09-12 Sat , 2015
彼は秘密の女ともだち
昨日、観てきた。

この映画を知ったのは、6月だったか「パレードへようこそ」って映画を観に行ったときにその映画館にこの映画のチラシがあって。題名を観たときにすぐに「これはトランスっぽい感じだな」と思ったの。でも、その後、その映画館でこの映画の予告を観たときに「あ、なんだ。つまらなそ」と思って観に行くの止めたのね。それがまたなんで観ようと思ったかというと、友だちが「よかったよー、この映画。フランス映画だからか単純な話ではなかった」みたいなことを言ってきて。だから「んじゃちょっと観に行こうかな」と思って観に行ったのだった。

観た感想。面白かった。結末が「ああ、これが一番いい結末だよね」って思えるものだった。

どういう映画かというと、一口で言えば、MtFレズビアンと結婚後にレズビアンって気が付いた人のお話なんだけど、まぁ正直、今のわたしは誰か人を一口で「この人はこうだ」ってカテゴライズしてしまうことがとても危険だと思ってるので、ここにはわざとカテゴライズして書いたけど、本当はどういう解釈をしようがどーだっていいと思ってる。例えば結婚後にレズビアンだって気が付いたって書いたけど、もしかしたらバイセクシャルかも知れない可能性もあるし。パンセクシャルかも知れない。どちらかというとバイよりパンかもって気もする。きゃー、カテゴライズはしないって言ってるのに!(笑)

主人公は女性で、7歳のときに出会った親友とずっとずっと親しく過ごしてきた。その過程が映画始まってから5分くらいですんなり描かれる。が、最初の場面はその親友のお葬式の場面なのだ。主人公(クレールという名前)は親友(ローラという名前)の弔辞を読みながら、二人が出会って共に過ごしてきた日々を思い出す。大人になり二人とも何人かの男性と付き合って、それからそれぞれの男性と結婚する。ローラの方が先に結婚するのだが、複雑そうな顔を見せるクレール。クレールが結婚したときはローラは既にお腹が大きかった。そして子どもが生まれたときはローラは既に車いすに乗るようになってて、それからしばらくして亡くなる。

この二人が過ごしてきた場面でわたし「あれっ」って思ったのね。親友だとしても、お互いに手の平を傷つけて血を出してそしてその手と手を握り合って「永遠の誓い」なんかするかなあ、とか、木に大きなハートマークの中に自分たちの名前を彫ったりするかなあとか。確かに女同士には「シスターフッド」って概念があって、ものすごく親しい関係が想定されているけれど、その「友情」と「恋愛感情」の間って何が一体違うんだろう?って。これはわたしがレズビアンだからそう思うのかも知れない。わたしが「この人は友情止まり」って思う人と「この人とは付き合いたい」って考えるその「差」って、もしかしたら肉体的な欲求だけなのかな、とか。まぁこれは異性愛者も同じではあるんだけどね。異性はみんながみんな恋愛の対象ではないでしょう。「この人は友情止まり」って人だってもちろんいるよね。ただ、それが同性であると、付き合い方は異性より親密になるんだよね。友だちと一緒に旅行するというんだって、異性の友だちと一緒に旅行するというとなんとなくハードル高く感じるけど、同性の友だちとはすんなり行けちゃうもんね。そして同じ部屋に泊まるし、一緒に風呂入ったりして、同性の友だちは異性の友だちより「近い関係」になれちゃう。だからこそ、わたしは自分自身「親友と恋人の違いって、自分ではどこで区別を付けているんだろう?」と思うわけです。まぁこの映画は結局、そこら辺がすべて「鍵」だったわけなんだけど。

死んだローラはダヴィッドという男性と結婚したのだけど、このダヴィッド、結婚前から女装してたという。ローラはそれを知っていて「自分の前なら女装してもいい。けど、外ではしないで」と言っていたと。そのことを主人公のクレールはローラの死後、ダヴィッドの家を訪れたときに知るんだけど、最初はすごくびっくりしてそのことを拒絶する。

わたしは既に何人か女装して過ごしてる人を知ってるし、女装できないけど自分は女だと思うって言う人と何人か話したりしたことがあるので、正直、女装に対しては見てもなんとも思わない。ただ逆に世間から向けられる目の怖さを知ってるので「すごいなあ」とは思ってるけど。こういう感覚を持っているので、映画を観て「あ、フランスでも女装に対しては世間の風当たりは強いんだ」とちょっとびっくりした。だってフランスってPacs(市民連帯契約法)が一番にできて、同性同士の法的な保障がされるようになったかなり初期の国であり、同性愛にはかなり寛容な国のイメージがあったからだ。

このことはこの後の話にも出てきて、話が突然飛躍するんだけど、クレールのダンナ、ジルにクレールとダヴィッドが「女友達」として一晩泊まりに行ったことがばれたときに、クレールが考えたのは「ダヴィッドが女装している」という本当の話ではなく「ダヴィッドはゲイだと気が付いて自分に相談するために一晩一緒に泊まった」というウソの言い訳だったのね。それはジル自体も「同性愛は許せるけど、女装は許せないだろう」と考えてのことだった。ジル自体も映画の中で「周囲はみんなゲイだらけ」という発言をしてて、ゲイに対しては何も思ってないようだ。まぁ最初に取ったクレールの態度やジルの女装の受け入れなさ=フランスの現実かというと、それはわたしにはよく分からないけど、でも、少なくともそういう現実が少しはあるからこそ、こういう映画が作られるんだろうしね。

最初はダヴィッドの女装を受け入れられないクレールだったが、ひょんなことから女装したダヴィッドのことを「ヴィルジニア」と名づけて、その当たりから徐々に受け入れ始め、一緒にショッピングを楽しんだりして、かなり大胆な行動を取るようになる。ダヴィッドは自分がするのは「女装」ではなく、自分は「女なんだ」ということが分かってくる。ただし、性的指向は変わらずに「女性」なので、まぁカテゴライズはしたくないんだけど、MtFレズビアンってことになる。これねー、なんかどっかで「なんで女性になりたい人なのに女性が好きなままなの?」って感想のコメントを読んだんだけど、日本ではさー、異性愛者の性同一性障害の人しか出て来ないので「同性愛だとおかしいから、自分が異性になる」って理解してる人もいるんだよね。だけど性的指向(何の性が好きか)と性自認(自分の性別は何か)は別物なので、自分の性別を変えたい人であっても、好きになる対象は変わりません。実際、男→女に変わりたい人の中で、女性が好きな人の割合は約半数です。逆に女→男に変わりたい人の中で、男性が好きな人の割合は約10%くらいしかいなく、この差がなぜ生まれるかはまだ良く分かってない。けど、女性になりたい人で女性が好きな人は現実的にもかなりたくさんいます。この映画、そのまま受け取ればその事実を知らなくても「この人はそうなんだ」で済むんだけど、異性愛規範が強い人が観ると「え、なんで?」ってことになっちゃうんだよね~。映画を観る上でこのような予備知識は特に必要はないとは思うけど、観るなら自分の「固定観念」を外してみないとよく分からない映画になっちゃう恐れはある。

で、ヴィルジニアと「女同士」として楽しんでいるうちに、クレールにも変化が訪れる。ローラとの日々を思い出すのだ。そしてあることがきっかけでクレールは「ローラとはただの親友という気持ちではなかった自分」に徐々に気が付いていく。この辺の描写はかなりうまいと思った。この辺の気付かせ具合が複数のシーンに渡って出てくるの。これはねー、わたしのような割と歳を取って自分が同性愛者だと気が付いた人にとっては、自分の体験と重ね合わせてちょっと懐かしくなったりするかも(笑)クレールは自分が同性愛者(か、または女性も好きになることができるか、それ以外かは断定はできないけど)であることに気が付き始める一方、ヴィルジニアのことも好きになっていく。そのことに気が付かされるのは、ジルにダヴィッドがゲイであるって気が付いたみたいだから、自分は相談に乗っていると言った後、3人で一緒にテニスをした後にシャワーを浴びるシーン。ここでクレールは男性のシャワー室に忍び込み、ジルとダヴィッドが一緒にシャワーを浴びているところを覗き込む。ここの「妄想」ね。ここもうまいと思ったなあ~。結局この後、クレールは女装を辞めていたダヴィッドに「ヴィルジニアが恋しいの!」と告白してしまう。

あ、これはあらすじ通りに語ってません。わたしが語りたいと思った場面から語ってます(笑)なので、映画を観てない人にとっては「なんのこっちゃ?」って思うかも。

わたしが一番印象に残って、好きなシーンは、この「ヴィルジニアが恋しい」とダヴィッドに告白した後、ダヴィッドはヴィルジニアとなり、その名前の元となったヴィルジニアホテルにクレールを呼んだシーンです。彼女らは自分たちが愛し合っていると知り、部屋に行ってセックスをする。けど、身体をまさぐっている間にヴィルジニアの身体には男性器が付いている、ということに気が付いたクレールは思わず「あなたは男だ!」と言って部屋を出て行ってしまうのね。その言葉にヴィルジニアはベッドの上で涙をこぼす。

このシーンは本当にせつなかった。ヴィルジニアにとっては、別に身体に男性器が付いていようが自分は女なんだよね。シリコンの胸であっても自分は女なんだよね。でも、相手にとってはそうではない。そこの「ギャップ」なんだよね。

わたしはこの日記、過去にもよく書いてるけど「自分は女が好きだけども、では一体女とはどの範囲のことなんだろう」ってよく考えるのね。例えば染色体、性ホルモン、内性器、外性器がすべて「女性形」の完璧な女性しか女性として愛せないんだろうか、と考えると、特にそうと思えない。特に染色体とか性ホルモンとか内性器とか、外から見て分かんないものはそれの「あるなし」は判断しようがないし、あるから好きになって、なかったら好きにならないなんて保障はどこにもないと思う。のようなことを考えると「では胸がなかったら」とか「男性器が付いていたら」ということまで押し広げて考えることができる。まぁここは想像の世界でしかないけど、ここの部分は個人個人で異なってて「別に男性器が付いていても本人が女だって言ってるし、自分にもそのようにしか思えないからセックスできる」って人だって確実にいる。「やっぱり男性器が付いてたら女性とは思えないからセックスできない」って思う人もいるだろう。「胸はなくても男性器がなかったら大丈夫」って人もいると思うし、それは人それぞれだ。で、自分はどうなの?って思ったとき、まぁよく分かんないよね(笑)そうなってみなければ。ただ、基本、わたしは外見が「ボーイッシュ」な女性が好きなので、そういう外見をしたMtFを探すのはまず困難、ってことにはなる。ただ、MtFの人であれば、わたしは「どこから見ても女性にしか見えない人」はあんまり好きじゃなく(これはわたしが女性っぽい女性が苦手だと言うことがあるからだろう)本人はそう思ってないと思うけど周囲から気が付かれたりする「中途半端な女装」の人の方が好きなんだよね~ってこれ、すごい本人にとっては失礼な言い草であろうというのは百も承知です。

女装にもいろいろあって、本人がどのような「女の人」になりたいかはそれぞれだよね。みんながみんな「完璧に女を目指している」わけでもない。無精髭生えたままで女装したい人だっているはずだし、「それが女としての自分」って思ってる人だっているはず。そういう人がいる中で、わたしの好みは「無精髭生えたままで女装してる人」だったりするわけです。好きなのに理由はないけど、わたしはその中にとてもその人なりの「女性」を感じるんだよね~。わたしが評価するなんてすごくおこがましいんだけど「ああ、この人はこの姿で十分女性だ」と思う。

この映画に出てくるダヴィッドも実はあまりきれいな女装、って感じじゃない。けどそれが本当に魅力的。そういうのを見ると、今度は「性的な対象」ではなく「じゃあ、女性って何?」と思う。

ただし、ただしですけど、女性というのは「外見」だけじゃない。生まれてから「女性ジェンダー」で育てられたか、「男性ジェンダー」で育てられたか、というものすごい大きな違いがある。簡単に言えば「女としてしつけられたか」と「男としてしつけられたか」。MtFは「男としてしつけられた人」が大半だと思うので、物事への気が付き方などがやっぱり「男性だなあ」って思うことが多々ある。「男としてしつけられてきた人」は基本とても鈍感です。逆にFtMは「自分は男性だ」と思ってても、すごく周囲に気を使ったり、すぐに気が付いてくれることが多い。これは今までの育てられ方だから、本人のせいではないのだけど、外見さえ女らしくすれば女としてちやほやされるMtFとか見てると「女性のいいとこ取りだよな~」ってつい思っちゃうこともある。あ、でも生来よく気がつくんだろうというMtFの人ももちろんいるし、そういうのを自覚して振る舞ってるMtFの人も当然いるのは確かです。ただ数は少ない。まぁだから、わたしなんか生物学的な男女差はあるけど、社会的な男女差って本当に「作られてる」ものなんだなと思ってるんだけどね。で、そんなことをいうと「ジェンダーフリー」とか言って叩かれる。いや、だから、生物学的な男女差はあるんですってば。力の差などは歴然としてるし、体格差もあるし、そこのところは男女同等とは思ってない。けど、「女性はよく気がつく」とか「細かい」とか言うのは、持っている性質と言うよりはほぼ生まれてからの「しつけの成果」だと思う。もちろん男性だってよく気が付く男性や細かい男性がいる。だから、本質的にはそこは男女の差というよりも「気が付く人間と気が付かない人間の差」というだけで。そして「気が付かない人間もしつけをすることによってある程度は気が付くようになる」んだとわたしは思う。だから「よく気が付く人」は決して「女性らしい」ことではない。

とはいいつつ、わたしはやっぱり「女性ジェンダーとして育てられた人」としか付き合えないと思う。それは「男は泣くもんじゃない、感情を顔に表すな、耐えろ、強くあれ、物事に動じるな」と育てられた人は物事に対して鈍感になってて周囲に気が配れず、自分の大まかな感情は分かるけど細かい感情が認識できないってことを意味すると思っているから、それが抜け落ちている人はわたしは好きになることはないだろうなーということです。自分がそう育てられたことがないからどうしてそういう風に考えるのか理解できないってことがあるけど、わたしにとっての「同性愛」の「同性」は、こういう部分が一致してなければならないってことなんだろうなーって思ったりする。でも異性愛女性も「自分の好きな男性の範囲はどこまでなんだろう?」って考えることが可能だし、考えてみると案外面白いかも知れないですよね。まず、染色体、性ホルモン、外性器、内性器(って男性にはないよね?あ、前立腺があるか)が全部揃った「男性」しか男性として好きにならないかって考えて、ああ、案外外性器はあんまり関係ないかもって思えるかも知れないし、胸があってもいいかもと思えるかも知れない。女装する人であっても、性自認は男性の人もいるから、パートナーが女装してても許せるなって思う人もいるかも知れないし、いや、わたしは絶対に嫌って人もいるかも知れない。絶対に「男らしい」人でなきゃやだって人もいるだろうし、マッチョな人はあんまり好きじゃない人もいるでしょう。そんな感じで「性の概念」ってどんどん広がるもんだし、境界は本当に微妙なもんだし、個人的なもんだし、あいまいなものなんだっていうことです。

あ、映画と全然違った話になっちゃったね。ただ、このヴィルジニアのふるまいや気が付き方などがどこまで「女性か」は分かんないです、映画では。まぁそこまで細かくは描けないでしょう。この映画は「肉体」を介して性の概念の曖昧さを描いた作品だと思うし、それはとてもうまくいってると思う。

話は元に戻るけど「身体に男性器が付いている」という理由で「あなたは女性じゃない」と言われて涙したヴィルジニアの気持ちを考えると本当に胸が痛い。まぁ「女になりたいって思う人がなんで男性器を付けたままで平気なの?」って疑問を持つ人もいるだろうけど、これも個人差です。日本では今の法律で男性器が付いたまま女性の戸籍に変更はできないので、強制的に取られてるのが現状だけど、これはとても乱暴な法律で、外国では性別適合手術を受けなくても望む性に変更できたりするところもある。だからアメリカでは元女性の父親から子どもが生まれたりすることもあるんだよね。こう書くと「ええー、性の秩序が乱れている」と思う人もいるかも知れないけど、でも、子どもが欲しいのと自分が男性でありたい、というのはどちらを断念しなければならないものなんだろうか?「それが秩序だ」って考えたとして、ではその「秩序」を守ったからといって、得するのは誰でしょう。誰もいないよね。残るのは「秩序を守らせた」という人たちの自己満足と、子供を産めなくなった元女性の男性の悲しみだけです。しかもこのような人は本当にごく一部の人たち。その他多数の人は「性別を変えたい」とも「性別を変えた上で子どもを産みたい」とも思ってない。思ったこともない。それができるようになったからといって「そうしたい」と思うはずがない。だったら「秩序」の枠組みだって破壊されるわけではない。まぁだから、破壊されるはずのないちっぽけな「性秩序」を守るための今の日本の「性同一性障害特例法」はとても乱暴な法律なんだってことが言いたいわけだけど。

ではヴィルジニアには男性器が付いていた、だから男だ、だからクレールは男性器が付いているヴィルジニアは愛せないか、というところで事件が起こります。ここで交通事故を使うのは、とても安易だから、この部分はもうちょっと違ったものにならなかったのかなーって気はするけども。ただこの事故の直前のメールのやりとりでヴィルジニアがクレールに対して送った「わたしは女よ!」というメールも一つの「鍵」だと思います。この「鍵」を踏まえてクレールがここを乗り越えるためには、デヴィッド(ヴィルジニア)を意識不明にさせておく必要があるんだよね~。意識不明から戻すために、クレールは一つの行動に出ます。このシーンは亡くなったローズにデヴィッドがやった行為と対になる行為なのね。ローズにやった行為によってデヴィッドは再び女装しようと決意する。そしてそのデヴィッドにクレールがやった行為が、デヴィッドをヴィルジニアにする(=クレールがヴィルジニアを女性として受け入れた)という行為。登場人物の一つ一つの行為にすべて意味がある。こういう理屈っぽさはフランス映画っぽいって言えるのかな。ただ見てる分にはあまり理屈っぽさは感じられないけど。あとで振り返ったときに気が付くって感じ。

そしてヴィルジニアは意識を取り戻し、そして退院したヴィルジニアとクレールはジルの元に行く。「話があるの」と。そして7年後。

まぁ結末までネタバレさせたら面白くないのでここは伏せるけど、わたしとしてはとっても爽快な結末だったです。正直、現実的にかなりありそうな結末だなーと思った。ただ、この結末に対しては「意味がわからん?」って人もいるようです。まぁ上にも書いたように「異性愛規範」が強い人は「??」だらけの話だし、納得いかない結末なのかも知れないですね。

そうそう、あと一つ。わたしが気に入ったシーン。
上にクレールとヴィルジニアが一緒に泊まりに行く、というシーンがあったって言ったけど、そこで彼女たちは夜、女装の人がショーやってる性的少数者が集まる場所(なんて言うんだろう、クラブとも違うし)に行って女装の人が「わたしは女」とかいう歌を歌ってるのを聞いたり踊ったりしてるんだけど、そこで踊ってる最中に一人、わたしの好みのちょっと少年っぽいレズビアンの子がクレールに近づいて来てモーションかけるのね。でもクレールはその子には目もくれず、ヴィルジニアの方しか目に入ってないし、そのうちヴィルジニアと一緒に踊り出しちゃうの。だから、そのモーション掛けて来た女の子がすごい名残惜しそうにクレールのことを見てるんだけど、もー、そのシーンの女の子、すんごくかわいかった!!!思わずかわいくて笑っちゃった(笑ってる人他にいなかったけど)。こういう細かいシーンなど、本当にこの映画、よくできてます(ただわたしの好みの子が出てきただけか(^^;)。

だけどこの映画、もう封切られてかなり経つけど、セクマイ界でもほとんど話題になってないように思えるのはなぜなんだろう?「パレードへようこそ」はあんなに話題になったのに。これは「新しい家族の形」の話です。ストーリーに無理がなく(交通事故のところを除いては)登場人物の行動も突飛ではなく、心理描写もとても緻密に描けてると思う。本当にお勧め映画です。東京では18日までシネスイッチ銀座というところでやってますが、19日からはアップリンクでやるようです。関西近辺も18日まで梅田でやってたかな。それ以外の地方はこれからみたいなので、是非。
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04-15 Tue , 2014
セクマイの映画祭
わたしが所属しているレインボー・アクションという団体が主催で、ゴールデン・ウィークに映像祭をやるそうです。

正直、どの作品がどういう作品なのかって全然把握してないので、どれがオススメとは言えないのですが(笑)、まぁわたしは前々から見たかったけど、見逃してた「百合子、ダスヴィダーニヤ」が見てみたいかな。題名の「百合子」っていうのは、宮本(中条)百合子で、この人と湯浅芳子って人の話なんだけど、わたしが湯浅芳子を知ったのは'90年に出た別冊宝島の「女たちを愛する女たちの物語」ってムック本だった。この頃はまだ湯浅芳子は生きてたんだよね。インタビューが載ってた。この頃('90年代)の印象としては、レズビアンの世界はウーマンリブの影響が強くてね、正直なところ「女同士の恋愛」と「女同士の連帯」がごちゃごちゃになってる感がするんだけど、まぁそれは歴史的な背景から仕方なかったような気はする。湯浅芳子なんて、女には選挙権すらなかった時代で、その中でいろんな女の人たちが自分たちの権利拡張についての活動をしてるときだったから、今というより'90年代とも単純に比較はできないと思うのだけれど、ただその中にも確かに「女を愛する女」は存在していたわけよね。湯浅芳子はこのインタビューの中で「自分はレズビアンだ」とは明確に言ってないのよ(そう言われるとそうかも知れない程度)。だけどまぁ生きてきた歴史を考えると仕方がないのかなって気はする。

そしてこの「女を愛する女たちの物語」と同時期に、この映画の原作本「百合子、ダスヴィダーニヤ」が出版されたんだよね。わたし、この本リアルタイムで本屋で見たんだけど「買おうかな」って迷ってるうちに手に入らなくなってしまった。で、ずっと古本を探してたんだけど見つからなくてね~。手に入ったのは数年前だった。それでまぁ読んだんだけど、ほとんど細かい印象は忘れてしまってて(汗)、大きな印象としては「吉武輝子の『女人吉屋信子』に似ている」というものだったんで、正直、あんまり面白くなかったんだろうと思う←オイ

吉武輝子の「女人吉屋信子」はねー、女同士の恋愛ってより、連帯の方をものすごく強調してる本で、それは別に女同士の恋愛を否定してるってわけじゃないんだけど、この人あんまり女同士の恋愛について考えてないんじゃないだろうかって思えたんだよね。わたしら別に自分を虐げる男が嫌いで女同士でいるわけじゃないから。まぁでもこの感覚は本当に新しいんだと思うよ、そう考えてみると。今では「同性愛は異性愛と性的な指向の向きが逆なだけで、恋愛感情は同じです」って言うけどもさ、ことに女同士の関係ってのは、今よりももっと権利のない時代だからね。必然的に女同士が力を合わせて生きていかなきゃならない時代だったわけよ。なので、ある意味仕方ないんだと思う。ただこの本、あまりにも「おいおい」ってところが多かったんで、逆に印象に残ってるんだよね~(笑)

てなわけで、この映画(百合子、ダスヴィダーニヤ)ができた、ってときももちろん知ってたんだけど、体調悪かったりなんかして、結局観に行けなかったんだよね。この映画の中には、わたしの大好きな俳優さんのうちの一人である大杉漣さんが出てるので、そういうのも含め「見たいなあ」とは思ってる。

あとの作品は知らんです。けど、この映像祭初上映のものがあったり、大画面で見ることができる機会であったりするらしいです。詳しい告知はこちら

--------------- ここから開催告知 ---------------
このたび、レインボー・アクションでは「第1回レインボー・アクション映像祭」を開催します。

セクシュアル・マイノリティの視点から、現代の社会を問い直す、
国内外の映画・映像を上映し、同時に、関係者によるトークイベントも実施します。

映画・映像を通じて生まれることばや思考を大切に、
普段はなかなか語りにくいことについても語れる場を提供する映像祭です。

多くの方のご参加をお待ちしております。

●日程 2014年5月4日(土・祝)~6日(火・祝)
●会場 東京ウィメンズプラザ ホール

上映予定作品
『 ジェリー・フィッシュ 』(監督:金子修介)
『 百合子、ダスヴィダーニヤ 』(監督:浜野佐知)
『 for you 』(監督:ペ・フィギョン)*本作は日本初公開です
『女として生きる』(監督:江畠香希)

*この他の作品も上映する予定です。詳細は現在調整中です
*監督や関係者によるトークイベントも実施予定です

●料金 前売り券:1,000円/1プログラム 当日券:1,200円/1プログラム
*全日フリーパスも発売予定です。購入方法等は決まり次第ブログにてご案内します。

◎最新情報はこちらからご確認ください◎
http://rainbowaction.blog.fc2.com/blog-entry-194.html


☆プレイベントも実施決定!
●日時 2014年4月29日(火・祝)19:00~21:30(18:30開場)
●会場 アップリンク ファクトリー

*内容等の詳細については、決まり次第発表いたします

☆レインボー・アクション Xラウンジによる関連イベントも合わせて実施します!

「性自認ってなに??いろんな性自認の人の話を聞いてみよう!」

●日時 2014年5月4日(日・祝)18:30〜20:30(18:00開場)
●会場 都内公共施設(お申し込みの方にお知らせします)
●資料代 500円

◎詳細はこちらからご確認ください◎
http://rainbowaction.blog.fc2.com/blog-entry-197.html

関連イベントのみ、定員制のため、事前の申し込みが必要です。
参加ご希望の方は、rainbowaction.xlounge@gmail.comまでご連絡をいただければと思います。


(本映像祭は株式会社ラッシュジャパンのLUSH JAPANチャリティバンクによる助成を受けて実施されます)
--------------- ここまで ---------------
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06-01 Wed , 2011
The Kids Are All Right
今日は映画の日だからってことで、安く観られるので「The Kids Are All Right」(邦題:キッズ・オールライト)って映画を観てきた。

わたし、ここ1ヶ月ほどで3本映画観てる。でもねー、前の2本は感想書く気しなかった。文句ばかりになりそうで(笑)だけど、この映画は無条件に楽しめた。あー、観てよかった、と思える映画だった。

レズビアンカップルとその子供たちの話で、姉と弟の子供のうち、姉が18歳になったので、精子バンクのドナーの「生物学上の父親」を探すことから、物語は始まっていくんだけど、話に破綻があることもなく(わたしにとって「作られた話」に破綻がないことが最も基本的なことであり、最も重要なことでもある)そういう点で頭の中が疑問点だらけでグルグルしない映画だった。登場人物もそんなに多くないので「誰、これ?」ってこともなかったし(わたし、人の顔を覚えるのが苦手なので、何人も出てくるとすぐに混同して話が分からなくなる(^^;)。

でね、わたしこの映画前評判で「男女カップルに置き換えるとなんてことない普通の映画」って言われてるの、知ってたのね。で、観ながら思ったんだけど。。「なんでこれを男女カップルに置き換えて考えなければならないんだろう?」って強く思った。だって、そんなことに置き換えて考える必要ないじゃない。そりゃ、稼いでいる女の人の方をダンナで稼いでいない女の人の方を妻、そして子供たち、って置き換えて見れないこともないとは思う。けど、この映画に出てくる人たちはレズビアンカップルで、決して男女カップルじゃない。レズビアンカップルならでは、ってところもある(そういう意味ではゲイテイストもちょっぴり交えてある作品でもある)。

まー、わたしとしては、あのカップルのセックスシーンはとても笑えたし(特にブーンというバイブの音はすげー笑った)、セックスするときにゲイ(男同士のね)ポルノを見ながらする理由、なんてのも同じように笑えたし(わたしはああいうのはちょっと理解できないなぁと思うんだけど)、息子をゲイと勘違いしてカミングアウトさせようとする感覚、なんてのは、とてもゲイっぽいと思う。

で、これらって彼らがゲイだからこそある話であって、男女カップルの話ではこうはならないだろ、と言っても、これってあんまり説得力ないよね。。ただ、わたしはなぜだかこの映画を男女の物語に置き換えて考えたくはなかったし、考えようとも思わなかった。そのね、理由をずっと考えてるんだけどよく分からない。。というか、もしわたしがその前評判を聞いてなかったら、絶対にこんなことは思ってなかったと思う。

この話を彼女にしたらね、それはフォビアのせいじゃないか、っていうの。フォビアのために男女カップルに置き換えて考えないと理解できないんじゃないかって。もしかしたらそうかも知れない、とも思う。レズビアンカップルはレズビアンカップルのまま理解することが怖いんじゃないかっていう。

そういう点で興味深かったのはね、この映画、一ヶ所もホモフォビアのシーンがないんだよね。誰かがレズビアンカップルと言うことに対して異議を唱えるとか、顔をしかめるとかそういうシーンが全くないの。

わたしね、実はカップルの一人が精子提供者の男性と寝ちゃって、それについて子供(娘の方)がどういう対応を取ったかの場面を見たときに、すごく違和感があった。その男性に「もう電話してくるな」って電話、切っちゃうんだよね。わたし、もしかしたら「やっぱり子供は男女が持つものなんじゃないだろうか」って無意識に思ってたみたい。娘が「自分の家庭を壊すな」と言って当たり前のことをしてるのが、娘が「父親のところに行く」って言わないのが不思議、みたいな感覚がどこかにあって、そこのシーン、とても強い違和感を感じたの。でもこれもわたしの中にある一種のフォビアだよね。「ホモフォビアが出てこないゲイ映画なんか有り得ない」って多分、身体のどこかで感じているという。。そこを、彼女の発言で思い知らされたというか。

ゲイ映画ってさ、本当に地域によって「程度差」がものすごく出るんだよね。同性婚できて男女カップルと全然違わない生活を描いている今日みたいな映画もあれば、同性愛と言うだけで死刑になる国を描いている映画もある。ゲイ&レズビアン映画祭とかAQFF(アジアン・クイア・フィルム・フェスティバル)とか見てると、程度差というか、地域差が本当にすごくって、しかも近年、(同性愛に対する理解度が)進んでいる映画が本当にたくさん出て来てるなって思う。そしてついに男女カップルと同じところまで追いついた。だけど、わたし自身がそこまで付いていけないのね、まだ。それは日本という、まだ同性カップルに対する権利がない国で生きている以上、仕方がないことだとは思うが。

そういうことを知らされた点だけでも、この映画を観た甲斐があった。

レズビアンだけど男と寝た、というのもね。わたし、あのシーンでは「この人レズビアンだって言ってるけど、本当はバイセクシャルなんじゃん」って思ったの。自分の中でさ「こういう人はこう」って定義がバシッって決まっちゃってるんだよね。でもさぁ。それって本当に必要なことなのかな?って思ったの。なんかそうしてる間に細かく細かくカテゴライズしちゃって、それでいいんだろうかと。まぁこう考える理由は「逃げバイ」(本当はホモセクシャルなんだけど、異性ともできる、と言い張ってホモセクシャルであることを認めようとしない人)なんかもあるって知ってるから、とか、既婚者ゲイとか既婚者ビアン(主婦レズ)などと聞くと、やっぱり「同性としかセックスしない人がゲイやレズビアンと語っていい」って考えたくなっちゃうんだよね、つい。

だけど、こういう同性愛が全く否定されないところでは、そうやってきっちり分ける必要がないんだろうな、って思った。レズビアンが男と寝てもおかしくないじゃない?って。ただ、描かれるセックスシーンは女×女と女×男じゃなんであんなに違うのかな、とは思ったかな。女同士の時は、全然裸見せなかったもんね。まー、女×女って、カップルそれぞれのセックスの仕方があるので、あれは別にああいうのでも構わないんだけど、それを考えると女×男のセックス(の描かれ方?)ってワンパターンだよね。。

それから、これは言い方が変なんだけど、あの映画って「100%善人」も「100%悪人」も出てこないんだよね。なんかこの場面では同情できるけど、ここがちょっとなぁ、、って人ばっかり。実はこの感覚、わたしにとってはとても新鮮だったんだ。「なんだ、そんなの当たり前じゃない」って思うんだけど、わたし、最近、ほとんどそういう映画を観てこなかったんだな、と。わたし、個人的にはどうしてもドキュメンタリーに惹かれて「これ、観たい」と思うのはほとんどドキュメンタリーだ。しかも、一般的にはあんまり話題にならないヤツね。ドキュメンタリーって監督が追いかけているものに対しては、あんまり批判的じゃない、というよりその人が魅力的だからその人を撮るのであり、だからあんまり「この人のここが気に入らない」みたいなものがないのかも知れない、と思ったり、いやいや、そうはいっても、わたしはレズビアン&ゲイ映画祭やキューバ映画祭、在日コリアン映画祭などの映画祭ものの映画を割と観てて、その中にはもちろん、作り話っていうか、物語もある。それを観つつ、これまでどこか「100%善人」の存在に安心していたような気がするのは、もしかすると今まで観てきた映画は「主人公」=「善人」だったからかも知れない。

そう考えると、この映画って、ちょっと不安を掻き立てられる映画でもあったんだよね。誰に寄りかかってみていい映画か分からないから。でもさ、現実社会ではこっちの方がリアルなわけじゃない。そういう意味ではこの映画、よくできてるのかも知れない。普通、浮気相手が悪者になっちゃいそうなんだけど、この映画では全然そんなことないもんね。

あと「キッズ・オールライト」って「子供たちは大丈夫」って意味だって事前に聞いて知ってたんだけど、映画を観ながら「どこが『子供たちは大丈夫』なんだろ?」って思ってた。映画を観たあと、映画館に展示されてたその映画の映画評を読んでたら「キッズ・オールライトじゃ分からん。なぜ「Are」を取ってしまったのか(原題のままにしなかったのか)。これは『子供たちは大丈夫だけれど、大人たちは?』って意味を含んでいるんだ」ってのがあって、そこはすごく納得した。だってあれ観て「子供たちは一体大丈夫なのか?」って意味にはどうしても取れなかったから。子供たちは子供たちにいろいろあるけどそれなりにやってる。家族が一旦壊れかけたけれど、それに対してはすっぱりと今の自分の親たちの方を選んでいる。だから「それなのに大人は何やってんの?」ってことなんだろうね。

とにかく、最近観た映画の中では久々に文句のない、面白い映画だった。
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09-21 Tue , 2010
しみじみと歩いてる
shintoku空想の森映画祭3日目にやった映画。

感想を書こうと思ったが、前回の「TOKYOアイヌ」と同じように書けないことに気が付いた。

なぜか。

それは「TOKYOアイヌ」に出て来たアイヌの人はあくまでもわたしにとっては「映画に出て来たアイヌの人」なんだけれど、この「しみじみと歩いてる」に出て来た人は、レズビアンの誰それさん、であったり、トランスの誰それさん、であったりするのだ。要するに、アイヌの人の言ってることは、その人個人の発言と理解するよりも「アイヌ全体の人の意見」にどうしても聞こえてしまう一方、性的少数者の場合は「誰それさん」という個人の話、になってしまうのだ。これはわたしにはどうしようもない。だって、本当に自分の知り合いだったり、遠くとも知り合いの知り合いであったりするわけだから(監督とわたしは知り合いなわけで、だから映画に出て来た人は少なくとも知り合いの知り合いなわけだよね)「この人がレズビアン全体の意見を言っている」とは到底思えないわけだ。

ま、ただ裏返して考えると、アイヌの人の意見をアイヌの人たち全員の意見、として捉えることの危険、みたいなのを感じる。少なくとも「一意見」に過ぎないことをわたしは意識しておく必要があるだろう。

それはともかくとして。

もう一つ。個人的な話は別として、話の時間的な軸になっている「関西レインボーパレード」が、自分もずっと出ている、ということがある。実際、数カ所で「あ、自分が映ってる」ってところもあった。そうすると、どうしても映画を突き放してみることが出来ないのだ。パレードのシーンが映ると「あー、この年はこんな感じだったよな」ってどうしてもそのことを強く思ってしまう。わたしにとっては「懐かしの映像」になる。そうすると感想も極めて個人的な感想になってしまう。

それと。上の2つのような「予備知識」が既に頭の中に入ってしまっている以上、観てて思うのは「映画の構成」になってしまう、ということだ。「ここまでのテンポはすごくよかったけど、あれ以降はなんか退屈だった」とか「ここの場面はわたしは分かるけど、知らない人が観たら混乱するんじゃないの?」とか、これは映画の感想ではなく、映画の構成についての感想になってしまうよね。

実際、この映画を観たあと、監督を囲んでみんなで「あーでもない」「こーでもない」と自分の意見を言い合ったんだけど、それはそれでとても楽しかったよ。けど、それは監督個人宛に言うべきことであって、こういう場で書くことではないよね。

最後に。これは一番初めと関連することなんだけど、例えばトランスの誰それさん、の話やシーンについて「あー、そうだったの。○○さん、すごく△△だったね」という感想を持ったとする。でもね。それはやっぱり個人的にこそっと直接その本人に言いたいの。こういうところですべての人に向けて「△△だったね」とは言いたくない。わたしの感想は個人対個人のものにしておきたいんだよね。なぜそういう気持ちになるのかはよく分からないのだけれど。

だからこの映画の感想を書くことはわたしには出来ないの。

どういう機会があるかは分からないけれど、よかったら自分自身の目で観て、としか言えない。。

ごめんなさい。
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11-28 Sat , 2009
ついに来た!てか、本当に来た、つか、キューバから来た(笑)
10月10日の日記に「キューバ映画祭」に行ったとき、キューバの映画芸術産業庁(ICAIC)というところが映画のポスター作ってるってことを知り、でもその場で売ってたわたしの大好きな映画、「苺とチョコレート」のポスターは額装してあって13,000円もしたので、「どーせネットで販売してるだろう」と思って探し出して注文したのはよかったんだけど、果たしてホントに来るかなあ~?って書いた。

「送ったら連絡する」と注文をしたときに来たメールには書いてあったんだけど、いつまで経っても連絡が来ず、その割にカードからは料金がちゃっかり引かれてて「まー、もし来なかったとしても一つ勉強したと思って。。」って勝手に諦めてた。値段は18USDだったし、船便にしたから総額でも21.45USDだし、運のいいことに今は円高だから、1USDが90円くらいで引き落とされてたのね。日本円にして2,000円しなかったのよ。

ところが昨日。朝、郵便局の人が「お届け物でーす」と届けに来たのは、大学の入学通知だけじゃなくて、このポスターも一緒に届けに来たの!むしろ大学の入学通知は封筒だったのであとから知った(苦笑)

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こんなのが届いたんだけどね。来てそれ見た途端「あ、これポスターだ!」って分かったの。で、開けてみたらやはりポスターだった。

ところがさ、この筒を見ると、どうもキューバから来たみたいなんだよねえ~。「そりゃ、キューバから来るの当たり前だろ」と思うかも知れないけど、わたしが頼んだときに来たメールのお店の情報の住所はカナダのトロントだったの!!!一体、どーなってるのかさっぱり分からんのは、何もかもが英語じゃない言語で書いてあって(多分、スペイン語?)、どこをどうやってきたのか、本当に船便だったのかすらよく分からないのよー。というのは、

P1030843.jpg

これ、多分、送り先の住所だと思うけど(だってその反対側にわたしのうちの住所が書いてあるし)、ここにちゃんと「@Habana Cuba」って書いてあるでしょ~?しかも、この筒にシールが貼ってあって、

P1030844.jpg

これで読めるのは、「メキシコ」の文字と、あとは2009年11月19日という日付だけ。なんでメキシコなのか、さっぱり分からないのよ~。しかも、11月19日にメキシコにあったものが、船便で1週間で日本に届く???

