09-27 Sun , 2015
境界線のないレインボーフラッグを見て考えた
ずっと前の日記に「わたし、この垂れ幕を去年の夏に発見して、そのとき気が付いたことがあった。この境界線のないレインボーフラッグらしきもの。でも画像を撮ってこなかったんだよね。なので今回は忘れず。これを見て何を思ったかをここに書くと長くなるので、このことについては後日別記事にすると思います。」

って書いてたのをすっかり忘れてたんだが、思い出したので書きます。

リバティおおさかで見た「境界線のないレインボーフラッグらしきもの」はこれ。

2145.jpg


発見したのは去年の夏。これを見て、わたしが一番に思ったのは「この中にない色がある」ということだった。正直今まで「境界線のある」レインボーフラッグは数えられないほどたくさん見てきたけど、このことに気が付いたのは初めてだった。

そのことに気が付いたのは、わたしは以前から自分のジェンダーのイメージは「灰色の丸」だったから。「レインボーフラッグに自分のイメージする色が入ってない」、最初、このレインボーフラッグらしきものを見て初めてそう思ったのだ。

が、実はこのことは「当然」のことでもある。だって、レインボーフラッグの定義は「6色の虹」であって、全部の色が初めから入ってないのだもの。最初は8色だったんだけど、印刷の都合などでピンクと紺色がなくなって今の6色になったと聞いている。その6色を「多様性の象徴」にしただけの話で、別にすべての色が入らないから多様性を表してないなんてことはない。だからある意味ない色があって当然のことだ。だけど、無意識にレインボーフラッグの中にはすべての色が入ってるんだなあなんて思ってたから、そうじゃないことに気が付いて少しびっくりしたのだ。

しかし、普通の6色に分かれているレインボーフラッグを見てもそんなことを思ったことなかったのに、なぜこの境界線がないレインボーフラッグらしきものを見て初めて気が付いたんだろうと思った。

少し考えてみて分かった。境界線がないことでレインボーフラッグより多様なものを表そうとしたからこそ、逆にない色が浮き出てきてしまったのだと。

もちろん、だからといって境界線がない方がいいとかあった方がいいとかそういうことではない。これは本当に自分にとっては興味深い現象だった、ただそれだけのことだ。

よく、性自認や性的指向を表すときに「男」と「女」が両端になって、男は青く、女は赤い色が付けられ、その間を赤と青のグラデーションで線が付けられているものがある。「人はこの間のどこかにいます」という説明がされるけど、それはウソだ。グレーはそのどこにもない。いわば、わたしのイメージする自分のジェンダーは男女の間にはない。世の中には「誰にも恋愛感情を抱かない」、そういう人も結構いる。その人たちはこのグラデーションスケールの中では表せない。「恋愛感情は抱くが肉体的な関係は持ちたくない」、そういう人もいる。これなんかもこのスケールの中でどう表せばいいの?って思う。

そもそもそれ以前に男は青で女は赤である必要もないのだ。「女は絶対に黒!」って思う人だっているだろうし、「男が赤だよね」って思う人がいてもいい。なんてったって「燃える男の赤いトラクター~♪」なんてCMがあったほどだし(随分古い(笑))。それに広島カープのチームカラーだって赤だ。これも「赤い炎」「燃える情熱」というイメージで'75年にそれまでの紺色のユニフォームから赤を基調にしたユニフォームに代わった。これを見れば分かるように、女=赤、では全くない。そして自分の「男」のイメージがパステルカラーであったとしても全然おかしくない。

「LGBTについて簡単に説明してください」と言われても、実はそんなに簡単なことじゃない。「何も知らない人にとってはそういうことは難しいので簡単に」と言われても、正直性はすっごく複雑なことで、まずは「簡単に男が青で女が赤でその間はグラデーションで」じゃなくて「いや、そういう風には表せないもっと複雑なことなんですよ」ということから説明すべきじゃないだろうかとわたしは思う。そうでないとそこからこぼれ落ちてしまう性的少数者が凄くたくさんいる。

