02-05 Wed , 2014
自殺/末井昭
本来なら、わたしはこういう類の本は読まない。
読むとウンザリするのが分かっているから。
本の根底に「自殺はしてはいけない」ってのがあって、それに沿って書かれてるから。
そしてその内容はどうせ「人生は素晴らしい。だからもうちょっと生きてみよう」ってものだから。

ここで自分の思ってることや、やってきたことなどを素直に書くと、自殺したいと思っている人の後押しをしちゃうような気がして怖いのだが(過去にかかってた心療内科の先生に注意されたことがある)、基本的に今のわたしは「死にたい」と思って生きている。これはうつという病気のせいだと思っているが、一方で、うつ病が治ったとしても(もうほとんど治ってると思うけどね。落ち込みは全くないし)希死念慮だけはこの先も消えないと思っている。

死にたい理由、ってのは特にない。ただもう生きるために息をするだけでしんどいのだ。まぁうつ病に3回かかってるうちに、この感覚が染みついちゃったわけだよね。こういう考えの人に「いいことがあるかも知れないからもうちょっと生きてみよう」って言ったとしても、自分にとっては息することさえしんどいんだから「もっとしんどい目に遭え、もっとしんどい思いをしろ」って言われてるのと同じなのね。絶望的な気分になる。だから自殺防止のサイトなんか見ようとは思わないし、人に相談しようとも思わないし、ましてや本なんて読もうとは思わない。

で、実際、何度か死のうとした。けどダメだった。怖くてダメだった。

でもね、この「怖い」というのはね、よく言われる「人間は本質的には生きていたいんだ」っていうのとは違うのよ。生きていきたくはない、けど死ぬのは怖い。死は怖くないけど、自分の手で自分を殺すのが怖い。何回か自殺しかけてね、でもやっぱり死ねなくて、最終的に「あ、わたしは自殺ができない人間なんだ」と悟った。それからは自分で死のうとは思ってない。やろうと思ってもできないことは十分分かったから。それより「なんか空からでっかいものが自分の上に落ちてこないかな~」とか「事故に遭わないかな~」とか「心筋梗塞になって急死しないかな~」と思って生きている。そういうことで今すぐ死ぬのは全然怖くないし、むしろそれを望んでいる。

ただ、今思っていることが生涯変わらないかというと、それは分からない。特に「自分の命が今すぐではなく、何年か後(または数ヶ月後)に死ぬことが確実」って分かってしまったときはどうなるか分からないと思っている。もしかしたら「死にたくない」って思うかも知れない。それはそのときが来なければ分からない。

随分話が逸れたね(笑)だから、わたしはこの手の本は読みたくない本だった。

それがなんで読もうかなと思ったかというと、実はよく分からない(笑)この本は多分、twitterで知ったのだと思うけど、いろいろな人のツイートを見て、なんとなく嘘くさい「自殺防止啓発本」じゃない気がしたのかな。本の帯に西原さんの言葉が書いてあるって知ったからかな。西原さんのは前に「この世でいちばん大事な『カネ』の話」って本を読んだことがあって、それは題名からしてもそうなんだけど(笑)、正直な話だったんだよね。あとどこかに書評とか載ってたのを読んだんだっけ。よく覚えてないけど。「ちょっと普通の本とは違うかな」って思えてきて、それで買ったのだった。

で、読んだのだが、わたしが一番最初に読みながらずっと気になってたのは「これ書いたのは一体どういう人なんだろう?」ってことだった。いや、この本を書いたのは末井昭という人で、この本の中にはこの人が生まれてからどういう風に生きてきたかが割と詳しく書いてある。でもその内容と文体がチグハグなのだ。文体は「です、ます」で書いてあって、その書き方からして書いている人の印象はとても気が弱くてオドオドしながら生きている、って感じに思える。でも中身に書いてあることは、結婚していても何人かの女の人と付き合ってて、パチンコと麻雀が大好きなギャンブラーで、バブルの時は先物取引などに手を出して借金を莫大に作って、っていう、とても「オドオドした人」とは思えないようなことをしている人なのだ。それにまだ意外な点は、こんな人がキリスト教を信じている、ということだった。

最初、この人をわたしは全然知らなかったし、ただ「キリスト教を信じている」ってことが先に書いてあったので「あ、だからこんなにオドオドした感じの人なのかなあ?」って思ったりした(笑)いや、わたしにはなんかキリスト教を信じている人って自分を卑下しているイメージがあるのよ。「神さま、どうぞわたしを憐れんでください」とか、聖書に出てくるじゃん。「わたしを憐れんでください」ってことは、自分は憐れみの対象か!って信じてないわたしはつい、そんな風に思ってしまうので。。それはキリスト教を信じている人への偏見だろうなって思うのだけど。

でさ、最初の4章くらいまで読んだとき、人となりはまだよく分からないけど、書いてあることで思想的に自分と似ている人だと思ったので、まず「多分この本は最後まで読めるな」って思った(最近、思想的に合わない本が増えてきてつらい)。特に4章の「世間サマ」の話の中で「殺人事件の犯人が裁判で無期懲役の判決を受けたとき、その被害者の家族がテレビのインタビューで『残念です。極刑にして欲しかった』と言っているのを見てゾッとしますが、被害者の家族の心情よりも、被害者の家族の発言をさも正義のように放送するテレビ局と、それを見て被害者の家族と同じ気持ちになって『殺せ!』と思っている世間サマにゾッとするわけです。」云々のところは、本当にそうだと思ったのよね。

わたし前に死刑に関する本を読みまくったとき、自分の中で出した結論は「今のところ、死刑制度に賛成」だったわけだけども(っていうか、この結論に対する日記ってわたし書いてなかったのね。今見たら「自分なりの結論が出ました」って書いてるだけだった。あのときはそう書きたくなかったんだな、きっと(笑))あの時点で自分がそう結論を出した理由はただ一つ、「人を殺したんなら、やっぱり自分は殺されるべきなんじゃない?」(人の人権を侵害した人は、自分の人権も侵害されても構わないんじゃないか)ということからだった。要するに「目には目を」ってヤツだけれど、でもそう自分で結論を出したとしても「でも冤罪だったらどうするか」とか「死刑になった人を殺さなければならないのもまた人じゃないのか」ってことが頭の中をぐるぐるして、結局スパっと「これが結論です」って出せた結論じゃない。だからわたしも「殺せ!」と脊髄反射している世間サマに対しては非常に違和感がある。

