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07-24 Sun , 2016
もう7月が終わるの?
光陰矢のごとし、で、もう7月も下旬。

今年は毎日きっちり勉強してます。
でもちょっとやり過ぎで10日ほど前から風邪気味なのが抜けない。
治ったようにみえるんだけど、ちょっとするとまたぶり返して、の繰り返し。

なので、ここ3日ほど休んでるんだけど、でもやっぱりきっちりとは治ってない。
うーん、セーブしながら勉強しなきゃいけないなあ、ということで、今日からまた再開。

最近は家で勉強ばかりで外出もほとんどしてない。
昨日はものすごーく久々、映画を観に行ったけど。今、渋谷でやってるFAKEという映画。
さむらごうちさんについては、元々音楽も聞いたことがなかったし、その後の騒ぎもほとんど知らないんだけど、でも内容は結構おもしろかった。でもこの映画は自分が「騙された」って思ってる人と、わたしみたいに「別に騙されたとは思ってないんだけどね、それまで知らなかったから」という人で印象がだいぶ違うんじゃないかなと思った。

とはいえ、さむらごうちさんについては、それまで一人で作曲していると思われたものが実は共作者がいたということについて「周囲を騙していた」ことは事実で、それがあるからこそ「もう信じられない人」と思われてしまったんだよね。

わたしは「騙された」とは思ってないけど、そういうことがあったと知っているので、やっぱり「この人はどこまで本当でどこからウソを言っているのか」という「疑いの目」を持ってしまっているのは確かなことで。

しかし、一旦「疑いの目」で見始めると、その人がどう弁解しようが、真実ではないと思われる「あら探し」をしてしまって、絶対にその人のことが信じ切れなくなる。

これって、以前わたしが「蒼のシンフォニー」というドキュメンタリー映画を観たときに感じたことと同じなんだよなあってFAKEを観ながら思ったの。まぁ「蒼のシンフォニー」は、「どうしても疑いの目を持ってしまう自分」に対して、「疑いの目を持って見ろ」と日本政府から「(いわゆる)北朝鮮は悪い国だ」と無意識に刷り込まれて思い込まされている自分に気が付いて「怖いなあ」って思ったわけで、それと今回のとはその点では比較にはならないのだが、しかし、では自分は何に対して信じられなくて、何に対して信じることができるのか、その境界は一体何なのか、って考えると結構面白いんだよね。

だって、人間誰しも何かに対してウソをついて生きてるわけで、というか、誰もが本音を隠して生きてたりするわけで、それが大きいことだったり小さいことだったり、その程度の差はあれど、でもそれを他人に見せないということは、やっぱりある程度他人に対してウソをついて生きてるわけだよね。だけど、大抵の人はそのウソを「見抜けてない」のか「無視」してるのか、それは分からないけど、他人を「信じることができる」。いや、ときには「あの人はウソをついている」と分かってても信じたいと思ってしまう。何度も何度も裏切られて騙されても。逆に1度でもウソをつかれたことが分かるとすべてが信じられなくなる。

それってなんでなんだろうねって不思議に思う。自分が「信じられる」ことと「信じられない」ことの境界線って一体どこなんだろう?そしてわたしは「信じたい」ものだけを信じて今後も生きていけばいいのか?今まで無条件に「信じている」ものに対しても少し疑いの目を持って見た方が、「信じられない」ものであっても信じる努力をしてみた方がいいのではないか、と思うこともある。

まぁFAKEを観ながら、蒼のシンフォニーのことを思い出し、改めてそんなことを思ったのだった。

FAKEについては、その他もいろんな感想があるんだけど、書き始めると長くなるので書かない。
大ウソ。気が変わって翌日続きを書きました。(2016.7.25追記)

まぁそんなわけで、あと1週間ほどで8月なんだよね。早いなあ。
でも今年は忙しくて多分、毎年書いてる8月6日のことは書けないだろうなあ。
これもネタはあるんだけどなあ。
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22:05 | (一般)映画・演劇のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
07-25 Mon , 2016
昨日の続き(FAKEのネタバレあり注意)
なんか昨日、ブログ書くヒマがないってことから、ひょんなことでFAKE観た話になってしまって、それは別にいいんだけど、当初はそんなことを書く気がなかったし、そこまで真剣に書こうと思わなかったのでなんか言いたかったことを言い切れなかったような気がするので、今日、その続きを書くことにした。

