07-20 Mon , 2009
大泣きした
東京国際レズビアン&ゲイ映画祭も昨日が4日目、今日が最終日。
昨日はなんだかんだ言って、5本とも全部観てしまった。「分断の街で」「乙女シリーズ その一花物語 福寿草」「ガールズ短編集」「ニューワールド」「パトリックは1.5歳」。当初は「福寿草」は観ないつもりだったんだけどね。だって「花物語」の世界ってわたしはあまり好きな世界ではなく、どうせ内容的にもつまんないだろうなーって思ったから。けど、前日、双子の弟が「(活動弁士と即興キーボード演奏が付く)映画が観られるのは貴重だ」ってブログに書いてたので「うーん、だったらまー観るか」みたいな気持ちで観たんだけどね。

ま、内容は思った以上のものではなかったものの、これが1935年に日本で作られたことについて「こういう歴史が日本にはあった」、その点でどこの国とも違う、独自の日本の文化を感じた。

うん、確かにね。今の感覚で観ると、主人公の薫は完全に兄のお嫁さんである「お姉さま」との「愛の物語」というか、二人の関係がレズビアンに思えてしまうと思う。ただ、この当時の日本って、女学校に行くことのできるような裕福な家庭の女性は、女学校卒業後は自分の意志とは無関係で親に結婚相手を決められ、そして嫁ぎ、ダンナの両親とダンナに一生、仕えなければならない運命にあったわけで。この女学校のときが唯一の「自分の意志で自由に過ごせる時間」だったのだ。その背景から、女学校の女子学生の間では「エス」という関係があり、それは精神的な恋愛、魂と魂の結びつき、というような「この世の中で最も崇高なもの」と思われていた。それを知らないと、この話は「え、でもこの二人、レズビアンだよね」ってことになってしまう。

昔の女学生の「エス」の関係と、今のレズビアン、女性同性愛者ってのは、わたしは違うと思う。「エス」は、そこに肉体的な関係を介さずに、ただただひたすら相手を慕う心、相手を思いやる心、であるのだ。で、悪いんだけど正直、わたしはこの気持ちは全く理解できない(爆)「お姉さま」とか言われて慕われるのはとても気持ちが悪いと思う、なんて言ったら「「はぁ?」とか言われそうだけど。フェミニズム用語で「シスターフッド」って言葉があって、多分、この言葉と「エス」はほとんど同じ意味なんだろうけど、ヘテロ女性が理解できる「シスターフッド」ってのは、わたしには理解できない。ヘテロ女性はその「シスターフッド」を通してレズビアンを理解できると思っているような気がするが。

というわけで、今、この映画を観ると、映画を作る技術の未熟さや、当時の女学生の間の感情がどうしても分からないものだから、どうしても奇妙奇天烈なストーリーと思えて、それが笑いに繋がったりしてしまう。しかし当時はおそらく、女学生が(男はこういうのは観なかっただろう)心をときめかせながら真剣な気持ちで観ていたのではないだろうか、と想像したりする。少なくとも笑いなどは映画館からは聞こえなかったに違いない。

18日に観た「アウトレイジ」の最後の場面は「30年前」としてハーヴィー・ミルクが「みんな、カミングアウトしろ。カミングアウトすることが勝利に繋がるんだ」とインタビューで答えている姿だった。しかし日本では74年も前に今の同性愛とは違うが、それによく似たものが「当たり前のもの」として作られている。わたしはね、この「差」がやっぱり今日のアメリカと日本の違いを表わしているような気がするのよね。「日本がぬるい」のは、こういう「文化」を日本が持っていたことも一因としてあげられると思うのね。そしてそのことってのは、決してわたしたちにとってはマイナス要因ではない。んー、この作品は予想どおりというか、ホント、突拍子もない話でストーリーを紹介するのがアホらしくなるような話ではあったが、「日本にかつてこのような映画が作られていた」ことを知ることが出来、それを観ることができたのは、わたしにとってはとても価値があることだったと思っている。

