03-19 Wed , 2014
それでも花は咲いていく/前田健
この本は以前、友人に「この本いいですよ」って言われて、図書館で借りて一回読んだのだけれど、非常に心に残る本だったので、購入してもう一回読み直し、そして感想をきちんと書いておこうと思ったので書いている。けど、、多分思うことが多すぎて、ぐっちゃぐちゃになる、かも(^^;

わたしはこの本を書いた前田健という人は、芸人であるってことと、ゲイとカミングアウトしてるってことしか知らない。どういう芸をしてるとかは全く知らない。まぁでも知らなくても全然この本を読むのに困らなかった(と思う)。知ってたら「えー、この人こういうもの書いてるんだ」と思うかも知れないけど、別にそんなんがなくても中身だけで十分楽しめる。全体を読んでの感想だけど、これはすごーく計算し尽くされた一冊なんじゃないかなあって思う。

内容は、本人による(文庫版)あとがきによれば「セクシャル・マイノリティ」に属している人の話だという(直接こういう風には書いてないけど、文意はこんな感じ)。うん、確かに9つの短い話で構成されてて、各話は主人公も舞台も全然違う(オムニバス形式というのかな?)。そしてその中に出てくる人は、少女しか愛せない人であったり、セックス依存症(というのかな?)であったり、全然知らない異性の人の部屋に入って妄想する人であったり、SMの趣味がある人であったり、年上しか愛せない人であったり、セックスがしたくない人であったり、そしてゲイであったりして、いわゆる「成人した異性と恋愛してセックスができる人」(俗に言う「普通の人」)ではない。そういう意味ではここに出てくる主人公はみんな「セクシャル・マイノリティ(性的少数者)」である。

ところが、、いわゆる「性的少数者」の人の中で、小児性愛者とかSM愛好家(って2つ例に挙げたけど、この2つだけのことを言ってるんじゃないよ。以下も同じ)と一緒にされることをひどく気に入らない人がいる。いや、この文章からして既に「性的少数者」の中に小児性愛者とSM愛好家が入ってないってことに気が付くと思うけど。ただ、わたし自身は性的少数者の中に小児性愛者やSM愛好家が入っててもいいと思っている。思っているけど、じゃあ、普段わたしがこのブログでたくさん「性的少数者」って書いてるけど、この中に小児性愛者やSM愛好家が入っていると想定して書いているかというと、実は想定しては書いてない。なんで想定して書いてないかというと、言い訳がましく言えば、慣れとかクセなのかなあ?ただ「排除しよう」と思っているわけではない。

一般的に「性的少数者」や「セクシャルマイノリティ」という言葉は、LGBTと言われるレズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー(Xジェンダー含む)を中心に、パンセクシャル、アセクシャル(エイセクシャル)、ノンセクシャル(これは最近Wikipediaで削除されたようだが、、)、ポリアモリーなどを含んだ総称だ。そこには小児性愛者やSM愛好家、フケ専や二次コン(二次元コンプレックス)などは入っていない。レズビアンやゲイ、バイセクシャルは、性的指向の問題であって、トランスジェンダーは性自認の問題であると言われるが、小児性愛やSMは性的「嗜好」だと言われる。そして性的少数者はしばしば「指向」と「嗜好」は違う、と言ったりする。

確かに「指向」と「嗜好」は違う。ヘテロセクシャル(異性愛)を含む、同性愛や両性愛、無性愛、全性愛は愛情の方向性、それが異性に向くか、同性に向くか、両性に向くか、どこにも向かないか、全方向に向いているか、という「方向性」を示す言葉だ。一方、小児性愛やSM、フケ専や二次コン、セックス依存などは方向ではなく、好みだ。なので、性的指向と性的嗜好は両立する。異性愛者で小児性愛者、と言う人もいるし、同性愛者で小児性愛者という人もいる。異性愛者でSM愛好家という人もいるし、同性愛者でSM愛好家という人もいる。指向と嗜好は両立する。

指向と嗜好は明らかに性質が違う。だから、新聞や雑誌で「同性愛などの性的嗜好」と書かれると「性的嗜好じゃなく、性的指向だ!」と激怒する人がいる。そしてこう付け加える。「嗜好は単なる好みだけど、指向は生まれ持って変えられない性質だ」と。そしてそれは「嗜好よりも指向の方が上だ」というニュアンスを感じさせる。わたしもずっと長い間、そんな感じに思っていた。

だけど。「嗜好」も持って生まれたものじゃん?そして容易に変えられるものじゃないじゃん?って思う。よく考えてみるとね。なのに「嗜好」と蔑んで、下に見る。これって別に本人はそう思ってないかも知れないが、差別じゃん?自分たちが差別されて嫌な思いをしているのに、さらに差別される人が存在していいの?って思う。

おそらく、この本の著者もそういうことが言いたいんだと思う。だから「セクシャル・マイノリティ」の話の中に、一番最後の話にゲイの話を持ってきた。「指向」も「嗜好」も結局同じなんだよ、ってこの著者は言いたいんだと思う。まぁそのことに気づけるのは「指向と嗜好が違う」って知ってる人だけなんだけど。。だからね、わたしはそこに優しさを感じたんだよね。ああ、この人は優しい人なんだなって。

世の中に同性愛者と小児性愛者がごっちゃにされているなと感じるときがある。特にゲイは小児性愛者だと世間から思われている(そういやレズビアンは小児性愛者とは思われてないな)。そして性的少数者の話をすると「じゃあ小児性愛はどうなんだ」って言われることもあるのよね。。基本的に小児性愛をどう考えるかなんて、同性愛者だけの問題じゃないのに、なんで同性愛者が考えねばならんのだ?って思うときがある。そのような質問がなぜ出るかというと、同性愛が犯罪だと思ってるからじゃないかなって思うのよね。だから「同性同士で愛し合うことは犯罪じゃない」って言うと「だったら子どもと愛し合うのも犯罪じゃないのか。そうやって一つ認めると次々と認めなくてはならなくなって、社会の秩序が乱れる」って思考回路なんだと思う。だけど、判断力がある大人同士の恋愛と、判断力がない子どもとの恋愛って、全然違うと思うのよね。片方に判断力がなく、未成熟だからこそ、子どもとセックスしたら犯罪になるのだろうし。

ただね、、そう言えば言うほど小児性愛が蔑まれていくんだよね。確かに子どもに手を出した時点で犯罪だ。しかし、個人の「好き」という感情まで犯罪なんだろうかって思う。犯罪だからと言われて「じゃあ好きになるのを止めます」って言えるんだろうかと思う。その点「嗜好」であっても、好きであることはそう簡単に止められないのではないかって思うのだ。だから「指向は生まれつきのものであって変えられません。そこが嗜好と違います」という主張は間違っているんじゃないかと思うのだ。

うーん、本の感想なのになんでこんなことをつらつら書いてるかというと、最近、twitterで「小児性愛者であることを公にカミングアウトするべきでない」って感じのツイートを見たからだ。そういうことを言ってる人が性的少数者なのかそうでないのかは分からないのだけれど、ツイートした人は「カミングアウトする」ってことが、どんなにドキドキすることなのか、誰にも彼にもカミングアウトしてるわけじゃなく、自分を受け入れてもらえそうな人しかカミングアウトをしないのだってことが分かってないんじゃないかなあと思えたんだよね。同性愛者だとカミングアウトするだけでもかなりドキドキする。ましてや自分が「犯罪者」と間違えられる可能性がある小児性愛者だとカミングアウトすることって、かなりハードルが高いことだと思う。そしてカミングアウトすることは、別に「だから幼児、児童を襲いますよ」ってことじゃなく、小児愛者である自分を誰かに分かってもらいたいんだと思う。言えないことを持っていることは本当に苦しい。隠しておくことは苦しい。たった一人でも、自分の本当のところが分かってくれる人がいて欲しい、そういう感じではないのかなと思う。

この本の一番最初の話は小児性愛者の話だ。かなり、胸が痛くなる話。とても切ない。でも、それだけじゃない。この話の終わり方はこうだ。

神様――。僕は病気ですか?
僕はゴミのように燃えてなくなればいいですか?
白い手紙の破片に突っ伏して、朝まで僕は泣き続けた。
死ねばこんな僕も天使になれるのか、と思いながら眠った。
夢の中でまた奈美ちゃんが優しく僕を起こしてくれることを願いながら。

これさあ。最後の一文が気になるんだよね(笑)これがなくて「と思いながら眠った。」で終わると、とっても切ない感じに終わるの。でもこの話はこれで終わってない。死ぬことを考えている割には、愛する相手が夢の中に出てこないかなあってちゃっかり思ってる(笑)著者はこれを美しいだけの話にはしたくなかったんだなって感じるのだ。そういうところにわたしは「ああ、ちょっとしたところでもよく練られている話だな」って思うの。

そしてこの本の一番終わりの話はゲイの話だ。これもとっても切ない。相手に自分の思いが伝えられないところは、一番最初の話ととてもよく似ている。ただ、同じ切なさでも、ゲイの方は未来はほんのりでも明るい感じがする一方、小児性愛者の方はこの後、この人はどうやって生きていくんだろう?って印象を持つ。

そーなの。小児性愛者は人を好きになってもそれが叶えられることはない。手を出してしまった時点で犯罪者だから。それに子ども自身が非常に傷つくはずだ、身も心も。自分の願いが叶うことは大切に思っている相手を傷つけることに繋がる。だからといって人を好きになってしまうのを止められるはずもない。それゆえ相手には告白できず、常に自分の中だけに持っているしかない。でもそれだと苦しいから、自分の持っている悩みを誰かに言いたいと思う。けど、カミングアウトする相手を間違えたら受け入れられるどころか変態扱いされ、冷たい目で見られるだろう。そう思ったら易々とカミングアウトなんかできない。結局自分の中で気持ちを押し殺しているしかない。想像してみるに、これはとてもつらいことだと思う。小児性愛者は自分自身の願いを叶えられないけど、では一体どうすれば「ちょっとはマシ」になるんだろうって考えたことがある。でもこれは分からなかった。「同じ仲間がいる」と分かればちょっとは気持ちは楽になるんだろうかとか、「誰か自分のことについて話せる友人」がいればちょっとは気持ちは楽になるだろうか、っていろいろ考えたのだけれど。。

なのでね、上にちょっと書いたけど「小児性愛者だとカミングアウトするな」っていうのは、どう考えても酷だと思うのよ、わたし。そうじゃなく、逆にもっと社会が受け入れるようにならないと、受け入れるというと「なんでそんな変態を受け入れなければならないの。犯罪者予備軍じゃない!そんな人が社会に堂々と生きられるようになったら、子どもが危ない」って考えちゃう人もいるだろうけど、そうやって蓋をして孤立させる方がわたしは怖い。もちろん世の中では少年少女に手を出して、捕まる人もいるけれど、でも多分、必死に自分の気持ちを押し殺して普段は普通な顔してつらい思いをしながら生きている人の方が多数だと思う。彼らにつらさだけを押しつけて、こっちは平気な顔をしてるなんてできないよと思う。ただ、結局は彼らの思いは遂げられないわけだから、受け入れられる社会を作っても、一体、どの程度つらくなくなるのかなとは思う。小児性愛者の問題って、本当に難しいんだよね。

なんて、小児性愛のことばかり語ってしまったが(汗)

この本の話を読んでると、面白いことに自分が「受け入れやすい話とそうじゃない話」があるのに気が付くのね。わたしが自分が「受け入れにくいな」って思う話って、セックス依存だったりSMの趣味のある人の話だったりする。あとマザコンとか。共感しにくい、というのかな。やっぱり個人的に好き嫌いはあるようだ。この本の話、というわけじゃなく、その行為に対してね。人が好きでやってる分には嫌悪感はないのだけど(だから「SM趣味でやってます」って人がわたしにカミングアウトしてもなんとも思わない)、それを自分に当てはめて考えると、もうこれはなんとも言いようがなく嫌な気分というか、嫌悪感が湧き起こってくる。わたし「ああ、これだな」って思うの。例えば「同性愛者です」ってカミングアウトしたときに「気持ち悪い」とか「襲うな」って言われることが。別にカミングアウトするってのは「あなたが好きです」とか「あなたを襲いたいです」って言ってるわけじゃない。ただ自分が同性愛者だってことを知ってほしい、ただそれだけのことなんだけど、言われた方は自分に当てはめて想像しちゃうんだろうね。同性とセックスしてる自分なんかを思い浮かべたりしちゃうんだろう。だからすごく嫌悪感が湧き起こるんだろうね。わたしは大抵のことならカミングアウトされても大丈夫って自分では思ってるけど、でも、こういう話を読むことによって自分の中に特定のものに対して嫌悪感があるのを改めて気が付かされるので面白いと思う。まぁSM系の話を読むと毎回、こういう嫌悪感を持つのだが、、多分ねわたし、SMについては「人権侵害だ」って思っちゃうの、、好きでいじめられるというのがどうしてもわたしには分からない。だからMの人がいじめられている描写などを読むと、いじめているSの人をぶち殺してやりたくなる。「お前も同じ目に遭え」って。わたし根本的にSMが理解できないんだと思う。よく「SとMは高度な信頼関係の中でプレイしています」って言われるけど、わたしはどうしてもそれが理解できない。いじめたり、いじめられるのは本当に嫌だ。いや、分かってるよ、一般に「いじめ」と言われているいじめとSMは全然違うって。でも、わたしの中では同じなの。同じって言うか、違うと分かってるけど、感覚的に同じものと捉えてしまうの。

ってSM嫌いを熱く語ってしまった。でもわたしは別にSM愛好家の人を否定はしてないからね。自分の中でものすごい嫌悪感はあるけど。

この本の話の中の主人公は、男もいれば女もいる(そういえば性が揺らいでる人の話はなかったな)。男が主人公の話は割と結末が救いようがないってのも見られるけど、女が主人公の話は結末がハッピーエンドというか、一段落して終わるものが多いように思えた。これは、どういうことなのかな。わたしはセックス依存の女の人は、ああいう結末じゃなくもっとズタボロになって終わればいいのにって思ったのだけど、そうはなってない。二次コンの話も「あら、この人は二次コン卒業なのかしら?」って思わせるような結末だ。ところが男が主人公の話は厳しいものが多い。これは著者が女性に対して優しいからか、それとも男の「セクシャル・マイノリティ」は社会的に厳しいものが女性より多いからか。異性の部屋に忍び込んでそこで自慰行為をする、なんて、男には有り得ると思っちゃうけど、女の人でそれをやる人いるのかな~って思ったりもするしね(それは男性に対する偏見だと言われるとそうかも知れない、、)。って考えると、著者がなぜその「嗜好」を選び、その「嗜好」それぞれに男と女を当てはめていったのかと考えるのは興味深い。アセクシャル(無性愛)は女性が当てはめられてたけど、わたしは男性が主人公の話が読みたかったな~。

話の結末の好き嫌いも、もちろんある。さっきも「もっとズタボロになって終わればいいのに」って思ったって書いたけど、「なんか安易な終わり方だなあ」ってのもあった。アセクシャルの人の話は、それが直接の原因とは書いてないが、幼い頃電車の中で痴漢に遭った、ってことになってるんだけど、これはこういう設定にはして欲しくなかったよな~。なぜかというと、そこには別に「原因」なんかはないからだ。同性愛もそうだけど、別に「何かあって」、同性愛者に「なった」わけではない。「何かあってなった」と思われていることでも、別にそれはきっかけであって、原因じゃないと思っている。だって「異性愛者になった原因」なんてないでしょ。ないから言わないでしょ。っていうか多分、わたしはアセクシャルの人がすべて「過去の性的被害からそうなった」って思われるのが嫌なんだよね。中にはきっとそういう人はいると思う。いると思うけど、そうじゃない人もいる。どちらかというと「そうじゃない人」として描いて欲しかったって思ってる。

あと細かいところだけど、最後の話の題名は「サンフラワー」なのだが、物語の中では「向日葵」で出てくる。題名をカタカナで統一したかったんだろうと思うが、これは物語の中で出てきたとおり「向日葵」(もしくはひらがなで「ひまわり」)がよかったんじゃないかなーって思う。サンフラワーと向日葵って、わたしの中でなんかあんまり「同じもの」って思えないんだよね。イメージが違うというかね。

それからこれは誤植なんだけど、文庫本134pで「同姓を好きな人はホモセクシャル」ってあるんだけど、これは「同性が好きな人は」だよね。もうね、この間違いってよく見るんだよ。「同姓愛者」とかね。そのたびに誰のこと?って思う。同じ名字の人ばっかり好きになる嗜好はない、っていつも思うんだけどね。これは間違われやすいので、特にこういう話を扱う本では気をつけて欲しかった。

なんか最後は文句ばかり付けてしまったが、でも、この本の中の話は一話一話、本当に丁寧に考えられて作った話だと思う。話の内容に破綻はないし、細かいところの設定がとてもきっちりしている。あとつい「本当にありそうな話」だと思えてしまうところがすごい。そして各々の「嗜好」と自分がどのくらいの距離か、ってのが分かって本当に楽しい。小児性愛者のつらさは自分のつらさのことのように感じられるけど、セックス依存症はなー、なんか分かんないな、とか。

「性的少数者はLGBTだけだ」と思ってる人、「性的少数者の話が読みたい」と思ってる人、これはオススメだ(ただしこれだけ読んで性的少数者を分かった気にはならないでね。性的少数者の世界は本当に奥が深いんだから)。

なお、この本の3つの話をピックアップして映画も作られたらしい。それは今はDVDになってるんだけど、わたしは図書館で借りて読んだ後すぐにDVDも借りて見た。まぁまぁだったかな。ただ小説で「こんな感じの人」って想像を膨らませてるところで、映画は個々の役者さんが演じてるわけだから「想像と違う」ってところもあると思う。あと、なぜか分からないけど原作と設定が変わってる話もあった。わたしは本の方で自分なりのイメージを作ってしまったから、DVDはちょっと「なんか違うな」って感じだったのだけど、でもこれはこれでいいんじゃないかと思う。わたしはDVDの中でも小児性愛者の話が一番よかったと思った(キャスティング含めて)。主人公の男の人を見て「あれ、この人、すごく川谷拓三に似てる!」って思ったのだが、調べてみたら川谷拓三の子どもだったので、これまたびっくりした。昔、大河ドラマ見てて、母に「津川雅彦と長田裕之って似てるね」って言ったら「当たり前よ、兄弟だもん」と言われてびっくりしたのを思い出した。
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02-04 Sat , 2012
「同性愛の謎」の驚くべきトンデモさ
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竹内久美子という人が書いたこの本、最近出た本のようだが、こんな本が本当に出回っていいのか?と思ってしまうようなトンデモ本だ。これを何も知らない人たちが読んで信じてしまったら、と考えると怖いくらいだ。

ツッコミどころが多すぎて、どこから書いていいのか分からないんだけど、全体的に書きようが大げさだ。「なんと!○○だったのだ!」とか、とにかく「!」が多い。だけど、ここに書いてあることって、さも新しげで「最新情報」みたいな感じがするけど、実は既にどこぞに書いてあることなんだよね~。新しくもなんともない。しかも、なんといっても著者が同性愛者の理解について圧倒的に足らないか未熟。

まぁ気になったところ、最初から挙げてきましょか。

まず「キンゼイレポート」で有名なキンゼイなのだが、同性愛者って書いてある。わたし、今までいろんなキンゼイについて書いてある本を読んだことがあるけど、同性愛者って記述は初めて見た。というか、ジェンダー・スタディーズ(大阪大学出版会)の42ページに「キンゼイは、人間はみな基本的に両性愛、それも一生固定しているのではなくて、流動的なものだと考え、0が100%異性愛で10が100%同性愛という尺度でいえば、クライド(キンゼイの助手)は3、キンゼイは1と診断する。」と書いてある。まぁ実際、キンゼイレポートによる異性愛と同性愛の尺度は0から6の7段階で、なんでここでは0から10って書いてあるのかは謎なんだけど、この記述を見るとキンゼイはどちらかというと異性愛者寄りであり、同性愛者だとは言えない。このクライドって助手とキンゼイはクライドの誘いで性的関係を持つんだけど、それが「同性愛」と判断されたのかなぁ?でもキンゼイには妻もいるんだけどね。

あとペニスの大きさが大きい方が、ゲイの間では魅力の一つって書いてあるんだけど、まぁそれについては本当なのかどうなのかは知らない。でもこの人、「ゲイのセックス」=「アナルセックス」としか思ってないようだ。なんかオーストラリア人のゲイが日本のゲイとセックスしたときにペニスの大きさが足りなかったので何の満足も得られなかったとか、ゲイの主流はバイセクシャルで、そのバイセクシャルの行なう同性愛行動は、実は異性愛行動のための練習だとか。同性愛関係の本(特に「同性愛って何?」みたいな基礎知識本)には必ず「ゲイの行なうセックスはアナルセックスだけではない」って書いてあるわけで。オーラルのみとか、しごきあいとか、そういうセックスの仕方もあるわけなんだよね。わたしも見てきたように言うけどさ(笑)、実際、そういうセックスしかしないって話をゲイの人としたこともあるんだよね。だから「ゲイのセックス」=「アナルセックスのみ」と思わせるようなこれらの表現は、ゲイの間違った知識を植え付ける役割もしているわけで。その罪は大きいと思うよ。

それからドイツの性科学者であるヒルシュフェルトは自身が同性愛者で、同性愛について研究し、その原因が生物学的な問題であることを主張していたのに、男性同性愛者のことを自ら「倒錯者」と言い、そのことについて「それにしても倒錯者とは・・・。同性愛が病気ではないとWHOが見なしたのが1990年。ヒルシュフェルトについてはまだ時期が早すぎたというべきか。」と書いてるけど、あの時代は同性愛者は倒錯者と呼ばれ、同性愛行為は犯罪とされたり治療の対象になっていた。だから、ヒルシュフェルトは生物学的な原因だから治療しても治らない、と言ったのだ。しかし結局、そのことさえ逆手にとられて、ナチスに「障害者(劣性遺伝子を持つもの)」と見なされ「断種されなければならない存在」とされて強制収容所にぶち込まれ虐殺の対象になってしまった。そういう「歴史的な背景」を全然知らないのか、この人は、って感じだ。何が「時期が早すぎた」だ。同性愛が病気でないとされるまでの同性愛者たちの過酷な歴史や努力を全く書こうともせず(もしかして知らない?)、ものすごく呑気(あるいは脳天気)としか言いようがない。

「知らない」と言えば、ヘテロの被験者とゲイの被験者を集め、父、母、一番年長のキョウダイ、一番年下のキョウダイ、という4人に絞り、以下の4つの質問をした実験。(1)これら4人の住んでいる場所から、それぞれどれくらい離れた場所に住んでいるか。(2)彼らと、過去1ヶ月に何回会っているか(電話で話した回数も含める。)(3)彼らと過去1年間のうちにどれだけお金が動いたか(あげた、ともらった、の両方で。単位はUSドル)(4)彼らとどれほど心の距離があると感ずるか。1(とても近い)から7(とても離れている)までの7段階で答える。

この結果(1)はあまり違いがなかったけれど、(2)で差が出て、ゲイグループは電話も含め、父母に会う機会が少ない、(3)は省略、(4)心の距離はゲイグループの方が心の距離がある、と出たそうだ。で、その結果を受けて「血縁者の繁殖を助け、間接的に自分の遺伝子のコピーを残そうとしているのだという『ヘルパー仮説』には信憑性がなくなってくる。」って書いてあるけど、なんでこの人「同性愛者にはカミングアウト」という問題があることを考えないのだろうか?このゲイの被験者はカミングアウトしているかどうかには全く触れていないので、何とも言えないのだけれど、家族との距離感が遠いのは、カミングアウトしていないせいとも考えられるし、カミングアウトしたものの、家族から拒否されて家族と会わないって人もいるだろう。「ヘルパー仮説」云々を本当に証明したいのであれば、被験者のゲイは全員家族にカミングアウト済みで、家族との関係も良好な人たちを選ばなければならない。しかもこのことは「実験条件」として明白に書かれなければならない。こんなの全然「科学実験」でもなんでもない。こんな実験をしてこんな結果が出てくるのは、ある意味「当然」のことだ。

それと同じことが言えるのは、ある実験において、ゲイについてはゲイコミュニティーと'94年にトロントで行なわれたゲイとレズビアンのパレードに参加していた男性、異性愛者については「ロータリークラブ」のような社会奉仕団体の組織をいくつかと2つの大学のキャンパスにビラを貼って集めたそうだ。そして条件に合ったのは736人で、これらの人々にいよいよ性的指向を訊ねたら、2つの例外があった、と。「ゲイパレードの際に集めたのに、自分は異性愛者だと答えた例と、社会奉仕団体で集めたが、自分は同性愛者だと答えた例だ。前者についてはどういうことなのかわからないが、後者の場合に同性愛者が一例しかないというのも、考えてみれば不思議だ。社会奉仕団体のメンバーは性的指向に関係なく集まってくるはずである。とすれば、キンゼイ報告やその他の調査でわかったように、社会奉仕団体においても男の数%が同性愛オンリー、十数%がバイセクシャル、というような結果が現われても不思議はないはずなのだが。」って書いてあるんだけど、これ読んだときに、呆れて何も言えなかった。

あのさぁ。ゲイパレードはゲイだけのものじゃないんですけど。ゲイパレードにだって異性愛者はたくさん参加してるんだよ?同性愛者の親も参加してるし異性愛者の友達も参加してる。もしかしたら誰も知り合いはいないけど、ゲイパレードは楽しいから、また、ゲイの権利を応援したいから参加したいって思って参加する人もいるかも知れない。そういう「アライ」さん(異性愛者でLGBTフレンドリーな人たちのこと)がいて、そういう人たちもパレードに参加していることをこの人全く知らない。ゲイパレードに参加するのは当事者だけだと思い込んでいる。なんて無知なんだろう。そして、同性愛者が一例しかないというのも、そんなに人に簡単にカミングアウトするなんて人はいない、と考えるべきなんじゃないの?こんなの全然不思議でもなんでもない。だって、突然あまり親しくもない人から「あなたの性的指向はなんですか?」って訊ねられて素直に「わたしはゲイです」なんてオープンに答えられる人なんかそうそういないはずだ。そういう「同性愛者の置かれた状況」について、この人は本当に全く知らない。それでよくこんな本書けるもんだと思うね、全く。

それから遺伝子の問題。「人間には22対の常染色体と一組の性染色体がある。性染色体は男でXY、女でXXの状態である。男は父親からYを受け継ぐ都合上、Xは必ず母親由来のものを受け継ぐことになる。このX上に問題の遺伝子があると、男では症状が現われてしまうのだ。一方で女が全員セーフなのは、性染色体がXXだからだ。どちらのXにも問題の遺伝子が乗っていなければ、もちろん問題は起こらない。そしてたとえ問題の遺伝子を乗せているXを一つ受け継いでいても、もう一つの正常なXがちゃんと働くので、問題が発生しないようになっているのである(ちなみに、2つのXのどちらにも問題の遺伝子が乗るという事態は、この一族のようなケースでは近親交配を行なわない限り起こり得ない)。」そして血縁者の誰に同性愛者が多いかどうかをあれこれと書いているが、結論として「どうやら男性同性愛に関わる遺伝子のうち最も重要と思われるものは、母から息子へと伝えられているらしい。父から息子へは伝わらないようだ。」「男性同性愛に関わる遺伝子の一つが、性染色体のXに存在することはほとんど疑いようがない。他の人々の研究によっても、男性同性愛者の母方に男性同性愛者が多いことが確かめられていて、それはX上に男性同性愛遺伝子の一つが存在することの動かぬ証拠だからである。」と書いてある。

あのー。この理論だと、女性同性愛者、いわゆるレズビアンは存在しない、ということになってしまうのだけれど。女は症状が出てこない「保因者」でしか有り得ないんでしょ。レズビアンであるということは、XXはどちらとも「異常」(敢えてこの言葉を使う)ということなんだけど(この説によればね)、XXが異常な場合って近親交配の結果でしか起こり得ないんでしょ?だったらレズビアンはなぜ生まれてくるの?レズビアンはみんな親が近親交配した結果なの?少なくともうちは違うけど?(笑)

