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05-12 Tue , 2009
「黄金」とは
先日の日記で「『絶望』は人間だけがもつことのできる黄金である」という言葉にわたしは救われた、と書いた。しかしわたしはその「黄金」を「よきもの」として「絶望とは黄金なんだ、黄金は『よきもの』だから、わたしの『絶望』は自分の中にあってもいいのだ」という風に解釈したのではない。

わたしのこの言葉にある「黄金」のイメージとは、これまたすごく特殊だと思うのだが、自分はもしかしたらレズビアンかなと思い始めた'94年に岩波ホールで「苺とチョコレート」という映画を観て、その映画にあった台詞、「落ち葉の中に純金が光ってるよ」、というこの言葉のイメージなのだ。この映画は舞台がキューバで、同性愛者の男と共産主義者の青年の「友情の物語」だとわたしは思っているが(多分、昔、この映画のことは詳しく書いたと思う)、この映画はわたしの好きな映画のトップ3には絶対に入っている映画だ。

ではわたしがなぜ「絶望」が「黄金である」と言われたとき、その絶望感が自分の中にずっとあってもいい、と思えたかをここ数日ちょっと考えていたのだが、「絶望感」という目には見えないものを「黄金」という現実に存在する物体に置き換えたとき、その存在が「実存するもの」と理解されたからではないか、というのが現時点でのわたしの結論だ。

例えば自分の中にある「絶望感」、絶望感を感じるということは、わたしにとって「疲労感」や「打ちのめされた感じ」「もう二度と立てない感じ」がする。それは今でも同じだ。だから映画「MILK」を観てわたしがある場面について「途轍もない疲労感」を感じるのは、わたしが自分の中に持っている「絶望感」によって感じさせているのだろうという気がする。

ところがわたしはその「絶望感」を「落ち葉の中に光っている純金」と想像することが出来る。「絶望感」とは、わたしの全てではなく、わたしの一部であるが、その、他の部分にいつも埋もれている「絶望感」がたまに「自分はここにいるのだ」と「光る」。その「光」のイメージというのは、「なにか暖かいもの」と感じることが出来る。なので「わたしはこれを持っていてもいいのだ」と感じることが出来る。

ただし、「絶望感」が「光る純金」に変わり、「何か暖かいもの」に変わることはできるが、だからといって「絶望感」が「何か暖かいもの」になるわけではない。そういう意味で三段論法は使えないのだけれど(笑)、わたしの中ではやはり「絶望感」は「絶望感」であって、それがプラスのイメージに変わるわけではない。

「純金(黄金)」はごくごく小さいもので、落ち葉の中にまぎれて数カ所で時折光っている、というイメージを持っているが、ん-、「どういうときに光るか」というのは、自分では分からない。これが「自分が『内なるホモフォビア』を感じたとき」とでも言えば、随分、つじつまが合っていて、しかも光景的にもきれいな感じがするが、実際、そのようなときにこのようなことを思ったことはなく。ただ時折この言葉を思い出しては、そのようなイメージが頭の中で展開されるだけだ。

山本周五郎がどのようなイメージをもって「『絶望』は人間だけがもつことのできる黄金である」と書いたのかは知らない。が、わたし自身のこの言葉のイメージというのは以上のようなものである。
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