ちゃんと届いたのはいいんだけど、届き方がイミフメイで、頭の中が「???」になってます。

で、ブツなんだけど、これもそっけない「1枚の模造紙」って感じでね(苦笑)初めはそのまんま画鋲で留めて飾ろうと思ったんだけど、でもなんかやっぱりなー、って思ったんでパネルを買ってきたの。パネル自体約3,000円もしてしまった(汗)でも大きいんで仕方ない。。で、中に入れて飾ったらこんなになった。

P1030842.jpg

やはりパネルに入れると結構さまになるなあ~って感じ。

ってわけで、一件落着と相成りました。
ただ。。ここの会社のサイトに行ってみると、まだ「received」になってて、注文した直後となーんも変わってないんですけど!!ん~、、外国ってそういうの「有り」なんだろうかね~??
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10-10 Sat , 2009
ちゃんと来るかな?
「キューバ映画祭」の会場に、キューバの映画芸術産業庁(ICAIC)というところが、その映画のポスターを作っていて、そのポスターを輸入して販売してます、ってことを何かの映画が終わったあとのトークショーで聞いたので、その日、早速トークショー終了後、行って見に行ったんだけど。そのポスターってのは、その作品を観た1人の人が、その映画のイメージをシルクスクリーンにして作ってる、というトークショーでの話だったので、一体「苺とチョコレート」はどんな感じのポスターになってるか、ということに興味があったと言うことと、やっぱできれば欲しいな~と思ったのね。

で、あったのよ。「苺とチョコレート」のポスターが。こんなの。

苺とチョコレート

これって、最後のディエゴとダビドの抱擁の手、だよね。「ああ、なんだかすごいよく分かる!」と思って、欲しかったんだけれど。。残念ながら額に入ってて。裸で売ってるのもたくさんあったんだけど、裸のは一枚3,000円で、まー、この値段なら買ってもいいかな、って思ったのだが、額に入れてあるヤツは、それより1万円高くて。いくらきれいな形で額に入れてあっても、1万3千円は無理だ。これだったらDVD買ってやると思った(それでDVD実際に買ったのだけれど(笑))。

ポスター自体、1点限りしかないって書いてあったけど、額に入ってるのは、額のないヤツもあるのかなと思って一応、販売してる人に聞いたら「額に入ってるのしかない」とのことだったので、しょーがねーなー、と思って諦めて帰ってきた。

ただね、そのとき思ったのが「もしかしたらネットで販売してるかも?」ってことだった。もしネットで販売していれば、日本に輸入した人から買うより安いに決まってる。それに額入りのヤツを買うんじゃないから、1万3千円より安いのは確実だ。

と思い、帰ってからぐぐってみたよ、「Fresa y Chocolate」(スペイン語で「苺とチョコレート」、これが本当の題名)で。そして探してみたら、売ってたよ、ホントに(笑)しかも1枚なんと18USDで。今、円高だから、1800円しないはず!(^-^)ただ、郵送料がDHLを使うと10日しかかからないけど、約16USDだったかなあ、船便だと45日かかるけど約3USD、計約21USDで入手できる。そんなに急いで欲しい、と言うわけじゃないので、船便指定して、注文した。それが今から1週間前の話。

いやあ、なんかちょっと心配ではあるのよね。注文の最後に「I agree with terms and conditions」って書いてあって、「terms and conditions」のところをクリックしたら「File doesn't exist.」なんだもの。。そんなもんに同意できるわけないじゃん、普通。。しかも「about us」のところをクリックしても「File doesn't exist.」でかなり怪しい~って思ったんだけど、まー、物は試しと思って、取り敢えずチェックして進んだの。したら、なーんかエラーの画面が出て来て「これ、どうすんだよ?」てな感じだったんだけど、何回も戻って同じことをすると何回も決済されてしまうと思ったので、1度で止めておいた。

ただ、画面はエラーだったんだけど、登録しておいたメアドに「注文受け付けました」と「引き落とします」のメールは来たんだよね~。だから、ちゃんと向こうには受け付けられたのかなと思ってる。けど、郵送したらまたメールします、と書いてあったにもかかわらず、未だになにもないので、取り敢えず「どうなってますか?」のメールをさっきしておいた。てか、1週間で催促のメールを送るなんてさすが日本人、とか向こうは思ってるだろうなあ~(苦笑)

サイトには登録してあるので、さっき、確認したんだけど、ちゃんと「received」になってたし。多分大丈夫だと思うんだけどなあ~。

で、メールが来て初めてそこの会社の所在地とか分かりました(笑)
なんかものすごーいいい加減なんだけど、これでいいんだよね?という一抹の不安を抱えながら、まー、どのくらいで本当に手に入るのか今のところ見当も付かないんだけど待ってます(笑)

ハマったら、とことんまで行かないと気の済まないこの性格、なんとかしてくれと思うけど、まー、死ぬまでこの性格は治らんだろう(苦笑)しかし、ホント、情報は英語じゃなくてほとんどスペイン語なんで、スペイン語、読めたらいいのにって思うけど、もう語学はダメ。英語はまだなんとかなりそうな余地はあるかも知れないけど、今さらスペイン語やりたいとは思わない。。けど、何が書いてあるのか読みたいのと、映画では本当は何を言ってるのか、知りたい。。

最近、この葛藤が激しくて(笑)
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09-28 Mon , 2009
キューバ映画祭
26日からやってるみたいです。

わたしは前に書いたと思うけど「苺とチョコレート」という映画が大好きで、'94年に岩波ホールで上映されたとき、確か3回くらい観に行った記憶がある。その後、NHK-BSでやったのと、どのチャンネルだったか分からないけどCSとそれから、アップリンクが出したVHSのビデオを持っている。それプラス原作となった本と、岩波ホールでやったときのパンフレット、あとはサントラまで。しかし、一番欲しいDVDを持ってなくて。知らないうちに発売されて、知らないうちに廃番になっちゃったもんで。。今、買おうと思うとものすごいプレミア付いてて、買えないんだよね~。

その映画をこの映画祭でやるよ、って教えてくれた人がいて、昨日、彼女と一緒に観に行ったんだ。その前に「シュガー・カーテン」ってのも観たけど、やたら眠くて退屈な映画だった。。ってか、これってドキュメンタリーだったんだけどね。んー、社会主義(共産主義)国の言う「革命の勝利」とは一体何なのか、というのが未だに分からない。。一体、何に勝とうとしてるのか、敵はやっぱり資本主義なのかなあとか。

そう、わたし、根本的に「分からない」ことが多い。特に'94年に初めて「苺とチョコレート」を観たとき、分からないだらけだった。識字運動とか、亡命とか。。いや、言葉自体は知ってるけど、それってキューバの歴史を知らなければ、理解できないんだよね。「シュガー・カーテン」でそこら辺のところが「なるほど」って分かったんだけど、しかし、根本的に「国を出る」という意識がよく分からない。例えば、北朝鮮で「脱北者」というと、命さえ取られかねない。危険な行為、だけど貧しくてやっていけないから国から出たい、というのはよく分かる。

けど、キューバってなんかとっても亡命しやすそうで「え、なんで?」って今も思ってる。まあ、彼女の言うところによると今の人たちは亡命じゃなくて、国を出て国(キューバに住んでる家族)に送金すれば割と出やすいんじゃない?ってことだったけど、それでも国が国から出ることを奨励してるってのは、なんだかちょっと違和感を感じる。まぁ過去、日本も日本から移民することを奨励したりした時期があるのは知ってるけど、今はどちらかと言えば「『反日』は日本から出て行け」と言われることが多いような感じだからね。まー、何が「反日」的な行為なんだかはよく分からないけれども。例えば国旗掲揚国歌斉唱のときに立たなかったら、とかそういうのなんだろうけど、それだったらわたしは立派な「反日」だ(笑)でも、本来ならそういう「行為」を差して「反日」とかそうじゃない、みたいなのは違うと思うけどね。この日本をよりよくするためにはどうすればいいか、それには今の制度や仕組みが間違ってるかも知れない。それを指摘することだって立派な「愛国心」だと思うんだけど。。

ってことで、実はこの「苺とチョコレート」ってのは、「国には色々な愛し方がある。けれどもそれを認めない人たちがいる」ということが言いたいことの一つではないか、と思っている。

そうそう、「シュガー・カーテン」が始まる前に、後ろのおばさんたちが「苺とチョコレートって、、なんか同性愛の映画みたいね」「別に同性愛がどうとかわたしは思わないけど、別にこれはいいって感じだわ」とか言ってるのを聞いちゃった。それを聞いてわたしはよっぽど「苺とチョコレートは『同性愛映画』ではない!」って言おうかと思っちゃった。この映画、確かに同性愛者は出てくるよ。主人公だよ。けど、、決して「同性愛映画」ではない。これは、同性愛者と異性愛者の友情の物語でもあるんだ、すごく悲しい映画なんだ、って本当は言いたかった。「同性愛者が出てくる」と言うだけで判断して欲しくなかった。。

まーでも、一回観ただけならこの映画のどこがどう、好きなのかとかまでは分かんないと思うけどね。わたしはこの映画、ビデオも含めてもう何回観たか分かんないくらい観たから。字幕も岩波ホールでやった字幕、NHKが自分で付けた字幕、それぞれ違うことも知ってるし、今回は字幕はどうなんだろう?って思ってたのもわたしにとっては興味深いところだった。ええ、このどれとも違ってました。新しく訳し直したみたいです。訳し直すと、人によってどの情報が重大なのか、って分かるのね。ほら、英語だったら「あ、ここんとこ日本語にしてない」とかチラッと分かる部分があるんだけど、スペイン語は全く知らないもんだから、ホント、字幕しか頼るものがない。だから「ブラックリストに載った」が「職場を解雇になった」になってる、とか「岩波では訳されてなかったのに、ここでは訳されてる、そういう意味だったのか」とかね。あるんだよね、こう言うの。で、すべてまとめて理解しようとしている。そうじゃないとスペイン語はわたし、なんも分からないから。。

あ、それでわたし、この映画のストーリーとか全然解説するつもりなくて、ただ、自分がいつも観て感動するところだけを書くつもりなので、ネタバレと言えるか言えないか、、多分、ストーリーを知らない人は読んでもよく分からないと思うんで、そのつもりで(笑)

この映画がすごく好きなのは、いろいろな伏線を張られていること。そして話に破綻がなくて、すべてつじつまが合っていること。わたしが好きになる映画の条件はまず、最低でもこのことをクリアしておかなくちゃいけないんだけどね(笑)

最初、ダビド(ノンケの大学生)が「コッペリア」というハバナでも有名なアイスクリーム屋さんでアイス(多分、それはチョコレートアイスだったのだろう)を食べているときに、相席でディエゴというひまわりの花なんか持ってるものすごーくオカマっぽい仕草のオカマに話しかけられる。実はディエゴはダビドのことを以前から知っており、すごく好みのタイプだったので、狙ってたわけなのよね。で、ディエゴは苺のアイスクリームを食べていて「今日はツイてる!こんなに大きな苺が入ってた!」って、これまたすごくオカマっぽい感じで言うんだけど。

最後の最後。ディエゴが国を追い出されることが決まったあと、「コッペリア」で同じことをやる。しかし、ダビドはわざとそれぞれが注文したものを入れ換えて、初めてディエゴと会ったとき、ディエゴがやった同じ口調で同じ仕草をする。あ、もちろん別にダビドが同性愛者だったとかじゃないよ。いろいろな場面で、いろいろなことがあり、同性愛者も異性愛者も変わらない、同じ「革命の勝利」を目指している、ということがダビドには分かったのね。ただ、国の愛し方は違う。だけど、国を愛してるのは同じなんだ、って、もうここでは分かってるのよ。この場面はそれをはっきりと示しているシーンだと思う。

それから、、いつもこれを観て初めに涙するのは、ディエゴは友人の作品を大使館(どこの大使館かは知らない)の後援で展示しようとするんだけど、それが難しくなるのね。で、その友人は、展示をしてもよい、だけどその作品の中で2、3気に入らないのがあるから、それは展示しなければ、展示会ができると言われるわけ(誰に?国の人に?多分そうなんだろうけど)。それを聞いたディエゴは「全部展示しなければ意味がない!」と怒るんだけど、友人はその自分の作品を「僕が作った作品だ!」と言って壊し始めるの。。たいてい、ここで泣ける。自分が作った作品を自分が壊すという、いや、壊さざるを得ないという、その気持ちを想像するだけでも泣ける。わたしは芸術家じゃないけど泣ける。

それから、ダビドが失恋して、ディエゴの部屋で音楽を聞きながら酒を飲んで、結局そこで上半身裸でとても無防備な姿で寝てるんだけど。。(そのときは既にダビドはディエゴを友人だと思ってた)でもディエゴは彼の、その姿を観てすごく心を抑えてるんだよね。ここでのカメラワークっての?寝ているダビドの上半身の毛むくじゃらなところから、ヘソ毛から、ちょっと緩めてあるジーンズのボタンから、舐めるように、という感じで映し出されているんだけど、、それは多分、ディエゴの視線。だけど彼は襲うようなことはしない。もしかしたら襲いたかったかも知れない。でも、我慢して、ダビドに毛布を掛けてやる、あのシーン。ゲイがノンケに恋をして、友人までにはなれるけど、それ以上は何も出来ない、その苦しい思いがよく伝わってくる場面だと思う。

あと、あれだけこの作品観ながら、初めて分かったんだけど、革命ってその前の歴史を全部否定するわけだから、そこで歴史って断ち切れちゃうのね。だから、革命前に有名だった芸術家たちをダビドは知らない。しかしダビドはディエゴからそのようなことを教わり、そのような目でキューバの街を見る。このシーン、ハバナの今にも壊れそうな建物が映し出される、あのシーン、あれを観るとなぜか「美しい」と感じる。ディエゴは亡命することが決まり、ダビドはディエゴの「監視人」であるナンシーと結局恋人になっちゃうんだけど、そこのシーンも同じようにちょっと高いところからハバナの街を見下ろすような場所なんだけど、そこのシーンも好き。本当はもの悲しいんだけどね、ディエゴはこの国を好きで去っていくわけではない。しかし、自分がしたいようにはここでは暮らせない。一度きりの人生だから、自分を試してみたい、でもここでは試せない。。だから、彼は国を去らざるを得ないのだ。

しかしここでの彼らは明るくて、ダビドは生まれて初めてのSEXをナンシーとなんと、ディエゴのベッドの上でやった、と言う(笑)あ、このとき、ダビドは知らないんだけど「レサマ式ランチ」をディエゴの家で行なったあと、ディエゴは大使館に行くんだよね。おそらくここで亡命についての何らかのことをした、ということが分かるようになっていて。

そしてダビドは「ディエゴ、女の味は最高だよ」という。そしたらディエゴが「げー」って吐くマネをする。こういうちょっとしたところも好き。それでもディエゴは自分が去っていったあとのナンシーについて心配をしている。「ナンシーは一見強そうに見えるけど、本当はか弱い女性なんだ。誰かが守ってやらなければならない」って。そういうことを言うことによって、ダビドに今後のナンシーを託してるんだよね。ディエゴにとってはナンシーは恋敵だったわけだけど。

「友人としてここには遊びに来るけれど、、外では、、」とダビドが言いかけたときにディエゴが「分かってる。他人のフリをしよう」と言って、本屋で実際に会うんだけど、お互いがお互いのことを認識しながら去っていく。表には出せない関係。ディエゴはそんなことはとうに承知しているだろうが、そのあとダビドはどう思っただろう?

おそらくそれを受けて、彼はミゲル(大学の友だちで同じ組織の人。最初ダビドがディエゴのことを「怪しい」と伝えてからディエゴのことを探るように命令した人)に「偏見で見るな。他人を理解しろ」と言えるようになったんだと思う。しかも、このシーンは、ダビドがどうもディエゴと親しくしているらしいということで、ダビドを大学から退学させようと思い、ディエゴのサインを求めに行ってるときなんだけど(なんでそこにディエゴのサインがいるのか等はわたしは分からないけど)、ディエゴはダビドの知らないところでそんなことをやろうとしているミゲルに対して「ダビドの方が40倍も男らしい」って言うんだよね。これ、前も書いたと思うんだけど、なんで40倍なんだろう?っていつも思うんだよね(笑)日本人の感覚だったら、2倍とか5倍とか10倍とか100倍ってよく使われると思うんだけどさ、わざわざ40倍、とは言わないよね。。そこが結構いつも不思議に思うところなんだけどね。

で、そういうやり合いをしているときに、ダビドがディエゴのためにってんで、ひまわりの花を持ってきたときに鉢合わせしちゃうのね。そこで花なんか持ってるダビドを見てミゲルは「オカマ野郎に花か」とかなんとか言って、ダビドを激怒させるんだけど。ここのね、最初はディエゴ(同性愛者)に対してミゲルと同じように思っていたはずのダビドが、自分からひまわりの花を持ってくる、このシーンがまた好きなんだよね。。ああ、人って変われるんだって思う。「強い」ことだけがいいことじゃない、逆に「強さ」は鈍さなんだ、とね。「花を持ってくる」という行為がとても繊細で美しく思えてくる。それを押しつぶすのは「強さ」とか「強くあらねばならない」という概念なんだって。

そして、わたしが最も好きなシーン。いや、もう最後の最後なんだけどね。この映画の中ではダビドに対して一方的に「教える」ような、一見「いい」同性愛者、に見えるディエゴなんだけど。実は最初会ったとき、自分の部屋に誘うことに成功して、そこで湧かして出したコーヒーをわざとらしくダビドのシャツにかけて「しみにならなきゃいいけど」と言ってシャツを脱がし、洗って干したのね。その後、結局ダビドは怒って帰っちゃうんだけど。最後の最後、ほとんど何もなくなった部屋でディエゴが言う。「あれは友人のヘルマンと賭けをしていた。ダビドのシャツを外に干すことが勝利の合図。これでディエゴはダビドを落とすことに成功したと思わせ、友人がそれを触れ回った」と。そして自分は(それが違うと知っていても)そのことを否定せず、言いふらされるままにしていた、と。「自分はこういう汚い人間なんだ。何回も『抱いて欲しい』と言ったのは、そうされることによって、自分が清められる感じがするからだ」と。そう、ディエゴはダビドに告白をする。ディエゴは決して「いい」同性愛者なんかじゃないのだ。しかしダビドはその彼を「受け入れる」。抱擁する二人。友人として抱き合う二人。しかし、それが分かったときにはもう、二人は別れなければならない。ここではダビドが抱き合いながら泣いているところが映し出されて、すぐに画面は黒くなってクレジットになるんだけど。

もう、わたしはここで涙が止まらなくなる。なぜ二人は別れなければならないのだろう、同性愛者は異性愛者とも友達になれるのだ。こんなに信頼し合う友達になれるのだ。なのに、なぜ、と思うと、これ、もう筋なんか頭の中にぜーんぶ入ってるし、セリフだってある程度覚えているクセに、毎回毎回泣けるんだよ。昨日も泣いたよ。鼻すすって泣いた。けど、わたしのようにあからさまに泣いてる人はいなかったかなあー?恥ずかしいというかなんというか。。

この映画は決して「同性愛もの」ではない。キューバという国をめぐっての一人は共産党青年部のエリート大学生として、もう一人は監視人付きの同性愛者として巡り会って、でも、革命は一つの方向だけではなく、色々な方向の革命もあるんだ、ってことが分かる。今の「革命」で抜け落ちた部分もある、ということをこの映画で監督(もう亡くなっちゃったけどね)は指摘したかったのだと思う。

わたしにとっては、キューバはまだまだ謎の国で、これを観ても完全には理解したとは言い難いんだけど(その国の背景が分からないとやっぱり。。)、でも、この作品は大好き。

これをね、この映画祭の間(~10/9)まで、えーっとあと何回やるんだろう。4回か。あるんだけど、取り敢えずすべて観るつもり(笑)それプラス、その前後で興味ある作品を観ようと。

うーん、今ねー、特定のことに対して考えすぎてしまって疲れた自分がいて。ちょっと違うことを頭に入れたらどうかなと思って観に行くんだけど、でも、いくら「苺とチョコレート」は同性愛ものではない、と思っていても、やっぱり考えちゃうよね(苦笑)あれ。ちょっと失敗したかな?(笑)
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07-21 Tue , 2009
映画祭最終日
昨日終了日だった「第18回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」だったんだけれども、わたしは「この愛の果てに」「レインボー・リール・コンペティション」「クロージングイベント+『ストレートじゃいられない』」の3本を観てきた。

「この愛の果てに」は香港映画なんだけど、、主人公は最初は洋服屋さんの販売員で、そこで知り合った人と家でSEXしてたら、母親に見つかって、母親が激怒して「出てけ!」っていうから「出てくよ!」って言って出てったと思ったら、、、その母親は飛び降り自殺して死んじゃった。という、最初から「は?なにこれ」みたいな話だったが、そこからは転落の人生で、薬をやり始めたり、ウリを始めたり、、その主人公が好きな、洋服屋で会った男性(恋人)は「最初は父親の面倒を見なければいけないから、一緒に暮らせない」と言ってるんだけど、そうこうしているうちに、主人公がどんどんおかしくなっていくのでついに「一緒に暮らそう」と言うんだけど、主人公はそれを断わり。

なんというか、主人公は何を思ってか、ただ流されていくだけ。刹那的で快楽的なSEXを繰り返し、一体、どのようにしたいのか全然考えている様子はないので、全然救われない話だった。心配した恋人が警察に通報して、主人公は更生施設に入れられたりするんだけど、そこから出たあとも結局なんやかんやあって、また再び薬を始める。結局は、心配してくれる恋人を振り切り、そして更生施設で知り合ったヘテロ男性が女性に振られたことから、自殺し。。で、本人も、多分、、っていうところで終わるんだけど、結局あれって何が描きたかったのかさっぱり分からなかった。

かなり早い段階で「この人、自分の意志がよく分かんない人だから、いい方向に行くことは絶対にないだろうな」と思ってたけど。。んーでも、こういう「愛のないSEXを繰り返す」って映画は何回か観たことあるから、一種の「黄金パターン」かも知れないが、ちょっとでもこれって古い感じもする。

確かにレズビアン&ゲイ映画祭なんだから、どういう話があってもいいはずなんだけど、わたしは観たあとに幸せな気分になる映画が観たいんだって今回、分かったの。4日目に5本観終わったとき、わたしはとても幸せな気分だった。わたしには将来を共にしようと思ってる彼女がいる、映画のように「子供が欲しい」とは思わないけど、こうやって彼女と一緒にずっと生きていくんだって思っただけでなんとなく幸せな気分になったの。

別に「映画祭でやる映画がそうあるべきだ」とは言わない。けど、そういう気分にさせてくれるのはやっぱりこの映画祭なのかなとは思う。

とはいえ、最後の最後にやった「ストレートじゃいられない」。これも女性同士の恋を描いた映画なんだけど、こっちはあまりわたしの胸には響かなかった。というか、出てくる人がみんな長髪の女性で、正直、誰が誰だか見分けがつかなかったのよ!(苦笑)それに、イギリスに住むヨルダンの金持ち、とかインドの金持ちとか、金持ちばっか出て来て、なんか「自分の世界とは関係ない人たちの世界」に思えてね。なんかイマイチだったー。

あと「カミングアウト」という点から、昨日観た映画を考えたんだけど、香港の映画は「カミングアウト」というものすら出てこない。考え自体がない。例えば病気の父親を家に残して、家を出ようとする(そして恋人と一緒に暮らすつもり)理由は「30代になったからもう独立したい」だった。有り得ないけど、これがもしヨーロッパの映画だったら恋人と一緒に、父親の面倒を観る、という話になったかも知れない。だけどそういう話にならないんだよね。永続的な関係を続けたくても「カミングアウトをする」という概念はない。そこら辺は日本と似てるなと思ったけど。

それに比べて「ストレートじゃいられない」は、当初、男の恋人がいた両方の女性は、両親に対してカミングアウトするのよ。インド系の人は「わたしはゲイなの」と言った途端、母親から「神が許さない」だの「それは罪」だのとすごい剣幕で罵倒される(ただし「気持ちが悪い」とは言われなくて、あくまでも宗教を通しての発言だった)。その中で受け入れてくれるのは父親。また、もう一方の女性も「自分が素直に生きられるようになるには両親にカミングアウトするしかない」って言われ、悩んだ挙げ句、カミングアウトする。で、カミングアウトしちゃったらすぐ「親には子供を作るって言ってあるの」って、今度はすぐに「子供の話」だ。

んー、今のわたしの感覚からすると、親へのカミングアウトは一番やりにくい相手なわけで、安易にすべきじゃないとは思っている。けどね、今回、ヨーロッパの映画を何本か観たけれど、親は知ってて当たり前、なのだ。「この違いってなに?」って思う。

で、確かに親にカミングアウトすると、その後が違うんだよね、生き方が。まぁ、親が子供のカミングアウトに対して比較的寛容、と言うこともあると思う。あの「この愛の果てに」みたいに子供が男とSEXしているところを見ちゃったあとにすぐに飛び降り自殺する、なんてことはまずヨーロッパの映画では有り得ないような気がするけど。

この映画の作られ方の違いが、そのままその国の違いを表わしているのかなあ~、、、

刹那的なSEXを繰り返している分については、自分がカミングアウトする必要性はほとんどない。しかし、相手と「ずっと生きていきたい」「一緒に暮らしていきたい」と思ったときは、この「カミングアウト」の必要性が増してくる傾向があるんじゃないかと。んー、それは奇しくも「レインボー・リール・コンペティション」でやったドキュメンタリー「僕の彼氏と」に繋がってくると思うのよね。彼らも永続的な関係を続けたいがために(相手が外国人ということもあるだろうけど)最終的には両親にカミングアウトをする。もちろん、突然ではなく、パートナーは「仲のよい友だち」として既に紹介はしてあるのだが(ここの点はわたしの場合とも重なる(笑))。

ま、だけどわたしの場合は別に親にカミングアウトしたからと言って、どうこう、ってわけではないけどね。わたしの場合はカミングアウト以前に親とはいろいろあったので、カミングアウトしたあとは和解したかなと思ったこともあったが、結局根本的なことは変わらないどころか、自分への負担が出て来たので、トラウマに悩まされている。ま、言わないよりも言った方がよかったとは思っているが、、カミングアウトしたからと言って、それまでの親子関係が変わるかというと、変わらない(笑)だから、わたしの場合は「関係断絶」になったんだけどね。

でも長いパートナーシップを築きたいと思うのなら、やっぱりカミングアウト、特に親へのカミングアウトは避けられない問題なのか、、と思ったのも確かではある。

今回の映画祭で19本(しかし「福寿草」は違う弁士でやったので、それを違う映画と数えると20本)上映されたが、バルト9を含めてわたしが観たのは15本。去年とは観た本数がかなり違うので、単純に比較は出来ないんだけれど、今年のは結構どれも面白かったと思う。

特にヨーロッパの作品は、こういうところだけでしか上映されないのはとてももったいないような感じがする。あれはヘテロの人にも観てもらいたいなーって思うんだよね。確かに今の日本とは全く違った状況だから、観てて頭が混乱するかも知れないけど、でもそういう世界も存在するんだよ、ってことを知って欲しいなと思ったりしている。

今年は9月にAQFF(アジアンクィア映画祭)もある。これも今から楽しみにしている。

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07-20 Mon , 2009
大泣きした
東京国際レズビアン&ゲイ映画祭も昨日が4日目、今日が最終日。
昨日はなんだかんだ言って、5本とも全部観てしまった。「分断の街で」「乙女シリーズ その一花物語 福寿草」「ガールズ短編集」「ニューワールド」「パトリックは1.5歳」。当初は「福寿草」は観ないつもりだったんだけどね。だって「花物語」の世界ってわたしはあまり好きな世界ではなく、どうせ内容的にもつまんないだろうなーって思ったから。けど、前日、双子の弟が「(活動弁士と即興キーボード演奏が付く)映画が観られるのは貴重だ」ってブログに書いてたので「うーん、だったらまー観るか」みたいな気持ちで観たんだけどね。

ま、内容は思った以上のものではなかったものの、これが1935年に日本で作られたことについて「こういう歴史が日本にはあった」、その点でどこの国とも違う、独自の日本の文化を感じた。

うん、確かにね。今の感覚で観ると、主人公の薫は完全に兄のお嫁さんである「お姉さま」との「愛の物語」というか、二人の関係がレズビアンに思えてしまうと思う。ただ、この当時の日本って、女学校に行くことのできるような裕福な家庭の女性は、女学校卒業後は自分の意志とは無関係で親に結婚相手を決められ、そして嫁ぎ、ダンナの両親とダンナに一生、仕えなければならない運命にあったわけで。この女学校のときが唯一の「自分の意志で自由に過ごせる時間」だったのだ。その背景から、女学校の女子学生の間では「エス」という関係があり、それは精神的な恋愛、魂と魂の結びつき、というような「この世の中で最も崇高なもの」と思われていた。それを知らないと、この話は「え、でもこの二人、レズビアンだよね」ってことになってしまう。

昔の女学生の「エス」の関係と、今のレズビアン、女性同性愛者ってのは、わたしは違うと思う。「エス」は、そこに肉体的な関係を介さずに、ただただひたすら相手を慕う心、相手を思いやる心、であるのだ。で、悪いんだけど正直、わたしはこの気持ちは全く理解できない(爆)「お姉さま」とか言われて慕われるのはとても気持ちが悪いと思う、なんて言ったら「「はぁ?」とか言われそうだけど。フェミニズム用語で「シスターフッド」って言葉があって、多分、この言葉と「エス」はほとんど同じ意味なんだろうけど、ヘテロ女性が理解できる「シスターフッド」ってのは、わたしには理解できない。ヘテロ女性はその「シスターフッド」を通してレズビアンを理解できると思っているような気がするが。

というわけで、今、この映画を観ると、映画を作る技術の未熟さや、当時の女学生の間の感情がどうしても分からないものだから、どうしても奇妙奇天烈なストーリーと思えて、それが笑いに繋がったりしてしまう。しかし当時はおそらく、女学生が(男はこういうのは観なかっただろう)心をときめかせながら真剣な気持ちで観ていたのではないだろうか、と想像したりする。少なくとも笑いなどは映画館からは聞こえなかったに違いない。

18日に観た「アウトレイジ」の最後の場面は「30年前」としてハーヴィー・ミルクが「みんな、カミングアウトしろ。カミングアウトすることが勝利に繋がるんだ」とインタビューで答えている姿だった。しかし日本では74年も前に今の同性愛とは違うが、それによく似たものが「当たり前のもの」として作られている。わたしはね、この「差」がやっぱり今日のアメリカと日本の違いを表わしているような気がするのよね。「日本がぬるい」のは、こういう「文化」を日本が持っていたことも一因としてあげられると思うのね。そしてそのことってのは、決してわたしたちにとってはマイナス要因ではない。んー、この作品は予想どおりというか、ホント、突拍子もない話でストーリーを紹介するのがアホらしくなるような話ではあったが、「日本にかつてこのような映画が作られていた」ことを知ることが出来、それを観ることができたのは、わたしにとってはとても価値があることだったと思っている。

って、題名の「大泣き」は、これで泣いたんじゃなくて(笑)4本目にやった「ニューワールド」で泣いたのよ、わたし。映画祭であんなに泣いたのは、初めての体験だ。しかも、普通の映画館で観る映画と違って、映画が終わったら、知り合いがうじゃうじゃいるような状況で、わたしはとても恥ずかしかったんだけど、でも、映画が終わってそそくさと会場を一旦抜けたんで、彼女以外にはそれを知られることはなく(笑)

「ニューワールド」は、フランス映画で「子供が欲しい」レズビアンカップルがどうやって父親を捜し(精子バンクを利用することは彼女らの希望ではなかった)、子供を作り(って、このやり方は「ハッシュ!」と同じ(笑))、そして自分たちの両親との関係、片方の、血のつながりのない「子供を産まない方」のカップルの片割れが感じた「孤独感」、精子提供だけで、あとは何も関係ないと言っていた「父親」の子供が産まれたあとの豹変ぶり、ストーリー的には淡々と「そうだろうな、そうだろうな」と思えるような「堅実な」作りで、そこのところが面白くないと言えば面白くないだろうけれど、話に整合性があるという映画が好きなわたしにとっては、それはそれでよかったし、なにしろ、この映画の状況がね。前にも書いたことがあるけど、親兄弟にカミングアウトしているのは当たり前。パートナーも紹介しているのも当たり前。しかも相手が自分のことを「受け入れられない」ような発言でもしようものなら「なぜそれが理解できないんだ!」と理解できない相手のせいにする。「カミングアウトして拒絶されたらどうしよう」とか「受け入れられなくても仕方ないよね」という感情が「当たり前」で「カミングアウトすると言うことは、相手にも秘密の強要をさせる行為なので、そんなことはしない方がいい」とも思われているこの日本との違いってのがね、すごいなあと思ったのよね。

で、子供との血のつながりのないパートナーの片割れが、子供との法的な関係を作れるかどうかということを聞きに弁護士事務所に行くんだけど「子供と15年以上同居しているという証明がないと法的な関係には慣れない」と告げられる。「相手が妊娠したときから毎日毎日、一緒に暮らしている、それでも関係は認められないのか!」と言うと「異性愛者ならそれが認められますが。。でもしかし、あなたのような思いをしている人たちはたくさんいます。わたしはその状況については個人的には残念だと思うけれども、しかしわたしは法律に従って仕事をする人間です。法律を変えるのはあなたたちです」ってはっきり言ったあの弁護士の言葉が突き刺さる。あの国ではこのようなことは「当たり前」の感覚なのだ、そういう感覚で今までやってきて、そして今があり、また将来があるのだ、とね。日本はアメリカの状況とも違うが、ヨーロッパとも違う、ということがこれを観るとよく分かってね。。

そして子供が産まれてしまえば、たとえ血のつながりのないパートナーの親でさえコロッと変わってしまう、というのは安易と言えば安易なんだけど。。しかし、レズビアンの親は100%、子供を育てたことのある人たちであることは確かであり、その経験から子供を目にするとああいう態度に変わってしまうのはある意味自然な事なのかな、と思ったりもする。

