01-18 Sun , 2009
「ゆめはるか吉屋信子」と「女人吉屋信子」
もうだいぶ前に「ゆめはるか吉屋信子〈上〉―秋灯(あきともし)机の上の幾山河 (朝日文庫)」と「ゆめはるか吉屋信子〈下〉―秋灯(あきともし)机の上の幾山河 (朝日文庫)」(ともに田辺聖子著)を読み終わってたんだけど、もう一回「女人 吉屋信子」(吉武輝子著)を読み返してたので、感想を書くのが遅くなった。

うーん、別にこの2つを読み比べて感想を書こうと思ってるわけじゃないけど、一つの方は上下巻あり、しかも1巻が約700ページずつとかなり分厚いのに対して、もう一つの方は単行本で約300ページ。ま、情報量に格段の差があるのは読まずとも分かる。

が、田辺聖子の方はなんでこんなに長いのかというと、吉屋信子の書いたもの、そのものをたくさん引用しているからだ。なので、この本を読み終えると、田辺聖子の書いたものを読み終えた、というよりなんだか「吉屋信子の書いたものも一緒に読んだ」という気がする。もっとも、引用を多くしたのは、著者が意図的にやったもので、それはなぜかというと「あんなにたくさんのジャンルの本を書いた吉屋信子の本は、現在、一部を除いて入手しにくくなっている」からだという。

確かにAmazonで「吉屋信子」と検索を掛けてみると178商品出てくるが、そのうち約50作品は「現在お取り扱いできません」になっている。そして、現在でも入手可能なものは、ほとんどが「花物語」を代表とする、いわゆる女子学生同士の友情や淡く儚い恋愛を書いたもので、今現在、吉屋信子に対する評価は、ほとんどこの「花物語」に代表されるものと言ってよい、との現われであると言えるのではないか。

しかし、少女の頃からリアルタイムで吉屋信子に親しんできた田辺聖子は、「美文調で女子供しか読まない」とされる「花物語」は、吉屋信子の著作の中でも本の初期の部分で、吉屋信子は人生経験とたくさんの本を書き続けるうちに、美文調の文章はなりを潜め、女性が主人公のものが多かったけれども、男性も魅力的なキャラクターを作り上げることができるようになり、少女小説から家庭小説、大衆小説から歴史小説まで著作が及んだ「大作家」である、しかし、世間の彼女の評価は不当に下げられている、とのことで、この本を書こうと思ったという。

なので、この本は必然的に吉屋信子の書いた本からの引用が多く、そして、どのような過程で、どのような本を書いたのか、他の作家との付き合いはどうだったのか、を軸に彼女の日記と共に丹念に彼女の「歴史」を追っている作品になっている。また、彼女の日記も引用してはいるが、そのほとんどが1行か2行の短いものだ。

一方、吉武輝子が書いた「女人吉屋信子」は、田辺聖子の本に比べると、日記やプライベートな手紙が数多く載せられている。例えば、吉屋信子とそのパートナーだった門馬千代は一時の間、東京と下関で遠距離恋愛(というのだろうか?)をするが、その間飛びかった手紙を多数、載せている。これを読むと二人の関係の生々しさや、それと印象的には「随分長い遠距離生活だったのかな」とついつい思ってしまうが、実際には10ヶ月あまりのことなのだ(この間、150通にも及ぶ手紙のやりとりをしているというから、2日に1通の割合で手紙を書いていることになるが、、)。しかし、田辺聖子の方は淡々としており、手紙の引用はほとんどないと言ってもいい。あっても、生々しい部分ではなくただ二人の「会いたい気持ち」(吉屋信子の方は)「早く一緒に暮らしたいという気持ち」が強かった、くらいの印象でしかない。実際にはひどい手紙を書いたあと、翌日に電報を出したりすることも多々あったらしいと吉武輝子の本からは読めるが、田辺聖子の本にはそういうことは全く書いていない。

また、門馬千代と会う前に付き合っていたとされる「屋根裏の二處女」のモデルにもなった菊池ゆきえ(「女人吉屋信子」では、その後の消息をたどり許可を求める手だてがなかったため、塙十糸子という名前になっている。田辺聖子はこれを書くに当たって、遺族を探し許可をもらったのだろうか)との最後のやりとりも、吉武輝子の方はかなり生々しいことをのせているのにもかかわらず(相手に二人の関係を世間にばらすと手紙に書かれたり、相手の父親が来て、娘の将来を全面的に面倒見て欲しいと頼んだ等)田辺聖子の方は確かに父親が来たことは書いているが、吉屋信子とは会わなかったようだ、と書いている。

要するに、田辺聖子はそういう吉屋信子の「女性関係」ではなく、ただ単純に「大作家」としての吉屋信子が書きたかったようで、同性愛のことについても「同性愛」という文字は出てくるものの、基本的に田辺聖子はそのことに対してはなんの意見も述べてはいない。どころか、もしかしたら「同性愛」について触れたくなかったのではないか、とも思える。

