01-08 Wed , 2014
一増一減
昨日は病院の日だった。

12月は精神状態は悪くなかったけど、体調がものすごく悪く、そして今でもそれが続いているので、そのことを主治医に話したら「○○さんはこれまで見ても身体状態に影響が出やすいと思うので、精神医学からのアプローチをするならジプレキサを再開するのが妥当だと思います」と言われた。

ちなみに今出てる身体症状とは、まず、身体が凝ってすごく痛いということ、食欲不振だってこと、正月開けてすぐ(1日と2日)にひどい頭痛で苦しんだこと、歯の状態がひどいこと(これは最近自覚したのではなく去年後半からずっとそう思ってたんだけどね)、歯の状態が気になって夜寝つきが悪いこと(これに関しては11月頃にまた睡眠剤を再開した)、これくらいかな。身体はまぁ10年ほど前から座骨神経痛があるのだが、その影響か、座骨神経痛を持っている側と反対側の腰が痛くなってしまい、それでも長い間そのままで過ごしていたのだが、去年の夏頃から左の二の腕がある一定方向に回すと筋肉痛みたいな痛みが出てきて、それが徐々にひどくなってきて腕を動かせなくなったのに加え、12月に入ったら背中全体が痛くて痛くてたまらなくなったんだよね。整体に通ってて、徐々によくなってきてはいるものの(背中の痛みはなくなった)、痛いところがあるのは割と変わらず。食欲不振は胃が痛いときもあったんだけど、それが治ってからもずっと食べたくない気がしている。歯はもう治らないものと諦めているけど、やっぱりつらいものはつらくてね。上の歯と下の歯を合わせるとぶにゅぶにゅした感じのものが絶えず出てくるので、気になって歯を噛み締めてしまって頭痛になったりするのかなと思ったり。今は気にならないようにちり紙を折りたたんで噛んだりしてるけど、それも直に唾液でベタベタになって不快になってくる、、もっとなんかいいものはないかなあ。マウスピースを考えてるんだけど、以前、歯科の方の主治医に相談したところ、あんまりいい返事はもらえなくて作ってもらえなかったんだよね、、なんでだか分からないけど。まぁ今度行ったときにまた相談してみるけどね。

話が逸れた。で、わたしもこれがうつの身体的な症状じゃないとは言い切れないのよね。わたしの場合、本当に身体に出やすくて、2回目のうつ病だって最初は精神的な症状じゃなく、息苦しいという身体的な症状だったからね。だけどジプレキサはあんまり復活させたくない。なんてったって暴力的な眠さで朝起きられなくなるのだ。ということでわたしが「うーん」って迷ってたら「0.5mgでもいいですよ」と言う。ジプレキサって最少が1錠2.5mgなんだけど、その5分の1の量だ(ちなみに1錠以下は粉薬になる)。前に止める直前が1mgだったので、その半量。「そんな量で効くんですか」と聞いたら「○○さんの場合はごく少量でも効きますからね」と言われた。まぁそれもそうなんだけど、ほとんど気休めの量だよね。。まぁ主治医はわたしが副作用出るとすぐに薬のせいにして止めちゃうって知ってるからそう言うんだろうな。ちなみにわたしは副作用は薬のせいだと思ってます。だって、止めたら副作用もなくなるんだもん。今回も胃が痛くなったときに漢方薬は止めちゃった。抑肝散加陳皮半夏ってのだったけど、そしてこの漢方薬はただの抑肝散よりは胃に影響がなかったけど、食欲が廃絶されると思うとね(ただし、その他に喘息の薬も飲んでて、そっちの方が副作用は強かったと思う。で、この際食欲に関係するものは全部飲むの止めたのだ。飲むの止めて確かに胃は痛くなくなったけど、食欲までは戻ってきてない)。

0.5mgで何も変わらなかったら量増やされちゃうんだろうけどな~。わたし自身はこんなに身体が痛かったりするのは、寒いのが大きな理由じゃないかと思ってるのだが、まぁこれからさらに2月に掛けて寒くなるしね。ってことで「まぁそれじゃ飲みます」ということでジプレキサ再開になった。何もしなかったらこのままだけど、このままなのは身体がつらいからね。。要は今のままだと身体がかなりきつくてやってられないから。まぁ0.5mgのジプレキサにかけたってわけ(大げさ)。