そして大事なのは「じゃあ、あなたはどこにいますか」って、自分のことを考えることだと思う。「性的少数者は性の多様性を表している人たちだけど、わたしは異性愛者だからそうじゃない」というのは実は全然違う。性は一人一人違ってるのだ。何を男らしいか、何を女らしいかと感じるかだって、人によって全く違うのだ。だからこそ何が男らしいか、女らしいかという共通認識は実は持てないのだ。「誰を好きになるか」も今まで100%男性だったり女性だったりはおそらくしない。何よりも好きになった相手の性自認が自分の考えていた性自認とは違っていた場合はどうなんだろうか。それも人によりけりだろう。男性が好きになったと思ったら、実はその人の性自認は女性だった、それが許せる、許せない、人によって違うだろう。許せる人の性的指向はその場合は同性になるのか?

わたしの場合、性的指向は同性に向いているので自分はレズビアンだと思っているが、でも最近「男性も好きになる」ことに気が付いた。と言うよりも昔からわたしは男性には好みのタイプが存在している、ということは気が付いていたのだけどね。逆に女性には外見上の好みはほとんどない。まぁボーイッシュなタイプは好きなんだけども。。でも絶対にボーイッシュじゃなきゃダメってこともない(だいたい今一緒に暮らしている人はボーイッシュでは全くないし!)。まぁ恋愛対象である女性はわたしは割と「誰専」だったりする。

しかし逆に男性は好みのタイプがはっきりしてるので、一目で「あ、この人タイプ」って思う。電車の中で「おっ」って思う人も実際結構いる(言っておくと、男性に対しては基本「フケ専」。でもまれにそうじゃない人もいるが)。しかしここからが不思議なんだけども、好みの男性に対してわたしは近づきたいとか話したいとか一切思わない。逆に「その人の人生の中にわたしは入りたくない」と思う。でもその人がどういう人なのか、どういうことを考えて生きている人なのかは結構気になる。できるならずっとその人を追って見てたいなとか思う(本当にやるとストーカーになるのでやんないけど(笑))。でも相手にそういう自分を気が付かれたくない。なんせ自分の存在は知られたくない。ただ見守っていたい。別にその人が不幸になっても救いたいわけじゃなく、ただ見てたいだけ。

と言うことを以前誰かに話したら「究極の愛情だね」と言われたのだが、これって愛情?だいたいその人と知り合いになりたくない愛情なんてあるんだろうか。その人が別に幸福でも不幸でも構わないなんていうのは愛情と呼べるんだろうか。その人の人生の中に登場したくないくらいなんだから、当然のことながら性的な関係になんてなりたくないわけで。でも外見を見て「あ、いいなー」って思う人はいるのだから、この感情って一体なんなんだろうって思ったりする。

自分の性的指向を詳しく説明するとこんな風になる。けど、自認は「レズビアン」。「それでいいの?」って思う人もいるだろうけど、自認なんて定義に当てはまってなくても全然構わないと個人的には思ってる。自分がそうであると思えばそう。他の人が「それは定義に当てはまってない!」なんて言う資格ないと思う。第一、この今の自分の性質にどういう名前が付けられるというのだろうか。

「自分は異性愛者」って思う人は本当に自分は100%男(女)と思ってるのか、好きになる人は本当に100%異性なのか。自分は100%男らしいのか女らしいのか。まぁこれだけは別かな。だいたい「100%男(女)らしい」なんてことはこの世には存在しないから。人によって男らしさも女らしさも違うから。でも自分のことをちょっと考えると面白いかも知れない。異性愛者にだってその中での「多様性」はあるはずだ。それが例え名づけられていなかったとしても。
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09-06 Thu , 2012
心が女の子 -性の多様性について考える-
「心が女の子」っていう文章(?)をこないだどこかで見た。

女の子であるかどうかはともかくとして、これ見た途端、わたしは「あー、わたし違うなあ」って思ったのね。わたし、自分では「心が女」とは思えないなって。「じゃあ何よ」と言われると「分からない」としか言いようがない。それか「男でも女でもない」と言うか。

