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04-05 Mon , 2010
結婚をめぐる考察
つい最近だけど、わたしの友人が教えてくれたYou Tube。



2008年に可決されてしまったカリフォルニア州の「Prop8」(同性婚禁止提案)に反対しているジョージ・タケイとそのパートナーのYou Tubeなんだけど、日本語字幕が付いてるのでわたしも見ることができた(笑)彼らは2008年の一時期、同性婚が認められていた時期に結婚しているわけだけど、また再び、同性婚が成立することを目的にしてこうやって活動している人たちで。そういう姿勢には本当に頭が下がる思いだ。

このYou Tubeの動画で、彼らの本当に幸せそうな姿を見て「羨ましい」という思いがまた吹き上がってきたわたし。一体わたしは彼らの何が「羨ましい」と感じるのか。結婚しているから「羨ましい」と思うのだろうか。

「結婚する」と言ってもいろいろある。結婚式がしたいのか、披露宴がしたいのか。婚姻届を役場に提出(日本の場合)したいのか。動画の中で彼らは「結婚は人生をもっと特別なものにする」って言ってたけど、特別なものにするってどういうことなのか。それは結婚してみなければ分からないものなのだろうか。

もちろん、彼らに直接聞けるわけではないので、彼らにとっての「特別」が本当に何を意味するのかは分からない。動画ではその「特別」について明確に触れているわけではないし、全体的に見ればこの動画は「同性婚を認めさせるため」のものであるからだ。

ただ、わたし自身ーこれは、自分自身の問いかけであって世の中がこうなればいいという希望ではないー「じゃあ、わたしは何をすれば納得するの?」というのが今のわたしにとって、とても興味深い。日本でも今、あちらこちらで「同性婚について」の動きを聞く。ネット署名なんかもやってる。もう少し前の自分なら喜んで署名したり、何らかの活動をしたりしただろう。けど、今はわたし、そんなんじゃないんだよね。でもそれはなんでなのか、自分でも分からないまま、うやむやで何もしていない。それってどうなの?という思い。それでも「結婚」と聞くととても羨ましい。結局、わたしってどう考えているのだろう、おそらくそれを整理したくて、この文章を書いてみることにする。

「どこかの教会で2人だけの結婚式を挙げる」
これはやらない。なぜなら、わたしには誓うべき「神」というものを持っていないから。だから教会はわたしにとって必要なものではない。上の画像の最後の方に出てくる仏式での結婚式に三三九度やお焼香を挙げるシーンが出て来て「えっ、これが仏式の結婚式なの?」とすごく仰天した。三三九度は神道じゃなかったっけ、とか、お焼香って葬式のときだけじゃないんだっけ、とか。でも仏式の結婚式を見たことがないわたしはこれに対しては何も言えることはないし、もしこういう形式の結婚式だったとして、それをやりたいかというと、全然やりたくない。「何かに誓う」というのは神や仏じゃなく、相手に誓うものだと思っているから。ということで、こういう「結婚」はわたしはしたくない。

「披露宴をする」
これは「わたしたちはこれから共に過ごします」ということを集まってくれた人たちに報告するようなものだと思ってるんだけど、わたし、こういう「見せ物」みたいなものは嫌いなのだ。もちろん、見せ物にならないようにする、ということもできなくはないと思うが、人を呼んで宣言したいかというと、したくない。なぜかというと、既にわたしたちの関係を知ってる人は知ってるんだし、その中で特別に集まってもらう必要性を感じないということと、やっぱり「見せ物になりたくない」というのが一番かな。わたしゃ、見せ物じゃないんだよ、シッシッ、って感じ。

「婚姻届を役場に提出する」
ま、これを今、本当にやっても受理されないと思う。が、もし、今「今日から同性愛者も結婚できるようになりました」と言われたとき、婚姻届を提出するか?というと、実は「提出しない」と思う。

なぜか。

答えは簡単で、名字を変えたくないから。「なんだ、そんな理由で結婚しないのか。結婚するより名字を変えない方がお前にとって重要なのか」と言われると「そうです」と答えるだろう。わたしは死んでも名字を変えたくない。これは結婚していろんな権利をもらえるよりもわたしにとっては価値があることなのだ。