そして漢方薬はなくなり(もともと1日3回のところを2回に減らしてたし)ジプレキサ追加で一増一減。そういえばリーマスは処方されてから丸1年だなあ。確か去年の1月7日の診察の時から飲み始めたんじゃなかったっけ?結局1年間ずっと100mgのままだった。わたしは別にこんなんじゃ効いてないんじゃないのって思うんだけど、主治医は効いてるような気がするっていうんだよね。まぁこの量だと血液検査も受けなくていいくらいの量だしって思って飲みつづけているが。。

取り敢えず今飲んでるのは、リーマス100mg、ジプレキサ0.5mg(夕食後)、金ハル(就寝前)。
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01-13 Mon , 2014
成人の日に
今日は成人の日ですね。

ってわたしのときは成人の日は1月15日で、役所主催の式典に出た記憶はあるんだけど、正直、中学の同窓会みたいだったという記憶しかない。記念にもらったのは写真立てで、確か後に「不備があった」ってもう一つ送られてきたんだけど、どこをどう見ても何が「不備」か分からなくて、結局2つとも今でも使っている。

ただ、成人式はそのくらいの記憶しかなく、式典のことは全く覚えてないんだよね。

それよりもわたしは自分が二十歳の誕生日を迎えたときのことの方がよく覚えてて。前に書いたかも知れないけど。

二十歳の誕生日、わたしは国立国会図書館に行った。

国会図書館、今は満18歳以上なら入れるみたいなんだけど、その当時は20歳にならないと入れないところだった。わたしの誕生日以前、大学生なら20歳未満でも入れた時代もあったみたいなんだけど、わたしの誕生日の頃は大学生でも20歳超えてないと入れないところだった。だから、20歳になったときに初めて行ってみた。

入館するときに、身分証を見せなきゃならなかったんだけど、もちろんだけどすんなり入れた。

でも、わたしは不思議だった。「昨日ならわたしはここに入れなかったんだよね」って。だってわたし自身、昨日の自分と今日の自分は何ら変わってない。昨日の自分と今日の自分は同じ自分なのだ。なのになんで昨日はダメで今日はいいの?昨日と今日は何が違うんだろう?不思議で不思議でたまらなかった。

今は、、不思議じゃない。それは「人が決めた枠組みなんだ」と思っている。自分が変わっても変わらなくても自動的に「その日」が来てしまえば、権利を得たり剥奪されたりする。それはさ、何も国会図書館に行かなくても、例えばテレビのクイズの応募の「○○日の消印が有効です」みたいなのでも同じこと。すべて人間が人為的に決めたもの。ただそれだけのこと。

ただそれだけのことなんだけど、その権利が与えられたことによって徐々に人間が変わってくるんじゃないかと思う。昨日と今日の自分は違っているようには思えないけど、そこに権利を与えられることによって、社会的な身分が変わり、それによって自分の意識が変わって過去の自分と違う自分になる。日本だけじゃなくこの世界は大人になるほど与えられる権利が多くなってくると思うけど、その権利が自分を再び作り替えていくもんなんだよね。それは義務にしたって同じこと。権利も義務もその後の人間を作り替えていく。そしてあるとき振り返ってみたら、あのときの自分と今の自分がかなり乖離してしまっていることに気が付いて唖然となったりするんだよね(笑)

もちろん、権利や義務を得たりするだけが人間変わる要素ではないけど、人間変わる要素のうちの一つにこういうことがあるんじゃないかな~って思うのだ。

成人の日は個々の誕生日とは違うので、通過儀礼でしかないと思うけれど、二十歳になると日本では成人として扱われることになる。自分自身が気が付かないうちに様々な権利を与えられる。昨日の自分と今日の自分は違わないように思えるかも知れないけど、実は全然違う。でもまぁ「全然違う」と言われてもそのときは自覚できないだろうし、自覚できなくても別にどうってことはない。ただわたしみたいに後から振り返って「あー」って思う日が来るかもね程度の話。
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01-17 Fri , 2014
歳を取ったってことなのかな
歳を感じる、というと、イコール老化現象だと思ってしまう人がいるかも知れないけど、わたしはまだそんなに老化現象は感じてない。まぁ一番感じるのはどんどん老眼になってることだけど、正直それだけ。あ、あと白髪もか。老眼は確かに不便だよね。わたしの場合、近眼も強度なので遠くても近くても焦点が合わなくて結構めんどう。白髪は人によってはすごく嫌う人もいるけど、実はわたしは好きなので、気にならない。