あとその後引用されたひろさちや、という人の本は、わたしも読んでみたいって思った。この本全般に対して言えるんだけど、所々にわたしにとって、非常に興味深い本が紹介されてるのよ。「イエスの方舟」の千石さんの本なんて、紹介されたの全部読んでみたいと思ったし、近くの図書館に所蔵されているかを早速確認しちゃった。全部あったんで、今度読んでみようと思っている。わたしは一つの本から次の読みたい本を探すのに、こういう「参考文献」を利用することがよくある。そうすると世界が広がるんだよね。もともと興味ある本を読んでるんだから、そういう方向にどんどん広がる。しかも自分で探す手間がない。こういうのは本当に有難いと思う。

で、肝心の「自殺」に対してなんだけど、わたしは「うつと自殺」についての章がとっても気になってたの、4章まで読んだ時点では。この人、うつ病によって自殺しようとしてる人に対してはどういう風に書くのかなって。でもね~、この人もうつ病って診断されたことがあるらしいけど、死にたいって思ったことないらしいんだよね(それは初めの方にも書いてあるけど)。上に書いたけど、わたしの死にたい理由は、息するだけでしんどい、とか、この世に自分が存在することが許し難い、とかいうもので、そういうのを納得させるような言葉はないように感じたの。まぁ自分で言うのもなんだけど、こういうのは病気なんだよね。理由なく死にたいのは病気だ。だからまず、その病気を治さないといけない。多分、それくらいしか言いようがないと思うんだよね~。

ちなみにこんなところで紹介するのはなんだけど、以前(一昨年だったかな?)朝日新聞か毎日新聞で片岡鶴太郎のインタビューがあってね、そこに書かれたことがとてもわたしにとって「ああ、そうだな~」って思われたので、その記事を切り取って壁に貼っておいたの。普段は格言とか名言とか言われているものはとても安っぽく感じられて、わたしは大嫌いなのだけれど、その言葉は彼の実感したことだからか、すんなりと入ってきた。インタビューの中の一部がこれ。

-30代でボクシング、40代で絵画を始めるなど迷いなく全力疾走していますね。

(片岡さん)いえいえ、私だって、50歳を目前に八方塞がりの閉塞感にさいなまれたことがありました。きっかけなど、なかった。男の更年期ってヤツですかね。「どーせ俺なんか、ダメなんだ」と独り言を繰り返したり、「バカヤロー。おい、辛気くさい顔すんなよ。笑え、笑えっ!」と自分に対して呪文のようにつぶやいたり。
 いえね、仕事をしている時はいいんです。他人の人生を演じていられるから。自分自身でいることがこの上もなく大変な時期でした。
 あの時ばかりは、絵を描いても気持ちは晴れなかった。むしろ書き終わった時の孤独が身にしみる。ええい、こうなったら体を動かそうと、ジム通いを再開しました。動いて汗流して、ようがくたどりついた結論が、「自分の言葉で自分を傷つけるのはやめよう」でした。初めて知りました。他人の言葉でなくても、「自分なんてダメだ」と繰り返せば人は傷つくんです。


うつ病で動けなくなったとき、多くの人は自分を責めてしまうと思う。「なんで気力が湧かないんだ」とか「自分の努力が足りないのではないか」とか「自分は甘えているのではないか」とか。それで自分で自分を傷つけて、結局死にたくなる。わたしが自分のことを「この世に存在することすら許せない」と思うのは、まさにこれだと思った。ああ、自分は今まで散々自分のことを傷つけてきたのだなあと思ったら、なんか涙が出て来た。それは「世間サマ」に「お前は甘えている」と言われるのよりもっとつらいのだ。「世間サマ」だったら自分がそれを気にしなければいい。他人は無視しやすい。でも自分自身の「お前は甘えている」という言葉を無視することは難しい。自分の言葉で自分を傷つけていると自覚していないと無理だと思う。だって何に自分が傷ついているのか、自分が傷ついていることすら分からないのだもの。

わたし自身は「自分がこの世に存在することすら許せない」という考えをもう自分の中から取り除くことは不可能だと思っているので、そう思いながら生きていこうと思っているけど、それでも「なんで身体が動かないのだ」とか「気力が湧かないのだ」とか「甘えてるんじゃないか」という直接的に自分を責める言葉を自分に浴びせるのは止めたら、随分精神的に安定してきたように思う。

なんかまた話がだいぶずれたね(笑)

まぁ結局さ、この本は自殺についていろいろ書かれてて、確かに樹海の話とかは面白かった。「人間に精神など存在しない。あるのは脳内の化学変化だけ」ってのは読んでて「おお、そうだよな」と思ったし。けどこの本の結末もやっぱり「自殺は否定しないけど、できるならもうちょっと生きてみよう。そうすればきっといいことがあるよ」という感じだったので、まぁ「お前もか」みたいなね。

ただ、わたしがこの本は面白かった、と思うのは、初めにも書いたとおり、「この人ってどんな人なの?」ってことなのだ。4章以降はこの人がやってきたことがつらつらと書いてある。一見、気弱そうな文章だけれど、やってきたことは全然気弱じゃない。気弱だと周りに流されていく感じがするけど、そして確かにずるずると別れられないまま何人もの女性と付き合ったりするところとか、先物取引でずるずるお金を注ぎ込んじゃうところなんかは「決断力がないのかな?」って思わないところもないけれど、でも一方で、エロ雑誌作ってるときに毎月警察から呼び出しがあっても「お役目ご苦労さん」という気持ちで通ってたとか、ある程度社会的に成功しているところを見ると、気弱じゃこんなことできないとも思うんだよね。だって会社を大きくすることって決断の固まりだと思うから。本人は別に「会社を大きくしようとは思ってなかった」と言うに違いないのだけれど。本には「会社には会議に出ることと書類にハンコ押すのが唯一の仕事」みたいに書いてあるけど、きっとそんなんじゃなかったと思うよ。なんでもかんでもホイホイ判子押してたら会社なんて大きくならないと思うし。女の人にはまったときも、麻雀やパチンコにはまったときも、会社なんて二の次、みたいな書き方してあるけど、実際は仕事もしてたと思う(本人は仕事はしてないって思っているかも知れないが)。だから、この本ではこういう書き方をしてあるけど、本当はもっと違う感じの人、例えば男ジェンダーバリバリの人なんじゃないだろうかと思ったりしてる(やってることは男ジェンダーバリバリだし)。本にもチラッと「キレてものを投げつけたりする」って書いてあったり(ただこういう感情は怖いとも書いてあったけど)、「おまえらバカか!」と心の中で思ったりしたことがある(ただし口に出しては言えない)と書いてあったりするので、文章から印象づけられる「気弱さ」とは違う面もあると思うんだよね。

この人は今まで何冊か本を出してるみたいなんだけど、全部こんな口調で書いてあるのかが今、とても気になって仕方がない(笑)もし違うとすれば「ああ、やっぱりね」って思うし、逆に全部こんな口調だったら「なぜ?」って思っちゃう。「そういう風に見せることによって、何かがあるのか?」とかね。うーん、わたしは普段はあんまり文章からする人となりってのは疑問を抱かない。例えば上に出てきた死刑制度について、森達也と藤井誠二が書いた本をたくさん読んだけれど「この本を書いたこの人ってどんな人だろう?」とは思わなかった。それは今考えると「言文一致」というの?イメージ的に書いてる文章と性格が一致しているように思えたからだ。でも、この人は違う。読んでてすごく違和感がある。それは計算されたものなのか、そうじゃないのか、、どうなんだろう?

