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11-18 Tue , 2014
彼岸花を見に(新美南吉記念館) その2
その1を書いてから半月以上経ってしまった(汗)9月29日に行ってきた旅行記を今頃書いても、って気もしてるけど、まぁ、書いて残しておきたい気もするんで、今のところは一応最後まで書く気でいます。

で、どこまで行ったんだっけ。あ、名古屋に着いたところまでか。いや、実は結構前に「その2」を書き始めてたんだけど、画像をアップする上でここのブログ、画像1枚2MBまでっていう制限があるんだよね。それにひっかかる画像が多くて、先に画像を加工してたらこんなに時間が経ってしまった、ということだったんだよね(汗)画像自体の加工は割とすぐに終わったんだけど、それが終わったら書く気と書く時間が失われてました(笑)

「新美南吉記念館」の最寄り駅は名鉄「半田口駅」なんだけど、ここに行くためにはまず、新幹線から名鉄に乗り換えなければいけないわけで、これが結構歩くんだよね。まぁ迷いはしませんでしたけどね。あ、でも名鉄がどこに行くのかよく分からなかったので(今でもよく分かってないが)名鉄乗り場の案内のところに飛行機のマークが書いてあって「あれ、これでいいのかな?」って不安に思ってしまったのは事実。名古屋から飛行機に乗ることはまずないので、飛行場自体どこにあるか分からないし、あと「半田口」って知多半島の方だから、なんかそれとイメージ合わなくてね。

で、名鉄名古屋駅に到着。てか、「名鉄」も駅名に入ってるのね。

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事前に電車の時刻を調べて行ったんだけど、少し前に着いちゃって(思ったより名鉄名古屋駅まで行くのに時間が掛からなかった)行き先の電光表示にまだ載ってなくて、ホームが本当にここでいいのか、かなり迷いました。だって名鉄って、同じホームでも乗る電車によって行き先が全部違うみたいなんだもん!その行き先がわたしが行こうとしている「半田口」と同じなのか、そうでないのか、地名だけでは判断できないので電車来て乗って、本当にそちらの方向に行くのか確認できるまで怖かったです。まぁ、初めて行くところだったしね、、

てなわけで、無事、半田口に到着。名鉄名古屋駅から40分くらいだったかな?1時間掛からなかったと思います。確か途中まで特急だか急行だか途中の駅を飛ばしていく電車で、その後各停に乗り換えた記憶が(ほとんど2ヶ月前なので既におぼろげにしか覚えてない(汗))。

201411181727173cb.jpg   IMG_0504.jpg


半田口には昼少し前に着いたんだけど、「まつり」の期間中だから、十数人は降りるだろうと思いきや、数人しか降りなかったのでちょっと拍子抜け。駅は「新美南吉」一色。まぁ当たり前か。

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こんなん、とか、駅を出て踏切を渡ろうとしてみれば

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こんなのがドーンって書いてあったりね。「ごんぎつね」のふるさとなんで、キツネの絵なんかががたくさん書いてあったり、立体の姿のキツネもたくさん見たんだけど、この先も。正直、どれもかわいすぎて、わたしの中の「ごんぎつね」とは掛け離れてた。わたしの中の「ごんぎつね」はもっと不細工な顔をしてます。

ごんは、「へえ、こいつはつまらないな」と、思いました。
「おれが、くりやまつたけをもっていってやるのに、そのおれにはおれいをいわないで、神さまにおれいをいうんじゃ、おれは、ひきあわないなあ」



こんなことを思ってしまう「ごん」だから。もっと眼が細くて、もっと口が尖ってて。不平、不満もたらたら言って。そういうのがわたしの想像している「ごんぎつね」。なにぶんにも、小学生の頃から繰り返し読んでいる「新美南吉」なので、わたしの中では何十年も繰り返し、繰り返し、想像されてきたものなんだよね。だから、描いてある「ごん」、飾ってある「ごん」はどれもかわいすぎるようにわたしには思えてならなかった。

駅を出て、彼岸花を見に、矢勝川に向かう途中でまず見たのがこれ。

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この画像自体は、帰るときに撮ったものなので夕方になっちゃってるけど。わたしはこの「岩滑」って文字を見て「ああ、やっとここに来たんだ」って思ったの。新美南吉の作品の中にはたくさん「岩滑」って地名が出てくる。この地名を初めて見る人は多分、これをどう読むのか分からないだろう。「岩滑」とかいて「やなべ」と読む。岩滑という文字ほど、わたしが「ここに来た」という実感が持てるものはなかった。これを見て、初めて「ここが多くの物語の舞台になったところなんだ」って実感した。

矢勝川に行く途中で、新美南吉の生家があるってことで、寄ってみた。

IMG_0514.jpg   IMG_0511.jpg


生家の中は入ることができたし、階段降りて1階(と言えばいいのか。ここは家の向こうが「がけ」みたいになってて、ここから見ると平屋に見えるんだけど、この部分は実は2階なんだよね。2階というか、ここが1階で下に降りて地下1階、というか。でも別に「地下」ではないので、、表現が難しい)も降りて台所とか、みんなでご飯食べてたところとか、風呂桶とかそういうのも全部見られる。とても小さい家でした。小さいと言えばいいのか、低いと言えばいいのか。ご飯食べてた部屋なんて、多分、わたしは背を伸ばして歩けないくらいの低さだったんじゃないかと思う。「生家」というのは、新美南吉は生まれて8歳くらいで母方のおばあさんの養子になるんだよね。まぁなんかおばあさんと2人暮らしが寂しくて、数ヶ月で戻って来ちゃうらしいんだけど。それから、大きくなってからは離れが近くにあって、弟と一緒に離れに暮らしてたらしいです。ご飯を食べるときに母屋に戻ってきてたとか。

生家に寄ったあと、なんか近くにトイレがあるって言うんで行ってみたら、でかい金木犀の木が植えてあって、それも満開だった。そうそう、これからずっと土手を歩いて行くんだけど、なんかずっと金木犀の香りが漂っていてね。そういうのも思い出の一つとして残ってます。

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生家に寄って矢勝川に行く途中、こんなのを見つけた。

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お地蔵さま。新美南吉の作品にはお地蔵さまの描写ってあったっけ?あったとしても具体的に今、すぐには思い出せないんだけど、ただ、作品とこういう風景はとても合っていて。「ああ、こういう中で南吉はあれらの物語を書いたのだ」って思った。ただ、もうちょっとこういうのに遭遇するかと思ってたんだけど、わたしが気が付いたのはこれだけだった。

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というわけで、ついに矢勝川に着く。ただ、すぐに土手を歩いたわけじゃなく、この進行方向、道路を挟んだ右側に「ごんごろ緑地」という公園みたいなのがあったのでそこに寄る。

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「ごんごろ」といえば、すぐに思い出すのが「ごんごろ鐘」という作品。もちろんこの緑地の「ごんごろ」というのは「ごんごろ鐘」のお話から取ったものだろう。この作品は特に好き、というものではないが、戦時中、鐘を供出するときの出来事を書いた話で、中でもとりわけ印象的なのが

紋次郎君とこのばあさんが、
「三河のごんごろうという鐘師がつくったと書いてねえかン」
と、きいた。
「そんなことは書いてねえ、助九郎という名が書いてある」
と、吉彦さんがこたえると、ばあさんはなにかぶつくさいって、ひっこんだ。