そういうことじゃなく、今わたしが「これは歳を取ったってことなのかな」って思うことは、自分の感覚が広くなってきたということだ。

わたし、30代くらいからある程度「これについてはわたしはこう思う」というのがはっきりしてきたと思っていた。自分なりに考えて、自分が正しいと思う結論は出したと思っていた。もちろんそれなりにいろいろな検討をして出した結果だった。

わたしはだいたい、ものを考えるときは帰納法を使っていると思っている。演繹もしないわけじゃないが、演繹で考えるときはだいたい無意識にしてることが多いと思う。帰納法は一つの命題を考えて、それが具体的ないくつものことに当てはまることによって、命題が一般化されることをいうが、その具体的ないくつものこと、というのが最近になってぐっと幅広くなってきたと思う。

ところがそれが幅広くなってきたことによって、命題が一般化されなくなってしまった。すると、今まで「こうだ」と思ってたことが、実はそうじゃないこともあるんだ、ってことが段々分かってきた。そしてわたしは段々「これはこうだ」と言えなくなってきてしまった。だから物事がすごく曖昧でしか捕らえられないようになった。

と同時に若い人が「これはこうだ」って言い切ってしまっているのを見ると「まだ若いなあ~」って感じてしまうようになった。もしかしたらこれが一番「歳を取った」って言えることなのかも知れない(笑)

だからわたし、過去、自分のブログに書いてたことが恥ずかしいんだよね。多分、とてもえらそげなことを書いてて、なんて傲慢なんだろうと思う(傲慢なのは今でもだけど)。できるなら消してしまいたい。。(笑)
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01-23 Thu , 2014
日本国に人種差別禁止法の制定を求めます
昨日、1月22日の午後、神戸の朝鮮学校に男が侵入して教員に「朝鮮人か」と言いながら鉄棒で殴りかかって怪我を負わせる事件が起こったとのこと。男が学校内にいたのをたまたま教員に発見されたが、これが見つからなくて教室に侵入し、生徒を襲撃したら、と思うと本当にゾッとする。いや、今回は生徒に対しては直接の危害が加えられなかったものの、生徒や関係者の人たちが現在もどんなに恐怖に脅えているかと思うと、本当にいたたまれない。

ただ、このような在日の人に対しての差別感に起因している事件、というのは悲しいことに今始まったことじゃない。日本が近代化の道を歩み始めて以降、近隣の国々に対する差別というのは連綿と行われてきたことであり、戦後(第二次世界大戦後)も国は国民に対してそれを正してこなかった。国を動かしているのも人だが、このことを考えると、国が近隣諸国の人々を差別しているというのは、結局日本人がそういう体質を持ってるからじゃないかと考えたくなる。もちろんこれは日本人だけの体質ではないだろう。が、先進諸国では人種差別をする人もいる一方、それはいけないと抑止する「人種差別禁止法」も存在するのだ。日本はそれが存在しない。いうなれば国が「人種や民族によって差別しても別に構いません」と表明しているのと同じだ。

昨日のこの事件が起こったと知ったとき、わたしは「自分に何が出来るだろうか」と考えた。もちろん、これまでも全く考えてこなかったわけじゃない。国や地方自治体が朝鮮学校に対して補助金を出さないこと(いわゆる無償化問題と言われるが、別に今までも国や地方自治体が朝鮮学校に対してお金を出して、授業料が無償化されたことなどない。国や地方自治体が朝鮮学校の授業料に対して「無償化しましょう」と言ったこともない。あくまでも一部に対して負担する「補助金」にすぎない。「無償化」という言葉はわざと国民の印象を操作しているのではないかとわたしは思っている。もちろん「無償化」の元は日本の公立高校に対する「無償化」ということが始まりというのも知っている)に対してもいろいろ考えてきたし、街頭で在日の人に対するヘイトスピーチが行われるたびに心が痛い。

では自分は何が出来るかというと、やった方がいいと思われるもの(例えばカウンター行動など差別者に対する直接行動)はすべてできるかというとそうではなく、自分の出来ることしか出来ないと思っている。まぁ自分のやっていることに対して、自慢たらしげに何をやっているかはここでは書かないけれども、わたしは嘆くだけ嘆いて全くなにもやってないわけじゃない。でももちろんこれで満足してるわけじゃない。いつも「何か出来たら」って思ってる。今回も自分は何が出来るかと考えたときに、思い付いたのがブログで自分の意見を表明すること、だった。

