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03-05 Wed , 2014
不安だ
なんか、すっごい久しぶりに不安な気持ちになっている。ここ1年以上は不安感は感じてなかったので、本当に久しぶり。

原因は、なんかしょうもないことで、この間、ふと「今、調子がいい」って思ったのだ。調子がいい、って思うのも、もしかしたらすごい久しぶりだったかも知れない。おそらく1年以上は調子がいいって思ったことはなかったような気がする。

なんか、最近動けるのだ。もちろん、去年の末から身体が痛かったりして、調子自体はあんまりいいとは思ってないのだが、まず「やろう」と思ったことに対して、すんなり身体が動くようになって来た。だから、もうずっと、家事(と言ってもコンスタントにやってるのは、洗濯と掃除だけ)をやるのもギリギリ、我慢できるまで我慢して、我慢できなくなってから(=溜めて)仕方なしに無理矢理身体を動かす感じで掃除や洗濯をやってた。

けど、最近は天気がいいと「あ、じゃ、洗濯やろうか」って気持ちになる。最近は雨続きでなかなか洗濯が出来ないので、洗濯物が溜まるんだけど、そういうときは洗濯機を2回回したりしてる(前は出来ない分は次回に回してた)。洗濯や掃除以外の、例えば、食器を洗ったり、何か作ったり、ってこともちょこちょこできるようになった。前は動きたいと思ってなかったので、必要最低限のことしか思い浮かばなくて、その分、用事も最低限になってたと思うけど、今は、なんかいろいろ気が付くので、ちょこちょこ外に出るようにもなった。

そして、そういう風にできる自分に気が付いたところで、不安になったのだ。「いつまた調子が悪くなったらどうしよう」って。

うつ病にかかった人間なら分かると思うけど、少し調子がよくても次に調子が悪い波が来たときに「ずーん」って落ち込む。しかも調子が悪くなっただけじゃなく、さらに「動けるようになったと思ったのに、まだ治ってなかったのだ」という落胆をすごく感じるんだよね。だからそれが何度も続くと今度は調子のいいときにさえ素直に喜べず「もしや、また調子が悪くなったら」ってどうしても思っちゃう。繰り返すうちに人間は学んでしまうのだ。

もちろんそういうことを繰り返していくうちに、調子がいいときも「いや、ここは動けるけど動かないでおこう」って思うようになる。結局うつ病って体力的なエネルギーや行動エネルギーが枯渇することだから、それが少し溜まった時点ですぐに動くとまたすぐにエネルギーがなくなって動けなくなる。それは結局持続的に動けるようになる(=健康な人と同じになる)こととは違うってことが分かるから、とにかく基礎的なエネルギーをどうやって自分の中に維持できるかを意識することが大事になって来て、そうすると「調子がいい=すぐに動く」になってこないと思うんだよね。

でも、そういう風にしてるつもりでも、やっぱり波は来る。あんまり無理してないつもりでも、あるときすごく気分が落ち込んだり動けなくなったりする。「本当に自分は治るのかなあ」って思い始める。それがまた自分を責めるきっかけになって、落ち込む自分をさらに貶める。悪循環なんだよね。それをどうやって脱出するかは、正直、わたしにも分かんない。ただ言えることは、動いたら休めないってこと。とにかく休んだと思っても、身体はそんなすぐにはエネルギーは溜まらないのだってことを本当に自覚しないと回復には繋がらないんじゃないだろうか。。

ってことで、わたしの場合は、ここ1年以上、不安も感じてないので、かなりいい感じだとは思うんだけど、病気が治るためには、最後に「関門」があると思うのよね。これ、2度目のうつのときもそうだったんで、多分今回もそれだろうな~って思ってるのだけど、病気がよくなると行動力が増して、自分の世界が広くなる。そうするとね、怖いのよ。今までずっと自分の殻に閉じこもっていて、世界は自分の前の数歩程度しかなかった。それが急に広がるととても怖く感じるのだ。

前はこの時点でカウンセリングに行って、それでそれがかなり有効だったんだけど、、あのカウンセリングももうなくなっちゃったので、今回は自分でどうにかするしかない。ほとんど「慣れ」だと思うので、時間が経てば怖くなくなるかも知れないと思いつつ、もしかしたら病気がまた悪くなったのかも、という一抹の不安は抱えている。しかし、こういう不安はあまりよくないのだけどね。不安が不安を呼んじゃうから。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」だと思うことにしよう。。気にしない、気にしない。
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14:00 | 3度目のうつのこと | トラックバック(0) | コメント(6) | page top↑
03-09 Sun , 2014
マジョリティとマイノリティと
今日は、国立オリンピック記念青少年総合センターってとこで「朝鮮学校差別に反対する大学生全国集会」というイベントがあったんで、行ってきた。

シンポジウムと活動報告と演劇があったんだが、その間、いろんなことを考えてた。自分の思考のパターンについて。わたしはこの手の話を理解するためには、必ず「性的少数者」というフィルターで物事を見て理解している。「ああ、これは性的少数者の話で言うとこんな感じだ」とか「これはちょっと性的少数者の問題とは違うな」とか。そうするととても理解しやすいことは理解しやすい。時折感じる疎外感は、おそらく性的少数者の中にいるアライ(Ally:性的マジョリティで性的少数者に理解がある人)みたいなもんなんだろう、とか。逆に「あー、性的少数者の中にいるアライってもしかしたらこんな気持ちなのかも」ってちょっと新鮮に思ったりした。

なぜか来ている人の中で「誰が日本人か」ってことがすごく気になったりした。別に誰が日本人で誰が朝鮮人でも全然構わないのだけれど、もしかしたらこの中では自分は少数者なのかも知れないと思うと、ちょっとドキドキしたりした。なんでなんだろう?別にだからどうだってことは、全くないのに。そんなので区別をする方がおかしいんだって思おうとした。けど、集会ではやっぱり「日本人の支援者の人たちが」とか言われる。そのたびに違和感を感じた。「向こうだって区別してるじゃん」って。

(これって例えば性的少数者のイベントで、異性愛者が周囲の人を見渡して「誰が異性愛者なのか」って思ったり、「もしかしたらこの中で自分はマイノリティなのかな」ってドキドキしたりして、「いや、でも別に襲われるわけじゃないし、異性愛者も性的少数者も区別ないじゃん」と思いつつ、周囲から「ノンケ(=異性愛者のこと)」とか言われて「やっぱ性的少数者の方は区別してるのかな~」って思うこととすごい似てると思う。それを考えると性的少数者側は「区別してます」としか言いようがない。。)

などと、自分の中でぐちゃぐちゃ考えてたりした。そんな風に考えていながらも「いや!やっぱり性的少数者のフィルターを通して見てはダメなんだ。」と思ったり。だってすべて性的少数者の問題と置き換えて考えることなんかできないし、そのフィルターを通して考えることによって、曲解したり誤解することもあるんじゃないかと思ったから。まぁでもつい、やってしまうのだけどね、、

「日本人の支援者」と言われるたびに複雑な気持ちがした。「朝鮮人が当事者として差別に立ち向かいましょう」と聞くと胸がざわざわした。

だって、これは日本人の問題じゃん!

って言いたい気持ちがした。何人かの人が、日本人がこの問題に対して支援する理由として「再びあの時代を来させないため」というのを挙げた。ニーメラー牧師の有名な「わたしは共産主義者ではなかったので、声を挙げなかった、、」という言葉を挙げた人もいた。

でも!