というところだ。「ごんごろ鐘」の「ごんごろ」の由来について、作った鐘師のぜんそくが移っただの、三河のごんごろうが作っただの、最初は「ごんごん鐘」と呼ばれていたのがいつの間にか「ごんごろ鐘」になったのだの、って話が最初の方に出てくるのだが、供出するに当たって鐘を下ろして中を見たときの場面だ。「ごんごろう説」を唱えていたおばあさんが自分の説が正しいと思って聞いてみたら、全然違う人の名前が書いてあったので、ぶつくさ言って引っ込む。ここの場面、本当に目の前に浮かんでくるような感じ(笑)わたしは新美南吉の、時折すごくリアリティがある描写がとても好きだ。

まぁ、だからといってこの公園には名前以外にごんごろ鐘を思い出させるものはなかったのだけど。あ、あとは画像は撮ってこなかったんだけど、なんか石碑(句碑?)みたいなのが入口にあったような気がするな。

というわけで、その3に続く。。

次からやっと、彼岸花の画像、出ます。今回もなんだか前振りみたいなものになってしまった。。まぁでも、わたしにとってはここは一種の「夢の国」みたいな感じで、既にもう気持ちはふわふわしてたんだよね。。
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11-19 Wed , 2014
彼岸花を見に(新美南吉記念館) その3
その2の続き。今さらだけど記憶が薄れないうちに書いておかないと(笑)

彼岸花が植えてあるところは、矢勝川の高田橋ってところから弘法橋ってところらしい。わたしがスタートしたのは高田橋の方。その2の最後から2枚目の画像で橋が映っているが、これが高田橋。高田橋から弘法橋方面を望むと

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こんな感じ。もちろん、川が曲がりくねっているので、ここから弘法橋を見ることはできない。この画像を見ると「あれれ、そんなに咲いてないじゃん」って思われるかも知れないが、わたしも行って初めて知ったんだけど、彼岸花って場所によって咲いてるところと咲いてないところの差が激しいのね。わたしは桜みたいに咲き始めたら全部満開で、あとは一気に散る、というのを想像してたのよ。だけど、全然そんなんじゃないってことが分かった。その1にも書いたけど、旅行行く前にここのサイトで見頃をチェックしてて(ここのサイト、今は更新止まってるけど、まつりの前後は毎日開花状況を更新してた)、ほぼ咲きそろったと思ったところで行ったんだけど、正直なところ、もうちょっと早めに行けばよかったと。まぁもうちょっと早めというと、バスの値段が高い金曜日の夜に帰ることになったり、土日に当たったりしてしまう日程になるんで、今年はタイミング的に仕方がなかったのかなーという感じがするが。ちなみに今年は例年より咲くのが早かったらしい。ただ、全部咲きそろうことはないので、この時期でも十分楽しめましたよ、もちろん。

土手を少し歩くと「ででむし広場」ってのがある。「ででむし」って言うとわたしがすぐ思い出すのは

生(あ)れいでて
舞ふ蝸牛(ででむし)の
触覚(つの)のごと
しづくの音に
驚かむ
風の光に
ほめくべし
花も匂はば
酔(え)ひしれむ



この詩ですね。これは新美南吉が安城高女だったっけ?に勤務してた頃に、クラスで詩の文集かなんか作って、その最初にあった詩なんだよね。今回、この句碑がないかなあって探してたんだけど、この句碑は安城市の元安城高女のあった小学校にあるらしい。この詩、前にも書いたけど、わたしが小学校5年だったか6年だったかに、なんで新美南吉が出てきたのか覚えてないんだけど(もしかして「おじいさんのランプ」を習った関係?)この詩を先生から紹介されて、覚えさせられたのです(覚えさせられたって言うとなんか無理矢理みたいだけど、そういうわけじゃない)。その他に新美南吉で「ででむし」っていうと「でんでんむしのかなしみ」という作品もあるけど(こっちの方は童話の割に哲学的なお話)、「ででむし」っていうのと「でんでんむし」っていう言葉は、わたしの中でかなり印象が違ってて、やっぱり「ででむし」は「ででむし」なんだよね~。わたしにとっては小学校の思い出と共にある作品だから、これもまた、いつか安城に行って、直接句碑を見てきたいな(小学校にあるそうなんだけど、入れるのかな?)。

IMG_0523.jpg   IMG_0524.jpg


「ででむし広場」から望む。ここら辺はほぼ「満開」って言っていいんじゃないかと思う。まぁ、こんな感じで土手の斜面一面に彼岸花が咲いてるわけです。

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これは「ででむし広場」からしばらく行ったところ。結構「果てしなく」続いてる感じ。しかも、画像見て分かると思うんだけど、人がほとんどいなかった(笑)このずっとずっと先に「新美南吉記念館」があって、その周辺は確かに人が多かったんだけど、ここら辺まではわざわざ歩いてくるような人は少ししかいないみたいです。まぁあとは平日ってこともあると思うけどね、もちろん。

ただ、わたし、彼岸花を見ながら思った。「わたしのイメージしてたのは、川の土手の内側に咲いてる彼岸花なのにな」って。しかし、川は護岸工事で

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こんなになっていて、彼岸花を植えるすき間がないんだよね。。これは考えても仕方がないことなんだけど、物語が作られた昭和初期、の頃は全然こんなんじゃなくって、自然のままだったんだろうな、と。そこに彼岸花は咲いてなかったとしても、土手は草に覆われてたんだろう。そうだ、ここは「ごんぎつね」で兵十がウナギを獲っていた川じゃないのか。

ごんは、村の小川のつつみまで出てきました。あたりの、すすきのほには、まだ雨のしずくが光っていました。川はいつもは水がすくないのですが、三日もの雨で、水がどっと増していました。ただのときは水につかることのない、川べりのすすきや、はぎのかぶが、きいろくにごった水によこたおしになって、もまれています。ごんは川しものほうへと、ぬかるみ道を歩いていきました。
ふと見ると、川の中に人がいて、なにかやっています。ごんは、見つからないように、そうっと草の深いところへ歩みよって、そこからじっとのぞいてみました。
「兵十だな」と、ごんは思いました。兵十はぼろぼろの黒いきものをまくしあげて、こしのところまで水にひたりながら、さかなをとる、はりきりというあみをゆすぶっていました。はちまきをした顔のよこっちょに、まるいはぎの葉が一まい、大きなほくろみたいにへばりついていました。



平成26年になってしまった、今現在の川の姿からは想像するのがとても難しかったんだけど、かつてはこのようにしてウナギを獲っている人がいたんだよなって思いながら、土手を歩いていた。ああ、でも中には

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こういう、土手の内側で咲いているところもありましたよ。ここら辺はもう咲いたあとでほとんどしおれてたけど、

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中にはこんな感じで咲いてるところもあった。まぁ土手の内側で咲いてたのはほんの一部だったけどね。

こんな川にはもう、ウナギなんかいないだろうなと思いながら見てたら、

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こんなコイがいたし、それからもっと歩いていたら、こんな看板もあった。そっか。ウナギも市民の手で放流してたりするんだなあ。。コイはこういうところでも結構生きていけると思うんだけど、ウナギはどうなのかな?

