02-08 Mon , 2010
「A2」/森達也監督
図書館でDVDを借りて観た。

初めて観たときは泣けた。オウムを監視している住民がいつしかともなく信者と心が通うようになり、その信者たちがその地を離れていくときの住民の言葉に。

ここの地域でのオウム監視活動は2つあり、一つは行政を含んだプレハブ小屋、もう一つはボランティアのテント小屋だった。オウム信者と仲良くなったのはボランティアの方で、この映画に映し出されているのは既に仲良くなったあとだった。そして、撮影中にこのテント小屋は解体されることになる。ボランティア住民に「手伝え」と言われ、テント小屋の解体を手伝うオウム信者たち。「なんでこんなになっちゃったんですかね?」と言いながら。。

そして、解体後に余興(?)、とでも言うのか、ボランティア住民に対して塩水を多量に飲んで吐く、という、おそらく「修行」の一つなのだろう行為を行なう信者。ボランティア住民から「実演料」だの飲んだ塩水に使う塩を「オウムの塩」として売り出したらどうだ、だの(本当は近所のセブンイレブンで買ってきたものらしいが(笑))という声が飛ぶ。

テント小屋解体後も彼ら、住民は毎日信者のところにやってくる。「もう守る会になっちゃったよ」と彼らの一人は言う。しかし彼らはなぜ、自分たちがこのような状態になってしまったのかが分からない。「情が移った」とは言うけれど、ボランティアが結成されたときの「オウム憎し」の激しい感情がなぜ「守る会」になってしまったのか。あるものは「不思議だ」と言い、あるものは「被害者の人々の反発を喰らうかも知れないが」と前置きした上で「混乱している、自分自身が分からない」と言う。

最後の信者が施設を去るとき(と言ってもここにいたのは2人だけだったが)「みんな健康で一生懸命修行して欲しい」とある住民が言う。「こんな中でも一つの道をピーッと進んでいくことはたいしたもんだ」と言う。みな、口々に名残を惜しみ、別れるのが辛そうだった。

森監督がこの作品の題名を「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」という副題を付けようとした、というのを撮影日誌「A2」(だったかな?違う本かも知れない)で読んだんだけど、そのフレーズはまさにこういうところから来ているのだろうな、と思いながら泣いた。

それがこの映画の第一印象だった。

しかし、、実はわたし1回目だけではこの映画の構成を全然理解してなかったんだよね(苦笑)

この映画、最初と最後は2000年10月で、中身はその1年前、1999年9月からだったんだよね。この期間はちょうど日本中が「オウム憎し」で地方自治体がオウム信者の住民票の登録を拒否したり、オウム施設の周辺住民が「オウム出て行け」と声高に叫んでいる頃だった。その間、オウムは教団の活動停止、上祐幹部出所、教団名アレフに変更、そして団体規制法(オウム新法)の適用、という流れであり、始まりは2000年10月に「結局1年前のあれはなんだったのか」ということから始まるのだ。

でもわたしはその流れが最初観たときは全く掴めておらず、最初のシーンと最後のシーンが同じ場所、ということさえも全然理解していなかった(苦笑)つくづく映画じゃなくてDVDでよかった、と思った(笑)

しかし、テレビで観ると、実はうまく声が聴き取れないところが何ヶ所かあって、なんてのかな、多分、カメラとマイクが一緒になってる機械で撮影したんだと思うんだけど、それだとすごく聞きにくいところがあるんだよね。被写体が遠くでなおかつ早口だとホント、何言ってるのか分からない。映画館では大音量で流すだろうから問題はないだろうけど、家だと聞こえないレベルで音量を合わせると、普通の会話が大音量になりすぎるわけ。仕方ないから2回目3回目はテレビにイヤホンを付けて、大音量で聞いた。

そうするとね、中でわけ分からなかった右翼とオウム信者が話し合うシーン、あそこが理解できた(笑)なんかさ、あそこはオウムの人がカメラが入るのを嫌がったんだよね。そこは確か撮影日誌「A2」にも書いてあって、それが結局どうなったんだっけ、とわたしは思い出せなかったんだけど、ああ、結局会ってるところを撮影できたんだな、って。