「子供を作る」と言ったときは親でさえ「子供には父親と母親が必要なのよ」と、これはこの作品以外でも何度も何度も言われていた言葉だ。多分、日常生活でもよくそういうことが言われているに違いない。しかし、これは映画だからかも知れないけど。。生まれてきた子供には(レズビアンの場合は)母親が二人、父親が一人、そしてレズビアンの両親がおり、そして父親の方にも両親がいる。普段は母親2人に育てられているとしても、例えば誕生日やクリスマスに家族みんなが集まるようなところでは、実はヘテロの家族よりも「身内」が集まる人数は格段に多いのだ!というのを、この作品の最後でちらっと映ったんだけどね。わたしはそれを観たら、もうなんというか、涙が出て来て仕方がなかった。もう、その単純さにあきれてものも言えないんだけどね(汗)「ああ、産まれてきた子供は幸せなんだ」って思った途端にブワーっと涙が出て来たの。

そして、子供を産んだ女性は学校の教師なんだけれど、子供を産む前は自分が同性愛者だと言うことを言っていない。それは「子供を誘惑する人間だ」と思われたら困る、という理由でしていなかったのだが、子供を産み、復職したときに彼女は同僚にカミングアウトをする。それは誰からも強要されていない。自らが進んで「自分は女と寝るレズビアンなんだ」と言い、そして自分と彼女の写真を飾る。

「この変化は一体何なんだろう?」って考えたね。そしてそれは多分、子供を産んだことが彼女を強くさせたのかも知れないし、「家族が出来た」(というのも変な表現だけどね。2人だけでももう十分な家族なのだし)ということがカミングアウトをする行為につながったのかも知れない。ここでは「自分の知っている限りの人にカミングアウトしよう」などとは言われない。自分のカミングアウトしたい人にはカミングアウトをし、やりたくなければカミングアウトをしていない、そんな状況のところだ。それは日本にも似ている、と言っても、家族にカミングアウトをしているのが当たり前、なのとそうでないのはだいぶ違うとは思うけどね。しかしそういう意味ではヨーロッパはなぜ今のような状況になり得たのか、それがとても知りたい。

わたしの中では「この作品が一番いい!」とは言えないのだが、しかし、わたしの心の琴線に触れてしまったようで、おそらく、最後のシーンはずっと忘れないだろうなという気がしている。

その他、「パトリックは1.5歳」(スウェーデン)もこれも「子供が欲しい」ゲイカップルの話だ。しかし、彼らは実子ではなく養子縁組で子供を育てようとする。ただ、彼らは「生まれたばかりの子供」を欲しがっていたのにもかかわらず、来たのは犯罪歴がある同性愛者嫌いの15歳の少年だった、ということから話は始まるんだけど、だいたい「子供物」は最終地点が最初から見えてるのよね。そこに至るまでの過程がどう描かれているか、ということだけが興味のあるところで。

ただし、この作品を観ると、同性カップルは「結婚できる」にもかかわらず、相変わらず「ゲイ差別」は受けているんだと言うことは分かる。制度上では異性愛者と同じ権利を持ちながら、やはりホモフォビアは依然として根深い、というところか。

この作品は前の「ニューワールド」に比べると作りがしゃれていて、まー、わたしにとってはちょっと物足りないふうでもあったのだが、しかし、一つだけよく分からなかった部分がある。それはスヴェンがゴランと別れようとして一緒に住んでいた家から荷物を引き取ったところ。あそこでは別の男が家に入ってきて、しかも車の助手席に座り、いかにも「新しい恋人ができたのか」みたいな印象を受けるんだけど、しかし、すぐにその車で戻ってくるという、え、だったらあの「男」は誰だったの??恋人じゃなかったの?もしかしてただ荷物を一緒に引き取りに来た人?ってわけで、ここのところが全く説明されていないため、わたしにとってはここはこの映画に対してはかなりのマイナス要因になった。人によっては「どうでもいいじゃん」と思うところだと思うが、「何が起こったのか」と観客に疑問を持たせるような(どういうふうにも想像できるような)作品はわたしはあまり評価しない。

その一方、新しい家族の元に行けると言うことが決まったパトリックが家を出る前に庭仕事(彼の得意な分野はこれで、これがあったためにゴランとも打ち解けられたし、街の人にも関わりを持つようになる)をして、そこで手を切ってしまうのだが、医者でもあるゴランに家で手当をしてもらっているときのパトリックのあのつらそうな顔も、わたしは忘れることが出来ない。「ここに留まりたい」ということは決して言わないのだが、その顔で気持ちがものすごく伝わってきて、実はここの部分でもわたしは泣けた。

というわけで、あの「男」は一体誰だったのかの説明がされてないところ以外は、まあまあよかったと思う、この映画も。ただ、子供が出てくる映画は比較的ストーリーが単純なのでね。だから、普通一回観るだけでは理解できないわたしの頭でも理解できたんだと思うけど(爆)

しかしこの作品でも決して家族はゲイカップルの2人だけじゃなく、片割れの元妻が子供を連れて頻繁に家に訪れているし、それはパトリックが結局はゲイカップルに引き取られると決まったあとでも、その付き合いは続いているようだ。ということは、こういうのも「新しい家族の形」というか、今の時点での「家族」の持っている意味がこれらを含んでないので、今はこの言葉はあまり妥当ではないかも知れないが、しかし将来的にはこういうものも全部ひっくるめて「家族」と呼ばれる時が来るのではないか、と感じた。

その他「ガールズ短編集」は今回は1つを除いて、めちゃくちゃ面白かった!今回は、ゲイの絡みよりもレズビアンの絡みの方が多いね。これは映画祭の人たちが敢えてそういうのを選んだのかも知れないけれど、数年前まではボーイズ短編集には必ずSEXシーンが描かれていて、でも今回のボーイズ短編集はたったの1つだけだった。逆にガールズ短編集はSEXシーンはなかったのに、今回はほとんどそういう場面があった。わたしとしてはもちろん、女同士の絡みがあった方が嬉しいのだが、でも女同士の絡みで必ずブラジャーしてるっていうのはどうよ???あれはどう考えても不自然だ。SEXするときに下着を着けたままするなんて考えられないでしょ?あれはなんでかなあ~、、ってSEXシーンが出てくるたびに「またかよ!!」って怒ってたりしたんだけど(笑)

でもねー。他の人はどうかは知らないんだけど、映画観てると「ああ、わたしもこういう感じ、よく分かる!」なんて思いながら観てるんだよね。で、映画終わったあと彼女に「あのシーンさぁ~」って言うと「ろんたこもそう思った?(笑)」って言われるから、やっぱり自分の経験してきたことって、よくあることなのかな(笑)まー、どの部分、とは言わないけどさ。こういうふうに素直に感情移入できたり「そうそう、これに似たようなことわたしもした」とか思えるのって、やっぱりそれが「レズビアン映画」だからなのかな。。

最後に、昨日の一番最初のプログラム「分断の街で」なんだけど、これはほとんど眠くてねーって決してつまらない映画じゃなかったんだけど、わたしの体力の問題で。しかし、これも考えることがたくさんある映画で。そしてまだまだ考え続けているものでもあって。あ、この話の舞台はイスラエルとパレスチナだ。イスラエル人とパレスチナ人のカップルがいて、イスラエル人は「親に自分が同性愛者だと分かると大変だ」という。しかしパレスチナ人の方は「自分がレズビアンであることよりも、イスラエル人と付き合っていることの方が、親にとってはショックだと思う」という。ここは宗教上の違いもあるけれど、人種の違いや、あとは歴史的な経緯でホント、複雑な事情を抱えた地域だ。イスラエル唯一のゲイバーである場所だけが「平和な場所」。イスラエル人もパレスチナ人も関係なく、同性愛者であることも咎められることはなく。「ゲイとレズビアンがこの国の平和の象徴だ!」と言った台詞が頭に残る。

このゲイバーの経営者はイスラエルの議員でもあるが、なぜ彼は「ゲイ」であるにかかわらず選挙に当選できたのか。そこら辺のことは分からないが、しかし「一期で辞める」といい、そして経営していたゲイバーもたたむ。これから、あの国、地域はどのようになっていくのだろうか、ということを考えさせられた内容だった。

今回の映画祭、敢えてこのような映画を選んだのかどうかはわたしには知るよしもないが、地域によって同性愛者の立場がものすごく違う、ということが改めて分かった映画祭だった。ってまだあと1日残っているのだけれどね。

さて、今日もあと3本、観てくるか。

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07-17 Fri , 2009
東京国際レズビアン&ゲイ映画祭2日目
今日は昼から「ボーイズ短編集」「ベイビー・ラブ」「ドロール」「トゥルー・ラブ?」の4本を観てきた。

この中で一番面白かったとわたしが感じたのは「ベイビー・ラブ」(フランス)。「ドロール」(アメリカ)はわたしの感覚で言うと「え、え、これでいいの?こっちに行っちゃうの???」って映画だったし、「トゥルー・ラブ?」(アメリカ)、途中から「なんだ、カミングアウト推奨映画か」って思っちゃって、つまらなくなったのと「ボーイズ短編集」は5本あったんだけど、ほとんど意味が分からず。あ、もちろん何本かは分かったんだけど、強烈に印象に残るものはなかった。

あーでもね。「ボーイズ短編集」に限っては、3年前のAQFF、この映画祭、2年前、今年と4つ、観てることになるんだけど、今まではほとんど短編映画でも「男の裸」が映されていたにもかかわらず、今年は逆にほとんどなかった。。これは、選ぶ方の問題かも知れないし、別の理由かも知れないけど「あ、なんだか今年は違うなあ」と感じたことだった。

さて、わたしが今日、一番気に入ったのは「ベイビー・ラブ」ってフランスの映画なんだけど、フランスってPACS法はあるんだけど、同性愛者同士のカップルに養子縁組はできないことになっている。ただし、独身で審査を受ければ養子縁組できるようになった、って以前、パリ市長ベルトラン・ドラノエ(彼はゲイとカミングアウトしている)の自叙伝を読んだことがあるんだけど、独身の彼は養子縁組するためにいろいろな法的手続きをとっていたんだけど、直前で止めた、というようなことが書いてあった。その点で言うと、独身で同性愛者だと養子縁組できたはずなんだけど、なぜかこの映画では独身でもゲイと分かると許可が下りない、ということになっている。それがちょっと「??」だった。彼女曰く「パートナーがいるってことが分かると、PACS法では養子縁組できないからじゃない」っていうけど、でも、親権が二親にできないってことだけで、片親で何か問題があるのかな~という感じはするんだけどね。ちょっとそこら辺のことは大いに疑問だったんだけど、まぁ、そういうもんだと思って観てて。

しかし、昨日はスペイン・キューバ合作の「苺とチョコレート」をなんとなく思い出しながら観たけど、今日は台湾・アメリカ合作の「ウエディング・バンケット」を彷彿とさせる内容ではあった。

でもね、「ウエディング・バンケット」はアメリカの永住権を持つ香港人と危ういところで不法滞在になってしまう香港人女性が市民権欲しさに「偽装結婚する」という話だったが、この話は違うの。もうね、周囲に「カミングアウト」してることが当たり前の世界。しかもパートナーも紹介済みなの。

って、これだけじゃ分からんだろうから説明すると、フランス人で小児科医をやっているゲイ男性が裁判官(だと思う、あの格好は)のゲイ男性とずっと同居していたんだけれど、小児科医の方が「やっぱり自分たちの子供が欲しい!育てたい!」って言いだして、でも裁判官の方が「自分は子供が嫌いだから子供を持つのなら別れる」って一旦は分かれちゃうのね。

小児科医は、最初は独身を装って(?)コーディネーターの面接を受けてもうちょっとのところで許可されるところだったのに、隠し忘れていたパートナーとのキス写真を見られて「アナタはダメです」と断わられたり、ネットで子供を欲しがっているレズビアンカップルと面接をしたり、いろいろやるんだけどなかなか条件が合わず、ふとしたことで知り合ったアルゼンチンの女性に「自分の子供を産んでくれ」と頼むんだけど、最初は拒否した女性も、やはり市民権欲しさに偽装結婚(と言うのだろうか)をすることになり、しかし、アルゼンチン女性の方は親を安心させるために「結婚式をしたい」という。

問題は小児科医の方で、彼は家族にカミングアウトはおろか、裁判官の彼もパートナーとして紹介してたもんだから、親は「長年かかってゲイと言うこと受け入れたのに、今度は結婚するの?それも女性と??」と驚くし、兄弟(姉とその配偶者?)は「正気の沙汰じゃない」みたいに言うし。。その子供たちは「こないだの男の人はなんで今日来ないの~?」なんて聞くし、この場面を観て「うわー、ここまで進んでるんだ、すごいなあ~」って単純に思いながら観ていた。

で、何は何でも子作り、と思って産婦人科(小児科医の隣で開業している独身女性。notレズビアン)のところに検査をしに行くと、なんと、、、その小児科医は「無精子症」で子供が作れない、と言うことが分かる(笑)そこで、考えて考えた挙げ句、元パートナーの男性に「ドナーになってくれ」と頼み。。

ってここまででもものすごく面白いでしょ。この映画、同性愛者に対する人権が最も進んでいるヨーロッパらしい映画だよなあ~って思ってね。ただ、結局よりが戻った小児科医と裁判官カップルが、生まれたばかりの子供を見て「僕がパパだよ」とか「名前はなんて付けようか」とか、子供を持つことが嫌だった裁判官の方さえ、自分の血が繋がっているからか、もうメロメロで。そのような「幸せな姿」を映し出している画面の遠くの方には別室から二人の様子を観て切なそうな顔をしている母親(代理母)が映っていて。。「やはりゲイカップルが子供を持つことはレズビアンカップル以上に難しいことなんだなー」って改めて感じてね。

しかしこの映画はレズビアン&ゲイ映画祭だけの上映ではもったいない気がした。同性愛者が受け入れられている世界、独身でも養子縁組で子供が持てる世界(結局、独身の産婦人科医も子供が欲しくなって、コーディネーターの面接を受けたんだけど、それが小児科医の回答と全く同じだった!ってところに大笑い)、あー、こんな世界があるんだなあって素直に感動したし、すごく笑えたし。

この映画はフィクションでは今のところ一番面白かったと感じたな。

「ドロール」は、映画祭のパンフレットに「テルマ&ルイーズをしのぐ」って書いてあったんで、正直観る気はしなかったんだけど、まーでも最後の方の説明に「ブラック・コメディー」って書いてあったんで観てみた。「テルマ&ルイーズ」は有名な映画だけど、あれは夫を殺して、警察から逃げて逃げて逃げまくって、最後にはグランドキャニオンかどっかへ飛び込む、って映画だったでしょう。もう、あれを観るとわたしは苦しくてね。だから有名だけどあんまり好きじゃない映画なんだけど。

この「ドロール」という映画。確かに夫を殺してしまう。この夫、家の中ではDVで人種差別主義者、しかし仕事場では気の弱そうに縮こまって働いている男、というなんというか、ある意味男性の「ステレオタイプ」みたいな男性でね。ある日、黒人女性の化粧品販売員が隣に引っ越してくるんだけど、奥さんがだんだんこの人好きになっちゃうの。で、ある日、家のベッドの中でいちゃついてるところをダンナに見つかり、銃で撃たれるところを逆に銃で撃ってしまって殺してしまう。ここまではだいたい「テルマ&ルイーズ」に似てるんだけど、違うところは、女二人で車に乗って逃げる、んじゃなく、女二人+子供2人で逃げる、というところが全然違う。

しかも、警察は一切追ってこない(笑)行き着いたところは化粧品販売の総元締めをやっている黒人女性の家(というか大邸宅)で、夫の処理は「芸術家」と称する人たち(しかもマッチョのゲイ)に任せ、しかもその黒人女性も、夫を殺したという女性に向かって「ねえ、アナタはダンナを愛してて殺したの?わたしはダンナを愛していたのに殺してしまったの。警察署長と不倫をしているところを見つかって。でも、浮気相手が警察署長だったので、警察署長も奥さんには知らせたくなかったので、罪にも何もなってないの」とか、なんか話がめちゃくちゃな方向に。しかも、子供たちはそこで化粧の仕方を習ったり(子供のうち、上の女の子はバリバリヘテロなんだけど、下の男の子はどうやらゲイなの)父親に暴力をふるわれたりしたことを思い出して、でも「父親も悲しい人だったよね」となぜか理解される父親に。しかも「最後に化粧をしてあげよう」といって子供たちがした化粧はまるでドラァグクイーンのような死に化粧だった。。

で、それを埋めるところまで「芸術家」の人たちが担架に乗って運ぶんだけど、なんと、そこには複数の十字架が!!ってことは、ここは何人死人が埋まっとるちゅーねん!と突っ込みを入れたくなるような感じで。そして女性二人は「やっと二人きりになれたわね」とベッドの上で言い合い。。そこからのシーンに大いに期待してたのにぃ~!!!わたしも「やっと子供に見つからない二人だけのシーンだよね」って期待してたのにぃ~!!すぐそこから場面が変わってしまった。チッ(-o-)

しかし、この映画はどことな~く、男に対して恨みを持っているフェミニストの人を彷彿させるような感じがそこはかとなく漂ってきたのだが。。しかも、その化粧品販売の大元締めの大邸宅は紫色というか、ラベンダー色がふんだんに使われてて、なんかここにも「ん?ちょっとフェミ入ってる?」という感じがしたのよね。。で、最後は女だけの世界、あ、若干1名男の子や「芸術家」たちがいるけど、彼らは全員「ゲイ」だしね。。なんかそう考えるとちょっと怖い感じもするなあ(苦笑)

ただ、話がどんどん現実的な方向から逸れていくので、わたしにとってはイマイチな作品だったのは確か。「えー、なんでそうなっちゃうの~?あれ~???」みたいな感じ(笑)

「トゥルー・ラブ?」はねー、最初書いたとおり「カミングアウト推奨映画」。わたしはドキュメンタリーで観る分はいいんだけど、創作映画でこれをやられるとちょっと興醒めする。ただし、やっぱり同性の結婚式っていいなあ~って、そこはもう自分の中での憧れなんだけどね。それを除いては「自分に素直に行きましょう」これがスローガン。

んー、やっぱね。こうみてみると、最早「カミングアウトなんて問題にならない」ヨーロッパと、「カミングアウトしないとまだまだ権利は得られないんだ」というアメリカと、やっぱり随分違うなと思って。そういう点でね、ま、この映画祭はあんまりアジアの作品はないんだけれども、性的少数者の先進国、途上国、何の権利もない国、いや、逆に犯罪になってしまう国の話を観られると思うとね、やっぱ貴重だと思うんだよね。

で、アジアの方はどうやら9月にAQFFがあるらしいので、こちらも期待。

さて、明日は「プレリュード」の日。でも本番終わったら、映画祭会場に行ってこないだバルト9で観た「アウトレイジ」をもう一回観る予定。

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07-17 Fri , 2009
ゲイコメディーという映画の分野
国際レズビアン&ゲイ映画祭も、青山のスパイラルホールでは今日が初日。「シェフズ・スペシャル」というスペイン映画だったんだけど、コメディ映画(でいいのかな。わたしは映画の分類法についてはよく分からないけど)で、難しい顔して「あれはどうなったの?これはどういう意味?」って全く思わず、スッと頭の中に入ってきてしかも、大笑いできたところがたくさんあった映画って、もしかしてレズビアン&ゲイ映画では初めてのことだったかも。

とはいえ、ストーリー的には安易な部分も多かったので、5段階のうちの4くらいか。

スペイン映画だからか、観ているとなんとなく「苺とチョコレート」を思い出しながら観ていた。あ、でも「苺とチョコレート」はスペインとキューバ合作の映画で、しかも舞台はキューバなので、違うと言えば違うのだが、なんというか、登場人物の恋愛に対する奔放さとか、そういうのが「苺とチョコレート」と似ているような気がした。主人公の「ゲイっぽい」話し方もよく似ていたからか。

しかし、いろいろな場面で笑ったが、笑いながらも、これはいくつかの「笑い」に分類できるのではないかと思いつつ観ていた。

一つ目は「あれ、この人ゲイだったんだという笑い」
二つ目は「周りがヘテロだと思い込んでいるので、それと会話などが食い違っている笑い」
三つ目は「全く関係ない話を自分で勝手に『カミングアウト』の話にしてしまう笑い」
四つ目は「ノンケが『ゲイはすべてこうなんだ』というステレオタイプの思い込みに対する笑い」
五つ目は「性的少数者とは関係のない普通の話の笑い」

大まかに分けるとこのくらいかな。
この映画を観ながら、果たして将来はこのうちのいくつかではそれが「当たり前」すぎて笑えなくなる日が来るのかなあ~、、と思いつつ観ていた。

「ゲイである自分を笑う」ことと「(ノンケが)ゲイだと言うことで笑う笑い」というのは、明らかに違ったもので、しかし、この映画では「ノンケの持っているホモに対する認識ってステレオタイプ過ぎて馬鹿げてるよね」という笑いになっている。この主人公の両親は二人とも主人公がゲイであることを受け入れてるのかどうかはよく分からない。いや、受け入れてるんだろうけど、ゲイとはどんなものであるか、と思っているのは「ステレオタイプ」なゲイであって、だから、主人公とその子供がお互い気持ちが通じ合い、抱き合っているところを見て「お前ったら、子供にまで手を出してはいけないって言ったでしょ」みたいな。「抱き合っている」=「ゲイ関係である」という安易な図式を持ち出すことによって、そのこと自体を笑ってしまおう、という狙いだ。

でもこういうのって将来的にはどうなんだろうね~?って思う。
例えばあと30年後にこの映画を観たとして「あー、なんだかこういう時代もあったんだわあ」って思えるような時が来るのか。それとも「んー、いろいろ物事は進んだけれど、やっぱりこういう笑いって時代を超えた共通なものがあるんだね」と思うか。

実はわたしはこっちの方がとても興味があったりする。

なので、ホントはこれは「あー、観て面白かった」で済ませられる映画だとは思うんだけど、笑っているうちに「あれ、あれ」って引っかかってきたので、ちょっとそれをまとめてみた。

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07-15 Wed , 2009
明日から
東京国際レズビアン&ゲイ映画祭が青山のスパイラルホールで始まる。

わたしは、今年はパスを買ったので、プレリュードの18日以外は行くつもりだけど、しかし本音を言うと18日も「アウトレイジ」を観たいので行きたい。うー、行きたい、行きたい。。

だけど、毎日帰ってくるのが遅くなるなあ。
で、連続5日間。
体力が持つかどうか、、、

ちなみに、全く関係ないけど、プレリュードではどうやら立って吹くらしいどころか、トロンボーンとトランペットは一番前に出てくるんだと!いつ、誰がそんなこと決めたんだよ~。こないだ、練習に行ってびっくり。まー、真ん前じゃなく、舞台向かって一番右になるのかな?トロンボーンは。どうやらライトも当たらないくらい前だって聞いた。。しかも、譜面はほとんど見ることが不可能っぽいので、今、仕方なく(?)暗譜してる途中。ちゃんと吹けるのか不安。

つーわけで、18日はプレリュード観に来てね。って最初書いてることと全然違うじゃんか(笑)

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05-09 Sat , 2009
デート?【3度目のMILK】
あー、今から4日くらい前だったかな、とあるフツーのゲイの人(笑)から「MILKのチケット、2枚あるから一緒に行かな~い?」って誘われて、昨日、2人でバルト9行って、わたしにとっては3回目の「MILK」を観てきた。

「あー、周囲から『ノンケカップル』に見えないかしら?(ドキドキ)」なんて思ってたのに、映画館の座席を決めるとき、係のおねーさんが「お二人で並んでみるとしたら、今だったらこの席しかありません」って、端の方とか前の方とか提示されたんだけど。そしたらあっさり「席は別々でいいです」と彼。「あ、それはいい考え!」と思いつつ、「あーん、ヘテロカップルごっこ(←?)があ(泣)」とかちょっぴり残念と思いつつ、「まー、別に隣に座って映画観てても、映画観てるときになにかするわけじゃないし(爆)」なんて口にしてて、はっと気が付いて「あ、いや、彼女と一緒に並んで映画観てても、なにもしないけど。。」などと言い訳したり、でも多分、彼には聞こえてなかったと思うけど(爆)

で、3度目の「MILK」の感想。

んー、今回はちょっとマニアックな見方をして、最後の役名で「HIMSELF」が3人いたので、それを探すことと、あと、アン・クローネンバーグ自身がハーヴィーの48回目の誕生日のパーティーに招待客として紛れ込んでいる、というのを2回目を観たときに買ったパンフレットに書いてあったので、それを探すこと。しかし、難しかった。。「HIMSELF」は、アラン・ベアードとトム・アミアーノとフランク・ロビンソンだったんだけど、アラン・ベアードは分かった。けど、トム・アミアーノは「これかな?」と思ったけど、確信が持てず、フランク・ロビンソンに至っては全然。。あと、パーティーのシーンで必死でアン・クローネンバーグを探したんだけど、分からなかった。。

って、これはまぁどうでもいいことで(笑)

そうだなー、始まってすぐ、白黒動画で警察によるバーの摘発のシーンが流れるんだけど、あのとき警察に摘発された人たちは、みんな下を向くか、手で顔を隠していて、そういう人たちが警察の車に乗り込んでいくのを観たら、なんか涙が出て来た。。ってわけで「もしかしたら、今回は泣けるかも?」ってちょっと思ったんだけど、話が始まってしまえば、普通に戻って、結局ね、ものすごく冷静に観ている自分がいた。

MILKはよくできた映画だと思う。観れば観るほどそう思う。何気ない一言の中に「ああ、この映画制作者はこのように考えて作ったんだな」と言うことが伝わってくる。そして、それがたとえ真実の出来事ではないとしても、全てにおいて「つじつまが合っている」。わたしはつじつまの合わない映画がとても嫌いで、そういう映画は何回か観て、「つじつまが合っていない」ことに確信を持てたら、もうその映画は二度とは観たくないと思ってしまうんだけど。この映画は初めて見たときは「本(ゲイの市長と呼ばれた男)と違う~!」と言うことがものすごく気になったわけだけど、この映画がアメリカの同性愛者の置かれてきた状態や、MILKという人がいたということを、一般大衆の人に如何に「観てもらえる映画」にするかを考えたなら、やはりこういう作りの映画にするのが「正解」だろうなと思うのだ。

ただ、3回目を観て思ったのは、やっぱり1回目に観たときに感じた「痛さ」がそのままよみがえってきたのと、ただし「カミングアウト」を迫るシーンは、観る毎に徐々に何も考えなくなってゆき。しかし「マイノリティー戦わなければいけない!!」と演説するシーンはやっぱり「あー」という疲労感みたいなのを感じたし、あと、MILKと言えば「希望を与える演説」なんだけど、彼は「希望だけでは生きていけないが(これって確か、ダイアン・ファインスタインが言ったのだ、希望だけでは生きていけない、と)、希望を持っていない人生は生きるに値しない」と言った。でも「希望」って一体何なのさ。希望なんて、非現実な儚い夢じゃないか。

わたしは希望など持たない。持っていてもその通りに行くとは思わないから。それよりも「自分のなりたいもの」に対して、どうやってなっていくか、具体的な方法を考える。具体的な方策がなければ「希望」はただの幻だ。だから、いくら「希望」の演説をされても、わたしの心は醒めていくばかりである。ってこれって多分、わたしは政治家じゃないからだな、と思う。「Yes,we can」と言われても、やるのは大統領だけでなく、あなたも「やらねばならない」。誰か人任せにしていれば、この世が自分の都合よくなどんるわけがない。そう思うからこそ、わたしは「マイノリティーは戦わなければならない」と言われるとものすごく強い疲労感を覚えてしまう。

だからこの映画って、わたしにとっては「MILKという人がいた」という話ではなく、今後の自分の生き方ややらなければならないことを想像させるので、疲れるんだよね。。

ま、感想はそんなところだけど。。

あー、でも、「ゲイの市長と呼ばれた男」の初っぱなに「本書でレズビアンが重要な役割を果たしていないのは、まぎれもない事実であって、ジャーナリストとしてその事実を変えることはできない。ハーヴィーは社会的にも政治的にも、レズビアンとそれほど接触していないかった」って書いてあるんだけど、映画でもね、本当にレズビアンってアン・クローネンバーグしか出て来ないんだよね。例えばクリーブ・ジョーンズが友達に電話して「デモ行進」のことを伝えるんだけど、その友達もまた自分の友達に伝える、、みたいに画面では16分割、いやもっとかも知れないけど、みんな電話でその情報を知らせるシーンがあるんだけど、見事に男ばっかりなんだよ。で、デモ行進の様子を見ても、女装の人はちらほら見かけるんだけど、女性って本当にいなかったの。

これって、あの当時もそうだったのかな。だったら当時のレズビアンは一体、どうしてたんだろう?そう思うと不思議でたまらないんだよね。。ただ、当時の映像で例えば「ゲイ・フリーダム・デー」のパレードのシーンを見ると、女性もいるんだよね。一体、あの時代のレズビアンって何をしていたんだろうかってこれはすごく不思議なのだ。

あと、、死の前日かなにかにハーヴィーがオペラを観に行くんだけど、ハーヴィーの左隣にいる女性がわたしにはどうしても「草笛光子」に見えてしまって、、(苦笑)あのあとハーヴィーがスコット・スミスに電話をかけて「今日のオペラで隣にいたの、誰だと思う?」って聞いたときに、わたしは「そりゃ、草笛光子だよ!!」って叫びたくなって困った(笑)いや、あの人、本当に似てるから。

あー、でもわたしにはオペラってものが全然分からないので、あそこでやっていた「Tosca」(だっけ?)ってオペラがどういうものなのか、どうして「Tosca」なのか、多分、あれはオペラを知っている人にとっては意味のあるシーンなんだろうな、としか思えなくてね。まー、残念というか。

ってわけで、3回目の「MILK」を観てきたわけだけど。。2回目の感想のときに「3度目はもうないだろうな」って書いたけど、さすがに4度目もないだろうな。。だいたい、3回観ても、金払ったのってたったの1回なのだ。。こういう「縁」も珍しいと自分で感じている。

フツーのゲイの人、誘ってくれてありがとう。ま・た・ね(はぁと)←橋本治風
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04-29 Wed , 2009
映画「MILK」を観た
今日じゃないんだけど、「MILK」を観てきた。しかも2回。

あ~、知らない人に簡単に説明すると、1970年代にサンフランシスコでゲイをカミングアウトした「ハーヴィー・ミルク」という人が、4度目の選挙(うち1回は下院議員、その他3回はサンフランシスコ市の市政執行委員)で、市政執行委員になったのだが、たった10ヶ月後に同僚の市政執行委員だったダン・ホワイトに当時のサンフランシスコ市長とともに暗殺されてしまったのね。

映画はそれまでニューヨークでビジネスマンをやっていたハーヴィーが、サンフランシスコに来て、カミングアウトして選挙に挑んで、選挙当選後、「提案6」という「同性愛者の公立の教師は全て解雇する」というめちゃくちゃな内容の提案に反対して、その勝利を勝ち取る、しかしその数日後に同僚に殺される、という、まー、事実を元にした映画なのね。

わたし、この映画を観る前に「ゲイの市長と言われた男」(上)(下)を上巻3回、下巻2回読んでて(だってね、誰が誰かすぐに忘れるんだもの。別れた恋人の名前がずっと後になってポコって出てくるから、何が何だかすぐ分からなくなってね(爆))それに加えてドキュメンタリー映画の「The times of Hervey Milk」も観たもんで、正直、知識はバッチリ状態、だったんだけど。

1回目に観たら、完全にそれが仇になり、「ここ、本と違うじゃんか」「これも違うじゃんか」とか「これも違うじゃんか」ってもう、そればっかり気になってね(苦笑)正直、全然感動も何もしなかったの。

逆にね、観てて痛かった。。

何が痛いかというと、「マジョリティーは、既に何もしなくてもその権利を持っていて、自分の人生は自分の生きたいように生きられるのに、マイノリティーはマジョリティーが持っている権利を同じように持つためだけに、一生、その運動に身を捧げなければいけないのか」と思ったら、その人がもし、マジョリティーであったなら、全然別のことをして社会に貢献してたかも知れないのに、なんてもったいないんだろうって思ったことと、30年前の「提案6」は阻止したが、去年の「提案8」(結婚は男女だけに限られたものである、という、まぁ同性婚反対の提案)は可決されてしまったじゃないか、あれから30年も経つのに、まだまだマジョリティーと同じ権利をマイノリティーである同性愛者は持てないのだ、という悲しみが一挙に押し寄せてきて「あー、勘弁してよ」って思ったのね。

それから映画の中で、「提案6」を阻止するためには、クローゼットに閉じこもっていてはダメだ、カミングアウトするべきだ、とハーヴィーが強く語る部分。その中の若者の一人が「まだ父親にはカミングアウトしてないんだ。。」って言ったとき、なんとハーヴィーはそこにある電話を持って、そこでカミングアウトの電話をかけろという仕草をするところね。ここは、本当に痛かった。恐怖さえ感じた。だって、カミングアウトって恐怖だもの。そんなに簡単に電話をかけて伝えられるものではない。そこのところは自分自身の経験とも重なって、本当に観ていて痛かった。

最初に観た感想って、これだけ。そしてわたしはちょっと絶望的な気分で帰ってきたわけだけど。彼女に「もー、本に書いてあることと全然違うことでさー、それが気になって気になって」って言ったら「あれは映画として脚色もしてあるんだから、当たり前でしょ。全部忠実に再現するわけないじゃない」って言われて、しばらくは「うー、でも、あそこもなー、ここもなー」って考えてて、それから2回目を観に行ったわけだけど。

1回観て「本と違う」ところは気持ちがすっかり消化していたからか、1回目のときよりは随分映画の中に入れたような気がする。最後のキャンドルナイトのシーンでは、ちょっとうるって来たからね。

んー、あとは40歳の誕生日のときに、駅で声を掛けてそのまま恋人になってしまったスコット・スミスに「40歳になったけれど、これまで誇れるものはなにもやってない」って言ったときはね、もー、今のわたしなんかまさにそうじゃん(爆)しかもわたし、あともう少しで41歳になるし(爆)あれはわたしの耳が痛かった(笑)

ただねー、あの人、40歳まではクローゼットで生きてきて、突然サンフランシスコにやってきて活動家になったでしょ。あの「気持ちの変化」がね、正直分からないのよ。ま、確かに40歳の誕生日に「自分を変えたい。。」と映画では語らせているけれども、本を読むと、そこら辺のことがよく分からないのね。まー、当時流行っていた「ヒッピー」に共感して、考えもそれまでバリバリの保守派の考えだったハーヴィーが急に「ゲイの権利」を訴えるという、、そこのところ、この本を書いたランディー・シルツにも分からなかったんじゃないかなあ~?あの当時恋人だった、スコット・スミスにも(分かっていたら本に書かれるだろうし)。

で、本人は自分の親兄弟にはカミングアウトしておらず、まぁ、当選する前に両親は死んじゃって、兄はハーヴィーが暗殺されたあとも生きてるんだけど、まー、あんなに大々的な話になったら、自分でカミングアウトするよりも、どこかニュースとか人の伝え聞きでばれてるよね。まー、映画では「兄も多分知っているだろうし、両親も知っていただろう」で終わってしまってるけど。でも本によると、学校の同級生なんかとは、一切、連絡取っていないみたいなので、ハーヴィーの人生って、ホント、クローゼット時代とゲイの活動家時代とパカッと半分に割れるようなイメージをわたしは持っている。その両方を知っているのは、ハーヴィー・ミルク本人だけ、というわけだ。

まー、もう3回目は観る気はないが(笑)、1回目に観たときに覚えた「絶望感」と「恐怖感」というのは、わたしの中に残っていて、多分、消せないと思う。

映画自体は、やっぱり「ストーリー性」」を持たせなければいけないので、「あれあれ、本当はここで言ったんじゃないのに」ってのがいくつもあるけど、言ったことはちゃんと本人が言ったという記録は残っているので、あながちウソじゃない。ただ、それがとても効果的な場面に仕上がっていただけだ、映画では。また、映画では暗殺されたときに再生するように指示があったテープだが、本当はあれを作成したのは、市政執行委員になった直後で、死ぬ1週間前じゃない。しかも、テープは3本あって、どれも立会人がいたそうだ(本による)。その3本のテープは言っていることは微妙に違っていたが(主に自分の後継人が誰がいいかということを述べているテープなのだが)、その中の一つにあのかの有名な「自分の頭を銃弾が貫いたとき、クローゼットの扉もすべて打ち抜いてくれ」という言葉があったという。

あと、ドキュメンタリー映画の「The times of Hervey Milk」の映像も多々使われているんだけれど、それと同時にそれとよく似せたセットとかシーンとかあって、一見、どれがドキュメンタリー部分で、どれが映画部分か分からないほどの技術で、それは単純に「うまいなー」って思ってみてた(笑)

んー、事前にいろいろ勉強しない方が楽しめたかも知れない、と思った映画だった(苦笑)

彼が10ヶ月じゃなくて2年、3年と市政執行委員で仕事をしていたら、、と思うと、残念でならない。彼のような「カリスマ性」を持ったゲイの活動家(ただ、市政執行委員になってからは、ゲイのためだけに仕事をしていたわけではない)は、もう出て来ないだろうなと思うと。。

あ、それで今日は尾辻事務所クロージングイベントってことで「EXECUTION OF JUSTICE」って、今度は暗殺したダン・ホワイト側から見た映画を上映するってんで、観てきたわけだけど。

もー、なんで事実と異なる設定をするのかしら、ってわたしはそれについては本当に気になってしまうので仕方がない。「ゲイパレード」のシーンは、映画の中ではダン・ホワイトはまだ市政執行委員じゃなかった。けど、あの演説をやった「ゲイパレード」は'78年のことで、ハーヴィーもダンも既に市政執行委員だったはずだ。あそこで独立宣言に書かれている言葉と自由の女神の台座に書かれている言葉を引き合いに出して、アニタ・ブライアントやそれを支持する「偽善者たち」に「出て行け」と言ったのは、提案6の反対のためだったからだ。

あと、あの映画の最大の問題点ってのは、あの裁判に対する陪審員の選び方が一番問題があったのに、そのことについて一言も触れなかったこと。あの裁判で「2人とも故殺」としたのは、選ばれた陪審員がすべて裕福な白人でマイノリティーは一人も入っていなかった。いわば、ダン・ホワイトに同情しそうな陪審員たちがわざと選ばれていたのである。そのことを伏せて映画は作られていたけれど、わたしはその作り方には疑問がある。あれでは「一生懸命やっても全部裏目に出てかわいそうなダン・ホワイト。最後は自分でどうすればいいのか分からなくなって、自信をなくして市政執行委員の辞表を出したのはいいが、周りからまたとやかく言われて撤回するような、半分病気みたいな男に暗殺されてしまった、もっとかわいそうなモスコーニ市長とハーヴィー・ミルク」って感じがして、やりきれなかったよ、ホント。

あ、そうそう、せっかく観に行ったってんで、買ってきたもの。

P1030133.jpg


これねー、「No on 6」と「No on 8」の両方売ってたんだけど、わたしは既に「提案6」の方はいいから、「No on 8」にしてみた。今さらこんなもの付けてどうするの、って感じだけど。。(結局去年の「提案8」はどうなったわけ??)