彼岸花の方に話を戻すと、一応、咲いてるは咲いてる。んだけど、遠くから見ると

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こんな感じで、どうもわたしが想像してたような「土手一面が彼岸花で真っ赤」に染まってる感じじゃないんだよね~。一面が真っ赤なのはどこじゃろ、どこじゃろ、と思いながら歩いてたんだけど、どこも一面が真っ赤なところはなく、咲いているところと咲いてないところ、既に咲いちゃったところが混在してました。ただ、本当に近づくと

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こんな感じで、「彼岸花のじゅうたん」みたい。さらに近づくと

IMG_0534.jpg  IMG_0535.jpg  IMG_0536.jpg


こんな感じ。全面咲きそろってるように見えるかも知れないけど、よく見るとまだつぼみ状態のものもたくさん含まれてるんだよね。まだ咲いてないところは、

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これがつぼみ状態のところ。でも多分、これが咲く頃には今咲いているところはもう枯れちゃってるだろうな。枯れると赤い色が褪せてきて、

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この画像の手前の花みたいになってくる。まぁ多分、咲き始め以降はみんなこんな感じで咲き終わったものと咲いているものとこれから咲くのが混在してるんだろうね。その中でどの状態が「満開」なのかを見極めるのは結構難しいと思った。そうそう、中にはこんな感じで

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白い彼岸花もあった。黄色いのは見た感じじゃなかったかな。ただ、ここら辺は歩いてもうだいぶ経ったところで、足は痛くなるしお腹は空いてきたしで、正直なところあんまり「彼岸花!」って感じでもなかったのよね(苦笑)で、この「まつり」の期間中は記念館の近くに「彼岸花案内所」ってものが設けられてて、そこはどうも休憩所でもあるらしかったので、そこで名古屋駅で買った「天むす」を食べようと思った。事前にここら辺でどこか食べるところないかしらと思ってお店を調べたりしたんだけど、車ならともかく、歩いて行くのはとてもめんどくさそうだったんだよね。なので新幹線降りてから名古屋駅で弁当を買うことに決めてたんでした。「彼岸花案内所」の方に折れていく前に、こんな案内板があった。

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画像じゃ光っててよく見えないけど「童話『ごんぎつね』の舞台」って書いてある。ちなみにここに書いてある「権現山」だけど、わたしにはどれかよく分かりませんでした(苦笑)付近には小さな山みたいなのはいくつかあって。多分これだろうなってのはあったけど。「ごん」が住んでいると思われる、権現山からここ、矢勝川まで。昭和の初め頃の風景を一生懸命想像してみようと思ったんだけど、無理でした。。ってより、わたしの何十年って頭の中で持ってる「景色」の方が強かったのかな、、

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案内所に着いて、天むすを。案内所は広場みたいなところで、地元の人なのかな?がいくつか、お店を開いて何か売ってました。弁当の類じゃなく、土産物か少しの食べ物、あとは洋服だったか?なんか、こういうと悪いんだけど「こんなところでわざわざ買うかなあ」って思うものが売ってたような気がした(済みません。。)。で、テント張ってある下に椅子と机がいくつか置いてあって、そこで弁当を食べてる人がたくさんいました。ほとんどが地元の人で、わたしが見たところ、結構歳いってる人が多かったなあ。地元の人かなって思ったのは、横で会話を聞いてると、なんか地元っぽい方言だったから。みんな2、3人のグループで来てて、わたしみたいに一人で来てたのは誰もいませんでした(笑)

しばらく休んだあと、記念館の方には向かわずに、取り敢えず終点の弘法橋まで行った。

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弘法橋から来た方向の高田橋方面を望む。弘法橋付近は全然彼岸花なかったけどね。で、わたしはそこから記念館に向かわずに「しんたのむね」に向かいます。「しんたのむね」に行く途中、ススキがあったり、あと、周辺は田んぼでちょうど借り入れ直前、という感じだった。

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こういうのも「南吉童話」を構成しているものなのかなと。

その4に続く。。
18:22 | 一人旅 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
11-22 Sat , 2014
ノロウイルス罹患
いやー、初めての経験。

ノロウイルスに感染してひどい目に遭った。

てか、ウイルス検査してないので本当にノロかどうかは分かんないけど、まぁ典型的な症状なので、まず確実だろうと思う。一昨日の夜に突然吐いて、その後、何回も何回も吐いて。次第に体中がピリピリ、ゾクゾクしてきて発熱の兆候、そして下痢までは行かなかったけどお腹がぐるぐる言って。一昨日の夜は一睡もできなかった。

夜が明けてから、死ぬ思いでタクシーに乗って病院へ。「典型的な胃腸炎ですね」と言われ水分補給と吐き気止めの点滴を2時間。少し楽になって帰ってきた。

それからずっと寝てて、夜に少しおかゆを食べて寝たら、また嘔吐。食べたもの、飲んだもの(水分補給のためにお茶やらポカリスエットを飲んでた)全部出た感じ。「よく胃の中にこんなに残ってるね」と思ったほどたくさん吐いた。まぁその夜はそれ1回切りだったけど。。

次の日は頭痛で苦しむ。なんで頭痛が出てきたのか分かんない。わたしは偏頭痛持ちであるけど、頭の痛さには非常に弱くって、それですぐに吐き気が来る。なので、このときになるとお腹が気持ち悪くて吐き気がするのか、頭痛で吐き気がするのか、よく分かんなくなってた。

結局固形物は夜におかゆを食べたきり。それまでまったくお腹なんか空かなかった。夜におかゆを食べて初めて「なんかもっと味のあるものが食べたい」と思って、同時にコーンスープも飲んだ。きっと身体の中の塩分が足りなくなってたのかなと思う。

そしたら急激にお腹がいっぱいになって気持ちが悪くなった。食べたことを後悔した。けど、これは寝てたら自然に治った。しかし、一旦治ったと思われた頭痛がまたぶり返してきて。。

今日の明け方、頭痛で目が覚めた。気持ちが悪くて何度も吐こうとしたんだけど、もう吐けなかった。きっと胃腸炎はもう治ってきてるんだろう。薬を飲んで、それでも治らなかったので彼女を起こしてちょっと頭を揉んでもらって、そうしたら頭痛はスッと消えて、眠れた。

症状が出て3日目の朝を迎えるが、丸2日、ほとんど何も食べてないので身体に力が入らない。

回復するのにはもうちょっとかかりそう。

いやー、ひどい目に遭った。
11:37 | 自分のこと | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
11-26 Wed , 2014
彼岸花を見に(新美南吉記念館) その4
その3の続き。

さて、「しんたのむね」に来た。「しんたのむね」は新美南吉の作品のあちこちで出てくる地名だが、「しんたのむね」で一番に思い出されるのは「牛をつないだ椿の木」だろう。

「しんたのむねを下りたところにほったら、水が出るだろうかなァ」
と、ききました。それは、利助さんが牛をつないだ椿の木のあたりのことでありました。
「うん、あそこなら、出ようで、前の山で清水がわくくらいだから、あの下なら水は出ようが、あんなところへ井戸をほって何にするや」
と、井戸新さんがききました。
「うん、ちっとわけがあるだて」
と、答えたきり、海蔵さんはそのわけをいいませんでした。



