02-22 Sun , 2015
こうやって自分を励ましていたんだ
昨日、なんかふとした拍子に昔アニメファンだったときに集めたアニメのオープニングやエンディングを入れたカセットを聞いてみた。カセットは主に中2のときから中3にかけて録音したもの。その当時はビデオなんか持ってなかったし、これがわたしのできる精一杯だった。カセットも貴重だったので、同じカセットで何度も録音して。。テレビとラジカセをラインで繋いで録音してた(さすがにラインを繋ぐ知識は持ってた)。

このようにして録ったカセットは2本あるんだけど、以後、繰り返し繰り返し聞いた。今聞き直してみると、やはり劣化しててモゴモゴという音になってしまってて悲しかった。。

で、昨日聞いてて(と言うか一緒に歌いつつ)、中学校、高校の時に嫌なこととか不安なことがあったときに自分を勇気づけるために歌ってたよなあって思い出した。それがこの2曲。



ヘイヘイヘイ 誰がなんて言ったって
すべてうまく ゆくさ明日
だから笑って 笑って groovy
You make me groovy ともに騒ごうぜ





誰でも最初は 怖いと思うわ
そうよそれでも みんな旅立つ
大きな 夢が胸にあれば
ほら 夜明けがまぶしく染まるわ
それが冒険 力の限り
あなたの翼が 遠く輝く



上が「銀河烈風バクシンガー」のエンディング曲で、下が「トンデラハウスの大冒険」のエンディング曲。わたしは大抵そうなんだけど、オープニングの勇ましい曲よりもエンディングのしみじみした曲の方が好きだ。オープニング曲は勢いはあっていいんだけど、歌ってると「これは、戦うことを正当化してないだろうか」っていつも思う。。

歌詞はこの歌の中の一部ね。これを見てもらえば分かると思うけど、わたしはなんか物事がうまくいかないとき、友人との関係で悩んでるとき、なにか緊張することがあることの前とか、この曲を風呂場でシャワー浴びながら歌ってた。これを歌うことによって、自分で自分を「大丈夫、大丈夫、なんとかなる」って励ましてた。

そういうことをふと、思い出してね。。なんかその当時の自分の姿を思い浮かべて泣いちゃった。ああ、こうやって自分自身励まして頑張ってたんだなって思って。

今でも物事、うまくいかないことが多々あるけど、歌を歌うことはもうないなあ。。もう自分自身を励まし疲れたってのがあるかも知れない。

おまけ。



今を悩んで 明日を夢見て
流されていく あなた町にひとりぼっち わたし何もせずに見ているだけ
何かがあると信じているが あなた自身が選んだことよ
明日がもし明日が ないと知ったら
あなたは そうよあなたは どうするかしら
今がそのときかも Get up now time now time for me
明日を夢見るなら Get up now time now time for me
やがて来る 幸せが 明日こそ 繋がるの
すべてすべてすべてすべて今
Now time for me now time for me



これは「メガゾーン23」ってアニメの中の挿入歌で「Tomorrow Blues」って曲。歌詞については、わたしが覚えてる限りだから、もしかしたら間違ってるところがあるかも知れないです。「メガゾーン23」ってテレビ放映も映画上映も何もなく、ビデオでのみ発売って、当時にしては(わたしが高2だったっけ?1985年です)かなり高飛車な戦術だったと思うけど。。もちろんわたしはこんな高価なビデオは買えず、友だちから借りて見ました。

もう中身についてはほとんど忘れてしまったんだけど、一つ、強烈に覚えてるところがあってね。それがこの挿入歌の部分なんです。登場人物についても細かいことは覚えてないんで、もしかしたら間違ってると思うけど、このアニメの主人公の一人である「時祭イヴ」っていう人は、人間じゃなく、確か今でいうと「初音ミク」みたいな感じ?作られた虚偽の人物だったと思う。彼女はアイドルなんだけど、次第に時の支配者によって「戦うことを賞賛する」歌を歌わされる。これがその歌です。新宿のALTAの大画面に、軍服を着せられた時祭イヴが出てきてこの歌を歌う。そういうシーンがこの作品にあります(だからといって「メガゾーン23」自体は反戦アニメということはなく、普通に戦うアニメだった。ただ、最終的に主人公側が負けるという結構珍しいアニメではある)。

見てたあの当時はただ漠然と「怖いな」って思うだけだった。

けど、今、それがもっと身近な怖さになってる。あれは作り話じゃなく、現実に起こりうることなんだと。

この曲は「軍隊に入りましょう」と勧めている曲だ。

「明日がもし明日が ないと知ったら あなたは そうよあなたは どうするかしら 今がそのときかも」というのは、「敵が攻めてきて明日がないと知ったら、あなたはどうするの?今がそのときなのよ、軍隊に入って戦いましょう」と言っているのだ。怖い、あまりにも怖い。今、自衛隊の縛りがどんどんなくなっていってる。集団的自衛権の行使で同盟国に何かがあれば、政府は「今がそのときです!」って言うに決まってる。「明日を夢見るなら、今、立ちあがって戦わないと!それが将来の幸せに繋がるんです!」って言うに決まってる。でも権力者や金持ちは自ら戦場には行ったりはしない。行かされるのは、権力も何もない、一般庶民。

怖い。あまりにも怖い。

そして、このような世界になったのは「あなた自身が選んだこと」なのだ。
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02-25 Tue , 2014
人間には誰にでも何かとの出会いがあるはず
あんまりこういう感じの題名は好きじゃないのだが(笑)

ただ、今回の日記は、書くことが決まっている割にはどういう題名を付けていいのか分からない。最初は「うつが治った言葉」にしようかと思ったんだけど、確かにこれはわたしはその言葉で1回目のうつ病が治ったと思っているだけで、別に誰でもその言葉で治るわけじゃないからね。次に「人生を変えた言葉」を考えたんだけど、まぁ確かにうつ病が治って次の一歩を踏み出したわけだから、わたしの人生はある意味変わったのかも知れないけど、普通「人生を変えた言葉」ってあんまりそういう意味じゃないような気がしたので却下した。というわけで、あんまり妥当な題名が思い浮かばないまま、今に至る、、

前の日記で「神さまってなに?」という本の感想を書いたのだけれど、その本の中に、一箇所、こういうところがある。

 それは今から10年ほど前の話になるけれど、長く海外を放浪していた友人が、やっと日本に帰ってきた。久しぶりに会って驚いた。出発する前は多くの日本人と同じように特定の信仰を持たなかったはずの彼が、とても敬虔なクリスチャン(キリスト教徒)になって帰国したからだ。
「旅の途中、スイスとフランスの国境近くの村を通ったんだ」
 友人は言った。
「雪をかぶったアルプスの山なみがすぐそばにあって、小さいけれどとてもきれいな村だった。集落のはずれに古い教会があった。ふと中を見たくなった。それでもいろんな国で何度も教会のそばを通ったけれど、そんな気分になったことは初めてだ」
 教会に近づいた友人は、頑丈そうな木の扉を押した。たぶん鍵がかかっているだろうと思っていたのだけど、軋んだ重い音を立てながら、扉はゆっくりと開いたという。
「広い礼拝堂だった。でも誰もいない。しーんと静まり返っている。祭壇のほうに近づきかけたとき、突然パイプオルガンの音が、礼拝堂の中に響いたんだ」
 語りながら友人は、視線を宙に漂わせた。口もとはかすかな笑み。たぶんその瞬間を、思い出しているのだろう。
「パイプオルガンが鳴り始めるとほぼ同時に、ステンドグラスから夕日が差し込んできて、僕は陽の光に包まれた。パイプオルガンは荘厳に鳴り続ける。バッハのミサ曲だ。そのときにはっきりと感じたんだ。神の存在を」
 パイプオルガンが突然鳴り響いた理由は、友人より少しだけ早く来ていた教会のオルガン奏者が、明日のミサのために練習を始めたからだ。友人はオルガン奏者がいることに気づかなかった。誰もいないとばかり思っていた礼拝堂で、突然パイプオルガンの音が大音量で響き、驚く友人の視界に、西の空に沈みかけた夕陽の光が、ステンドグラスの窓から差し込んできた。
 言葉にすればそういうことだ。別に奇跡でもなんでもない。でも友人はその瞬間、生まれて初めて味わうほどの激しい感動に身を包まれたという。たったそれだけの偶然が重なっただけなのに、まるで湧き水のように涙が止まらなくなったという。
「・・・・・・愛されていると感じたんだ」
 首をかしげる僕に友人は言った。
「言葉の説明だけじゃ納得できないだろうな。でもその瞬間に確かに感じたんだ。愛されている自分を。そして赦されている自分を。いろいろ悩んだり考え過ぎたり考えが足りなかったり失敗ばかりしている自分を、いつまでもどこまでも肯定してくれる存在を。おまえはそれでよいと抱きしめてくれる存在を」

わたしさぁ、ここのところを読んだら涙が出て来たんだよね。わたしにもこんなことがあったなあと。こういう気持ち、すごくよく分かるなあと。ただ、わたしの場合は宗教との出会いじゃなかった。だから宗教の出会いだけじゃなく、別の出会いでも人はよくこんな思いをすることがあるような気がする。

わたしの場合は、言葉だった。わたしはそのとき、うつ病で実家にいた。あるとき何気なく一人でテレビを見ていた。それは「知ってるつもり」っていう番組で山本周五郎が取り上げられていた。あの番組は最後の最後、その人が言ってた言葉が紹介されるんだったと思う。そこに出てきたのが、

「絶望」とは人間だけが持つことのできる黄金である。

という言葉だった。

わたしはそのとき雷に打たれたようになった。「人間だけが」というのは、わたしにはあんまり問題じゃなく、絶望は黄金なのだ、ということが頭の中をぐるぐる回った。

わたしはそのとき絶望していた。目指していた研究者は嫌になり、でもこの先何をどうすればいいのか全く分からなかった自分。同性愛者であることは特に悩みはしなかったが、これから同性愛者という「少数者」して生きていかなければならない自分。うつ病である自分。まだ20代だったけれど、わたしの人生はこれからずっと絶望しかないと思っていた。

それが、その絶望は実は黄金なのだ、自分の心の中は真っ黒だと思っていたその中に、実は黄金がかすかに光っているのでは、と想像したときに例えようもない気持ちが湧き起こってきた。絶望は持っててもいいんだと思った。わたしはこれから先もずっと絶望感を抱えて生きていくことに絶望を感じていた。でもそれはもしかしたら絶望ではなく自分にとって大切なものになり得るものなのかも知れない。あとで考えるとそんな感じだったんだと思う。が、そのときはとても感覚的なもので、言葉に言い表しようがないものだった。この上で引用した森達也の友人の言葉で言うと「赦されている自分」に近い感覚だったのかも知れない。とにかく真っ暗だと思ってた中に何かがあるんだ、それだけでとてつもなく心が動いたんだよね。

そしてわたしはその言葉を繰り返しながら外に出た。細かな季節はもう忘れてしまったが、多分夏の初めか夏だったんじゃないかと思う。川沿いに背丈ほど草が伸びている場所に行って(なんでそこに行こうと思ったのかは分からない)草をかき分けながら、何回も何回もその言葉を噛み締めた。今でもそのことはよく覚えていて、目の前にその風景が浮かんでくる。

ただ、だからといって瞬間にうつ病が治ったとは思えない(当たり前だ)。けど、その言葉を知って以降、わたしは変わったと思う。

あのときはまだ世間に今ほど「うつ病」というものが知れ渡っていなかった。わたしは病院に行ってうつ病と診断されて(というか「軽いうつ」って言われた。'94年頃だったかな。。)薬が出された。最初に出された薬は全く効かなくて、次に出された薬は頭がクラクラしたんだよね。それを親に言ったら、親は「そんな薬飲んだら怖い」って言って、わたしから薬を取り上げちゃった。だからその当時、わたしはうつ病だったのに薬は全く飲んでなかった。あ、だからといって、わたしは「薬を飲まずにすべてのうつが治る」とは思ってない。たまたま、運が良く、薬を飲まないでもよかったってことだと思っている。2度目のうつは身体症状から先に出て、それは薬じゃないと治らなかったと思うし、適量飲めば、薬は悪いことはないと思っている。今だってずっと飲んでるしね。

ただ、だから「人生を変える言葉」ってあると思うのだ。そして、それはもしかしたら、人と宗教が出会うときと似てるのかも知れない。少なくとも、わたしは上の文章を読んだとき、自分のこのことがパーッと思い出された。「ああ、多分あんな感じだ」って共感できたのだ。もちろん、そういう出会い方をしなかった信者もいると思うけどね。

でも面白いのは、あのとき、わたしは本当に本当に苦しくて「何かにすがれるものならすがりたい」って何度も思ったのよ。けど、結局は何も信じられなかった。あ、別に具体的に神社や寺に行ったり、教会に行ったりしたわけじゃないけど。。あのとき行ってたら何か変わったかも知れないね。でも、わたしは行く気がしなかった。森達也の友人が「ふと(教会の)中を見たくなった」という「そのとき」じゃなかったんだと思う。けどその代わり、わたしは「言葉」と出会えた。その言葉に対しては「そのとき」だったんだろうとわたしは思う。

けど、その言葉の効果も今はないねー(苦笑)あの言葉は今のわたしには全く心を動かされないものになってしまった。まぁ仕方がない。あれから2度3度とうつ病を繰り返したから言葉も効力を失ってしまった。前の日記に書いたとおり、今のわたしは「生きたい」って思ってないけどさ、積極的に死ぬことも考えてない。生きててあんまり楽しいとかよかったとか思うこともないけど(前向きな言葉は大嫌いだ)、「自分を責めるのは止めよう」って思ってからは、結構楽に生きられるようになった。今はそれで十分だって思ってる。

ちなみに。山本周五郎はいつ、どこであの言葉を言ったのか。それがすごく気になってね。いろいろ調べた結果、「泣き言はいわない」(新潮文庫)って本に載ってることが判明した。ところがそこには

「絶望」は人間だけがもつことのできる黄金である。同じ意味で「酒」とよく似ている。
(断片-昭和25年のメモより)(34p)

って書いてあった!えっ、ちょっと待って。続きがあったの?しかも「絶望」と「酒」が一緒になってる。おーい、わたしは酒が黄金とは思わないよー(笑)わたし、そんなにお酒好きじゃないし。知らなければよかったと、調べたあとに思ったのだった。
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09-02 Wed , 2009
Night Birds
んー、最近、割と聞いている曲。SHAKATAKの「NIGHT BIRDS」。超有名な曲だと思うけど、最近の若い人は知ってるかしら、この曲。

何がきっかけでわたしが知ったかは知らないけど、高校の時、この曲を吹奏楽部で吹いた。トロンボーンパートは結構かっこよかったので、好きだった。

それから何年か経ち。就職試験を受けた頃だから、29歳のときか。二次試験の面接が終わったあと、急にこの曲が頭の中を駆け巡った。すごく聞きたくて聞きたくてたまらなかったが、吹奏楽のデモテープは自宅にあり、自宅から遠いところで試験を受けたわたしは、仕方がないので、試験が終わったその足で、CDを買いに行った。

で、初めて本物の曲を聞いたわけだけど。

びっくりした。あの「カッコイイ」トロンボーンの旋律がなかった。。あれはすべて編曲だったのだとそのとき初めて知った。しかも、この曲、フェードアウトで終わってるのね。吹奏楽の曲がフェードアウトで終わるなんてことはないので、そこのところも編曲だったんだ、ということを初めて知った。要するに、確かに旋律はこの曲なんだけど、細かいところでわたしが好きだったところは、この曲には全然無くて、初めて聞いたときはすごく唖然とした。

とはいえ、何度も繰り返し聞いたので慣れたけどね。

今、再び、この曲が聞きたくて仕方がない。

あのとき、なぜ、急にこの曲が聞きたくなったのか、わたしにはよく分からない。んでもって、今、急にまたこの曲が聞きたくなったのもわたしはよく分からない。っていうか「終わってから聞くべきじゃないのか(謎)」という気もしてるんだけど、結局我慢できなくて聞いてしまっている。

別にこの曲を聞いて何を思い出すわけでもない。あ、でも吹奏楽のデモテープは、この「NIGHT BIRDS」の次に「松田聖子メドレー」が入ってたので、自動的に頭の中で松田聖子の曲が鳴り出すことはあるんだけど(爆)んー、音の記憶ってのは、わたしは実はなかなか消すことが出来なくて、スーパーで繰り返し鳴ってる曲とか、そういうのを一旦、覚えてしまったら、ほとんど忘れることが出来ない。繰り返し鳴っている曲って、わたしにとっては「音の暴力」以外のなにものでもない。

一番イヤだったのが、祖父のお葬式のとき、葬儀社の決まりなのかなんなのかよく分からないけど、ずーっと繰り返し繰り返し鳴ってる音楽があった。わたしは「ひえー、覚えてしまうから止めてくれ」と思ったんだけど、まさか言うわけにもいかず。結局、その曲の一部だけだけど、今でも忘れられない。それに似た音楽を聞くと祖父のお葬式の場面がありありとよみがえってくる。。これってわたしが死ぬまでそうなのかな。。(汗)

あ、話が逸れた。

結局、CDを買っても「NIGHT BIRDS」しか聞いてないわたし(爆)You Tubeにあったんで、埋め込もうと思ったら、埋め込み禁止になってた。残念。

http://www.youtube.com/watch?v=rc2Jw3rwjHY&feature=browch
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05-10 Sun , 2009
希望と絶望
昨日の「MILK」を観た感想で「希望なんて儚い夢だ」と書いたんだけど、考えてみれば、わたしって希望は持ってないけど、絶望は持ってる。そのことに気が付いた。いつ、その絶望感を感じるようになったかも。

自分がレズビアンであることに気が付いたとき、わたしは悩まなかったけれども、その代わりというか、自分の中に「絶望感」が生まれたのに気が付いた。それは具体的に何に対する「絶望感」なのかはよく分からなかった(今でもよく分からない)けれども、あの当時「あー、もう自分の中で二度と消えることのない絶望を持ってしまった」と思った。

このことに気が付いて以来、わたしは「自分の中から二度と取り除かれないであろう絶望感」に対してどうしていいのか分からなくなり、多分、それが理由(のうちの一つ。これ以外にも理由はあるのよ)になって、わたしは1回目のうつ病になった。

その当時、まだ学生だったんだけど、とにかく人に会いたくなく、部屋(その当時、一人暮らし)でずっとどうすればいいんだろう、って泣いたり、それから外に出るのが怖かった。今で言う「引きこもり状態」になってたんだけど、だけど、一人暮らしだと、絶対に自分でご飯を作って食べなければならない、ということは、材料をどこかで買わないといけないわけで、もうね、外に出ることが一大決心だったの。何回も玄関に行っては靴を履いて、、でも外に出たくないから「どうしよう」って思って。外がすごく怖かった。

かといって、人とも接触したくなかったから、親からの電話とかも全部出なかったし(多分、電話線ごと引き抜いていたんじゃないかなと思う。その当時は携帯などはなかったので)、あるときとうとう電報なんか来て。でも、即座に捨てたけどね。誰にも会いたくない状態で、外に出られない状態で、本当にどうしようもなかったの。まあ、こうなったらもう絶望感云々じゃなくて、病気よね。

心配した親が上京してきて、わたしを心療内科に連れて行った。そうしたら「軽いうつ病ですね」と言われたんだ。「軽いうつ病って、、、こんなにつらいのに。。じゃあ、重いうつ病って一体、どんなんだろう?」って思ったのをよく覚えている。今では「うつ病」と言われるものは、あの時代は「軽いうつ病」って言われてたんだよね。

薬が処方されて、でもわたしは一人で既に暮らせない状態だったので、仕方なしに親元に行って。で、「薬を飲むと依存症になるから飲むな」と親には言われて薬を飲まずに、ずっと親元で過ごしてたんだけど。あ、学校の方は医者が診断書書いたんで、確か休学になったんだっけな?それともならなかったんだっけ、そこら辺はよく覚えてない。

とにかく毎日ずっと親元で過ごして、実はその当時のことなんてほとんど覚えてないんだけど、たった一つだけ覚えていることがある。テレビで「知ってるつもり」って番組があって、あるとき山本周五郎が取りあげられてたんだけど、番組の最後に「絶望は人間だけがもつことのできる黄金である」という山本周五郎の言葉が取りあげられて。わたしはその言葉を聞いたとき「あ、自分の中にある絶望感はずっと持っててもいいんだ。これは自分の中にある黄金なんだ」、そう思って、この言葉をずっと反芻して過ごした。それ以降はずーっと山本周五郎の作品を読み続けた。

この言葉、どこかの話の中で出てくるのかと思ったら、違うんだよね。「泣き言は言わない」って山本周五郎作品の中で使われた言葉や、メモ書きを集めた本があるんだけど、その34pに載っている。全文は「『絶望』は人間だけがもつことのできる黄金である。同じ意味で『酒』とよく似ている」なんだけど、わたしはこの後半部分についてはよく分からないから、そこまでは覚えてはいない。

けれど、この言葉を知ってから数日間、わたしは自分の頭の中で繰り返し、繰り返しこの言葉を反芻して、そしてずっと「この絶望感は持っててもいいんだ、いいんだ」って繰り返し思って、そしたら、いつの間にかうつが治っていた。薬を使わずに自分で治したんだけど、それ以来、この言葉はわたしの「座右の銘」になった。

「絶望」はあのときから自分の中では決して消えていないと思っている。けれど「じゃあ、具体的に何に対して絶望を感じているのか」というと、うーん、根本はやっぱり「自分は同性愛者だ」ってことになるのかなあ。。そのことについて悩んだことはないけれど、同性愛者として生きるってことは、生活のいろいろな面での「生きにくさ」を感じながら生きていかなくてはならないってことで、それを考えると途方もない疲労感に襲われる。「生きにくさ」ってのは、例えば自分が思い通りに生きたいと思ったら、周囲との摩擦が起きるだろうなってことで、実際、うつ病になったときは、周囲とのかかわること、イコール「摩耗してすり減っていく自分」と感じていたのね。

結局、わたしは「絶望感を持ち続けたままで生きていいんだ」って絶望感を肯定することで生きているわけだけど、そして、もうその「絶望感」からうつ病になったりはしないと思うんだけど、ときどき途轍もない「疲労感」を感じることはある。今はそういうのを誤魔化しながら生きていってる感じなのかな。

ちなみにその7年後くらいにわたしは2回目のうつ病をやったんだけど、まーこれはね、最初は身体の疲れだった。息をしても全然肺の中に空気が入っていかない感じがして、いつも息苦しかった。あー、あとね、この時は仕事をしてたんだけど、やっぱり一人暮らしでね。いつも会社帰りにその日の夕食を買って帰ってたんだけど、あるときから自分が何を食べたいのか、分からなくなったの。何も食べたくない気はするんだけど、まさか、何も食べないわけにはいかず(わたしって、絶対に夕飯は抜けないの)、毎日毎日、デパ地下を同じルートでうろうろ、何回も何回もするんだけど、全然欲しいものが見つからなくて、それで「おかしいな」って思ったのね。

で「あ、これはうつ病かも」と思って、割と早く医者に行ったつもりだったのだが(彼女の見解は違うんだけどね。わたしは病院に行くのを嫌がったらしい)、最初に処方された薬で息苦しさはなくなったの。でも、、そのとき、本当に運の悪いことに異動で別の部署に行かなくてはならないことになって、そこがまた、自分が初めて担当するようなところだったから、本当に一から勉強しなくてはいけなくて、そこで精神的に来ちゃったんだよね、、、これが異動なしで例年と同じに出来てたら、多分、2回目のうつ病がここまで悪くなって回復するまで長引いたとは思わないんだけどね。

2回目のうつのときは、もう自分の中に「絶望感を抱えている」ということが問題にはならなかったんだけど(それだけ絶望感が自分自身になってしまったということもあるだろう)、だから、2回目のうつが寛解した今もわたしは「絶望感」は絶えず自分の中にあるし、やっぱりこれって死ぬまで持ってるんだろうなあと思ったりもするし、逆に「絶望感」をなんとかしたい、ということがわたしの生きる原動力になっているのかも知れないなあと思う。

そうそう、ついこの間まで息苦しさを感じることがしばしばあって「やばいかな?」って思ってたんだけど、空手を始めてからそれは感じなくなった。何がよかったのかはよく分からないけどね。

空手はようやく道着を着て稽古できるようになり、ようやくスタート地点に立てた感じ?
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03-04 Wed , 2009
ヤツが結婚!?
今日、なんでこんな夢見たんだろ、って夢を見た。ま、夢なんかいつもそんなものかも知れないけど。。(笑)

んとね、高校の同級生がいるわけね。で、そいつとは高校在学中も仲がよかったし、高校卒業して大学に進学しても結構頻繁に会ってた。あ、2人きりじゃなくて(笑)、同じ高校の同級生♀3人(わたし含む)と。なんかとても不思議な組み合わせで、普通、♀3人と♂1人だったら「両手に花」どころじゃなく、ウハウハじゃんか、と思われるかも知れないけど、実際は色恋なんかぜーんぜんない、純粋な「お友達」としてのつき合いが結構長く続いたのだった。

♀3人、♂1人でも、全員が重なる部分はなくて、4人とも同じクラスだったことはないし、同じクラブじゃなかったし、でも、その中の2人とも必ず同じクラスで、同じくクラブも2人ずつ同じクラブだったっつー、そんな関係。4人ともバラバラな大学に進学したんだけど、高校卒業して、1ヶ月に1度くらいは会ってたんじゃないだろうか。なんか、4人で「東京見物」してたような気がする。浅草行ったし、浅草から水中バスで浜離宮行ったり、あとはそうそう「東京ディズニーランド」なんかも行ったっけ。あれ以来、わたしには縁がない場所だから、もう20年近く行ってないけどね、ディズニーランド。

ま、4人で揃うときもあったし、3人のときもあったけど、それになぜ集まってどこかに行くのかもよく分からなかったけど、ともかく、そういう時期があった。

ちょい最近、彼の名をネットで発見して「おー、こんなところに名前が載るようになったか」と思ってたんだけど、それが夢を見る原因の一つになってたんだろうか。。

なんかねえ、夢の中で突然、2人で「久しぶりだねー」とか話してて。その前後関係はよく分からないんだけど。でさ、さらに突然彼が「思いがけず、結婚しちゃったんだよねー」と言って、見ると左手の薬指に指輪が光ってて。「あ、そうなんだー。よかったじゃん」なんて、こっちも本気で喜んでて。いやー、よかった、よかった、と思ったところで、その夢は終わったんだけど。

一体、なんであんな夢見たんだろう?

