10-07 Thu , 2010
楽しい
ここに来て、憲法の教科書が楽しくなってきた。「永久平和主義」「幸福追求権」「法の下の平等」ときて「精神的自由」のところを今読んでいる。

この手の教科書って一体どういうものなんだろう?各条文の解説なんだろうかなどと思ってたけど、思いの外、著者の考えが入ってるものなんだねー。過去の裁判の判例に対しても「猜疑がある」なんて書いてあったりして。あ、法律勉強してる人にとっては当たり前のことなんだろうけど、わたしここまで鮮明に自分の立場をはっきりさせて書いてるとは思ってなかったもんで。もっと中立的な立場で書いてるのかって思ってた。

この教科書を書いた先生は、こちらが読んでいて嬉しくなるほどリベラルな人で(笑)、その先生が「法の下の平等」のところの最後で「家庭という共同生活の単位について、憲法は『両性』によることを当然としているゆえに、同性の共同生活を憲法は消極的に解するとしてよいかが問題となるが、積極的に同性の共同生活を禁止する趣旨はうかがえないとしてよいであろう。」って書いてて、まー、内容としてはそんなに突出してるわけでもなく、妥当だなと思う程度なんだけど、でも、そのことに言及してるだけでも嬉しかった!中央大学の法学部の通信教育課程の人で憲法を取ってる人は、みんな(とは言わないが。。)この教科書読んでると考えてもいいわけだしね!

で、内心の自由のところでなぜだか「沈黙する権利」のことが書いてあるんだけど(沈黙する、というのは表現することの一つの形態であるので、本来なら「表現の自由」のところで触れておくのが本筋じゃと思うわけなんだけど。。)「表現の形態として『表現することを強制されない自由』すなわち『沈黙の権利』も当然要請する」って書いてあって、それは確かにもう既に知っていたはずのことなんだけれど、改めてそういわれてみると「あー、確かにその通りなんだよなあ」ってなんかね、心の中に染み入ってくる、みたいな感じ?(心に染み入る理由は、多分、今、自分で敢えて黙っていることが多いからだと思う)

わたしは教訓めいた言葉や感動しそうな言葉の羅列なんかは大嫌いなんだけど、どうもこの憲法の教科書を読んでると、やたら感動するんだよね(苦笑)それは多分、憲法ってものを通して日本国民の「理想」が見えるような気がするからじゃないかなって思うんだけど(ここでは敢えて「日本国民の」って書いたけど、悲しいかな、日本に住む外国人の権利保障は一定の限度しか認められていないみたいなので←それは確かにその通りだと思うんだけど、でもやっぱり悲しいって思っちゃうんだよね、わたし)。自分でも青臭いとは思うんだけど、わたしやっぱり「理想」とか「正義」とか、そういうものの追究、って好きなんだよね~(笑)確かに憲法って国家と日本国民との間の契約について言及されている法律なんだけど、でもわたしはなんか、それを拡大解釈して考えてしまうみたい。多分それはあんまりよろしくないことなんだろうけども。。

実はこの憲法の教科書、最初の部分を読むのが結構苦痛で、最初の30ページはそれこそ何回読んだか分からないほど(笑)つまんなくてねー(苦笑)まだまだ半分読むにも至ってないけど、今は1ページ1ページ大切に読んでる。

で、今、つまんない真っ最中なのが「民法1」。まだまだ序論の最中なんだけど、わけ分からなくて困っている。しかもこの「民法1」は本論に入っても「自然人」について、とか「法人」について、とか「契約」について、みたいにとても抽象的な内容らしい。まだ読んでないうちから苦手とは思いたくはないが、どうやら苦手の雰囲気が漂っている感じ。。

気候も涼しくなってきて、勉強に相応しい時期になってきた。できれば今月中に憲法の教科書は読み終えたいなあ。。なんて考えているが。あー、でもこの調子で読んでたら全部読めるかも!問題は民法1か。。強制的に「一日○ページ」って決めて読まないとダメかなあ。。
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10-11 Mon , 2010
雨だけどハレの日
10月9日は「関西レインボーパレード2010」に行ってきた。