って、題名の「大泣き」は、これで泣いたんじゃなくて(笑)4本目にやった「ニューワールド」で泣いたのよ、わたし。映画祭であんなに泣いたのは、初めての体験だ。しかも、普通の映画館で観る映画と違って、映画が終わったら、知り合いがうじゃうじゃいるような状況で、わたしはとても恥ずかしかったんだけど、でも、映画が終わってそそくさと会場を一旦抜けたんで、彼女以外にはそれを知られることはなく(笑)

「ニューワールド」は、フランス映画で「子供が欲しい」レズビアンカップルがどうやって父親を捜し(精子バンクを利用することは彼女らの希望ではなかった)、子供を作り(って、このやり方は「ハッシュ!」と同じ(笑))、そして自分たちの両親との関係、片方の、血のつながりのない「子供を産まない方」のカップルの片割れが感じた「孤独感」、精子提供だけで、あとは何も関係ないと言っていた「父親」の子供が産まれたあとの豹変ぶり、ストーリー的には淡々と「そうだろうな、そうだろうな」と思えるような「堅実な」作りで、そこのところが面白くないと言えば面白くないだろうけれど、話に整合性があるという映画が好きなわたしにとっては、それはそれでよかったし、なにしろ、この映画の状況がね。前にも書いたことがあるけど、親兄弟にカミングアウトしているのは当たり前。パートナーも紹介しているのも当たり前。しかも相手が自分のことを「受け入れられない」ような発言でもしようものなら「なぜそれが理解できないんだ!」と理解できない相手のせいにする。「カミングアウトして拒絶されたらどうしよう」とか「受け入れられなくても仕方ないよね」という感情が「当たり前」で「カミングアウトすると言うことは、相手にも秘密の強要をさせる行為なので、そんなことはしない方がいい」とも思われているこの日本との違いってのがね、すごいなあと思ったのよね。

で、子供との血のつながりのないパートナーの片割れが、子供との法的な関係を作れるかどうかということを聞きに弁護士事務所に行くんだけど「子供と15年以上同居しているという証明がないと法的な関係には慣れない」と告げられる。「相手が妊娠したときから毎日毎日、一緒に暮らしている、それでも関係は認められないのか!」と言うと「異性愛者ならそれが認められますが。。でもしかし、あなたのような思いをしている人たちはたくさんいます。わたしはその状況については個人的には残念だと思うけれども、しかしわたしは法律に従って仕事をする人間です。法律を変えるのはあなたたちです」ってはっきり言ったあの弁護士の言葉が突き刺さる。あの国ではこのようなことは「当たり前」の感覚なのだ、そういう感覚で今までやってきて、そして今があり、また将来があるのだ、とね。日本はアメリカの状況とも違うが、ヨーロッパとも違う、ということがこれを観るとよく分かってね。。

そして子供が産まれてしまえば、たとえ血のつながりのないパートナーの親でさえコロッと変わってしまう、というのは安易と言えば安易なんだけど。。しかし、レズビアンの親は100%、子供を育てたことのある人たちであることは確かであり、その経験から子供を目にするとああいう態度に変わってしまうのはある意味自然な事なのかな、と思ったりもする。

「子供を作る」と言ったときは親でさえ「子供には父親と母親が必要なのよ」と、これはこの作品以外でも何度も何度も言われていた言葉だ。多分、日常生活でもよくそういうことが言われているに違いない。しかし、これは映画だからかも知れないけど。。生まれてきた子供には(レズビアンの場合は)母親が二人、父親が一人、そしてレズビアンの両親がおり、そして父親の方にも両親がいる。普段は母親2人に育てられているとしても、例えば誕生日やクリスマスに家族みんなが集まるようなところでは、実はヘテロの家族よりも「身内」が集まる人数は格段に多いのだ!というのを、この作品の最後でちらっと映ったんだけどね。わたしはそれを観たら、もうなんというか、涙が出て来て仕方がなかった。もう、その単純さにあきれてものも言えないんだけどね(汗)「ああ、産まれてきた子供は幸せなんだ」って思った途端にブワーっと涙が出て来たの。