海蔵さんは、水をのみにいっている間に利助さんの牛が椿の葉をくってしまったことを話して、
「あそこの道ばたに井戸があったら、いいだろうにのォ」と、いいました。
「そりゃ、道ばたにあったら、みんながたすかる」
と、いって、お母さんは、あの道の暑い日ざかりに通る人びとをかぞえあげました。大野の町から車をひいてくる油売り、半田の町から大野の町へ通る飛脚屋、村から半田の町へでかけてゆく羅宇屋の富さん、そのほかたくさんの荷馬車ひき、牛車ひき、人力ひき、遍路さん、乞食、学校生徒などをかぞえあげました。これらの人ののどがちょうどしんたのむねあたりでかわかぬわけにはいきません。
「だて、道のわきに井戸があったら、どんなにかみんながたすかる」
と、お母さんは話をむすびました。



わたしは、長い間これらの作品を繰り返し読みながらずっと「しんたのむね」の想像をしてきた。道はもちろん舗装してない砂利道かな、それとも土の道かな、わたしのイメージとしては黄土色の道だったので、多分土の道だと思ってるのだが、道のへりには椿の木が植えてあるくらいだから、きっと他の木もうっそうと茂ってるんだろう。崖になってるらしいから、すぐ近くに山があるんだろうか。あ、そういえば一番始めに「山の中の道のかたわらに」って書いてあったよな。だからここは山の中なんだ。きっと急な坂道なんだろう。だからみんな喉が渇くんだ。そしてそこの道をいろいろな人たちが行き交っている姿、せわしく行き来している姿、、を想像していた。

「牛をつないだ椿の木」は、以前にも書いたと思うがわたしの大好きな作品の一つだ。物語的にはちょっとお説教臭さというか、道徳の教科書的というか、そういうものがちらついて見えるのだけど、基本、わたしはこういう「人としての正しい行い」みたいなのに少し弱かったりする(笑)

金を持ってそうな利助さんが「その三十円をどうしておれが出すのかェ。おれだけがその水をのむなら話がわかるが、ほかのもんもみんなのむ井戸に、どうしておれが金を出すのか、そこがおれにはよくのみこめんがのォ」といって断るところ、それならと思って賽銭箱のようなものを椿の木に吊り下げて「ここに井戸をほって旅の人にのんでもらおうと思います。志のある方は一銭でも五厘でも喜捨してください」と書いた札を付けて、誰かが寄付してくれないか見ていたところ、札を読んでも誰も寄付しなかった場面。現実的にも大いにあることだ。昔、わたしが大学生の頃、大学には男子寮があったんだけど、女子寮がなかった。だから、遠方から通ってくる人が「女子寮を作りたい」って運動を始めたんだけど、結局「今運動して実現したとしても、自分たちが卒業するまでに寮が建てられるとは限らない」ことを知り、一瞬でその話は消えた。そういうことだよね。「今、こういう人たちがこういう目に遭って苦しんでいます。誰か助けて下さい」という話を聞いても「ああ、そうだね、かわいそうな人たちだね。悲しいね。涙が出るね。やりきれないね」と言って何もしない。そういうことだよね。

もちろんこれは、人のことを言ってるんじゃない。わたし自身のことだ。寮の話はわたし自身当事者でもあったしね。そしてもちろん、自分が聞いたすべての話に対してすべてかかわることは不可能だ。けど、それは何かをやらない理由にはならない。自分にできることは限られているけれど、できる範囲で何かをやる、やっていかねばならないとは思っている。なかなか難しいけどね。一番楽でやった気になれるのは金を出すことだけど、わたし、今、金、全然持ってないから、何か別の方法で、とは考えているけれど。

まぁ話を元に戻そう。

そして海蔵さんが「けっきょく、ひとはたよりにならんとわかった。いよいよこうなったら、おれひとりの力でやりとげるのだ」と決意し、いつもはお客を待っている間(海蔵さんは人力車ひき)、駄菓子屋でお菓子をつまむのが常だったんだけど、決意したあとは一切食べるのを止めてしまう。わたしは、ここの駄菓子屋のシーンがなんか好きでね。ついつい今までの習慣で駄菓子を食べたくなってしまう姿、それを必死で抑える姿。目の前にまざまざと光景が思い浮かぶ。新美南吉のすごいところは、文章のところどころで目の前にありありと思い浮かぶ、とても美しい表現があるところなんだよね。

例えば

秋の陽ざしは暖かく和んで、あちらの汲みたての水盤に水を飲みにくる蜂が、金色の糸をひいたように光った。(「良寛物語・手毬と鉢の子」より)



こんな表現。こういう美しい表現、目の前に浮かぶような表現があちこちにあるの、この人の作品。「おじいさんのランプ」の、わたしが一番好きなところ。

「わしの、しょうばいのやめかたはこれだ」
と、巳之助はひとりでいった。しかしたち去りかねて、ながいあいだ両手をたれたまま、ランプの鈴なりになった木を見つめていた。
ランプ、ランプ、なつかしいランプ。ながの年月なじんできたランプ。
「わしの、しょうばいのやめかたはこれだ」
それから巳之助は、池のこちらがわの往還に来た。まだランプは、むこうがわの岸の上にみなともっていた。五十いくつもがみなともっていた。そして水の上にも五十いくつの、さかさまのランプがともっていた。立ちどまって巳之助は、そこでながく見つめていた。
ランプ、ランプ、なつかしいランプ。
やがて巳之助はこごんで、足もとから石ころをひとつひろった。そして、いちばん大きくともっているランプにねらいをさだめて、力いっぱい投げた。ぱりいんと音がして、大きい火がひとつ消えた。
「おまえたちの時世はすぎた、世の中は進んだ」
と、巳之助はいった。そしてまたひとつ石ころをひろった。二番めに大きかったランプが、ぱりいんと鳴って消えた。
「世の中は進んだ。電気の時世になった」
三番めのランプを割ったとき、巳之助はなぜかなみだがうかんできて、もうランプにねらいをさだめることができなかった。



うわ、泣きそうだ、わたし。ここは何度読んでも本当に好きな場面で。このシーンは、わたしの頭の中で何回も何回も繰り返し想像してきたシーンだ。新美南吉の作品のすばらしさはこんなところにもあるとわたしは思っている。

あ、「牛をつないだ椿の木」の話だった(汗)

そして物語はこれで井戸を作ってめでたしめでたし、じゃないのだ。2年かけてお金を貯め、いよいよ井戸を掘らせてもらおうと地主の元に行くのだが、地主は「井戸を掘らせない」と言う。その地主はしゃっくりが止まらず、じきに死ぬだろうということで、地主の息子は「そのうちわたしの代になりましょうから、そしたらわたしが、あなたに井戸をほることを承知してあげましょう」と言うのだ。そこで家に帰って海蔵さんはお母さんに「あのがんこもんのおやじが死ねば、息子が井戸をほらせてくれるそうだがのォ。だが、ありゃ二、三日で死ぬからええて」と言ったところ、お母さんに「おまえは、じぶんの仕事のことばかり考えていて、わるい心になっただな。ひとの死ぬのを待ちのぞんでいるのは、わるいことだぞや」と言われる。海蔵さんはハッとする。ハッとして、まだ生きている地主のところに行く。そして「わしは、あやまりにまいりました。きのうわしは、ここから帰るとき、息子さんから、あなたが死ねば息子さんが井戸をゆるしてくれる、と聞いて、わるい心になりました。もうじきあなたが死ぬからいい、などと、おそろしいことを平気で思っていました。つまり、わしはじぶんの井戸のことばかり考えて、あなたの死ぬことを待ち願うというような、鬼にもひとしい心になりました。そこで、わしは、あやまりにまいりました。井戸のことはもうお願いしません。またどこか他の場所をさがすとします。ですから、あんたはどうぞ、死なないでください。どうぞなおってください」とまだ生きている地主に言う。

