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08-15 Mon , 2016
知るということ
71年前、日本は戦争に負けた。

一つのターニングポイントが1941年12月8日(日本時間)の真珠湾攻撃、すなわち日米開戦のときだったと思うのだけど、日本がアメリカに戦争を仕掛けたと知ったとき、「日本は負ける」と思った人もその当時、どの程度の割合かは知らないけど、全くいなかったわけでもないみたいだ。

わたしは去年の9月に「若者から若者への手紙 1945←2015」という本を読んだのだけど、その中で、戦時中教師をしていた人のお父さんが、真珠湾で戦争を仕掛けたことを新聞で知ったときに

「『アメリカと戦争をするなんて、なんて馬鹿なことを』と叫んだ」

と書いてあった(その教師自身はその日、家を出るときに空を見上げて「この青い空の一体どこで戦争をしているんだろうと思った」そうだ)。

実はわたしの祖父も同じことを思ったらしい。その当時、祖父たち家族は朝鮮半島にいて、そこで働いていた。わたしの父はそこで生まれた。ところが、日本がアメリカと戦争を始めたことが分かった途端、「これは危ない」と思って日本に帰って来た。その当時は満蒙開拓で家族ぐるみで中国大陸に渡っていった人たちも多くいたし、国もそれを奨励していた。その方向とは逆に祖父一家は日本に帰国した。これは日本が戦争に負けたあと、どうなるかを見越した上での帰国だったのだろう。実際、日本が戦争に負けたあと、当時満州にいた人たちが日本に戻ってくる際の引き上げの過酷な話を聞くと、当時幼かった父などは途中で死んでいたりしたかも知れないし、父が死んでたらわたしは今、この世にいない。

祖父の判断は正しかったのだ。

戦争が起これば、国民は国に全て身を捧げなければならないが、その身を捧げつつ、自分の身は自分で守らなければならない。国が自分たちの身を守ってくれるわけじゃない。

そこで必要となるのは「自分の頭」しかない。祖父はそういう点で非常に聡明だった。世の中のことをよく勉強して知っていた。この先、どうなるかをちゃんと見通せた。

しかし。そのような聡明な祖父でも原爆に対する知識は全くなかった。だから原爆が投下されたあと、身内を探すために幼い父を連れて爆心地に入ってしまった。そのために父も被爆者になった。だからわたしも被爆二世として生まれてしまった。原爆の恐ろしさが分かったのち、祖父は「父を連れて入るのではなかった」と悔やんでいたと聞く。

もちろんその当時、放射能に対しての怖さというのは一般的にはほとんど誰も知らなかっただろうから、祖父は責められないとは思う。が、上の2つの話を合わせると「人間は生きている限りにおいては、いろんなところにアンテナを張って、勉強し、知識を蓄えて、将来を見据えておかなければならないのだ」ということが分かる。

日本で宗教の話と政治の話はタブーなんだそうだ。

宗教の話は、それでもまぁいいと思うが、政治は今、生きている人間にとってどういう場合だって関わってくる。政治に関わりのない人間なんて一人もいない。日本の中での「制度」の枠組みの中で生きてるんだもの。なのになんでそれをタブーとして「放棄」してしまう人たちがいるのか。なぜ政治の世界は「自分には関係のない話」と言い切れる人たちがいるのか。政治の話はつまらないから?政治に関わると変な人と思われるから?変な人になってしまうと思うから?何も考えない方が楽だから?国が自分たちの都合の悪いようにはしないと思ってるから?

まぁそういう人間は国と一緒に心中して滅びてしまえばいい、とも思うけどね。

でも残念ながら、考えない人間の方が多数になってしまうと、民主主義の世の中だから、わたし自身は国と心中したくなくてもそういう方向に引きずり込まれてしまう。

だからこそ、今、言えるうちにいろいろ言ってるんだけど、どうも世の中そういう方向には進んでいない。

うーむ、この先は「自分の身は自分で守らなければ」ということもそろそろ考えておかねばならない時期になって来たのかも知れない。

怖いね。
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15:11 | 被爆二世・戦争などのこと | トラックバック(0) | page top↑
08-11 Thu , 2016
平和祈念式典見終わった
今日やっと録画しておいた平和祈念式典を見終わった。

8月9日のこの時間は既に勉強してたので、リアルタイムでは見なかった。ちなみに6日の平和記念式典は録画も何もしていない。8時15分は寝てた。理由はいくつかあって、一つはやっぱり8月6日って生々しすぎるのだ。わたしは平和記念式典は見なかったものの、この日は何度「今日は8月6日だ」と思ったか。思うたびに気が重くなったことか。これが主な理由だが、もう一つはテレビの中継時間が短いのと、広島のは見る価値がないから。たった35分の放送時間内でやるのは、8時15分を含んで広島市長の平和宣言と子ども代表の平和への誓い、あとは首相の挨拶も入ってたっけ?確か入ってたとは思うけど、これが主な内容だよね。広島のは正直、市長の平和宣言を始め、今年はどんなことを言うのだろうという期待感はない。市長の宣言も通り一遍だし、子ども代表の平和への誓いも毎年そう大差ないし、わざわざ見る必要はないのだ。そういうわけで、広島の平和記念式典は今年は全く見なかった。

ところが長崎のはテレビの中継は1時間以上やるんだよね。そして内容的にも見応えがある。言っちゃ悪いが長崎の被爆者代表によって行なわれる平和への誓いの方が、広島の子どもがやる誓いに比べると格段に重みがある(当たり前か)。なので、当日リアルタイムでは見なかったけど、テレビ中継は録画しておいた。わたしは一昨年初めて平和祈念式典に行ったけど、できれば来年また行きたい。まぁ、その頃は自分の生活はどうなってるのかは分かんないけど。

今年も長崎の「平和への誓い」はとてもよかった。特に日本の加害の歴史について言及したのがよかった。戦争は被害ばかりではなく、加害にも目を向けなければ「戦争が起きても被害者にならなきゃいいんだよね」で終わってしまう。それから「武力で平和は守れない」ことから、沖縄への連帯も言及した。今、まさに沖縄でどのようなことが起こっているか。それを踏まえてのことだろう。こういう「誓い」は広島にはできない。広島市長は福島のことさえ言及しようとはしない。なんという情けなさ。少しは長崎を見習って欲しい。

幼い頃「神の国日本、欲しがりません勝つまでは」などと教えられて過ごした私は、相次ぐ空襲を逃げ回り、防空壕で息を潜め、日本の敗戦は近いと思っていました。

1945年8月9日、午前11時2分、アメリカが投下した一発の原子爆弾は、ここ浦上の上空およそ500mで爆裂し、長崎の街は、一瞬にして廃墟となりました。

原子雲の下は、想像を絶する修羅場となり、日本人だけでなく、強制連行された中国人や動員された朝鮮人、戦時捕虜のアメリカ人や諸国の人々を含むおよそ7万4千人が無差別に殺され、虫や鳥や植物など全ての生き物も死滅しました。

私は当時9歳、爆心地から6.5kmの地で大木に登り枝落としの最中に、巨大な火の玉に目がくらみ、耳をつんざく大音響と猛烈な爆風で吹き飛ばされ気を失いました。

翌日から、救護活動に参加した母や姉、兄などの体験で、惨劇の大きさを知りました。その母も姉も兄も歯茎から血を出し、髪が抜けるなど、長い間苦しみに耐えながらも、次々に原爆症で亡くなりました。

広島で歓迎されたオバマ大統領は、「空から死が降ってきた」と叙情的に表現されましたが、広島のウラン型原爆に対して長崎にはプルトニウム型原爆が投下されたことから、私には二種類の原爆による実験ではなかったのかとの思いがあります。

被爆した街は、国際的な支援の元に復興しましたが、私たち被爆者は71年もの間、毎日が苦悩の中にあり、二世、三世もその憂いを引き継いでいます。政府には「原爆症」や「被爆体験者」の救済について、司法判断に委ねず、政治による解決を望みます。

しかし、私たちは絶対悪の核兵器による被害を訴える時にも、日中戦争やアジア太平洋戦争などで日本が引き起こした加害の歴史を忘れてはいません。

わが国は、過去を深く反省し、世界平和の規範たる「日本国憲法」を作りこれを守ってきました。今後さらに「非核三原則を法制化」し、近隣諸国との友好交流を発展させ、「北東アジアの被核兵器地帯」を創設することにより初めて、平和への未来が開けるでしょう。

国会および政府に対しては、日本国憲法に反する「安全保障関連法制」を廃止し、アメリカの「核の傘」に頼らず、アメリカとロシアおよびその他の核保有国に「核兵器の先制不使用宣言」を働き掛けるなど、核兵器禁止のために名誉ある地位を確立されることを願っています。

科学の発展が人類の幸せに貢献せず、資源の独占と貧富の差が拡大する限り、世界の不安定はますます激しくなるでしょう。オバマ大統領が率先して示された「核なき世界の実現」への希望は、人類の英知による恒久平和を目指すものであり、「非核の国々による核兵器禁止のための国際的流れ」に共通するものと思います。私たちは、オバマ大統領が「最後の被爆地長崎」を訪問されるよう強く願い、歓迎いたします。

私たち被爆者は、「武力で平和は守れない」と確信し、核兵器の最後の一発が廃棄されるまで、核物質の生産、加工、実験、不測の事故、廃棄物処理などで生ずる全世界の核被害者や、広島、福島、沖縄の皆さんと強く連帯します。長崎で育つ若い人々とともに「人間による安全保障」の思想を継承し、「核も戦争もない平和な地球を子どもたちへ!」という歴史的使命の達成に向かって、決して諦めず前進することを誓います。

地球市民とともに核兵器廃絶の実現を!!

ナガサキ マスト ビーザ ラスト

2016年(平成28年)8月9日
被爆者代表 井原東洋一

15:56 | 被爆二世・戦争などのこと | トラックバック(0) | page top↑
06-23 Thu , 2016
沖縄・慰霊の日
今日は沖縄・慰霊の日。
沖縄には縁もゆかりもないわたしにとっては、実はイマイチピンとは来ない日だ。
なので今日は全戦没者追悼式もすっかり忘れていて見なかった(去年は忘れず見た記憶があるが)。
8月6日の平和記念式典は毎年忘れずに起きて黙祷するのに。
8月6日は8月に入ると「あと○日」と無意識に考えてしまうのに。

でも縁もゆかりもないって多分、そんなもの。
広島、長崎に縁もゆかりもない大多数の人も8月6日と9日はそんなもんだろう。

うん。わたしは何が言いたいんだろうねー?
当事者の痛みは当事者じゃないと分からないと言いたいんだろうか。
でも、それだと「じゃあ問題は当事者だけで解決してください」になってしまう。
当事者は、痛みを抱えているから当事者なのに。
痛みを抱えながら、権力者と戦っていかなければならない。

だから、痛みを分かち合える第三者が応援しなくてはならない。
けど、第三者は当事者の本当の痛みはわからない。分からないから第三者なのだ。
だからこそ、当事者にはできない思い切ったこともできる。

が、それは果たして当事者を傷つけたりする行為ではないのか。
第三者はどう頑張っても当事者にはなれないし、だからこそ想像力が必要だ。
第三者は常に「自分の行動が当事者を傷つけていないか、当事者が本当に望んでいるのはどんなことか」を考えなければならない。
ときにはどうやっても当事者を傷つけてしまうようにしか感じられないこともあるだろう。
でも、だからといって第三者がそこから逃げると言うことは、当事者に「今の状態で我慢してね」と置き去りにすることなのだ。

これは沖縄だけの話ではない。
社会的弱者一般に当てはまる話だ。

その中で当事者でない自分はどうしたらいいのだろう。
絶対的な答えが見つかるはずはない。
いつもいつも迷いながら、でも強者に立ち向かうことだけは生きている限りやっていきたい。

なんか、あんまり慰霊の日とは関係なかったかな。
でも今日はそんな気持ち。
23:12 | 被爆二世・戦争などのこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
06-04 Sat , 2016
6月4日
6月4日は虫歯の日、でもあるらしいが、天安門事件の日、である方が重要だと思っている。

この日は今から7,8年前から意識するようになった。が、この日にその関係の日記を今まで書いたことがないのは、だからといって何を書いていいのかすら分からなかったからだ。今も正直なところ、よく分かってない。大雑把に「中国の民主化運動」ってことくらいは知っている。この事件が起きたのは1989年で、わたしは当時大学2年生だったから、リアルタイムで覚えているのは確かなことだが、なんでそうなったのかはちっとも分からない。なので6月4日が来るたびに「今日は天安門事件の日だ」とは思うけど、それ以上に語ることはない。

今も正直全く同じ状況なんだけど、実はこの間「太陽がほしい」というドキュメンタリー映画を観た。この映画は班さんという中国人が制作した中国人の元日本軍「慰安婦」の人たちのことを取り上げた映画だ。中国人の元日本軍「慰安婦」の人たちは朝鮮人元日本軍「慰安婦」の人たちとは状況がちょっと違う。それは朝鮮が日本の植民地だったのに対して、中国は「敵国」だったので、捉えて監禁、その間に元日本軍兵士に強姦された人も多くいる。それ以外に朝鮮人元日本軍「慰安婦」のように慰安所を作られて、その中に入れられた人ももちろんいた。こういった人たちがどのように暮らしているかを丹念に追った映画だった。

中国人元日本軍「慰安婦」のことを取り上げた映画だと言うと、ある一定の人たちはすぐに「反日映画」とレッテルを貼るだろう。しかし、この映画は中国では上映できないそうだ。ある一定の人たちが言うように(というか、最近では中国に対する好感度が地に落ちてしまった日本人からすると、そう思う人たちが圧倒的多数なのかも知れないが)中国が「反日国」であって、中国人元日本軍「慰安婦」の人たちが被害を日本に訴えている「反日」の人たち、であるならば、この映画は中国という国から賞賛されて中国で上映されまくってるはずではないか?しかし、現実にはそういうことにはなっておらず、日本では細々とではあるが上映はできるが、中国では上映できないという。それはなぜか。

それは、中国政府と日本政府の思惑によって、中国政府から元日本軍「慰安婦」当事者の思いが抑えつけられているからだ。

この映画の中に元日本軍「慰安婦」だった人が「自分はこういう目に遭った」と中国で記者会見をしているシーンがある。その場面で軍なのか警察なのかはよく分からなかったけど、とにかく「政府側」の人たちがいきなり部屋の中に入ってきて「何をしてるんだ」と記者会見を止めるシーンがある。

もう一つ。元日本軍「慰安婦」だった人がカメラの前で「被害を訴えることが反逆罪になっても構わない。もうこんなに歳を取ってしまって先は長くないのだから」のようなことを言うシーンがある。

中国は「反日」国家だとしか思ってない人たちには「中国で日本から受けた被害をおおっぴらに言えないなんて信じられない」と思うだろう。かといって、わたしがこういうことを書いているのは、中国の肩を持って「中国は『反日』ではない」と言いたいわけではない。「反日」とかそうじゃないとか、○か×のようなそんな単純なことが言いたいわけではない。そこには個人の被害の訴えとは違う、国の思惑、というのがあって、そういうのがあるから現実はとても複雑になっているのだと言うこと。元日本軍「慰安婦」の人たちは中国人民からも貶められていて、とても肩身の狭い思いをして生きてきたということ(その国の一般の人たちに貶められているのは中国だけじゃなく韓国でも同じ。そして日本ではそれがあるから怖くてほんのごく一部の人しか「自分は『慰安婦』だった」とは言えなかった)。そして、政府同士や人民が誰も彼女たちのことを考えていないのだったら、「これをなんとかしなきゃ」と思った日中の市民同士が連帯しなければならないということ。

映画の中で何人もの中国人元日本軍「慰安婦」の人たちが出てきたが、今は誰一人生きてはいない。中に一人、'90年代から被害を訴えている人がいて(といえども、その人は自分の「直接の被害」を訴えてはいない。もちろん、この人も元日本軍兵士から監禁されて強姦された当事者だ。しかし、その人はそのことを問題にしていたんじゃなくて、実は別の殺された子供に対して繰り返し繰り返し「かわいそうだったから謝れ」と言ってるんだよね。なぜこの人は自分のことは問題にしないのかというと、おそらくこれを認めると、このおばあさんは自分の人生やりきれなかったから、真正面から受け止めたら壊れてしまうからじゃないかとわたしには思えた。そこには複雑な人間の心理状態、というのが現れていると思った)、その人は最初、本当に「日本(日本人)」というものが許せない、というものすごい厳しい表情や口調だった。

しかし、約20年に及ぶ撮影で、この人は死ぬ間際のインタビューがあるんだけど、そのときに言うんだよね。「日本の友だちのためにまだまだ自分は負けていられない」って。亡くなる直前の映像で本当に弱った状態だったし、こんな状態で自分を作ってはいられないだろうと思うので、この発言はこの人の本音だったと思う。結局、日本で裁判を起こしても訴えは通らなかった。中国で被害を訴えようとしても上から抑えつけられる。中国人民からは差別される。この人は生前、何一つ報われなかった。だから、本当は「よかった」って思っちゃいけないんだと思う。けど、わたしは亡くなる間際の「日本の友だちのために」という言葉を聞いて、ちょっとだけ「よかった」って思ったんだよね。

まぁそんなわけで、現実って言うのは○か×か、という単純に二分割できるほど簡単なものではないのだ、ということがよく分かる映画だった。

で、なんで6月4日にこの映画の紹介をしたかというと、まぁもう分かると思うけど、この映画の中で「なぜ天安門事件が起こったか」ということも少し触れているからだ。そしてこの映画が中国では上映できない、ということを聞いて、まだまだ「天安門事件」は続いているのだ、ということが分かったからだ。

いい映画だったので、機会があったら観て欲しいと思う。
23:44 | 被爆二世・戦争などのこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
05-11 Wed , 2016
アメリカ・オバマ大統領が被爆地「ヒロシマ」を訪問
昨日の夜にこのニュースが流れた。おそらくほとんどの「日本人」は「喜ばしい」と思うだろう。
が、わたしは素直に「喜ばしい」とは思えない。その理由をいろいろ考えてみたが、うまくまとまらない。

でも、そのような気持ちを端的に言い表してくれている詩を思い出した。
----------
〈ヒロシマ〉というとき
〈ああ ヒロシマ〉と
やさしくこたえてくれるだろうか
〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉
〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉
〈ヒロシマ〉といえば 女や子供を
壕のなかにとじこめ
ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
〈ヒロシマ〉といえば
血と炎のこだまが 返って来るのだ

〈ヒロシマ〉といえば
〈ああ ヒロシマ〉とやさしくは
返ってこない
アジアの国々の死者たちや無告の民が
いっせいに犯されたものの怒りを
噴き出すのだ

(中略)
〈ヒロシマ〉といえば
〈ああヒロシマ〉と
やさしいこたえが
かえって来るためには
わたしたちは
わたしたちの汚れた手を
きよめねばならない
---------- 
超有名な、栗原貞子さんの「ヒロシマというとき」という詩だ。
全文切り取るのは、ちょっとまずいかなと思って一部のみ紹介した。が、もちろん「ここの部分を読ませたい」というところをわたしが切り取ったわけだから、かなり恣意的な作業が入っているとも言えるだろう。元の詩を読みたければ、是非「ヒロシマというとき」で検索してみてください。本人が許可を出して掲載している、というサイトが一番上に見つかるだろう。

栗原さんは被爆者だ。日本の行った加害行為については考えていない被爆者が大半の中、この人は日本の加害行為についても言及したし、日本に住む被爆者以外の、外国に住む被爆者のことについても目を向けた人だ。

この度のオバマ大統領の「ヒロシマ」訪問をただただ「ああよかった」としか思わなかった人は、ではなぜヒロシマとナガサキに原爆が落とされたのか、そこから考えて欲しい。

あるとき突然、エノラゲイが広島上空に原爆を落としていったわけではない。
12:14 | 被爆二世・戦争などのこと | トラックバック(0) | page top↑
11-08 Sun , 2015
真実は一つじゃない
真実は一つだ、って思ってたときがあった。と言ってもそれは「わたしにとっての真実」であり「あなたのとっての真実」ではない。そこまでは分かってた。でも最近、自分の中であっても「真実とは一体なんだろう?」って思うことがある。自分の置かれた状況と気持ちが複雑すぎて、何が「自分にとっての真実」なのか、自分は一体どう考えるべきなのか、それが全く分からないことがある。

ちなみに。「あなたの真実」というのがいつも正しく、そこに対して誰も何も言えないかというとそう言うわけではない。なぜかというと誰にとっても「事実は一つ」だからだ。だから「あった」ことを「なかった」ということは、それは真実どころか事実でも何でもなく、それに対しては「あなたは間違っている」としか言いようがない。もちろんわたしが「あった」ことを「なかった」として「それが真実である」、としたときも当然わたしは間違っている。そのことは前置きの一つとしてあらかじめ書いておく。

さて。この夏は戦後70年だったってことで、その時期にいろんな催し物があったのだけど、わたしもその中でいくつか興味あるものに参加した。まぁそれ以前にその数ヶ月前に元日本軍「慰安婦」についての勉強会に参加したことがそもそものきっかけになっていたりする。その勉強会は全く知らない人に向けての勉強会だったので、とてもためになった。今まで元日本軍「慰安婦」関係の本は何冊か読んだことがあるのだけど、本を読むよりずっと分かりやすくて細かい話も頭に残っている。その後、公開された「『記憶』と生きる」という元日本軍「慰安婦」の人たちを撮影したドキュメンタリー映画を観たりしたので、わたしはまず、8月14日に行われた「戦後70年 東アジアフォーラム-過去・現在・未来-」というイベントに関心を持った。

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イベントを聞いてて感じたのは「これは、初級向けの内容じゃないじゃん!」ってことだった。まぁこういう話に初級も中級もないとは思うけど、全体的に話がとても難しくて、前提条件として「歴史を知っている(加害行為と言うよりも、その後の戦後補償の歴史など)」ということだったので、そういうのはほとんど知らなかったわたしには理解すると言うよりも「なんじゃこりゃ」という思いが強かった。しかし基調報告の中で「日本の外務省は、当時の連合軍捕虜の人たちを毎年何人か日本に呼んで、その人たちに毎年公式に謝罪している」ということが話されたんだけど、わたしはこのことを初めて知った。てか、巷でそのようなこと、今まで聞いたことありました?そしてその都度報道されてましたっけ?

2010年から年に2回ほど(当初は2回以上ある年もある)、元アメリカ軍兵士と元オーストラリア軍兵士を日本政府が招聘し、その中で毎年、外務大臣が公式に彼らに謝罪をしているらしい。わたしはそのことを聞いてすごくびっくりした。そしてそのことはわたしの中で妙に頭の中に残った。

このときは「東アジアフォーラム」での話だったので「こういうことがある一方、元日本軍『慰安婦』の人たちにはそのようなことは全くない。これは差別としか言いようがない」、そんな感じで出てきた話だった。

次に「話を聞いてみたい」と思ったイベントは、韓国・朝鮮人元BC級戦犯の人の話が聞けるという、むさしの平和のための戦争展「朝鮮半島と日本」というイベントだった。失礼ながら、そういう人たちがいらっしゃることをわたしは全く知らなかったし、おそらく今回の機会を逃すと聞くことは出来ないだろう、そう思ったから行った。

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てっきり元BC級戦犯の人だけの話が聞けるのかと思いきや、その前に「『戦後70年』・未解決の戦後補償を考える」という題での講演があり、またその話が前回の「東アジアフォーラム」よりも数段上の話で、なんだかもう本当に知らなかったことばかりだったし、今まで考えたこともないような「横断的」な戦後補償の話だったので、妙に感動して帰ってきた。わたしの中では今までは「補償問題」って元日本軍「慰安婦」の人たちとか、あとは在外被爆者の人たち、どっちかというと外国(っていうか、そのほとんどは日本の元植民地であるというイメージなのだが)から日本に向かってのこと、というイメージが強かった。国内でシベリア抑留されていた人たち、その中で亡くなった人たちのことのことが最近、話が動き出したことは少し知ってたんだけど、そういう人たちとか、それどころか日本で空襲に遭った民間人とかそういう人たちまで「戦後補償問題」に入ってるとは思いもしなかった。そしてその中にも元連合軍の捕虜の人たちの補償問題が入っている、ということ、そして何より元BC級戦犯というのは、戦争中の捕虜の扱いに関する「人道的な罪」によって極東裁判で死刑になったり懲役を科せられたりしてた人たちのことだ、ということをそのとき初めて知った。ちなみにこのとき元BC級戦犯として話をして下さったのはここで少し触れたんだけど李鶴来(イハンネ)さんという人だ。そう、わたしこの「若者から若者への手紙 1945←2015」という本を読む前に、直接、李鶴来さんからの話を聞いてたんだよね、偶然。

この戦後補償の話を聞いて思ったんだけど、戦後補償のことについていろいろ運動している人たちは、実にいろんな人たちを横断的に見ていて支援しているんだってことだった。元日本の植民地だった人たちだけじゃなく、元連合軍の人たち、そして今日本に住んでる日本人の人たち。あの戦争で被害に遭った人たち、すべての人に対して「国は補償すべきだ」と思って活動しているんだなと思った。なんかわたし、それがとっても新鮮だったんだよね。これまでに補償に対してどういう運動をしてきたかの説明もあったんだけど「わー、すごい」って単純に思った。司法だけでなく立法や行政、すべてにアプローチしている。どういう「立場」の人だったかは全く関係がなく、「被害者」という一点ですべて共通している人たちを支援している。しかしその運動の結果の動きを見ると、政府は補償する相手を選んでいる。誰にも何も補償していないわけじゃない。「何回謝罪すればいいのか」と言うことなく何度も謝罪している相手がきちんと存在する。一方、「当時は日本人だったから」と言って罪だけ償わせて、勝手に日本国籍を剥奪した挙げ句「今は日本人じゃないから」ということで補償は全くしていない人たちもいる。「何度も謝罪を繰り返すことは未来志向ではない」ということで切り捨てられる人たちもいる。そこに「差別」が厳然としてある。今までその「差別」の部分だけ見えてたんだな、わたしはそう思った。このことを知っただけでもわたしの世界は随分広がった。

で、これからが本題。あるときなにげに開いたウェブサイトから偶然に「元連合軍の捕虜の人で、日本に連れて来られて強制労働させられた人たちの話を聞く会がある」ということを知った。日本の外務省が毎年、何人かの元連合軍捕虜の人たちを日本に呼んで公式に謝罪しているという、それだ。そのことを知ったときに「そういう人たちの被害の話を聞いてみたい」、そのことを真っ先に思った。直接被害を受けたという人の話は、あと数年すると一生聞けなくなってしまうのだ。でも、そういう人たちがいる、と言うこと自体、8月14日の東アジアフォーラムに行っていなければ知らなかっただろう、元BC級戦犯の人の話を聞かなければ、その被害者の人たちの具体的なイメージも湧かず、たとえそのウェブサイトでそんな交流会があると知ったとしても、絶対に自分のアンテナには引っかかってこなかっただろう。そういう意味では一つ何かに参加してみたことが、次々に思いも寄らない方向に繋がっているんだと実感した。

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交流会会場に入った途端、すごい違和感を感じた。そこには英語が飛びかっていた。なんとなく英語が飛びかう空間って「陽気」なイメージがあるのだ、わたしには。とても「被害の話」がされるような雰囲気には感じられなかった。それって多分、自分が知らず知らずのうちに身に付けた「英語」のイメージなんだろう。そして、これはそのときまでになんとなく薄々感じていたのだけど、「戦勝国」でありながら、敗戦国の被害者である、ということが、わたしには複雑に感じられて仕方がなかった。いや、頭では分かる。国が戦争に勝つことと、自分自身が戦争の被害に遭うことは関係がない。関係がないことは頭では分かっているのになぜかとても違和感がある。そしてもう一つ。わたし自身は被爆二世で、アメリカが広島に原爆を落としたからこそ、自分はある意味、その「被害者」でもある。あ、今回来日したのはすべて元アメリカ軍兵士の人たちね。もちろん彼らが直接落としていないことは明らかだ。国と個人は次元が全く違う。そこのところは切り離して考えなければならない。そう、そのことは頭の中では分かってる。けど、心はなぜかとても複雑だった。しかし、その複雑さというのはこういう場面でもない限り滅多に味わうことは出来ない。わたしは自分の中でその複雑さに対してかなり興味深かった。こう表現することは語弊があるかも知れないが、実に「面白かった」。そしてその違和感は、会が進むにつれ大きくなっていった。

交流会が始まった。被害者の元日本軍捕虜たちの人はみな90歳を超えていて、みな家族や身内の人たちと一緒に来ていた。中には自分が話さずに、身内の人が代読する場面もあった。全部で9人の人たちが来ていたんだけど、最年少が90歳、最高齢が97歳。中には車いすの人もいた。

一人一人が自分が受けた被害について話す。あらかじめ用意した紙を見ながら話す人、紙など見ずに、それでも何年の何月何日にどこでこういうことがあって、その結果どういうことがあって、ということを蕩々と述べる人。いろんな人がいた。中に1941年12月8日の真珠湾攻撃の日から捕虜になった人が数人いて(当時の北京のアメリカ大使館を警護していた人たちが逃げる途中で捕まったらしい)、自分の中で「捕虜として捕まる」というイメージがなんか全然違っているような気がした。あと「自分は生き延びることが出来たのは神のおかげである」と神に感謝している人たちも結構いた。それから「空腹で仕方がなかった」ということを訴える人がほとんどだった。

当時の日本軍に対して何をされたかということについて具体的に言うのかと思いきや、「殴られたのはこういうことをしたときのただ一度きりで、それ以外は言うことに従っていれば何もなかった」という話や、逆に「労働の行き帰りに通る道になっていたマンゴーがすごく熟れていたときに、食べることを見逃してくれた兵隊がいた」という話もあった。戦争が終わって国に帰ったあとに妻と出会って子どもが出来て、とか、国に戻ったときに妻がちゃんと待っていてくれたとか、そういう家族に関する話も多かった。あと「軍でこういう働きをしてこういう功績を残し、表彰された」とか、なんというか、、、あと「日本人のヒーロー的な存在が自分の中にいる」って話した人もいた。その人は真珠湾攻撃の際に成功して「トラ・トラ・トラ」って打電した人。あとで質問時間の時に「なぜその人があなたにとってのヒーローなんですか?」と質問があったんだけど「勇気ある行動だったと思うから」って答えていて、わたしは逆に変な気持ちになった。なんか違う。うーん、なんというのか、本当の気持ちを言っていない、ようにも受け取れる。変に日本に対して「配慮」しているようにも思われる。しかし、穿った見方かも知れないがそれは「戦勝国」の人だから?いや、そうではなく「本音」を言うのはとてもつらいことだから、話せないのでは。。といろんなことを感じた。

それは質問時間に「ヘルシップ(地獄船の意味で、わたしは今回初めてこれも知ったのだが、日本に運ばれてくる船での彼らの扱いはとてもひどく、最終的には1坪当たりに7、8人という感じで押し込められ、それこそ身動きが一切出来なかったらしい)での話を聞かせてくれ」という質問があったときのことだった。誰が答えてもいいと言う質問に対しては、発言したい人が手を挙げて発言するのだが、この質問についてはまったく手が挙がらず。しかも「あなたたちは知らない方がいい」という人もいた。この発言は「配慮」とも受け取れるし「そのことは話したくない」ということにも受け取れる。結局、わたしだって複雑な気持ちだったが、彼らだって複雑な気持ちなんだろう、そう思った。だからこそ「その後は幸せだった」と強調したくなるのではないか、とすら思った。

一番驚いたのは日本では敗戦後の新憲法で「憲法9条」、すなわち「戦争放棄をしたこと」が憲法で定められたことを知っているか、という質問に対しての答えだった。元捕虜の9人のうち、そのことについて知っているのはたったの4人。同伴した家族、年代はちょうどわたしと同じくらいの人が多く、主に40代の人たちと思われたが、その人たちですら知っていたのは半数以下。元捕虜のうち知っている人の家族は知っている、という感じだったけど、中には「そんなこと全く聞いたことがないわ」という、わたしくらいの年代の人がいた。これにはすごく驚かされたし、会場内でもどよめきが起きた。日本に憲法9条があることを、日本はもう戦争をしないと70年前に誓ったことは、全く「世界の常識」ではなかったのだ(アメリカ=世界、でないのは分かってるけど、敢えて)。如何に今まで「日本には憲法9条があります」と世界に訴えて来なかったのだろう、わたしたちはその努力を怠っていたのだ、と思った。

が、そうなのだ。この人たちは「退役軍人」なのだ、って、彼らの話を聞きながらちょっとずつ思っていたときのことだった。「アメリカの退役軍人」、、、何かとても複雑な気がする。と思ったら。最後の最後に「原爆を落としたからこそ、戦争が早く終結したと言うことを理解して欲しい」と発言した人がいた。

その瞬間、わたしはちょっと頭を殴られたような感じがした。その言説がアメリカ内にある、特に退役軍人の人たちにとっては根強いものである、ということはもちろん知っていたが、わたしはこのことをまともに誰かから直接言われた経験はなかった。そしてこの言説についてわたしは、ある意味一種独特の考えを持っている、というか、よく分からないところがある。よく分からない、というのは、この発言を聞いて「その考えは許されない」と激怒する人たちがいる、それは主に被爆者の人たちである、ということだ。わたしは二世であるにも関わらず、身内があの原爆で亡くなっているにも関わらず、実はなぜ「その考えは許されない」ものであるのか、よく分かっていない。

戦争が終わったのは8月15日だ。これは事実だ(「ポツダム宣言受諾日」は8月14日で、「降伏文書」の調印は9月2日だけど)。

だから、8月16日以降に特攻する予定の人たちは助かった。8月15日に戦争が終わったから特攻せずに生き残れた、という人の話は今までたくさん読んだことがあるし、その日以降の空襲もなかったから、その日以降空襲で死んだ人はいない。8月15日に戦争が終わったから、死ななくていい人が死なずに済んだ、ということはある。

が、問題は「原爆が落とされたことによって8月15日に戦争が終わることになったのか」なんだけど、これは本当のところは誰にも分からない、というか、「本当のところって何?」と思う。15日に戦争を終わらせたい人たちと終わらせたくなかった人たちがいた。それまで中立宣言をしていたソ連が8月9日に参戦した。8月6日と8月9日に原爆が落とされた。日本各地で空襲があった。そのどれ一つ取って「このことが100%の原因で戦争が終わった」ということはないだろう。どれもが戦争が終わった原因たり得るし、そのどれもが100%戦争終結の理由にならない、ということも有り得ない。原爆投下だけを「戦争終結の理由ではなかった」とは言えないだろう。だとすると「原爆投下も戦争終結の一因であった」としか言えないのではないだろうか。だからわたしは「原爆投下したことが戦争の終結を早めた」という言説を真っ向から否定できない。