よく性同一性障害の説明なんかで「身体は○○だけど心は△△」っていうのがあるけど、あれってどうよって思うんだよね。そのような類の言葉で説明するなら、わたしの場合は「身体は女で、頭でも自分は女だと思ってるけど、心はよく分かんないか男でも女でもない」が一番感覚として近いんじゃないかなあと言う感じがする。

とすると今度は「頭と心の違いって何よ?」ということになる。ここがね、自分でもよく分からないというか難しいんだよね。突き詰めて考えれば心だって頭で考えた「何か」なんだから、自分の頭の中がどこかで分裂しているってことになる。でも自分の中では自分自身が矛盾してるとか混沌としてるという感じはなくて、ちゃんと分けられてるの。でもどこで分けられてるのかという実感がない。

そのようなことを少し前にtwitterでぶつぶつつぶやいてたんだけど、何人かの人に「分かるような気がします」って言われて「そういう感覚ってわたし一人じゃないんだなあ」と思った。

社会学的に言えば「頭と心」って「身体違和とジェンダー」なんだと思う。わたしには身体違和はないけどジェンダー違和はある、そういうことなんだと思う。

で、トランスジェンダーって身体違和がない、ジェンダー違和のみの人もいるそうだ。ってことは、わたしもトランスジェンダーに入ると思うんだけど、でもやっぱり自分では自分がトランスジェンダーとはあまり思えない。それはあまりにも「身体違和」が強調され過ぎちゃってるところがあるからだと思う。前にも同じようなことを書いたけれど、トランスジェンダーって言うのはアメリカのヴァージニア・プリンスって人が作った言葉で、その人は身体違和はなくジェンダー違和のみがある人だった。だから元々トランスジェンダーってのは身体違和ではなくジェンダー違和を感じる人のことだったんだけど、それが知らない間に身体違和がくっついて、今ではジェンダー違和より身体違和の方をまずありき、みたいになってしまっている(これは日本ではトランスジェンダーより性同一性障害の方が有名でよく取りあげられるからだろう)。わたしがこれまで読んだトランスジェンダーや性同一性障害についての本もトランスジェンダーについての歴史的経緯の話はされてても「(現在でも)身体違和のない、ジェンダー違和のみある人でもトランスジェンダーという」ということは一切書かれていなかった。もちろん、わたしはすべてのトランスジェンダーや性同一性障害に関する本を読んだわけではないので、その可能性は否定しないが、でも一般的に今読める本の中にはそう書いてある本に出会うことは非常に難しいんじゃないだろうか。

まぁそんなわけで、自分のことはあまりトランスジェンダーだとは思えないのだが、もし仮に自分がトランスジェンダーだったとしたら、では「レズビアン」ってカテゴリーはどうなるんだろう?って考えた。トランスジェンダーと同性愛は普通、トランスジェンダーの方は性自認で、同性愛は性的指向が関係するから、この両方は別の概念になる。だから、トランスジェンダーの人は異性愛者もいるし同性愛者もいるって説明をするわけだけれど(逆に言えば同性愛者の中にもトランスジェンダーの人はいる)、わたしの場合はジェンダー違和があっても、それは「男でも女でもない」「自分はどちらに入りたいのかよく分からない」っていう、いわゆる「Xジェンダー」に属するんだよね。無理矢理言えば「FtX」(Female to X)になるのだが、やっぱりこれってピンと来ない。だってわたしは身体違和がないからそういう面では「女」で揺るぎがないのに、Xって言われると「うーむ」となる。だから
むしろ「FtX(ジェンダー違和)」と書いた方が正確なんじゃないかと思う。

