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12-17 Tue , 2013
見えないものの名前
ここのところ、わたしは「神」のことについて考えている。

といっても、神を信じたいわけじゃなく、神が存在するとも思っていない(キリスト教的な意味合いにおいて)。
というと「無神論者だ」とか「不可知論者だ」って思われるかも知れないが、そんなことはない。
(過去はわたしは「無神論者」だと思っていたが)

「神」という言葉がある以上、神という概念は存在すると思っている。
「心」というものが、本当は存在しないが(人間が感じたりするのは脳の中であって「心」ではない。ましてや「心臓」などという臓器では決してない)あたかも存在しているかのごとく「ある」のと同じことだと思う。

そう、心という言葉と同じく、神は人間が作り出したものだ。
おそらく「そういうのは神とは呼ばない」って思う人がたくさんいると思う。
まぁそりゃそうだとわたしも思う。
例えば人間が存在する前から石とか岩とか存在してたと思うけど、
人間が名付けたから急に存在が確認されたわけじゃなく、
もともとそこにあったものだからだ。それを単に人間が「石」とか「岩」とか名付けただけだ。

だけど「神」は目に見えないものなんだよね。
そこが「石」や「岩」と違うんだと思う。
目に見えない概念をなぜ人間は名付けたのか、って考えると、
そこに何か「ある」としか考えられなかったのだろう。

わたしがそんな風に考え始めたきっかけは、猫だった。

わたしの愛する高尾にゃん。
もうかわいくてかわいくて、涙が出るほどに大好きなんだけど、
この猫との出会いを思うと「何か見えないものの力が働いていた」としか考えられないんだよね。
仏教ではすべてのことは「縁起」(原因があるから結果がある)というのらしいのだけれど、
確かにありとあらゆる要因が重なって、そして高尾にゃんと出会った、のかも知れないけど、
わたしはここにそういうのを超えた「何か」があるような気がしてならない。
「誰か」がわたしを高尾にゃんと出会わせてくれた、とね。

いや、わたしも高尾にゃんとは偶然に会ったんだと思うよ。
たまたまあの日、ペットショップに行く気になって、
たまたま検索したら飼いたいなと思ってたアメショがその店にいるってのが分かって、
まぁ近くだからちょっと行ってみようって話になって、
その店はアメショのオスとメスがいたんだけど、
わたしはどっちにするか決められなかったので彼女に「どっちがいい?」って聞いて、
彼女が考えた挙げ句「じゃ、メスの方」って言って。
そしてそれが高尾にゃんだった。
うん、単なる偶然。
仏教で言うなら「細かい縁起が積み重なって高尾にゃんと出会った」ことになるのだろう。
そしてそれは事実なのだ。

なのにわたしはそうは思えないのだ。
「なぜ偶然(とか縁起)と思えないのだろう?」って何度も何度も自分に問いかけて、
いろいろ考えたのだけれど、よく分からない。
分かったのは「高尾にゃんは自分にとって特別な存在なのだ」ということだけ。
偶然に出会ったことを納得できず、「誰かに出会わせられた」と感じるってことは、
わたしは「偶然に出会った」ということを自分の中で「下位」に位置づけてるのかな、と思ったりしたが、
うーん、意識の上ではあんまりそうは思わないが、もしかしたらそう思っているのかも、、くらいにしか思えない。

では「誰かに出会わせられた」ってことで高尾にゃんの評価が上がるかというと、
別にそういう意識もなく。

じゃあなんで「誰か」が必要かというと、それはわたしが「誰か」に感謝したいから。
「高尾にゃんと出会わせてくれてありがとう」って気持ちがわたしの中にはあって、
それを「誰か」にぶつけたいから。

そういう気持ちを誰かにぶつけたい。
だから人間は「神」という言葉を作りたくなったんじゃないかって。
(もちろん宗教は「(神や仏への)感謝」より「(自分たちの)救済」を求める気持ちの方が大きいのではないかと思うけど)

