12-28 Wed , 2016
引退してしまった俳優さんについての思い
以前から書こう書こうと思ってたけど、風邪引いてて書けなかったこと。

わたしはこの人のことはほとんどまったく知らない。名前の呼び方すら知らない(最初の漢字、「なる」って読むの?それとも「なり」って読むの?)。顔もアップされてたのを見たけど、見たことがない人だった。なので、この人のことをどう呼んでいいのか分からない。

基本、わたしは俳優さんに対しては普段フルネーム呼び捨てで呼んでる。例えば好みのタイプの俳優さんは大杉漣、とかさ。そういう普段から言い慣れてる人に対しては、普段言い慣れた呼び方でそのまま書けると思う。が、この人に対しては今まで呼び名を口にしたことは一切無かったので、今ここで「○○さん」とか「○○」と言うのはとても違和感がある。だって今までまったく見たことない人なんだもの。だから何かに配慮して個別具体的な名前を書かないのではなく、単にわたしが今までまったく知らない人を馴れ馴れしく知ったかぶりして名前を書いたりすること自体にとても違和感があるので、書かないだけ。それをまず書いておく。

全然知らない人なのに、引退のニュースを知ってしまったのは、単にわたしが普段からYahoo!経由でスポーツナビに行って、そこからカープのその日のニュースを見る、という習慣があるからだ。好む、好まざるに関わらずYahoo!のトップにまずアクセスするので、なんとなしに気になったトップニュースにアクセスしてしまうことがある。このニュースも単にそうだっただけに過ぎない。

誰が引退したかはよく分からなかったものの、少し前からいわゆる薬物を使っているのではないかと噂されている、ということについては、それもなんとなくどこかで見たことがあったので知っていた。だから多分、そのニュースにアクセスしようって思ったんだと思う。しかしそのニュースの中にあった、引退への挨拶文みたいなのを読んでびっくり仰天した。その中に

この仕事をする上で人には絶対に知られたくないセクシャリティな部分もクローズアップされてしまい



と書かれていたからだ。性的少数者以外の当事者でない人には多分、この恐怖感は理解できないのではないかと思う。わたしこれ、読んで一番に思ったのは

「これだと自分のセクシャリティが"普通"でないって言ってるのと同じじゃないか!」

ってことだった。だいたい、性的多数者ならば、自分のセクシャリティのことは「絶対に知られたくない」とは思ってないだろうし、そもそも、知られたいとか知られたくない以前に、自分のセクシャリティは「みんなと同じ」で「みんなが知っている」ものなのだ。というか、みんな知っているどころか、自分のセクシャリティが何であるかすら、考えたこともない人も多いだろう。「普通」としか思っていない人もいるに違いない。ゆえに「絶対に知られたくないもの」が自分にあると思っているということは、この人は自分が何らかの性的少数者である、ということを「カミングアウトしている」ことになる。

ちなみにここで注意しておきたいのは、この挨拶文だと「この人は性的少数者なのかな?」って思うくらいにしか分からないということだ。まぁわたしもそれ以上のことはあまり興味がない。なんであろうが、わたしには関係がないことだし。この人はそれ以上のことが言いたくなかったからわざわざ「セクシャリティ」って言葉を使ったんだろう。

で、わたしはここ10年くらいは大抵、自分のセクシャリティをカミングアウトしたりしているが、それでもそれ以前は完全なクローゼットだったので、そのクローゼット状態の感覚って10年経った今でもまだ身体に染みついているらしい、ということをここから感じた。

というのは、完全なクローゼット状態のときというのは、絶対にそのことを知られたくないために、なにを隠さなければならないのか、ということについてものすごく頭を回転させなくてはならず、「このことについて何か言ったら、何かあるなって思われないかな?」と言うことについて、すごくすごく慎重に考えていたからだ。「このことについて何か言ったら、話を聞いた人はどう思うだろう?」ってことをひたすらひたすら考えて、事前に自分の中で「想定会話文」みたいのを作り、そこで問題がないようだったら人に話せる。会話してても常に頭の中では「その後の想定会話文」が作られ、話している人が怪しく感じないかをリアルタイムでチェックしている。だから頭は常にフル回転だった。