被爆者やその家族、原爆で身内をなくした人がこのことに対して猛反発する意味が実は全くわたしにはわからない。「戦争を早く終結させるために殺されたのか」と思うのであれば、では逆に「戦争を早く終結させると考えられていない、その他の空襲などで亡くなった人はどう考えればいいのか」と思ってしまう。人が一人死ぬ、ということは、そこには意味づけなどなーんもないと思っている。軍人が国を守るという意識の中で敵艦に突っ込んでいって死ぬのも、ジャングルで餓死するのも、空襲で爆撃されて死ぬのも、原爆によって一瞬の内にこの世からいなくなるのも、「水をくれ」と言いながら死ぬのも、「死」という意味ではみんな平等だ。誰の死が尊くて、誰の死はそうでなかったか、なんてことはないのだ(そしてもう一つ踏み込んで言うと、戦争で亡くなった人たちは言い方は悪いがみんな「犬死に」だと思っている。誰一人「死にたい」と思って死んだ人はいない。みな国によって無理矢理殺されたのだ)。そう考えると「なぜ、原爆投下が戦争を早く終わらせるという言説に問題があるのか」と思えてしまう。

ただ「戦争の早期終結の原因は原爆だった」と考えることがまずいことになるのは、「だから再び戦争に原爆が使われる正当な理由になる」、この一点だけだと思う。それは「再び自分たちのような目に遭う人が起きないように」と思っている被爆者や二世の人たちにとっては特に許せないことになるだろう。

が、わたしはそうは考えない。あ、もちろんわたしも「再び原爆が投下されるようなことがあってはならない」と思ってますよ。しかし、その理屈は上のようなものではない。確かに太平洋戦争において、原爆投下は戦争の早期終結に繋がっただろう。しかし、そうであったとしても、もう二度とそれを理由として原爆を投下してはいけない、そう考えている。人間は「自制心」というものを持たなければならない。いくら誰かが憎くてその人を殺したいと思ったとしても、その人を殺してはならない。それと同じだ。人間である以上、一定の「自制」必要で、「自制」はこのような場合にこそ使われるべきなのだと思っている。それが今のところのわたしの考えるところか(しかしこの考えだと核兵器は「抑止力」にならない、ということになるんだよね。持ってたとしても「使えない」んだから。ということは「核兵器は抑止力だ」と思っている人たちには「使わない」という自制心なんてものはないと考えられる。「使わない」という自制心を持たないアンタらは本当に「人間」なのかね?と言いたい)。

そう。わたしは「原爆投下が戦争を早期に終結させた」、この言説はある一定程度「真実だ」と思っている。頭の中ではそういう結論が出ている。しかし、自分の目の前で「原爆投下は戦争終結を早めた。それは理解して欲しい」その言説を聞いたとき。それは発言した人にとっては「真実」なんだろうと思った。そしてわたしだって一定程度「真実だ」とは思っている。しかしそう思っていても、「理解」していたとしても。気持ちはものすごく複雑だった。ともすれば「理解」などできないと思った。なぜなんだろう。なぜ自分はこんな気持ちになるんだろう。とても不思議に思った。それはやはりわたしが「被爆二世」だからか。身内に原爆で亡くなった人がいるからなのか。自分の気持ちが複雑すぎて、言葉では到底言い表せなかった。なんて考えていいのか全く分からない。このような状態になるのはなぜなんだろう、いっぺんにいろんな気持ちや思いが出てきて、頭が本当に混乱した。そしてそのようになる自分の現象がとても興味深かった。なかなかこんな状況になれるもんじゃない。その後、数日間はそんな感じだった。頭がクラクラしていた。

そして思った。その発言をした人は、中に原爆で身内を殺された人がいたと知っていてもその発言をしたのか。決めつけては悪いのだが、おそらく彼らは原爆のあのキノコ雲の下で何が起きたかおそらく知らない。だって憲法9条のことだって知らなかったんだもん(覚えてるけど、この発言をした人も9条のことは知らなかった)。しかし、原爆投下当時日本にいた彼らは、もしかしたら自分の上でその原爆が落とされた可能性があったのだ。現に原爆で亡くなったアメリカ人捕虜の人は存在する(偶然だが、11月4日の東京新聞朝刊にその記事が載ってた。丸木位里・俊さんの「原爆の図」の中に「米兵捕虜の死」という絵がある。その前で退役軍人が号泣したという話だった)。「原爆が戦争終結を早めた」という言説は特に問題ではないとわたしは考えているが、少なくとも、このような事実を知った上での発言だったら、もしかしたら少しは印象が違っていたのかも知れない。

あと一つ。わたしは今まで気が付かないうちに「被害者のイメージ像」というのを持っていたんだなあと改めて気が付かされた。今までは圧倒的に「被害者」=「この日本で差別されている人たち」だったから。この中にはもちろん性的少数者も含まれるよ。そういう人たちのイメージは共通していて、今までわたしは違和感を感じたことはない。けどもそのことは同時に自分の中で格差をつけていることにならないか。もちろん、相手のことがあってではあるけど、なぜかこの交流会では「被害者」という感じが薄かった。それはいいとか悪いとかじゃなく、被害者はこうあるべきだとかそうじゃないとかではなく。でも多分、それは「格差」じゃないのかも知れない。「立ち位置」と考えた方がしっくりくるのかも知れない。でもやっぱり彼らは「被害者」であることには変わりはない。なのになんでわたしは違和感を感じてしまうんだろう。。

そんなこんなの交流会だったんだけど、でも、話が聞けたこと自体はとてもよかった。会の締めの挨拶に代表の人も言ってたけど、特に全く知らなかった「ヘルシップ」についてはもっと知らねばならないと思った。わたしはこのことについては本当に全く、その言葉すら知らなかったからね。ちなみに「東アジアフォーラム」で基調報告した人と、この会の最後の締めの挨拶をした人は同じ人でした。こうやって「戦後補償」全般に関わってる人なんだなあ~。本当にすごい人だなあ~って思った。

戦争被害者については、いろんな分野にたくさんの人たちがいる。わたしは今のうちにもっともっといろんな人たちの話が聞きたい。きっとこれが最後の機会となるだろう。そうしたら、わたしはもっともっと今以上に複雑な気持ちになるかも知れない。でも、戦争って、物事って多分、そういうことなんだ。一つの「事実」があらゆる「立ち位置」から見ることによって、全く別の「真実」があるはずなのだ。いろんな人の「真実」を見た上で、わたしは自分にとってどんな「真実」を得るんだろう。今のわたしはそんなことを思っている。
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09-22 Tue , 2015
若者から若者への手紙 1945←2015
このカテゴリの日記が続くね。でもこれはちょっと書いておきたかったことだから。

この本は「ころから」ってところから出てる本。わたしはこの本を図書館で借りて読んだ。と言っても割と出たばかりの本なので、読みたい人がたくさんいたみたいで、予約してたんだけど。で、順番が回ってきて借りられたわけ。

それがちょうど安保法案の採決への動きが激しくなってきたときだった。借りられる期間は2週間あるのだが、他の本の兼ね合いとか、家を出てて本が読めなかったりして、この本の大部分を読んだのは、ちょうど横浜であった地方公聴会が終わった日(9月17日)だった。そして翌々日未明に法案は可決されてしまった。

この本は1945年(終戦時)に若者だった人たちからの戦争に対する証言、その証言を読んだ今現在の若者が、1945年当時の若者だった人たちへの返事、という構成で成り立っている。確か全員で15人だったか(それに対する返事も15人)。証言者はいろいろな人たちだ。東京大空襲で家族を失った人、中国で何をやったかを話す人、広島の被爆者で顔がケロイド状態になって長く家から出られなかった人、フィリピンに行って飢えに苦しんだ人、731部隊に所属していた人、長崎で被爆者の看護をした人、沖縄の離島から離島に強制移住させられた人など。一般に言われる被害者もいるし加害者もいる。

わたしは「この法案では日常に巻き込まれるほどの戦争はそう簡単には起きないだろう」、そう思ってたんだけど、でもこの中でその当時教師をしていて、子どもたちと一緒に田舎に疎開した人の話の中で、真珠湾攻撃が起こった日(1941年12月8日)、朝、家を出るときに空を見上げて「この青い空の一体どこで戦争をしているんだろうと思った」という文字を読んで震えが止まらなくなった。今の、今までの平和な暮らしはどこまでも永遠に続く平和じゃなくて本当に薄氷を踏むようなものだったんだ、そう思うととても怖かった。

この教師のお父さんはこの日、真珠湾で戦争を仕掛けたことを新聞で知り「アメリカと戦争をするなんて、なんて馬鹿なことを」と叫んだそうだが、きっと少しの知識を持っていれば、そういう考えを持てたんだろうと思う。そしてそれから終戦に至るまで、こういう考えを持っていた人たちはどのように考えながら過ごしたんだろう。「勝てるわけがない」と思いながらも戦争に協力したんだよね、多分。

その一方、この時代に教育を受けた人はバリバリの軍国少年で、そういう人たちは「日本が負ける」とは信じてなかったし、戦争が負けて終わったと知っても、直後に戦争が終わって嬉しいとかそういうことは全く思わなかった、らしい。全部が全部ではないけど。「日本は勝つ」としか思ったことがなかったんだから、負けた場合のことなんて考えたこともない、そういうものだろう。改めて「教育」の恐ろしさを感じる。

あと印象的だったのは、一般に「加害者」って呼ばれている人たちは、どんなに冷酷無比なことをしていても全然そう思ってない、自分がどんなに恐ろしいことをしているかが分かったのは、もっともっと先のことなんだってこと。自分の罪に苛まれている加害者って、実はとても少数なんじゃないだろうかと思えてきた。確か今年の夏にどこかのテレビ番組で元日本軍「慰安婦」の人たちを取り上げてたのを見たが、そのときに「慰安所に行っていた」という元日本軍兵士の人がインタビューされてた。その人は慰安所に行っていたことに対しても「明日死ぬかも知れないんだから、まさに『突撃一番』です」(突撃一番とは、当時配られていたコンドームの名前)と全く悪びれずに答えていた。今でも「あのときは仕方がなかった」と考えていて、自分が加害者とは思っていないようだった。きっと、そういう人たちが圧倒的多数なんだろう。そして自分の加害を認識していたとしても証言まではする気がない人たちもたくさんいただろう。とすると、こうやって加害の証言を残してくれた人って本当に一握りしかいないってことだよね。それを思うと加害証言をするのもつらかったと思うが、本当に貴重な証言を残してくれて有難うございますと言いたくなる。

そしてわたしはこの本を読んで「戦争ってのは、一人の人の中にでも被害と加害が入り交じったものなんだ」ってことがよく分かった。確かに被害者の度合がものすごく強い人もいる。広島、長崎の被爆者もそうだし、沖縄の離島で強制移住させられた人もそうだろう。特にあの当時は女性には参政権がなかった。あの当時の人たちが「戦争は嫌だ」と思ってたかどうかは知らないけど、少なくとも国政に自分の意志を表明する機会はなかったわけで、そういう人たちの加害者度は少ないと思う。生まれた頃から軍国教育をされて「お国のために戦う。自分は長くは生きられない」と疑いもなく育てられた人たちもある意味被害者だと思う。あと戦地によってもだいぶ違うと感じた。戦争末期にフィリピンのジャングルに送り込まれた人は、そもそもフィリピンに着いたこと自体が奇跡のようなものだし(ほとんどの人は輸送船が撃墜されて沈没して死んでしまった)、既にそこは制海権も制空権もなんにもないところで、ただただジャングルを彷徨って食べ物でないものまで食べてやっと生き残った、という人たちだ。中国に行って中国人を無残に殺しまくっていた、という人たちとは加害度合は少ないだろう。

でも教師はどうなんだろう。疎開先で空襲を受けたりしたので一面は被害者と言えるが、子どもたちに軍国教育をして、その戦争を支えていたのは確かだ。「お国のため」と信じ込ませて戦場に送り込む。それは立派に加害の一面を持っていると言える。だから加害者は何も戦場で戦っていた人たちだけとは限らない。また、この証言者の中には当時植民地だった朝鮮半島の人で、そこから戦場に行って、そしてそのときの行為が「戦犯」だと言われて死刑判決を受けた人もいる(のちに死刑判決は撤回され、生き残れた)。この人は戦争中は捕虜の監視をする仕事だった。当時の日本軍は捕虜に対して過酷な労働とほんの少しの食べ物しか与えなかったから、完全なジュネーブ条約違反に当たるのだけど、そういうものがあるとは全く知らされていなかった。捕虜の扱いが甘いと見られれば、自分が上官からひどい目に遭う。それだけでも加害と被害が入り交じっていると思うが、もっと不条理なのは、戦後、1951年サンフランシスコ講和条約において旧植民地から来た人は「日本国籍剥奪」されたのに、その当時巣鴨プリズンで服役していた朝鮮半島出身の戦犯の人たちは「当時は日本国籍だったから」という理由で、その後もずっと服役をさせられていたということだ。しかもこれだけじゃない。巣鴨プリズンから出たあとは、日本国籍を持っている人であればいろいろ国の恩恵を受けることができた。が、日本国籍を持っていない(剥奪された)人たちには何もなかった。都合のいいときは「日本人だったでしょ」と言われ、都合の悪いときは「だってあなた日本人じゃないでしょ」と言われる。ものすごいひどい話だよね。

でも、こういう人たちだって加害と被害の両面を持っている。でないと戦犯にはならないわけで。しかし圧倒的多数の人は加害者の面を持っていてもこうやって裁かれることはなかったし、この人たちは服役して罪を償っただけでもその罪は消えているのかも知れない。そして当然、「自分は加害者です」と加害証言をしている人たちも100%加害者なわけではない。悲惨な戦場に送り込まれた上でのことだから、その点では被害者とも言える。いろいろな人の証言を読みながら「誰もが被害者で、誰もが加害者だ」、そんなことを思った。

ただし、だからといって「誰もが被害者で、誰もが加害者だったのです」というと、これまた「だからみんなで反省しなければならない」になるからやっかいな問題だ。この考えは、本当に戦争を始めようとした人や、自分は激しい戦場には行かないで、遠くから命令を下していた人たちなどの「加害性」を批判することができなくなる。そうじゃない。一般国民よりもっと悪いのはその当時、国を動かしていた人びとだ。そのことがはっきり追及されなかったので「一億総ザンゲ」になってしまったのだ。一般庶民は物事を動かせる権限は少ない。その少ない権限のうちでの加害、被害なのだ。わたしたちはそのことを忘れてはならないと思う。一番追及されるべき人間は、戦争を始めた当時、国を動かしている人間だったのだと。次に何かがあったときのためにもね。

15人の証言を読んで、わたしが一番印象に残ったのは品川正治さん、という人の証言だった。わたし、これを読むまでこの人全く知らなかったのだけど、戦後、日本の経済界の重鎮だった人らしい。

この人は旧制高校のときに召集されて中国に行った。普通だと旧制高校に行ってたら士官の身分で行けるんだけど、学校でいろいろあって「二等兵で行きます」ってことになったらしい。一二四〇高地で戦ったときに相手の迫撃砲で撃たれて、足にその破片が残ってる、レントゲンを撮ったときに写るって書いてあった。その後、戦争が終わった3ヶ月後に俘虜収容所に入れられ、5ヶ月後に復員船で日本に帰れたのだが、この人の証言で一番印象的だったのがこれだった。

1946年4月、やっと山口県の仙崎港に復員。上陸を待つ間、船の中で配られた新聞に「憲法草案」が出ていました。九条二項の「国の交戦権を認めない」というところ、最初は信じられなかった。だが、別の新聞にも同じことが書いてある。ぼくの部隊の人たちは、それを読んで全員泣きました。俘虜収容所で「われわれのこれからの生き方は、二度と戦争しない国をつくれるかどうかだ。でなければ死んだ戦友の魂が浮かばれない」と話し合ったのだから。しかしまさか、国家の成文憲法にここまではっきりと書いてくれるとは……。これがぼくの日本国憲法との出合い、一生忘れられない出合いなのです。
ぼくは、かつては「国家が起こす戦争」を前提に、ものを考えていた。でも、戦地で戦争の現実を目の当たりにし、すぐに疑問が湧いてきた。
「いったい誰のために戦っているのだろう」「勝ったとしても日本が幸せになるだろうか、こんなに中国の人を殺して」と。こんな戦争、やるべきではない。国民同士はなんの恨みもない……。
誰のために、何のためにと考えていたら、戦争を起こすのは国家という抽象的なものじゃない。満州にいた関東軍をはじめ、軍の中枢にいる人たちと日本の軍需産業、戦争をやればもうかる連中が仕掛けたのだ、と腑に落ちた。
戦争を起こすのも人間ならば、それを許さず止める努力ができるのも、人間なんです。ぼくは兵隊だったからそれがわかった。将校として戦争に参加し、最高の待遇を受けた人たちがのちに政界、財界の指導者になりましたが、彼らに戦争の悲惨さはわからない。実際に戦闘させられるのは兵隊だからね。



「戦争を起こすのも、そうさせない努力ができるのも人間」。憲法を変えると言っている今ならよく分かります。だれが憲法を変え、戦争を起こさせようとしているのか、今の日本でははっきり見えるから。
政治家も財界人も「日本はアメリカと同じ価値観を持っている」と言って憲法を変えようとしているけれど「憲法で戦争をしないと決めている日本と、絶えず戦争をして軍需産業が国を支えているアメリカとは、価値観が違う」とはっきり言えば、ベルリンの壁が崩れる以上に画期的なこと。言い切ったら、日本がふたたび武装することを心配しているアジア諸国との関係も変わってくる。何よりアメリカも、戦略を変えざるを得ない。
日本が憲法九条を捨ててしまったら、地球上にこの理念はなくなってしまう。しかし二十一世紀には否定できない理念だからね。今や旗はボロボロだけれど、「日本には九条が必要だ」と国民が選びとれば、いっぺんに金色の旗に変わるよ。



この部分を読んだらもう泣けてね。まさしく、今、まさしくわたしたちは憲法九条二項を捨ててしまおうとしている。旗はボロボロどころか穴が開けられる寸前だ。この人が今、生きていたら(この人は2013年8月29日に惜しくも亡くなられています)なんて思うだろうか。なんで人の命は長くてもせいぜい80年なんだろうか。前の戦争を体験した人がどんどんいなくなって、そして戦争を体験したことがない人たちが再び戦争をしようとしている。戦争は古代から繰り返されているけれど、どんどん技術が進んでいっぺんにたくさんの人が殺せる武器や爆弾、落としたあとも生物に被害を与え続ける兵器(核兵器)が開発されている。今や「原子力の平和利用」で各地に原発があり、その上に一発の普通の爆弾が落とされるだけでもどんなに周囲に被害が及ぶか。その被害がなくなるまで一体何年かかるのか。その間、人は住み続けられるのか。もうそんな時代になってしまった。

そして兵器を開発するのは抑止力のためではなく使うために開発されているのだ。開発するためには厖大な金が掛かるし、開発された兵器を買うのにも厖大な金がいる。そういうことで経済を回していっていいのか。経済についてはわたしは全く詳しくはないが、品川さんも書いているように、軍需産業に依存し始めればそこから抜け出すことは難しくなる。アメリカのように戦争をし続けなければ国が保てなくなる。あの法案が通ることで、日本はこの道を歩めることが可能になろうとしている。

この時期にわたしがこの本を読んだのは単なる偶然に過ぎない。でも、あのときに読んだからこそ、わたしはこの本に対して強烈な印象を持った。

証言者一人一人宛てて、今の若者からの返事がある。ほとんどの人が「そのときの状況じゃないので、本当のあなたの気持ちは分からないと思うのだけれど」と書いていた。中に「生きているうちに会いたかった」と書いている人がいた(この本で登場する1945年当時若者だった人たちはこの本が出版される前に既に約半数ほど亡くなられてます)。本当に、わたしも生きているうちに直接話を聞きたかった。だが、本人は既に亡くなられていても生きていたときに語られたこの本を読めば、思うことはたくさんあるはずだ。この本の中には一つの戦争によってさまざまな経験をした人たちがいる。今まで戦争の話で聞いたこともない人たちもいる(沖縄の離島から離島に強制移住させられて、その移住させられた島でマラリアにかかって移住させられた人の1/3が亡くなっていたと初めて知った)。それを知るうえでも是非多くの人に読んで欲しいと思う。

この本、最後に「あなたも手紙を書いてみませんか」と書かれていた。まぁ自分で買った本ではないので実際に送りはしないが、わたしはやはり品川さん宛てに書いてみたい。

「2015年9月18日未明、安保法案が可決され、あなたが『一生忘れられない出合い』と書いた憲法九条二項は効力を失いました。国民に託された旗はボロボロどころかもう穴が開いてしまいました。けれど、わたしはここからこの旗をみんなで金色の旗に変えてみせます」

ここからは蛇足なんで読まなくていいんだけど、この本の中で、中国で加害体験を語った人と731部隊にいて同じく中国の人たちに対して人体実験をした人の加害証言が載ってたのね。その人たちは戦争が終わってから2人とも「撫順戦犯管理所」ってところに送られている。その記述を読んでたらね、「なんかどーも、おじいさんの戦争体験として、わたしが親から聞かされた話によーく似てるなあ」って思い始めたのね。わたしは親から祖父は中国でひどいことをしてシベリアに送られた、そこで徹底的に反省したら認められてもう少しで戦犯になるところを免れた、しかし一番最後に日本に復員してきた、って聞かされてたのね。その「徹底的に反省して許される」ってところがとてもよく似てたのよ、祖父の話と。でもそこは中国であってシベリアではない。祖父はシベリア抑留されてたんだから、シベリアから帰ってきたはずだと。「一体どういうことかなあ」って思い、それでちょっと調べたんだけど、どうもシベリア抑留された人の中の1109人がシベリアから1950年に中国に移送されたらしいのね(Wikipedia「中国帰還者連絡会」による)。そして撫順戦犯管理所に送られてきた人の中に、愛新覚羅溥儀がいると。「ああ、うちのおじいさんもこの1109人の中に入ってたんだ」ってそのとき初めて分かったの。だって祖父は1990年代だったかに「ラスト・エンペラー」というこの愛新覚羅溥儀が主人公になった映画があったのだけど、それが公開されてるときにうちの叔母(祖父にとっては自分の娘、当たり前か)に対して「溥儀君か」と言って、その当時溥儀と一緒にいたって言ってたらしいのだ。わたしはその叔母からその当時、そのことを聞いた。この話は過去に日記に書いたことがあるんだけど。

ただ「日本に一番最後の復員船」は、Wikiを読むと1964年みたいなんだけど、それだと叔父や叔母が生まれたときを考えると計算が合わない。おかしいな~、と思ったら「1956年6月から7月の間に重要戦犯容疑者以外の容疑者たちは管理所内の臨時法廷で「起訴免除、即時釈放」の判決を受ける。」と書いてある(「中国帰還者連絡会」の項)。ああ、なるほど。「危うく戦犯になりそうだった」というのはこれか。祖父はここで起訴免除、即時解放になった人のうちの一人なのだ。ということは、親から聞かされてた「一番最後に復員した」というのはまぁ事実ではないけど、それ以外はこういうことだったんだ。

わたしは祖父と一緒に暮らしたことはなく、お盆とお正月の年に2回、会うだけだった。高校以降は「わざわざ行くのは面倒。それより家族でお正月がしたい」と帰省自体しなかったことも多々あった。だから、祖父に戦争体験を聞いたことは皆無だ。ただ、今、わたしが記憶している「祖父の雰囲気」は、ちょっと口では言い表せない独特のものがあった。わたしに対しては本当に優しいおじいさんだったんだけどね。その「雰囲気」は子どもながらに「そこは触れてはいけない」ように感じていた。まぁでもこれってわたしが本当に小さい頃の印象だから、今じゃ自分の中ではほとんど「おぼろげ」なのよ。だがそれは今思うと多分「加害の事実」に対してではない。「シベリア帰り」が復員後の日本でどういう風に見られていたか。多分わたしが受け取った雰囲気はそちらの方が大きかったのではないかと今、推測する。

そういう点でもこの本はわたしにとって、とても印象深い本になってしまった。
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09-19 Sat , 2015
わたしは忘れない
このタイトルを思い付いたとき、「そういえば、こういうタイトルの小説があったよね」ってふと思い出した。有吉佐和子の「わたしは忘れない」。どういうきっかけがあったのか忘れたけど、最初読んだのは中学生だったかな。結構好きな小説だった。売り出し中のモデルが主人公で、最初は楽しいこと、きれいなこと、でも物を考えることや泥臭いことが大嫌いで避けていた人なのだが、CMの撮影か何かである離島(確か黒島だったっけ?架空の島だと思うが)に渡ったとき、そこに台風が来て船が運航できなくなって島に何日間か閉じ込められちゃうんだよね。で、閉じ込められてる間、いろんなことがあり(これについては具体的には忘れたけど、災害とかいろんなことが起こったと思う)島の人たちがその中で泥臭く、地道に懸命に生きていることを知り、考えが変わっていく、という話だった。多分まだ持ってるはずなので今度読み返してみよう。
【追記(翌日)】ちょっと読み返してみたら、ぎゃー、話が全然違ってた(笑)CMの撮影かなにかで島に渡ったのではなく、いろいろあって傷心な気分で自らその島に行ったんでした。

前置きが長くなった。というか、いい加減、早く旅行記を書きたいと思ってるのだが、どうもその気になれなくてここまで来てしまった。でもこの一週間は自分自身が異様な緊張感を持ってた。特に横浜の地方公聴会があった16日から眠れなくなった。国会で今、どういうことが起こっているのか気になった。「そのとき」が来るのが怖かった。通ると分かってても「そのとき」が嫌だった。だからドキドキして全く眠くならなかった。

ついに通ってしまいましたね、安保法案。まぁこれは「想定内」のことだったので、通ったからと言って特に落胆はしてない。わたしはこの件で国会前を始め何ヶ所かのデモや集会に参加したけど、デモに参加する前は「デモに参加して、何かが変わるんだろうか」と思ってた。よくデモを批判する人たちが「ただ騒ぎたいだけじゃないか。発散させて終わりじゃないのか。そんなことをしても何も変わらない。自己満足に過ぎない」って言うけど、わたしもデモに行く前は確かにそれは言えると思ったし、だからこそデモに参加するのはちょっとねと思ってたし、デモに参加した今も「そういうところもあるかもね」って思ったりもするけど、でもやっぱり何か違うんだよなあって思う。わたしはこれに関するデモや集会にしか参加してないけど、確実に「響くもの」はあったんだよね。

最初はデモや集会に参加して「頭数」となることで、政府与党の議員の中でちょっとは「造反議員」が出たり、内部で異論が出たりすることを期待していた。過去、いろんな問題において政府与党内でも造反議員が出たりってことはよくあったことだし、内部から批判の声ってのも聞こえてくることはあったから。それは市民のデモの成果ではなかったけれども。でも今回、国会前にあんなに人が集まっても、政府与党からは一人の造反者もいなく、内部からの批判の声すら出てこなかった。これはすごく怖いことだと思った。これは決して政府与党が「一枚岩」ってことではない。だって人にはいろんな感じ方があるし、政治家だったらみんな自分自身の考えは持っているだろうし、自分の信念に基づいた行動をしたいと思ってるだろうし、自分の意見は言いたいだろうと思う。外に向けては発信できなくても内部では「やっぱり少しこれはおかしいんじゃないか」って議員間で話されてもおかしくないと思う。そうじゃなくみんな同じこと(強行な採決の仕方は正しいとか、議会運営の仕方は正しいとか、法案は絶対に通さなければいけないとか)を思ってたら却ってそっちの方が怖いよ(笑)完全複製人間じゃん。ロボットじゃん。

けど、そうできなかったのはそれが多分全部封じられてたんだと思う、上からの圧力によって。「異なる意見は言ってはいけない、それが例え内部であっても」という雰囲気に充ち満ちてたんだと思う。異なる意見が言えなかった、行動に移せなかったのはあくまでも自分の保身のため。造反して次の選挙の公認が取れなかったらとか、そういう「自分の保身」のために自分の信念を曲げた議員は絶対にいると思う。「政治家が本当にそれでいいのか」って疑問に思うけど、逆にもう政府与党の中では平気で「言論弾圧」が行われてるんだろう。そう感じて本当に怖かった。

しかも日に日に増える国会前の警察官。カマボコと呼ばれる青い車両(正式名称は知らんけど)が国会前の道路をふさぐ形でずらっと並べられたときは本当にびっくりした。国会前の道路は2回決壊したことがあったのだけど、そういうことが起こると力ずくでさせないように命令する。実際に決壊できないように車を並べる。いくら人が集まっても車をどかさない。結局こうすることは、政府与党に全く余裕がなかったことの表れだと思うが、権力によって抑え込もうとする態度。本当に怖いと思った。過去の自民党というのは、もっともっと余裕があって、そのことが逆に「大きな権力を持っている」という気がしたものだ。今は小物の政治家がなりふり構わずに権力を振りかざしている、そういう印象しかない。

ただ、結果的にはこういう態度が市民の怒りを逆に噴出させることになってあれほどまでになったと思うけどね。そういうことをもし計算できなかったとしたら本当に頭が悪い政府与党と言うしかないし、それは分かっていたけどそういうことは力で抑え込めばいいと思ってやっていたとしたら「民主主義って何?」って本気で思うし怖い。そしてその裏に「どうせ法案が通っても次の選挙までには有権者は忘れるだろう」という考えがあるとしたら、これほど「国民なめんな」って思うことはない(「国民なめんな」コールについては賛否両論あって、わたしは「否」の方なんだけども)。

ということで、政府与党についてはデモや集会によっても「変えることはできなかった」と思う。でもまぁ、これについては「ひょっとしたら」って思う程度でそんなに期待してたわけじゃないから失望感もない。ただ怒りだけは増したけどね。

しかし一方で確実に「響いている」と思ったのは、野党の態度だった。法案採決までできることを精一杯やる、それがこちらまで十分に伝わってきた。確かに法案は廃案にはできなかった。「所詮は引き延ばしではないか」と思われるのも十分に分かる(なんで金曜日24時を越えたのにその後で採決されることになったんだろうって今も思ってるんだけど。当初の言われ方では金曜日24時過ぎれば連休後の週明けになると思っていたのだが)。けど地方公聴会後のあの粘り、そして委員長解任の動議、内閣不信任案動議、各野党の演説を聞いたらね、「ああ、わたしの言いたかったことを国会という場できちんと言ってくれてる、怒りの声を直接言いたかった人に言ってくれてる」、そう思ったよ。特に山本太郎が委員長解任の意見陳述のときに「まず国会議員から、防衛大臣から、総理大臣から戦場に行け!」って言ったけど、わたしはまさしくそれ、そのことを彼らに伝えて欲しかった。あれは本当に嬉しかった。そして彼らにそう言わせているのはこのわたしたちだと感じた。全国で集まって声を挙げている人が彼らを動かしているのだと。これが「間接民主主義」だと。本当に実感した。国会前で直接議員の演説を聞いてるから余計そう思うのかも知れない。国会前の自分たちの叫びが本当に野党議員の耳に届いている、そういう実感があったから余計そう思うのかも知れないけれど。

わたしは普段、国会中継なんかほとんど見ないし、議員がそこでどんな演説をしているか、聞いたこともなかった。面白そうじゃないので聞こうとも思わなかった。しかし、今回、いろんな人が長い長い演説をしたけれど、それが無駄に長いとは全く思わなかった。どの演説も本当に説得力があったし、聞き応えがあった。「フィリバスター」というのは元々演説を引き延ばす作戦で、その中で聖書を読んだり憲法を読んだりして時間稼ぎをする、そう聞いてたけど、そういう意味では「引き延ばし作戦」なんかじゃ全然なかった。「ああ、本来政治家ってこういう演説ができる人たちなんだ」って思った。単純に「あれだけ蕩蕩と淀みなく、理路整然と喋れてすごい」って思った。

委員会の議長解任の動議の賛否の演説はまだ時間制限が設けられてなかったけど、その後、いくつかの大臣の問責決議案などから時間制限が掛かり、本当にあれは信じられなかった。今までフィリバスターはあんまり聞いたことがなかったけれど、牛歩戦術などはかつて野党がやっていたことはわたしの記憶にちゃんとある。それを時間制限の発議で禁止した、なんてこと聞いたことがない。牛歩だってフィリバスターだって、戦術として認められていると言うことは、権力側がそれを「少数側の権利」として認めていたということだ。その対応策として時間制限があるならば、それは戦術とはなり得ないからだ。しかも国会で国会議員の演説に時間制限を設ける、これは今日の安保法案採決の時に民主党の福山議員が言ってたけど、言論の府である国会でそれを行うって、それは自ら言論の府である国会を否定しているに等しい。わたしだって彼らの演説を、彼らがやりたかった、話したかった演説を、話したいだけ話す演説をすべて聞きたいと思っていたのに。そのわたしの権利さえ侵害されたと思う。

しかし中では時間制限を無視して演説を続けた議員たちがいた。「ルール破りだ」というヤジがたくさん飛んでいたけど、何がルール破りだと思った。自分たちはどうなんだ、って。地方公聴会後の締めくくりさえせず、よく分からない採決繰り返して議事録にも採決結果が記録されていない。あれのどこがルール破りではないのか。「やったらやり返せ」はわたしは好きじゃない。だけどこの件に関しては「時間制限」というルールの方がおかしいのだ。そして議長の「時間制限をとっくに超えています。これ以上続けるのであれば発言を禁止せざるを得ません」というプレッシャーに負けずに演説を続けた議員たち、正直言ってあれこそが頑張っている姿として具体的に見えたと思う。山本太郎の一人牛歩だって同じだ。もちろん「あれは次の選挙のために今、頑張っておく姿を見せる作戦だ」という考えもあるだろう。山本太郎に至っては「完全なパフォーマンスでしかない」と思う人もいるだろう。でもさぁ。わたしはあれこそが「デモの成果」だったと思うのだ。彼らは本当に渾身の力を込めて演説をしていた。山本太郎の演説もすごかった。あれは単なる「パフォーマンス」じゃない。見ていて熱意が伝わってきたし「本気で頑張ってる」って感じた。「一分一秒でも採決を送らせたかった」という山本太郎の言葉は本当だろう。本気か、単なるパフォーマンスかは見ていればよく分かるものだ。でも彼らをそうさせたのは、わたしたちも本気だったからだ。

確かに「たったそれだけのためのデモなの?」って思う醒めた人もいるだろうなと思う。けど、今までデモしてて、その効果が目に見えて分かるってこと、なかったように思う(脱原発のデモは効果を挙げたみたいだけど)。それに演説の時間制限でも分かるけど、政府与党は数を力にして次々とめちゃくちゃなことをやってくる。そうしたらできることといったら、もうあんなことしかないじゃない。その他に何ができるというのか。

そういう点ではわたしは時間制限を超えて演説した民主党の議員の人たちはよくやったと思う。逆にそれをしなかった共産党、あと維新の党も入るのかな、なんでなのかなと思った。共産党はやっぱりエリートの塊なのかねえ。それとも党員がそういうことを許さない雰囲気があるのか。そこら辺のことはよく分かんないけど。