前日から大阪入りしたんだけど、大阪に着いたらもう雨が降ってた。雨が降りやすいことは当然知ってて、雨の中のパレードになるかも知れないと思ったので、ずっと前、野球観戦用に買ったGORE-TEXの上着(と言っても寒い時期はこれを防寒具として日常に使ってるんだけど)を持って行ったのだが、肝心の傘を忘れてしまった。。目の前で雨が降ってるところを見て初めて「あ、傘忘れた」と気が付いた始末。仕方ないのでホテルの傘を借りた。

翌日の天気予報では午前6時~9時までは曇りの予報だったので、それにちょっと期待したのだが、残念ながら朝起きてみると強い雨が降っている。集合時間はいつも通り9時ではあったが、雨天の場合はどうなるか指示が出ると言うことで、ホテルで待機。そのうち雨が弱くなり「おお、行けそう?」と思った9時半に「予定通りやるから楽器を持って集合場所へ」との連絡が。ホテルを出て集合場所に向かう。今年の集合場所はいつもの中之島公園の女神像のところではなく、もっと東側の高速の高架下だった。高架の下で雨がしのげるので今年、ここが集合場所で本当によかったと思う。

地下鉄に乗って集合場所の最寄り駅「北浜」に着いたときは、またもや雨が降っていた。しかも結構強い雨。結局この雨はこのあとパレード終了後までずーっと止むことなく降り続くんだけどね。このときは「また止めばいいなあ」って思ってた。で、わたしが集合場所に着いた頃はもう多くの人が楽器持って個人連をしているところだった。わたしが着いたあと、責任者から「今日は(パレード終了後に毎回やる)お帰りなさい演奏はなし、その代わり、パレードが始まる前に5分演奏をする」という話を聞いた。またパレード自体は「個人の判断で」行なって下さい、というものだった。雨は強く、ほとんど止むと言うことは期待できそうになかったが「雨が強いから楽器は吹かない」と言う人は一人もいなかった。みんな、濡れないよう大きな袋に楽器を入れて、吹くところだけは出しておく、みたいにしてた。トロンボーンは残念ながら、楽器全体を包むということが出来ない楽器なので、そういう処理を施す人は誰もいなかったけど。

わたし自身はそのとき、雨で楽器が濡れることはとてもイヤだったけれど、誰かが楽器を吹いてパレードをするならやりたいって思ってた。だって、せっかくそういう「場」があって、そして吹いて参加したら絶対に楽しい、って分かってるところなのに、それを敢えて自分から「やらない」とはとてもじゃないけど判断できなかった。

ところが、もうすぐオープニング開始ってところで、主催者から「Brass MIX!とエイサーは主催者側の判断でパレードは中止。その代わり、演奏(演舞?)をパレード出発前にやってもらう」とのアナウンスがあった。その直後、Brass MIX!責任者からも同じことが告げられ、それプラス、パレード前に25分時間をもらったので、パレードでやる曲全曲と、最後に「PROUD MARY」を演奏することにする、と言われた。正直、そのことでわたしは随分ホッとしたし、メンバーの中でも「絶対に吹いてパレードしたい」という声は(わたしには)聞こえてこなかったので、他の人ももしかすると同じことを思っていたのかも知れないと思う。それに今までパレードで吹く曲全曲を観客の前で披露する、ということがなかったし、雨の中だけれど落ちついて聞いてもらえる環境で合奏できることがとても嬉しかった。

ってことで、そのことが決まってから割とすぐに演奏開始。「We are the world」以外はまぁまぁ、最後の「PROUD MARY」は自分の中ではよく吹けたと思う。「We are the world」は東京のパレードの時からテンポが速すぎで、これをもうちょっと遅くしてもらいたいと思っていたので、今回一通りの練習が終わったあとに責任者に「もうちょっと遅くして欲しい」って頼んで、そうなることが決まってたんだよね。それで確かにこの曲が始まる前のバッテリーのテンポは今までよりちょっと遅めになってたんだけど、結局は走っちゃって、気が付いたらすごい速いテンポになってた。。そこのところちょっと残念だったけどね。