自分は普段、起きてるときは、人が結婚しようがしまいが、その人の自由だと思っているクセに、本当は誰かと結婚した方がいいと思ってるのかなあ、、とか。夢の中で「本気で喜んだ」自分がね、ちょっと意外だったんだよねぇ~。いや、ホントはそいつ、結婚なんかできるのか?ってヤツなんだけど(爆←余計なお世話)、そういうこと思ってた彼が結婚したからってんじゃなくて、人の結婚を喜ぶってこと自体、今までわたしはほとんどそんなことなかったからさ。「あ、そうなんだ」くらいしか思ってなかったからさ。

うーん。。ヤツには突然メールを送れると思う、多分。
けど、こっちはカミングアウトしてないし、ヤツもここから遠いところに住んでいるらしいので、会う機会がない、と思われる。もうメールでカミングアウトはしたくないので、メールを送るのも躊躇しているわたし。

こんな夢を見たんで、ヤツが今、どうしてるのか、すごく気になるところ。
虫の知らせだろうか。
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11-26 Wed , 2008
昨日から聞きっぱなしのこの曲。
聞いたのは小学生の時だから、めっちゃ懐かしい!!

ABBA「Dancing Queen」のスペイン語バージョン




なぜわざわざ「スペイン語バージョン」かというと、小学校の時の友達のお兄さんから借りたカセットテープがたまたまそうだったからってことで、当時はそのことに対してはなーんとも思ってなかった(笑)むしろあとで「英語バージョン」を聞いたとき「なんか変」って思った(笑)

今では、カラオケに行ったら絶対に歌うこの曲だけど、当然のことながら「英語バージョン」でしか歌えない。けど、たまに初めて聞いた「スペイン語バージョン」が懐かしく感じられて「聞きたいけど、どうすればいいんじゃ」と思ったら、姐さんがYou Tubeで探してくれた。

すんげー懐かしい。。かといって、小学校時代のことは何一つ思い出さないけど(爆)、この最初の「アーディナー♪」ってところがホント、聞きたかったのよね。

ということで、昨日の夜からこれ、聞きっぱなし。

しかし、、昨日までABBAがスウェーデンのグループだなんて、まったく知らなかった!だってさ、流行ったのが小学生の頃だもん。外国人=アメリカ人って思ってたもん。なのになんで「スペイン語バージョン」って知っていたのか。。矛盾しとるやんか!!って今思ってもねえ~(苦笑)多分、小学生の頭はそういうところが繋がってなかったと思うのよねえ。。なんせ、アメリカの大統領がカーター大統領ってことは知ってたくせに、日本の首相は小学校5年の時に初めて大平首相って知ったくらいだし。そのくせ、小学校2年の時に毛沢東が死んだのは覚えてるし。パンダが上野動物園に来たのも知ってるし。でも「中国との国交回復」は知らなかったし(ってこれは仕方ないか)。「黒いピーナッツ」は知ってたけど、小佐野賢二も田中角栄も知ってたけど、まさか田中角栄が首相だなんて知らなかったし。コーチャン氏って面白い名前だなくらいにしか思ってなかったし。ピーナッツとロッキードと飛行機がどうしても結びつかなかったし。でも東京都知事が美濃部亮吉とは知ってたし。調布の市長も金子佐一郎って知ってたし(爆)

。。うーむ。小学生の頭って、物事を知らないまま、そのまますんなり受け入れてしまうんだなあ~。

今のわたしからすると、かなり羨ましいかも。大人になってからじゃ「理屈」から入っていくしかないんだよねえ。知らないものを知らないまま、受け入れるってことは難しいよ。だから逆に小学生の時の柔軟な頭の頃に「性的少数者はいる!」と教育する、とか。

。。いや、その方が難しいか(苦笑)
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11-18 Tue , 2008
「東京」へのこだわり
わたしは生まれは東京じゃないけど(笑)、生後3ヶ月くらいで母親の実家から家に戻ってきた、いわゆる「東京育ち」の人間である。

小学校の時から、新宿や渋谷に一人で行くこともあったし(ただ、新宿や渋谷が本当に身近になったのは、高校卒業してから、予備校時代からだった。それまでの学校はすべてバスか徒歩圏内だったので)、親と一緒に新宿で買い物することもあったし、新宿や渋谷、池袋などは「あって当たり前」のものだった。

近所は有名人とか芸能人が結構住んでて(といっても、うちの本当の近所、でなく、隣がねー、ちょうど「高級住宅街」だったのね)、「ここ、○○んち」とか「ここ、△△の社長んち」とか知ってたし、芸能人が普段着姿で買い物をしてるところなんて、腐るほどとは言わないけど、そこそこ見てて「あ、あの人、テレビに出てる姿は割と普通体形なのに、実際はものすごく華奢なのね~」とか親が言ってたし、ドラマのロケなんか、そこら中であった。住んでたところは「七曲署」の近所だったりする(爆)あ、でも「七曲署」自体はどこにあったのかは知らない。って、あの番組もよくできててさ。刑事が走る、で、角を曲がる。曲がった先は、、「え?なんで七曲署に着いてるの?」てなことになってる(爆)

まー、そういうことが「普通」な環境ではあった。

でもね、あるとき思ったのね。「わたしは東京で育ちながら、東京のことはなんにも知らない!」って。「東京人としての誇りがない」とか勝手に感じていて(爆)

てのはですね、わたしが好きだった(過去形?)バンド、「パール兄弟」ってのを浪人時代に知り。その中のサエキけんぞう(呼び捨て(笑))が、千葉県千葉市出身だったのね。で、彼は前の前のバンド(少年ホームランズ)では「メロウ野郎 in 津田沼PARCO」とか、あとはパール兄弟時代では「トロン岬」(近未来の千葉と船橋の中間辺りの情景描写をした曲。とは言っても「近未来」って実は'80年代のことだったりするのだー!「198X」って歌詞があるの)とか、こうなんというか非常に「千葉」への愛着とこだわりを感じさせるもので。

「じゃあ、わたしはこれから東京にこだわってやろう!」と思って、それ以降、しばらくは「東京」にものすごくこだわってた時期があった。といっても、何にこだわってたかというと、まずは「東京」が出てくる曲!「東京音頭」から「大東京音頭」、森進一の「東京物語」(小津安二郎の映画ではないです(笑))とか、あとは遠藤賢司の「東京ワッショイ」、近田春夫&ハルヲフォンの「電撃的東京」(実はこのCDの中に「東京物語」がカバーしてあんの。だから、わたしはこの「東京物語」を本家本元の森進一が歌ってるのは、実は見たことない)とか、とにかく「東京」が出てくる曲を探しまくった。

あとは、、「東京タワー」。
んとね、わたしの大学が東京タワーの割と近く(と言っても、歩いて1時間くらい)だったんですわ。なので、1ヶ月に1度は東京タワーに行く!という目標で、ま、ほとんど達成してなかったと思うんだけど、大学時代はよく東京タワーに行った。んで、別に展望台には昇らないのね、金かかるから(爆)

何をしていたかというと、4階の「政府公報館」で国が作ったテレビ番組見てたり(「よみがえるガラス瓶」ってのがお気に入りのプログラムでした(爆)要するにガラス瓶をリサイクルする話)、「時の動き」をもらって帰ったり、あー、あと「東京電力」のコーナーも4階の一角にあって、手でペダルみたいなのを回して、一定時間(多分1分間)のうちに、どのくらい発電できるか?というゲームコーナーがあったんだけど、それで遊んでたり。要するに、金をかけずに東京タワーで遊んでたってことで。2階の土産物屋さんも、買わないけど、よくぐるぐる回ってたりしたなあ~。ホント、変な東京土産があるんだよねー、あそこって。あ、そうそう「東京タワー鉛筆」は買ったなあ。

ってもう、そのときは東京タワーが好きで好きでたまりませんでしたね(笑)

「東京育ち」てーと、あんまり地元意識ないんじゃないかなって思ったりもするんだけど、やっぱわたしは自分が育ってきた三多摩(これって、要するに都下のことなんだけど)にはすごく誇りを持ってるのね。あと、自分がずっと住んでた「市」に対しては、やっぱ今でも特別な思いはあるね。結構特徴がある市だったので(笑)「人口密度が都下では2番目に高い!」とか、わけ分からんことで自慢してたりしました。「人口密度が高いのはいいことなのか」は別としてね(笑)「市の木」とか「市の花」とか覚えたりね。結構「郷土愛」は強い方なんだよね。。

だから、親が自分の地元に戻ったとき「親がいるところが故郷だ」って言われたときにはめっちゃ、むかつきました(苦笑)だって、わたしにとって、親の地元がわたしの故郷なわけないじゃん!わたしはそこに住んだことなんてないんだからさ。

もう、わたしたちが住んでいたところは、別の人が住んでるけど、でもやっぱわたしはあそこでずっと育ってきたんだよね。そういう意味で「実家」が移動してしまったわたしは、ちょっとつらいところはあるんだよね。

東京でずっと育ってきたって誇りはやっぱ失いたくないよな~って思う。東京が地元の人って、あまりそういうこと考えないみたいだけどね。逆に「故郷がある人は羨ましい、東京は故郷じゃない」って言う人もいるけど、東京だって十分、故郷になり得る、と思う。江戸っ子でもなんでもないけどね~。下町のことは行ったこともないし、都電なんかも乗ったことないし。。んだからわたしはあくまでも「東京都下出身」ってことを強調したい、なんて。偉そうに(爆)

ただ、、2年間住んだ、大阪も好きなんだけどね(笑)しかもここも本当のコテコテの「大阪」ではなく、いわゆる「北摂」になるんだけどね~。当時中学生だったわたしにとっては「梅田駅」が行動範囲の南限でした(爆)
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08-27 Wed , 2008
'80年代のアニメ界って
【2012.3.19記】できればこちらから読んでください →「グレーゾーン

昨日の余波で、今日は朝から(昼から?)You Tubeのアニメのオープニングやエンディングを探しまくって聞いてた。のと同時に、自分でカセットに録りためておいていたアニメのオープニングやエンディングも聞いたり。んと、わたしが中学くらいの時はまだビデオというものが、存在はしていただろうけど、ものすごーーーーーく高価なもので、しかもどっちかというとβの方が有力、みたいな感じだった。なのでその番組を記録しておくためには、カセットテープに録音する、という方法しかなかったんだよね。映像は1回だけしか見られないから、じーーーーっとよく見て、頭の中に焼き付けておく。で、録音したカセットをあとから頭の中に焼き付けておいた記憶と共に「音を聴いてた」のよ。だから、何度も何度も聴くと、セリフ、ぜーんぶ覚えちゃうんだよね。。わたしがアニメファンだったのは、中1~高2くらいで、ビデオデッキがうちに来たのは高校3年だったかなあ~?だから、アニメを録画しておいたことって実はないの。

でもさ。You Tubeにあるヤツって、画像の記録なわけで、その当時もうビデオデッキ持ってたってことなんだよねー。すげー羨ましいと思った。。けど、こうやってみることによって恩恵を受けているので、まぁいいか。で、今日はこれを探してきた。



有名な「パタリロ!」のエンディング、「美しさは罪」ですねー。ここに出てくるバンコランとマライヒは同性カップルなわけで、「パタリロ!」自体も男性同性愛者がいっぱい出てくるよね。ってこのマンガ、まだ続いてるみたいなんだけど、ホントなのかしら???バンコランの声は曽我部和行(惜しくも亡くなられてしまった。。すげーショック)って当初から決まってたらしいんだけど、マライヒの声をさて、誰がやるか、という段になって、最初は男の人にしてみたらしいのね。そしたら、普通の会話は問題なしだったんだけど、ときどきラブシーンがあるからさ(あれをゴールデンタイムに放映してたってのもすごいよね)、それを男同士でやると、なんだかとても「気持ちが悪かった」そうだ。多分、きっとすごく生々しかったんだと思うんだけどね。だから「一休さん」なんかでもお馴染みの藤田淑子がマライヒの声をやることになったって、当時のアニメの雑誌に書いてあった覚えがある。

わたしはちょうど中2の頃だったかなー、これ。同級生と無邪気に「バンコランとマライヒごっこ」などをして遊んでた。つまり「バンコラン!」「マライヒ!」、ひしと抱き合う、みたいなこと(苦笑)そういう意味では、別に同性愛とかなんとかちっとも抵抗なかったんだよねー。

で、これまた中学2年の時だったかな、ちょうどラジオ大阪で「アニメトピア」という番組をやっていたんだけど、これがまためちゃくちゃな番組でね(笑)わたしが聴き始めたのは、アニメトピアでも2代目の、田中真弓と島津冴子のときで、そして準レギュラーとして毎回三ツ矢雄二が出てた。この三ツ矢雄二、いつカミングアウトしたのか、全然覚えてないけど、いつの間にか「おかまの三ツ矢雄二」って自分で言ってて、それで自然に番組が進んでたから「あ、三ツ矢雄二はおかまなんだ」ってそのまま思ってて、なんも違和感がなかった。というか、あの当時「ゲイ」という言葉は聞いたことなかったし「ホモ」も何を意味するかは知ってたけど、くらいな感じだったし、ま、自分で自分のことを「おかまの心、むきだしさ、ムキムキ」って言ってるんだから、まー、そうなんでしょって思ってただけで。

まー、あの番組はほとんどめちゃくちゃな番組で、別に「アニメ」にこだわってたわけじゃないような気もするし、なんか声優さんがぐちゃぐちゃやっててすんごく面白い番組、って感じだった。周りのスタッフも濃い人ばっかり、みたいな感じだったしね。まぁあくまで、外から見た印象ですけど。んで、ついに「アニメトピアの本」つーのができて、これは今でも持ってるんだけど「ラジオのどん詰まりアニメトピア 表から裏からこんばんわ」って本で、これまた面白いんだわ。っていうか、あるイベントで、三ツ矢雄二は「オカマは欠点じゃねぇ!オカマだからって、差別するんじゃねえ!オカマだって一生懸命の人なんだ!」って言ってたって言うから、まぁすごいわねー。ちなみにこれだ。

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しかし、こういう平然と「カミングアウト」してても、女性のファンはすんごく多かったし、彼は確か「スラップスティック」っていう男性の声優が5人くらい集まってた、(メンバー、今、古川登志夫くらいしか思いつかないから、適当にぐぐってみてくださいな。多分、あるんじゃないかな、どっかに)グループの一員で、レコード出したりしてたみたいだからねー。もしかしたら本気にされてなかったとか、あの当時ゲイであることをカミングアウトするなんてことは、みんな、思いつきもしなくて「ふーん」って受け流されてたのかも知れない。あ、あとこの本には、こういうのもあって

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「純粋同性交遊の方法と理論」なんて講座もやってたな(笑)ここのページ、実はわたしがホントにラジオ聴いて、メモ取ってたみたいで、いろいろ書いてあるから恥ずかしくてお見せできなかったりするのだ(苦笑)つーか、ここだけ聴いてメモしてあるって一体どういうことなんだろう??(苦笑)あとはアニメトピアはレコードも出しててですね、アニメトピア2と3がこの田中真弓と島津冴子だったりするんですけど、そのアニメトピア3の方は、もう三ツ矢雄二出まくりで。しかもその中で「男探し」してる歌がある(笑)最後が「男なんてなにさーー!!」と叫んでる(爆)

ま、これにはいきさつがあって、当時のアニメトピアの主題歌が「二人はヒーロー」というもので、それが田中真弓と島津冴子が歌ってたわけでして。これ、間違えなんだよね。なんで、アニメトピア3では三ツ矢雄二とその舎弟であると言われていた松野達也(現在は松野太紀になってる)が「二人はヒロイン」を歌ってるわけで。けど「二人はヒーロー」は内容的にはあくまでも「女の心境」について歌ってるわけだけど「二人はヒロイン」は男を探してるからな~(笑)

あと、アニメトピア3では「女好みの女と男好みの男、あーあ、結局二人で日曜日はお好き」という歌詞のある曲もあります。そういう意味ではとっても「ゲイフレンドリー」な番組だったよな。

ってことで、わたしは中学の時に、アニメの世界を通じて「そういうこと」を知っていたわけで。ただ、自分がそういう人間だとはちっとも思ってなかったわけで。「そういう人はいる」のと「自分がそういう人間」ってのは、まーーーったく別の次元の話なんだよねー。でもそういう下地があったから、自分が同性愛者だと気がついても全く抵抗感がなかったのかな、という気はする。

そういえば、今はBL(ボーイズラブ)っつー分野がもう確立してるけど、これってわたしが思うに「六神合体ゴッドマーズ」の「マーズ」と「マーグ」のパロディから始まったんじゃないかなあ~?ま、「マーグ」の声は三ツ矢雄二だったわけだけど、偶然(笑)←多分
ただ、わたしはそういうパロディーはあまり付いていけなかったのね。あ、映画化されたけど、観に行きましたよ。「マーグ」が裸になったシーンが結構話題になったりしたもんだけど(笑)

ってわけでね、今日は今まで自分が撮りためておいたアニメのカセットを聴き、そして、昔々に買ってまだ観てなかった「伝説巨神イデオン」のDVD、「接触編」を観てました。つーか、映画自体は中2の頃、毎日ホールに行って見たから、もう(笑)「発動編」と「接触編」合わせて3時間くらいあるのかな。なんかね、アニメの曲を聴いてると、その当時のことがふっと思い出されるのね。で「あー、あの頃もやっぱ『青春』っていうのかな」なんて思ってた。わたしは中1と中2が大阪で、中3が東京だったから、アニメで区別できるのね。「あ、これは大阪時代にやってたよね」とか「これは東京だったよね」とか。友達の顔が全く違うんで(笑)で、高校になるとまた思い出が違うわけね。ま、高校の時の思い出はあまり語りたくなかったりするんだけど。もうほとんどアニメ熱も冷めた頃だったし、その割にま、いろいろあったのよ(笑)

そう考えてみると、中学時代が一番無邪気で楽しかったかな~、って思うね。ただ、一番物事を難しく考えていた時期でもあったんだよね。中学の頃の国語の先生が、「書くノート」というのを作りなさいといって、それで、内容はなんでもよかったんだけど、定期的に出させてね。それが親の家にあったのをずっと前に発見して読んだんだけど、もう、考え方が複雑多岐でね。「あー、わたしこの頃、もしかしたら頭よかったのかも知れない」とか思っちゃった(笑)今の方がよっぽど単純な考え方してると思う。記憶の中の自分と、当時遺していたものを比べるとものすごい乖離があるのよね。

なんか、まとまりのない文章になってしまったけど、'80年代のアニメ界は結構、そういうことがあった、ってこと。三ツ矢雄二さぁ~、今、何してるか知らないけど、まだ自分のこと「オカマ」って言ってるのかしら~?「オカマ」はともかく「ゲイ」ってカミングアウトしてるのかな~?そこんとこが不思議に思えるのでした。
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08-08 Fri , 2008
わたしと五輪
って非常に安易なネタだな(爆)
だってー、今日はすんげー暑くて、もう家の中ではダルダルしてたし、真っ昼間に直下地震があって(ただ、M4.5くらいで、規模としてはそんなに大きくなかった。震源の深さも40kmくらいだったし)寝てたらいきなり「どーん」って音がして、それで驚かされたし。揺れにはあまり驚かされなかったけど。

ま、今日はそんな一日だったけど、これからなんだねー、北京五輪の開会式。2日ほど前からサッカーの予選があったので「あー、もうそろそろか」と思ってたけど。

わたしと五輪。

実は、五輪を五輪として「こんなもんなんだ」って認識したのは割と遅くて、高校1年。'84年のロス五輪からだった。なんでこんなに遅いのか、というと、一つには、生まれた年がオリンピック・イヤーだったことが挙げられる。'68年。メキシコ五輪の年にわたしは生まれた。その4年前が東京五輪だった。なので、東京で五輪が行なわれたことはもちろん全く記憶にないっていうか、あったら怖い(^^;

で、4年後はまだ他の記憶さえないころだし、次が小学校2年なんだけど、ここでも全く記憶がないんだよねー。学校で五輪の話なんかした覚えないし。けど、この年の秋に毛沢東が死んだのは覚えてるのよ!わたしの頭の構造ってどんな構造してるのか、よく分からないんだけど。だって、小学校低学年の時、既にアメリカはカーター大統領だって知ってた。東京都の都知事が美濃部さんだってことも知ってた。けど、日本の首相で一番古い記憶があるのは、なんと小学校5年当時の大平首相だった。これがねー、なんでか全然分からないのよね、今考えても。だってさ、田中角栄とか覚えててもいい訳じゃない?「黒いピーナッツ」とか、言葉は知ってたんだし。ただしなんのことかさっぱりわからなかったけど(苦笑)「黒いピーナッツ」と「スヌーピー」の関係も知らなかったんだけど、覚えてはいるし(笑)


まぁ、小学生の記憶なんて、そんなもんなのかしら。

で、話は五輪だった。本当なら、次の五輪だったら、記憶に残ってただろうなと思う。そう、小学校6年の年。'80年のモスクワ五輪。日本は政治的な理由でボイコットした。しかし、それまで「五輪」というものが一体何であるかさっぱり分からなかったわたしは、誰だったかな~、柔道の山下だったかが大泣きしているのを見て「???」って思ったのだけが記憶に残っている。なんかでかいスポーツ選手が泣くくらいだから、なんかすごいことなんだろうなって思った。

で、次が'84年のロス五輪。この時初めて「五輪」というものを知り「へーっ、こんなに楽しいものがあったんだ」って初めて知った。ちょうど夏休みだったもんで、五輪、見まくった。おかげで部活に遅刻したりした(爆)

その後、'88年ソウル五輪、'92年バルセロナ五輪、'96年アトランタ五輪、2000年シドニー五輪。2004年アテネ五輪、もちろんすべて覚えている。とはいえ、よく見てたのは、やっぱり比較的時間が自由だったバルセロナとかアトランタかな~。やっぱメダルに一番近い、柔道を見るのが好きだったんだけど、さっき、NHKの直前放送で出てた、バルセロナで銀取った田辺陽子、あの当時は結構好きだったのに、なんかすげー変わってて、失望した。。←オイ!!そういや、同時期にやっぱ柔道で銀取った溝口紀子、結構好みだったなあ~。ってわたし、あの当時、自分がレズビアンであるということに気がついてたんだっけ??なんかすごくビミョーな時期だったような気がするけど。んで、なんか「強い女」が好きだったのかしら、、??なんかね、メダル取って日本に帰ってきたあとにワイドショーに出まくってたんだけど、それを「追っかけ」て見てたわね(苦笑)同じ大会で、岩崎恭子が金メダル取ってるんだけど、そっちの方はよく覚えてなーい(爆)そういえば、同じ柔道で、田村亮子(当時)がやっぱ銀メダル取ってるけど記憶になーい。ああ、なんか全然意識してなかったけど、やっぱこういうところに好みって出るんだな、と再認識。怖いわ(笑)

まーでも、ホントのこと言うと、ここ2回くらいの五輪はあんまり興味がなくて見てなかったような気がする。今回も「あ、もう始まるんだ」って感じだしね。そのくらい、あんまり興味がなかったりする。なんでかな~?