あとそうそう、これに関連して言いたいことがあった。これだけ全国の人たちが注目していたのに関わらず、国会中継をしないNHK!!NHKは一体何をやってるんだと。議長解任の動議の日は大量の抗議電話があってなのか全部流したけど、それ以降も内閣不信任案などが提出されていたにも関わらず、まったく中継をしなかった。ネットでしかその様子を見ることはできなかった。これってなんなの?電話で抗議が殺到しなければ中継をやらないのか?毎回毎回「中継してください」って電話掛けなきゃ中継しないの?本当にNHKはおかしいとしか言いようがない。あの野党の人たちの演説を多くの人に見られるのが怖かったのか。政府与党がめちゃくちゃな議会運営をしていることが直接分かってしまうから怖かったのか。上からの圧力で放送できなかったのか。

とにかくわたしが感じた「デモの成果」は野党が頑張ってくれたことだと思う。あそこまで議員の人たちと通じ合っている、そう感じたことは今まで本当になかったから。選挙前にちょっと演説聞いて投票する。でもその後、議員たちは国会で何を喋ってるのか、どういう行動をしているか、全く見えなかった。それが今回、見えたから(ただ、わたしが投票する人はほとんど当選した記憶がないところが悲しい。わたしは特定の支持政党がない完全な無党派層だけど、保守系政党には一度も投票したことがない、いわゆる「革新系」(この言葉は死語だよね)の無党派層であり、毎回投票には行くけど候補者が当選した経験はほとんどない。あ、市区町村議員は別ね)。

そういえばそのことでも言いたかったんだった。「デモに行く前にちゃんと選挙で投票してるのか」みたいな言葉をtwitterなんかでたくさん見たけど、ちゃんと毎回行って投票してるわ!しかし、投票した候補者が通らなかったら、わたしはわたしの意志を表す機会がないではないか。だって国会でわたしの「代弁者」はいないのだもの。

当初、デモや集会に参加しながらも、わたしは「自分がやりたくないと思ったことはしない」って決めてたからコールは一切しなかった。叫ぶことによって自分自身が高揚してコールの先導をしている人たちのことを熱狂した目で見てしまうことを恐れていた。確かに国会前に行き始めた頃はコールしてる多数の人がちょっと熱狂的で怖いなと感じたこともあった。けど、ここ2週間くらいかな。空気がどんどん変わってきたと感じてた。みんな、本気で怒ってコールしてるんだよなあって。誰かに先導されて踊らされてコールしてるわけじゃなく、本当に直接怒りを持って国会にいる国会議員、特に政府与党、中でもとりわけ総理大臣に向けて言ってるんだなあと。確かに「戦争反対」とか「安倍は辞めろ」とか「廃案」というコールは、わたしはこの法律が直接戦争に結びつくとは思ってないし、安倍だけが辞めればいい問題じゃないし、廃案は望んでても無理だというのは分かってた。だからそういうことで納得いかないコールではあるけれど、一人一人の力のない民衆が何か大きな権力に異議を唱えるにはこういう短くて端的なものでないと表せないんじゃないか、そう思うようになった。

それから抗議の声によって野党の人が力づけられている、そう感じたことは大きかった。「野党はがんばれ」と言うことで本当に頑張ってくれている、国会内にわたしたちの声が届いている、そう感じたからこそわたしは本当に最後の最後、行ったときにコールをした。だけどコールしたからと言って高揚感は全くなかった。頭はすごく冷静だった。発散されたとも思わなかった。「そんなものなのかな」って思った。まぁその日は土砂降りの雨の中だったからかも知れないけど。

さて。この法案が通ることは「既定路線」だった。とすると、今後はどうするか。それはもう、次の選挙で自分の意志を示すしかないでしょう(っていうか、わたしはこういうことがなくても毎回投票に行ってるけどね!)。今日の未明にあったことを来年7月の参議院選挙まで忘れない、そのことを「合い言葉」にしなければならないと思う。特に今まで保守系政党に投票したことがあって、この法案に反対だった人はどうかこの思いを忘れないで投票行動に繋げて欲しいと思っている。今まで「誰も入れたい人がいない」と言って選挙に行かなかった人も投票して欲しいと思っている。「棄権」は結局反対票にはならないのだから。

そして野党の人たちには是非選挙区では「選挙協力」して欲しい。去年の選挙でも総投票数は与党よりも野党の方が多い。にもかかわらずこういう結果になってしまっているのは、とりもなおさず選挙区制度の問題なんだけど、だからこそ野党が分散して候補者立てたら絶対に与党には勝てない。是非すべての選挙区において「与党候補者対野党候補者」の一騎打ちにして欲しいと思う。有権者に「自分が投票すれば変わる」と思わせて欲しい。これはかなり難しい問題だと思うけど、是非是非実現して欲しいと思う。比例区は好きな党に入れてもらっても、選挙区では複数候補者立てないでって思う。
【追記】これをアップするまで全然知らなかったんだけど、今日、共産党の中央委員会総会で「戦争法(安保法制)廃止の国民連合政府」の実現が提案されたんだってね。次の選挙で野党の選挙協力を呼びかけたとか。今後注目したい。っていうか、各党、いろんな思惑はあるだろうけど本当に頑張って欲しい。安保法の廃案と集団的自衛権行使容認の閣議決定を取り消したいみたいだから政権取らないとダメだけど、そのためには少なくとも4年後?の衆議院選挙まで待たないといけないってことだよね。今の状態で今の政府与党が衆議院を解散するわけないしね。

来年の7月までの約1年、きっと「戦争」は起こらないだろうと思う。そのときに政府与党はなんと言うか。「みなさんが懸念したように戦争状態にはなっていません。だからこれからも戦争にはなりません」と言うだろうよ。それに騙されてはいけない。当たり前だ。法律が施行されるまでは効力はないし、施行後にすぐに何かコトが起きればそれこそ怖い。そしてその間に軽減税率が実施されることになったとか(既にこの話題は今日の朝刊に載ってたよ)、そういう市民にとって「甘い汁」を少し吸わせておく。まぁそれで「チャラ」だと評価する人も中にはいるだろうけど、それはあくまでも彼らの「所詮有権者はこんなもの」という作戦だということに気が付かなければならない。そういう目先のことに騙されてはいけない。なんてったって、彼らは「違憲の法案」を通したのだから。それが許されていいはずがない。

今日のこの思いを自分の意志にしたければ、「わたしは忘れない」、これは絶対に肝に銘じておかなければならない。
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09-15 Tue , 2015
昨日のこと
20150914 193152


昨日書いたように、昨日は国会前に行ってきた。今回は一人ではなく初めて彼女と二人で行った。

実はわたしは12万人が集まったと言われている8月30日にも行ってて、その日は初めて国会前の道路が開放された日だった。それまではずっと道路と歩道の間には鉄柵がびっしりと置かれて、そこに警官が道路に出ないように監視してたのだ。で、歩道の中が2つに区切られてて、人が集まる場所と人が移動する場所になってた。

ところが30日は人が多すぎてどこかで鉄柵が決壊して道路に出られるようになったらしい。気が付いたらそうなってた。30日はわたしは時間ちょっと前に国会前に着いてたけど、まぁいつもよりは人が多いなあとは思ったが、そこまで多いとは感じなかった。で、今回は入ったことがない憲政記念館の公園に行ってみようかなあと思って中に入ったのだ。そしてそこからいつもいる国会前の北側のエリアの方に向かって歩いてたら、どうもなんかいつもと様子が違う。「どうしたんだろ?」と思って横を見たら道路に人が出てる。「あれれ?今日は道路に行けるんだ」と思って、公園から外に出て道路に出たのね。

だから、30日の時はいつの間にかどこかで何かが起こってそうなったんだろう、としか分からなかった。すごい混み合っていたというイメージも何もない。本当に「あれれ?」という感じ。そして道路に出ると、もう主催者が何をやってるとかどこで誰が挨拶してるなんて全く聞こえてこないの。その日は坂本龍一が来てたらしいんだけど、それは家に帰った後で知ったくらい。周囲ではみんな思い思いのコールしてるし、本当にバラバラ。これから何がどうなるか、いつまでやってんだかとかさっぱり分からない。なので、適当にいたいだけそこにいて帰ってきたのね、30日は。

昨日は国会前に着く前から警官がすごかった。しかし人もすごかった。正直、30日より人口密度は高く感じられた。だからわたしは道路も時機に開放されるだろうと楽観的に思ってた。

いつもどおり国会の北側エリア(集会が行われているところ)を目指して歩いてたんだけど、途中から人がいっぱいで動けなくなった。と言っても後ろから人が来るのか、あと自分がいたところがあまり窮屈だったので前の方に行きたいと思ってたこともあったと思うんだけど、それでも前の方に進んでて、結果的にはステージからは少し遠いけど(だから誰が喋ってるか何も見えない位置だった)、救護車のところよりは前方にいる、という位置に多分いた。途中まで写真を撮る余裕はあったんだけどそれも時機になくなった。

当初から「道を空けろ」という声は出てた。だけどもステージでコールが始まるとそっちに引きずられて「道を空けろ」の声はなくなる。でも自分のいるところは本当に人でぎゅうぎゅうでちょっと空いてる満員電車のようだった(本当の満員電車って足が地面に着かなくなるからね。密室だからそうなるんだけど)。だからステージで誰が何を言ってるなんて全く耳に入らなくなった。そのうちどんどん押されるようになった。「道を空けろ」の声もどんどん大きくなった。わたしも「道を空けろ」ってコールした。実はわたしはこれまで何回も集会やデモに参加してるが、一度だってコールしたことはなかった。まさか初めてのコールが「道を空けろ」だとは思わなかった。この日は大江健三郎が来てて、そこで挨拶したらしいんだけど、そんなの全く聞こえなかった。道路側の鉄柵で挟まれている人たちから「押さないで」という声が聞こえた。っていうか、わたしも鉄柵の方にどんどん押されて鉄柵のすぐ近くまで行ってしまった。そこは歩道と道路の際で歩道との段差があるところみたいで(もちろん見えないから感覚なんだけど)、片足が着かない。すごく不安定な場所。「ここに段差があるから居づらい」と言ったら、代わりに誰かが場所を替わってくれて、わたしは少し中に入れた。その人は屈強な感じの人だったけど両手で大きな旗を持ってて、だからその後ものすごく押されてたときにめちゃめちゃ体勢を崩しててとてもかわいそうだった。。というか、場所を替わってもらわなければ、わたしがあそこにいたんだと思ってとても胸が痛かった。鉄柵の近くから「押さないでください」と言われても、自分は押してるつもりはない。けどどこかから力が掛かって自分の身体が動いてしまう。だからきっと誰かを押してたし、押すなと言われても「無理」としか言いようがなかった。

っていうか、こうなっている原因はただ一つで、それは鉄柵で歩道が囲まれてるからだった。歩道にいる人数がもう飽和状態をとっくに越しているのに行き場がないから人の押し合いへし合いになるのだ。そこにいる警官は人が道路に出ないようにしてて、警官も「押すな」と言っていた。「気持ちが悪くなった人がいます」「倒れた人がいます」と言われたが、その原因を作ってるのは他でもなく道路を解放しない側であって、押したり押されたりしているわたしたちじゃない。国会前の道路は別にそこを通らなければ行くことができないところがある道じゃない。だって国会前の道から国会に入っていく車なんて一台もないのだから。国会前の道はまっすぐ行けば国会だが、国会前で左右に分かれてて、どこかへの抜け道だ。とすれば、そこまで道路を守ることはないではないか。車は迂回させればいいだけの話だ。警官は一体、誰を、何を守っているんだろう?市民の安全ではないのは確かなことだった。

そのうち、どこかの鉄柵が決壊したのだろう。道路に人がどんどん出て来た。だけどわたしたちの前の警官はそれでも封鎖し続けていた。人が押し、押されてうねりがすごかった。そのうねりに乗りきれない人は倒れた。わたしのすぐ横の人も倒れてしまった。超党派議員で結成している「過剰警備監視」って旗を持ってる人たちが近くに来たんだけど、こちらを見て悲惨そうな顔をしているだけで誰も何もしてくれなかった(ようにわたしには見えた)。道路の向こう側の自分はゆったりしたところでこちらの状況を見ている。警官は「押すな」というばかりで開放するつもりはない。けどどこかではもう決壊してて人が道路にどんどん出てきてる。なのにわたしは行き場がない。道に出てる人がどんなに羨ましかったことか。「誰も助けてくれない状況」ってこういうことなんだなあって思った。

目の前にいる警官に思わず叫んだ。「あなたは誰を、何を守っているのですか?」と。周囲は騒然としてたから警官にその声が届いたかどうかは分からない。もちろんわたしだって子どもじゃないんだから警察官は正義の味方でいつも市民の味方だなんて思っちゃいない。いざとなれば市民を抑圧する直接の手を下すのはこういった人たちだと言うことは十分知っている。それでも「何で、誰のために?」とわたしは叫びたかった。わたしは自分が本当にちっぽけな誰からも守られない存在なんだって思い知った。そしてわたしが今立ち向かってるのは巨大な権力なんだってことも本当に実感した。もちろん当の警官だって「自分は何のためにこんなことをやってるんだろう」って思わないことはないと思う。だって彼らの「働き」は誰の何のためにもなってないんだから(決壊したからには権力のためにもなってないだろう。昨日は完全に権力側の敗北だった)。ただ、上からそういう命令が下されてそれが任務になってるだけだ。それは分かるが、既に道路が開放されても「死骸化」した命令がまだ生き残ってる、それを感じてわたしはものすごくゾッとした。

周囲はみんな悲鳴とか思い思いの叫びやコールで騒然として、今はどういう動きをしているのかさっぱり分からなかった。鉄柵の近くにはいたのだけど、鉄柵を開けようとしているのかどうかも見えなくて、誰が何をやっているのかもさっぱり分からなかった。でもそのうち鉄柵がどけられたらしい。どけられたといっても全然見えなくて、どけられたといっても人がそこからすぐに道路に出られるようになったわけではないらしくて、なんだかよく分からなかった。けど、そこにいた背の高いメガネを掛けた外国人らしき人が(この人もその直前押されてぐちゃぐちゃになってたんだけど)「もう大丈夫です。出られます」って言った声だけで鉄柵が破られたってことだけ分かった。

だからわたしはこのとき実感したの。「混乱してたら自分の周囲1mで起こっていることも分からないんだ」って。

そしてなんだかわけが分からないまま、わたしは道路に出た。道路ではあちこちで「安倍は辞めろ」というコールが自然発生的に起こっていた。警官は集団になってどこかに消え去った。分かっていたことだけど、警官は別に市民を守るためにいたんじゃなかった。

しかしわたしはこうも思う。「あれだけ人がいて、あれだけぐちゃぐちゃだったのによく暴徒化しなかったな」って。あとから一人、公務執行妨害で逮捕者が出たって知ったけど、あれも権力側からの「見せしめ」だろう。あとは「暴力的な人がいました」と対外的にイメージを付けるだけの。道路が開放されてからも特に暴力的なことが行われたわけではなく、みんなは思い思いのコールをしてただけだった。まぁ確かに主催者側としては全く統制が取れなかった集会だっただろう。が、本当に平和的な光景だった。まぁそういうのが「日本」ってヤツなんだろうな。それが権力者に有効であるかどうかは別として。

道路が開放されて1時間、わたしはプラカードを掲げてから家に帰った。
12:27 | 被爆二世・戦争などのこと | トラックバック(0) | page top↑
09-14 Mon , 2015
今日は国会前へ
20150914 110921


今日、国会前に行きます。

わたし最近「この法案が通ったら自分の生活はどう変わるんだろう」と思うことがある。多くの人の戦争のイメージは、先の太平洋戦争の「本土決戦」なのかも知れないが、きっとこれからはそんなことにはならないと思う。

(あ、中国とか韓国とかいわゆる北朝鮮が攻めてきてっていうのは、最初から却下ね。あれはどう考えても現実には起こらないような気がする。だって、どういう理由があって日本を攻めてこようとするのかが全く分からないから。尖閣?あんな人も立てない(もちろん住めない)ような岩礁が欲しいと言って中国が日本を攻めるだろうか?あほくさ。日本を占領して中国にしたい?あんな広大な領土を持ちながらこんなちっぽけな島国を攻めて何か中国にメリットある?しかも地震は頻繁に起こるわ、災害は頻繁に起こるわ、火山は噴火するわ、デメリットはたくさんあるのに国土には資源が全くないところだよ、日本列島って。はっきりいってお荷物にしかならんだろうよ、こんな土地持ってても。考えられるなら海洋資源だろうが、これねー、日本近海に資源があるあるってわたしが大学生の頃から言われてるけど、これが開発されて「何かがありました!」って未だに聞いたことがないんだけど。。韓国も竹島のために日本を攻めてくる?日本海を東海って呼びたいがために攻めてくる?(笑)あー、あほくさ。いわゆる北朝鮮に至っては、あそこは韓国は敵だけど日本まで攻め込む余裕があるとは思えないんだけど(この言い方はいわゆる北朝鮮を非常に馬鹿にしていると思うので、あまりこういう言い方はしたくないんだけど)。ってことで、隣国がうんぬんについてっていうのは、ただ政府が馬鹿な国民に対して危機感煽りたいためだけのウソ方便だと思ってるのね、わたし。)

じゃあ政府は何のためにこの法案を通そうとしているかというのは、まぁアメリカのためだってのははっきりしてるよね。だってこの法案は「夏までに絶対に通します」って去年の12月の時点で自衛隊の偉い人がアメリカに対して勝手に約束して来ちゃってるんだし(国会軽視も甚だしい)。それに南スーダンへの自衛隊の派遣の手順も内部資料で出てきたじゃん。結局日本はアメリカの戦争を支援したいから、この法案を通そうとしてるわけです。

確かに反対派の言うとおり、日本が世界で戦争に加担できるようになると敵は増えるだろう。そしてテロの標的にもなるだろう。そういう意味でもしかしたらしばしば日本国内でテロが発生するようになるかも知れない。

けど、多分それだけ。過去のように空襲されたり原爆落とされたりってことは多分ない。だから、わたしの日常生活もほとんど変わらないだろう(運悪くテロに巻き込まれたりしない以外は)。

これって今のアメリカと同じ。アメリカは今まで本土が空襲されたことはない。だから多くの人びとは「戦争はどこか遠い国でやってる」もので自分は巻き込まれない。戦ってくれるのはアメリカ軍兵士。それも大学の奨学金が返済できないから軍隊に入らざるを得ない貧しい人たちが多く含まれている軍隊。ある程度お金持ってたら軍隊には行かなくてもいいし、そういう金持ちの人たちの周囲には貧しくて軍隊なんかに行ってる人はいない。戦ってる人たちは応援するし、国の名誉だと思ってるけど、基本的に殺されても身内じゃないから胸が痛まない。いや、もしかしたら胸は痛まないけど「アメリカがやられた!だからやりかえさなければならない」と思うかも知れない。その気持ちがさらに戦争を拡大していく考えだとも思わないで。

多分日本もそうなるだろう。戦争に行くのは「誰か」で自分じゃない。その「誰か」が勝手にどこかで戦ってくれてる。戦果を挙げれば「日本がやった!」と喜び、「誰か」が戦死すれば「日本がやられた!」と思う。まるでゲーム。自分はぜんぜん痛まない。戦争で「誰か」が亡くなっても「尊い命が失われた。もうこれ以上犠牲が出るのは耐えられないから戦いを止めよう」とは考えない。「こちらの尊い命が犠牲になったんだ。敵にもダメージを喰らわせろ」としか考えられなくなる。でも、自分は平和な日常生活。テレビ見て笑い、映画を観て泣く。音楽を聞いて愉快な気分になる。美味しいご飯をたらふく食べる。これまでとちっとも変わらない。

これが多分、現実。きっと日本政府も「あの法律を通しても大半の人の生活は変わらなかったでしょう?だから、あんなに反対することはなかったんですよ。これからも安心して政府に任せてください」と言うだろう。

もちろんその裏では力のない、声を挙げられない人たちがたくさん犠牲になる。でもそれは見て見ぬフリ。だって生活が貧しいのは仕事しないで怠けてるからでしょ。そんなの自己責任だよね。それに自衛隊に入れば運が悪かったら戦場に送られて戦死するかも知れないけど、生き延びれば給料はもらえるわ、奨学金はチャラになるわ、うはうはじゃん。それって結局「勝ち組」じゃん?貧乏な人はそうすりゃいいんだよ。自衛隊に行かないなんて「甘え」。

きっと日本はこういう世界になるだろう。

そういう世界が来て欲しいか来て欲しくないか。

わたしは来て欲しくないから今日、国会に行く。
12:05 | 被爆二世・戦争などのこと | トラックバック(0) | page top↑
08-06 Thu , 2015
8月6日午前8時15分(69年目の真実)
このブログを始めて10年経ってるが、初めて予約投稿というものをやってみる。
というのは、おそらくこの日のこの時間はわたしは旅行中で、もう電車に乗ってるだろうから。
わたしは、広島から遠く離れた地で、どんな8月6日を迎えているのだろうか。

あの日から70年。
この日は毎年毎年同じ題名で同じようなことを書いているが、今年も同じような内容だ。
しかし、今年はここ数年よりもさらにさらに危機感が増している。
なんか最近参議院での質疑応答やtwitterでの安保法案賛成派の人たちの言ってることを読むと「ああ、この人たちは武力が抑止力とかそんなこと言ってたけど、結局はそうじゃなくて戦争がしたいんだなあ」と思う。だって想定してるのはホルムズ海峡なんかじゃなく、中国が敵国だって首相自らが言っちゃったし、日本が攻撃を受けるかどうか、向こうの意図が不明な場合でも(意図を隠している場合があるから)総合判断でこちらから攻撃できるって言っちゃったじゃん。しかもそれは「先制攻撃だ」という認識もあるらしい。しかも、これらはぜーんぶ「想定」に過ぎないのに、じゃあ、相手の国が放ったミサイルが日本の原発に向けられていたら、という質問については「仮定の話は答えられない」って、これって東日本大震災が起こる前に「想定外」だったことが実際に起きて今、こういうことになっている現実があるのに、それと全く同じではないのか?

政府のこのような答弁を受けて、twitterでの安保法案賛成派の人たちは「相手が攻撃してこようとしているのなら先制攻撃をするのが当たり前」だの「北朝鮮を攻撃しないと拉致被害者は救えない」だの、結局はあなたたちは平和を全く望んでるわけじゃなく、自分から進んで中国や北朝鮮を攻撃したくてしたくてたまらないんだろうと言いたくなる。それはもう集団的自衛権がどうのこうのという問題では完全にない。まぁ結局、それが本音だってことだ。

そういう人たちとは本当に意見の隔たりがあって、絶望的な気持ちになる。こういう人たちにいくら戦争の悲惨さや残酷さを訴えても、そういうのはその人たちには「そんなことは関係ない」んだから、何を言っても言葉が届かないんだろうなあと思う。

なのに何でわたしがやっぱり今年も同じような内容で書きたいかというと、去年の夏、戦後69年目にして分かったことがあったからだ。だから今回の題名は「70年目の真実」ではなく「69年目の真実」なのだ。

わたしは毎年ここに「原爆で行方不明になった親戚を捜すために祖父と父が入市して被爆した」と書いている。そして「未だに生死が不明だ」と何回も書いた。また過去に「たった1枚だけ残っていた写真を父が国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に収めた」と書いた記憶もある(もうだいぶ昔のことだけど)。わたしはそれを聞いてから一度、どういう形で収められているのかが知りたくて、行ってみたことがある。行方不明になった親戚というのは、祖父の一番上のお兄さん夫婦なのだが、当時収められていた写真は1枚の中に2人が写ってて、名前も検索したら二人いっぺん出てきた。で、説明文は「8月6日に市内に入って原爆に遭ったらしいがその後は行方不明」とかなんとか書かれていた記憶がある。

去年、もう一回ここに行ってみようと思ったのは、特にこれといった理由はないが、なんとなく収められているのを画像として撮っておきたいなと思ったからだ。で、去年の夏に広島に行ったので、寄ってみた。

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ここは確か入館料は無料で誰でも入れるし、一部は展示室や資料室みたいなのになってて、特に遺族じゃなくても利用できるようになっている。原爆資料館はかなりエグいものが展示されているが、ここはどっちかというと文字系の資料室って感じかなあ。ま、でも、わたしは展示物はさら~っとしか見なかったけどね。

で、地下2階に遺影コーナーってのがあって、ここで検索すれば収められた写真とか原爆投下時の様子などが書いてあるのが出てくるのだが、ここは知り合いなどがいないと検索する気が起きないだろうなあみたいな感じ?だいたいどういう名前で検索掛けるんだろうねって思うし。ただ、全体的なんだけど、前に入ったときとは全然違ってたような記憶がある。前は遺影が出てくるモニタは座って検索で来たような気がするし、部屋全体がなんかすごい暗かったイメージがあったんだけど、今回行ってみると全然そうじゃなく。「あれ?こんなんだっけ?」って思った。

早速モニターで検索してみると、あれれ?以前は二人一組で出てきたはずなのに、一人一人に分かれている。

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名前などはよく覚えてなかったので、本当にこの人たちだっけ?とは思ったのだが、被爆時住所が見覚えがある住所で。この人たちだよね~って思ってよく見たら、祖父のお兄さんの方には「被爆状況について」のところに

8月6日、原爆投下時、既に出勤し、西向きの窓際近くにいた模様。被爆後、社員と共に東裏の広島第一中学校のグランドに避難。重傷だった模様。翌7日午後1時頃、校内プールの端で息を引き取った。(後日、当時部下であったM氏より自分が最後に見とったと連絡を受けた。)



と書いてある。あれ~。初めて知る事実。まぁ今のわたしは事情があり、親とはほとんど連絡を絶っている状況なので、わたしが聞いていないのは仕方がないことなのだが、でも、少なくともここ10年くらい前までは「多分、広島市内に入ったんだろうね」としか聞いていなかったし、前に来たときはこんなことは書いてなかったはずだ(書いてあったらいくらなんでも覚えてるだろうよ)。ということは、戦後60年以上経ってから、この部下のMさんって人は父に連絡したのかしら。よく映画やドラマなどで生き残った戦地帰りの人が戦死した遺族に最後の状況を話したり形見を渡したりというシーンをよく見るのだが、それと同じことが起こったのね。

ちなみに「被爆時職業」欄には会社名も書いてあるのだが、ここっておそらくその当時祖父も同じ会社だったはず。うちの祖父は、これまたわたしが幼いときに耳にたこができるほど聞いたのだが、8月6日の朝はちょうど体調が悪くて少し遅刻して行ったそうだ。そうしたらもう原爆が落とされたあとで市内に入れなくなってた。もし体調が悪くなければ、祖父も同じ運命をたどっていた可能性がとても高い。一方は原爆で亡くなり、一方は生き残る。生き残ったわたしの祖父はこのことをどう思っていたのか。まぁ、まさかお兄さんが出勤してて職場で亡くなっていたことは、もう20年前くらいに亡くなってしまったわたしの祖父が知るわけはないのだが。

一方、お兄さんの奥さんの方の「被爆状況について」のところには

入市して探したが、消息不明。現在に至る。



と書いてある。ああ、奥さんの方は前と同じだ。ということは、今までわたしはてっきり夫婦一緒だったのだと思っていたが、そうではなかったのね。まぁここら辺のことは、いつになるかは分からないけど、今度父に会ったときに聞いてみようと思う。

ところで。「69年目の真実」って実はこれだけじゃないのだ。わたしは以前、2008年10月22日に「高校野球発祥の地」という題名で日記を書いたことがある。2008年10月に「第一回全国中等学校野球優勝大会」、要するに今の夏の甲子園のことだけど、これが開催された「豊中グラウンド跡地」に「高校野球メモリアルパーク」というのがあり、そこに行ってきたのだ。当時の写真。

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なぜわたしがここにわざわざ足を運んだかというと、身内の中に第1回の大会に出た人がいるって聞いたことがあったからだ。当時の日記の中にも「この中で出場校をまず探し、そしてそれから選手氏名を見ていく。。。あ、あった。本当に第1回の大会に出てたんだ。この人は、おそらく(あんまり覚えてないんだけど(^^;)、祖父の兄に当たる人だと思う。」と書いている。ここは第1回の大会に出場した学校名と選手名が全員、書いてあるのだ。で、話を聞いていたので本当のことなのかなと思って、ここに見に行ったのだ。

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そう。もう一つの「69年目の真実」というのは、自分の中でこの、第1回全国中等学校優勝野球大会に出ていた人と、原爆で亡くなった人が同一人物だと言うことに気が付いたということだ。今まで誰も教えてくれなかった。この2つが同一人物だと言うことに。「高校野球の1回目に出た人が身内にいる」ということと「原爆で行方不明になった身内がいる」ということは同じように親の口から語られていたけれど、それが同一人物であると言うことは語られなかった。わたしもこの人の名前は別々の所で見たけれど、名前が一致していることに全く気が付かなかった。まぁわたしにとっては祖父のお兄さんと言えども会ったこともない人なので、ある程度仕方が無いとも言えるだろうが。

このことに気が付いてから、はっ、と思った。この人は16歳で野球大会に出て、そのちょうど30年後に原爆で亡くなったのだ。その30年間の間にどういうことが起きたのか。

わたしは少し前に「国会前のデモに参加した」という日記を書いた。その中に「そして、わたしはこの法案が通ったからと言って今すぐ日本が戦争に巻き込まれるとは思ってない。(中略)ただし、戦争に巻き込まれる可能性がとても高くなる、とは思っているけれど。そういう意味では秘密保護法と合わせて日本は2歩ほど戦争への道に歩みを進めてしまったのだと思う。もちろん何歩後に戦争になるかは分からない。」と書いた。そう、すぐには戦争に巻き込まれない。けど、何年か後に巻き込まれる可能性はあるのだ。それはもしかしたら30年後かも知れない。この「30年」という具体的な数字を突きつけられたときに、自分の中で初めて「リアリティ」を感じたのだ。

もちろん、当時の状況と今の状況は世界の状況を含め何もかも違っているから、戦争が起きるのは30年後だとかそうじゃないとかそういう問題ではない。ただ、30年前に野球を楽しんでいた子どもが30年後に原爆で死んでしまう現実があった、ということが、そしてその人はわたしと血が繋がった人だったのだと言うことが、わたしにとってはすごく「リアル」なのだ。

奇しくも今年は高校野球が始まって100年目。1915年に第1回の大会が行われた。そしてその30年後に広島に原爆が落ちた。その100年後の今年。そしてその30年後には。この世界は、この日本はどのようになっているのだろうか。

今年の8月6日は、まさに今日は、その「第97回全国高等学校野球選手権大会」が始まる日でもある。100年経ったのに通算回数が97回なのは、他でもない、戦争のために中断されたからだ。

わたしたちは、過去の歴史に学ばなければならない。
08:00 | 被爆二世・戦争などのこと | トラックバック(0) | page top↑
07-20 Mon , 2015
国会前のデモに参加した
カテゴリ、何にしようかすごく迷ったんだけど、結局「被爆二世・戦争などのこと」にした。けど、思えばこの問題って「性的少数者のこと」でもあれば「自分の将来について」でもある。自分の生活の根幹に関わる問題だから、一つのカテゴリでは網羅できない。けどこのブログではカテゴリは1つしか選べないので、仕方なくこれに。ただ、一番相応しいカテゴリとは思えないのだけど。まぁその理由は後述。

7月15日、衆議院特別委員会でいわゆる「安保法案」が強行採決され、翌16日に衆議院本会議でも可決された。これは非常に由々しき問題というか、国の根幹に関わる問題であって、本来なら「法案」というような形ではなく「憲法改正」からやらなければならないわけなんだよね。もちろん、わたしは憲法9条改正には真っ向から反対で、これは変えるべきではないと思ってるんだけれども。世間では「強行採決をやるべきではない」という論調もあるようだけど、強行採決自体はさほど問題じゃない。だって今までも強行採決は何回も何十回もいろんな政権下で行われてきたわけだからね。今回、問題なのはこれが「日本の進路」を変えてしまうような法案であって、そういう意味では民主党政権下の消費税率アップとかは大した問題ではないです(もちろんアップするのはわたしも嫌ですが)。それに消費税アップ自体は別に違憲でもなんでもないでしょ。今回のこれは違憲の法案です。今まで集団的自衛権は日本では歴代政権が「認められない」と言ってきたのを改憲なしに変えようとしているから。それは憲法9条2項に違反します。だから根本的にはここが一番問題だというふうにわたしは認識してる。

そして、わたしはこの法案が通ったからと言って今すぐ日本が戦争に巻き込まれるとは思ってない。これが一番最初に書いた、カテゴリを「被爆二世・戦争などのこと」にしたくなかった理由。ただし、戦争に巻き込まれる可能性がとても高くなる、とは思っているけれど。そういう意味では秘密保護法と合わせて日本は2歩ほど戦争への道に歩みを進めてしまったのだと思う。もちろん何歩後に戦争になるかは分からない。が、この法案が通るということは、日本は大きな転機を迎えたとは言えると思う。これが「違憲の法案である」というのと合わせて2つ目の反対理由。だけど、法案反対派が今すぐ戦争へ引きずり込まれるようなことを言ってるのはあまり好きじゃない。「戦争法案」も「戦争反対」も、確かに行き着く先はそうなんだけど、わたしにしてみればちょっと飛躍し過ぎな感がある。なのでわたしは「戦争法案」という名称は使わない。あとは安倍内閣退陣ともアベは辞めろとも実はあんまり思ってない。個人的には安倍総理は大嫌いなタイプだけども。要するに、ちゃんと、法律に沿って、正統なやり方でやれってことです。アベであってもなくても。もちろん正統なやり方でやったとしても、わたしは集団的自衛権の行使には反対だけどもね。憲法9条改正にももちろん反対です。

実はわたし、デモの類に参加するのは初めてだった。今までもいろいろ行きたいのはあったけど(原発反対とか)、なんかいろいろ考えてしまって行けなかったんだよね。それは「やってる人たち」がどうこう、という問題が非常に大きかった。今回も同じくそうだった。学生たちがデモを始めて、それについていろいろな意見を言っている人がいて、それを言葉の暴力で押しつぶしてしまうような人たちがいて、わたしは一体どうすればいいのだろうって思い続けた。だって、わたしは学生たちの文言に「それには問題がある」と言っている人の方の意見の方に近いからね。それは今でも。だけど、時が経つにつれ、というか、問題が大きくなって学生たちはすっかり蚊帳の外になってしまったのに、まだ言い争っている人たちの姿を見て「いや、今はそうやって言い合ってるときじゃないでしょう」って思いの方が強くなってきたんだよね。というか、多分、言い争ってる人たちだって具体的な行動してるでしょうよ。まさかネットの中で議論だけしてるわけではないでしょう。だから、わたしはいろいろな思いに整理を付けて、デモに参加することに決めたのだ。ただ、わたしにもできることとできないことがあるので、できないことは一切しない、と決めて。意に沿わないコールは一切しない、ただ頭数になるのみ、とね。それと、あまりにも意に沿わないんだったら、別の団体が主催してやっているデモもたくさんあるし。今は東京付近では探せばデモや反対集会をやってる団体は結構あるし。

もう一つ。わたしが今までデモに参加しなかった理由として「デモに行っても効果がないんじゃないか」というのがあった。原発デモは一時は「紫陽花革命」とか言って何万人も集めたけど、それは一瞬で、結局何が変わったの?どこが「革命」なの?って思ったし、これまでのデモも正直、ほとんど効果があった、という認識がわたしにはないんだよね。なので今回もそう思った。けれど、やっぱ嫌だったんだよね、今回は。「黙って見ている」というのが。今、行動を起こさなければ、もし、後に自分の人生を振り返ったときに「やっぱりあそこで反対しておけばよかった」って後悔するのが嫌だったから。もし結局何十年か後に戦争が起きてしまって、その後で「あのとき、先人たちが反対しなかったからこうなったんだ」って責められたとしても「いや、わたしはあのとき反対したんだ」って胸を張って言いたいから(そのときまでにわたしが生きてるとはあまり思えないのだけど。だってその戦争で爆弾落ちてきて死ぬかも知れないし)。

というわけで、そろそろ本題に入るけど、わたしはまず7月14日に日比谷野外大音楽堂で行われた「戦争法案廃案!強行採決反対!7.14大集会(集会後、国会請願デモ)」というのに行ってきた。この時点ではまだ強行採決は行われていない(翌日に特別委員会で行われた)。集会は確か18時30分から、ということだったので、少し早めに行こうと思いつつ、家でダラダラしていたら着くのが18時頃になってしまって、もう日比谷野外大音楽堂の中には入れなくなってた。

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ここは野外音楽堂に入る前の道なのだけど、すんごい人で。左の方に「西幸門」という矢印付いたプラカードが見えるけど、既にもうここで「入れない人はデモの隊列に並んで下さい」というアナウンスがあったんだよね。だけど、わたしはそこには行かなくて。「日比谷野外大音楽堂」と書いてある門をくぐった。

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なんとかして中に入れないかと思ったけど、こんな感じで門が閉められてて、中には入れず。あのね、あとでデモに「2万人参加」って発表があって、それに対して「日比谷野外大音楽堂の定員は約3000人なんだから、その数字は水増しだ。2万人になるわけないだろ」みたいに書いてる人のツイートを読んだし、それが随分拡散されてたみたいだけど、確かに音楽堂の定員自体は約3000人だけど、中には入れずにこうやって門の外にいた人がものすごかったし、先の門の前の人数を見てくれると分かるけど(この時点でもう門は閉められてた)3000人以上は確実に集まった、ってことが分かるよね。ホント、そういうでたらめ言うのは

見に来てから言えよ!!