何か秘密を持っている、ということは、その秘密を持っている、ということすら周囲に悟られてはまずいのだ。具体的な秘密の内容ではなく、「何か秘密を持っている」こと自体を隠すことは、それが具体的になんの秘密であるか、ということ以上にとても気を遣うことだった。その気遣いでクタクタに疲れてしまうことだってあった。けど、ばれてしまうよりマシだったので、クタクタになってもばれないように気を遣った。

なので「絶対に知られたくないセクシャリティ」と公にすることによって、「この人は絶対に知られたくないセクシャリティがあるってことが分かってしまうじゃないか!」ってことを、読んだ瞬間、わたしは恐怖に感じたのだった。でもこれ読んで「あ、こんなこと言ったらばれちゃうよ!まずいじゃん!」って瞬間的に思ってしまうってことは、やっぱりクローゼット時代のあの「秘密を持っていることすら隠さなければならない」という感覚をまだわたしは捨て切れてないってことだよね。

でもこの人が「絶対に知られたくないセクシャリティ」って書くってことは、もちろん本人もここの部分で何かあると周囲に思われることは十分承知の上で書いたのだろう。だって多分、この人もクローゼット時代のわたしと同じどころか、みなに見られる芸能人なのだから、それ以上に気を遣っていたはずだ。「絶対に知られたくないセクシャリティ」であるなら、ばれるのが怖くて怖くてたまらなかったはずだ。なのでわたしには逆にここの部分は、この人の悲痛な叫びとしか感じられない。「窮鼠猫を噛む」とはちょっと違うが、クローゼット(「押し入れ」という日本語でもいいが)の中に隠れるように自分を押し込んできて押し込んできて、それでも外に引きずり出される、もう逃げられないと感じたので、逆にこちらから明らかにせざるを得なかった。「本当はこんなこと言いたくなかったんだ!」という叫びとともに。多分この人は、薬物疑惑が晴れても、次に自分のセクシャリティの問題に焦点が当たり曝露されてしまう、と考えたのだろう。そして、世間から取り沙汰されるセクシャリティを持っているのは薬物とは違って事実だから、もう隠しようがないと思ったのだろう。無理矢理外に引っ張り出されて、あれこれ事実に加え、事実でないことすら事実のようにおもしろおかしく興味本位で取り沙汰される。それがこの人にとっては耐えられないほど苦痛だったのだろう。この叫びは本当に痛々しい。わたしも当事者ゆえに、その痛々しさを身を切られるような思いで受け取っている。

この挨拶文の発表から、もう20日くらい経ったのかな。周囲ではいろいろあるようだけど、わたしは本人がそれ以上のことを公にされたくないのはもう分かっているから、マスコミ、報道陣に対して「これ以上曝露することは止めて欲しい」と強く思う。アウティングは人権侵害だ。それより、このことがあって以来、この人は安心できる場所にいるのだろうかと思う。こちらの方がわたしは心配でたまらない(ちなみに「どこにいるか」「誰といるか」などについても嗅ぎまわらないで欲しい)。できれば心穏やかにいられる人たちと、心穏やかに過ごせる場所で、心穏やかに過ごしていることだけを願っている。
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12-26 Mon , 2016
ジョージ・マイケルが死んだ
今朝起きて知った。
びっくり。

今まで彼の年齢を知らなかったが、どうやらわたしより5つ年上だったらしい。
わたしは彼のファンじゃなかったけど、彼が有名になったWham!の曲はリアルタイムで聞いていた。
ちょうどわたしが高校生の頃。声がすごくクネクネしてる人だなあって思ってた。
多分、流行った曲はほとんど知ってると思うし、好きだった。自分で買って聞こうと思うほどではなかったけど。

この人がちょいちょい「ゲイじゃないか」って言われてるのは知ってた。
ただわたしはエルトン・ジョンの方が好きで、エルトンに対してはゲイじゃないかと言われてる頃からむしろ当事者の勝手な思いとして「ゲイであって欲しい」って思ったり、彼の歌の歌詞に対して「どこかに同性愛的なメッセージが込められてる歌詞はないか」と思って一生懸命歌詞の言葉を追ったりしたこともあったが、ジョージ・マイケルに対しては全然そんなことはなかったのは、やっぱり歌自体、そこまで好きってわけでもなかったんだと思う。ただ、彼とエルトン・ジョンが歌った「Don't Let the Sun Go Down on Me」は好きだったな。過去にもカラオケで彼女と二人でこの歌を「ジョージ・マイケルとエルトン・ジョンごっこ」って言って歌ったこともある。