あとは宗教ね。この本の「観光気分で被災地巡礼」の章は、わたしはとてもじーんと来た。そこには旧約聖書の「ヨブ記」の話が書いてあって、そこに書いてあるヨブの3人の友人と、被災地を取材に来て「こういう災害が起きたのに神はいると思ってるんですか」と聞いた取材陣が同じだっていうの。もう何度も書いてるけど、わたしには神も仏もいない。けど「神がいる」ってことはこういうことなんだなあと。「宗教を信じるとはどういうことか」ってことをわたしはここ数ヵ月間考えてて、やっと分かったのは「宗教は頭で信じるものじゃないんだ」ってことだった。信じると信じないというのは、連続的なものじゃない。コンピュータの0と1のように不連続なものじゃないか、というのが、わたしの今のところ出した結論だ。だから人にいくら「これこれこうで、こういうことがあって信じるようになりました」というのを説明されても(実際「神を信じるようになった理由」などで検索を掛けると、キリスト教の洗礼を受けた人の言葉がたくさん出てくる)、どこかで飛躍しているように感じられてしまう。以前読んだ「イエスはなぜわがままなのか」という本の中に、著者が「何かを信じると言うことは、一目惚れするようなものだ」と書いていたけど、多分そういうことなんだろう。だからいくら「これがきっかけでわたしは神の存在を信じるようになりました」と言われても、信じてないわたしには理解できないだろうと思う。

でね、この本を読んでるうちに、わたしは自殺の話じゃなくて、この人がどうやってキリスト教と出会って、そして信じるようになったんだろうって、それが気になり始めて仕方なかった(笑)目次を読むと後ろの方に「聖書との出会い」という章があるのを発見してね。もう、早くそこが来ないかなって、そればっかり思いながら読んでた(笑)で、読んだら「うう、これだけじゃ足りない」って思った(笑)この人の書く、キリスト教への思いがもっと知りたいって思った。なぜなんだろうね。多分、今、わたしがもっとも興味があるのはそれだからかな。最近の日記はなんか宗教に絡んだことばかり書いてるけど、まったく予想してなかったが、この本はとてもそういう点でも「興味深い」本だったんだよね~。この後、この人は洗礼を受けるまでに至ったのかとか、そこにはどういう思いがあったのかとか、そういうことがとても知りたい(笑)

というわけで、長々と書いたわけだけど、正直、自殺についてはあんまり感じるところがなくて、だけどそれ以外のところですっごく面白かったし、興味深かった。著者の目的とはずれちゃったかも知れないけど、わたしはこれはこれでとても楽しめた本だった。
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02-11 Tue , 2014
矛盾すること
前に「歳を取ったってことなのかな」って題名で日記を書いた。つい1ヶ月ほど前だけど。

そこには「自分の感覚が広くなってきた」って書いたんだけど、具体的に感覚が広くなるとはどういうことか。思い付いたので書いておく。

ある事象Aに対して
「これに対する自分の意見は○○である」

と決めてきた(決められた)のが「自分のことがある程度分かってきた」ということの根拠だった。事象Aに対して、意見を求められればはっきりと自分の意見が言えると思っていた。そしてはっきりと言える自分は理性的だと思っていた。

そうやって、事象A、事象B、事象C、、と事象ごとに「自分の意見」を持ってきたが、最近、異なった事象に対しての「共通点」を探すようになった。そしてそれに対しての自分の態度に共通点と矛盾点がある、ということを感じるようになった。共通点はまだいいのだが、矛盾点はそれ自体、どう考えていったらいいのか、、矛盾は矛盾のままでいいではないか、という考えももちろんあるのだが、もし矛盾しているのなら、自分はどこでどう判断して共通する事象Aと事象Bに対して矛盾を許しているのかという「原因」が知りたいと思っていろいろ考えている。

なんて書くと難しげに見えるのだが、例えば、今はオリンピック(ソチ)の最中だ。ソチでの五輪は正直、ロシアの反同性愛法の関係で、見ること自体に抵抗感があるのだが、それとは別にわたしは最近あまりオリンピックには興味がない。こないだのロンドンのオリンピックもあまり見なかった。だけど、オリンピックが終わったあとに行なわれるパラリンピックは積極的に見た。オリンピックに比べて圧倒的に放送時間が少ないことに憤りも覚えた。オリンピックはあまり見なかったのに、パラリンピックは見た、というのは、そこに「自分にはあるとは思えない能力」が見られるからだった。例えば「ゴールボール」(鈴の入ったボールを投げてゴールに入れる競技)とか「盲人サッカー」とか。とにかく「自分の持ってないすごさ」が見たかった。

こう書くと「オリンピックでも人間のすごさが分かる競技があるよね」と思われるだろう。その通りだ。100mを如何に短く走れるか。金属の玉を如何に遠くまで投げられるか。人間はどのくらい重いものが持てるのか。実はわたしはこのような競技を見るのは好きだ。だけど、これらの競技って「日本人」はそんなに得意じゃない。オリンピックというのは日本人がメダルが取れると期待される競技を主に中継されている。なので、わたしが見たい番組と放送される番組の内容に乖離がある。なので、興味ないのであまり見ない、ということになってしまう。ゴールボールは日本チームが強いのもあって、それで放送された。まぁそういうことなのだ。

それとは話が変わって、最近、交響曲を作ったという人が実は指示書だけ書いて、別の人が作曲してたってことが分かった。その人はわたしと同じ被爆二世で、耳が聞こえない、という人みたいだ。NHKで以前、その人のドキュメンタリー番組が作られたということだが、実はわたしもその番組を見ていた。そこで初めてその人を知ったのかな?だけど、あまり感じることがなく、別にその人が作曲した音楽が聴きたいと思わなかったので、それはそれきりになっていた。そしてこの事件が発覚しても、わたしは「作られた曲に罪はないのに」と思っていた。別にあまり腹も立たなかった。それはテレビを見ただけで、具体的に自分がCDを買うなどお金を払ったわけじゃないからだろうなと思った。「騙された」と騒いでいる人に対しては「耳の聞こえない人が作った音楽っていうだけで寄ってたかって持ち上げときながら」と思った。「素晴らしい曲は誰が作っても素晴らしいんじゃないの?どうしてそこにその人の『属性(しかも不幸な)』のが入っちゃうの?それっておかしいんじゃない?」と。