と言いたい。それに、このときはまだ分かるわけはないのだが、この集会が終わってからデモに出発できるまでの時間。何時間待たされたかって感じなのよ。もちろんその間、デモ隊は前方で次々と出発してるわけです。ただ、信号の都合なんかもあるので、一個体300人~400人の塊として出発させられて、次に出発するまで何分も待たされるんだけど、すげー時間待ちました。まぁそれはこの後。

なにしろ、門の外からは舞台が全く見えず、声だけしか聞こえない。なので必死に耳を澄ますんだけど、18時45分から音楽堂に入れなくてデモの隊列に並んでた人が出発するらしくてね。そのシュプレヒコールが凄くて、舞台上の声が小さい人は何言ってるのかさっぱり分からなくてね。最初は前座で制服向上委員会って人たちが「おースザンナ」のメロディで替え歌を歌ってたようだった。それはよく聞こえた。が、わたしはなんかああいう揶揄するような歌詞が好きじゃなくてね~。しかも「制服向上委員」って、わたしにとってはあまり好感が持てない名前で。性的少数者、特にGIDの人たちは制服でどんなに苦しんでるか、知ってるからさ~。わたし自身は制服はそんなに嫌いな洋服ではなかったけど。むしろ毎日同じ格好をしていっても変に思われないので、好都合な洋服だったけどね。

それが終わってからは主催者とかゲストの人がいろいろしゃべったらしいんだけど、誰が話してるのかよく分からなくて。議員の挨拶になってちょっと聞こえたかな。最初は民主党の枝野で、次は共産党だったかな。誰か分からんけど。その次が確か社民党の福島みずほで、最後が生活の党と山本太郎がなんちゃら(よく知らん)の知らない人が挨拶した。けどね、話が最初から最後まではっきり分かったのは、福島みずほだけ!他の人は切れ切れしか聞こえてこなかったので、わたしの周囲の、わたしと同じく「音楽堂の門の外」にいる人たちの間では福島みずほの演説に一番頷き、一番拍手してました。当たり前か。でも福島みずほは演説うまいね。なぜかすーっと頭の中に声が入ってくる。枝野は妙に声が上ずってましたね〜。「こんな喋り方する人だっけ?」ってちょっと思ったほど。

集会が終わったのは、19時半頃。それからデモに出発するわけなんだけど、正直、どこから出発するのかさっぱり分からない。だいたい、主催者の声が全く聞こえないわけだから。音楽堂の外に出ると隊列とかじゃなく、人が至るところにいて、誰が何やってんだか、何のためにそこにいるのかさっぱり分からないのです。まぁでも、日比谷図書館の方面に人が多そうだったので、そちらの方に行ってみると、いろんな旗を持った人たちがいました。労組の旗も多かったけど、なんだかよく分からない旗を持ってる人も結構いて。中でも一番気になったのが

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この人。なんとかの会、でもなくて「イエス・キリスト」ですからね(笑)こういう旗、自作するんでしょうか。色とかデザインとか自分で考えて。すごいなあ~。自作と言えば、こういうハイテクなプラカード(?)もありました。

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これはよく見るとボックスファイルみたいなのの中に光るものが入ってて、そこからコードで外部電源に繋がってるようだったけど、こういう労力ってホント、すごいよね。デモに来る人はみんな動員された人だって言ってる人もいるけどもさ(嘲笑する理由で)、まずわたし「動員されて何が悪い」と思います。それから「来ている人たちは決して労組で動員された人たちばかりではなかった」と。

まず、労組の印象はどこからも悪いみたいで、デモ内部からも「組合来るな」とか言われてるけど、なんで組合を拒否するんだろうって思う。個人参加がそんなに偉いの?って。あのね、人は一人では力がないから、集まって集団作るんじゃないですか。一人では弱いから組合作って集団交渉するんじゃないですか。なぜその力を使わない?わたしはいつもそう思う。この考えは結局権力側に利用されていると。権力側は集団で来られることが一番怖いわけです。個人なんかちっとも怖くない。だから「組合来るな」というのは、権力側にとっては非常に好都合なわけです。といっても、わたしも組合自体は好きじゃない。わたし、昔は労組に入ってました。いや、正しく言うならば「入らされた」が正しいと思う。うちの職場の組合加入率はほぼ100%で、入ってない人はものすごい「変な人」だったから。理屈っぽくってね。あーいえばこういう文句ばっか言ってる変な人。組合に入るといろんなことをさせられる。それこそ動員とかね(それによって金は払われないけどね。せいぜい交通費程度で。つか、交通費使ってそこに行くんだもん。それくらいは払われて当然でしょ。会社(仕事)で出張するときだって交通費出るじゃん、それと同じ。っていうか、交通費って組合費から払われてるんだから!組合費は自分の給料の数パーセント、毎月引かれてるのよ。自分で払った組合費から交通費をもらって何が悪いって感じだけど)。だけど、それにより交渉できるわけです、会社側と。その結果、賃金が(少しだけ)上がったりする。けれど、組合に入ってない人も当然のことながら同じように賃金が上がるわけです。自分は何もしないのに。あーだこーだ文句ばっかり言ってるくせに。それを考えたときにやっぱり「なんだよ」って思うよ、それは。こっちは仕事溜まってるし、動員されてる時間は当然仕事できないわけです。自分の仕事、やりたいですよ、自分の机で。だってやらないといけないことなんだから。動員されてる時間、仕事はできないんだもん。時間内に終わらなければ、今度は残業してまでもやらなきゃいけないわけでしょ。疲れるよ、ホント。でも、組合交渉をやることによって少しは「成果」があるときはある、のです(ないときもあったけど。時代が時代だから)。それを考えると、組合自体は嫌いだったけど、でも組合は必要なものだという認識になるよ。組合や団体を毛嫌いする気持ちは分かるけど、それを排除したり攻撃したりすることは、権力側にとってどんなに好都合なことか、って思うよ、ホント。だから、わたしは「動員が何か?」と言いたい。

もう一つ。このデモは個人参加も多かったように思う。特に目に付いたのは、実は身障者の人たち。盲人、車いすに乗ってる人、あと外見からでは判断できないけどろう者もいたかも知れない。そういう人が、本当にたくさんいた。それは最寄りの駅(わたしは霞ヶ関から行ったんだけど)からそうだった。盲導犬を連れた一群がいて、最初見たときちょっとびっくりした。だけど会場に行ったら盲導犬じゃなく白杖ついてる人たちや、先ほど言った車いすの人たちなどが結構いて。まぁ勝手に想像して悪いんだけど、やっぱり危機感感じてるのかなあって思った。戦争になったら真っ先に「邪魔者」扱いされるのは身障者の人だもんね。それは今までの戦争の経験が物語っているよね。

それに、わたし自身が全くの「個人参加者」だからね。誰も知り合いおらず、一人で行ったからね。まぁ知人は何人か、このデモに参加しているようだったけど、別に会わなかったからね(笑)

で、自作のハイテクなプラカード(?)を持ってた人の話だけど、実はこのあとで同じ隊列で歩くことになるのね。そこで聞いた会話が面白くて。このプラカード、「ネトウヨ」って書いてあるでしょ。それを見た近くで歩いてたおじさんがね「あなたがネトウヨなの?」って聞いたのね。そしたら、それを持ってた人がびっくりして「違います!」ってね。実はこのプラカードの反対側には「主権在民」って書いてあったの。それを見せて「ネトウヨなわけないじゃないですか。ネトウヨなのは安倍総理です」って言ってた。そしたらそのおじさん「でも、ネトウヨって言葉は一部の人にしか分からない言葉なのでは。。」って言い出した。ネトウヨって言葉の意味もあまりよく分かってないみたいだった。それを聞いた周囲の若い女の人たちがね「ネトウヨって言うのは、ネット右翼の略で~、アベはネトウヨから支持されてて〜」みたいにそのおじさんに説明してた。なーんか、一連のやりとり聞きながら、いろんな年代の人が参加してるんだなって思った。

まぁその話はおいといて。デモに出発する前の待機時間の長さと言ったら!さっき、だいたい19時半頃に集会が終わったって言ったけど、わたしはそこから1時間半、日比谷図書館の横で待ち続けたよ。最初はどうなってるのかさっぱり分からないの。ずーっと同じところにひたすら待ち続けてて、一体、どうなってんだろうと思ってるうちに5歩くらい前に進めて。でもそこでまた何分も待ってる状態。それが少しずつ少しずつ動き始めて。ようやく「ああ、前の方で少しずつ出発してるんだ」って分かってきて。で、出発。

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この画像の時刻、21時02分です。公園から出て道路渡ったところ。ホンマ、どこが参加者3000人だよ、って感じ。見てから言ってくれ。道路渡ったところから、道路のところで応援してくれる人たちがいてね。なんかすっごく嬉しかったし、心強かった。あの人たちは多分、もう先に歩き終わった人なんだろうね。随分あとで気が付いたけど。

実はここら辺の界隈、歩いたことがなく。どこをどう歩くんだか、さっぱり分からなかったんだけど、あるとき突然コールが「原発反対」に(もちろん、わたしはコールしてませんが)。「なんでじゃ?」と思ったら、どうやら経産省のテントのところだったのね。

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経産省のところのテント村って聞いたことはあったけど、目にするのは初めてで。ここの人たちは「福島のことも忘れないで~」って言ってた。でもわざわざ声を掛けてくれるために出てきてくれてて、本当に嬉しかった。でも、このデモに参加してる人はみんな「原発反対」なんだろうかってちょっと思ったけどね。そういうこと、決めつけて「原発反対」のコールしていいの?って。まぁわたし自身は紛れもなく「原発反対派」なんですが。

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というわけで、見えてきた国会議事堂。つか、どこをどう歩いてるのか、本当に全く分からなかった。。

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次に見えてきたのは「総理官邸前」の文字。歩きながら撮ったんでブレブレ。国会のこんな近くに総理官邸があるとは知らなかった。

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そして何やら警官が「請願デモですから幟を降ろしてください」とか言い出したと思ったら、こういうのが突如として現れた。「なんじゃ、こりゃあ?」って全然分からなかったんだけど、要するにここは「請願所」ってことだよね。だって「請願デモ」だもん。請願所ではこんな風におそらく議員だろうと思われる人がたくさん立ってなんか言ってて、デモ隊を激励してくれた。ここは多分、衆議院の方。

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そして少し歩いてこっちが参議院かな?そういや誰かが「議員がデモに参加してなかった!けしからん」って書いてたツイートを見たんだけど、これは請願デモなので、議員は請願所にいるんじゃないのかしらん?よく分からないけど。

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そしてさらにそこから歩いて。21時39分、終点の永田町駅に着いた。ここって自民党のすぐ近くでもあるのね~(見にくいけど右側の画像)。そこでもう解散だったんだけど、なんかそこで「総理官邸前で座りこみやってるから来て」っていうアナウンスがあった。でもわたしはもう疲れ果てててもうそういうことはできなかったし、何より警官が「ここからは引き返せません」って言って進路邪魔して戻してくれなかったんだよね。戻りたいのであればぐるっと回って反対側の道路に出てから引き返せとか言われて。わたし、永田町の駅からどうやって帰っていいのか分からなかったので、引き返して国会議事堂前から帰ろうかしらと思ってたのに、引き返せないんだもん。すげーひでーと思いました。

これが7月14日のこと。

で、次の日に衆議院の特別委員会で強行採決が行われたときは、わたし、もう疲れてたのでその日の国会前の抗議集会には行かなかった。これ、主催者側発表で10万人来た、って日ね。わたしはその翌日、用があったついでに国会前に行くことにした。7月16日。この日は衆議院本会議で法案が強行採決された日。で、14日のデモ行進の時にね、わたしはその日、コールもしなかったし、プラカードも持ってかなかったの。持っていかなかったというか、持ってなくて。ネットプリントもやろうとは思わなかったし。だから本当にただ、頭数になって歩いて、たまに写真撮ってただけなんだけど、そのときにiPadで画像を映し出してプラカードとして持って歩いてる人がいて。夜はそれが光っていいのよ。「あ、こういう方法もあるんだ」って思ってね。で、16日はiPadをプラカード代わりに持ってくことにした。文面はネットで探して一番わたしが言いたかったこれ。

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実はこれ、閣議決定で集団的自衛権の容認をされたときに作られたものだったんだよね~。でも、わたしはやはりこのことに一番「反対」しているから。集団的自衛権を容認すると、確実に戦争に引きずり込まれると思う。だって、アメリカってそういう国じゃん。力でモノを言わす国でしょ。で、大量破壊兵器はあるだのなんだのデタラメ言って戦争を引き起こしてきた。そんなのに協力するってことは、戦争に引きずり込まれるということです。で、こういうこというと「一国平和主義」とか言われるんだよねえ~。違うよ。わたしは「日本だけ平和であればいい」とは全く思ってない。世界中が平和になることを願っている。そのためには日本には集団的自衛権なんていらないというか、持ってたら危険なのだ。だって、戦後70年、これを持っていなかったからこそ、日本は政府、国際NGOを初め、いろんな地域、いろんな分野で活躍できてるんだから。「日本は自分たちに向けて攻撃してこない」という信頼=集団的自衛権を行使しない(できない)ということだ。だから、中立を保てて、戦争をしている両者に対して対話を呼びかけて結びつけるような行動を取れた。戦争を解決する方法は、相手を徹底的に殲滅させるか、話し合いによって解決するしか方法はない。しかし、徹底的に殲滅させると言うことは、それだけたくさんの人が殺されると言うことだ。話し合い、というと「話が通用しない相手だったらどうするんだ」とすぐに言われる。でもですね、人間が正常な状態で「人を殺したい」って思う?人が人を殺さなければならない状態って、異常な状態だよ?異常な状態だからこそ、人を何人も殺せるんだと思う。そこの状態から脱すれば、必ず双方話し合いできると思っている。誰だって人は殺したくないもん(異常人格者は一定数いるけれど、それが集団とか国民全体というのは有り得ない)。まずはその異常な状態を正すべく、努力すべき。そしてその後、「中立な国」が双方の間を取り持つ。日本にはそういう役割をする国になって欲しい。そして、それが成果を見せ始めたら、他の国だって追随するに決まってる。だって、争わなくていいんだもん。まぁ、ここで争いごとが減って困るのは軍需産業だけだろうよ。そしていろんな国でそういう思想が根付いていったら、必ず戦争はこの世からなくなる。血を流さずに、汗を流して、頭を使う。外交努力も同じです。それこそが「積極的平和主義」なんじゃないですか?だからこそ、日本には「集団的自衛権」はいらない。個別的自衛権だけで対応できる。なんか最近「中国からミサイルが10分で届くが、そういうときはどうなんだー!」みたいな発言を見かけるけど、アメリカがすぐに日本に対して集団的自衛権を発動して守ってくれると思ってるのかしら。アメリカが集団的自衛権を行使するためには、日本と同じく議会の承認(もちろんアメリカの)が必要ですよ。自動的に守ってくれるわけじゃない。10分以内にアメリカ議会の承認って取れると思う方が非現実的じゃない?それに、アメリカは中国とは戦争したくないはずです。中国は大国なんだから。人口が多かったらそれだけ自国のモノ買ってくれるし、経済のことを考えるとアメリカは日本市場より中国市場の方が魅力的だろうよ。今はイデオロギーがどう、とかいう時代でもない、冷戦時代ならともかく。だから争いになれば日本は簡単に見捨てられると思うけどね。日本の領土の狭さ、人口の少なさはもう、仕方ないのよ。それはもうなんともならないんだから。だとしたら、小国なりに頭を使って生き残らなければならないじゃないですか。軍事力を高めれば抑止力になるなんて、どこまで軍事力を高めればいいのか。なんないよ、そんなの。だって、軍事力世界一のアメリカはテロにやられたじゃん。軍事力を高めても、正式な戦争には強いかも知れないが、テロには対応できないよ。今の戦争、テロとの戦いばっかりじゃん。帝国主義の戦争なんてされてないよ、もう。話し合いで解決するしか方法はないというと、頭の中がお花畑だと言われるが、わたしにとっては軍事力に頼る方がよっぽど頭の中がお花畑だと思う。だって、資源がない日本、70年前の太平洋戦争もそうだったが、石油が来なくなったら一気に「竹槍」だよ?「風船爆弾」だよ?だからそのための「原発技術」っていいたいよね(笑)これで発電すればいいと思うだろうが、核燃料も100%輸入品でなくなれば終わりです。そのための「濃縮技術」だよね?(笑)これ、実現したとしても(今のところ、事故ばかり起こして実用化どころではないけどね)すんごいエネルギーが必要です。戦前、日本が原子爆弾について研究してたけど、結局核物質を濃縮できなくて実用化できなかったのは、石油がなくて電力が足りなかったから。しかし何より、原発施設は戦争が起きたらすぐに狙われるだろうね、敵国に。爆弾1つ命中すれば、まぁ原爆落とすのと同じ効果だもの。そしてそこには何十年って人が住める状態にはならないだろうね。チェルノブイリみたいに。しかも、日本は地震大国、火山大国と自然災害に見舞われやすい国だからね。世界で起こる地震の1割は日本近辺で発生しているそうです。ま、そりゃあ、こんなにプレートが入り組んでるところなんて、地球上どこを探してもあんまり見当たらないよね。で、これはもうどうしようもないわけ、さっきの小国と同じく。これは日本が持って生まれた運命。現に1つ、自然災害で原発がメルトダウン起こして今でも人、住めないじゃない。これらのことを総合すると、日本には原発は存在してはならないという結論にしか達しないのよ。戦争するにしてもしないにしても。でも、そうすると電力は石油に頼らざるを得なくなる。とすると、原油国の一部とは絶対に仲違いできない。だから日本はね、アメリカだけに頼ってていいの?ってことになる。だから日本は「外交」で生きていくしかないのだ。結局、国土状況を考えるとそういう結論になってしまうのよ。こんな状況のところ「原発は科学技術で事故を起こさないように保てる」とか「軍事力が抑止力になる」とか言ってる人の方がよっぽど頭の中がお花畑だわ。東日本大震災で起きた津波が、人間の英知によって押しとどめられると思ってんのかな。津波が突破できないような防波堤を作れるとでも思ってるのかな。現実をもっと直視した方がいいと思うよ。
(参考:集団的自衛権 いる?いらない?;ついでにここにリンクされてる内閣官房が発表してる集団的自衛権についての説明も読んだが、バカの一つ覚えみたいに同じ文言繰り返してばかり。あと原油国と対立するのは避けられないという認識なのね、政府って。バッカじゃない?そこまでしてアメリカの味方をして、それでアメリカに裏切られたら一体どうなるんだろうって考えないのかしらね。アメリカは大国でもバカじゃないですよ。すごいしたたかだよ、怖いくらいに。そこまでアメリカに味方する日本政府がとてもお人好しに思えます)

また長くなりましたね(^^;

というわけで、7月16日、国会前の抗議集会に参加してきた。あの日は雨が降るって予報で、家を出たときは雨降ってたし、だから濡れたら困るってんで少し寒いときに着てるゴアテックスの防寒着を着ていったんだけど、これが間違いだった。。

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国会前に着いたときは18時少し前。警官がめっちゃたくさんいてね。道路を渡るときはなんか横断歩道からはみ出さないようにとかいう黄色い帯みたいなのを持って警官が行ったり来たりしてて、大変だわ~と思った。まだ人は少ないんじゃないかと思ったんだけど、国会前はもう結構な人で。なんかお坊さんやらがたくさんいたんだけど、そのうちわたしの前の人がなんか白い服をスルスルと着始めて、そこに赤いマフラーみたいなのを首からかけて、あっという間に教会の神父さんなのかしら?そんな人になっちゃったので、とってもびっくりした。

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これは後ろ姿の一部ですが。どういう教会の人だったのだろう?確か18時半頃から集会が始まったのかな。議員が3人ほど来てた。枝野と福島みずほは覚えてる。というかこの日はこの後のSEALDsという学生たちが主催する集会にも途中まで参加したんだけど、福島みずほはここでも演説してた。18時半のときの演説は集団的自衛権についてしゃべってたので、よく覚えてる。けど、14日に話した内容と一部被ってるのがあって「ああ、印象に残るフレーズって結構使い回してるんだな~」って思った(笑)まぁそりゃそうだよね。連日、同じ場所で同じテーマでしゃべってるんだもん。全部全く違うことをしゃべるのは無理だろう。この日は結局21時半頃までいた。本当はもうずっと立ちっぱなしで、足が痛くて痛くてたまらなかったので、20時頃からずっと離脱したかったんだけど、なんせ人がものすごくて身動き取れなかった。そしてiPadもずっと頭の上に掲げてたら腕が疲れてね。まぁコールは一切しなかったんだけど。特に学生主催の集会のコールは、事前からいろいろ言われて知ってたけど、やっぱりわたしにとってはちょっと引っかかるものが多くて。まぁ元々「同じ言葉を言わされる」という雰囲気が好きじゃないからね、わたし。だけど、別にコールしなければしないでいいわけだし、絶対コールしなければいけないという雰囲気でもないし。この日はのべ何万人だったかな。最初の集会の時に「2万人超えた」と発表があったけど、次の学生の集会に向けて来る人がたくさんいたからね~。でもわたしは学生の集会、最後までいなかったから最後の人数発表は聞けなかった。しかし、結局雨は全く降らなかったんだよね。けど、雨上がりでものすごく湿度が高くて蒸し蒸ししてて、持ってった防寒着なんて着られるもんじゃなく、全部カバンに詰め込んだらカバンが重くて重くて。おまけにでっかい傘も不必要だし。ずっと身動きできないほどの人だったから、その熱気も凄くて。汗でぐちゃぐちゃになりながら帰りました(笑)

次の日、7月17日も国会前に行った。連日来たのは、次の週(要するに今週だけど)はちょっと用事が立て込んでて来られないと思ったからだ。なのでちょっと無理して行った。けど、集会の参加は少しだけにしておこうと思った。学生の集会になると身動きが取れなくなるから。

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この日もね、18時ちょっと前に国会前に着いたんだけど、前日と比べると少し人が少なくて「あれ?」って感じだった。だもんで、ほとんど最前列まで行けた。集会の時はずっとiPadを頭の上に掲げてたんだけど、前日の影響で腕が筋肉痛になっててね。つらかった~(笑)この日は19時ちょっと過ぎに離脱した。この時点でも「2万超えてる」って話だった。確かに出足はあまりよくなかったけどその後が凄くて。集会と集会の間に離脱したんだけど、これから来る人たちがめちゃくちゃたくさんいて逆の方向へ歩くのが怖いほどだった。「こりゃ、前日より凄いだろうな」と思ったら、確かに終わったあとの発表でも前日より人数多かったみたい。6万人だったっけ?まぁ金曜の夜だったからね。サラリーマンの人も結構いた。サラリーマンは持ってるかばんですぐ分かるのだけど(笑)会社帰りの人も結構来てるんだな~って思った。なんか国会前にいる人が少ないから「6万人なんて集まってるはずがない」っていうツイートをすごーくたくさん見たけど、いちどきに6万人集まったわけじゃない。延べに決まってるじゃん、人数は。アホか。見に来てから言え。まぁ絶対値がどの程度正しいのかはわたしは分かんない(ただ確実に何千人単位ではないと思うけど。警察がどう発表しようがね。だって彼らにしてもあんなに流動の激しい人数をどうやって数えるのよって思うよ)。けども「昨日より多いな」って思ったときは、発表された参加人数も多かったので、傾向としては正しいと思う。ただ気になったのは、14日のデモ行進で多く見かけた身障者はここではほとんど見かけなかったんだよね。それは人と人とのスペースがほとんど取れないから怖くて来られないんじゃないかと思った。それにものすごい人混みだったし。あと、抗議集会参加は結構体力がいる。ずーっと立ちっぱなしだし。何よりこの時期暑いし。だから、ここに来てる人は体力、気力にある程度自信がある人じゃないと来られないと思ったし、来たくても来られない人もたくさんいるんだろうなと思った。パニック障害を持ってる人なんかもこういうところは絶対に無理だよね。わたしだって精神力が弱ってるときはこんなところには来られないだろう。今は調子が悪くはないのでなんとか来れてるけど。

2日抗議集会に参加して、それぞれ印象に残った言葉。

16日は誰かは知らんが、維新の会の人。
「地元に帰ると『でも日本だって誰かが血を流さないといけないだろう』と言われる。そこで『では、一体具体的には誰の血を流すのでしょうか』と聞くと、みんな黙ってしまう。誰かの血を流せと言いながらも、そこにはリアリティがないんです。もっとそこに現実感を持って考えなければいけない。維新の党は今のところ、人によって随分意見が違う。それを(酒を飲みながら)自分と同じ意見に変えていきたい」

17日はどっかの団体の人だったと思うんだけど。。
「衆議院の議決の際、自民党から2人の造反者が出た(表向きは健康上の理由らしいですが:後に確認)。衆議院は圧倒的多数が与党だが、参議院は違う。11人、造反者が出れば法案は可決しない。皆さん、地元の与党の議員に是非、働きかけて下さい」

わたしね、上の方で「デモをやっても効果がない」って書いたんだけど、そこのところはちょっと間違ってたって思う。デモに行くとなぜか希望をもらえたり、勇気をもらえたりするの、不思議なことに。それは決して「デモで気持ちが高揚している」からでも「思考停止」の結果でもない。これだけ多くの人が自分と同じく法案に反対しているんだ、ということが実感できるのと、あとは演説を聴いていると「ああ、過去だってデモは実績を挙げていたんだ」って思うから。やはり、60年安保を経験してきた人が多くて、その人たちは必ず「デモによって岸内閣を退陣させた」って言うんだよね。で、今回もそうじゃない。既に今現在、新国立競技場の案が白紙になったじゃない。あれはデモの一定の成果なんじゃないかと思う。もちろん直接的な理由は「支持率の低下」だが、人々が全国で集まって反対の声を挙げたからこそ、目に見える姿になったからこそ「反対してもいいよね」って思った人もいるんじゃないだろうか。もちろん、デモだけじゃなくできることで声を挙げること。そうすれば少しは変わってくるんじゃないかって、なんか、今のわたしはそう思ってる。でも、そういう考えに変わったのは、デモに参加したことが大きい。これは事実だ。

そういえばね、17日の演説でグリンピースの人だったかな、よく覚えてないけど、そういう感じの人が「日本はねー、本当の意味での市民革命を経験してないから弱いんですよ」って言った。そうなんだよね。フランス革命では市民が血を流して監獄を打ち破った。でも日本では「トラブルを起こさないように警察に協力しましょう」っていう感じじゃん。それはそれで一つの作戦だからいいんだけど、これじゃあ世界を変えるような大きいことはできないだろう。わたしが最初に「デモをやっても世の中全然変わらない」と思ったのは、こういう「世界を変えるような大きいこと」を期待してたからであって、それは最初から無理なのよね。警察に従うようなおとなしいデモでは世の中大きくは変わらない。だけど、小さいことだったら変わる可能性がある。それでいいじゃないって。デモに参加してそう思えるようになった。

すっかり長くなって、こんなの誰が読むんじゃい、って感じだけど(笑)、わたしはまだまだこれからもできる限りのことをしていこうと思ってる。法案に反対なんだけど、デモに本当は行きたいんだけどって思ってる人の参考になればいいなあと思って書きました。

でも、無理だと思ったらやらなくても大丈夫なんだよ!


どうしても気力が出ないときは仕方がないんだから、自分のことは絶対に責めないでねって最後に言っておくね。できるようになったときにすればいいんだから。今はできるようになるために敢えて休むときなんだよ。特にうつ病の人に、それを言いたい。
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08-09 Sat , 2014
8月9日午前11時2分 ー長崎にて
去年の8月9日、わたしはこのような日記を書いた。

何度目かの長崎の平和祈念式典(最近、特に気になって言うけど、広島は平和「記念」式典で、長崎は平和「祈念」式典で字が違うのよ)を今日、テレビで見て「ああ、いつか長崎の式典に行ってみたいな」って思った。中継時間の関係かも知れないけど、長崎は城山小学校の生徒が歌う「子らのみ魂よ」と純心女子高校の生徒が歌う「千羽鶴」があって、それがかなり後に残る。年に1回聞くだけだけど、メロディーを聞くと思い出す。その歌を、生で聞きたいなあって思ったのだ。



で、ですね。じゃじゃーん。

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昨日、東京を出発し長崎に来た!

うーんと、あのとき考えたのね。「2年後くらいはどうかなあ?」って。でも2年後って70回っていう節目の年なんだよね。単なる「歌が聞きたい」ってだけじゃ、節目の年に行くことはなんか、不謹慎な気がしたの。「じゃ、3年後?」って思ったんだけど、わたし、今後3年間元気で生きてられるかなんて自信がない。ということは、、行くなら今年しかない!ってことで、かなり思い切って今年行くことにしたのだ。

今朝。祈念式典の開場は8時半だというので、8時過ぎに会場に行った。ぼちぼち人が並び始めてるころで、わたしは割と先頭の方だった。座席指定図を見たら一般客の椅子がほんの少ししかなかったので、大丈夫かなと思ったんだけど、何のことはない、開場後に聞いたら一般人でも遺族席に座っていいとのことだったので、遺族席のかなり前の方に座った。

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式典開始時間は10時35分なので、2時間近く待つことになるんだけど、その間、ボランティアの子どもたちが水のペットボトルや冷たいおしぼりを配ったりしてたのでちょっとびっくりした。

前にも日記に書いたかも知れないが、わたしは過去に1度、広島の方の平和記念式典には行ったことがある。もうかなり昔の話でほとんど記憶に残ってないんだけどね。そのときはそういうサービスは全くなかったと思う。これも時代なのかな。

今日の長崎は、台風の影響で風がものすごく強かったんだけど、それでも当初予想されたような雨は全く降らなくて。最初は曇り空かなと思ったんだけど、徐々に晴れて来て、最後の方はめちゃめちゃ天気がよくなってとっても暑かった。

しかし、広島の方は「あの日。。」って想像できるのに、なぜ長崎では想像ができないんだろう?原爆ドームっていう、リアルに残っているものがないからなんだろうか。それともやっぱりここはわたしと「無関係」だからだろうか。。だけどね、こういうことを言ってはなんなんだけど、わたし、広島の原爆で身内が行方不明になってても、全く悲しみはないのよね。だって会ったことない人たちなんだもん。生きてるところが全く想像付かないし。「この人たちが生きていたら」なんてことも思ったことがない。だけど、広島の原爆に対してはなんか知らんが「痛み」があるんだよねえ。昔からちょろちょろ話を聞かされてたからだろうか?正直、広島の平和記念式典にはもう参加したくないんだよね。広島の方はすごく生々しい感じが自分の中でするの。それなら毎年遠く離れた東京で、テレビに向かって黙祷してる方が気が楽なの。なんかとっても不思議な感じだよね〜。

そうそう、会場に入ってから、式典内容が書かれた冊子とレインコートをもらいました。式典内容を見ると、あれ、あれれえ〜?

城山小学校の児童が歌う「子らのみ魂よ」じゃなくて、山里小学校の児童が「あの子」って歌を歌うことになってる〜!@@;

ええーっ、なんでなんで?なんか年ごとに変わるの?これ。でも「子らのみ魂よ」ってわたし、もう数年間聞いた覚えがあって、結構曲も覚えてるんだが。特にこの8月になってから、わたしの頭の中では「せーんせいよー、こらのみたまよー♪」ってメロティが鳴り響くほどになってたんだけど。。正直なところ、これには随分ガッカリしてね。いや、山里小学校の人には全く罪はないのだけれど。ってわけで、当初の目的の半分しか達成できなかったんだよね、実は。しかし、何か歌うローテーションみたいなのが存在してるのかしら??