一方、吉武輝子の方は、吉屋信子は「肉体的な結びつきよりも精神的な結びつきを重視していたこと」や「自分を金を稼いでくる男、相手は家を守る女という役割を求められることを強く拒絶していたこと」を書いている。そのため男女の結びつきを「肉体の結びつきでごまかし合う異性同士の愛」、それに比べ同性同士の結びつきを「それを抜きにした魂と魂の純粋な結びつきを同性愛に求めた」と吉屋信子は考えていると吉武輝子は書いている。これは日記の一部に「魂の結びつきの粗末さを、肉体のからみ合ひでごまかす気には、どうしてもなれぬ」と書いてあるからか。

しかし、そう日記に書いてあったとしても、吉屋信子は男女の愛について「肉体の結びつきでごまかし合う異性同士の愛」などとはどこにも書いていないのだ。ただ「魂の結びつきの粗末さを、肉体のからみ合ひでごまかす気には、どうしてもなれぬ」と書いているだけだ。なので、わたしはこういうところを読むと不当に同性愛を美化されたような感じがして「えー、なんだかなあ」と感じてしまう。だって、肉体の結びつきでごまかしている同性同士の恋愛だってたくさんあると思うし、わたしは同性愛を精神的な結びつきの方が強いなどとは決して思わないから。

この人は、他にも「山高(しげり)・市川(房枝)にかぎらず、ほとんど全部といっていいくらい、どの共同生活も、いっぽうに異性が登場したのを機に解体してしまっている。それこそ、死が二人を分かちあうその日まで、女同士の共同生活が継続されたケースは、わたしの知るところでは信子と千代をおいてほかにはない。何故、稀有なことをこのふたりは成し遂げることができたのだろうか」って書いてあるんだけどさぁ、、そりゃ、信子と千代は同性愛者で、その他は異性愛者だったからなんじゃあないのお?(笑)なんかすんごい馬鹿なことを(あ、ごめんなさい(^^;)大真面目で書いているので、とてもおかしいんだよなあ、「女人吉屋信子」。

だから「女人吉屋信子」の方は「女同士の結びつき」について、主に書かれているので、吉屋信子の作家としての評価はやはり世間と同じ「花物語程度」でしかない。それにこの本、途中、戦争時代に吉屋信子が従軍ルポ(主婦の友、特派員として)を書くために、何回も中国に行ったのだが、そういうことは一切書かれていない。ただ、戦時中は筆を折っていた、としか書かれてない。

そういうところをこの田辺聖子の方は丹念に追っている。というのは、この経験が後の作品に影響を与えたと彼女は考えているからである。

ただ、この2つの作品に共通しているのは、「吉屋信子は女性に優しかった」ということ。女流作家同士は足の引っ張り合いなどもあり、いろいろあったらしいが、吉屋信子だけはどういう人とも付き合いはよかったという。もちろん、明治時代の封建制度で女性には選挙権も与えられず、家父長制度の下、信子ももちろんのことながら、周囲の女性がどんなひどい目に遭っていたことかを目の当たりにしている。なので「女と女は助け合わないといけない」というのが吉屋信子の信条だったのだろう。この言葉を吉武輝子は吉屋信子から直接言われたという。なので多分、吉武輝子はこのことに対してものすごく感動して、だから同性愛をとても「神聖なもの」扱いするんだろうな、とわたしなんかは想像する。が、同性愛といっても女性同士だけじゃなく男性同士の同性愛もあるからねえ、、そこら辺はどう考えてたの?って思うけど、多分、男性同士の同性愛のことなんか考えもしなかったんだろうと思う(笑)

で、田辺聖子はあの時代「独身主義」を貫いて生きていた吉屋信子が、他の評論家や記者に対してどのように見られていたか、いくつかの例を挙げて書いている(これは吉武輝子の方も例は少ないが同じ)。「独身」=「男を知らない」=「だから、女子供しか読まないような小説しか書けない」という図式で吉屋信子を貶めようとしている。それは吉屋信子が生きていたときもそうだったし、死んだ後も同じである。しかも吉屋信子は生前に家を8軒も立てているような「大金持ち」だった。円本の印税が2万円入ってきたとき、吉屋信子と門馬千代は1年間を主にヨーロッパで過ごしている。こういうことも男性作家や男性評論家にとっては気に入らなかったのだろう。そういうときは、絶対に吉屋信子の顔について一言書いてある。もちろん美人とは書いていない。男にもてなさそうな顔だから、男と結婚できない、とでも言いたそうな文章で、とてもいやらしい。男の嫉妬がモロ出ている文章とでも言うのか。

ただ、吉屋信子の方は自分の作品を読まずにけなした小林秀雄に対しては、新聞社主催か出版社主催か忘れたけど、何かの折に会ったときに面と向かって「自分の作品を読まずになぜけなすのか」と言うことを堂々と述べてきたらしい。後年は何があったのかは知らないが、その小林秀雄ともうち解けていたらしいが。

こういった「図太い面」もあったらしいが、吉屋信子本人は、かわいらしいものが本当に好きで、それよりなにより美しい女の人が大好きだったらしい(笑)よく、「美しい人は大好きな信子である」とか「信子の好きそうな美人」とか、そういうことがたくさん出てくる(笑)