それから恒例。今日のミニバラとワイルドストロベリー。

P1030129.jpg


な、なんと、缶に巻かれていた紙が剥がれかけてて危ない!
しかも、今日、上から水掛けてたら、ミニバラの種が出てきてしまった!!!
つくづく花を栽培するのは(まだ花にもなってないけど)、自分は向いていないなあと思いました。。
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04-06 Mon , 2009
全く分からない~(汗)
いや、こないだの日記に書いた「Tantrums & Tiaras (Full Dir) [DVD] [Import]」が家に届いたのだが。

早速、見てみる。

。。。早口すぎて、さーーーーっぱり分からん!!!

まだ本当に初めの方しか見てないんだけどさ、突然Eltonが怒り出してるのは画面見りゃ分かるんだけど、何に対して怒ってるのか全く分からない!分かるのは「ファッキン、ファッキン」って言ってることだけで、一体、何をそんなに気にくわないのかさっぱり分からない。。

次に、Eltonの母親が出てきて、何やら泣いてるんだけど、それも「テリブル、テリブル」ばっかりで、一体、何がテリブルなのかさっぱり分からん。。

うーん。ここまで分かんない英語、初めてだ。。早口すぎて、全然単語がつかめない。

彼女は「毎日見てりゃ、分かるようになるよ~。わたしもk.d.langの海賊版(←オイ)正規版(本人からの申し出により削除。海賊版もたくさん持ってるけど、これは正規版だそうです(笑))、何話してるか分からなかったから、テープに録音して、毎朝聞いてたらなんとなく分かるようになったもん」と言われた。

うーん。。毎日「ファッキン、ファッキン」「テリブル、テリブル」を聞くのか???
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04-01 Wed , 2009
悲しい
昨日、実は中古CD屋で「フレディ・マーキュリー追悼コンサート [DVD]」を3,300円で買ったんだけど。。あ、もちろん、わたしはずっと前にビデオで出た「Freddie Mercury Tribute Concert [VHS] [Import]」を持っているわけなんだけど、んー、やっぱりビデオテープというのはいつか劣化しちゃうんじゃないかというのと、アナログなので、見たいところがさっと出て来ないというのが不便で。で、彼女が見つけて、わたしが買ったんだけど。

改めて見直してみて、悲しくなった。多分、ビデオテープを見てても同じことを思ってみてたんだろうけど、Queenの3人はいるけど、Fredeeはいない。彼一人いないだけで、QueenはQueenじゃない。それを否応なく「見せつけられる」コンサートだった。もちろん、出てきて歌った人は、それぞれ有名な人たちで、そういう人が一堂に出てきて歌うってのはすごいと思うけど、でも、肝心のFredeeがいない、と思ったら、ホント、悔しくて悲しくて。

改めてHIV/AIDSのことについて思った。
あの時代、何人の有名人がAIDSで亡くなったことだろう。
亡くなった彼らが、今、生きていたら、どうだっただろう。
考えると、悲しい。

あの時代、AIDSを発症して死ぬ、というのは、同性とSEXをする男性(同性愛者とは限らない。けど、AIDS=同性愛者のかかる病気、という認識が一時あり、AIDSの前にGRID(Gay Related immune deficiency syndrome:ゲイ関連免疫不全症候群)という名前を付けられていた時期があったのだ)と思われててというか、実際そうだったんだと思うけど、だけど「奇病」としか知られてなくて、治療法もないまま、バタバタと死んでいった、という感じがあのときのわたしにはあった。あのときはまだ若かったからか(?)、遠い国の話だったり、そんなにショックを受けるような話ではなかったが、改めてAIDSで命を落とした人のことを考えると、なんてもったいないことをしたのだろう、と感じる。彼らは世界に影響を及ぼすことができる人々だったのだ。

もちろん、HIV/AIDSが表面化されたことにより、同性愛者の可視化が進み、今までにない同性愛者の活動によって同性愛者の権利運動等が進んできた、という一面もあった。この動きは今の「同性パートナーシップ」や「同性婚」への動きと繋がっている。

そうそう、そういえば、フレディー・マーキュリーの死後、ジム・ハットンという当時の恋人(?)が「フレディ・マーキュリーと私」という本を出して、わたし、これも持ってるんだけど、読んでたら悲しくなったことを思い出す。詳しい事情は分からないんだけど、この本、単純にフレディーとの愛情関係を述べているものじゃなく、最後の方に自分とフレディーが住んでいた家を取られそうなこと、遺産のことについて争っている、などが書いてあったのだ。わたしはこの本を読んだとき無性に悲しかったのを覚えている。それは、、この本を書いた意図が分かってしまったからだ。

確かに残された彼は、フレディーとの愛情をこのような形で発表はしたくなかったと思うが、、しかし、残された彼にとっては、このような方法でしか法律と争えなかったのではないか。

今なら同性同士の「パートナーシップ法」がないから、この人は有名な自分のパートナーとの私生活を書くことにしたのだ、とその人の気持ちも分かる。が、この本を買って読んだ当時は「なんでこんなプライベートな争いのことをこんなところで書くのだろう。そんなに残された財産が欲しいのだろうか」と少しこの書いた人に対して反感を持ってしまったのは事実だ。

そう、これって「同性愛者のカップルに対してはなんの権利保障もない」ということを端的にあらわしている事実だったのだ。その当時はそんなことも考えたことがなく、全く自分の思っていたことを気恥ずかしく思う。

しかし、あの時代からイギリスは、大いに進んで、現在は同性婚と同等の権利を得られるようになっている。一方日本は、、なんて考えたくないけどね。。日本はあのときからもずっと変わってないから。何一つ、進歩してないから。もちろん、声を上げる人がいなければ、物事は一つだって先に動かないのは知ってるけど。

そしてわたしは、ついこないだようやくElton Johnのライフスタイルを彼のパートナーが撮影してTVのドキュメンタリーとして放映されたらしい「Tantrums & Tiaras (Full Dir) [DVD] [Import]」が発売されていることを知って、今、届くのを待っているところだ。

彼は'80年代の終わりに、SEX依存症と薬物依存で病院に入院した経歴を持っているんだけど、彼自身、HIV/AIDSに感染していなかった、ということで、いろいろ考えただろうな。。と思う。彼自身、エイズ基金を持ってるしね。その前にディオンヌ・ワーウィックとか、あと誰だっけ、あ、スティービー・ワンダーとかと一緒に「That's what friends are for」だったっけ、あれに参加してるんだよね、って知らない人もいるかも知れないけど、この曲って確かディオンヌ・ワーウィックがエイズのためにこの曲の売り上げをエイズ基金に寄付しようって言った曲だったと思うんだけど、わたしは、あの時代、滅多にレコードなんか買う機会なかったんだけど、これは確か買ったんだよな。そのときElton Johnのことなんかよく知らず、だけど、この人の声は好きだったので、それで覚えてるんだけど、その当時のわたしは、スティービー・ワンダーの方が好きだった(笑)

ってなんかつらつら自分の思い出話を書いちゃってるけど、なんかね、思いもしないところで繋がっていくんだなって感じたんだよね。

でも、やっぱりDVDを見ると悲しかった。もう18年も前の話になるのにね。。

ともすると、彼らの「性行動」について、文句を言いたくなる。だけど、それは違う、というもう一方の声もある。彼らの行動ではなく、単に病気が悪いのだ。しかもあのときは何が原因かなんてほとんど分からなかった。AIDSは発症するまでに長い時間がかかるから、なおさらだ。誰が悪いんだろう、誰も悪くない、でもなぜ、、って何かを恨みたくなる。何かを恨んでも仕方ないのにね。

今は、本当に悲しい気持ちだ。長い間持っててもまだ読んでなかったランディ・シルツの「そしてエイズは蔓延した〈上〉」「そしてエイズは蔓延した〈下〉」を読もうかな。
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01-21 Wed , 2009
まーなんだかんだ言って好きなんです(笑)
昨日書いた「それでもボクはやってない」と共にTSUTAYAで借りてきたのは、「本格レズ ルームシェア 女だけ秘密の館」というものだったんだけど(笑)

いやー、ホントはべつにエロDVDを借りてこようなんてことは、全く思ってなくて、昨日書いた「それでもボクはやってない」があるかどうか、見に行っただけなんだよね(言い訳?)。イヤ、ホント。TSUTAYAにも大人コーナー(?)ってのがあるなんて、実は初めて知ったのよ(苦笑)。前によく行ってたTSUTAYAもそれなりに広かったんだけど、でもあんなのれんなんかなかったと思ったし、、だからひょっとのれんを見つけたときに「あれ、TSUTAYAにもこんなコーナーがあるんだ」ってフラフラはいっちゃったのよね。イヤ、ホントだから、ホント!!って別に言い訳する必要もないとは思うけど(笑)

で、なんでこれにしようかと思ったかというと、パッケージにね、「ひとつ屋根の下で快感を共有しあうビアンたちの淫靡なSEXライフ」ってのを見てさぁ、「あれ、ビアンって書いてある!」って思ったのよ。

えーと、これ読んでる人で「ビアンってなに?」って人は、まぁまずいないと思うけど、日本のレズビアンは「レズ」と言われるのを極端に嫌っている人が多い。これは、「レズ」という言葉がものすごくいやらしい響きを持つから。要するにポルノ的な「レズ」を想像させるから、「自分たちはそんな目で見られたくない」っていうので、「レズビアン」の上2文字を取って「ビアン」と称する人が多いのだ。

もちろん、全員が全員じゃない。「レズ」っていう手垢にまみれた言葉をわざわざ引き受けている人も中にはいるし、わたしのように「ビアン」じゃ知らない人にはなんのことだか分からないだろうから「レズビアン」って略さずに言う人もいるし、それは人それぞれ。自分が「なんの言葉を引き受けているか」に寄るの。

だからね、レズエロDVDでパッケージに「レズ」じゃなくて「ビアン」って書いてるのを見てね、「あ、これはちょっとは知ってる人が作ってるんじゃないか」って思ったのね。それだから借りてきたのよ。

感想は、、まぁなかなかいいんじゃないでしょうか、冒頭を除いて(笑)

このDVDの設定って、オーナーがレズビアン(らしい)で、入居する人の条件はただ一つ、「レズビアンであること」なのだ。それなのにね、冒頭のシーンは、これまで入居していた人が去っていくシーンだったんだけど、その去る理由が「結婚」。オイオイ、レズビアンが結婚かよー。しかも残る居住者も「いいなあ、結婚」とか言ってる!えーとさぁ、ま、確かに既婚者レズになる、って可能性も否定できないけど、レズビアンは自ら進んで男とは結婚しないと思うよ?まー、よっぽど外圧がひどいとか、そういうのならともかく、、、なんかここで「え??」って感じがした(笑)できるんだったら、この場面は「彼女ができて同居することになりました~」だと、さらにポイントが高くなると思うんだが(笑)

で、残った人たちが「寂しくなったね」とか言いながら、一人はバイトで抜けちゃって、おばさん(オーナーね)と入居者一人が残るんだけど。。そこで「寂しい」と言いながら、入居者(美奈さんって言ったかな)がおばさんに甘えてきて、、「んもう、しょうがない子ねえ、、んじゃ、行く?」とか言いながら、ベッドルームへ。

ちなみにこのおばさんは完全ネコらしいです(笑)「おばさん(この人、自分のこと「おばさん」って言うのよ~(笑)、受け身しかできないから、、」などと言ってました(笑)で、おばさんと美奈さんのSEXが始まるんだけどね、最初はバックで指入れたり(どこかはご想像にお任せします(笑))してたんだけど、途中からバイブが出て来たのね。そのバイブ見てびっくり!あら、、かつてわたしが使っていたのと全く同じもの。。。(爆)あ、あくまでも「かつて」ですから!あれは壊れて動かなくなったので、だいぶ前に捨てた(笑)

で、この美奈さんって人、レズビアンかバイセクシャルなのかしら。。と思ったのね。なんでかっていうと、おばさんにバイブ挿入してるときに自らも腰動かしてて、えー、これが演技指導によるものだったら、かなりだわ、と思ったのよね(笑)まー、みんながみんなそうじゃないかも知れないけど、脳内麻薬が出てるときって、割となんでもなくても腰が自動的に動いてることが多いので。。(笑)ただし「おばさんぐちょぐちょ」と言いながら、そこに唾を吐きかけるのはね~、、っていうか、レズものって唾を相手に吐きかけたりすることが結構多いみたいなんだけど、あれを見て萌える男性が多いのかしら、、わたし、ちっとも萌えないんですけど(爆)逆に萎えるのよね、、あのシーンは。

んで、おばさん満足してさぁ、「新しい入居者が来週の月曜日に来るの」と言うのね。おばさんたら「新しく来る人はタチもできる人がいいんだけど。。」とか、自分はネコなんで美奈さんに「お願いね~」とか、はぁ、まぁ、そうですか、って感じ(苦笑)

で、すぐさま月曜日になり(爆)、新しい入居者(響子さん)がやってきたわけで。おばさんの言うとおり、響子さんを部屋に連れて行って、「ここに入居できる条件知ってるでしょ」と言って、そこでやっちゃう美奈さん。ちなみに響子さんは「まだ2、3回しか経験がなくて(だからタチできるか分かんない)」って答えたんだけど、まー、結局はリバでした(笑)あー、ここは道具は何も使わなかったんだけど、美奈さんの言葉責め(?←そんなにSMチックじゃないです)が結構自然な感じでいいかも(笑)タチってる美奈さんもいいんですけど、この人のあえぎ声って結構かわいかったです(笑)あとイク前も激しくてミョーにリアルだったし(笑)

しかし、この響子さんの声がうるさい、うるさい(笑)ネコのときもそうだけど、自分がタチってるときもすげー声あげてて「ちょっと、うるさいんですけど、、」って感じだった(笑)これも人によって違うと思うけど、タチってるときに、あんなあえぎ声出したりする人っているんだろうか??

その夜は、当然のことながら(?)乱交になるんだけど、なんせおばさん、ネコだからさぁ~(笑)美奈さんに「おばさん、乳首舐めさせてあげたら」とか指示してるし!(爆)っていうか、みんな美奈さんの指示で動いてるんですけど!

で、以前、わたしはディルドが出てくると萌える~♪って書いたんだけど、ここで出てくるのね。あ、美奈さんがディルド付けてるんだけど。しかし、なんとパンツはいたままディルドしてるのって、、ヤじゃない??わたしはヤです(きっぱり)

ま、話としては単純なんだけど、へんな貝合わせシーンとかなかったし、今まで見たレズエロDVDの中では一番見てて違和感なかったかも。爪もちゃんと短かったしね(ここ、結構重要なポイントなのよ、、)。まー、そうね、ディルド付けたときにパンツはいてたってところがちょっと個人的には「惜しい!」って思いました(笑)

それにしても3号室に住む「さくら」って人は、結局、バイトに行ったままで、3人で乱交してるときもいなくて、で、終わった後に帰ってくる、という役でまったく脱がなかったんですけど、こういうキャラもいるのね、って思ったのでした(笑)まぁ、響子さんによると「レズ(響子さんは自分のこと「レズ」って言っても平気らしい(爆))のSEXはエンドレスですから」ってことで、これから4人で乱交になりそうなところで物語は終了。

で、一番最後のクレジットに「Directed by Shinobu Okada」って書いてあったんだけど、この人、女の人なのかしら、、で、レズビアンなのかなあ~、などと思ったりして。しかし、美奈さんのアレは演技指導のたまもの、ってより、ホントにこの人、個人的にもこういうことやってんじゃないの?って思わせるようなもので。なかなか勉強になりましたけど、そういや、わたしは3人でSEXしたいと思わないから、無駄な知識が増えただけなのね(笑)

今まであれこれ「レズもの」と言われるものにいろいろ文句付けてきたけど、これは割と納得がいくものだったかな~。あ、一番初めを除いてね。
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01-13 Tue , 2009
「ザ・レズ地獄6」を見たのだ
昨日、ルミエールで買った「ザ・レズ地獄 (6) [VHS]」を早速見てみた(*^^*)←?

はぁ~、一昔前のエロビデオってこんなんだったんだー、って、実はエロビデオ自体全くと言っていいほど見たことがなかったんで、ちょっと感動した(笑)わたしが今まで見たレズDVDとはちょっと違う。ってのは、多分、DVDの方は「オススメです」ってのを見たんで、一般的に言う「レズエロDVD」とはちょっと違うんでないかと思うけど。多分、わたしはあんまり~、、だったんだけど、「本物っぽさ」で選ぶなら、オススメのDVDはかなりいいもんなんだろうけど、わたしが萌えなかったのは、書くの恥ずかしいけど(笑)、要するにわたし、ディルド出てこないと萌えないみたい。。。ぽそ(-o-)

「なぜ、なんでだ。せっかく女性同士のSEXなのに、ディルドなんて男性器を模倣したものを使うSEXがいいんだ!」って聞かれても、ディルド付けた女性を見ると萌えるんだもん。なんかわくわくするって言うか、、(爆)これが本物の男性のモノだと、おそらく「ウエー(-o-)ぺっ」になるんだろうけどね←オイ

「女性同士のSEXは男性が入らないSEXだから、なんでわざわざ男性を彷彿とさせるものを持ってくるんだ」と言われても、わたしは女性のそういう姿を観たらすげードキドキするんだから、仕方ないじゃん!(爆)←もう開き直ってます

やっぱさあ、人によって「萌えるシチュエーション」ってもんは多分、あると思う。。それがわたしの場合ディルドなだけで。。

でね、この「ザ・レズ地獄(6)」はディルド付けた女性が出てくるから、ちょっとわくわくして見てたんだけど。。ま、この際、演技がどうとかは言いません。しかし、、モザイクが大きすぎる!!

この作品っていつ発売されたんだろうってAmazonを見てみたら、2002年だそうで。その頃はまだ「ヘア解禁」じゃなかったのかなぁ?なんかさ、前に見たDVDで「こんなもんかあ」って思ってたから、あのモザイクの大きさにはびっくりした!あれじゃ、正直言って、何やってるのかさっぱり分からん。。

物語(っていうのかな、いちお、筋はあるんだけどね(^^;)は、最初、男性カメラマンのアシスタントをやっていた女性が、男性カメラマンの被写体だった女性に対して「撮らせてください」って頼んだところから始まるんだけど、その女性カメラマン(きょうかさんなのか、きょうこさんなのか、これが役者の滑舌が悪くてよく分からんのだわ(^^;)がそのときのモデルをやってた「えりちゃん」を元々狙ってたみたいなのね。で、きょうかさんかきょうこさんは、どうもタチらしい。2人はどういうわけかSEXして(ま、こういうところの細かい部分がないのがAVなのよね)、んで、まりちゃんはきょうかさんかきょうこさんに惚れたのか、2人で一緒に仕事やるようになるんだよねー。モデルやってたえりちゃんは、今度はメイクさんとして。で、新しく被写体になってる「まりちゃん」か「まみちゃん」(これも、よく分からん)をリラックスさせるために(?)2人でディルドを使ってSEXして終わるんだけど、なんか筋のあるようでないようなストーリーなのは、まあいいのよ。そういうもんだと思うから。

けど、モザイクがなあ~!3人で絡んでたら、一体、何がどうなってるかさーっぱりわからん(笑)モザイクだらけで。あの当時、本当に14,000円も出して、あのビデオを買った人っているのかしら、、??

そういえば、「モザイク消し」なるものも売られてたけど、モザイクって、結局、モザイク掛けるところの情報を多分、平均化かなにかして、一つの情報にしてるんでしょ?その平均化したものを、元には戻せないと思うんだよなあ~。だってさ、(3+3+3+3+3)の平均は「3」だけど、平均が「3」だからといって、そのもとの成分は分からないでしょ。(3+3+3+3+3)かも知れないし、(1+2+3+4+5)かも知れない。モザイク消しってのは、結局その平均化された情報を元に戻す作業をするもんなんでしょ?わたしはそう理解してるけど。だとすれば、最初のデ-タがなんだったかなんて、分からないじゃん。なので、あのブツは結構怪しげなものではないかと思っているんだけど。。ただ、このモザイクをどうにかしたい!って思う気持ちはよく分かる(爆)

あー、でもねー、なんかさ、きょうかさんかきょうこさんは結構楽しんでやってるような気がするの。けどね、えりちゃんはディルドを付けてまりちゃんかまみちゃんと絡んでるんだけど、なんかねー、えりちゃん、楽しそうじゃないんだよね、全然。。なんかあの顔が気になってさぁ(爆)機械的にディルド付けて、それで腰動かしてるって感じ?全然気持ちよさそうじゃないの。まー、確かにディルドは付けてる側は物理的な刺激があるわけじゃないから、気持ちよくはないんだけどさ、でも、ホントは気持ちいいんだよ!その気持ちよさをどこで感じるかというと、ずばり脳内ってことで、まーねー、これってホントに好きなもの同士がやらないと、ディルド付けてる側の脳内麻薬は出てこんかも知れん。てーか、なんかいらないところで力説しているわたしめではございますが(爆)

まみちゃんか、まりちゃんもねー、ディルド体内に入れられてても気持ちよくなかったでしょ、アナタ!って感じがありありで、結局、一番楽しそうだったのは、きょうこさんかきょうかさんか知らないけど、あの人だけだったんじゃないかという。。胸の揉み方なんかもかなりエロティックだったし(笑)言葉責めも結構イケた。とか、はぁ~、、やっぱモザイクがもうちょっと小さければねえ~(はあ)っつー作品でした(爆)

あ、あと昨日買った「変態家族 兄貴の嫁さん [DVD]」も見たんだけど、こっちの方はモザイク一切ナシ、だったのね。そういう際どいシーンはなかったんで。しかし、パンティーの脱がせ方とか、パンティーの写し方、なんかはかなりエロティックで、あー、撮しようによっては、ああいうのも十分にエロティックに撮せるんだって、ちょっと感動(?)した。

というわけで、ルミエールに売ってるレズものビデオってさぁ。。あれ、場所取ってるだけで、誰も買わないのかな。誰も買わないと、いつまで経ってもビデオからDVDになんないのかしら、、って思ったり(笑)いらんお世話だけど。
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01-07 Wed , 2009
「中国の植物学者の娘たち」を観て
去年の今ごろだったか「『中国の植物学者の娘たち』という映画が公開されています、病気がよくなったら観に行かれたらどうですか」というメッセージをもらっていたのだが、残念ながら、そのときから病気がどんどんひどくなっていったので、この映画を映画館で観ることはできなかった。

しかし、去年の12月の初め頃だったか、ふとそのことを思い出し、Amazonで調べてみたら、DVDが出ているとのこと(中国の植物学者の娘たち スペシャル・エディション [DVD])。観たいと思ったので、買ってみた。映画館ではもう上映されていないみたいだったので。

物語は非常に単純なものだ。

舞台は中国。1976年の唐山地震で、父が中国人、母がロシア人という両親を亡くした、リー・ミンという女性は頼る親戚もなく、3歳のときから施設で育てられる。そしてある時、1ヶ月半という短い期間、昆林医科大学の植物園にいるチェン教授の下で実習生として働くことになる。

そのチェン教授には娘がいた。母を10歳のときに亡くし、ずっと父、チェン教授の元で父の面倒をみながら過ごしていた。名前はチェン・アンという。施設でずっと孤独を抱えながら過ごしてきたリー・ミンと狭い植物園の中で父の面倒をみてきたチェン・アンはお互い、恋に落ちる。

あるとき、人民解放軍の兵士である兄が赴任先のチベットから戻ってくる。そのときにリーを見初める、アンの兄、タン。リーはアンに「お兄さんから求婚されたけど断わった」という。アンは「兄はただの兵士で士官ではないから、規定によって妻子をチベットに連れて行けない。だから、兄と結婚したら、リーはわたし(アン)と一緒に植物園で暮らせる」と提案する。

昆林の郊外にある山の寺院(よく植物採集に行くらしい)で、たくさんの鳥がカゴの中にいるのを見て、リーがそこにいる坊さんに「これはなんのためにあるのか」と聞く。すると坊さんは「観光客のためだ。観光客の願いこめて、この鳥をカゴから放つのだ。そうすれば願いが叶う。そして願い事によって飛ばす鳥の数が違う」と。そこでアンが「二人が一生愛し合うには何羽飛ばせばいいか?」と聞く。「64羽」と答える坊さん。次にリーが「二人が一生離れないためには、何羽飛ばせばいいか」と聞く。「108羽」と坊さんが答える。

二人はその後、寺院の放生台に行き、二人で愛を誓い合い、そして湖に向かって鳥をカゴから放つ。

アンの兄と結婚することになるリー。しかし、結婚式の前日にアンとリーはお互いに貞操を誓う。

結婚式のあと、ハネムーンに出るアンの兄、タンとリー。しかしリーは不安そうでアンに「付いてきて」と頼む。タンはあきれ果てて「ハネムーンだぞ」という。列車が発車する。いつまでも列車と共に走るアン。それを止める父、チェン教授。

ハネムーン先のベッドの上で「なぜ処女ではない」とタンから責められるリー。彼はリーを散々殴った挙げ句、怒ってリーの両手を縛り、天井からぶら下げたまま、自分は赴任先のチベットに戻ってしまう。

なんとかかんとか植物園に戻ってきたリー。アンは傷つけられたリーを見て父親に怒るが、父親は自分の息子がしたことだから、と取り合わない。

それからはアンとリーの幸せな日々が続く。しかしあるとき、チェン教授がアンとリーが植物園の中の温室で抱き合っている(本当は抱き合ってないけど)のを見て、リーに向かい「この魔物め!」と言って、近くにあったスコップを振り回し殴ろうとするが、逆にアンに倒されるチェン教授。

アンとリーは裁判所で裁かれる。

裁判長がこう述べる。「チェン教授が亡くなる直前、病院のベッドで教授が警官に供述した事件の概要を読み上げる」と。すると検察官が言う。「みなさんに問いかけたい。この事件がなぜここまで社会に大きな衝撃を与え、人民の怒りを買い、政府が重要視するかを。教授が亡くなる直前に語った証言によると、教授の直接の死の要因は教授の持病の心臓病ではなく、彼の娘と息子の嫁が患った病、その病気は同性愛、である、と」

裁判官が言う。「自然の摂理に反する同性愛が発端で、植物学者である父親を死に至らしめた、チェン・アン、リー・ミン。罪は明白。法的にも、道徳的にも、社会的にもその行ないは許し難く厳罰に処す」と。

そしてリーから生まれ育った施設の院長先生のところに手紙が届く。「わたしの裁判で先生が自分について誉めてくれたことが嬉しかった。それ以外の裁判はわたしにとっては何の意味もない。ただ、わたしを裁けるのは、チェン・アンだけ、あるいはわたしたちの愛情」「院長先生、施設の庭の手入れはできそうにありません。施設は自分にとって自分の家同然。だから2つお願いがあります。一つは自分の死刑執行で使われる銃弾の費用、7元8角。それから、処刑されたあと、チェン・アンと自分の灰を一緒にして、昆林郊外の山の寺院の放生台に行き、湖に撒いて欲しい」と。

院長先生は遺灰になったリー・ミンとチェン・アンを持って、寺院の放生台に行き、二人の遺灰を混ぜ合わせ、湖に撒く。その光景を見て祈る坊さん。湖の上で、鳥になったアンとリー・ミンの笑い声が響く。

まー、こんな内容(長くなった(^^;)。

んーとねー。率直に感想を言わせてもらうと、確かにこれ、とてもきれいな映画だったの。これを映画館で観たらとてもきれいな風景もあるし、その部分は感動するだろうなと思った。けどね、話の内容が、、確かにこの二人のなんというのかな、妖艶さはそんなにエロいことはやっていないにもかかわらず、とてもエロティックなのね、なまめかしいというか。ただ、身体を重ね合わせているだけなのに、ものすごくエロティックな感じがする。そういうところはとても上手いと思う。

けどね、なんというか、、わたしにはもう一つ心の中に入ってこなかったのは、そのシーンがただ美しかっただけだからかなぁと思う。この二人、会って、ごく自然に好きになっていくんだけど、そこの描き方がちょっと物足りないというか。確かにこの二人が会う以前は二人とも孤独だった。だから、お互いに孤独を埋めるために求め合ったのは分かるんだけど、それと「恋に落ちる」はまた別問題じゃないかと。恋に落ちるというのは、なんかそこまでに至るためらいとか不安とか(それは別に同性愛がどーとか、ってんじゃなくてね)、そういうものがあったりしてもいいんじゃないかと思うんだけど、そういうのは全くなかったんだよね。

だからね、逆に言うとすんなり惹かれすぎて、物足りないの。だから、二人が一緒にいて幸せそうな顔してたり、いろいろするんだけど、そこの印象が薄いのね。

で、ここの印象が薄いのに比べて、裁判のシーンはとても重い。ちょっと裁判のシーンだけ、日本語で言われたとおりを文字起こししてみたんだけど、これがね、まともにズシンと胸に来るのね。本来だと、二人が幸せそうに愛し合っている場面とこの裁判の場面ってのは、対局の位置にあるものでしょ。そのうちの二人が幸せそうに愛し合っている場面が、わたしにとってはちょっと貧弱だったために、逆に裁判のシーンがめちゃくちゃ重くてね。で、それは単なる重みでしかなくって、それが心まで響いてこなかった。

この映画はある意味「同性愛の悲劇」を描いたものだと思うんだけど、なんというかね、「あー、なんかありがち」って感じがしたのね。でもありがちなんだけど、あまりわたしの胸には響いてこなかった。

それと同時に沸々と疑問点が。「中国って、同性愛が罪になると死刑になる国だっけ?」とか(ILGA:The International Lesbian, Gay, Bisexual, Transgender and Intersex Association のサイトにある「世界のLGBTIの権利マップ」←死ぬほど重いから、開けるのに注意。には、中国のLGBTIは日本と同じく、なんの保護もされてないし、何の罪にもならない、となっている。まぁこれはただの参考ね)、映画の中で「同性愛という病気である」と言ってるのなら、死刑じゃなくて病院送りじゃないのか、とかね。これほど社会を震撼させて、死刑になっちゃった人のね、遺灰を一緒にして湖に撒いて欲しい、なんて願いは普通だったら無視されるんじゃないか、いくら死刑囚の願いでも、それを聞き届けたら、今度は聞き届けた方の身が危ないんじゃないか、とかね。そういう疑問が湧き上がってくる訳よ、現実的な問題として。

で、もっと具体的なことまで書いちゃうと、リー・ミンは、結婚式の前日、チェン・アンに貞操を捧げているわけだけど、かといって、彼女たちはあんなところではまともにSEXなんかできなくて、せいぜいできて指入れられるくらいだろとか思うんだけど(分からない人はそのまま分からないでいいです(爆))、ハネムーンで夫から「なぜ処女じゃない!」って責められたのは、きっとその前に貞操を捧げたからだと観客には思わせたいんだろうなと思うんだけどね。えーと、別に処女が初めてSEXしたとて、全員が全員出血するわけじゃないしね、その前に指入れられて処女じゃなくなったとしてても(意味が分からなくてもいいです(笑))、そのために次に男とSEXしたときに、処女であるかないかなんて分からんじゃないの、って思ったりする(笑)要するに何が言いたいかというと「不自然」の一言が言いたいわけで(爆)なんだかなあ~、、ちょっと古くさい観念だよね、って思うのね。

ちなみにこのDVDにこの映画のメイキングの場面が40分くらいくっついてるんだけど、これ見たらね、どうもテーマがテーマだったので、中国本土では撮影許可が下りなかったらしい。なんで、すべてあれはベトナムで撮影したそうだ。で、監督は中国人なんだけど、両親が医者だったらしく、文革のとき17歳から3年ほど再教育を受けさせられて、その後、政府給費留学生としてパリに渡ったらしい。

その監督は、メイキングでこのようなことを言っていた。

「これは激しい同性愛の物語ではない。若い二人の女性があるとき、不意に愛を求めてしまうんだ。それが物語の本質で、脚本を書くときに一番苦労した部分だ」

。。。確かに「不意」過ぎて、わたしにはよく分からなかったっす(苦笑)そして、激しいものではなかったので、わたしにはちょっと物足りなかったのだろう。これは作る側とわたしの受け取る側が不一致だったのよね。だから、作る側はおそらくそれで十分だと思って作ったのだろう。

「自由のために作ったとは言わない。中国人の考え方を改めようなんて野心もない。第一、わたしは政治的なことを言う人々は信じない。彼らが真摯でもね。政治は権力に結びつくものだからだ。権力は腐敗しやすい。少なくともわたしの映画やわたしの書くものは権力を持つための手段ではない。わたしは単に個人的な探求をしている。あるいは個人の自由を探求している」

多分、この監督のこの発言は、監督自身がいろいろ背負わされてきたものによって、このように言わせているんだろうな、と思ったりする。いや、それならそれで別にいいのだ。この作品で声高に「同性愛は異常な愛ではない」と叫ぶために作ったわけではなく、ただ、あのような女性二人が自然に恋に落ち、そして国家によって理不尽な殺され方をしたけれども、最終的には彼女らの願いは叶えられ、二人一緒になって、永遠に生き続けるのだ、とそういうことを描きたかったのだろうと思う。この話に政治的なメッセージなどはないと思う。

だけどね。わたしとしてはその方法として「同性愛」を使って欲しくはなかったんだけどな(笑)

でね、DVDのジャケットにも「見つめあうほどに、ふたりの愛は濡れてゆく。禁断の同性愛を描く究極のエロティック・ラブストーリー!」って書いてあるんだけど、はいはい。ホント、その通りですよ。。もうこの言葉、使い古されて擦り切れるくらいに古いけどね。しかしこれを見ると、やっぱり「その通りですね」としか言いようがない。。

ただね、チェン・アンをやった人は中国人で、この役を引き受けると言ったら「勇敢だ」と言われたらしい。もっとも本人はその言葉を聞くまで問題だとは思っていなかったらしいが。そして、もう片方のリー・ミン役をやった人、この人は中国人とフランス人を両親に持つ人みたいなんだけど、どうやらこの役は本当は中国人がやる予定だったらしいのだ。それがその役に決まった人は中国政府の「忠告」により、出演を止めてしまったので、この人がやることになったらしい。で、脚本も急遽書き換えられたそうだ。で、この人はメイキングで言ってる。

「メッセージ性のある映画に出られてよかったわ。自国でタブーの愛もよそなら認められる。今は無理でも3~4年後には中国でも受け入れられる」ってね。

わたしはこの映画は決してメッセージ性があるとは思わないが。。しかし、彼女の言っていることはある意味本当で、この映画が撮影されたのは2005年3月だが、それから約3年が経とうとしている。中国では今「華人レズビアン連盟」が設立されただとか「親の会」もできたとか、いろいろな動きもあるらしい。時代は少しずつでも動いている、と感じる。

結局、映画についてはめちゃくちゃなことを書いたけど、おそらく、全般的に言えるのは、わたしにはこの映画はちょっと合わなかったかな、ってこと。おそらく監督としては十分に描ききったと思っているだろうけど、わたしにはちょっと物足りなかった。その物足りなさの分、メッセージを感じることはできなかったが、しかし監督は別にメッセージ性はこの映画には持たせた気はないのだろうから、それはある意味正しい見方をしたのかな、という気持ちがしている。

んー、わたし個人的には、メッセージを含ませた映画を観るのが好きなんだけどね。ただ「美しい」とか「悲しい」だけでは、物足りないのだ。それは本当に個人の好みだから仕方ないのだけれど。

しかし、全く激しいエロいシーンはないのだが、官能的なあやしいエロティックさは十分に感じられる作品で、そこはよかったかな、と思う。音楽も場面に合った艶めかしさがあったし。
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12-26 Fri , 2008
衝撃告白 「わたしは同性愛者です 同性を愛する自分に何の疑問もありません」
あ、日記の題名は、あるレズエロDVDのパクリです(笑)
てーか、こんな類の題名のレズエロDVDがあるのねー、、ってちょっとびっくり。

事の発端。最近、Amazonで、レズエロDVDを買ったんだけど、それが超はずれでさぁ。。だから昨日、「なんかわたしが見て納得できるエロDVDないわけぇ~?」って思って、あれこれ検索して見まくってたのだ。

レズものDVDってすんごいあるのね~。びっくりした。で、ああいうのって「内容はだいたいこんなのですよ~」ってことが分かるように、パッケージだのそれから、中身から数枚の画像が貼られてるんだけど、うー、、例えばこの日記の題名にすんごくよく似た作品、あれ、絶対に本物のレズビアンじゃないだろー!と本物のレズビアンが言っておりました(てか、自分だろ、それ)。

つか、衝撃告白かはともかくとして、この題名自体には全く異論はないんですけどねー。っていうか、これを世間一般の異性愛に当てはめると「衝撃告白『わたしは異性愛者です 異性を愛する自分に何の疑問もありません』」ってことになって、これ、衝撃告白どころかただの「戯れ言」で、あまりに普通すぎてなんも面白くないでしょ(笑)要するに、わたしにとってもこの題名は、なんも面白くないの、自分にとって当たり前すぎるから。でもね、この題名って、割とシンポテキではあるのよ。本物のレズビアンはおそらくほとんどの人がそう思ってるだろうし。だからね、この題名に「衝撃告白」という、なんつーかな、「みなさーん、世の中にはこう思ってる人もいるんですよー」みたいな表現?、これがなけりゃ、わたしホントに「いやあ、なんてシンポテキな題名なんだろう」と感動して、もしかしたらこのDVD買っちゃったかも知れないですってのは、全くのウソで(爆)

てのは、ここに出てくる「自称レズビアン」(かも知れない)の人は、わたしは上にも書いたとおり、本物のレズビアンとは思えないのよねー。まーだから「衝撃告白」って付いてた方がウソっぽくていいのかも知れない、と思っちゃった(笑)

それはですねー、やっぱ「レズビアンのSEX」=「貝合わせ」って思ってるだろ、とか「うなぎ連結」してるシーンがあったんですねー(笑)しかも、エロDVD売ってるところと提携しているオモチャ屋にある「レズビアン用エログッズ」も同時に見たんだけど、もしかして、世間の人たちに「レズビアン=双頭ディルド」って思われてる??正直、あれを見てですね、わたし自身は「あれ、なんでうなぎが売ってるの?」と思いましたよ(笑)そう、あれ、レズビアンが使うというよりむしろゲイが使うんでないの??と。ゲイのエロDVDの紹介にもあのシーン、よく載ってるんですけど(笑)当然、あれは2人だけじゃ使えんわなー。すんごい難しいと思うもん、2人だけで使おうと思うと。それに、あれ、使ってもあんまり気持ちよくなるとは思えないのよね。。あ、これ、本物のレズビアンのうちの一人の単なる感想ですけど(爆)えーと、ゲイもののうなぎ連結シーンはね、必ず複数人いることになってて、そっちの方が現実としては当たってると思う。レズエロDVDの画像では、2人しかいなかったので。。だからとてもうそっぽい。とまぁそういうわけで(笑)

ただ、他のヤツもちょっと見たんだけど、なんかねー、見てるうちに「これ、出てくる女がすべて男だったら、即これはゲイエロDVDになるだろ」って画像が多くて。。だいたい、電マとか使われてるし、複数の人が絡んでるし、まるでわたしはBadi(ゲイ雑誌です)のゲイエロDVDの紹介ページを見ているのかと錯覚してしまったほどだ。それほど、すんごい構図とかが似てる!