式典がようやく始まって。献花のときにケネディアメリカ大使が花輪持ってこっちに向かっておじぎをしたとき、結構な数の人たちが立ったり、自分のデジカメや携帯電話などで画像を取ったりね。一体、これは何?って思っちゃった。何かこの人にあるの?それともあのケネディ家の人だから?よー分からん。なんでそこまで人気なのか?本当によく分からなかったです。

てなわけで、あっという間に11時2分になって。立って黙祷しました。鐘の音といくつも重なって聞こえるサイレンの音、それから蝉の鳴き声。それだけが聞こえて来て、なんかとても印象的だった。長い長い1分間でした。ひたすら、鐘の音とサイレンの音と蝉の声に耳を傾けてた1分間でした。

そのあと市長の平和宣言。事前から集団的自衛権について言及するってことで、まぁ広島よりはまともだった。それに核兵器を使った戦争だけじゃなく、戦争自体に反対ということを明確に打ち出してたところもよかった。あと広島市長は全く触れなかった福島の原発事故のこともちゃんと触れてたし、そう考えると広島の方がかなり腰抜けだったんだよね。。本当に情けないな。

ところがそれを上回ったのが、被爆者代表が宣言する「平和への誓い」。実は市長の平和宣言も被爆者の平和へ誓いも事前に式典内容が書いてある冊子の中に既に載ってて、どういうことを言うのか、わたしは事前に読んで知ってた。ところがね。この人の誓いはものすごく説得力があった。事前に読んでたけど「え?こんなに厳しい内容だったっけ?」って思ったもん。

孫娘を亡くしたことの話の中で「自分が被爆者でなかったら」というところでは声を詰まらせていたし、集団的自衛権のこと、武器輸出しないでくれと言ったところ、ものすごく迫力があった。

わたし、思わず涙してしまったんだけど、ふと気がつくと会場整理のために、わたしの近くの通路で正面と反対向いて座ってた市役所のおじさん(わたしより年上だと思いたい(笑))が、うなづいていたか何かで、近くの遺族席に座っている人と目が合ってたのを見ちゃった。おじさん、ちょっと照れ臭そうに笑ってた。

この誓いは来ていた人の共感をかなり得たようで、まだ誓いが終わってない、これから年月日を言おうとするところで既に拍手が起きていた。市役所のおじさんも拍手してた。

児童合唱を挟んで首相の来賓挨拶があったんだが、怒りを感じるほどの内容で。広島のときも思ったが、復興して美しい街にしたのをなんでそんなに強調せねばならないんだろう?この式典は復興したことを褒め称えるものではなく、なぜ原爆が落とされたのか、そもそも戦争になったこと自体を反省し、再びこのようなことをしない、という決意を述べる場ではないのか。確か「先人に感謝する日でもある」みたいなことを言っていたような気もするが、感謝って何?原爆で死んでくれてありがとうと感謝しろというのか?(かなり悪意に取ってます)どうもこの人は復興に身を捧げたことがとてもお気に入りみたいだ。まぁしょうがないよね。ここしか褒め称えるところがないんだもん。この人は「日本人としての誇り」とは先人を褒め称えることだと思っているらしい。その先人とは、国を愛することを強要されて死んだ人だ。戦いなんかせずに生きたいと思った先人はどのくらいいたんだろう?そういう思いを全部無視して死を美化している。おまえなんか先人に呪い殺されてしまえ!と思ってます。まぁ一方でわたしは死んだ人が生きている人を呪うとは全く思ってませんがね。

被爆者による平和への誓い後の、市役所の案内係のおじさんに注目してたんだけど、おじさん、首相の挨拶のときは拍手してなかった(笑)会場の拍手も弱かったです。まぁ当然といえば当然。わたしもしなかったし。

次の県知事の挨拶も首相の挨拶とあまり変わらず。長崎市長と被爆者代表が明確に「戦争はNO」と言ってるのに対し、首相と県知事は「核兵器を使った戦争にNO」と言っただけで、戦争自体には反対は全くしてなかったね。そこが彼らの本音だろう。そしていつの間にか戦争を初めてしまって「こんなときに核兵器に反対なんてできますか」といってなし崩しに使うんだろう。これって今の「近隣諸国が日本を狙っている」というのとあんまり大差ないんだよね、実は。国民に危機感持たせて自分の思い通りに操っているだけだ。

それと県知事の挨拶は事実上、原発容認であったのもとても残念。核兵器による放射能と原発による放射能の違いがあるんだろうか?原発の放射能は安全とでも?前にも書いたけど、わたしは決して原発の技術を人類が捨て去る必要はないと思っている。ただ、国土全体に渡ってこんなに地震が起きる国、それも巨大地震が起こる可能性がある国では原発の技術は使うべきではないと考えている。この地球上ではね、有史以来、地震など起こったことがない地域もたくさんあるのよ。地震があっても何万年に1度とかね。そういうところでは使えるんじゃないかな。ただ、事故の危険性は残っていて、それは人類がどうすべきなんだろうけど。事故が起こり得るから原発技術は捨て去るべき、って考えもわたしにはよく分かるのだ。だって事故が一旦起きれば悲惨だもの。チェルノブイリみたいにね。

ああ、話が逸れた。

市役所のおじさんは県知事の挨拶ではまあまあ拍手してた。最低限、って感じだったかな。もうわたしはあの時点でおじさんに惚れた(笑)ちなみにわたしは拍手しませんでした。

それからいよいよ「千羽鶴」の合唱。これを聞きに来たんだもん、わたし。

言っちゃ悪いけど、決してうまくはないと思うのよ。でも、この曲はもうこんな感じ!ってイメージ出来上がっちゃってるから、これでいいの。しかもやっぱり生の声だと強弱がよく分かってよかった。最後の盛り上がりなんか、あー実際はこんな感じなんだって思ったからね。なんか「合唱聞きに来たんか!不謹慎だ」って感じなんだけど、でも、わたしの中では長崎の平和祈念式典って言ったらこれだからね。

そして広島と比べちゃいけないとは思うんだけど、式典としては長崎の方がわたしは圧倒的に好きです。まぁ広島のは自分が当事者なんで、どうしても自分の中のつらい思いとリンクしてしまってるところはあると思う。なので単純には比較はできないけど、戦争反対のメッセージは広島より長崎の方が上だと思うし、わたしには好感が持てました。本当に今回、思い切って来てよかったと思いました。

ただ残念なのが、最初の方にも書いたけど、城山小学校の「子らのみ魂よ」が聞けなかったこと。いろいろ調べても今回、なんでこの曲じゃなかったのか書いてないし、一体どうしちゃったんだろう?

ってわけで、長崎の方は1回だけじゃなく、もう1回くらいは来たいなあと思ってる。それ以外にも教会を中心にしていろんな行事があるのよね。でもそれも今回、台風の影響で中止になっちゃったりしたのもあってね。これはもう一回来いってことだろうと勝手に決めつけました(笑)ただ、東京からはすごく遠いんで、そう簡単には来られるはずもなく。。まぁ生きてれば5年後くらいに来ようかなと。でも5年後の日本を考えるとどうなってるか恐ろしいね。もしかしたら「時局を考えて」平和祈念式典なんか70回を最後に中止に追い込まれてるかも知れないし。

一回行った広島の平和記念式典はね、実は覚えてることと言ったら、場外で機動隊と中核派みたいなヘルメット被ってタオルで顔隠した人たちがもみ合ってるところなの。わたしあのとき、なんで8月6日にこんなことするんだろう?って思ってた。正直今もそう思ってるところはある。中核派の人たちは何が目的なの?って。

実は今日も式典が始まる少し前から場外で何言ってるんだか分からないけど、シュプレヒコールが聞こえて来てね。「こんなときくらい静かに祈りを捧げろ!」って思っちゃった。でもね、式典が始まって献花くらいの時間になるとその声は静まってたし、きっと彼らも分かってるんだと思うんだ。こんな日に大声を上げることについて。そしてきっとわたしたちと同じように11時2分には黙祷したんだと思う。そのあと少ししてからまたシュプレヒコールが始まったんだけど(笑)でもさ、わたし思ったんだよ。首相に抗議の声が直接あるって分からせるためには、こういう手段しかないってこと。確かにわたしでも彼らが何言ってんだかちっとも分からなかったんで、首相にも分かんなかったと思う。けど、いろんな人が、いろいろな方法で抗議してもいいじゃんって思えたの。被爆者代表の人は、平和への誓いで訴えた。長崎市長は平和宣言の中で訴えた。みんな、同じ方法を取らなくてもいいじゃん、いや、取れないよって。だったらわたしは一体何ができるんだろう?そんなことも思った(ただやっぱ、わたしが広島の記念式典行ったときはこんなに状況が荒れてなかったと思うし、一体あれは何だったのか?と今も思う。。)。

今日という日はもうじき終わるけど、2014年の8月9日はわたしの心の中に深く残った日だった。

 1945年6月半ばになると、一日に何度も警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り始め、当時6歳だった私は、防空頭巾がそばにないと安心して眠ることができなくなっていました。
 8月9日朝、ようやく目が覚めたころ、魔のサイレンが鳴りました。
 「空襲警報よ!」「今日は山までいかんば!」緊迫した祖母の声で、立山町の防空壕(ごう)へ行きました。爆心地から2.4キロ地点、金毘羅山中腹にある現在の長崎中学校校舎の真裏でした。しかし敵機は来ず、「空襲警報解除!」の声で多くの市民や子どもたちは「今のうちー」と防空壕を飛び出しました。
 そのころ、原爆搭載機B29が、長崎上空へ深く侵入して来たのです。
 私も、山の防空壕からちょうど家に戻った時でした。お隣のトミちゃんが「みやちゃーん、あそぼー」と外から呼びました。その瞬間空がキラッと光りました。その後、何が起こったのか、自分がどうなったのか、何も覚えていません。しばらくたって、私は家の床下から助け出されました。外から私を呼んでいたトミちゃんはそのときけがもしていなかったのに、お母さんになってから、突然亡くなりました。
 たった一発の爆弾で、人間が人間でなくなり、たとえその時を生き延びたとしても、突然に現れる原爆症で多くの被爆者が命を落としていきました。私自身には何もなかったのですが、被爆三世である幼い孫娘を亡くしました。わたしが被爆者でなかったら、こんなことにならなかったのではないかと、悲しみ、苦しみました。原爆がもたらした目に見えない放射線の恐ろしさは人間の力ではどうすることもできません。今強く思うことは、この恐ろしい非人道的な核兵器を世界中から一刻も早くなくすことです。
 そのためには、核兵器禁止条約の早期実現が必要です。被爆国である日本は、世界のリーダーとなって、先頭に立つ義務があります。しかし、現在の日本政府は、その役割を果たしているのでしょうか。今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじる暴挙です。日本が戦争できるようになり、武力で守ろうと言うのですか。武器製造、武器輸出は戦争への道です。いったん戦争が始まると、戦争は戦争を呼びます。歴史が証明しているではないですか。日本の未来を担う若者や子どもたちを脅かさないでください。被爆者の苦しみを忘れ、なかったことにしないでください。
 福島には、原発事故の放射能汚染でいまだ故郷に戻れず、仮設住宅暮らしや、よそへ避難を余儀なくされている方々がおられます。小児甲状腺がんの宣告を受けておびえ苦しんでいる親子もいます。このような状況の中で、原発再稼働等を行っていいのでしょうか。使用済み核燃料の処分法もまだ未知数です。早急に廃炉を含め検討すべきです。
 被爆者はサバイバーとして、残された時間を命がけで、語り継ごうとしています。小学一年生も保育園生も私たちの言葉をじっと聴いてくれます。この子どもたちを戦場に送ったり、戦禍に巻き込ませてはならないという、思いいっぱいで語っています。
 長崎市民の皆さん、いいえ、世界中の皆さん、再び愚かな行為を繰り返さないために、被爆者の心に寄り添い、被爆の実相を語り継いでください。日本の真の平和を求めて共に歩みましょう。私も被爆者の一人として、力の続くかぎり被爆体験を伝え残していく決意を皆様にお伝えし、私の平和への誓いといたします。
 平成26年8月9日
 被爆者代表 城薹美彌子



【追記】被爆者の「平和への誓い」、事前に用意してあった式典次第の冊子に書いてあったことと違ってたんですね。今日(10日)、地元の新聞読んで初めて知りました。だから読んだときと印象が違ってたんだー。新聞には「文中にない言葉が、自然とあふれ出た」って書いてあったけど、そうだったんだ。その勇気を賞賛します。

それから、昨日の平和祈念式典は台風の影響で異例ずくめだったようですね。開場時間を1時間繰り下げたり、献茶会、ってものが中止になったり。献茶会ってなんなんだろ?それにあそこ、例年はテントの中でやるのね。あの日差しの中でやったことはなかったのか。いや、ホント、暑かったです。高齢者には酷だったと思いますが、わたしの体験として、あの日差しが経験できてよかった。でもそれを知ってますます「普段の平和祈念式典」を体験してみたくなりました。またここに必ず来たい。
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08-06 Wed , 2014
8月6日午前8時15分
今朝、起きてゴミ出しをするときに、真夏の日差しを浴びながら「今日も暑いな。69年前のあの日もそうだったんだろうか」と思った。

ところが今日の広島は大雨だったらしい。雨の日は43年ぶりとのこと。道理でこの日は「晴天」というイメージしか持ってないわけだ。もし、あの日が雨だったら、、果たして爆弾は落とされたんだろうか。それとも長崎のようにどこか別の「晴れている」ところが選ばれて、その地に落とされたんだろうか。ふとそんなことを考えた。

もう何年も何年も同じ日に同じ日記を書いているけれど、今年も書く。

今日は広島に原爆が投下された日。1945年8月6日、午前8時15分に原爆が落とされて、わたしの身内が行方不明になった。その3日後、行方不明になった身内を捜すために祖父と父が入市、被爆者となった。それゆえわたしは被爆二世である。

身内は69年経った今も行方不明だ。8月6日、たまたま用事があって爆心地に向かったらしい。「らしい」というのは、誰もそこへ向かうのを見た人がいないからだ。そしてそのまま帰ってこなかった。だからおそらくあの日あのときは爆心地にいて原爆に遭い亡くなったのだろう、としか考えられない。まぁ今さら真実がはっきりするわけはない。このまま未来永劫、行方不明のままだろう。

最後の姿が分からないのだから、想像するしかない。広島には原爆投下によって一瞬の内に影だけ残して消えてしまったという、その影が投影された石が残っている(「人影の石」という)。わたしは幼い頃からその石の話を聞くたびに「もしかしたらその影は身内なのかも知れない」と思っている。不思議と被爆して焼けただれて「水をください」と言いながら死んでったという想像はあまりしない。おそらく想像としてはこちらの方がよりつらいからあまり考えたくないというのもあるだろう。だから「人影の石」の話はわたしにとっては「原爆の恐怖」を認識させるものではなく、感覚的なんだけど、あの石の影からわたしは妙に暖かいものを感じるのだ。遺族という当事者ゆえの歪んだ感覚と言えるんじゃないかなと思っている。

一方、「被爆二世」という当事者としての感覚。これは恐怖としか言いようがない。自分の中に病の爆弾を抱えているような感覚が常にある。将来どんな病気にかかるかは被爆者でなくても誰もが知りようがないし、それはわたしも同じなのだけれど、「人より病気になりやすいのではないか」「考えつかない変な病気になったらどうしよう(既に口腔異常感症という一般の人では考えられない変な病気は持ってるけど)」とどうしても考えてしまう。世の中には福島原発の事故で放射能の恐怖に脅えている人に対して「放射脳」と馬鹿にしている人もいるみたいだが、わたしは逆に馬鹿にできる人はおめでたいと思っている。全く人ごととして考えられて羨ましいとさえ思う。

最近ちょっと調べてみて知ったんだが、東京都に住む被爆二世は年に2回無料で健康診断が受けられるそうだ。ただし、健康診断を受けるためには自身が被爆二世だと言うことを証明しなければならなくて、親の原爆手帳の写しや親との関係を示す戸籍抄本、そして東京に住んでいることを証明する住民票の写しなどを申請書に添えて提出しなければならない。

そして認定されたある種の病気にかかると医療費は免除になる。認定されたある種の病気って見てみたらすごく幅広いんだよね。まぁ精神病は除外されてるから、今のところわたしは適用されてないわけだけど。この病気の種類を見て、わたしは「やっぱり被爆の影響によってあらゆる病気にかかりやすいと考えられているんだ」と思った。だから怖かった。ある意味「被爆二世はこういう病気にかかりやすいですよ」って都からのお墨付きを受けているわけだからね。

では逆にこの制度がなくなれば、病への恐怖心はなくなるかというと全然そんなはずないわけで。制度がなくても恐怖心はあるに決まっている(当然のことながら、今年初めてそういう制度があると知った以前から恐怖はずっと持ち続けている。恐怖心は物心付いてからずっと持っている)。逆にこういう制度があってよかったと思うし、「日々恐怖心と闘っているわけだからこのような制度があって当然だ」と思う。しかしね、おそらくこの制度は全国の都道府県のうち、広島、長崎はあるとしても、他は東京くらいしかないんじゃないだろうか(きちんと調べてないので分からないが)。これはひとえに当事者団体の活動によるものなんだろうなと推測する。本当にありがたいと感じると共に、東京以外に住んでいる被爆二世との格差があることに心が痛む。

こういうことを書くと「被爆者特権」っていう人がいるんだろうな。どこが特権だよ。特定の病気に対する医療費が免除されることと引替に、日々恐怖心と闘わなくてはならない身分になってみろと言いたい。わたしはこんな「特権」なんかいらないから「被爆二世」という身分を捨てたい。被爆の影響が自分の中にあるかも知れないという恐怖が全くない人生ってどんなにすがすがしい気持ちになるかと思うと、本当に本当にその方が羨ましい。わたしは被爆二世になんか生まれたくなかった。被爆二世として生まれた恐怖を「特権」などという輩にすべて押しつけることができたら、本当に喜んで押しつけるよ。医療費免除も喜んで押し付けてあげる。そしてわたしは恐怖のない人生を楽しむ。そんなことができたら、どんなにいいだろうと思う。

と同時にわたしがここで毎年同じようなことを書いているのは「わたしは被爆二世になんか生まれたくなかった」という気持ちからだ。このことは翻って「もう二度とわたしのような思いをする人間を作り出してはならない」と思うからだ。未来を生きる人たちにわたしのような思いはさせたくない。だから、わたしは戦争に反対する。

核兵器を使った戦争に反対するんじゃなくて、戦争自体に反対する。今日、広島市長の平和宣言とか、首相の言葉を聞いてて思ったのは「核兵器を使わない戦争ならしてもいいってこの人たちは思ってるのかな」ってことだった。特に首相の言葉は「核兵器廃絶に向けてぼくちゃんこれだけのことをしてますよ~」っていう羅列に過ぎなくて、聞いててすごく気持ちが悪かった。この人も平和、平和と言っているが、わたしが思ってる平和とは全く違うものだからね。広島市長も被爆者援護だけを国に求めるんじゃなくて、もっと積極的に今、国でなされようとしていることに明確に反対すればよかったのにと思う(集団的自衛権のことです)。

しかし今年の平和記念式典はなんだかとてもサラッと終わってしまった感があるな。平和記念式典ってわたしの中のイメージではもっとおどろおどろしいものがあって、本当はとても見るのが嫌なんだけど、今日のは「あれ?」って思った。中継の仕方が変わったのかな、、子ども宣言のとき、子どもたちが「お祖父さんが被爆者です」って紹介されているのを聞いて「へー。お祖父さんが被爆者って、わたしも同じだよ〜」って思ってたら、子ども宣言の中で「お祖父さんは5歳のときに被爆しました」って言ってた。げ。うちの父と同い年だったorz

ただ毎度のことながら、あれを見ると「悲惨な思い」「悲惨な目」「被害者」になりたくないから戦争をしてはならないという論理がねー。まぁ一方でそれは正しく、そして原爆投下されたという点では全くの被害者なので、この場では仕方がないと思うのだが、やっぱりそれだけではいけないと思うのよ、わたし。これも何度も書いてるけど、加害の面もきちんと認識しなければ。戦争では「誰かを殺す」(それが自分の意志に反していたとしても)「誰かを悲惨な目に遭わせる」「誰かの幸せを奪う」可能性があることもきちんと認識しておく必要があると思う。過去の加害の面について目を逸らさずに事実を知り、戦争をすることによって被害者だけじゃなく加害者になる可能性も十分あるということ。被害者だけじゃなく加害者にもなりたくないから戦争をしない、そのことももっと訴えていかなければね。

最後に。

被爆者と被曝者は違うものなんだけど、やはり被爆二世として気になるのは、福島原発の被曝者のことだ。最近新聞で読んだのだが、福島(だけではなくその周辺)の住民に対する健康被害調査、健康被害への国の補助、などの話し合いがされればされるほど「なかったこと」への方向に進んでいるらしい。「なかったこと」、それはイコール「ない」では全くない。「ないことにしたい」のであれば、逆にきちんと調査をして、本当に影響がなかったら「ありません」と言え。調査自体をしない、ということは、すなわち「調査したら何か不都合なことが出てきそうだからやらない」と言っていることと同じことだ。「調査したら不都合なことが出てきて、そのことが今後の原発を存続できないということに繋がるから調査しない」と言っていることと同じだ。福島(及びその周辺の地域)の人たちが自分の健康や自分の子どもへの健康に対してどんなに心細く、不安な気持ちでいるかは、被爆二世という当事者として、本当によく分かる。国民(住民、でもいいんだけど)に対してなすべきことをしない国なんて、それは国としての役割を果たしていない。国は「国土を守る」とか「大切な人を守る」とか国民に言わせようとしているけれど、でも国自体は全く国民を守ってくれないではないか。国を愛することを要求するだけ。国は国民を決して愛さない。大切にしない。しかし本来、国は国民のために存在する。国が存在するために国民が存在するんじゃない(という概念も本当は自明ではなく、非常に新しいものなんだけどね)。

わたしはもちろん原発に反対だが、調査して何か異常なことが出てくればいいとは全く思っていない。それが原発反対するための理屈に使えるとは全く思っていない。逆だ。異常がなければいいと思っている。健康被害調査を受けることによって、一人でも被曝に対する不安を取り去れる人がいたらいい。

こんな思いをする人間はわたしたち、広島長崎の被爆者とその子孫だけで十分なんだよ。
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08-15 Thu , 2013
8月15日におもう
正直今日は日記は書くつもりはなかった。
6日と9日に書きたいことは書いたつもりだし。

でも今日の正午に行なわれた「全国戦没者追悼式」をテレビで見て気が変わった。
首相の挨拶からはアジアの人に対する加害、反省の言葉がなかった。不戦の誓いもなかった。
あるのは「お国のために戦った」人への「美しい日本を守るため」「愛する家族のために」といった「美しい」言葉ばかり。表面的な言葉の羅列に背筋がゾッとした。「きけ わたつみのこえ(日本戦没学生の手記)」でも読んで学生たちがどんなに「死にたくない」と思っていたか知れ、と言いたかった。まぁこういう人は「生きたくても生きられなかったお国のために尊い命を捧げた立派な人たち(英霊)」という言葉に代わっていくのだろうね、この手記を読んでも。決して「反戦」には行き着かないんだろう。それを思うと絶望的な気持ちになる。

わたしは偶然、一昨日から昨日にかけて「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎著)という本を読んだ。この本を初めて読んだのはいつだったか、わたしは全く覚えていない。けど、ものすごく感動して自分の手元に持っておきたいと思って岩波文庫から出ているこの本を買った。その本の版が'83年12月(第8刷)ってあるから、少なくともわたしが中3の12月以降だってことが分かる。だからおそらく中学時代にこの本を初めて読んだんだと思う。

それ以来、わたしはこの本を幾度も繰り返し繰り返し読んだ。その割には内容をちっとも覚えてなくて毎回「ああ、そうそうこんな話だった」って思うのだが、今回は久々に読み返してその内容をちっとも覚えていない割には自分が生きるにあたって大切にしようと思っていることがこの本に書かれていたので逆に「内容は覚えていなくてもわたしの血となり肉となっているんだなあ」と感慨深かった。わたしも40代となり、それなりに「自分らしさとはなんなのか」について、ある程度答えが出てきているような気がした。

そしてこの本で最も重要な話だと思っている「雪の日の出来事」「石段の思い出」の章を読んで、今まで考えたことがない考えが思い浮かんだ。

この本の主人公はコペル君って少年なのだけれど、他に親しい友人が3人いて、そのうちの一人が普段の彼の言動から上級生に目を付けられてしまう。そして上級生が彼に制裁を加えるかも知れない、という噂を聞いたとき、コペル君を始め仲間の3人は「そういうことがあれば君を守るよ」って約束をしたのだけれど、実際そういうことが起きたとき、コペル君だけ逃げちゃったんだよね。「仲間がいたら出てこい!」って上級生に言われたんだけど、コペル君は怖くて出て行けなかったの。それが雪の日の出来事。

その日からコペル君は熱を出して肺炎になりかけ、半月くらい学校を休んじゃうんだけど、その間仲間の3人に対してどのようにすべきか、あれこれ考える。言い訳もたくさん考えて「これならつじつまが合うんじゃないだろうか」って思ったりする。けど、それによって相手は納得させられても、自分自身だけは本当は逃げたという自分を知っている。そしてついには「謝りたい」と思う。しかし、謝ったところで相手が許してくれるとは限らない。それが怖くてコペル君は手紙を出せずにいる。そしてそのことをコペル君の母の弟、おじさんに相談するのだ。

おじさんはすぐに「(上級生に目を付けられていた友人に)手紙を書きなさい。手紙を書いて謝りなさい」と言うのだけれど、コペル君は「それによって許してもらえるかな?」とおじさんに言う。おじさんが「それは分からない」というとコペル君は「じゃあ、僕、いやだ」と答えてしまう。そこからのおじさんの言葉がおそらく一番重要だ。

「潤一君!」

 叔父さんは、もうコペル君と呼ぶのをやめて、まじめに話しかけました。

「そんな考え方をするのは、間違ってるぜ。-君は、友だち同志の堅い約束を、破ってしまったじゃないか。黒川(上級生)のゲンコツがこわくって、とうとう北見君(コペル君の友だちで上級生に目を付けられている子)たちといっしょになれなかったじゃないか。そして、自分でも悪かったと思い、北見君たちが怒るのも仕方がないといっている。それだのに、なぜ、そんなことをいうんだい。なぜ、男らしく、自分のしたことに対し、どこまでも責任を負おうとしないんだい。」

 コペル君は、鞭でピシピシと打たれているような気持でした。叔父さんは、構わずはげしい調子でつづけました。

「北見君や水谷君(コペル君の友だち)から絶交されたって、君には文句いえないんだぜ。ひとことだって、君からいうことはないはずだぜ。」

 コペル君は、目をギュッとつぶって、切なそうな顔をしました。

「そりゃ、仲のよかった友だちと、こんなことから別れてしまうのはつらいさ。」

と、叔父さんは静かな調子に戻っていいました。

「北見君たちに仲直りしてもらいたいッて気持は、叔父さんだってわかるよ。でもね、コペル君、いま君はそんなことを考えていちゃいけないんだ。いま君がしなければならないことは、何よりも先に、まず北見君たちに男らしくあやまることだ。済まないと思っている君の気持を、そのまま正直に北見君たちに伝えることだ。その結果がどうなるか、それは、今は考えちゃあいけない。君が素直に自分の過ちを認めれば、北見君たちは機嫌を直して、元通り君と友だちになってくれるかも知れない。あるいは、やっぱり憤慨したまま、君と絶交しつづけるかも知れない。それは、ここでいくら考えて見たってわかりゃしないんだ。しかし、たとえ絶交されたって、君としては文句はいえないんだろう。だから-、だからね、コペル君、ここは勇気を出さなけりゃいけないんだよ。どんなにつらいことでも、自分のした事から生じた結果なら、男らしく堪え忍ぶ覚悟をしなくっちゃいけないんだよ。考えてごらん、君がこんどやった失敗だって、そういう覚悟が出来ていなかったからだろう?一たん約束した以上、どんな事になっても、それを守るという勇気に欠けていたからだろう?」

わたし、これ読んで「日本の戦争加害責任」というのが思い浮かんだ。前も書いたけど、この本は何度も何度も繰り返し読んでいる。しかし、この部分を読んでそんなことが思い浮かぶのは初めてだ。ちなみにこの本はそういうことは全然想定されて書いていない。なぜならこの本は1937年(昭和12年)に出版された本だからだ。それでもこの部分を読んで「日本の戦争加害責任」が思い浮かぶのは、わたしが日本がどうすればいいのかが明確に表わされているからだと思う。そして今の、いや、今までの日本がそうしてこなかった、そして今の日本がそうするつもりが全くない、というのが本当に悔しくてたまらないからだと思う。

「なぜ、男らしく、自分のしたことに対し、どこまでも責任を負おうとしないんだい。」
「しかし、たとえ絶交されたって、君としては文句はいえないんだろう。」
「どんなにつらいことでも、自分のした事から生じた結果なら、男らしく堪え忍ぶ覚悟をしなくっちゃいけないんだよ。」

まぁわたしとしては何回も「男らしく」って出てくるのが引っかかるんだけどさ(笑)わたしはこの言葉をそっくり今の日本で「いつまで謝ればいいんだ」とか「いつまでも謝り続けるのは自虐史観だ」とか「謝り続けたら日本人としての誇りが持てない」とか「謝り続けたら相手に付けいる隙を与える」って言ってる人に言って聞かせたい。我々はそういうことをしてしまったのだと。そしてその責任は我々で負わなければいけないんだと。そして「謝ったからもういいだろう」って思うこと自体が誤りなのだと。

だってさ、例えば自分自身のことで考えてみるけど、もし万が一、アメリカが「原爆落としてごめんなさい」って言ったとしても、わたし、許せないもん。許す気もないもん。そんなこと言われても父親が被爆者なのは変わりないし、わたしも被爆二世なのは変わりのないことだもん。「ごめんなさい」って言われるんだったら「だったら元に戻せ、それだったら許してやる」って言いたいもん。でもそんなこと絶対にできっこない。だからいくら言われても絶対に許せない。それと同じだと思うんだよね。いくら謝り続けたって、被害を受けた方は絶対に許すことは出来ない、自分自身のことを考えてもそう思う。

しかし、では一体その中で「謝り続ける」ということはどういうことなんだろうかと考えた。わたしがいくら被害者であるアジアの人たちに直接「ごめんなさい」と言っても所詮個人対個人の話でしかないし、そう言われた人たちは却って困ってしまうだろう。わたしが個人のアメリカ人に「原爆落としてごめんなさい」って言われてもなんとも言いようがないのと同じだ。ではどうすれば謝り続けることなのかなって思ったんだけど、それはやっぱり「もう二度とこのようなことはしません」ってことなんだろうと、わたしという個人としてできることはこれくらいしかないように思うのだ。

「できるのかな」「そこまでの覚悟はあるのかな」って思う。平和な世の中で「戦争反対」と言うのは簡単なことだろう。けれどもし、これからの日本が戦前のように言いたいことが言えない世の中になってしまって、国に不都合なことを言えば弾圧されて殺されるような時代が再び来たとしたら、その中でそれでも「戦争反対」って言い続けることはできるのかなって。正直、怖い。そこまでの強い気持ちが自分に持てるか、それはよく分からない。だけどそれを言わないといけないんだ、って、そう言えたらこの文章もちょっとはさまになってカッコよく見えるんだろうけどね(笑)、でも、わたしは嘘が書けない。もしそうなってしまっても「戦争反対」って言い続けることができる、って自信が今の自分はあるかどうか、よく分からないんだよ。。ない、というわけではないのだけれど。。

だからこそ、普段から言っておかなければならないんだと思う。段々、わたしの望むような日本でなくなってしまっているけど、今はまだ言える。だから今のうちに言っておかなければと思う。それがわたしにできること。わたしのアジアに対する人たちに「ごめんなさい」と言い続ける姿勢。それを認めてもらおうとは思っていない。ただ「ごめんなさい」と言うのみ。
18:10 | 被爆二世・戦争などのこと | page top↑
08-09 Fri , 2013
8月9日午前11時2分
今日は長崎の原爆の日。

広島に比べると影が薄いと思ってしまうのだが、どうだろうか。まぁ昔のわたしも今日が長崎に原爆が落とされた日というのは知ってても、11時2分に黙祷なんかしなかったからね。気が付いたら過ぎてた、っていうのがいつものことだった。あとはやっぱりうちは広島の方に関係があるので、広島の記憶の方が強烈ってのはあるかも知れない。

例えば黙祷の時刻。広島の時は未だ行方不明な身内のことを考える。「あの日、あのときどこにいたのですか。どこで原爆に遭ったんですか」って。1分間、ずっとそんなことを考えている。しかし、長崎の場合は身内はいないし、そういう点で当事者じゃないからそういうことは考えない。だから却っていろんなことが頭の中をぐるぐるする。あのとき原爆に遭った人々。水を求めた人々。後遺症に苦しんだ人々。残された遺族。もう再びそんな世界にしてはならない。平和な世の中を作っていきますから見守っていて下さい、等々。。まぁおそらくだいたいの人と同じことを思ってると思う。

それと長崎には自分と関係のある身近なエピソードがない。だから、やっぱり影が薄い。

でも、、それだからこそ広島にも長崎にも無縁な人って原爆投下って言われてもピンと来ないんじゃないかなあ、とも思う。わたしも長崎はピンと来ない。広島の原爆のことは身を引きちぎられるような感じがするけれど、長崎は一般的な話としか感じられない。当事者じゃないってそういう感じなのかも知れないね。それはある程度は仕方ないと思う。けど、平和は誰しも無縁なことじゃない。平和な世の中があって、今の自分の暮らしがあるのだ。それを考えたとき、やっぱりもう少しは身近に感じて欲しいよなって思う。

何度目かの長崎の平和祈念式典(最近、特に気になって言うけど、広島は平和「記念」式典で、長崎は平和「祈念」式典で字が違うのよ)を今日、テレビで見て「ああ、いつか長崎の式典に行ってみたいな」って思った。中継時間の関係かも知れないけど、長崎は城山小学校の生徒が歌う「子らのみ魂よ」と純心女子高校の生徒が歌う「千羽鶴」があって、それがかなり後に残る。年に1回聞くだけだけど、メロディーを聞くと思い出す。その歌を、生で聞きたいなあって思ったのだ。広島の方は中継時間が35分しかないので、かなり忙しい感じだし、原爆投下時間前に流れる音楽がすごくおどろおどろしくてわたしは好きじゃない。できれば聞きたくない。あれが流れると「ああ、またこの曲を聞かなければならないのだ」って思ってしまう。以前、1回だけ広島の式典に行ったことはあるのだが、あれだけでもういいって感じ。それに比べると長崎の式典はなんだかさわやかな感じがするのだ。平和祈念式典にさわやかもおどろおどろしいもないと思うし、どっちがいいとか悪いじゃないけど、原爆投下時間の関係なのだろうか、なんだかそういう感じがするのだ。長崎の平和公園は1回行ったことがあるけど、もう一回、今度はじっくり周囲を見てみたいと思う。

それにしても今日の長崎市長の平和宣言はよかったと思う。広島よりよかったと思う。言ってることは大した違いは実はないのだが、長崎の方がきっぱりと政府に抗議していてよかった。アメリカ大統領とロシア大統領に核廃絶を呼びかける姿勢もよかった。そして被爆者による平和への誓いがとてもよかった。まぁ核兵器のみならず原発にも反対する、平和憲法を護るというわたしが考えていることと同じことを言ってくれた、ってのはあると思うけどね。しかし、後何年後かには被爆者による平和への誓いはできなくなるんじゃないかなあって、そんなことを思いながら聞いていた。広島は子どもに平和を誓わすんだけど、圧倒的に被爆者の話の方が説得力あるんだよね。だけど被爆者は年々少なくなっていくわけで。話せる被爆者がいなくなったら、長崎は一体どうなるんだろうなって思った。二世が話すにしろ、自分自身の体験じゃないからなあ。