が、FAKEまだ観てなくて、観に行こうと思ってて、なおかつネタバレが嫌いな人はここから読まないでね。特に映画の触れ込みの「最後の13分」だったっけ、11分だったっけ。あそこからあとのことをバッチリと書こうと思ってるので。

昨日も書いたけど、わたしは今回のこの事件については、大まかなことは知っているものの、当時(ばれたとき)にどんな風にさむらごうちさんが言われてたとか、どんな風にマスコミから取り上げられてたかということの詳細については全くと言っていいほど知らなかったので「ふーん」と思った程度だった。

なので、この映画の触れ込み「衝撃的な最後の13分(だったか11分)」っていうのは、何を意味しているんだろうということは、全部映画を見終わったあとに分かったんだよね。「なるほど、曲が作れないとか言われてた人が作ったってことか」と思って。正直なところ、わたしは最後の最後に森達也がさむらごうちさんに「今日で撮影を終わりにしようと思っているんですが、さむらごうちさん、まだ僕に何か隠していることやウソをついていることはありませんか」って聞いたところから、衝撃の13分(だったか11分)が始まるんじゃないか?ってちょっとワクワクしてしまったところがある。が、さむらごうちさんはその問いに対して「はい」も「いいえ」も即答せず、長い間考えて、そして答えたか答えなかったか分からないうちに映画が終わってしまった。

終わり方は森達也が当初から考えた上でこういう終わり方にしよう、と思ってやったんだと思った。

FAKEを観に来ている人って、自分が「騙された」って思った人もいるかも知れないし、でも大半はわたしみたいに「あんまり詳しくは知らないけど、なんか世間を騙していた人がいる」くらいな認識の人の方が多いような気はしてるんだけど、取り敢えずは「この事件について映画を観るまでは全く知らなかった!」って人はかなり数が少ないと思うの。

ってことは、観ている人のうちの十中八九は「この映画の主人公は世間を騙してた人だ」って知ってるわけだよね。そしてその人が何をするか、どういうことを言ってるか。それについて興味があるわけだよね。

昨日の日記にも書いたけど、大抵の人は人が自分を騙したとすると、もう信じられなくなる。「オオカミ少年」みたいな話だよね。「オオカミが来たぞ」って本当のことを言ったとしても、もう誰も信じてくれない。オオカミ少年の場合は、オオカミが来る、来ないで真実がはっきりするから、「オオカミが来たぞ」と言って本当にオオカミが来たら、ああ、オオカミ少年はたまには本当のことも言うんだな、と言うことは分かる(そんなこと思う前にオオカミに食われちゃってるだろうけど)。けど、物事、そんなに明確に「本当か」「ウソか」ということは分からない。前にも書いたけど、「これは信じられない」と思い込んだら、相手がいくら真実を語ろうと絶対にウソとしか思えなくなる。

なので、さむらごうちさんには申し訳ないんだけど、やっぱりどうしても「本当のことをこの人は語っているのだろうか」という「疑いの目」で見てしまうんだよね。

そして、映像というものはある点においては真実かも知れないけど、絶対に真実とは言い切れない。だって24時間貼り付いているわけじゃないから、撮影していないときにはどこで何をやっているか分からない。だから曲を作れたとしても「いや、これを見てもやっぱり自分だけで曲を作れたとは言えない」とかって簡単に思えてしまう。だからといって、じゃあ万人も納得させるような説明ができるのかというと、それは絶対にできない。だって、仮に本当に目の前で曲を作ったとしても「いや、事前に誰かに仕込まれた」とか疑えることだってできるから。だから、さむらごうちさんはもう、何をどう言ったって万人は納得させられないと思う。でもそれはこの映画を撮った森達也自身もよく分かってると思うのよね(わたしですら考え付くことだし)。

しかも、最後の最後に「僕にまだ隠していることやウソをついていることはありませんか」って聞くことって、観ている人が「これは真実か、そうじゃないか」って思っているその上にさらに「疑惑」を振りまいていることになる。