いや、もうさ。最初は人の名前なんかどーでもいいんだ、と思ってたんだけど、この映画、やっぱり人の名前が分からないとわけ分からないんだよ(笑)でね、声に頼ると何回か観ないとわたしみたいに理解力と記憶力がない人はわけ分からないの。だけどね、実はこのDVD、英語字幕付きなんだよね。英語の字幕にすると名前が文字で見えるので(あと、映画中の日本語の説明文を英語の字幕にすると、説明文には書いていない人の名前とか、そういう情報が得られた)理解しやすくなるの。

多分、ここまでしなくても分かる人には分かる映画なんだろうと思うけど、わたしは分からなかった(苦笑)

で、2回3回観るうちに、この映画は単なる住民とオウム信者が仲良くなった、だけどそんなのは一切マスコミは報道しなかった、だけの映画じゃないって分かる(てか、1回しか観なくてもそれは分かったけども。ただ、わたしは上のような理由で何回か観ないとピンと来ないところはあった)。

まずこの映画で3人の信者に一連の事件('95年の地下鉄サリン事件を含む)についてどう思っているか、を聞くシーンがある。一人目には「あのとき('95年の地下鉄サリン事件)に教祖からこの袋を地下鉄の中で傘で突いて破いてこい、と言われたらあなたはどうしますか」、二人目には「この状況になったのはすべて教祖の意の元にあるとあなたは考えているんじゃないですか」、三人目には「あなたの中ではこの一連の事件について、もう決着がついているでしょう」と聞く。

これをそれぞれの信者に答えさせている。もちろん、信者にとってもとても答えにくい質問だ。現に「意地悪な質問ですね」と一人の信者が答えている。なかなか「どうやって言ったら誤解のない答えができるか」を考えている信者の人たちに対して「僕が代わりに答えましょう」とか「僕は答えが分かるので言いましょう」という「手段」を監督は使う。まー、答えにくいからだと思うけど、似たような手法を使うのは一つの映画につき1回にしてくれ、と思ってしまうのだが。。(笑)仕方がないのかな。端的に聞くのはとても分かりやすくていいのだが、何回も同じようなパターンを使うのには「うーん、ちょっと」とは思った。あとは人によって使い分けてるよね。答えてくれそうな人、この質問をぶつけても大丈夫そうな人には結構ばしっと言うんだけど、そうでなさそうな人にはそういう「困る」質問はしない、わたしは観ててそう思ったな。ま、それも手段なんだろうけどね。そうでなければ面白い映画なんか作れないもんね。

でも、もし世間で言われているような「洗脳」されている信者だったら、答えることにこんなに躊躇しないと思うのね。彼らは世間の人に誤解を受ける言葉はどれかをちゃんと知っている。ちゃんと知っているからこそ誤解を受けるような言葉は言わない、いや言いにくいと思う。それはある意味「ちゃんとした言葉」に対しても歪曲して誤解されるように報道され続けてきた彼らにとってはもうこれ以上誤解されたくないと思うだろうし、あとはどうしても言葉では言い表わせないことがあるのと、彼らが使う言葉とわたしらが使う言葉の意味するところが違う、そういうことを無理に言葉にするとおかしくなる、ということが分かっているのだと思う。だから彼らは彼らの答えを言ったあと(言わされたあと)「(こんなこと言って)まずかったですかねえ」と一言言わずにはおれないのだと思う。だから消毒の噴霧器(よく美容院か何かで水が入ってるような小さい噴霧器)を手にして「マスコミが来てこれを噴霧したらヤバイですかねえ」などという冗談も出てくる(笑)彼らは自分たちが世間からどう言う目で見られているかをよく知っている。

そういう意味ではなんというのだろう、出家した信者はよく「現世」「現世」と言っているのだが、結局彼らも現世と繋がりを切れないんじゃないだろうか、と思ったのね。少なくとも「世間で起こっていることをまるで知らない」という「現世から離れた信者」など(映画で撮影された範囲でしかないが)どこにもいない。中で一人が「(バッシングや受け入れ拒否があるため)現世とはどんどん離れていく」とは言っていたが。

いや、わたし観てて「この人たち、本当に現世と繋がりを断ちたいって思ってるんだろうか」って思うシーンがいくつも出て来てるのよ。キティーちゃんに執着してる信者とか、修行している途中で携帯が鳴って、それにためらいもなく出る、とかさ。「あれ、いいの?」って思う場面、結構出てくるんだよね。