ただ、わたしはここの後半部分は嫌いです(笑)なぜ、自分が悪い心になったことをわざわざ地主に報告に行くのか。もちろん、そうしなきゃ話が進まないからだろうが、少なくとも言うべき相手は「地主の息子」であって、まだ生きている地主ではないと思う。悪い心を持ったことについては、反省すべきだが、その反省したことは別に人に言うことはないじゃない?反省したことを誰かに言うってことは、誰かに評価してもらいたい、という気持ちがどこかにあるんじゃないの?って、意地の悪いわたしはそう思ってしまうのだ。だから、わたしはこの後半部分は気にくわない。

あーでもこの話、うん、やっぱりどこか道徳的な話だよね(笑)けど、なぜわたしがそこまでこの話に惹かれてしまうのか、、それはやっぱりこの人の生き方に感動するからだと思うんだよね。

新美南吉の作品って、「ごんぎつね」は違うんだけど(「ごんぎつね」は分かり合えた瞬間に相手を失ってしまう、しかも自分の手によって、という不条理な話だよね)、「花のき村と盗人たち」とか「おじいさんのランプ」とかって、わたしが好きなのは、出てくる人の「生き方」が好きなんだな、結局。「おじいさんのランプ」は上の引用でだいたい分かると思うけど。

ちなみに「花のき村と盗人たち」でわたしが一番好きなシーンは

たいていの牛の子というものは、そこらをぴょんんぴょんはねまわって、持っているのがやっかいなものですが、この牛の子は、またたいそうおとなしく、ぬれたうるんだ大きな目をしばたたきながら、かしらのそばに無心に立っているのでした。
「くッくッくッ」
と、かしらは、わらいが、おなかの中からこみあげてくるのが、とまりませんでした。
「これで弟子たちに自慢ができるて。きさまたちがばかづらさげて、村の中を歩いているあいだに、わしはもう牛の子一ぴき盗んだ」といって、
そしてまた、くッくッくッとわらいました。あんまりわらったので、こんどはなみだが出てきました。
「ああ、おかしい。あんまりわらったんで、なみだが出てきやがった」
ところが、そのなみだが、流れて流れてとまらないのでありました。
「いや、はや、これはどうしたことだい、わしが、なみだをながすなんて、これじゃ、まるでないているのと同じじゃないか」
そうです。ほんとうに、盗人のかしらは泣いていたのであります。―かしらはうれしかったのです。じぶんはいままで人からつめたい目でばかり見られてきました。じぶんが通ると、人びとはそらへんなやつがきたといわんばかりに、まどをしめたり、すだれをおろしたりしました。じぶんが声をかけると、わらいながら話しあっていた人たちも、急に仕事のことを思いだしたように向こうをむいてしまうのでありました。池の面にうかんでいる鯉でさえも、じぶんが岸に立つと、がばっとからだをひるがえしてしずんでいくのでありました。あるとき猿まわしの背中におわれている猿に、かきの実をくれてやったら、ひと口もたべずに地べたにすててしまいました。みんながじぶんをきらっていたのです。みんなが自分を信用してくれなかったのです。ところが、このわらじをはいた子どもは、盗人であるじぶんに牛の子をあずけてくれました。じぶんをいい人間であると思ってくれたのでした。またこの子牛も、じぶんをちっともいやがらず、おとなしくしております。じぶんが母牛ででもあるかのように、そばにすりよっています。子どもも子牛も、自分を信用しているのです。こんなことは、盗人のじぶんには、はじめてのことであります。人に信用されるというのは、なんといううれしいことでありましょう。
そこで、かしらはいま、美しい心になっているのでありました。子どものころは、そういう心になったことがありましたが、あれから長いあいだ、悪いきたない心でずっといたのです。ひさしぶりでかしらは、美しい心になりました。これはちょうど、あかまみれのきたない着物を、急に晴れ着に着せかえられたように、きみょうなぐあいでありました。―かしらの目からなみだが流れてとまらないのは、そういうわけなのでした。



というところだ。ただし、これは特に「生き方」の場面じゃない。この場面もちょっとくさいところだけど、でも、わたしがここが好きなのは「何か努力をした結果、いいことが起こったわけじゃない」ってところなんだよね。なにか、自分が努力したわけじゃないのに、ふとしたことが起こり、心が変わる。ふとしたことに、敏感に心が反応する。わたしはこの話、これ以後の結末に至る話も好きなんだけど、でも、中でもこのシーンが一番好きで、「花のき村と盗人たち」というと、このシーンが一番に思い浮かんでくる。

もう一つ、わたしが好きな作品に「うた時計」があるんだけど、これは特に好きな場面ってのはないの。でも、全体的な話が好きなの。わたしはこの作品で「清廉潔白」って言葉を知った。

ああ、わたし、今まで新美南吉の作品に対する好みの共通点なんて考えたことがなかったけど、考えたら多分、それだったんだなー。。

あ、「しんたのむね」の話だけするつもりが、なんか大いに話がずれちゃった(笑)

で、今回、いろいろ回るに辺り参考にしたのがここなんだけど、この一番上の地図の中に「しんたのむね」ってあるでしょ。それをね、見た途端に「ここには絶対に行く!」って決めたの。これだけ思いがこもった作品に出てくるところだもの。これは絶対に行かなくちゃ!って思った。もう一つ、「半田池」も「おじいさんのランプ」の舞台になった、って書いてあるから、ここもすごく行きたかったんだけど、いかんせん、歩くしか手段がなかったもんで、ちょっと遠すぎて。。ああ、でも、ランプが吊り下げられて、ぱりいんって割られた、あの池、、いつか行ってみたい。。

で、「しんたのむね」付近に着いた。

IMG_0558.jpg   IMG_0559.jpg


「へ?ここ?」って思ったね。。あまりにも、あまりにも、想像してたのとは違いすぎてって。第一、全然山の中じゃないじゃん!って当たり前なんだけどさ。。。あの話は日露戦争前後の話だから、今から100年以上前の話だしね!そりゃ、全然違ってるのは当たり前だよね!だからせめてそこから「100年前の光景」を想像しようとしたんだけど、、ちょっと難しかった。やっぱここがかつて「山の中」だったことを想像することなんかできなかった。でも、ここがあの「しんたのむね」かと思ったら、なんか心が熱くなったよ。

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「しんたのむね」付近には、こういう看板が立ってた。そこに書いてある

「しんたのむね」の下の旧道から少し入ったところには、作品の通り、清水が湧いていて、茶碗が置かれ、道往く人々や学校帰りの子ども達が喉を潤していました。



というのを読んで、よっぽどもうちょっと道を下ってそこがどういうところか見に行きたかったんだけど、その続きに書いてあった「そうした光景も見られなくなりました」っていうのを読んで止めた。既にここに来ただけで、そうとう足が痛かったから。。昭和40年代か~。わたしが生まれた頃だもんなあ~。。

けど、わたしの憧れだった「しんたのむね」に行くことができて、本当に嬉しかった。

その5につづく。。
16:11 | 一人旅 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
11-27 Thu , 2014
彼岸花を見に(新美南吉記念館) その5
その4の続き。多分、最終回。

「しんたのむね」辺りで既に足が痛くなってたんだけど、当然のことながらそこには休むところなんてない。ので、とっとと歩いて新美南吉記念館に向かった。途中、こんなん見つけた。

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「ごんぎつねの ふる里 岩滑」って書いてあって、上にちょこんとキツネが乗っている。

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ごんだ!ごんがびくの中を覗いて、いたずらしようとしているところだ!!