「どこかに同性愛的なメッセージが込められてる歌詞はないか」については、どこで読んだか忘れちゃったけど、ジョージ・マイケルが確か14歳くらいのときにエルトン・ジョンのなんて曲か忘れたけど(確か「Blue Moves」の中の曲だったと思うんだけど)、あれを「自分の歌だ」って泣きながら聞いたとか読んだことがあって、でも確かあの頃はまだジョージ・マイケルはゲイだってカミングアウトしてなかったような気がするんだよな。。その気持ちはわたしにも痛いほどよく分かったので、よく覚えてる。

しかし今年もいろんな人が亡くなった年だった。わたしの中ではデヴィッド・ボウイが大きくて、というか、フレディ・マーキュリーと歌った「Under Pressure」が大好きだったんだけど、ああこれで2人とも亡くなったんだなあって思って寂しかった。あとプリンスが亡くなったのもびっくりだった。大学時代の友人が彼の大ファンだったんだよね。ちょうどプリンスの名前がなくなって、「以前プリンスと呼ばれたうんたらかんたら」と呼ばれるようになった頃。そしてジョージ・マイケルか。'80年代に聞いてた洋楽の歌い手がどんどんこの世を去ってるなあ~。

なんか寂しいね。仕方のないことだけど。
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12-24 Sat , 2016
彼女のお父さんが亡くなってお葬式に行ったときの話
ようやく風邪から復活したのかな?という感じです。
というか、今回の風邪は本当にひどかった(T_T)
喉や鼻の粘膜が痛くなくなるまで1週間以上かかって、しかもようやく復活したかな?と思いかけたときに、急激な腹痛と数回の嘔吐、その後の発熱とどうやら急性胃腸炎になったらしく。。ホントに踏んだり蹴ったりだった。。

やっぱりこの1年、身体に散々無理させていたことが祟ったんだろうか。

「今年あったことは今年のうちに」ってことで、前にも書いた彼女のお父さんが亡くなって、そのお葬式に参列した話を書こうと思う。

その前提としての話なんだけど、彼女はわたしとの関係を親兄弟にはカミングアウトしてない。その理由としては、親がもう高齢なことと、兄弟には別に言っちゃってもいいかなとは思ってるんだけど、その配偶者や子どもまで言ったり知られたりするのはめんどくさい、というので結局兄弟にも言ってないということで。だけど、わたしのことは「一緒に暮らしている人」として、もうずっと彼女の親兄弟とは以前から付き合いはあった。このブログでも何回か会いに行ったときのことを書いたりしてるけど。わたしとしては、中途半端な存在なんで、彼女が親元に行ったときに近くに住んでる兄弟たちで一緒に集まろうとしたときは「わたしは別にいいです」ってことで、一人でホテルにいたりしたこともあったんだけど、そのときに「なんで○○さん(わたし)は一緒に来ないの?」って言われ、次に2人で親元に行ったときは仕方ないので(わたしの気持ちとしては、いづらいから本当に仕方ないって気持ちだったんだけど(^^;)一緒に行ったりした。そして、彼女のお父さんは長く病院に入院されてたので、そのお見舞いにも2度ほど行ったかな~。

ま、そういう関係。

でも、お葬式となると話は別だよね~。なんてったって彼女に付いてくと自動的に「親族扱い」になる。知らない人もたくさん来るだろうに「あれは誰?」って聞かれたらどうしよう。。じろじろ見られたらどうしようって思うと、行かない方がいいのかなって何度も思った。けど彼女は付いてきて欲しいと言うし、まぁそれまでの親兄弟とわたしとの関係を考えると、少なくとも親兄弟は「なんでアンタが来たの?」とは言わない感じがして。なので一緒に行くことにした。彼女のお父さんの状態が悪くなって「今夜がヤマ」と言われてからも1週間生き延びられたんで、その間に行く行かないを考えるための時間があったということも確か。

葬儀会場に行った日の夕方がお通夜、その次の日がお葬式だった。最初、葬儀場の親族の控え室みたいなところで荷物を置いて喪服に着替えた。既にそこには知らないたくさんの人たちが来てたけど、素知らぬ顔をして中に入って仕出しのお弁当を食べたりした。んー、なんというか。知らないおばさんが話しかけてきたりしたけど、「あなた誰?」という会話ではなく、もう知った人みたいに話しかけてきて「この人、わたしのこと誰って知ってんのかな?」って思うほどだった。あとでわたしの方が彼女に「あの人誰?」って聞くと、彼女の兄弟の配偶者さんの親御さんだったりした。