それから、男性異性愛者と男性同性愛者のキョウダイの数を比較した研究では「姉の数も、弟の数も、妹の数も違いはなかった。違いがあったのは、兄の数のみである。同性愛グループには兄が多い!」(この本、こういう風に「!」を多用してるのよ)「このように、すべての被験者を兄の数によって分類すると、兄の数が多い場合ほど、同性愛者の占める割合が高くなっていくことがわかる。」「ブランチャードらによると、兄が一人増えるごとに、男の子が将来同性愛者になる確率は33%増していく勘定になるという。」「ともかく理論上の計算によれば、男性同性愛者の7人に1人は、兄がいることが原因となっている、とブランチャードらは結論しているのである。」「それにしてもなぜ、兄の数なのか?姉はなぜ関係ないのだろう?それは…兄が男であるのに対し、姉は女だからである!」(また「!」かよ。。)そしてその理由としては「そもそも女が子を身籠もること自体、大変な出来事だ。胎児は自分と相手の男の遺伝子を半々に受け継いだ存在で、いわば半分は自分であり、半分は他人である。その他人の部分においては異物であり、免疫的に拒否反応が起きても不思議はない。しかし、そうはならないよう我々の身体はできている。胎児と母親とがつながっている場所である胎盤は、まさに関所のような役割を果たしており、栄養以外の物質はなるべく通れないようになっている。もっともそれでも解決できていない問題が微妙に残されている。それらのうち、最大の問題の一つが、女が男の子を身籠もった場合だ。男しか持たない性染色体、Yからつくられる、男しか持たない物質が、この関所を通り、母親の体内に侵入してきた場合、異物とみなされてしまうのである(男の性染色体はXY、女の性染色体はXXという状態)。その物質、H-Y抗原は、男の体の細胞の表面などに存在している。母親が男の子を身籠もっているとき、母親の血液の中にこの抗原に対する抗体がつくられることがある。それは男の胎児を免疫的に攻撃し始めるわけだが、H-Y抗原は何と、脳の細胞表面に特に多く存在するという。つまり、母親の抗体が男の胎児の脳を攻撃し、彼の脳の男性化を阻止するかもしれないー。攻撃の確率は、女が男の子をより多く身籠もるほど、高くなっていく。兄が多い男の胎児ほど、母親から免疫的に攻撃され、脳の男性化が阻止される確率も高くなるだろうというわけである。」

呆れてものも言えないトンデモ理論だが。。これもね、じゃあなんでレズビアンは生まれてくるの?って回答にはなってないよね。母親が女の胎児を身籠もっている場合、胎児の遺伝子はXXなわけだから、Y遺伝子が持つというH-Y抗原が胎児の脳を攻撃することはないわけでしょう、この理屈からすると。そもそもXX遺伝子を持つ胎児はH-Y遺伝子は持ってないわけなんだから。XX遺伝子を持っている胎児の脳は攻撃される対象を持ってない。攻撃されてないんだから、脳は一般の異性愛者女性と全く同じでレズビアンは生まれてこないってことになるよね。この理屈も上の理屈と同じく、レズビアンの場合は全く説明が付かないのだ。この説も「男性同性愛者のみ」で考えられており、そこに「女性同性愛者」がいるってことは全く考えられていない。

以前散々言われた「ホルモンシャワー説」(母親が妊娠中にストレスを受けて、男性ホルモンが少なくなったからゲイが生まれるという説)とか「脳梁説」(ゲイの脳梁は女性と同じくらい太いという説)と同じなんだけどさ、これじゃレズビアンの場合は成り立たないんだって(「脳梁説」の場合、レズビアンは男性と同じという可能性はあるが、それに触れられている論文は今まで見たことない。それに脳梁の太さがただ「同じ傾向」があるというだけで、同性愛と結びつける因果関係がはっきりとしない)。こういう実験でいつも気になるのは、対象は「ゲイ」で「レズビアン」のことはまるっきり無視されてることだ。科学者って、わたしも理系だから経験あるんだけどさ、ありとあらゆる場合を想定して、それでも成り立つ、ということを証明して初めてその説が「普遍的」に成立するんじゃないの?同性愛者は男性だけでなく女性もいるんだよ?あと、同性愛者だけでなく両性愛者(バイセクシャル)もいるけど、その人たちの場合はどう考えればいいんだろうね?(ちなみにすべての人間が同性愛、異性愛、両性愛だけに分けられるだけではなく、その他に全性愛、無性愛、非性愛、その他があり、「脳の○○によって△△愛者になる」という結論が出したいのであれば、これらすべてのパターンに当てはめてもおかしくない理論を打ち立てなければ「普遍的」とは言えない)

【後日追記】もう一つ。仮に、あくまでも仮にだが、「女性化(男性化)した脳を持つ男性(女性)」=「ゲイ(レズビアン)」ならば、性別違和を持った人の脳はどうなっているのだろうって疑問が湧いてこないか?この世界には性別違和を持つ人がいる。生まれたときの外性器の形で性別は決められるが、大きくなるにつれ、自分の性別が自分の決められた性別とは違うと感じられる人たちだ。属に「身体の性と心の性が一致しない人」とか「性同一性障害(GID)」とも言われる(※)。まぁそういう人たちがいるってことも完全に無視しちゃってるよね、この本は。「女性化(男性化)した脳を持つ男性(女性)」=「性別違和を持っている人」とも考えられないことはないよね。っていうか、逆に女性化(男性化)した脳を持ってるんだから「同性が好き」ってよりは「女性(男性)になりたいんだ」って考えた方が理屈として通るんじゃないか(っていうか、これはあくまでも反論するために考えた理屈であり、何を持って「女性化(男性化)した脳」と判断できるのかは今のところ誰にも分かっていないということです。脳の重さとか、脳梁の形とか、目に見えるものでしか判断していない。脳の中身の方が重要かも知れないのに、脳の中身については全く研究されていない)。

(※)「性同一性障害」というのは病名であり、それにともなって何らかの医療行為を受けたい人が医療行為を受けるために病院に行ってそういう診断名を付けてもらうわけで、性別違和を感じる人が全員「性同一性障害」なわけではありません。そもそも性別違和を感じる人が全員「異性になりたい、異性として暮らしたい」と思っているわけではありません。ここのところは千差万別で、「その原因は何なのか、どこから来るのか」ということを解明するのは非常に困難だと思います。また、性別違和を感じている人は必ずしも異性愛者ではありません(同性愛者もいます)。なので、こういった原因を追及していくのであれば、「同性愛者」と「性別違和を感じている人」はきっちり分けて考えておく必要があります。【追記終わり】

そして、何も知らず、というか「もしや自分の息子はゲイなのでは」と思っている母親がこれを読んだらどんなに傷つくか。。何も知らない母親は「自分のせいだ」って思っちゃうよ、これ。実際、子どもにカミングアウトされて混乱している親が「何か知りたい」と思って同性愛について書かれた本を探す、ということがある。そのときにもしこの本を手に取ってしまったら。。。悲劇が起こるよ。(子どもにカミングアウトされて困惑されている親御さんのために。カミングアウト・レターズ(太郎次郎社エディタス)という本があります。これを読んでみて下さい)

ちなみに「ゲイ遺伝子説」については、同性愛入門(編・伏見憲明、ポット出版)の41ページから43ページで触れられてて(というか、ゲイ遺伝子説だけでなく、脳の違い説も載ってて、この「同性愛の謎」に書かれている内容はほとんど既に2003年の時点でこの本に書かれている)、同じ実験をカナダで行なったところ、X染色体に遺伝子がありそうだという結果を得ることはできなかった、と書いてあるし、科学で分かる男と女になるしくみ(サイエンス・アイ新書)に至っては「ゲイ遺伝子に関する研究は進められているが、そのたびに結果が違う。結局のところ、同性愛男性に共通する『ゲイ遺伝子』があるかどうかも、あるとしたらどこにあるかもはっきりとしていない、ということだ。」(82ページ)と書いてある。だから、ゲイ遺伝子については、こんなにはっきりと「X染色体に原因がある」とは言い切れないのだ。これしか読んでない人はこれ信じちゃうと思うと怖いよ、ホント。

あとまだあるんだよ(笑)

「男性同性愛者は男性異性愛者と体格に差がなくても、ダーツ投げ、ボール投げが全般に苦手で、それは女性異性愛者と同じくらいのレヴェルだったのである。1991年に双子研究を発表したベイリー&ビラードも、いくつかの質問の中に、こどもの頃、スポーツにどれほど興味があったかという項目を設定している。するとやはり、男性同性愛者は男性異性愛者ほどにスポーツに興味がなかった。そもそもスポーツが苦手だから興味がないと言うことなのかも知れない。」と書きながら、別のページでは「ワールド・アウトゲームズとは、LGBTによるスポーツとカルチャーの祭典で、この時92カ国から5518人が参加している。陸上、水泳、バドミントン、バレーボール、テニス、サッカー、アイスホッケー、フィギュアスケートといったオリンピックにある種目の他に、ゴルフ、ダンス、エアロビクス、カントリー・ウエスタンダンスなどもある」と書いてある。

あの~。ゲイがスポーツ苦手で興味なかったら、そもそもこんな大会やらないんじゃないの?それとも参加してるのはすべてレズビアンなの?確かにゲイは子供の頃、ボール投げなどが不得意で、野球なんか全然興味がないっていう人もいるよ。でもさ、それがすべてじゃないんだよ?中には身体動かすのが好きなゲイもいっぱいいるよ。だって、ジムに通って身体鍛えてるゲイの人って本当にたくさんいるんだから。それなのになんで「ゲイはスポーツが苦手で興味がない」って決めつけるの?それって「ゲイは女性的」と思ってる、いわゆる「偏見」ってやつなんじゃないの?

あとこういう記述もある。「メイクアップアーティストやスタイリスト、美容師、華道家、編み物の先生、ダンサー、作家などにずば抜けた才能を持つ男性同性愛者が多く存在するという印象があるが、そうだとしたらこうした背景(女が得意とする分野が得意。)があるからかもしれない。」

そういう分野でゲイが目立つのは、今のところは事実かも知れない。けれど、それは誰かがカミングアウトしたことによってカミングアウトしやすい環境なのかも知れないよ。現に今、日本には男性歌手で正式にカミングアウトした人は存在しない。音楽を含むアーティストなどにゲイが多いのだったら、日本の男性歌手の中にもゲイがたくさんいるってことでしょ。でも、今のところ誰も存在しないことになってる。それって日本の男性歌手はみんな異性愛者だからなの?それだと「アーティストに多い」って記述と矛盾しない?あのね、今、日本では「ゲイ」=「オネエ」だと思われているの。オネエじゃないゲイはゲイと「認められてない」の。オネエじゃない日本の男性歌手は、まだ日本ではカミングアウト出来ない存在、そう考えることはできないだろうか?そしてそれを一般論に広げると、芸術の分野以外ではゲイがいてもまだまだカミングアウト出来ない。だからいないことになってる。ホントはいるけどただ見えないだけ。だから実はゲイはどこにでも存在する。そうは言えないか?だいたい「ゲイ」=「オネエ」ってのも偏見なのよ(「ゲイ」=「女っぽい」と思われているのと一致する)。きっと実際には「女っぽくないゲイがいる」と分かったら、異性愛者の人は脅威を感じたり混乱したりするからなんだろうね。だって異性愛者の頭の中は「男(っぽいもの)と女(っぽいもの)が惹かれ合う」という図式しか頭にないのだもの。「男(っぽもの)と男(っぽいもの)が惹かれ合う」とか「女(っぽいもの)と女(っぽいもの)が惹かれ合う」と考えると理解不能で怖いんだろう。それと「ゲイは女をしのぐ才能がある」ってのも偏見。確かにそういう人は存在するだろうけど、その割合がずば抜けて高いなんて、同性愛者の全貌が見えない限り、今のところ誰も何も言えないのだ。

そして「偏見」といえば「左右の脳の大きさの違いという点においては、男性異性愛者と女性同性愛者が似た傾向にある一方で、男性同性愛者と女性異性愛者が似た傾向にあるのだ。」「ともあれ、男性同性愛者は女性的な脳を持ち、女性同性愛者は部分的に男性的な脳を持つことがわかった。あくまで平均的な話ではあるが、巷間で言われている、男性同性愛者が女っぽく、女性同性愛者が(男役の人に限られるかも知れないが)、男っぽいことの理由の一つが解明されたようである。」

あの、、どこが解明されたのかさっぱり分からないんですけど。ただの脳の大きさでなんで性的指向が決められちゃうの?そこにはどういう理屈があるの?脳の大きさと性的指向の関係を理論的に説明して欲しいものです。基本的にこの手の研究は「男性同性愛者の脳」=「女性的な脳」、「女性同性愛者の脳」=「男性的な脳」を持つ、と決めつけているけれど、それ自体果たして真実かどうかは疑わしいのだ。だって誰も明らかにしてないんだもん、その関連性。「男が好きなら女の脳」「女が好きなら男の脳」って最初から決めつけてるんだよね。それは上にも書いたとおり、異性愛者の頭の中には「男と女が惹かれ合うのが当たり前」が基本であって、そのことに何の疑いも持ってないのだもの。本当はそこのところから解明すべきじゃないの?その「当たり前」と思っていることをまず疑ってみれば?

しかも女性同性愛者の「男役」って。。まぁ、昨日の日記には文句付けたかも知れないけど、こういうこと書かれるから「レズビアンとはどんな人ですか?」という質問の答えに「重要な点は、男性的な女性=レズビアンではないと言うことです。同性愛者は必ず異性装をするわけではありません。異性装をしていても性的指向は異性愛である人も多くいます。逆にごく普通にスカートをはきロングヘアーというような、外見上女性のステレオタイプである人にもレズビアンはたくさんいます。むしろそういう人のほうがレズビアンの中では多数派です。外見上の特性と性的指向とはあまり関係がないと考えて、先入観を捨ててください」(医療・看護スタッフのためのLGBTIサポートブック(メディカ出版) (14-15ページ))って書かなきゃならないんだろうね。。ホント、悲しいよね。こういう本を読んだ人が「レズビアンってやっぱり男っぽいんだ」と思う。偏見を植え付けているようなものだよね。

まだあります(笑)

ドミニカ共和国の首都、サント・ドミンゴの西にある、人口4300人ほどのサリナス村の人々の調査をしたところ、24人の偽両性具有の男性が見つかった。「彼らは性染色体の上では男、つまりXYの状態にある(女の場合、性染色体はXXである)。しかし、生まれたときにペニスがなく、というか、クリトリスかと思うような小さな突起があるだけ。睾丸はあるが、腹腔の中に留まっていて、陰嚢へは降りてきていない。さらにヴァギナ(膣)のような行き止まりの袋状の構造や、陰唇のような形の部分もあるのだ。その外見から女の子と見なされ、女の子として育てられるが、やがて思春期を迎えると、声が急に低くなり、筋肉も付いて男らしく、たくましくなってくる。ペニスが発達し、睾丸も陰嚢の中へ降りてきて、射精も可能となって男へと大変身。ちゃんと精子もつくっていて、性的にも女に惹かれる。こうなると正真正銘の男と言える。」この章の題は「性転換する一族!?」って書いてあるんだけど、これ、知ってる人が読めば、性転換じゃなく、明らかにDSD(性分化疾患)だよね。「偽」両性具有ではなく、「真性」両性具有(とは今は言わないけどね)だよね。

ちなみに前に紹介した科学で分かる男と女になるしくみ(サイエンス・アイ新書)にもこの話が載っていて、そこにはこの人たちはテストステロンという性ホルモンをDHT(ジヒドロテストステロン)に化学変換するための酵素(5α還元酵素2)を十分につくることができない人、5α還元酵素2欠乏症の人たちだと書いてある。だから決して「性転換」などではなく、DSDの人たちなのだ。しかも、精子は作られているらしいが、ペニスの先端から精子が出るわけではないので(彼らは元々未熟な膣を持っていて、そこから出るらしい)、体内受精で女性を妊娠させることはできないらしい。ああ、この「同性愛の謎」にも最後に取って付けたように「彼らはテストステロンをジヒドロテストステロンに変える酵素に欠陥がある。そのためにテストステロンの効果は現われるが、ジヒドロテストステロンによる効果は現われないということだった。」と書いてある。てか、それ分かってるなら「性転換」とは言えないだろうが。。まさか、DSDの人たちが存在するってことを知らないで書いたわけじゃないよね?なんか「性転換」という一瞬過激で「ドキッ」とするような言葉で表現するのって止めて欲しいと思う。第一、この人たちはそういう身体に生まれついてしまった以上、それが「自然」なことなのだ。決して「異常」なことではない。それにもかかわらずこのような表現方法をするということは、DSD(性分化疾患)の人を傷つけるばかりでなく、性同一性障害への偏見、ということにも繋がってくる。まるで性転換するのが衝撃的なことで、異常、みたいな。。

最後ね。

同性婚やパートナーシップ法のことも触れてるんだけど、その中で気になったのがフランスのPacs法の記述。「1999年に成立し、施行されたが、2005年に税制や子どもの親権について、男女が結婚した場合とほぼ同じ法的優遇措置がとられるようになるや、異性愛カップルがどっとなだれこんだ。パックスには同性愛者限定という項目がなかったからだ。」って書いてあるんだけど、これ、すごく違和感あるんだよね。だってPacs法って別に同性愛者のパートナーシップを目的に作られたものではなく「連帯民事契約」と訳されるように、ある一定の条件(18歳以上であること、直系親族間、直系婚姻間、三等親以内の傍系親族間でないこと)を満たせば、誰でも契約を結ぶことができるんだから。だから、友だち同士だって構わないわけ。あと、フランスでは元々男女の同棲(事実婚)関係がすごく多かったから、それでパックスを結ぶってイメージがわたしにはあった。

で、実際にこれは2004年に出た本なんだけど、パックス―新しいパートナーシップの形(緑風出版)って本があって、その中には「(1999年から)2001年3月31日までにパックス全体の数は3万7千件に達し、その中の6割は異性愛者のものであると見積もっている。異性愛同棲カップル(250万組)の割合は3万から5万と推測される同性愛同棲カップルの割合よりずっと多いはずであるから、パックスの統計はただ単にこの統計上の現実を反映したものである。」(13-14ページ)と書いてあって、「同性愛の謎」に書かれたような「2005年になって初めて異性愛のカップルもパックスを結ぶようになった」みたいなイメージはない。この本はいちいち「大げさ」なんだよね。なんか「衝撃的」なことを書いてやろう、書いてやろうとして誤解や偏見に加担している、そんなイメージを持つ本だ。

ってわけで、なんかすごく長々と書いて来ちゃったけど、この本を読んで「これが同性愛の実態だ!」なんて思われるとものすごく迷惑なわけ。こういう本が平然として新刊で売られてるんだから、日本もまだまだだよなって思うよ、ホント。同性愛を対象とする本を書くのなら、もっともっと同性愛者のおかれていた歴史や現在の現状、性的少数者一般への知識、を持ってちゃんとしたことを書いて欲しい。

というか、わたし自身「なぜ同性愛者が生まれてくるのか」を解明するより「同性愛者が存在することは自明なのだから、その同性愛者がどうやってこの世の中で生きやすい世界を作るか」を考えた方がよっぽど建設的だと思うけどね。「なぜ同性愛者が生まれてくるのか」が解明できたら、同性愛者が生きやすくなる世界になるとでもいうのだろうか。逆にナチスのように「同性愛者を根絶やしにするため」に利用されるのではないかと危惧する。

ちなみに同性愛のことを知りたいと思うのなら、わたしは今のところ同性愛と異性愛(岩波新書)がお勧めだ。これは別に同性愛になる理由、などは書いていないが、今の(主に)日本における同性愛者の置かれた状況や、今に至る状況などが割と詳しく書かれている。内容も比較的新しいし、どうせ読むならあんなトンデモ本じゃなく、こちらのほうを勧める。
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02-03 Fri , 2012
LGBTIサポートブック
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機会があったので読んでみた。

基本、質問・回答形式の本なんだが、章の終わりにコラムが挟んであって、正直、そっちの方が役に立つって感じというと言い過ぎか。まぁこの本はLGBTIのことを全然知らない人向けに書いてあるんだもんね。「レズビアンとはどんな人のことですか?」って回答を読んでも、わたしにとっては「今さら」だよね(笑)

ただ、わたしにとっては「レズビアンとはどんな人のことですか?」の回答は気にくわなかった。「レズビアンは男っぽい格好をしている人だと思われがちだけど、実は女っぽい格好をしている人の方が多数派」って、あんまり決めつけないで欲しいなぁ。。確かに世間の常識を覆したいという意図は分かるのだけれど。。見た目では分からないことを強調したいのは分かるのだけれど。。それから「トランスジェンダーとはどういう人のことですか?」というのを「生まれたときに法律的・社会的に割り当てられた性別とは異なる性別を生きる人」というのはちょっと違うんではないかな。「社会的に割り当てられた性別」って要するにジェンダーのことだよね。確かにトランス「ジェンダー」なわけだけど、ここは生まれたときの性別に違和感を持つ人って説明できなかったのかな。

というのは、この説明だとわたしもトランスジェンダーってことになっちゃうんだよね。。わたしは社会的に割り当てられた性別=ジェンダーがない、というかどちらにもなりたくないって人間だからさ。。

あ、性自認は女だよ。でもそれってわたしにとってはただの「記号」みたいな感じなんだよね。生物学的に女だから女って感じ。それ以上でもそれ以下でもない。いわゆる「女っぽい」格好はしたくない。化粧にもおしゃれにも全く興味が無い。化粧は無駄だし肌に悪いって思ってるし、一年中同じ服装でも平気。ま、日本は春夏秋冬あるから、その季節によって洋服は変えないと暑かったり寒かったりするからそこは仕方ないとは思ってる。けど、余裕で1シーズン、同じ服装でいられる自信がある(爆)まー実際は何回か着替えますよ、着てるうちに汚れてくるからね、服が。でもできれば汚れたりすり減ったりしない洋服があればなぁって思ってる。そうしたらずっとそれを着て過ごすのにって。それくらい、おしゃれには興味がない。

で、そういうわけだから、わたしはスカートは全然はかないんだけど、そうなると着る服が必然的にズボンになってくるわけだ。でもわたしは「男になりたい」わけでもない。逆に男に見られるとすごくいや~な気分がする。ズボンとスカート以外に、なんかどっちにも見えない洋服があれば一番いいんだろうけど、洋服って見事にズボンとスカート、要するに男女のものしかないんだよね。。ってわけで、わたしは別に男に見られたいわけじゃないんだけど、ズボンはいてて、しかも身長がそれなりにあるのでいつも男に間違われて、、それがとってもやだ。外ではすぐに間違われるのでトイレには極力行かない。仕方なく行かなきゃならないときは「どうぞ、人が中にいませんように」と祈りながら入る。

こういうところはとてもトランス的なんだけどね。でもわたしは女。

まぁこういう感じなんで、長くなったけど、だから上のようなトランスの説明はちょっと、、って思うんだよね。

この本を読んでみた全般的な感想は、LGBよりトランスやDSD(この本では「I」=「インターセックス」って書いてあるけど、今は「DSD」=「性分化疾患」って呼ばれる方が一般的になってきた)の人の方が医療に関係してくる分切実なのかなって。まぁだからといって、LGBが無関係とは言わないよ。確かに医者にカミングアウトしたくないって思う人もいるだろうし、そのせいで病院行きたくないって思ってる人もいるだろうし。。あとゲイやバイ男性(MSM)の人の場合はHIV/AIDSのこともあると思うけど。

わたしの場合は風邪なんかで病院行くときはもちろんカミングアウトなんかしないけど(笑)、今かかってる精神科と歯科にはカミングアウトしてる。もちろんカウンセラーさんにもね。それで対応が変わったとかそういうことは一切ない。まー今まで散々調子悪いけど病院行かなきゃいけないってときには彼女に付いてきてもらってたし。診察室にも一緒に入ってもらったりしたし。そのとき「同居人です」って答えてるし。仕方ない部分はあったんだけどね。

あ、だけど、一つ「そうそう!」って思ったことはあった。それは婦人科に行ったとき。今まで2回ほど行ったことあるんだけど、最初書く問診票になんて答えていいか分からないことはあった。「付き合ってる人はいるか」とか「性体験をしたことがあるか」という質問は、どう考えても「異性愛」を前提にした質問としか思えなかったんで、どう書いていいのか迷った。で1回は「性体験なし」って答えて、1回は「性体験あり」って答えたら。。。詳しくは書かないけど「性体験なし」って答えた方がいいんだって思いました(笑)

それから、婦人科を選ぶときは必ず女性の医師を選ぶかな。男性の医師には悪いけど診てもらいたくない。男にはね、医師とは言えやっぱ触って欲しくないです(笑)ま、これは人によって違うでしょうけどね。

あとこの本ね、医療従事者向けってことだからか、医療に関することは割と詳しく載っていて、そういう点では「へー」って思うところはあった。

でさ、ちょっと気になったのは、巻末に「全国医療施設アンケート」ってのが載ってて、全国467の医療施設に質問を送ったんだそうだ。で、返ってきたのはたったの96施設。。この本には何にも書かれてなかったけど、この回答率の低さはなに!?って思ったね。いろいろ理由はあるんだろうけど、やっぱ無視される存在なんだなぁって。そしてこの本に「載せてもいい」って回答した医療施設が載ってるんだけど、もちろん(?)わたしの今かかってる病院は載ってませんでした。まー、でっかい病院は答えづらいだろうけどね。医者一人一人、看護師一人一人に「偏見持ってないか」って聞けるわけないし。ただ、お世話になる確率が高そうな精神科とか婦人科とか泌尿器科とかそういうところだけでもよかったのになー。

しかしこの本、実際に医療従事者は何人読んだのかな。それが気になるところ。一人でも多くの医療従事者に読んでもらいたいって思う。確かに気にくわないところもあるけど、でもそれ以上に性的少数者の存在を知って欲しいし、対応も知っておいて欲しい。特にでかい病院じゃなくて、個人で病院やってるような人にね。ただ問題は、どういうきっかけがあってこの本に巡り会うかなんだよね。。果たして何も下地がないところでこの本に巡り会って読む、なんてことが起こりうるのか。そういうこと考えちゃうんだよね。
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06-23 Tue , 2009
救いようがない、、
前々から「早く読まなくちゃ」と思ってた「そしてエイズは蔓延した」(上・下)を読み終えた。

しかし、、最後の最後まで救いようのない話で、読後感が非常に悪い。上巻の途中までは「もし、今度こういうことが起こったとすれば、自分は将来のことを予測して正しく判断できるだろうか」と思いながら読んでたんだけど、下巻の最後になればなるほど「あ、これは個人的にどうこうできるって話じゃないな」と思い、読み終えた後は絶望的な気分に。

多分、次にどこかで同じようなことが起こったとしても、この教訓は絶対に生かせない、と思った。だって、この本が上下巻2冊で終わったのも、結局は誰かの努力の結果ではなく、偶然が重なっただけだもの。。それ以上に、人間というもののありがちな嫌な部分をこれでもか、これでもか、と見せつけられる本だった。。

確かにこの本では実名を挙げて誰が何をやったのかがものすごく詳しく書いてある。けど、わたしはここに出てきた人で「結局エイズを蔓延する方向に賛成した人」を非難の目で見る、というよりは、これが人間の本質なんだろうなあ、、と思ってしまうのだ。もちろん、最初からエイズの恐さに気が付いている人たちもいる。しかし、その人たちが必死に政治家や、マスコミや、そしてゲイ団体に警告しようと、無視される、伝わっていかない、人権侵害だと逆に攻撃される、、、とにかく絶望の繰り返しなのだ。そして結局、エイズを世の中に知らしめたのは、こういう一握りの人たちの努力の成果では全くなく、ただ一人の有名人の死、なのだ。その前に何千人ものの死があったのにもかかわらず。

「これが人間社会なんだろうなあ~」と思うと、本当にゾッとするほど悲しくて、悔しくて。

今は本当に救いようのない気分でいっぱい。
多分、人類はこの教訓を生かせない。

。。。読むんじゃなかった、かな(苦笑)

テーマ:同性愛 - ジャンル:日記

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02-12 Thu , 2009
は゛な゛か゛つ゛ま゛る゛
というわけで、昨日に増して、今日も鼻づまりが~ヽ(`Д´)ノウワァァァン

メシ食うときが一番困る。息をしたいのか、それともご飯を食べてもいいのか。めっちゃ悩む。

だもんで、メシがマズー(ごめん、彼女)。

最近は、金がないので図書館で本を借りることにしている。2週間前、わたしが図書館に行って借りてきた本

・インターセクシュアル(半陰陽者)の叫び
・女から男になったワタシ
・『性別が、ない!』ということ
・ジェンダーセクシュアリティ
・アメリカのゲイ社会を行く
・フィンランドにおける性的ライフスタイルの変容

このうち、上の3つは読み終えたので、今日返した。下の3つは引き続きまた2週間借りることにした。が、正直「ジェンダーセクシュアリティ」は読んでも分からんだろう(苦笑)第1章まで読み終えたが、さーっぱり分からんかった(爆)なんでマゾヒズムから説明されないといかんのだろう、とか。なんで突然演劇が出てくるんだろう、とか。装置ってなんだよ、装置って、とか(笑)うーん、もともとフェミニズム用語は苦手なのに、こんな本を読んだら、ますます「分からん」ってことしか頭に残らないだろうから、危険っちゃー危険。ま、ザッと目を通すくらいで、多分、何も頭の中には残らないだろうと思われ(汗)時間の無駄かな?(笑)

で、今日、新たに借りてきた本

・変えてゆく勇気
・私はトランスジェンダー
・ピンク・トライアングルの男たち
・戦後日本女装・同性愛研究

なんか上のと併せても、トランスジェンダー系のものが多いのと、「あれ、まだこれ読んでなかったんですか?」っつー本があるだろうね(笑)つか、確かにこの中では超有名な本もあるけど、それは今まで「知ってたけど、金出すまではねー、、」って本ばっかり。。ってことは、逆に言うと、トランス系の本は「金出すまではねー」って思ってることの証明にもなる(苦笑)

いや、決してトランスジェンダー系の本は取るに足らない、と言ってるんじゃなくて。ちゃんと興味持ってるからこうやって借りてくるのだ(って全然説明になってないじゃんか)。ただ、図書館にある同性愛関係の本は実はもうほとんど持ってるか、読んだことある本(あ、でも伏見憲明の分厚い本は持ってないし、図書館にあっても読む気ないわ)なんだよね。

うちの住んでる自治体で、果たしてどれだけの性的少数者関係の本があるか、ってことが急に気になって、2週間前に一番でかい図書館に行ってみたんだけれど。結構あったんで、ちょっと安心した(笑)「カミングアウト・レターズ」みたいな割と新しめな本もあったし。

あ、でもね。性的少数者関係の本って、図書分類によると367(「社会」の中の、家族問題・男性、女性問題・老人問題)の中に入ってるみたいなんだけど、その次の368が「社会病理」なのね。で、図書館の性的少数者関係の本が置いてある本棚に行くと、本棚にバーンと「社会病理」って書いてあって、まるで性的少数者の関係のものが社会病理なのかよーーー??てな誤解を生む恐れが(笑)だって、わたしびっくりしたもん、最初。「えー、なにこれー」って。で、よく見たら「368」って書いてあるから、別のことを問題にしてるんだなって分かるんだけど。あれにはちょっとびびった。

あ、で、今日借りてきた中の「ピンクトライアングルの男たち」はもう既に読んだことのある本。実はこの感想を日記に書こうと思って、書き始めてはいるんだけど、いろいろあってその本を返さなくちゃならなかったので、まだ未完なのよ。なんで、ついでに借りてきた。

この中で一番面白そうなのはやっぱ「戦後日本女装・同性愛研究」でしょう。これも本屋で見て知ってたんだけど、なんせ7,200円もする学術書でねー。買えなかったのね。だから、これは「おっ、やったー」と思って借りてきた。確か、これと同じ体裁のヤツで「女性同性愛者のライフヒストリー」みたいな本も出てたと思ったんだけど、そっちの方は見当たらなかった。もし図書館が持ってなかったら、買わせよう(爆)わたしゃ、別に研究者じゃないので、女性同性愛者のライフヒストリーの本はうちになくてもいいのだ。けど、中身は読んでみたい。。(笑)

しかし、今日はどうも老年期に入ったと思われる女性が、一緒の本棚にいて、向こうは「お一人さまのなんとか」みたいな本を探していた模様。わたしは「この人、同性愛関係の本に手を伸ばさないかしら♪」って期待して見てたんだけど。。チッ(←?)