雨のため楽器を吹いてパレードできなかったのは返す返すも残念なことではあったけれど、あれが最善の判断で、そしてその中で演奏できただけでもよかったと思う。

で、このパレードには友だちも来てて、本来ならわたしはBrass MIX!で、友だちとわたしの彼女は一緒にどこかのフロートで歩く、ということになってたのだけれど、わたしがBrass MIX!で歩けなくなってしまったので、みんなで歩くことになった。それはね、本当にちょうどよかった。そして、わたしにとってはパレードを楽器なしで歩くのは初めての経験だったんだよね。まー、そのことについては「いつか経験すること」と思ってたし、だからといってあんまりどうこうとは思うこともなかったんだけどね、実のところ。そういう点では「予想の範囲内」といったところだった。

ただ、自分の中では楽器を吹きながらパレードする、ってことに、こう書くとイヤなんだけど、優越感、みたいなのはかなりあったと思う。沿道の人から注目されるのは嬉しいし。「ただ歩くだけのパレードとは違う」って、表だっては思ってなかったんだけど、よくよく考えると、結構この意識は強かったんじゃないかな。というのも、ただ歩くだけのパレードでびっくりしたのは、沿道を一緒に歩く人がものすごく多かったからなんだよね。

実はわたし、Brass MIX!でパレードしているとき、沿道を一緒に歩く人がいるのはもちろん知ってて、その理由は「音楽をずっと聴いていたいから」だと思ってた。だから、Brass MIX!以外、沿道を一緒に歩く人がこんなに多いなんて全く思ってもみなかった。

ところがところが。沿道を一緒に歩く人の多かったこと。その人たちとずっと同じ速さで歩いているわけではなく、大抵が道路を歩くよりも速いペースで沿道を歩いて行ってしまうのだけれど、後から後からずーっと沿道を歩いている人が来る。それは単なる「通りすがりの人」じゃなく、明らかに「このパレードがどんなパレードが知っている人」が歩いている。それ以外にも沿道から止まってみている人、カメラを向ける人の多いこと多いこと。沿道から止まってみている人も、明らかに「このパレードがどんなパレードかを知ってみている人」が多かった。見た目で判断してはいけないけれど、こちらの目から見ると「イカニモ」の人たちなんだよね(もちろん、ゲイだけじゃなくってね)。逆にこのパレードが一体何であるか知らないで見ている人の数ってすごく少ないような気がする、心斎橋付近の混雑するエリアを除いては。

それって一体、どういうことなんだろう?だって、人がただ、傘差して歩いているだけの、全く面白みもないものなんだよ。そんなのを見て一体何が楽しいんだろう?こんなものの画像を撮ったりビデオに撮ったりすることに一体、なんの意味があるんだろうか?そういう思いがパレードしながら、わたしの頭の中をぐるぐるしていた(ぐるぐる考えているうちに、ああ、自分の中では楽器を吹いてパレードすると言うことはかなり自分の中で優越感があったんだということに気が付いた)。

一つ考えられるのは、隊列に加わるなんてとてもじゃないけどできないよ、と思ってる人の存在だ。それは「地元だから歩くのに抵抗感がある(知り合いの人に発見されたらどうしようかと思う)人」や「性的少数者として自分が見られることに耐えられない人」だ。そういう人は確かにいるだろう。そういう人がいることは理解できる。しかし、こんなに多くの人がみな、そうなんだろうかと思うと、それは絶対に違うと思う。じゃ、それ以外の理由って何か存在するのだろうか?わたしが今、ここを歩いていることはどういう意義があるのだろう?隊列に加われない人を力づけるため?いや、わたしはそのために歩いてるんじゃない。では性的少数者の可視化のため?少し前ならおそらくこのことは自分の中では「大義名分」になっていただろうが、今はそういうことは考えたくない。だったら一体何のために自分は歩くのか?友だちと話しながら歩くのは楽しい。滅多に会うチャンスのない人たちだしね。しかしただ「楽しいから」という理由でいいのだろうか?もっと何か、別の意味があるんじゃないか?