わたしは前は「神も仏もいない」って思ってたけど、
最近は「神という存在を求めている人間が神という言葉を作ったのだ」と思っている。
無神論の「神」ってのは、キリスト教的な意味においての神がいないってことなんだろうか、と思うが、
そういう意味では信じてないのでわたしには神はいない。
(神が存在するのと神を信じるのでは概念は違うと思うのだけれど)
だけど「人間の目に見えない力がどこかで働いているのではないか」と思える以上、
そこに「何か」があるんじゃないか、いやあると思いたい。
それを「神」と名付けていいのかどうかはよく分からないが、
でもそれが「神」であるって考える方がなんだかわたしにとってはしっくりくるような気がする。
そういう点ではわたしは無神論じゃないし、不可知論でもなくなってしまったような気がする。

わたしの目には見えない誰か、
それは神であるかも知れないし、ないかも知れない。

でもわたしはあなたに感謝します。
高尾にゃんと出会わせてくれて、本当に有難う。

【追記】
陣馬にゃんとはそう思わないのか?と思ってる人もいるでしょうね。
残念ながら、陣馬にゃんはまだそうは思えないのです。。
彼女とは?
彼女ともそうは思えません。「縁起」の方が合ってると思います。
あ、「縁起」って言っても、仏教を信じてるわけじゃなく、
「原因があって結果がある」ということは、仏教の教えと言うよりは物事の普遍的な道理なので、まぁそうだよね、と。
要するに彼女とは「誰かに引き合わされた」とは思えないという。
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13:03 | 自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
12-27 Fri , 2013
覚え書き(猫の名前変遷)
20131227234929859.jpg      2013122723493002a.jpg


●高尾にゃん

猫ちゃん→みーこ(子猫の時、みーみー鳴いていたから)→高尾ちゃん→高尾にゃん

●陣馬にゃん

陣馬にゃん→みーこ(みーみーうるさいから)→じんばこ→ばこ→ばこばこ→ばにゃん
                           ↓
                           くろいこちゃん→くろいこ
                           ↓
                           陣馬うんこ教教祖→教祖→ウンドバー(ドイツ語の「ウンダバー(素晴らしい)」から)→うんこドバ男

ちなみに「陣馬うんこ教」というのは、1日2回うんこすると健康になるという教えを元にした宗教(笑)。陣馬にゃんは今のところ、1日2回うんこしてます。思えば高尾にゃんもそうだったんだけど。突然ドイツ語が出てきたのは、最近、Eテレで語学番組ばっか見てるから。「美しい(と思われる)言葉」って質問でドイツの人が「ウンダバー」って答えてたのを聞いて。

しかし、名前の変遷を見てみると、陣馬にゃんはいじられキャラ、ってとこなのかな?(^_^)
16:50 | 二人と猫のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
12-29 Sun , 2013
ここまで来た
最近はほとんど日記書かなくなっちゃって、このブログ1ページ(30件)でほぼ1年が網羅されるほどなんだけど、こないだ少し過去記事を読み直してみたら、今年の1月の日記の中で、

> 他人事のことであれ、自分のことであれ、どちらにせよ、心のエネルギーを使っているわたし。
>
> 心にエネルギーを蓄えるって一体どうすればいいんだろうね。何も考えないことがエネルギーを蓄えることなんだろうか。何も感じないことがエネルギーを蓄えることなんだろうか。

と書いていた。これを読んで「あ、今のわたしはこのときと変わってるな」って思った。

あのときもいろんな人のブログ読んでたけど、今もいろんな人のブログを読んでる。時に読んでてしんどい内容だなーってのもある。で、あのときは「こういう現実があります」というのをまともに受けてしまって「自分がなんとかできないか」「何も出来ない自分がとても情けない」、こんな風に思ってしまっていた。そう大してたまってない心のエネルギーが放出されっぱなしになっていたわけ。だから絶えず「疲れた、もう何も感じたくない」って思ってた。

あれから半年以上過ぎて、自分から「休もう」と思ってほとんど何もしなくなって、相変わらず人のブログは読んでるけど、不思議とそれが自分に突き刺さってくることはなくなった。前は「何か一言コメント残して接触したいなあ。関係ないけど見てますよってことを知らせたいなあ」って思ってたけど、今は「そっとしておこう」って思ってる。それはね、やっぱり当事者同士じゃないと本当のところは分かり会えないと思うから。本当に本当につらいとき、そのことを経験してない人がいくら言ったとしても、それは表面的なものでしかない。だって経験してない人は表面的なところでしか理解できないんだもの。そしてその安易な言葉は当事者をものすごく傷つける。