だってさ、もしさむらごうちさんが「はい」って即答したとしたら、本人が隠し事やウソをついてることを認めたってことだよね。もし「いいえ」って即答したら「うそっぽい。この人はなにかまだ隠し事があるな」って思えるよね。そして、実際にそうだったように長考した挙げ句「はい」って答えたら、隠し事やウソをついてたことになるよね。そして長考するってこと自体が「やっぱりこの人何か隠してるんじゃないか」って思わせるのに十分だよね。たとえ実際はこの後に「いいえ」って答えていたとしても。いや、もしかしたらさむらごうちさんは長く考えた上で「いいえ」って答えたのかも知れない。けど、その部分を敢えて削ったとすれば、、、この質問をしてこの姿を写してさむらごうちさんの答えを写さないままお終いにしたというのは、、、森達也はこの映画を観た人に対して「やっぱり怪しい」って思う方向に傾かせようと「演出した」ってことなんだよね。だから彼は別に誰の味方で誰の味方ではないということをこの映画で表明したかったわけでもない。

ではなぜ森達也はそういう印象を持たせたかったかというと、この映画は単に何が「真実」で何が「真実じゃない」ってことを描きたかったわけではない、ということだよね。もし何が「真実」で何が「真実じゃない」というのも重要ならば、きっと最後の質問にどう答えたかまで答えさせてから映画を終わらせると思うから。

(ちなみにこの結末の映像で、「まだ隠し事やウソをついてはいませんか」と言われ、それについて長い間考えていることに対して「この人は誠実な人だ」という印象だって持つことができると思う。だってあんなことを面と向かって言われたら、「あれ、自分はウソをついた覚えがないけど、もしかしたらこの人を騙したことが何かあるんじゃないか」って長く深く考え込んでしまうのもそんなに変なことではないからね。ただ今回は「この人一回ウソ付いたことがある人」というイメージが当初からあると「この人は実は誠実な人なんじゃないか?」と思えなくなる方が多いと思われる。しかも答えを写さないままに映画が終わるんだからなおさら)

わたしは全体的に思い返してみると「この映画は果たしてドキュメンタリーなのか?」って思うんだよね。ドキュメンタリーって普通、映画を撮っている人は被写体には影響せずに被写体がどうなるかは基本的には被写体任せだと思うんだよね。だけどこの映画はドキュメンタリーなんだけど、監督が明らかに被写体に対して働きかけてるよね。だってさむらごうちさんが曲を作るのは、森達也の「曲を作ってみないか」という呼びかけに対してだったから。それが最後の「衝撃の13分(だったか11分)」に繋がるんだから。ということは、森達也はこの映画に関しては半分「出演者」ということでもある。まぁ、それは映画の途中で「奥さんと3人で泥舟に乗っている」みたいな表現もしてたから(でも確かこの言葉は森達也が言ったんではなく奥さんが言った言葉だったと)、この映画の出演者の中には森達也も入ってるってことだよね。

「さむらごうちさんは曲は作れない」ということが、マスコミでそんなに大きく言われてたかどうかというのはよく覚えてないんだけど、もしそう言われてたとしたら映画の中で曲を作れたというとなると「曲を作れない」と報道されたのはウソだったことになる。ここでも映画を観た人は揺らぐんだよね。「あれ、報道されたことは真実ではなくて、さむらごうちさんもあながちウソばっか付いてる人ではなさそう」と。

だけど、上にも書いたけど、最後の最後の質問で、また怪しく思えるの(笑)「一体、何が本当なのか」って。気持ちが揺らぐんだよね。

多分、この「揺らぎ」を、映画を観ることによって森達也は「実感」させたかったのかなとわたしは思った。だから最後にあんな質問をして、結論を写さないまま終わったんだとわたしは思う。

だから、この映画は「何が真実で何が真実ではない」ってことを描きたかったわけじゃなく、一方的にさむらごうちさんの味方をしているわけでもなく、ただ、映画を観ている観客の「自分は何を信じて、何を信じられないのだろうという境界の感覚」に気が付いて欲しかったんじゃなかろうかと、わたしは勝手に思ってる。

なので、昨日の日記に書いたことに繋がってるんだよね、わたしのこの映画の感想って。
22:42 | (一般)映画・演劇のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
07-26 Tue , 2016
もう終わりにしよう
「もう、終わりにしようか」

「え、終わりですか?」

「あなたが望めばの話だけどね」

「じゃあ、終わりにしたいです!」

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ってことで、次回、最後の通院(の予定)。
2011年1月から3回目のうつ病で通院し始め、足かけ5年半。長かった。

うつ病は治る。絶対に治る。わたしは今まで3回治してきたから分かる。

けど、、どうやって4回目を阻止するか。4回目の再発率は90%以上。
初めてうつ病にかかったときは原因はあったが、2回目3回目の原因は思い当たらない。
わたしにとってはそれが一番の問題。
18:08 | 3度目のうつのこと | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
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