兵十はそれから、びくをもって川からあがり、びくを土手においといて、なにをさがしにか、川かみのほうへかけていきました。
兵十がいなくなると、ごんは、ぴょいと草の中からとび出して、びくのそばへかけつけました。ちょいと、いたずらがしたくなったのです。ごんは、びくの中のさかなをつかみ出しては、はりきりあみのかかっているところよりもしもての、川の中をめがけて、ぽんぽんなげこみました。どのさかなも「どぼん」と音をたてながら、にごった水の中へもぐりこみました。



わたしは感動して、どうにかうまく写真を撮ってやろうと、カメラ(iPhoneですが)の向きをあちこち変えてたりしたときに、学校帰りかなにかだったのかな?小学生が何人か、自転車に乗って通りかかった。みんな白いヘルメットを被ってる。そのうちの一人がわたしを見て「こんにちは」って挨拶してくれた。まぁ行動から観光客ってバレバレだもんね、、(笑)でも、嬉しかったです。

そこから少し歩いて、いよいよ新美南吉記念館に来た。

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新美南吉記念館、ちょっと変な建物だったです。変というか、まぁデザインされた建築物というのか。この画像の左側にはうっそうと茂った森みたいなのがあって、散歩したら楽しそうだと思ったんだけど、足が疲れ切って一周してくることすら不可能でした。残念だった、、観光客はちらほらだったかな~。そんなに少ないってわけでもなかったけど、多いってほどでもなかった。

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入口付近。この記念館があるところって、ごんぎつねの中に出てくる「中山さま」のところなんだよね。

これは、わたしが小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。
むかしは、わたしたちの村の近くの、中山というところに、小さなお城があって、中山さまというおとのさまが、おられたそうです。



既にこの話の中でもお城があったことは過去の話なのだけど、なんかこの場所とお城が全く結びつかなかった(笑)でも、でも、「牛をつないだ椿の木」を読んでみても分かるように、ここら辺は昔は山の中だったんだよね??昔って言ってもせいぜい100年くらい前のことで、それを考えるとこれから100年後、この風景はどう変わってるんだろうか、、、なんてこと思った。

記念館は新美南吉の生涯を丹念に追っていた。なんせ南吉自身、たった29年の生涯だったんで、1年1年がものすごく密度濃いんだよね。小学生(とは言わんけどさ、当時は)の頃の通知簿貼り付けられてたり、卒業証書が飾られてたり、恋愛して誰それと付き合ったとか振られたとか、うーん、なんかちょっと複雑な気分だったよ(笑)だって、自分が死んでから100年経つのに当時の通知簿、不特定多数の人にじろじろ見られてさ(笑)恋愛とか失恋とか言っても、この人の場合、あんまり直接的に作品と関係ない気持ちがしたし、プライバシーなんかないじゃんって死人には最早プライバシーはないのか?(笑)わたしだったら死んだあとでも見も知らない人に自分の通知簿覗かれて、その中に何書いてあるか読まれるのはいやだな~、誰それといつ付き合い始めたって書いてあるけど、前に付き合ってた人とは別れたって書いてないのに次の人と?前の人と別れた理由に何か隠したいことがあったのかしらね?なんて思われたくないよな~とか(笑)特に恋愛は一人でするもんじゃないから、相手の人生もあるわけだし、書けなかったのかしらね、とか。死んだあとに知らん人から好き勝手に思われたくないよね~、「死人に口なし」と言えども(笑)

記念館内の写真はほとんど撮らなかった。別に撮ってきても仕方ないしね。ただ、この2枚だけはなんか、気になったので撮ってきた。わたしの琴線に触れるものって、実にしょうもないもんです(笑)

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左は生前だいぶお世話になったらしい巽聖歌(わたしの持ってる文庫本2冊(角川書店、講談社文庫)とも解説は巽聖歌なんで、名前は知ってた)に宛てた手紙で、確か病気(結核)で東京から実家に戻らざるを得なくなって、実家から出した手紙だったかな。あれ、でもなんか印象として「一旦実家に戻っただけ」ってのがあるから、そうじゃなく、大学に入ったときだったかなあ?あー、忘れました(苦笑)ここだけ内容を読むと、まるでラブレターみたいだなあと思って思わず写しちゃった(笑)

右は「へー、そうなんだ」って思ったから撮った。ナフタリンかぁ~。わたしは「ナフタリン臭」で一番先に思い出されるのは「東京湾の臭い」なんだよね。大学生・大学院生の頃、晴海にうちの大学の船が置いてあって、そこからよく出航したんだけど、東京湾を出るたび、入るたびに目にするのは茶色い海の水と、あとなぜかナフタリンの臭いがしてね。でも、あるときからこの臭いを嗅ぐと「ああ、帰ってきたなあ~」って思うようになったの。なんか、こんな臭いで「帰ってきたこと」を認識するのって悲しいなと思ったんだけど、まぁそういうところで生まれ育ったんだから仕方ないよね、って思うようにした。鮭だって生まれた環境がどうあろうと、自分の生まれた川に戻ってくるんだもんね。

しかし、新美南吉の童話は、南吉が書いたそのままではなく、かなり巽聖歌の手が入ってるらしいね。(ちなみに「ごんぎつね」は鈴木三重吉の手が入ってるそうです)南吉の死後、巽聖歌が生前の南吉の作品を発表していくんだけど、南吉の書いたものは戦時色が強かったため(なんせ戦争終わらないうちに亡くなったからね)戦後の雰囲気に合わせて削除した部分も結構あるらしい。わたしが持ってる中で「あれ?」って気が付いたのは、「和太郎さんと牛」って作品なんだけど、この一番最後の部分。わたしが持ってる角川文庫の「牛をつないだ椿の木」(昭和43年2月20日初版発行、持ってるのは昭和53年6月20日18版)には

さて、この天からさずかった子どもの和助君は、それからだんだん大きくなり、小学校では、わたしと同級で、和助君はいつも級長、わたしはいつもびりのほうでしたが、小学校がすむと、和助君は、和太郎さんのあとをついで、りっぱな牛飼いになりました。そして、いまでは和太郎さんは、だいぶんおじいさんになりましたが、まだ元気です。おかあさんとよぼよぼ牛は、一昨年なくなりました。



って書いてあるのね。これが別の一冊、これもわたしが持ってる講談社Super文庫「新美南吉童話大全」(1989年8月21日第一刷)では

さて、この天から授かった子どもの和助君は、それからだんだん大きくなり、小学校では私と同級で、和助君はいつも級長、私はいつもびりの方でしたが、小学校がすむと和助君は和太郎さんのあとをついでりっぱな牛飼いになりました。そして、大東亜戦争がはじまるとまもなく応召して、いまではジャワ島、あるいはセレベス島に働いていることと思います。和太郎さんは、だいぶんおじいさんになりましたが、まだ元気です。お母さんとよぼよぼ牛は一昨年なくなりました。