一方で友だちと語りつつも、わたしの頭の中はそういう思いでいっぱいでね。実はパレードが終わってからもこの思いはずっとわたしの中にある。翌日、扇町公園でやってたPLuS+のイベントにも行ったのだけれど、こういう思いが消えなくて、じゃあ一体、パレードの実行委員の人たちはなんのためにパレードとかかわっているんだろう?という疑問が湧き上がってきたので、関パレブースに行って、個人的に知り合いの実行委員の人たちにその疑問をぶつけたりした。各々帰ってきた答えというのは、わたしが予想していたようなものじゃなかったのがとても興味深かったし、それを自分に返して考えてみると、ただ楽しいだけが目的でもいいじゃないか、という感じもした。けど、心のどこかで大義名分を欲しがっている自分もまだ存在する。

もちろん、パレードで(公道を)歩くという目的は人それぞれだろう。今回も友だちと話していて、その友だちが「やっぱりただ歩くだけではなく、自分たちの主張も掲げないとね」って言っていた。性的少数者の可視化、とか自分を肯定できない性的少数者への自分からのメッセージを伝えるためには、やはりプラカードは必需品だろう。その目的はとても立派だと思うし、わたしもそれには賛成だ。もっとメッセージを持って歩く人が増えればいいのに、という友だちの主張にも賛成する。だけど、それを自分がしたいかというと、今はそういうことはあまりしたくないんだよね。でもなぜそれをあまりしたくないのかというと、その理由はよく分からないんだよね。。

そうそう、パレードの実行委員の人から聞いた話なんだけど、沿道を歩く人の中には「ま、ちょっと一区間でも参加するか」と思っている人もいるらしい。「全部歩くのはだるいし、けど、パレードには興味がある」という感じだろうか。わたしにはその思いはよく理解できないので(一部だけパレードと一緒に歩くことにどんな意味が?と思ってしまう)、そういうことをする人の気持ちを聞いてみたい気がするが、そういう感じで「ゆる~く」参加できるのもまたパレードの一つの側面なんだろう。

「沿道を歩く人がものすごい多いよね」と言ったわたしに対して「そうやねん」と答えた実行委員の笑顔はとても印象的だった。

今回、雨の中にもかかわらずパレードに参加したのは約550人だそうだ。でも、それ以外に沿道を歩いている人、沿道で見ている人を加えると、もっともっとパレードの参加者って多いと思う。昔のわたしなら「そういう人たちがいつかは公道を歩けるように」って思っただろうと思う。けど、今のわたしはそんなことは思わない。もちろん、パレードの参加人数が増えるのに越したことはないと思うけれど、でもどういう形でも参加したいと思ったら参加すればいい、と思う。

ただ、、関パレに関わっている人(実行委員)ってすごーく少ないんだよね。少ない人数であれだけのパレードをやってる。それが1回限りなら別に何も思わないところだけれど、パレードは毎年ある。あって当然ってなんとなくみんな思っている。けど、そうじゃない。毎回毎回すごい労力を掛けてパレードは開催されている。このままでいくと燃え尽きてしまう人たちが出てくる(いや、もう出ているかも知れない)んじゃないかと思ってとても心配なのだ。だから、まず、パレードを作り上げる人がもっと増えて欲しいって思う。まーわたしは遠く離れたところに住んでて、自分が参加できないクセによく言うよって思うんだけどね。それとともに、これだけの場を与えてくれるパレード実行委員の人に感謝するべきだって思う。それはべったり公道を歩いた人も、一瞬だけ沿道から参加した人も同じ。パレードはあって当たり前じゃない。当たり前じゃないことに感謝すべきだ。

わたしの中ではまだまだ「一体何のためにパレードするのか」という疑問が頭の中を駆け巡っている。この答えはおそらく当分見つからないだろう。けれど、関パレのパンフに書いてあった「パレードの目的」の言葉「このパレードを、多様な性を祝い合えるハレの日(お祭り)としたいと思います」には共感できる。天気は雨だったけど、あの日はわたしにとって「ハレの日」だったのだ。