の割には毎晩はまって見てたりして(笑)
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06-28 Sat , 2008
この季節になると思い出す
もう6月もそろそろ終わり。
この季節になると思い出すことがある。

あれは就職してから2年目の今ごろだった。
あの日、わたしは午後ちょっと過ぎた頃に出張の予定が入っていた。
朝から小雨が降っていたが、わたしが会社を出るときは一旦止んでいたので「ラッキー」と思ったが、相手先の会社の社長さん(ってことにしておこう(^^;)にとっつかまって、いろんな世間話を。。

そのうち、雨がまた降ってきて、わたしは仕事をするために外に出た。(あ、わたしのそのときの仕事は主に外でやる仕事だったんですわ。って詳しく書けないところがアレなんすけどね(^^;)
詳しく書けないので、何やってたかは言えないけど(別に秘密の仕事ではないけど、あまりにもレアな仕事なんでねー、あんま、おおっぴらにはしたくないのよね)、仕事をやってるうちに雨粒が大きくなってきてね。「こりゃ、早く終わらせなくちゃ」と思って、まぁ最低限のことはしてから会社にまた戻ったんだけど。

会社に戻った途端、今まで降ってた雨がスコールみたいになった。大きな雨粒で前も見えないほど、ザーザー降っている。普通、スコールってほんの何分かで終わるけど、そのときは2~3時間続いた。終業時間を過ぎてもまだ降ってたので、取り敢えず、小降りになるまで会社で待機。そうだなあ~、1時間程度は待ってたか。あ、残業は付けてません(爆)

わたしはその当時、会社には自転車で通勤してたんだけど、あのときは家に帰り着くまでに至るところで道路が冠水してた。家に着いたら、ビデオデッキが点滅してた。ということは、どうやら停電してたらしい。

わたしが住んでるところはそのくらいで、他には何も被害はなかったが、近くで大きな土砂崩れがあり、死者が出た。あの辺りは仕事では滅多に通るところではなかったが、それでも国道沿いの急カーブで、崖っぷちに教会がポツンとあるのは知ってた。教会を含めてそこの近辺が全部崩れてしまった。ニュースにもなったし、結構ショックでね。あのあと、出張に行くと山側の一車線が土砂で埋まって、片側一車線しか使えない道が結構あったし。ホント、大変な災害だったんだ。

だから、今でもスコールみたいな雨が降り出すと、あのときのことを思い出してちょっと怖い気分にはなるのよ。で、6月が来るとあのことを思い出すんだな。

でも、今年は梅雨だというのに、あまり雨が降らない。春はたくさん降ったけどね。
降りすぎるのも困るが、降らないのはもっと困る。
毎日が「平年並み」だったら、それこそ「異常気象」だけど、
それに、雨が降ると湿度が上がるし、傘差さなきゃいけないから嫌なことは嫌だけど。
それでも「ある程度」は降って欲しい、と思う、今日この頃。
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06-07 Thu , 2007
行けなかったライブ
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昨日の晩、探しものをしていたら、思いがけず、超懐かしいものが出てきた。
というか、改めて自分の物持ちのよさに感動してしまった。。

その中で出てきたうちの一つがこれ。
そう、パール兄弟のライブのチケット。当時はパール兄弟のファンクラブ「あこや会」に入っていた。それでチケット優先予約をしてたんだけど、実は、画像を見てもらうと分かるように、半券が残っている。ということは、このライブには行くことはできなかった、ってこと。

どうしていくことができなかったかというと、、二日酔いでゲロゲロになっていたからだ。二日酔いの原因ってのは、これまたよく覚えている。自分自身はあんまり思い出したくない思い出なんだけどな~(苦笑)

この当時、'89年ってのは、わたしが大学2年生の時。そして、うちの大学はだいたい、学祭を11月3日~5日の間の3日間にやることになっている。わたしは大学時代は合気道部だったから、学祭の時は「演武会」をすることになっていた。そのために、学祭が始まる少し前から学校内に寝泊まりして、一生懸命練習していたのだ。

もう、合宿がどうだったかとか、演武会がどうだったかとかは、ほとんど忘れた。ただ、夜は吉野家の牛丼かカレーを作って食べ、近くの銭湯に行っていたのを思い出す。練習自体は全く覚えていないのがミソ(爆)。

で、このライブがある前日は、学祭も終わり、打ち上げってことで恒例の「打ち上げ」を道場でやってたのよね。

うちの大学は「酒を飲む大学」だった。だから「一気飲み」などやったことがない。「酒の一滴は血の一滴」と言われていたからだ。「一気飲み」は邪道だと誰もが思っていた。その代わり、、酒をこぼそうものなら、ものすごく大変だった。こういう環境で酒を飲んでいると、だいたい、その人がお酒がどのくらい飲めるかということが外見で判断されるようになる。「これ以上飲ませてはいけない」という限界も分かってくる。これはやはり「酒飲み大学」ならではのことだろう。酒を飲ませて、急性アルコール中毒で救急車を呼ばれる、なんてことは恥の恥だった。

ただわたし自身と言えば、どうもアルコール分解酵素が体内に存在しているせいか、どんなに飲んでも酔わない。しかも外見は全く変わらない。これは、非常に損なことだ。なぜかというと、いくら飲んでいても周囲には「全然飲んでいない」ように思われるからだ。実際、酒を飲んでいても記憶が飛んだということは今まで全くないし、基本的に酔っぱらわない。酒を飲むと、酒に酔えるというメリット(?)があるのだが、わたしの場合、相当大量に酒を飲まないと酔えない。そして、それは二日酔いになる限界とかなり近かったりするので、危険だ。

で、人生で初めて「二日酔い」というものを経験したのが、このライブの前日。'89年11月5日。ここら辺の記憶はとても曖昧なのだが、当時、確か好きな男性がいたと思う。彼とは同学年だったのだが、確か歳が4つくらい上じゃなかったっけ。。?あれ、2つだったっけな。とにかく年上だったのは確かだ。その彼に好きな人がいると風の噂で聞き、それで「やけ酒」と称して、めちゃくちゃに飲んだような記憶がある。

もう、どのくらい飲んだかは忘れてしまったが、最初はなぜかウイスキーのボトルに入っていた梅酒をほとんど飲み(もちろん、ロックで。わたしは割った酒は好きじゃない)、数種類の酒を飲んだ後(ビールは入ってません。わたしはビールが好きじゃない)、焼酎へ突入したのだった。あ、焼酎ももちろん、そのままでね。ただ「いいちこ」だったので、アルコール度数はそんなに高くはなかった。

友だちと2人で、何をしゃべっていたのかはほとんど覚えていないが、陽気に飲んでいたことは思い出す。で、2人で1升あけてしまって、それでも足りないから、同じ合気道部の寮生に「寮生酒場から酒持ってこーい!!」と言って持ってこさせたのだった。。あ、その当時は学校内に寮があり(というか、今もあるけど)、そこでは寮生が毎年、学祭の時に「寮生酒場」というものをやっていたからだ(これは今もあるかどうかは知らない)。

で、手に入れたのが「いいちこ」900mlのヤツ。それは全部は空けなくて、途中で終わったんだけど、そのときは全く酔ってなかったし、周りからも「飲んだ?」って聞かれたほどだった。なのに、、翌朝起きてみたら、めちゃくちゃ気分が悪くて起きられない。これが二日酔いだった。その日が解散だったので、みな、片付けをしているというのに、わたしは一人で吐きまくってて。。後輩に面倒をみてもらったりした。ああ、恥くさ~、、で、家にもまともに帰れないので、車で来ていた同級生に家まで送ってもらったりして。。で、結局、このライブには行けなかった、というわけだ。ものすごく苦い思い出。

それ以降、わたしは自分の限界というものを自分で把握している。だって、周囲からはどんなに飲んでも外見が分からないから、判断が付かないんだもん。もっとも今は、薬飲んでるから基本的に禁酒状態だしね。でもあの酔っぱらった感覚って、しばらく味わっていないので、早く味わいたい。。

うちはわたしも彼女もとても酒飲みで、基本的にあまり酔っぱらわない。だから薬とおさらばした暁には、2人で4本(もちろん、フルボトル)の赤ワインを飲んで、酔っぱらおうね、とは言っているのだが。。

結局、それ以来「焼酎」というものは飲めなくなってしまった。というか、もともとわたしは「蒸留酒」は苦手みたいで、、ウィスキーやそこら辺もあまり好きじゃないのよね。好きなのは、日本酒と赤ワイン。日本酒は辛口で赤ワインはボディーがしっかりしたものでないと好きではない。その割にはめちゃくちゃ甘い「杏露酒」は好きなんだけどねー。あ、でもやはり割って飲むのは嫌いです。だって、薄くなるんだもん←当たり前

そういえば、昔、昔に「メモリーグラス」という歌が流行った(堀江淳って人が歌ってました)。その中の歌詞に「水割りを下さい」という割に、最後の方で「ねぇ、その歌をかけるのはやめてよ グラスの中薄くなるから」という歌詞があるけど「そんだったら、水割りじゃなくて、ロックで飲めばいいだろう」と思ったのは、わたしだけではあるまい。。(爆)

あと、好きだったと思っていた人は、あるとき「こんなつらい思いをするなら、あきらめちゃえ」と思ったら、いとも簡単に諦められた、というか、実はそう思ったら急に気分がすーっと晴れて、ものすごく爽快な気分になったのだ。そしてそれは、その後3年くらい続くことになる。多分、本当の恋だったら「諦めよう」と思っても、そうはいかないと思うのだが、そうなったってことは、自分の中に「誰かを好きにならなきゃいけない」という強迫観念じみたものがあったんじゃないかと思う。

結局、空白の3年くらい過ごして、あるとき「わたしは、人を好きにならないんじゃないか?」と思い始めて、過去を探っていったときに「ああ、実はわたしは男じゃなくて女の人が好きなんだ」って気がついたんだけどね。だいたい、初恋は小学校の時だったらしいのだが、相手の名前を「姓名」ともにすっと出てきて、あれにはびっくりしたなあ~。。

ってわけで、このチケットには、多少なりとも苦い思い出がある。でももう捨てられないだろうな~。はは。もう一回封印しておこう。
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05-22 Tue , 2007
カティー・サーク炎上
181cb76d.JPG今日、朝起きて新聞見てびっくり。
あの「カティー・サーク」が火災を起こしたとのこと(2008年6月現在、既にこの記事はありません)。

わたしが初めてイギリスに行ったのは、大学1年から2年にかけての春休みだから、'89年か(わたしは一浪している)。ちょうど昭和天皇の「大喪の礼」の日に重なっちゃって、普通だったら2時間前に成田に行けばいいものを、3時間前に行けと言われた記憶がある。んで、1ヶ月ほどイギリスでホームステイをしながら、語学学校に行ったりしてたんだけど。

行った語学学校がロンドンの中心部だったので、授業が終わったあとは大英博物館に通いまくったことを思い出す。けど、不思議と「ミイラ」は見なかった。すごくよく覚えているのはロゼッタ・ストーン。あれは世界史の授業で習ったから、実際に見たときにすごく感動した。当時はまだ、ケースには入っていなくて、実物がぽんと置かれ、その近くに警備員が立っている、って感じだった。

あとは、陶器とか磁器とか、そんなのがあったなあ~って感じで。よく「大英博物館に行った」と言うと「ミイラ見た?」って言われたんだけど、その当時は、そんなもんがあるとは思わなかったのよ。多分、同じところをぐるぐる回っていたんだろう。だいたい、ロゼッタ・ストーンしか覚えてないんだから(苦笑)

それから、なんと言っても「グリニッヂ」。あそこには「(旧)グリニッヂ天文台」とこの「カティー・サーク」がある。もともと船が大好きだし、あと、経度が0度ってところに非常に魅力を感じるわたし。それに「カティー・サーク」といえば、あの「カティー・サーク」でしょ、ってわたしも飲んだことはないけど、有名なウィスキーの銘柄ですな。ある一定の年代以上の人たちなら「ああ、あのCM」って思い出すと思う。

もともとは紅茶を運ぶ船だった、というのは、その時初めて知った。でも、展示されている写真に付いている説明が全部英語だったので、はっきりいって、よく分からなかった(苦笑)ただ「カティー・サーク」と言う意味が「(女性が着る下着の)シミーズ(とは今は言わないか(笑))」を差しているということも、あの時初めて知った。カティー・サークは帆船だが、船首から出っ張っているBow Sprit(斜檣)のところに女の人がシミーズを着て、腕を上げている姿が付いている。これは、船の守り神として帆船によく付いている。いろいろ調べてみたら、'30年にできた日本丸は唐草模様なんだそうだ。

カティー・サークには、この船首に付けるいろいろな装飾品について、展示されていた覚えがある。いろんなのがあって「こんなのでも守り神になるのか?」と思うようなものがたくさんあった。

そのとき、グリニッヂに行ってきたときに買ったのが、上のキーホルダー。これはカティー・サークの中では売ってなくて、どこかのおみやげ屋さんで買ったものだった。これは本当に気に入っていて、その後、彼女と知り合って、年末に再びロンドンを訪れたときまでずっと使ってたから、、2003年の正月まで使ってたことになる。途中で、中のプラスチックの部分が外れたりして、それで少々傷が付いている。

そう、2002年~2003年にかけて、わたしたちはロンドンとパリを旅行した。そのときにまた、再びグリニッヂに行き、このカティー・サークと旧グリニッヂ天文台に行ったのだ。やっぱ、わたしはあそこが好きだなあ~。公園も美しいし。

で、そのカティー・サークが燃えちゃった。。結構ショック。今朝の朝日新聞の1面にカラーで載っていたが、あれをみると、もうほとんど焼けてしまったのではないかと思う。改装中だったそうだが、、もう再び、本物のカティー・サークを見ることはできないんだなあ。。

というわけで、今は近田春夫の「天然の美」を聞いている。この中の「ワンシーン」という曲の出だしがあの、カティー・サークのCMそっくりだからだ!(爆)
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05-09 Wed , 2007
これって贅沢?
以前(といっても、このブログを書き始めた頃なんで、もう1年半くらい前)、「今でも忘れられない人のこと」って日記を書いたことがあったけど、そこで「わたしとは縁がなかったんだ」って書いた。

「縁がなかった」とは今でも思っている。だがしかし、まだ未だに忘れることができない自分がいる。

昨日のカープ戦は、福山市民球場であった。わたしが27歳の時だったと思うから、多分、'95年。そして7月7日だったことは鮮明に覚えている。あのときも、カープの試合が福山市民球場であったのだ。それにその人は行っていた。確か浅井(現1軍打撃コーチ)がサヨナラヒットかホームランを打って、カープがサヨナラ勝ちをした試合だったと思う。あとで「すごく感動した」って手紙をもらったんだよね。それからしばらくして手紙が来なくなってしまったのだ。。

わたしは、あれから何度も社会人野球の試合を観に、福山市民球場には行った。でも何も感じなかった。風がすごく強くて砂が飛んでいてスコアブックが砂だらけになったこととか、加藤(元NKK-元日ハム)があそこで化けたとか、行くたびに道路が整備され、行くのに迷った、とか。そういう思い出の方が強い。

が、昨日のカープ戦を見たときに、、その人のことが鮮明に思い出されてしまった。なぜだろう?と思いながらテレビを見ていた。ちょっとそのときのことが思い出されてつらかった。いつしか膝を抱えてテレビを観ていた。

昨日の試合は16-4という大差でカープが負けた。が、実はホッと胸をなで下ろしている。一時は8-4で追いついて逆転するかも、、と思った。そうなったらどうしようか、とまで思った。まだまだわたしにとっては忘れられない人なのか、彼女は。。

確かに、もう出会うことはないだろう。顔も忘れてしまったほどだ。だけど、、その彼女はわたしの中にまだ存在しているのだ。これって、どういうことなんだろうか。わたしは彼女のことを忘れなければならないのだろうか。もうあれから11年、いやもうすぐ12年が経とうとしている。
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05-05 Sat , 2007
マニア
3ac7d2d7.JPG30063a5a.JPG27bf25af.JPG昨日は夕方から新宿に行った。
もうそろそろ本格的に英語の勉強をしなくちゃと思って。そうなのだ。去年の1月からある英語の文法の本(すべて英語で書いてある)をやっていたのだが、途中で挫折したままで、しかも、去年の4月からラジオで英語講座を聴いていたのに、それも途中で挫折したままだったのだ。英語で書いてある文法の本を再び再開させようと思ったんだが、なぜかやる気がせず、、「日本語で書いてあるなるべく薄い文法の本」を探してみることにした。

彼女は一旦、わたしと別れてデパートで食料品を買って、わたしが先に本屋に行き、文法の本を見てたんだけど、、うーむ。たくさんありすぎてよく分からない。しかもまた、絶大に売れている(実際、そこにはあと1冊しかなかった)文法の本もあったのだが、2部構成で長い。取り敢えずわたしは彼女が来る前に「これは」と思うものを1冊、候補に挙げておいたのだが、来るなり「これは内容が難しいよ」と却下。絶大に売れている本については「あの英語で書いてある本でいいよ」というので、これも却下。

で、次々に「これは?これは?」と聞かれ、中身を見たんだけど、イマイチ。。だって、英文法なんて、ほとんどすべて忘れてるもん。最初の1ページ目で「ああ、もうダメ」って感じだった。わたしの場合「忘れている」に加えて「なるべく論理的に書いてある本」じゃないと身体が受け付けない。。で最後に「これは?」って言われた本がなかなかよくて、それに決めた。っていうか、なんでわたしが自分で探し出せなかったんだろう。。同じ本棚を見てたのに。そう考えるとちょっと悔しかった。

本屋に行くと、どうしても多量に本を買ってしまう。まぁ、そのときわたしは以前みたいに1万円も財布に入ってなかったんで、自分で買ったのは、その文法の本を含めて3冊のみ。以前古本屋街に行ったときに買った「センス・オブ・ワンダー」(レイチェル・カーソン)がものすごくよくて、是非とも「沈黙の春」が読みたくなったのだ。レイチェル・カーソンって、名前だけしか知らなかったんだけど、既にわたしが生まれる前に亡くなってたのね。「センス・オブ・ワンダー」の最後にレイチェル・カーソンの生涯が簡単に書かれていて、それを読んでびっくりした。だって「センス・オブ・ワンダー」って日本では'91年に初めて訳されているのだ。既にこの本が出されてから26年も経っている。この差は一体??

もう1冊は「高等地図帳」。そう、わたし、地図帳マニアだったりする。それも昨日気がついた。地図は高いので、毎年は買っていないが、2~3年に1度は買うようにしている。東京都の地図なんか、既に9冊。しかも一番新しいのは2002年発行だから、もうかなり古い。(一番古いのは昭和60年('85年))「地図帳持って街をウロウロしているのは田舎もの」って聞いたことがあるんだけど、東京育ちでも平気で持って街をウロウロしていた。だって、知らないところは知らないし、1冊持っていると本当に便利なのだ。それに、ヒマなときに見てると飽きないし。

でも何冊も買っているうちに気がついた。地図って毎年同じじゃないってこと。東京の場合はあまり「平成の大合併」をしなかったので、特に感じないが、わたしの以前住んでいたところは、ものすごい「平成の大合併」をした。わたしはそこの地図を5冊持っている。最初に買ったのは'98年だが、、最新の地図を見ると、ものすごく変わっている。

「高等地図帳」でも同じ。なぜか一番古いのは'90~'91年版なのだが(わたし、高校の時の延長で持ってたと思ったんだけど、、違ったみたい)、その頃にはまだ「ソビエト社会主義共和国連邦」(この国の名前、小学校の時に名前を覚えるのに苦労したのにー!)と「ドイツ民主共和国(東ドイツ)」「ドイツ連邦共和国(西ドイツ)」に分かれている。それが'95~'96年版になると、ソ連は「ロシア連邦」になり、ドイツも「ドイツ」になっている。(この間の地図、買っておけばよかったー。なんで買わなかったんだろう?)