その中で、お通夜が終わったあとに話しかけてきた人がいた。彼女の妹さんの配偶者さんだった。この人とは当然以前から顔見知りだったし何度も会ったことはあるけど、まだ一対一で話したことはなかった。なのにいきなり話しかけてきて「??」だったんだよね。いきなりわたしに対して、わたしを「彼女の同居人」と見て話しかけてきた。確か「同居人さんも大変ですよね~」みたいな話し方だったと思う。そしていきなり自分の近況について話してきた。まぁそれは個人の情報だからここで書くのは控えるけど、今までそんな話をしたことはないし(でも知ってたけど)、「この人、わたしにこれを話すってことは、このことを既にわたしが知ってることが前提ってことでいいのかな?」って思ったりした。ここで素直に書いちゃうけど、すいません、このときはいきなりだったからちょっと気持ちが悪かった(笑)(多分、これ読んでないので大丈夫← てか、読まれても大丈夫だけど)

お通夜が終わった日の夜は、兄弟たちで一緒に集まっての飲み会だった。彼らの配偶者さんたちや子どもたち、そして彼女の従兄弟さんも参加した。わたしはほとんど何を話していいのか分からなかったので、黙ってそれを聞いていた。

翌日はお葬式だった。お葬式が終わったあとに火葬場に行った。火葬場でお昼ご飯の仕出し弁当を食べた。そのときたまたまわたしは前日の飲み会に参加した彼女の従兄弟さんの目の前に座った。わたしの隣は彼女が座った。そうしたらその従兄弟さんは彼女に対して「失礼ですが、この人とのご関係はなんですか?」って聞いた。前日の飲み会ではわたしとその従兄弟さんは隣同士で、でも彼女はいろんな席で飲み歩いてたんで、疑問に思ってても聞くことが出来なかったんだろう。彼女はきっぱりと「パートナーです」って言った。

そう答えられて一瞬、わたしは身構えた。確かに前日、隣同士になって話を聞いてて悪い人じゃないなと思ってたけど、昨日初めて会ったばかりの人だ。なんて思われるか分からない。けどその人は彼女の「パートナーです」という言葉を頭の中でゆっくり噛み締めたようだった。ちょっと時間を置いて「なるほど、そうだったのか」という表情に変わった。その表情の変化をわたしは今でも忘れてない。ごく自然にその人は受け止めてくれた。

そのうち彼女は呼ばれてどこかに行ってしまった。一人になったわたしにその従兄弟さんが話しかけてきた。「△△さん(彼女)のどこが気に入ったんですか」って。

わたしは一瞬、「火葬場でする話なのかこれは」って思ったけど、実はこの「この人のどこがよかったの?」って質問を今までわたしは(自分の親族含め)親族関係の人にされたことがないことに気が付いた。きっとヘテロの人の会話では当たり前にされているだろう、この会話。そりゃ、彼女とわたしの関係を話してないからそういう質問は知らない人からはされようがないんだけど、いきなり同性愛者ですってカミングアウトされた後にごく自然に「その人のどこがよかったんですか?」って聞ける人ってすごいなあって思った。そしてそれがとても嬉しかった。

あとで彼女に「あなたがいない間に従兄弟さんからこんなこと聞かれたよ」って言ったら大爆笑された。

結局「ご関係は?」って聞かれたのはお通夜、お葬式を通じてこの人だけだった。あとの人たちは特に「この人誰?」って目で見るわけでもなく、なんか全然知らない人なのに以前から知ってる人みたいに話しかけてきて、逆にこっちが途惑ったくらいだった。火葬場から帰るバスの中でも。全然知らないおばさんたちと猫がどんなにかわいいかという話とかしてた。

火葬場から帰って来て、本当に最後の最後、親族だけになった。そこで「親族だけの写真を撮りましょう」ってことになった。わたしは直前まで入るか入らないか迷ったんだけど、そこで一人だけ「入らない」というと、絶対に「入りなさい、なんで入らないの」って話しになると思ったし、そういうところでわざわざ目立つ必要はないと思ったので、ちょっと違和感がありつつ中に入った。一番端っこで小さく写った(つもり)。