で、分類が重なるんで、すげー探しにくかったけど、まぁ目が合った本を数点選んできた。「変えてゆく勇気」は半分ほど読んだので、この分だとまぁ今日中には読み終えるだろうな、と。

っていうか、そろそろホンマに英語、勉強しないと危ういんだけど。。ええと、取り敢えず尻に火を付けないと、と思い、TOEFLの試験の申し込みだけはやっておいた。3月下旬。

だけどこんなに本、借りて来ちゃって大丈夫かなあ~.。.:*・゚゚・(´ー`).。*・゚゚・*:.。. ぽわーん
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01-18 Sun , 2009
「ゆめはるか吉屋信子」と「女人吉屋信子」
もうだいぶ前に「ゆめはるか吉屋信子〈上〉―秋灯(あきともし)机の上の幾山河 (朝日文庫)」と「ゆめはるか吉屋信子〈下〉―秋灯(あきともし)机の上の幾山河 (朝日文庫)」(ともに田辺聖子著)を読み終わってたんだけど、もう一回「女人 吉屋信子」(吉武輝子著)を読み返してたので、感想を書くのが遅くなった。

うーん、別にこの2つを読み比べて感想を書こうと思ってるわけじゃないけど、一つの方は上下巻あり、しかも1巻が約700ページずつとかなり分厚いのに対して、もう一つの方は単行本で約300ページ。ま、情報量に格段の差があるのは読まずとも分かる。

が、田辺聖子の方はなんでこんなに長いのかというと、吉屋信子の書いたもの、そのものをたくさん引用しているからだ。なので、この本を読み終えると、田辺聖子の書いたものを読み終えた、というよりなんだか「吉屋信子の書いたものも一緒に読んだ」という気がする。もっとも、引用を多くしたのは、著者が意図的にやったもので、それはなぜかというと「あんなにたくさんのジャンルの本を書いた吉屋信子の本は、現在、一部を除いて入手しにくくなっている」からだという。

確かにAmazonで「吉屋信子」と検索を掛けてみると178商品出てくるが、そのうち約50作品は「現在お取り扱いできません」になっている。そして、現在でも入手可能なものは、ほとんどが「花物語」を代表とする、いわゆる女子学生同士の友情や淡く儚い恋愛を書いたもので、今現在、吉屋信子に対する評価は、ほとんどこの「花物語」に代表されるものと言ってよい、との現われであると言えるのではないか。

しかし、少女の頃からリアルタイムで吉屋信子に親しんできた田辺聖子は、「美文調で女子供しか読まない」とされる「花物語」は、吉屋信子の著作の中でも本の初期の部分で、吉屋信子は人生経験とたくさんの本を書き続けるうちに、美文調の文章はなりを潜め、女性が主人公のものが多かったけれども、男性も魅力的なキャラクターを作り上げることができるようになり、少女小説から家庭小説、大衆小説から歴史小説まで著作が及んだ「大作家」である、しかし、世間の彼女の評価は不当に下げられている、とのことで、この本を書こうと思ったという。

なので、この本は必然的に吉屋信子の書いた本からの引用が多く、そして、どのような過程で、どのような本を書いたのか、他の作家との付き合いはどうだったのか、を軸に彼女の日記と共に丹念に彼女の「歴史」を追っている作品になっている。また、彼女の日記も引用してはいるが、そのほとんどが1行か2行の短いものだ。

一方、吉武輝子が書いた「女人吉屋信子」は、田辺聖子の本に比べると、日記やプライベートな手紙が数多く載せられている。例えば、吉屋信子とそのパートナーだった門馬千代は一時の間、東京と下関で遠距離恋愛(というのだろうか?)をするが、その間飛びかった手紙を多数、載せている。これを読むと二人の関係の生々しさや、それと印象的には「随分長い遠距離生活だったのかな」とついつい思ってしまうが、実際には10ヶ月あまりのことなのだ(この間、150通にも及ぶ手紙のやりとりをしているというから、2日に1通の割合で手紙を書いていることになるが、、)。しかし、田辺聖子の方は淡々としており、手紙の引用はほとんどないと言ってもいい。あっても、生々しい部分ではなくただ二人の「会いたい気持ち」(吉屋信子の方は)「早く一緒に暮らしたいという気持ち」が強かった、くらいの印象でしかない。実際にはひどい手紙を書いたあと、翌日に電報を出したりすることも多々あったらしいと吉武輝子の本からは読めるが、田辺聖子の本にはそういうことは全く書いていない。

また、門馬千代と会う前に付き合っていたとされる「屋根裏の二處女」のモデルにもなった菊池ゆきえ(「女人吉屋信子」では、その後の消息をたどり許可を求める手だてがなかったため、塙十糸子という名前になっている。田辺聖子はこれを書くに当たって、遺族を探し許可をもらったのだろうか)との最後のやりとりも、吉武輝子の方はかなり生々しいことをのせているのにもかかわらず(相手に二人の関係を世間にばらすと手紙に書かれたり、相手の父親が来て、娘の将来を全面的に面倒見て欲しいと頼んだ等)田辺聖子の方は確かに父親が来たことは書いているが、吉屋信子とは会わなかったようだ、と書いている。

要するに、田辺聖子はそういう吉屋信子の「女性関係」ではなく、ただ単純に「大作家」としての吉屋信子が書きたかったようで、同性愛のことについても「同性愛」という文字は出てくるものの、基本的に田辺聖子はそのことに対してはなんの意見も述べてはいない。どころか、もしかしたら「同性愛」について触れたくなかったのではないか、とも思える。

一方、吉武輝子の方は、吉屋信子は「肉体的な結びつきよりも精神的な結びつきを重視していたこと」や「自分を金を稼いでくる男、相手は家を守る女という役割を求められることを強く拒絶していたこと」を書いている。そのため男女の結びつきを「肉体の結びつきでごまかし合う異性同士の愛」、それに比べ同性同士の結びつきを「それを抜きにした魂と魂の純粋な結びつきを同性愛に求めた」と吉屋信子は考えていると吉武輝子は書いている。これは日記の一部に「魂の結びつきの粗末さを、肉体のからみ合ひでごまかす気には、どうしてもなれぬ」と書いてあるからか。

しかし、そう日記に書いてあったとしても、吉屋信子は男女の愛について「肉体の結びつきでごまかし合う異性同士の愛」などとはどこにも書いていないのだ。ただ「魂の結びつきの粗末さを、肉体のからみ合ひでごまかす気には、どうしてもなれぬ」と書いているだけだ。なので、わたしはこういうところを読むと不当に同性愛を美化されたような感じがして「えー、なんだかなあ」と感じてしまう。だって、肉体の結びつきでごまかしている同性同士の恋愛だってたくさんあると思うし、わたしは同性愛を精神的な結びつきの方が強いなどとは決して思わないから。

この人は、他にも「山高(しげり)・市川(房枝)にかぎらず、ほとんど全部といっていいくらい、どの共同生活も、いっぽうに異性が登場したのを機に解体してしまっている。それこそ、死が二人を分かちあうその日まで、女同士の共同生活が継続されたケースは、わたしの知るところでは信子と千代をおいてほかにはない。何故、稀有なことをこのふたりは成し遂げることができたのだろうか」って書いてあるんだけどさぁ、、そりゃ、信子と千代は同性愛者で、その他は異性愛者だったからなんじゃあないのお?(笑)なんかすんごい馬鹿なことを(あ、ごめんなさい(^^;)大真面目で書いているので、とてもおかしいんだよなあ、「女人吉屋信子」。

だから「女人吉屋信子」の方は「女同士の結びつき」について、主に書かれているので、吉屋信子の作家としての評価はやはり世間と同じ「花物語程度」でしかない。それにこの本、途中、戦争時代に吉屋信子が従軍ルポ(主婦の友、特派員として)を書くために、何回も中国に行ったのだが、そういうことは一切書かれていない。ただ、戦時中は筆を折っていた、としか書かれてない。

そういうところをこの田辺聖子の方は丹念に追っている。というのは、この経験が後の作品に影響を与えたと彼女は考えているからである。

ただ、この2つの作品に共通しているのは、「吉屋信子は女性に優しかった」ということ。女流作家同士は足の引っ張り合いなどもあり、いろいろあったらしいが、吉屋信子だけはどういう人とも付き合いはよかったという。もちろん、明治時代の封建制度で女性には選挙権も与えられず、家父長制度の下、信子ももちろんのことながら、周囲の女性がどんなひどい目に遭っていたことかを目の当たりにしている。なので「女と女は助け合わないといけない」というのが吉屋信子の信条だったのだろう。この言葉を吉武輝子は吉屋信子から直接言われたという。なので多分、吉武輝子はこのことに対してものすごく感動して、だから同性愛をとても「神聖なもの」扱いするんだろうな、とわたしなんかは想像する。が、同性愛といっても女性同士だけじゃなく男性同士の同性愛もあるからねえ、、そこら辺はどう考えてたの?って思うけど、多分、男性同士の同性愛のことなんか考えもしなかったんだろうと思う(笑)

で、田辺聖子はあの時代「独身主義」を貫いて生きていた吉屋信子が、他の評論家や記者に対してどのように見られていたか、いくつかの例を挙げて書いている(これは吉武輝子の方も例は少ないが同じ)。「独身」=「男を知らない」=「だから、女子供しか読まないような小説しか書けない」という図式で吉屋信子を貶めようとしている。それは吉屋信子が生きていたときもそうだったし、死んだ後も同じである。しかも吉屋信子は生前に家を8軒も立てているような「大金持ち」だった。円本の印税が2万円入ってきたとき、吉屋信子と門馬千代は1年間を主にヨーロッパで過ごしている。こういうことも男性作家や男性評論家にとっては気に入らなかったのだろう。そういうときは、絶対に吉屋信子の顔について一言書いてある。もちろん美人とは書いていない。男にもてなさそうな顔だから、男と結婚できない、とでも言いたそうな文章で、とてもいやらしい。男の嫉妬がモロ出ている文章とでも言うのか。

ただ、吉屋信子の方は自分の作品を読まずにけなした小林秀雄に対しては、新聞社主催か出版社主催か忘れたけど、何かの折に会ったときに面と向かって「自分の作品を読まずになぜけなすのか」と言うことを堂々と述べてきたらしい。後年は何があったのかは知らないが、その小林秀雄ともうち解けていたらしいが。

こういった「図太い面」もあったらしいが、吉屋信子本人は、かわいらしいものが本当に好きで、それよりなにより美しい女の人が大好きだったらしい(笑)よく、「美しい人は大好きな信子である」とか「信子の好きそうな美人」とか、そういうことがたくさん出てくる(笑)

そして「花物語」から始まって、今度は家庭小説、「良人の貞操」を書いて大ヒット、ただ、ここに出てくる男性はまだ描き方がステレオタイプであまり魅力的でない、と田辺聖子は述べているが、、その後、戦争を挟んで、いくつかの短編、そして「安宅家の人々」から歴史小説「徳川の夫人たち」「女人平家」と続いていくうちに、一番最初に書いたように花物語のような美文調はすっかりなりを潜めて、すっきりとした文体で、男性の方も魅力に溢れた人物の描き方ができるようになってきたと田辺聖子は評価している。しかし、当時でも吉屋信子に付いたイメージというものが離れないのと、男なしでこれだけの人気がある、ということに嫉妬されてほとんどまともな評価を受けていない。これは本人も十分分かっていたようで「自分には賞とは縁がない」と思っていたようだ。しかし、仲のよかった菊池寛の「菊池寛賞受賞」はかなり嬉しかったらしいけれども。

最初にも書いたが、田辺聖子の本を読むと同時に吉屋信子の本を読んだような感覚にとらわれる。これはおそらく「思われていたような美文調ではない」ことを実物を持って現わしたかったのだろうか。それと日記の短い引用。それにはたくさん「千子」こと門馬千代のことが出てくる。吉屋信子は本当にずっとずっと門馬千代のことを愛し、感謝し続けている。吉武輝子の本には吉屋信子が同性でも結婚できるようにさせる、と日記に書いたことを引用していたが、田辺聖子の方はそう言うことについては一切触れていない。同じ日記を読みながらも、引用する部分が違うとこんなに違った印象を持つような作品になるものなんだな、と思わずにはいられない。

田辺聖子としては「女人吉屋信子」は「フェミニズムからの視点」として捉えていたらしい。なので、自分が今度は作家としての吉屋信子を評価しようとしてみたものらしい。なので、門馬千代との関係も「生涯の伴侶」と何回も書いてあるにもかかわらず、吉屋信子が亡くなったときの吉屋千代(この時は既に養子縁組していた)に対して、田辺聖子は「生涯の伴侶で莫逆の友」という表現をしていて、わたしとしては「生涯の伴侶って、普通は結婚している(それと同様な関係)人たちについて使う言葉じゃないの?それなのに、なんでそれと並行して『莫逆の友』という表現を使ったんだ?」と不思議でならなかった。だって、そういうことを書く、ということは、田辺聖子はこの二人を「友」としてしか見てないってことでしょ。普通、結婚している男女のことを「生涯の伴侶」とはいうけれど、間違ってもそれと並行して「莫逆の友」とは書かないよねえ?

わたしはここのところが一番不可解だった。。田辺聖子はこの二人を愛情で結びついた「婦婦」としては見なしていないのか、と。もちろん、同性愛を美化するのも嫌いだが、さりとてなかったものにされるのもわたしは不満が残るところだ。

文庫本の解説は斉藤美奈子が書いているが、そこには吉屋信子が不当な評価を受ける原因について「レズビアニズムへの不当な差別がひそんでいる」と解析している。周囲から「男を知らない」とか「独身主義」とか「もしかしたら同性愛者」(吉屋信子は、インタビューではそのどれについても上手く言い逃れているのだが)と見られていたであろうことは、この田辺聖子の書いた本を読めば明白なのに、田辺聖子は最後の最後でおかしいことを書いてるので、どうもこの本に対する評価もイマイチになっちゃったんだけどね、わたし。まぁ、その分を斉藤美奈子の解説で補ってあるような感じではあるが。

まー、同性愛に対する評価、というものができなかったんだろうな、田辺聖子。って感じはする(笑)でも、別に評価しようとかしないとかじゃなくて、ありのままの吉屋信子と門馬千代の生活を書けばそれでよかったんだと思うんだけどね、、で、この二人は家族だった、という認識で十分なんじゃないかなあと思う。

長々と書いてしまったが、実はわたしって、吉屋信子の本を1冊も読んでないんだよね(苦笑)あの「花物語」でさえ読んでない。読んだのは、「女人吉屋信子」と「ゆめはるか吉屋信子」だけ。んー、「花物語」はどう考えても自分には合いそうにない話だし、かといって、後期に書いた本は今は手に入らない。なんともそこら辺が歯切れを悪くしている感じがするが(笑)、ただ、作家としての吉屋信子はもうちょっと評価されてもいいんじゃないかなあとは感じている。この人さぁ、わたしが幼い頃に亡くなっているので、リアルタイムには知らないんだよね。だけど、書いた本や、生涯稼いだ額からすると、もしこれが男性だったら、日本を代表する作家、と言われているのかも知れないのよね。そう考えるとすごく惜しいと思う。

まぁ男性でも評価されない作家もいるけどね。一体、純文学が上で大衆文学が下、なんて誰が決めたんだろうね?
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11-10 Mon , 2008
耳鼻科に行って髪の毛切った
って題名を見ると、耳鼻科で髪の毛切ってきたみたいだけど、別個の話です、もちろん。

耳鼻科は土曜日に言われたから、行ってきたまで。
なんちゃら検査というのは、どうやら「ハイパー検査」というものらしかったが、今回もこれ、やったんだよ!!で、領収書見たら前回が620点で今回が558点。領収書にはご丁寧に「1点は10円となります。」と書いてある。ってことは、、6,200円と5,580円の検査かよ。高っ!!

まーしかし「あ、こないだよりよくなってますね。喉の奥のぶつぶつも消えかかってますし、これはステロイドは飲まなくてもいいでしょう」と言われたので、まぁ一安心。なのに「明日も来れますか?」だって。明日は、病院の日だから行けないってんで「明日は来れません」と言ったら「んじゃあ、3日分の薬出しておきます」と言われたんで、あと3日くらい薬を飲みつづけたら、完治するのかな。

しかし、ここんとこ、何もしてなくて「清い関係」だったはずなのに、彼女もなんか昨日辺りから「喉が痛い」って言い出して、、「んなら一緒に耳鼻科行こうよ」って言って、一緒に行ってきた。わたしの次が彼女で、いろいろやってること見てたら、同じ検査やられてやんの。ここ、、もしかしてこの検査で食ってるのか??しかし、わたしの前の人はこの検査はしてなかったしなあ。

ってんで、わたしは今回も2千円以上払ってきたぞ。もう、あそこの耳鼻科行かない。高いもん。しかし、繁盛はしてるんだよなあ。。風邪の時期だからかなあ?

で、最近、髪の毛がねー、すげー短くしてたんで、中途半端に長くなったら、目もあてられなくなっちゃって。今まで外に出かけるときは、一応、ワックスって言うの?あれをベタベタと付けて、髪の毛引っ込めてた(?)んだけど、あれを付けないと、すんげーんだよ、ホントに。髪の毛が立っちゃって。で、外に出るたびに、なんかいろいろしなくちゃいけないのがめんどくさいので、仕方なく、寒い中、髪の毛も切ってきた。なんか、すげー短くなって、サルみたいになっちゃった(苦笑)(あ、サル、ごめんね(^^;)

まー、申年だから仕方がないか。(んなことないない)

ってんで、15日はサルみたいなわたしの顔が見られますので、どうぞ、パフスペースにお越し下さいませ(笑)

そういえば、気になる情報が入ってきた。
どうやら堺市で「BL(ボーイズラブ)本」を閉架したとかで、今、一部で話題になっているらしい。なんか、夏頃に、匿名の電話が掛かってきて「BL本はよろしくないから、図書館から撤去しろ」というものだったらしい。その後、議員がからんできて、そんで堺市の図書館は「BL本」と判定した5,499冊を閉架したとか?その中には栗本薫なんかの本も入ってるっていうから、結構BL関係に詳しい人がやったんだね、って感じがする。

んー、わたし自身、BL本ってのは読んだことがなく(マンガではよしながふみの「きのう何食べた?」くらいで、小説を読んだことは皆無)、なんでBL本を撤去しなきゃいけないのかというと、男性同士の絡み合いがあるから、有害図書になるんだって、撤去しろと言う人の言い分は。どうやらこれも「ジェンダーフリーバッシング」の一貫らしい。

なんでジェンダーフリーバッシングの人たちがBL本に目を付けたのか、よく分かんないんだけどね、BL本って、あんま好んでゲイの人が読んでるとは聞いたことないのよね。逆に「美少年(美男子?)だけしか出てこなくて、なんだよあれは!」って人の方がたくさんいる。。だけど、これは小説じゃなくて多分、マンガに対する意見だろうけど。んー、若い女性がBL本に夢中になってると、まさか女性同性愛者になると考えてるんじゃないだろうなー、、

んー、BL好きな人って、実際のゲイも受け入れられるって人もいるし、二次元の世界でしか受け入れられないって人もいるし、さまざまなんだけど。。それを撤去する目的がよく分かんないのよね。

あ、この情報の元ブログは

みどりの一期一会

なんだけど、14日までに署名を集めているらしい。「転送・転載歓迎」って書いてあるけど、ここの部分だけ転載しても、なんのことやら分からないので、転載はしない。

それより、話の発端ってのは(ちょっと長くなるけど。詳しいこと知りたい人は「堺市立図書館の書架から5499冊の図書が消えた!?/知る権利、表現の自由を守ろう!」を見てね(^^;)、

7月24日、北図書館へ利用者からの電話(男性)

7月25日、南図書館への電話(40代・男性)
同日、市議会議員(文教委員、自民党)から「有害図書?をどういう観点から購入しているのか」゜と問い合わせ。(市議が中央図書館に直接出向く)
同日、平成20年度第2回 図書館事業調整会議案件(6)その他
・ボーイズラブ(やおい本)の扱いについて購入、開架していることについての図書館としての公式見解を示す必要がある。

7月30日、市民の声メール(受信日7月30日)中央図書館・図書館に開架している本について
・テーマ・大量に開架されているBL

7月31日、市民の声メール(受信日7月31日)平成20年8月1日質問(中央図書館・BL図書を購入した趣旨や目的、購入した冊数および購入費を教えてください)
・テーマ・中央図書館の約束実行

8月8日、平成20度年8月 定例館長会議 7.BL資料の取扱いについて/選書について/冊数、金額/書庫入れについて/今後どうするのか

8月12日、市民の声メール(受信日8月12日)平成20年8月13日要望(中央図書館・図書館に大量開架されてあったBLを書架に収納することになった経緯を速やかにホームページに掲載してください)
・テーマ・書架のBL本の処分

8月15日、BL資料の取扱いについて

8月20日、平成20年度第3回 図書館事業調整会議 案件:BL本の取り扱いについて

8月29日、平成20度年9月 定例館長会議

9月3日、BL資料の取扱いについて(各図書館長宛通知)「BL資料の取扱いについて(案)」

8月末、堺市HP「市民の声Q&A」掲載

ってことになっており、この「市民の声Q&A」ってのが、

> 「BL図書を購入した趣旨や目的、またこれまでに購入した冊数及び購入費を教えてください」

って題で、中身は

> 一般に「BL(ボーイズラブ)」と称される少女向け男性同性愛の本が大量に開架されています。 ・・・すみやかにBLを換金し、他の有益な図書の購入費に当てるよう、強く強く要望いたします。

それを受けて堺市は

> ご指摘いただいた図書につきましては、出版されました初期には小説の一部として利用者からのリクエストを尊重し購入していた経緯がありました。・・・これらの図書は、青少年の健全な育成を図る観点から、中央図書館では閲覧室に展示せず書庫入れとし、特に請求があった場合に閲覧可能としておりました。しかしながら館によっては、ご指摘のとおり閲覧室に展示していた状況がありましたので、すみやかに書庫入れにいたしました。 今後は、収集および保存、青少年への提供を行わないことといたします。

って回答してる。これってさぁ、上の動きを見ると、7月25日に市議が図書館に行って「BL撤去しろ」と言って、市側がそれに対応したのがバレバレじゃん!ま、だから議員の力って本当はすごいものがあるんだけどね。。

で、この問いと回答を読むとやっぱり、市民の人(変な日本語)が問題としているのは「少女向け男性同性愛の本」で有害図書と見ているらしい。じゃ、男性同性愛者じゃなければいいのだろうか、ええと、今、堺市の図書館で「ハーレクインロマンス」で検索したら、2,273件もヒットしたんだが。。(苦笑)BL本は有害図書で、ハーレクインロマンスは有害図書じゃないんだろうか。もっとも、わたしはこの2つのジャンル、読んだことはないんだけど、まったく(苦笑)

BL本ばかりに目を付けて、ハーレクインロマンスに目を付けないってことは、やっぱ「同性愛」を問題としてるんじゃないのぉ~?って気がしてくるんだけど。。

ただ、この人たちは別に「性的指向による差別」を理由にこんなことしてなくて、ただ単なる「表現の自由」のために、公金の監査請求をしたらしい。でも、新聞はそう取りあげてくれなかったんだってさ(笑)

「ボーイズラブ」はだれにとって有害で不適切なのか?/新聞各紙の報道

んで、11月8日に 「堺市立図書館における特定図書排除に関する申し入れ書」(41名2団体)を提出し、そしてまた14日までに(ただし署名期限は12日24時まで)市民や議員、団体の署名を集めて、もう一回堺市に「申し入れ」をする予定らしい。

んー、わたしは、何回も言うけどBLって読んだことないから、よく分かんないのよね、この問題。でも、なんでBL本だけをターゲットにするの?って感じはするし、男性同性愛を見せるなとか読ませるな、って問題だとしたら、それはないんじゃないの?って思う。だったら、三島由紀夫の「仮面の告白」なんてのもダメだし、治ちゃんの「桃尻娘」だってダメでしょ、あとハーレクインロマンスも、あと、文芸書でも男女のSEXシーンとか、もっというと「恋愛もの」なんか全部撤去すればいいじゃない。夏目漱石の「こころ」なんざ、親友を裏切ったりなんだりですごい有害じゃないの?子供にはそういうのは読ませたくないんでしょ。だったら、図書館にはどういう本が一体残るんだろうね?きっと、すごーくためになる、楽しい本だらけになることだろうね!(爆)
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10-24 Fri , 2008
人はどのようにしてレズビアンになるのかなんて、余計なお世話なんだよ!!
昨日、本棚を見て偶然「レズビアン (レッド・アロー・ドキュメント)」っつー本を持っていたことが判明。っていうか、かつてこんな本を読んでいたとは思えないほどめちゃくちゃな本だった!