日本もそうだが、世界の情勢も変わりつつある。わたしは何の気なしに地図を買っていたのだが「地図マニア」ということが、昨日初めて発見された。

左:今まで買った「東京都」の地図
中:今まで買った「高等地図帳」(二宮書店)
右:'90~'91年版。「ソビエト社会主義共和国連邦」と書いてある
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05-02 Wed , 2007
けいけん
最近、いろんなことを考えている。

一番強く思うのが「わたしの人生は恵まれすぎていたのではないか」ということ。
わたしは「貧しさ」ということを知らない。生まれた年は昭和43年('68年)。高度成長期のただ中(高度成長期='55年~'75年らしい)。しかし、'75年といえば、わたしがちょうど小学校に上がった年で、生活が進化したという記憶がない。うちのテレビがモノクロからカラーに変わったくらいしか覚えがない。

親からは十分な愛情を受けて育った。そりゃ、時には殴られたりもした。父親なんかは、わたしのことを娘だとは思ってなかったのか、高校の時に思いっきり顔をぶん殴られた。あとで口の中が「ジャリ」ってするなあと思っていたら、それは欠けた歯だった。背中(もちろん、服着てない)を布団たたきで殴られて、みみず腫れになったこともある。あのときは母親が父親に向かって激怒した。「なぜこんな風になるまで叩いたの!」って。わたしは背中だったから、自分の姿がどうなっていたのかは知らない。ただ、すごいことにはなってたらしい。

母親はわたしを叩かずにつねった。叩くと自分の手が痛いから、という理由らしい。母親らしい考えだと思う(笑)。

今だったらもしかしたら、このような行為は「虐待」に当たるのかも知れないが、わたしは殴られると分かっていながら親に反抗していたし(反抗っていうのは変かも知れない。わたしはわたしの意見を曲げなかったに過ぎないから。反抗しようと思ったのではない)、いくら言葉で言っても分からなかったので、殴られたんだと思う(でも自分の意見は曲げなかったけどね。暴力では人の意見を変えることはできない)。だから親には「お前は生まれたときから反抗期だった」と言われているし、実際、わたしもそうだったと思う。一般に「反抗期」と呼ばれている時期が子供にはあるが、わたしはそういう意味で明確な「反抗期」というものがなかった。そして、わたしの意見が通らないと分かると、今度は親を無視した。1ヶ月以上親とは口をきかなかったことも何度もある。だからといって問題が解決したわけではないが。

でも今思うと、反抗できることは逆に幸せだったんだな、と思う。反抗できるということは、それだけ甘えている証拠でもあると思うからだ。ただ、わたしは他人でも「それは違う」と思ったら上司にでも平気で噛み付いていたからなあ(苦笑)。わたし自身の性格なのかも知れない。ま、会社では上司の意見が絶対だったので、最終的には仕方なく上司の意向には従っていたけど。ただ、噛み付けば噛み付くほど、上司に気に入られて、、正直困った(苦笑)

ただ、進路のことについては、親はわたしのやりたいようにさせてくれた。そしていつも応援してくれた。それについては、非常に感謝している。28歳まで学生を続けられたのも、親のおかげ。わたしは学生時代、家庭教師くらいしかバイトしたことなかったし(「遺跡掘り」のバイトもやったことはあるが、あれは拘束時間が長い割にあまり金にはならなかったなー)、それによって生活を成り立たせていたわけでもない。

そして、、前にも書いたけれど、わたしは「同性愛者である」ということについて、悩んだことがない。他の人の話や、ブログを読むと必ず「相当悩んだ」と書いてある。しかし、悩んだことのないわたしには、その「悩み」というのが実はよく分からないのだ。カミングアウトをして傷ついたという経験もない(母親に対しては、理解されるとは思っていないので諦めている)。

小さな頃から「わたしは結婚はしない」と言っていたからか、親から「結婚しろ」とは一度も言われたことがない。周囲からも言われたことがない(よほど結婚しそうにないように見えるのか?)。これって、わたしにとっては幸せなことじゃないのか?

「女のクセに」と言われたこともない。「男みたいな女」とは言われたことはあるが。「だから何?」って感じだった。親からも「女の子らしくしなさい」と言われたことがない。(だいたいわたしが幼稚園の時の誕生日プレゼントに「仮面ライダーV3」のベルトをプレゼントしたくれたような親だ)これもわたしにとっては幸せなことだろう。

恋愛経験も少ない。今付き合っている彼女は、わたしが初めて付き合った人。多分、これからも一生、一緒に居続けるだろう。わたしは「別れ」というものを経験したことがない。だから恋人とケンカをして別れるということがどういうことか、わたしにはよく分からない。(ただ今後「死別」はあり得るとは思っている)

「貧しさ」も「性的少数者であるという悩み」も「女性差別」も「恋人との別れ」も経験したことがないわたし。今のところ気がつかずに、他にも経験したことがないことはたくさんあるだろう。これって、幸せなことなんだろうか、それとも不幸なことなのだろうか?この世の中にはいろんな人がいて、わたしは今、いろんな人からの悲鳴が聞こえる。わたしはそれは理解することはできる。ただ、経験していないから、それは想像するしかない。でも想像は想像に過ぎない。経験したことがないものに対しては、想像はできるが、わたしには語れない。つらい人に対して声をかけることもできない。そういうとき、わたしは自分の無力さを感じる。わたしはもっと「不幸」であるべきではなかったのか?わたしには「経験しなかったこと(できなかったこと)」が多すぎる。わたしには欠けているものが多すぎる。それを今、非常に痛感している。
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04-25 Wed , 2007
尾崎豊
今日、4月25日は尾崎豊の亡くなった日だ。でも特にわたしは尾崎豊のファンではない。なぜ覚えているかというと、この日はわたしの高校時代の友達(男、ロリコン)の誕生日だったからだ。

その友達の名前は、面白い名前だった。○(△+□)で書き表されるの。(○と△と□はひらがなね)。例えば、、吉田吉子さんみたいな感じ?こいつ、どーしよーもないロリコンで、、妹に「りぼん」を買わせ、自分は「なかよし」を買う、なんてことしてたし、ロリコン雑誌も読んでたし(レモンなんたらとかメロンなんたら、ってヤツだ)、挙げ句の果ては「くりぃむれもん」とかいう、ロリコンエロアニメがあったが、、そんなのも見ているようなヤツだった。。(ってそれを全部知ってるわたしって、、(^^;)

ただ、そいつとは大学に入ってからも、ずーっと付き合いがあり、、不思議な関係ではあった。ま、いつの間にか、やりとりは途切れたんだけど。でもヤツは今、何やってんのかなーと検索をかけてみたら、なんと、ある大学で助手をしていた。画像がばーんと載っていたが、、全然変わらない顔してたなあ。。学生に手を出さなきゃいいけど、、って大学生だともうロリじゃないから、範囲外か(爆)

まー、そんなわけで、何年だったかはもう忘れたけど、ある年の4月25日「今日はヤツの誕生日だったなあ~」と思っていたら、夕方聴いていたラジオでいきなり「尾崎豊が亡くなった」というニュースが。だから、忘れられないのよね。。

ちなみにわたしは一番最初に書いたとおり、尾崎豊の曲は1曲しか知らない。熱狂的な尾崎豊ファンの人から「聴いてみて」と言われてテープも聴いてみたが、、あまりわたしの心には響いてこなかった。ところが彼の「卒業」という曲だけ、実はものすごく気に入ってしまって、この曲はカラオケのわたしの十八番だったりする。まず、キーが合ってるのよね、自分と。

あとは、やっぱ歌詞の内容かなあ。最初の方は特になんともないんだけど、最後の方に出てくる「あと何度 自分自身 卒業すれば 本当の自分に たどりつけるだろう」ってところ。あそこは、本当にそう思うのよね。「本当の自分」って一体、なんなんだろ?って今も思う。。(そう、前にも書いたけど、わたしはまだまだ青い)一度、母親の前で歌ったら「この曲はアンタにぴったりね」と言われた。あの~、、わたしは学校の窓ガラスを壊して回ったことなんかしてないんですけど(汗)。あとは、大学時代の友達とよくカラオケに行ったときは、絶対にこの曲を歌っていた。そうしたら「わたしは尾崎豊、嫌いだったんだけど、なんかこの曲はいいね」って言ってくれるようになった。

でも、普通の時はこの曲は絶対に歌わない。だって、長いし、終わったあと、暗い沈黙が。。だから、よっぽど親しい人の前でしか歌わない。あともともと涙もろかったんだが、今はそれに輪をかけて涙もろくなっていて、、この曲を歌っているとつい、泣いてしまうのだ。。

わたしより、数年年上だった彼。今、生きていたら40代か。今、この社会を見たときに一体、彼はなんて思っただろうか、なんてことをぼんやり考えていたりする。
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04-24 Tue , 2007
ぶんすう
分数を習った頃だから、小学生の時だったと思う。多分わたしが親に対して「分数がよく分からない」と言ったんじゃないかな。そうしたら親が「ケーキを3つに割ったら、そのうちの1つが3分の1だ」と教えてくれた。

だけどわたしは納得しなかった。「それじゃ3分の1にはならない」と思っていた。でもそれはとても感覚的なことで、、小学生のわたしには、どうやって反論すればいいのか、方法が分からなかった。それで頑なに「それは3分の1じゃない」としか言い張れなかった。そうしたら、親もそのことについて、どうしてわたしが納得できないのかが分からなかったようで、口論になり、、挙げ句の果て、殴られた(笑)。

今だったらきちんと言える。「ケーキをただ3つに割っただけでは、例えば、1/2+1/4+1/4、でも1になるでしょ。そしてそれは決して1/3ではないでしょ」って。(というか、そこまで分かっていたはずなのに、なぜ分数が分からないと親に言ったわたしが今となってはよく分からない(苦笑))結局、わたしの感覚的なことは、そういうことだったのだ。

小学校の中学年頃までは、わたしはほとんどなんの意見も持っていない子供だった。(ただ、自分の興味のあることに対しては、ものすごく興味を示す子供だった)それが、高学年になるにつれ、仲のよかったヤツ(男ね。Aってヤツだ(笑))が、急激に理屈っぽくなり、、なぜかそれに影響を受けて、わたしも理屈や屁理屈を考える術を覚えた。

高校の時、初めて物理で「力学」を習ったとき、わたしが一番疑問だったことは「新幹線の中で飛び上がったときに、なぜ、各車両にあるドアにぶつからないんだろう」ってことだった。新幹線はその当時、200km/hくらいで走っていたから、少なくとも1秒飛び上がっているうちに、55.6mは移動しなければならないはず。新幹線の1両の長さがどのくらいあるのかは分からないが、飛び上がって着地したときは、そのくらい移動していないとおかしい、と思っていた。が、実際は違う。分からなかったので、そのときは友達に聞いた。「実際に違うんだから、違うんでしょ」としか答えてくれなかった。そういうときは物理の先生にでも聞けばよかったと、あとになったらそう思うのだが、、うちの高校の物理の先生は、予備校の授業みたいな授業をする人で、、(のちに本当に予備校の先生になったらしいと風の噂で聞いた)あまり聞く気にはなれなかったんだな。結局「そういうものだ」とそのときは思うしかなく。

でもあとでちょっと「一般相対性理論」に触れたとき「なんだ、そういうことだったのか」と納得した。物事には「系」というものがあり、その系上にあるものは、その系でしか物理法則は成り立たないのだ。だから、新幹線のような移動体に乗っている場合は、移動体の「系」の上で成り立っている話なのだ。そのことが不明確なまま、一般的な受験物理しか習わずに、ともかくテクニックとして問題の解き方を教える、という方法が取られていたために、、ま、受験では役に立ったけどね。

ただし、力学を習ったときは「物事すべての動きは、全部、物理の方程式で言い表せるものなんだ」と思って、いたく感動した。で、そのとき「これが本当に真実のことなんだ」と思って疑いもしなかった。今考えると、ものすごく幼稚だったな、と思うが。でも結局、その感動が、ずーっと自分の中に残って、ある一時期を除き、わたしは完全な「物理屋さん」だったので、、そういう意味で数学の先生が好きだった割に、数学の道には行かなかったのは、結局、自分は数学自体には興味がなかったんだろうなって思う。

あとは高校の無機化学で、ある溶液とある溶液を混ぜたら、全く違う色の物質ができ、沈殿する、という実験をやった。(もうそれがなんの溶液と溶液だったかは忘れた)わたしはそれがものすごく疑問で、、なんで元の溶液の色とは全く異なる色のものができるのかが不思議でたまらなかった。その当時から、わたしの実験レポートはむやみに長く、、図書館に行っては、化学事典を調べ、その物質についての特性やいろんなことを調べ、訳が分からないままレポートに丸写し、なんてことをやっていた。でも、結局いくら調べても、なぜ化学反応を起こしたら、色が変わるのかは出てこなかった。なのでそのときはレポートに「これとこれを混ぜたら、なぜこの色になるのか調べてみようと思ったのですが、分かりませんでした」という実験の感想をかいた。返ってきたときに「色が変わる理由は、物質の波長が変わると考えられている」って書かれてたから「ふーん、そうなんだ。けど『考えられている』ってことは、まだまだ本当のところは未解明なのかな」と思った。

素朴な疑問というのは、案外、言葉で説明するのは難しかったり、まだ解明されていなかったりするものなのかも知れないな、と思う。
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04-03 Tue , 2007
きゃー!懐かしーーーい!!!
昨日、たまたまテレビを見てたら、なんと「おおーっ!」。見るつもりじゃなかったのに、最後まで見てしまった。しかも「うひょー、これは知り合いが出てくるかも」と思ったら案の定、出てきたーーー!!懐かしや、Kさん。多分、あなたはわたしのことはもう忘れちゃってるかも知れないけど。。お元気そうで何よりでした。

どうやら、風邪引いたみたいです。昨日の晩、ものすごく寒かった。。確かに昨日のニュースの中での天気図を見たら、典型的な「西高東低」だったから、寒くはなるとは思ってたけど。今日は1日お休みです。葛根湯飲んで、ドリンク剤飲んで早く寝よう。だから、75kg(仮)を割ると途端に病気しやすくなるのよね。。んでもって、せっかく83.6kg(仮)まで太ったのに、しかも、一生懸命食べてるのにまた痩せてる。。あーん、いろいろやりたいことがあったのにさ。

とにかく今は早く治そう。。
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03-23 Fri , 2007
お宝(?)発見!
9ec1fce1.jpgこないだ、アマチュア無線の免許証の話を書いたときに「あれ?そういや、免許証ってどこにあったっけ?」って思って探してたんだけど、同時に面白いものを発見した。

それは「仮運転免許証」。多分、運転免許を持ってる人だったら、誰でも持っているものなんじゃないだろうか。だって、路上運転しなきゃ運転免許もらえないし、路上運転するためには、仮免許証が必要だもんね。だけど、他の人は本物の免許証を交付されたあと、この仮免許証ってどうしてるのかな~、、運転免許証持ってる人、仮免許証はどうしてます?

取り敢えず、わたしはこういうものに対してミョーに物持ちがいい。校章なんか、幼稚園から予備校の校章まで全部持っている。(大学の校章は、、もらった記憶がない)身分証明書も同じ。大学時代の時間割(自分で作ったもの)も持っている。生徒手帳も中学からすべて持ってたんだけど、、この箱だけが行方不明。一体どこに行ったのか、探し中。大学以降、散々引っ越したからなぁ~、、

大学の卒論も修論も、目の見えるところにあるし、修論は発表したOHP(懐かしい)も全部持っている。ただし、原稿がないので(原稿は作らずに、内容はすべて覚えて発表したけど、これは当たり前と言えば当たり前)、順番が分からん。。(どうも博士課程を受験する際に発表して、元通りに納めてないようだ)

しっかし、卒論の謝辞が笑える。わたしはある院生の下で実験するはずだったんだけど、どーもその院生が好きじゃなく、自分勝手に実験するネタを作り出し、勝手によその学科の研究室に入り浸って、方法を聞き、勝手に実験してたんだよな。。で、勝手に共分散分析なんかして、従来とは全く別のものになってしまった。それでよく指導教官が許してくれたものだと思う。。(未だに年賀状のやりとりをしてるけど)で、普通、自分の研究室の人たちの名前が入っているはずの謝辞には、当然、具体的な内容はまーったく触れられておらず「本論文の研究をおこなうに当たりご指導下さいました、○○研究室(これは自分の研究室)の教官の方々に謹んで感謝の意を表します。また、これこれについてご協力下さいました△△研究室(別の学科)、□□研究室(これもまた別の学科)、××研究室(これはうちの学科)の皆さまに厚く御礼申し上げます。」って書いてあるんだな。(苦笑)あの頃は若かった。。

ちなみに修論の謝辞は、ちゃんとしたものです。実験に協力してくれた人の名前もちゃんと載せてます。(笑)

んで、就職してからも、ぜーんぜん知らない部署にいって、よく人に教えてもらってたもんだ。だから、顔だけはやたら知ってる人が多いんだけど、いかんせん、名前が出てこないのよね。。

そうそう、母子手帳も持っている。これはいつだったか、母から譲り受けた。しかし謎なのは「東京都世田谷区」が交付したはずなのに、中身の住所が「東京都武蔵野市」になっていること。なんでやねん??そして、ネットで調べてたら、、今年の4月からわたしが生まれた病院から産婦人科がなくなるらしい。なんか、だんだん自分のいた場所がなくなってきているような気がする。。(大学は最早、別の大学になってしまったし、高校は中高一貫校になるし)日本がだんだんおかしくなっているような気がするのはわたしだけ?

惜しむらくは、中、高校の教科書を大学に受かったあと、ほとんどすべて捨ててしまったこと。今持っているのは、高校の物理と化学、数学(全種類持ってる)、あとはなぜか日本史と世界史の教科書のみ。好きだった国語や音楽の教科書を捨ててしまって、とても悔やんでいる。小学校の時の「ぶんがく」の本もどこに行っちゃったのかなぁ~??
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03-22 Thu , 2007
一休さん♪
うーん。薬を飲まなくなってもうすぐ2週間にもなるのに、何となく不安な感じがする。病院を退院して、世間に放り出された感じがしないでもない。(わたしは退院後、2週間して、再度入院したのよ。。1回目の退院してからはずっと世間に放り出されたような気がして怖かった)といって、病的に気分が悪くなるというわけではなく、何となく中途半端な感じ。

夜は最近、早めに寝るようにしている。昨日もわりかし早く寝たんだけど、そうすると、早朝に目が覚めるのね。今日は朝6時前後に起きて、しばらく眠れなかった。でも、ある程度また寝ころんでると、今度は眠たくてたまらなくなる。で、起きるのは10時過ぎ。できれば8時頃に起きたいと思ってるんだけど。なかなか難しい。

そういえば、昨日の夕食時に、7時のニュースを見てた。それが終わり、7時半から「NHKスペシャル」。(「クローズアップ現代」は、昨日から4月2日までお休み。国谷さん、それ以前2週間休んで、その代わりに畠山さんがやってたけど、どこか、外国に取材でも行ってるんだろうか~?)なんか教育の番組みたいだったので、続けてみてたら、突然安倍総理の顔が出てきたので、即座に変えた(笑)絶対に夕ご飯がまずくなることが分かってたから。

で、彼女が「他の番組、なにがいい~?」ってんで、見たのがAnimaxでやってた「一休さん」。超懐かしいアニメ。ものごころが付いたときには既に始まっていたような気がする。(今調べたら、'75年10月からだから、小学校1年生かー。記憶にはないわな)あの頃は毎週観てた。まぁ、あの当時から友達と「一休さんと将軍義満が友達みたいな関係っておかしいよね」って話はしてた。

ところがね、今、大人になって見てみると、笑えるくらいにめちゃくちゃな番組だったのね。新右衛門さん、アンタ何者?とか思っちゃう。。昨日なんか将軍義満に対して「拙者は一休さんの弟子でござる。一休さんを切るなら、拙者が今から腹をかっさばくので、その屍を乗り越えて。。」とか言ってる!もうめちゃくちゃ。一休さんは一休さんで、本堂の柱に鎖で縛られてるんだけど、自分がやった、という設定。だけど、自分で自分の身体を柱に縛り付けるなんて絶対無理。あの頃は、そういうことがおかしいって見抜けなかったんだろうか。。?