それにしてもtwitterをしてるといろいろ目にするのがつらい文字列が目に入ってきたりする。被爆者はアメリカに抗議しろだの、悲しむより戦え、だの。アメリカに抗議しないのは「自虐史観」なんだそうだが、確かに日本は敗戦国であるということから、アメリカには抗議できない、という背景があったのは否めないだろう。抗議しても仕方がない、と思ってしまう部分はあると思う。が、被爆者が求めるのは「世界恒久平和」だ。アメリカ一国に訴えても仕方がない。逆に原爆に遭った「被害」のみを取り上げて、その原因を作ったアメリカに被害を訴えるというのみに「矮小化」させないでくれ、と思う。もちろん「自虐史観」って言う人は被爆者が「世界恒久平和」を訴えることこそが既に自虐的にねじ曲げられた結果だ、と言いたいんだと思う。しかしわたしは例えそれが事実だとしても、この世の中のためには「世界恒久平和」を訴える方がよっぽど人類のためになると思う。戦争は一部の人が莫大な利益を得るもので、大多数は不幸になる。自由は剥奪され、無理矢理戦いに駆り出される。それを人々は望んでいるのか?決してそうではないと思うのだが。

また、被爆者は悲しむより戦え、というのは、例えば「すべての同性愛者はカミングアウトして戦え」と言われているのと同じだ。まぁこれを言ったのはアメリカの映画監督だそうだから、同性愛者に対してもみんなカミングアウトして戦えと言うんじゃないかとは思うが。。戦う、戦わないは個人の自由だし、世の中に訴えたい人もいればそうでない人ももちろんいる。わたしなんかは戦うより悲しむ方だから「戦わなきゃダメじゃないか」と言われるのは非常につらい。逆になんでアンタにそんなこと言われなきゃならないのだ、と思って余計に悲しい。反論するのもつらい。でも言われっぱなしもつらい。どちらにしてもつらくて悲しいんだから、そういうことはどうぞ言わないでくれと思う。

ただアレだね、被爆者がアメリカに対して抗議しない、ということを捕らえて「従軍慰安婦も日本に被害を訴えるな」って思う人いるだろうな。。そこで「韓国も中国も日本に謝罪要求してもいい」って言うとまた「自虐史観だ」って言われるだろうな。だいたい「自虐史観だ」って言う人の思考って分かってて(笑)、まぁなんでも「自虐史観だ」って言って人を貶めてたら楽だろうなって思います(笑)

あのね、加害者は被害者に「アンタにはもう謝ったからこれでいいだろう」って権利はないの。それを決めるのは被害者なの。だから加害者は被害者が納得してくれるまで謝り続けなければならないの。原爆に対して言えば、加害者はアメリカで、だから、アメリカが被爆者に対してどうするか考えるべきことなの。例え被爆者が謝罪を求めてなくても。日本は日本で加害を加えたことがあるのだから、それについてひたすら考えるべき。こう言うと「加害の事実はない」とか「そんなこというから中国韓国に舐められるんだ」とかって意見が出てくるんだろうな。しかし、わたしの祖父は戦時中、中国でひどいことをしてシベリア送りになって戦後、長いこと日本に帰って来られなかったのだがね、、

なんか長崎の原爆の日からつらつらと思ったことを書いてしまった。

【追記】平成25年、長崎市長の平和宣言。

 68年前の今日、このまちの上空にアメリカの爆撃機が一発の原子爆弾を投下しました。熱線、爆風、放射線の威力は凄まじく、直後から起こった火災は一昼夜続きました。人々が暮らしていたまちは一瞬で廃墟となり、24万人の市民のうち15万人が傷つき、そのうち7万4千人の方々が命を奪われました。生き残った被爆者は、68年たった今もなお、放射線による白血病やがん発病への不安、そして深い心の傷を抱え続けています。
 このむごい兵器をつくったのは人間です。広島と長崎で、二度までも使ったのも人間です。核実験を繰り返し地球を汚染し続けているのも人間です。人間はこれまで数々の過ちを犯してきました。だからこそ忘れてはならない過去の誓いを、立ち返るべき原点を、折にふれ確かめなければなりません。

 日本政府に、被爆国としての原点に返ることを求めます。
 今年4月、ジュネーブで開催された核不拡散条約(NPT)再検討会議準備委員会で提出された核兵器の非人道性を訴える共同声明に、80か国が賛同しました。南アフリカなどの提案国は、わが国にも賛同の署名を求めました。
 しかし、日本政府は署名せず、世界の期待を裏切りました。人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではない、という文言が受け入れられないとすれば、核兵器の使用を状況によっては認めるという姿勢を日本政府は示したことになります。これは二度と、世界の誰にも被爆の経験をさせないという、被爆国としての原点に反します。
 インドとの原子力協定交渉の再開についても同じです。
 NPTに加盟せず核保有したインドへの原子力協力は、核兵器保有国をこれ以上増やさないためのルールを定めたNPTを形骸化することになります。NPTを脱退して核保有をめざす北朝鮮などの動きを正当化する口実を与え、朝鮮半島の非核化の妨げにもなります。
 日本政府には、被爆国としての原点に返ることを求めます。
  非核三原則の法制化への取り組み、北東アジア非核兵器地帯検討の呼びかけなど、被爆国としてのリーダーシップを具体的な行動に移すことを求めます。

 核兵器保有国には、NPTの中で核軍縮への誠実な努力義務が課されています。これは世界に対する約束です。
 2009年4月、アメリカのオバマ大統領はプラハで「核兵器のない世界」を目指す決意を示しました。今年6月にはベルリンで、「核兵器が存在する限り、私たちは真に安全ではない」と述べ、さらなる核軍縮に取り組むことを明らかにしました。被爆地はオバマ大統領の姿勢を支持します。
 しかし、世界には今も1万7千発以上の核弾頭が存在し、その90%以上がアメリカとロシアのものです。オバマ大統領、プーチン大統領、もっと早く、もっと大胆に核弾頭の削減に取り組んでください。「核兵器のない世界」を遠い夢とするのではなく、人間が早急に解決すべき課題として、核兵器の廃絶に取り組み、世界との約束を果たすべきです。

 核兵器のない世界の実現を、国のリーダーだけにまかせるのではなく、市民社会を構成する私たち一人ひとりにもできることがあります。
 「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」という日本国憲法前文には、平和を希求するという日本国民の固い決意がこめられています。かつて戦争が多くの人の命を奪い、心と体を深く傷つけた事実を、戦争がもたらした数々のむごい光景を、決して忘れない、決して繰り返さない、という平和希求の原点を忘れないためには、戦争体験、被爆体験を語り継ぐことが不可欠です。
 若い世代の皆さん、被爆者の声を聞いたことがありますか。「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」と叫ぶ声を。
 あなた方は被爆者の声を直接聞くことができる最後の世代です。68年前、原子雲の下で何があったのか。なぜ被爆者は未来のために身を削りながら核兵器廃絶を訴え続けるのか。被爆者の声に耳を傾けてみてください。そして、あなたが住む世界、あなたの子どもたちが生きる未来に核兵器が存在していいのか。考えてみてください。互いに話し合ってみてください。あなたたちこそが未来なのです。
 地域の市民としてできることもあります。わが国では自治体の90%近くが非核宣言をしています。非核宣言は、核兵器の犠牲者になることを拒み、平和を求める市民の決意を示すものです。宣言をした自治体でつくる日本非核宣言自治体協議会は今月、設立30周年を迎えました。皆さんが宣言を行動に移そうとするときは、協議会も、被爆地も、仲間として力をお貸しします。
 長崎では、今年11月、「第5回核兵器廃絶-地球市民集会ナガサキ」を開催します。市民の力で、核兵器廃絶を被爆地から世界へ発信します。

 東京電力福島第一原子力発電所の事故は、未だ収束せず、放射能の被害は拡大しています。多くの方々が平穏な日々を突然奪われたうえ、将来の見通しが立たない暮らしを強いられています。長崎は、福島の一日も早い復興を願い、応援していきます。
 先月、核兵器廃絶を訴え、被爆者援護の充実に力を尽くしてきた山口仙二さんが亡くなられました。被爆者はいよいよ少なくなり、平均年齢は78歳を超えました。高齢化する被爆者の援護の充実をあらためて求めます。
 原子爆弾により亡くなられた方々に心から哀悼の意を捧げ、広島市と協力して核兵器のない世界の実現に努力し続けることをここに宣言します。

2013年(平成25年)8月9日
長崎市長 田上 富久


同じく、平成25年、被爆者代表の平和への誓い。

 今年もまた、暑い夏がやってきました。あの日のことは、私の脳裏から消えることはありません。当時、私は18歳、師範学校の2年生でした。毎日、動員学徒として三菱兵器住吉トンネル工場に通っていました。1945年8月9日、夜勤を終え、爆心地から北1・8キロのところにある寮に戻ったのが午前7時ごろでした。主食のカボチャを食べた後、すぐに寝ました。

 バリバリバリという音で目が覚め、その瞬間、爆風で吹き飛ばされ、気がついた時には部屋の壁に打ちつけられていました。隣に寝ていた友人は血だるまになっていました。私自身も左手首と左足が焼けただれ、飛び散ったガラスの破片で体中から血が流れ、赤鬼のような姿になっていましたが、はだしのまま20メートルほど先の防空壕(ごう)まで逃げました。

 防空壕の中はすでに人でいっぱいでした。その前には黒焦げになっている人、皮がペロリと垂れ下がっている人、鼻や耳がなくなっている人、息絶えたわが子を抱きしめ放心状態で座り込んでいる母親、全身焼けただれぼうぜんと立っている人々の姿がありました。まさに地獄絵図でした。

 やがて起こった火事に追われ、長与の臨時治療所にたどり着きました。その翌日から疎開先の自宅で療養しましたが、2カ月もの間、高熱と血便が続き、立つこともできず、脱毛と傷の痛みに悩まされました。近くに避難をしている人が次々と亡くなっていく話を聞くと、次は私の番かと恐怖の中で死を覚悟したものでした。私はそのときまだ、放射能の怖さを知りませんでした。

 幸いにして、私はこうして生き延びることができました。今、強く願うことは、この大量破壊・大量殺人の核兵器を一日も早く、この地球上からなくすことです。しかし、いまだに核実験が行われ、核兵器の開発は進んでいます。もし核兵器が使用されたら、放射能から身を守る方法はありません。人類は滅亡するでしょう。

 わが国は世界で唯一の戦争被爆国として、核兵器廃絶の先頭に立つ義務があります。私たち被爆者も「長崎を最後の被爆地に」をスローガンに核兵器廃絶を訴え続けてきました。それなのに、先に開かれた核拡散防止条約(NPT)再検討会議準備委員会で「核兵器の人道的影響に関する共同声明」に賛同署名をしませんでした。私たち長崎の被爆者は驚くというより、憤りを禁ずることができません。

 その一方で、世界を震撼(しんかん)させた東京電力福島第1原子力発電所の事故で、新たに多くの放射線被ばく者がつくりだされ、平和的に利用されてきた原発が決して安全ではないことがあらためて示されました。それにもかかわらず、事故の収束もみえないのに原発再稼働の動きがあるとともに、原発を他国に輸出しようとしています。

 ヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマの教訓として「核と人類は共存できない」ことは明らかです。政府は誠実かつ積極的に、核兵器廃絶さらには原発廃止に向けて行動してください。

 そして今、平和憲法が変えられようとしています。わが国が再び戦争の時代へ逆戻りをしないように、二度とあのような悲惨な体験をすることがないように、被爆者のみなさん、戦争を体験した世代のみなさん、あなたの体験をまわりの人たちに伝えてください。長崎では核兵器の廃絶と平和な世界の実現を願って活動を続けている高校生、若者がいます。彼らが集めた署名は100万筆になろうとしています。

 この高校生たちに励まされながら、私はこれからも被爆の実相を次の世代に伝えていきます。核兵器も戦争もない、平和な世界をつくることは、私たちすべての大人の責任です。

 ここに、私の願いと決意を述べて、平和への誓いといたします。

 平成25年8月9日

 被爆者代表 築城昭平

21:55 | 被爆二世・戦争などのこと | page top↑
08-06 Tue , 2013
8月6日午前8時15分
今年もこの日が来た。あの日から68年経った。

今日の広島市長の平和宣言で「結婚して優しかった義母が自分が被爆者だと分かると急に冷たくなって離婚させられた」というところがあったのだけれど、それを聞いて「うちの両親と少し似ている」と思った。

うちは父が被爆者なのだけれど、結婚するまで自分が被爆者手帳を持っていることを言わなかった。結婚して初めて母親に「自分は被爆者手帳を持っている」と言ったらしい。それを聞いてうちの母は「騙された」と思ったそうだ。ただ離婚するまではならなかったみたいだが。

確かに「被爆者差別」の一例、とも言えるだろう。そして「こういう差別はよくない」って言えばいいだろう。

けど。これまた今日の広島市長の平和宣言の中で「言われなき風評被害」と言ってたのだけど、これって本当にそうなのかな、、「放射能は移る」とか、そういうのは全くのでたらめだけれど、現実に被爆者は被害を受けてるじゃん。子どもにだって影響するかも知れないじゃん。わたし二世だから言うけどやっぱり不安です。「あー、近い将来、やっぱガンになるのかな。自分は人よりなりやすいんかな」って思う。それだってやっぱり「被害」じゃん。それを「風評被害」って言われたら「あなたの思っていることは全部ウソです。それは被害妄想です」って言われているような気がして、悲しくなる。

じゃあ被爆者や、その二世や三世が結婚差別を受けていいんか、と聞かれると、正直、わたしにはよく分からない、というのが今のところの答えで。。それはわたしが二世という当事者だからであって。。難しいです。

でも、今の日本は原発事故にせよ、なんでも「風評被害」にしたがって、放射能汚染をないものにしようとしているようにしか見えない。ないものにして、また「原子力は安全ですよ」って言って再稼働させようとしか思えない。でもさ、核のゴミ処理はどうなってるのか、その問題をうやむやにしたままで危険なゴミだけ増やしてもいいのか、そういうのはどうなるの?わたしは原子力技術に反対しているわけじゃない。けど、現実問題として、こんなに頻繁に地震の起こる国は原子力発電は向いていないと思う。地球上には今まで全く地震が起こったことのないところもたくさんある。そういうところは原子力発電でもいいと思う。ただ、先に書いたゴミ処理の問題。これをどうするか方法を決めた後での話だ。

話が逸れた。ただ、今、原子力のことを考えるならばやはり原発事故のことは避けて通れないと思う。原爆と原発は違う、という方向に話を持って行かれそうなのだが、どこが違うんですか?放射能に違いはあるんですか?原発の放射能はいくら漏れても人体に被害を及ぼさないんですか?

わたしの母は、わたしが二十歳になったときにわたしをガン保険に入れた。やはり母も自分の子どもが他の人に比べるとガンになりやすいんじゃないかと考えていたからだろう。

もうこんな人間を出さないで下さい。悲しい思いをするのはわたしらで終わりにして下さい。放射能爆弾は他の爆弾と違ってその人のみを殺すだけではないのです。その子孫にまで影響を及ぼすのです。

「平和を祈っているだけで平和が実現すると思っている」とか「護憲を叫べば平和が来ると思っている」などとよく言われているけれど、平和を祈って何が悪い。平和を訴えて何が悪い。平和憲法を守ってどこが悪い。平和は希求しなければ平和にならない。今の平和は過去の自分たちが勝ち取ったものである。勝ち取ったものは誰にも渡さない。

それだけだ。
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08-05 Sun , 2012
8月6日午前8時15分
今年もこの季節がやってきた。

って毎年は当日に日記を書くんだけど、わたし、明日から大学の夏スクが始まるのね。8時15分はちょうど電車の中にいる時間で、毎年のようにテレビでやる「平和記念式典」を見ることができない。一日中講義を受けているので毎年のように日記が書けない。なので、1日早いんだけど、今日のうちに日記を書いておきたい。

でもね、前から思ってることなんだけど、戦争の話は被害の話ばかりで加害の話は滅多にない。滅多にないどころか、加害者がこの世からいなくなっていることをいいことにして、その加害の実態自体を「ないこと」にしようとしている人たちがいる。それか「日本は戦争で悪いこともしたが、いいこともした」と「いいこと」の方を重点的に取りあげて「悪いこと」を相対的に軽くしようとしている人もいる。

なぜ「やったことはやったこと」と言えないのか。なぜ「やったこと」は語り継げないのか。

よく「自虐史観は日本人が日本人として誇りを持てなくなる元凶だ」みたいなことが語られるけど、わたしにしてみれば、過去のやったことをきちんと反省、謝罪せずになかったことにして、そのままで生きていく方がよっぽど恥ずかしいし誇りなど絶対に持てない。なぜ「謝ること」が屈辱なのか。謝ってからこそ日本人として恥ずかしくない生き方ができるんじゃないのか。わたしはそう思う。

読もうとして体調の関係で読めなかった「虜囚の記憶」をついこの間、最後まで読むことができた。

前半は強制連行によって連れて来られ、日本で無理矢理働かされた中国人の話。後半は日本兵に無理矢理強姦された中国や台湾の女の人たちの話(皆が従軍慰安婦だったわけではない)。特に後半の話は悲惨だった。もちろん前半の話も悲惨だったが、後半の話に特にそう感じたのは、わたしが女であるからだと思う。受けた身体の痛みなど、想像に過ぎないと思うけれど「実感」できるのだ。力ずくで抑えられ、服を引き裂かれて裸にされ、強姦される。なんと痛々しいことだろう。それも一人や二人の話ではない。1回や2回の話ではない。毎日数人、十数人、それが2年3年続くのだ。女の人たちから「誇り」や「自尊心」を奪い、ただの「肉体の塊」にされ、まさに性奴隷として生きさせられたのだ。そして敗戦後もすべてが終わったわけではなく、それが忘れられない記憶となって何十回も何百回も恐怖の記憶が蘇り、うなされて、その後の人生もその記憶に翻弄される。

新宿のニコンサロンでこの間見た元「日本軍慰安婦」の人たちの顔が浮かんだ。彼女たちもそのような人生を歩んできたのか。

しかし年月が過ぎ去るに連れて、加害者も亡くなってしまうが被害者も亡くなってしまう。丸で今の日本は被害者がこの世から去ることだけを待ち続けているように見える。どうにかしてこのことを風化させてしまわないようにできないものなのか。

一方、少し強引だけれど、それに比べると、被爆、というのはその個人が亡くなれば終わり、ということはない。被爆の影響はその当事者だけでなく、その子どもや孫まで受け継がれるものだからだ。しかもどの程度の影響を子孫に及ぼしているか全く分からないため、逆に言うと影響が全くなくなるのはどこまで、ということも分からない。だから何世までいけば、それからは安全です、と言うことができない。

これね、今書くと福島で被曝した人を「危険です」って言ってるのと同じなんだよね。だから正直書きたくないことではある。それはあるんだけれど、やっぱりそこが「放射能の怖さ」だと思うんだよね。「放射能の怖さ」としてこういうものがあるんだ、ということはどこをどう隠しても隠しきれるものではない、ということは指摘しておかねばならないと思う。政府はすぐ「風評被害」と言うけれど、実際に放射能をまき散らした、という事実はあるのだから、すべては風評被害ではないし、放射能の影響は影響として考えなければならない(どうしても政府は「風評被害」と言って、放射能の影響を隠そうしているか過小評価しているとしか思えないんだよな)。

放射能は人を介しては移らないけれど、子孫に影響を及ぼす可能性は否めない。だから結婚差別などがどうしても起きてしまう。

実はうちも同じだった。うちは父親が被爆者なのだけれど、父親は結婚するまで自分が被爆者で被爆者手帳を持っていることを母親に話さなかった。結婚して初めて「自分は被爆者だ」と言ったらしい。そのとき母親は「しまった、騙された」と思ったそうだ。うちの場合、まだこれで済んだのは、被爆者が父親の方だったからかも知れない。これがもし、女性の方だったら。。「広島市出身です」というだけで差別されて結婚できなかったかも知れない。いや、現に被爆者の結婚差別はあり、結婚を断わられた人や結婚できなかった人もいるだろう。そしてわたしら二世でも結婚差別があるらしい。

ついこないだね、twitter見てたら「広島長崎はもう終わったこと」って誰かがツイートしてたので、全然知らない人だったけれど(リツイートで回ってきたので、フォロワーさんではなかった)烈火の如く反撃してしまった。悲しいと言うより怒りしかなかった。その人は「広島長崎の(被爆者)差別はもうなくなった」って言いたかったらしいんだけど、なぜその人は「もうない」と言えたのだろうか?ただ自分の身の回りにそういう話を聞かないから、というだけでそう言ったのではないか?まさか被爆二世当事者がそれに反応してくるなんて、夢にも思っていなかったのではないか?というか、被爆の問題は被爆者だけだとおそらく思い込んでいたのではなかろうか。

わたしはその人に「自分は二世だけれど、自分の身体に見えない爆弾が仕掛けられていると想像してみてくれ」と言ったのだが、これって全然身の危険を感じたことのない人に対して通じるもんなんだろうかとそのときにそう書きながら空しい思いがした。「この恐怖感は味わったことのない人にしか分からないだろう」って今も正直そう思う。

だからこそね、話は元に戻るんだけど、戦争被害者の気持ちはその人たちではないと分からないだろうなと思うの。わたしがいくら想像に想像を重ねても、本当のところはどういう状況だったのか、どんな気持ちだったのかは絶対に分からないと思うの。だから安易に「分かります、つらかったでしょう」などとは言えない。その代わり、自分にできることは一体何なんだろうってずっと思っている。

一方、わたしの「被爆二世としての思い」はやはり語り継がねばと思う。わたしがこうやって毎年同じ日に同じような日記を書くのは「これからもう二度と被爆者(被曝者)を出して欲しくない」という気持ちからだ。しかし残念なことに東日本大震災で原発事故が起こり、被曝者を出してしまった。だけど本当にこれを最後にして欲しい、そう願うからこそ、わたしはこれからも同じことを言い続けなければならないんだってそう思う。そして一人でも多くの人に「放射能による被害を出してはならない」ってことを知って欲しいと思う。もちろん、人と人とが殺し合う、人を人扱いしない戦争も二度と起こしてはならないと思う。こう書くと丸で今の地球上では戦争がないみたいに思えてしまうけれども、実際は戦争や紛争が起きている国はたくさんあるんだよね。非常に難しい問題ではあるけれど、どうにか世界の人が努力してこの世から戦争をなくしていかなければならないと思う。
16:13 | 被爆二世・戦争などのこと | page top↑
07-17 Tue , 2012
多分、読めない
前の日記に「虜囚の記憶」という本を読むのが苦しい、と書いた。あれから何日か休みをおいてまた読み始めたのだけれど、今度は夢にまで出てくるようになってしまった。まぁ夢と言っても自分が加害者になったり被害者になったりという夢ではなくて、気が付くと寝ているうちに「自分はどうすればいいのか」をあれこれグルグルと考えている、といった感じ。正確に言うと夢ではないのかも知れない。でも寝ている間に出てきて以来、本を読むのは止めてるんだけれど、間をあけて2回も同じことがあった。もしかしたら今晩もそういう感じになるかも知れない。

うーむ。なんだか最近あまり調子がいいとは言えないんだけど(体調が)、そういうのが頭にも来てるのかなぁ。

取り敢えずはしばらく読むのは止めてみようかと思っている。いや、本当に申し訳なくて、この本に出てくる人たちに「軟弱でごめんなさい」って謝りたいと思うんだけど、今は自分の体調を一番に考えさせてください。ホント、申し訳ない。。
21:57 | 被爆二世・戦争などのこと | page top↑
07-10 Tue , 2012
苦しい
「戦争と罪責」に引き続いて今は「虜囚の記憶」って本を読んでいる。これも知人から紹介された3冊のうちの1冊だ。

「戦争と罪責」は加害者について書かれた本だった。しかしこの「虜囚の記憶」は中国人被害者の話をまとめてあるらしい。まだ半分も読んでないけど、今のところ最初からずっと日本に無理矢理連れて来られて、炭鉱などで働かされた人たちの話が続いている。

「戦争と罪責」も読むのに疲れて1人分の話が終わると少し間をあけないと読めないくらいだった。が、「虜囚の記憶」はそれに輪を掛けて読むのが苦しい。疲れるんじゃないの。苦しいの。それはなんでだろう?って思いながら読んでるんだけど、なんでなんだろうね。

事実の描写に対しては、加害者側の言葉の方がより詳しくて残酷なの。元軍医が、中国人を生きたまま人体実験した際の話を「こうやってこうやって、こうしてもまだ死ななかったので、これをして、でもまだ死ななかったので結局こうやって殺した」とか(具体的にはもう覚えてないが)。元軍人が中国人の首をはねたときの話も「まず日本刀に水を切り拭きかけて、それを空中で切って、それから首をはねたのだけれど、あとで見たら一箇所刃こぼれがしてて、それは多分顎の骨に当たったんだろう」とか首をはねた瞬間、頸動脈の2箇所から血が噴き出して、何人も殺すうちに辺りが血の海になってしまったことだとか、拷問の仕方もすごく詳しく書いてあって、それはもう、すごくすごく残虐なの。

一方、被害者の方は畑仕事をしていたら突然日本兵に囲まれてそのまま拉致されて汽車に乗せられ、それから収容所みたいなところに連れて来られて、それからまた今度は船に乗って、それからまた汽車に乗せられて全然知らない炭鉱で働かされて、みたいな、ぼわんとした話なのね。何十年してから「あそこにいたんだ」って知った人もいる。って当たり前だよね。わたしも突然拉致されて、字も読めない国に連れて行かれたら、そこがどこの国でどういうところかなんて分かるわけないもん(尤も字が読めた人はどこの港に着いて、などということは分かったらしいが)。人が死んでいくさまも加害者側の証言に比べるとそこまで詳しくない。中にはまだ少年で、父親が膝を怪我して看病しているうちにどんどん悪くなって化膿して蛆が湧いて、全身膨れて死んでいった、なんてことも書いてあるけど、頸動脈から血が吹き出て、そこら辺が血の海になって、というよりはわたしにとっては残虐な著述ではない(これはわたしが血がすごく苦手ってこともあると思うけど)。

ひどい目に遭わされて死んでいった人は後に「自分はこうやって殺されました」という証言ができるわけじゃない。それに被害者も極度の空腹や疲労感でほとんど頭が働いていない状態だったらしい。だから、生き残った被害者の証言は加害者に比べるとそんなに残虐な描写ではないのかなあと思ったんだが。

しかし、読んでいるわたしは被害者側の話を読む方が苦しい。なんでなんだろ?すごく重たい感じがする。被害者から責められてる感じとかそういうのはないのだが。。

彼女が「あんまりそういうのを読み過ぎると身体に悪影響を及ぼすから、適当にしなさい」って言ってるんだけど、図書館で借りてきた本だから期限はあるし、少々つらくても無理に読み進めないとって思ってる。もしかしたら頭のどこかで「被害者の人がこれだけつらい目に遭ったんだから、自分も少しくらいはつらい目に遭うのは当然(って全然次元が違うんだけど。比べる方が恥ずかしいか)」って思ってるのかも知れない。

とにかく読んでるとどんどん嫌な気分になってくるのだが、「なぜ自分は加害の話より被害の話の方が苦しい思いをするんだろうか」という謎と一緒に読み進めていきたいと思う。
17:57 | 被爆二世・戦争などのこと | page top↑
07-08 Sun , 2012
戦争と罪責
10日ほど前に新宿・ニコンサロンで「重重-中国に残された朝鮮人元日本軍「慰安婦」の女性たち」という写真展を観に行き、その感想を日記に書いた。そこでわたしは

> 残念ながら、わたしは無知なので中国に残されたままの元慰安婦の人が、どうして中国に残されたままなのか、戦後67年間(尤もこの写真が撮られたのはもっと前らしいが)いかにして生きてきたのか、その背景や実態を全く知らない。

と書いたんだけど、早速「このような本がありますよ」と言って教えてくれた人がいたので、お勧めに従って図書館で借りてきて読んだ3冊のうちの1冊だ(あとの2冊はこれから読む)。

この本は精神科医である著者が太平洋戦争中に中国で残虐な行為をした元軍医、将校、特務、憲兵だった人たちが戦時中どのような行為をしたのか、それに対してどのように反省したか、戦後どのように生きているかについて取材して書いた本だ。全部で17章あるが、1人についてだいたい1~3章かけて書いている。いつもならこの分量くらいの本(全359ページ)なら早くて1日か、遅くても2日掛ければだいたい読める。しかしこの本は1人分のエピソードが終わるとどっと疲れてしまい、次の人のエピソードを読む気力がなくなってしまうため、間に休憩を入れたり、日をおいたりせざるを得ず、結局4日掛けて読んだ。

著者が精神科医であるためか「どのように反省したか」についての問いかけは厳しい。真に反省するためには(相手の身になって)悲しむこと、それができなければ本当に反省したことにはならないと語っている。そして戦後一貫としてほとんどの日本人は「真の反省をしてこなかった」と述べている。それはこの本を読めば明らかだ。戦犯として収容され、そこで反省し日本に戻ってきた人たちに対して、「中国帰り」「アカ」「中国で洗脳された」とのレッテルが貼られ、就職ができない。頻繁に自分の元に公安が訪ねてくる。身内には「正直に悪いことをやったと言って長い間捕まえられていたのだろう。なんて馬鹿正直なことをしたんだ」と言われる。この本には書いていないが確かにあの時期はレッドパージなどがあって「共産化」に対しては非常に厳しい目があったと思われる。が「馬鹿正直に自分が悪いことをしたと言って」と責めるのは、責めた人は全くあの戦争に対して反省していない、と言うことの表われでもあるし、日本には反省する風潮も何もなかったと言うことだろう(その割には「一億総ザンゲ」とも言われているが、あれは結局「みんな反省したフリをしているので何を反省していいのか分からないけど取り敢えず自分も反省したフリをしておかねば」ということだったのだろう)。

そしてそれはまた戦後、あの戦争で何が起こったかを語り継ごうとしている人や中国の人たちに対して謝罪し続けている人に対して、同じ戦争に行った当事者から「作り話だ」とか「今、こういうこと(中国に謝罪をしているということ)をやると国際関係に影響を与えるから止めろ」とか「それだけ反省したのなら日本人としてなぜ腹を切って死なないのだ」とか「狂っているから脳病院に行け」という意見が匿名か偽名で届く。戦争に行った人たち皆が自分たちがやったことに対して反省をしていない。反省をしていないどころか反省をしている人たちのことを貶めるようなことを言う。しかもそれは本名ではなく、匿名という形でだ。本当に「作り話」だと思うのなら、なぜ本当の自分を明かした上で反論をしないのだろうか。

ちなみにこの本は'98年に発行されたものだけれど、おそらく、この本で取りあげられた元軍医や将校、特務や憲兵の人たちはみな亡くなってしまっただろう。この時代はまだ当事者が生きているからよかったとも言える。曲がりなりにも「反省し続けた人」が存在したから。しかし、今の時代、既に経験した人はいなくなり、誰も反省を口にする人はいなくなってしまった。そしてだんだん「虐殺はなかった」だの「慰安婦はウソだ」だのという話しか残らなくなってきている。そういう世の中を今、わたしは生きているのだ。そう思うと非常に怖い。わたしはこの戦争に対して日本はきちんと謝罪するべきだと思うし(「何回も日本は謝罪しているではないか。これ以上謝り続ける必要はない」と思う人もいると思うが、日本は本当に謝罪すべき人に謝罪していないと思うし、だからこそ今の今まで「日本は謝罪しろ」と言われ続けているのだとも思う)、このことは後世に語り継がなければならないと思っている。それが平和への道だと思っているが、いかんせん、わたしがこの戦争を経験したわけではないので「弱い」のだ。わたしができることはこのような場で自分の意見を細々と述べるしかない。述べないより述べる方がまだマシかなとは思っているが。

本の話に戻ろう。

これらの人たちは最初から自ら「自分は悪いことをした」と思っているわけではない。大抵の人が「あれは戦争状態だったし、自分は上からなされた命令に従っただけで、あのときは仕方がなかったのだ」と思っている。戦争が終わってソ連に捕らえられ、そして強制収容所で働かされ、そして中国に引き渡されている。中国に収監された時点ではほとんどの人が「悪いことをした」とは思っていない。中には「あれだけひどいことをしたのだから、自分も同じ目に遭うかも知れない」と思っている人はいるが。しかし中国側は戦犯たちを日本兵にされたときと同じことを全くしなかった。逆に丁重にもてなし、温かいご飯が与えられ、病気にかかれば手厚い看護も受けられた。中国政府がなぜこのような扱いをしたのか、それはわたしにはよく分からない。この本に書かれている誰もが「なぜこんなに丁寧な扱いをするのだろう」と思い、そして「それに比べて自分は中国人に対してなんてひどいことをしてしまったのだ」という気持ちにさせている。心理作戦としては上出来だ。しかし果たして心理作戦のためだけにこんなに丁寧な扱いを中国政府はしたのだろうか?わたしはそこに中国政府としてなんらかの「意図」があったのでは、と思っている。国がただ「戦犯に自分がやったことを吐かせよう」と思ってこのようなことをしたとは到底思えない。意地悪い見方かもしれないが、国というのは絶対に何か「自分の利益」になるようなことを考えていると思う。それはただ、中国政府は国際社会に「戦犯に対してこのように丁重に扱った」ということを国際社会に見せたかったのかも知れない。「共産主義」が日本に根付くようにさせたかったのかも知れない。しかしそれ以上にわたしの考えの及ばない「意図」があったのかも知れない。

最初に書いたように著者は「真に反省する、ということは(相手の身になって)悲しむこと」と述べているし、相手の身になって悲しむことができる人が、裏を返せば本当に喜べる人だ、とも述べている。頭だけの反省は上滑りするし、反省するときも自分をよく見せようとする。そしてここに出てくる人たち皆が皆、真の反省をしている、とは書いていない。戦後50年経ってようやくそこにたどり着けた人もいるし、まだの人もいると考えている。これを読むと真に反省することがどんなに難しいことなのかがよく分かる。