そしてXジェンダーだと性的指向がうまく表わせない。だって性的指向っていうのは「自分の性別」に対して(恋愛対象となる)「相手の性別」だからさ。自分の性別が「X」だと言い表わしようがないのよ。しかもわたしの場合は身体違和はないので、自分と同性である人が好きとも言える。だから「レズビアン」ではあるわけだ。だから無理して言えば「FtX(ジェンダー違和)レズビアン」ってことになるのかなあ?だけどこれってやっぱり変だよねって思えてしまう。

でね、これを考える際に「わたしは相手の性別を好きになるのか、それともジェンダーを好きになるのか」って思ったんだよね。だってトランスジェンダーが「身体違和」と「ジェンダー違和」の両方を含むのであれば、性的指向だって「性別かジェンダーか」と分けてもいいわけでしょ。

そうすると、わたしは考えてみると「女の身体を持った人が好きなんだ」ってことになるのね。残念ながら「心は女の人」でも身体が男の人だとわたしはおそらくその人は好きになれないと思う。ホント、悪いんだけどね。そればっかりは仕方がない。でもそれってわたしは「パンセクシャルじゃない」ってことなんだよね。パンセクシャルってのは日本語で「全性愛」と訳されて「男女の性別二元論に囚われずに人を好きになる人」のこと。バイセクシャル(両性愛)とはまた違うのね。バイセクシャルの人は男か女を好きになる人のことだからさ。その間っていうのはないのよ。だからバイセクシャルの人もわたしと同じく「男の体を持った人」か「女の身体を持った人」が好きになるわけ。「男の体だけどジェンダーは女」とかそういう人は対象にはならない。パンセクシャルって人の身体にはあまりこだわりがなくて、もしかしたらジェンダーで好きになるって人のことと言えるかも知れない。

ってことは、わたしは「FtX(ジェンダー違和)レズビアン(身体)」ってことになる。とするとこれまでに出てきたものを組み合わせると、

Maleヘテロ(身体(に惹かれる)):ヘテロセクシャル(異性愛者)
Maleヘテロ(ジェンダー(に惹かれる))
FtM(身体(違和))ヘテロ(身体):ヘテロセクシャル
FtM(身体)ヘテロ(ジェンダー)
FtM(ジェンダー(違和))ヘテロ(身体)
FtM(ジェンダー)ヘテロ(ジェンダー)
FtX(ジェンダー)ヘテロ(身体):ヘテロセクシャル
FtX(ジェンダー)ヘテロ(ジェンダー)

Femaleヘテロ(身体):ヘテロセクシャル
Femaleへテロ(ジェンダー)
MtF(身体(違和))ヘテロ(身体):ヘテロセクシャル
MtF(身体)ヘテロ(ジェンダー)
MtF(ジェンダー(違和))ヘテロ(身体)
MtF(ジェンダー)ヘテロ(ジェンダー)
MtX(ジェンダー)ヘテロ(身体):ヘテロセクシャル
MtX(ジェンダー)ヘテロ(ジェンダー)

Maleゲイ(身体):ゲイ
Maleゲイ(ジェンダー)
FtM(身体)ゲイ(身体):FtMゲイ
FtM(身体)ゲイ(ジェンダー)
FtM(ジェンダー)ゲイ(身体)
FtM(ジェンダー)ゲイ(ジェンダー)
MtX(ジェンダー)ゲイ(身体):ゲイ
MtX(ジェンダー)ゲイ(ジェンダー)

Femaleレズビアン(身体):レズビアン
Femailレズビアン(ジェンダー)
MtF(身体)レズビアン(身体):MtFレズビアン
MtF(身体)レズビアン(ジェンダー)
MtF(ジェンダー)レズビアン(身体)
MtF(ジェンダー)レズビアン(ジェンダー)
FtX(ジェンダー)レズビアン(身体):レズビアン
FtX(ジェンダー)レズビアン(ジェンダー)

Male(身体)バイ(身体):バイセクシャル
Male(身体)バイ(ジェンダー):パンセクシャル
MtF(身体)バイ(身体):バイセクシャル
MtF(身体)バイ(ジェンダー):パンセクシャル
MtF(ジェンダー)バイ(身体):バイセクシャル
MtF(ジェンダー)バイ(ジェンダー):パンセクシャル
MtX(ジェンダー)バイ(身体)
MtX(ジェンダー)バイ(ジェンダー)