確かに彼らは周辺住民から監視されたり、マスコミから取材を受けたりして、ますます「現世」との繋がりを絶てないだろうなあと思う場面もある。そしてそういうことになった「原点」は、やはり松本サリン事件や弁護士殺人事件、地下鉄サリン事件などの一連の事件を起こしたからだろうが、それは信者にとって「教祖の意志だった」と捉えていることも分かる。「こういう状況でどうやって修行していくか」ということは当然彼ら、出家信者は考えているだろう。けれどその反面、携帯電話を持っている信者やキティーちゃんに執着してる信者、カレンダーの模型に執着している信者ってどうなの?って思うんだよね。彼らは本当に「現世」で生きたくないのだろうか?と思ってしまうんだよね。

ただ、いくら「出家集団」と言えども、この世に一緒に住んでいることは確かで、みんな森の中で自給自足で暮らしているわけじゃないから、どうしても世間との関わりを保たなければいけない「信者」もいなければいけない、ということになる。みんながみんな浮世離れしていたら、とても宗教集団として存続してはいけないだろう。そこをどう捉えるのか、どう考えればいいのか、わたしはとても気になった部分だ。

それからこの映画には「松本サリン事件」の被害者である河野さんに対して「教団に謝罪する」場面がある。ここはとてもあのときの「教団の体質の甘さ」を浮き彫りにしていて、しかし上に書いたようにその「甘さ」というのは実は「浮世離れ」しているからではないか、とも思わせて、わたしはそれがいいのか悪いのかは分からないのだけれど、とにかく彼ら(教団側)はとても甘い。河野さんがどうしてこのようなことをセッティングしたのか、それすら分からないようだった。最初は穏和な顔をしている河野さんも、教団幹部が実は何も考えていない、ということが段々分かってきて次第に顔つきが険しくなっていく。教団幹部は河野さんの意志に甘え、教団側に理解を示してくれると言うことで、同意したり笑ったりする。「ダメだ、そこはそうじゃないだろ、何言ってんだ」とわたしも何度も思うシーンだ。途中で河野さんは「(今日は)もうなくていい」と言うのだが、結局、離れで謝罪文を考えさせ、わたしならとっくに切れて追い出してるよと思うのだが、河野さんはかなり懐の広い人だと感じた。

もちろん、わたしも河野さんとは直接知り合いじゃないから、マスコミを通じたことしか知らないが、奥さんがサリンにやられてずっと意識不明の末亡くなられ、そして河野さん自身は第一発見者と言うことで一時は犯人扱いされ、そういうことがあって、マスコミや警察に対してはものすごく不信感があると思うのだけれど、だけど、そうであってもまだなおかつマスコミを利用してオウムの信者が暮らしやすいように考えてあげる、というのは、本当に人間できてないとできないことだ。一体、この人の強さと優しさはどこから来ているんだろう、と思う。彼が一番危惧をしているのは「日本では一旦ターゲットになるとあることないこと報道するマスコミ」であり「報道したことはそのまま鵜呑みにして信じてしまう日本人(もしかしたら日本に住んでる外国人もそうかも知れないが)」であり、それはかつては自分で、今はオウム、それが未来には誰もがターゲットになり得る、ということなんだと思う。

それと対をなすのは「集団ヒステリー」と化した周辺住民だ。

「出て行け」と叫ぶ彼らは鬼のようであり、しかし、集まっている一人一人を観ると中には笑っている人や楽しんでいるように見える人たちもいて「一体、どういう気持ちで参加してるんだろう?」と思ってしまう。自分たちを「正義」と信じて止まない人たちの集団。怖い、とても怖い。

彼らは「警察の対応が甘い」という。警察はいつも自分の味方だと思っている。そして監視対象は人殺しだから徹底的に戦って、話し合いをする気はない。知ってみようとする気もない。なぜこのような硬直した考え方しか持てないのだろうか、と思う。「近くに殺人集団が来た住民の身になってみろ」と言われるかも知れない。だったら必死になってぶつかっていった、あの住民たちはなんなのだ?と思う。この住民の差はなんなのだろう?と思う。

「殺人集団に対して警戒心を持つのは当たり前だ。話し合おうとして殺されたらどうする」と言う人もいるだろう。わたしだって、あの時代をもちろん生きてきた人間だけれど、実は今はほとんど覚えていない。あのときどう思ったかを。住民票を登録しない地方自治体の態度にはあきれた覚えはあるけれどもね。だけどあの場にわたしがいたらどうしただろう、と想像してもよく分からない。「出て行け!」とシュプレヒコールをあげたとは思えないけど、おそらく相手と話し合おうなんて気もさらさらなかったはずだ。だからわたしも本来なら彼らを批判する立場にはないのだ。