ところが先に「パラリンピックが好きだ」と思っちゃう自分の気持ちと「耳の聞こえない人が作った音楽」に対して感動している人の気持ちって、もしかしたら共通点があるんじゃない?って思い始めた。確かにわたしはあからさまに「健常者より劣った障害者にこんな能力があるなんて」と思っているわけではないが、でも思っていることはそれにかなり近いことなのでは、と。

そう考えている自分は「障害者は差別されてはいけない」って思っておきながら、一方では「健常者より劣った障害者」とどこかで感じているんじゃないだろうか。こういうのが仏教で言う「偏見」なのかな。わたしは人間なのでどうしてもそういうことは克服できないと思う一方、やはり自分が偏見を持っているということは許せない。

ただ、ニセ作曲者さんに対して「騙された」ことから発せられる、個人を非難中傷する言葉だとか、他の障害者を貶めかねないような発言とか、そういうのは止めた方がいいのでは、と思うのだが、これもどこからどこまでが非難中傷で、どこからが個人的な怒りか、と線引きするのが難しいんだよね。特にこういうことでわたしが思ってしまいがちなのは「騙される方が悪い」だが、それはわたしがこの件に対しては騙されなかったから。

しかも、騙された方が悪い、は、実は非常に危険な論理だ。騙す、騙されは、騙した方が悪いに決まっている。騙した人がいなければ、騙される人もいないのだから。

まぁわたしは別に「普遍的な真理」を求めているわけじゃない。でもせめて「自分が納得できるような結論」は欲しいと思っている。けど、こういうのって考えても簡単に答えが見つかるわけじゃないんだよね。そうすると、前の日記に書いたように「物事がすごく曖昧でしか捕らえられないようになっ」てしまう。

それはとても気持ちが悪い状態だ。特にわたしは一旦「自分で結論を出した」と思っているのだから。自分に対する矛盾をどのように考えたらいいのか。一番簡単なのは矛盾している自分をそのまま受け入れることなんだろうが、それはいろいろ考えた末、どうしようもなかったらだと思っている。今すべきなのは、矛盾を受け入れる自分にするように努力するんじゃなく、どの時点で矛盾が生じたのかを分析し、そしてそれに対してどのように整理していくかだと思う。

まぁこういうことをすることに対しても「それが何か意味があるの?」と思ったりするけどね。「半年後にこの世にいないと分かっていたとしても、同じことをするのか」とかね。そう考えると「無常」を感じざるを得ないけどね、、
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02-12 Wed , 2014
考えても分からない
「考えても分からないことってあるよね」と聞いたら誰でも「あるある」って答えると思う。

まぁ少し考えてみても「正義とは何か」とか「善とは何か」とか、そこは「全人類に対しての」じゃなく「自分にとっての」にしてもやっぱり分からないってことはあると思う。

ただ、今回書きたいのは、そういう「定義系」の「分からない」じゃなく、感覚系の分からない、だ。

これはわたし、本当に不思議だなあ~って思ってるんだけど、

例えば、わたしはとても涙もろい。それは格好が悪いので本当は嫌なんだけど、一番嫌なのは「これは感動する」とか「感動秘話」とか「泣ける話」と銘打ってあるものに泣けることだ。二番目は「誰もそんなところで泣かないのに、自分だけ泣いてる」ってことかな。二番目のヤツは「ここの部分が自分の琴線に触れている」ってことが分かるのもある。あと言葉には出来ないけど感覚で分かるのもある。もちろんなんで泣けるのか、全然分からないこともある。

でも、一番不思議なのは一番目の「泣ける話で泣く」ってことだ。はっきり言って、泣ける話の「泣ける場面」のほとんどはそれを作った側から「さあ、ここで泣きなさい。ここは感動するところだよ」って言われているのが分かる。話自体はとても安っぽくて陳腐なのも分かる。だからわたしとしては「こんなところで泣くのは、制作者側の意図にモロはまっているようで恥ずかしいから泣きたくない」し、気持ちは全然感動してなくて、むしろ「お涙ちょうだい」に対して呆れているのだが、それでも泣いてしまうのだ。

「気持ちは全く感動してないのに、なんで泣けるのか?」といつもいつも思うし、泣きながらこの不思議な感覚を味わっていたりする。自分の意に反して泣いているのって、本当にわけが分からなくて、そういうときに自分の「無意識」というのを感じる。

無意識って、人間が意識していない行動に対してあれこれ分析して「実はこう思ってる」みたいに言われることがあるけど、泣くという行動はとても単純なためか、他の人からは「泣いている」としか見えないからか、分析しようがないんだよね。いくら考えても考える「きっかけ」すらない。

わたしみたいな人間は、それこそ無意識のうちに「理由はこうだ」と分析してしまうところがある。もちろん頭では分析しきれないことがいろいろあるのは分かっている。けど、いざ、このような感覚を味わうととても不思議な感じがするんだよね。あの不思議な感じというのも、書き表すことができない。宙に浮いている感じ、に似てるのかなと思ったが、書くとなんか違うような気がする。。

そういや仏教の教えに「言葉にした途端、変質してしまう」みたいなのがなかったっけ?

こういう感覚を楽しむことは、意識的にはできないので、とても楽しかったりする。泣けるのはしゃくに障るんだけどね。

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02-19 Wed , 2014
高学歴者の哀しみ
日本社会は学歴社会だ。

中卒より高卒、高卒より大卒の方が世の中で優遇される。

一番顕著な例は仕事だと思う。「職業に貴賎なし」と言われるけれど、
実際は頭脳労働の方が肉体労働より上に見られ、また大企業の方が中小企業より上に見られる。
(もちろん中には「そんなことない!」って思う人もいるだろうが、世間的な風潮はこうだよね)

そして、その「上」と見られている職業に就くためには、学歴が必要だ。
募集要項に「大卒以上」と書いてある求人には高卒は応募すら出来ない。チャンスさえ与えられない。
そして、大卒でも「就職しやすい大学」とそうではない大学がある。
もちろん、難関大学と呼ばれている大学の方がそうでない大学よりも就職しやすい。
要するに日本社会は学歴社会なのだ。
まぁこんなこと、わたしが指摘するまでのことはないのだけれど。

時々「学歴がない」とか「低学歴」って自分のことを思っている人たちの声を聞くことがある。
その人たちはそれで人からバカにされたり、いないことにされたり、不本意な思いを随分しているのだと思う。
それはそれで「正しい」と思うので、わたしは納得しているし、世の中は変わるべきだと思っているし、協力できることはしたいと思っている。