「ハレの舞台」を造り出してくれた実行委員の人たちに感謝。そしてできることならまた来年、同じ舞台で会いたい。
17:10 | (性的少数者)イベントなど | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
10-12 Tue , 2010
単位が取れた
大阪滞在中に「夏期スクーリングの結果がMyはくもんに出ている」って知ったんだけど、わたし、自分のパスワード忘れてしまって、いろいろ心当たりのあるパスワードを入れて試してみたもののログインできず、結局帰ってくるまで分かんなかったんだよね、結果。

で、帰ってきて早速Myはくもんにアクセス。

法学と日本法制史の単位、取れてた!計8単位。

おまけにおまけに。
両方とも評価が「A」だった!\(^0^)/

日本法制史は試験で確実に1問間違えた割によくAが取れたもんだと思う。。

ってわけで、わたしがこの1年に取った単位は(たったの)8単位。
10月から大学4年生に(無理矢理)進級しました。

今後4年を何年間やるのだろうか(汗)
ま、頑張ります。
20:43 | 通信教育課程の大学生活 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
10-18 Mon , 2010
ジェンダー違和
わたしは常々男性によく間違われるが、間違われると言うことを言ったりどこかに書いたりすると、割と言われるのが「間違えられたくなければ、もっと女らしい格好をすればいいのに」というもので、でも、わたしはこの意見に対してはものすごい反発心を覚えてしまう。「わたしは既に女なのだから、わざわざ『女らしい』格好なんかしなくてもいいんです」というのをそういわれたときの回答としているが、では、なぜわたしはそう言われると無条件に反発心を覚えてしまうのだろうか、ということが長年の疑問だった。

女と見られるのはイヤなのか?と言われると、その答えはNOだけれども、わたしにとっては女らしくするのもNOなのだ。かといって男らしくするのも絶対にNOで、男に見られたいわけでは絶対にない。世間一般に言われている男らしくも女らしくもなりたくない、ってことは、自分は「X」なのだ、と言うところまで気が付いたのはホンの最近のことなんだけれど、FtMとかMtFとかFtX、MtXという用語はあるものの、ただ単体の「X」ってのは有り得ないわけで。考えられるのは「FtM」ってことなんだけど、これも自分じゃないような気がして。とにかく自分が「X」であることは分かったけれど、だったら何に対してのXなんだろうってずっと考えてた。

あ、ちなみにFtMとかMtFってのは、トランスジェンダーの人たちのことで、FtMってのは、女の身体なんだけど自分は男だと思ってる人、MtFってのはその逆、FtXとかMtXってのは、女(男)の身体なんだけど、自分はどちらの性とも思えない人、のことだ。トランスジェンダーの人たちは一般的に「身体違和を持つ人」のことで、よく身体の性と心の性が合致しない人とも言われるけど、心の性というのは非常に曖昧な言葉で、例えばわたしなんかも「心の性は何?」って聞かれると、正直よく分かんない。何が「心」なのかよく分かんないし、心に性があるかと言われると、それもよく分かんない。身体の性は女だと思ってるけど。。

そういうわたしは身体違和は全く感じない、シスジェンダーだ。シスジェンダーってのは、トランスジェンダーではない人のことだ。最近、シスジェンダーという言葉を聞くことが割と多くなってきたけれど(某映画のせいだ)、その中で「シスジェンダー=身体違和を感じない人のことで、性別を間違えられたことがない人」と捉えられているような気がして、それに対してもとても違和感を感じている。だって、わたしは性別間違えられる人だもん。「自分の意図した性別でない性に見られる」という点においては、わたし、トランスジェンダーの人と同じなのだ。だから、ホントその点だけなんだけれど、わたしはトランスジェンダーの人の気持ちがちょっとだけ分かるんだよね。

ただ、分かったからと言って、それ以降の気持ちまで全部似通ってるかというと実は全然違う。わたしは「女なのに男に間違えるなんて、どこに目ん玉付けて歩いてるんだ!」と公に向かって怒ることが出来る。しかし、トランスジェンダーの人は違うのね。「もっと自分を女(男)らしくさせなければ」と考えてしまうことがおそらく多いと思う。それは、生まれながらの身体が自分の思うところと違う、ということが大きな理由だろう。