彼女は大人の顔だけ劇画調で笑える、と言っていた。が、将軍義満を義家と間違えてた!あーんなに歴史に詳しい彼女が!?ってすげーびっくりした。わたしはこの一休さんで、金閣寺=義満って覚えたようなもんだ。

しかし途中のジングル(アイキャッチともいう)「あわてない、あわてない 一休み 一休み♪」ってーのと、終わりに出てくる「どうだった?(でも、わたしは「面白かった?」と記憶してたんだけど)じゃあねん♪」というのが超懐かしかったし、オープニングは見なかったものの、エンディングからその次の番組予告の音楽までぜーんぶ覚えてて、思わず歌っちゃったぜ。

しかも、エンディングの声優の名前を見ると超懐かしい。まぁ、一休さんの声が藤田淑子だってのは覚えてたけど、ナレーターと弥生の声が同じだと思ってたら、ナレーターは増山江威子で、伊予の局(一休の母親)と同じだった。弥生は、吉田理保子(しかも、Wikipediaによると、初期はあの「小山まみ」がやってたらしい。びっくり!)。あと、はせさん治とか懐かしい名前がいっぱい!あ~、はせさん治ももうだいぶ前に亡くなったよな。吉田理保子といえば、初代アニメトピアに出てたけど、わたしは二代目(田中真弓&島津冴子)からしか聞いてないので、知らない。和尚さんが宮内幸平とは。。宮内幸平のイメージってもうちょっとコミカルな役のイメージがある。でも、この人も死んじゃってたのね。。

Wikipediaによると、この番組は'82年6月末までやっていたらしい。それによると「最後の方は視聴率が低迷していたので、最終回の内容を覚えている人は少ない」って書いてあるんだけど、わたしはその数少ない中に入っている。'82年といえば、ちょうどアニメファン真っ盛りの頃だった。「一休さん、どういう終わり方するんだろう?」って思ってたから、最後は安国寺を出て修行の道に入っていく、修行僧の姿をした一休さんが長い道を画面の向こうに向かって歩いていく、というシーンは鮮明に覚えている。今までとは違ってシリアスに終わったんで、なお鮮明に。

あと、覚えているのは、細かい部分は忘れちゃったんだけど、将軍義満から「ありがたい言葉だったか長い言葉を書け」って言われて、すげー長い「し」という字を書いた、という回を妙に覚えている。(多分、これは史実に基づいたものだろうから、どこかを探せば見つかるはず)

番組途中のCMを見ていたら、厳選された60話がDVD何枚かになって売ってるらしい。しかも、4万もする。。(汗)でも7年間やったわけだから、単純に考えても350回分くらいはあるはずで。それを60話にするって、かなり乱暴だな。ってAnimaxの方も昨日見たのは「傑作選95話」だった。んー、でもこれからだと、傑作選で95話目なのか、本物の95話なのかはよく分かんないな。

ってわけで、こういうのを見ると、途端に気分がよくなったりする。

あー「芋たこなんきん」。平成3年から「数年経ちました」って言われたんで「一体いつ?」って思ってたら、パフィーの「これがわたしの生きる道」が街に流れていた。ってことは、'96年(平成8年)らしい。最近、またもやカモカのおっちゃんになんかありそうな気配。。実際にカモカのおっちゃんが自分の病院を閉めたのは昭和50年代らしいので、どこまでがホントのことで、どこまでが作り話なのか、よく分からん。

そういえば、昨日、27,000ヒット達成しました。が、昨日はあと7人ってところでmixiニュースを元にした日記を書いたため、マイミク外の人に踏まれてしまった。でも、どうしても書きたかったのだー、、(ちなみに「希望枠'08年廃止」(ただし、2008年6月現在、この記事は既にありません)わたしはこの松田日本野球連盟会長の言葉を読んで、どうしても前会長の英ちゃん(山本英一郎)のことを思い出してしまったので、一言書かずにはいられなかった。。mixiで日記を書くと、最新のしか表に現れてこないから、きっとその前の「岐阜愛子」の日記は読んでないだろうな~、、ま、いいけど。

あとそういえば、昨日久々にマイミク外しを食らってしまった。数字にはやたら敏感なので、減るとすぐに気がついてしまう。けど、誰からマイミク外しをされたのか、マイミク一覧を見てもどーしても思い出せない。(まだ3ケタいってないっていうのにw)「ま、いいか」と思ったあとに「足あと」を見たら、誰か分かってしまった。っていうか、わたしの場合は、人の日記を見た直後外すなんてバカなことはしない。そりゃ、外すときは前もって「外します」と宣言するし、外したあとは「外しました」って日記を書くけどさ。ま、去る者は追わずなので、もう見に行くことはないだろう。

あとわたしのプロフィールのところに「基本的に既婚者ゲイと主婦レズの人とはマイミクお断りします」って書いてあるんだけど、これを外そうかな、と。確かに価値観は合わないと思うのね。だけど、自分の中でそうではないと思っている自分に気がついてしまった。不思議なことにね。どうしてなんだろう?って考えてるんだけど、自分でもよく分からない。わたしは既婚者ゲイの彼を心の底から応援している。。
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03-21 Wed , 2007
岐阜愛子
そういえば、昨日書くのをすっかり忘れてた。厚生労働省で「終末期に関するガイドライン(たたき台)」のパブリックコメントの件で、12日に要望書を提出をした遠藤まめた氏が「厚労省とのやりとりと考察」という題で、そのときの模様をブログに書いている。

厚生労働省とのやりとりと考察(3月12日の報告)

現在は第2次募集というわけで、締め切りは3月25日らしい。わたしは既に第1次募集の時点で署名しちゃったんで、できないけど。していない方は是非。

第1次締切り&第2次募集(~3月25日)

あと、わたしはブログを休んでいる間に、やっとこさ厚生労働省のパブリックコメントを書いた。(自分で呼びかけてたくせに、実はまだ書いてなかった(^^;)Word形式のやつを添付ファイルにして送った。

昨日も書いたけど、ブログを書いてない間、結構いろんなことをやっていた。前にわたしをいろんなところに連れてってくれたカープファンのおっちゃんと連絡を取りたかったんで、その当時の仲間にメール。今はそのおっちゃんとも連絡が取れる状態になってるんだけど、、ちょっと放置(笑)

そのおっちゃん、その当時は、ある雑誌の副編集長をしていた。が、それまで、はちゃめちゃな人生を送っていたらしく、実におもろいおっちゃんだった。既婚者だったんだけど、二丁目にも行ったことがあるらしく、レインボー書店(もう今はない)の前にたくさん人が立っているなーという話もしてた。わたしはその当時、二丁目に行ったことがあったけど、もちろん、その事実を承知していると言うことが言えずに相づちも打てなかった。他は誰も知らなかったのか、誰も反応しなかった。

まぁ、前も書いたかも知れないけど、わたしたちはIRCというシステムを使ってのチャットをしていた。CHOCOA(チョコア)が非常に有名なクライアントソフトで、それを使ってたんだけど、この3月末で使用期限が切れる、と思ったら、来年の3月末まで延びてた。。実はその当時のチャットの内容はすべて3.5インチフロッピーに入っている。が、今では何を話してたんだか怖くて見られない。。(^^;

そのこないだわたしと連絡を取った人は、ある社会人野球チームを持っている会社に勤めている。その人がくれたメールで、自分の会社のことを数字4桁で書いてるのを見て、すげー懐かしいと思った。あ、気になる人はグランドスラム8号から12号の値段(税別)の数字です。特に、偶数番号の号の裏表紙が、その会社の宣伝になってます。あの当時は「これは狙ってやったんではないか」と話してたんだけど。

そうそうその当時「みかか」って言葉も使ってたんだけど、これは結構有名な言葉だったのね。Wikipediaにも「インターネットスラング」って言葉で載ってた。ただ、わたしらは、みかか=社会人野球チーム、ってことで使ってたわけで。「みかか東京」とか「みかか関東」って感じで使ってた。決して電話料金を恐れて使ってたわけではない。それとともに「岐阜愛子」って言葉も使ってたんだけど、こっちに関しては、検索しても何も出てこないね。。これ、「gif icon」のことだったんだよねー。で、その当時、岐阜愛子さんがお辞儀をしているiconが確か、あったはず。。

昨日の夜、ちょっと、gifではなくjpgをいじってたんだけど、突然「岐阜愛子」のことを思い出した(笑)

それとともに、ある人の日記のコメントで「パソ通」(パソコン通信)って言葉が出てきて、超懐かしいと思った一方、あれ、別の名前で同じようなのがあったよなーって思って、いろいろ調べてみたのね。そしたらそれは、パケット通信だった。パケット通信って、アマチュア無線の周波数帯を使った通信方法だったのね。全然記憶になかったわ。

アマチュア無線といえば、実はわたしも無線の免許を持っている。中学の時に本屋で「CQ Ham & Radio」(CQ誌)って本を見つけて、高校に入ってから割とすぐに晴海に受験しに行ったんだよね。そーいえば、その当時、誠文堂新光社が出していた「初歩のラジオ」(初ラ)を読んでいた。思い出したが、小学校の時、既に秋葉に行って、お風呂ブザーとか、3石ラジオなんかのキットを買ってきて作ってたんだよね。なので、なぜかわたしは半田ごて、20Wとか30Wとかを持っている(もちろん、goot製品)。半導体(トランジスタのことね。石ともいう)は熱に弱いんで、20Wの半田ごてを使いつつ、ラジオペンチで熱が伝わらないように半田付け、とかやってたなぁ~。。もちろん、電気テスターもちゃんと持っている。今は全然使ってないけどね。(苦笑)

そういえば、その当時(小学校時代)はちょうど真空管と半導体の入れ替わりの時期で、よくそこら辺に捨ててあった電気製品から、真空管を抜き取って集めたりしてたな。。

「ハムフェア」にも行ってたな~、、YAESUとかTRIO(現Kenwoodっていうか、その当時からもうKenwoodだったけど)とか、Marantz、MIZUHOなんかとっても懐かしい会社名。。(遠い目)秋葉の九十九電機やロケット3号館なんかにも行ってたな~。ラジオデパートにもよく行ってたし、ある意味、今と違った「ヲタク」だったのかも?(苦笑)

アマチュア無線ってのは、免許を取ったからすぐ開局できる、ってわけじゃなく、開局するまでにまた金がかかるのよね。確か、その当時開局するための金は9,000円かかったんじゃないかと記憶している。そこで初めて「免許状」がもらえて、開局できるのだ。しかも、無線機にJARL(社団法人日本アマチュア無線連盟)承認のシールをまた買わなきゃならなくてね。すげーぼったくり、って感じだった。しかも、自分の使用する周波数帯しか使えなくて、それ以外の周波数帯の無線機を買って使おうと思ったら、書き換えをしなければならず。。よくアマチュア無線家はアマチュア「無銭家」と言われてた。

ただ、うちの場合は、高層マンションに住みながら1階に住んでいたので、アンテナを立てることもできず。初めて買った無線機はYAESUの2m(144MHz;通称「いっちょんちょん」)のFMハンディ機だった。これでも高校生でできる最大限の範囲だったのだ。。(そーいえば、2mのアンテナって「ポコチンアンテナ」とか言われてたな(笑))で、アンテナは付属の「ポコチンアンテナ」ではなく「ロッドアンテナ」にして。家の中では絶対にできないので、わざわざ屋上に上がって「CQ、CQ」ってやってた。ただ、悲しいかな、FMの周波数帯はほとんど近辺しか受信できないので。。

で、そのうちうちの高校の物理部が無線をやることになって、そこでやらせてもらってた。(物理部の友達がいっぱいいたもんで)アンテナも屋上に建てて。ただし、なぜか144MHzのSSB(Single Side Band)の固定機。この頃は結構144ってのはマイナーな周波数帯だったんだけどねー。わたしは6m(50MHz)くらいでやってみたかった。

その後、確かMIZUHOの6mとなんだっけな、もう一つ、買ったはず。この無線機はいわゆる「自作」しなければならなくて、しかもハンディ機だった。(だから安かった)といっても、非常に簡単な「自作」で済んだんだけど。で、免許状も書き換えして、、だけど、ほとんどやらなかったなー。。っていうか、免許状は確か5年ごとに書き換えがあって、そのたびに金を払わなきゃならなかったのよね。ホント、金がかかる趣味だった。。

その頃は「ラジオライフ」(三才ブックス)って割とアングラな雑誌も買ってて(これだけはまだ今も残ってるはず)、無線機の改造をして、警察無線や消防無線を聞く方法も載ってた。で、わたしはそのYAESUの2mハンディ機を改造して、警察無線をしょっちゅう聞いてた。そのころは警察無線もアナログだったから、丸聞こえ。ただ、個人情報を流す際(例えば、車の照合など)は「秘話反転装置」をかけて分からなくしてた。けど、秘話反転装置っていうのは、音声の周波数を逆転させたもので、ちゃんと「秘話反転装置を解読する機械」なんてものも存在してたんだよね。ま、わたしはそこまではやらなかったけど。まー、面白かった、面白かった。学校から家に帰ってきてからはずっと警察無線を聞いてノートに付けてたりした(爆)「こんなんで警察呼ぶのかよ」って思ったこともあったし、あとは結構「ガセ」も多かった。勉強しないでこんなことばっかやってたんだなぁ。。(しみじみ)

ってこういう話をすると彼女は「もともと理系だったんだねー」って言うんだけど、わたしは別にそういう意識は全く持ってなかった。「パケット通信」や「パソコン通信」もやりたかったんだけど、なんせ金を持っていなかったので、できるはずがなく。ホント、パソコン通信は憧れだった。

で、ここからラジオを聴く生活に入っていくんだけど、これを書くとその倍くらいの分量になるんで、それはまた後日。73&88!(←超懐かしい!)
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03-03 Sat , 2007
年齢という数字
いやあ、ちょっと昨日はmixiの方で、別の題で今日の日記を書きます、と宣言したものの、そのことについて調べていたら、時間が到底足りないことに気がついて、もうちょっと自分の中で理解度を上げてから、再度、書くことにしました。

ところで、落としたぜ。ジューシィ・フルーツ「Drink!」のCD。ヤフオクで。¥4,000円也。ま、Amazonの13,800円より随分、というか、相当マシですわ。だいたいどっちも中古CDだしね。ま、聞けりゃ、それでいいわけだから。(心配なのはオークション詐欺だけど、まぁ、4,000円ごときでオークション詐欺はしないだろう、多分)あと、狙ってるのが、今のところ2枚ありまして、1つの方は割と安く落とせそうなんだけど、もう一つの方は既に今の時点で2件の入札が入ってて、ちょっとその間に入って競り落とせるかが問題。

逆に、わたしも買ったはいいけど、気に入らないCDはヤフオクに出そうかな~。いやあ、実はYMO、サエキけんぞう関係で「はっぴいえんど」のCD持ってるんだけど、あれは自分に全く合わず。はっきり言って全く聞いてない。あとは喜納昌吉関係で買った「久保田麻琴と夕焼け楽団」のCDも全く合わなかった。。しかし、相場が全く分からないのであった。需要があるんだろうか???Amazonのユーズド価格なんかをみて、研究しよう。。

そうそう、最近、わたしの周囲で「子供が10歳になった」「自分が20歳になった」って人がいてね。自分がそのときどう思ったのか、思い出していたところだったんだ。

10歳になったときは、鮮明に覚えている。うちは小学校が私立だったんで「身分証明書」なるものが発行されてたんだけどね、それに「10歳」って書いてあるのを見てね「あー、二桁になった。これから死ぬまで、ずーーーっと二桁なんだろうな」って思った記憶がある。わたしは、他の人もそう思ってた人がいると思ってたんだけど、未だにそういう人と会ったことがない。あれ?普通、そう思わないかい??あまり自分が三桁になったところなんか、想像が付かなかったし、今も想像が付かない。それでも、泉重千代さんは長生きしたよねー。なんてったって120歳まで生きたんだから。。(今でも男性としては世界最長寿記録を持っているらしい)もう、わたしの時代の「最長寿の人=泉重千代さん」だったよね。その証拠に、それ以来、毎回ニュースで「この人が日本で最長寿になりました」って言っても、記憶に残らないうちに亡くなっちゃうんだもんね。でも、今、Wikipediaを読んだんだけど、あの人、江戸時代生まれだったのね。。

Wikipedia 「泉重千代

で、20歳になったときは、まず選挙権がもらえたことが嬉しかった。あと、酒とタバコもOK。わたし、本当に20歳になるまで酒は飲んだことがなかった。っていうか、一浪して19歳で大学に入学したけど、もうその翌月には20歳になってたし。それに合気道部の「新入生歓迎会」(これがものすごいのだ。一升瓶に「○○くん、入部おめでとう」と書かれた酒が用意されて、無理矢理に一本全部空けなきゃならなかった。ただし、うちの大学はもともと酒飲む大学だったから、急性アルコール中毒で救急車、なんてことは滅多になく(そういうのは恥)、フォロー体勢(?)が万全だった。しかも「酒の一滴は血の一滴」と言われ、一気飲みなどは絶対にしなかったし、させられなかった。)

でもね、わたしはその新入生歓迎会の前の日に見事に風邪を引いてしまい、、欠席。翌日のクラブのメンバーの顔見たら、すごかったわ。。顔、腫れ上がってるし!!で、そのときはわたしはまだ19歳だったので。。飲まずに済んだわけだけど(^^;他の同学年の子からは「裏切り者」って言われたわ。。でも、風邪引いちゃったんだから仕方ないじゃん。。

最初に酒を飲んだ日のことは、今でも忘れない。あのときは楽しく酔っぱらってたのよね。。酔っぱらいながら、ラジオ番組に葉書書いて、珍しくリクエスト(某FM曲に毎日葉書書いてたんだけど、リクエストは一切しない変なリスナーでした)したんで、かけてもらえたのよね。「The Moody Blues」の「Your wildest dreams」。多分、このときエアチェック(ってこれまた懐かしい言葉)したテープ、残っているはず。この曲、すんげー好きで。でも、カラオケには入っていないのだった。。

あ、で、20歳になった日に行ったところは、国立国会図書館。なんかね、以前は大学生だったら入館できたらしいんだけど、わたしの時代は20歳にならないと入館できないことになってて。それで、20歳になった記念に行ってきた。入館時に身分証明書を見られて「これは昨日だったら、本当に入れなかったのだろうか。昨日と今日の差って一体なんなんだろう?」って思った記憶がある。しかし、国立国会図書館、これまた制度が変わったようで、今は18歳以上なら誰でも利用できるらしい。

しかし、初めて行った国会図書館は、わたしが行った図書館と全く違っていた。いわゆる「閉架式」。見たい資料は請求して、職員が取ってくる、というシステム。もう「へぇ~」って感じだった。そのときはそんなこと全く知らなかったので、ほとんど見学して帰ってきた、って感じ?その後はちょくちょく行ったけど。ただね、わたしがどこの図書館を探してもなくって、これだったら国会図書館だ、と思って行って請求した雑誌が、なかったのよ!しかも、読みたいと思っていたその号だけ!!(その前後の号はあった)国会図書館も万全じゃないのね、ってそのときに思った。。(ちなみにその本は「ラジオパラダイス」の'86年1月号。)

25歳になったとき「四捨五入したら30歳じゃん」って思って、ものすごくショックだった。急に自分が歳を取った気がした。おかげで本当に30歳になったときは全くショックではなかった。だって5年間「30歳」って思ってたんだもん、それから(笑)

で、27歳になったときは「3の3乗」だ、と思った。1の1乗、2の2乗、3の3乗までは、普通だったら生きられる。しかし、4の4乗は、おそらくというか、絶対にこの世にいない。そういう意味で、27歳になるのをものすごく楽しみにしていた。ところが、わたしの27歳は1回目の鬱になってしまい、最悪の1年だった。

30歳になったときは「これで参議院の被選挙権がもらえた」と思った。(ただし、出馬するつもりはまったくなし)「これが自分に与えられた最後の権利だろうな」とも思った。

もともとわたしって、自分の年齢に関しては「今年は素数の年」とか「今年は何で割れる年」とか思うタチらしく。。32歳になったときは周囲に「今年は二十歳!」と言って、触れ回っていた。そう、10進数では32だが、16進数でいうと20なのだ。(そういう意味でいうと、わたしは現在16進数で26歳ということになる)周囲から散々バカにされたが、二十歳だもん!と言い張っていた(笑)

そして、なぜか35になったときは「四捨五入して40だ」って思ってもショックはほとんどなかったな。それより5×7かよ、あんま、面白くない数字だな、って思ってた。

で、現在、わたしは38歳なんだけど、これまたすごく憧れの数字だった。なぜって。。それは、中1と中2の出席番号だったからだ。わたしは中1と中2は父の都合で大阪にいたんだけど、その中学がものすごくマンモス校でね、1学年12クラスもあったの。で、中1と中2の間に組替えがあったんだけど、わたし、学年は2年になったけど(当たり前)、組も出席番号も全く一緒だったの!!すごい確率。だって、1学年500人以上いる中で、組も出席番号も変わらなかったのよ。で、大阪時代は、最初は少し「東京から来た」ってんで、いじめられもしたんだけど、それ以外は本当に楽しくて、多分、今までに一番楽しかった頃は?って聞かれたら、あの大阪の2年間だと思う。。だから、自分の中では38は特別な数字だったのだ。(ちなみに今までの出席番号は、全部覚えているわたし。。高校の時は1年の時35番で、2、3年の時は33番だった。大学の頃は81034だった。くだんないとこで記憶力があるのよね。。もっと他のところに発揮できないのかしら?)

で、やっぱ38歳の時も鬱だったんだけど、それでもわたしにとっては特別の年になりつつある。いろんな経験ができたし。それが、あともう少しで終わってしまう。。それが非常に残念でね。

来年は13×3かよ。おもろくない数字ー、って思ってるし。(笑)歳を取るにつれ、素数が減ってくるから、つまんない。次の素数は41か?一体、何してんでしょうねー。。

40になったらもう一つ「義務」が出てくる。そう、介護保険を払わなければならない年齢。。30のときで「義務・権利関係」はすべて終わったと思っていたが、知らないうちに義務が1つ増えてた。。でも、多分、それで終わりだろうな。

そういえば、28になったときは「完全数」とは思わなかったな。次の完全数、496、、当然、この世には存在していない。自覚しなかったのは惜しかった。

って彼女からは「そんなこと考えてるのはアンタだけ」って言われたんだけど。。そんなことはないよね??(笑)

追記:うちの人形「プリモプエル」が3日前から「桃の日、いぇい!」と言ってますが、一体「桃の日」ってなんやねん?と毎年突っ込みを入れてます(笑)そういう今日は3月3日。だからといって、なんなのって感じですが(笑)
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02-27 Tue , 2007
お宝ざくざく??
おっと、最初に言っておきます。彼女とはケンカしましたが、別れるとか別れないには繋がらないと思います。こちらからは彼女とはもう離れないと決心していますし、別れるとしたら、彼女から「別れよう」って言ってきたときですかね。。

でも、昨日の夜に話し合っていたら、彼女がわたしに対して最大の屈辱的な言葉(ま、偽善者のわたしに「あなたは善人だ」と言われたような感じかな)をぶっかけられて、おまけに「Ronの言葉は軽い」と言われてしまいました。でも、その言葉を聞いた瞬間、思い出したのが、近田春夫&ビブラトーンズの「夢のしずく」という曲。この曲はメンバーの間では”弱み”と呼ばれていたらしく、、歌の最後の歌詞が「僕には重さがなくて」というフレーズが真っ先に頭によぎりました。(彼女の話、何も聞いてない(^^;)

取り敢えず、彼女はともかく、わたしの中ではまだまだ葛藤が続いています。ま、「考えるきっかけが見つからない」と言ったら、上のようなことを言われたんですけどね。ま、わたしの「宿題」でもありますかね。。

で、昨日は午前中(つーか、4時頃まで?)は、ずーーーっと「Under Pressure」を聞き、その後昼寝して、夕食後は、なぜか突然、白浜久の「Start Only One」が聞きたくなって、寝る直前まで聞いてました。で、今日、今はハルメンズの「母子受精」を繰り返し聞いております。。

そういえば、先日、mixiをやってたら、突然、好きな歌手のコミュがどうかを検索してみたくなり、、やってみました。結構あるもんなんですね。で、その中で「平山みき」のコミュを覗いてみたところ、あの「鬼ヶ島」のCDが4,800円になってる、と書かれてまして。。「あれ、そうなんだ~」と思って、Amazonのサイトに行って探してみました。ま、その書き込みがされたのは、もうだいぶ前のことだったので「鬼ヶ島」はありませんでした。昨日見たら「鬼ヶ島」のLPが出品されてました。いや、「鬼ヶ島」は本当に名曲揃いなCDなのです。平山美紀時代を筒美京平の元で10年過ごし、その後、近田春夫がプロデュースした作品で、作詞、作曲は近田春夫が、編曲はすべて窪田晴男がやっています。「鬼ヶ島」の歌入れのとき「歌えない」と平山みきが泣き出した、という話も載っているほど。ただ、セールス的には恵まれなかったので、その後の平山みきがその路線には行かなかった、と書いてあります。

で、その後に筒美京平と近田春夫の対談が載ってるんだけど、これを読むとすげー笑えるの。筒美京平、多分、この曲を聞いて気に入らなかったんだろうな~って思う。そういう意味でも画期的なLP(当時はね)だったらしい。それをわたしはちょうど、CD化されたときに買ったんだよね。ちなみにわたしがこの「鬼ヶ島」を聞いていたら、彼女が「誰が歌ってるの?水前寺清子?」と言ったほどのものです。。

それから、自分の持ってるCD、片っ端からいくらになってるか調べたんだけど、なんと遠藤賢司の「黎明期ライブ」が9,600円で売っててびっくりした。あとはCHIKADA HARUO & VIBRASTONEの「Vibra is Back」も相当な値段(6,000円くらいじゃなかったかな)で売ってた。でも、これって、ビブラストーンじゃなくて、President BPM時代じゃないの?って思うんだけど。。だって「Hoo Ei Ho!」のLP持ってるけど、President BPMだったじゃんよ!?あと「星くず兄弟の伝説」も6,000円から。なんか結構持ってるCD、お宝じゃん?って思った。あと、ハルメンズのCDも割と高かった。でも最初の「近代体操」はそうでもなかったのに、次の「20世紀」の方が高かったのはなぜ??やっぱ「20世紀」の方が曲的にはいいんだろうな。わたしも「20世紀」の方が好きだし。(今、聞いてる「母子受精」も「20世紀」に入っている曲だし)

だけどね、だけどね。わたしが探していたはずなのに、どうしても探しきれなかった、ジューシィ・フルーツの1stアルバム「Drink!」がなんと13,800円だったのだ。。元の値段、1,500円。いや、わたし、これはLPでは持っているんだけど、プレーヤーがないので、取り敢えずはカセットに録音してあるんだけど、CD、めちゃ欲しくて。ずーーーっと探してたんだよね。いつの間にか、発売されてたんだわ。。しかも、少年ホームランズ(サエキけんぞうがハルメンズやる前にやってたバンド)のCDも、出てたのは知ってたんだけど、イマイチ買う気がしなくて。。買ってなかったのよね。ま、聞きたかったのは「メロウ野郎 in 津田沼PARCO」くらいだったので、迷ってたんだけど。それもずいぶんな価格で売っていた。買ってないCDに限って高く売っているのはなぜ??