発行年月日は'94年3月30日(もちろん、第一版第一刷)で、買った日が'94年3月29日だから、なんかどこかでこの本が紹介されて、それで買ったんだろうと思われる。じゃないと、発行年月日より早く本が出版されるなんて分かんないと思うし。。

読み出したのはいいんだけど、なんかね、あちらこちらに「性倒錯」って言葉が使われていて「なんじゃ、こりゃあ。いつ出版された本なんだよ?」って思ったら、なんと、'66年に出版された本の訳本だった。。いや、表紙もなんか変な感じなんだよね。だいたい副題が「THE MAKING OF A LESBIAN」って書いてあったし、その下の方に日本語で「ひとはどのようにしてレズビアンになるのか― 女を愛する女たちの知られざる素顔を、アメリカのセックス・カウンセラーがリアルに再現する衝撃的レポート!」なんて書いてある。

ちょ、ちょっと、、、'94年だよ?日本で初めてレズビアンについて取り上げられたと言われる、別冊宝島の「女を愛する女たちの物語」の初版発行が'90年3月で、それから丸4年も経ってるんだよ?その間、「ゲイブーム」でさまざまな同性愛に関する本が出て、いわゆる「普通の同性愛者」もテレビに取り上げられていた頃だ。なのによりによって、'66年のそれこそ「同性愛が性倒錯だった時代」の訳本が出版されたのか。そこら辺が非常に謎である。だって'66年っていったら「ストーン・ウォールの反乱」('69年)より前の話じゃん。約30年前の本を訳する意義があるのか、とても不思議だった。。

確かに「歴史的副産物でこういうのがありましたよー」口調の本だったらまだしも、この本、完全にレズビアンやレズビアン行為に対しては「性倒錯」と信じて疑わない解説付き!!読んでて腹が立って腹が立ってしょうがなかった。。

んとね、この本の解説は「中田耕治」って人が書いてるんだけどね、この人、どんな人なのかさっぱり分かんないの。訳者の経歴は書いてあるんだけどね。んで、解説の中で「この翻訳について説明しておく。これは、私たちがあまりよく知らないレズビアニズムに関して、もう少し深い理解を持つ必要があると考えてえらんだテキストであった。訳者には、すでにファン・ニコルズの長編「エンジェル・フェイス」の訳で知られている阿部孔子を起用した。(中略)私は、仙台で行なわれた、あるセミナーで彼女を知って、語学の勉強をつづけるようにすすめたのだった。地方在住の女性が翻訳の勉強をつづけることは、なんといっても不利なのだが、彼女はそれにめげずに勉強をつづけた。ある時期まで、新幹線を利用して東京のわたしのクラスに通学するような努力をかさねて、やがて創作の長編小説を発表したり、数多くの中、短編を翻訳するようになったのだった。」って書かれてて、じゃあ、アナタはこの本の訳者の先生なわけね、ということは分かるんだけど、自分自身については何も書いてないので、誰かは全然分からない。

ってんで、ええ、ぐぐってみました(苦笑)そしたら、多分、この人だろうと思われるウェブサイトがあったんだけど、経歴を見たら、やっぱ英文科卒なのね。要するに、社会学とか精神医学とかそういうのとは全く関係ない人なわけね。なのにさぁ~、解説ではフロイトを出してきたりして、めちゃくちゃ。

ま、この本自体、表紙にも書いてあったようにセックス・カウンセラーのところにきたレズビアンたち、ってことで、「女性同士で愛し合うことに対して疑問を持っていないレズビアン」は一切出てこないわけ。出てくるのは、生い立ちが悲惨で、かなり精神的にも問題があって、あるものはアルコール中毒だったり、あるものは男性に走った女性の恋人を刺し殺してしまったりした人だったり、それからこの時代に多分、大きく根付いていたであろう「ホモフォビア」(同性愛嫌悪)から相談に来る人(=同性に惹かれる自分は異常ではないかと思っている人)だったり、そういう人たちなわけね。で、そういう人たちの生い立ちから経歴から分析して「この人はこれがあったから同性愛に走った」とか「目覚めた」とか理由付けがされてるのよね。

ええと、わたしから言わせるとね、本末転倒なわけ。確かにこの時期、ほとんどのゲイやレズビアンは隠れて暮らしていただろうから、人目に付くことはなく、同性愛の研究をする場合は、こういう事件やちょっと精神的におかしい人(っていうとなんか精神障碍の人を差別してるみたいで嫌なんだけどさ)しか被験者に成り得なくて、で、そういう人の話から「んじゃあ、レズビアンはこういう風にしてなるものなんですよ」って一般論にしてしまったら、それはないでしょう、ってことにならない?あくまでもその人個人の解釈にはなるかもしれないけど、これが一般化されると非常に問題があると思うのね。

で、だいたいここに出てくる人の共通点って「仲が悪い夫婦の元に生まれたか、孤児院で育って、母親の愛情を受けて育ってこなかった。だから、大人になっても母親の愛情を求めるように同性に愛情を求めるのだ」というのがまぁ出された「理論」の一つね。もう一つは「また、子供の頃に肉親や身内からのレイプ体験を持った人が多い。それ以外でも男性から複数レイプされた人もいる。だから、男性嫌いになり、相手に同性を求める」ね。2番目のほうは取り敢えずは置いておくとして。

1番目の「理論」についてだけど、前にわたし、「同性愛が性倒錯だった時代」にも書いたとおり、男性同性愛者に対しても「大多数の同性愛者には、神経症的な兆候を持つ人々と同様、母親に対するエディプス的な愛情が認められるが、母親への執着の度合いはほとんどの場合、同性愛者の方が強い」「同性愛者はある点で、自分に欲求不満を抱かせた母親と一体化しようとする。母親と同じく、彼は男を愛する」と書いてあって、結局、ゲイもレズビアンも「母親の愛情に飢えている」のは同じなわけ。でも、性的対象は同性に向かうわけ。

この論理って絶対におかしくない?もしね、レズビアンが「母親の愛情に飢えていて、だから大人になっても母親の愛情を求めるように、同性にその愛情を求める」んだったら、ゲイの場合は「父親の愛情に飢えていて、だから大人になっても父親の愛情を求めるように、同性にその愛情を求める」って言う方が整合性が取れてない?

んでね、これを一般化して異性愛者にも広げてみると「女性異性愛者は、父親の愛情に飢えていて、だから大人になると父親の愛情を求めるように、男性にその愛情を求める」になるだろうし、男性異性愛者の場合は「母親の愛情に飢えていて、だから大人になると母親の愛情を求めるように、女性にその愛情を求める」ってことになるわけね。これ読んだら多くの人が「そんなん、絶対に違う。別に好きになる人と自分の親はなんの関連性もないし」って思うと思う(中には若干、自分が好きになる人は親に関係すると思う人もいるかも知れないけどね)。

結局、こういうことなんだよね。まぁ、あの当時は同性愛ってものは「病気扱い」されていたから、仕方のないことかも知れないけど、、でも同じような生育歴を持って、一人は異性愛者なのに、別の人は同性愛者だっていうそういう事実があるかどうかを検証してみた人っていないのだろうか?というか、逆に言うとこのような「でたらめな本」が出たおかげ(?)で、同性愛自体は病気ではない、という研究がそのあとにされてきたんだろうと思う。最近、いろんな本を読みまくってるけど、エブリン・フッカーって精神科医の名前をよく見る。どうもこの人が「同性愛は病気ではない」ということを言い出したっぽい。あとは、それ以前にドイツの精神科医も同じことを言っていたんだけど、ナチスドイツにかき消されてしまったらしい。で、ユダヤ人と共に男性同性愛者はガス室行き、となったわけで。。

ああ、また話が逸れた。

この本は読んでいると、ところどころ、レズビアンについての記述がものすごくおかしいのよ。「それは異性愛者の思い込みだろ」みたいなところがある。例えばね「ロレーナは主に父性を求めて男性と関係を持っていたと思われる。(中略)フェラチオが好きで執着したのは、父に好かれたいという潜在意識のせいだろうか。だが、もっとはっきりしているのは、この行為は子供が満足したいときにとる行動に類似するものであり、その転換行為であることだ。男性性器は母の乳房代わりだったのだ。(中略)バストの大きな女性に魅力を感じたことや自分の胸がもっと大きければよかったといっていること、これは母親がバストの大きな女性だったという事実に繋がっている。ロレーナが女性のバストに惹かれ、性的興味を感じるのは、母親の乳房にすがりたいという安心感を求めてもいるのだろう」

ええと、わたしはどうしても「男性性器が母の乳房の代わり」とは思えないんですけど。。(笑)どう考えたら、こんな理屈になるのか??とても不思議でたまらない。。

「少女期、性感の中心は陰核部だけに限られている。外陰部にも感覚がある少女たちがいるという説もある。だがこれはまだ議論の余地がある。大人になるにつれ性感帯はひろがり、胸部や膣内も含まれてくる。外陰部における初期の体験は将来の性生活を左右するほどに重要である。はじめて経験する膣内貫通が精神的ショックをともなえば、性感は子供の頃のままでとまってしまうことがあり、性感が膣内へひろがってゆく自然な成長を妨げる場合もある。結婚してからこの障害を乗り越える女性もいる。ただし、陰核部を刺激してから性交へ移ることが必要で、これさえなされれば夫の腕に身をゆだね、受け入れることもできる。」

これ、初めて読んだ「理論」なんだけど、フロイトの理論なのかしら、、?これはレズビアンではなく、ヘテロ女性一般に関して書いてある記述なんだけれど。。わたしはヘテロ女性じゃないのでよく分からないんだけど(苦笑)、なんかこれを読んでいると「女性は基本的に男性とのSEXは好んでやりたいと思っていなくて、初めて男性とSEXしたときに、うまくいけばそのままあとは大丈夫」みたいに書かれている感じがするんだけど。。ってことは、女性は潜在的にすべて「レズビアンである」と解釈できないこともないじゃないか??

で、これも初めて知ったんだけど、日本では女性が自慰行為をするときに「チンノタマ」ってものを使ってたらしいんだけど、これ、ぐぐっても出てこなかったよ(笑)一体、いつの時代の日本の話なんだろうねー?なんか、鳩の卵大の空洞になった二つのボールで、ごく薄い真鍮で作られているもので、一つはからで、もう一つの中には小さな重い金属や水銀の玉が入っていて、金属製の突起が付いていて、動きに合わせて振動するようになっているものだそうだ。で、からの方を先に膣から子宮に挿入しって書いてあるんだけど、子宮内にものを入れちゃうわけ??子宮口の入り口までは行き着けることは知ってるけど、わたし、子宮内にものを入れることが普段の状態でできるって、初めて知ったよ。。つか、子宮までものを入れようと思ったら、すんごい力とか長細い棒とか、そういうのが必要なんじゃないか???それに、見るからに痛そうなんだけど。。。

んー。子宮内にものを入れたことがないので分かりません(爆)

そして「チンノタマ」以外に「リンノタマ」「エンジ」と呼ばれる紙や陶製の人工男性性器も使用しているんだってさ。「リンノタマ」を使用しているのは遊女や高級芸者で、「エンジ」は日本の女性が使用しているそうだ。「リンノタマ」だけはぐぐったら出てきた。江戸時代の性具だったようだね。

つか、この本を訳した人はこの部分について疑問を持たなかったのだろうか。。。日本の女性がこのようにアメリカに紹介されていることに対して、何も思わなかったのだろうか。。。いや、突然、日本の女性が出てきたからびっくりするのよね、この部分。

それから「レズビアンたちは、陰核の興奮を通して百パーセントの満足感を得られることもある。多くは性関係の中でクンニリングスはしないといい、口でなく指で刺激するという。お互いのからだを利用する刺激を好む。」だって。ふーん。。そうだったんだ(笑)何人のレズビアンカップルに聞いたのかは知らないけど、時代かね、これも(笑)こういう「一般化」された言葉がなんの根拠もなしで突然出てくるんで、驚くんだけど。

「レズビアンたちの多くは自慰行為を好み、先に述べたように、彼女たちが好むオーラル行為も形を変えた自慰行為だといえる。」ええと、、多くはクンニリングスはしないんじゃなかったっけ?(爆)しかも、レズビアンでなければ、自慰行為は好まないのだろうか?という疑問が沸々。。。

「あこがれの対象が自分の母親に欠けているところを補う人物になるのは、本人たちにも分かっている。お気に入りの先生は女性的な魅力のかたまりに思えるのだ」って、はい。女性の先生が好きだったわたしに言わせると、これは全然当てはまってません(爆)つーか、別に母親に欠けた部分を女性の先生に求めてたわけじゃないし。。それに、わたしの好みとしては、女性の先生でもすごく「はきはき」してカッコイイ先生が好きだったのよ~。わたしが高校時代に好きだった数学の先生は、すんごく進み方が早くて、一部、文系の生徒には不評だったけど、わたしはそういう、なんて言うかな、証明問題の無駄のない、美しい解き方にに「はぁ~っ」と思い、ちょっとでもボーッとしていると付いていけない、というあのガツガツさが好きだったのよね。。。それに加えて「グラフなんてね、適当に書けばいいんですよ」と言いつつ、きれいな単位円を書き、もうそれは「うっとりするほど」だったのだ。なんで、あんまり先生に対しては女性、ってことは求めてなかったんだけどね。まー、わたし一人が異論を唱えてもあまり関係ないか(苦笑)

「男の格好をして人目を引く、一見してそれと分かるレズビアンの女性には、肉体的にも女性ホルモンが不足している場合が多いと言われる。この「男性化」タイプには男性的二次性徴があらわれ、女性らしさに欠けていることがバネになって同性愛に傾く。そしてコンプレックスの裏返しで男の仕草をする。精神医学的には、ホルモンのアンバランスは同性愛に対して無防備な状態を引き起こし、性の欲求に向ける対象を特定できなくなる。生理学的にも、男性化した女性は男役のレズビアンになる可能性が高い。とはいっても女性らしい女性にもその可能性はある。」

「何が言いたいんじゃ!」と思わせる文章(爆)特に最後の方。しかし、女性ホルモンの不足でレズビアンになる、って初めて聞いた(笑)しかも男性的二次性徴が現われて、そのコンプレックスの裏返しで男の仕草をするって、、うーんと、よくわけの分からない文章だなあ。。男性化するから男の仕草をする、のなら意味は通じるけど、なぜここで「コンプレックス」という言葉が出てくるのか、ちーっとも分からん。

確かにこの時代はまだまだ「ブッチ」と「フェム」(見た目「男役と女役」)に分かれていた時代だろうとは思う。日本でも少し前まではそんな感じだったし。30年前の記述とすれば、まー、ホルモンの関係かどうかはよく分からないけど、見た目「男っぽい」人と「女っぽい人」が付き合うのってありがちだったしね。でもこういう概念って、実は時代と共に変わってきていて、今は別に「男性っぽい人」と「女性っぽい人」が付き合っているとは限らない。「フェムフェムカップル」もいるし、逆に「ダナーズ系」もいるしね。そういう意味では世間が思っているほど「男」とか「女」って思ってないよ、今のレズビアンはね。多分30年前、そして日本ではつい最近まで「男っぽい人」と「女っぽい人」が付き合うことになってたのは、ロールモデル(お手本)に「異性愛者」しかいなかったからだろうなあと思わせるんだよね。

あ、あとこの時代では仕方ないだろうけど、やっぱり「性同一性障害」の人だろうなと思われる人も中に「レズビアン」として入っていた。こればっかりは、、この当時はそういう「概念」がなかったので仕方がない。

この本、全体的に「同性愛を治す方向」のカウンセリングをしているみたいだが、それでも少しだけ「異性との恋愛を勧めてもおそらくは無駄であろう。(中略)健全に、そう望むなら彼女がありのままに生きられるように手を貸してあげたい。その方がずっと健全である。」「ボニーはレズビアンであり、かつ健全である。」という「レズビアンは治せない(またはレズビアンである状態は本人にとって健全)」という記述も出てくる。

そして最後には「レズビアンが市民権を勝ち得るときはまだまだ遠い。まず逸脱しているという罪悪感をぬぐい去ること、それが自信に繋がり、解放されることへの第一歩となる」って書いてあるんだよ!なんかね、今までの症例とそのコメントを書いていた同一人物とは到底思えないんですけど(苦笑)でも、そのまた続きには「だが世間一般から見てタブーであるのは男性も女性も変わらない。このことを変えられるのは時間だけなのかも知れない」とも書いてあって。。要するに、この人もなんだかんだ書いてて「同性愛はおかしいことでもなんでもないんですよ」ってことを言いたかったのね、でも、最後の最後、こんな2行しか書いてないと、誤解されるよ、って感じ。あとは「ほとんど家庭崩壊、母親の愛情不足」等々って書いてあるんだもの。。一体、この筆者は何が言いたかったんだろうね?という感じがする。上に書いたように、すんごい変なことばっかり書いてある挙げ句に、最後だけまともなんだもの。変なの。

で、もっと変なのは、最初に書いたように'94年という時代でありながら、まだ「フロイトの理論」」を信じ切ってる、この中田って人だ。この人、大真面目にまだ女性には「ペニス羨望」があると思っている(笑)そして「『ペニス羨望』は女性における去勢コンプレックスの中核をなす。このテーゼからさらにレズビアニズムへの発展といういスキームは容易に見てとれるだろう」って書いてある。

その一方、「男は女の月経や妊娠あるいは性的な欲求の対象としての乳房について興味を持っていても育児にあたって栄養の補給を行なう乳房、あるいは膣の構造などについてほとんど知るところがない」「たとえば、女性は自分の乳房についてどういう風に感じているのだろうか。女性としての自己規定に乳房がどういう役割を演じているのか。男たちはそれさえも知ることがない。」と書いてある。

非常に素直でよろしいんだけど(爆)、それだったら、初めからペニスというものを持たない女性がなぜ一方的に「ペニス羨望」を持ち、「去勢コンプレックス」があるというのか?女性のわたしから言わせてもらうと、男性には乳房がないんだから「乳房羨望」を持ち「乳房コンプレックス」を感じないのか?そして男性は子供を産むことができない。「妊娠羨望」を持ち「妊娠コンプレックス」は持たないのか?

こんなことは絶対にあり得ないだろうけど、フロイトがもし女性だったら、こういう理論を唱えると思うよ。たまたまフロイトが男性だったから、こういう理論が唱えられただけで、トランスジェンダーの女性ならそりゃ「ペニス羨望」はいくらか、程度によると思うけど持つかも知れない。けど、性自認が女性だったら、ペニス羨望なんて有りはしない。それをまだね、'94年にもなって大真面目で解説を書いているこの人って一体何??って思うわけ。

しかも「現在のレズビアンの現状」としてクリントン大統領(当時)が軍隊に対して「(同性愛に対して)聞かず、問わず」の対応をとっており、が、しかし同性愛者だと分かると不名誉除隊の処分を受ける、と書いている。んとねー、確かにこれだけ切り取って書くとこうなるんだけどさ、この前にクリントンが大統領になる前はどう言っていたかとか、ここまで来るのに、どういう歴史があったとか、'66年から'94年までにアメリカで同性愛者に対する権利や運動がどのように拡大してきたのか、全く知らないまま書いてるのよ。軍隊でも「聞かず、問わず」になったのは、実は「大きな一歩」でもあるのよね。その前はベトナム戦争で勲章をもらった英雄がカミングアウトしたら(英雄だから、ゲイである方の影響は少ないだろうと思ったらしくてカミングアウトした)、勲章の栄誉よりもゲイであることを理由に「除隊」になってしまったほどだったんだよね。で、この件で除隊させられた軍人は裁判起こしたんだよねー(負けたけど)。

こういう「全くの素人」がよく解説を書いている本を出版社が出すなあ~と逆に感心したんだけどね。で、この本の解説の結びが、

「現在でもたえず好奇の目にさらされつづけているレズビアン、レズビアニズムについて、私たちの理解が深まる契機になればこれにまさる幸いはない」

って書いてあるんだけど、悪いけど、この本読んで理解が深まるとは思わないでって、逆にわたしが言いたいわ(苦笑)この本なんか読んだら、ホント、何世代か前の古い概念しか知識を得られずに逆に害にしかなんないわ(苦笑)「こういう本がかつて出ていました」という「歴史書」」扱いするならともかくね。

「なぜレズビアンになったか」なんて考えること自体が余計なお世話なんだよ!だったら、自分がなぜ「異性愛者になったのか」その理由を先に考えろってんだ!!!

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10-13 Mon , 2008
ブレンダと呼ばれた少年
わたしはいつくらいだったかな、高校生の時だったか、親に頼んで毎月「科学朝日」を取ってもらってたんだけど(その当時、うちの新聞は朝日新聞だったので)、そのどの年か、今、ネットで検索してもよく分からないんだけど、確か特集が「女と男」ってときがあった。わたし、あの号はどういう理由でかは分からないんだけど、何回も読んで(他の興味のない号なんかは全然読んでなかったのに(苦笑))、しかも何回か引っ越ししたんだけど、その中でも「捨てられない本」の一冊で、ずっと取っておいた本だった。ま、今は捨てちゃって、手元にはないんだけど。

その中で忘れられない話がある。

かなり有名な話なので、知っている人は多いと思うけど、あるとき双子の男の子が生まれ、その男の子が包茎だってんで、手術した際に誤って最初に手術した男の子のペニスが焼けただれてしまって、将来使いものにならないってんで、そこで「性転換手術」をして女の子として育てている、という話だった。あの当時、読んだときにはその子供たちはまだ5歳くらい、って書いてあったと思う。女の子として育てられた子供は、女らしく育っている、って書いてあった。

そして、年月が経ち、その後の後日談を、なんだかよく覚えてないんだけど、何かで読んだんだよね。そのときは女の子として育てられている子供は、思春期に入り自分が男性ではないかと混乱している、と書いてあった。

そのようなものを「読んだ」ことだけが頭の中に残ってて、わたしは別に「男らしさ」とか「女らしさ」(いわゆるジェンダーと呼ばれているものね)が、環境によって変わるのかどうか、ということについては、なーんも考えなかった。でも、その後、その人がどうなったのかは、結構気になっていた。

今回、この「ブレンダと呼ばれた少年」については、よく覚えてないけど、偶然、Amazonかなんかで見つけたのかなあ~?「あ、これは多分、あの話だろう」と思って、買って読んでみた。そうしたら、やっぱりその話だったんだけど、わたしが今まで読んだことと全く違っていたので、かなり驚いた。

結局、「性転換手術」をして女の子として育てられた子供は、いつだって自分を「女」とは思っていなくて、ずっとずっと「違う」と思いながら生きていたんだってこと。そして既に15歳のときに、元の性別に戻っていたということ、結婚したものの、38歳で自殺していたこと。双子の弟はその2年前にやっぱり自殺して亡くなっていたこと。かなりショッキングな内容だった。

と同時に、わたしが高校の時にこの話を知ったわけだけど、この人たちは、わたしよりちょっと前の生まれた、わたしより年上の人だったってことについても、びっくりした。わたしが話を知った当時は既に男性として元の性別に戻ってたんだよね。

なぜこんなに「古い情報」を載せていたかというと、当時の主治医が、都合のいいことばかりを論文に書いてて、その主治医がその分野の権威だったために、誰も本当のことが言えなかったという、これまたすごく馬鹿げた話だったんだけど、この主治医である「ジョン・マネー」って人は、この「男らしさ」「女らしさ」を「氏より育ち」として、要するに育てた環境によって男は男らしくなり、女は女らしくなる、という「持論」を捨てなかった人なんだよね。なので、半陰陽の子供とか、こういった手術のミスで性器を失ってしまった子供を「男」か「女」かのどちらかにして、そしてその性器の形に従って育てれば、ちゃんとした「異性愛者の」大人になる、と思っていたらしい。

その中には確かに今で言う「性同一性障害」の人も含まれていて、成人になって性転換手術を行なった人も中にはいたんだけど、なんかね、今の概念で言うと、半陰陽と、性同一性障害と、そしてそうではない人とみんなごちゃごちゃにして、それを無理に「一つの結果」に強引にしてしまったので、すごく悲惨なことが起きてるんだよね。

でね、この本、Amazonの批評を読んでもらうと分かるんだけど、解説でものすごく「ジェンダー・フリーバッシング」してるのね。要するに「男らしさ」とか「女らしさ」は持って生まれたものだから、「男らしさ」とか「女らしさ」をなくそうとする「ジェンダー・フリー」なんぞ、以ての外。今まで、この話を真に受けて「生まれつき男女の差はない」と言っていたフェミニストの人をもう、叩きまくっている(苦笑)要するに、この本、「ジェンダー・フリー・バッシング」のための本、みたいになっちゃってるんだけど。

違うんだよなあ(苦笑)

「男らしさ」、「女らしさ」と自分が「男である」とか「女である」という「性自認」は、また全く別のものなんだよね。要するにさ、「男らしさ」とか「女らしさ」は「ジェンダー(社会的な性)」なわけで、それによって自分が「男である」とか「女である」と感じる心とは違うものなの。多分、性器の他に、脳で「自分は男/女である」って思っている部分があるのだろう。だから逆に言うと、性同一性障害の人は、性器の形や遺伝子(XとY)が完全な「男/女」であっても、脳では(普通、心の性と言っているが)「自分は女/男である」と言う風に、認識がずれている、と言うわけだ。

だからね、この場合、かわいそうに「女の子として育てられた子供」は、性器の形と性自認が同じ人だったんだよね。それは、大部分の人と同じく。それが本人の意志を聞かずに(って生まれたばかりだから当たり前だけど)、今で言う「性別適合手術」をしてしまったわけだ。だから、この場合は「性同一性障害の人」と全く逆のパターンで、なおかつ苦しみは同じ、というわけ。だからこれは「性自認」の問題で「ジェンダー」とはなんの関係もないんだよね。だから、そんなところで「ジェンダー・フリー・バッシング」なんかやるなよ、これ読んでそんなことやると、結局自分は何も分かってませんよーって公言してることと同じなんだよね。恥ずかしいことこの上ない(爆)

だいたい男(女)が「男(女)らしく」育てられて、みんながみんな、性自認が一致してたら、トランスジェンダーの人なんか、この世にいないって!どういう風に育てられようが、性自認と自分の性が違う、性別違和を感じる人はいるのよ。この解説を書いた人は、そういう人たちのことを全く知らないのね。そして「男女共同参画行政」について、猛反発している。そんなに「性差」をなくすると、何か不都合な点でもあるのだろうか?この解説を書いたおっちゃん、単なるヒステリーとしか思えないのだが(爆)

「ジェンダー・フリー」ってのは、別に「男らしく」とか「女らしく」というのを否定してはいない、とわたしは思う。男らしくしたいんだったら、すればいいんだし、女らしくしたいんだったらすればいい。けど、そうじゃない人間もいる。このわたしのようにね(爆)要するに「過剰に押しつけられた○○らしさ」というのは止めましょう、というのが「ジェンダー・フリー」っていう考え方なんだとわたしは思う。ま、わたしはフェミニストじゃないんで、実際の「ジェンダー・フリー」についての定義は知らないんだけど、だいたいこんなもんだと思っている。

そしてこのわたし。えー、幼い頃から考えてみるに、全然「女らしく」なかった(爆)小さい女の子なら誰でもやるであろうと思われている「おかあさんごっこ」。あれ、大っ嫌いだった。まー、わたしは「自分は自分以外のものになりたくない」ってところがあるので、「演じる」ことが嫌いなのね。それもあったのかなあ。だから「ごっこ遊び」というものをやった覚えは全くない。あと、人形遊びも嫌いだった。リカちゃん人形とかバービー人形なんか、なぜかうちにあったけど、わたしはその人形の首をもいだり、あとは到底人間にはできない関節を逆に折ったりして、遊ぶんなら、そういう風にめちゃくちゃにして遊んでいた(爆)

小学校の時は、戦車や戦闘機が好きだった。小学校2年の時からプラモデルを作って遊んでいたが、最初に買ったプラモデルは戦車だった。プラモデルの変遷は、「戦車」→「ガンプラ(ガンダムのプラモデル)」→「車」→「バイク」になって、高校くらいまでは作って遊んでいた。ちゃんとパテでつなぎ目を埋めたあとに耐水ペーパーを掛けて、その上でスプレーで塗装したりして、最後の方はかなり本格的に作って遊んでいた。

そして小学校の時は放課後、男子に混ざって一人で野球をしていたり、「鉄道&エレクトロニクスクラブ」に入って、子供がよく作る「お風呂ブザー」や「3石トランジスタラジオ」なんか作ってた。だから今でも半田ごては20Wと30W、2つ持ってるし(トランジスタは熱に弱いので、20Wを使う)、電気テスターも持ってるし、ラジオペンチとか普通のペンチ、プラスマイナスドライバーも各種、持っている。そのうち無線をやりたいと思うようになり、高校に入ってすぐに無線の免許を取って、そして秋葉の電気街なんかよく行くようになった。晴海の国際会議場で8月に毎年「ハムフェア」をやってたんだけど、そういうところに行ったりね。

ただし、制服のスカートがヤダ、と思ったことはなかった。わたしは小学校は私立だから、小学校から制服があったんだけど、制服ってなんとなく「ちゃんとしてる」って感じで好きだった。だけど、学校に着いたらすぐに体育着に着替えて、制服はホント、通学の時しか着てなかったんだけどね。体育着はブルマはいやだった。パンツがすぐはみ出るから(爆)でも、みんなそう思ってたんじゃないかなあ~?今は女子でも短パンで、パンツがはみ出ないからいいよね、って思ってる。

あとはランドセル。わたし、赤いランドセルはいやだったんだ~。だから、私立で黒いランドセルだったから、それはすごくよかったと思ってる。黒いランドセルの方が格好良く見えたんだもん。ただし、実は「赤色」はわたしの好きな色だったりする。ちょっとしたもので、赤いものを付けるのは好きだし、実はピアスもホールが落ち着いてきたら、赤い石のピアスにしようと今から決めている(笑)

それから、なんといっても「ぬいぐるみ」の多さ。わたし、人形は嫌いな割に、ぬいぐるみは本当に好きだったりする(笑)それの一つ一つに名前を付けて、人格(人形格?)を作って、遊んでいる。これは実は今でもそうだったりする(笑)で、もう使わなくなったぬいぐるみがどうしても捨てられなくて、段ボール1箱分、押し入れに入っていたりする。

要するにね、わたしは「自分がしたいこと」をやってるだけなの。そこに「女だから女らしくしよう」とはちっとも思ってないの。「女だから赤い色を好きになろう」とは思ったことはないの。それに赤だけが好きな色ではないしね。青だって好きな色なの。こういうのはね、人に強制されて好きになるもんじゃないでしょ?