そこからはもう解散で、移動する人たちは駅に向かった。その道すがらのことだった。彼女からいきなり「ねーねー、この人知ってる?」って聞かれた。スマフォの画面を見せられて、見たらtwitterの誰かのアカウントの画面だった。その人のアカウントの画像には虹のアイコンがかかってた。「??」って思ったら、お通夜のあとに話しかけてきた妹さんの配偶者さんのtwitterのフォロワーさんのことだった。聞くと「全然知らない人なんだけど、こういう人がフォロワーさんの中にいて、お姉さんたちはこの人のことをご存知ですか?」ってことらしかった。

ってことは、、この配偶者さん、前の日にわたしを「彼女の同居人」として話してきたけど、実はもうバレバレだったってことだよね(笑)きっとあのときああやって話してきたのは、これが言いたかったんだなって思った。なんだかとっても可愛らしい人だなーって思った。ってわたしよりずっと年上の人だけど(笑)ちなみに虹アイコンの人すべて知り合いなわけじゃないですから(笑)虹アイコン=性的少数者ってわけでもないし。まぁその人はレズビアンの人らしかったが。

それからその配偶者さんと今、巷で話題の(?)「同性パートナーシップ条例(or 要綱)」のことについて話したりなんかした。そういうことについて関心を持った人だとは全然思わなかった。

なんかねー、最後の最後にそういうことがあって。お葬式帰りだというのにほっこりして帰った。

しかしね。真正面からカミングアウトせずとも、時間をかければ徐々にこういう風になる関係もあるのかな。わたしは、わたしの家族に対しては既にカミングアウトしている。妹には計画的に言ったけど、親に対しては物の弾みで電話でカミングアウトしてしまって(そのときの話は過去ログにあるはず)、でもそれは結局は失敗だったと思っている。親はわたしのことは受け入れたけど、彼女のことは受け入れてないと思う。というか、わたしに対してだって未だに受け入れてないんじゃないかって思うことはある。親に対しては何度も何度もカミングアウトしないと分かってくれないっていうけど、まさにその通りだなと思うことがあるから。まぁ、カミングアウトする、しない以前に親との関係がうまくいってるかいってないかにも因るけどね。うまくいってないときはカミングアウトを無理矢理する必要はまったくないと今では思うようになった。ただ自分の時のことを思い返すと、あのときは親から「友だちにそんなに迷惑をかけちゃダメだろ」と言われ、「友だちじゃない」と言ってしまったわけで、あのときに「友だちです」とウソをついたらその後どうなっちゃっただろうってことはあるけど。。

これが今年あった出来事のうちの大きな1つ。
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05-24 Tue , 2016
性的マイノリティーと男女共同参画・韓国の場合
20160507 094709


少し前の話だが、5月7日(土)にレインボー・ウィークの一環で「性的マイノリティと男女共同参画・韓国の場合」というイベントがあったので行ってきた。講師はリュ・ミンヒさんという韓国の性的マイノリティ当事者の弁護士さんだった。隣の国の性的少数者のことはずっと知りたかったことだし、それに一昨年、去年と韓国での性的少数者のパレードが反同性愛団体(主にキリスト教保守派の団体)から妨害されている、ソウル市もどちらかというとその動きに同調している、ということはちょっと耳に入ってきて知ってたので、そのような話も聞けるかなと思って期待していたが、期待以上の話が聞けたので、一応情報共有ということでここに書いておく。

パワーポイントを使いながらの発表で、もちろん韓国語での発表(パワーポイントは英語だけど)。それに通訳を介してなので、情報量は単位時間あたりに換算すると日本語で行われるときの半分以下だと思うが、そうとは思えないほどいろいろなことを話された。ちなみに時間は2時間ちょっとで、うち質問時間は30分あったかどうか。

韓国には「SOGI Lawyers」という人たちが4人いるそうで、10年前から活動している。発表ではこの5年間、この人たちがどういう活動をしてきたかをまず話した。ちなみに「SOGI」というのは、「LGBT」に代わる表現方法なのだが(日本でもこの言葉がいろんなところで紹介されている)、SO = Sexual Orientation(性的指向)、GI = Gender Identity(性自認)を指している。まぁ性的指向、性自認が「ない」人も含め、すべての人を包含する表現ということで(ということは、性的多数者も含むということ)、これはこの問題は「LGBT」だけじゃなく、すべての人を対象とする問題だということを表している言葉らしいのだが、「だからなに?」と言われることもなきにしもあらずな表現方法だなあと個人的には思っている。だから「LGBT」がいいかというと、それも違うんだけど(なのでわたしは以前からずっと「性的少数者」という言葉を使っている。「少数者」が気にくわないという人もいるらしいが)。