って思う。それじゃ、朝鮮学校の問題って「炭鉱のカナリア」みたいじゃんって。違うじゃん。日本人が、将来の日本人の生活に危害を及ぼされるから、今、朝鮮学校を支援するの?違うじゃん。

日本は戦前から一貫して、朝鮮人を差別してきた。当事者なのは、差別をしている日本人の方だ。わたしたち日本人が(わたしたち日本人はって言い方大嫌いなんだけど)、自分たちの問題として取り組まなければならないんじゃないの?わたしたちは学校で「人を差別してはいけません」って習う。けど、差別してんじゃん。国からして差別してるじゃん。「国は差別するな」となぜ日本人が主体的に問わないのか。

ただね、、これもやはり性的少数者の側から考えると「性的少数者を差別しているのは、シスヘテ(性別違和のない異性愛者のこと。意味としては先ほど出て来たノンケとほぼ同じ)だろう。だからシスヘテが差別当事者なのだ。だから差別をする方が主体になってこの世の中の法律や環境を変えろ」って言ってるのと同じなんだよね。でも、シスヘテ自ら「同性婚できないのは、同性愛差別です」なんて言ってくれない。放っておけば同性婚なんて永遠に話題にならない。だから「やはり痛い目にあっている方が声を挙げなければ、その声はマジョリティに届かないのだ」って結論になる、、、

でもさぁ。わたしも時々そうなるんだけど、声を挙げ続けることって疲れるんだ。「なんでいつも説明しなくちゃいけないのは少数者で、多数者は説明を受けて当たり前、みたいな顔してるわけ?」って思うんだ。だから学生たちが必死に声を挙げているのを聞くと、痛々しくて見ていられないんだ。。時に「疲れた」とか「もう止めたい」とか思うだろうなって。「主体的に動いていきます!」って言ってる裏で「なんでこんなことしなくちゃならないの?」って思ってないかなって心配になる。

集会は、一番最初にサなんとか?よく聴き取れなかったんだけど、全部で5文字くらいの、太鼓と鐘を集団で叩く、民族音楽というのだろうか?なんかよく分からないけど、そんなのから始まった。わたしはそういうのを初めて見た(聴いた)のだけど、なんかすごく興味深かった。

シンポジウムは鄭さんっていう明治学院大学の准教授が「無償化から排除されることと、朝鮮学校の教育内容は本来は関係ないこと」と言ってた。わたしもそう思う。民族教育が保障されることは、人権の一つだ。人権とは、人間が生まれながらにして持っている権利のことだ。それは誰もが侵害されてはならない。日本人は人権を持っているという意識が薄いので、他人の人権も尊重できないのかなって思うことがある。わたしだって朝鮮学校と北朝鮮の繋がりについては知っている。でもそれが何?繋がりを断てば保障される人権なんて、それは人権とは言わない。人権とは、生まれながらにして持っている権利だ。教育を受ける権利は誰もが持っている。しかも、少数民族は少数民族として教育を受ける権利をきちんと持っている。

正直わたしは、無償化問題についてはそれ以外の理由なんかいらないと思っている。今日ももちろん国際人権法上の権利とも説明されたが、それ以外のことについてもいろいろ理由が挙げられた。それはそうなのだろうが、わたしとしては「これは人権問題です」としか言いようがないような気がする。まぁ世の中「人権問題です」と言って「はい、そうですか」じゃ済まないのはよく分かっているのだが。。

シンポジウムではもう一人、藤永さんっていう大阪産業大学の教授が話したんだけど、主に全国で起こしている裁判の話だった。この人の話で一番心に残っているのが「最近、反日という言葉をすぐに投げかけられるが、その言葉を聞くと、戦前、戦中に言われた『非国民』という言葉を思い浮かべる」と。ああ、そうだよね~。そうやって人を排除する言葉なのだ、反日も非国民も。

最後にやった劇は、戦後(解放後)すぐに朝鮮学校ができて、それが'48年以後に弾圧されて閉鎖令が出てって話だったんだけど、なんて言うんだろう、時折すごく違和感を感じるの。劇中、何曲か歌を歌うシーンが出てくるんだけど、わたし、その歌全く知らない。背景も知らない。もしかしたら、朝鮮学校で習う歌なんだろうか?とか、誰もが知ってるポピュラーな曲なんだろうか、とか、歌詞がなに言ってるんだか全然わからないので、想像しようもない。あと多分日本語で「先生」とか「お姉さん」とか「お兄さん」とか「おばあさん」とか、そういう意味の言葉なんだろうけど、その部分だけ朝鮮語なの。わたしは朝鮮語は全然知らなくて意味分からないから、そういうところにすっごく違和感を感じた。

そう、わたしは先ほど「多数者は説明されて当たり前だって思っている!」と書いたが、何のことはない、わたしだって説明しろとは思ってないが、知らないのは当たり前、違和感を感じるのは当たり前、自分の持つ感覚は当たり前だと思って書いている。これってマジョリティの傲慢じゃん。。。なんか、書いてて嫌になるね、矛盾してて。

ただ、多数者の論理としては「どうやって知れっていうんだ」ってことだろう。だけど、少数者としては「本とかたくさん出てるんだから、それを読んで勉強しろ」なんだよね。。ええ、読んでますよ。でも、なんか難しいのだ。きっと性的マジョリティも「性的少数者の言葉は全然分かんない」って思ってるだろうな~。まぁ性的少数者の言葉は当事者にさえ難しいもんね。。なんて、結局ね、こうやって自分の中でマジョリティとマイノリティの論理を自問自答してるのだ。そして、それはたいていの場合は明確な答えなんかない。だから、、難しいね。

劇の中で、日本の警察官が出てきたのだが、その役をしてる人たち(2人)の衣装が高校の制服(学ラン)みたいだった。そして、劇が終わってから全員揃って観客に挨拶したときによく見たら、その二人とも、学ランの第2ボタンがないのを発見しちゃって「あ~、2人とも、第2ボタンは誰かにあげちゃったのかしら。。」とか、内容と全然関係ないことを思ってしまった(笑)

最後に。上にも挙げた大阪産業大学の藤永さんがシンポジウムの自分の発表の最後に「能力がある人は能力を、金がある人は金を、力がある人は力を出そう」って言葉を朝鮮語でスライドに出した。「学生は今のところ、能力も金も力もないだろうけど、将来、何かができるようになって下さい」って言ってたけどさ、わたしみたいな、歳を取ってしまって能力も金も力もない人間は、一体何ができるのだろうか。。


【追記】紹介されたニーメラー牧師の言葉。ただ集会では「諸説あるようですが」とのことで、下記の言葉とは少し違う内容が発表された(ナチスは自分を攻撃したが、もう誰も残っていなかった、みたいな感じだった)。下記は以前わたしが読んだ、斎藤貴男、森達也著「日本人と戦争責任―元戦艦武蔵乗組員の『遺書』を読んで考える」に書いてあったもの。

ナチスに逮捕され、収容所から生還した牧師のマルチン・ニーメラーの有名な証言。ボストンのホロコースト慰霊碑に刻まれている言葉。

ナチが共産主義者を襲ったとき、自分はやや不安になった。けれども結局自分は共産主義者でなかったので何もしなかった。それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども依然として自分は社会主義者でなかった。そこでやはり何もしなかった。それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行なわなかった。さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であった。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであった。

22:26 | その他 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
03-10 Mon , 2014
13周年
今日、3月10日は東京大空襲の日だが、それとともにわたしと彼女が付き合い始めた日だ。あれから丸13年経った。

付き合ってから13年、一緒に暮らし始めて来月で丸8年も経つのに、わたしはようやく最近、彼女との「性格の違い」を実感し始めた。いや、もしかしたら性格の違いだけじゃないかも知れないが。。

わたしは親、特に母親からの影響を強く受けているらしい。わたしの母親はかなり完璧主義で、掃除や料理の仕方、お皿の洗い方、その他生活の細々したことがかなりきちんとしていないと気が済まなかった。それをわたしはまぁ母のようには行かないけど、かなり真面目に受け継いでいるようだ。

ただ、こういう生活はうつ病にはつらい。なんせ、ほとんどのことにやる気が出ないのだから「こういう風にやりたくてもできない」という状態が長い間続く。やりたくてもできない、ってのは、自分を否定することに繋がるので実は自分を責めてしまってつらい。わたしは彼女と生活するようになってからほとんどうつ病なのだけれど(一緒に生活し始める1年前からうつ病だった)なるべくそのことは考えないように、考えないようにしてやり過ごしていた。

一方、彼女は性格的にかなり大らかな人だ。大らかで随分わたしは助かっていることもあるんだけど、家事なんかはこっちが見ていて「うーん」って思うほどおおざっぱなことが多々ある。なんか昔は結構きちんとしてた人だったらしいが、あるときから「別にやらなくても死にはしない」と思ってやるのをやめちゃったそうだ。

なので、彼女が仕事が忙しいときなどは本当にちょっと「なに、これ。。」って感じになるのだ。

それがこの1年の間、いや、これはここ半年くらいかも知れないけど、なんかやたら「なにこれ」って思うことが多くなってきた。文句は言うんだけど「気になるのだったら、ろんたこがやれば」と言われる。こういうとき、対等な同性カップルは不便だよな、気が付く方が結局やることになって損じゃん、って思うんだけど、なんか段々「もしかして、これが離婚の原因1位と言われる『性格の不一致』というやつなのか」って思うようになった。

今のわたしは働いてなくて、ほとんど生活は彼女に頼り切っている。経済的な理由でわたしの方が別れを切り出すことはできない。「これって、専業主婦が別れられないってことと同じだよな」って思ったりする。まぁわたしは今のところ、別れようとは思ってないけど、別れたくても別れられない専業主婦の人の気持ちがすごくよく分かるなー、本当に別れたくて別れられないのは本当にきついだろうなって思う。

あ、大切な記念日になんてことを書いてるんだ!!