なんで、わたしはいつでも「周囲と合わせる」ことなんてちーーーっとも考えずに、自分のやりたいことだけやってきたの。その中に女が一人であろうと、自分がやりたいことだから別に女一人でも気にならなかったの。それより「こっちの方が女の子がたくさんいるから」ってんで、やりたくないことやってもつまんないでしょ?そういう性格だったの。だけど、わたしは自分のことは「男だ」とか「男になりたい」とか思ったことはないの。だって「自分」であるだけでもう十分なんだもの。自分のやりたいことに男も女もないでしょ?そーいうもんじゃないのかなあ~?だからわたしはいつでも「ユニークな子供」とか「変わってるね」と言われ続けてきたんだろうか?

そういわれることに関しては、特になにも思ってなかったのね。とにかく「自分が何をやりたいか」だけで生きてきたから(爆)今で言うと「空気全く読めない人間」と言われそうだけど、空気なんて読む必要ないの。だって、自分がやりたいことをやらずして、どうやってこの世の中を生きていくっていうのよ。一回きりの人生じゃん(あ、わたし「輪廻転生」とか信じてないから)。正直言って、生きていくのはつらい。なんで生きてんだろ、わたし、って常に思ってる。だからこそ、自分のやりたいことをやらずして、どうして生きていけるの?って思う。もともとあんまり生きていきたくないのに加えて、やりたくないことをやらされてたら、ホントわたしは死んだ方がマシだと思っちゃう。

ってことで、この本に出てきた双子の兄弟は、本当に悲惨な人生だったな、と思うんだけど。

お兄さん(っていうか、女の子として育てられた子供)は常に「性別違和」を感じ、しかし、それを誰も分かってくれない。親に無理矢理女の子の格好をさせられて、しかも膣の整形がまだ終わっていないからといって、手術をさせられそうになる。そっちの方はいやがって結局はやらなかったんだけど、ある程度年齢がいくと、今度は女性ホルモンの「エストロゲン」を飲まされる。年に1度のカウンセリングで、性行為の場面とか、子供が生まれてくるところの写真とか見させられる。大人になって「性転換」した女性に会わせられ、将来、こんな姿になることを予想させる。そして「女であること」を強要され、都合のいいところだけが「研究結果」として発表される。主治医はそれでその子供が女性になることを疑わない。全くもって地獄のような生活だったと思う。科学が発達していない、ということはこんなことなんだ、と思わされるし、もしかすると今だって将来から見たらとんでもないことをしていることだってあるのかも知れない。

弟の方は、両親が兄の方につきっきりなので、自分について構ってもらえず、いろいろな「問題」を引き起こす。親は思ったように子供が「女性」にならないので、父親はアル中になり、母親はうつ病になる。もうめちゃくちゃだ。

そして結局は「正常であるが故に誰からも見向きもされなかった」弟が自殺をし、そして、2年後、兄も自殺をする。彼らにとっては、この世はどんなに生きづらかったのか、それを考えると胸が潰れる思いがする。

この本では、主に「半陰陽」である子供について取り上げられていたが、どうして「男」か「女」かに分けてしまうのか。今は生後すぐに医師の判断で決められているのかどうかは知らないが、少なくとも半陰陽の人に関しては、自分がどちらかであるか、本人がはっきりした時点で決められないのか。また、どちらでもない、という認識を持っている人に対しては、それがそのままの存在で許されないのか、とも思う。

そして、このような人に対しても「ジェンダー・フリー・バッシング」の人は、まだ「○○らしく」と言い続けるのだろうか?とても疑問の残るところではある。

人生なんて、自分の思うがままに生きればいいんだよ!無理に強要された「男らしく」「女らしく」なんてくそくらえだ!!(ただし、人に迷惑はかけないように、、(笑))

そーいや、ピアスして明日で1週間日記。
やっぱかゆい。けど、よく見ると、ピアスホールに皮が出来はじめて、それがなんか剥け始めているよう。ということは、これが剥けたらかゆくなくなるのかな。周囲の色は特に変化がないし、痛みもない。ただ、風呂から出て、髪の毛をゴシゴシとタオルで拭いているときに引っかけたりするので、気をつけなければ。
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09-25 Thu , 2008
そして、同性愛者であるわたし
昨日は「セクシュアルマイノリティ―同性愛、性同一性障害、インターセックスの当事者が語る人間の多様な性」の第1部と第2部の感想を書いたけど、今日は第3部「同性愛」を読んだので、まー、どうしようかなと思いつつ、でも書くか、って感じで書くとしよう(←えらそげ。「と日記には書いておこう」ってのが昔あったけど、古いねえ~)。

やはり昨日の「半陰陽」と「トランスジェンダー」の話と、それからこれから書く「同性愛」については、ごちゃごちゃにしている人がいらっしゃったようで、それは仕方がないとは思うんだけどねー。「生物的な性」とか「性自認」とか「性的指向」ってのは、多分、最初はフェミニズムから与えられた概念なんだと思うんだけど、フェミニズム大嫌いのわたしでも、この概念は使わざるを得ないから、これってフェミニズムの「大発見」なんだと思ったりする(とたまには誉めておこう←おぬし偉げに何者じゃ)。

んと、簡単に言うと「インターセックス(=半陰陽)」と言うのは、染色体異常のことで、これは「生物学的な性」に関わる問題で、「トランスジェンダー」って言うのは、「生物学的な性」と本人の「性自認」(自分が男であるか女であるかという気持ちのこと)がずれている状態で、そのずれ具合によって今の日本では「ガイドライン」に従って「性同一性障害」という「診断名」が医師によって下されるわけ。この「診断」をもって「治療の必要性」が生じ、ホルモン注射や乳房切除、そして性別適合手術が行なわれる、と言うわけで、ある意味「手術してまで自分の身体を心の性別にしたい」という人たちは自ら進んで(というとちょっと語弊があるかも知れないけど)「障碍者」になる、というわけだ。何らかの「疾病」でなければ、治療の必要はない、と判断されるからね。

で、「同性愛」というのは、今度は「性自認」と「性的指向」の問題となる。簡単に言ってしまえば、同性愛者ってのは、性自認と性的指向が同じ人ってことで、性自認と性的指向が異なると異性愛者、ということになる。だから、性同一性障害の人は同性愛者も異性愛者もいるってことになる。なぜかというと、性同一性障害やトランスジェンダーの人たちは「生物学的な性」と「性自認」がずれているということであって、「男、女、どちらが好きか」という「性的指向」は全く関係ないから。ここのところがね、まだ分かりづらいんだと思う。

例えば生物学的な性が男性って人がいて、でもその人の性自認は女性だったとして、そして自分の身体を女性に変えたいと思い、性別適合手術を受けて「女性」になったとする。だけど、その人の性的指向がもし、女性に向いていたら、それは「同性愛者」になる。男性に向いていたら「異性愛者」になって、今の日本だと「結婚」ができる。ただし、性別の変更ができる場合の「要件」ってのがあって、誰でもできるわけじゃない。「20歳以上であること」「婚姻していないこと」「生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永久的に欠く状態にあること」そして「現に成人していない子がいないこと」が条件になっている。実は最初は「子供がいないこと」が条件だったのだが、今年だったかこの「子なし条件」が緩和されて子供が成人している性同一性障害の人の性別変更が可能になった。しかし、どうしてこのような条件を付けられているかというと、話は簡単。日本国は「同性婚を認めない」ということだからだ。もし結婚している間、一人が性別適合手術を受け、異なる性になったとしたら、自分の配偶者と同じ性になってしまう。そうすると両方とも同じ性の人が婚姻している、要するに「同性婚」ということになる。これをさせないために「婚姻していないこと」が条件になっている。そして、生殖腺の機能を永久に欠く状態にさせられるため、性別を変更したあと異性と結婚しても、当然のことながら子供は生まれない。

同性愛者がさぁ「同性同士愛し合ってたとしても、子供が生まれないから異常な愛だ」とか言われてるけど、性同一性障害の人は、わざわざ自分が子供を産めない身体にして、それで異性愛者の場合は結婚するのよ。これは日本国が条件付けてそうさせてるんだよ。それに対しては一体、どう説明すればいいのだろうか?(ま、ただこの条件に関して当事者はあまり反対する人はいないようだが)

あ、だんだん熱くなってきた(苦笑)

で、同性愛です、ええ。今日は同性愛のことを書くんだった。というか、もうお分かりでありましょうが、性同一性障害やトランスジェンダーの人たちでも、もちろん「同性愛者」は存在するわけです。だから世間の人が、性同一性障害の人たちを「同性を好きになったから、自分が性別を変えなきゃ」ってことで自分の性を変えているわけではないので、ここのところ、お間違えなく。昨日も書いたけど、FtMの人の9割は異性愛者で、MtFの半分の人は異性愛者で半分の人は同性愛者なんだそうだ。

でね、同性愛者というのは上にも書いたように「性自認」と「性的指向」が同じ人のことを言うのね。だからFtMの人は心の性(性自認)は「男」なわけ。だから、レズビアンの人は「対象外」なのよね。なのにレズビアンの恋人募集の掲示板にやってくるので、しばしば争いごとが起こるわけで。。まー、分からないでもないのよね。だってSEXのとき、肉体は女性だとしても心が男性だったらやだもん、やっぱ。だからわたしはバイセクシャルでもなく、やっぱりレズビアンだなあと思うわけで。

この本に書いてある「同性愛」は、まぁ同性愛者当事者としては、ごくまっとうなことが書いてあったりするわけで、その中にはやっぱり「同性愛は病気ではありません」と書かれている。わたしさぁ、もう何回も何回も「同性愛は病気じゃない。国際疾病分類の中からも外されたんだ」って書いてるけど、一方では性同一性障害の人は「障碍」を自ら獲得していくわけじゃない?だからさ、同じ「性的少数者」でもこういうところ、全く違うんだな、って最近よく思うのよね。矛盾しているようだけど、違うわけ。だから「性的少数者」一括りで本当は考えたいんだけど、このね、「同性愛は病気ではないから治療の必要はありません」っていうことは、なんだか「だから、自分たちは正常なんです」って言いそうになって困るの。同性愛は病気じゃない。けど、だからといって「それが正常とか正しい」とは言えない。だって同性愛者がこの先、異性愛者より多くなるなんてこと、絶対にあり得ないことだもん。数が少ないのは確かなことなんだもん。だからね、「数は少ないけど、確かに同性愛者はいます。そして、性的指向は選んだり、途中から変えたりすることはできない(それは異性愛者も同じよね)」ってことをしっかり言っていかないといけないんだな、と思ってるのよね。病気じゃないってことは、それが正常なんではなく、治療の必要性がないことなわけで、だからこの世の中には異性愛者もいるし、同性愛者もいるんだよ、ってことだけなんだと思う。が、しかし、この本では「両性愛者」については一言も触れてないね、そういえば。巻末の用語説明でちょっと出てきたくらいかな。

両性愛者(=バイセクシャル)の人たちというのは、「性的指向」がない状態で、まさに「好きになった人がタイプ」「愛に性別は関係ない」人たちのこと。異性愛者と同性愛者は「愛に性別は思いっきり関係がある」んだよね(笑)そこら辺、ちょっと間違えられやすかったりするんだけど。同性愛を肯定されるときよく「愛に性別は関係ない」って言われるんだけど(苦笑)、それは違いますから。わざわざ肯定してくれてるのに悪いなあと思いつつ、指摘しておきます(笑)

もーさ、自分が同性愛者なもんで、一体、何を説明すればいいの?って感じなんだけどね。確かにこの中で「レズビアン」という言葉について、これは「ゲイ」と区別する意味でフェミニストの人が使い始めた、って書いてあったけど、外国では「ゲイ」というと男女両方の同性愛者を指す場合が多くて、特に男女分けたいときはgay womynとか書くよね。womynってのは、これまたフェミニストがwomenって書くと「men」が付くから男性が元になってるーってんで、womynって書いてるんだよね。もー、ここまでやんなくてもいいじゃんかーとわたしなどはそう思うんだけど。。あ、んで「レズビアン」ってのは「ゲイ」と区別したいときに使うらしい。これまたフェミニズムのせいで。要するに何のかんの言ってもこの世の中は男性上位だから、ジェンダーとして非対称なんだそうだ(もうここら辺、受け売り(苦笑))。だから、「ゲイ」とは違う「レズビアン」って感じで外国では使われているそうだけど、日本はもう「ゲイ」って言ったら男性同性愛者になっちゃってるからねー、フェミニズム関係なしに。わたしなんぞ「日本も外国と同じく女性同性愛者でも『ゲイ』って言えば簡単なのにー」なんて思ってるけど。だって、オーストラリアで「gay」って使ってたけど、ホント、簡単だったんだもん(笑)

で、あとは「同性愛嫌悪」のことも書いてあったし、それに伴う「ヘイトクライム」のことも書いてあった。日本では同性愛者に対する暴力なんかなさそうだけど、本当はあるんだよね。それをマスコミが遺族に配慮してか、あまり「同性愛者だったから」ということを書かないので、一般の人は「同性愛者に対する暴力事件なんかない」と思ってしまう。マスコミって、なんでこういうときに変に気を回すんだろうね~?例えば、有名な同性愛者カップルの片方が亡くなったとき。結婚しているのであれば「喪主は妻(夫)の誰それさん」って書かれるけど、長年の同性愛者カップルでも「喪主は友人の誰それさん」とかそんな関係にされてしまう。知っている人はちゃんと知っているというのに。。そういうのってすごく悲しいと思う。これって例えばこの間の母親が子供を殺した事件でも、殺された子供は発達障害かなにかで特別学級に通っていた、と新聞ではぽそっと本文に書いてあった程度だった。が、その後、また起きた事件では子供は普通の(って書くとイヤなんだけど)子供だったらしく、大きな見出しで「明るい子が なぜ」とか書いてある。これって、配慮されてるようで実は全然配慮なんかしてないんじゃないかって思ったりしてるんだけど、違うだろうか。

「同性愛者はどうせ暴力をふるって金品を奪っても、警察に自分が同性愛者であることを言いたくないだろうから襲ってしまえ」というのが2000年に起こった事件だ。これを「ヘイトクライム」と言わずして何がヘイトクライムなんだ?そしてマスコミはそのことを隠すから、だんだんそういう事件があったことすら特別に覚えている人でないと忘れてしまう。これでいいんだろうか?

その他、「府中青年の家裁判」のことも詳しく載っていて、この本の半分くらいは実は「同性愛」に関することが書いてあるんだけど、結構資料としても役に立つ。あ、「府中青年の家裁判」ってのは、OCCURという同性愛者の団体が「府中青年の家」ってところでミーティングをして泊まったんだけど、その際、別の団体と「自分たちは何をやってます」という交流の時間みたいなのがあって、その際に「同性愛者の団体です」と言ったところ、他の団体から「あいつらホモだぜ」とか入浴中にいやがらせがあったりして、それで、OCCURが府中青年の家と話し合ったところ「今後、同性愛者の使用を認めない」ってことになってしまって、それで東京都を相手に争った事件のことだ。多分、同性愛者が起こした裁判って後にも先にもこれが唯一のものだと思う。

当時「府中青年の家裁判」はわたしも注目していてね、結局二審で東京都が敗訴したんだけど、一審判決が出たあと、わたし、実はOCCURに手紙送ったんだよねー。そうしたらお礼の手紙とOCCURへの入会案内が来た(笑)これ、今でも持ってます。でもOCCURには入んなかったけどね。その当時から、こういう関係のものには興味があったようだなーと、なんとなく思ったりして。

あとは同性愛の原因だとか(こんなもん、分かるわけないと書いてあるし、分かったところで、では生まれる前に排除される運命にあるのか、とか書いてあるよ)、カミングアウトのことだとか、ああ、あとは「オカマは差別か」事件のことも書いてある。これももうすごく有名な話ではあるんだけどねー。

要するに「オカマ」や「レズ」「ホモ」は基本的には侮蔑語である、しかし、当事者が誇りを持って言う場合もある、ということで、まー、ある週刊誌を通していろいろな論争があったんだけどね。これはもうちょっとうまくならなかったのかなぁ、というのがわたしの感想。これで一方的に「オカマという言葉は使わないで欲しい」と言っていた人たちが消えてしまった。そりゃ、分かるよ、当事者が「わたしオカマだからー」って言ったりするしさ、だから絶対に「オカマ」等の言葉を使っちゃいけないってわけじゃないと思う。が、当事者以外の人から「オカマ」と言われるとやっぱり傷ついたりするわけで。当事者と非当事者はそこんとこが違うんだよ。なのに当事者同士が「オカマと言ってなぜ悪い」とケンカをふっかけられたら、答えようがないじゃん。その人たちは別に当事者に向かって「オカマと言うな」と言っていたわけじゃないんだから。

あれ、気がつけば昨日より多く書いている(汗)

あとは、、パレードのこととか書いてあるけど、これは今は読みたくないわぁ(苦笑)読んだけど。まー、なんで今年のパレードができなくなったのかは全く知らないけど、東京では3年やったら何年か休みで、を繰り返してるから、今度はそういうことの起こらない組織にして欲しいけど、難しいだろうなー。理事になれば叩かれ、表に立つ人はみんな叩かれてるからね。その人が一体何をしたのか、わたしには全然分からないけれど。こないだちょっと「パレード不要論」を聞いたんだけどさ、わたしはパレードはあった方がいいと思うし、ゆくゆくはアメリカやオーストラリアのように「観光」としてのパレードってものになって欲しいくらい規模の大きいものにして欲しいなと思ってる。だって、日本政府自体だって日本を観光地にしたがってるんだからさ、「ゲイパレード」が一大観光になってもおかしくないんじゃないの?ってね。去年だって「Yokoso! JAPAN」のロゴ、使ってたのになあ~>東京プライドパレード

ってやっぱついつい、同性愛となると人ごとじゃないので、いろいろな意見も出てきてしまって、つい長くなってしまう(汗)

でも割と読みやすかったし、当事者に向けても非当事者が読んでもいい本だとは思ったけど、この本、既にAmazonでは在庫1点しかないので、ほとんど古本でしか手に入らないんだよね(汗)んー、第3版が出るかどうかはもちろん知りません。

つか、本当は別にこの本読んだからどうこうしようとは思ってなかったのにー。今は他の「同性愛の基礎知識」的な本をたくさん読んでいて「どれが一番いいかな~」と思ってたのにぃ。で、これからまだ読む本がいくつか。しかし、外国で書かれて翻訳された本と日本語で書かれた本の差が大きいような印象が。。当たり前と言えば当たり前のことなんだけど。

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09-24 Wed , 2008
性別違和を感じないわたし
今、「セクシュアルマイノリティ―同性愛、性同一性障害、インターセックスの当事者が語る人間の多様な性」っつー本を読んでいるんだが、これは3部からなっている。第1部は「インターセックス(半陰陽)」第2部が「性同一性障害」第3部が「同性愛」。まだわたしは第2部までしか読んでないんだけど(もう「同性愛」はいいって感じもしないことはない(^^;)、この本の著者は「セクシュアルマイノリティ教職員ネットワーク」ってところが書いているみたいで、まぁ先生の集まりではあるらしい。でも「性的少数者に対して、こういう風に教えた方がいい」という感じで書かれているわけじゃなく、その当事者一人一人が、さまざまなデ-タやこれまでに起こったこと、体験談、それから自分の考えを書いているという感じの本で、第2部まで読んだところでは、なかなか今まで知らなかったことが多くて、面白かった(って言い方していいのかな)。「インターセックス」にしても、確かにXO型とかXXXY型、という言葉は生物学的に有り得るとは知っていたけれど、それに伴う「生きづらさ」などはあまり聞いたことがなかったから。。「生まれたくなかった」という人々や「産みたくなかった」という人々が外国では訴訟してるんだよねー。。(前者を「Wrongful life訴訟」と言い、後者を「Wrongful birth訴訟」と言うらしい)これは、例えば重度の障碍者やそういう子供を産まさせた、ということで医療側が訴えられているんだけど、インターセックスも「染色体異常」で起こるもので、生まれてから「どっちか一方の性」にさせられる、そのさせられた「性」のままに第二次性徴が起こるとは限らない、というなんとも複雑な場合があるのと、また、生まれつき重度の障碍を抱えて生きざるを得ない人たちもいるらしい。日本では戸籍というものが存在するから、男女どちらかを「選ばなければ」ならなくて、だいたい1ヶ月くらい様子をみてから、ということだったが、それでもずっと男女どちらかにしなくて、その部分はずっと白紙、という場合もあるらしい。

ただ、この本にも書いてあったけど、どんな書類やアンケートや些細なものにも全部「性別欄」があるのね。今は「この世の中は男女だけではない」という考えもあるので、そういうところには「答えたくない」や「どっちでもない」などの選択肢があるけれど、それはほんの一部で、わたしはそういうものには、何の疑問もなく「女」ってところに○をしているけど、答えられない人たちっていうのがいる、ってことを改めて気づかされたというか。

またこの「この世の中は男女だけではない」っていうのは、第2部の「性同一性障害」も同じことでね。まぁここでは「性同一性障害」と「トランスジェンダー」について触れているんだけど。

性別違和を感じる、というのは、生物学的な(身体の)性と自分が感じている性が不一致の人のことなんだけど、同性愛者であるわたしは、もちろん性別違和は感じたことがない。「性別違和を感じるってどういうことだろう」って今日はずっと考えていたんだけど、感じたことのないことは感じることができるわけがなく。よく「性別の違うぬいぐるみを着ている感じ」と形容されるけど、やっぱ分かんないんだよね。。確かに思った性別で見られないのは嫌だ、という気持ちは分からないこともないんだけど、、わたしはよく男性と間違えられるから。。だけど、身体自体に、例えば胸が(小さいけどさ(自爆だわ))膨らんでる、とか、生理があるとか、そういうことにはまったく嫌悪感が感じないんで、やっぱ根本的に分からないだろうなーってこれを読みながら思ったんだけどね。

しかし、前々から思ってたことは「性同一性障害」の人は、過剰に「なりたい性」のジェンダーを身にまとってるんじゃないか、ってことでね。でもそれは分かるのよ。そうしなければ、自分の思った性に見られないんだから。けどさー、わたしにしてみれば、わたしが生物学的に女で、そして性自認も女ってことは、もう揺らぎのないことなわけ。だから、例え男に間違われようと、間違えた人が悪いんであって、わたしは何も悪くないわけ。そういう「開き直り」みたいなのがあるわけね。でも、性別違和を抱える人ってそうじゃないんじゃないか、って思って。でもそれは絶対に間違ってるよね、とは思ってて。だってさ、「そうなりたい性」になるためにしたくもない格好をするなんて耐えられないことだと思うよ?そうだとすれば、性同一性障害の人やトランスジェンダーの人は、絶えず絶えず「そうなりたい性」の格好をし続けなければならないことになる。それってあんまりじゃんって、ちょっと前からそう思ってるのね。

あ、性同一性障害とトランスジェンダーは一緒にしてはいけませんね(笑)性同一性障害っていうのは、ガイドラインってのがあって、それに当てはまる人たちのことで、でもこの中には(日本のガイドラインね、もちろん)1.自らの性別に対する不快感・嫌悪感、2.反対の性別に対する強く持続的な同一感、3.反対の性役割を求める、ってなってて、やっぱり「性役割」を求めさされてるんだよね。。なぜ反対の性役割を求めなければ、性同一性障害にならないんだろう??って思う。1.と2.だけで十分じゃないか、って思う。

それとは別にトランスジェンダーっていうのは、性別違和は感じるんだけど、異性装や異性の性役割をするだけで、身体的な特徴まで変えなくても大丈夫、って人、というのが超簡単な説明なんだけど、これ、本当に人それぞれで、トランスジェンダーってのは、本当に難しいと思うのね。「人それぞれ」ってのは分かるんだけど、じゃあ、どこまで聞いていいの?根掘り葉掘り聞いたら失礼に当たらない?ってつい、思ってしまうんだよね。.だから、すごく難しいとは思ってるんだ。しかもやっぱり異性装や異性の性役割をするだけで満足するってことは、異性の性役割をしたいってことだよね。。?人に説明するとき「性別違和を感じるんです」だけじゃ済まないんだろうか。。って思ったりする。

まぁただ、この本にも「性同一性障害の当事者は過剰なまでに自らの望む側のジェンダーを身にまとうことがある」って書いてあるし、「従来のフェミニズムによるジェンダー概念の枠に性同一性障害の人を押し込めることは意味がないかも知れない」「性同一性障害当事者も『過剰なジェンダー』から解放されていくかも知れない」って書いてあるから、やっぱりわたしと同じようなことを思っている人もいるんだなーって思った。

だってさ「性同一性障害当事者が過剰なまでに自らの望むジェンダーを身にまとう」ことは、やっぱわたしはちょっとおかしいと思うんだ。何がおかしいかというと、性同一性障害って、ただ生物学的な性と性自認が違うってだけでしょ。例えばね、そういう人が性別適合手術をするとする。そうして、自分の生物学的な性と性自認が一緒になったとする。そうするともう性別違和は感じないってことになるよね。その中で、まだ更に自分の望む性の性役割をしなきゃいけないの?って思うのよね。それは、このわたしがジェンダーなんか全く気にしなくて、自分の好きなカッコをしてても「わたしは女」って胸を張って言える、そういう状態に性別適合手術をした人も成り得るんじゃないの?って。

ただ難しいのは、性別適合手術まで望まないトランスジェンダーの人、なんだよね。。だからさ、もう、性別なんてのは、極端に言ってしまえば「自己申告制」でいいんじゃないの?って思ったりする。それを周りの人が尊重すればいい。それじゃダメなわけ?「男にも女にもなりたくない」って人は、それでいいじゃない。自分が望むようなことをすればいいわけで。何も「男になりたいから、性役割は男」にしなくてもいいんじゃないのって思う。

あ。だけど本に書いてあったけど、性同一性障害の人は「同性愛者と一緒くたにすな!」って思っているらしい。。ううむ、それはとても悲しいことだけど、やっぱ「同性愛嫌悪(ホモフォビア)」ってのがあるんだろうなーとは思う。ただ、MtF(Male to Female:男から女に変わりたい)の人の半数は性的指向が男女半々であり、FtM(Female to Male:女から男に変わりたい)の人の9割くらいが性的指向は女性なんだそうだ。ううむ。そうだったのか。というのは、レズビアンの恋人募集掲示板によくFtMの人が入ってきて、それでレズビアンの人とよく言い合いになるんだよね、、要するにFtMの人ってのは、自分が男性と思っていて、女性を求めているんだったら、男女の募集掲示板に行け、レズビアンはあくまでも相手は自分と同じ女性じゃないとダメなんだから、FtMは条件には合わない、というわけなのよね。わたしはもちろん、ゲイの募集掲示板は見たことないので、MtFの人がゲイの人から「出ていけ!」って言われてるかどうかは知らない。けど、レズビアンの掲示板とかは、この言い争いはしょっちゅうで「またぁ~?」って感じだったのよね。だからこれを読んで「なるほどねー」って思ったんだけど。ちなみにそういうところではトランスジェンダーの人は「トラ」と呼ばれて、嫌がられてます。。まーでも、FtMの人の気持ちもちょっとは分かるんだけどね~、、でもやっぱレズビアンは心が男性の人は愛せないんだよね。

しかし、こう考えてみると、性に関することって、ホント、人それぞれなんだなーって思う。同性愛者なんか、性的指向が同性に向かう、というだけで、共通点と言えば本当にこれしかないというか、これだけ。だから、理解しやすいと思う(と言っても、異性愛者に同性が好きになる気持ちは分かるとは言わない。それは、わたしが異性を好きになる気持ちが全然分かんないのと同じだから)けど、インターセックスやトランスジェンダー、性同一性障害(本当は、トランスジェンダーの中に性同一性障害の人が入っている、という感じになる)の人は、本当に人それぞれなんだと。しかし、人それぞれだからこそ、その人その人でまた説明をしなくちゃならなくて、これは本当に大変なことだと思う。わたしなんか自分が「同性愛者です」ってカミングアウトするのもめんどくさ~って思ってるくらいなのに、トランスジェンダーの人は、いちいち「自分はこうです、こうです」って説明しないと分からないんだもの。説明してもらわないと、どうやって付き合っていけば一番付き合いやすいのか、分からないんだもの。。何かいい方法ってないんだろうか、そう思う。

本当は「性別も何も気にしない~」って世の中になればいいのかも知れないけど(これじゃまるで「ジェンダーフリー」でバッシングされそうね(笑))、そういう世の中に今後、なっていくんだろうか。あ。「ジェンダーフリー」については、「男性役割と女性役割をなくす」って意味ではないので、ご注意を。だからさ、「○○らしく」ってのは、別に否定してないわけよ、ジェンダーフリー推進派も。自分が好きで「男らしく」だの「女らしく」だのしてたら、それでいいわけ。でも、それをしたくない人もいるわけ、わたしみたいに(爆)。わたしは「自分がしたいことがしたい」わけ。それを否定して欲しくないわけよね。こういう考え自体「従来の価値観を否定するものだー」って多分、ジェンダーフリーバッシング派の人は言うだろうけど、はっきり言って、自分の好きなように世の中生きていけなくて、じゃあ何のために生きているわけ??男は男らしくするだけのために生きていて、女は女らしくするだけのために生きていて、そうしたい人ならばそれでも構わない。けど、わたしはそれは嫌だ。わたしは死ぬまで自分らしく生きていきたい。それが例え「男っぽい」ことだったりするかも知れないけど、でも「男」「女」の前にわたしは「自分」があると思っているから。

って、こういうことが言えるのって、多分、わたしが「性別違和」を感じてないからだろうな、とも思うんだけどね。

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09-22 Mon , 2008
オフ会行くの。。
特に夏に何をしたってわけじゃないんだけど、最近、めっきり寒くなっているので、どうやら疲れがどんどん出てきているような感じがする。今日なんか一日中寝てて、しかも寝過ぎで頭が痛くなるという最悪のパターン(苦笑)夜も前みたいに途中で明らかに起きてる、って分かるような感じではなくて、でもまだ「うーん、起きてるかなー」みたいな←?ただ、寝やすくなったからか、以前よりは多少眠れるようにはなったような気がする。とはいえ、毎日毎日「早く寝なきゃ」と思いつつ、やっぱり1時2時になるのは、身体のためによくないよなー。。。ということで、今夜は早く寝よう。

最近、というか前からだけど、昼頃起きてはメシ食って、そして後の時間は新聞を読んだり本を読んだり、、社会とあまり関わることがない。これ、ちょっと考えものだと思いつつ、それでも何か「接点」がないものだから、んー、やばいな、とは思うんだけど、まー、この土曜日、27日には久々にレズビアンのオフ会、ってことで少し緊張してる。だって、彼女は別の用事があって、一人で参加するのだ。。

前にも書いたんだけど、わたしはなぜかレズビアンの友達がすごく少なくて、というか、本当は少なかったんじゃなく、レズビアンの友達が増えるよりもゲイや異性愛者の友達がどんどん増えるので、だんだん割合が減ってきてしまった、というのが本当のところで。。しかも、別にゲイの友達とか異性愛者の知り合いを増やそうと思っているわけでは全くないんだけど(というと失礼か(^^;)、知らない間に繋がりができていくのだ。

「じゃ、なんでレズビアンの友達が増えないの?」って思ってるんだけど、これまたよく分からないんだよねー。。なんで、超久々、彼女もいないことだし(爆)、とあるレズビアンのオフ会に参加することにしたんだけど、実は決めたときからドキドキ。。「もてたらどうしよう。。」←ウソ!!!