けどね。
一方で「じゃあ、わたしは?」って思いをどこかに持っているのだ。

今までの日記を読んだりすると分かると思うけど、わたしはおそらく「高学歴」という部類に入っていると思う。
高学歴って、どう定義されているのかが分からなくて、一説によると「難関大学を卒業した人」が高学歴だと聞いたこともある。わたしはそうじゃなく、大卒以上が高学歴って言うのだと思っていたのだけれど。。まぁどちらにせよ、わたしの場合は大卒ではなく、修士修了なので高学歴だと思う。最終学歴って、中退は含まず、卒業(修了)した場合のみを言うってどこかで読んだ気がするので、取り敢えずわたしが学歴を言う場合はそこまでにしている。

けど、本当はその上に行っていたのだ。最終学歴とは言わずになんて言えばいいのか分からないけど、わたしは実は博士課程中退している。でも逆にこれを言うとびっくりされるので、普段はまず言わない。まぁその当時、わたしは研究者になるつもりだったので、当然のように博士課程に進学したのだが、結局途中で嫌になって辞めた。うつ病になっちゃったってのも大きいと思う。その当時かかってた精神科の医者に「それは学校を辞めないとよくなりません」って言われたのをよく覚えている。

だけどね~、辞めてどうなるの?っていうのが一番の問題だったのだ。なんてったって、就職先がない。勉強してた分野を生かすには「研究者」しかなくって、その他の道がない。まぁあったとしてもその頃は既に20代後半で、しかも就職は「超氷河期」と言われていた。大卒新人ならともかく、博士課程中退では一般就職のスタートラインすら立てず、本当に本当にどうすればいい?って、とても困ったのだ。

まぁこの先はあまり詳しくは書かないけど、もう道は一つしかなかった。だからわたしはものすごく努力した。今までやったことがないような努力をした。後にも先にもあんな努力をしたことはわたしにはない、と思うほど頑張った。

「学歴がないからスタートラインすら立てない」って言っている人に対して「そうなの!学歴はあるけど、わたしもそうだった!」って本当はとても言いたい。日本社会は均質的な社会なので「普通以外」をとても嫌がる。大卒は「当たり前」なので受け入れる。しかし、そこからはみ出たものは苦労したり努力しなければ、受け入れられないのだ(もちろんどんなに努力しても受け入れられない場合もある)。だからわたしも苦労している人の気持ちはものすごくよく分かるし、だから「わたしだって、すごく苦労してきたんだよ」って言いたい気持ちもある。

だけど、言えない。それは事象は同じでも立場が全く違うから。やっぱり「高学歴」は力を持つものだから。

話は変わるけど、最近ちょくちょく「男性差別」という言葉を聞く。そう言っている人の言い分は「弱者男性もいる」ってことらしいが、でもわたしはそれを聞くたびに腹が立つ。「目に見えない部分で、男性をどこかで享受してるでしょ」って思う。男はまず行動を制限されることはない。やりたいことをやれる。道路で寝てたって何も言われない。女性が道路で寝てたらまず人から何か言われるし、もしも襲われたりしたら「そういうところで寝ているから自業自得だ」と言われるだろう(例えがしょぼいね(笑))。でも多くの男性はおそらく自分が「男性として有利に扱われていること」についての自覚はあまりないように思える。だから「男性差別」なる言葉も発するんだと思う。

「高学歴」もこれと一緒だ。この社会は「学歴社会」だ。学歴があればいいと思われている。だから「高卒です」と言ったときと「院卒です」と言ったときに対して、他人は別の印象を持つだろう。その人に対する態度も変わってくるかも知れない。そういう、目に見えない部分での違いは確実にあると思う。そしてその違いをひしひしと感じているのは、おそらく高学歴の方ではなく、学歴を持っていない人の方が多いのではないかと思う。

だからこそ。わたしは「自分も同じ気持ちだよ」とは言えない、と思っている。だって「同じ」じゃないから。

そう、それは頭ではよく分かっている。

でも一方。「じゃあ、わたしのこの苦労してきた経験や気持ちはないものなの?」とも思うのだ。あんなに一生懸命頑張った、まぁ、その頑張りは一応報われたわけだけども、でも、あんなに苦しくて、一生懸命で、頑張った自分は隠しておかなきゃならない自分なのかなあって。それを思うとちょっと悲しいんだよね。

そりゃ、恵まれてるって思ってるさ。いくら勉強したくても金銭的な面で諦めた人ってたくさんいると思うし。金銭面だけじゃなく、勉強をずっと続けられる環境だったし。本人の努力だけの問題ではないって分かってる。それはそうなんだ。けど、それだけじゃ割り切れない思いもわたしの中には確実にあるわけなんだ。だけど、わたしのこの思いを誰かに伝えれば、きっと傷つく誰かもいるだろう。この文章で、傷ついた人はきっといる。わたしは誰も傷つけたくない。けど、自分の思いもなかったことにはできない。

この矛盾する思い。
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02-22 Sat , 2014
神さまってなに?/森達也
これは一度、2010年頃に既に読んでいる本なんだけど、最近わたし自身が「神さまって何?」って考えてるので再読した。

前に読んだときにわたし、この本に対して星を4つ付けてるの。5段階評価で。わたしが星5つ付ける本ってまずないので(読んで自分の人生が変わったとか、相当心揺さぶられたとかそういうのじゃないと5つは付けない)4つというとかなり高評価の部類だ(本の評価は以前はソーシャルライブラリーってアプリで付けてて、今はブクログで付けてる)。

でも、正直、再読する前はこの本に何が書いてあるのかさっぱり忘れてしまっていた。そして2回目、読み始めたんだけど、途中までは「わたし、なんでこの本に星4つ付けたんだろう?」って言うほど面白くなかった。それは最初から「神さまはいる」って前提で話が進められているような気がしたから。いきなり「人間が神を求める理由」ってのが書いてあって、そこには「人間は自分に死があることを知ってしまったために、宗教を求めるんだ」って書いてあって、おいおいって思ったから。いきなりそこかよって。