けど。。とわたしは思うんだよね。わたしだって、本当に生物学的に女かと言われると、分かんない。だって、生まれてこの方、セックスチェックなんかしたことないもの。ただ、外性器の形とか、第二次性徴が女性向きだったことから「自分は女だ」って思い込んでるけど、もしかしたらそうじゃないかも知れない可能性だってあるんだよね。だったらこの「自分は女だ」って強く思う根拠は一体どこにあるんだろう?って考えたら、やっぱ「自分の気持ち」しかないわけで、それってトランスジェンダーの人が「自分は女(男)だ」って思う気持ちと全然変わらないんじゃないかなって思ったりする。

って何を書いているのかだんだん分かんなくなって来ちゃったけれど、本人が男だと言えば男で、女だと言えば女で、どちらでもない人はどちらでもない人なんだってことだよね。だからFtMの人が過剰に男性性を身につけることはないし、MtFの人にしても同じ。みんな女に見えるように髪の毛を長くする必要もないんじゃないかって思う。あ、ただし、本人がそれを望むのならそうすればいいとは思うけど。「女(男)に見えるにはどうしたらいいのか」って、そういう努力をしなくてもすむ世の中になればいいなって、わたしはそう思う。とは言えども、現実の世界は厳しいから、必死で自分の見られたい性に見られようと努力しているトランスジェンダーの人からは「なに寝ぼけたこと言ってんだ」って思われるだろうなとも思うけど。でもね、わたし、MtFの人がすべて「女らしい女にならなきゃいけない」って思うのは間違ってると思うんだ。中には「女らしくないMtF」もいても構わないと思うし、そっちの方が自然じゃないかって思うんだ。だから「寝ぼけたこと言ってる」と批判されるのを覚悟の上で言うんだけどね。そしてわたし、もっと「女(男)だけどそんなに女(男)らしくしたくないんだ」ってことを主張してもいいんじゃないかって、「そんなに血のにじむような努力をして(本人が望まない)女(男)にならなくったっていいんだ」ってことを主張してもいいんじゃないかって、そんな風に思うんだよね。

で、わたしのことに話は戻ると、まー、本当のところはどうだか分からないけど、わたしの身体は女で、それに対しては全く違和感を感じない。だから男性に間違われると「違う」って思うのかというと、どうやらそうでもないみたいなんだよね。わたし多分、男性に間違われると言うこと、イコール、男性器が付いている自分、を思い浮かべてイヤなんじゃなくって、もっと、なんというのかな、ふわふわした「男」って概念に対してイヤなんだと思う。そしてそれは「もっと女らしくすれば(しなさい)」というのも全く同じなんだよね、考えてみると。わたしの中で「女のイメージ」というのは、七面倒くさい化粧して、スカートはいたら大またで歩けない、自由を阻害されたもの、というのが非常に強い。わたし、そんな中に進んで入りたいなんて絶対に思わないし。

と思っている点でわたしは既に「X」なのだけれど、もちろん中には化粧が七面倒くさいなんて思ってない人もたくさんいるだろうし(男性も女性も)、スカートはきたいって思ってる人もたくさんいるんだよね(男性も女性も)。履きづらいヒールをコツコツ言わせて歩くのが好きって人もいるだろうし。それが一般的に「女らしい」って言われてることで、そういう風にしたいって思ってる人は、結局、ジェンダーが女性、ってことなんだよね。わたしが違和感を感じてるのは、実はこのジェンダーに対してなんだ、って最近なんだけど、ようやく分かってきた。で、わたしはジェンダーに対して「FtX」なのだ、ってことだ。

自分は女で、女らしい格好をしても全然違和感がない、そういう人はジェンダーが女性で、しかも肉体的な性とも合致しているので「女が女らしい格好をするのは自然だ」と思っている。だから平気で「女なんだから女らしい格好をすれば」って言えるんだよね。でも、わたしは身体は女だけれども、それと「女らしくしたい」というのが全くリンクしない。今までそう思う自分が当たり前だったから、ジェンダーに関する本を何冊読んでも理解できなかった。ジェンダーって「性役割」とか「男(女)らしさ」って説明されるけれど、もともとどちらの役割もしたくなくて、どちらにもなりたくないわたしにはその概念自体あるってこと、その概念に対して不思議ともなんとも思わない人がこの世の大多数だってことが理解できてなかったんだよね。これって、この世の大多数の人が異性愛者だってことを未だにわたしの中では理解できないのと多分同じ感覚なんだろうって思う。