Female(身体)バイ(身体):バイセクシャル
Female(身体)バイ(ジェンダー):パンセクシャル
FtM(身体)バイ(身体):バイセクシャル
FtM(身体)バイ(ジェンダー):パンセクシャル
FtM(ジェンダー)バイ(身体):バイセクシャル
FtM(ジェンダー)バイ(ジェンダー):パンセクシャル
FtX(ジェンダー)バイ(身体)
FtX(ジェンダー)バイ(ジェンダー)

になる。「:」以降は今一般に、どんな呼び名で呼ばれてるかということで、これを見ると名が付けられてるのは全体的に半分くらい?ただ、バイセクシャルの場合、パンセクシャルもこれに当たるので、バイセクシャル、パンセクシャルの場合は割と名付けられてるって感じかな。

ただ実際に

FtM(ジェンダー(違和))ヘテロ(身体)
FtM(ジェンダー)ヘテロ(ジェンダー)

このような場合(頭では自分は女だと思っていて、でもジェンダーは男性だと思っている人)が有り得ても、性自認はでは身体の方を取るのか、ジェンダーの方を取るのか分からないので、その人の性自認はどうなるのか本人にしか分からないという場合もある。

MtF(ジェンダー(違和))ヘテロ(身体)
MtF(ジェンダー)ヘテロ(ジェンダー)
FtM(ジェンダー)ゲイ(身体)
FtM(ジェンダー)ゲイ(ジェンダー)
MtF(ジェンダー)レズビアン(身体)
MtF(ジェンダー)レズビアン(ジェンダー)

以上の場合も同じだ。

そして例えば

MtX(身体)ヘテロ(身体)
MtX(身体)ヘテロ(ジェンダー)

のような場合は有り得ないということで除外した。「自分はどういう人が好きになるか」は分かっても、性自認は他人と自分の対象的な関係ということになるので、自分が(身体的に)Xジェンダーだと相手のことをどうみていいのか分からないんだよね。

ってことで一口に「性の多様性」とか言ってるけど、実際に考えてみるとちょっとしたことを付け加えるだけでこんなにたくさんの種類になるのだ。もちろん、概念は「身体違和」「ジェンダー違和」「身体を好きになるか」「ジェンダーを好きになるか」だけじゃないだろうから、そういうことを考えると本当に性は多様性だなって思うのだ。

なんて、自分のことを考えていたつもりが、最終的には「性の多様性」に行き着いてしまった。
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01-21 Sat , 2012
踏んでいる足、踏まれている足
人間誰しも他人の足を踏んでいるし、また踏まれていると思う。

しかし、踏まれて痛い思いをしている人が「痛い!」とわざわざ声を挙げなければならないのはなぜだろう。足を踏まれていることだけでさえ苦痛なのに。苦痛であることに加えて更に踏んでいる側になぜ「痛い理由」を説明しなければならないのだろう。

「なぜ同性愛者は同性を好きになるの?」「在日であることでつらかったことは?それをどうやって乗り越えたの?」「なんで女性専用車両なんかあるの?」「うつ病って単に怠け病だよね?」,etc.etc..

「相手の身になって考えろ」とは言わない。その人が持っている「本当の痛み」はその人でないと分からないと思うから。

ただ「なぜ自分は足を『踏んでいる側』の人間なんだろう」ということについては考えて欲しい。「足を踏んでいる」ということはどういうことなのか、それを考えて欲しい。

それを考えた上で、踏まれている人に接して欲しい。

そういうわたしだって、もちろん足を踏んだり踏まれたりしている人間だ。いくら「足を踏んでいる」ことについて考えても、分からないことがある。しかしそう考えることによって、少なくとも無自覚にずげずげと更に相手の足を踏みつけることのないよう、気をつけたいと思っているのだ。
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