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10-20 Tue , 2009
横道世之介
わたしが取ってる毎日新聞で、最近この本を取りあげた記事が目に付いたものだから、買って読んでみた。

というか、この本は、実は毎日新聞に連載されていた小説だったらしい(2008年4月1日~2009年3月31日)。それを加筆修正して出したのがこの本。いやー、新聞に連載されている小説にはほとんど興味が無いので、これが連載されていたとは、この本が出るまで全く知らなかった。

連載開始月の4月にこの小説も「四月 桜」から始まっており、一月に1つの章で出来ているので、おそらく連載を読んでいると、そのときの季節感が一緒になって楽しめただろうな、という感じはする。そしてもし、わたしがこの小説の存在に気が付いて、その当時、読んでいたとすれば、一日一日がとても待ち遠しかっただろうな、と思わせるような小説だった。

わたしはこれを読んで、なんとも言えない懐かしさを感じたのは、なんてことはない、この小説の主人公とわたしは同い年だったからだ。あの当時、同じ東京で、同じ大学生だった、というのは、この小説を読む人の中でおそらく最もこの話をリアルに感じられる年代だと思う。あの当時、「バブル」と呼ばれていた頃、わたしは大学生だった。景気がいいことはなんとなく分かってたし、「こんなものにこれだけ金つぎ込むの?あほらし」みたいな感じはしていたが、自分自身はただの大学生で、あまりバブルの恩恵を受けた覚えがない(バイトもしてなかったんでね)。けど、読んでると「ああ、そうそう、そんな感じだった」って思うところが多々あって、それがものすごく懐かしかった。

話自体は、おそらく1987年4月に長崎から大学進学のために上京してきた「横道世之介」くんの大学1年生のときに起こったお話しがメインとなっている。それが縦軸とするならば、時折織り込まれる横軸は、彼と関わってきた人のその後のお話し。一月に1つ、ではなく、数ヶ月に1つ程度織り込まれるのだが、その時間軸が段々現代に近づいて来て、最終的には去年で終わる。

1987年に横道世之介が関わってきた人で、彼の現在を知っている人は(ほとんど)誰もいない。「あ、こんな奴いたっけな」と思い出されてはまた記憶の底にしまいこまれる、それだけの存在だった、とも言えるが、何年経ってもふと「あ、アイツ、どういうヤツだったっけ」と思い出されるというのは、それだけ存在感があった、というべきなのだろうか。

んー、ぶっちゃけて言うと、2008年11月に40歳になっている横道世之介は死ぬ。それが読みながら分かってくる(もちろん、分かるのは11月になってからだ)。それまでは取り敢えず「今の彼は何をしているのかな」と思いつつ読んでいくのだと分かるが、11月以降はひたすら「彼が亡くなったって、なんでだ、どうしてだ」というはやる気持ちを抑えながら読んでいった、という感じだろうか。

実はわたしは書評だったか何の記事化だったかで、主人公に「死」が訪れることを最初から知っていた。んー、だから、本当に面白かったのは、やっぱりこの連載をリアルタイムで読んでいた人たちだろうな、と思うんだけどね。でも「死」を入れるのは、ある意味「ずるい」とも思う。だって、生きているより死んでいる方がドラマチックだ、明らかに。そして最後は急激に1987年と2008年が交錯していくのだ。永遠に交わることのない年月が、なぜか絡み合っている。「写真」という「その時代を封じ込められるもの」によって。

そしてこの小説は、2008年11月に亡くなってしまう主人公が、1987年に大学1年だった主人公が、その後、どうなっているかが垣間見えるようになっている。ここら辺の描き方はちょっと心憎い感じがする。結局彼はカメラマンになるのだが、その出会いが大学1年のときにあったこと。その後彼はどんな写真家になったのか。そこら辺がうま~く描かれてるんだよね。しかも、読者はそのときにはもう主人公はこの世にいないことを知っている。ここの組合せがね、やっぱり何とも言えないのね。彼の生き死にが分からないときは、1987年の彼はただの普通の大学生だ。サークルは幽霊部員で、講義には朝寝坊して遅刻して、深夜にバイトして、車の免許を取るために教習所に通って。。わたしらの時代にはどこでもいた「普通の大学生」だった。あ、今の大学生はどうだか分からないからこういう描き方するけれども。