じゃなくて(爆)、「もしかしたら、わたし、何も話せないんじゃないかしら。。」というのが本当のところ。もーさ、初対面、人見知りだから、わたし。で、このオフ会の参加者とは全く面識がない人で、本当の本当に「初対面」なのだ。。あ~、わたしレズビアンのくせに「女ばっかり」って苦手なんだよねえ、実は(苦笑)はっきり言って、どういう話をしていいのかよく分からないのだ。。テレビもNHKとNHK教育しか見ないし、だから「ねー、NHKのアナウンサーの中で誰が一番好き?」なんて会話、成り立たないだろうな、、民放のアナウンサーの名前言われたら、多分、よく分かんないし。。かといって「the L word」もシーズン1しか見てないしさー(苦笑)

とはいえ、別にこれ、恋人探しに行くオフ会じゃないので(当たり前だ)、気楽に行けばいいと思うんだけど、ああ、どうやれば「気楽」になれるのだ。。多分、彼女が付いてこないオフ会って、彼女ができてから初めてだと思うんだよね。。うーん。なんか今からドキドキする(笑)←完全に自意識過剰

わたしはゲイの友達たくさんいるけど「ゲイコミュニティー」ってものが存在すると思うかというと、そうは思ってないし、況や「レズビアンコミュニティー」をや。って感じで、結局どれも「人と人との繋がり」でしかないじゃないかって思ってる。こないだね、古本で「同性愛入門 ゲイ編」というものを買って読んでみたのだが、まー、2003年に出たという、この本。出た当時、もし読んでいたら「へぇー、こんな世界なんだー」って多分思っただろうと思う。だがしかし、それから5年経った今読むと「あれ、この人知ってるじゃん」「あ、この人も書いてる」って、割と知り合いが多かったのね。もしこれを「コミュニティー」と称すならば、なんて狭いコミュニティーなんだ、って思ったりする。。

でね、これの「レズビアン編」ってのがあるならばね、どんなものになるのかなーって想像するんだけど、想像できないんだよ。「同性愛入門 ゲイ編」ってのは、完全に「当事者向け」に書いてある本で、多分ここまで「当事者向け」に絞って書いた「同性愛入門(とか、同性愛の基礎知識等)」ってこれが初めてだと思う。んー、わたしもそれまでの書籍を全部あらったわけじゃないから、言い切れはしないけど。もしかしたら'92年7月に出た「ゲイ・リポート―coming out! 同性愛者は公言するが最初の当事者向けへの入門書だ!」っていう人がいるかも知れないけど、、わたしはあの本はあまり「入門書」とは思えないんだな。確かに同性愛者(と言えども、出てくる人は全部ゲイ)のライフヒストリーや同性愛者に対してのパートナーシップを語った本(それにしても、誰が書いているとは書いてない記事も「あ、これ誰が書いたかすぐ分かる」って感じの本だったけど。まぁ敢えて誰とは言わない(笑))ではあるけれども、さて、あの当時、これは一体どういう意図で出したのか。それを言うなら、ノンへテロの女性の声を集めた「310人の性意識―異性愛者ではない女たちのアンケート調査」もはっきりいって、同じような感じのものだったと思うのね。これは「ゲイ/レズビアン/バイセクシャルが読む最初の本」というより「こういう人たちがいますよ」と世間に向けて発信しているような本だと思う。だから「同性愛入門や同性愛の基礎知識」みたいな本とはちょっと違うと思っているんだけど。ただ、、今思うに「ゲイ・リポート―coming out! 同性愛者は公言する」の方は後々出てきた「同性愛の基礎知識」や「同性愛がわかる本」に繋がっていく内容ではあるよな。。(って当たり前だよね。だって、同じ人が関わってるんだからさ(笑)ホント←敢えて言っちゃったね)

あ、なんとなく話がずれた。で「レズビアン編」だけど、レズビアン編があるとしても「レズビアン・カルチャー」ってなんかある?って思うんだよね~。今までのレズビアン関係の本って、ほとんどわたしの印象では「レズビアン・フェミニズム」から入ってるイメージがあるから、お堅いんだよね。お堅いのはわたしは好きではあるんだけど、フェミニズムのお堅さはわたしは入ってけないのね(苦笑)で、わたしのレズビアンのイメージって、わたしのレズビアンの知り合いの大半はもう彼女がいて、そしてその中でそれぞれが楽しく生きている人たち、というイメージだから「一つの共通点」なんてもんは見あたらないわけ。まー、ペットを飼ってる人は多い、というイメージはあるけれども。。そして落ち着いてしまったら、その中でパートナーと友達と一緒に楽しんでいる、って感じだから、コミュニティーを形成する以前、もうバラバラなわけ。

だから今の日本では「レズビアン向けの商業雑誌」なんてものは全部、休・廃刊になっちゃってるんだろうし、今後も多分、出てこないと思うんだよね。特に媒体が本である必然性ってないんだもの。ネットであちこち情報は集められるし。まー、しょうがないのかな、って気はするけどね。

ってわけで、なんか何が言いたいのか分からなくなってしまったけど、27日に向けて、さて、どうすればいいのか。。ドキドキ。って今から一人でドキドキしてどうする。。。
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09-09 Tue , 2008
同性愛が性倒錯ではなくなりかけた時代
最近、自分が同性愛者だと気がついたときに、本屋でそれ関係の本を探しまくって買っていた頃の本をまた再読している。この間のD・J・ウェストの「同性愛」もそうだったが、この「ゲイ―新しき隣人たち」ってのもそう。

この本は、実はまだ大学院生だったときに、確か春に仙台で学会があったんだよね。そのとき、仙台の繁華街をふらついていたら「東北で一番大きい本屋」だったっけなあ。。なんかそんな看板が目について、ふらりと寄った本屋でこの本を発見したんだった。見ると'94年3月25日に買ったらしい。が、この本自体はモートン・ハントってアメリカ人が'77年に書いた本の訳本で、初版発行が'82年4月5日。わたしが持っているのは再版で'92年10月20日発行のヤツ。

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まず、'77年のアメリカの状況を述べておくと、アメリカの精神医学会が定める判断基準であるDSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)の中に精神疾患として記載されていた「同性愛(homosexuality)」は'73年に「性指向障害(sexual orientation disturbance)」に名称変更され、そのときから「同性愛」という言葉はDSMの中から消えることになった。それ以降も「自我異質性同性愛(ego-dystonic homosexuality)」という名前に変更されたが、実際にはこの診断名は使用されることはなかったという。そして、'87年に改訂されたDSM-III-Rで、同性愛に関係する診断名は全く姿を消した。また、'73年のアメリカ精神医学会の決定を受けて、'75年にはアメリカ心理学会も「同性愛それ自体が、判断力、安定性、信頼性、社会的・職業的な能力において欠陥を持つものではない」という決議を採択している(同性愛者における他者からの拒絶と受容―ダイアリー法と質問紙によるマルチメソッド・アプローチ (シリーズ・臨床心理学研究の最前線 1)より)。ちなみにWHO(世界保健機構)が同性愛を国際疾病分類(ICD)から外したのは、'90年なので、同性愛が精神疾患でなくなったのはアメリカの方が早い。

こんな中で'77年に書かれたこの本。本の帯に堂々と「俗説のほとんどは誤りである」云々、と書いてあるが、中身を読んで愕然とした。この本を書いたのは、帯の裏側によるとアメリカの著名な性問題ジャーナリストだそうだが、本の中身は偏見だらけ(苦笑)まー、この「目次」を見てもらえば、なんとなく分かるような気がするが。。

前に読んだ「同性愛」の方は、専門書だけあって「性倒錯」が前提にあったけれども、非常に「公正な目」で書かれているのに対し、この本は、なんと言えばいいのか、まぁ一言で言ってしまえば「学術書」でないので、この人の思ったことや経験したこと、見聞きしたことそのまま書いてある。だから、かなり偏見が大きい。これ、この題名が付いていなければ、一瞬「ゲイを差別した本」かと思うような内容で、まるで「羊の皮を被ったオオカミのような本」だった。なので、またもやわたしを気分悪くさせた(苦笑)

最初の「同性愛にかんする九つの俗説」、例えば「<俗説>同性愛者は、男でも女でも、その外見や動作によって見分けることができる。ゲイの男性は着ているもの、歩き方、話し方、手の使い方などが女性的である。ゲイの女性は髪をショートカットにし、男っぽい服装をしている。声も低く、動作も男っぽい」に対して「<事実>インディアナ大学の性研究所が1965年に行なった研究によると、ゲイであると簡単に見分けることのできるのは、男性のゲイでその8分の1にすぎない。8分の7はストレートの男性と同じようなものを着ているし、歩き方や話し方、動作にも変わった点はない。レズビアンになると、外見や動作の男っぽい人の割合はさらに少なくなり、ほとんどがストレートの女性と同じような服装、動作をしている」、「<俗説>ここ数年の間にゲイの人口が急激に増加している。ゲイ解放運動は、ゲイに対する差別を撤廃させるための全国的な運動である。この運動のために、同性愛を自分でも体験してみようという若者が多くなり、ゲイの数がふえている」に対して「<事実>少なくともこの30年間、同性愛者が増加したことを示す調査はひとつもない。性科学者の意見もそうである。ある研究では、現在の同性愛者の数は、1940年代とかわらないという。ただし、私たちの目にする同性愛者の数はずっと多くなっている。それはゲイであることを世間に公表するゲイがふえてきたからである」など、まあ、この間書いた「同性愛」に書いてあるようなことがそのまま載っている。しかし、同じようなことを挙げていても、一方はまだ「性倒錯」でこちらの方は「性倒錯でない」んだからなあ~。まぁ、わたしとしてはあそこまで書いておいて、まだ結論は「同性愛は性倒錯である」という方が信じられないくらいなんだけど。

でもね、これが中身に入ると、書いていることがめちゃくちゃだったりするのだ。例えば「同性愛の多様性」でクィア(変態)なゲイ、ハスラー(男娼;この場合も「彼らは自分たちはゲイではない」と言っているとかいてあるが、どうやら著者はそうは思っていないようで)、ゲイらしい要素を持たないゲイ、既婚者ゲイでハッテン場に通うゲイ、夫婦のように一緒に暮らしているゲイカップル、一夜のSEXを楽しむ”男役”(ダイク)のレズビアンと”女役”のレズビアン、一見ルームメイトのように見えるが実は恋人同士のレズビアンカップル(誰にもカミングアウトできない)、などを挙げて「ここに示したいくつかの例は現代アメリカの同性愛のごく一部にすぎないが、それでも相違は著しい。精神に欠陥があるのではないかと思える人もいれば、全く正常に思える人もいる。(中略)同性愛にただひとつの考えを押しつけたり、すべてを同じ態度で処理しようとすることは正しくない。偏見にとらわれることなく、理性的な姿勢で同性愛に接しようと思うのなら、どのタイプの同性愛を相手にしているのかを明白にしておく必要がある。一つの考えで割り切ってしまえば、問題が簡単になるのは当然だが、それは無知というものだろう。いや、それはむしろ、差別と呼ぶべきだろう」って書いてあるんだけど、、、これって、ちょっとおかしくない??言うなれば「この人はちょっと精神的に欠陥がありそうな同性愛者だから、そういう風に付き合いましょ」とか「この人たちは普通そうだから、普通に付き合いましょ」とか、そういうことを考えて付き合えってことを言ってるわけだよね。これって、異性愛者のものすごい「上から目線」で「奢りや高ぶり」を感じてしまうんだけど。

確かに人との付き合いは一通りではない。これは同性愛者だって異性愛者だって同じことだ。だから、自分が「この人とは気が合いそうにないな」と思えば、付き合わなければ済むことだし、気が合いそうだと思えば、別にその人が精神的に欠陥がありそうでも(っていうのはとても失礼だと思うけどね、本当は)付き合えばいいのであって、なんか「はい、この同性愛者はこんなタイプだから、こんな付き合い方をしましょう」だなんてよく言うよ、全く、って感じだ。しかもいろいろなタイプの同性愛者がいるのは確かだけど、それさえ知っておけば、別に差別も何もないと思うんだけど。。例えばとても「クィア」なゲイは苦手だと思えば、付き合わなきゃいいんだし、付き合わないこと=差別している、わけでもないよね?どうも「ゲイにはいろいろなタイプがいます。けど、選り好みをしてはいけません。適切な判断をして、適切に付き合いましょう」と言ってるとしか思えないのだが。

「同性愛の原因」も同じ。誘惑説、影響説、魅力のなさ説、性的隔離説、遺伝説、先天的欠陥説、ホルモンのアンバランス説、家庭環境説、逃避説、心の病気説、自然な衝動説、趣味説とまぁ、いろんな説を挙げているんだけど、この人は、どれも「有り得る」といい、「原因によって、同性愛の種類にも相違が生じる」「すべてとはいえないにしても、ほとんどの同性愛は複数の原因が重なって生じる」「現在のアメリカで最も重要な同性愛の原因、証拠がはっきりしていて、きわめて多くのケースで最も重要な役割を果たしている原因は、親子関係における問題である。ふつう、親子関係の問題だけで同性愛になることはなく、子供の側にその性向が備わっていなければならない。最も重要な原因は、子供の生活体験、それも家庭内における生活体験ということになる」って書いてあるんだけど、うーんと、わたしは自分のことを考えてみても、どーも親子関係とか自分の生活体験とか、あんまり関係がないような気がするんだよねー。まー、わたし、アメリカ人じゃないからかな(笑)わたしははっきりいって、なぜ自分が同性愛者なのか、未だにさっぱり分からない。もうそれは「生まれつき」としかいいようがないんじゃないかなって感じてる。他の人で「自分が同性愛者になった原因」っていうのがはっきりしているって人はいるのかなあ??逆に異性愛者で「自分が異性愛者になった原因」というのがはっきりしている人っているのだろうか?

なぜか同性愛者だけが「同性愛者になる原因」を探られていて、異性愛者は「異性愛者になる原因」を研究している人っているんだろうかと思う(そういうの、聞いたこと、あります??)。異性愛者になる原因が分かるんだったら、多分、同性愛者になる原因だって分かるんじゃないだろうか?

んで、次に続く。今日はまた長い日記になりそうだなあ~(爆)

「同性愛の性行為」なんだけど、いやー、ここまで書かれるとね(苦笑)最初に「同性愛のテクニック」ときたもんだ。これって、、、なんかゲイの理解について関係があるのかなと思ってしまうんだけど。。だってさ、なんでゲイと付き合う際について、ゲイのSEXについて知らなきゃいけないわけ?異性愛者と付き合うときに「この人はどういうSEXをするんだろう?」なんて考えて付き合っているとでも言うのだろうか?少なくともわたしは、異性愛者と付き合おうが、同性愛者と付き合おうが(この場合の「付き合う」というのは友達として、ってことね)、その人がどういうSEXをするか、なんて考えないよ。だって、関係ないじゃん。友達としてのその人と、その人がどういうSEXをするかどうかなんて。なのに、なんでこんなことをわざわざ取り上げて書くんだろう、って気がした。

しかも「本題に入る前に、理解しておいて欲しいことがある。読者の中には、同性愛者が一般に用いる性的テクニックの描写を読んで、ショックを受ける人がいると思う」って。。。でもそれについて書く理由は「しかし、性的な行為を具体的に説明しない限り、同性愛に関する真実を述べることはできない」って。。。んー、そうかなあ?じゃあ、異性愛者と付き合うに当たって、異性愛者がどういう性行為をするか、具体的に説明しない限り、異性愛に関する真実を述べることはできなくて、その挙げ句、異性愛者とは付き合えないというのだろうか。

どーもねー、興味本位に書いているとしか思えないんだよねー。だから、同性愛者が多様性を持っているってことだけでいいじゃん、って感じがするんだよね。だいたい、異性愛者だって「四十八手は裏表」とか言うんだから、いろいろあるんじゃん。それをいちいち、分かってないと異性愛者とは友達にはなれないのか???

あ、個人的には「ディルド(張形)の使用。レズビアンは互いにディルドを用いると広く信じられている。しかし、それはほんの一部に限られており、その愛好者は極めて少ない」って書いてあるところに「あ、そう。ふーん」って思いました(爆)その「極めて少ない」の中にわたしは入ってるわ(爆)こんなん、使おうが使うまいが関係ないじゃん。だって、ディルドを使うからと言って、それは別に男の代わりでもなんでもないわけで。道具の一つなのだ。自分を気持ちよくしてもらうための。えー、使って何が悪い、と思っておりますが、何か?(爆)わたしゃ、気持ちよければ、ディルドだってバイブだって使うし、それが必須ってこともないし、ホント、そのときどきの気分によって違うのよ。だから、わたしは彼女とそれこそ同じSEXをしたことが今まで一回もない!と言い切れるわ(笑)って自分たちのことについて詳しく語ってしまった(汗)

でさー、次に同性愛のSEXと異性愛のSEX、どちらが快感か、なんてことが書いてあるけど、そんなこと、関係ないじゃん!!「急進的なゲイの活動家の中には、ゲイのセックスの方がストレートのセックスより快感が大きいと主張するものがいる」ってさぁ~、、、真に受けて書かないでよね、こんなこと。だって、同性愛者だったら、同性とのSEXの方が異性に比べると断然快感があるだろうし(わたしは異性とSEXすることすら考えたくない。多分、多くの異性愛者も同じだろうと思う。同性とSEXしてるところなんて考えたくないよねえ?(爆))、異性愛者だったら、異性とのSEXの方が断然気持ちいいと思うよ、同性とするより。そんなこと比較すること自体間違っていると思うのだが。ここでの理由は「同性カップルの方が、相手の身体がどのように感じるか、よく知っているからである」とか「生物は、お互いに似ている方が、相手の基本的な機構をよく理解できるからである」とか書いてあるけど、確かにこういう「俗説」はある。けど、これはウソだ。みんながみんな、同じところが感じやすいわけがないじゃないの。こういうのってお互い、話して分かるものでしょう?なんかさ、レズビアン小説でも「ものすごいテクニックを持っていて、一発で相手をメロメロにさせてしまう」なんてこと書いてあるけど、あれはウソだと思う。。(誰の小説を指してるか、分かるかな?(爆))まー、わたしは所詮、今まで一人の人としか体験したことないけどね(苦笑)でも、確かにゲイはある意味単純である、と思う、レズビアンより。放出してしまえば、それが快感なんだから。ま、ゲイでなくとも男性一般がそうなのかな。けど、女性はそうはいかないんだよな~(笑)あ、もう、今回はSEXについて語ってるね、わたし(爆)もういいや。彼女に多分、怒られるだろうけど。

でも、それを知ってなんになる?というのが本当の本音。
別にそんなこと知らなくてもゲイとは友達になれるのだ。

で、次は「ゲイとストレートの分かれ道」なんだけど、これも必要あるの?というか、これ、すごく誤解されやすいと思う。だって「なかには同性愛の傾向がまったくなかったり、わずかしかなかったりしても、家族や同級生がゲイだというレッテルを貼り、ゲイとして取り扱っていると、自分でもゲイだと考えるようになり、ゲイ仲間に友人と慰めを求めるようになる」って。。じゃあ、この反対をやってみれば、ゲイでなくすることもできるよね?すなわち「異性愛の傾向がまったくなかったり、わずかしかなかったとしても、家族や同級生が異性愛者だというレッテルを貼り、異性愛者として取り扱っていると、自分でも異性愛者だと考えるようになり、異性愛者仲間に友人と慰めを求めるようになる」

これだったら、この世の中からはゲイは消えることになるよね?この記述、どう考えてもおかしい。この人、何考えてこれ書いたのかと思うよ。これだったら、前に書いた「同性愛」で「同性愛者は治療しても治癒しにくい」って書いてある方がよっぽど真実だと思う。

んでさ、ゲイはいつか自分のことをゲイだと自己認識するようになるわけだけれど、この本ではこの「自己認識」を”カミング・アウト”と呼ぶって書いてあるのよね。初めて聞いたわ、こんなこと。普通のカミングアウトというのは「coming out of the closet」の略で、押し入れから出てくる=他の人に自分がゲイであることを告白すること、なんだけれどねえ。。'70年代のアメリカの「カミングアウト」ってこういう意味だったのかしら??だとしたら、とても興味深いんだけど。

あと、偏見でめちゃくちゃなのが、実はバイセクシャルのところの記述。確かに本当はゲイなのだけれど、取り敢えず女性ともSEX可能、という意味でバイセクシャルと名乗ろう、といったことはある。かつてのElton Johnのようにね。でも、実際のバイセクシャルは、本当に相手の性別は関係ないのだ。なのにこの本には「現代の社会においては、本物の両性愛者になるのは、ほとんど不可能だということもある。人間は幼年期と10代において他の人間を愛するという複雑な性的・精神的感情を学び取るわけで、それは人間の極めて奥深い部分に関わっているから、その対象を簡単に切り替えるわけにはいかない。女性を愛するように教え込まれてきた男性が、急に男性を愛するようになることはないし、男性を愛するように教え込まれてきた女性が、急に女性を愛するようになることもない。人間は両性を愛するようになる可能性をもっているのかもしれないが、それが実現するためには、子供の育て方に全面的な革命が起こらなくてはならない。そして、いまのところそうした革命的変化の兆候は現われていない」「たとえば、『リンゴとミカンの両方が好きなのと同じだ』といった言い方をする。しかし、人間はリンゴやミカンではない。人間をリンゴやミカンのように取り扱う人間は、他人と真の人間関係を作ろうとしていないことになる」って、これ、バイセクシャルの人が読んだら、すごく怒ると思うよ。バイセクシャルの人は、愛する人の性別は関係ない人たちで、だから、男とも女とも付き合えるのよ。別にいっぺんに付き合うわけじゃなくてね。「ある人を好きになった。たまたま異性だった」「ある人を好きになった。たまたま同性だった」ってだけなのに。。

そしてなんと「ほとんどの両性愛者は情緒的に発達の遅れた人物で、対象を取り替える主要な原因は、両性の誰をも愛することができないことや、自分の生き方を選び取ることができないことにあると言われる」って、、、これ、めちゃくちゃ差別的な表現ではないか。ゲイは差別しないけれど、バイセクシャルは差別してもいいと言わんばかりだ。ただ、この人の周りに「真の両性愛者」がいなかったことから、このような記述になったと思われるが、、それにしてもすごい書き方だよな、これ。

で、極めつけが「”異常な”ゲイ」。この人の言う「異常なゲイ」とは、ドラァグの人だったりするのよね。あとはどうも性同一性障害っぽい人も混じっているような気がする。まぁこの時代「性同一性障害」という概念がなかったから仕方がないのかも知れないが、、しかもここに書いてある「ドラァグ」(あのね、この本には「ドラッグ」って書いてあるんだけど、これじゃ「drug」で「薬」の意味になってしまうのだ。これは「誤訳」ね。「ドラァグ」は「drag(引きずる→ドラァグの人が長いスカートを引きずっていることから)」が語源で、まー、一般には「ドラァグ・クイーン」なんて言われてるわね)の人って、この本に書いてあるように、女性っぽい仕草とかなよなよなんか全然してないし、むしろ「男を降りたことによって、何でもずけずけと言いたいことをしゃべれるおばちゃん」みたいな感じなんだよ(笑)うーん、その時代のアメリカのドラァグってそうだったのかも知れないけどね。

あとはハッテン場ばっかり通っているゲイだとか、レザーフリークのゲイだとか、そういうゲイはぜーんぶ「”異常な”ゲイ」にされてしまっている。

それと反対に「ストレート・ゲイ」というのは、一般の男女間の夫婦のように一緒に住んで、浮気もしないで、っていうゲイなんだそうだ。まぁ、ここには若いときには「”異常な”ゲイ」だった人が年を取ると「ストレート・ゲイ」に移行するみたいに書いてあるけど。。確かに異性愛者にとっては「ストレート・ゲイ」の方が付き合いやすいことだろう。「彼らは二人の男性、はっきりしたゲイの男性であるが、多くの点でストレートの男性と女性によく似ており、その関係は最近の解放された夫婦の関係に極めて近い。だからこそ、異性愛者の友人が彼らと親しく付き合い、異性愛者のカップルが二人の関係に男女の結婚の場合と同じような敬意を払うのである」って書いてあるけど、これも完全に異性愛者の「上から目線」だよね。「男女と同じような付き合い方をしているカップルじゃないと、付き合えませんよ」って言ってることと同じだよね?