だけど、いろいろな人のブログを読み、いろんな思いや現実を知るにつけ「今のわたしはこういう世界とは無縁だけれど、もし、人との会話の中や何かで関係ができたときに、自分は自分でできることをやろう」と思っている。これが前との差。少し対象と距離を置いて考えられるようになったような気がする。そういう意味ではわたしの心の平安も保たれてるし、エネルギーがたまったわけではないが、枯渇した感じもなくなった。

あと、数ヶ月前まで夜寝るときはぐるぐるいろんなことを考えて眠れない日が連日だったけど、これも昼間は同じことをしてる割に夜寝るときまで引きずらなくなった。

原因はなんだか分からない。積極的に取っている休みのせいかも知れないし、よく分かんないけど時期的なものかも知れない。ともかく精神的には結構安定してきた。結局最後の落ち込みから今月で丸1年たったし(1日単位の細かい不安とかは少し起こったりするけど)上にも書いたように楽になってきた。

ただ、、精神の安定と逆比例して体調が悪いんだよね~。

10月中旬から咳が止まらなくなってる。最初、鼻炎を診てもらっていた耳鼻咽喉科に行って薬もらってきたんだけど、全然効かなかったので、次にネットで呼吸器科を標榜してる病院に行ったんだけどさ。そこではレントゲン撮って「まぁほとんど異常ないですね。多分風邪です」って言われて、抗生剤やら飲まされたんだけど全然効かないので2回目に行ったら別の医者が「アレルギーです」と言って、今度はアレルギーの薬。それでも効かなかったので3回目に行ったら2回目と同じ医者に「咳をするから喉が荒れて咳をしたくなるんです」と、それって暗にわたしが咳をわざとしてるから止まらないって言いたいの?という感じで、しかも今度はきっつい抗生剤(後で調べたらマイコプラズマ肺炎に使う薬みたいだった)と咳止めを出されて。それを飲んでも全然効かなかったので、友だちに「ここいいですよ」って言われた病院に変えた。

そこは初診でCT(前の病院でレントゲン撮ったから今度はCTにしましょうって言われた)と血液検査。検査受けて少しして「炎症反応はほとんど出てないからアレルギーの可能性が高いです」って言われ。おいおい、前に出された抗生剤は無駄なものだったんじゃん!そして10日後に「動物上皮アレルギーの値が非常に高い」って言われ「猫アレルギー」確定。。orz「咳喘息」という診断が下された。そして喘息用の吸入薬などを飲むも、全然効かず。2回行った時点で「うちの病院は呼吸器科の先生も来てますから、そちらで診てもらうのも可能です」と言われたので、3回目はそちらに行って診てもらう。「これで効かないということは、この薬では軽すぎると言うことです」って言われ、少し重い吸入薬になったんだけどこれもほとんど効かず。4回目に行ったら「あれで効かない患者さんは最近珍しいです。今は喘息も良い薬ができて、ほとんどの人が効くんだけど。もしかしたら別の病気かも知れません」って言われorz

今は喘息でもかなり重めの薬を使っているところなんだけど、正直あんまりこれでは改善されてない。ただ、観察してると空気が乾燥してるところで喉がイガイガするような気がするので、加湿器をたいたり、あとスチーム式の吸入器を吸ったりしてると割といいのかな?って感じはする。

これはこれで一つの症状なんだけど、もう一つ、身体自体がすごく痛いってのがあって。背中が凝ってるのか、ものすごく痛くて。背中が痛いのは内臓の病気などが隠れてる可能性もあるのでやばいな~と思ってるんだけどね。まぁ今ひどいのは背中というより肩だけど。左腕も夏頃から痛くてって、書き出すと本当、全身ボロボロなんだけどね、、なんでこんな感じになっちゃったのかな~?って感じ。楽な姿勢が全然ない。

ただ、寝てるときは痛みを感じないんだよね。だから寝てるときが一番楽。でも寝て、起きたら身体は楽になってるかというと全然。。

精神的にはかなりいい調子になってるのになあ~。それとも精神的なものが身体に出て来ちゃってるのかしらね。

なんだかわけ分からん。
12:40 | 3度目のうつのこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
12-30 Mon , 2013
こういう曲があったんだね


今からどのくらい前だったかな?