ただ、こういう事件が起きて、一体わたしは何を言えばいいのか、分からなかった。このような事件が起きてしまったのは、こういう風潮を作り上げたという点で、わたしも全く責任がないわけじゃないと思う。けどわたし一人の責任でもない。わたしには在日の友だちもいるけれど、だからといって「こんな日本にしてしまってごめんなさい」というつもりはない(本当はとても言いたい気持ちはするのだけど、それを言われたって困るのは向こうだろう。わたしが何か具体的に差別行動を行っていたのならともかく、やってない人間に謝られても向こうは何も言いようがないよね)。差別者に対して「差別は悪い」と言っても、多分彼らは考えを変えないだろう。人、それも自分の意見と反対の意見の人からあれこれ言われて意見をコロリと変えるような人は多分いない。そういう点においては、ネットで、例えば掲示板やツイッターで、いろいろ言ってもほとんど無駄だ。

差別者がなぜ差別するのかを考えても、正直わたしにはちっとも分からない。もちろんわたしの中に差別心が全くないとは言い切れない。気が付かないうちに差別をしたりしているだろうと思う。けど、差別したくて差別をするってことは、自分の中には全くないとは思う。それは自分が差別されたら嫌だからだ。同じように自分が傷つけられたら嫌なので、わたしは人を傷つけない(傷つけようと思ってわざと傷つけるようなことはしない)。あ、もちろん人だけじゃなく、犬とか猫などの動物とか、壁紙とかふすまとか、そういうのもそうだけど。。ただ蚊だけはね、、ごめんなさい、見つけたら殺しちゃいます。犬や猫は殺さないで蚊は殺すのか、それは矛盾してないかと言われるとそうなんだけど、それができたらわたしは悟りを開けて成仏できるよ、ホンマ(笑)(注:念のため。わたしは多分、どっかの檀家の信徒になってるだろうけど、わたしは仏教を信じてない、というか、どこからどこまでが仏教の教えなのかよく分からない、仏教の教えって何?状態なので、今のところは信じてないです)

まぁ話は逸れたが、差別者の心を話し合いによって変えるのはまず無理だし、できたとしても膨大な時間がかかるだろう。それにわたしは差別する人の気持ちが全く分からない。だからあれこれ分析することもできない。雨宮処凛さんが右翼時代の自分の気持ちを書いたりしているのを読んだことがあるが、そういうもんなんだとは思ったが、でもそれがすべてじゃないだろう。だからわたしは差別者の心情が分かって「でもね、そうじゃないんだよ」と言うことはできない。

と考えると、やっぱり法律なんじゃないかなと思うのだ。日本は国連に随分前から人種差別禁止法を制定するようにと勧告されている。でも政府はそれをずーーーーーっと無視し続けている。そりゃそうだよね。だって、戦後の憲法からも外国人差別の条項を削除しちゃったんだもの。GHQが日本に提案した憲法案の中には外国人差別禁止の条項が入っていたのにもかかわらず、当時の官僚と政治家が言葉巧みにそれを外させてしまった。結局そこなんだよね。わたしが最初に「日本人には外国人(主に朝鮮や中国の人たちに対するものだと思う)に対して差別してはいけない、なんてこれっぽっちも思ってないよね」っていうのはこれなのだ。押しつけと言われて一部から評判がよくない現憲法だが、なんのことはない、その当時の日本人の考えを反映した憲法にちゃんとなってるのだ。そしてその体質は今になっても全く変わってない。

今の日本の風潮を考えると、このことを提案しても通るのはかなり難しいとは思う。けど、このことを地道に言い続けていくのが、今のわたしに出来ることなんじゃないだろうか、と思う。日本国民の、有権者の一人として呼びかけていきたいと思う。
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01-30 Thu , 2014
理屈じゃないこと
以前、わたしは「見えないものの名前」って題で日記を書いた。高尾にゃんと出会えたことが、どうしても「偶然」とは思えない、何か見えないものの力が働いたんじゃないかって思える、そしてそのような「見えない力」を自分に及ぼすものに、人間は「神」という名を付けたんじゃないだろうか、ということだった。