ってことはね、所詮、エロDVDってほとんどの作品の監督が男性だと思われるのね。ま、女性の監督がいるのももちろん知ってるけど。でもそれはものすごく数が少ないよね。ほとんど「例外」って言えるほどだよね。でさぁ、男が作るエロDVDって、別にノンケものであろうが、ゲイものであろうが、あんまり変わらないんじゃないかと。そう、これは想像なんだけどね、結局「男のセックスファンタジーって、ヘテロもゲイも変わらないんじゃないだろうか」ってーのが、わたしの昨日、レズエロDVDのコーナーを目を皿のようにして(?)見回った結果なのだ。で、わたしが探している(あ、内容は具体的には言わないけど(笑))内容ってのは、ないね、パッと見では。うーん、物語としてはとても単純なものなんだけど、なんでないのかなあ~?これって男のセックスファンタジーとわたしのセックスファンタジーが違うってことなのかなあ?って少し思ったわけで。

まー、まだまだたくさんレズものエロDVDがあるから、探してみようとは思ってるけどさ。←懲りないわたし

しかし、昨日見て笑ったのは「Lの世界」っつー題のレズものDVDね。これって絶対に「the L word」(邦題は「Lの世界」)のパクリだよね(爆)しかもこの「Lの新世界」はパート3まで出てるらしい!「the L word」なんか、まだシーズン5(ただしアメリカでね。日本ではまだシーズン4)までしかいってないのに!(って比較すんなって(^^;)いやー、なんかすごく商魂たくましいというかなんというか。まー、勘違いして借りる人はいないと思うけどね。

テーマ:同性愛 - ジャンル:日記

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07-24 Thu , 2008
「後悔なんてしない」を観て後悔した
第17回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で、バルト9のレイトショーに先がけてやった「後悔なんかしない」を観に行った。映画祭ではゲストが来たからか、満席だったそうだけど。。

観て、思いっきり後悔した。つまらん映画だった。
施設かなんかで育ったウリ専バーで働く主人公と、大会社の御曹司の恋愛ものなんだけど、なんだよ、あれ。って感じ。まず、御曹司が主人公に一目惚れしたのは分かる。けど、主人公が御曹司に惹かれる過程がよく分からないのだ。というか、向こうも一目惚れだったのかも知れないけど、そこのところがくみ取れなかったんだよね、わたし。

で、「身分違いの恋」だから、関わり合いたくなくて逃げる主人公と、それを追いかける御曹司。

わたしは、それを見ながらある、実在するカップルのことを思い出さずにはいられなかった。まぁ詳しいことは書かないけど、それとどうしても比べてしまう。比べると、映画のストーリーが「作り物」っぽく思えてくるっていうか、実際には作り物の話なんだけどさ。

そうするとね、ストーリーが甘ったるい砂糖を掛けたような話に思えてくるのね。

これ、韓国で大ヒットしたっていうんだけど、一体どこがよかったのか、わたしにはさっぱり分からなかった。

やっぱりわたしはドキュメンタリー向きの人間かも知れない。
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07-21 Mon , 2008
五度、第17回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭に行ってきた
もう、結構ヘトヘトです(苦笑)
映画祭は今日までですけど、わたしの映画祭は昨日で終わりました。
昨日観たのは、17日に一回観て、もう一度、どうしても観たかった「フリーヘルド」(同時上映「不思議の国の女たち」)、それと「パートナー法は突然に」の2つ。

「フリーヘルド/不思議の国の女たち」は、この順番で上映されるのかと思いきや、逆だった。最初「不思議の国の女たち」をやったんだけど、、すんごかった、この映画。フランス人が撮った映画なんだけどね、英語のタイトルは「A Lez in Wonderland」。なんかこれだけでも「え、なんなの?」って思わせるタイトルじゃん!

要はね、フランスのレズビアンがアメリカのパームスプリングスってところに行く話。多分、このパームスプリングスって「the L word」にも出てきた話だと思う。何月かよく知らないけど、あるホテルで5日間、レズビアンばっかりが集まって、日中はプールで、夜はパーティーが行なわれる。始まったのは'90年だそうだが、そのときはたったの1日で参加者も500人だけだったらしい。が、今や5日間、なんと1万人もののレズビアン(バイセクシャル女性も含まれてるだろう)が集まって、やりまくりの人はやりまくりらしい(笑)

もー、世界各国から(といっても、やっぱアメリカが主で、あとは周辺国、イギリスから来た、ってことで、アジア系の人はそこには全く写ってなかった。いないのか、いても取材対象にはならなかったのかよく分からないけど。。やっぱり「言葉の壁」は大きいと思うんだよな)集まったレズビアン。「おっぱい大好き」と言い、最後まで「おっぱい、おっぱい」と言い続けるおっぱい星人の人もいたし、「母親にカミングアウトしたの。そうしたら、なんと母親も同性愛者だったの!わたしはカミングアウトするまでに6ヶ月間悩んだけど、母はやっぱり結婚してるからかずっと悩んでたみたい。友人って言ってた○○(わたしが外国人の名前を1度で覚えているはずはない(苦笑)は、実は、母親の恋人だったの!!」って信じらんない話とか、プールではもうあらゆる女たちがビキニで、そこはまさに「天国」。プールサイドでは「コンテスト」が行なわれ、誰が選ばれるか、、なんてホントはどうでもいいそうだ(笑)カメラに向かっておっぱい丸出し~!の人もいたし、うわっ、アガルってのはまさにこのことなのか(笑)

パーティーはみんななまめかしい格好して踊ってる人あり、キスしまくってる人あり、、全部、女、女、女の世界。この映画の音響さんだけ、異性愛者だったらしいんだけど、彼女、人気者で他の人に声かけられまくり。いつの間にかどこかに行っちゃってる(笑)で、4人の人とキスをして「もしかすると彼女は同性愛者なのでしょうか。キスをした4人が彼女を判定します」とのナレーションが。音響さん自体は「わたしは異性愛者よ。女の人とキスしても男の人とするのと同じだったわ」とのこと。残念ながら、キスをした4人のレズビアンたちは「あなたは異性愛者よ」って判断を下した(笑)

このパーティー(ってんだろうか)は、市に大幅な利益をもたらすってんで、市から表彰されていた。そう、ゲイだけでなく、レズビアンも本当は「マネーパワー」を持っていることが最近分かってきたらしい。経済的に力を持つってことは、実は社会にもその存在を知られるわけで、周りが無視できなくなる。「ゲイマネー」はとっくの昔に有名だが、レズビアンも同じだという。ただここら辺は日本の状況とはちょっと掛け離れてるのかな、って感じはしたが、ただ、日本のレズビアンたちだって、貧乏な人から金持ちから、いっぱいいるからね~。一概には言えない。

で「本当にこのパーティーではSEXしまくりなんでしょうか」というナレーションが入り「あなたは何人とやったの?」ってインタビュー。「100人」って答える人もいたし「30人かな」って答える人もいたし、しかしこの短い間で100人もの相手をするってどんな体力やねん!ただその中にはかわいそうに「今までたった1人しかキスしてないの。しかもその相手は嫌そうだった。。」って(笑)中には売れない人もいるらしい。「SEXした人との電話番号の交換は?」って聞くと「そんな、顔も名前も聞かないわよ!」ってことで、やっぱやりまくりの世界らしい。。じゅるる。。。

そこにはたくさんの出店(?)も出てて、例えば女性の性器のグッズを専門に取り扱ってるところ(女性器をかたどった帽子とかね、あとは「I love VAGINA」って胸のところに大きく書かれたTシャツとかね。。)なんかすごい店だったわ。あとはいわゆる「大人のオモチャ」の店ね。店の人は「異性愛者より、同性愛者(レズビアン)の方がSEX Toyに対する偏見が少ないみたい。異性愛者はこういうものを使うとすぐに『変態』って思われちゃうのよね」だって。まー、異性愛者のことはよく分かんないけど(笑)、使うとまた別の気持ちよさがあるのよね~(ってこれだと使ってるって言ってることじゃん!(爆))使わないのはまた別の気持ちよさがあって、使うとそれとはまた別の気持ちよさがあって、それでいいじゃん?要はSEXなんて相手との身体のコミュニケーションなんだからさ。人によってもどこが気持ちがいいかが違うだろうし、そういうのはね、やる相手と徹底的に話し合うべきだと思うのよね(となんでわたしがこんなとこで力説せんといかんのか(苦笑))

ただ、実際、わたしがこういうところに行くと、ヘタレなので「うえーん、怖いよー。女ばっかで(;_;)」ってなるんだろうな。。だいたい、日本のクラブイベントでさえ場違いと感じてるし、多分、こういうところに行ったら、ずっとずっと彼女にへばりつきで「怖いよ怖いよ~(;_;)」って言ってるに違いない(笑)しかし、そこにはレズビアンのエロビデオ(かDVD)が売ってるみたいで、思わず「あれ、買いに行きたい。。」って思ったのでした(笑)

まー、話の筋などまったくなく、そのパームスプリングスの様子をそのまま撮った映画、って感じで「こう言うのもあるんだ。行ってみたいけど怖い(;_;)」と思った次第。でもこん中にも多分、日本人がちょっとはいるんだような~。日本から行くんじゃなくて、現地に住んでる日本人とかさ。

そして2回目の「フリーヘルド」。映画の中でたくさん「正義」という言葉が出てくる。それは一体なんなんだろう、と思いつつ、今度はじっくり観た。

肺ガンで余命1年もないと申告されたローレルは、「警察官」として「正義のために働いてきた」。そして、今度はその「正義」を自分の愛する女性のために勝ち取りたい、と彼女は言う。どうやら「裏で手を回して」年金を受給される、という方法もなきにしもあらずだったらしい。が、彼女は正々堂々と公の場で命をかけて「正義を勝ち取ろう」とする。この「正義」とは、アメリカ合衆国の国民にとっては「自由」と同じくらい大切なものらしい、というか、公聴会が開かれるときにみんなが宣誓するんだけど、その中にも確かに「正義」って言葉が入ってるんだよ。

日本では「正義」っていうと「正義の味方」くらいしか思いつかないけど、アメリカ国民って確か「国旗」の元で「自由」や「正義」を誓うんだよね?違ったっけ。だから「国のために正義を」というのは、多分、アメリカ人にとっては本能?みたいな感覚なんだろう。そして「なにが正義か」というのは人それぞれあって、保守にもあるし、リベラルにもある。それぞれの考え方は違っていてもね。で、その「正義」がその人の「信念」となって、そしてその人を行動させるのだろう。日本とはね、そこのところが全然違うんだな、と思う。日本で「正義のために」とか言ったら「お前、バカか」と言われるのがオチだもんね。「何を偉そうに」とか「お前が一番偉いのか」とか言われそうだよね。ここら辺の国民の感覚がもう全く違うんだな、と。

彼女の支援者も「力を正義のために使って欲しい」と郡の財務委員に言う。「決断するのは郡の財務委員なのだ」と。その「力」を使わないことは財務委員の「怠慢」だという。日本語では「正義のために決断を」と訳されていたが、実際の英語では「You have the powor.」と言われていた。要するに「あなたたち(郡の財務委員の人たち)には力を使うことができる」ってことなんだ。それだけの「権力」を持っている、ということなんだ。

そして前の日記にもちょこっと書いたけど、同僚の「今まで保守党しか投票してこなかった」という警察官の言葉をもう一度、聞いてきた。彼は今まで「社会的権利なんてことは興味がなかった。もちろん、同性愛者の権利もね。でも、自分は彼女の『深い愛の姿、そして苦しんでいる姿』をみて心を動かされた」と。

支援者は次々と言う。「わたしは結婚して20年経つ。自分が死んだら妻に遺族年金が支給される。なのにパートナーが同性だと言うだけで、ローレルにはその権利はない。それはおかしいのではないのか」と。「同性愛者も異性愛者と同じように相手を想う気持ちは同じだ。ローレルがもし今、男性と結婚するならば、その男性には自動的に遺族年金が支給される。でも同性であるステイシーにはその権利はない。これは明らかに差別だ」と。

郡の財務委員の言い分は「組合の契約の問題」と「婚姻の神聖を汚す」とのこと。特に一人が頑なに「同性愛はモラルの問題だ。自分は個人を攻撃しているのではない」と言い張る。しかし、その見解は「財務委員」としてではなく、あくまでも「個人の見解」と言うことだったようだ。

このあとはもう何度も書かない。ただ、わたしは前回は涙することはなかったが、今回は一人で観たからか、残り少ないローレルとステイシーの姿を観たときに思わず泣いた。彼女たちが二人ともバリカンで頭を刈ったときに、ベッドに座ったローレルとステイシーが「5年前に出会ったときもこんな髪型してたわよね」と言い「この髪型、好きよ」と言って二人抱き合う。彼女たちは一体、そのとき何を思っていたんだろう。脳にガンが転移して、みるみる間に姿を変えていくローレル。ホント、観ている方はつらいんだけど、何も変わらないで普通通り接するステイシー。その生活を淡々とカメラは追う。日本ではすぐに「献身的な介護」とか言いたがるだろうけど、そんな感じはしないんだ、これ。

最後、カウンセラーがローレルに問う。ローレルは「いつ死ぬか分からないから怖い」と言う。そして「一番大切なものは?」と聞かれ「ステイシー」と答える彼女。彼女はおそらく死を宣告されて、それから自分のパートナーのために必死に戦ってきたのだろう。彼女を守るために。それだけのために戦ってきたのだろう。愛するものを守る強さ、25年(24年とも言ってる人がいたんだけど)、ずっと人々を「守ってきた」警察官が最後に守ろうとしたのは、愛する人だった。その強さが彼女のために発揮されたとも言えるだろう。それが同僚や人々の心を動かし、そしてついに郡の財務委員も「決断」する。ただ一人を除いてね。彼はその臨時の緊急会議に「欠席する」という行動によって自分の意志を貫いたとも言える。が、結局は表に出てこない分、彼は負けたのだ。彼の中ではまだ「婚姻は神聖なものであり、同性カップルの保障を認めることはそれを汚す」ことなんだろう。そういえば最近でもあったよな、日本でさ。こないだ「芥川賞」を取ったのは中国人作家だったけど、その選考会に出てこなかったヤツが約1名いたじゃないか。彼は以前「三国人発言」などでいろいろ物議を醸し出した人物だ。そういう輩がいるのは、アメリカでも日本でも同じらしい(苦笑)もっとも、その彼はアメリカも嫌いらしいけどな。

そして、最後。彼女の死の9ヶ月後に州の裁判所で同性カップルの遺族年金受給の適用が決定された。が、前に10万組って書いたけど、100万組だった。。アメリカにいる100万組と言われている同性カップルにはまだこの権利がない、ということだった。

しかし残された彼女はまだ若そうだったが、彼女はこれからどうやって生きていくんだろうな、って思った。彼女と買った二人の家に住み続けたい、と言っていたが、これからあの家で一人(とあと犬がいた)で住み続けるんだろうか。。

その後、トークショーが行なわれた。尾辻さんが出てくるのは知っていたが、もう一人、山下弁護士という人も呼ばれていた。

で、尾辻さんとのトークを聞いてたんだけど、日本自体はアメリカとは年金制度が全く違うんで、例えば映画の中にローレルが男性と結婚すると、その男性に遺族年金が支払われるということだったが、日本では妻が死んでも夫には遺族年金が支払われないらしい(ただし、年齢制限があったんだけど、何歳か忘れた)。夫が死んだら妻には遺族年金が支払われるが、妻が死んでも夫には遺族年金は支払われない。この場合、もしその夫が「主夫」で妻が働いていたらどうなるんだろう、と思うんだけど、そこら辺のところはよく分かんないんだけどね。詳しくは言ってなかったんで。

それから法律を作れば、それに越したことはないんだけれど、そうではなく、裁判で争うという方法もある、という説明。それによると同性カップルが裁判を起こした、という事例はまだ聞いたことがないそうだが、今年の何月かに最高裁で「叔父と姪のカップル」(日本では叔父と姪は結婚できない)の遺産相続だったか、その辺は忘れたけど、争われて、勝訴したそうだ。この場合、周囲(親戚や近所の人たち)は彼らを「結婚している状態」と認めていた、とか、そういう「証拠」が必要だってことで、もしかすると同性カップルの場合でもこういう判例が出たというので、争ったらどうなるか分からないよってことだが、、でもさ、考えてみるにいくら「結婚できない叔父と姪」であっても男女であることには変わらず。それだったら周囲にも言いやすいだろうよ。けど、同性カップルの場合は、まだまだ「わたしたち、同性カップルなんです」と両親には言えても、親戚には言う必要があるか?とか近所に言ったら近所の噂の種にならないか?とか、そういう恐れは十分に考えられるよね。わたしだって、結構おおっぴらにはしてるけど、例えば階下のおばちゃんとかそういう人には言ってないもん。だからね、これは難しい問題だと思ったよ。

それに、裁判を起こしたら、当然世間の注目の的になる、今はね、多分。それに耐えられるのか?って問題もあるよね。ただ、一つ聞いたのは、これから弁護士や行政書士で「当事者やフレンドリーな人たちのネットワーク」を作ろうとしている、ってことだった。それだと最初から「カミングアウトの壁」は低いので相談しやすいだろう。そういうところには注目しておきたい。

で、最後の最後。「パートナー法は突然に」。これは2006年の冬にイタリアの政権が左派に変わったということで急遽出てきた「パートナー法(DICOと言うらしい)」。これをめぐってのドキュメンタリー。撮った二人は二人ともジャーナリストなんだけど、彼らはすごい。もう、ホモフォビチックな言葉が人々から次々に出てくる。バチカン市国を持つ(って言うんだろうか)イタリアは、法王の発言力がすごく強くて、保守的な人たちはみんなそれを信じ切っている。ちなみに保守派の人が言う言葉はすべて同じなんだ。「同性愛は不自然」「家族は男と女と子供」「同性愛者がいるのは分かっているけど、彼らは病気。だから治さないといけないかわいそうな人たち」「同性愛者に異性愛者と同じ権利を持たせれば、次は10人とカップルになれる権利や犬と住む権利を求められる(なんだよ、これ)」「同性愛者に子供ができたら?それは子供を引き離さなければならない。同性カップルに育てられる子供は精神的な苦痛を負う。子供は父親と母親が必要だ」

もー、すごいすごい。聞いててこっちが気分が悪くなってきた。現に途中でどちらか一方が「もう嫌だ」と言い始める。そりゃそうだよね。その言葉を目の前で聞くんだもん。で「僕たちは8年間付き合ってる同性カップルです。僕たちは愛し合っています。それでも家族じゃないんですか?」というと「それは間違った姿だ」と言われる。途中、シスター2人組に「DICO」のことを聞いたら「そのことを考えることだけでも禁止すべき」って、まぁすごいホモフォビアな発言。けど、二人は仲よさそうに去っていって、その後ろ姿はまさに「レズビアンカップル」そのものに見える(爆)

で、保守派が「ファミリーデー」として「従来の家族の姿はこれ」というパレード(?)をやるんだけど、これにも二人のうちの一人が「行きたくない」って言う。それでも行くところがすごいと思う。言われることは上に同じ。ホント、同じことしか言わないのだ。「同性愛は不自然」「家族とは男と女と子供」ってね。で、同性愛者には権利なんかいらない。一緒に住むのは個人の勝手だけど、なんてことを言う。

二人は国会(?)へもカメラを向ける。議員の言い分を聞くためだ。委員会でどんな発言がされたか、聞くが「みなが意見を言っただけ」と言われ、ほとんど何の進展もない。その中でこの法案を提出した議員の話とこの法案に大反対の議員の話を聞く。テレビでもこの話題で持ちきり。

わたしさぁ、こんな状況だったら耐えられない、って思ったよ、本当。多分、物事が動く際にはこういった摩擦があるのだろうけれど、その中にいるものは賛成の意見はまぁいいが、反対のあのホモフォビチックな発言を何度も何度も何度も何度も聞かされなくちゃいけなくて、普通に生活しているだけでも気が狂いそうになると思う。

その後いつだったっけな、ゲイのプライドパレードが行なわれて、、、なんと参加者100万人!レインボーフラッグがはためくのを見るとね、なんとなく安心するんだよね。。今まで映像の中の人はみんな「敵」だった。でもここのいるのはみんな「味方」なんだってね。彼らもとても嬉しそう。「自然」なカップル。「自然」にキスして、「自然」に腰に手を回して、、なんでこれが「不自然」なんだろう?なんで異性愛者と同性愛者(もちろん、カップルはそれだけではないが)が共存できないんだろう?ホモフォビアな異性愛者は一体何を怖れているんだろう?わたしたちはあなたたちと同じ権利が欲しい、それだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。同性愛者の権利を認めると、同性愛が強要されるとでも?同性愛者が増えるとでも?そんなこと、するわけないじゃないか。自分たちが「異性愛者であること」を無言で(有言だったりもするが)強要されている人間が、そのようなことをするわけがない。強要される苦しさを一番知っているのは、強要されていた人間だ。みんな「自分の本来の姿のまま」で生きていきたいだけなんだ。そして「自分本来の姿のまま」で生きている、異性愛者が持っている権利を同じだけ欲しい。ただそれだけだ。

ただ、イタリアはバチカンの力が強大なので、同じカトリック国でも同性婚が認められたスペインのようにはならないのだろう。法王が「同性愛は不自然」という限り、悲しいかな、同性愛者の権利は認められないのだろう。

で、結局この法案は否決されて、パートナーシップ法は成立しなかったんだけど。
でも彼らは「DICO」という名前のスーパーマーケット(そういうのがあるの??イタリアには)で結婚式を挙げ、そしてこう言うのだ。

2030年にはローマ法王が同性愛者に対して謝罪する、とね。

正直、この映画、もっと気楽なものかと思ったら、結構ヘビーで、ちょっと疲れた。
最後はもうちょっと気楽なもので終わりたかったかな。

ってわけで、今年は何本見たんだろう?多分、スパイラルパスをギリギリ買わずに済む、ってほど観たかな。つーか、今日、映画祭に行かないのは、これ以上行ったら、結局「スパイラルパス」を買った方が得だった、というのが分かって、それがシャクだからなのよ!(笑)

映画祭のロビーでお会いした人、一緒に映画観た人、あと関係者さん、お疲れさまでしたー!

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07-20 Sun , 2008
四度、第17回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭に行ってきた
はい。今日(既に昨日)が4度目の東京国際レズビアン&ゲイ映画祭でした。
今日は最初から続けざま3本。「ヒストリー・オブ・ゲイシネマ」、「ガールズ短編集」、そして「バルト9」で一回観たけど、途中、字幕が乱れてわけ分からなくなってしまった「彷徨える花たち」。

朝、11時ちょっと前にスパイラルホールに昨日と同様に行ったら、ホール前には既に列ができていた(汗)やはり、昨日は平日だったからなあ~。あと、1本目の上映時間も昨日よりだいぶ早かったしね。でも取り敢えず「ヒストリー・オブ・ゲイシネマ」は20番台を「ガールズ短編集」は10番台を確保。それから「彷徨える花たち」も20番台。っていうか、バルト9での話だと「優先的に入れてくれる」って言うから、パスより優先して入れてくれるのかと思ったら、全然違って、バルト9の半券と引き換えにチケットをくれて、整理番号を付けられただけだった。その時点で整理番号が20番台だったので、ちょっとびっくり。同じ時にもらった「ガールズ短編集」の整理番号は10番台だったからね。

「ヒストリー・オブ・ゲイシネマ」はねー、あそこに出てくる人、全く知らなかった(爆)知ってた名前は「デレク・ジャーマン」くらい?で、出てきた映画で観た映画は多分、1つもなし。「Go Fish」(レズビアン映画)は名前だけは知っているけど、んで、観る機会もあったんだけど、結局観なかったし、あの有名な「ブロークバック・マウンテン」さえわたしは観たことないし、「アナザー・カントリー」も名前だけ知ってるだけだ(苦笑)、よく考えたらねー、わたし、同性愛者が出てくる映画で一番好きなのは「苺とチョコレート」だし、その他で好きな映画は「The Sound of Music」とか「となりのトトロ」とか「櫻の園」、「Shall we ダンス?」なんかで、ホント、一般的な映画。その代わり、何回観たかよく覚えてないほど観ている。好きなのは持ってるからさ、もうビデオとかDVDとか。だからホントは映画に関しては、わたしの好みってホント、狭くて、そんですげー深いんだ。

だけど一応「テルマ&ルイーズ」とか「グリーン・フライド・ポテト」とか「バウンド」、「ロングタイム・コンパニオン」「トーチソング・トリロジー」とか観てて知ってるけどさー、あれって当事者が作った映画じゃないのかな?わたしは別に当事者かそうでないかなんかは全然考えたこともなかったんでね。そういうのは一つも出てこなかったなぁ~。

だもんで、誰が何を言ったかははっきりいってよく覚えていない。けど、言えるのは「当事者自身がいろいろな考えを持っている」ってこと。「社会的、政治的な映画を作らなければならない」って意見もあり「スペクタクル大巨編、みたいな普通の映画を作ればいい」って意見もあったし「演じる人はカミングアウトすべきじゃない。そうじゃないとヘテロの役が作り物っぽく見えてしまうから」とかもうそれぞれ。でもさぁ、その意見はちょっとおかしいんじゃないかと。だって、それこそゲイ映画に出てくる人がすべてゲイじゃないように、そしてゲイの「マネ」を勉強して演じているわけでしょ。ヘテロ映画にだって別にゲイがヘテロを演じたっていいわけじゃん。でもね、この人の言いたいことも分かるの。ゲイってカミングアウトした人がヘテロを演じたら、やっぱ心のどこかで「この人ゲイなのに」って思うと思うの。でもこれってすごく変だよね?ヘテロの場合は思わないのに、ゲイだとそう思ってしまうんじゃないかって言う自分がいる。それはすごくおかしい。でも、なんで自分がそう思うのかはよく分からないんだよ。やっぱ「少数者」だから?慣れてないだけ?ちょっとそこは自分でも疑問なんだ。

ただ、ゲイシネマの歴史としては、これはホント、狭義の「ゲイ(男性同性愛者)」の映画なんだけど、それによって一定の社会的な影響力を持っていたのは確からしい。ただそれが言えるのは、アメリカとヨーロッパのみ。「アジアとアフリカは何の動きもない」ってその中で明言されていたことが、すごく記憶に残っている。でもそういう意味では、確かに日本では「社会的な映画」って作られてないし、また、作ったとしても、あまり人目に付かないところで上映されそうでさ(苦笑)一般的な映画もそうだよね。まぁ映画については、本当によく知らないんだけれど。で、この中で「映画で社会を変えることができる」って言ってた人がいたけど、日本に関してはそれはなんとなく当てはまりそうにない。だって日本人って「権利」とか「人権」とかはっきりいってあんまり考えてないというか、考えたくないみたいなんだもん。だから、日本に関しては、別の方法を考えなくちゃならないんじゃないかなあとわたしは思っててさ。

でもね、わたし、これ観ててさ、逆に「同性愛者であること」が売り物でなくなる日がやってくるのか、とか、なんで自分が生きてる限り「(性的にね)少数者である」んだろうとか、なんだかそんなことが頭の中をぐるぐる駆けめぐってた。今、自分の生きてる生活は、自分にとって当たり前のことなのに、とかね。なんか自分が生きてる限り、社会的な存在になりうるのかと思うと、ちょっとウンザリ感じたのは事実。でも、人間なんて、みんな一人一人境遇が違うわけで、例えば異性愛者だって、みんな同じようなカップルじゃないと思うし、同じような生活をしているわけじゃないのに、なんで「一括り」にされるんだろうね。で、わたしらのような人間が入って初めて「多様性」になる、なんてちょっとおかしいんじゃないか、なんてことも思ってた。まぁこの映画祭自体が「レズビアン&ゲイ」だから仕方ないんだけど、この日本だって、全然「単一民族」でもなければ、みんな同様の暮らしをしているわけでもない。だから、みんな一人一人を見れば、それぞれみんな「多様性」を持ってるはずなんだけど、なんだか日本人って「みんなと同じ」って思ってるんだよね。最近は「格差社会」がひどくなって、そういう「幻想」もなくなりつつあると思うけど、でもこれって、悪い方向に行ってるって証拠で、決して多様性が認められたってわけじゃない。

なんかね、この映画を観ててそう思ったね。んで、やっぱり「レズビアン」についてはほんのちょっとだけしか取り上げられてなかったし、「トランス」もそうね。「トランスアメリカ」だけだった、取り上げられていたのは。そういうところでも「格差社会」ってのがあるんだよなあ~ってつくづく思った。もちろん、この映画を作った人の人脈とかも関係があるとは思うけど。

で、ゲイ映画が「社会的なもの」も含んでいる一方、レズビアンものはひたすら「日常的」なものを作ろうとしてるのね。それは、いわゆる「レズビアンもの」=「ポルノ(それも男性異性愛者向けに作られた)」って構図ができあがっちゃってるから。「そうじゃない、わたしたちの日常はこうなの」ってところから始めないといけないわけね、レズビアンは。でもさ、レズビアンであるわたしにしては、それは面白くないわけ。だって、レズビアンの日常なんて、自分の日常と同じなんだもの。そんなもん観てもちっとも面白くないじゃん。昨日観た「ボーイズ短編集」の「やりまくり映画」みたいなもんを作ってくれーって思うんだけど、作る方は極力それを避けてるような気がするのね。だから、ゲイ映画は平気で露骨なSEXシーンを普通の映画の中に入れちゃってるけど、レズビアンの映画って、キスだけか、よくいっても胸触るくらい?なんだよ。でも「わたしたちの日常」を描くんだったら、やっぱSEXシーンだって必要だとわたしは思うよ。それにレズビアンのSEXって多分、人それぞれ。異性愛者のSEXシーンみたいに男が女の上に乗ってお終い、みたいなものじゃなく、やっぱね、どこをどうして欲しいかってちゃんとみんな話し合ってSEXしてると思うんだよね(ってこういうことすんの、うちだけなの??)。一度だって同じSEXをしたことがない、だから同じ相手とでも「マンネリ化」しないんだよ、って思ってるけど、それってレズビアン一般の「常識」なのかすら、わたしには分からない。映画でそういうものを取り上げたものを見たことがないから。でもそういうものを取り上げた映画もあってもいいと思う。

まー、わたしがこんなこというのは、エロいからさ(爆)それだけなんだけど。もう「キス」とかよくいって「胸を触るだけ」のシーンは飽きたのよ。わたしはそれだけじゃ満足しないわけよ。誰か当事者でレズビアンの濃厚なSEXシーンがある映画を作ってくれないかなあ~。欲求不満で爆発しそう(爆)

ってわけで、「ガールズ短編集」ね。去年のガールズ短編集は実は全然覚えてないんだけど、今年のは結構どれも面白かった。1つ目の「プライベートライフ」は、'50年代のイギリスの話なんだけど、当時のイギリスはまだ「ソドミー法」があったんで、ゲイやレズビアンは逮捕されてたわけ。その当時のいわゆる「隠れた同性愛者たち」の物語。主人公の女性と「共存(?)」する男性がいて、週末だけ彼女らは町へ行き、自分たちが来ている服を交換して(それも「女子トイレの中で!」)、そして女装をした男性はゲイバー(って言うのかな?)へ行き、そこでダンスをし、男装した女性は彼女と短いデートをする。そんなことをしているうちに、ゲイバーの方に警察の手入れがあって。。って話なんだけど、んー、コメディっぽくて、随所に笑えるシーンがあったんだけど、まぁそれだけの映画かなあ。その女性はどうやら製糸会社の経営者の娘で結構身分が高く(って言うの?)、父親から結婚がどうの、って言われてたけど、でも最後は「わたしたち、このまま週末の短い時間だけ会う関係でいいの?」って言ってた恋人はどうやら彼女の会社で従業員として働くようになったようで。。でもその後どうなるかは分かんないんだ、わたしには。

2つ目の映画は「シュガー・ブラッド」。ドイツの映画らしい。完全モノクロ映画。これがねー、わたしは気に入ったのだ。恋人のいる女性が、その恋人が浮気ばかりするというので、彼女の友達の多分ヘテロであろう子持ちの離婚女性に「自分も浮気をして彼女に思い知らせてやる!」って言うんだけど、そのヘテロの女性は「そういう安っぽいことは止めなさい。わたしも離婚したんだし、あなたも別れる方がいいわよ」って言うのね。で、彼女は公園をぐるぐるする。その公園がさ、なんとな~く「有栖川公園」を思わせるような公園で。

で、彼女は誰か浮気相手を探そうと、初めは携帯で話している女性の後を付いていくんだけど、逆に女性から「ストーカー」呼ばわりされてしまう。で、ぐるぐるするのに疲れてベンチに座ると、横のベンチでお芝居のセリフを覚えている途中の女性に会う。その女性が「これを早く覚えないといけないから手伝って。あなたは男性のところのセリフを読んで」って突然シナリオを渡されるのね。で、その内容が、男性が浮気をしていて女性から責められる、って内容で。。本来なら彼女は恋人に言うセリフをそのまま自分に対して言われ、それで女性がシナリオを無視して「あなただって浮気したでしょう!何回も何回も。もう僕はそんな君とは付き合っていられない!」とかなんとか言っちゃって、練習を頼んだ相手はシナリオ通りじゃないんで目を白黒(笑)