になってて、なんと、和助君の結末が違っている。ちなみにこの本(講談社の方)は大日本図書「新美南吉童話集」を定本にしてあるそうだ。そして角川文庫の方の解説で、巽聖歌自身が

本書の編集にあたっては、従来定本とされてきたものに、さらに原稿のあるものは原稿に、それのないものは初発の単行本につきあわせ、完全を期した。しかしながら、制作年代を見れば分かるように、太平洋戦中に夭折した彼のことであるから、ミリタリズムでなかったにしろ、「軍帽」「聯隊」「将軍」といった種類のことばが、期せずして出てくる。時代に合わないそういう名詞は、なるべく避けるようにした。
それのみならず、戦時下の発表であるので、故意に誇張されている部面がある。戦時下では、不要不急のもの、戦意高揚する以外のものは、作品の発表すらできなかったからだ。「紙も弾丸」といわれた。
戦後、連合軍の占領下においては、これが逆転した。「飛行機」「軍艦」「戦闘」などということばが出てきても、厳しいGHQの追及があり、出版不許可になった。南吉の作品も、そういう波はくぐって、今日の生命を保っている、とはいっても、彼の書いたものは児童文学であったがために、ごく小部分の訂正削除ですんだ。今後も、でき得れば、このままのすがたで、残してやりたいと思っている。できない希望であるかも知れない。



と書いている。ってことは、「大東亜戦争~」の下りはGHQの目を気にしてのことだったんだろう。確かに新美南吉の作品は時代がまさに戦時中だったので、そういう類の話は割とある。ただ実際のところ、わたしが知ってる作品は「戦意高揚」とかそういう戦争を肯定するような話でもなく(もちろん否定するような話でもなく)、少佐が井戸に落ちて中国人に助けられた話(張紅倫)とか、朝鮮人と足袋屋のおばさんとのたわいない話(アブジのくに)とかで、逆にこの時代、差別が激しかったときにこういう作品を残してるんだよね。これって多分、特に意識して書いたんじゃないと思うんだよね。なんか自然にこういう人だったんだろうな~と思う。

あと、9月29日にはちょうど「南吉と良寛」って特別展をやっててね(もう終了しちゃったみたいです)、南吉の生涯の資料を見るだけで疲れ果ててたんだけど、なんかちらっと最後の方を見たら面白かったので、それで最初に戻って読んでみた。南吉の生前、出版された本は「おじいさんのランプ」と「良寛物語・手毬と鉢の子」だけだったそうで、それでこういう特別展をやったそうだ。面白そうだったので、「良寛物語・手毬と鉢の子」は記念館で買って帰っちゃった(入口のところでいろんな南吉の本が売られてます)。

で、あまりにも疲れたんで、記念館の2階のテ-ブルと椅子が置いてあるところで少し休んで。それから記念館を出た。

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入口のところにある「ごん」。あまりにもかわいい感じなので、わたしの中のイメージとは違うと思って、行きに見たときは「撮らなくていっか」と思ったのだが、なんか帰りに「まぁいいか」と思って撮ってきた(笑)

あ、最終回にしようと思ってたんだけど、なんか終わらなかった(笑)

その6に続く。。
14:12 | 一人旅 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
11-29 Sat , 2014
彼岸花を見に(新美南吉記念館) その6
その5の続き。今度こそ、最終回、だと思う。

記念館を出たのは15時半過ぎだったかなあ~?わたしはその日、名古屋で友人と会うことにしてて、その待ち合わせ時刻が18時だったので、遅くとも17時くらいに半田口の駅を出たいと思っていたのだが、ちょっと中途半端に時間が余ってしまい、しかもかなり疲れていたので、その後、時間つぶしにそんなに歩きまわれそうもなく。なんせ記念館から半田口の駅まではそんなに遠くないんだよね~。一応、前にも書いたけど、事前にここで行きたいところをチェックして、どういう順番で回ろうかな~って考えてたのよね。しかし、それを全部回ったところでせいぜい1時間くらいにしかならないだろうと。それだったらもうちょっと電車に乗って海が見えるところまで行こうかなって思ったり。でも、電車の時刻を調べたところ、行って帰るだけでお終いになるギリギリの時間しかなく断念。まぁ時間がすごく余るだろうけど、どこかで休み休み行けばいいやと思って駅に向かって出発した。

記念館のすぐ前の大きい道をずっと駅方向に向かって歩くと途中で岩滑小学校がある。ここ、画像は撮らなかったんだけど、卒業制作レリーフみたいなの?そんなのが校門脇の塀みたいなところにずらーっと並んでた。新美南吉の作品をモチーフにしたレリーフみたいな感じだったが、ほとんどが「ごんぎつね」や「手袋を買いに」の中、一つだけ「うた時計」を見つけて「おお、こいつら分かっとる!」みたいな(笑)廉がおじさんのポケットに手を入れたらうた時計が鳴り出すところ。

「おじさんのオーバーのポケット、大きいね」
「うん、そりゃ、おとなのオーバーは大きいから、ポケットも大きいさ」
「あったかい?」
「ポケットの中かい?そりゃあ、あったかいよ。ぽこぽこだよ。こたつがはいってるようなんだ」
「ぼく、手を入れてもいい?」
「へんなことをいう小僧だな」
男の人はわらいだした。でも、こういう少年がいるものだ。近づきになると、相手のからだにさわったり、ポケットに手を入れたりしないと、承知ができぬという、ふうがわりな、人なつこい少年が。
「入れたっていいよ」
少年は、男の人のがいとうのポケットに、手を入れた。
「なんだ、ちっともあったかくないね」
「はっは、そうかい」
「ぼくたちの先生のポケットは、もっとぬくいよ。朝、ぼくたちは学校へいくとき、かわりばんこに先生のポケットに手を入れていくんだ。木山先生というのさ」
「そうかい」
「おじさんのポケット、なんだか、かたい冷たいものがはいってるね。これなに?」
「なんだと思う」
「かねでできてるね・・・・・・大きいね・・・・・・なにか、ねじみたいなもんがついてるね」
するとふいに、男の人のポケットから美しい音楽が流れだしたので、ふたりはびっくりした。男の人はあわてて、ポケットを上からおさえた。しかし、音楽はとまらなかった。それから男の人は、あたりを見まわして、少年のほかにはだれも人がいないことを知ると、ほっとしたようすであった。天国で小鳥がうたってでもいるような美しい音楽は、まだつづいていた。
「おじさん、わかった、これ時計だろう」
「うん、オルゴールってやつさ。おまえがねじをさわったものだから、うたいだしたんだよ」



ああ、画像、撮ってくるんだった~(笑)

岩滑小学校を過ぎるとすぐに岩滑郵便局があるのだが、その手前の細い道に折れる。ここは「そうれん道」というらしい。さきに紹介したサイトには、

現在、岩滑コミュニティセンターのある場所は、昭和8年まで岩滑の墓地でした。「ごん狐」でごんが六地蔵の陰から兵十の母の葬列を見る場所は、ここが舞台になっています。ここから光蓮寺に続くを「そうれん道」と呼んでいました。



