05-16 Sat , 2009
同性愛は個性か
数日前にこれについて考えるきっかけがあったもので。んで、わたしはこの意見を書くことによって、人に自分の意見を押しつけたいわけじゃないことだけは最初に書いておく。

「障碍は個性だ」って言う人がこの社会にたくさんいることも知ってるし、当事者もそういう風にとらえている人がいることも知ってる。でもわたしはそういう風に思っていない。だけど、そういう人たちは別にそう思ってる人はそういう風に思えばいいと思っている。だって、そういう風に考えた方が、自分はしっくりくるし、自分が生きていくのに生きやすいのならば、それでいいと思う。

同じように同性愛者に対しても「同性愛は個性だ」っていう人がいるのね。これは当事者がそう言っているのはあまり聞いたことがなくて、ただ、周囲の人にそう言われることが多い。だけどね、わたしは「同性愛は個性だ」と言われるたびに、何か違和感があったんだよねえ、前々からね。それを今回、ちょっと突き詰めて考えてみようと思ったのだ。

まず、同性愛が個性だったら、異性愛も個性になるのかな?と考えたんだけど、まぁ、異性愛を個性と捉えてる人は、まずいないだろう。それはなぜか、と考えたら、異性愛者の方がこの世界では圧倒的多数だからだ。大衆ファッションは「個性的」とは言われないよね。だから「何かの特徴のうち、少数の特徴を持っていれば、それは個性なのだろうか」ということになる。

例えば右利きの人より左利きの人の方が圧倒的に数は少ないよね。でも「左利きは個性」って言うかなあ?あんまり聞いたことないよね。あまり、というか全然わたしは聞いたことがないんだけれど。日本で少数者と言えば、在日の人だってアイヌの人だっているけれど、在日って個性?アイヌって個性?これもなんだか違うような気がするよね。在日であることだけが、その人の「個性」ではないよね。同性愛もこれと同じだと思う。

でも「障碍が個性」と言われるのは(そして、当事者たちにこの考え方が支持されてるのは)「生まれつきそういう性質を持っていて、それは健常者(この言い方、嫌いなんだけどね。でもこれしか言いようがないので)より数は少ない」からでしょ。

いや、障碍が個性、と言われる意味は分かるよ。「生まれついた障害を持っている人は、それだけで他の人と違う、障碍ってネガティブに捉えられるけれども、逆に『自分にしかないもの』とポジティブに捉えて『個性』と言おう」という考えなのだと思う。でもね、これに対して敢えて反論するならば、中途で障碍者になった人は、その時点で「障碍は個性だ」って言うわけ?それっておかしいでしょ。

「個性」ってさ、ある一つの特質だけを挙げて「それが個性」とは言わないような気がするんだよね。「個性」ってさ、生まれつきにあるものじゃなくてさ、生まれつきに何かは持っているけれども、それを生きていく間に自分なりに変化させたものが「個性」なんじゃないかなって思うんだよね。

わたしは子どもの頃からずーっと「個性的な子ども」って言われてた。「ユニーク」とも言われてたし、通知簿にもそう書かれてた。だけどさ、わたしは自分のどこが個性的なのか、実は昔からさっぱり分からないんだよね。それが分かった時点でもう個性的じゃない、と言われたけれど(笑)でもね、わたしのこの「個性的だね」と言われるのは、わたしが同性愛者だからじゃないと思うのよね。だって、子どもの頃はわたし、自分が同性愛者なんて知らなかったもん。

確かにね、自分が同性愛者である、と分かった時点から、わたしの中の一部は「同性愛者である」ということに占められるようになった、と思う。そして「同性愛者である」というフィルタ通して物事を見たり、考えたりすることもかなり多くなったと思う。でも、これって個性じゃないんだよね。わたしはこれによって考え方が結構変わったかも知れないけど、個性自体には大して影響を及ぼしたとは思わないんだよね。