人が死を知ってしまったために宗教を求めるのも、もちろん分からないでもないが、わたし自身は納得できないのだ。前にも何回か書いたと思うけど、わたしは死後の世界はどうでもよくて。というか、逆にわたしにはあっては困るのだ。魂が生き残るのもいやだ。死んだら一切が消滅しないと嫌なのだ。自分が存在すること自体が苦痛だから。それにいくら「そこでは永遠に心安らかでいられる」と言われても、苦しみや怒りなどの感情がない世界は、逆に楽しみや喜びもない退屈な世界なような気がするのだ。仮に楽しみや喜びだけの世界だと言われても、毎日ずっとずっと楽しみや喜びだけの世界って、そのうちまったく面白くなくなる世界だと思うわけなんだよね。苦しみや怒りなどのマイナスがあるから、逆に楽しみや喜びが何十倍にも大きく感じられるんだと思う。あとずっと心安らかなのも、ただ息をするだけで苦痛を感じている自分にとっては、地獄にいるのと等しく感じられる。わたしが心安らかでいられるのは、この世からもあの世からも抹殺されないといけない。消滅して初めて心安らかでいられるなあと思うのだ。

だからわたしには宗教でいくら「あの世で救われる」と言われても、それだとわたしは救われないのだ。で、「これが宗教の存在理由です、だから神さまはいると人間は感じているのです」と言われても、わたしは納得できないのだ。

この本はそういう説明をしたあとに、仏教、キリスト教、イスラム教の世界三大宗教の成り立ちの話が出てくるんだけど、仏教の部分はとても退屈だった。だからわたしは読んでて「なんでこれが星4つ?」って思ったのだった。なんていうかね~、仏教の教えってわたしには救いがないように感じられるのよね。言ってることは宗教的というよりも哲学的だし、あと「人生は苦しいものだ」と決めつけている感じがする。まぁ仏陀が悟りを開いた頃の民衆の生活はただ苦しいだけだったのかも知れないが、今のわたしはつらいながらも一瞬楽しかったり、面白かったり、心を動かされるときがある。まぁそれで「生きててよかった」とは思わないが、そういうひとときがあるからまだ生きていけるんだという気がしている。けどね、仏教って愛別離苦、というように、愛すらも苦しみなんだよね。ものに執着するのは苦しみだから、ものに執着しないようにしましょうって教えなのだ。これってあんまりだと思わない?なんか仏教の目指すところっていうのが、わたしにはとても「そうありたい」とは思えなくて、だからこそもっと仏教のことを知りたいと思っているのだが。。

あ、なんか仏教に対する文句になってしまった(笑)これは本の感想文だった。

だけどね~。キリスト教に入ってからしばらくして、俄然面白くなった。森節が冴えているというのかな。短く言い切る文章はスピード感があってぐいぐい引き付けられる。というわけで、イスラム教辺りのところで「やっぱりこの本は星4つだ」って確信した。特に最後の最後で「神さまを人間が求める理由」について、一番最初に書かれた「人間は死ぬって知ってしまったから」という理由以外にもう一つ理由があるって書いている。まぁそれも特に目新しい意見ではないのだけれど、でもわたしが最近読んだ本は(キリスト教関係の話だったんだけど)「死が恐怖」とか「永遠の命を与えられると約束することによって人間は平静でいられる」とか、そういう話ばっかりだったので、ちょっと嬉しかった。

ただ、まぁこの本の目的は宗教を説明するだけじゃなく「時には人を狂わせてしまうこともある、宗教とは何かを自分の頭で考えよう」ということなので、わたしの知りたいこととはちょっとずれているんだけどね。それにしても、やっぱりわたしは森達也の考え方や文章の書き方は好きだと思う。だけど、面白いことに、最終的にこの人とわたしが出す結論は違う。本の中に書かれている意見はほとんど「うん、うん、そうだよね」って思うんだけど、最後の最後で彼とわたしは意見が違う。死刑の時もそうだったし、今回もそう。それは自分でもとても面白いって思ってて、森達也の本は自分の意見を押しつけない「自由度」があるからだとわたしは思っている。今回、彼は「だから僕の結論。神さまはきっといる。そう思うことにする。」って書いてある。まぁそうした方が本の治まりがいいから、本当に彼がそう思ってこれを書いたかはかなり疑問だとわたしは思ってるんだけどね(ヲイ)。ただわたしの結論としては「神さまはきっといる」とはっきりとは思えない。「そう思うこと」にはまだしたくない。

っていうか、この最後の章「神さまは存在するの?」に書かれた「神さま」というのは、読んでみた印象としてかなり「キリスト教の神さま」に近いような気がする。仏教の仏のことを言ってるんじゃないような気がする。まぁこの本全般において、仏教の章を除いて、神と仏は明確に分かれてなくてなんかうやむやなんだけど(そこら辺は子ども向けの本なので仕方がないのかな)、そして最終章では宗教と神さまをくっつけて書いているので、印象としては「じゃあ、森達也の言う『神さま』ってどこかの宗教の神さまのことなのかな?」って感じなんだよね。だから、わたしはそこが違う。わたしは宗教とは関係なく、人間は神を求めているんじゃないかなと思っている。求めているからこそ、存在しているように見えるんだと思う。それはあくまでも「見える」んであって、存在しているかどうかはよく分からない。今のところ、わたしはそう思っている。

この本を読んでの感想はひとまずそれなのだけれど、その他に書いておきたいことがもう一つある。

この人がね、この本で言いたいこと。それは上にも書いたけど「宗教にはこういう危険なところがあるよ。だから自分の頭で考えよう」ってことだった。でもさぁ。これって宗教だけの話ではないんだよね。いや、宗教にも絡んでいるのだが、宗教だけというとちょっと違うと感じることがある。この本の中に

これは歴史を学びながらあなたに知ってほしいことの一つだ。特に正義とか善とか、多くの人が正しいとか間違っているとか主張して決まる概念は、とても揺らぎやすくて不安定だ。だからこそ人は間違いを何度も犯す。その瞬間には間違っていることに気づかない。それが正しいと何となく思い込んでいる。そしてあとから首をかしげる。どうしてあんなことをしてしまったのだろうかと。(111p)


読みながらあなたは、今どきこんなことが、とあきれるかもしれない。念を押すけれど、現在のイスラム諸国では、シャリーア(イスラム法のこと)を頑なに守るという国はむしろ少数派だ。でもかつては当たり前だった。罪人の腕や足を切り落とすとき、みんなで手に石を持って投げつけて罪人を殺すとき、いくらなんでも、と思う人はほとんどいなかった。べつにイスラムだけではない。中国でもヨーロッパでもアメリカでも日本でも、歴史を少しでも学べば、人はこれほどに残虐なことができるのかとあきれる。目を背けたくなる。違う生きものだと思いたくなる。
 だからあなたに知ってほしい。人はそういう生きものだ。周りの多くの人がやることなら、つられてためらいなくやってしまうときがある。周りの多くの人が大声を叫ぶことなら、つい自分も同じように大声で叫んでしまうときがある。あとから考えたときには何であんなことをしてしまったのだろうと思うようなことでも、そのときはすんなりとできてしまう。そして宗教はそんなとき、きちんと物事を考えたり悩んだり迷ったりすることを、停める働きをしてしまうことがある。(155p)