と書いてある。これを見つけたとき、わたしは絶対にここに行かなきゃ!って思った。だって、ごんぎつねの中でわたしが好きな場面の一つだからさ。一番最初にも書いたけど、わたしが「彼岸花」で思い出すのは、真っ先にこのシーンだ。

お昼がすぎると、ごんは、村の墓地へいって、六地蔵さんのかげにかくれていました。いいお天気で、遠くのむこうには、お城のやねがわらが光っています。墓地には、ひがん花が、赤い布のようにさきつづいていました。と、村のほうから、カーン、カーン、と、鐘が鳴ってきました。葬式の出るあいずです。
やがて、白いきものをきた葬列のものたちがやってくるのが、ちらちら見えはじめました。話しごえもちかくなりました。葬列は墓地へはいってきました。人びとが通ったあとは、ひがん花がふみおられていました。



旧墓地、というのが岩滑郵便局の裏の方にあるのだが、そこから光蓮寺までの道が「そうれん道」らしいんだよね。ただ、わたしはもうそのとき歩き疲れて旧墓地までも行く気がしなかったので、そうれん道の半分くらいしか歩けなかった。「ごんぎつね」に出てくる「そうれん道」は彼岸花がずっと咲き続いていたらしいけど、そこには一本も彼岸花は咲いてなかった。

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お寺は奥の工事してるとこ。だから、ホントすぐの距離。ここの間で道のへりに彼岸花が咲いてるところを想像しようとしたんだけど、ちょっと難しかった(笑)わたしが想像してたのより道幅が随分広くってね。で、あっという間にお寺に。

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ここ、なんか工事してたのか、人が何人かいてとても入りにくかったので素通りした(^^;この「光蓮寺」ってのは、新美南吉が亡くなったときにここのお坊さんに戒名を付けてもらったということだ。中に入ってみれば、もうちょっとこのお寺についての詳しく書かれたものがあっただろうな~と思うんだけど、なんか中に入りづらかったんだから仕方がない。

このお寺の先は最早「そうれん道」とは言わんのだろうと思ったんだけど、でも、わたしの頭の中にあるごんぎつねの葬列の場面とどこかに何か、一致するもの、似てるものがあるんじゃないだろうかって、一生懸命探した。例えば

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こういう道の100年前を想像したり(笑)

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ああ、ここはちょっとわたしの想像してた姿に近いかなーって思ったり。

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わたしのイメージする彼岸花って、土手のじゅうたんみたいに咲いてる彼岸花じゃなくって、こんなんだよなって思ったり。

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こういうところに上の画像のパラパラと咲いている彼岸花の姿を想像したり。まぁ思えばまるっきり怪しい人みたいに見えただろうな~(苦笑)なんでもない道を行ったり来たり。時には道ばたに座りこんでボーッとしてたり。おまけに画像どこで撮ろうかとかウロウロしたり。なんか何を撮りたいんだか分からないものを被写体にしてたり。だけど、ここはまさに、わたしにとっての「夢の国」、ごんぎつねの世界だったわけです。頭の中で40年弱、ずっとずっと描いてきたところ。頭の中で描いてきたものと現実の世界は全く違ったものだったけど、でも、わたしはずっとここに来たかった。それが今、ようやく叶ったわけです。きっと、40年間頭の中に暖めてきたものがこうやって現実の姿として目の前に現れる体験なんて、そうそうないはず。わたしは今、そういう極めて貴重な経験をしてるんだと、そう思いました。

そこから常福院ってお寺に行って、境内でしばらく休ませてもらった。ここの画像は撮ってこなかったんだけど、夏になると盆踊りをしてたところだって書いてあった。今現在のわたしの目から見ると、とても狭い敷地内でね。こんなところでみんなが集まって盆踊りしてたんだーって思った。あと確か、新美南吉の弟が戦死したのでここのお寺の招魂碑だったかに名前が書いてあるよーって書いてあったかな。探さなかったけどね。

常福院で少し休ませてもらったあと、「はなれの跡」に。ここは新美南吉と弟が暮らしていたところだそうだ。ただ、焼失して今は跡地に立っている看板のみ。周辺は普通の住宅地で、看板がなければ絶対に分かんないようなとこだった。

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ここから少し離れたところに岩滑八幡社という神社がある。ここの神社の前を南吉ははなれの家と実家を往復するときに通っていたそうだ(南吉はご飯は実家で、寝泊まりははなれの家でしていた)。岩滑八幡社の前の庭はかなり広くて、子どもが遊べそうな感じだった。

そこから、再び、南吉の生家に。その前にある常夜灯にも。常夜灯が出てくる作品もいくつかあるらしいんだけど、わたしは読んだことがない作品だった。

予定より時間がすごく余ってしまったんだけど、ここではもう時間が潰せないので、当初、速い電車(特急とか急行とか)で名古屋に向かう予定にしてたんだけど、のんびり各停で行くことにした。

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帰りはこの「ごん」がお見送り。今度来る機会があったら、ここを通り越して知多半島の先まで行って、海を見てきたいなあ~って思った。

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名古屋で無事に友人と合流でき、夕飯は一緒にしゃぶしゃぶを。3年くらいぶりに会うので、積もる話があるある。というか、3年って短いようでかなり長い時間なのだね。。報告されることにたまげてばかりでした。

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夜は予定通りに夜行バスに乗って東京へ。友人はわざわざ寒い中、バスの発車時間までそばにいてくれて有難かった。また会おうね~。たまにはこっち方面にも来て下さいな。

夜行バスってのは、スペース広くなったり椅子が座りやすくなったり、リクライニングもできたりするのになんであんなに寝にくいんだろうか。新幹線の座席は別に寝るようにできてないと思うけど、新幹線の座席の方がよっぽど座りやすい。新幹線では寝ようと思わないのに気が付いたら寝てたりすることあるし。あと、夜行バスは光が入ってこないようにするために窓にカーテンが引いてあって、それで外が全く見れなかった。これはかなり窮屈でした。どうせ眠れないんだったら、窓の外見てればいいやと思ってたから(真っ暗でもいいの)。

結局一睡もできず。浜松で一旦休憩したときは外に出なかったけど、足柄で止まったときは外に出てみた。

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辺りは真っ暗。吸い込まれそうだった。

そして、そこから2時間ちょっとだったかな。朝4時50分、ほぼ定刻通りに新宿に着いた。

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まだまだ暗い新宿駅西口。これから一日が始まるところ。

しかし、わたしはお疲れ。家に帰ってベッドの上で寝ました。

今回は「いつか行ってみたい」とずっとずっと思って来たところだったため、「やっとここに来られた」って思いと、あとは年月の移り具合を肌で感じた。新美南吉の世界はもう新美南吉の作品の中にしかないんだなーってつくづく思った。でも100年違いだけど新美南吉はまさにここで生まれて育って暮らしてたんだし、そう思うととても不思議な感覚だった。「ヒーロー」っていうと全然ヒーローなんかじゃないんだが、なんていうんだろうね、これらの作品はわたしの中の血と肉になってると言ってもいいと思うのよ。そういうものを子どもの時に植え付けられ、自分の中で段々育っていったものが今現在の自分の中に存在している。こういうものがあるってかなり幸せなことだよね。年月をかけないとこういう気持ちにさせるものはないもの。

そういう意味では、愛知県半田市岩滑ってところは、本当にわたしにとっての「夢の国」だった。
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