そして、子供を産んだ女性は学校の教師なんだけれど、子供を産む前は自分が同性愛者だと言うことを言っていない。それは「子供を誘惑する人間だ」と思われたら困る、という理由でしていなかったのだが、子供を産み、復職したときに彼女は同僚にカミングアウトをする。それは誰からも強要されていない。自らが進んで「自分は女と寝るレズビアンなんだ」と言い、そして自分と彼女の写真を飾る。

「この変化は一体何なんだろう?」って考えたね。そしてそれは多分、子供を産んだことが彼女を強くさせたのかも知れないし、「家族が出来た」(というのも変な表現だけどね。2人だけでももう十分な家族なのだし)ということがカミングアウトをする行為につながったのかも知れない。ここでは「自分の知っている限りの人にカミングアウトしよう」などとは言われない。自分のカミングアウトしたい人にはカミングアウトをし、やりたくなければカミングアウトをしていない、そんな状況のところだ。それは日本にも似ている、と言っても、家族にカミングアウトをしているのが当たり前、なのとそうでないのはだいぶ違うとは思うけどね。しかしそういう意味ではヨーロッパはなぜ今のような状況になり得たのか、それがとても知りたい。

わたしの中では「この作品が一番いい!」とは言えないのだが、しかし、わたしの心の琴線に触れてしまったようで、おそらく、最後のシーンはずっと忘れないだろうなという気がしている。

その他、「パトリックは1.5歳」(スウェーデン)もこれも「子供が欲しい」ゲイカップルの話だ。しかし、彼らは実子ではなく養子縁組で子供を育てようとする。ただ、彼らは「生まれたばかりの子供」を欲しがっていたのにもかかわらず、来たのは犯罪歴がある同性愛者嫌いの15歳の少年だった、ということから話は始まるんだけど、だいたい「子供物」は最終地点が最初から見えてるのよね。そこに至るまでの過程がどう描かれているか、ということだけが興味のあるところで。

ただし、この作品を観ると、同性カップルは「結婚できる」にもかかわらず、相変わらず「ゲイ差別」は受けているんだと言うことは分かる。制度上では異性愛者と同じ権利を持ちながら、やはりホモフォビアは依然として根深い、というところか。

この作品は前の「ニューワールド」に比べると作りがしゃれていて、まー、わたしにとってはちょっと物足りないふうでもあったのだが、しかし、一つだけよく分からなかった部分がある。それはスヴェンがゴランと別れようとして一緒に住んでいた家から荷物を引き取ったところ。あそこでは別の男が家に入ってきて、しかも車の助手席に座り、いかにも「新しい恋人ができたのか」みたいな印象を受けるんだけど、しかし、すぐにその車で戻ってくるという、え、だったらあの「男」は誰だったの??恋人じゃなかったの?もしかしてただ荷物を一緒に引き取りに来た人?ってわけで、ここのところが全く説明されていないため、わたしにとってはここはこの映画に対してはかなりのマイナス要因になった。人によっては「どうでもいいじゃん」と思うところだと思うが、「何が起こったのか」と観客に疑問を持たせるような(どういうふうにも想像できるような)作品はわたしはあまり評価しない。

その一方、新しい家族の元に行けると言うことが決まったパトリックが家を出る前に庭仕事(彼の得意な分野はこれで、これがあったためにゴランとも打ち解けられたし、街の人にも関わりを持つようになる)をして、そこで手を切ってしまうのだが、医者でもあるゴランに家で手当をしてもらっているときのパトリックのあのつらそうな顔も、わたしは忘れることが出来ない。「ここに留まりたい」ということは決して言わないのだが、その顔で気持ちがものすごく伝わってきて、実はここの部分でもわたしは泣けた。