そのあと、また公園をぐるぐるするうちに、池のそばでなにやらアヤしい踊り(?)をしている女性に出会う。その女性の隣のベンチに座っていると「あなた、わたしのそばに寄らないで。あなたのチャクラは閉まっているから、負のエネルギーでいっぱいなの。そうそう、あなたもチャクラを開かせてみない?こうやって大地から取り入れて、それを頭から放出するの」と、後ろから手取り足取り、腰を取って(?)「こんな風にやるのよ」と振らされ、よそから見ると一見、ちょっといやらしいことをしているように見える(笑)もちろん「チャクラの女性」は本気なのだ。だけど、その動きがアヤしくてね。そこに、本物の彼女が現われ、、「何をやっているの??」と主人公を問い詰める。そりゃ、相手だってチャクラの女性に自分の彼女の腰を持って振ってたりなんかしたら誤解するだろう(笑)

主人公は「別に変なことはしていなかった」と言い、アヤしい女性は「うわー、なに、この女。ちょっと近寄らないで。あなたから悪いエネルギーがたくさん出てるわ!!あっちに行きなさいよ!」とか、本気で言ってたりして、もうめちゃくちゃ。これがまた笑える。で、最終的に主人公の女性は恋人に「もう別れる」と別れを告げるのだ。なんかね、ちょっと抽象的な映画ではあったけど、コミカルで面白かった。最初は「浮気して相手を連れ戻す」はずが、いろんな人に出会い、いろんなことがあって、別れちゃった、ってことで「あ、そうですか」みたいな(笑)でも、この浮気していた恋人の名前が「ミヤ」って名前でね、髪の毛も黒くて東洋人なの(本当は、日本人でなく中国系の名前ではあった、その女優さん)。どうやら「恋人は日本人」であったようだ。なぜ日本人の設定にしたのかは不明だけど(笑)

3つ目は「水に満たされて」ってアニメの映画。これ、すんごい抽象的だったのね。で、5分と短かったの。でも、なんかねー、わたしにとっては面白かった。ハートを胸に持っている女性が、テレビの中で踊っている人と恋をして、ハートが相手に半分渡る。けど、結局それが壊れてしまって、彼女はその半分壊れたハートを海の水に漬けて、そしてまた一つのハートを取り戻すってただそれだけの話なんだけど、なんかねー、アニメでの動きそのものも面白かった(自分は動かず、ものが動いてくれるとか。でも多分、これ、観た人しか分からないだろう(笑))し、一つの恋が始まって終わり、それでまた水に漬けて元通り、ってのは、なんかねー、胸に残った。

4つ目。「ラブ・イズ・ラブ」っていうアメリカ映画なんだけど、これが大爆笑の映画でさ。最初、男性が「右利きは85%で左利きに生まれた人は右利きになりたいって言うけど、今、自分もまさにそんな心境で」って言うから、てっきりその人はゲイだと思いきや、実はヘテロの男性。そう、この映画での世界は、ヘテロとゲイの比率が入れ替わってる世界って設定なの。

そして女性の神父か牧師かは知らないけど、教会で叫びまくる。「男性と女性が付き合うなんて、なんておぞましいことなんでしょう」と。そしてヘテロ男性向けエロ雑誌を振りかざし「彼らはこんなものを見て、SEXのことばかり考えています。なんて野蛮な人たちなんでしょう。そして彼らはいつも戦争を起こしてきたのです」と。教会に来ているゲイやレズビアンカップルは「なんてことだ!」って顔をして、目を背ける。

一方、あるヘテロ女性もカウンセラーらしき人に相談しに来る。「わたしは男性が好きです。どう考えても女性は好きになれません」と。カウンセラーは「いつそのことに気がついたんですか?」と言うとその女性は「大学の時です」と答える。これって今の世界で性的少数者がずっとされ続けてきた質問だ。今の世界じゃヘテロセクシャルの人にまずこれを問うものはいないだろう。

あるとき、映画館に行ったヘテロ男性は、隣に座っていた男性に近寄られ、肩に手がかかる。それを苦痛に感じ振り払うと、隣の男性は怪訝な目で彼を見る。そしてヘテロ男性は、隣のレズビアンカップルと思われる女性の胸につい、目を寄せてしまう。するとその横に座っている女性がまるでケダモノを見るような目で彼を見てそして、自分の恋人よと言わんばかりに彼女の肩を抱く。周囲の人から「あの人、ヘテロよ」と言わんばかりの目で見られ、ヘテロ男性は居場所がない。

教会の牧師か神父か知らないが叫ぶ。「今や同性同士で子供が作れるようになりました。これは『神の意志』です。男女カップルはなぜ神の意志に背くようなSEXをするのでしょうか?」そういって、試験管の中に入った水色の液体を取り出す。どうやら「それ」によって同性同士で子供が作れるらしい。

ヘテロ男性はバーで言う。「この同性愛社会で、自分に合う女性は果たして見つかるのだろうか」と。「自分の両親(ここが"Dads"って言葉になってた)は『愛に性別なんか関係ないさ。きっと見つけられるよ』って言われるんだけど」と言って、両親(もちろん、両方男性)と自分が写った写真を取り出す。もう爆笑。

そう、その世の中は、完全に今の世界の「逆」なのだ。ヘテロを変態呼ばわりし、あとはちょっとフェミも入ってるかな~(笑)って感じ?今の世界でわたしたちが言われていることを、その世界のヘテロはそのまま突きつけられる。カウンセラーと話している女性が言う。「わたし、『ストレイダー』を持っているんです」と。もうここで会場、大爆笑。そしてカウンセリングを終えた彼女はその「ストレイダー」でヘテロ男性と出会う。ま、めでたしめでたしなんだけど。

それで終わりきやと思うと、再びカウンセラーのシーン。「『ストレイダー』とは何?」って。「その人がヘテロかどうかを見分ける力です。あなた(カウンセラー)からは全くそれが感じられないわ」と彼女は答える。これは、「ゲイダー」や「レズダー」という言葉のパクリ。その言葉を知らないと笑えないところだ。これがわざわざ入っている、ってことは「ゲイダー」や「レズダー」を知らない人のために付け加えられたシーンだろう。わたしにはここのシーンはいらない、って思ったんだけどね。

いつもいつも現実世界では肩身の狭い思いをしている性的少数者のクリスチャンの恨みが込められているような話だったー。きっとキリスト教原理主義の牧師はヘテロ相手に同性愛がどんなにおぞましいことかをこんな高圧的な口調で語っているんだろうなあと思わせるほど。

しかーし!、もしかしたらいつか、本当に同性同士で子供ができる方法が確立されて、もしかしたら、ホモセクシャルとヘテロセクシャルの人が逆転するかも知れない!ヘテロの人、覚悟しておきなさいよ~(ふっふっふっ)←んなわけない

で、最後「どっちがトップ?」って話なんだけど、なんか片方の恋人はマンネリなSEXしかしない人なんだけど、もう一方はもっと違ったことがしたくて。。で、SMの世界の想像やら妄想やら。。んー、これはわたしにとってはちょっとイマイチだったかなあ~。でも実はこれが一番エロかったのは確か。でも、わたし自身はSMの嗜好は持ってないので、あんまりいじめられて、、ってのは好きじゃないのよね。

「ガールズ短編集」、どれも結構面白かったんだけど、やっぱねー、SEXシーンがないのよ。あってもキス止まりなのよ。やりまくりのレズビアンの話とかないのないのかしら?って思うんだけどさぁ。前日に観た「ボーイズ短編集」は、そのほとんどがSEX絡みだったんで、やっぱそこんとこが違うのかなあ~。わたし、別にゲイのSEXシーンは観たくないんだけどさぁ(苦笑)なんでレズビアンのSEXシーンやってくれないのかなあ~。別に生々しくなくてもいいから、せめて胸くらいまでは触ってくれ(笑)で、できたら脱がせてくれ(爆)ただ、SEXシーンがないということから、これだけさまざまな分野のものを集められたのかも知れない。だけど、一つくらいでいいから(←しつこい(爆))

で、最後に「彷徨う花たち」。
これね、観て分かったんだけど、時系列はあまり考えちゃいけないのね。3つの話がそれぞれちょこっとずつ重なってはいるんだけど、ただそれだけ。物語の場面場面で「列車」が登場する。その「列車」はね、時空間を飛び越えていく列車なんだ。そして映画の中で歌われる「チューチュートレイン」。これも「列車」にかけてある。

前も書いたけど、この話、出てくる女性はみんなレズビアンで、男性も多分ほとんどゲイ。すごい世界だなって思うんだけどさ。背の高い男か女か見た目じゃ分からない一応、生物学的には女性の「ディエゴ」(アコーディオン弾き)と目の見えない歌姫「シン(だっけ)」。その妹「メイ」。メイは小学生なんだけど、背の高いディエゴに恋をする。けど、ディエゴは姉とできてしまうのね。結局メイはある家庭に引き取られることになり、大人になるまでディエゴたちとは会わない、と里親(って言うのかしら)と話し合う。そこでね、里親が「失礼だとは思うんだけど、あなたたちのような暮らしではメイにとってはよくないと思うの」って言うんだけど、これが「あなたたちが同性カップルだから」を意味しているのか、それとも職業柄、両方夜に働いているから、ってことを指しているのか、どっちかはわたしには分からなかった。

そして、何年かが過ぎ。メイは高校生になる。学校で同級生に「男の人でも女の人でも愛は愛でしょ」とはっきりと言う。それを聞いて気まずい雰囲気で去る同級生。その後、男の人からもらったラブレターらしきものを学校の寮から家に帰る途中、列車の中で破り捨てる。学校が休暇で里親の元に帰るのだ。そして家に帰ると、ディエゴたちカップルが待っていた。「すっかり大きくなって」と言われるメイ。まだディエゴのことが忘れられないのか、笑顔を見せたあと寂しそうな顔をするメイ。

ディエゴカップルがいつものようにレストランで仕事(ディエゴがアコーディオンを弾き、シンが歌う)をしているとき、一組の結婚披露宴が行なわれる。これが第2話の始まり。この結婚をするカップル、実はゲイとレズビアンでお互いにパートナーを持つ、いわゆる「偽装結婚」だった。

その後、何年過ぎたか分からないが、どうやら女性(リリー)の方はパートナー(オーシャン)がとうの昔に死んでしまったようで、一人暮らしをしている。一方、男性(イェン)はパートナーに若い恋人ができた挙げ句、自分の方はHIVに感染してしまって、薬を飲まなければならない身体になっていた。しかし、どうしてもその薬が合わず、副作用で吐き気を催している。

物語は年老いたリリーの元に家を飛び出たイェンがやってくるところから始まる。リリーはアルツハイマー病にかかっていた。そのため、結婚したイェンが来たとは認識できず、本来の恋人であったオーシャンだとずっと思いこむ。イェンが普通の男の格好をしていると「父さんがいつ来るか分からないから、そういう格好は止めて」と言い、イェンは無理矢理「女装」させられ、それで街を歩き、そして中学生か高校生らしき人に「ホモ野郎」だの「変態」だのと言われ、ボールをぶつけられ傷つけられる。イェンはリリーに向かって「アンタのせいよ!」って言うんだけど、それが分からないリリー。リリーの中ではイェンは恋人である「オーシャン」なのだ。イェンはそういう彼女と一緒に暮らしていこうと決意する。

第3話は若かりし頃のディエゴの話。ここでディエゴは「ショーガール」をしているリリーと出会う。「女の身体は嫌いだ。だけど男にもなりたくない」というディエゴ。「女のままで女を愛せないのかな」というディエゴ。「愛せるわよ」というリリー。そしてリリーの方から「キスしていい?」と言い、二人はキスをする。「早く家を出たい」というディエゴ。「家を出て、そして好きな女の人と一緒に暮らすんだ」というディエゴ。「わたしのことを愛してくれる人と出会いたい」というリリー。

そうしてディエゴは列車に乗る。
列車には年老いたリリーとイェンが乗っている。リリーはオーシャンを探している。
そして、列車には高校の寮から家に帰る途中の大きくなったメイも乗っている。

列車は時空間を越えて走っている。この物語には時系列、というものが存在しない。ただ、どこかでなにかが繋がっている。そんな不思議な映画。まー、わたしはこの手の映画はちょっと苦手なんだけどね(^^;

この映画の上映後、監督さんとディエゴ役を演じた人とシン役を演じた人、それから撮影した人の4人が挨拶した。わたしは知らなかったんだけど、この監督さん、「TATTOO(刺青)」って作品を作り、去年、この映画祭で上映したそうだ。「TATTOO」(もちろん、わたしはこれ観てません(^^;)と違い、今回は、台湾の今の同性愛者の状況に割と似たものとして作ったらしい。とすると、わたしからすると同性愛者は結構受け入れられてるんじゃん?って感じがした。だいたい、ホモフォビックな反応を示す人はいないし、ディエゴの母親は、彼女が全く女らしくないので、自分たちのやっている芝居小屋を兄と2つに分割して譲り渡そうとまでする。兄はそれが気に入らなくて「継ぐのは自分だ」といい、ディエゴに向かって「嫁に行くなら持参金は渡すが、劇団は渡さない」と言うくらいだし。

また、確かにディエゴは自分が「女である」ってことは嫌だけど、でも「男にもなりたくない」という。そんなディエゴを若いリリーは「女であることが嫌いな女の身体を持つ人なのよ」って言うんだけどね。わたしはディエゴ自体は「男にも女にもなりたくない存在」なのであって、だから「女の身体」である証拠の「胸」を潰そうとサラシを巻いていたりするんだな、と解釈した。だから「性別違和」というよりも「何にもなりたくない自分」なんだよね、あの人は。前も書いたとおり、日本語では「僕」と訳されていたけれど、あれは訳した人がそう解釈しただけであって、わたしは「わたし」でも構わないと思ったし、もしかしたら「自分」かも知れない。ただ、性的指向は女性に向いている、という人なのね、ディエゴって。

監督さん自身は、撮影している人と7年越しのパートナーらしいが。。

しかし、ゲストが来るからか、すんごい人だったー。それも圧倒的多数で女(笑)。レズビアンものでもこんなに客が入るんだなって分かったよ。そしてゲストに呼ばれた彼女らはみんな、一言ずつ挨拶するときに必ず何か、一言日本語で挨拶するんだよ。その日本語はなんかアンチョコが掌に書いてあるようだったけど(笑)「こんにちは。わたしは○○です」って。ディエゴ役の人は「映画は面白かったですか」(ここで拍手)「ホント?ホント?」とか言ってて、とても気さくな人だった、といっても彼女は今、台湾の何とか大学で演劇を勉強している人らしい。若いのだ、とても。これから彼女は台湾で、どんなふうに活躍していくことになるのかな、とちょっと思った。背が高くて(といっても、そんなに高いようには見えなかったのだけれど)、中性っぽい彼女。レズビアンの役しか回ってこない、なんてことのないように。。でも女の人から人気が出そうな感じではあったけどね(笑)

ってわけで、一日に3つ観るとさすがにくたびれるわー。
疲れ果てて、昨日中に日記をアップできなかったのよね。

わたしの映画祭は今日でお終い。あと2つ。一つは一回観た「フリーヘルド」。もう一つは「パートナーシップ法は突然に」。結局、わたしが「観たい」と思う映画はドキュメンタリーが多い。。

そうそう、会場で「バルト9」で19日からレイトショーでやってる「後悔なんてしない」のチケットを買っちゃった(笑)これさぁ、買うともれなくポスターが付いてくるって言うんだけど、別に男のポスターなんぞいらん、って思ってたら、知り合いのゲイが「欲しい、欲しい」というんで、んじゃあ、といってチケットと一緒にポスターももらって、んであげてきた(笑)こういうところでゲイとレズビアンは「共存」できる(爆)といっても、ポスター付きってことはあの映画は「腐女子狙い」なのかしら、、って思わないこともないんだけどね。

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07-18 Fri , 2008
三度、第17回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭に行ってきた
って、この調子だと「五度」まで続く予定(苦笑)
んだったら、最初から「初日」「二日目」「三日目」にすべきだった。。(^^;

ええと、今日は「ボーイズ短編集」と「愛のジハード」を観てきた。この2つはもう今日限りだから、ネタバレしても構わないだろう(←って毎日ネタバレな日記書いてるクセに)。あと、昨日から迷いに迷い、昨日観た「フリーヘルド」をもう一度観ることにした。彼らの「正義」とは一体、なんなんだろう、って思ってさ。「権利」じゃなくて「正義」なのよ、求めているのは。それを頭に入れながらもう一回じっくり観ようと思ってる。ってさぁ、こんなに観るんだったら、最初から「パス」買っておけばよかった、と思ったよ。まぁ「彷徨う花たち」は事故でもう一回観ることになったから、これは実質1回だけの金だけど、チケットだとね、整理番号順に入らないといけないのだ(ただ、20人ずつっていう、すげー大雑把ではあるけど)。この整理番号をもらうために、はやーくから会場に行っていないといけなくて、その時間を考えると、待ち時間が無く最初に入らせてくれる「スパイラルパス」の方がずっと効率的だった。。まぁ、今回、そこまで観るとは当初は全く思ってもみなかったから、仕方ないんだけどね。。

で、今日は開場時間とともにスパイラルホールに入り「ボーイズ短編集」も「愛のジハード」も整理番号1番と2番(実は「愛のジハード」は0番と1番(笑))。ただ、パス持ってる人が多かったんで「チッ」と横目で入る人を見てたんでした(笑)

「ボーイズ短編集」は5つあったのかな。最初のヤツが一番分かりやすくてよかったです(笑)なんといっても、登場人物が少ない(爆)ネットのチャットで知り合った人と待ち合わせるんだけど、相手がなかなか来ない、って設定で、主人公はそういうことは初めての体験。相手の来ない中、主人公はテ-ブルに置いてあるプリッツを口いっぱいほおばったり、いらいら、そわそわ。んで、店の中で相手の妄想を抱くの。最初は革ジャン着てピアスをあちこち付けたでぶいにーちゃんがやって来て、チャットの名前と自分の本名は違うようにしてるんだ、そうじゃないとろくな相手でないこともあるし、、みたいな人や、そうでなければ「ここの店、早く出て僕か君の部屋に行こう。何やるか分かってるよね?別によければトイレでやってもいいんだよ」みたいなにーちゃんとか。。

店のオーナー(だろうな、多分)はちょっとオネエが入ってる人なんだけど「こういうところ来るの初めて?」とか「飲み物は何にする?」(主人公が「取り敢えずビール」というと「じゃ、ジンジャエールね」というところが笑えた)とか、「わたしも初めての時があったわ~」とか、待っても相手が来ないので帰ろうとする主人公に「もうちょっと待てば、相手が現われるかも知れないわよ」みたいなことを言ってるところで、相手が来る。チャットの名前とも待っていた人と同じ。主人公が「1時間も待ったのに!」みたいなことを相手に言うと相手も「向こうで待ってたんだよ」と言う。

もしかすると、本当かも知れないが、もしかすると偶然チャットの相手の名前と同じで、待ち人来たらずの主人公をずっと見ていて声を掛けたのかも知れない、どちらとも取れる感じの最後だった。しかも相手は結構イケメンで、これからが期待できる(?)展開。「短編集」ならでは、って感じの作品だった。

次は「ルームメイト」っていうスウェーデンの映画。なんかね、ノンケ(異性愛者)の男性とルームメイトになるゲイ男性なんだけど、どうやら最初からその人が好きだったみたいなのね。で、ルームメイトはそれを知っている。でも彼はゲイでもバイでもなく、彼女を作ってしまう。主人公のゲイ男性は、枕抱えて泣いたり、壁にペンキ塗ったりして、どうにかして気を紛らわそうとするんだけど、やっぱり彼のことが好きで、あるとき、彼がよっぱらったかで深夜に帰ってきて、主人公のベッドで寝ちゃうんだけど。主人公は「僕は向こうの部屋で寝るから。。」と言いつつ、結局欲望を抑えられずに寝ている彼の隣で彼に手を出してしまうっていうか、わたし、男の生理がよく分かんないんだけど、男って、寝てるときにしごかれても(敢えてどこを、とは言わない(爆))、気持ちよくなっちゃったりするわけ??(笑)んで、彼がそれで起きちゃって、怒るのよ。まぁそりゃ当然なんだけど。。で「やっぱ一緒に住むのはムリだ」って話なんだけど、わたしさぁ、最初から向こうがそういう気がない人で、なおかつ好きな人と一緒になんて住めるわけないじゃん、って思うんだけどさ。なんでそんな無駄なことすんだろうって思うんだけどさ。会場で会ったゲイの人たちに聞くと「分かる、分かる」って言うんだよね?なんでー?そこんとこ、わたしにゃ分からん。振り向きもしない相手と一緒に暮らしたら、自分がつらいだけじゃん、って思うんだけど。。現実的すぎるのかしらん??

んで、次がよく分かんなかったのよね。「ダーティー・ラブ」っていう映画なんだけど、実質6分の映画。なんか「初めてゲイタウンに来ました」みたいな主人公が、美人局(ってこの場合言うのかしら?)の2人組に狙われるわけ。最初、主人公にちらちら目線を送って、どこかの部屋に誘っておいて、で、巧みに財布だけそこに「落とす」わけね。で、あとから2人組のうちの一人が部屋の鍵を開けて入ってきて、驚いた主人公はそこからジーンズ履き直して去るんだけど、財布がないことに気がつくわけ。でもね、ここがなんだかよくわからなかったんだけど、その鍵を2人組のどっちかがなんかして(だから、ここら辺の展開がさっぱり分からなかったのだ(苦笑))、財布がある部屋に主人公を行かせて、そんで終わり、って話。んー。結局何が言いたかったのかよく分からなかった映画。初心者は気をつけましょうってことなのかしら。。つか、目線のやりとりだけで相手に付いてくなんて怖いよねー。ってわたしなら思うんだけどさ、そこまでやりたいのかしらねー。。2人組のうちの一人の意図も全然分からず。

次が「ハンター」っていうフランス映画なんだけどさぁ。これも正直よく分からん。。っていうか、この場合、主人公以外に男がいっぱい出てきて(つまり、やりまくりの映画)、顔が同一人物かどうか、わたしが覚えられなかったのよ。。あのね、主人公の顔は覚えられたわけ。でもね、相手が覚えられなかったのよ。。でもフランス語で話す相手と英語で話す相手がいたので、最低2人はいたってことになる(って所詮、この程度だよ、どうせわたしの理解度は。。)。で、どうも主人公は完全ウケ(ネコ)の人間だってことだけはよーーーーく分かった(笑)主人公が誰かに「テレビばっかり見て受け身だな」って言うと、相手が「お前だって完全受け身だろ」って言い返すんだけど、そこだけ笑えた(爆)

わたしさぁ。全然関係ないけど最近、河内家菊水丸の「Happy」って歌をよく聞いてるのね。で、全然関係ないけどその歌の中に「武士の鑑よ 男の誉れ 松が男の立ち姿 喜ぶ女は床で待つ その甲斐ありて松茸の 土瓶蒸しやら布団蒸し 泣いて吹き出す松のつゆ 四十八手は裏表 人の人生もさまざまに~♪」ってこれは、ながーーーーーい歌の中のほんの一部分(それもヤラしいところだけ(笑)本当は「松(待つ)」に掛けた、おめでたい歌なの(苦笑))なんだけど、なぜかこの映画を観てたらね、その歌詞が頭ん中ぐるぐる渦巻いてすんげー困ってしまった。ま、わたしにとってはそういう映画でした(ってこれじゃ全然感想じゃないじゃん!)。つーか、バリネコ男、やりまくりの話。。

最後が「ロイドネック」っていうアメリカの映画。これもねー、なんだか淡い話で、わたし、こういう話はすごく不得意なのよ!!主人公は陸上選手なのかな。で、もう一人同級生らしい人が出てくる。この人は写真を撮るのが好きらしい。で、主人公の妹が出てくる。主な登場人物はこれだけだったんだけど、、主人公はゲイかバイ。同級生はゲイか。しかし、この二人の関係は友達ってだけだと思う。。で、妹が鋭い。にーちゃんが同性を好きだということが分かってる。で、どうもその同級生が好きらしい。ある日、主人公と妹が同級生と公園で会うんだけどさ、主人公と同級生は2人きりで話したいので、同級生のカメラを渡し「どこか好きなところを撮ってこい」って言うのよね。妹は「使い方忘れたー」とかホントかウソか知らないけど、もう一回使い方を教えてもらい、んで、二人きりで話しているシーンを後ろから撮る。そのとき、同級生は主人公に写真を渡すんだけど、その写真は男女の写真でね。「サムのことを思い出させて悪かった」って言うんだけど、サムって一体誰??今までサムって人の話出てきたかしら??サムって男?女?あの。。そこんとこでわたしの思考は停止。まー、その2人はその後、別々の大学に進学するみたいだったけど。。いろいろと2人で話した後、妹がいないのに気づいて、探す。妹は「1枚だけいい写真が撮れた」って言う。多分、2人の後ろ姿の写真だろうってことは容易に想像できるんだけど。。それがなに?って感じ。。あー、わたし、こういうなんだかフワフワした映画ってよく分からないのよね。

ってことで、一番分かりやすかったのが、一番最初の映画だけでしたー、わたしにとっては(苦笑)

んで、次は「愛のジハード」なんだけど、イスラム教と同性愛を扱ったドキュメンタリー。しかし、全体的には悲壮感は漂うことなく、ちょっとした「遊び心」も入っていたような映画と見た。というのは、中には顔出しできない人もいるわけよ。で、ぼかしが入ってるわけ。でもね、なにもペンギンの顔にまでぼかしを入れる必要はないんじゃないかって(爆)多分、ワンシーンだけそういうところがあったと思う。

しかしわたしがよく分からないのは、彼ら(彼女ら)は決して「ムスリムである」と言うことを捨てないのね。で、みんな口を揃えたようにこう言うの。「神の定めた運命に従って生きていく」ってね。で、彼らは死後、神の前で自分がどういうことをしてきたかを言うらしいんだけど「人の道に逸れることなく、人を貶めたり苦しめたりすることもなく生きてきました」というつもりだって言うの。

でもね、ええと、わたしの覚えている限りにおいては、南アフリカ、エジプト、トルコ、フランス、インド、後はどこがあったかなあ、、そこに住んでいる(住んでいた)人たちが出てくる。で、この中で「イスラム法」がある国が、同性愛を罪とする国で、それはエジプトとあとどこだったかなあ~。彼らは自分の国を出て、トルコやフランスに難民として逃げてくる。トルコからカナダに申請が降りた人たちもいた。だけどね、彼らは本国の家族とは連絡を取ってるの。話すのは母親ばかりだったけど。でもさぁ、よく分からないのは、母親自体で、同性愛者である彼らを受け入れているんだかいないんだかって感じ。心配はするけど、子供は同性愛者だから、自分の国に住めなくて、でも子供からは連絡があって、一体どういう気持ちなんだろう?って思った。「同性愛者だから仕方がない」と思っているんだろうか。だって「一族の恥」とか思うんだったら、絶対に電話なんかには出ないし、話したりしないよね?そこんとこがよく分からなかった。

しかし南アフリカなんかは同性婚、認められてるのに、ムスリムにとってはそういうのは関係ないのね。で、一人とっても有名なゲイとしてカミングアウトしたイスラム学者(だったっけな)がいるんだけど、彼も一時期悩んで結婚して、子供が3人か4人くらいいるのね。でもゲイだってカミングアウトしてるから、家族と一緒に住んでない。本人の顔は写されてるのに子供たちにはぼかしが入っている(ついでにペンギンの顔にも(爆))。イスラム学者って、イスラム教徒に「イスラム教の解釈」をするらしく、その人も電話相談とかラジオ相談をしてるんだけど、一般のイスラム学者に叩かれまくっているらしい。しかし、イスラム教でも「同性愛が罪」とされているのは「ソドムとゴモラ」んとこと、あとは「○○」(二文字ってことだけは覚えてる)の2カ所が根拠とされているらしい。

で、同性愛者はイスラム学者に「同性愛はどうして罪なのか」と問う。そうするとこれまた判で押したように「○○のところを読みましたか」と来る。そして「神に祈れ」という。それから「わたしはあなたが精神病にかかっていると思うので、医者にいけ」と言う。じゃあ異性愛者は神に祈ったから異性愛者になったのかよ?ってさ、聞きたくなったよ、ホント。

同性愛者は「人と違ってなんで悪いのか」と悩む。でもムスリムは止められない。そして多くのイスラム学者は「イスラムの教えでは同性愛は罪だ」と言う。レズビアンに対しても「罪である」と解釈する本がある。だから同性愛者は悩む。

なんかね、一昔前の日本でさ、自分が同性愛者じゃないかって悩んでて、医学書とか心理学のホントか読んでさ「同性愛は異常です」って書かれてみんな「がーーん」って思って治そうとしたけど、結局治らないで。。みたいな感じかなって思ったよ。まぁそれ以上のことなんだろうけどね。だいたい、日本では同性愛自体は犯罪ではないし。ただ、結構みんな気楽に(?)イスラム学者んとこに相談しに行くんだよね。あれはちょっと意外だったな。なんか日本のイメージだと自分で調べてそれからひたすら「隠さなきゃ、隠さなきゃ」って感じじゃん?そうじゃないんだよねー。。

っていうか、キリスト教ももしかすると、神父さんか牧師さんか知らんが、もしかして自分が同性愛者だったら、ってことで悩んで、気楽に相談に行ったりするのかしらん??相談に行ったことで「あいつ、同性愛者かも知れないぞ」ってばれたりしないのかしらん??このね、「人に相談する」ってことが、日本は幸か不幸か宗教色があまりない国なので、ないような気がするのよね。一昔前なら、自分で本を買って、今だったらネットかな、で調べたりするような気がするのよね、人に相談するより。だから、そこら辺の感覚がよく分からなくてね。

ただ、イスラム法が適用されない国、例えばトルコなんかは同性愛者が比較的自由に暮らせる国みたいなんだよね。確か、レズビアンカップルがそこで出てきたと思うんだけど、どっちかの親の家に行ってね、別にカミングアウトするわけじゃないんだけど、その家には「オウム」を飼ってたわけ。でもこの十数年間、卵を産んだことがない、ってその母親が言うの。そうしたらね、そのレズビアンの子供が「もしかしたら、メスのオウムを連れてきたらカップルになるんじゃないの?」って言うんだよね。母親は「そうかも知れないわね~」なんて気楽に返したりして。同じイスラム圏でも全然違うんだよね。エジプトなんかはおとり捜査でゲイが53人だったか捕まって、っていう話のすぐ後でさ。

んで、コモだったっけな、なんか男性同性愛者の蔑称があるんだけど、それの集まりがあるってんで、行くんだけど、なんと、化粧をしている人とそうでない人が一緒に踊ってた(笑)あれはどこの国だったか。ま、エジプトでないことだけは確かだけどね。なんだかいろいろあるということだけはよく分かった(笑)

けど、イスラム法によって同性愛が罪になる国があることだけは事実で。そしてそういう国からはどんどん同性愛者が他の国に避難している。これはやはり憂べきなことなんだろうか。多分そうなんだろうな。だって、家族や親族と離れて暮らさなければならないから。でもこういう国に対してはどうすればいいんだろうね。一部、南アフリカのイスラム学者みたいなゲイとカミングアウトした上で、いろいろな町でイスラム教の教えの解釈をする人が増えてくるか、ゲイでなくても同じような解釈をする人が増えてきて、説いていけばいいんだろうけど。とにかく「ソドムとゴモラ」の町はなぜ滅ぼされたのか、それは同性間の性行為が理由ではない、ってことらしい。そして、イスラム教自体の教え全体では同性愛は罪ではないと言っている、こういう解釈らしい。まー、わたしは宗教はよく分からないから、なんとなくこういう感じってことしか覚えてないけど。

映画が終わった後、わたしが彼女に「なんで彼らはムスリムを止められないんだろう?」って聞いたら「生まれつき同性愛者ってことと同じなんじゃない?」って言ってたけど。。言ってることは分かるよ、それは。でも、やっぱり頭では分かっていても理解できていないのだ、わたしは。同性愛者であることは止められないけど、ムスリムであることは止められるじゃんってやっぱり思ってしまう。。でも彼らからは決して「神」がいなくなることはないのよね。

この映画、「同性愛を罪にしているイスラム教」ということが言いたい映画なのかなと上映前には思っていたが、どうもそうではないようだ。そのことだけはよーく分かった(笑)

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07-18 Fri , 2008
再び、東京国際レズビアン&ゲイ映画祭に行ってきた
今日から、青山のスパイラルホールの方で「第17回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」が始まった。

っていうか、わたしたちは今日、特に行く気はなくて、明日からのつもりだったんだけど、こないだ「バルト9」で知り合いに会い「『スコットと朝食を』は面白かったよ~」って聞いたので、んじゃ行こうか、ってことになったのだ。そして、なんだか分からないけど、マイミクさんの日記で「スコットと朝食を」の前に「フリーヘルド」が上映されることを知り、んで「じゃ、ついでにこれも観ようか」ってんで、急遽行くことになった。あ、この「フリーヘルド」は20日に「不思議の国の女たち」というのと同時上映されるので、それを観に行く予定の人は、この先はネタバレに付き、読まない方がいい。

この「フリーヘルド」、ノンフィクションもので、アメリカのニュージャージー州にオーシャン郡ってところがあるらしいんだけど、そこで24年間、州の警察官をやっていたローレルっていうレズビアンの人が末期の肺ガンにかかり、そのパートナーに「遺族年金」を与える権利を求めて郡の財務委員会と何度も協議した上で、最終的にはその権利を勝ち取る、というもの。

もうねー、なんというか。。ノンフィクションものということで、演技じゃないんだよね。そして作られた「物語」でもない。涙は出なかったけど、途中で何度も泣きそうにはなった。

郡の財務委員会の人たちは、全会一致で物事を決めるそうだが、そのうちの数人が「同性パートナーは婚姻していない」ことを理由に、ローレルのパートナーであるステイシーへの遺族年金の受給を認めない。ニュージャージー州自体は、同性へのパートナーシップ法がある州だ。が、ここんとこ、アメリカの制度だからよく分からないんだけど、遺族年金を受給できるかどうかは郡の財務委員会が決めるみたいなんだよね。で、最初は「前例がないから」で拒否されるんだけど、ローレルの警察官時代の同僚や上司が、彼女が今までどんなに州の警察官として活躍してきたか、財務委員の前で述べるわけ。それに加え、ゲイのアクティビスト(多分ね。英語だったんで、よく分からなかったけど)とかも「異性には認められるのに、同じように暮らしている同性パートナーに適用されないのはおかしい」と言う。同僚の一人は「自分は今まで、共和党支持だったし、同性愛者の人権や権利についてはまったく考えたことがなかった」と語っていた。そういう彼らが「わたしたちは正義を求める」と言い、財務委員に迫る。

一方、ローレルとステイシーのカップルの日常も写しだされるんだけど。。これ、なんかね、レズビアンカップルだからか、自分たちを重ねてしまって、仕方がなかった。ローレルは最初のうちはまだ比較的元気で、髪の毛も生えていて声も出てるんだけど、次第に髪の毛が抜けていくのね。で、思い切ってバリカンで頭を剃ることにしたんだけど、彼女のパートナーも一緒に頭の毛を剃るの。でね、ローレルが「あなたと出会ったとき、あなたはこんなに短い髪型だったわね。こういう髪型、好きよ」って言うんだよ。わたしさぁ、今、髪の毛結構短く切ってて、彼女から「ろんたこ、その髪型似合うよ、いいよ」って言われてるんだよね。そういうのが重なったり、二人のシーンはとにかく、自分たちと重ね合わせることができてしまうので、もう何度も泣きそうに。。

そして、ローレルはどんどん弱っていき、でも財務委員に言うことがあるというんで、ビデオ録画するんだけどさ、本当に息が苦しそうで、ぜいぜいしてて、パートナーが「苦しかったら止めてもいいんだよ」って言うのに言うんだよね。パートナーに遺族年金を受給させるために。

で、そうこうしているうちに、ニュージャージー州のいくつかの郡が同性パートナーに対しての遺族年金受給を次々と認め始めるんだけど、このオーシャン郡だけは「婚姻法」を楯にとって認めない。財務委員の一人は「自分も叔母を同じ肺ガンでなくしているので気持ちはよく分かるが、個人的なことで選択権を与えることはできない」って言うんだよ。

でもさ、わたしはここで「じゃあ、法律や規則は誰の、何のためにあるんだよ!!」ってその場で叫びたかった。異性愛者にせよ、同性愛者にせよ、行き着くところは個人じゃないか。異性愛者は婚姻できる、それだけで遺族年金が(自動的に、っていうと変だけど)受給できる。けど、同性愛者はそれができない。それが問題なんであって、これは一体「個人的な問題」なのかよ、ってね。