そして「花物語」から始まって、今度は家庭小説、「良人の貞操」を書いて大ヒット、ただ、ここに出てくる男性はまだ描き方がステレオタイプであまり魅力的でない、と田辺聖子は述べているが、、その後、戦争を挟んで、いくつかの短編、そして「安宅家の人々」から歴史小説「徳川の夫人たち」「女人平家」と続いていくうちに、一番最初に書いたように花物語のような美文調はすっかりなりを潜めて、すっきりとした文体で、男性の方も魅力に溢れた人物の描き方ができるようになってきたと田辺聖子は評価している。しかし、当時でも吉屋信子に付いたイメージというものが離れないのと、男なしでこれだけの人気がある、ということに嫉妬されてほとんどまともな評価を受けていない。これは本人も十分分かっていたようで「自分には賞とは縁がない」と思っていたようだ。しかし、仲のよかった菊池寛の「菊池寛賞受賞」はかなり嬉しかったらしいけれども。

最初にも書いたが、田辺聖子の本を読むと同時に吉屋信子の本を読んだような感覚にとらわれる。これはおそらく「思われていたような美文調ではない」ことを実物を持って現わしたかったのだろうか。それと日記の短い引用。それにはたくさん「千子」こと門馬千代のことが出てくる。吉屋信子は本当にずっとずっと門馬千代のことを愛し、感謝し続けている。吉武輝子の本には吉屋信子が同性でも結婚できるようにさせる、と日記に書いたことを引用していたが、田辺聖子の方はそう言うことについては一切触れていない。同じ日記を読みながらも、引用する部分が違うとこんなに違った印象を持つような作品になるものなんだな、と思わずにはいられない。

田辺聖子としては「女人吉屋信子」は「フェミニズムからの視点」として捉えていたらしい。なので、自分が今度は作家としての吉屋信子を評価しようとしてみたものらしい。なので、門馬千代との関係も「生涯の伴侶」と何回も書いてあるにもかかわらず、吉屋信子が亡くなったときの吉屋千代(この時は既に養子縁組していた)に対して、田辺聖子は「生涯の伴侶で莫逆の友」という表現をしていて、わたしとしては「生涯の伴侶って、普通は結婚している(それと同様な関係)人たちについて使う言葉じゃないの?それなのに、なんでそれと並行して『莫逆の友』という表現を使ったんだ?」と不思議でならなかった。だって、そういうことを書く、ということは、田辺聖子はこの二人を「友」としてしか見てないってことでしょ。普通、結婚している男女のことを「生涯の伴侶」とはいうけれど、間違ってもそれと並行して「莫逆の友」とは書かないよねえ?

わたしはここのところが一番不可解だった。。田辺聖子はこの二人を愛情で結びついた「婦婦」としては見なしていないのか、と。もちろん、同性愛を美化するのも嫌いだが、さりとてなかったものにされるのもわたしは不満が残るところだ。

文庫本の解説は斉藤美奈子が書いているが、そこには吉屋信子が不当な評価を受ける原因について「レズビアニズムへの不当な差別がひそんでいる」と解析している。周囲から「男を知らない」とか「独身主義」とか「もしかしたら同性愛者」(吉屋信子は、インタビューではそのどれについても上手く言い逃れているのだが)と見られていたであろうことは、この田辺聖子の書いた本を読めば明白なのに、田辺聖子は最後の最後でおかしいことを書いてるので、どうもこの本に対する評価もイマイチになっちゃったんだけどね、わたし。まぁ、その分を斉藤美奈子の解説で補ってあるような感じではあるが。

まー、同性愛に対する評価、というものができなかったんだろうな、田辺聖子。って感じはする(笑)でも、別に評価しようとかしないとかじゃなくて、ありのままの吉屋信子と門馬千代の生活を書けばそれでよかったんだと思うんだけどね、、で、この二人は家族だった、という認識で十分なんじゃないかなあと思う。

長々と書いてしまったが、実はわたしって、吉屋信子の本を1冊も読んでないんだよね(苦笑)あの「花物語」でさえ読んでない。読んだのは、「女人吉屋信子」と「ゆめはるか吉屋信子」だけ。んー、「花物語」はどう考えても自分には合いそうにない話だし、かといって、後期に書いた本は今は手に入らない。なんともそこら辺が歯切れを悪くしている感じがするが(笑)、ただ、作家としての吉屋信子はもうちょっと評価されてもいいんじゃないかなあとは感じている。この人さぁ、わたしが幼い頃に亡くなっているので、リアルタイムには知らないんだよね。だけど、書いた本や、生涯稼いだ額からすると、もしこれが男性だったら、日本を代表する作家、と言われているのかも知れないのよね。そう考えるとすごく惜しいと思う。

まぁ男性でも評価されない作家もいるけどね。一体、純文学が上で大衆文学が下、なんて誰が決めたんだろうね?
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女流作家 (朝日文庫) 忍者大好きいななさむ書房【2009/06/26 00:32】
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