ま、中には子どものときから既に同性愛者であることに気が付いて、それがあったために人格形成の時点で影響を及ぼされた、って人も中にはいるだろうけどね。しかし、人格形成が個性なのだろうかというと、これもまた違うと思うんだよね。

一体「個性」ってなんやねん、ってことで、手持ちの辞書である、学研国語大辞典と新明解国語辞典で調べてみた。「個性」で引くと、学研国語大辞典の方には「その人・物だけにそなわった特有の性格・性質。パーソナリティー。」、新明解国語辞典の方には「個個の・人(物)をそれぞれ特徴づけている何か。」とある。

正直、新明解の方はよく分からない(笑)だって、「(特徴づけている)何か」なんだもん。何かが何か分からないと、こっちだって具体的には理解しにくいじゃん。ってわけで、学研国語大辞典の方をもうちょっと詳しく調べてみることにした。「性格」「性質」「パーソナリティー」ね。

「性格」→「ある人物の感情や意志の動きに表れる(特有の)傾向。」参考として「先天的な素質である気質に後天的な影響が加わって形成される」と書いてある。ということは、やっぱり「生まれつき」のものだけではそれは「性格」とは言えない、ということだ。生まれつきのものに加え、自分の経験や身の回りに起きたことによって、その人が知らず知らずのうちにその人なりの「性格」を身につけていくのだ、と言うことだと思う。

「性質」→「その人に(生まれつき)備わっている気質。たち。性分。」と書いてある。おや、ここで(生まれつき)と書いてある。なら「気質」「たち」「性分」は何かというと、

「気質」→「気性。性向。気立て。また、ある社会集団特有の類型的な性格。かたぎ。」ってかいてあるけど、この「ある社会集団の、、」以降はこの場合とほとんど関係がないだろう。ここでまた「気性」「性向」「気だて」が増えた(笑)

「気性」→「生まれつきの心の性質。気質。気象。」と書いてあり、気性というのはあくまでも「心の性質」であり、外見的な性質とか、その人が持って生まれた障碍とか、持って生まれた性的指向なんてものではないだろう。あとは「気質」だの「気象」だのって、循環してるから、これはここでお終い。

「性向」→「(その人の)性質上の傾向。気質。」と書いてあり、これは、「性質」が重複し、「気質」=「気性」なので「生まれつきの心の性質。」という意味を含んでいる。

「気だて」→「生まれつき持っている気持の傾向。(ふつう、よい場合に使う)」と書いてあり、ここでもやっぱり「気持ち」の傾向であり、ほとんど「心の性質」と変わらないと見ていいだろう。

あ、元に戻って「性質」から出てきた「たち」→(人それぞれによって異なる、生まれつきの)性質・体質。あ、ここで「体質」が出てきた(汗)

「体質」→「(医学上からみた)その人が生まれつきもっているからだの性質」と書いてある。身体の性質、と来ては、「心のみの性質」とは言えないな、、ということは、生まれつき身体的に障碍がある人は、それが「個性」ということになるのか。

「性分」→「生まれつきの性質。たち。」だから、「性質」は循環してるし、「たち」という意味を含んでいるのなら、身体的な性質も含んでいるということだろうね。

最後に。「パーソナリティー」→「個人にそなわっている特有の性格。その人のもちあじ。個性。」とあるから、これは完全に「持って生まれたもの+後天的な影響」と言うことを示しているだろう。

ってことで、辞書的に言うと「障碍は個性」もあながち間違っているとは言えない、ということだけれど、それでも意味を調べてみると、身体的なものよりも心のものの方が比重的には大きいのではないかという感じはする。

まぁ、障碍にもいろいろあって、全部が全部身体的なものとも限らないけれども、でもね、ここまで調べておいてナンだけど、「障碍を持った自分」だけがその人全てを言い表しているわけじゃないと思うの。これは「同性愛」についても同じことなんだけれども、誰も「同性愛者」という部分だけで人は生きていないと思う。もちろん、「障碍を持っている自分」とか「同性愛者である自分」は根本のところに持っていて、それがその人の性格に影響を与えることはあると思うのよ。ま、わたし自信はあまり自分が同性愛者であるということと、自分の性質は関係があるとは思えないんだけどね。