結局、わたしが今さら彼女のやることなすことに気に入らないのは、うつ病が徐々によくなってきてて、本来のわたしに戻ってきてるんだろうと思う。気になることは、徐々に自分でもやっているが、それでもやっぱり自分が全部やるのはやだと思っている。なんせ、わたしは家事が好きじゃない。彼女も嫌いみたいだけど。。まぁでもこういうとき「女だから」という理由で家事を押しつけられる身じゃなくてよかったと本当に思う。わたしゃ仕事してるとき、一人暮らしだったけど、仕事はやりがいがあって好きでやるのやだとは一切思わなかったが、家事はめんどくさくてめんどくさくて本当に嫌いだった。仕事だけやればいい男って本当に楽だよなって思ってた。今も思ってるけどね(笑)だからわたしの母親を始め、毎日家事をしている人は本当にすごいって思う。わたしには到底できないから。

なんか、記念日になんでこんなこと書いてるんだと思うけど、まぁ丸13年経って、今のわたしの状況はこんな感じ。

今日は例年どおり、ちょっと贅沢をしようと思って、近所のレストランを予約して行ってきた。初めてのところで、前評判は結構よかったところを選んだつもりだったのだけど、、確かにワインはおいしかったけど、料理はうーん、って感じだった。最後のコーヒーもちょっとぬるくて薄かったし。おいしい料理もあったんだけどね。あと雰囲気はよかったんだけどな~。別のメニューも試すべきか、ちょっと悩むところ。

来年はどうなってるかな~?あ、どうなってるかなってのは、わたしの状況のことね。今の状態がさらによくなって、彼女との生活、初と言っていいくらい、普通の生活ができていればいいのだけれど。。
23:06 | 二人のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
03-18 Tue , 2014
60万回のトライ
今日は渋谷に「60万回のトライ」って映画を観に行ってきた。

この「60万回のトライ」というのは、大阪朝鮮高級学校ラグビー部を題材としたドキュメンタリー映画だ。わたしは基本、スポーツは野球にしか興味がないので、大阪朝高のラグビー部が全国的に強いことなどは全く知らなかった。というか、ラグビーはルールすら知らない。。どうやったら点が入るのかとか、何をすればいいのだとか。ノーサイドとかワンフォーオール、オールフォーワンという言葉は知ってたが(これは以前テレビでやってた山下真司が出てくる「スクールウォーズ」を見ていたためと思われる)、知ってるのは本当にそのくらいだ。日本のラグビー界については、多分、ものすごい基礎知識的なことも全然知らないだろう、、って決して自慢しているわけではないのだけれど。

この映画を見終わった後、一番に感じたのが「マッチョな世界だなあ」ってことだった。それがラグビーの世界だからなのか、在日の世界だからなのか、大阪だからなのかは、わたしには分からない。飲み会の席で、OBと思われるおじさんたちがいきなり洋服を脱いで筋肉美を自慢する、みたいなのはそのどれにも当てはまるのだろうか。その後のボケとツッコミみたいな仕草は大阪ならではなのかなってちょっと思ったけれど。。

正直、わたしはこういう世界は苦手だ(笑)それは「女には入れない男の世界」というのを感じて疎外感を持つからだ。女はあくまでもマネージャーとか、支えるしかできなくて、主役にはなれないからだ。そこがとても複雑な思いがするのと、あとはわたしはもともと身体を動かすことが大嫌いなので、スポーツはほとんどやってないから、女性を含めたスポーツ選手に対して一種の「羨望感」があり、そのことから起こる「嫉妬心」なのかも知れない。

スポーツは男女を問わず、多かれ少なかれマッチョな世界なのかも知れないけど、もちろんマッチョなのがいけないと言うつもりはない。わたしが「あーこういう世界には入って行けないなあ」って思うだけ。ただ、野球とかサッカーとか、今までいろんなドラマやドキュメンタリー、あと生の試合を見ているが、やっぱりそれらに比べてラグビーは身体と身体がぶつかり合うスポーツだからか、体型的にもマッチョだよね。わー暑苦しいって感じ←失礼

映画の大半はラグビー関係のシーンだったので、一見すると「高校生の青春もの」って感じもして、それはとてもさわやかだった。試合中に怪我をしてしまう子が何人もいて、それによってレギュラーになれる子なども出てきたり、試合がベストメンバーで戦えなかったりする。そういうのを見るとなんか、現実ってドラマみたいなんだなってつくづく思う。試合中、脳しんとうを起こして試合に出られなくなった子が、準決勝前に自分のユニフォームを2年生の子に渡すところなんか、本当にドラマみたいだった。でもたった106分しかない中で、各個人の個性が分かるんだよね~。主将は本当に頼りがいのある主将って感じだったし、おちゃめな子はおちゃめ、真面目な子は真面目って感じ。。もちろん、この映画の中では「キャラが立った子」を中心にしてるんだろうけど、それでもその撮影する目がすごく優しいというかね、優しいからこそ、生徒たち誰もがすごくかわいく撮れてる。ああ、いい関係で撮影できたんだな~って思えるんだよね。

だけど話はこれだけじゃなくて、やっぱり朝鮮学校の補助金削除などの問題も当然絡みがある。映画の中に2回ほど、橋下元大阪府知事が出てくるんだけど、もうね~、腹立つわ(笑)「大阪代表で花園に行ったら当然応援に行きますよ」と笑顔で言ったその日に補助金削除を決定するわ、「朝鮮高校ラグビー部には頑張って欲しいです」と言いながら「朝鮮学校に補助金を出さないのは当たり前でしょ?よその国だって同じことが起これば僕と同じ対応をしますよ」と言い放つ。アンタ、弁護士なら人権守れよ!!人権守らん弁護士がどこにおるんや(っていっぱいいそうだが、、、)。そして当然のことみたいに路上に出て署名を訴える生徒ら、、まぁその前にもこの学校はグラウンド裁判なども起こってるわけなんだが。この人たちがなんでこんな嫌がらせに遭わなければならないのか。なんでこんなに「理解される努力」をしなければならないのか。そして「善良なこと」を求められるのか(そこですぐに「北朝鮮が!」って言い出す人もいると思うのだが、前にも書いたとおりこれは「教育を受ける権利」の問題、しかも「少数民族が少数民族として教育を受ける権利」の問題で、本国がどういう国であろうが少数民族の権利は護られるべきである)。