そのことをこの歳にして初めて理解できたというか、ようやく自分の中の謎が一つ解けた。

そうそう、だけどこの「ジェンダー=FtX」の「F」にすんごく違和感があるのね、わたし。この「F」というのは「もともとは女性なんだけれども」の「F」なのだが、わたしにしてみれば「何がもともとなんだよ、わたしはもともとXなんだよ」って言いたくなるような「F」なのだが、もしかしてトランスジェンダーの人もMtFとかFtMとか言われたり名乗ったりするとき「もともと」を表わすMとかFに違和感を抱いているんじゃないかなあって思ったりする。「何を言うんだ、わたしはもともと『M(F、X)』なんだよ!」ってね。
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10-19 Tue , 2010
ジェンダー押しつけと白い靴下
昨日、洗濯物を彼女と一緒にたたんでたときのこと。

洗濯物の中にわたしの白い靴下が大量にあって、わたしはそれを組み合わせるのに苦労していた。だいたい靴下は一気に○足組、△足組で買ってるんだけど、そうすると色はともかく長さがビミョーに違ってて、うまく組み合わせないと長さが違う靴下が残ったりして、結構めんどくさくてたいへんなのだ。

「めんどくさいなー」とブツブツ言いながら組み合わせてたんだけど、彼女が「そういえばろんたこはなんで白い靴下しか履かないの?」とわたしに聞いた。「え、それは中学の頃、学校には白い靴下しか履いて行っちゃいけなくてさ。それ以来、白い靴下しか履いちゃいけないような気がするんだよ。学校教育の弊害だね」と答えた。そう、わたしは中学の校則で「白い靴下に限る」と決められて以来、靴下はずーっと白いのしか履いたことがないのだ。白い靴下以外はなんか履いちゃいけない気がするんだよね。だから、当然買うときも、白い靴下しか買わない。このことに対してわたしは自分の中で特に疑問も持たず、疑問を持たないから中学卒業して25年以上になるけど、白い靴下を買い続けてきた。

そしたら彼女が「それって、社会におけるジェンダーの刷り込みと同じなんじゃないかなあ?」って言った。あっ、と思った。

物の本によると、ジェンダーとは「社会的な性」のことで、人間が社会生活を送る際に徐々に「女らしさ」とか「男らしさ」について教育されて刷り込まれていくらしい。でもわたし、このことを何遍読んでも自分ではさっぱり理解できないのだ。それは自分自身「教育された」記憶がないから。しかもわたしは「女らしさ」「男らしさ」から全然離れたところにいて、その概念すらよく分からない。昨日も書いたけど、わたしは本当にジェンダーってどういうことなのか、なんでそれが自然に獲得されるのかがさっぱり分からなかったんだよね。

でも、わたしにとって、ジェンダーの刷り込みってのは、白い靴下の刷り込みと同じ現象だったのだ!と同時にうわっ、こわっと思った。

わたしが白い靴下が当たり前で、それを履くことに何の疑問を持っていなかった、ということは、この世の中にはジェンダーの刷り込みをされて、それが当たり前で、そのように振る舞うことに何も疑問を持っていない人がこの世にたくさん存在する、ってことなんだよね。そして何も考えずにそれをまた人に押しつけるんだよね(わたしは白い靴下を人には押しつけないけれど(笑))。これが怖くなかったら何が怖いというのだろうか。

「なんだよ、くだらない。たかが靴下の話じゃないか」と笑う人は、知らないうちに自分に刷り込まれた「男らしら」や「女らしさ」についてよく考えてみるといい。「なぜわたしはこのような行動をするのか」よく考えてみるといい。案外根拠のないことだったりするかも知れない。わたしは昨日「したい人はしたいようにすればいい」って書いた。しかしもしかしたらそのことは「したいこと」ではないかも知れない。何も考えずにただなんとなくしていることかも知れない。それって本当はとても怖いことなんじゃないだろうか。
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