01-08 Thu , 2009
IDAHOの前に考えること
「IDAHOって何?」とか「IDAHOってまだまだ先じゃん!」って思う人もいるだろうけど、えーっとまず、「IDAHO」とは、「International Day Against Homophobia」、日本語で言うと「国際反同性愛嫌悪の日」のことを指す。そして、この日はいつかというと、5月17日。1990年の5月17日に、国際保健機関(WHO)の国際疾病分類、ICD-10から同性愛が削除された。要するに同性愛は病気ではない、だから治療の必要がない、とされた日だ。日本も確か'94年だったか、日本精神神経学会が正式に「同性愛は治療の対象ではない」ことを表明している。

で、日本では2006年から5月17日に「国際反ホモフォビアの日」ってことで「同性愛者を初めとする性的少数者に対する差別や偏見をなくそう」ということで、イベントなんかやってたりするんだけど。あ、これはね、全世界的に行なわれているものなのだ。こんなウェブサイトがあって、日本でもやってるってことが報告されてます。

んで、何で5月にあるものを今、考えているかというと、今年もやるのだ。5月17日にIDAHOのイベントを。そのミーティングが今月行なわれることになってて、で、わたしはその前に考えている、というわけ。

去年は病気で全くかかわれなかったけど、2年前のIDAHOのイベントで呼びかけ人の一人としてやったわけね、わたし。そのときからこの日は「反同性愛嫌悪」というよりも「多様な性にYesの日」ということでやってきた。それは「反」とか「嫌悪」とかネガティブなイメージを持つ言葉を使うよりも、肯定的なイメージでやりたいねー、しかも同性愛者への差別や偏見だけじゃなくて、他の性的少数者も一緒に入れたいねー、ということから、そのようにしたわけだ。で、一昨年と去年はこの路線でやってきた。

で、今考えている。「さて。多様な性って一体、何だろうか、どこまで含むのだろうか」と。

例えば、小児愛者。ペドフィリアとも言うが、性の対象が少年や少女の人。そういえば、伏見憲明の「欲望問題」の一番始めにゲイの小児愛者の人の話が出てくる。伏見憲明がゲイの小児愛者の人に相談されたんだけど、何とも言いようがなく困った、という話。これを読んだときわたしは「なんで同性愛者と小児愛者を一緒にするんだ!」って思った。「同性愛は病気じゃないじゃん。それに対して小児愛者は自分の欲望を満たそうとするとそれは犯罪者になるじゃん!」って。それに小児性愛は国際疾病分類の中に入っている。いわゆる「病気」である(国際疾病分類第10版F65性嗜好の障害の5)。

「病気でなくなった同性愛と、病気である小児性愛を比べてどうすんの?」とそのときは思った。が、あれから考えれば考えるほど分からなくなった。「一体、国際疾病分類に入ってるとか入ってないで『異常』とか『正常』に分けてしまっていいのかなあ」とか「もし、国際疾病分類に入っているのが『異常』だったら、性同一性障害も立派な『異常』だよね」とか(性同一性障害は、国際疾病分類第10版F64)。「でも性同一性障害は、心と体の不一致でそれを治すためにわざと「病気」(=治療が必要)になったんだよね」「国際疾病分類に性同一性障害の人が入っていたとしても、その人たちを差別したり嫌悪したりしていい、って根拠にはならないよね」「だったら、小児愛者だって、差別されたり嫌悪されたりしたりしていいって根拠にはならないよね。。」

「だってさぁ。同性愛者だって、いくら否定されても『わたしたちは既にここにいる』んだよね。小児性愛者だって、既にここにいる人だし、わたしが何で自分が同性愛者に生まれてきたんだろう??異性愛者の方が絶対に楽なのに!!って思うように、もしかしたら小児愛者も同じことを思ってるかも知れないな。。。」「小児愛者じゃない同性愛者だったら、まだ大人同士の合意で付き合ったり、身体の関係も持ったりでいるけど、小児愛者は自分の欲求さえ満たすことができなくて、もしその欲求を満たしたとしたら、それは犯罪で、その子供にも大きな傷が残ったりするよね。ということは、本当にその子供を愛したとしても、本当にその子供のことを思うのなら、無理矢理SEXなんかできやしないだろうな」「だけど、一生、自分の欲望を満たすことができない存在に対して、わたしはその人に対してどういう解決方法を提示できるというのだろうか」

また、こんなことも考える。

「一人の人が複数人同時に愛せる人を責めることができるのだろうか」「多くの人は、一人の人に愛を誓って、一人の人しか愛さないというけれど、中には複数の人を自分の心の中に住まわすことができる人もいるじゃないか、そういう人に対して『不道徳だ』とか『不倫だ』とか『浮気だ』と軽々しく言えるのだろうか」「確かに今の日本の法律では、重婚は認められていない。だから、浮気は離婚の理由にすることができる。けど、何人もの人を愛せる人は、それが理由で非難できるのだろうか。中には複数の人と恋愛できる人たちが集まって、複数の人たちで恋愛していれば、それはそれで構わないんじゃないか。これが一人しか愛せない人と複数の人が愛せる人の組み合わせだったら、いろいろと問題は起こるだろうけど、そうじゃない人たちの間で合意がなされていたら、それはそれでいいんじゃないか」と(専門的な言葉を使って言うと「モノガミー」と「ポリアモリー」の問題と言うことになる)。

そう考えていくと「性の多様性」って、ホント、どこまでもどこまでも行ってしまう。線が引けなくなる。そして「多様な性にYes!」ってことは、これらを全部認める、ってことなんだろうか、と。いや、認めるも認めないもないだろう。そういう人はもう既に存在しているのだから。

だったら、わたしは一体、どこまでの性に対して「多様な性にYes!」と言えばいいのか。

これをね、ここ、ずーーーっと考えてるんだけど、本当に分からないのよ。果たして「差別していい性」なんてあるんだろうか、とも思うし、一方では「そうは言っても、犯罪になるものはやっぱりダメなんじゃないか」とも思うし「だからといって、そういう人たちはもう存在してるんだよ。その人たちはどうすればいいの?」ってね。

これ、2年前には全く考えもしなかったこと。

今年はこれをどう解釈して、自分なりにどこまで受け止めてから、IDAHOの日に臨むのか。多分、答えは出てこないだろうな、と思ってはいるけれど。でもやるからには「何のためにやるのか」ははっきりさせておかねばならないだろう。

テーマ:性的少数者(LGBTIQ) - ジャンル:日記

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