ああ、悲しい。わたしはやっぱり悲しい。なぜ日本はこんなに寛容じゃない国なんだろう。さらに寛容じゃなくなることを今なぜ、多くの人は求めているのだろう。

とはいえ、映画を観てるとやっぱり、わたしも違和感を感じることがある。それは言葉。朝鮮語に違和感があるのではない。彼らがその言葉を「使い分けている」ことが妙に気になる。いい悪いじゃなく、単純に気になる。学校内では朝鮮語で話すと聞いたことがある。けど、なんだかとっても「日本の言葉」が聞こえるような気がするのだ。わたしは朝鮮語は全く分からない。だから、どの単語が日本語と朝鮮語、共通の発音の言葉なのかは分からない。だけど、彼らの話している言葉を聞くと「なんか日本語と朝鮮語って共通の発音の言葉がたくさんない?」って思えちゃうのだ。「全く分からない朝鮮語」の場合は、字幕だけ見ればいいので、あんまり気にならない。けど時折混じる「意味の分かる単語」を聞くと、字幕を読めばいいのか、耳で聞けばいいのか、無意識のうちに頭がこんがらがってる。これはとても疲れる(笑)

あと「使い分け」というのがね。福岡かどこかだったと思うが、ラグビー部が試合に来たので、地元の初級学校の生徒を訪問するシーンがある。体育館で歓迎会が開かれたが、そこでの質疑応答はもちろん朝鮮語だ。ところが帰りのバスの中で大阪朝高の子がしゃべってるのは日本語だ。バスの中では日本語をしゃべりつつ、見送りに来たバスの外にいる児童に対しては「あんにょんー」(だったかな?)って朝鮮語を使う。彼らにしてはほとんど無意識のうちにできることなんだろう。けどわたしはそれがとても不思議でならなかった。もちろん公式には朝鮮語で話さなければならないのだろう。わたしの目からすると、彼らは日本語も朝鮮語も両方不自由なくしゃべれるように見える。だったらなんで朝鮮語だけで話さないのか?それともやっぱり日本語で話す方が楽なのかな、、?

それからやはり福岡のシーンでだったか、朝鮮学校ラグビー部の父、という人が出てくる。全源治さん(残念ながら今からつい20日ほど前に亡くなられたらしい)という人らしいが、この人がラグビー部の部員に対して一言言う場面がある。そこでももちろん朝鮮語だ。しかし「慢心するな」ということを言いながら、ある一部分だけ「日本語の台詞」なのだ。ある一部分というのは「『俺は強いんだ』と思わないように」という「俺は強いんだ」という言葉だけが日本語だったのだ。わたしはそれを聞いて頭が「???」だった。どこでどう使い分けてるんだ?あの部分はなぜ日本語で言わなければならなかったのか?って思った。

わたしは、その時折混じる「日本語と同じ発音のような朝鮮語(かも知れない?)」と「使い分け」によって話される日本語に、違和感をものすごく感じた。多分これはわたしが一カ国語でしかしゃべれないからだと思うが、多分在日の人たち、特に朝鮮学校に通ったことがある在日の人たちにとってはこれが普通なんだよね。

あとは3年の子どもたちが修学旅行で「祖国」に行く話。もちろん韓国籍である監督はそこに付いていけるわけじゃないので、誰かに託したカメラの映像なんだけれど、なんていうかね、不思議なんだけど「ああ、彼らはここに行けるけど、わたしは行けないんだ」って思ったの。その感覚がとても不思議だった。だって、わたしは普段、どこでも自分の行きたいところは行けると思っている。日本国内はもちろん、今行きたいなって思ってる外国は、スペインだったりキューバだったり韓国だったりするけれど、金と時間さえあれば、わたしはそこに行ける。それは当然のことだと思ってる。けど、行けないところだってあるわけなんだよね。でもそこに行ける人もいる。なんでわたしはそこに行けないの?って思う。それがとても不思議、、まぁ日本国内でも自衛隊の施設や米軍基地なんかは入れないと知ってますよ。だけどわたしはこんなに自由なのに行けないところがあるの?って思っちゃうのだ。

在日は、在日全部と言っていいのか悪いのかは分からないけど、この人たちは日本と韓国、北朝鮮を繋ぐ人たちなんだなって思う。わたしは以前、朝鮮学校サッカー部の人の話が書かれてる「祖国と母国とフットボール」って本を読んだことがあるのだが、もう、国籍と国とがぐちゃぐちゃしてて、わけ分からんようになってた。この3つの国を行き来できる人たちであり、一方で国籍を選ばなければならない人たちでもあり、そういうことは彼らの持っている権利ではなく、歴史が彼らをそうさせたわけであり、その歴史は悲しい歴史だ。3つの国を行き来できる彼らが羨ましいと思う一方、別に彼らの意志でそうなったわけではないことも理解しなければならない。結局、どういう風になるのが今後、彼らの一番の幸福に繋がるんだろうって考えることがある。朝鮮半島は統一され、そして日本で少数民族として暮らしていけるのが一番なのかな。でもそうすれば、わたしだってどこにでも行けるってことだよね(もちろん日本と北朝鮮が国交回復すれば、その時点でわたしは北朝鮮にも行けるということになるけど)。

この映画は元々、韓国人である監督さんが、韓国でほとんど知られていない「在日」について知ってもらおうと思って撮り始めた映画なんだそうだ。この映画の中でも朝高の選手が(日本に交流試合に来た韓国の選手から)「風呂場でお前は日本人だって言われた」ってシーンが出てくる。監督さんは「ごめんね」というナレーションを入れていたけれど。。そして今日、韓国でもなんちゃらっていう映画祭にこの映画がノミネートされたって、上映が終わった後、監督さんが言ってた。韓国でもたくさんの人に観てもらえるといいですね。

映画の最後に朝高を卒業したラグビー部の選手だった人たちが、今は何をやっているかが出てくるんだけど、日本のラグビー代表(under 20以下だったかな?)になってる人たちが多いのね。わたしは日本国籍を持ってないと代表にはなれないのかと思ってたけど(野球もサッカーもそうだし)、どうやらそうじゃないみたいなのね。一定の条件があるみたいだけど。わたしは素直に頑張って欲しいって思ったよ。ルールは全く分からないけど、これからちょっと注目しちゃいそう。そして大阪朝高もいつかは花園で日本一になれるといいね。こう書くとまるで朝高びいきみたいだけど、仕方ない、他のところは全然知らないのだもの。きっと他の高校でも同じようにドラマがあるんだろうな。まぁそれはスポーツ全般に言えることなんだけどね。

観終わったあと、自然に大阪朝高ラグビー部を応援したくなる気持ちになってしまう、ということは、監督さんがそういう想いでカメラを回したと言うことなんだよね。それが十分伝わってくる映画だったと思う。

それから映画の中の音楽なんだが、わたし最初「このヘタウマな感じは、高校生の吹奏楽部が一生懸命吹いてるのかしら?」って思ってたけど、よくよく聞いてみれば、これ、去年NHKの連続ドラマでやった「あまちゃん」の音楽を担当された大友良英さんが作曲したものだったのね。そういやなんかとても「あまちゃん」に出てきた音楽と作風が似てます(笑)わたしがこの映画を初めて知ったのは、去年の9月だったかに、同じ監督さんたちが撮影した「東日本大震災 東北朝鮮学校の記録 2011.3.15-20」+続編「After School」を観に行ってからで、そのときに「今、あまちゃんで音楽を担当されている大友さんが、この映画の音楽担当ですよー」って言われたんだよね。あまりにもさりげなく出てきたんで、すっかり忘れてた。でも音楽の記憶は強烈に残ります。映像と音楽がとてもマッチしてた。

この映画、まだ28日まで渋谷でやってるみたいなので、是非どうぞ。ラグビー全然知らんわたしでも楽しめましたよ。25日までは毎日ゲストが来ているそうです。映画終了後にトークショーがありました。

最後に「北朝鮮」という名称についてなのだが、本来この国の名前は「朝鮮民主主義人民共和国」であり北朝鮮って名称じゃない。だから本当は朝鮮民主主義人民共和国って書けばいいんだろうが、なんかとても長たらしい感じがして変なので使うのは戸惑っている。中にはDPRKって書く人もいるんだけど、なんかそれも特別な記号みたいな気がしてちょっとって思ってる。普段からアメリカのことをUSAって書いてる人だったら、まぁ違和感ないのかなって思うけど。あとは「共和国」って言う人がいる。でも共和国はここ一つではないから、わたしは共和国とは呼べない。ってわけで、一般的に日本で呼ばれている「北朝鮮」を使ってるわけだけど、なんかそれも違和感感じながら使ってる。。わたしは一体、あの国をなんて呼べばいいのだろうか。。
19:59 | (一般)映画・演劇のこと | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
03-19 Wed , 2014
それでも花は咲いていく/前田健
この本は以前、友人に「この本いいですよ」って言われて、図書館で借りて一回読んだのだけれど、非常に心に残る本だったので、購入してもう一回読み直し、そして感想をきちんと書いておこうと思ったので書いている。けど、、多分思うことが多すぎて、ぐっちゃぐちゃになる、かも(^^;