たまたまtwitterで、この動画がリンクされてて、いつもはリンクされてる動画なんかほとんどクリックすることはないのに、なんでかクリックしてみたんだけどね。初めて見たとき、うわーって思ったんだ。それ以降、何度も何度もこの画像が見たくなってその都度検索して見てたりする。

この曲は今年の曲なんだってね。これを見るまで全然知りませんでした。

歌詞が時折英語に翻訳されてるんだけど、最初は歌詞なんて把握してなかったの。でも字幕読んで「あれ?これって歌の歌詞を英訳したものでは?」と思ったら「わー」って来た。だってわざわざ英訳してるということは、少なくともそれをメッセージにしてるってことだし、それにその歌詞が、何とも言えないものだったんだもの。。

正直、これをがんにかかってる人が見てどう思うのかは分かんない。もしかしたらものすごく傷ついてしまう内容かも知れない。けど、少なくとも闘病を支えている人たちはこういう思いなんだろうなって。その思いについ、涙してしまう。傲慢な涙だよなと思いながらね。わたしは自分のこういうところが嫌いだ。
21:46 | その他 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
12-31 Tue , 2013
今年も終わり
なんだかあと数時間したら今年が終わってしまうらしい。

けど正直、実感が全くない。身体の調子が悪いからかなあ~。
ほとんど何もせず一日が終わってしまう、というより、何もしないだけならまだいいんだけど、絶えず身体の痛みに耐えてて正直しんどい。
寝てる間は別に痛くないので、寝てる間だけは幸せ。

最近「祈ること」について考えている。

祈るって、生まれつき人間が持っている行為なんだろうか?
人は一般的に誰に向かって祈りを捧げてるんだろう?
なぜ人は祈りたくなるんだろう?

わたしは最近「神や仏に対して何か願い事をするのは間違ってるんじゃないか」と感じている。
だって、いくら祈ったって願いが叶うわけないもん。
例えばとても不幸な境遇の人がいたとして、その人のために祈ったとしても、
それは単なる自己満足でしかないんじゃないか?って思う。
それだったら、自分が何かその人のためにできるかを考えて、それを実行する方がよっぽど建設的じゃないかと。
もちろんその人のために自分は何も出来ないことがある。
きっとそういうケースの方が多いだろうと思う。
でもだからといってそこで祈ってしまったら、そのことはそれで忘れてしまうのではないかと。
それだったら何もできない自分を自分の中に深く刻み込ませておいて、
その人のためには何も出来なくても、いつか、誰かのために何かできるように忘れないことが大切なんじゃないかと。

それ以外にも自分のために祈るってこともあるだろう。
「病気が治りますように」とかさ。
でも、祈って治るんだったら医者はいらないよね。
てか、自分自身、何度も何度も病気がよくなればいいなって願ったけど、物理的に考えて、病気は原因をなんとかしなければよくならないわけで。祈っただけで治ったというのなら、所詮その程度の病気だったってことだろう。
なので自分のために祈るのもなんだか無駄なことという気がしている。

でもだとしたら、一体何を祈るのだろう?
願望ではないことを祈ることって一般的に存在するのだろうか?

もちろん何かに祈ることによって、精神的な安定効果はあるかも知れない。
けど正直それだけじゃん、って感じがする。
それが大きいって人もいると思うけど、わたしは精神的な安定はあんまり祈ることと関係ない。

でもそれでも何かに祈りたくなるときがある。
それが考えても考えてもよく分からないのだ。
その都度「なぜわたしはそんな無駄なことをしたいと思ってしまうのだろう?別に誰が願い事を叶えてくれるわけじゃなし」と思う。

願う、ということと、祈る、ということは別なんだろうか。
願わない祈りがあるのだろうか。

前に書いたけど「神」は今のところ、わたしは人間が作った概念だと思っている。
だから祈る対象はそういう「神」でもいいんだけど、「祈る」という行為がどこから来るか。
なぜ祈っても誰かが願いを叶えてくれるわけじゃないのに祈りたくなるのか。
祈るという行為は自分にとってなんなのか。

なにか参考文献とかないかな~。

というわけで、この課題は来年に持ち越し。
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