彼女の同僚やあと、ニュースにもいろいろなったんだろう。街中が「彼女たちに対して正義を求める」という意思表示をし始め、そして州知事からもこの件に対して電話が財務委員のところにかかってくる。彼女の命ももう長くない、ということもあっただろう。そして郡財務委員会は臨時に関係者を招集する。そこにはもう車いすに座って酸素ボンベを吸入しながらヨレヨレになったローレルの姿もあった。ただ、一人、「婚姻は男女のものである」と強硬に言い張っていた一人の委員だけは欠席する。そして、委員会が始まり「選択権を与えるかどうか」について、一人一人の答えを聞く。結果はすべて「Yes」。こうしてパートナーへの遺族年金が受給されることに決まった。

カメラは郡の財務委員の話を聞こうとするが、それはすべて拒否された、と言うことだった。そして「アメリカでは10万組(だったかなあ~?)の同性パートナーがいるが、彼らには未だに(ローレルが亡くなってから9ヶ月後)遺族年金の受給の資格がない」という字幕で終わる。

でもね、わたしはそれを見て「日本になんか一組もいないよ」って思ったよ。アメリカと日本は多分、根本的に遺族年金の制度が違っているから何とも言えないんだけど、少なくとも同性カップルは社会的になんの権利もない。ただ、個人個人が一緒に暮らしている、それだけだ。何十年一緒にいようとね。そして日本の場合、まさか県単位で「婚姻を認める」わけにはいかないので、やっぱ変えるとすると国から変えなければいけない。もちろん日本はアメリカと比べて遅れているのは分かってるけど、やっぱねー、なんで同じ地球上のことなのに、違うのかなって思うよ。まぁそれを言うと、一方で同性愛行為を行なったというだけで逮捕されてしまう国もあるのは事実だけれど。

あと思ったのは、同僚が証言で彼女のことをどんなに優秀な警官だったかを述べるんだけど、これがもし、優秀じゃなかったらどうなったんだろう、中で「銃の扱い方が男性よりも上手く、男性が嫉妬するほどだった」って言ってたけど、もしそうじゃなかったらどうなったんだろう。それは彼女への誉め言葉ではあるかも知れないけれど、じゃあ、彼女が人並みの警官だったら、同僚は証言もしないし、他の人も応援しないのだろうか、とそんなことを思ったりした。こういう権利を勝ち取れる人は、他の人よりも優秀で、人一倍頑張る人じゃないと無理なんだろうか、と。そこのところがちょっと複雑な気分がしたかな。わたしはとうに頑張るのを諦めている人間だからさ。

たった40分しかないドキュメンタリーだったが、ずっしりと重みのある映画だった。

一方、面白いよと言われて観た「スコットと朝食を」だが、んー、わたし、1回でその映画をすべて理解できる人間じゃないってことを忘れてた(苦笑)なんかさ、出てくる人が多くって「この人誰だっけ?」とか思ってたら、話の筋が分かんなくなってた(苦笑)これは「フリーヘルド」と違って、普通の「創作映画」(って言うのかな、フィクション映画って言うのかな)だからか、前の映画がずっしりした分、なんか軽くてね(当たり前だけど)。

ただこれはカナダ映画なんだけど、カナダは同性婚できる国にもかかわらず、アイスホッケー選手を引退後、キャスターをしているってことからか、公にはカミングアウトしてないゲイでね。「あー、そういうこともあるんだな」って思った。だけど、公にしてないと思ってるのは本人だけで、本当はバレバレだった、って話なんだけどね(笑)結局あのスコットはあのまま育ってゲイになる(というと変な言い方だけど)んだろうか、とか、いやそれともMtFかなとか、まぁいろいろ考えもしないでもないが、「子供は大嫌いだ」と言い張り、パートナーの兄の子供を引き取っても「自分は関わらない」つもりが、そうはいかなくなって。。。そんで結局離れられなくなって。。という結構「分かりやすい話」ではあった(って、大筋は分かるのよ。細かいところが理解できなかったの!!(苦笑))あと、ゲイ映画にしては、一切SEXシーンもなかったし、最後の最後、ようやく二人で肩抱き合ってキスする(人前でね)、って、なんてーのかな、この人たち、子供が来る前は一体、二人でどんな生活してたのかしら?なんて思ってしまった。だって、二人きりのシーンでも、全然カップルって感じがしなかったんだもの。

多分、こういうのが今時の「商業映画」なんだろうなーって思った。まぁこういうのも一つは観ておいてもよかったかな?って感じかな。。

しかし、人(しかも外国人)がたくさん出てくる映画を観ると、わけわかんなくなるってこと、すっかり忘れてた。明日からが不安だ。。(苦笑)

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07-13 Sun , 2008
第17回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭に行ってきた
今日は午後から「第17回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」に行ってきた。あ、今日観た作品は「シェイエンヌを探して」っつーフランス映画と「彷徨う花たち」っつー台湾映画。だけど、この作品はまだ、今後青山の「スパイラルホール」でもまたやるから、これ読んじゃうとネタバレの可能性有り。なので、この作品を観たかったら、この日記は読まない方がいいかも、といいつつ、実は「彷徨う花たち」の方はね、途中で字幕が出なくなってしまうミスがあり、どのくらいだろうか、30分近くわけ分からない北京語だのを聞いて、内容を想像してただけなので、実はこっちも映画全体がよく見えないのよね(苦笑)これが「広東語だったら分かったのにー」なんてことは言わないけどさ。英語の字幕も出ない作品だったので、ホント、「いいところで。。」って言いたいところだけど、まぁ、結局は途中からまた字幕が復帰して、なおかつ払い戻しを受けたい人は払い戻しを、この映画の半券を持っている人は、17日からスパイラルホールでやる20本の映画、どれか観ていいことになったので、よしとしよう。んで、わたしらは多分、また同じのを観に行くと思う。

しかしアレだね、両方とも「レズビアンもの」だったからか、空席が目立ってたのと、男性がほとんどいなかった。わたしの「レズダー」によると、9割以上はレズビアンかバイセクシャル女性だったと思うって、それはウソ!(爆)わたしにはそのような見分けはつきませぬ。

特に「シェイエンヌを探して」は、観客少なかったな~。うちら、昨日、ネット予約したんだけど、観たいところの席が「空いてない」って言われて、どのくらい人が来るんだろう?と思ったら、空席が半分くらいはあったと思う。要するに1人分だけの席は空いてるけど、2人分が難しかったのかな。でもたくさん空いてたけど、、どういうシステムしてるんだろう??で、結局前の方の真ん前で観たんだけど。右側に日本語の字幕が、下に英語の字幕が出てて、時折両方いっぺんに読めたりするんだけど、英語に訳されているところが日本語には訳されてなかったり。。多分、フランス語ではもっともっと情報量があったんだろうな、と思った。しかもフランス語での映画の題は「シェイエンヌを忘れる」って意味なんだそうだ(うちの彼女、フランス語分かるので)。けど、英語の題名が「Looking for Cheyenne」になってるんだよね。日本語の題も「シェイエンヌを探して」だから、どっちかというと英語の方に引っ張られてる感じがあるんじゃないかなあ、というのがうちらの予想。ただ、内容的にはやっぱ「忘れる」より「探す」の方が合ってたような感じはした。

っていうより、この映画、なんてーか、フランスっぽいって、何がフランスなのかわたしにはよく分からないんだけど、なんとなくフランス的な映画だよなって感じ。

一般の映画だと、まず文化的な面に対してはあまり違和感は感じないんだけど(そこではそうなんだ、ってもうなんとなく自分で分かってるというか)、ことにLGBTものに対しては、その国で性的少数者に対してどのくらい法律が整っているんだろう、とか、他の人に受け入れられているんだろうとか、そういうのが分からないと、その映画を本当に理解したことにはならないんじゃないだろうか。。とか、そんなことを思いつつ観ていた。だって、フランスって言ったらPACS法がある国で、同性同士でもパートナーシップを「契約」できる。友だち同士でもできる。そういう国だ。で、周囲の人はその人がレズビアンだってみんな当たり前のごとく知っている。それがもう「前提」なのだ。

一方、「彷徨う花たち」の方は、んー、全部理解できなかったので、勇み足かも知れないけど、状況は日本と割と似てると感じた。ただこの映画、出てくる女の人、全部レズビアンなんだもの~。何も言わなくてなんで分かるの??みたいな感じがした(笑)

でね、「シェイエンヌを探して」なんだけど、わたし、みっちり「計算してある映画」が好きなのね。んで「現実的な映画」が好きなのね。それと照らし合わせてみると、この映画、「わけわかんない~」映画だった(苦笑)だってさ、なんで主人公を「お持ち帰りした」女性んちに、主人公と関係した男がいるわけ??それが単なる主人公の「想像の世界」だったらいいかもしれないけど、そこで話のキーワードとなる言葉を言われちゃ「あれはなんなんだよ??」ってことになるでしょ。。それってどうやって理解すればいいんだか。

主人公は学校の化学の先生なんだけど、相手がジャーナリストなんだけど、1年くらい職がないのね。で、電気も水道もぜーんぶ止められちゃって。で、主人公が「面倒をみる」っていうんだけど、相手は「政府の世話にならない。自給自足でやっていくんだ」って自分の家から自分の荷物持って、自転車でパリからすげー遠くに行って、そんでそこで住むんだけど。なんかさ、自動車は「環境に悪いから乗らない主義」の人で、文明とか文化を否定してる感じで、なんというか、すんげーある意味「進歩的な人」なのかも知れない。進歩の行き着く先が、原始時代みたいな生活、ってのがねー。この作品の監督はもしかしたら、そういう人たちを皮肉っているのかも知れない。で、もう一人、別にこのジャーナリストとはジャーナリスト繋がりみたいな異性愛者(か両性愛者かどっちか)女性は、ロシアから来た男性と一緒にキャンピングカーみたいな中で暮らしてるんだけど、この人達も主人公の相手と同じ考え、というか、どっちかというとなんかこのジャーナリストに引き込まれた印象なんだよなー。でもキャンピングカーって車じゃん?この点、矛盾している。。とわたしは思ったんだけど。で、ウサギなんかを捕って食べるんだよー。逆さ吊りにして、皮剥いでるの~(怖)で、川で魚獲ったりして生きてるのね。

で、主人公の女性はシェイエンヌを忘れようとレズビアンバー(みたいなとこ?)に行くんだけど、なんかある女性に目を付けられて、お持ち帰り。。なんであんなに簡単にお持ち帰りできるのよ!!とかまぁわたしが言っても仕方ないか(苦笑)

その他、わけわかんない男(実は主人公とも性的関係あり)とか出てきて、なんてーの?わたしがわけ分からんから、何も言えない。。この人、何して食ってるの?って人だし、学校の生徒には手を付けるし、自称「博愛主義者」なんだそうだが。。

わたし、これだけ意見が合わないカップルだったら、ぜーったい元サヤにはおさまらないと思ったのに、さにあらず。結局さ、主人公がシェイエンヌのところに車飛ばして行って、で、結局シェイエンヌも彼女のことが忘れられないみたいでさ、なんで会ったら嬉しそうな顔してSEXすんだ、とか、ちょっと観ててイライラした(苦笑)で、主人公はシェイエンヌに対して「今の学校から異動希望を出してこの近くに来る」っていうんだけど、シェイエンヌは今の生活のままでいたいような感じ。そしたら主人公が切れちゃって。「わたししか変わらなきゃいけないの?あなたは変わらないの??」って激怒して、車に乗って帰っちゃうんだよね。でも、わたし、この言葉というか、その前にシェイエンヌがパリから出て行く前にもっと話し合っておくべきじゃないかって思ったんだけどさ。それを言うと、話がそこで終わるから、映画にならないんだけどさ(苦笑)

で、キャンピングカーに住んでる女性もロシア人男性とケンカして、ロシア人男性が出てっちゃって。。でもどーもこの人、シェイエンヌのことが気になってたんじゃないかなあって気が。。別に何もなかったんだけどね。あのあと彼女は一人であそこで暮らし続けるんだろうか。シェイエンヌは最初、自転車で主人公のことを追いかけるんだけど、道で転んじゃって、で、結局「ヒッチハイク」してパリに戻って主人公に会いに行くのね。車に乗らない主義のシェイエンヌがそこで車に乗って自分を変えたってことは分かったんだけどさ。

主人公がシェイエンヌのところに行っている間に、事情があって家に帰れない生徒を家に泊めるんだけど、そこに例の「博愛主義の男性」がやってきて、で、SEX。。。挙げ句、主人公が自分の家に帰ってきたら、学校の生徒が何人もいて学校で「ストライキ」(字幕だと「デモ行進」になってたけど、彼女によると「ストライキ」って言ってたそうだ)を起こす計画なんか立ててて。。

なんかわけ分からん説明なのは、きっとわたしがこの映画をちっとも理解してないからだと思う。しかも、わたし、別にこの映画の主人公がレズビアンである必要性を全く感じなかったし、その必要性を感じないってことはある意味すごいんじゃないかなって思った。レズビアンだからどうこう、って話じゃないんだよね、これ。しかもわたしなんかフランスって言うとすぐに「PACS法」って思っちゃうけど、「P」の字も出てこないんだよ、もはや。なんかその感覚に付いていけなかった映画だったー。付き合ってるから一緒に暮らそうとか、契約を結ぼうとかそういう考えが全くないんだよ、この映画。確かに忘れられない恋人を追いかけていって、元のサヤにおさまるって単純な映画なんだけど「政府のお世話にはならない」だの「自給自足で暮らす」だの、全然「LGBTの話」じゃなかった。だからなんかねー、、わけわかんなかったよ(笑)

で、もう一つの「彷徨う花たち」なんだけど、これ、3部構成なのね。でも1部の最後の方から2部の最後の方まで、ミスで字幕が出なくなっちゃって、画面を観て想像するだけになってしまった。これ、全部観たら結構面白いんじゃないかと思う。何組かのレズビアンカップルと偽装結婚をしたレズビアン、ゲイカップル(?)が出てくるんだけど、その過去と未来をうま~くつなぎ合わせて、しかも「列車」というものを時間に見立てて、なんか「メビウスの輪」っぽくなってるみたい。ってあくまでも「みたい」なのは、字幕が出なかったから、その部分、ちっとも分からなかったのよ!(苦笑)

しかし、台湾映画で思い出すのは、去年のAQFFで観た「アジアン・ガールズ短編集」の「トラベル」って映画で。。これも同じように「列車」が使われていた。最後は二人で心中しちゃうんだけどね、この映画。。実際にあった話らしいから、ショックで、わたしは一度しか観てないんだけど、すんげー頭に残ってる。んで、もうあんなの二度と観たくない。。あ、話は逸れた。

でね、一人、背の高い男か女か見た目じゃよく分からない女性が出てくるんだけど、トイレでさ、女性トイレから出てきて手を洗っていると、掃除のおばさんにジロジロ見られるのね。ここのところ、なんか人ごととは思えなかった(苦笑)けど、この人自身は映画の中で「女にもなりたくないし、男にもなりたくない」って言ってた。胸もサラシ巻いてたし。。でも男になりたいわけでもないから、こういう人ってどういうんだろうね。まぁ、そこら辺はその本人は悩んでいるわけでもないみたいだったから、いいけど。でもわたしは彼女は「レズビアン」だと思ったね。でも字幕に出てくる一人称は「僕」だった。中国語だと男でも女でも「我」だけど、訳す人が「わたし」とはしたくなくて「僕」にしたかったんだろうな、と。現実社会で日本では「わたし」とも「僕」とも言いたくない人は「自分」って言ったりするけど、さすが、そこまでは訳せなかったんだろう。そういう点で日本語って難しいかもね。

しかしこの映画、出てくる小学生の女の子からなにから、みんな「女好き」だから、いくらなんでも話できすぎ!って思ったりもする(笑)

でも、一番いいところで字幕が切れちゃったので、この小学生が成長してどうなったかとか、映像は観てるんだけど、何を言ってるか分からなかったので、そのところが残念。。これは次に期待しよう。

ってわけで、2本観てきたあとで、ひとまずちょっと食べて、それから久しぶりに二丁目に行った。今、まだ「ルミエール」で今度はスパイラルホールの方の映画の前売りを買えるのね。明日までだったと思ったけど。で、昨日の夜、観たい映画をピックアップしておいて、で、その前売りを買ってきた。それによると、確実に18、19、20日の3日はスパイラルホールにいますね(笑)3日連続行く体力があるかなあ~?

しかーも。ルミエールで久々「BAdi」も買った。あれってバックナンバーになると安くなるのね。どのくらいの期間を過ぎれば安くなるかまでは見てこなかったけど、少なくとも去年の10月、11月、12月の3ヶ月は1冊は本来なら1,500円するところが500円で売ってた。だから3冊買ったんだけどさって、なんで買うかと言えば、マンガ読みたいんだもん(爆)店のにーちゃん、腐女子二人組と思ったかな~。それとも彼女と一緒にいたから変なレズビアンカップルと思ったかな~?まさかゲイカップルには見えなかっただろう(爆)

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07-17 Tue , 2007
第16回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭に行ってきました
昨日は彼女と「第16回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」に行ってきた。この映画祭は昨日で終わり。この映画のパンフレットをもらったときは、観たいものがたくさんあったんだけど、実際は忙しくて、やっと最終日に行くことができた。

観たものは「ガールズ短編集」と「ボーイズ短編集」。これはAQFFで「アジアン・ガールズ短編集1」「アジアン・ガールズ短編集2」「アジアン・ボーイズ短編集1」「アジアン・ボーイズ短編集2」を観てきたので、それとちょっと比較してみたいと思ったのだ。

最初に「ガールズ短編集」を見たんだけど、、やっぱ「アジアもの」とは全く違う。あのときは唯一、韓国で作られた「タンポンの使い方」だけが笑えて、あとは重苦しい映画だったが、少なくともわたしは5本の短編集のうち、4本は笑えた内容だったと思う。ちなみに、上映されたのはアメリカ、カナダ、アメリカ、カナダ、アイスランドの映画。

1本目の「Hold up」は、この5作品の中で一番短い7分ものだが、実はこれが一番笑えて面白かった。ある男女カップルが金がなくて知らない町のコンビニ(っぽい小さい売店)に強盗に入る、っていう話なのだが、主人公(女)が強盗に入る前に化粧したり、ストッキングも肌色の「分かる人が見たらすぐに分かる」という出で立ちで強盗に入るのだが、なんと、レジにいた人は「元カノ」だった、という映画。強盗に入る前の男女のカップルは、完全に男が尻に敷かれた感じだったが、元カノはしっかりした性格らしく、主人公は未練たっぷり。。この対比がめちゃくちゃ面白かった。付き合っている男の方には「ちょっと、店を出て行って!」と言って男に店を出て行かせるんだけど、元カノには「わたしたち、結婚するの」と報告しても、未練ありあり。。でも、元カノはそれに対して「よかったわね。わたしたちはもう関係ないのよ」って態度。「どうして(強盗なんか)したの?」って言われて「腹ぺこだから。。」と答えて、結局はお菓子を買っていく主人公。それに対しても元カノは「砂糖は身体に悪いわよ」なんて言ってる。もう、笑えた、笑えた。

これを観ただけで「うわー、AQFFと全然違う!」と思ったね。

2本目「Succubus」も、今度は「自分たちの子供が欲しい」という科学者の彼女との話。最早「誰かの男から精子をもらって妊娠する」ということではなく、遺伝子操作で自分たちの子供を作ろうとする、すごい「最先端」の話。ただ、主人公(女)は彼女のことを「ただ単なる実験材料としたいんでしょ。このことを研究発表したいんでしょ。それじゃ、妊娠できる期間が過ぎてしまうかも知れない」ってこと彼女と言い合い「原始的」な方法を使って妊娠しようとする。この「原始的」ってのが、彼女のお兄さんから「精子を取る」ってことで、お兄さんの家に忍び込み、猫の毒(だったっけ?)で、お兄さんを眠らせ「手コキ」で必死に精子を取るんだけど。。笑った~。「手袋は二重」で、1回目はすんなり取れたようだったんだけど、2回目のあの場面は。。風船ガムを膨らませながら、とか、適当な態度。もう「精子さえ取れればあとはどーでもいい」って感じ。まー、男には欲情しないんだから、当たり前か。で、結局はケンカした彼女とも元通り、めでたしめでたし、って感じの映画だった。ただ、その映画によると2001年にオーストラリアの学者が、2004年に日本の学者が実際に、卵子同士で受精させ、日本の実験では実際にマウスから子供が生まれたという。

3本目「Hung!?」は、ある薬を飲むと、1日だけペニスが生えてくる、という話だったが。。確かに笑えることは笑えたんだけど、わたし自身は「ペニスが欲しい」と思ったことはないので、、ちょっと違和感を覚えたかも。5人のレズビアンがこの薬を試すんだけど、そのうち2人はカップル。この人たちはどうやら、一日中セックスばかりしていたみたい(爆)でも、これって、ほとんどゲイカップルみたいだよね。。一体、どうやってセックスしたんだろうか、とか。あと、生えてきた人がみな、みんなと大きさを比べてみるんだけど、男性って日常的にそうなのかなあ?って感じた。で、その映画の中でも「自分は小さいーー!」とか言ってる。えーと、考えたこともなかったけど、そういうものを持つと他人と比べたくなったり、しかもやはり大きい方がいいのかしら、とか。で、だいたい状況が分かった、という男性(この人はノンケ?それともバイ?)から「女は手強いから男を狙え」というアドバイスをもらうんだけど、所詮、みなレズビアンなので、男には興味ないのね。。女ばかり狙って全員失敗。あ、そのうちの一人はセックスには興味なくて、ただただ水を飲んで「立ちション」ばかりしていたのも笑えたな。てーか、わたし、別に立ちションなんかしたくないんだけど。。という違和感もあったのは確か。。まぁ、爆笑できたけど、気持ちはよく分かんない、といったところか。

4本目「Dichotomy Innocent」は、レズビアン映画というよりトランスの映画だった。この映画は笑えなかった。子供のときから「女っぽい格好」をしたくなかったけど、親に無理矢理「女っぽく」させられて、今は超短髪で、胸にもサラシ巻いている、という主人公(つーか、そこら辺の状況がイマイチ見えない映画ではあった)。最後にラップ調で「男女のトイレ」の歌が流れるんだけど、実は、わたしもつい先日、また公衆トイレで男に間違われて。。そのときは「わたし、女なんですよ。ほら、胸もあるし(←ホントはないが(爆))」って言ったら、その人は丁寧に「ごめんなさい」って謝ってくれたんだけど、そのあと「カッコイイ男の子かと思ってしまって」って誉め言葉と捉えていいのかどうか分からない言葉を言われたのよね。わたしも子供時代はもっと髪の毛が長かった(といっても、おかっぱくらいだったが)し、スカートはすごく嫌いだったから、この主人公の気持ちはよく分かる。ああ、だけど、わたしは制服には全く違和感はなかった。トランスの人は制服はとても大きな問題だと聞いたことはあるけど。何故なんだろうね?ただ、わたしは制服は小学校と中学校だけで、高校は私服だったから、ほとんどジーンズって感じだった。けど、たま~に「女装」したくなって学校にスカートを穿いていったりもしていた。あ、だけど中学時代の制服のスカートだったけど。制服だったから、着ることができたのかしらん?でも高校卒業してからは、ほとんど全くスカートを穿くことはなくなったね。。わたしは「トランス」じゃないのに、この点ではトランスの人と結構被ったりしている。でもレズビアンであるわたしは「わたしはトランスじゃないんだよ~」って言いたくもなる。。ちょっと複雑な気持ちで見た映画だった。

最後の作品「Family Reunion」は、悪いけど、途中からある程度話が見えてきてしまった。最後の想像が付く映画、ってのは、わたしはあまり好きじゃない。ただ、この映画で思ったのは「結婚相手が、何系の人種か」ってことが話題になる、ってことだった。アイスランドの映画だったんだけど、ヨーロッパでは、そういうことが日常で話題になるのかなあ。まぁ逆に日本人は「結婚相手は日本人に決まっている」という概念が強すぎて、話にもならないと思うんだけどね。で、相手が外国人だったりするとすごく反対にあったりする。島国ならではなんだな、と思うけど(考えてみれば、アイスランドも「島国」と言えるのかもしれない。ただ、アイスランドのことって全く知らないから、住んでいる人がどう認識しているのか分からない)。

しかしこの「ガールズ短編集」は、思ったよりも随分客が少なくて。しかも見る限りにおいては、男性はほとんど(というより、わたしは誰一人見かけなかった)いなかったと思われる。これはどう分析すればいいのか。「ガールズもの」は、異性愛者の女性や男性(同性愛者、異性愛者)はほとんど興味がないのか?それともこれは、もう既に1回上映されたから、そっちの方が人が多かったのだろうか。よく「女性カップルは購買力がない」と言われるが、これはまさにその典型かも。。

あと、見終わった感想としては「キスシーンだけで、裸がないーーー!」ってこと。ほれ、わたし、エロビアンだからさ(爆)短編集でセックスシーンを入れるのは難しいのだろうか。でも、市販されている「レズもの」のビデオは、実は全く萌えない。だってあれって完全に男向けなんだもの。男向けのビデオはレズビアンは萌えない。そういう意味で、こういう機会は貴重だったのにー!見終わって一番に「セックスシーンがなかったー」って言いました、わたしは。うぅ、それほど飢えてます。。

ところ変わって、今度は「ボーイズ短編集」。人がめちゃくちゃいてびっくりした。確かにゲイカップルとか男性が多数いたけど、女性もかなりいた。女性カップルは、、いたかなあ?女性は一人で来ている人が多いようだった。ということは「ゲイもの」は、女性でも見たいってことになるよな。なぜ「レズビアンもの」は男性は見に来ないんだろうなー?あ、ゲイは多分、興味がないからだと思う(爆)。ただ、あとで彼女と話してたんだけど「ガールズ短編集」をノンケ男性が見たら、怒り出すのではないか、と。ほとんど「男なんかいらない」って世界だし。出てくるのは、情けない男性ばかりだし。そういうのを好きこのんで見るノンケ男性ってやっぱあまりいないんだろうな。

「ボーイズ短編集」も5本。アメリカ、カナダ、カナダ、イギリス、スウェーデンの映画だった。

1本目「Where We Began」は、なんだかめちゃくちゃ分かりやすい英語だった。。というか、字幕が出るじゃない?字幕って文字制限があるからパッと一瞬で読めちゃうわけ。でも「あれ、この部分がよく分からないなあ~」と思って、英語を聞いてみるとよく分かるの。日本語って、主語があやふやにできるから、字幕だけじゃ関係がよく分からないんだけど、英語は「he」とか「she」(それに類する代名詞)で必ず受けるから、関係や性別まで分かってしまう。でも逆にして考えると、日本語って性別をあやふやなままで終わらせることもできるのよね。そういう意味ではかなり便利な言葉なのかも。

で、外国人も結構いるんだけど、彼らはやはりそのまま聞いているから、日本人と笑うところが違うのよね。ちょっと遅れて笑う。このギャップがなんとも。。

ええと、この映画は初っぱなから「裸」が出てきて「やっぱなー」と思いました。。orzあと、全般に思ったんだけど、ゲイカップルの生活のなんという贅沢さ。なんというか、住んでる場所が全然違うの!!生活水準が全く違うって感じ。ここでも「女性」と「男性」の差を感じたわ。。もう、男性の方はすっごいきれいなシステムキッチン完備のマンションの一角に住んでいる、ってことがありありと分かるんだけど、女性の方は、それは全く感じられなかった。。ちょっとショックでした。ここら辺にも差があるんだな、と。

この映画は、片一方がヤクはやるわ、お金はせびるわで、めちゃくちゃなヤツだったらしく(美形なのに。いや、だからこそ?)、別れちゃったみたいなんだけど、でも主人公は、元カレに未練たらたら、、そこに元カレから電話がかかってきて。。って話なんだけど、元カレの方は、どうなんだろう?お金を相変わらずせびってはいたが、その誘惑にも負けず、主人公が走り去っていって、、それから元カレは、自分の本当の気持ちに気がついた、ってことなんだろうか。だって、明らかに「誘惑している男性」に気がつかなかったもんね。。なんか、お互いに好きなのに、一緒にいることを拒絶するって、悲しいかも。と思ってちょっと泣きそうになった。あ、会場からはすすり泣きらしきものが聞こえてきました。

2本目は「Parting Words」。ええと、これ、英語ではなくフランス語でした。なので、フランスの映画かと思ったら、カナダのケベック州の映画だった。しかし、これは、何が言いたいのかよく分からない映画で。。ええと、見ながら「フランスってPacs法があるじゃん」って思ったけど、あとでカナダと聞いて「でもカナダにも確か同性婚は認められてたよね」って。。今考えても謎だ。どうも死ぬ間際の男性が病院に運ばれていったんだが、なんかの病気(これがよく分からない)の末期症状みたいで、救急車に乗せられてもっと大きい病院に移る間の救急車での模様なんだけど。。片方の男性は、明らかにその病気の男性とカップルだなと分かるんだけど、一緒に付いてきた女性は誰?みたいな。で、結局言いたかったのは「自分の日記は燃やせ。あれは恥だから」ってことしか分からなくて。よく分からない映画だったー。

3本目「Night Together」。これもイマイチというか、イマニほど分からない抽象的な映画だった。抽象的、というよりも「この映画、一体、何を伝えたいのか??」ってことで。。訳分からない映画は苦手だー。

4本目「Scarred」。実は「ボーイズ短編集」の中でわたしが一番「面白い!」って思った映画。主人公は右頬にナイフの傷跡が残る(割と)イケメン男性だったが、どうやら過去にトラウマがあるらしい。で、あるとき「卒業制作」で彼を撮る女性から、あるイケメン男性を紹介されるのだが。。あ、この映画も英語がめちゃくちゃ分かりやすくて。日本語字幕に「イケメン男性」って書いてあったので、英語ではなんて言うんだろうと思って聞いてたら「gorgeous」と表現されていた。「ふーん、イケメン=ゴージャスなんだー」って思って、映画が終わってから彼女に「ねーねー、イケメンって、ゴージャスって表現するんだね」と言ったら「本当にそういったんだったら、それは明らかに誤訳だ」って言われてしまった。あ、ちなみに彼女はそこの部分、英語では聞いてなかったようです。

確かにね、イケメン男性として出てきた人は、、熊さんタイプのヒゲ生やした人だったのよね。でも彼自身は建築家で知的そうで、確かに「ゴージャス」ではあった。だから会場に一瞬「これ、イケメン?」っていう雰囲気があったのは確かだった。訳し方って難しいのね。

顔に傷を持つ主人公は、いつもその傷を人からジロジロ見られる。しかもどうやら、物語が進むにつれ、その傷は、どうやらいわゆる「ホモ狩り」でできた傷らしい。その頃は、彼自身、自分がゲイだと言うことに気がついていなかったらしい。で、相手を襲うつもりが、逆に襲われ。。で、傷を負ってしまう。

ところがその紹介された「イケメン男性」は傷のことはまったく気にも留めていないようで、彼は紹介された自分の写真を撮った女性に「なぜ彼は自分の傷のことを全く聞かないんだろう?」と聞く。そのとき、彼女はすごーくビミョーな顔をする。実はね、そこで気がつかなかったらいけなかったんだろうけど、わたしはすっかり騙されていたのよね。「イケメン男性は、彼の傷には敢えて触れないすごくいい人だ」って。しかし、、実は全く違っていた。イケメン男性は、実は過去に彼を襲われ、逆に彼に傷を付けた、その彼だったのだ!!なんという展開。いやあ~。見事に騙された。これは「イケメン男性」の復讐劇だったのだ。ちょっとぞーっとする話ではあったが、わたしはこういう映画が好き。ただ、何回も観る映画ではないと思うけど。

5本目「LUCKY BLUE」は、なんというか、物語の展開が分かって、イマイチだった。というか、お互いの関係がよく分からないんだよー、みたいな。お互い、両親の連れ子だったんだろうか?英語だったら、そこら辺を補えたんだろうけど、スウェーデン語ってことで、何が何だかよく分からなかった。で、下に英語の字幕、横に日本語の字幕が付いていたんだけど、両方いっぺんに読めなくて。なんだか、片方は明らかに自分がゲイであると分かっているんだけど、もう一人はよく分かってないんじゃないかと。なのに、彼を誘い、煮え付かない態度で彼を翻弄する。ちょっと見てて「イラッ」と来た。唯一笑えたのが、父親が「カラオケ大会」の前に前髪にカーラーを巻いていたシーンか(苦笑)。最終的には「ハッピーエンド」っぽかったんだけど、前に観た映画がかなりショッキングだったので、逆に平凡な映画に見えてしまった。

結局、思ったのが「ボーイズもの」は裸のシーンが多いってこと。それと「ガールズもの」は、既にカップルで、という話が多かったが、「ボーイズもの」はほとんど「カップルであり続ける」って概念がなく、どちらかというと「出会い」や「別れ」について描かれていたこと、「ガールズもの」がほとんど笑えるものであったことに対し、「ボーイズもの」は内容が抽象的でよく分からないものもあったし、様々な切り口の映画があったこと。それだけ「ボーイズもの」はある意味「進んでいる」のかも知れない、と思った。

が、AQFFについても言えるが、これは所詮、短編集で、これだけでは状況は判断できない。しかも、この映画祭は16回も続いている映画祭で、これまでの短編集でどんなものが上映されてきたかは、全くわたしは知らない。なので、どのように「進化」してきたのか、わたしには全く分からない。もしかしたら「ボーイズもの」の典型は「出会い」とか「別れ」なのかも知れない。ただ、AQFFのときは「ボーイズもの」は割と「出会い」は多かった。「ガールズもの」は、女性差別や他の状況と絡めて描かれたものが多くて、悲惨だった。

性的少数者について付きものの「カミングアウト」、これは、ガールズの最後の作品でちょっと触れていただけで、ボーイズは問題にもされていなかった(家族とは縁を切っている、という表現は出てきたが)。これって、カミングアウトは既に乗り越えていると言うことなんだろうか、それとも、あまり触れたくないことなんだろうか?そこら辺が、突然、この映画祭を見た自分にはよく分からなかった。

そうそう、あとは、AQFFとこの映画祭を通じて、わたしは日本の映画を全く観なかった。だから、日本の映画がどこら辺に位置づけられているのか、わたしは今でも全く知らない。これって致命的だよな。。

「ガールズ短編集」を観る前に時間があったので、ロビーでいろいろ見ていたら、なんとすごく観たかった「Queer Duck」のDVDが売っていた。なので彼女に「お願い、買って~」とおねだり。買ってもらった。ああ、あとは東京プライドパレードのグッズも売ってたけど、例のバッヂのみ、完売でした。。呪いたい人がそんなにいるのかしら?って思ったけど、売り場のお兄ちゃん方に聞いてみたら「えっ、そんな使い方もあるんですね」って。。今は、東京プライドパレードに向けて、また増産中だそうだけど、すぐに売り切れるだろうな。買っておかなきゃ(爆)

帰ってきてから、早速「Queer Duck」を観たんだけど、、内容が難しすぎる!!これ、映画でもやったんだけど、もし観たとしても、意味が分からなかっただろうな~。アメリカのいろんなパロディーが出てくるらしいんだけど、アメリカの事情を全く知らないわたしにとっては、なんのパロディーなんだか、ほとんど分からなかった。かろうじて分かったのは、マイケル・ジャクソンのことと「卒業」と「愛と青春の旅立ち」のパロディーってことだけか?あとは短編集では多分「The sound of music」をパロっていたと思われる。。

あと、ゲイって言いながら(だって、アメリカではgayは女性も男性も指す言葉でしょ)、出てくるのは男ばかりで、中にはレズビアンだという人も出てきたらしいが、その人も皮肉られていた。。ホント、ゲイって女嫌いなんだわって思ったわ。ただ「ゲイ=やりまくり」って感じがしたので、その点で違和感を覚えるゲイもいるかも。しかし、オカマ言葉は全く分からないわね。。英語しゃべってるかどうかも分からないわ。。中で「デビット・ボウイ」や「フレディー・マーキュリー」、ゲイと言われた人やゲイ疑惑がある人、いろんな人が出てきたけど、なぜか大御所であるはずの「エルトン・ジョン」はパロられてなかったというのは、なにか理由があるんだろうか?