わたしはこの本を書いた前田健という人は、芸人であるってことと、ゲイとカミングアウトしてるってことしか知らない。どういう芸をしてるとかは全く知らない。まぁでも知らなくても全然この本を読むのに困らなかった(と思う)。知ってたら「えー、この人こういうもの書いてるんだ」と思うかも知れないけど、別にそんなんがなくても中身だけで十分楽しめる。全体を読んでの感想だけど、これはすごーく計算し尽くされた一冊なんじゃないかなあって思う。

内容は、本人による(文庫版)あとがきによれば「セクシャル・マイノリティ」に属している人の話だという(直接こういう風には書いてないけど、文意はこんな感じ)。うん、確かに9つの短い話で構成されてて、各話は主人公も舞台も全然違う(オムニバス形式というのかな?)。そしてその中に出てくる人は、少女しか愛せない人であったり、セックス依存症(というのかな?)であったり、全然知らない異性の人の部屋に入って妄想する人であったり、SMの趣味がある人であったり、年上しか愛せない人であったり、セックスがしたくない人であったり、そしてゲイであったりして、いわゆる「成人した異性と恋愛してセックスができる人」(俗に言う「普通の人」)ではない。そういう意味ではここに出てくる主人公はみんな「セクシャル・マイノリティ(性的少数者)」である。

ところが、、いわゆる「性的少数者」の人の中で、小児性愛者とかSM愛好家(って2つ例に挙げたけど、この2つだけのことを言ってるんじゃないよ。以下も同じ)と一緒にされることをひどく気に入らない人がいる。いや、この文章からして既に「性的少数者」の中に小児性愛者とSM愛好家が入ってないってことに気が付くと思うけど。ただ、わたし自身は性的少数者の中に小児性愛者やSM愛好家が入っててもいいと思っている。思っているけど、じゃあ、普段わたしがこのブログでたくさん「性的少数者」って書いてるけど、この中に小児性愛者やSM愛好家が入っていると想定して書いているかというと、実は想定しては書いてない。なんで想定して書いてないかというと、言い訳がましく言えば、慣れとかクセなのかなあ?ただ「排除しよう」と思っているわけではない。

一般的に「性的少数者」や「セクシャルマイノリティ」という言葉は、LGBTと言われるレズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー(Xジェンダー含む)を中心に、パンセクシャル、アセクシャル(エイセクシャル)、ノンセクシャル(これは最近Wikipediaで削除されたようだが、、)、ポリアモリーなどを含んだ総称だ。そこには小児性愛者やSM愛好家、フケ専や二次コン(二次元コンプレックス)などは入っていない。レズビアンやゲイ、バイセクシャルは、性的指向の問題であって、トランスジェンダーは性自認の問題であると言われるが、小児性愛やSMは性的「嗜好」だと言われる。そして性的少数者はしばしば「指向」と「嗜好」は違う、と言ったりする。

確かに「指向」と「嗜好」は違う。ヘテロセクシャル(異性愛)を含む、同性愛や両性愛、無性愛、全性愛は愛情の方向性、それが異性に向くか、同性に向くか、両性に向くか、どこにも向かないか、全方向に向いているか、という「方向性」を示す言葉だ。一方、小児性愛やSM、フケ専や二次コン、セックス依存などは方向ではなく、好みだ。なので、性的指向と性的嗜好は両立する。異性愛者で小児性愛者、と言う人もいるし、同性愛者で小児性愛者という人もいる。異性愛者でSM愛好家という人もいるし、同性愛者でSM愛好家という人もいる。指向と嗜好は両立する。

指向と嗜好は明らかに性質が違う。だから、新聞や雑誌で「同性愛などの性的嗜好」と書かれると「性的嗜好じゃなく、性的指向だ!」と激怒する人がいる。そしてこう付け加える。「嗜好は単なる好みだけど、指向は生まれ持って変えられない性質だ」と。そしてそれは「嗜好よりも指向の方が上だ」というニュアンスを感じさせる。わたしもずっと長い間、そんな感じに思っていた。

だけど。「嗜好」も持って生まれたものじゃん?そして容易に変えられるものじゃないじゃん?って思う。よく考えてみるとね。なのに「嗜好」と蔑んで、下に見る。これって別に本人はそう思ってないかも知れないが、差別じゃん?自分たちが差別されて嫌な思いをしているのに、さらに差別される人が存在していいの?って思う。

おそらく、この本の著者もそういうことが言いたいんだと思う。だから「セクシャル・マイノリティ」の話の中に、一番最後の話にゲイの話を持ってきた。「指向」も「嗜好」も結局同じなんだよ、ってこの著者は言いたいんだと思う。まぁそのことに気づけるのは「指向と嗜好が違う」って知ってる人だけなんだけど。。だからね、わたしはそこに優しさを感じたんだよね。ああ、この人は優しい人なんだなって。

世の中に同性愛者と小児性愛者がごっちゃにされているなと感じるときがある。特にゲイは小児性愛者だと世間から思われている(そういやレズビアンは小児性愛者とは思われてないな)。そして性的少数者の話をすると「じゃあ小児性愛はどうなんだ」って言われることもあるのよね。。基本的に小児性愛をどう考えるかなんて、同性愛者だけの問題じゃないのに、なんで同性愛者が考えねばならんのだ?って思うときがある。そのような質問がなぜ出るかというと、同性愛が犯罪だと思ってるからじゃないかなって思うのよね。だから「同性同士で愛し合うことは犯罪じゃない」って言うと「だったら子どもと愛し合うのも犯罪じゃないのか。そうやって一つ認めると次々と認めなくてはならなくなって、社会の秩序が乱れる」って思考回路なんだと思う。だけど、判断力がある大人同士の恋愛と、判断力がない子どもとの恋愛って、全然違うと思うのよね。片方に判断力がなく、未成熟だからこそ、子どもとセックスしたら犯罪になるのだろうし。

ただね、、そう言えば言うほど小児性愛が蔑まれていくんだよね。確かに子どもに手を出した時点で犯罪だ。しかし、個人の「好き」という感情まで犯罪なんだろうかって思う。犯罪だからと言われて「じゃあ好きになるのを止めます」って言えるんだろうかと思う。その点「嗜好」であっても、好きであることはそう簡単に止められないのではないかって思うのだ。だから「指向は生まれつきのものであって変えられません。そこが嗜好と違います」という主張は間違っているんじゃないかと思うのだ。

うーん、本の感想なのになんでこんなことをつらつら書いてるかというと、最近、twitterで「小児性愛者であることを公にカミングアウトするべきでない」って感じのツイートを見たからだ。そういうことを言ってる人が性的少数者なのかそうでないのかは分からないのだけれど、ツイートした人は「カミングアウトする」ってことが、どんなにドキドキすることなのか、誰にも彼にもカミングアウトしてるわけじゃなく、自分を受け入れてもらえそうな人しかカミングアウトをしないのだってことが分かってないんじゃないかなあと思えたんだよね。同性愛者だとカミングアウトするだけでもかなりドキドキする。ましてや自分が「犯罪者」と間違えられる可能性がある小児性愛者だとカミングアウトすることって、かなりハードルが高いことだと思う。そしてカミングアウトすることは、別に「だから幼児、児童を襲いますよ」ってことじゃなく、小児愛者である自分を誰かに分かってもらいたいんだと思う。言えないことを持っていることは本当に苦しい。隠しておくことは苦しい。たった一人でも、自分の本当のところが分かってくれる人がいて欲しい、そういう感じではないのかなと思う。