ただ、一つ思ったのは、戦時中、「戦争栄養失調」という今で言う「拒食症」のような症状になって死んでしまう兵士も存在したそうだ。それ以外にもうつ状態になり、しばらく休養するとよくなるのだが「よくなったから戦場に戻れ」と言われると自殺をしてしまう。これは戦争の環境に耐えられない人たちがいたということだ。戦場では人(この場合は中国人)を人扱いしない。「度胸付け」のためにいとも簡単に首をはねる。女がいたら強姦してその後証拠が残らないように殺す。食糧を調達したあと村に放火する。死ぬか死なないかのギリギリのところまで拷問し、用が済むと殺す。七三一部隊で「○人必要」と言われれば、調達して引き渡す。そして生きながら切り刻まれて殺され、細菌に感染させられ殺される。そのようなことが日常に起こる。これでは精神がおかしくなるだろう。おかしくなる方が普通だと思うのだ。わたしもうつ病を患ったことがあるので、その環境に耐えられない、という気持ちがすごくよく分かる。しかし逃げたくても戦場から逃げるわけにはいかない。どんなにつらかっただろうと思う。

しかし一方、最初は「ひどい」と思うものの、それに慣れてしまう人たちもたくさん存在する。いや、そういう人が多くなければ戦争は継続できなかっただろうが、それに対しては「人間ってそういうものなんだろうか」と思ってしまう。思ってしまうが、有名な心理検査で、被験者は、間違った回答をした人に対して罰として電流を流す、というのがある。回答を間違えるたびにだんだん高電流を流すことになっているのだが、被験者は命令されると平気で高電流を流すようになる(だいぶ端折って書いたけど(^^;)。この実験、100人に対して行なわれたそうだが、途中で「止める」と言った人はたったの2人、しかも「自分の意志で止める」と答えた人はたったの1人だったらしい。人間は上から命令されると平気で残虐なことができる性質を持っているのかも知れない。わたしも今は「そんなことはできるわけがないだろう」と思っているが、誰かに命令されたら自分の意志に背いてひどいことをしてしまうかも知れない。そういう可能性があるんだということを脳裏にとどめておかなければならない。しかし、周りの人が「殺人鬼」になっていくのに、自分だけが「人を殺すのは嫌だ」と言えるだろうか?この本には戦争中も一人だけ「嫌だ」と言い続けた人が出てくる。そして日本に戻ってきてからも軍人恩給を受けなかった。しかしそこでも「なぜ受けないのか」という周囲の圧力がある。役所から何度も何度も「手続きをしてくれ」という連絡がある。しかしそれも断わり続ける。なんてすごい人なのだろうと思う。そういう人にわたしもなりたいと思う。思うが実際のところ、それができるかは自信がない、、

この本の最後の方は親が憲兵だった、という人の話が出てくる。そこでは生前は戦争で何をやったのか全く語らなかったが、死に際に「この文字を墓に彫ってくれ」と娘に言って亡くなる父親が出てくる。その文字は「中国人民に対してなしたる行為は申し訳なく、ひたすらお詫び申し上げます」というものだった。娘は父親が一体戦争で何をしたのか、調べ始めるが、結局は分からない。手がかりに結びつくかと思って人を訪ねれば「あの頃の情景」や「引き揚げに苦労した」という思い出話しか出てこない。戦争で何をやったか、については全く話してくれないので、父親が何をやったのかさっぱりわからないのだ。結局彼女は父親が本当は何をやったのか、想像すると怖いと思いつつ、2つの短編小説を書く。書いて自分の心を昇華させ「父のやったことを自分が引き受ける」と決意する。そして今まで父親が「墓に彫ってくれ」と言い残した文字は弟と伯父が「そんなのを彫りつけるのは嫌だ」と言って彫られなかったのが、弟の死後、甥と「お墓に彫ろう」というところで終わる。そこには「時代は少しずつ変わっている。わたしたち戦後世代は、尋ね聞くことができる状況やっと到達した。聞く力をようやく持ちつつある。」と書かれてるんだけど、これについては「甘い」としか言いようがない。だって聞く力を持ちつつあるけど、話してくれる人はもういないじゃん。

わたし自身の話になるけど、日記でも何回か書いたが、わたしには血の繋がってない祖父がいて、その祖父は戦争中、中国でひどいことをした、らしい。しかし知っているのは「ひどいことをした」というだけで、その具体的な内容については知らないのだ。今、生きていれば絶対に聞いていたと思う。けれどその祖父はわたしが大学生だったか大学院の頃だったかに亡くなってしまって、全く聞いてない。まぁもともと遠くに住んでいて会えるのはお盆と正月しかなかった、ってこともあるだろうが、それにしても大学生くらいのときになんで聞いておかなかったんだろう、と後悔している。が、あのときはこういうことは全然考えてなかったんだよね。ちなみに血は繋がってないが、血が繋がっていないと言うことはわたしが結構大きくなって聞いたので、感覚的には血が繋がっている祖父と全く変わらない。そして祖父の身近にいた祖母だが、こちらの方ももう既に鬼籍に入ってしまったので、聞くことはできない。もし祖父が語っていたとすれば、わたしの叔父や叔母だが、これも滅多なときでないと会えないので聞く機会がない。こういうことは「いつまでも聞けるわけじゃない。年月には限りがある」ってことを否が応でも実感する。だから上の文章は「甘い」のだ。

戦争は被害からは語りやすい。わたしは一方「被爆二世」の当事者であるので、やはり被害の面から語りがちだ。しかしそれはやはり「一面」でしかないのだ。加害と被害、両方併せて初めて「戦争を語る」ことになるのではないだろうか。しかし「加害」は伝わりにくいのは確かだ。人は「自分が自分の意志でやったこと」については非常に言いづらいらしい。やはり「ひどい人間だ」と思われたくないからだろうか。わたしも「語り継ぐことは必要」と思っているが、実際に自分が加害側になったとき、人に話せる勇気が持てるだろうか。「人がやったこと」だから語り継げると思っているのだろうか。そこのところは正直よく分からない。

わたしはこの本を読みながら、祖父のことを思った。祖父はシベリア送りになったが、この本に書いてある人たちのようにソ連から中国には引き渡されていないはずだ。それはなぜなのか。祖父はどんなことをしたのか。そして祖父も「シベリア帰り」ということで就職できなかったんだろうか。たしかずっと自営業をしていたはずだ。「アカ」と言われたのだろうか。そして祖父は戦後、どのように生きてきたんだろう。どのような思いで生きてきたんだろう。わたしが見た祖父の姿はホンの一瞬でしかなかった、と思う。祖父の日常を知りたかった。

この本はそういう思いも一緒に持たせてくれた本だった。
23:13 | 被爆二世・戦争などのこと | page top↑
06-28 Thu , 2012
「重重-中国に残された朝鮮人元日本軍「慰安婦」の女性たち」安世鴻写真展@新宿ニコンサロンへ行ってきた
わたしの今の情報源は圧倒的にtwitterによるもので、この写真展のこともtwitterで知ったんだよね。当初ニコンがこの写真展を行なうと承諾したにもかかわらず、後になって「写真展は政治活動の一環」という理由で中止を申し入れて、それで写真家側が写真展を開催できるように場所の提供を認めさせることを裁判所に訴えたところ、その訴えが通って写真展が開催された、ということだけれど。あ、裁判所がこのことについて場所を提供するようにという仮処分をニコン側に命じた、というニュースはテレビでも見たな。

写真展は26日からで、開催直後はものすごい人が多いだろうなと思って、今日ちょっと出かけた来たついでに新宿に寄ってこの写真展を観に行ったんだけどね。警備で会場が物々しい雰囲気になっているってことは、twitterで流れてくる情報でも知ってた。けど、一部報道されてるようなセキュリティチェックがある、なんてことはわたしが見た時点ではなかった(わたしが行ったときはたまたまなかったみたいで、同じ日の夜に行った人はセキュリティチェック受けたそうです)。セキュリティチェックはなかったものの、新宿エルタワー28階のエレベーターを降りてから写真展の会場に着くまでのホンの数十メートルの間に5人もの警備員がいたのは、やっぱりどこか「普通じゃない」雰囲気を感じた。しかも会場には「スタッフ」って書いてあったけど、目つきの鋭いおじさんがいて、しきりに腕時計を見てたりして「この人一体何のためにここにいるの?」って感じがすご~くしたしね。

開催3日目で人、来てるかな~と思ったんだけど、思った以上に人が来ててね。来てる人も若い人はあまりいなかったように感じられたんだけど、割と年配の男の人や女の人が多かったかな。誰かと一緒に来たというより、個々に来てる人が多く感じられた。すーっと来てすーっと帰る人も中にはいたが、そういう人は結構少なくて、写真を見た後も中央の椅子に何冊かあった安世鴻さんの写真集をじっくり見てる人が結構多く(ご多分に漏れずわたしもだが)、またアンケートに答えたり、あと多かったのが主催者側と思われる人たちが入口近辺にいたんだけど、その人に対して「パンフレットみたいなのは置いてないのか」という質問をする人。主催者側の人は「ここでは配れるものは何もないんですよ」と答えて、しかしパンフレットを希望する人は「芳名帳」みたいなのに名前を書いた上に「パンフレット希望」って書けば、あとで送ってくれる(その代わりパンフ代に800円かかって、パンフと共に振り込み用紙が入ってるとのこと)って言っていた。写真展の開催を知らせるハガキが1枚置いてあったのだが、それも「配れない」とのことだった(まぁだから1枚しか置いてなかったのか?)。

会場に行って写真を見たんだけどさ、わたし、順路の逆から見たようで、最初に「この写真をどういう想いで撮ったのか」みたいに書いてあったのを一番最後に読んだんだよね~(苦笑)しかも、わたしはこの写真展の名前も全部把握してなかったようで、最初は韓国に住む元慰安婦の人だとばっかり思ってた。けど、どう見ても「これが韓国?」って雰囲気だったんだよね。一番最後に「中国に残された元慰安婦です」ってのを読んで、納得した。だって写真に出てくる家の雰囲気とか、わたしが知ってる限りにおいては「大地の子」に出てくる、あの貧しい中国の家そっくりだったんだもん。途中中国政府から発行された「入籍証」(?;そんなのあるの?)みたいなのとか、パスポートみたいなのを見せてる写真もあったんだけど、それ読んで「あー、そうか」って初めて納得した。っていうか、それを読むまで誤解していたのが恥ずかしい、、

しかしね、わたしも中国の一般の人がどういう暮らしをしているのか全く知らないのだけれど、明らかに「貧しい暮らしだなあ」って思われるような家や部屋ばっかりなんだよね。あと動きがある写真が多かったので「この写真を撮った人は一体どういうことを話しながら撮ったんだろう?」って思ったな。

一番印象に残った写真はね、部屋に東アジアの地図を貼ってあってね、おばあさんが韓国のところと日本のところに握り拳を置いてるの。あれ見たときとても複雑な思いがした。一体、この写真を撮られたときはどういう話をしてたんだろう?どういう気持ちだったんだろう?この人の人生はどういう人生だったんだろう?ってね。

残念ながら、わたしは無知なので中国に残されたままの元慰安婦の人が、どうして中国に残されたままなのか、戦後67年間(尤もこの写真が撮られたのはもっと前らしいが)いかにして生きてきたのか、その背景や実態を全く知らない。だからいくらでも悲惨な想像をしようと思えばできるのだけれど、でもそう決めつけてしまうのもなんだか失礼なことなんじゃないかと思ったりもするのだ。写真は一瞬の姿でしかないし、そこからその人の全部の人生が見えるわけじゃない。それがなんかすごくもどかしく感じられたんだよね。

写真はもっと暗かったり、何かを訴えようとしてたりするものかと思ってたけど、案外あっさりした印象があったので、そういう意味ではこの写真展はあんまり「政治活動的」な感じは持たなかったのだが。。まあもちろん「元従軍慰安婦の人が写ってる」ってだけで政治活動的なのかも知れないけどね。でも、上にも書いたとおり悲惨な想像をしようと思えばいくらでもできるけれど、そしてわたしは「慰安婦を作りだした」加害者の側に立つ国民なんだけれど、なんかね、写真からは「責められてる」とは感じなかったの。いや、もしかしたら責められてるのかも知れないけど、わたしの印象としてはそんな感じがしなかったんだよね。だからといって決して「楽しい」と思える写真ではなかったけれど。

「楽しい」と言えば、この写真家は最近、韓国と日本で「アジアシャーマニズム」の写真を撮っているそうで、わたしは去年発行された韓国の「グッ」という、えーとなんだっけ、祭祀みたいなのを撮った写真集を見たのだが、それはすごかった!それが見て「楽しいか」と言われるとなんだかちょっと違う気持ちもするんだけど「うわー、韓国ではこんなのがあって、こんな人がいるんだ」って思ったし「もし日本が取りあげられるのなら、どういうものを『シャーマニズム』として取りあげるのかなあ?」って思って、この人の今後に注目したいって思った。

来てる人の中には主催者側の人に「写真展が開催できてよかったですね」って声を掛けてる人もいた。

そうなんだよね。なんでこの程度(って失礼だけど(^^;)の写真展が中止に追い込まれなきゃならないのかなあ~って思ったよ。しかもニコンのウェブサイトにはまだ「6/26 (火) ~7/9 (月) 安世鴻写真展は諸般の事情により中止することといたしておりましたが、東京地方裁判所から、「ニコンサロンを安世鴻氏の写真展のために仮に使用させなければならない」との仮処分が発令されましたので、これに従って、安世鴻氏に対し新宿ニコンサロンを仮にご使用いただくことといたしました。(現在、東京地方裁判所へ保全異議申立中です) 」なんてことが書いてある。なんだかなあって感じだよね。

この次に行なわれる「李容夏写真展」は「政治活動的」じゃないのかね。ベトナムの枯れ葉剤の被害者に焦点を当てた写真展みたいで「作者は、本展をきっかけに“戦争なき平和”が世界中に定着することを望み、これ以上この地球上の人が互いに銃口を向けあい、命を奪い合う行動が起こらないことを望んでいる。」なんて書いてあるから、写真展で平和を訴えているみたいだけど、平和を訴えるのは「政治活動的」じゃないのか。

肌触りが悪いものは遮断して、心地よいものだけを残す。それではいくら写真を通して物事を伝えようとしても、都合の良い物事しか伝えていないということが分かってしまった以上、その訴えは半減するだろう。ニコンは今回そのことを世間に示してしまったと思う。
18:56 | 被爆二世・戦争などのこと | page top↑
03-09 Fri , 2012
「特報首都圏 東京大空襲」を見た
つい数日前、NHKの朝ドラ「カーネーション」で太平洋戦争の加害について、自分の体験と思ってることを書いた。あのときは「加害の面も決して忘れてはならないことだ」という気持ちで書いたし、それは今も変わっていない(数日前のことだものね)。

しかし決して被害のことは別に言わんでいい、もうたくさんだ、と思ってるわけじゃない。わたしは折に触れ「被爆二世だ」と言い続けているのも、語り継ぐことの一環だと思っているし。ただね、加害より被害の方はたくさん語られてるじゃないか、そう思うのよ。そしてその理由は被害を受けたものの方が語りやすいから、そう思ってた。

ところが今日、夜8時からNHKで放送した「特報首都圏 東京大空襲」(首都圏だから、関東地方でしかやらない番組だったんだと思う。でもオンデマンドで見られるらしい)を見てみたんだけど、被害者の人でも今、ようやく口に出せる人が増えてきたって知って、少し驚いている。確かに被曝者の語り部なんかもこれよりは少し前にはなるけれども、ある一定の期間をおかなければつらすぎて話すことが出来なかった、と言われてたしね。そしてその両者は「自分が年を取ってきて、あの戦争のつらさを誰かに語り継がなければと思った。ここまで生きさせてもらったのは語る役割を持っているからではないかと思った」というのは全く一致する。

3月10日は東京大空襲の日だというのは、わたしの頭の中には常にあって(ただ、わたしの身内で東京大空襲にあった人は誰もいない)、その3月10日に偶然、わたしは彼女と付き合うことになり、そして今年からは「あの東日本大震災の前の日」ということも加わって、何かいっぺんにごちゃごちゃする日になってしまった。

そして3月10日の東京大空襲の話っていうのは子ども時代は「ガラスのうさぎ」を読んでいたし、それから海老名香葉子さん(故林家三平の奥さん)もこの空襲での生き残り、というのも知ってて、わたしの中では「割と有名なこと」のように思ってたんだけど、実はそうでもなかったみたいなんだよね。今日の放送で東京の空襲はこの東京大空襲だけじゃなく、半年間に100回も爆撃を受けたそうだ。5月25日には渋谷・原宿方面が焼け野原になった、ってことをわたしは今日、初めて知った。東京大空襲以外の東京での空襲のことなどわたしは今まで知らなかった。まぁ全然知らなかったわけじゃなく、中学の時にわたしらが住んでた近辺にも空襲があったのだという授業は受けた記憶があるが、、今、中学校の社会科の副教材だった「のびゆく狛江」(狛江市教育委員会発行、わたしが持ってるのは第3版で昭和58年発行)っつー本を持ってるが、そこには「昭和20年5月25日の夜22時30分から約2時間半にわたってアメリカ空軍のB29爆撃機470機が来襲し、都市部および東京西部地区に多数の焼夷弾を投下した。この時、東京航空計器などいくつかの軍需工場を持つ狛江にも焼夷弾が投下され、狛江国民学校をはじめ十数戸の民家が焼失した。」と書かれている。そっか。日付までは全く覚えていなかったが、この記述からすると5月25日ってかなり広範囲にわたって爆撃されたようだ。

しかし、これを読んでも「そういうことがあった」という記憶しかないのは、ここにはどのくらい人が亡くなったとか、そういうことが一切書かれてなくて、あくまでも客観的事実しか書かれてないからなんだな。まぁこれは社会科の副教材で平和学習ではなかったからね。ある意味仕方のないことなのかも知れない。

今日の番組は、これまで硬く口を閉ざしてきた遺族が「やはり後世に伝えなければならない」と動き出している、という話だった。しかも東京で起こった空襲についての全容については、実はよく分かっていない、とのことだった。これも今まで何が起こったかを話す人がいなかったからだという。その点が原爆のときとは少し違っていると感じた。原爆は放射能被害のこともあって(今でも「黒い雨の範囲」など分かってない点も多いが)ある程度被害者は確定しているし、うちの親も持ってるけど被曝者健康手帳などで法的な救済も受けている。二世であるわたしは、東京都で行なわれている健康診断は無料で受けられる(都道府県によって扱いは違うんだけどね。東京都は二世のための健康診断がある)。そういう意味では語り部はともかく、被害者については「おおよそこのくらい」という数字が分かっているし、あと広島の場合は「原爆ドーム」の存在も大きいと思う。長崎などはすべて焼き尽くされてしまったけれど、広島は原爆ドームが残っていて、世界遺産にも「負の遺産」として登録されている。原爆ってそれまでに人類が体験してこなかったため、扱いが大きいのだ。

それに比べると東京大空襲は焼夷弾ですべて焼き尽くされて「これ」という象徴がなかったこともあるだろうし、戦後の東京の発展で当時の様子など思いも寄らない姿に今はなってしまっている。今日の放送で言ってたけど、東京スカイツリーの近くの川は、空襲後、遺体で埋め尽くされたそうだ。そして過去にはお地蔵さんなどもあったらしいが、それも今は開発でなくなってしまい、とても複雑な思いを抱いている、と言っていた。

被曝者は被爆二世、三世と続いていく。そういう意識があるのは「放射能」が人体にどのくらい影響を及ぼすのか、全く分かっていないからだ。だからある程度語り継がれやすい。しかし、東京大空襲に遭った人は、その人が死んでしまえばもうその体験は語られないと「なかったこと」になってしまう。その違いはとても大きいと思う。だからこそ、今、生き残った人たちの中で、今まではつらい経験なので忘れようとしていたことを敢えて「自分が語らないと」と意識を変えた人たちがいるのだ。

番組の中では、5月25日に母親を亡くした遺族(子ども)が母の遺品を初めて自分の子どもや孫に見せて、いろいろ話しているシーンや、3月10日の大空襲で自分以外の家族をみんな亡くして孤児になって(なんと当時3歳だったそうだ)、「やっかいもの」として親戚をたらい回しにされた遺族の話、そのことを自分が親が生きていたら通ったであろう小学校で体験として話すシーンなどで構成されていた。わたしは通うはずだった小学校で赤いランドセルを背負い「赤いランドセルを背負うのが夢だったのよ」と語り、そして「この学校に通いたかった」というところがすごく印象に残った。たった3歳で孤児になり、そして「お前も一緒に死ねばよかったのに」などと言われ続けて育つなんて、なんと言えばいいんだろう、それでよくここまで生きてこられましたね、と、本当に心の底から思ったし、こういう人はこの人だけじゃなく、例えばスタジオに来ていた海老名香葉子さんも同じことを言われた、と言っていたから、そういうのは「特別なこと」ではなかったのだろう。「自分のような思いをする人はもう今後出したくない」という海老名さんの声が震えていた。それはすっごく「リアル」だった。当時、戦災孤児になった人は何人いるんだかよく分からないけど、なんか「檻」みたいなところに入れられてる写真があって、こういう人たちはそれぞれその後どういう人生を歩んだんだろうって思った。今、それぞれ幸せに暮らしているといいけれど。。

そういえば、「カーネーション」にも戦災孤児が出てきたよね。主人公の糸子がパーマ機を東京まで買いに行ったときの宿で糸子が腹帯の中に入れてたお金が戦災孤児に盗まれるという話。「おばちゃんらがいい世の中にしたるさかいな」って言って、その後、確かに豊かな世の中にはなったけれど、あの子たちはどうなったんだろうな。

そんなこんなで、当時戦災孤児がどのように過ごして、どうやって育っていったかとかは、いろいろと想像をするしかないんだけれど、わたしはこういう被害者の言葉や戦災孤児がいたという話も受け止めて生きていかなければならないと思うし、本当はそれだけでなく、加害の面も受け止めて生きていかねばならないと思うんだよね。結局、被害と加害、両方受け止めて生きてかなきゃならないんだ。

それは同じ目的のため。「もう戦争はしてはいけない」「平和な世の中を続けていくため」。

たださぁ、思ったのは、被害者でさえ戦後67年経ってようやく口に出すことが出来るようになったわけで、加害者はそれよりもっともっと口に出しづらいよね。特に加害者で集まって何かをする、という目的もないわけで、加害者がその加害に対して何かを言うとすればそれは1人で言うことになるだろう。それはやっぱりとても勇気がいることだ。そして被害者も今は大半が亡くなってしまったように、加害者だって大半が亡くなってることだろう。そうするとやっぱり「加害はなかった」ってことになってしまうのだろうか。これだけは個人のそれぞれの思いだから無理矢理「言え」とは言えない。そこのところが難しいところだよね。。自分がやったことにより未だに悪夢を見ている人もいるかも知れない。けど「やったこと」は口に出したくない、言えない、おそらくそういう人っているんじゃないかなあ。もちろんやったことの罪は消えない、けれど、その罪にずっと苦しんでいるとすれば、その人もある意味被害者なのかもしれない、などと思ったりも実はするんだ。。「戦争」というものに対しての被害者という意味でね。

そしてこの世界には不幸にも戦争までには至ってなくても、至る所に争いが起こっている国や地域がある。それは直接わたしがどうこうするわけにもいかないし、できることではないけれど、どうか「戦う」以外の方法を模索して欲しいと願っている。でもねー、願っててもことはそう簡単にはいかないんだよね。歴史の中でいろいろと拗くれているところがあって、どう解決していいのかすら分からないところもある。それは十分分かってるんだ。分かってるんだけど、なんとかして、人類の知恵で戦いをなくすことはできないのだろうか。今現在も爆撃に晒されている人たちが存在する。そういう人のことを思うと、、本当に胸が痛む。
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03-06 Tue , 2012
やったんやな
毎日、NHKの朝の連続ドラマ「カーネーション」を見ている。

先週の火曜日だったか、安岡のおばちゃんが病室で戦争で亡くなった息子の勘助(主人公糸子の幼なじみ)が一度戦地から戻ってきて、人が変わったように塞ぎ込んでいたことに対して「あの子は気が弱いから戦地で上官にいじめられたと思っていた。けど、昨日戦争で日本軍がどんなことをやったのかテレビで見た。あの子はやったんやな」と言った。

正直、朝ドラで戦争についての加害性について言うなんてことは思いもしなかったんで、びっくりしたと同時に二度目の戦地に行くときの、誰にも言わずに少し微笑みながら電車に乗って去っていった勘助の顔を思い出して涙が出そうになった。

今、なんだかよく分からないけど、先の戦争について日本はなんもやってないだの仕方がなかっただのという風潮が出てきていると思う。戦争については主に被害の面だけが強調され、加害の面のことを言うとすぐに「反日」だのなんだのと言われて口を噤まざるを得ないような状況になっていっている。

つい先日もね、わたしが住んでる自治体で「平和祈念展」みたいなのをやったのよ。でもそのポスターに書いてある内容は全部「被害の面」からしか語られていなかった。それを見てなんだか複雑な思いを抱いた。そりゃあさ、被害の面を語る人の方が多いだろうしね。「こんなに悲惨な目に遭ったのだから、二度とそういう思いはしないようにしましょう」って方が心にはいってきやすいとは思うよ。そしてわたしだってことあるごとに「被爆二世です」と言っているということは「被害者です」と言ってるのと同じだと思うしね。

けどさ、加害の面も決して忘れてはならないし、それも同時に語り継がなければならないと思うんだよね。「日本はなにも悪いことはしていない。むしろいいことをやった」と言うのは、まぁ全部間違いではないにせよ、全部あっているとも言いきれないよね。

資源に乏しい日本がなぜあんな戦争を起こしたか、ということについて、わたしは「戦争の論理」という本をこないだ読んだのだが、日本はともかく戦地を拡大しながら現地で資源を調達しながら戦う、という方法を取ることに決めた、と書かれてあった。そこで想像してみるんだけれど、ある地域を戦って占領したとする。そこで資源を現地調達するためにはどんな人たちが働かされるかを考えてみる。当然戦っている日本兵ではないことは確かだ。だって日本兵は戦うためにいるわけで、現地から資源を調達する役割はないだろう。そしてあの時期は日本から開拓団が渡っていったと言っても、開拓団が行った先というのは、まさに戦争が行なわれているところではないはずだ。とすると、誰が資源を調達するかと言うと「それまでそこに住んでいた人」としか考えられないではないか?

そしてこれは「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」という本も読んだのだけれど、その中にアメリカ兵捕虜の扱いのデ-タについて書いてある。それによると捕虜となったアメリカ兵の名簿から、捕虜となり死亡したアメリカ兵の割合を地域別に算出したところ、同じ敗戦国のドイツ軍の捕虜となったアメリカ兵の死亡率は1.2%だったのに対し、日本軍の捕虜となったアメリカ兵の死亡率は37.3%にのぼった、と書いてある。

捕虜の扱いがこんなにひどいのだったら、現地にいる人の扱いも相当ひどかったに違いない、と推測される。それに(今もそう信じて止まない人たちがいるけれども)中国や朝鮮の人たちを「三流国」の国民として馬鹿にしていたのではないか。「三流国」の国民だと思っている人たちに対して誰が丁重な扱いをするだろうか。多分、そう考えるのが自然だと思うんだよね。

そして、これはわたし自身の体験というか、身内に加害者がいる。わたしの血の繋がっていない祖父だ。血の繋がっていないことにはわけがある。わたしの血の繋がっていた祖父は身体が悪く、戦時中に亡くなってしまっていたのだ。そして、戦後、復員してきた血の繋がっていない祖父と祖母が結婚(祖母にとっては再婚)したのだ。

わたしは誰からその話を聞いたのかもう覚えていないのだけれど、義祖父(という言葉あるかどうかは知らないが)は中国ですごいひどいことをした、と聞いた。そのためもう少しで戦犯になるところをシベリア抑留され、そして一番最後の船で復員してきたそうだ。以前、いつだったか「ラスト・エンペラー」という映画が公開されたことがあった。そのときはまだ義祖父は生きていて、そのラスト・エンペラーが愛新覚羅溥儀のことと知ると「ああ、あの溥儀くんか」と叔母に語ったという。シベリアで同じ収容所に収容されていたらしい。

わたしにとってはとてもやさしくて、そしてどことなくひょうきんな義祖父だった。盆や正月に訪ねるたびに「べっぴんさんになったなあ」と言われた思い出がある。そして非常に愛妻家だった。だって考えてもみて。あの頃は極度の「女余り」だったのだ。男が戦争に行っていなくなってしまったから。だから男は引く手あまただった。義祖父はそれまで結婚もしてなかったし。なのにわざわざ「子持ちの女」と結婚した。周囲からは「またなぜそんなよりにもよって」と言われたらしい。が、義祖父の一目惚れだったそうだ。だから、祖母はそれこそ「お姫さま」のように扱われていた。そういう仲睦まじい夫婦だった。その義祖父もわたしが大学院生のときくらいに亡くなってしまった。元々離れたところに暮らしていて、あまり会ったこともなかったし、あまり話さなかったこともあって、わたしは直接戦争の話について聞いたこともないし、語られたこともない。今思うと聞いておけばよかった、と思うことがよくある。確かに義祖父にとっては戦地での体験がどうだったかは分からない。もしかしたら孫には話さなかったけど、子ども(わたしの叔父や叔母)には語っていたのかも知れない(溥儀のことも語ってたし)。でも、わたしはわたしなりに聞いてみたかった。義祖父が生きている間にそんなことを思ってもみなかったのが悔やまれる。

わたしには、そういう体験がある。そしてそれは語り継がなければならないと思っている。だからこうやって書いている。

戦争に行ってどんなことをやったのか、加害のことを話す人は少ないだろう。誰も自分がやったひどいことについては黙っていたいと思う。そしておそらく大半の人が語らずにこの世を去ってしまった。それはある意味仕方のないことなのかも知れない。けれど、今、あれから65年以上経って「なにもなかった」ような風潮になっていることがわたしには許せない。わたしが被爆二世である、と絶えず思い、言うように、中国や朝鮮の人たちも「被害者だ」と言う人がたくさんいるだろう。そういう人たちに対して「済まないことをした」と謝り続けることは果たして日本人としての誇りを失わせるものなのだろうか?わたしは逆だと思う。「もう二度とあのようなことはしません」ということこそが日本人としての誇りだと思う。だから憲法9条は「日本人の誇り」なのだ。

もちろん、今現在の日本はアメリカの「核の傘」の中に入っているからそういうことが言えるのだ、と言う人もいるだろう。北朝鮮が、という人もいるだろう。それはわたしにも十分分かっている。

だけど、日本はもう戦争をしない国なのだ、と国際社会に訴えることがなぜいけないのだろう。今後、再び世界大戦が起こったときは、もう生物はこの地球上では生きていられなくなる、と思う。だとすると人類に残された道は「平和への道」しかない。日本は世界に先がけて「戦争をしない」ことを訴える国になる役目を持っていると思う。

わたしはそう思っているのに、日本は逆の方向に行っているように思える。

わたしにはそれが悲しくてたまらない。
21:45 | 被爆二世・戦争などのこと | トラックバック(0) | page top↑
03-21 Mon , 2011
割りきれない思い
東北関東大震災(東日本大震災)が起こって10日。
ニュースやtwitterで流れてくる情報を聞いたり読んだりしているが、だんだん自分の中でもやっとしたもの、というか、割りきれないというか、そういう思いが強くなってきて、自分の頭の中から溢れそうなので、ここで吐き出してみる。

地震に伴って起きた原発事故。
未だ、予断を許さない状況だが、それに対する世間の反応にイライラする。
多分、それが自分の中で大きな問題と感じるのは、単にわたしが被爆二世だ、と言うことだろうと思う。

被爆二世であるわたしは、多分、他の人よりも原発のことや放射能のことについて、敏感だし、8月6日(時折9日にも)の日には必ず日記に原爆の怖さを訴えてきたし、今までたくさん考えてきたので、今言われている「被曝の恐怖」や「原発を持つということによる危険性」をあちこちで聞くととても悲しく思ったり、「何を今さら」と思っていらつく気持ちが湧き起こってくるのだ。

特に原発がある福島県から避難してくる人を「被曝しているから」という理由で受け入れない、原発に近いと誤解されて救援物資が届かない地域の話などを聞くと、まるで自分が差別されているような気がして心が痛い。「被爆者差別」というのは、昔々は確かに存在していて、そのために結婚を断わられたりする、みたいな話は聞いたことがあるけれど、それは昔の話だと思っていた。わたしだって「被爆二世だ」という理由で差別されたことは今までなかった。だから「被爆者差別」はなくなった、って思い込んでた。

けど、今回のことでそれらは決して過去だけのものじゃない、ってことが分かって、わたしはとても暗澹たる思いがする。たとえその人が被曝していたとしていても、その人が他の人を被曝させる、なんてことが起こるわけがない。そんなこと、ちょっと冷静になって考えればすぐに分かることなのに、なぜそんなに恐がるのだろう。

ましてや今回は原発周辺地域からの人は、スクリーニングを行なっていて、その結果被曝が確認された、なんてことはないわけで。それなのに受け入れ拒否とは、一体どういうことなんだろう?

放射能に汚染された地域に行きたくない、という気持ちはなんとなく分かる。けれども屋内退避さえ免れている地域に対しても過剰に反応するのはどうかと思う。といえども、確かに自分の中に「被曝の恐怖」がない人にとっては、これはとても怖いんだと思う。わたしなんか、生まれつき「被爆の恐怖」があって、常に自分の中に見えない爆弾を抱え込んでいると思って観念しているから、今さらこれに若干の危険性が付け加えられたとしても、正直何も怖くないし、なんとも思わない。そこの意識の違いが、やっぱり何の恐怖も持っていない人と違ってるんだろうなと思う。そういう意味ではわたしはもう、観念しちゃってるんだよね。

もちろん、原発事故に対しては早く安全な方向に収束するのを願っているけれど、もし万が一、最悪の事態が起こったとしても、わたしは東京から離れることはない。東京以外行くところはないし、もうそれはそうなったで仕方がない、そう思っている。放射能の恐怖というのは、今、ここで何かが起こる恐怖ではなく、将来にわたってずっと持って行かざるを得ない恐怖だ。多分、そういうことが何もない人にとっては恐怖で、パニックを起こす原因になっているんだろうと思う。既に恐怖を持っている人間と持ってない人間の違いって、そこなんだろうなあ。わたしはこれ以上のことがあったとしても恐怖感は抱かない。自分の中にある爆弾の爆発する確率が2倍か3倍になった、と思うだけだ。

とはいえども、このような恐怖を抱かなければならない責任は、実は自分たちにあることを分かっていない人が多いような気がする。原子力発電の施設を持つ、ということは、つまり、こういうことなのだ。そして、わたしたちは今まで原子力発電から供給される電気を当然のように、湯水のように使ってきたではないか。そのツケが回ってきただけなのだ。だからある意味自業自得なのだ。だから、こういうことが起こった以上は、黙ってそれを受け入れるしかないのではないか、と思う。

もちろん中には「自分は原発反対派だった」という人間もいるだろう。このわたしだってそうだ。わたしは被爆(被曝)の恐ろしさを味わうのは、今存在している被爆者とその子孫だけで十分だ、それ以外には一人だって被爆(被曝)して苦しむ人を出したくない、常々そう思っている。だから、核爆弾はもちろんのこと、原発だって本当は反対なのだ。だけど、だからといってわたしはそのために世間に何か動きかけたわけでもない。わたしがやったことといえば、自分の持っている電力株(うちの祖父が電力会社に勤めていたので、自分の会社の株を持っていて、わたしも遺産の一部として若干の株を持っている)に起因した電力会社の株主総会で、原発反対派の株主が「原発の即時撤退」という提案に対して、毎回賛成の票を入れている、ただそれだけのことだ。

しかし、その提案が通ったことなどもちろん今まで一回もなく、結局世間の人の考えというのは(この場合は電力会社の株を持っている人に限られるけれど)「原発持ちたい」ということなのだ。そしてそれが覆せないわたしは、それを観念して受け入れるしかないのだ。だから、原発のリスクも当然負わなければならないのだ。

ところがどうもそういう考えは一般的ではなかったようだ。それどころか、今、関東地方で行なわれている計画停電に対して、「被災地の電源確保のため」と思い込んでいる人がいるという。一体どこまでお気楽で、そして自分勝手なんだろう。

今まで散々原発の恩恵を受けておきながら、今さら「放射能汚染が怖い」と騒ぎ出すのは、とても矛盾していると思う。それだったらなぜ、今までのうちに原発に何かあったときのことを想像してみなかったんだろう?そして放射能汚染が怖いと思うのなら、なぜ今までのうちに「原発反対」を言い出さなかったのだろう?