だけど。わたしは「次のターゲット」にならないとは限らない。犯罪なんか簡単に「作れて」しまう。それは怖い。だからこそ、声を上げねばならない、と思う。いや、思い始めた。この世の中には「正義」と「悪」だけじゃなくてもっと怖いものがあるのだ。「A」や「A2」を観ると本当にそう思う。「A」では「転び公妨」、そして「A2」では「駐車場にいたオウム信者をひっくくりました!」と報告する警察官。怖い。ものすごく怖い。「A」も「A2」も国家権力の怖さ、については共通するものを描いている。

そして「国家権力対右翼」。

うーん、わたしは何度観てもあの右翼の街宣車と人を威嚇するしゃべり方には慣れないのだけれど、警察に対して行なう罵倒する言葉は、まるで大人と大きな子どもの争いのように見えた。大きな子どもは大人に何を言っても相手にされないので実力行使(=街宣車に乗ってスピーカーガンガンにして道路を突き進む)をするんだけど、大人はびくともしない。その様子はまるで駄々をこねて地面に足をじたばたさせている子どものようで、なんとも哀れさを感じた。そしてだから逆に「びくともしない大人の怖さ」をまた感じてしまう。

「正義」という言葉の元に国家権力が介入する。しかし「正義」は絶対的な「正義」ではない。誰かの「正義」は他の人にとっての「正義」じゃない。不都合な「正義」は誰かの「正義」によって駆逐される。「正義」の名の下によって。わたしはこの国をそんなこわい国にしたくない。だから考える。相手を知ろうとしたい。相手に近づきたい。それでお互い理解できなければ距離を置けばいい。まぁ、自分がいい思いをしていない相手と向き合うことはすごく難しいことだと思うけれども。でもそうやって生きていきたい、と思う。

最後に。

監督は「この事件をこのまま沈静化させたらたまらない」と教団の広報担当である荒木に言う。荒木は「A」での被写体の中心だった。「あの事件は一体何だったのかを誰も考えていない」と監督は言う。そして「教団名を変え、被害者に補償金を支払う、といった今の形は違うんじゃないか」と言う。荒木もそれに同意するが後が続かない。「表層的な融和はできても、根本的な融和はできないんじゃないか。だとすれば危険だ」と監督は言う。

監督が言った意味をわたしは本当に理解しているのかどうかは分からないのだけれど、わたしは根本的な融和なんか必要あるのか、と思う。だって、彼らは「現世」で生きてないのだもの。「現世」で生きようとしていないものと「現世」で生きているものが融和なんかできない、と思う。出家ってそういう意味なんじゃないの?だからこそ、宗教集団は危険である、って信者の人も言ってたよね。ただ一方で「誠意を見せ続けなければならない」と思っている人も中にはいる。「そうでなければ教団は生き残れない」と思っている人もいる。

そこでまた分からなくなるのが「現世」と「宗教集団」の関係なのだ。。「現世」と「宗教集団」を繋ぐ「誰か」が必要だと思う。ただ、その「誰か」とは誰なのだ?それがわたしには分からない。

そして、この映画を取り終えてから、今年で10年が経つ。奇しくも監督の言ったようにあれから「オウム(アレフ)」の名前を聞くことはなくなった(地下鉄サリン事件の日などの日は焦点が当たるけれども、その日以外はおそらくないだろう)。今はほとんど忘れ去られている、と言ってもいい。

わたしはこの映画を観ながらずっと「この映画に写ってる人たちは、今はどういう生活をしてるんだろうなあ?」と思っていた。オウム排斥運動をやっていた人は「あれは仕方がなかったんだ」という人もいるかも知れない。「あんなことして馬鹿だったよね」という人もいるかも知れない。でも、、「対象」となった人たちはどうだろう?「仕方がない」で済む問題なんだろうか。それともまだ「殺人集団なんだから当たり前」とみんな思ってるんだろうか。

監督は「A3」を作るつもりである、と撮影日誌「A2」には書いてあった。しかし、既に誰も見向きもしない今の時点で新たに続編を作る意味はあるのだろうか。いや、誰も見向きをしなくなった今の時点だからこそ、作らなければならないのかも知れない。それとも監督の中から興味はもうなくなってしまったのかも知れない。

わたしは、続編を観たい。
そう思う。
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