この本の一番最初の話は小児性愛者の話だ。かなり、胸が痛くなる話。とても切ない。でも、それだけじゃない。この話の終わり方はこうだ。

神様――。僕は病気ですか?
僕はゴミのように燃えてなくなればいいですか?
白い手紙の破片に突っ伏して、朝まで僕は泣き続けた。
死ねばこんな僕も天使になれるのか、と思いながら眠った。
夢の中でまた奈美ちゃんが優しく僕を起こしてくれることを願いながら。

これさあ。最後の一文が気になるんだよね(笑)これがなくて「と思いながら眠った。」で終わると、とっても切ない感じに終わるの。でもこの話はこれで終わってない。死ぬことを考えている割には、愛する相手が夢の中に出てこないかなあってちゃっかり思ってる(笑)著者はこれを美しいだけの話にはしたくなかったんだなって感じるのだ。そういうところにわたしは「ああ、ちょっとしたところでもよく練られている話だな」って思うの。

そしてこの本の一番終わりの話はゲイの話だ。これもとっても切ない。相手に自分の思いが伝えられないところは、一番最初の話ととてもよく似ている。ただ、同じ切なさでも、ゲイの方は未来はほんのりでも明るい感じがする一方、小児性愛者の方はこの後、この人はどうやって生きていくんだろう?って印象を持つ。

そーなの。小児性愛者は人を好きになってもそれが叶えられることはない。手を出してしまった時点で犯罪者だから。それに子ども自身が非常に傷つくはずだ、身も心も。自分の願いが叶うことは大切に思っている相手を傷つけることに繋がる。だからといって人を好きになってしまうのを止められるはずもない。それゆえ相手には告白できず、常に自分の中だけに持っているしかない。でもそれだと苦しいから、自分の持っている悩みを誰かに言いたいと思う。けど、カミングアウトする相手を間違えたら受け入れられるどころか変態扱いされ、冷たい目で見られるだろう。そう思ったら易々とカミングアウトなんかできない。結局自分の中で気持ちを押し殺しているしかない。想像してみるに、これはとてもつらいことだと思う。小児性愛者は自分自身の願いを叶えられないけど、では一体どうすれば「ちょっとはマシ」になるんだろうって考えたことがある。でもこれは分からなかった。「同じ仲間がいる」と分かればちょっとは気持ちは楽になるんだろうかとか、「誰か自分のことについて話せる友人」がいればちょっとは気持ちは楽になるだろうか、っていろいろ考えたのだけれど。。

なのでね、上にちょっと書いたけど「小児性愛者だとカミングアウトするな」っていうのは、どう考えても酷だと思うのよ、わたし。そうじゃなく、逆にもっと社会が受け入れるようにならないと、受け入れるというと「なんでそんな変態を受け入れなければならないの。犯罪者予備軍じゃない!そんな人が社会に堂々と生きられるようになったら、子どもが危ない」って考えちゃう人もいるだろうけど、そうやって蓋をして孤立させる方がわたしは怖い。もちろん世の中では少年少女に手を出して、捕まる人もいるけれど、でも多分、必死に自分の気持ちを押し殺して普段は普通な顔してつらい思いをしながら生きている人の方が多数だと思う。彼らにつらさだけを押しつけて、こっちは平気な顔をしてるなんてできないよと思う。ただ、結局は彼らの思いは遂げられないわけだから、受け入れられる社会を作っても、一体、どの程度つらくなくなるのかなとは思う。小児性愛者の問題って、本当に難しいんだよね。

なんて、小児性愛のことばかり語ってしまったが(汗)

この本の話を読んでると、面白いことに自分が「受け入れやすい話とそうじゃない話」があるのに気が付くのね。わたしが自分が「受け入れにくいな」って思う話って、セックス依存だったりSMの趣味のある人の話だったりする。あとマザコンとか。共感しにくい、というのかな。やっぱり個人的に好き嫌いはあるようだ。この本の話、というわけじゃなく、その行為に対してね。人が好きでやってる分には嫌悪感はないのだけど(だから「SM趣味でやってます」って人がわたしにカミングアウトしてもなんとも思わない)、それを自分に当てはめて考えると、もうこれはなんとも言いようがなく嫌な気分というか、嫌悪感が湧き起こってくる。わたし「ああ、これだな」って思うの。例えば「同性愛者です」ってカミングアウトしたときに「気持ち悪い」とか「襲うな」って言われることが。別にカミングアウトするってのは「あなたが好きです」とか「あなたを襲いたいです」って言ってるわけじゃない。ただ自分が同性愛者だってことを知ってほしい、ただそれだけのことなんだけど、言われた方は自分に当てはめて想像しちゃうんだろうね。同性とセックスしてる自分なんかを思い浮かべたりしちゃうんだろう。だからすごく嫌悪感が湧き起こるんだろうね。わたしは大抵のことならカミングアウトされても大丈夫って自分では思ってるけど、でも、こういう話を読むことによって自分の中に特定のものに対して嫌悪感があるのを改めて気が付かされるので面白いと思う。まぁSM系の話を読むと毎回、こういう嫌悪感を持つのだが、、多分ねわたし、SMについては「人権侵害だ」って思っちゃうの、、好きでいじめられるというのがどうしてもわたしには分からない。だからMの人がいじめられている描写などを読むと、いじめているSの人をぶち殺してやりたくなる。「お前も同じ目に遭え」って。わたし根本的にSMが理解できないんだと思う。よく「SとMは高度な信頼関係の中でプレイしています」って言われるけど、わたしはどうしてもそれが理解できない。いじめたり、いじめられるのは本当に嫌だ。いや、分かってるよ、一般に「いじめ」と言われているいじめとSMは全然違うって。でも、わたしの中では同じなの。同じって言うか、違うと分かってるけど、感覚的に同じものと捉えてしまうの。

ってSM嫌いを熱く語ってしまった。でもわたしは別にSM愛好家の人を否定はしてないからね。自分の中でものすごい嫌悪感はあるけど。

この本の話の中の主人公は、男もいれば女もいる(そういえば性が揺らいでる人の話はなかったな)。男が主人公の話は割と結末が救いようがないってのも見られるけど、女が主人公の話は結末がハッピーエンドというか、一段落して終わるものが多いように思えた。これは、どういうことなのかな。わたしはセックス依存の女の人は、ああいう結末じゃなくもっとズタボロになって終わればいいのにって思ったのだけど、そうはなってない。二次コンの話も「あら、この人は二次コン卒業なのかしら?」って思わせるような結末だ。ところが男が主人公の話は厳しいものが多い。これは著者が女性に対して優しいからか、それとも男の「セクシャル・マイノリティ」は社会的に厳しいものが女性より多いからか。異性の部屋に忍び込んでそこで自慰行為をする、なんて、男には有り得ると思っちゃうけど、女の人でそれをやる人いるのかな~って思ったりもするしね(それは男性に対する偏見だと言われるとそうかも知れない、、)。って考えると、著者がなぜその「嗜好」を選び、その「嗜好」それぞれに男と女を当てはめていったのかと考えるのは興味深い。アセクシャル(無性愛)は女性が当てはめられてたけど、わたしは男性が主人公の話が読みたかったな~。

話の結末の好き嫌いも、もちろんある。さっきも「もっとズタボロになって終わればいいのに」って思ったって書いたけど、「なんか安易な終わり方だなあ」ってのもあった。アセクシャルの人の話は、それが直接の原因とは書いてないが、幼い頃電車の中で痴漢に遭った、ってことになってるんだけど、これはこういう設定にはして欲しくなかったよな~。なぜかというと、そこには別に「原因」なんかはないからだ。同性愛もそうだけど、別に「何かあって」、同性愛者に「なった」わけではない。「何かあってなった」と思われていることでも、別にそれはきっかけであって、原因じゃないと思っている。だって「異性愛者になった原因」なんてないでしょ。ないから言わないでしょ。っていうか多分、わたしはアセクシャルの人がすべて「過去の性的被害からそうなった」って思われるのが嫌なんだよね。中にはきっとそういう人はいると思う。いると思うけど、そうじゃない人もいる。どちらかというと「そうじゃない人」として描いて欲しかったって思ってる。