ではなぜ、わたしがここまで自分の名字にこだわっているかというと、名字を変える必然性を感じないからだ。よく「夫婦別姓反対」の理由に「家族の一体感を損なうから」というのがある。わたしたちはもう5年一緒に住んでてお互い「家族」だと思っている。で、この間、名字が違うことが理由で彼女と家族じゃないなあと思ったことはただのいっぺんもない。わたしにはそういう「経験」があるのだ。だから、結婚によって名字を変える「意義」を感じない。「あんたらのところは子どもがいないからその程度しか感じないんだろう」という「反対派」に対しては「だったら、子どもがいる家庭だけが家族なのか」と問い返したい。ノンケ夫婦でも子どもがいない家庭はたくさんある。彼らは「家族」ではないというのだろうか。

今の日本は結婚していないノンケカップルは「将来的に結婚する」と考えられているので「準婚」の状態であり、財産権は付与されないが、その他は結婚している夫婦と同じ権利が得られている。だから今、この時点で日本で同性婚ができるようになった場合、同性愛者カップルも「準婚」状態に格上げ(この言い方引っかかるけどね)されるのではないのかとわたしは思っている。とすれば、名字を変えずに済み、ある一定の権利を得られる状態、実はこの状態が一番自分が望んでいるのではないかと思っているのだ。だからやっぱり日本も同性婚制度を検討する方向に、というのが論理的な行動なのだが、、なんとなく気が進まないのは、やっぱりこのままでは「夫婦同姓」だからだろうと思う。

ま、順番は「同性婚」→「夫婦別姓」でも「夫婦別姓」→「同性婚」でも、結果は同じなんだけどね。

この2つが揃ったときは、わたしは彼女と婚姻届を出すと思う(彼女の方はどう考えるかはこの際無視している)。

「養子縁組する」
これは同性愛者カップルにはよく執られる手段だよね。でももう既に分かるように、わたしは名字を変えたくない。従って養子縁組はしたくない。それに法律上の関係が彼女と親子になってしまう。彼女はパートナーであり、親じゃない。もちろん、法律上の関係なんかクソ喰らえ、って人もいると思うが、わたしはそこに拘る。それから今のままの法律だと、一旦、親子の養子縁組をしたら、それを解除しても過去に親子だったと言うことが残るため、婚姻できなくなる、という理由もある。やはり結婚できる「可能性」は残しておきたい。

「同性婚できる国に行って結婚する」
実はこれ、やりたい。けど、その意味を考えるとわたしは一体、何を求めているのかさっぱり分からなくなってくる。今現在、外国人同士の結婚を認めてくれ、更に同性婚できる国と言えば、真っ先に思い浮かぶのはカナダだが、カナダに行って結婚証明書をもらう、という行為はカナダという国から「お墨付き」をもらうということに過ぎない。そしてそれはもちろん、日本に住むわたしたちにとって、日本での効力はない。それじゃ、なんの意味もないじゃん、そう思う。効力がないのにしたいとはどういうこと?わたしはどこの国でもいいから国に二人の関係を認めてもらいたいというのか。国に認められるということが何か特別なことなのか。そう考えると分からなくなる。

でも、名字を変えずに結婚できる、という今のわたしの願いを叶える行為は実はこれなんだよね。

ということはあれか。今まで散々「結婚によりもらえる権利が羨ましい」と思っていたが、わたしは結婚によりもらえる権利は別になくても構わないと言うことか。

しかしそうだとすれば、わたしが望んでると思っていた「異性愛者と同じ権利を」というのが根底から崩れ去ることになる。そして「どこでもいいからどこかの国のお墨付きをもらいたい」だけだ、ということが分かる。

なんだ、わたしにとって「結婚」とはただ、それだけのことだったのか?

いや、そうじゃない、そんなくだらない理由でわたしは結婚したいんじゃない。「どこの国でもいいから認めて欲しい」なんて、そんな軟弱なヤツだったのか、お前は。

自分の行動がすべて「崇高なものである」必要性がどこにあるというのだ?すべて一貫した論理で行動する必要性がどこにあるのか?やりたいものはやりたい、くだらなくてもやりたい、そういう自分を認めろよ。

・・・・・・・
17:21 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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