わたしには宗教でいう「神」はいない。「仏」はわたしの持っている日本的な感覚から「いる」んじゃなくて「なる」もんなような気がしているが、でも今のところ、わたしは「死んだら仏にしてやる」と言われても断るような気がしている。理由はこの世でもあの世でも、どんな形であれ、わたしはもう存在したくないから。

だけど、わたしは人間が神を作りたくなる気持ちは分かる、と思っている。こんなこと言うと何かを信じている人にとても失礼なのだけど、人間は弱い生き物で、どこかに「絶対」と思うものや、今はつらいことばかりだけど、死んだら安寧に暮らせると思うことで、生きている間、安定して暮らせるんだろうと思っている。そしてそれはそんなに悪いことじゃないと思う(カルト宗教などは別ですよ!)。

でも以前はそんなことはあんまり思ってなかった。別に「無神論者です!」ってのを誰に強要するわけじゃなかったけど、神とか仏とかはまだいいにせよ、この世界で「超常現象」って呼ばれているもの、特に精神世界(スピリチュアルって言うんだろうか?)はとても否定的でバカにしていた。まぁ今も否定的でバカにしたい気持ちは大いにあるのだが。。占いとかおみくじの類もそうで、わたしは性格が4種類しかない血液型占いとか12種類しかない星占いなんかはもう長いこと読んでもないし、おみくじも最近は引いたことがない。ああ、これを書くこと自体「こんなもん信じてるなんてね」って根本ではわたしが思ってるってことが伝わってしまうかも知れないなあ。。(汗)まぁああいうものに振り回されて一喜一憂するのはアホらしいなあと今でも少し思っていたりする。

わたしは特にこの世で物理的に解明されていることしか信じないってわけじゃないって思ってたし、自分の目で見たことだからって、それが信用できるとは思ってない(錯覚があるから)。ただちゃんと自分が納得できる根拠があれば、信じられる。ある意味、わたしは理屈的な人間なのかも知れなかった。スピリチュアルなものもそれなりに理屈があるのだろうけれど、なんかどこかで飛躍していると思ったし、そういう意味でわたしにとっては論理的じゃないんだよね。だからスピリチュアルなものは胡散臭くて信じられない。まぁそういうものが多かれ少なかれ、お金に絡んでいることも印象がよくないのかも知れない。石は石で自分が素敵だなと思っているものを楽しめばいいのに、それがなんだかよく分からない「パワーストーン」だのと称されて、その分、金額が高くなっているような気がするのだ。正直わたしはあんまりそういうものに対して好印象を抱いていない。

まぁこんな風にして、わたしはある意味「強硬派」というか割と「原理主義」に近かったのかも知れない。論理原理主義というか、理屈原理主義というか。今でも根本的なことは変わってないと思う。

けど、やっぱりちょっと変わってきたんだよね。まぁいろいろあってね(笑)

例えば、猫が死んじゃったとする。神も仏も自分にはいないし、わたし自身、死んだら無になると思っている。魂などは存在しない。だから、猫はもうどこからみても、消滅したことになる。人が死んだとする。これも消滅してしまって、無だ。あの世にもこの世にもどこにもいない。

そう考えると、多分、悲しみって深いんだろうな~と思う。だって拠り所がないんだもの。

それより「虹の橋」なるものがあって、そこに死んだ動物は生きている姿で走りまわっている。そして、自分が死んだときに、虹の橋で再会できて、そこから一緒に天国に行けるのだ、って思うと「ああ、今は別のところで自分を待っててくれるんだなあ」「自分が死んだらまた会えるんだなあ」という気持ちになって、それは生きている人間にとっての「救い」になる。

大切な人が死んじゃったとしても、その人は空の上でいつも自分を見ていてくれる、とか、あの世で平穏に暮らしてくれてる、とか、天国にいる、とか、いやそうじゃなく、いつも見えない姿で自分のそばに実はいてくれるんだ、と思うことで、生き残った人の気持ちは少し楽になったりすることがあると思う。

そういうものを全部否定したとすれば、喪失感はモロ、人を襲ってくるだろう。まぁそれで自分を克服できる人もいると思うが、世の中にこんなに「死生観」がさまざまあるということは、やはりすべてを否定して生きていけるほど人間は強くできてないんじゃないだろうかと思う(とはいえ、死生観があるからこそ、それに人間が毒されている、という考え方ももちろんあるだろうけど)。