でも、友達にハッテン場好きの友達がいても、別にいいじゃんか、って思うし、この人は、一体、ゲイってものをなんて考えているんだろうって、本当に「よき理解者」のふりをして、実は自分との共通点がなければ差別していい、みたいな書き方をしてるんで、はっきりいって、こないだの「同性愛」よりもかなり偏っている本だと思った。

現に訳者のあとがきでも「ハントがストレート・ゲイを評価する前提には、健康で幸福なストレートの家庭と人生が存在しているのであろう。だが、そんなものは古ぼけたフィクションでしかない。既存の価値観や生活様式の中に人間を押し込もうとする”善意”は、とっくに破産している。同性愛は人類の財産の一つであり、その投げかけている問題は、近代西欧文明の幸福のイメージより遙かに根深い。ゲイとストレートの和平を求めるハントの善意はさておき、このような判断は簡単に下すべきではない。訳者はハントの”健全”指向にはいささか疑問を覚えたので、ここに一言注記しておいた。」って書いてあるのよね。やっぱり、この訳者も訳しながら「これはどうかな~、、」と思いつつ訳したのね。ってわけで、この訳者あとがきを読んでちょっと「ほっ」とした部分はあるんだけれども。

この本、アメリカで出た当時はどんな評価をされたのかって思ったりする。ゲイのことを「新しい隣人たち」と呼びながらも「ある一定の模範的な夫婦像(しかもその当時の)に近いゲイカップル」しか受け入れられない、とこの本の著者は言っているようなものだ。しかも、ゲイの原因や性行為など、本来、友人になるためには関係のない、ただの「興味本位」のことに(しかも内容に誤りがある)多大なページを割いている。こんな「粗悪」なものでも翻訳されて出版されるくらいだから、よっぽどこの手の本はなかったのかな。しかし、この年代にこれを読んだ人って、かなり同性愛に対して誤解してるだろうなー、、、こういう本が出版されるから、また同性愛者がいらぬ誤解を受けるのだ。そういうわけで、この本、全然オススメの本じゃない。読むだけ無駄。Amazonでは1円から売ってますけど(爆)
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09-06 Sat , 2008
同性愛が性倒錯だった時代
最近、気分がすぐれなかったのは、実はこの本を読んでたせいじゃないか、という気さえする。

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この本、初版は'55年に発行されたらしいが、'68年には中身が大幅に改訂され、そしてこの本自体は'77年に印刷、発行になっている。本の帯を見てもらえば分かるとおり「『倒錯』の世界に光をあてる!」と堂々と書かれていて、見るからに、うわー、な本なんだけど。著者はイギリス人。

実はこの本、なんで持っているのか自分でもよく分からないのよね(苦笑)、買ったのは'94年10月23日らしい。確か、神田の古本屋で買ったんだと思う。題名だけ見て(笑)多分、この当時、わたしは自分のことに気がついて、それでたくさんの本を探して買いまくってた頃なのよね。ただ、この本は買ったものの、最近までずっとカバーを掛けて本棚にしまってたから、こういう本を買ったこと自体、既に忘れてたのね。あのとき、これを読んでたらどう思ったかな、と思う。わたしはそれまでにいくつもの同性愛関係の本を読んでいて、そのどれ一つにも「同性愛は異常性欲で治療の対象となる」ということは書いていなかったので、病気ではないことは知っていた。が、この時代はまだまだ「倒錯者」扱いだったのだ。

とはいえ、読んでみると、これ、そんなにおかしなことは書いてないのね。「同性愛者は見た目では分からない(女っぽい男がゲイでも男っぽい女がレズビアンでもない。いろいろな人たちがいるから分類ができない)」「倒錯者ということを除いては、社会に適合できるし、知能も一般人と同じ」「生物学的に見ても、同性愛は何ら身体的特徴を伴うことがない」「男娼は同性愛者でないことが多い」「小児愛者もいるが、割合としては圧倒的に異性愛男性が多い」「同性に誘惑されて同性愛行為をしても、その人は同性愛者になるわけではない」「性ホルモンの影響ではない」ってね。あのね、これだけの「証拠」が揃いながらも、前提が「性倒錯者」だから、異常な人なわけね。だから治療の対象になりうるわけね。逆にね、これ読んでて「人間の思い込みってすごいなあ」って感心したほど。これだけの証拠が揃いながら「同性愛者は性的指向が同性に向かうだけで、あとはなんら異性愛者と変わることはない」という結論になぜ達しなかったのか?と思うのよ。

もうね、同性愛者って異性愛者に比べて「未熟である」というのが前提なわけ。だからこの異性愛者の精神科医は「未熟なものをどうやって成長させるか(=異性愛者になる)」が治療だっていうわけ。でも「強固な同性愛者」や「同性愛者であることに悩んでいない同性愛者」に対する治療効果はほとんどない、って書いてあるんだよ(笑)ま、治療についてはあとで触れるけど。

しかも「中には性転換を望むものがいるが、それと同性愛者とは違う」と、まぁこの時代「性同一性障害」という言葉がなかったので、こういう表現になっているが、そういう意味では「性同一性障害」についても少しだけ触れてるのね。「こういうものは医者を脅しても自分の性器を切り取ろうとしたりする。同性愛者はそのようなものを望んでいない」とかね、あの時代の性同一性障害だった人も大変だったんだなって思う。。あと「身体的特徴や遺伝子レベルでの『反陰陽』の人」のことにも触れられていて、「同性愛」という題名でありながら、結局今で言うLGBTIすべての人を扱ってるんじゃんって思うんだけど(バイセクシャルについての言及もあるので)。で「同性愛者」に対しての「定義」はちゃんとしてるんだよね。ま、たまに「強固な同性愛者」だの「一般の同性愛者」だのって言葉が出てくるんだけど、これは調査の対象がどうしても刑務所に入っている同性愛者、だとか神経症で悩んで医者のところに来る同性愛者、アルコール中毒の同性愛者、とかになってしまって、偏りがあるのね。それに加えてたまに「有志の同性愛者」という人たちも出てくる。

けどね、例えばこの「有志の同性愛者」に対して心理テストを行なうと、異性愛者と比べても彼らの適応能力は特に悪くないという結果が出るわけね。そうすると、このテストを行なった研究者は「同性愛者の葛藤は非常に強く抑圧されているので表面的な質問には平静さを装うことができるので、このテストの結果は認められない」って言うのね。これって、ホント、研究者にあるまじき行為というか、思ったような結論が出ないので、めちゃくちゃな論理(というより偏見?)で、結論を曲げちゃうのね。心理学的なテスト等は、はっきりいってどうとでも受け取れるというか、自分の思い通りにすることができるからさ、なんか危ないと思った。てーか、ちゃんとした「実験心理学」だったらさぁ、統計学的に正しい処理はもちろん、やっぱり何かと比較することが大切なんじゃないの?この場合は「異性愛者」になるけど。

ただ、上にも書いたように、同性愛者でも、特殊な環境にある人たちの検査結果なので、とてーもあやしいんだよねえ~、、、同性愛者が持つ特徴、というよりもその他が原因で犯罪を犯したり、刑務所に入ったりする要因が大きいみたいだし、刑務所の結果でせいぜい分かるのは、刑務所内で同性愛行為にふける囚人たちが、刑期を終えて外に出ると、別にその人たちは普通に異性愛者に戻っていく、ってくらいで、それを考えただけでも、決して「同性愛は未熟」なのではなく、異性愛者と同じことが分かると思うんだけどさ。どうしてそのような方向に考えないのか、これだけ真面目に書いているのに不思議でたまらない。。

で、この著者は精神科医で、別に宗教とか法律とかは関係ないんだけど、それと同性愛についての関係にも触れていて、例えば「ソドミー法」(同性愛行為を禁じる法律)があるために、同性愛者は隠れた生活を行なわざるを得ず、敵国から「お前が同性愛者ということをばらすぞ」と脅されてその国のスパイになっちゃうとか、そういう例を挙げて、弊害があるって認めてるんだよ。しかもそういう人たちを刑務所に入れて、治療しようが、それは上に書いたように刑務所内では同性愛行為が行なわれているので「全く治療にならない。時間の無駄」とまで書いてるんだよ。

ただし、基本的に「同性愛者は性倒錯者」だと思っているので、「男色者の社会に『参加』し、自己の倒錯感情を全的に是認する倒錯者は、次の段階として恋愛に陥り、程度の差はあれ激しく閉鎖的な常時を経験する。この場合、異性愛者の結婚制度である一夫一婦制を模倣しようとする人が多いが、これらは彼らの天性にも社会環境にもそぐわぬ解決策である」とか、まー、確かに今のゲイの人たちもくっついては離れ、の人も多いよ。けど、長く一緒に暮らしている人たちもいるわけで(ただし、長く一緒に暮らしているからと言って、SEXの相手は自分のパートナーとは限らないこともあるけど)。こういうところが、偏見バリバリなんだよな。。

で、安定した男色者カップルについては「奇妙なことに」という前置きをして「性的習慣を別にすれば、彼はいたって適応性に富んだ人間で、そのために彼は隣人たちの好奇の目を避けてひっそり暮らさざるを得ないのであった。少なくとも意識的には、何らの罪悪感も抱いておらず、彼の言を借りるならば、悪いことをしているわけではなく、ただ自己の本性に従って生きているのであった。誰にも害を及ぼしてはいず、理解のある人間には自分の気持ちを説明してもよいと考えていた。彼とはこの話し合いが最初に記録されてから12年後に、再び会う機会があった。彼はその間ずっと前記の男色者の友人と一緒に生活をし、自由時間と余暇の大部分を彼と過ごしていた。この友人は、家事を好み、普通、妻が夫のためにするような仕事の多くを引き受けていたが、その影響が性的な役割への嗜好にまで及ぶことはなかった。」って書いてる。んで、これまた別の長年付き合っているカップルの例も挙げてるんだけど、そういう彼らに対する「評価」がまたおかしい。「これだけ完全で永続的な倒錯は珍しい」だと。。。

そんでさ、さらに「R・E・L・マスターズは同性愛擁護者たちの運動を評して次のようにいう。彼らは同性愛者は正常な人間より優れているというような素振りを見せたり、適度の寛容さの枠を越える大幅な自由を要求したりする点において、世間の同情を失っている、と。確かに同性愛者たちは社会の不当な糾弾に対し、しばしば反撃を試みている。これは敗北者に特有な言動に過ぎぬかもしれないが、結果的には彼らが政治的な危険分子であるという印象を広める役目をしている。中でも同性愛雑誌は最も闘争的な少数派に討論の場を提供している、記事は非常に偏った性格のもので(おそらく話題や寄稿の範囲が限られているため、そうならざるを得ないのであろうが)、時折途轍もない考えが公表される。たとえば、男色者同士の結婚は法的な保障を与えられるべきだとか。男色者カップルにも養子が許されるべきだというような提案が大真面目に取り上げられるのである。」なんてそれこそ「大まじめ」に書いてるんだよ(笑)この人が仮に今、生きていたら、今の世の中どう思っただろうね。

でも確かに、今の日本の状況を考えると、上に書かれたことは結構日本に当てはまってないか?とも考えられないことはないのよね。だって、今、日本では同性同士のカップルに対する法的保障のことなんか、議論にもならないしね。「パレード」をするだけでも一部の熱狂的なゲイリブ嫌い(?)からは「左翼的行動」と思われているし「政治的な行動」はしちゃならないみたいだしね。だいたい、政治家を動かさずして、どうやって日本を変えていくんだよ、って気はするんだけど、まー、そういう人は現状に満足してて、表だって行動する人がいつか、自分たちのことを「アウティング」させるんじゃないかとか思って怖いんだろうね。でも、ネット社会でしか生きていない人は、所詮、そこで吠えてるだけでみえやしない存在なのにね。で、世の中変わらない方がいいと思ってるんだろうけどね、自分たちが日の目を見ない暮らしの方が落ち着いていていいんだろう。けど、出てきたい人が出ていけばいいんだし、世の中変えていきたい人が変えていけばいいんだし、出てこない人は出てこなくていいんだから、出ていきたい人の足を引っ張るなよ、とは思ってるけどね。こーいう考えだと「ゲイリブ」とか思われるか知らん?でも、わたしゃ、別に活動家じゃないからさ。ただ、彼女と結婚したいだけだからさ。でも、同性愛者は結婚できないからって「同情」されるのは真っ平ごめんだしさ。

わたしさぁ、これ読んでてすんごく疲れたのは、「性倒錯者」だのって言葉がいっぱい出てきて、それが自分の心にグサグサ突き刺さるんだよね。これは「過去の遺物の本だ」って分かってても、こういう「悪意」のある書き方(別に彼は悪意じゃなくてそれが適当と思ってるわけだけどさ)をされると、やっぱり読んでると相当凹んでくるんだよね。。読んでるだけで、気分が悪くなってくるんだからさ、本当にこの時代を生きた同性愛者たちって大変だったんだなって思う。

だけど、この人、世間に対しては「現代の小説や演劇の主題として、同性愛者の一般的イメージの悪化に拍車をかけている」など、同性愛者というのは一般に、本人自らではなく、異性愛者からの「作られたイメージ」によって、それをまた一般の異性愛者に広められる、といってるんだよ。これはすごく正しい見解だと思う。同性愛者は上にも書いたように「隠れて暮らしている」から、一般のイメージなんか一般の人に分かりっこない。だから、異性愛者が勝手に「同性愛者なんてこんなもんだろう」と思って発表した演劇や書物なんかで、一般の異性愛者がまんまと「同性愛者ってこんな危険でとんでもないヤツなんだ」って誤解するわけね。これって、はっきりいって今、というか最近までは完全にそうだったと思うね。同性愛者が出てくると、それは犯罪者だったり、狂人だったりして、最後には死ぬか殺されるかどっちか、という役割しか与えられなかった、とこないだ第17回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭の「ヒストリー・オブ・ゲイシネマ」でも誰かがそう言ってたよ(苦笑)

で、結局、この著者は精神科医だからさ、精神分析をするの。それがまた変でさー。

例えば、男性同性愛者に対しては、最初に「見ただけでは分からない」って書いてるのに、被験者の対象は全部「女っぽい男性同性愛者」なんだよ(苦笑)で、彼らがなぜ同性愛者になるのかというと、フロイトのエディプスコンプレックスで説明してるんだけど「大多数の同性愛者には、神経症的な兆候を持つ人々と同様、母親に対するエディプス的な愛情が認められるが、母親への執着の度合いはほとんどの場合、同性愛者の方が強い」「同性愛者はある点で、自分に欲求不満を抱かせた母親と一体化しようとする。母親と同じく、彼は男を愛する」とね。

これを女性同性愛者に当てはめるとこうなる。「彼女たちが父親には粗暴な、嫌悪すべき人間という見方をしているのに反して、母親に対しては親密で理想的な感情を抱いていることを認めている。これらの女性の何人かは、母親との完全な同一視に対する反動から他の女性へ向かったのだと彼女(ジョイス・マクドゥーガルって人)は考えた」。

これって明らかにおかしいよね。男性同性愛者も女性同性愛者も、父親を憎み、母親に対しては異常なほど仲良しであるのに、向かう性対象が逆転するの。例えば、男性同性愛者が父親を憎み、母親に対して異常に執着し、女性同性愛者はその反対で、母親を憎み、父親に異常に執着する、というのなら、話は別だよ。だけど、前提条件が一緒なのに、答えがまるっきり違うのは、どう考えてもこじつけとしかいいようがない。これを書いてる人や読んでる人、はたまた訳した人はこの説明に対して「変だ」って思わなかったのかなあ????

つーか、この人は精神科医だから、なんでも精神分析に結びつけようとして、フロイトのことを持ってくるんだけど、あれだね、フロイトなんてとんでもないヤツだって感じだよね。だいたい、女性のことを「従属的な役割にまつわる軋轢や女性の不完全性に対する憤懣、いわゆる『ペニス羨望』などは」って書いてあるけど、男性から見るとそりゃ、女性にはペニスはないので「不完全性」に見えるかも知れないけど、女性はもともと「持ってない」わけだから、不完全性とかなんか思うわけがなく、ペニス羨望なんかもあるわけないじゃんか、と思う。これって、男の側の論理だよね、完全に。確かに「ある」ものがなくなったら怖いだろうさ。けど、もともと持ってないものに対しては、別に羨ましいとか思わないのだよ。だって、例えが変だけどさ、腕が3本欲しいとかって思う?腕が2本しかないからもう1本足らないと思ったりする?それと同じことなんだよね。

で、最後に治療方法について書かれているけれど、最初にも書いたとおり「強固な同性愛者」や「自分について治そうとは思わない同性愛者」への治療は難しく、不成功に終わる場合が多いと書かれている。一方、どうしても治したいと思う同性愛者などは、まぁまぁの成功度らしかったんだけど、期待通りのものではない、と書いてある。しかも「治った」と思ったらまた元通りになったりするので、結婚をすることはあまり勧めない、とも書いてある(笑)同性愛者に結婚を勧めるのは、誤りであるだけでなく罪悪なんだそうだ(爆)

つか、「同性愛を治したい」と思うのは、やっぱり「罪深い」とか思いこんじゃってる同性愛者で、そういうのは、どちらかというと自分が悪いんじゃなくて社会が悪いわけなんだよね。そう、わたしがこれ読んで一番に言いたかったのは「社会が同性愛者を悪者にしている」から、こんな問題が起こってくるわけで、本にも何度も「性倒錯以外は社会的に適応している」って出てくるんだから、なぜ「同性愛が悪いわけではない」という結論に達しないんだろう、と。だから「人間って、思い込みの激しい動物なんだな」と逆に分かったわけで。ま、もちろんわたしも人間だから、多分、思い込みが激しいとは思うけどw

最後の方にね、一カ所だけ「異性愛者にはこのような実験はされてはいない」ってポロっと書いてあるところがあるんだよね。「なんだ、分かってるんじゃん!」って思ったけど、それ以上の言及はなかったし、結局、何やらかんやらいいながら、結論は「同性愛者への寛容はそれの奨励と同じものではない。医者としてはまず若い人々に対して、同性愛的生活に伴いがちな破局や悲劇について厳しい警告をなすべきであり、はじめからそういった傾向に案じることを勧めるような助言は絶対に慎むべきであろう」なんだから、結局、それが言いたかったのかよ、って感じなんだよね。

確かにこの本、そんなに間違ったことも書いてなくて、読んでる途中は若干気分が悪くなるくらいだったんだけど、結論としては「あっ、そう」なのね~。異性愛者の生活でも破局や悲劇ってたくさんあると思うんだけどねー。もう本当に「人間の思い込み」って怖いわっ!

という本でしたー。
さっき調べたら、Amazonで最低価格で800円、古本屋だったらもうちょっと高い値段で売ってます~。あんまりお勧めしませんが、過去の遺物を是非読みたい人はどーぞ。でも、読んでいるうちに気分が悪くなっても知りません(笑)
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08-16 Sat , 2008
夏バテと橋本治
ここんとこ、すげー暑いと思ったら、今はお盆の真っ最中なのね~。うちのプリモプエルが「おぼーんぼんぼん」と言っております。

夜になるとまだいいんだけど、昼間は、、ぐったり。特に冷房設備が全くない自分の部屋には昼間、入る気がしなくて、ずっとクーラーのある寝室で新聞読んだり本読んだり、、、あ、あと昼寝したり(笑)ホンマ、この季節は効率が悪い。去年はシドニー行く直前でバタバタしてたけど、その前とかはどうやって過ごしてたんだろうなあ~?この暑い中、よく仕事にも行ってたよなあ~。。っていうか、今週3日ばかり、広東語漬けで、それで昨日と今日は疲れちゃって、って、これはまだ身体の調子が悪いからか?それともまさか、年齢のせいじゃないだろうな。

といいつつ、本当に夏バテだと何もする気が起こらないと思うんだけど、実は本が読みたくて仕方がないのよね。。だもんで、次々と読みたい、と思った本に手を出し(読み終わらないうちから)、今はなんか4つくらい並行して読んでるわ~。けど、全部、過去に読んだことがある本を再読。んー、これ、こんな本だったっけ?とか印象の違う本もあったりして、これは年齢を重ねたせいなのか、それとも別の要因があるのかはよく分からない。あ、読んでいるのは小説じゃない。「じゃあ、何?」って言われると、、橋本治関係だったり、「きけわだつみのこえ」だったり、「プライベート・ゲイ・ライフ」だったり。あ、あとは新聞2紙とBAdiなども。ってホント「雑食」だよね~、わたし。でも、小説が入ってないのよね。あのね、小説って自分と合う小説を見つけるのは難しいのよ。で、ベストセラーと呼ばれる小説はほとんど全く読まないのは、過去に何度か読んで「わたしって一般大衆に受ける小説とは合わない」って感じたから。

んー、一般大衆に受ける小説って、今は特に「読んだら泣ける」とかさ、そんなんばっかじゃん。わたしさ、別に本読んで泣きたくないのよ、っていうか、それ以外でたくさん泣いてるから、もう泣きたくないのよ。それに「泣ける小説」って絶対「ツボ」があってね。「あー、ここで泣けって言ってるよ、著者は」って分かっちゃうのよね。わたし、そういう本は読みたくないんだな(笑)わたしは小説家では山本周五郎が一番好きなんだけど、っていうか、多分、唯一、好きな小説家なんだろうけど、今は読み返したいとは思ってない。だから、今は小説じゃなくて、他のジャンルの本を読んでる。ま、橋本治も「桃尻娘」なんか書いてるから小説家と言えないこともないわけないよなー。小説よりも評論が多いからな、彼は。

ってわけで、橋本治を読むと、だんだん書いてる口調が「治ちゃん調」になってくるわけだけど、今んとこまだそんなことはないってことは、まだそこまで読んでないってこと。あ、以前から「橋本治、どっかの本で自分が同性愛者だって書いてた本があったよなあ」っていろいろペラペラめくって読んでたら、やっと見つけた。「ぼくたちの近代史 (河出文庫)」これの113p。「だから、『色んな個人いてもいいじゃないか』っていう―俺、やっぱりその、全共闘の時代にさ、言ってもよかったんだよね。それこそやっぱし、自分なりの言葉(ここ、点がうってある)で言ったっていいんだよって、そういう門口にもいたんだけどさ、でも俺やっぱし、言おうとしなかった部分もあるっていうのはさ、だって俺、普通に言ったら変態なんだもん―同性愛者って。やだそんなの。」って書いてある。

これの「ぼくたちの近代史 (河出文庫)」ってーのは、全共闘世代とは一体何だったのかね~?って本なんだけどさ、元は治ちゃんの講演(しかも6時間)を本にまとめたものなのね。で、彼はその講演で「カミングアウト」してるんだよ(笑)だけどね、この続きは「変態である同性愛者の彼」の話も続いてることは続いてるんだけど、やっぱね、この人「大人になんかなりたくなかった人」なんだなってその後の話を読むとそう思う。「恋愛論」もそういう調子だったけど。

でね、彼はいつもノンケ男が好きになるわけですが(だっていつもこのパターンなんだもん。実際はどうかは知らないけどね)、そのノンケ男は「自分より賢くてイイ男」なのね。で、彼はそういう男を「男」でなく「天使」にしちゃうの。でね、一生懸命友達になろうとして、一番の親友になったりするわけ。彼はね、親友になる過程において相手を「天使」にしちゃうの。で、「天使」だったらSEXの対象にはならんのよ、というか「天使である彼」でもう十分なわけなのね。でもね「男」はいつまでも彼の「天使」じゃなくて、あるとき絶対に下界に降りてくるの。そうなると、もう彼の興味の対象じゃなくなるのね。

まー、だいたい、橋本治が書いてる自分の恋愛ってーのは、こういうパターンだったりするんだけど、ま、実際はどうか知らないよ。これじゃ「プラトニックラブ」だけなんだから、完全に。それで彼が満足してたかどうかなんか知らないし、今もしてるかどうかなんか知らないもん。ただ、分かるのは治ちゃんも自分のこと「同性愛者だ」って思ってた時期はあったんだよ。でもやっぱり「変態」としか捉えられてなかったのか、わざとそう書いていたのか、変態だけどそれでいいじゃんと思ってたのかとかね、そこんとこはよく分からないんだけどもね。

で、わたしは「ぼくらの最終戦争(ハルマゲドン)―貧乏は正しい! (貧乏は正しい 2)」辺りから急激に読む気が失せて、彼の「窯変 源氏物語〈1〉」などはちっとも読んでないんだけど。こないだ本屋に行ったら偶然「いちばんさいしょの算数 1 (1) (ちくまプリマー新書 83)」が目について「ああー、ついにこんなものまで書くようになったのか」などと思ったのでした(笑)ただ、ちょっとペラペラめくって読んでると、やっぱり治ちゃんなのよね。これ、子供が読んで分かるのかしらって感じだったけど。。

なんて、いつの間にか橋本治の話になってたよ(苦笑)
まー、なんだかんだいって、やっぱり好きなんだよね、治ちゃん。
治ちゃんはこういう女は嫌いだろうなーって思うから、ファンレターなど書きはしませぬが(爆)というか、ホントーに好きな人には何も書けないもんなんです、ハイ。

だけどこーやって好きなことを書いてることこそ、その人への見えない愛情なのだ、とわたしは思っております。いーんだよ、本人が知らなくてもね。わたしゃ好きに読んで、で、好きなこと書けたら、それで幸せ。

そーいう愛情もあるってこと。
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07-26 Sat , 2008
深く潜れ
「やらなければならないこと」=「病気を治す」ことになってしまった今、自分の心境はといえば、ただただ深くもぐりつつあるのだと思う。

まー、でも簡単に言うと「昔読んでた本を再読すること」だったりもするんだけどね(と突然軽い口調)。性的少数者関係で言えば、自分がちょうど「わたしって同性愛者かなあ」と思い始めたのと、'90年代の「ゲイ・ブーム」が重なったので、割とその関係の本が多く出ていた時期でもあったのだ。で、「『レズビアン』である、ということ」を読んだんだけど、これがまぁ、よくわからない本でね(苦笑)最初が「『レズビアン』、とはだれか」から始まるんだけど、「~ではない」ばっかりで、何度も「じゃあ、なんなんだよ!?結局、アナタは何を言いたいの?」と言いたくなることしきり。

そのうち、話がどんどんフェミニズムの方になっていってしまって、「レズビアンとはあんまり関係ないんじゃないのぉ?」ってことになり、、で、最後の方でようやく「ああ、この人はなんだかんだ言って、結局『レズビアンとは、女性に対して性的魅力を感じる人のこと』とは言いたくないんだな」ってことが分かった(笑)だってこの人、絶対に「性的魅力」とか「性的興奮」とかそういう言葉を使わなくて「親密な関係を持ちたい」としか言えないんだよ。「セックス」とかそういう言葉は世間のポルノ的な手垢にまみれた言葉なので、どうやら使いたくなかったらしいんだよな。それが、この本を随分回りくどくさせてしまっている一因だと思う。それと、この人、本の書き始めはまだまだ「内なるホモフォビア」でいっぱいらしく、自分のことをまだ「レズビアン」という言葉で言い表わしたくない(=そのような言葉を引き受けたくない)ので、さらに物事を分かりにくくしているのだ。

はっきり言ってこの本、最後の2章だけ読めば、もうそれで十分だと思うんだけど。。なんて言ったら怒られるかな(^^;

で、次に読んだのが「女を愛する女たちの物語―日本で初めて,234人の証言で綴るレズビアン・リポート (別冊宝島 64)」で、これは'90年3月15日発行、わたしはこの6刷の'91年8月10日のヤツを持っている。

これさ、今からたった18年前のことなんだけど、そして、わたしだってこの本のアンケートに出てくる人たち(の中で最も多い年代)とほぼ同世代なんだけど、読めば読むほど暗くなって来た。これは「フェミニズム」はほんの少ししか出てこないから、とても読みやすいんだけど(爆)、この当時の置かれた状況ね。もちろん、中には既婚者も入っている。結婚したけど離婚した人もいる。そういうさまざまな人がいるのにもかかわらず、若い人(っていうか、わたしと同年代だよ!)は「いつかは男性と結婚」って思っている人の多さ!これには少々参ってしまった。まぁ、'90年と言えば、ちょうどWHO(世界保健機関)の国際疾病分類(ICD)から同性愛が削除されて、同性愛は病気ではないので治療の必要がない、とされた年だ。この年の5月17日が削除された日だったんで、その日が今の「IDAHO」(国際反ホモフォビアの日)になっているわけだ。ただ、アメリカではその前から既に「同性愛は病気ではない」ということになっていたらしいのだけれど。