あと細かいところだけど、最後の話の題名は「サンフラワー」なのだが、物語の中では「向日葵」で出てくる。題名をカタカナで統一したかったんだろうと思うが、これは物語の中で出てきたとおり「向日葵」(もしくはひらがなで「ひまわり」)がよかったんじゃないかなーって思う。サンフラワーと向日葵って、わたしの中でなんかあんまり「同じもの」って思えないんだよね。イメージが違うというかね。

それからこれは誤植なんだけど、文庫本134pで「同姓を好きな人はホモセクシャル」ってあるんだけど、これは「同性が好きな人は」だよね。もうね、この間違いってよく見るんだよ。「同姓愛者」とかね。そのたびに誰のこと?って思う。同じ名字の人ばっかり好きになる嗜好はない、っていつも思うんだけどね。これは間違われやすいので、特にこういう話を扱う本では気をつけて欲しかった。

なんか最後は文句ばかり付けてしまったが、でも、この本の中の話は一話一話、本当に丁寧に考えられて作った話だと思う。話の内容に破綻はないし、細かいところの設定がとてもきっちりしている。あとつい「本当にありそうな話」だと思えてしまうところがすごい。そして各々の「嗜好」と自分がどのくらいの距離か、ってのが分かって本当に楽しい。小児性愛者のつらさは自分のつらさのことのように感じられるけど、セックス依存症はなー、なんか分かんないな、とか。

「性的少数者はLGBTだけだ」と思ってる人、「性的少数者の話が読みたい」と思ってる人、これはオススメだ(ただしこれだけ読んで性的少数者を分かった気にはならないでね。性的少数者の世界は本当に奥が深いんだから)。

なお、この本の3つの話をピックアップして映画も作られたらしい。それは今はDVDになってるんだけど、わたしは図書館で借りて読んだ後すぐにDVDも借りて見た。まぁまぁだったかな。ただ小説で「こんな感じの人」って想像を膨らませてるところで、映画は個々の役者さんが演じてるわけだから「想像と違う」ってところもあると思う。あと、なぜか分からないけど原作と設定が変わってる話もあった。わたしは本の方で自分なりのイメージを作ってしまったから、DVDはちょっと「なんか違うな」って感じだったのだけど、でもこれはこれでいいんじゃないかと思う。わたしはDVDの中でも小児性愛者の話が一番よかったと思った(キャスティング含めて)。主人公の男の人を見て「あれ、この人、すごく川谷拓三に似てる!」って思ったのだが、調べてみたら川谷拓三の子どもだったので、これまたびっくりした。昔、大河ドラマ見てて、母に「津川雅彦と長田裕之って似てるね」って言ったら「当たり前よ、兄弟だもん」と言われてびっくりしたのを思い出した。
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03-24 Mon , 2014
引っ越して1年
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今の家に引っ越してきて1年が過ぎた。

引っ越した当初は、毎日毎日手続きや部屋の片付け、買い物などでヘトヘトだったことを思い出す。あの当時のことを思い出すと、体調は悪くないと思っていたが、新しいことをやるのが不安だったり抵抗感があったりしていたような気がする。けど、性格的にあまり延ばし延ばしやるのが好きではないので、結構無理してやっていた。

4月からいろいろ動いて、無理矢理始めたこともあったが、結局それは続けることができなくて、一旦中断にした。それとともに大学の勉強も中止して本格的に休むことにした。決めたのは確か6月に入ってだったと思う。

それ以来1年近く、結構のんびり過ごしてきた。今は好きなときに本を読んだり、週1回程度だけどボランティアをしたりしている。少し前に「調子がよすぎて不安」と書いたが、最近はそれを感じなくなった。

調子がいいと自然とやりたいことがどんどん出てくる。もちろん、やりたいことを全部やるのはまだ無理だと思って少しずつ動くことにしているが、ちょっとずつ、無理しない範囲でやりたいことをやるようにしている。こないだは庭に「インカのめざめ」というジャガイモの種芋と彼岸花を庭に植えた。

「インカのめざめ」は去年、札幌に行ったときに食べたおいしかったジャガイモだ。「来年は絶対に庭で育てよう」と思ってたのだが、ジャガイモを植えるのはこの時期と知り、それまでずっと待っていたのだ。正直、野菜の栽培をするのは小学生のとき以来で、自分が主体になって植えたことはほとんど経験がない。芋を育てるのは初めてだ。事前にネットでいろいろ植え方などを調べたのだが、たまたまEテレを見てたら「ジャガイモの育て方」をやってたので、それを参考にして植えた。

彼岸花は、わたしが大好きな花で前々から植えたかったものだ。新美南吉の「ごんぎつね」の中に、兵十のお母さんの弔いの場面に彼岸花が出てくる。その情景がものすごくわたしは大好きで、だからずっと彼岸花を植えたいと思っていた。プランターでもよかったのだが、ちょうど庭が付いている家に引っ越せることになって、それだったら庭に植えようと思ったのだ。最初は赤い彼岸花だけにしようかなと思っていたが、いろいろな彼岸花を見るとちょっと他の色の彼岸花も植えたくなって、結局赤い彼岸花を10本、黄色い彼岸花を3本、白い彼岸花を3本、計16本植えた。

庭で土いじりをしていると、なぜか気が休まる。そこに暖かい日差しがあるとさらに今度は気分がよくなってくる。

陽に当たる、というのは不思議なものだ。それまでわたしは大して気分がよくなることはなかったのだが、毎日朝起きて日が照っているととても嬉しくなる。日の差す時間がとても貴重な時間に思える。庭に出る以外のときは、最近は大抵陽が当たる部屋で寝ころんでいるのだけれど、全身にポカポカ陽に当たりながら、ぼけーっと庭を眺めている時間がとても幸せな時間に感じられる。なんとも言えないしみじみとした趣というか、なんか、古文に出てくる文章みたいな感じだけど(笑)、「あーこの時間生きられて幸せだった」って本当に思えるんだから、日光ってどんなに威力のあるものなんだろうって思ってる。だってわたし、2007年に口腔異常感症を患ってから、口の中がずっと気になって気持ち悪くて幸せだなんて思えなかったんだもの。もちろん、日を浴びても口の中の気持ち悪さは全然変わらないが、それでも日を浴びている自分と陽が当たっている庭を眺めることは、ちょっとわたしを「幸せ」な気分にしてくれる。はっきりいって、もうそれで十分じゃん?って思ったりもする(だからといってこの先ずっと生きていきたくなったかというとそれはまた全然別の問題)。

ここに越してきて1年、その大半をわたしは休んできた。でもまだもうちょっと休もうって思ってる。ただ、ちょっとずつ行動範囲を広げていって、そしてそのあと自分の目標に向かって進もうと思っている。気分が落ち込んでいたときは「このままずっとやる気が出ないままだったらどうしよう」って思ってた。けど、調子がよくなると自然とやりたいことが見つかってくる。最近「やる気というのは、出ないときだけ感じるものなんだな」って分かった。やる気が出るときはあんまり「さぁ~、やる気が出たぞ」とは思わない。なんか、自然に行動できてる。だから、やる気がどうとかはあんまり考えないことにした。

うつ病は治る。治るけれども再発率が高い。特にわたしのように3度再発したら、4度目の再発率は90%なんだそうだ。ということは、もうほとんど4度目のうつも確定なのだが、まぁなってしまったら仕方がない。というか、もううつ病のままでいいかな、だけど、今の調子が続くんだったらそんなに悪くはないかなと思っている。あとは歯の状態がもうちょっと気にならない方法があれば言うことがないのだけれど。。

【画像左】インカのめざめを植えたところ
【画像右】彼岸花を植えたところ
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03-25 Tue , 2014
3月は別れの季節
昨日は精神科通院と、あと半年ぶりの歯科受診の日だった。

精神科は主治医とはこれが最後。お薬手帳によれば2011年4月からの付き合いだから、丸3年間お世話になったことになる。最初、この主治医に変わったときはなんかとても頼りなく思えていらいらしたこともあったんだけど、思えばそれは、患者の意志を尊重してるってことなのかなと思う。ただ、状態が悪くて決断できないときに「この薬はどうですか」とは聞かないでよって思ったりもまだしてるけどね、、状態が悪いときは「この薬が○○さんにとっていいと思います」って言って処方して欲しいって思ってる。こっちは藁をもすがる思いなんだから、、