ところが小説の中で「彼が死んだ」と言うことが分かってからの1987年の彼の行動は、なんだか「普通の大学生」に思えてこないのね。彼と関わった人は、なにか、必然的なものであったかのようにすら思えてくる。んー、これはわたしの場合だけど、他の人が読んだらまた全然違う感想を持つかもね。

ただ、本当に、わたしにとってはものすごく懐かしかった。「彼ら」は市ヶ谷にある大学(おそらくH大だろう(笑))に通い、わたしは港区にある国立大学に通っていた。もしかしたら新宿辺りですれ違っていたかも知れない、とすら思える。それだけでも小説に自分のことをシンクロさせられるのね。「あー、あの時代、そうだったよなー」と思えるところがものすごく多くて。

しかしわたし自身は「大学進学をきっかけに上京」してないから、上京してきた友だちなどをつい、思い出してしまったりした。もしこれが、大学進学をきっかけに上京してきた人ならば、さらに主人公の生活はシンクロするだろうと思う。

だから、この本は、わたしらの年代とはものすごく「合う」小説だと思う。が、それより10年上の人が読んだら?とか10年下の人が読んだら?といらぬ心配をしてしまう。この時代を同い年で同じ場所でリアルタイムに感じてきたからこそ味わえるものがこの小説にはあると思う。それ以外の人が読んだらどうだろうか、と思う。それはそれでまた別の物語になるのだろうか。

この主人公はとりわけ特色がある人ではないわけで、どちらかというと「彼の周り」の世界が面白かったりするんだけど、それもこの主人公がいたからであって、なんか不思議なんだよね。。

で、あとね。サラリとゲイが出てくるの。主人公と同じ大学へ通う加藤くん(笑)。最初会ったときから「女の子にはあんまり興味ないんだよね~」なんて言っちゃって。だけどはっきりカミングアウトはしない。しかし、主人公が夏の暑さにクーラーがついているという理由で、その加藤くんの部屋に入り浸るようになるんだけど、そこで加藤くんからのカミングアウト(笑)しかし主人公は「タイプじゃないから」と一蹴(爆)そしてハッテン公園にハッテンしに行く加藤くんとともにスイカを食いながら付いてく主人公。だけど主人公はカミングアウトされても驚きもしない。しかも「公園内には入らないから」と言って、公園の外でスイカ食ってるという(笑)なんだかわけ分からない風景なんだけど。

そして、加藤くんのその後の生活が割と早めに描かれる。大学4年のときに知り合ったパートナーとその後同居。同居前に、パートナーが突然病気で倒れて入院したときに、加藤くんがずっとそばにいるにもかかわらず、身内ではないので病院側は親が着くまで病状を説明しなかったり、その後もパートナーは親にはカミングアウトしていないので「こんなときに結婚していれば」みたいなことを堂々と加藤くんの前で話してしまって、加藤くんも「そうですね」、みたいに曖昧な答えをしてみたり、みたいな割と「ありがち」な話が書いてある。で、やっぱり何かあったときに、、と思って同居に踏み切るらしいんだけど。でも、そこには男同士の暮らしが、サラリと描かれてて、それが全然特異じゃないのね。それがとてもね、いいなって思ったんだよね。

こう考えるとこの小説はわたしとの共通点がとても多い小説で、それだからこそ、年代が違う人とはまた別の印象があるんじゃないかなって思う。あとはあのときの東京と今の東京を知っている人。東京を知らない人にとっては、あまりピンと来ないんじゃないかなと思う。

そういう意味で万人受けする、というよりはピンポイントで受ける、という小説じゃないかな、という気はする。ま、わたしなんかそれにやられる方だけどね。しかし、わたしの年代ももう、こういう本が書かれる歳になったんだなあ~ってしみじみ思う。

で、この小説の主人公はどうも透明な感じがしてとらえどころがないなあ~って今でも思ってるんだけど、雰囲気的にはなぜか「桃尻娘」の「木川田くん」を思い出させるのよね。それも木川田くんから見た木川田くんじゃなくて、周囲が見る木川田くんの印象、みたいな。。って難しいかな(笑)
00:28 | (一般)本のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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