまでに至ったのかとか、そこにはどういう思いがあったのかとか、そういうことがとても知りたい(笑)

というわけで、長々と書いたわけだけど、正直、自殺についてはあんまり感じるところがなくて、だけどそれ以外のところですっごく面白かったし、興味深かった。著者の目的とはずれちゃったかも知れないけど、わたしはこれはこれでとても楽しめた本だった。
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