でね、そういや「ヤフオク」ではいくらくらいで売ってるんだろう~?って思ってみてみたんだけど、さすがオークションだけあって、安いのよね。(最終的にいくらで落札されるのかは知らんが)しかし、あの「Drink!」さえ、4,000円で付いている。。

「これは誰も出してないだろう」と思われた加藤賢崇の「若さひとりじめ」なんか、ヤフオクでじゃんじゃん売ってた。。しかも超安く。あと窪田晴男の「東京的Vol.1」も案外安い値段で売っていた。これにはびっくりしたな。

でもわたしは基本的に'80年代からのCDをたくさん持っていて、特にパール兄弟のCDなんかは、もちろんリアルタイムで買っているから、それなりに高い。(ただ、その頃はCDの帯はじゃんじゃん捨ててたので。。もったいない(^^;)ポリドール時代のパール兄弟のCDって、一度'90年代になって再販されたのね。初めて知った。しかも、パール兄弟のビデオ「AT HOME」(脚本・監督がなんと手塚真)なんか、ヤフオクにもAmazonでも出品されてなかった。多分、売るとしたら値段、付け放題。。(でも売らない(笑))

その頃って、LPとCDが共存していた時代だったから、LPも結構売ってるんだけど、やっぱ安い。。同じジューシィ・フルーツの「Drink!」もLPになると、ぐぐーーーっと値段が落ちる。けっ(-o-)

ただ、わたしは河内家菊水丸の「Happy」の初回限定版を持っているし(初回限定版は、河内家菊水丸の手ぬぐい付き)、そういう意味では上々颱風の「上々颱風」も初回限定版を持っている。あと鈴木賢司の「COSMIC WORDS」もCDで持っている。(ただし、ホント、あの時代はLPが主流だったもんで、鈴木賢司のそれ以前のは全部LPなんだけどね)S-KENも全くと言っていいほどCDの方は出てなかったし(わたし「魔都」、CDで持ってるもん)、S-KEN&HOT BONBONSもそんなに出てなかったな。あ、S-KEN&HOT BONBONSの「千の目」も名曲揃いです。その次の「セブンエネミーズ」も好きだけど。

驚いたのが、S-KENで検索していたら、なんと喜納昌吉が出てきた。「すべての武器を楽器に」というCDになんと、S-KENがプロデュースに加わっているらしい!まさか、こんなところで繋がっていたとはーーー!!!(驚)

もっと探せばマイナーなCDはたくさん持っているので、わたしって結構お宝持ってるってこと???(でも、マイナーすぎて需要がない可能性もあり(笑))だいたい「苺とチョコレート」のサントラなんて、買う人いないと思う。。あー、もしかしたら「Shall we ダンス?」の英語版(リメイクされたのじゃないわよ。元の「Shall we ダンス?」がアメリカで公開されたときのビデオ。アメリカ向けに日本とはちょっと違う作りになっている。んで、英語の字幕スーパーなの。そういう意味では「逆輸入」になるのかなぁ?)は高く売れるかも?もちろん、これはサントラも持っている。なんてったって、好きなものはなんでも揃えてるのだ、探し出して。もちろん、売る気は毛頭ないけどね。だって、今だって現役で聞いてるんだからね。それにしても。。「Drink!」のCD、欲しい。。なんであのとき探し出せなかったんだろう??超不思議。欲しくてめっちゃ、探してたのになぁ。。

逆に手放す人って、どういう人なんだろう?やっぱ、業者の人なんだろうか。だったら、オークションじゃなくて「レコ(CD)掘り」するべきかなあ~。。なんて思ったり。そっち関係のHP、検索してみるかなぁ。。昔は渋谷か町田辺りにそんな店がたくさんあったと記憶しているんだが。。

そういや、今日の晩は、モスラナルシス姐さんがうちに来るのだ~。んで、3人で鍋すんの。めちゃくちゃ酔わせて介抱するふりして襲う、、(これって近田春夫&ハルヲフォンの「恋のT.P.O」まんまじゃん!)なんてこと全然しないので、安心してうちに来てください(爆)
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02-26 Mon , 2007
自己肯定力
昨日のブログの中に出てきた「自己肯定力」について書こうと思ってたんだけど、出かける時間があまりにも迫ってきていたので、書けなかった。んで、幸い、今日は出かける用事がないし(本当に久々って感じ。おとなしくして、早く風邪を完治させなければ。また遊びに行けない(笑))、この「自己肯定力」について、思ったことを書こうと思う。

「自己肯定力」というのは、簡単に言うと「自分に自信がある、自分のやっていることを受け入れることができる」ということなんじゃないかとわたしは、先生のトークイベントを聞きながら思っていた。この「自己肯定力」、今の日本の子供は他の国の子供に比べて格段に低いらしい。「これはとても問題があることだ」と先生は指摘していた。で、わたしの場合を考えると「自己肯定力」がちゃんと備わっているのだ。今までの人生を振り返ってみても、ほとんど「自分はダメだ、自信がない」なんて自分を否定的に思ったことはなく、というか、そんなこといつ思ったことがあるのか?と逆に自分に問いたい気分だ。

これがあの小学校に行って、遊びきったことによって獲得したものなのかどうかは分からない。もともと(根拠のない)単なる「自信家」だったのかも知れないし。こればっかりは一つの人生しか生きられないわけで「もし、わたしがその学校に通っていなかったらどうなってたの?」と考えても、答えが出てくるわけじゃない。

端から見ると、わたしの今までやってきたことはめちゃくちゃだと思う。確かにそのときの興味のあるものに対して、進路を決めたのにもかかわらず、途中で興味の対象が変わって、あちこちと専攻を替えた挙げ句、結局その道は断念したし、せっかく就職できたのに、彼女ができたので、仕事を辞めて彼女の元にやってきたり。そしてまた、これから新しい道に進もうとしているし。もしかしたら、同じところにとどまるのが嫌いな人間ではないのかな、という気もしている。どっちにしろ、わたしの興味の対象が最初からあまりにも狭すぎるのだ。で、どんどん奥深まったところに行ってしまって、結局最後は「この研究をしているのは、日本ではわたし一人」状態になってしまった。

でも、それだからと言って「なんてわたしはふらふらしたダメな人間なんだろう」なんてことは全く考えたこともなく。逆に「誰もこんな人生送ったことがないだろう、うひひ」などと思っている。

そういえば少し前の「芋たこなんきん」で、徳永家の長女が自分の進路について、とても迷っている話があった。その中で少し気になったのが「一度こうと決めたら、それをやり続けなければいけない」ってことで、、確かに強い信念があって、それに向かって、夢を実現した人も世の中には多いかも知れないけど、たとえそのときにある分野に興味があったとしても、やってみて違うって場合だってあると思うし、それに気づいた時点で自分の進路を変えたって全くおかしくないわけだ。(確かに東子さんは、証券会社から、本当に自分のやりたいことを見つけて、着物デザイナーになった人だけど。でもそれ以外の人はすべて、小さい頃から「なりたい、なりたい」と思い続けて、それでその夢を実現させた人ばかりなのだ)ま、時代背景が'70年代、ってことで、そのときに置かれていた女性の状況なんかは全部無視して、言ってるわけだけど、でも、わたしは自分がそのときに「やりたい」と思ったことは、必ずどこかに道が繋がっていると思うし、その道が途中で変わろうと、全くおかしいことではないと考えている。

それに「将来こうなりたい」と思わずに中学、高校時代を過ごしている人っているんだろうか?やりたいことがたくさんあった自分に関しては、本当にそういうことは考えられないことで。大学受験時(浪人時代を含めて)は自分の将来のことに対して本当にあれこれ考えていて(やりたいことが多すぎた(笑)だから、わたしが現役時代に受けた学部と浪人時代に受けた学部は全く違う(汗))、ほとんど勉強なんかほとんどしてなかった(笑)で、浪人時代が終わるときに「あー、いろんなことが考えられて、楽しかったのに」と少し惜しく思った覚えがある(笑)

あと自分が(レズ)ビアンであると気がついたときも、あまり、というかほとんど悩まなくて、すんなり自分のことを「あ、わたしってこういう人間なんだわ」って受け入れられたのも、この「自己肯定力」があったからではないかと思っている。今度、この話を先生にしてみようかな。。

ところで、昨日は帰宅してから、彼女と言い合いに。具体的な内容に関しては書かないが、最初はわたしの方が、彼女から言われたことに対して腹を立てた。彼女は「自信を持っている人の方が危ない」とわたしに言ったのだ。確かに物事には「絶対」ということは死ぬこと以外はないと考えているから、絶対はないかも知れない。けど「自己肯定力」ではないが、わたしはそのことに対して非常なる自信を持っている。

で、今度はわたしが彼女に向かって「じゃ、そういう人はみんな○○されてるってことだよね」って言ったら「そういうのは○○の定義じゃない」と言う。○○の定義については、わたしもよく分かっている。でも「じゃあ、こういう場合は?」とかしつこく聞いていたら「そういうことを言う人とは付き合いたくない、って言ったらどうする?」と言われた。でも、それだったら彼女は○○されていることにならないか?とわたしは思うんだけど。(○○、が分からなかったらその中に「偽善者」という言葉を入れてもらってもいいかも。結局、わたしは彼女に対して「あなたは偽善者ですね」と言ったのと同じようなことだから)それでもしつこく聞き続けていたら「わたしはそれを正式に勉強したわけでもないし、答えられない」と言われた。「別に『公式見解』でなく、あなたがどう思っているのかそれを知りたい」と言ったんだけど、彼女の方は、今、仕事が一段落して、またすぐに次の仕事に取りかからなくてはならなくて、そういうことを答える余裕がないらしい。

それはわたしもよく分かっているつもりなんだけど、それじゃ、わたしの気持ちが治まらない。というわけで、わたしは朝からものすごくイライラしている。結局、

Cause love's such an old fashioned word

Love dares you to change our way of caring about ourselves

なのかな。

This is our last dance

で、踊っているか。最後のダンスを。(ちなみにこのフレーズはすべて「Under Pressure」から。朝からこの曲を聞きまくっているわたし。。意味がほとんど分かってないまでも突然聞きたくなった、というのは、単なる偶然か)
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02-19 Mon , 2007
今日はセラピーの日
なんだか、のんびり暮らしてるようで、案外忙しかったりして??(苦笑)

昨日は、一昨日のカラオケの「ウサ」をはらすように(なんで??(爆))、一日中、CDをかけて歌いまくっていた。

ハルメンズの「ハルメンズの近代体操」「ハルメンズの二十世紀」、135の「135」、平山みきの「鬼ヶ島」、アイドル伝説えりこのカセットテープ(これ、ホント久々に聞いた。曲名を知らないと思ったら、曲名は書いてなかった。CDからテープに録っただけ(^^;)、あとはBarcelona。このBarcelonaって、英語の曲だと思ったら、実はMontserrt Caballe(eの上に’が付く)の歌ってる部分って、多分、スペイン語(このCD、日本語版だから歌詞が付いてるけど、読めん。でも、Barcelonaはスペインだから、スペイン語よね。Motserrt Caballe自身がバルセロナ生まれだし(ここら辺のことは、わたしは全く知らん))。道理で今までこの曲を死ぬほど聞いても、歌えなかったわけだ。もちろん、途中で英語の歌詞はあるよ。「such a beautiful horizon」とかね。だから、そこは歌えるわけ。だけど、スペイン語は歌えない。。

そういえば、今まで書いてなかった(ような気がする)けど、わたし、結構、昔のFrench popsが好きで、France gall とか Michel Polnareff なんかも好きなのね(ただし、Michel Polnareffはホントにちょっとだけ) 。これは別に彼女の影響ってわけじゃなく、初めて(ビアンの)文通欄(古いでしょ)で知り合った人が教えてくれたのよね。(ちなみにこの人ね。だから、実はとても苦い思い出のある曲でもあって。。一時期はパタッと聴かなくなったんだけど。。それでも曲自体は好きだから、やっぱ、いつものように死ぬほど聴いてるんだけど、何回聴いても歌えない!英語の曲だったら、死ぬほど聴けば、歌詞カードなしでも何となく歌えるようになるんだけど、フランス語はまず、歌詞カードがあっても読めないし、何度聴いても発音ができない、というか、なんというか、、とっかかりが全くない感じ?あの独特の鼻に抜ける感じの発音、やろうと思ってもできない。。だから、カラオケにあっても歌えなくて、悲しい思いをしている。。もちろん、彼女は歌えるけど人に歌ってもらっても全然嬉しくないしね。。

彼女に発音を教わる、という手もあるんだけど、フランス語は本当に難しすぎて、教わってもうまく発音できないのだ。(もう、何回も教わりました。ふぅ。。)それに発音できない言葉は一つだけじゃないし。。というわけで、フランス語の曲は、カラオケでは捨てている、、せっかく好きなのにもったいない。

あ、そういえば前に喜納昌吉が作った「花(すべての人の心に花を)」、喜納昌吉自身が歌っているのは、矢野誠の編曲のやつ、って書いたけど、実は歌っている人で一番好きなのは、河内屋菊水丸なのだー。(河内屋菊水丸、わたしが大学時代に「かーか、きんきん、かーきんきん」という「フロム エー」のCMで歌ってた人だけど)彼の歌っている「すべての人の心に花を」は、ホント、泣かせる感じ。こぶしが回ってて。でも、当然わたしはそういう風には歌えないのだな。。おおたか静流みたいに素直な感じで歌うことはできるんだけど。。って書いてたら、河内屋菊水丸の「すべての人の心に花を」を聴きたくなってきた。。あとで聴こ。

ちなみに今はどうか知らないけど、わたしの大学時代、大学院生時代には、錦糸町で9月の初め頃に「河内音頭」の盆踊りをやってたのね。当時、錦糸町に住んでいる友達がいたので、2回ばかり参加したことがあるんだけど、めっちゃ楽しくてね。で、彼女は地元だから、もうそれこそ小さい頃から、参加してて。河内屋菊水丸がまだ売れる前から、錦糸町に来て歌ってたのを知ってた。で、やっぱり「彼は他の人となんか違うね」と話していたそうで。わたしが知ったのは有名になってからだけど、やっぱ、来てた。普通、踊ってると歌詞なんか分かんないのに、彼の歌う河内音頭だけは別なのよね~。踊りながら聴き、なおかつ笑っていた。あと友達は他のところは聞こえないのに「おや、松茸が。。」というところだけは、何故か聞こえる、といって大笑いしていた(爆)河内音頭も聴いていると面白いんだよね。ただ「これからー!」ってところで「ちょうど時間となりました~。この続きは次回に~」でいつも終わるのよね。で、次回はやんないのね、もちろん。なんか思わぬ昔話になってしまったけど、今でもやってるのかなぁ、錦糸町の盆踊り。また踊りたい。(ってわたしったら、大学時代はディスコでドスコイをやってたんじゃなくて、河内音頭で踊ってたんだわ。。(笑))

というわけで(どういうわけで?)、今日は第2回目のセラピーの日。前に行ったとき「自分の無意識を意識するように」って言われてから、どんどんつらくなっていき、、何回かセラピーの人とメールでやりとりをした。ただね「つらいだろうけど、その原因はいつかは向き合わなければいけない問題です」って書かれてて、そんで、原因を考えているんだけど、思い当たる節がなく。しかも最近は、日中、歌を歌っているからか、結構気分がいい。といっても、気分が悪くなるとき、いやところがある。それは、台所。うちは朝ご飯と昼ご飯はめいめい自分が好きなときに食べて、夜は彼女が作る。で、食器はわたしが洗うことになってるんだけど、わたしは今、洗えなくて彼女に頼っている。頼っている割に、台所に行くときがつらい。

あと、前回のセラピーのときは「新聞が読めそうだ」と言ったんだけど、実はまだ、新聞読めてない。ただし、あのときと飛躍的に変わったのは、音楽が聴けるようになったこと。これは報告してこなくちゃ。

ってなわけで、今日は一体何を話すのかなぁ。。まぁ、その話は明日にでも。
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02-18 Sun , 2007
昨日はオフ会
昨日の日記の最後の方に書いたけど、昨日はわたしにとっては小学校時代のオフ会だった。「わたしにとっては」っていうのは、少々事情があるからなのね。実はわたしは小学校は私立だったんだけど、うちの学校、幼稚園から短大まで(実は大学もあるけど。。)ある学校で、みんなは小学校(幼稚園)から上に進んだり、あとは中学から入ってきたりする人で、、わたしみたいに「小学校だけ」って人はほとんどいない。あ、言っておくけど、成績悪くて中学に入る際に「放校」されたわけじゃないですよ。(^^;

わたしは、ちょうどその時期、父親が大阪に転勤になってしまって、、それがちょうど小学校卒業の時期と重なって、学校を辞めてしまったのだ。高校の時、もう一度受験してもよかったんだけど、、わたしは私立の小学校と公立の中学のギャップをものすごく感じていて、公立の中学に入ったときに「なんてあの頃は恵まれてたんだ(=親に負担をかけていた)」と知って、それ以来、私立には行かないことに決めたのだ。

ま、それはともかく。

行きに「今度はCDプレーヤーで音楽を聴きながら行こう」と思って、聴いてたんだけど、なんと駅で電車待ってるうちに途中で「ぶちっ」と切れた。電池切れ。前日は「電池の予備を持って行こう」と思って、予備を持って行ってたんだけど、昨日は「まぁ大丈夫だろ」ってことで持って行ってなかったのね。もうアホを通り越して、なんて言えばいいんだろう。。というわけで、CDプレーヤーはそこでご用済み。

1次会の前に0次会、というのがあって、それはカラオケだったんだけど。3人で3時間半。ま、カラオケ屋はどこでもいいよねーってことで、入ったのが、社会人野球ファンだったら、誰でも知っているであろう、都市対抗直後に廃部しやがった某チームのカラオケ屋。中に入ってメニュー見てたら「元総監督」がにっこり笑いながらぶどうだかなんだか持っている写真があって、思わず「こんにゃろーー!」ってメニューをぶち投げたい気分だった。。

ま、それはともかく。

取り敢えず、わたしから歌いました、例の「東京物語」。これは森進一の歌ってる曲なんだけど、わたしは実際の森進一がこの曲を歌っているのは一度も聞いたことがない。だから、本当はどういう風に歌われているのか、全く知らない。これって「近田春夫&ハルヲフォン」が「電撃的東京」ってCDでカバーしてるのね。それで知ってるんだけど、もちろんロック調にアレンジされているので、この曲は、いつも速さ最大にして歌ってる(^^;

でも、そこのカラオケ、JOY SOUNDだったんだけど、結構「おお!」って曲も入っていて、ちょいと感動。ただし、やはり「パール兄弟」は相変わらず「きみにマニョマニョ」しか入ってないし、白浜久はかすりもしなかったし。(-o-)

だけど「近田春夫&ハルヲフォン」、1曲だけ入ってたんだけど、それがなんと「恋のT.P.O」。笑えた。もちろん歌った。「ハルメンズ」も入ってたんだけど、なぜか「お散歩」と「Q-Pダンス」。多分「昆虫群」「レーダー・マン」なんかは戸川純の方に行っちゃってるんだろうな。。ま「昆虫群」はあんまり好きじゃないので、歌わないけど。でも「お散歩」だって、歌ってるのはサエキけんぞうじゃないから、本来はなんでここに入ってるの?って感じなんだけど。やっぱ「ハルメンズ」は「暗いところへ」とか「私ヤヨ」とか「焼きソバ老人」「少年たち」「ゴールデン・エイジ」「母子受精」「マスタード」なんか好きなんだけどなー。。

あと「135」も結構たくさん入っていた。が、わたしの一番好きな(というか、それ以降の135はわたしと路線が違ってたので、それ以来聴くの止めた)「1st CD」からは「我愛你」しか入ってなくて。。「0%麗人」とか「湾岸Night」は入ってなかった。でもさー「0%麗人」は確か、以前、宝焼酎かなんかのCMソングで使われてたし、「湾岸Night」にしても、確か以前、冨田靖子が警官やってたドラマのエンディングに使われてたはず(わたし、この番組見てなかったので、題名とか中身は全然知らない)なんだけどなー。ただし、そのときのエンディングは「中国語版」でしたけどね。

だけど以前見てた(というか、ビデオを借りてみたんだけど)「アイドル伝説えりこ」の曲がたくさん入ってて。。普通「アイドル伝説えりこ」は、田村絵里子の曲しか入ってないんだけど、そこは別の人の歌も入っていたので、思わず「Unchained Heart」を歌ってしまった。。実は高校の頃の友達(もちろん男)がロリコンで、そっち系のアニメって結構知ってたのよね。。だから危ういところで「ミンキーモモ」とか「クリーミーマミ」なんかの「超懐かしい曲」を歌ってしまいそうだったけど、多分、他の人は知らないと思い、却下。それでもアニメの曲は結構歌ったけどね。「キューティーハニー」とかあとは定番「伝説巨神イデオン」。「キューティーハニー」は、歌っていたら去年の「TLGP2006」の「『”みんな”でブラス』でやったなぁ」なんて思いながら歌ってた。あそこでわたし、最後に「かわるわよ」って言えなかったんだよなあ。。楽器吹くのに精一杯だったのと、意味が分かんなかったのよね。楽譜に「かわるわよ(叫)」って書いてあったんだけど、なんのことやら、、って感じで。だから、昨日は忘れないように言ってきたわ(笑)

遠藤賢司も「東京ワッショイ」が入っていたので、狂喜乱舞して歌ってきました♪これだったらもしかしたら「大東京音頭」も入ってたかも知れないんだけど、調べてくるの忘れた。。あと「平山みき(美紀にあらず)」も何かしら入ってたかも知れないけど、調べてくるの忘れた。。ただ「近田春夫」ソロ時代、及び「ビブラトーンズ」時代の曲は1曲もなかったので、入っている可能性は少なかったかな。

あとは、わたしの定番。あ、でも「Under Pressure」歌ったんだけど、なんかデュエットになってなかったので、違和感が。。それは「Bohemian Rhapsody」にも言えてた。一人で歌いやすくしてあるんだろうけど、いつもは一人でなんパートも歌ってるんで、ちょっととまどった。(笑)あと取り敢えず「The show must go on」も歌ってきました。

おー、それからちょっと調べたら、わたしが高校の時に初めて音楽の時間に習った「カロミオベン」があったから、懐かしくてつい、歌ってしまった。ホントは「帰れソレントへ」も好きで歌いたかったんだけど、こっちは原語では歌えなかったので断念。(だって「帰れソレントへ」は中学時代に習った曲だもん)