だけど、この主治医は話はよく聞いてくれる人で、わたし、大学病院の精神科って3分治療だと思ってたんだけど(過去、でかい病院(not 大学病院)に行かされたときがあって、そこでは医者自らが「うちは3分治療ですよ」って言ってて、本当にその通りの3分治療だった。わたしはそれで悪化して入院した)主治医は長いときは30分も話を聞いてくれたことがある。大抵は15分くらいなのだが、それでも同じ病院の他の医者に比べるとかなり時間は長い方だと思う(患者を呼び出す声で誰は診察時間が短いとかすぐ分かる)。予約診療だが、1人に時間がかかるので時間がすごくずれこむこともあったけど、まあ自分の話もたくさん聞いてもらってるし、他の患者さんも具合が悪いときはたくさんしゃべることがあるよねと思って、あんまり気にしなかった。というか、わたしが病院に行くのはだいたい昼前後なのだが、「主治医、昼ご飯食べてないよね?」って思うこともしばしばだった。

昨日の診察は、最近わたしが調子がいいこともあって和やかムードだった。

身体が痛いところや調子の悪いところはまだ残ってはいるが、それでも今月中頃からは睡眠剤を飲まなくても眠れるし、それに朝起きるのも以前と比べると早くなったし、なにより前は全く朝はお腹空かなくて、ひどいときはコーヒー1杯で十分だったところが、最近はなんと朝起きるとお腹が空いているのだ。少し前に比べると信じられないほどいい方向に進んでいる。

主治医はわたしが「最近はやりたいことがやれる」と言ったら「躁状態」に入ったのではないかと少し心配していたようだったが、いや、体調自体がいいんですと上のような説明をしたら、納得したようだった。躁状態だったら、夜は眠れないもんね。っていうか、双極性II型の躁状態ってどういう状態なのかはよく知らないが。てか、わたしはII型なの?確か自立支援の診断名に「双極性」とは書いてなかったような気がするけど、、(反復性うつ病だったような気がする)

そんなわけで、わたしは「体調が良いのでジプレキサを0.5mgにして欲しい」と言ったのだが、主治医は「いや、薬が効いてるみたいだからこのままにした方がいいと思います」と言い。ジプレキサを止めたのは確か去年の10月くらいだったかな。12月に入ってから調子が悪くなったのは、主治医は薬を止めたからだと思っている、と言った。しかしわたし自身はそう考えてなくて、季節のせいだと思っている。今、調子がよくなったのも暖かくなったからだと思うと主治医に言った。結局、主治医はわたしの考えを尊重してくれた。まぁまた調子悪くなったら戻せばいいだけの話だしね。

ってわけで、今回は調子がいいからそんなに話すことはないかなと思ってたんだけど、それでも終わって時計を見てみたら15分経ってたのでちょっと驚いた。

歯科受診の話は来週に。結局「つらい、苦しい」って訴えたら、マウスピースを作ることになって、昨日歯型を取って来たんだよね。それができあがるの来週なんで、来週にまとめて報告。

今回の処方。リーマス100mg、ジプレキサ0.5mg(夕食後)、金ハル(頓服10回分)
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03-28 Fri , 2014
好きになる性別はどこで決まるのか
昨日、駅のホームで電車を待ってたら、わたしの少し前に髪の毛が短くて、ちょっと金髪で背が高くて細身の女の人がいた。顔は見えなかったけど、ちょっとわたしの好みだったので(笑)、ドキドキしつつ、電車に乗ってその人に近づいてみた。

。。。見たら男性だった。中性っぽい顔つきをしてたけど、のど仏が出てた。

その途端「なーんだ、男だったのか」と思い、ドキドキした気持ちが思いっきり失望感に変わった。

「あー、わたし、性別で人を判断してるんだなあ」ってそのとき思った。

よく「わたしは同性愛者を受け入れてます」って人の中で、同性愛を肯定するつもりで

「愛に性別は関係ない」

っていう人がいるんだよね。

違います!同性愛者の好きになる相手は性別が決まってます!同性愛者は選んで同性が好きになります!異性は選びません。だから同性愛者の愛は性別が大いに関係があります!

その点、選んで異性を好きになる人と、対象は違うけれど同じなんだよね。性別が関係なく好きになる人は、一般的にはバイセクシャルか、パンセクシャルの人ってことだろう(デミセクシャルとかポリセクシャルも該当するっちゃ該当するかも知れないけど、中には該当しない人もいるから、まぁ一般的にはバイセクシャルかパンセクシャルってことになるんじゃないでしょうかと思う)。

だけどね。じゃあ「好きになる女性」ってなんなんだろ?と思うわけですよ。

「女性」って一体どういう人のことを指すのと。

わたしは、電車の中で見た人を女性だと思ったときはドキドキして見て、男性だと思った途端落胆した。同じ人なのに。でも、じゃあ女性の何にドキドキし、男性の何に落胆したのか。それを考えると結構難しいんだよね~。

人の性別は何によって決まるかというと、染色体、性ホルモン、性分泌、外性器、内性器、だったっけ、、でもどうやってその人が男性か女性かが決まるかというと、生まれたときの外性器の見た目、だ。人は生まれたとき、医師が外性器を見てそして男性か女性かが決まる。その男性とか女性ってのは、あくまでも「戸籍上」ということだ。しかも細かいことを言うと戸籍には性別は書いてない。書いてあるのはあくまでも「親との関係」だ。

ただ、日本では戸籍上の性別が、本人の社会的な性別になっている。生物学上の男性、女性とは言うなれば、外性器しか一致していない。もちろん中には外性器で判断がつかない場合もあるわけだけど。

外性器が男性だからと言って、内性器まで男性とも限らない。逆もしかり。性染色体がXYだから男性でXXだから女性とも限らない。そう考えると、何が男性で何が女性なのか、わたしは本当に性染色体も性ホルモンも性腺も外性器も内性器も全部女性じゃないと女性として好きにならないのか、と言われると、自信がない。

だいたい、わたし自身の性染色体なども正直、調べたことがないので分からないのだ。わたしが本当に完全に女性かというと、調べてないので分からない、というのが本当だ。なのにわたしは自分のことを女性だと思っている。もし、わたしが女性かどうかを調べて、もし、肉体的に完全な女性ではない、という結果が出たとしても、わたしは自分のことが女性であるとしか思えない。多分、この世界で生きてる人の大半がわたしと同じだろう。

とすると、わたしが自分のことを「女性である」と思っていることは、全く根拠がないことになる。たまたまわたしの肉体の一部は女性だと思うが、それだけを根拠に「女です」とは言えない。だから性別は「頭の中のもの」に過ぎない、というのが、今のところのわたしの結論だ。

でもね。「好きになる性別」は違うのだ。「頭の中が女性」という人だったらどんな人でも好きになるかというと、実はわたしはそうではない。肉体が女性じゃないと好きにならない。肉体が女性だったら、性染色体がXYでもいいかと言われると、そこはよく分からない。じゃあXXYだったらと言われるとそれもよく分からない。だけど一度でも男ジェンダーで育てられた人はちょっと嫌だなあって思ったりもする。もちろん、身体が女性でも男ジェンダーの人は好きにはならない(と思う)。すると、性別だけじゃなく、ジェンダーも関係あるのかよってことになる。

「性別は頭の中のもの」と言いながら、好きになる相手の性別は「頭の中のもの」だけじゃなく、身体やジェンダーが関係してくる。それはちょっと公平じゃないんじゃないの?って思うのだが、こればっかりは仕方がないんだよね、、

異性愛者の人も「自分が好きになる異性とは何か?」を考えてみるのも面白いんじゃないかと思う。中には「頭の中が自分と異性だったら、身体はどっちでもいい」って人もいると思うし。というか、実際いるしね。まぁそこのところの許容範囲(と言えばいいのか?)は女性の方が広いような気はするけれども。
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