わたしの死生観は上にも書いたとおり「死んだら無になる」で、わたしが死んだ後はこの世に一切の痕跡を残して欲しくない、というものだ(今のところはね。将来的には変わるかも)。だからもし不慮の事故とか突然死したときのことを考えて、彼女には「ブログもtwitterのアカウントもあれもこれもみんな削除してね」って頼んでる。わたしと関わった人すべての人からわたしに関する記憶は抹消してもらいたいって思ってる。

でもね、それは無理なことなんだよね。たとえブログやtwitter、ネット上でわたしの痕跡がなくなっても。わたしがどんなに「記憶を消し去って」と希望していても。だってさ、そう頼んでいるわたし自身の記憶の中には、もう今はこの世にいない人の記憶がずっと存在していて、それは多分わたしが記憶を失うまではずっと存在し続けてるだろうなって思うんだもの。

小学校時代の同級生だった人。その人は18歳のときに亡くなった。その人とは小学校1、2年のときしか同じクラスじゃなかったし、中学以降は別の学校に行ったので、名前は知ってるけどあんまり親しくはなかった。高校卒業してすぐの4月だったかな。亡くなったって聞いて、お葬式に行った。そのお葬式のことが今でも忘れられない。キリスト教形式のお葬式だったんだけど、終わった後に教会の敷地内の建物の中にみんなが集まって、立食式で出前のお寿司を食べた。そのとき父親らしき人が、親戚の人か知り合いの人かは分からなかったけど、多分親しい人だったのだろう。その人を見るなり一瞬泣き笑いみたいな顔になって、ガッシリ抱きついたのだ。そして二人とも抱き合いながら泣いてた。その光景が忘れられなくてね。スローモーションみたいにわたしの頭にこびりついている。春の風の強い夜だった。4月になって、同じような気候になると今でも思い出したくなくても思い出されてしまう。

もう一つ。わたしが小学生の頃だったか、父親の会社関係の人だったかよく知らないが、その人の奥さんが亡くなった。あるとき、家に香典返しが送られてきた。それは緑色のタオルだった。そこに添えられていた手紙に「妻が忘れ去られないように、妻の名前である緑色のタオルを送ります」みたいなことが書いてあった。なぜかわたしにとって、その手紙と緑色のタオルは衝撃的で、どこの誰かは全然知らないけど、あの緑色のタオルを使うたびにそのことを思い出した。そのタオルがなくなった今もタオルを送られた「みどりさん」のことは思い出すんだから、ある意味、そのダンナの思った通りになってるわけだ。

というわけで、わたし自身、亡くなった人の記憶は今でも残ってるのだ。

だからわたしの願いである「死んだら忘れて欲しい」ってことは、絶対に叶いっこない願いだってことは分かってる。だけどそれは故人の意志なんだから、忘れる努力はしろって少し前までは思っていた。

だけど今は逆にわたしが「死んだらもう無になって、あの世にもこの世にも存在しない」って言わない方がいいのかなって思ってる。

それは、そう言うことによって、残された人たちの拠り所がなくなってしまうから。残された人の死生観がどういうものかはわたしには分かんない。けど、もし「常に空から自分のことを見守ってくれている」って思いたい人がいてもさ、わたしが生きてる間中「死んだらどこにもいない」って言ってたとしたらそう思えないじゃん。「空から見守ってくれてると思いたいけど、ろんたこはそんなことあるわけないと言ってた」って思ったら、その人にとっての拠り所がなくなってしまう。拠り所がなければ、ずっとずっと悲しみに沈んだままになっているだろう。もちろんわたしはそんなことは望んでない。だとしたら、死後のことは各人が好きなように思ってくれればいいんじゃないか。葬式は遺されたもののためにあるって言うけど、死生観も遺されたもののためにあるんじゃないだろうか。最近そんなことを考えるようになった(とはいえ自分の葬式や自分の遺骨については、わたしが指示するとおりにして欲しいと思っている)。

