12-05 Sun , 2010
マジョリティーであること
なかなか自分の中ではまとまってはいないのだけれど、取り敢えず記録として残しておく。

わたしは今まで同性愛者である、ということで、マイノリティーとしての自分に向き合ってきた。同性愛者であると言うことはどういうことであるか、同性愛者として生きると言うことはどういうことであるか、性的少数者関係の本を読み、感じることをブログに書き連ねてきた。

ところがあるときから、わたしは自分のマジョリティー性について考えるようになった。マイノリティーだったときと同じようにマジョリティーとはどういうことであるかを考えようとしたが、雲を掴むような話でとっかかりもなにもなく、まずはどこから何を考えていいのかすらよく分からなかった。

マイノリティーであることは簡単だ。人と違う自分、について考えることはさして難しいことじゃない。人と同じ自分について考える方がずっと難しいのだ。それは人と同じ自分には、一見、なんの問題もないように思えるから。でも果たしてそのままでいいのだろうか、とずっと思っていた。

一方、マジョリティーである異性愛者に望む部分も確かにある。存在を否定しないだけの異性愛者でももちろんいいのだが、それ以上に性的少数者を理解してくれ、擁護してくれる異性愛者の存在は性的少数者にとっては心強い味方だ。しかし、性的少数者について深く考えている自分にとっては、生半可な理解をしている異性愛者はどうしても却って毒をまき散らしているようにしか思えなかった。

例えば「愛の形はいろいろあるから同性愛もあっていい」と言われると、むかつく。わたし自身は異性愛も同性愛も同じ次元のものだと思っている。愛の形が違う、というのは確かにあると思うが、それは例えば同居するとか別居するだとか、モノガミーの関係か、とかポリアモリーの関係かとか、結婚するだとか事実婚であるとか、そういうことなのだ。「愛の形にはいろいろある」と言われると「異性愛はデフォルトの愛で、同性愛は特別な愛の形」と言われているような気がして、気に入らない。

同性愛を「困難な道を敢えて選んでいる純粋な愛」と褒め称えられることや、「愛は性別を選ばない」と言われることにも違和感がある。わたしは別に困難な道が好きだから同性愛者なわけじゃないし、同性愛が純粋じゃないことだって異性愛と同じようにたくさんある。それに恋愛するときはわざわざ「同性」を選んでいるから同性愛者なのであって、好きになった人がたまたま同性なわけじゃない。

異性愛者に「みんなもっとカミングアウトすればいいのに」と言われると、これまた非常に気に入らない。一体、カミングアウトしにくくしている世界を作っているのは誰なのか、と思う。性的少数者にカミングアウトを強要するのなら、自分たちがカミングアウトしやすい世の中を作れよ、カミングアウト出来ないのは性的少数者のせいじゃなく、異性愛者のせいだろ、と言いたくなる。

このような、一見理解者のように見えても(って理解者なんだろうけれどさ)勉強不足で考え足らずな異性愛者の発言にとてもイライラさせられる自分がいるのだ。マジョリティーはマジョリティーと言うだけでマイノリティーに比べると多大な権力を持っている。多大な権力を感じさせる。だからこそ異性愛者の味方はとても心強く感じるわけだし、性的少数者について勉強した異性愛者がどんどん増えてくれたらいいなと思っている。

裏返しに自分がマジョリティーの方だったらと考えてみると、逆に迂闊なことは言えないな、と思うのだ。自分は味方しているつもりでも、相手を傷つけてしまう可能性がある。そこにマジョリティーであることの難しさ、みたいなのをわたしはずっと感じてきた。ただマジョリティーであることですらどこから考えていいのか分からないのに、それに輪を掛けて難しさを感じさせる。一体自分はどこから考えていいのか、途方に暮れた。途方に暮れて「これは多分考えても答えが出ないものなのだ」といつしか考えるようになっていた。

しかし昨日、マジョリティーである自分をガンガンに責められたとき、いや、それは本当は責められたわけじゃないと思う、けど、今までわたしはマジョリティーであるということに居心地の悪さを感じたことがなかったけれど、それが初めて「居心地の悪さ」を感じさせられたとき、何かが分かったような気がした。そう、マジョリティーであることを考えるのではなくって、マジョリティーとしてどんなことができるかを考えるべきだってね。

それが分かったとき、道が開けたような気がした。

自分がマイノリティーであると言うことは、実は自分の一部分にしか過ぎなくて、それよりマジョリティーである自分の方が大部分を占めている。シスジェンダーである自分、健常者である自分、日本に住んでいる日本人である自分、東京に住んでいる自分、、考えるとマジョリティーである自分の方がたくさんある。もしかしたら、マイノリティーである自分を考えるよりマジョリティーである自分を考える方が重要なのではないか?なんて思い始めた。

とはいえども、あらゆるマイノリティーについて、マジョリティーである自分が何か出来るかを考えることはまず不可能だ。それに申し訳ないけれど、どうしてもわたしには興味のない分野もある。もちろん、興味がないからといってわたしはそのマイノリティーの存在を否定するわけじゃない。最低限、そういう人たちが存在する、くらいは知っておきたいとは思う。

そんなわけで、わたしはわたしの「やろう」と思う部分でしかできないけれど、やりたい、と思う部分で自分がどんなことができるのかを今後は考えてみようと、ゆっくりでいいから勉強していきたい、と思ったのだ。
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