----- -- , --
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--:-- | スポンサー広告 | page top↑
09-11 Fri , 2009
林由美香、という人について考える
昨日、彼女と一緒に映画を観て、しばらくたった帰りの電車の中で彼女と「大激論」になったことは、昨日の日記にちらと書いた。

彼女は「林由美香、と言う人の死が気になる」という。「誰か、彼女のことを気にかける人はいなかったんだろうか」という。そして「男の人が映画を作るとこういう女性は『聖女』にされちゃうんだよね。。」とも言っていた。

根本的なところで彼女が何を言いたいのかは分かっているつもりだ。しかし、わたしはこの映画では、本当の彼女はどうだったのか、とか、彼女は孤独だったのかどうかとか、誰か気にかけてくれる男性がいれば、今も生きてるのだろうか、とか、そんなことは正直、あまり興味が無いところで。

帰ってから読んだ「あんにょん由美香」のパンフレットを読むと、途中で林由美香がどうやって亡くなっていたか、詳しく語られたところもあったそうだが、監督はそこまでプライベートなことは公表すべきでない、と思って全部カットした、と書いていた。いや、わたしはあの映画はそれでいい、と思ったのだ。あの映画にそこの部分を入れると映画の雰囲気が全く変わってしまう。極めて重い方向にね。。でも多分、監督はそういう作品にしたくなかったのだろう、とわたしは勝手に想像している。

しかし、あの映画では確かに「林由美香」と言う人のことを「聖母」にしているとは思う。男性にとっての理想的な女性の姿、強くてたくましくて、そして包容力があって、しかし、誰のものにもならない、誰も彼女を縛り付けてはいけない、と思わせるような。映画の中で「彼女は豪傑だったよ。ああいう豪傑な女性は今はもういないね」と誰かが語るシーンがある。その言葉が表わしているように、「誰も彼女にはかなわなかったのだ」と、だから彼女は大きすぎて、男の手には負えなかったのだ、だから彼女は「聖女」なのだ、という組み立てがされてると思うのね。

だからこその、あの最後のシーンなのだとわたしは思う。松江監督やその他の林由美香に関わった人たちが林由美香を「聖女」にしたかったのだ、とわたしは思う。

しかしこの「聖女」というものは、あくまでも男性にとって都合のよい「聖女」なんだけれど、(わたしの)彼女が気に入らないところは、「勝手に都合のいいところだけ取り出して女を聖女にしないで欲しい」という気持ちがあったから、この発言が出て来たのだと思う。

それは、わたしも分からないでもない。一方では林由美香という女の人は、男に食い尽くされてしまった女性、とも考えられると思うから。だけど、ここでわたしが思うのは、例えば、男に消費されるような女の職業、主に性を売り物にする職業が多いと思うけど、それってさぁ、果たして「男女平等」の世の中が実現されたときには、こんな職業はなくなるのか、それともまだ残っているのか、分かんないんだよね、わたし。

このような職業は、韓国ほどではないと思うものの、やっぱり日本でもあまりいい顔をされない職業ではないのかなと思うんだけど、でも、例えば本人が「これは自分に向いている職業だ。わたしにはこういう職業しか合わない」って思う人がいつの時代でもいるのかも知れないとも思う。それともやっぱり生活に困って、やむにやまれぬ事情でこういう業界で不本意ながら働いているのかな、みんな。

しかし、19歳のときの林由美香は言った。「他の仕事は自分じゃなくなるような気がするから、自分に合ってない」と。若干19歳の発言である。その若さゆえに他の世界を知ることがないため「わたしにはこれしかない」という狭い視野での発言だったのかどうかはわたしにはわからないし、亡くなるまで彼女は本当にこう思い続けてきたのかすら、わたしはよく分からない。

だけどね、(わたしの)彼女は「聖女にされているのは気にくわない」と言ったが、わたしはなぜかどこかでこの映画に出てくる男の人たちと同じように思うんだよね。「彼女は誰のものにもならない、捕まえたと思ったら、するりと身をかわしてどこかに行ってしまうような女性だった」と。そういう人って多分、いるんじゃないかなと、そう思えてしまうのね。で、そこがその人を不幸にさせてしまっているような気がするんだけど、「誰のものにもなりたくない自分」がいる一方、「やっぱり誰かがそばにいて欲しい自分」というのも、多分、林由美香という人の中にもあったはず。でも、その割合は圧倒的に前者の方が強かったのではないかと。

林由美香という人と、わたし、という人間は、全くタイプの違う人間だけれども、それでもわたしの中にも「誰のものにもなりたくない自分」というのがある。今はこうやって彼女と一緒に暮らしている自分なんだけど、わたし、彼女と巡り会う機会がなければ、一生、一人で生きていく自信があったもの。「本当のわたしのことを分かるなんて人間が他人にいるはずないじゃないか」って正直今も思うもの。まぁそのうちの一つの理由は「自分も自分のことがよく分かってないから」というものだったりもするのだけれど(爆)「自分が分かってないのに、他人に分かられてたまるか」という「反骨心」みたいなのは、わたしの中のどっかに存在してるんだよね。

だからある意味、わたしも「聖女」になりうるの(笑)

わたしはわたし自身、今までいろいろあって、ほとんどまっとうな人生を歩んでないんだけれども(苦笑)、なぜか今まで何回か、人から(それも全部男性だったな)「羨ましい」と言われたことがある。わたしはそのとき特に「何かを持っていた」わけじゃなかった。だから一体、何が「羨ましい」んだか、全然分からなかったし、今でもなんでそういうことを言われたのかよく分からない。でもだから、わたしは「聖女になりうる」と自分自身で思っていたりする(爆)林由美香という人とは全く逆の「女」なんだけど、そしてわたしは彼女について、本当に何も知らないんだけれど、なんかね、どこかで似ている部分があるのかも知れないって、僭越ながらそう思う。

そういうのがあるから、わたしは林由美香という人が亡くなって「聖女」にされても構わない、と思ってるんだよね。ある意味それは真実のことだと思うから。だから、腹も立たない。「男に食い尽くされて、誰にも守ってもらえなくて死んだんだ」って、そう思うかも知れないけど、彼女自身がそういう生き方を選択していたのならば、寿命が多少短かったとしても、それは仕方がないことだと思うのだ。

もちろん、わたしは彼女がなぜ亡くなったのか、全く知らない。それまでずっと元気だったのが、突然心筋梗塞を起こして亡くなったのかとか、実はその前に本当は何か病気にかかっていたのかも知れなくて、そのことが死の原因になったのかも知れないとか。全然そこのところは分かんないんだけど。

だけど、わたしにとっては事実がどうだった、ということはあまり関心がないのだ。

ただ、彼女は愚直なまでに自分の仕事に取り組んで、その愚直さゆえに異性を引き付けるものの、所有できないものと錯覚させる何かが彼女の中にあり、彼女もそれを自覚していて、それをまた愚直なまでに実行し、そのことが結局彼女の寿命を縮めたのかも知れない。彼女はそういう生き方しかできなかった、わたしはなんとなくそんな感じがするんだよね。

正直、人の人生に対して「あり」だの「ない」だのとは言えないが、でもわたしは「太く短く生きた」林由美香って人は、彼女に引き付けられた人間にとってはすべて「聖女」なんだと思う。
21:36 | (一般)映画・演劇のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
<<わたしのトロンボーン | ホーム | 「あんにょん由美香」観てきた>>
コメント
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する

トラックバック
この記事へのトラックバックURL
http://rontako.blog39.fc2.com/tb.php/1258-92b97340
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
| ホーム |
AX
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。