と書かれている箇所がある。

わたしはこれを読んで、昨今の日本のきな臭さを思う。国家を無条件に賞賛する人。強さとは自分の主張を強引に押し通すことだと考えている人。真実は一つしかないと思っている人。そういう人たちにも当てはまる言葉ではないか。もちろん、ここには宗教の入り込む余地もある。戦前と戦中の日本がそうだった(このことはこの本の中でも触れられている)。神道は国家に利用された。

しかし、これは宗教だけの話ではない。外国人を差別すること。特定の民族を差別すること。戦争加害を認めないこと。これらは今の日本では直接宗教とは関係がない。関係がないけれど、上の文章になんかとても当てはまるものがあるよね。ちょっと待ってよ。これ読んで「他の国が同じことをやってきたから、日本もやっていいんだ」とか「他の民族が日本のことを貶めているから、日本も他の民族を貶めていいんだ」って、思ってない?でもそれは正しいことなのかな。少しこれについて考えてみた方がいいんじゃないか。「他の人がやってるから、自分もやってもいい」ってなんだかおかしくない?それはこの文章の中の「周りの多くの人がやることなら、つられてためらいなくやってしまうときがある。」に該当しないかな。

かくいうわたしも、もちろん自分の考えがすべて正しいとは思ってない。思ってないけど、やっぱり人を貶めたり差別したりすることは嫌なのだ。それは自分の中では美しくないことだと思っている。「条件付き」の美しさなんて美しさじゃない。「正しい」という言葉が使えないので、美しいと言い換えているが(笑)それだけ「正しい」という言葉は使い勝手のいい言葉なんだなあ~と文章考えながらつくづく思ったりして。もちろん、わたしは自分が美しい人間だとはちっとも思ってないけどね。美しくはありたいと思ってるけど、おそらく永遠に美しくはなれないだろう。そういう意味では意味は全く違うんだけど、キリスト教で言う「罪人」って概念と似てる感じかも。人は生まれながらにして原罪を持っているという。うーん、ちょっと違うかな?(笑)キリスト教はキリストを信じていれば、罪はなくなるんだもんね。わたしのは、永遠に美しくはなれないんだからね。わたしの考えは「性悪説」と言えばいいのか。どう、努力しようが絶対に善人にはなれない。けど、一生、善人を目指して生きるのもいいじゃないって書きつつ、わたしは善人にはなりたくないんだった。。(爆)きっとそうだ。わたしは「善」って言葉が嫌いなのだ。「美しい」は許せるけど。ここら辺、自分でもとても興味深いんだけど、生まれつきの感覚に近くて、多分解析できないことなんだろうな、、

なんて、ごちゃごちゃわけ分かんないことを書いたけど(苦笑)

この本は世界三大宗教について知りたかったら、かなりよくまとまってると思う。前に「ふしぎなキリスト教」を読んだのだけれど、「予定説」についての説明はあの本ではよく分からなかったが、この本読んで「なんだ、こういうことなのか。あれはこういうことを言ってたのね」って思ったほど分かりやすかった。もちろん「ふしぎなキリスト教」とは目的が違って被ってないこともすごく多いんだけど、わたしはね、「ふしぎなキリスト教」はあんまり面白くなかったのよ、、(なので感想は書きません。多分文句ばっかりだろうから)

宗教戦争の説明の部分が多くて「なんでこの世に宗教なんてあるの?」ってつい思っちゃうような本だけど「だから宗教なんて百害あって一利なし」って短絡的な結論を出すんじゃなく、「宗教とはなんなのか」「なぜ人間は神を求めるのか」について、これを機会に考えてみましょうよって感じかな。だってさ、「宗教なんてないほうがいい」「必要悪だ」って思ってたとしても、多分、大部分の人は心のどこかに「超人的なもの」を求めてしまうはずだからさ。

でも僕は思う。時おり感じる。理屈や論理だけでは説明できない何かがある。その何かが何なのかはわからない。でも何かだ。

その何かを神さまと呼ぶ人がいる。(231p)

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02-25 Tue , 2014
人間には誰にでも何かとの出会いがあるはず
あんまりこういう感じの題名は好きじゃないのだが(笑)

ただ、今回の日記は、書くことが決まっている割にはどういう題名を付けていいのか分からない。最初は「うつが治った言葉」にしようかと思ったんだけど、確かにこれはわたしはその言葉で1回目のうつ病が治ったと思っているだけで、別に誰でもその言葉で治るわけじゃないからね。次に「人生を変えた言葉」を考えたんだけど、まぁ確かにうつ病が治って次の一歩を踏み出したわけだから、わたしの人生はある意味変わったのかも知れないけど、普通「人生を変えた言葉」ってあんまりそういう意味じゃないような気がしたので却下した。というわけで、あんまり妥当な題名が思い浮かばないまま、今に至る、、

前の日記で「神さまってなに?」という本の感想を書いたのだけれど、その本の中に、一箇所、こういうところがある。

 それは今から10年ほど前の話になるけれど、長く海外を放浪していた友人が、やっと日本に帰ってきた。久しぶりに会って驚いた。出発する前は多くの日本人と同じように特定の信仰を持たなかったはずの彼が、とても敬虔なクリスチャン(キリスト教徒)になって帰国したからだ。
「旅の途中、スイスとフランスの国境近くの村を通ったんだ」
 友人は言った。
「雪をかぶったアルプスの山なみがすぐそばにあって、小さいけれどとてもきれいな村だった。集落のはずれに古い教会があった。ふと中を見たくなった。それでもいろんな国で何度も教会のそばを通ったけれど、そんな気分になったことは初めてだ」
 教会に近づいた友人は、頑丈そうな木の扉を押した。たぶん鍵がかかっているだろうと思っていたのだけど、軋んだ重い音を立てながら、扉はゆっくりと開いたという。
「広い礼拝堂だった。でも誰もいない。しーんと静まり返っている。祭壇のほうに近づきかけたとき、突然パイプオルガンの音が、礼拝堂の中に響いたんだ」
 語りながら友人は、視線を宙に漂わせた。口もとはかすかな笑み。たぶんその瞬間を、思い出しているのだろう。
「パイプオルガンが鳴り始めるとほぼ同時に、ステンドグラスから夕日が差し込んできて、僕は陽の光に包まれた。パイプオルガンは荘厳に鳴り続ける。バッハのミサ曲だ。そのときにはっきりと感じたんだ。神の存在を」
 パイプオルガンが突然鳴り響いた理由は、友人より少しだけ早く来ていた教会のオルガン奏者が、明日のミサのために練習を始めたからだ。友人はオルガン奏者がいることに気づかなかった。誰もいないとばかり思っていた礼拝堂で、突然パイプオルガンの音が大音量で響き、驚く友人の視界に、西の空に沈みかけた夕陽の光が、ステンドグラスの窓から差し込んできた。
 言葉にすればそういうことだ。別に奇跡でもなんでもない。でも友人はその瞬間、生まれて初めて味わうほどの激しい感動に身を包まれたという。たったそれだけの偶然が重なっただけなのに、まるで湧き水のように涙が止まらなくなったという。
「・・・・・・愛されていると感じたんだ」
 首をかしげる僕に友人は言った。
「言葉の説明だけじゃ納得できないだろうな。でもその瞬間に確かに感じたんだ。愛されている自分を。そして赦されている自分を。いろいろ悩んだり考え過ぎたり考えが足りなかったり失敗ばかりしている自分を、いつまでもどこまでも肯定してくれる存在を。おまえはそれでよいと抱きしめてくれる存在を」