そう、だから、ほんの20年に満たない前までは、同性愛は「病気」だったし(今でも病気と思ってる人がいるかもね(苦笑))、だから、「レズビアン」の人たち自身も「いつかは治る」と思い続けてきたし、男性と結婚する人も多かったんだ。女性同士で幸せに暮らす、なんていう考えはこの本の中では前半部分はともかく、後半部分のアンケートの中ではほとんど皆無に近く、それでわたしはどんどんどんどん暗くなっていってしまった。

なので、今は沈みきっている。といいつつも、今は同時並行して「同性愛者における他者からの拒絶と受容―ダイアリー法と質問紙によるマルチメソッド・アプローチ (シリーズ・臨床心理学研究の最前線 1)」っつー、比較的新しい(今年出たばっか)の本も読んでて、これは結構面白い。ただ、共分散分析とか、多変数解析なんかを使って統計的にデ-タをまとめてるので、それがなんであるかが分からないとちょっと読みにくいかも知れない。とはいえ、これらの解析方法は大学の卒論程度でもやるので、そんなに難しくはないだろう。んで、これを読むとちょっと「ホッ」とする自分がいるのは確か。でもまだ最後まで読んでないので何とも言えないけど。

同性愛関係の卒論や修論を書くのなら、一度は目を通して置いた方がいい本だと思う。

そんなこんなで、過去にさかのぼっていろんな本を手当たり次第に読んでいるわたし。
頭が痛くなってきた(苦笑)

さて、明日は「プレリュード」が行なわれる日。本来なら「東京プライドパレードへの」プレリュードだったんだけど、そのパレード自体は来年の5月に延期されてしまい、プレリュードだけはやることになった。その中で我が「Brass MIX!」も出演する。ってわたしは出ないけど。

観に行こうかどうか、すんごく迷ってることは確か。今、楽器の音ってはっきりいって聴きたくないのね。自分が吹けないからさ。つらいんだ。だから、今、検討中。

今日は頭が痛いので、もう寝よ。
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07-10 Thu , 2008
わたしがフェミニズムに違和感を感じるわけ
ええと、一昨日と昨日にかけて「レズビアンである〈わたしたち〉のストーリー」つーのを読んだわけだけど。あ、別にこの本に対していちゃもんをつけるわけじゃなく、この本を読んだら「ああ、わたしはなんで『フェミニズム』ってもんがあんまり受け付けられないのか」ってことがよーく分かったんで、そこのところは誤解の無いように(^^;

この本は、著者の飯野さんって人の博士論文を元にして構成された本みたいなんだけど(このことは、本の最後の最後に書いてある)、第1章が「なんで『わたし』じゃなくて『わたしたち』にしたのか」って説明が、第2章が'70年代に起こった「ウーマン・リブ」運動に対してレズビアン・フェミニストがどうその中に入っていったかが、第3章は第2回ALN(アジア系レズビアンネットワーク)会議で起こった在日コリアンのレズビアンの人の日本人レズビアン達に対する怒りについて、第4章は「エイズ予防法案」に反対したレズビアン達のこと、とこんなような内容になっている。

んでね。正直言って、わたし、第2章まではこの本に何が書いてあるのか、読みながらでもちっとも理解できなかった。「なんでこんなに『わたしたち』にこだわるんだろう?」(って説明はちゃんと本に書いてあるわけだけど、それを読んでも理解できなかった)とか、なんというか、フェミニズム関係の本を読むとだいたいこういうような感覚に陥るんだけど、なんか「違和感」があるのね。その「違和感」ってのがわたしは何かよく分からなかったのね、今まで。

ところが第3章と第4章はすんなり読めてね。で、わけが分からなかった第1章と第2章は多分、同じようなことが書いてあるんだな~って推測はしているわけだけどね。

第3章と第4章がわたしにとって読みやすかったのは簡単なこと。わたしは今、「在日コリアン」と「HIV/AIDS」のことについて興味を持っていると言うこと。それだけのことね。その前の章が読みにくかったのは「ウーマン・リブ」とか「フェミニズム」には全く興味がないからってことなんだろう。

でね、わたしが「フェミニズム」に対して「違和感」を感じる理由なんだけど、なんかね、フェミニズムの本って(わたしはフェミニストから直接話は聞いたことないので)、「わたしがこうする理由は○○なのだ」ってことをすんごく理屈っぽく書いてあるのね。それと例えば女性差別に対して「こういう社会状況があって、こんな目に遭ってるのよ」ってのが、実にくどくどしく、そして難解に書いてあるわけ。で「それは理解できる人だけ付いてきなさい」みたいな感じがして、それ以外の人は「付いてこなくて来なくていいわよ、どうせあなたたちは頭が悪いんだから」って言われてるような感じがするわけ。で「あれが悪いこれが悪い」と書いてある割には、それをどうすればその状況から脱却するかって現実的なことが全く書いてなくて、ただの「問題提起」に終わっちゃってる感じがするんだよな。なんかすごく乱暴に言うと。

で、多分、超現実的なわたしは「これを理解したらどうなるわけ?世の中がちょっとでもよくなるわけ?」って思うんだよな。だったら、難解なものじゃなくて、本当に簡単に簡単に誰でも分かるように書いてさ、それで「あ、こんな現実があるんだったら、わたしもなんかできることがあったらしたいな」って思わせた方が、問題解決のためになるんじゃないだろうか。だって、一番必要なことは、一人一人が個人が考えたやり方で同じ一つの問題に立ち向かう、ってことだとわたしは思うから。ただ、一人の力だけじゃどうにもならないので、団体を結成する、という方法もあるけれども。で、団体で行動するのは、確かに個人一人で行動するよりは効率がいいと思う。けど、そうするかそうしないかはそのこ人の考えによるものでよって、人に言われてするもんじゃない。それでも、結局は個人のそれぞれの意識が今までとは違っていたら、少しずつでも社会は変わっていくとわたしは思うのだが。。

それにわたしはマイノリティーがすべてのマイノリティーの問題に対して興味を持たなきゃいけないとも思ってないし、行動しなきゃいけないとも思ってない。そんなことしたら、一兎を追うものは二兎も得ずどころじゃないよね。そしてそれが「当事者」だからといって、当事者としての意識は持っていた方がいいとは思うが、だからといって「当事者は全部その問題に対して行動しなければならない」とも思ってない。

例えば、わたしの今考えられる「(マイノリティーである)当事者」というのは、まず「女性である」ってこと。それから「性的少数者である」ってこと。それから「被爆二世である」ってこと。この3つかな。

けど、わたしは「女性問題」に対しては、ホント、興味がない。多分、それはわたしが今までほとんど「女性差別された」って思ったことがないからかな、と思うんだけど。。あんだけ周囲は男ばっかだったのにねーって思うんだけど、で、もしかしたらそういうことがあったのかも知れない。でもわたしは鈍いからか、そういうのは全く感じたことがなかったのね。でもなんか「フェミニズムの本」を読むと、どうもすんごく「男への恨み」が難解にまどろっこしく書いてあるような感じがするのよね。。だからどうも共感ができなくてね。ま、ただフェミニズムってーのは、男女の関係を社会的に分析して、んで新しい言葉や概念を作るものだと思ってるから、まぁ最低限の知識は持っておきたいな、とまぁその程度かな。

それから「被爆二世」という当事者ではあるが、だからといって何か運動をしたいとは全く思ってない。最近は被爆者自体が高齢化してきてしまって、これからは二世の時代になると思うし、実際、二世で動いている人たちもいるんだけど、わたしはこの中に入って何かをしようとは思わない。なぜか?と言われるととても困るんだけど、わたし自身が他に別にやりたいことがあるんだから、そこまでは関われない、というのが理由か。それより、もしかしたらわたしの中にものすごい「被爆者フォビア」ってもんがあって、もしかしたら「自分が被爆二世である」ということから目を逸らしたいのかも知れない。そこのところはもうちょっと考える必要はあると思うが、これが解決したからといって、それから被爆二世の運動に関わるとは思えない。

当事者として関わりたいと思ってるのは「性的少数者である」ってことだけなんだよね。で、これも「なんで?」って言われるととても答えに困るのだ。「いや、自分がこうなればいいなと思う世界にしたいと思うから」というのがとても「いい子ちゃん」の答えなんだろうけど、じゃ、なんで「女性差別」と「被爆二世」に関してはそう思わないの?って言われると、分かんないんだよ(苦笑)もう、なんというか「やりたいからやる」としか言いようがなくてさ。

だからフェミニストの人が一生懸命「わたしは○○だから、△△のような問題意識を持つのだ」と表明しても「あ、そう。だから何やるの?」って思っちゃうんだよね。その「なぜわたしはこの問題に問題意識を持つのか」を考えるヒマがあったら、それをどうすればその問題が解決できるかを考えた方がいいと思うんだけど。。もちろん、フェミニズムが全く社会に対して影響を及ぼしていないとは考えてないけど、どうも「頭のいい人がゴチャゴチャと言葉をひねくりだしてなんか言ってるよ」としか頭の悪いわたしには思えなくてね。「やりたいからやる」だけじゃなんでいけないんだろうか?って思ってしまう。

で、わたしは当事者ではないんだけど「在日コリアン」の問題と「HIV/AIDS」の問題はとても興味があるわけね。これも「なんで?」って言われるととっても困るんだけど(苦笑)「HIV/AIDS」の問題は、去年のNLGRに行ったときに「あ、そうか」と思ったのがきっかけではあるね。で、「性的少数者の問題の一つ」であるから、というのもあるかも知れない。けど、そんな理由はあとから取って付けたような理由で、本当は「興味があるから」なんだよね。ただ、「HIV/AIDS」に対しては、当事者と当事者と関係を持つ人にとっては何かできる分野ではあるが、わたしのような「無縁」な人間にとっては実は何もやることがなかったりする。ま、活動のための資金を援助する、くらいか、できることは。でも今は自分の生活さえやってくのが精一杯だから、今んとこはそれはできない。だから、わたしができるのは「興味を失わず、正しい知識と最新の情報を得ること」だと思っている。

それから「在日コリアン」の問題ね。これはもっと広げて「在日外国人」の問題でもいいんだけど。これは、本当に自分でも「なんで?」って思う(笑)だって、今まで在日コリアンの人に会ったこともなければ、話したこともない。あ、ネット上の付き合いはありますけどね。わたし、シドニーでたくさんの韓国人留学生と出会って、んで「ああ~、隣の国のことなのに何も知らないな」と思ったのがきっかけで、んで、韓国という国と、それから「ああ、日本にも韓国系の人が住んでるじゃん」と思って、軽い気持ちでmixiの「在日コリアンコミュ」に入ったのが、まぁ直接的なきっかけといえばきっかけなんだけどね。そこで「韓国に住んでいる韓国人」とは全く状況が違うってことがよく分かって、それで興味を持っただけなんだけど。でも「在日差別」や「外国人差別」って部分的には「性的少数者差別」と似ている部分があるのね。ま、それをいっちゃ、あらゆる差別は「ある程度共通性がある」わけだけど。だけど、差別の背景が個々に違っているので、全く違うこともあるので、当たり前と言っては当たり前だけれども、一つの差別問題に対しては、それに対応する解決方法を考えなきゃいけない。

でもね、この世にはたくさんの「差別」ってのがあって、それに対する個別の対応はされているわけで、その「個別の対応」の中にもしかしたら「性的少数者に対する差別」にも当てはまるようなことがあるんじゃないかな、とも思ってて、そんで知りたい、と思っている部分もある(笑)

ってわけで、昨日、この本を読み終わったあと、彼女に「やっと分かったよ!」と力説したわけなんだけど。だけどこれから「ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱」っつー、すんげー有名なフェミニズムの本を読む予定で(爆)

これ、昨日ちょっと読んでみたんだけど、1ページ読むのに5分くらいかかる。しかも、やっぱり意味が分からない。。ってわけで、もしかしたら途中で投げ出すかも知れないと今から感じているわたし(苦笑)○○論的とか、○○学的とか、○○主義とか、はっきりいってわけ分からない単語がずらずらーっと並んでて、まるで日本語じゃないみたいだ。。その分野の人には当たり前の用語なんだろうけどさぁ。
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08-04 Sat , 2007
ついにBAdiに手を出した(笑)
一体、留学前になにやってんのか、って感じだけど(苦笑)

「薔薇族1号」を読み終えた。そこで気になったのが「ヤマジュン」(山川純一)のマンガ。ゲイエロマンガなんだけど、突っ込みどころ満載で「萌える」よりは「笑える」マンガだった。あ、ゲイエロマンガでは、レズビアンは萌えないか(爆)

1号では「なぜセックスしてるときに、じいが横で座って見てるんだ!」とか(これは彼女の意見。わたしは「やんや やんや」ってところが「?」だった(笑))、2号では「息子は裸でパンツはいて寝てるのに、なぜ義父は浴衣姿でパンツはいてないんだろう」とか。。

以前、まめたくんに「『やまじゅん』で検索してみると、ネットでいっぱい載ってますよ~」と言われたので(まめたくんはなぜ、このことを知っているのだ!!(爆))、ちょっとぐぐってみたら、発見。全ては読まなかったけど、お、おもれー。。ええ、たくさん「これ、どういうことなんだよー!」って突っ込み入れながら読んでた。

で、これを読んでいると「さて、今のゲイ雑誌に載っているマンガはどんな風になってるんだろう?」って思えてくるから不思議。。んで、実はうち、彼女がなぜか「BAdi」(今、一番売れてるゲイ雑誌)を毎月買っているので持っている。。今まで「げー、こんなの気持ち悪くて読めない」って拒否してたけど、好奇心には勝てなかったので、BAdiのマンガを読んでみた。あ、マンガ以外のエスムラルダさんの連載とか、大塚さんの恋愛相談も読んでみた(笑)そこはわたしにでも読めた。結構興味深い。。っていうか、エスムさん、アニオタだったのかしら。串田アキラなんて、すんげー、懐かしいじゃん。「ザ・ブングル」だよ(もちろん、これだけじゃないけど、わたしがすぐ思い出したのはこれね)。

あとわたしが読んだ号では「腐女子」についても書かれていた。腐女子って、極めると(それでも5合目辺りだったか)ペットボトル同士の恋愛とかさせてしまうらしい。。なんて想像力が豊かなんだ!!とちょっと感動。。(笑)

エロマンガの方は、、一部を除いて読めた。読めなかったのは「SMがらみ」のマンガで、これは例え、レズビアンものでも、男女ものでもわたしは読めない。SMって嫌いなんだ~。なんていうか、Mの人がバカなんだもの。「いやん、こういうことになったらどうしよう」なんて思ってて、自分からそっちの方に行くという、、「お前、バカか!!」って怒りたくなるのよね。。あとわたし、SMの趣味(SMは嗜好です)は持ってないので。。だいたい「O嬢の物語」でさえ、最初しか読めなかった。。orz

なんてーか、Mの人に怒りを感じるのよね、読んでると。ホントはMの人の誘導でコトが進むらしいんだけど、それがどうも受け入れられないんだと思う。。「わたしだったらこうやって抵抗するのに」とか、つい、考えてしまう。。

で、ほんのちょっとしかまだ読んでないんだけど、絵柄が結構多種多様。な割に「ゲイセックス」=「アナルセックス」なの?って感じもした。まー、それだけじゃなかったところもあるけど。っていうか、セックスシーンが全くないマンガもあって、それはそれで驚いた。ゲイマンガって結構進んでるのね~。あと、四コマ漫画の「虹色サンライズ」、かなり笑えた。「うごめくゲイとレズビアンの会、アガー」って。。(爆)レズビアンものでいうと「プリカちゃん」みたいなものか?

まー、アダルトマンガはセックスシーンがつきもので、、これまでわたしはいわゆる「レディースコミック」や「レズビアンエロマンガ」(雑誌名忘れた(^^;)なんか読んだことがあるけど、どれもワンパターンだよね。。ま、男女ものは「挿入」→「射精」で終了、なんて感じだし、レズビアンものはなぜか「貝合わせ」が多い。うーん、これって「ゲイエロマンガ」=「アナルセックス」と同じ図式なんだろうか??他のレズビアンカップルがどんなSEXしてるかは全然知らないけど、多分、レズビアンって人それぞれだと思うよ、SEXの仕方。個人個人、どこが気持ちいいかなんか、違うもの。。(多分、と付けておく(爆))「女の身体だから、女が一番知っている」とか言われるけど、そんなん知らないって!女はみんな、一緒じゃないんだから。多分、SEXって、どこをどういう風にすると気持ちがいいかってことを話しながらじゃないと分からない部分があると思うんだけど。。違うかな??

あ、男のことについては、わたしは全く知らないので。。何ともいえません(爆)

ってことで、ホントに留学前でしかもパレード前ってのに、わたしは一体なにしてるんでしょう??

。。。楽器、練習しなきゃ。

【追記】「レズビアンエロ雑誌」として有名だった「カーミラ」ですが、わたしはあれは1号しか読んでません(笑)「ANISE」は全巻持ってるけど、、「カーミラ」は合いませんでしたね~、なぜか。
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07-16 Mon , 2007
彼女が「薔薇族」を読みながら、揉んでくれました
ええ。昨日は一日、休んでました。最近動きすぎたんで。

で、題名のとおりです。彼女が「薔薇族」を読みながら「昨日トロンボーンを吹きすぎて筋肉痛になった腕を」揉んでくれました。

っていうか、なんで「薔薇族」かというと、

薔薇族は生きている032●七夕の夜、20名との新たな出会いがありました。

ですね。ここでは「印刷中」になってますが、実はもうできあがってます(笑)
これ、買ったんです。あー、もちろん、うちの彼女がです。1部900円です。
わたしは普通、コレ系にはとても弱いのですが(実際、BAdiは読めません。。orz)、この薔薇族は読めました。とても興味深く。日本の同性愛の歴史が分かる、と言っても過言ではないでしょう。かなり勉強になります。でも薔薇族が創刊されたのって'71年(昭和46年)、ってことは、カープの前田が生まれた年(←だからなんで、こういう考えになるんだよ(^^;)なんだよね。なんというか、、ずっと古くからあるものだと思ってました。うちにあるのは2号だけなんだけど、これ読むと1号も読みたくなってきました(笑)

ってこんなもの(←失礼!)買って、読むレズビアンカップルっているのかなあ~?と少々疑問はないこともないけど。でも、ホント、面白いです。

ただ、ちょっと気になった表現がいくつかあったのは確かです。「国営放送」って書いてあったけど、あれは「公共放送」の間違えだろ、とか(NHKはよく「国営放送」と呼ばれますが、半官半民なので「公共放送」なのです)。でも、もしかしたら外国の「国営放送」を差している可能性もなきにしもあらずだけど。あと、陸軍士官学校(と書いてあるんだけど、陸上自衛隊だよねえ?)、って制服カッコイイか?とか(わたしは海上自衛隊の方が絶対に制服はカッコイイと思ってる)。まーしかし、藤田竜って人がいろいろ活躍してたみたいなんだけど、彼の文章読むと、どーも橋本治の書く文章によく似てるなあーって思いました。もしかしたら「藤田竜=橋本治?」って思ったけど、あの当時は、多分、治ちゃんは21歳なので、かかわってないだろうし、藤田竜の描く絵も治ちゃんのイラストとは全く違うし、これは別人物でしょう。治ちゃん、まさか薔薇族読んでたってことないよね。影響受けたってことないよね(苦笑)

ホント、この本、オススメです。

しかし、腕が筋肉痛(というか、ものすごく凝っている)ので、しばらくトロンボーンの練習ができないよー(泣)
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03-22 Wed , 2006
ニューヨーク・ニューヨーク
これは本じゃなくて、マンガだけどよかったので感想を。
このマンガを知ったのは、マイミクさんに紹介されたので。一種のBL(Boys Loveの略ね)もの、と呼べるかも知れない。本物のBLってのは実は読んだことがなくて、どういうものかは知らないんだけど、このマンガは割と等身大の同性愛者として描かれているんじゃないかなあ、だから、マイミクさんも紹介してくれたんだと思っている。本当は全4巻らしいんだけど、文庫版を買ってきたので全2巻。すぐ読めた。

第1巻目は主人公と恋人になる人の出会い。主人公は今まで特定の恋人を作らない、「ワンナイトラブ」だけの人。しかし、あるとき「理想が服来て歩いている」と出会う。要するに主人公の一目惚れ。恋人となる人は「ワンナイトラブ」を嫌う人。最初はバーで知り合うが、家に帰って話をする、というところから恋は始まる。

ところがこの主人公、職業は警察官なのだが、全くのクローゼット。(いや、本当は一人だけゲイバーで見かけた同僚がいるのだが、お互いの暗黙で何も言わない)みんなに知られるのを極度に畏れている。

恋人の前歴を聞きたがったり、それに嫉妬する部分なんて、もう、共感以外の何者でもない。だって、わたしもそうだったから。何年付き合った人が一番長いとか、聞くところでは、もう笑えるほど。わたしも彼女の中の一番になりたくて、仕方がない。彼女は「もうとっくに一番だよ」と言ってくれるけど。。やっぱり誰よりも長く付き合っている人になりたい。(わたしはあと1年!)

そして、主人公と恋人は一緒に暮らすことになる。そこで問題になるのが、家族へのカミングアウト。両親(特に母親)は「彼女ができたら連れてきなさい」というのが口癖。それが息子が連れてきた人が男だったら。。彼は悩む。でも彼は両親に電話する。「今度、彼氏を連れて行く」と。

恋人は恋人で複雑で陰惨な過去を持つ。主人公は彼の元彼からそれを聞いて知ってしまう。

実家に帰り、恋人を紹介する主人公。父親は受け入れてくれるが母親は受け入れてくれない。息子がゲイだと言うことが信じられない。この場面も想像でしかないが、何となく分かる。わたしも自分の彼女を「彼女だ」と紹介したら、母親はなんと思うだろう。こういう場合、父親より母親の方が拒絶感が強いのではないかと推測される。特に親が子供に対して「自慢の子供だ」と思っているほど、拒絶感が強いのではないだろうか。(ああ、だからわたしは両親に彼女を紹介できないのだ!)

あれこれあって、結局は母親に受け入れられる恋人。(うらやましい。さすがマンガだ)そして彼らはニューヨークの自宅に戻っていく。

ここまでが1巻目。2巻目は恋人が犯罪に巻き込まれ、行方不明になるという話で、あまり同性愛者としてのことは描かれていない。(こともないが)事件は解決したが、恋人は監禁されたときのことを思い出し、なかなか立ち直れない。そこで主人公達は、ニューヨークを離れ、両親の元、ボストンに行くことにする。そこで彼らは養子縁組し、そして、養子をとる。

この話は、自分の中にあるホモフォビア、外の人達にあるホモフォビア、既婚者の恋、そしてエイズ死、同性愛者に関連する話がたくさん出てくる。しかし、全体に主人公と恋人は愛で貫かれ、それが救いになっている。なんともうらやましい話でなおかつ、自分たちもそうでありたい、と思わせるようなマンガだった。

紹介してくれたマイミクさんに感謝!
10:44 | (性的少数者)本のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
03-16 Thu , 2006
相変わらず
昨日も相変わらずの一日だったよなぁ。。午前中は眠るまいと思ったのに、結局寝ちゃったし、昼ご飯食べたあとも眠いというんで寝ちゃったし。昨日は一日中眠くて、夜も割と早く寝た。(寝たらその分早く起きて5時半に目が覚めた)

彼女はね「それだけ寝てても、最低限のことはできてるからいいじゃないの」って言うの。まぁ確かにね、朝食と昼食はいつも決まったものだけど、自分で作って食べてるし、洗濯もやってるし、夕食の後片づけも昨日はちょっと(というかだいぶ)手伝ってもらったけど、いちおやってるし。でも、それでいいのかな~って思うんだよね。もっと掃除機掛けたり、勉強したりしなきゃならないんじゃないかなって。勉強の方は、完全にうっちゃっている。なんかやる気出ないしね。無理にやることもないかと思ったりもするし。。あー、今度の診察で言ってこよう。今度の診察って明日なんだけど。(笑)

昨日書いた「カミングアウト」って本、読み終わった。なんというか、読み進めるほど気分が「どよーん」となってくる本だった。っていうのは、あまりにも問題が山積しているから。二人で賃貸住宅借りようとしたら「そこは親族じゃないとダメです」と言われたり、じゃあ、ってんで家を買おうとしても共同名義にはならない。片方のものだけになるので、もし、名義人が死んだら、片方は出て行かなきゃならない。公正証書を作っても、遺留分として親族にそれなりのお金が行ってしまう。。片方が病気になったとして、手術が必要って事になっても、自分を越えて、親族の許可が必要になるし、病状の説明なども親族に対して行われる。まぁ、分かってたことだけどね、そんなこと。でもこうやってずらずらと問題点を挙げられると「これだけの問題をクリアしていかなければならないのか」って思っちゃうのよ、どうしても。そういう意味でちょっと読んでてつらかった本だった。それをなんとかしなければ、という気持ちで著者は書いてるんだろうけど。もうちょっと自分の意識を高めないといけないのか、それとも何か活動をした方がいいんだろうか。悩むところ。といっても、今は自分はそれどころではないんだけどね。。まぁ「できることからコツコツと」やるしかないでしょうねえ、これは。

そういえば、昨日の夜、mixiでなぜか、外国人からメッセージが届いた。最初のメッセージが「How are you? kiss kiss」とか書いてあったから、無視しようと思ったんだけど、まぁいちお、返事を出した。もちろん「日本語」で。「いいたいことがわかりません。にほんごでかいてください」ってね。わざわざひらがなで書いてあげたのよ。そしたら翻訳ソフトを使ってるから漢字で書いてくれって。で、なんでわたしにメッセージが来たのか、profile読んだのか、と聞いたらなんか、東京の友達が欲しいとかで、「あなたはレズですか cool」とか書いてあったから、もーこやつ、どうしてくれよう、と。寄りによってなんでわたしにメッセージくれたんだろう??東京に住んでいる人はそれこそうようよいるのに。まぁ、もう眠かったから、適当なところでさよならしたけど。ホントに全く。。。最後まで「kiss kiss」だから、こいつ、ホントに分かってるのか?って感じ。わたしゃ疲れたよ。。

ってことで、明日へ続く。。(何が続くんだか)
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03-15 Wed , 2006
普通の日
普通の日が戻ってきた。相変わらずほげほげな一日を送っている。英語の勉強ちっともやる気にならないし。でも本来考えるに、うつじゃない頃の自分も英語の勉強を毎日、これだけやろうと決めてできるわけじゃないんじゃないだろうかと今ちょっと思い始めている。いや、言い訳じゃなくてね。勉強ってやっぱやるのやだし。

その中で、今、読んでいる本がある。「カミングアウト―自分らしさを見つける旅」「同性パートナー―同性婚・DP法を知るために」だ。「遅ればせながら」と言った方がいいかもしれない。この本は前々から読んでみたかったからだ。前にも書いたけど、今度4月にある「レインボートーク2006 同性パートナーとライフスタイル」に参加してみたくて、それで呼びかけ人である尾辻さんの著書と同性パートナー法を勉強してみようかな、と思って、彼女に買ってもらった。今は「カミングアウト」の方を読んでいて、もう一気に半分以上読んだ。「同性パートナー法」の方は、若干、知っている人やmixiで名前を見たことがある人も入っていたりして。。まだまだそういう面では呼びかけ人って少ないんだよね。その分、関心を持っている人達が参加しなきゃ。地方は何とか動いても、国は動かない。

そして、昨日、にこさんが作った「【同性カップル】今、できる事」のコミュニティにも参加することにした。同性婚はすぐには無理そうだけど、今ある法律の中で、何とか2人で生きやすい世の中にしていきたい、そう思ったからだ。公正証書等には大いに興味がある。でもね、本当に一番大切なのは、親にカミングアウトすることなんだよね。。それが今のわたしにはどうしてもできない、というか勇気がない。これはわたしの課題。彼女と住む中で、時がそれを解決してくれるだろうか。。

あとは最近、ヘテロの友達が欲しくって「1968+」ってコミュニティにも参加している。mixi内って、同性愛者でカミングアウトしてるから、同性愛者の友達は比較的簡単に作りやすい。ゲイの友達も何人かできた。だけどねー、やっぱりこの世の中ってヘテロが大部分じゃない?だから、最初から「自分は同性愛者です」って宣言しておいて、その上でヘテロの友達を作ろうと。。それで手っ取り早いかなと思ったのが、同年代の人達のコミュニティ。何かと話も合うしね。そこで何人か友達ができれば、それを手がかりにまた、友達の輪を広げることができる。特に「1968+」ってコミュニティは「何も引かない、何も足さない」ってのがキャッチコピーらしいので、わたしみたいなのでも受け入れてくれるかな、と。もう既に1人、マイミクになってくれた人もいるし。

こうやってどんどん自分が暮らしやすくしよう、と思っている。ほげほげしている割にはいろいろ考えてるでしょ?(笑)
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