というわけで、あの「男」は一体誰だったのかの説明がされてないところ以外は、まあまあよかったと思う、この映画も。ただ、子供が出てくる映画は比較的ストーリーが単純なのでね。だから、普通一回観るだけでは理解できないわたしの頭でも理解できたんだと思うけど(爆)

しかしこの作品でも決して家族はゲイカップルの2人だけじゃなく、片割れの元妻が子供を連れて頻繁に家に訪れているし、それはパトリックが結局はゲイカップルに引き取られると決まったあとでも、その付き合いは続いているようだ。ということは、こういうのも「新しい家族の形」というか、今の時点での「家族」の持っている意味がこれらを含んでないので、今はこの言葉はあまり妥当ではないかも知れないが、しかし将来的にはこういうものも全部ひっくるめて「家族」と呼ばれる時が来るのではないか、と感じた。

その他「ガールズ短編集」は今回は1つを除いて、めちゃくちゃ面白かった!今回は、ゲイの絡みよりもレズビアンの絡みの方が多いね。これは映画祭の人たちが敢えてそういうのを選んだのかも知れないけれど、数年前まではボーイズ短編集には必ずSEXシーンが描かれていて、でも今回のボーイズ短編集はたったの1つだけだった。逆にガールズ短編集はSEXシーンはなかったのに、今回はほとんどそういう場面があった。わたしとしてはもちろん、女同士の絡みがあった方が嬉しいのだが、でも女同士の絡みで必ずブラジャーしてるっていうのはどうよ???あれはどう考えても不自然だ。SEXするときに下着を着けたままするなんて考えられないでしょ?あれはなんでかなあ~、、ってSEXシーンが出てくるたびに「またかよ!!」って怒ってたりしたんだけど(笑)

でもねー。他の人はどうかは知らないんだけど、映画観てると「ああ、わたしもこういう感じ、よく分かる!」なんて思いながら観てるんだよね。で、映画終わったあと彼女に「あのシーンさぁ~」って言うと「ろんたこもそう思った?(笑)」って言われるから、やっぱり自分の経験してきたことって、よくあることなのかな(笑)まー、どの部分、とは言わないけどさ。こういうふうに素直に感情移入できたり「そうそう、これに似たようなことわたしもした」とか思えるのって、やっぱりそれが「レズビアン映画」だからなのかな。。

最後に、昨日の一番最初のプログラム「分断の街で」なんだけど、これはほとんど眠くてねーって決してつまらない映画じゃなかったんだけど、わたしの体力の問題で。しかし、これも考えることがたくさんある映画で。そしてまだまだ考え続けているものでもあって。あ、この話の舞台はイスラエルとパレスチナだ。イスラエル人とパレスチナ人のカップルがいて、イスラエル人は「親に自分が同性愛者だと分かると大変だ」という。しかしパレスチナ人の方は「自分がレズビアンであることよりも、イスラエル人と付き合っていることの方が、親にとってはショックだと思う」という。ここは宗教上の違いもあるけれど、人種の違いや、あとは歴史的な経緯でホント、複雑な事情を抱えた地域だ。イスラエル唯一のゲイバーである場所だけが「平和な場所」。イスラエル人もパレスチナ人も関係なく、同性愛者であることも咎められることはなく。「ゲイとレズビアンがこの国の平和の象徴だ!」と言った台詞が頭に残る。

このゲイバーの経営者はイスラエルの議員でもあるが、なぜ彼は「ゲイ」であるにかかわらず選挙に当選できたのか。そこら辺のことは分からないが、しかし「一期で辞める」といい、そして経営していたゲイバーもたたむ。これから、あの国、地域はどのようになっていくのだろうか、ということを考えさせられた内容だった。

今回の映画祭、敢えてこのような映画を選んだのかどうかはわたしには知るよしもないが、地域によって同性愛者の立場がものすごく違う、ということが改めて分かった映画祭だった。ってまだあと1日残っているのだけれどね。

さて、今日もあと3本、観てくるか。

テーマ:性的少数者(LGBTIQ) - ジャンル:日記

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