最後の最後で「ゲイに生まれてよかった~」とか「幸せ~」って連呼してたけど、わたしはまだそこまで考えが至らない、というか、無理してそこまで思わなくてはいけないのかとか思ってしまった。よく「ゲイプライド」って言われるけど、プライドってなんなんだろう?そりゃ、わたしのいつも付けている「レインボーバンド」にも「PRIDE」って刻み込まれているし、いつもそれを見ながら励まされているんだけど。でも、プライドって、いつの間にか湧き上がる感情なんじゃないか、とか、無理に思いこむ必要はないんじゃないだろうか、とか思わずにはいられない。わたしは自分自身に対して自己否定はしないけど、プライド、とまではまだ言い切れないと思ったりする。逆に最近はホモフォビックなことに対して、ものすごく敏感な自分がいて、そのことがすごく嫌だったりする。それっていつかは自分の中から消えていくものなんだろうか。でもそうなった自分がまだ想像できない。

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04-21 Sat , 2007
また、AQFFに行ってきました
火曜日にも行ってきたが、昨日もまた「アジアン クイア フィルム&ビデオ フェスティバル」(略称、AQFFに行ってきた。火曜日が「アジアン・ガールズ短編集1」と「2」だったので、今度は「アジアン・ボーイズ短編集1」と「2」を観に。

実は昨日は彼女は会社に行っていて家にいなくて、、しかも、仕事が終わってから、飲み会があるってことで、その前日になって「どうしよう~。一人じゃご飯食べられないよー」って言ってたんだよね。もともと一人だと、ほとんど絶食状態になってしまうの。これでよく一人暮らししてたもんだと思うけど。しかも、実は外食が大嫌いで(高いし)、自分の作る料理の方が圧倒的に美味しい。んだから、一人暮らしの時は自炊してた。でも今は自分の食べるご飯でさえ作りたくなくて、で、外に食べにいくのも億劫で、んで、困ったときはマイミクさん、ってことで、Mくんに「一緒に夕食食べない~?」と声をかけておいた。そしたら「いいっすよ~」って言われたので、ラッキー。

しかも、映画を観に行く直前にこれまたNくんが、偶然、日記にコメントくれたもんだから「一緒に行かない?」って誘って、、「アジアン・ボーイズ短編集2」を一緒に観ることになった。あと、思いがけず「アジアン・ボーイズ短編集1」を観た後、マイミクさんに声をかけられた。ま、金曜日に観に行くというのは知ってたけど、実は何を観るのかはよく知らなくて。。終わったあと、突然、後ろから声をかけられたので、びっくりした(^^;

「アジアン・ボーイズ短編集1」と「アジアン・ボーイズ短編集2」は、全部で12本。ガールズに比べると、短いのが多い。なので、実は中身、忘れちゃったのもあるんだけど。。(^^;

ただ初っぱなの「ゲーム・ボーイ」っていう映画、ゲイカップルでしかも既に養子縁組した子供までいるらしい。これにはおったまげた。「やっぱ、ガールズとは一足も二足も先に進んでるんだ」って思った。でもこれってアメリカ映画なんだよね、よく見たら。作っている人が「ケビン・チョイ」っていうアジア人らしい。ただね、中身は「結局なんだったの?」って内容で、、まぁ、カップルの片割れが浮気しそうになる、って話だったんだけど。結局最後は、子供の寝ている姿、そして自分もパートナーが寝ているベッドの中に一緒に入る、ってところで終わったので、あのままなんだろう。まー、浮気の話を題材にするなんて、やっぱり進んでるってことだよね。。

しかし、ボーイズ短編集2の初っぱなは、イスラエル映画「僕のマリオおじさん」ってヤツだったんだけど、これもイミフメイ。。「ガールズ」のイスラエル映画もよく分からなかったし、わたし、イスラエル映画って不向きなのかも。

ちなみにこの「僕のマリオおじさん」は、母子家庭っぽいところの子供だったが、なんか家で「ママキッチン」という店というか、宅配食事屋っぽいことをやっている。子供は配達係。そこにイタリアに住んでいる、というおじさんがひょっこり訪れる。子供はどうやらおじさんが大好きらしい。すごく嬉しそうだ。一方、子供の母親は、旦那の弟であるおじさんのことを歓迎するが、イタリアで仕事で忙しく、結婚しない義弟のことを非難する。で、おじさんはすかさずイタリア土産を義姉と子供にプレゼントする。義姉の方には香水らしきもの。子供には有名なブランドメーカー(わたしでも知ってるようなところだったんだけど、忘れた)のシャツ。「すぐ着てみろ」というおじさん。黒っぽくタイトなTシャツ。母親は「これは少しタイトっぽいんじゃないか」というが、子供は嬉しそう。その時点で、おじさんも少年もお互い自らがゲイであるということを知ってたんじゃなかろうかと思ってたんだが、、

夜中に携帯で電話していてどこかに出かけていったおじさんのあとを、バイクで追いかける少年。(携帯で電話しているとき、最後だけ英語だったのはなぜだろう??「Okay,bye」ってところ)出かけた先は、日本でいうところの新宿二丁目辺りか?それを見てなぜかショックを受ける少年。おじさんも少年が自分のことを追いかけて、見に来ているということを知る。

次の日、海岸でおじさんと少年が話す。(どういう話をしたのか、内容は忘れた)家におじさんが戻ると義姉がどうやら「イタリアに戻れ」と言ったらしく、おじさんは家を去る。その夜かどうかは知らないが、少年はおじさんからもらったシャツではなく、もっとギラギラと光ったタイトなTシャツを来て、おじさんの行ったゲイタウンに出かけていく、母親は夜中にこっそりと出かけていく自分の子供のことをベッドの中で複雑そうな表情でいる、という最後なんだが。見ていると疑問がいっぱい。

まず、おじさんは少年がゲイであるということは薄々は知っていたらしい。が、少年はおじさんがゲイであることを全く知らなかったのか?しかも、バイクで追いかけられる距離にあるゲイタウンの存在を少年は知らなかったのか?(毎日、バイクで宅配しているのに??)それに、最後のギラギラ光るあのTシャツはどこから手に入れたのか??わけ分からん。短編集なので、仕方がないのか??

とにかく「ガールズ」「ボーイズ」とも、イスラエルの映画は意味がよー分からん、という感じがした。意識が日本人のわたしと掛け離れているのか??ストーリー自体、緻密じゃないし、何が言いたいのかもよく分からないんだよね。。

ボーイズ短編集1の2番目の韓国の「ダンシング・ボーイ」は、日本でいうと高校生くらいの年齢か。主人公の少年は、運動が苦手でちょっとなよなよしている感じ。体育の授業で走らされても、すぐに脱落して、その後は見学、みたいな。その少年がクラスのスポーツが得意な少年に恋をしているらしい。なよなよしているが、面と向かって「今日のキミはいつもより素敵だね」とか言ってしまう。でも、そのスポーツが得意な少年は、そのなよなよとした少年のことを嫌っている。

で、あるときなよなよとした少年は、あれはどういえばいいんだろう、なんていうのか言葉を忘れてしまったが、ストリート・ダンスとでも言うのかな、公園なんかで肩を中心にしてぐるぐる回ってたりするやつ。それを見て感動したのか、自分でもトライしようとする。が、足は上がらないわ、踊り方はぎこちなく、まるでロボットが踊っているよう。何回かするうちに、ストリート仲間に「これからサウナに行くんだけど、お前も来ないか」と言われ、彼は仲間とは違う銭湯に行く。「金券」というものでお金を払っていたのだが、あれはなんなのだろう??

で、実はそこは、片思いの彼の実家で、彼はそこでお客さんにあかすりをしている、ということだったのだが。そのなよなよとした彼とは知らずに「お客さん、あかすりしませんか?俺、こう見えてもすごくうまいんです」と声をかける。で、結局はその少年とばれるんだけど、、彼はそこで、彼のストリート・ダンスを披露する。相当練習したのか、足が以前より少しは上がるようになっていた。しかも年寄りが「最近の若者は銭湯でダンスなんかするのか」と嘆いていたのには、ちょっと笑えた。で、最後の最後は子供が石けん投げて、それに滑って転んで頭を打って気絶して、、あかすりの少年に「大丈夫か?」と言われてニンマリする、という結構他愛のない話。

しかしあれ見て思ったんだけど、韓国では、学校の席は自分の座る席が決まっていないんだろうか?韓国の学校の制度をよく知らないから、何とも言えないんだけど、あれはどう見ても高校生で大学生ではない。少なくともわたしの経験では、高校生の時は自分の席は決まっていたような。ただ、うちの高校は2年から3年にかけて組替えがなく、しかも3年になって初めて、文系と理系の選択科目で分かれるから、そのときは自分の好きな席に座ってたかも知れない。が、もう忘れた。(^^;あと、授業中に飲み物を飲んでたけど、こういうことは、高校時代はあり得なかったな。。今の日本の高校生はどうなんだろう?

あとは韓国では、銭湯でも眼鏡を掛けて入るのだろうか?少年以外に若い人が一人いたんだけど、その人は眼鏡を掛けて入っていて、、あれにはちょっと驚いたな。わたし自身メガネを掛けているし、彼女もメガネを掛けているし、2人で銭湯に行ったこともあったけど、メガネを掛けて入ったことはないけど。。だって曇るんだもん。確かにメガネなしで歩くと、ものすごく怖いくらいの近眼でもあるんだけどね、わたしは。。(だから、慣れない温泉とか銭湯は苦手)

ボーイズを観ていると、一方的に相手に淡い思いを抱いている、というパターンが多い。ガールズの方は、もう最初から特定の相手が決まっていて、お互いに思い合っているが、最後はどっちかが抑えられなくてキスしちゃうとかね。しかも、ガールズでの女同士のセックスシーンは8本中1本しかなかった。が、ボーイズの方は、やはりというかなんというか、セックスシーンが多いんだな。

しかも「運動できない、でも勉強は得意」という学生(生徒)や、少しなよなよ系の男が主人公であることが多い。で、相手はほとんど、自分とは正反対なタイプなんだよね。。あれってちょっとステレオタイプっぽくないか?って思ったりした。

アジアン・ボーイズ集で一番多かったのは、タイの作品。12本中3本。ガールズの時、半分を占めていた香港の作品は、なんと無し。その代わり、台湾の作品は2本。

そのうちの1本である「雨上がりの虹に」って作品は、やっぱり学校が舞台(撮影協力のところに「国立高級中学」と書いてあった)なんだけど、これも勉強がものすごくできる少年とスポーツが得意な少年の話。ただ、韓国と違っていたのは、この二人が実は両思いだった、ってこと。授業内容が「屈折率で虹色になる理由」というので、これはレインボーとかけてあるんだろうな。二人が海岸沿いに自転車で二人乗りしているシーンが、印象的だった。ただ、この作品はキスのみでセックスシーンはなかったと記憶している。台湾ではやはり男同士でもこの程度くらいまでしか許されていないのか?でも最後の二人が砂浜にいて、海の上に虹がかかっている、というシーンで終わったんだけど、あの虹は明らかに作り物っぽくて、ちょっと興ざめ。

あ、でも途中、ドキュメンタリーを挟んでいたというのは、ちょっとガールズの香港の映画と似ていたかも。そこでは、ゲイだけでなくビアンの人たちの声も聞かれた。ということは、こないだのガールズの台湾映画は、あまりにも悲劇過ぎたってことかなあ。まぁ、これだけじゃ判断は付かないんだけど。わたしは最後まで香港の映画だと思ってたけど、途中で「蒋介石」って言葉が出てきたから、あの時点で気がつかないといけなかったのよね。。まぁこれはわたしの無知か。

そうそう、ボーイズには、ガールズと違っていたのは、兵役制度があるというのと、職業として軍隊に入れるってこと。あれはゲイにとってはかなり苦痛な制度と見たし、逆にゲイであることを否定して軍隊に入ると決意した場合もあった。やっぱり、ボーイズとガールズとは、問題になることが違う、ということを改めて認識させられたりした。

ホン・カオウという人が作った「夏の日」という映画。パンフをみると「イギリス」と書いてあるんだけど、明らかにイギリスではないところ。監督の名前だけじゃ判断できないのがアレなんだけど。英語の作品だった。けど、ものすごーくなまっている英語だった。「Come on」ってのが「コモン」に聞こえた。これも片一方の片思いで、相手はヘテロなんだけど(途中で彼が「エナに毎日フェラチオして欲しい」って言ってたんだけど、わたしは、外国人の名前にはとても弱く、、これが一体男の名前なのか女の名前なのかよく分からなかったのよね。だから、そこではわたしは判断が付かなかった)、片方が自分に思いを抱いていることを知るが「自分はそれを受け入れられることはできない」ときっぱりという。だが「お前は自分の友達だし、それに、お前を受け入れる人は必ず見つかると思う」と、理解してくれる。でも確か一番最後に「母親には一生カミングアウトしない」で終わったような。(この作品、たったの9分なので、印象が薄い。。)

日本人なのか、日系人なのかはよく分からないが、Ken Takahashiって人が作った「牛乳男」。(Ken Takahashiって、たかはしけん、ってことで、思い出すのはやっぱり建ちゃんこと「高橋建」。まー、それはどーでもいいです(笑))これが謎なのよねえ。。カナダで作ったらしいんだけど、街で牛乳を売っている超デブ(わたしが見るに、250kg~300kgはありそう。小錦が一番太っていたときの体重が確か、260kg台だったはず。あれ並み)と、牛乳を買って飲んだ青年との話なんだけど、、飲み終わった牛乳瓶を返したときに一瞬手が触れ合うんだけど、それで超デブの方が「ピン」ときて彼の後を追いかけるのよね。で、彼と一緒に車に乗ろうとするんだけど、なんせ超デブなので、助手席に乗れなくて、、バンの荷台に座って移動するんだけど(そう、ここでなぜ青年は普通の車でなく、バンに乗っているのか分かるような気がした)、次に写ったときはもう周りは深夜で、、一体、何時間、車に乗ってたんだ?って感じ。そのときは「まあ、この青年は『デブ専』なのね」って思ったんだけど、、相手の洋服を脱がせて、自分も脱がせてもらって、さてこれから、ってときに、相手の乳から、なんと乳が。えーと(汗)乳から乳が出てくるってことは、、この超デブは女だったのか??(ブリーフを穿いていたんですけど。。)しかも、普通、妊娠後じゃないと、女でも乳は出てこないよ??最後は、青年が超デブの乳を吸っているシーンで終わったんだけど、、んー。。よく分からない。しかも売っている牛乳は実は超デブから絞った乳だったんじゃないかとか、変な想像までしてしまった。なんというか、、現実感があるようで全くない変な作品だった。しかも!最後に制作者や関係者の名前がずらずらと出てくるんだけど、圧倒的に日本人かまたは日系人らしき名字で、しかも、その中のうちの一人が、わたしと同じ名字だった。。全然関係ないけどw

ボーイズ2の方の3番目「父の面影」(インドネシア)と4番目のアニメーション映画「イノセント」(カナダ)は、はっきりいって内容が抽象的すぎてよく分からなかった。。特に「父の面影」。主人公の背景が全くと言っていいほど分からなくて「なんじゃあ、こりゃあ」って感じだった。パンフによると「家出をした少年が父と向き合うまで」って書いてあるけど、家出をしたなんて思わなかったし(確かに最初は電車のホームの映像なんだけどさ)、男を求めてさまよっている、というのは何となく分かったし、ある男とセックスしてたから(しかも、鼻血出してるし。あ、鼻血は実は上の台湾映画でも主人公が勉強しているときに鼻血が出て。。鼻血ってなんかの「象徴」なのかしら?)、ゲイなのかな、という気がしたが、まさか海岸で主人公が波に打たれている姿を少し離れたところで見ている男性が実は父親だったとは、全く思いもしなかった。最後に「父に捧げる」という言葉と、キャストで「Father」って書いてあるのを見て「あー、あれは父親だったのか」と初めて気がつく始末。もう、何が言いたいのかよく分からなかったし(結局父親に対して、何が言いたかったのか、今でもよく分からない)、こういう抽象的な映画は非常に苦手。

4番目の映画も、、アニメ映画だったんだけど、とても宗教的な映画だった。二人の少年が、お互いに思い合い、二人で寝ちゃったってところから、なぜかエデンの園のリンゴを2人で食べたり、キューピッドから矢を放たれたり、、肯定的な意味で書いているのか、否定的な意味で書いているのか、よく分からなかった。しかも最後、男同士で寝ているところを神様に見られて、片方が神様から十字架を受け取る。そして、相手の男性を刺そうとするところで、、現実に戻り、片方が相手をボコっと殴って終わったんだけど。んー。わけ分からん。わたしは宗教的な話にも弱いし、きっと、そういう土台が分かっている人にはある程度は通じたかも知れないが、、殴って終わったということは、もう彼は同性愛を否定したということなんだろうか??これもあまりにも抽象的すぎて、わたしには理解不能。

ボーイズの中で、一番多かったタイの作品。「真昼のゴースト」はめちゃくちゃ面白かった。けど、わたし、途中の2/3くらい「????」と思いながら見ていた。うっかりして(というか、ノンケ男の自慰行為をアパートの上から見ていて)、落っこちちゃって「わたし、このまま死んじゃうの~?」って感じの話だったんだけど、死ぬんだったらこの際、思いっきり男とやりまくろうってんで、男捜しに。ただ、わたし、他のオカマのゴーストが出てくるまで、訳が分からなくて。。(^^;あー、なんかちょっと損したかも。

もう一つは「ロボット少年」。これは設定が未来なのかどうかはよく分からないが、「自分は少年を愛してしまったので、捕まった」ということから始まり、その主人公に対して高性能の少年ロボットが与えられる。ただし、愛してはいけない、という条件付きで。そのロボットはネックレスをしていてタグが付いている。それで管理されているらしい。でも、そのロボットは、どうしても「少年」には見えないんだな、これが。どっちかというと「青年」くらい。これくらいだと別に犯罪じゃないんじゃないの?と思えてしまうような年齢。まぁそれは置いておいて、そのロボットは高性能なのだが、自分の型番に「L」(Love)という字が付いていないので、人を愛せないロボットだったんだが、、ある日、いなくなったと思って必死に探したら、ロボット自身が自分のタグを取り外し、自分の身体に「L」を刻み込もうとしていた、って話だったんだけど、、これはなんとなく筋が読めた。が、しかし、なぜ主人公が「向かいのアパートにロボットがいる」って分かったのか、あそこがねー。「感」としか言いようがないんだろうか??ここがイミフメイ。

で、結局あれはどうなったんだろうか?主人公が当局に電話して、ロボット修理に出したんだろうか??だけど最後に「僕は彼のために歌を歌う。なぜなら僕は彼を愛してしまったから」で終わるってことは、修理後もロボットと愛しながら暮らせるってことなんだろうかなあ??もう一回見れば意味が分かると思うんだが、、なんせ1度じゃ理解できない部分があるのでね、わたしには。

ただ、、この作品、勃起しているアレが丸写しで、、それがものすごくわたしにはショックだったんですけど、、だって、初めてだもん、あんなの見るの。グロかったー。「ぎょえー」って感じで、、、まさか、無修正のものを見せられるとは思っても見なかった。ええと、ああいうのをゲイ男性が見たら、萌えるのかしら??ヘテロ女性は??とか思ったんだけど。。あの、、違う意味で、わたしにとってはものすごいショックな映画でした。。あ、一緒に見てたNに聞いてみるんだった(爆)

もう一つの「流れる川、落ちる花」はねー。上の2つに比べるとかなりシリアスな話だった。ただねえ、主人公が彼との思い出に花を押し花にしてるんだけど、どう考えても、あの本ではあんな風にきれいに押し花にはできない。なんというか、、紙がまるで牛乳の再生紙で作ったようなごわごわとした紙で、寝押しでもしなければ、到底押し花にできないような本だったのよ。わたしって、現実的だから、どうしてもこういうところに目がいってしまうのよね、、

で、現在と過去との話を織り交ぜてるんだけど、過去も大過去と小過去があって、大過去の方はまだ分かるんだけど、、小過去と現在がねー。着ている洋服が同じだったんで「これは一体、いつのこと??」とか思ってしまって、、どうもイマイチだった。こういう複雑な話は、1回見ただけじゃわたしにはよく分からない。ただ、主人公があまりに悲劇の主人公になりたがっていたような気がしてならない。押し花の花を川に捨てた時点で、彼とは決別したんだな、とは思ったが、で、彼は勢いよく流れる滝の中に飛び込んで本当は自殺したかったんだろう。だが、実際に行ってみた滝は、彼が想像していたものとは全く違っていて、、枯れていた滝だった。あのあと、彼はどう生きるのか?山を下りて現実の世界に戻っていくのか?そこら辺が何ともよく分からない映画だった。

最後の最後。台湾の「ヘイ!ジミー★」という作品。台湾女性と米国黒人男性(米兵)との混血の彼とその母親のドキュメンタリー。このジミーという人は、台湾でドラァグ・クイーンショーに出てる人らしい。台湾では学校で「ニガー」といじめられ、母親も自分の母親をはじめとする周囲から、非難囂々だったらしい。が、母親はそれには負けていない、強い母親。印象的には「このお母さん、すごいなー」って感じだった。どっちかというと息子がゲイであるというよりも人種差別と戦ってきた、という感じ?で、息子がゲイであることを知ったときはどう思ったんだろうって、とても興味を持ったんだけど、、映画ではそのことは全く普通のこととして、取り上げられもしなかった。これで終わってたら、わたしは「???」だったんだろうけど、実は、この映画のあとに、ジミーさん本人が出てきて、、そこら辺のことを聞かれてたんだよね。そうしたら「母親は自分がカミングアウトしても全く平気だった」「自分もゲイであると悩んだことはない」と話されていた。上にお姉さんが2人いるらしい。んで、今も混血の子供は差別を受けているって言っていた。

それが、、ジミーさんは母国語が台湾語(と言うのかしら?)で、英語は少し話せるらしいが、、台湾語の通訳の人がいて、その人が日本語に直してくれたんだけど、その人の日本語がとても意味不明で、、その後に英訳してくれる人もいて、そっちの人の話を聞いて、やっと意味が分かるって感じだった。

どうも木曜日に二丁目に行ったんだけど、あまり人がいなかったらしい。んで、二丁目にあるコンビニ「ampm」で「どこか面白い場所はないか」と聞いたらしい。が、店員さんはよく分からなかったといっていた。そうしたら司会のドラァグ・クイーンのマーガレットさんって人が「そりゃあ、アナタ、二丁目でもコンビニの人に聞いても分かるわけないわよ!」って。で、週末はわたしが楽しいところに連れてってあげるわ~って言ってた。

でね、そのマーガレットさんが「タイで一番のドラァグ・クイーンって誰?」って聞いたんだけど、、ジミーさんは「人それぞれ、いいところがあって、一概に誰が一番とは言えない」って、ものすごく真面目な答え。でも、多分、本当に彼はそう思っているのだろう。それにはもしかして、その前にものすごく人種的な差別を受けてきたからこそ、そう答えさせたのではないか、とわたしは思った。マーガレットさんもこれには意外だったらしく「まぁ、、とっても政治的に正しいお答えで。。でも、日本のドラァグ・クイーンの人たちに同じ質問をしたら、ものすごい答えが返ってくると思うわ」って言ってた。わたしもてっきり彼は「そりゃあ、このわたしに決まってるでしょ」って答えると思ってたから。。うーん。ある意味、すごく感動的だったかも。やはり、あの母親あってのこの子供なのか?

あと、なんの作品で出てきたのかは忘れたけど、ベッドの上に「鉄腕アトム」の形をした枕(抱き枕?)とか、あとはなんだっけな。。母親から「誰か好きな女性はいないの?」って話をされたときになぜか「松嶋菜々子」って出てきたのにはちょっとびっくり。日本の文化がアジアにこんなに浸透しているとは思わなかった。って確かに台湾では大の日本ブームだって聞いたことはあるけど。

ってわけで、なんか思いがけず長くなってしまったが、ボーイズとガールズの背景はやはり違うんだな、ってことが何となく分かったような気がした。ガールズは、やはりまだなんとなくぎこちない。話もほとんどシリアスなもの。それに女性差別が加わってくる。笑えたのは韓国映画のみ。それに比べると、ボーイズの方は、抽象的なものもあり、シリアスなものもあり、ギャグ的なものもあり、多岐に富んでいた。その分、やはりゲイの方が比較的余裕があるってことなんだろうか。

それとも、作られたところがカナダとか、アメリカとか、そういう作品も含まれていたので、そういう風に思えたのか。あとは、ボーイズには実験映画が3作品に対して、ガールズは韓国の1作品のみ。ま、絶対数が違うので(ボーイズ12本に対してガールズ8本)、単純には比較はできないのだが。

そういう意味で、ボーイズ短編集1と2も観に行けたというのは、とても自分のためになった。また、アジアの情勢を知る、という意味でもこのフェスティバルはとても意義深いものに思える。是非、日の当たらないような作品をこれからも取り上げていって欲しいと思っている。

ちなみに関係者の話では、このフィルム・フェスティバルには延べ1,000人以上の人が来たそうだ。これは関係者の予想を上回っていたらしい。これはとてもよいことだと思う。

その後、下北沢から新宿に移動して、Mくんと彼女と合流。そう、その頃には彼女の飲み会も終わっていて、、んで、一緒に映画を観たNくんも含め4人で、ご飯を食べた。閉店までいろいろ話した。楽しかったっす。付き合ってくれてありがとねー、Nくん、Mくん。

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04-18 Wed , 2007
AQFFに行ってきました
昨日は彼女と「アジアン クイア フィルム&ビデオ フェスティバル」(略称AQFF)に行ってきた。

実はわたしは'92年3月に行われた「第一回東京レズビアン・アンド・ゲイ フィルム・フェスティバル」に何度か足を運んだことがある。わたしが自分自身、ビアンだということに気がついて、すぐのことだった。この手のものに行くのは初めてだったから、勇気を振り絞って行った記憶がある。ただ、今、パンフレットを持っているのだが、何を見たのかは全く記憶にない。詳しいことは知らないが、このフィルム・フェスティバルは何回かで幕を閉じてしまった。もう一つ「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」というのがあるが、これは今年で第16回目を迎える。というか、これも多分、観に行った記憶がある(青山スパイラルホールに行った記憶があるので)んだけど、こっちの方は残念ながら、手元に何も資料が残っていないので、何とも言えない。

わたしは実は、映画を観るのは苦手。というか、何回も観ないと理解ができない。「『シュリ』はいいよお~」と言われ、家のスカパーのペイパービューで観たが、1度目は主人公さえ誰だかよく分からなかった。男が2人出てくるんだけど、顔が覚えられずに一人に「トミーズ雅」、一人に「五木ひろし」と名前を付けて、それで見分けていた。んで、途中で「トミーズ雅」の方が死んでしまったので「ああ、五木ひろしの方が主人公だったのか」と初めて分かったほどだ。結局、6回連続観た。最後はセリフの字幕を覚えてしまうほどだったが、それでも話のつじつまが合わないところがあって、あれは今でも謎だ。それにあれは、、言っちゃ悪いが「ひとつの場面」のために作られてるような映画で、しかもそれはわたしにとっては「あり得ない」シーンだったので、いい映画とは評価していない。感動の押しつけは嫌いだ。

そういうわたしなので、たった1回観るだけの映画を理解できるのか、とても不安だった。

わたしたちが観に行ったのは「アジアン・ガールズ短編集1」と「アジアン・ガールズ短編集2」。下北沢の「シネマアートン下北沢」ってところでやったんだけど、ここ「ザ・スズナリ」の近くなのね。ザ・スズナリには大学の頃よく行った。というのは、高校時代の友達が「燐光群」って劇団に入ってたから。でも今は「スズナリ横丁」ってのになってて、大学時代に行ったときとは少し様相が違っていた。

観に行った感想。
一番面白かったのは「アジアン・ガールズ短編集2」の1番目の作品。韓国で作られた「タンポン・マニュアル」という映画だったが、あれはものすごく笑えた。第3章からなるんだけど、第1章では「タンポンの使い方」、第2章では「マスターベーション」、第3章では「レズビアンタンポン」について。まるでニュース番組のような映画だった(というか、わざとニュース口調で読み上げていた)が、取り上げるネタがネタだったので、大笑い。特に第2章の「マスターベーションには衛生的なタンポンは最適です。野菜やその他のものにはコンドームを取り付けなければなりません。これはとてもめんどくさいことです。一方、タンポンだと屋内や野外、したいところでいつでもできます」というニュース口調で読み上げる一方、本当に野菜にコンドームを付けたのを写してたり、、だけど一方でなんだか全然意味のないものを写していたり、、(画面が3つくらいに分かれていた)しかも、最後に「このようにタンポンは、誰にでも使うことができます。レズビアン・フェミニスト、レズビアン・テロリスト、レズビアン・オポチュニスト、レズビアン・ペシミスト」って、ずらずらとありとあらゆる(?)レズビアンの種類を挙げていたときには、もうわたしも彼女も大爆笑。なのに、、周りの人は誰も笑わなかった。。な、なんで??(汗)ただ、惜しかったのは字幕が1カ所、間違えてたんだよね。「あなた」が「あたな」になってた。

わたしが昨日観た中で一番だと思ったのは「女たち」というフィリピン映画。確かにビアンの映画なのは映画なのだが、フィリピンに於ける女性の地位についても分かるようになっていて、その国ではいかに男女差別が激しいか、女性が不当な立場に置かれているかが、見ればすぐに分かるような映画だった。ドキュメンタリーとくっつけたような構成をしていたが「夫が死んでやっと幸せが訪れた」という女性たち。話の内容も面白かった。最後も希望が持てるような終わり方で、、ちょっと幸せな気分になった。カラーとモノクロの使い方も秀逸。

昨日観た中では、台湾の作品が一番多かった。(8作品中4作品)

その中で「ジャスト★ラブ」というのは、これまたドキュメンタリーを挟んだ映画だった。中文大(香港中文大学)の卒業生と現役生の話だったが、出てくる女の子がかわいかった。が、実はわたしはどっちがどっちだか、はっきりいって見分けが付かなくて、最初は「????」だったんだけどね、、途中で母親と同性愛についての番組を見ていて、母親が「あんなふうになっちゃいけないからね」と言っているのが受けた。というか、ドキュメンタリーの部分をテレビ番組として放送していた、というシュチュエーションだったのかなあ、、おそらく唯一の接点がそこだったので、多分そうだと思う。ただ、映画の中でジャーナリズム専攻の子が「将来は自分をモデルにした映画を作りたい」と言っていたので、、あれはある意味自伝的な映画ではないのかとも推測しているが。しかし、疑問に思ったのが中文大の学生なのになぜか「北京大学」のTシャツを着ていることと、普通のテレビ番組に字幕が付いていたこと。香港では普通のテレビ番組にでも字幕が付いているのだろうか、、確かに映画にも字幕が付いていた。(下に香港、英語、そして横に日本語の字幕が付いていたので、香港映画を観るのはちょっと大変だった)

あと、香港初カミングアウトした監督(ヤウ・チン)のドキュメンタリー映画「シエ・シンの姉妹たち」。はっきりいって、香港の内情を知らないわたしは、訳が分からなかった。。映画の中で何を言っていたのかも、印象が薄くてよく覚えていない。ちなみに彼女の作品は、DVD化されているそうだ。

もう一つ「遊園地」という映画。片方が「田辺誠一」に超似ていたので、こっちは区別が付いた(爆)。ただね、オープニングでラストシーンと思われる場面を写すので、先が読めちゃうのよね。「ああ、この二人、セックスするなあ」って。わたしは先が分かる話はあまり好きではない。話の内容としては、、まぁまぁだったかな。香港観光映画みたいだった(というか、完全にそういう意図でも作られている)。「香港は知り尽くしているけど、全く香港を知らない観光客として1泊してみよう」という田辺誠一(爆)の提案をもう一方が受け入れる。それでありとあらゆるところを回るのだが、、わたしは「日本だとどうなるんだろうなあ」と考えていた。東京タワー?だけど、個人的な理由で、東京タワーは大好きで、毎月1回行っていたわたしにとっては、あまり観光地という気もしないし、、浅草の花屋敷にも行ったし、、両国でお相撲さんも見たし、、行ってないのは巣鴨のとげぬき地蔵くらいか??(爆)それに東京は交通網が発達しているから、めちゃくちゃとまどうだろうな、とか。。「それともやっぱり日本だったら京都かなあ」とか。

笑えたのは、ホテルで「じゃあ、そっちが先にシャワー浴びてきたら?」と言って、片方がシャワーを浴びに行ったとき。二人が別々な場所でタバコを取り出して吸うのだ。そして臭わないように、ジュースを飲んだり、うがいしたり、、1日あれだけ話したのに、まだ本当の自分を見せていないところがあったのだ、2人には。ツインのベッドだったんだけど、田辺誠一の方が「テレビが観にくい」といって、もう片方のベッドの方に行く。行ったんだけど「寒い」と言って、同じ布団に入り込む。常套手段(笑)で、やっぱり、最後はセックスになだれ込む、ということなんだけど、なぜか二人とも風呂から出てきたというのにブラジャーをしているのだ。それも二人とも黒のブラジャー。香港では黒いブラジャーが当たり前なんだろうか、、?

ただ1泊したあと、最初の出発地である空港まで行くのだが、その空港を出たあと、一体彼女たちがどうなったのか、それが分からないのが不満だったかな。少しでも続きを匂わせてくれるシーンがあれば、よかったのにな、という感想を持った。あと、、この作品にも字幕ミスが。「飲んでいたようだ」というところが一文字欠落していた。こういうところにはすぐ目がいってしまう、、

香港映画のもう一つの作品は、ラップ調の約5分の作品。「台風が来るのも何もかもゲイのせいなのか。俺たちが悪いのか」という感じだった。日本語で言うと「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みーんなわたしが悪いのよ」って感じか。

唯一の台湾映画だった「トラベル」。実は、途中の一言で結末が分かってしまった。一言、というか、これは全体の2/3がサイレンスなので、一字幕、と言うべきか。制作した人たちは確か、台湾の映画の学校の生徒、だったような気がする。(一番最初に学校名らしき字が出てくるのだが、詳しい名前は忘れた)内容は、、最後に二人がお互いに薬を飲んで自殺する、という話。この手の話が「全く作られた話」であるならば、わたしはボロクソに酷評していたことだろう。だって、最初の方で、結末が見えるんだから。ところが、台湾では本当にこのようなことがあったらしい。一番最後に「二人の少女に捧げる」という字幕が出てきた。ここでものすごくショックを受けた。

最初の最初にやったイスラエルの「トップ・オブ・ザ・ワールド」は悪いが、話の内容がよく分からなかった。

帰りに彼女と夕ご飯を食べながら、あれこれ話した。が、、目の付け所が彼女とほとんど同じで、議論にならなかった(苦笑)。唯一の意見の相違は「ジャスト★ラブ」について彼女が「ドキュメンタリーを途中で入れない方がよかった」というのと、そうではない、というわたしの意見くらいかな。わたしがドキュメンタリーを途中で入れたというのは、上に書いたつもり。あとは北京大学のTシャツについても、黒いブラジャーについても、同じことを考えていた(笑)わたしは「セックスシーンはあの1.5倍は欲しかったねー」と話したが、取り敢えず、香港ではあれができる最大のことだったんだろう、という結論。ブラジャーは途中で外したんだけど、胸は一切写さなかった。だけど、あの程度でも実はわたしにとっては十分なのだった。生々しいセックスシーンは、却って気持ちを萎えさせる。実は久々のセックスシーンを見たので、結構欲情してしまったのは事実(苦笑)。

夕飯を食べ終わって、喫茶店に行ったとき、なぜかわたしの頭の中で佐藤隆の「日々の泡」というアルバムに入っている「希望商人」という音楽が鳴り続けていた。そのときはどうしてなんだろう?って思っていた。帰ってから、mixiをやっているときは完全にそのことは忘れていた。が、風呂に入っているときにまた、鳴り始めた。なぜだろう、と思って歌詞を思い出してみた。その中に「空を見上げて 涙ためて歩こう 願いが叶う 星がみつかるように」という歌詞があったのを思い出した。そうなのだ。わたしは、無意識に、台湾の二人の少女について、この言葉を捧げていたのだ。そう思うと突然涙が止まらなくなった。それとともに「この星自体を願いが叶う星にしていかなければならないのだ」という気持ちがわき上がってきた。(青いね、わたしも)

映画を通してみると、各国の事情はさまざまだ。ただし、わたしは今の日本の現状しか知らない。韓国はあのようなコメディータッチの映画を作ることができるということは、かなり恵まれている(余裕のある)状況なんだろう。(逆に日本の短編集があれば、、と思わないこともなかった。日本のガールズ短編集は1つもなかった)他の国々については、例えば台湾のカップルは「カナダに移住する」と言っていた。台湾は言わずもがな。フィリピンに至っては、同性愛(特にレズビアン)どころではないのが実情ではないのか。途上国の現状、宗教との絡み合い、本当に各国によって様々な事情がある。そして、、アジアの中でもこういう映画を作ることができる、ということは、それだけでもかなり進んでいる証拠でもある。実際、中国や北朝鮮の映画は1つもなかったし、今の現状では作っても発表することはまず無理だろう。

わたしにできることは一体何なんだろう、そう思わずにはいられない、短編映画8作だった。ついでにカンパを募集していたので、わたしも彼女もカンパをした。このようなフェスティバルが開かれることは、日本にとって、非常に有意義なことだと感じたからだ。といっても、無職のわたしはほんの少ししかカンパできなかったけど、、

昨日は「ガールズ短編集」ということで、お客さんはほとんど女の人、それも20人ちょっと、といったところか。第1回目ということで、まだそんなに知られていないのかも知れないが、、頑張って次につなげていって欲しいと思っている。

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