もしかしたらFreddie MercuryとMotserrt Caballe(eの上に'が付いてる)の「Bercelona」もあったかも知れないし、あの曲、めっちゃ好きなんだけど、一人で歌えるのは難しいと思われ。今度、彼女と行く機会があったら彼女をMotserrt Caballe役にさせて、、とかもくろんでるんだけど、実は彼女もアルトなのよね。。それもわたしより楽に低い声が出せるの。だからといって、わたし、Motserrt Caballe役するのやだしー、つーか、歌えるわけないじゃん。(泣)

他の人は、もちろん同い年ということで、知ってる曲もあったよ。「勝手にしやがれ」と「チャンピオン」はわたし自身も歌うし。「チャンピオン」は、はもれたので、楽しかったー。わたしの耳は、なぜか上と下に別れたときに、メロディーじゃない方の音を拾ってきてしまうので(アルトの特性??)、一人で歌うとなんか変なのよね。。

でも、他の人が歌う曲は圧倒的に知ってる曲は少なくて。。「これは。。新しい曲?」「うーん、10年くらい前の曲かな」「え。。(唖然)」といった曲も多かったです。。もともとわたし、流行歌は小学校時代の「ザ・ベストテン」で終わってるので。。あ、だけどMりんの歌ってくれたサッカーの曲は知ってたよー。一部しか知らなかったけど(汗)っていうか、テレビではさびの部分しか流さないしね。

あ、でもBOØWYの曲は知ってるのがあるかもーと言ったら「マリオネット」を歌ってくれた。超懐かしい。これって山田邦子と渡辺徹が「いきなりフライデーナイト」をやってたときのオープニング曲だったんだよね。途中で変わったけど。だから、何曲かはBOØWYの曲は知ってるのよー。。これでも。おそらくもう1曲くらいは知っていると思われ。。(1曲だけかよ)

あと、MりんがEvery little thingの曲を歌ったので、思わず'99年にYAMAHAがEvery little thingの曲を使っていたと言うことを思い出し「こういうフレーズの。。」と少し歌って、その曲らしきものを歌ってくれたんだけど、、なんか違うような気がした。わたし、あのときのYAMAHAの応援曲、大好きで。。でも、たった1年間しか使われなかった。というか、毎年、その年の有名になった曲をアレンジしてたんだけど、何年からかなあ「ウルトラソウル」に固定してしまったんだよね。それにYAMAHAの応援は応援曲を変えるときもA4の小さい紙しか出さないので、バックネット裏からじゃしばらく分からなくて。。YAMAHAが曲名出すのを知ったのは、ホント、つい最近。しかも、最近は新曲を出さないので、曲が変わったら、曲名は見なくても分かる。。

3人で3時間半だから、一人持ち時間1時間10分なのに、なんかそれ以上にわたしが歌っていた気がしました(汗)ふえー、ごめんねー。マイク持ったら離さないっていうことがよく分かったでしょ。。

最後はこれまたわたしの歌で閉めてしまった。。小堺一機の「With」。これも入ってるとは夢にも思わず、思わず入れてしまった。いや、あの当時「コサキン無理矢理100%」を聴いてた人だったら誰でも知ってると思うんだけど。。思わず「ぱっふぉーん」って言いたくなる曲。(謎)そういえば、バーブ佐竹の「青いゴムゾーリ」ももしかしたら入ってたかも。。それに藤島さんの「若い元気なお相撲さん」も。今度行ったとき、調べてみなきゃ。。(と、もうすでに次に行く気(笑))

そうこうしているうちに0次会は終わり。。1次会の会場へ。といっても、みんな1次会の会場「誰かが知ってるだろう」と思いこんでいて、実は誰も知らなかった。。なので、Bくんに店に電話してもらい、電話で案内してもらった。。

1次会では、いろんな話したよー。っていうか、もう誰となんの話をしたのか忘れてしまった。。あ、こないだわたしの小学校の担任の先生と会った話はしたな。だけど、小学校以来会う友達とかいて、誰か分かんなかった(笑)ごめんね、Iバウワー。(笑)

その後、わたしは1次会で帰る予定にしてたんだけど、まだ時間的に早かったので、2次会に行っちゃった。よくは覚えてないんだけど、場所的にいって、こないだのBrass MIX!の新年会の場所と近かったと思う。。

人数は1次会の半分だったかな。そこでもいろんな話をした。覚えてるのは、去年の都市対抗のにかほ市(TDK)とさいたま市(日本通運)の劇的な試合の内容と'99年の横須賀市(日産自動車)と大阪市(日本生命)の劇的な試合の内容のことを熱く語ったこと。。やっぱ、家に帰って調べてみたら、あのとき打たれた投手は土井だった。もう、あの試合はとても高度な試合でね、もちろん、横須賀市も大阪市も強豪チームだから。。1球1打がとても貴重なもんに思えて、感動的に見ていたんだけど、終わり方も感動的だったのよね。今でも土井投手の横を転がっていった球が忘れられない。。(でも、誰が打ったのかは覚えてない(爆);調べてみたら、黒須でした。なんと、同い年の選手じゃん。でも懐かしい、黒須。。)

あとは、なんか薬の副作用についての話をしてたんじゃないかと。(笑)

結局は終電に乗って帰りました。。そんなつもりじゃなかったんだけど。。帰りに同じ方面の人がいたので、お話ししながら。ただ、彼は非常に眠そうでした。もしかしたら、あのあと、やっぱ終点まで行っちゃったのかしら。。

というわけで、とっても楽しいオフ会(同窓会??)でした。
なんかね、結局、ずっと同じ組だった人には今回も会えなかったんだけどさ、ね、Jくん。今度は会いたいねー。

しかし、なんというか、今さらながらみんなにカミングアウトしてよかったと思ったよー。おおっぴらに自分と彼女の関係も話せるしね。だけどみんな、帰省した折のうちの父の話にはびっくりしておりました。そりゃそうだよなー。。。
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12-25 Mon , 2006
クリスマスの思い出
今日はクリスマスですね。

クリスマスといったら、幼い頃は、やはりプレゼントをもらってました。サンタさんの存在は信じていたかどうかは、覚えてないけど、でも枕元に置いてあったプレゼントの包み紙が「高島屋」で「なぜ、高島屋?サンタは外国の人じゃないのか?」と思った記憶があるな。いやな子供だな。(苦笑)

もう少し大きくなって、小学生頃からは、家族で一緒に夕食を食べた。あれは、一緒に住んでた頃、大学生ぐらいまでやったんじゃないかな。母が丸ごと鳥を買ってきて(もちろん処理済み)、中にジャガイモや人参等の野菜を入れて、オーブンで焼いて、ローストチキンを作ったな。で、フルーツパンチも飲んだ。フルーツパンチって、赤ワインに、パイナップル缶を開けた汁と、その中身(パイナップルはもちろんある程度細かく切って)を入れて、その上に炭酸で割ったものね。ワインが入っててもパイナップルの汁と炭酸で薄めてあるから、子供でも飲める。子供の時はちょっと大人の気分がしたもんだ。酒が入ってたからね。

で、部屋を暗くして、ロウソク付けて、年に1度かける「クリスマスの曲を集めたレコード」(レコードよ、しつこく言うけど(笑))で、一気にクリスマス気分に。それから「クリスマスおめでとう」って言って、ごちそうを食べた。

一人暮らしになったら、クリスマスは関係なし。だって、わたしは無神論者だからね。別にキリストの誕生日なんか祝う必要はない、って思ってた。ただ、クリスマスイヴの6時頃に乗る電車の中は好きだったな。その頃はもう大学生か、卒業して院生やっていたかくらいだったけど、当時わたしは小田急沿線に住んでいて、その時間に電車に乗ると、電車の網棚の上には、ケーキの箱がずらーっと並んでいてね、、いつもだったら、まだ早い時間なのに、会社帰りのお父さん方がたくさん乗っててね。「ああ、これから家族で楽しくクリスマスイヴを迎えるんだろうな」と思ったら、なんか心が温かくなってきて。。あの光景を見るのは、本当に好きだった。

就職して地方に行ったら、職場と家が近すぎて、そういう光景も見ることがなく。(だって自転車通勤だもの)ま、クリスマスイヴもクリスマスも普通の日と全然変わらない一日でしたね。

わたしの「無神論者」ってのは、文字通り「『神はいない』って思ってる」ってことだけど、だからといって、宗教を毛嫌いしているわけじゃない。むしろ、宗教には大いに関心がある。だけど、それを信じることができないのね。信じられるものは、自分だけ。それは、わたしが1回目のうつ病にかかったときに、よーく分かった。苦しかった。何かにすがりたかった。だけど、自分には自分を信じる以外無理だってことが分かった。

聖書、持ってましたよ。子供の頃、何でか分からないけど(友だちの影響?)、教会に通ってたこともあったから「新約聖書」は持ってたのね。でもね、わたしはどうしても本を最初から読まないと気が済まない、ってのがあって。。知ってる人は知ってるかも知れないけど、新約聖書の最初の方って、イエスの家系がずらーーーっと載ってるのよ。それを読んでると頭ごちゃごちゃになってきてね。ただでさえ、外国人の名前を覚えるのは不得意なのに、前に出てきた人がぽんとあとで出てきて、その家系の話になったりね。だから、いつもそこで挫折するの。

わたしが前にブログで書いた「今でも忘れられない人のこと」の彼女も、特にキリスト教の信者ではなかったんだけど、時折、聖書を読むと「一休さん」の話みたいで面白いよ、と書いてたのね。でもわたしはやっぱり最初からしか読めなくて。。相変わらず、家系のところで、頭がごちゃごちゃになって読むのを止める、ってパターンだった。これが新約聖書だけじゃなくて、旧約聖書付きだったら「創世記」から読んでたんだろうけどね。。結局その新約聖書は、家系図のところと、あと、最後の方に出てくる「ヨハネの黙示録」に「獣の数字を読むがよい。その数字とは666である」ってところ以外は読まなかった。。ちょうど中学の時(だっけな)に「オーメン」が流行ったからね。だけど、本当にそう書いてあるとは思わずにびっくりしたっけ。

で、宗教はなんでも興味があったので、取り敢えずポストなんかに入っているそれ関係の冊子なんかは興味深く全部読んでた。生長の家からくる「白鳩」とか、それこそ教祖(?)がもう逮捕されてしまった「足裏診断」で有名な「法の華」の本とかね。あれ、なんか書いてあることがめちゃくちゃでさぁ。だって、'95年に世界は滅びる、とか書いてあるんだもの。で、そういう本を後生大事に持っていたんだけど、彼女と一緒に住むためにこっちに戻ってきたときに捨てちゃった。ホントはネットオークションにかけたら高い値段で売れるかな、と思ったんだけどね。教祖はもう、逮捕されちゃったあとだったし(爆)

あとは仏教の勉強もしたかな。取り敢えず、何宗がどんな風にできて、どんな考えなのか、とか書かれてる本を買ってきて読んだ。うちは父方が浄土真宗で母方が日蓮宗(注:創価学会ではない。というか、創価学会はもう、日蓮宗の中の一派ではないのね)なので、そこらへんは興味深く。ただ、日蓮宗は割と「排他的」なところがあるので(というか「日蓮宗が一番。それ以外は認めない」みたいな考え方)だから、あまり好きじゃない。そして、決まり事が厳しい。逆に浄土真宗は、それこそ自由な宗教。なんてったって「他力本願」だから。

その「他力本願」ってのもね「人にものを頼ること」じゃないんだよね。ここら辺のことは、この日記に感想が書いてある。それを読んで「ほほう」と思ったね。んで「うちが浄土真宗でよかった」とは思ったけど、ただ、だからといって、わたしが浄土真宗を信じるはずもなく。(とはいえ、実家は寺の立派な檀家なのですが)わたしは死んだら、それまで、って思ってるからさ。天国に行ったり、仏さまになったりするとは思えないからさ。

てなわけで、わたしは無神論者。今でもクリスマスイヴとかクリスマスに関しては、何とも思ってなくて。まぁ「キリストの生まれた日なのね」っていう感じかな。でも、信じてもいないキリストの誕生日を祝う気はさらさらなく。だいたい、自分の誕生日だって、なにもしないからね。彼女の誕生日もそう。(っていうか、偶然にもわたしと彼女の誕生日は1日違いでありまして。。連続して誕生日祝いをする気にもならんでしょう、普通)そういえば、こないだの23日は祝日だったけど、なんの祝日かはすっかり忘れてた。(今もまだ新聞読んでないので)思い出して「あっそう」って感じだったけど。(「あっそう」で「ピン」と来た方には、ここで笑って欲しいわ(笑))

ってわけで、わたしたちは「彼女が初めてわたしにメールを送ってくれた日」や「初めて会った日」「つきあい始めた日」の方がよっぽど大切。特に「つきあい始めた日」と「つきあい始めて○年と半年」というのは、今でも一緒にどこかに行ったりしている。そういえば、思い出すと、彼女が初めてわたしにメールをくれてから、あと数日で丸6年か。

ただ、昨日はわたしと彼女が初めて過ごす、クリスマスイヴだった。今日は初めて過ごすクリスマスの日ね。去年はわたしの鬱がひどくて実家に戻ってたからね。んで、わたしも彼女も「クリスマスは恋人のためにある日じゃない」っていう意見は一致している。だから、ケーキもプレゼントも、まったくなし。ただ、昨日、わたしは午後から出かけました。どこに行ったかは内緒。でもね、なんか泣いちゃったの。それも本質とは全然関係ないところで。多分、これからは毎年そこに行くことになるだろうと思うけど、とにかく貴重な体験をさせてもらいました。

で、今日は午後から、あの怪しげな医者に行ってきます。ここに行くのはこれが最後ね。あまりにも、怪しげ過ぎるから。。
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12-18 Mon , 2006
わたしと音楽
そういえば、一昨日だったか、たんごくんの日記に「ARB」のことが書いてあった。わたしはARBの音楽は一切聴いたことがなかったんだけど、それまでわたしの好きだった、白浜久、という人がARBに加入した、ってことだけは知ってたのね。

で、もうずっと前だけど、彼のHPを見つけて、それでそのときにそのHPを通じて彼の新しいCDが買えることを知ったんだけど、どうも本人と連絡するのが恥ずかしく、、結局そのままになってたんでした。

わたしの音楽の趣味は、他の人とちょっと変わっている。(mixiでのわたしのプロフィールを見れば分かると思うけど。で、あそこに書いてないのもいっぱいある)

小学生の時は「ザ・ベストテン」を見るのが好きだった。毎週のランキングをノートに書いていた。(今、あのノートがあったら、すごい懐かしいと思う。が、いつの間にかどこかに行ってしまった)でも、所詮、そこは小学生。ヒットした曲を聴くだけだった。

本格的に音楽を聴き始めたのは、高校生の頃から。高2の12月に某FM局が開局し、実はそれまで全然、FMラジオなんか聴かなかったのに、偶然、聴いてみたら偶然、試験放送中で。。そのFM局にまつわる話は、この日記に書いてある。実は、そのラジオ番組の中に「今週のピックアップディスク」というコーナーがあって、それで1週間、ずっと同じ曲が流れて、水曜日にはその曲を歌っている人が呼ばれて、、って感じのコーナーだったのだ。

で、そのコーナーで流れていた曲が元でファンになった、って人がわたしの音楽の趣味の原点。白浜久もそこで知った。で、一番大きかったのが、パール兄弟かなぁ。東京少年(もう今はないけど、ボーカルの笹野みちるは自分がレズビアンだってことをその後、カミングアウトして本を出しました)もKAN(あの「愛は勝つ~」で有名になっちゃった人ね。でも、わたしはその前の曲が好きでした)も135(いちさんご)も全部、そのコーナーで知った人達。

で、その中でも残ったのがパール兄弟とこの白浜久。135も好きだったんだけど、2枚目のアルバムがとてもヒサンでね。それからは追いかけるのを止めました。パール兄弟は「サンタが東京にやってきた」って曲が取り上げられてね、すごく面白かったの。で、早速CDを買いに行って。「パール&スノウ」ってCDです。(お気づきかと思いますが、これは松任谷由実の「サーフ&スノウ」のパロディです。あ、中身は全然違う(と思う。松任谷由実の「サーフ&スノウ」は聴いたことないから(笑))

そうしたら、その中に入っていた「バカヤロウは愛の言葉」って曲が名曲で。で、こっちのCDに入ってる「バカヤロウは愛の言葉」はディスコバージョンだったのね。本当の曲は「PEARL is Future(未来はパール)」って中に入っててね。で、このCDを買ったわけ。

で、パール兄弟は当時、サエキけんぞう、窪田晴男、バカボン鈴木、松永俊弥の4人で構成されてて、サエキけんぞうから、彼が昔やってたバンド、ハルメンズに手を伸ばし、窪田晴男がパール兄弟以前にやってた、近田春夫&ビブラトーンズに手を伸ばし。。

それから、近田春夫がめちゃくちゃ気に入ってね、近田春夫&ハルヲフォンから、ソロ、そして近田春夫&ビブラトーンズまで、出てるCDはすべて買いました。わたしの最も好きなのは近田春夫がソロ活動していた「天然の美」ってヤツね。あと、近田春夫関係から、ジューシィ・フルーツや平山みき(平山美紀にあらず、同一人物だけど)にも手を伸ばし、、と言っても、もうその頃はジューシィ・フルーツも平山みきも「過去の人」だったからさぁ。取り敢えず、近田春夫がプロデュースしたヤツだけに興味を持った。平山みきの「鬼ヶ島」というCDは名曲揃いです。でも世間から言ったら、有名のは「平山美紀」で、しかも「真夏の出来事」が有名ですね。カラオケにもそれを含めて2、3曲しか入ってない。それから近田春夫はなぜかジャパニーズ・ラップの方に突き進んでしまうのです。。President BPM、そして近田春夫&ビブラトーンズに行っちゃうのね。わたし、President BPMの「Hoo! Ei! Ho!」や「Nasu-Kyuri」くらいまではまだ付いて行けたんだけど、その後はダメ。。近田春夫はそこでお終い。

あ、あと近田春夫がらみでいうと、どうしてもかの有名なYMOが出てきちゃいますね。。YMOは、実は小学校の終わり頃「Rydeen」なんかが流行りましてね、それでその曲が入ってる「Solid State Survivor」のレコード(CDじゃないっすよ、レコードです)を買ったんだけど、やっぱまだ彼らの曲を理解するには幼すぎた。。

で、近田春夫&ビブラトーンズはその当時「民族的」な要素を取り上げていて(というか、ビブラトーンズの編曲を全部してた窪田晴男がそうしたんだけど)、それにちょっと惹かれたわけです。

それとともに、大学時代、わたしは非常に「東京」というものにこだわってまして。。毎月のように東京タワーに行って遊んでました。大学から比較的近かったもので、歩いて行ってね。上までは昇りませんよ、金かかるから。いつも4階で遊んでました。4階には政府公報館とか東京電力のコーナーがあってね、楽しかったんですよ。政府公報館では「時の動き」を読んだり、政府公報のテレビ番組などを見てました。「よみがえるリサイクル瓶」とかね。その頃はリサイクルの走りでしたね、、

で、そこで知ったのが、遠藤賢司。彼は「東京ワッショイ」や「宇宙防衛軍」等を出していて、、と言っても、その頃はもうCDしかなかったですから、取り敢えず、そこら辺を聴いていて。でね「東京ワッショイ」のCDの中にサービスとしてか、「Mr.タンブリンメン」と「終わりが来る前に」のライブ、つーか、本当はニッポン放送で収録したものらしいんだけど、それが入っててね。その収録された日付を見ると、なんと、わたしの生まれた日。びっくりしました。ま、遠賢は今でも頑張ってるけど。。

「東京」にこだわったわたしは、今度はいきなり「東京音頭」などの民謡、音頭系も聴くようになりました。っていうか、実はYMOとか近田春夫&ビブラトーンズも「民族的」なものを扱ってたんですよね。そこで知ったのが、沖縄音楽。実はYMOの「Solid State Survivor」の中にある「Absolute Ego Dance」なんて、モロ沖縄音楽の「合いの手」が使われてたんですよね。小学生の時は、それがすごく気持ち悪くてね。あんまり好きな曲ではありませんでした(笑)沖縄音楽と言えば、喜納昌吉&チャンプルーズ、辺りですね。喜納昌吉のCDはそれこそ、ソロやってるときから、チャンプルーズになったときまで、すべて集めてましたね。彼の曲は「花」(すべての人の心に花を)で有名ですが、本当はそれ以外の名曲もたくさんあるんです。で、今度は沖縄民謡に興味を持ち始め、ちょうどその頃、沖縄民謡のCDが続々で始めたので、買ってました。「御前風」(かぎやでふう)とかねー。

喜納昌吉のライブには、何回か行きました。ライブ中、彼と握手したこともあります。ところが、、そのライブに彼の父、喜納昌永が出てきてね。もう、すっごい存在感。三線だけしか弾きませんでしたけど。。すごいな、この人。と思いました。ちなみに「すべての武器を楽器に」と言い始めたのは、この喜納昌吉です。まさか、あの頃は、彼が国会議員になるとは思いもしなかったけどね。。

それから、沖縄音楽では「りんけんバンド」も好きでした。初期の「ありがとう」から「カラハーイ」くらいまでは持ってます。

民謡関係で、河内音頭にも興味を持ちました。と言っても、河内屋菊水丸だけだけど。あと、上々台風とかもねー。上々台風は、ライブも見に行ったっけ。。新木場まで。河内音頭は、実は錦糸町で毎年9月にやってましてね。大学の友だちが錦糸町に住んでいたので、何回か、踊りに行ったことがあります。めちゃ楽しかった。。

窪田晴男は、おそらくまだパール兄弟在籍時に「東京的Vol.1」(しかし、このあとvol.2は出ることはなかった。。というか、今現在でも出ていない)を出したんだけど、その中でS-KENやTOMATOSを知ってね。(というか、S-KENはその前から知ってた気もする)S-KENのソロやS-KEN&ホットボンボンズ、TOMATOSにも手を伸ばし。S-KEN&ホットボンボンズの「1000NOME(千の目)」は名曲揃いです。その後の「セブン・エネミーズ」も好きだけど。

ってことで、日本の音楽はそういう変遷を得て、わたしの趣味になっていったわけです。ちなみに一番好きだったパール兄弟は、'90年に窪田晴男が「勘当」されてから急激に興味を失い、「六本木島」以来、ベストCDしか持ってません。ただ、最近、勘当されたはずの窪田晴男やバカボン鈴木が戻ってきているらしいので、もしかしたら、またわたしも復活するかも知れません。(松永俊弥=まっちゃん、は今、どこで何してるんだ~!!)