多分、上のようなことがあり、わたしはとてもいらついているのだ。

これからこのような事故におびえながら暮らすのはイヤだ、と思うならば、これからは「原発反対」を訴えることだ。そして自分たちの力で原発を止めていくしかないと思う。

しかし原発の事象って、HIV/AIDSの事象によく似ているなと思う。必要以上に恐がる必要はないが、さりとて危険性は免れられない、ということにおいてね。だから難しいのだ。被曝者を差別してはならない、恐がることはない、が、放射能汚染は怖い。HIV/AIDS感染者を差別してはならない、恐がる必要はない、が、ウイルスは怖い。これをいっぺんに言うのはとても難しいことだ。だけど、二つともとても重要なこと。もちろんHIV/AIDSと原子力では対応は全く異なるわけだけれどもね。HIV/AIDSとは共に一緒に暮らしていこうと思うけれど、原発とは一緒に暮らしていきたいとはわたしは思ってない。

最後に、今回の原発事故が早く収束されるのを願っているし、現場で働いている人たちの被曝量が少しでも少なくなることを願っている。また、周辺地域における野菜や牛乳の放射能汚染も報告され始めている。それも少しでも早く回復されることを願っている。
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08-06 Fri , 2010
いびせえ
数日前の新聞に、今年の平和宣言は広島弁でやるって書いてあって、「一体、東京出身の市長がどんな広島弁の宣言をするのか」と半ば呆れてたんだけど、冒頭の2、3の言葉が広島の会話調になってた、というのが今年の平和宣言だった。

その会話調の宣言の中に「いびせえ」という言葉が出て来た。標準語にすると「怖い」という意味になるが、わたしの感覚としてはもうちょっとおどろおどろしく怖い、みたいな感じになるか。

そして、この言葉を聞くと、わたしは亡くなった祖父を思い出してしまう。病院や怖いことが大嫌いで、晩年の頃は、血尿が出ていても病院に行かなかったという祖父。「いびせえ、いびせえ」と言っていたと言う。

その祖父が65年前、原爆の落ちた広島市内に父を連れて入った。行方不明になった身内を捜すためだった。

そこはどんな「いびせえ」状態になっていたのか。わたしは祖父に聞いたことがなかった。祖父が原爆の話をするのを聞いたこともなかったし、後に入市したために一緒に連れて行ったわたしの父が被爆者になってしまったことを悔いているらしい、とは周囲から聴いたものの、そのことも直接本人からは聞いたことはなかった。

聞いておけばよかった、と思うし、しかしあの頃はわたしも若くて聴いてみようという気すら起こらなかったしな、とも思う。

こうやって語られないままで終わってしまった「被爆証言」がこの世にいくつあるのだろうか。

ちなみにこの祖父の「いびせえ」は、見事なほどわたしに受け継がれている。未だに病院は嫌い、注射は嫌い、なところは、祖父譲りと言っていいだろう。
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08-15 Sat , 2009
すべてのために、祈ろう
今日は8月15日。日本では一般的に「終戦記念日」と言われている。
日本政府が主催する「全国戦没者追悼式」が行なわれ、正午には1分間の黙祷が捧げられる。
黙祷される人たち、というのは、国のために戦って亡くなった人を始め、空襲で亡くなった人、原爆で亡くなった人、この戦争で亡くなったすべての「日本人」のために行なわれる黙祷だということを現時点のわたしは理解している。

しかし「国のために戦って亡くなった人」の中は、今は日本人として含まれていないけれど、当時「日本人」とされていた人も入っているだろう。そういう人たちだって過去は「日本のため」といって亡くなった人もいるのだ。また、あの時代「戦争反対」を叫んで同じ日本人から殺された人たちも入っているはずだ。だってあの戦争がなければ、その人たちも殺されずに済んだのだから。ある意味彼らだって「戦争の犠牲者」だろう。それを、わたしたちは忘れてはならないと思う。

そして。被害を受けたのは、何も日本人だけじゃない。
「お国のために」と言って戦った日本人は、他の国の人たちを大勢殺した。「戦争だったから仕方がない」で済まされるのであれば、日本で空襲や原爆を受けて亡くなった一般市民だって「戦争だったから仕方がない」で済ましても何ら問題はないはずだ。

戦争は国と国との闘いだが、結局は人と人との殺し合いだ。
そして一方は勝ち、一方は負け、負けた方は勝った国のいいなりにならねばならなかった。
だからこそ近年では「日本はいつまで反省し続けなければならないのか」「日本はあの戦争でひどいことばかりをしていたわけではない。むしろいいことをしたのだ」という論調が出て来ている。負けたことをいつまでも反省し続けるのは、日本人としての誇りを持てない、と言うのだ。

しかし果たしてそうだろうか?
やったことを「やった」といい、いつまでも反省し続けること。そして二度と戦争を起こさないこと、そのことをわたしたちは、あの戦争で亡くなったすべての人に黙祷を捧げながら誓うことが、あの戦争で亡くなった人への本当の意味での「追悼」なのではないか、と思う。あの戦争で戦って亡くなった人の中には「戦いたくない」「生きていたい」と思う人はたくさんいたはずだ。そういう人のために、わたしたちは「もうあなたたちのような思いをさせるようなことはしません」と誓わなくてはならないのではないか。そして「永遠に反省し続けること」こそ、われわれの誇りにできることなのではないか。「われわれは二度と戦争をしません」と堂々と胸を張って言えることは、全世界の人に対して「日本人の誇り」になり得ないか。

最近、毎日新聞で「子どもは見ていた:戦争と動物」が連載された。

1回目:愛犬供出、「心が死んだ」
2回目:軍用兎飼育「少国民の務め」
3回目:伝書鳩は戦友だった
4回目:馬の出征、泣いた母
5回目:ゾウ列車は夢を乗せて

これを読むと、戦争で犠牲になったのは人間だけではない、ということがよく分かる。そして、亡くなっていった動物たちには語り伝える手段がない。こうやって覚えている人間が「そういうことがあった」ということで初めて明らかにされるのだ。この場合、人間はどういう場合でも「加害者」なのだ。「あの当時はお国のためで仕方がなかった」と言っても、加害者であったことは免れようがない。

でも実は、人だってたとえ、あの戦争で亡くなった人だって、加害者は加害者なのだ。「お国のために戦って亡くなっていった人を誹謗中傷する気か」と言われるかも知れない。しかしたとえ国のために戦ったとしても、加害者は加害者なのだ。確かにあの戦争で亡くなった人(日本人)の上に今の日本は成り立っている。それは事実だと思う。しかし、それが事実であるならば、やはり人や動物を殺した人もまた「加害者である」ということは事実なのだ。一方のことを「事実」とし、もう一方のことを「あれは仕方がなかった」で水に流すのは、おかしいと思う。もちろん加害者だけを責めるわけではない。そういう「加害者」の上に今の日本が成り立っているのもまた事実なのだ。そのことを、わたしは忘れてはならないと思う。

日本政府の主催の「全国戦没者追悼式」の対象となる人は「日本人であの戦争で亡くなった人」に違いないが、しかしわたしは、あの戦争で亡くなった、すべての人たち、いや、人だけではない、亡くなっていったすべての生命のために、祈ろうと思う。

「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」
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08-09 Sun , 2009
8月9日 午前11時2分
今日は長崎に原爆が落とされた日。
親族が長崎で被爆をした人がいないため、わたしは広島のことは自分のことのように感じているが、長崎のことはもちろん、頭の中にはあるものの、気が付くといつも午前11時2分は過ぎていたし、テレビで平和祈念式典をやっていることも知らなかった。

「原爆を投下された」と言うこと自体は同じなのに、なぜこんなに意識が違うんだろう、ってずーっと思っている。そこには「当事者性」というものがないからだろうか。しかし「被爆二世である」ということは、広島に落とされようと長崎に落とされようと変わりはないはずだ。だけど、わたしの中では「広島」については人ごとではなく、しかし「長崎」についてはどうしても「客観的な目」で見てしまう。8月6日の午前8時15分の黙祷のとき、わたしはわたしを取り巻く人々が、あの日あのときどうしてたんだろう、一瞬のうちにいなくなってしまったのだろうか、それとも苦しんで死んでいったのではないだろうか、と知らず知らずのうちに考えてしまっている。

しかし、今日の午前11時2分の黙祷のときは、その直前に「長崎が最後の被爆地になるように」と言われた、あの言葉を思い返しながら黙祷していた。キノコ雲の下で起こったこと、のことについては考えなかった。なんといってもわたしは長崎のことは知らなさすぎる。

そしてこのことから、わたしは思う。周囲に被爆者を身近に感じられない人にとっては、広島も長崎も「ふーん」という認識しかないだろうなあと。それはある程度仕方がないことだと思う。「当事者性」とはそんなものかも知れないと思うから。そしてそういう人に「関心」を持ってもらうことはとても難しいことだとも思っている。これって、性的少数者のことについても同じなのかなぁ、ってふと思ったりした。

ただ性的少数者のことについては「わたしは関係ない」で済まされる人もいるだろう。しかし、原爆となると話は別だ。地球上に核がある限り、誰でもみな、被爆者になり得る可能性を持っている。だけどわたしは、もうこの世から原爆投下に伴う被爆者を一人だって出して欲しくない、そう思う。そう思うからこそ、日本にいる人と、日本に来た外国人は、みな広島や長崎の原爆資料館を訪れて欲しいと思う。何度も行けとは言わない。たった1回でいいのだ。

※ここではわざと「被爆者」=「戦争によって落とされた原子爆弾による被爆者」として書いている。実は被爆者というのは、戦争による原爆の被爆者だけでないことは、わたしは十分承知しているからで、例えば「平和利用」と言われている原子力施設での被爆者、核実験による被爆者、そして劣化ウラン弾による被爆者、被爆者は戦争による原爆の被爆者だけではないのだ。しかし、今ここでそのすべてを「被爆者」と定義するならば、話に収集がつかなくなる可能性が十分にあるので、ここでは「戦争による原爆の被爆者」だけのことについて書いている。逆に言うと「この世からもう一人だって被爆者を出したくない」というわたしの本当の願いを書けば、それは単なる「核兵器廃絶」だけの話ではなくなるわけだ。広島のときもそうだったが、わたしは敢えてそのことを「外して」書いている。

しかし、2年前にも書いたと思うが、長崎の平和祈念式典というのは、広島の平和記念式典と比べて明るい感じがする。それは多分、落とされた時刻が違うから、というのが主な理由だろうけれど、広島の平和記念式典が「固い」というイメージで、長崎の平和祈念式典はとても「やわらかな」イメージを持つのはなんでだろうなあ~?長崎の平和祈念式典の司会者が若い高校生だからかな。実は広島の平和記念式典も最後の最後に子供から大人までが集まった合唱がある、ってのを今年初めて知ったんだけど(NHKの中継はいつも、総理大臣の挨拶までで終わるのね。でも今年はケーブルテレビでも中継してることを知って、初めて最後まで見た)、長崎の平和祈念式典では合唱が入ってるよね。2年前、小学生の合唱があったかどうかは忘れたけど、高校生の合唱のことはよく覚えている。広島の式典では広島市長のあとに子供の「平和への誓い」があるだけで、あとは「子供の出る幕じゃない」って感じなんだよね。だから広島の式典は「固く」感じるのかなあ。

しかし、この4月、プラハで「原爆を使用した道義的責任」について述べたオバマ大統領の演説は、被爆者のみならず、核兵器反対を唱えている人の「錦の御旗」みたいになっちゃってるんだなあ~って、今日の平和祈念式典を見ながらそう思ってた。まぁ、今日の式典では「オバマジョリティー」なる言葉は一切使われなかったけど(笑)というわけで、今日の長崎市長の平和宣言。

今、私たち人間の前にはふたつの道があります。
 ひとつは、「核兵器のない世界」への道であり、もうひとつは、64年前の広島と長崎の破壊をくりかえす滅亡の道です。
 今年4月、チェコのプラハで、アメリカのバラク・オバマ大統領が「核兵器のない世界」を目指すと明言しました。ロシアと戦略兵器削減条約(START)の交渉を再開し、空も、海も、地下も、宇宙空間でも、核実験をすべて禁止する「包括的核実験禁止条約」(CTBT)の批准を進め、核兵器に必要な高濃縮ウランやプルトニウムの生産を禁止する条約の締結に努めるなど、具体的な道筋を示したのです。「核兵器を使用した唯一の核保有国として行動する道義的な責任がある」という強い決意に、被爆地でも感動がひろがりました。
 核超大国アメリカが、核兵器廃絶に向けてようやく一歩踏み出した歴史的な瞬間でした。

 しかし、翌5月には、国連安全保障理事会の決議に違反して、北朝鮮が2回目の核実験を強行しました。世界が核抑止力に頼り、核兵器が存在するかぎり、こうした危険な国家やテロリストが現れる可能性はなくなりません。北朝鮮の核兵器を国際社会は断固として廃棄させるとともに、核保有5カ国は、自らの核兵器の削減も進めるべきです。アメリカとロシアはもちろん、イギリス、フランス、中国も、核不拡散条約(NPT)の核軍縮の責務を誠実に果たすべきです。
 さらに徹底して廃絶を進めるために、昨年、潘基文国連事務総長が積極的な協議を訴えた「核兵器禁止条約」(NWC)への取り組みを求めます。インドやパキスタン、北朝鮮はもちろん、核兵器を保有するといわれるイスラエルや、核開発疑惑のイランにも参加を求め、核兵器を完全に廃棄させるのです。
 日本政府はプラハ演説を支持し、被爆国として、国際社会を導く役割を果たさなければなりません。また、憲法の不戦と平和の理念を国際社会に広げ、非核三原則をゆるぎない立場とするための法制化と、北朝鮮を組み込んだ「北東アジア非核兵器地帯」の実現の方策に着手すべきです。

 オバマ大統領、メドベージェフ・ロシア大統領、ブラウン・イギリス首相、サルコジ・フランス大統領、胡錦濤・中国国家主席、さらに、シン・インド首相、ザルダリ・パキスタン大統領、金正日・北朝鮮総書記、ネタニヤフ・イスラエル首相、アフマディネジャド・イラン大統領、そしてすべての世界の指導者に呼びかけます。
 被爆地・長崎へ来てください。
 原爆資料館を訪れ、今も多くの遺骨が埋もれている被爆の跡地に立ってみてください。1945年8月9日11時2分の長崎。強力な放射線と、数千度もの熱線と、猛烈な爆風で破壊され、凄まじい炎に焼き尽くされた廃墟の静寂。7万4千人の死者の沈黙の叫び。7万5千人もの負傷者の呻き。犠牲者の無念の思いに、だれもが心ふるえるでしょう。
 かろうじて生き残った被爆者にも、みなさんは出会うはずです。高齢となった今も、放射線の後障害に苦しみながら、自らの経験を語り伝えようとする彼らの声を聞くでしょう。被爆の経験は共有できなくても、核兵器廃絶を目指す意識は共有できると信じて活動する若い世代の熱意にも心うごかされることでしょう。
今、長崎では「平和市長会議」を開催しています。来年2月には国内外のNGOが集まり、「核兵器廃絶―地球市民集会ナガサキ」も開催します。来年の核不拡散条約再検討会議に向けて、市民とNGO都市が結束を強めていこうとしています。
 長崎市民は、オバマ大統領に、被爆地・長崎の訪問を求める署名活動に取り組んでいます。歴史をつくる主役は、私たちひとりひとりです。指導者や政府だけに任せておいてはいけません。
 世界のみなさん、今こそ、それぞれの場所で、それぞれの暮らしの中で、プラハ演説への支持を表明する取り組みを始め、「核兵器のない世界」への道を共に歩んでいこうではありませんか。

 原子爆弾が投下されて64年の歳月が流れました。被爆者は高齢化しています。被爆者救済の立場から、実態に即した援護を急ぐように、あらためて日本政府に要望します。
 原子爆弾で亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りし、核兵器廃絶のための努力を誓い、ここに宣言します。

2009年(平成21年)8月9日
長崎市長 田上 富久


今回のこの、長崎市長の平和宣言は、素直によかった、と思う。特に広島が「オバマジョリティー」と定義したことが「世界のみなさん、今こそ、それぞれの場所で、それぞれの暮らしの中で、プラハ演説への支持を表明する取り組みを始め」という分かりやすい言葉で表現されていて、それには好感を持った。と言っても、多分、あの「オバマジョリティー」という言葉を知らなければ、長崎市長の言っている言葉が何を表わしているかも分からなかっただろうけどね。ということは、奇妙奇天烈に聞こえた「オバマジョリティー」なる言葉も悪くはなかった、ということか。ただ、わたしはこの言葉、使う気にはなれないけど(笑)

ホント、この平和宣言の中にある核保有国や核保有疑惑のある国のトップには被爆地を訪れて欲しい。多分それは、被爆者を始めとする核兵器廃絶を目指している人みんなの願いでもあると思うから。「それを見さえすれば、みんなが核廃絶に協力する」という単純なことにはならないだろうが、しかしあれを「見る」だけで相当印象が違うはずだ。

その次に被爆者代表の女の人の言葉があったんだけど、わたしは単純にあの人すごい、って思った。それまで9人家族だったのに、あの原爆によって弟と自分だけ生き残ってあとはみな死に、その生き残った弟もやけどがひどくて10月になくなり、一人になってしまったという。そして46年間は原爆のことも被爆のことも何も考えたくない、と耳をふさいで生きてきたそうだ。これってね、年を取ってから初めて原爆の語り部を始める人と同じなんだよね。多分この人も何十回、何百回と「なぜ自分だけが生き残ったんだろう」「みんな死んで、自分だけ生き残って申し訳ない」と思ったことだろうね。だから原爆のことは思い出したくない。だけど、気が付いてみたら、周りに原爆の体験を語れる人がどんどん少なくなってきている。「これは自分が話さなければ」と思い、語り部を始める。しかし、何年も何十年も同じことを語るつらさって多分、わたしの想像が及ばないくらいだと思う。だって、自分にとって一番つらいことを話すわけさ。思い出したくないことを話さなきゃいけないわけさ。話すたびに精神的に疲れるだろうな、ぐったりして起き上がれないくらいに疲れるだろうな、って思う。できることなら話さずに済めば話したくない、でもそこのところを敢えて犠牲にして、原爆の悲惨さを知らない人たちに語りかける。これってすごいことだと思う。

その後総理大臣の話は、正直、広島での挨拶をそのまま持って来たようで、つまらなかった。あ、ただ、広島のときは下に字幕がついてたのね。わたしはそれと見比べて聞いてたんだけど、こないだのイタリアでのサミットのときの話の中でね、字幕では

先月のラクイラにおいて、初めて、「核兵器のない世界」に言及し、世界的な核軍縮・不拡散に関する気運の高まりを維持・強化するための力強いメッセージを表明しました。


って書いてあったにもかかわらず、本人は「力強いメッセージを表明」じゃなく、「気運の高まりを維持・強化するための採択をしました」って言っちゃってて「おいおい、表明と採択じゃ全く違うだろう!」って思わずテレビに突っ込んでしまった。てーか、この間違いってすごいよね。それに懲りたのか、今日の平和祈念式典では、字幕は付いてませんでした(爆)あ、ただ、「採択した」とは言わなかったけどね。

国連議長の挨拶は広島のときもあったけど、同時通訳がつかず、正直何を言っているのか分からなかったんだけど、新聞で「カトリック教徒として同じ宗教を信じるものが原爆に関与したことを日本国民に謝罪したいと言っている」というのは読んで知っていた。しかし、Webなどを見ると、広島ではそのことについてはっきり述べていたようだし、今日の挨拶でも同じことを言っていた。なんでこの人が?と思ったけど、この人はカトリックの神父さんなんだそうだ。

あと、これはWebでは探しきれなかったんだけど、最後の方に「国際社会では『核廃絶』ということは『核の数を減らすと言う意味のこと』」とあとなんだっけな、なんかね、いくつかの「言葉」を例に挙げて「そういう偽善的なことはもう止めよう」って言ったんだ。あれについては涙が出たね。言葉が本来の言葉の意味でなく、真綿に含んで言いくるめられているような意味になっていることを、ちゃんと本来の意味に戻して、そして話し合っていかねばならない、って言ったんだ。確かに国連自体には強制力はないだろう。しかし、今、こういう人たちが核廃絶に向けて努力し始めているのだ。それも始まりはプラハのあのオバマ大統領の演説からか、と思うと、世界の国におけるアメリカの位置ってものすごく強大なものなんだなと思うが。ただ、こうやって「核兵器廃絶」の錦の御旗みたいにされてしまったオバマ大統領、今後、「反核廃絶」の人から攻撃を受けなければいいが、と思っている。

日本政府としては、このプラハの表明に対しては支持していないとか。それは今の日本の平和がアメリカの「核の傘」の中で守られているからこそで、それがなくなると脅威にされされるからだという。しかし、わたしは北朝鮮が日本と戦争をしたがってるとはどうも思えないんだよね。北朝鮮が「ほら、核作ってるぞ、ミサイル発射してるぞ~」って言ってるのは、あくまでもアメリカの気を引きたいがためであって、本当は北朝鮮は日本なんか目じゃないし、もし万が一、間違って日本に核を打ち込んでしまったら、今度はそれが「口実」となって、世界中から国内が攻め込まれるだろう。そんなことしたら、北朝鮮は今の体制が崩壊するのは目に見えてる。そんなこと、北朝鮮だってわかりきってるだろう。だから、北朝鮮のやっていることは日本にとって怖くも何ともないのだ。だから日本は「アメリカの核の傘」なんて本当はいらないのだ。

六 戦争の放棄
みなさんの中には、こんどの戦争に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戦争はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戦争をしかけた国には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戦争のあとでも、もう戦争は二度とやるまいと、多くの国々ではいろいろ考えましたが、またこんな大戦争をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。
 そこでこんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これは戦力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
 もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、決して戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、自分の国をほろぼすようなはめになるからです、また、戦争とまでゆかずとも、国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその国となかよくして、世界中の国が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の国は、さかえてゆけるのです。
 みなさん、あのおそろしい戦争が、二度とおこらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう。

(「あたらしい憲法のはなし」より「六 戦争の放棄}


日本政府はプラハでのオバマ発言を支持し、唯一の戦争での被爆国として核廃絶に向かって世界をリードする存在になって欲しい。わたしはそう願っている。
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08-06 Thu , 2009
8月6日 午前8時15分
今年もこの日が来た。
何度も何度も同じことを書いているが、こういうことは言い続けなければいけないことだから、書く。

わたしの親族の中には、原爆投下直後の広島の街の様子を語る人はいない。
なぜかというと、その日に限って爆心地付近に用事がある、と言って出かけて言った祖父の兄夫婦はその日を境に消えてしまったからだ。身内の間では、多分、原爆に遭ったのだろう、と言われている。

そして64年前の今日の朝、祖父は身体がだるくて昼から会社に行くことにして、そして午後、会社に向かったが、広島市内にはもう原爆が投下されたあとで入れない状態だった、と聞いた。

しかし、その兄夫婦が行方不明ということで、その後、広島市内に父と共に入り、被爆者になった。
祖父はもう十何年前に亡くなってしまったが、父は今でも生きている。

その父が唯一話してくれたのは、子供の頃、川縁を掘ったら人骨がたくさん出て来た、ということだった。きっと水が欲しいと思って、川にたどり着き、そして亡くなっていった人たちなんだろう。今はそれが予想もつかないほどきれいに整備されているけれど。

わたしはその父の子どもだから、被爆二世ということになる。実は母は結婚するまで父が被爆者だと言うことを知らなかったという。結婚後に言われてとてもショックだった、と聞いた。そして父が東京に住んでいるときは、被爆者健康手帳で医療費が安くなるにもかかわらず、差別を恐れて絶対にそれを使わなかった、と聞いた。

そういうことが断片的に、わたしには伝えられている(伝えられてる話はこれだけではないんだけど)。
そして、わたしは被爆二世ではあるが、今のところは普段の生活ではそういうことを意識しないで生きていられるほどは健康だ。まぁ、ここ数年は次々に病気に襲われるので、多分あまり関係がないだろうなとは思いつつ、それでもひょっとして、と思うことはあるし、多分、これからはがんの検査などはしっかり受けていかねばならないのだろうなとも感じている。

今日の8時15分、わたしは黙祷した。
あのとき、祖父の兄夫婦はどこで何をしていて、そしてどうなったんだろう、と思っていた。

その後、広島市長による平和宣言が読まれた。

人類絶滅兵器・原子爆弾が広島市民の上に投下されてから64年、どんな言葉を使っても言い尽せない被爆者の苦しみは今でも続いています。64年前の放射線が未(いま)だに身体を蝕(むしば)み、64年前の記憶が昨日のことのように蘇(よみがえ)り続けるからです。
 
幸いなことに、被爆体験の重みは法的にも支えられています。原爆の人体への影響が未(いま)だに解明されていない事実を謙虚に受け止めた勇気ある司法判断がその好例です。日本国政府は、「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め高齢化した被爆者の実態に即した援護策を充実すると共に、今こそ省庁の壁を取り払い、「こんな思いを他(ほか)の誰(だれ)にもさせてはならぬ」という被爆者たちの悲願を実現するため、2020年までの核兵器廃絶運動の旗手として世界をリードすべきです。
 
今年4月には米国のオバマ大統領がプラハで、「核兵器を使った唯一の国として」、「核兵器のない世界」実現のために努力する「道義的責任」があることを明言しました。核兵器の廃絶は、被爆者のみならず世界の大多数の市民並びに国々の声であり、その声にオバマ大統領が耳を傾けたことは、「廃絶されることにしか意味のない核兵器」の位置付けを確固たるものにしました。
 
それに応(こた)えて私たちには、オバマ大統領を支持し、核兵器廃絶のために活動する責任があります。この点を強調するため、世界の多数派である私たち自身を「オバマジョリティー」と呼び、力を合せて2020年までに核兵器の廃絶を実現しようと世界に呼び掛けます。その思いは、世界的評価が益々(ますます)高まる日本国憲法に凝縮されています。
 
全世界からの加盟都市が3,000を超えた平和市長会議では、「2020ビジョン」を具体化した「ヒロシマ・ナガサキ議定書」を、来年のNPT再検討会議で採択して貰(もら)うため全力疾走しています。採択後の筋書は、核実験を強行した北朝鮮等、全(すべ)ての国における核兵器取得・配備の即時停止、核保有国・疑惑国等の首脳の被爆地訪問、国連軍縮特別総会の早期開催、2015年までの核兵器禁止条約締結を目指す交渉開始、そして、2020年までの全(すべ)ての核兵器廃絶を想定しています。明日から長崎市で開かれる平和市長会議の総会で、さらに詳細な計画を策定します。
 
2020年が大切なのは、一人でも多くの被爆者と共に核兵器の廃絶される日を迎えたいからですし、また私たちの世代が核兵器を廃絶しなければ、次の世代への最低限の責任さえ果したことにはならないからです。
 
核兵器廃絶を視野に入れ積極的な活動を始めたグローバル・ゼロや核不拡散・核軍縮に関する国際委員会等、世界的影響力を持つ人々にも、2020年を目指す輪に加わって頂きたいと願っています。
 
対人地雷の禁止、グラミン銀行による貧困からの解放、温暖化の防止等、大多数の世界市民の意思を尊重し市民の力で問題を解決する地球規模の民主主義が今、正に発芽しつつあります。その芽を伸ばし、さらに大きな問題を解決するためには、国連の中にこれら市民の声が直接届く仕組みを創(つく)る必要があります。例えば、これまで戦争等の大きな悲劇を体験してきた都市100、そして、人口の多い都市100、計200都市からなる国連の下院を創設し、現在の国連総会を上院とすることも一案です。
 
被爆64周年の平和記念式典に当り、私たちは原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げ、長崎市と共に、また世界の多数派の市民そして国々と共に、核兵器のない世界実現のため渾身(こんしん)の力を振り絞ることをここに誓います。
 
最後に、英語で世界に呼び掛けます。
 
We have the power. We have the responsibility. And we are the Obamajority.
Together, we can abolish nuclear weapons. Yes, we can.
 
2009年(平成21年)8月6日
                    広島市長 秋 葉 忠 利



この4月にプラハで、アメリカは核兵器のない世界にする道義的責任がある、と言ったオバマ大統領のことについて触れられ、「オバマジョリティー」なる言葉も披露(?)された。しかも最後の締めくくりは「Yes,we can.」で、オバマ大統領に期待する気持ちはとても分かるものの、「何か違うんじゃない?」という気持ちも同時に起こさせた。世界の人に呼びかける意味ではとても分かりやすい言葉なんだろうけど(とは言え、やはり「オバマジョリティー」は恥ずかしい)、広島市長は広島市長としてもっと「自分の言葉」で語って欲しかった。しかし、2020年までに核兵器を廃絶するプランが明確に述べられていて、本当にこの通りにいけばいいなという感じだ。まぁその通りに行くにはとても難しいだろうけどね。

そしてまた、広島市長の次に広島の子供が「平和への誓い」を発表したが、この中で、

> 話し合いで争いを解決する、本当の勇気を持つために、核兵器を放棄する、本当の強さを持つために、原爆や戦争という「闇」から目をそむけることなく、しっかりと真実を見つめます。

という一文の中の「本当の強さ」について、わたしの中に思い起こされるものがあった。戦後に新しい「日本国憲法」が出来たときに、その当時の中学1年生用の社会科の教科書として文部省(当時)が作った「あたらしい憲法のはなし」に出てくる文章だ。

六 戦争の放棄
みなさんの中には、こんどの戦争に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戦争はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戦争をしかけた国には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戦争のあとでも、もう戦争は二度とやるまいと、多くの国々ではいろいろ考えましたが、またこんな大戦争をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。
 そこでこんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これは戦力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
 もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、決して戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、自分の国をほろぼすようなはめになるからです、また、戦争とまでゆかずとも、国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその国となかよくして、世界中の国が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の国は、さかえてゆけるのです。
 みなさん、あのおそろしい戦争が、二度とおこらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう。

(「あたらしい憲法のはなし」より「六 戦争の放棄}



この部分は、当時の文部省の人たちが、戦争を体験する中で「何を次世代に伝えたいか」がよく表われている文章だと思う。そして、今日の平和の原点は、わたしはこの文章じゃないかとさえ思えてくる。

確かに今の世界を見渡したとき、この文章とは掛け離れたことが起き、日本もだんだんこの文章にかかれていることから遠ざかっているような気がする。「ここにかかれたことは単なる理想であり、現実社会はこんなことは通用しない」と思われる人もたくさんいるだろう。わたしもそう思わないことはないからだ。しかし「持たざることは正しくて、正しいことが一番強いのだ」ということを、再度思い直してみたい。

もう、核兵器で一人でも多くの被爆者を出さないためにも。被爆者の子供や孫や、その子孫たちが被爆者の子供であるわたしのように「(あるかどうかすら解明されていない)被爆の影響」で脅えながら暮らすことのないように。
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07-10 Fri , 2009
トラウマ
最近「頭痛がー!」って日記を頻繁に書いてるもんだから、心配した人たちが「頭の中を調べてみたらどうか」って言うんだけど(なんだかこの言い方、へん?(笑))、検査には金がかかるし、どーせ異常なしだし、おまけに検査嫌いだし、なんて結局「検査しない方向」に持っていきたいわけだけど(苦笑)

よく考えてみたら、わたし、被爆二世なんだよね。
東京都に住んでいる被爆二世って、被爆した人と同じ項目の検査を無料で検査できるんだよね。一般健康診断+がんの検査(女性は6種類)。精密検査が必要な場合は、限度額はあるけど、ある程度出してもらえるらしい。

らっきー!恵まれてる!!

って一瞬思ったが、考えてみたら無料検診を受けられるより、被爆二世じゃない方がよっぽどよかったわけで。だいたい、いつ爆発するか分からない爆弾を抱えてるようなもんだとわたしは思う。まー、よっぽどのことがないと、普段、その抱えてる爆弾の存在は気が付かないんだけどさ。でも、今、自分が口腔異常感症とかよくわけの分かんない病気にかかってるのは「もしかして、自分が被爆二世だからか?」って思うことあるよ。

あと、東京都の場合は「半年以上の治療が必要と見込まれる成人病などの医療費の自己負担分が無料に」なるらしい。一瞬、わたしの病気ももしかしたらあるかも?って思ったんだけど、わたしの病気は、まだどこがどうなってるんだかよく分かってない病気らしいから、あるわけないよな。。でも、将来的に指定された病気(11種類あるらしい)にかかると医療費が無料、ってのも一瞬、

らっきー!

って思うんだけど、それだけ一般の人より「病気になりやすいんですよ」と言われているようなもんで、喜ぶべきことじゃないよな。。

あ、そんで、この検診を受けるためには、自分が被爆二世である、という証明をしなくてはいけなくて、それにはわたしの場合「父親の被爆者手帳のコピー」が必要らしい。「親に連絡取らなきゃいけないのか。。。やだなあ」ってそのときちょっと思っただけなんだけど、そんなこと思ったら、いっぺんでその日、悪夢を見てしまった。もうほとんど何が何だかよく覚えてなくて、夢の中に誰が出てきたのかさえ忘れたんだけど、いや~な気分、不快な気分だけは残っていて、思わず夜中か明け方かかはよく分からないけど、目を覚まして彼女に抱きついてしまった(汗)

親と連絡取らなくなってから1年と少し経つが、まだ思い出すだけでも、悪夢見たりして、これだけ「トラウマ」が自分の中に残ってるんだなあ~と思った。

「頭痛い」って書くと、みんな心配するからもう書きません(汗)
どうせ「検査に行け」と言われてもいかないだろうし~、、、

【注】どうやら東京都の「健康診断」の中には頭部レントゲンなどはないようで。結局調べてもらうためには金がかかるってことやね。
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