わたしは自分がよく「個性的」と言われるけれど、どこが個性的かは自分ではよく分からない、と上に書いたけれども、例えば自分の性格はどこで形成されただろうと考えると、正直よく分からない(苦笑)わたしはウソが付けない人間なんだけれども、なんでウソがつけないのか、よく分からない。。ただ、ウソをつく、とか、人に世辞を言うことなんかを想像してみると、ものすごく嫌な気分がして「それは自分ではない」と思う。これ、別に親から「ウソ付いちゃいけません」って教育されたせいでもないと思うんだけどね。「世辞を言うな」と言われたこともないし(普通、ないわね)。

もともと曲がったものが大嫌いで(あ、キューリとかは好きです(笑)でも太くて曲がってないキューリも好きかも。。←?)、「これをやったら自分じゃなくなる」と思うことは、今までたくさん経験してきて、でもときには正論ばかりじゃ通らないということも知ってる、知ってるけど、そういう場面でもわたしは一応、通そうと努力する。多分、そこがわたしの経験なんだろうし、曲がったものが嫌いな性格は、余計曲がったものが嫌いな性格になるんだろう。まー、ここの部分が人から個性的と言われているのかどうかは分からないけど、自分の性格として、いろいろ考えて出てきた例がこれだったので(笑)

「同性愛」というのは、確かに生まれ持った性質、なのかも知れないけれど、わたしが言いたいのは、「同性愛」これ自体は「個性にはならない」ということ。本当は「障碍者」に対しても「在日」に対しても「アイヌ」に対しても、それが言いたいのだけれど。それは生まれ持ってきたものだけど、その人全てを表しているんじゃない、人間はもっと複雑なところで成り立っている、と考えたかったの。

この世の中、少数者は生きにくいと思う。で、ずっとずっと「生きにくいなあ。やだなあ」って思うより、「自分はもともとこういう性質を持っているし、それは多くの人には持っていないんだから、ポジティブに生きよう」と思うのは、いいとは思うんだけど、わたしはそれは消極的じゃないかなと思う。この世の中が今のところ、多数者が生きやすいようにできているのは、ある程度仕方がないと思う。しかし、それに対して少数者はもっと「自分も生きやすい社会にしていく」ことを世間にアピールしていく必要もあると思うのだ。ハーヴィー・ミルクみたいに「少数者は戦わねばならない!」と声高に叫ぶと、これまた疲れてしまうので、ここまでは言いたくないんだけど(苦笑)、でも、この世の中が生きにくいのって、自分のせいじゃないじゃない?生きにくい社会に窮屈な思いをして自分をはめ込んでいくよりも、ありのままの自分が生きて生きやすい世界にすること、わたしが悪いんじゃなくて、世の中が間違っていると言うこと、それをね、わたしは強く思っていて、なんとかしたいと思っているのだ。

その小さな一歩が明日、5月17日、反同性愛嫌悪の日(IDAHO)のアクションだと思っている。一部の地域では、新型インフルエンザの影響を受けて、時間が変更になっちゃったところとかあるけれども(すいません、ここで確認して下さい)、そして、明日の東京地方はあまりいい天気ではないらしいけれども、わたしはわたしの生きている世界がもっと自分にとって生きやすいところになればいいなと思って、行ってくる。

こういう考えは、おそらくわたしが「同性愛者である」と言うことから獲得していったものなんだろうな、と今、ふと思った。

あ、それに今、読み返してみたら最初に言ってることと一番最後に言ってることに矛盾がある。。(笑)いや、「○○は個性」と思ってる人はそのまま意見を変えなくても、もちろんいいんです(笑)
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