洋楽は、某FM局ではバシバシかかっていたんですけどね。わたしもそれに感化されて、一時「ベストヒットUSA」や「MTV Top countdown 20」なんかも見てました。が、その頃、熱狂的に好きになるって歌手はいませんでしたね。あ、ただ、Stevie Wonderが好きでした。彼の「Part time lover」って曲が大好きでしたね。

その後、わたしが自分が同性愛者だということに気がついたとき、Elton Johnを知ったのでした。(遅すぎ)実は、知っていたのですよ。MTV見ていたときにもTop20の中に入ってる曲、あったし。それにDionne Warwickが、エイズの基金集めかなんかで、Gladys KnightとStevie WonderとElton Johnとともに「That's What friends are for(愛のハーモニー)」を歌ったときも、レコード、買ったし。実は、わたし、Elton Johnの声が大好きでね。

で、彼も同性愛者だということを知り、しかも昔何回も聴いていて、声も好きだってんで、それ以来、彼のファンです。別に同性愛者だからって、同性愛者の歌手が誰でも好きなわけじゃないですよ。いろいろな場面でちょくちょく聴いていて、しかも、彼の人生、見ていると自分自身、同性愛者だと受け入れることに対してとても苦しんでいた、そのことにとても共感したのです。現に一番めちゃくちゃだった時期のCDと、その後、SEX中毒、アルコール中毒、その他の中毒を克服するために入院したんだけど、それを見事に克服したあとに出したアルバム「ONE」は名曲揃いだと思います。だけど、彼の過去のCDを全部集めるのは、とてもじゃないけど大変で、金のない今は保留。ベスト盤を買って、それを主に聴いています。それに、昔の彼の声はとても繊細で。。あまり好きじゃないんですよね。

あと、最後に残ったのがQueen。残念ながら、Freddie Mercury死後に知ったんですけどね。彼の追悼コンサートで、Elton Johnが「Show must go on」を歌ったので。。いいなと思って、CD買い始めました。けど、これまた大変な数のCDを出しているので、初期のCDとベスト盤を聴いて気に入ったCDくらいまでしか買ってません。

それから、クラシックも好きです。と言っても、ベートーベンの交響曲第1番と第3番(皇帝)、第9番辺りが好きですかねえ。(何故か全部奇数)同じ曲なんだけど、違う指揮者で何曲も出てるんで、集めてます。第1番は、そんなに人気がないからか、あまり出てないんだけど、第3番と第9番は超有名なので。それぞれ10枚くらいは持ってますかねえ。指揮者によって全然曲が変わってくるので面白いです。

あとはモーツアルトのピアノ変奏曲が好きかな。変奏曲って、低く見られているんですよね。なんてったって、オリジナルではないし、金のために書いた、って曲も多いそうなんで。だけど、好きです。本当は「”ああ、お母さん聞いて”による12の変奏曲」(きらきら星変奏曲として有名です)が好きだったんだけど、CD買って聴いてみたら、「”わたしはランドール”による12の変奏曲」が大好きになってしまいました。ただ、前も書いたように、変奏曲は低く見られがちなので、あまり売ってないんですよね。それが残念。

ってわけで、大変長くなりましたが、だいたい、わたしの音楽の趣味はこんなもんです。ちなみに今まで誰一人、同じアーティストが好き、という人には出会っておりません。パール兄弟しかり、近田春夫しかり。。だから、自分一人でひっそり聴いておりました。

今はねー、あんまりこれらのCDも聞かなくなっちゃったけど、、でも、好きな曲はいつまで経っても好きです。
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12-15 Fri , 2006
わたしとPC
ほとんど昨日の続き、って言ってもいいんだろうけど。。(^^;

わたしとPCの付き合いってのは、比較的長い方だと思う。初めて触ったのが高校生の頃。ちょうど入学したてで、吹奏楽部と共に入ったのが、○○○○同好会、ってヤツ。(うちの高校、兼部は許されなかったのですが、同好会とは許されてたのです)あ、ちなみに○○○○の中には好きな言葉を入れてください。(笑)絶対に当たらないだろうけど。っていうか、これ書くと、どこの高校に行ってたかばれちゃうかも知れないので。。(一応、高校の人にはカミングアウトする気はないもんで)その同好会で、初めて目にしたのがNECのPC-8001というPCだったのです。当時は「マイコン」と呼ばれておりました。で、読み取り器具がまだカセットテープの時代で、、ゲームをするのに「ピーガー」で読み取って、それから遊んでました。体験入部の時に、ちょっとゲームをさせてもらったんですが、それが面白かったので入部した、という単純な理由です。(そのゲームの名前がどうしても思い出せないんだよね。。悔しい)

でも、所詮、同好会ですから、ほとんどみんな、トランプをして遊んでおりました。取り敢えず、BASICの基礎は勉強したのですが、これが計算できたら何?円を描けたから何?の世界でした。(笑)他の人はめちゃくちゃPCについて、詳しかったんだけどね。だって、自分の家で持ってるんだもん。MZとか、PC-9800シリーズとか、もちろん、8801MK2なんか持ってる人もいましたがね。そのうち、うちの同好会でもSONYのHit-Bit(MSXとも呼ばれていたが、違いが分からん)ってPCも買ってもらってね。「聖子のパソコン」(もちろん、聖子というのは、松田聖子のこと)って触れ込みでしたが。。SONYの初めてのPC参入機種だったでしょう、多分。でも、これでこけたんだよね。で、しばらーーーーくして、あの「VAIO」が登場したのでありました。

で、わたしも父にパソコンの必要性を説き、家で買いました。(NECのPC-9801VMというヤツでした)。わたしはもちろん、一切金出しませんでしたけど、、確かその当時、40万くらいはしたと思います。で、そこでN88-BASICとか、細々勉強してたんですけど、やっぱ「円は描けるようになりましたがなにか?」という感じでした。しかも、当時のPCの雑誌は今のように付録にフロッピーなど付いているはずもなく、、遊ぶなら自分で機械語で入れなさい、の世界でした。でも入れるためには、どこの番地から入れるかとか、もう分かんないことだらけで。挫折しました。そのゲームで遊ぶには、RAMボードも増設しなきゃならなかったみたいだし。今でもそのゲームの名前を思い出します。「死人は便意を催さない」。やりたかったなー。

で、うちのPCは専ら「ワープロ」と化していました。「一太郎」をVer.1から使ってる人って結構珍しいんじゃないかな。あと、最後の方はゲームも出てきて「オホーツクに消ゆ」、「シムシティ」なんかで遊んでたりしました。「オホーツクに消ゆ」って、当時NTT(まだ電電公社時代か?)の、もう今は亡き「CAPTAIN System」の中にあったんですよね。高校の同好会仲間と某NTT(電電公社?)に行って遊んでました。ただ、途中までしかできませんでした。(笑)でも、ゲームってわたし、あまり好きじゃないんですよね、基本的に。「アドベンチャーゲーム」は結構好きだと思っているんですが。「RPG(ロールプロイングゲーム)」なんかダメ。めんどくさい。これはゲーム機にも言えることですが、やってるうちにすぐ飽きちゃうのです。ただ、昔のゲームはRPGでも単純でしたからね、話が。だから、ちょくちょく遊んでたけど。

それからしばらくは、PCとは無縁な生活を送ってました。が、大学3年になって研究室に配属されると、PCはあるのですね。ちなみに4年の卒論の時は「ロータス1-2-3」(表計算ソフト)を使ってデ-タを入力し、また「多変量分析」もしたけど、あれは自分でプログラム作ったんだっけ。。それともしこしこ自分で計算したんだっけ。。ロータスがやってくれたんだっけ。忘れた。で、一太郎で卒論書きました。あの頃のうちの大学は、まだ「ネット」というものはありませんでした。ある日、40Mのハードディスクが増設されて、ものすごく喜んだっけ。。今考えるとたかがフロッピー40枚の世界なんですけど。。

それから、なんだかんだがあって、取り敢えず大学院に進学しました。が、訳あって、2つの大学の研究室を行ったり来たりしておりました。ちょっと専攻も違うところでしてね。で、向こうの大学は、すでに「ワークステーション(WS)」というものを持っておりました。WindowsのPCは1台もありませんでした。で、みんな、当然のようにUNIXをバリバリ使ってました。ま、そういうところだったんですけど。で、もちろん、全部ネットに繋がっておりました。しかし、わたしはUNIX(正確に言うとUNIXでもなかったんですが、正確に言うとこれまたバレますので(笑))の概念、ってものを知らなかったんですね。ただ、C言語は勉強しました。解析に必要だったもので。ただ、その前段階の解析は、Winじゃないとできなかったので、Winの使えるPCを買ってもらいました。COMPAQ。懐かしい名前。その当時は安くて有名だったんですよ。で、入ってるOSはもちろん、Windows3.1。で、このPCをネットにつなぐのにねー、非常に苦労しました。だって、誰もWinのこと知らないし、まだWin自体、ネットに繋ぐ、という目的で作られていなかったので。で、いろいろ勉強してやっと繋ぎましたよ。Winsockとか、なんかいろんなものをダウンロードしてね。繋がったときの嬉しかったこと。。(で、わたしはそれ以来、Windowsとは切っても切れない仲なのです。ゲイツ嫌いなのに~(涙))

修論は、Macで書きました。その頃はWinより文字がきれい、という理由で、そこの大学では、ほとんどみんながMacを使って書いてたんですよね。卒論やら論文やら。ただし、UNIXの方でもTex(てふ、と読みます)が出回り始めた頃で、わたしの同級生なんかは、それを使って書いてました。 しかし、その頃のMacって非常に壊れやすくてね。書いてる修論をバックアップしようと、フロッピー(もうその頃は3.5インチだったかな)を入れてバックアップしたんですが、バックアップした直後、今度は読み出そうとしたら「このディスクは壊れています」って出てきて。。もう怖くて、何重にもバックアップを取りました。なんかこの頃のMacってすぐ「このフロッピーは使えません。初期化しますか」って出てきてね。それ以来ですね、もう二度とMacは使わないぞ。と思ったのは。ま、使ってたのが主にMacのClassicってヤツで(もしかしたらClassic IIかも知れない) 。あのね、めちゃくちゃ画面が小さいの。使いづらかったー。確かに、もっと大きい画面のMacもあったんだけど、、他の人が使ってることが多かったんで。

で、いつ頃かなあ。UNIXを使っているみなさんは、当然のことながら、もうインターネットに接続して、なんやかんや見ておりました。ブラウザは「Mosaic」か「Netscape」使ってましたな。あと、学内でメーリングリストがあり、それでよく雑談してました。カープファンのメーリングリストもあったんですよ。ただ、3人しか加入してませんでしたが。ってわけで、取り敢えずUNIXは使えない、といってももちろんC言語を組まなくてはなりませんから、当然エディタは使うわけで。Emacs(Mule)を使っておりました。それでメールのやりとりやなんか、全部やってました。(その影響で、今、わたしのエディタはMuleをWinに移植した「xyzzy」ってやつを使ってます。でもメーラーとしては使ってません)
でも、その前段階でメールは、WSではできなくて、JUNETというもんを使ってました。つーか、おかしいな。WSではメール使えるはずだったのに。何故か別のコンピューター室に置いてある特別なPC(これってどういう機種だったのか全然知らない)でしかメールできませんでした。すんげー使いにくいPCでね。で、主にうちの大学の友だちとメールしてたんだけど、向こうは普通のアドレスだったような。。(要するに、ac.jpってヤツね)でも、このJUNETからメールを送ってたのは、ほんの一時期なので。。

うちの大学ではその頃は、ゲームが横行してました。もちろんその中には「エロゲー」も含まれてました。研究室でよくやったものです。(笑)どういう名前のエロゲーかは知りませんでしたけど。でも、いくら「道具を使う」にしてもできなくて、最終的には「挿入」しかなかったのよね。。あれがつまんなかった。(爆)あとは「プリンセスメーカー」なんかもやってたんだけど、わたしの主人公は何故か「王女」でなく「女王」になってしまうのです。。何回やってもそうなんで、飽きました。

で、もう一方の大学は、それはそれはマジメな大学でしたから、エロゲーなどやっている人もいなく、、ってその頃(今でも)WSでエロゲーなんかできるのかどうかは知りませんが。みなさん、ひたすらWSの前に座って黙々と実験の解析等をやっておられるようでした。

そのうち、わたしは解析で使ってるWinでブラウザを使ってHPを閲覧できる、ということを知り、Netscape(多分、Ver2.0だったと思う)をインストールして、見始めたのでした。っていうか、その頃ちょうど朝日新聞の「雑記帳」ってところに「RCCとNECが提携して、HP(っていう表現だったかなあ)を作ることになった」という記事を発見してね。んで、今だったら絶対URLが書いてあるんだけど、その頃にはそういう概念がなかったようで。。探しまくりました。(笑)'96年か'97年頃の話です。

その頃は、もう研究者になる気もなかったし、大学にも気が向いたときしか行ってなかったので、ほとんどカープの掲示板で当時のカープファンとカープについての話をしてました。で、そのHPに実験的にIRCを使ったチャット、というものができたのと、あと、わたしこっそり、ビアン関係のHPがないかを探してたのよね。で、1つ探し出すことができて。。で、自分のPCが欲しくなって、昨日書いたSusteenのA10iを奨学金溜めて買った、というわけです。ちなみに実験的に行われていたカープのサイトはもうありません。あれから数年後、NEC抜きでリニューアルしました。そこから人が殺到して、、古くからの人はもう書き込めなくなってしまいました。その後、広島東洋カープの公式HPもできたようですね。

昨日も書いたけど、それからはIRCでチャットしまくり。あと、ビアンのHPも堂々と家では見られたし。そこのビアンのHPにあったチャットで出会ったのが、S、というわけです。だから、Sとの付き合いは長いの。

ってわけで、その後のわたしはカープのチャットで毎晩のように話していた仲間とオフ会もしたし、Sたちにも会い、あの頃は結構充実してましたね(爆)

そしてわたしは就職のために、'98年3月末に東京から就職先に引っ越したのでした。で、あとは自分のPCを使って、毎日、ネットに接続して遊んでました。わたしにとってのPCはほとんどネットに繋いで遊ぶことですね。もちろん、就職先でもいつの間にか1人1台PCが導入されましたが。。Microsoftの「Word」や「Excel」は職場で使ったのが初めてです。ゲイツ嫌いなのに、いつの間にか「一太郎」ではなく「Word」や「Excel」を使うようになっちゃいました。(涙)

まあ、それで昨日の話に続く、ってわけですかねえ。。
あ、ゲーム嫌いと書きましたが、ビアン系のエロゲーは1つ、買いました。で、すぐクリアしちゃいました。(爆)うなぎどん、いつでもうちにきてやってもいいからね。(爆)
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12-14 Thu , 2006
PC買っちゃった
ついにPCを買っちゃいました!こないだの日記にも書きましたが、モバイルPC。いや、あれから「5年間保証」について調べたのですが、PCってやっぱり故障が多いんですね。他のは5年間保証なのに、PCだけ3年とか、5年間保証はするが、故障対応は1回のみ、しかもだんだん修理費の負担率が高くなっていく、とか。

しかし、Wikipediaで電器店を検索したんですが、あんなにたくさんあった電器店がほとんどなくなってるんですね。びっくりしました。大型量販店は5つくらい?高校生の頃、よく秋葉に通っていたわたしは、T-Zoneとかラオックスとか九十九電機とかロケットなんか、よく行ってたんですけどね。。みんな縮小されちゃったか、別のもの売ってるんですね。あと石丸電気もありましたね。って今もあるけど、九十九電機も石丸電気もすべてエディオングループになってたんですね。おそろしや~、デオデオ。(イミフメイ)

ちなみにPCを買うのは、これで5台目。すべてノートパソコン。最初の理由は「部屋が狭かったから」一人暮らしでワンルームだったので、デスクトップなど当然置ける場所もなく。それからはもう、ノート一筋ですね。

最初に買ったのは、'95年、多分、誰も知らないと思うけど、SusteenのA10iという機種でした。ソフマップでしか売ってなかったのよね。というか、その頃は、アメリカにSusteenという会社があって、そこから独占販売をしてたらしいんですが、それがいつの間にかソフマップブランドになってました、昨日調べたら。(今はもうSusteen自体、ないようです。だって、そのニュース、'98年のニュースだったんだもん)で、確かに今でもアメリカにはSusteenという会社があるけど、どうもソフト会社になってるらしい。。ま、Gatewayも日本から撤退しましたしね。(と言っても、最近また、売り始めてるみたい)アメリカのPC業界も厳しいんでしょうね。

で、その機種にしたのは、ただ1つの理由。他のノートPCに比べて格段に安かったから。CPUが133Mで、当時30万。貯めた奨学金で買いました。(その当時、まだ学生だったので)で、インターネットをして遊んでました。学校には行かず、夜な夜なというか、朝6時頃までチャット三昧。IRCチャットでね。CHOCOAというソフトを使ってました。なんのチャットかというと、カープファン同士のチャット。楽しかったなぁ~。ってそのログ、今でも持ってるんですよね。見たいような見たくないような。(笑)もう、その頃は熱狂的なカープファンでしたから。

ただ、そのPC、めちゃくちゃよく壊れるPCでね。ブルー画面が出たら、もう再インストールしなきゃいけないんです。何十回、再インストール及び自分仕様にカスタマイズしたことか。。ちなみにWin95でした。最後はLinux入れたりして、遊んでましたが、イマイチで、、燃えないゴミ行き。あ、今はそういうことしてPCを捨てちゃいけません。(笑)

次に買ったのが、松下のLet's note。CF-S21という機種です。これはB5ノートですが、就職した冬に買ったのかなぁ。'99年です。正月に、型落ちセールをやってたので、買いました。17万8千円。CPUはintelのMMX Pentium200Mで、しかもメモリ96M(最大限)付き。あれ、でもおかしいなあ。確かこれは日南キャンプに持って行ったはず。(日南キャンプ=当然、カープの春季キャンプ地の1つです)でも、もうその頃は、既に社会人野球ファンになってたはずですが。。B5ノートってんで、かなり重宝しました。さっきも書いたけど、日南キャンプの報告をグレ電使って報告したりね。(グレ電=公衆電話なんですけど、電話回線からネットにつなげる電話だったのです)

B5ノートで使いやすい上、あと、なんといっても、トラックボールの使い心地がよくてねぇ。。これだとマウスがいらないんです。わたしはノート派ですけど、どうもトラックポイントやタッチパッドが気に入らなくてねえ。。というか、使いづらくてたまらない。マウスは必需品なんですが、トラックボールだとその必要はなし!

しかし、2度、壊れました。。起きてみてPC起動しようと思ったら、画面が真っ暗なの!2度とも同じ。で、そのPCにわたしは5年間保証をかけておいたんで。。2度ともタダで修理されて戻ってきたのでした。

で、本当はこのPCが本当に気に入っていて、できるならずっと使い続けたかったんですが、キーがポロポロ落ちるようになってきてですね、、で、泣く泣く新しいのを買うことにしました。あ、キーがポロポロ取れる、っていうのは前使ってた、A10iでも同じでね。どうもわたしはキーをバシバシ叩いて打つクセがあるらしいです。

Let's noteを使っているときと重なるんですが、モバイル用にSONYのVAIOを買いました。'00年くらいだったかな。本当は、東芝のLibrettoが欲しかったんですが、あまりに小さすぎるかなーと思い、、VAIOのPCG-C1CGってヤツを買いました。CPUはPEN2の400Mで、メモリが64M。持ってるPCのうち、一番頭がいいPCでした。これは「価格.com」でそのとき一番安かったところから買いました。しかも、長時間バッテリーを買ってきてね。そうじゃないと、2時間くらいですぐ電源切れてましたから。この頃は、社会人野球にどっぷり浸かっていて、球場からの速報とかやってましたからねー。しかし、野球を観ながら、スコアをつけながらの速報ってすごく大変でした。

ただ、このVAIO、メーカー保証期間の1年を過ぎてすぐぶっ壊れまして。。それからいくら再インストールしても、ぶっ壊れグセとでもいいましょうか、ついちゃいまして。「もういらんわい」ってことで、職場の同僚(つーか上司)に引き取ってもらいました。あ、ちゃんといいましたよ。「すぐぶっ壊れます」って。でも、エクセル使うくらいでそんなにハードな使い方はしないから、と言われまして。喜んで差し上げました。差し上げたといっても、結局は8000円相当のものと交換したんですけどね。

で、買ってきた長時間バッテリーはソフマップに売り飛ばしました。買ったときは2万以上したのに、売ったら2千円くらいにしかならなかった。。orz


こういう例があるんで、PCは絶対に5年間保証に入っておかなければ、と思ったのです。たとえ、金をかけてもね。(しかし、Let's noteを買ったときの5年間保証の値段はなんと、購入価格の2%でした。今は5.5%取られるのに、、しかも半額保証なのに。。)

で、わたしの大好きで、メインに使っていたLet's noteでしたが。。キーがポロポロ取れる上に、その影響で、1つしか文字打ってないのに、何度も押したような症状が出てきてしまって。。そしてわたしは泣く泣く次のPCを買ったのでした。

それが今使っている、IBMのR40という機種。A4ノート。それもかなり重厚。IBMならキーがしっかりしていてポロポロ取れることはないだろう、という考えからです。CPUはPen4の1.90G。メモリは256M。前のに比べて格段に機能アップですね。それにThink Padは一種の憧れだったんですね。いくらしたのかは忘れた。カスタマイズモデルを買ったんだけど、25万くらいだったかな?んで、実際買ったのは'03年だったかなあ。あれから3年間くらい使ってますけど、やはりキーボードはしっかりしてます。さすがIBM、と思ったら、日本IBM、PC部門をLenovoという会社に売り飛ばしてたんですね。ブランドはThink Padで売ってるけど。ひゃー知らんかったよ。

んで、今は普段使うPCはこの、R40ですけど、やっぱ、これからはまた頻繁に出かけると思うので、、今回、またモバイル用のノートを買ったんですね。しかもまたLet's noteを。一番最軽量、999gの機種です。(CF-R5Lというらしい)CPUはintelのCore soloと言うらしい。(聞いたことない)1.20Gだそうです。メモリは512M。すごい(笑)でも、まだ買ったばかりで中身開けてません。っていうか、これからいろいろなソフトウェアをインストールしなくちゃならないし、それに自分仕様にしなければならないと思うと。。ちょっとウンザリなのですね。(わたしは非常にこだわりがありまして。。ちなみにデスクトップ(PCの画面のことね)にいらないアイコンとかあるのが、めちゃくちゃ気に入らなくて、今、あるのは3つだけだし、あとはXPの画面が嫌いなので、98バージョンにしてるし、いろいろめんどくさいんですわ(笑)しかも、デスクトップの背景は、もう、今は亡きWin3.1から取ってきた背景。要するに、そういうところ、めちゃくちゃ保守的なのです、わたし。あ、あと、ゴミ箱、普段は牛で、捨てると猫になるというのが自慢(爆))

ただ、最軽量ってことでLet's noteにしました。もう今のLet's noteは、かつてのトラックボールではありません。トラックボールにすると、どうしても厚さが増してしまうので、、松下もタッチパッドにしました。軽量化の方を選択したのでしょう、トラックボールより。これ、気にくわないんですけどね。旅行先でマウスを持ち歩くことはできませんし。。多分、めちゃくちゃイライラするでしょうねぇ。(笑)

しかし、年末までにちゃんとカスタマイズできているか、非常に心配です。。読まなきゃならない本もあるし。

そう、でね。昨日は本当に久々に一人で出かけました。電器屋2つ回ったし、郵便局に行ったし、銀行に行ったし、おまけにパンも買ってきたし。久々に自分のペースで歩けて「そうそう、前はこんな感じだった!」って思い出しながら歩きました。その割には疲れた証拠である、耳の詰まりも起こらなかったし。やっぱ「気」のせいかしら??(笑)
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