わたしさぁ、ここのところを読んだら涙が出て来たんだよね。わたしにもこんなことがあったなあと。こういう気持ち、すごくよく分かるなあと。ただ、わたしの場合は宗教との出会いじゃなかった。だから宗教の出会いだけじゃなく、別の出会いでも人はよくこんな思いをすることがあるような気がする。

わたしの場合は、言葉だった。わたしはそのとき、うつ病で実家にいた。あるとき何気なく一人でテレビを見ていた。それは「知ってるつもり」っていう番組で山本周五郎が取り上げられていた。あの番組は最後の最後、その人が言ってた言葉が紹介されるんだったと思う。そこに出てきたのが、

「絶望」とは人間だけが持つことのできる黄金である。

という言葉だった。

わたしはそのとき雷に打たれたようになった。「人間だけが」というのは、わたしにはあんまり問題じゃなく、絶望は黄金なのだ、ということが頭の中をぐるぐる回った。

わたしはそのとき絶望していた。目指していた研究者は嫌になり、でもこの先何をどうすればいいのか全く分からなかった自分。同性愛者であることは特に悩みはしなかったが、これから同性愛者という「少数者」して生きていかなければならない自分。うつ病である自分。まだ20代だったけれど、わたしの人生はこれからずっと絶望しかないと思っていた。

それが、その絶望は実は黄金なのだ、自分の心の中は真っ黒だと思っていたその中に、実は黄金がかすかに光っているのでは、と想像したときに例えようもない気持ちが湧き起こってきた。絶望は持っててもいいんだと思った。わたしはこれから先もずっと絶望感を抱えて生きていくことに絶望を感じていた。でもそれはもしかしたら絶望ではなく自分にとって大切なものになり得るものなのかも知れない。あとで考えるとそんな感じだったんだと思う。が、そのときはとても感覚的なもので、言葉に言い表しようがないものだった。この上で引用した森達也の友人の言葉で言うと「赦されている自分」に近い感覚だったのかも知れない。とにかく真っ暗だと思ってた中に何かがあるんだ、それだけでとてつもなく心が動いたんだよね。

そしてわたしはその言葉を繰り返しながら外に出た。細かな季節はもう忘れてしまったが、多分夏の初めか夏だったんじゃないかと思う。川沿いに背丈ほど草が伸びている場所に行って(なんでそこに行こうと思ったのかは分からない)草をかき分けながら、何回も何回もその言葉を噛み締めた。今でもそのことはよく覚えていて、目の前にその風景が浮かんでくる。

ただ、だからといって瞬間にうつ病が治ったとは思えない(当たり前だ)。けど、その言葉を知って以降、わたしは変わったと思う。

あのときはまだ世間に今ほど「うつ病」というものが知れ渡っていなかった。わたしは病院に行ってうつ病と診断されて(というか「軽いうつ」って言われた。'94年頃だったかな。。)薬が出された。最初に出された薬は全く効かなくて、次に出された薬は頭がクラクラしたんだよね。それを親に言ったら、親は「そんな薬飲んだら怖い」って言って、わたしから薬を取り上げちゃった。だからその当時、わたしはうつ病だったのに薬は全く飲んでなかった。あ、だからといって、わたしは「薬を飲まずにすべてのうつが治る」とは思ってない。たまたま、運が良く、薬を飲まないでもよかったってことだと思っている。2度目のうつは身体症状から先に出て、それは薬じゃないと治らなかったと思うし、適量飲めば、薬は悪いことはないと思っている。今だってずっと飲んでるしね。

ただ、だから「人生を変える言葉」ってあると思うのだ。そして、それはもしかしたら、人と宗教が出会うときと似てるのかも知れない。少なくとも、わたしは上の文章を読んだとき、自分のこのことがパーッと思い出された。「ああ、多分あんな感じだ」って共感できたのだ。もちろん、そういう出会い方をしなかった信者もいると思うけどね。

でも面白いのは、あのとき、わたしは本当に本当に苦しくて「何かにすがれるものならすがりたい」って何度も思ったのよ。けど、結局は何も信じられなかった。あ、別に具体的に神社や寺に行ったり、教会に行ったりしたわけじゃないけど。。あのとき行ってたら何か変わったかも知れないね。でも、わたしは行く気がしなかった。森達也の友人が「ふと(教会の)中を見たくなった」という「そのとき」じゃなかったんだと思う。けどその代わり、わたしは「言葉」と出会えた。その言葉に対しては「そのとき」だったんだろうとわたしは思う。

けど、その言葉の効果も今はないねー(苦笑)あの言葉は今のわたしには全く心を動かされないものになってしまった。まぁ仕方がない。あれから2度3度とうつ病を繰り返したから言葉も効力を失ってしまった。前の日記に書いたとおり、今のわたしは「生きたい」って思ってないけどさ、積極的に死ぬことも考えてない。生きててあんまり楽しいとかよかったとか思うこともないけど(前向きな言葉は大嫌いだ)、「自分を責めるのは止めよう」って思ってからは、結構楽に生きられるようになった。今はそれで十分だって思ってる。

ちなみに。山本周五郎はいつ、どこであの言葉を言ったのか。それがすごく気になってね。いろいろ調べた結果、「泣き言はいわない」(新潮文庫)って本に載ってることが判明した。ところがそこには

「絶望」は人間だけがもつことのできる黄金である。同じ意味で「酒」とよく似ている。
(断片-昭和25年のメモより)(34p)

って書いてあった!えっ、ちょっと待って。続きがあったの?しかも「絶望」と「酒」が一緒になってる。おーい、わたしは酒が黄金とは思わないよー(笑)わたし、そんなにお酒好きじゃないし。知らなければよかったと、調べたあとに思ったのだった。
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