そして、わたし自身の死生観。もちろん「死んだら無になる」って思ってる。けど、それを頑なに守らなくてもいいんじゃないか。人間が「神」という存在を作ったように(神さまを信じている人にはとっても失礼な話ですけど)、そのときそのときでわたしが感じる何かを信じてもいいんじゃないか。そう、これは理屈じゃない。「論理的でないから」という理由だけで、自分の悲しみを拠り所のないままにしておいたら、精神的にすごくつらいと思う。理屈じゃないものを信じることは、自分で自分を救うことだ。多分そのときが来れば、わたしは何かを感じるだろう(もしかしたら感じないかも知れない)。でもそれでいいのだ。どういうことを感じようとそれを否定するようなことはよそう、と今は思っている。
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01-31 Fri , 2014
薬が増えた
と言っても別に体調がすごく悪くなったわけじゃないけどね。

月曜日は病院の日だった。

今のわたしは、以前書いたような咳はもう完全に治まってる。結局加湿することがよかったみたいだ。あれから徐々に咳は治まり、今月の半ばくらいにはもう咳が止まった。一回、呼吸器科に行ってきたんだけど、喘息は治ったとしてもすぐに薬を止めちゃいけないらしく、前に出て全然効かなかった、中くらいの強さの喘息の薬を吸入してねと言われ、今はそれを吸っている(吸っているっていうとなんかすごく変な感じがするね(笑))。それが終わったら軽い薬になって、それでも出なかったら薬は終了らしい。あと1ヶ月半はかかるかな。でもそのくらいの時期からまた、猫の毛が抜け始めるだろうから、今度は気をつけないとね。

身体の痛みの方は相変わらずなんだけど、あのときよりは随分マシになったかな。整体は週1回、きちんと通っている。元々は背中の痛みと左の二の腕が痛くて通い始めたんだけど、背中は凝るととんでもなく痛い日があるが、腕の方は徐々に治ってきている。あとは10年来持っている座骨神経痛。これは長くかかりますよと整体の先生からも言われている。

ってわけで、身体の調子の悪さは相変わらずで、一日ほぼ何もしてないのに夕飯を食べ終わるとものすご~く疲れを感じて眠くなる。だから夜はほとんど一瞬のうちに眠れてしまう。中途覚醒はなく、まぁ次に起きるのは6時間か7時間経った頃。猫がね、朝起こすのよ。それでどうしても目が覚めちゃう。朝の餌をやるのはわたしじゃないので、その後も2~3時間は寝ますけどね←オイ

っていうか、今月8日の日記を読み返してみたけどさ、悪いところは相変わらず悪いけど、食欲とか睡眠とかは改善されてるのね。日記は付けてみるもんだ(笑)わたし、自分の状態は全然変わってないのかと思ってたよ。ただ相変わらず歯の中は厳しくて、ティッシュ噛んでるけどね。なんでこれ、全然よくならないのかねえ。。本当に集中力がこれによってだいぶ削がれていて、気が滅入る。

で、月曜日は病院だったんだけど、結論から言うとジプレキサが0.5mgから1.0mgに増えた。まぁ0.5mgで効果あったら、わたしすごいよ(笑)錠剤の含有量少ない方のジプレキサは1錠2.5mgなので、0.5mgというと1/5錠なわけ。まぁ主治医も1/5錠で効くとは思ってなかったと思う。「慣らしですからね」って言われた。おいおい、そうだったのか。といえども2/5錠である1.0mgでも効くとは思えないけどね。前に1.0mg飲んでたときも効いた感じが全然しなかったしね。かといって半錠である1.25mgにすると、効果は感じられないのに眠気がひどくなるので、わたしとしてはそこまでは増やしたくないのだ。。ということをちゃんと言ってきたけど、次はどうなるのかね。効果出ないと飲んでても仕方ない気はするのだが。ただ主治医はどこの時点かは知らないが、効果があると思っているようだけれど。

そうそう、主治医が4月から病院を変わるそうだ。わたしの薬に対する特徴をよく分かってくれている主治医が変わるのは残念だが、まぁ仕方ないよね~。引き継ぎをちゃんとやってくれたらまぁそれでいいかな。ただ、後任の医者がもしかしたら今の主治医よりもっと若くなるかも知れないとかで、そうすると大丈夫なのかなあという気はしてる。そういえば、入院したときに診てくれた、もう一人の医者がいたなあ。あの人、まだいるのかな?今度聞いてみよう。。

取り敢えず今飲んでるのは、リーマス100mg、ジプレキサ0.1mg(夕食後)、金ハル(就寝前)。

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