ちなみに「SOGI」で検索をかけるとこの「SOGI」と、それとは別に「葬儀」関係のことが出てくる。月刊「SOGI」という雑誌もあるらしく、最初これを知ったときはどっちの「SOGI」だか分からなかった(^^;(思わず「えっ、もうこんな雑誌まで出てるの?」って思ってしまった)

まぁそれはいいとして。この韓国のSOGI Lawyersとしての活動内容は、年に1回報告書を出すこと、他団体と協力して韓国の性的少数者当事者を調査していること。それから当事者弁護士などを集めてのキャンプとか、ここら辺はパワーポイントに書いてあるんだけど、どういう説明してたかは忘れたので具体的な内容はなんだったかよく覚えてない。

現在の韓国の法的な問題として、韓国には国家人権委員会というものがあるんだけど、これは法的拘束力がないので、法的拘束力がある差別禁止法を求めているそうだ。そして韓国では「反同性愛法」みたいなのはないんだけど、軍隊の中にはあるそうで、なので徴兵された人が同性愛者だと、それは性犯罪者になるそうだ。これはもともと米軍の規則か何かから引っ張ってきたそうだが、韓国ではこれがまだ生きているそうで、これについて今、裁判で争っているらしい。既に2回判決が出ていて、来月、3度目の判決が出てくるだろうとのこと。そして当然のことながら(って言っていいかは分からないけど)「同性婚(または同性パートナーシップ)」に関する法律はない。性別変更に関する法律はないが、2006年の判例で性別変更は認められたとのこと。要件などは日本と全く同じで、これは日本で少し前に「性同一性障害特例法」ができたことの影響を受けているとのことだった。

次に他団体と協力して調査したという調査内容の発表。ちなみにSOGI Lawyerの年次報告というのはこういうのらしい。今回説明した調査内容は「Key Results of the South Korean LGBTI Community Social Needs Assessment Survey」で検索したら、pdfファイルがダウンロードできるようになってるのでそこで見られる(URLは分からないのでリンクが張れない)。

調査対象は主にSNS繋がりだったかで調査したので、30代までの人たちでほとんど占められてしまったので、40代以降はバーなどに行って直接聴き取りをしたのだとか。それでもこの世代は全体の6.6%くらいしかいなかったので、回答にちょっと比重をかけて重くしている、とのことだった。この発表では「家族には絶対にカミングアウトできない。もし自分のことが家族に知れたら勘当される」とか「コミュニティには頼れない」という当事者の声の紹介、当事者が一体何を求めているかという質問では、差別禁止法を求めている人たちの割合が一番高い、次は同性婚を合法化とか(しかしこれは複数回答可)、カミングアウトはどんな感じでしているかという質問に対しては「一部のみ」「ほとんどしてない」がそれぞれ32.9%、27.6%と過半数を占めること(ちなみに「大部分している」が19.3%、「誰にもしていない」が20.3%)、などが指摘された。カミングアウトについての比率は日本と比べてあんまり大差ないような気もするけど(NHKが去年当事者に向けてアンケートをしたけど、まとめ方に相違があるので単純比較はできない)、でも当事者の声は日本よりやはりちょっと厳しめなような気がした。

次に国連の人権委員会が韓国に対してどのような勧告をしているかの内容だったが、ざっというと「差別禁止法をがないから制定しろ」とか、また、上に書いた軍隊での同性愛が犯罪となっている部分に対してもなくすように勧告されているとのことだった。ここら辺の勧告内容は、軍隊のことを除いてほとんど日本と同じなんじゃないだろうかと思う(細かい部分はいろいろ違うだろうけど)。

そして、最近の韓国国内での訴訟について。冒頭にも少し書いたけど、去年、ソウルでパレードを開催するときにゴタゴタ揉めた件。これは、ソウル市庁前の広場の使用をめぐるもので、当初、パレード開催団体は6月13日にパレードのオープニングセレモニーとパレードを開催する予定だった。が、反同性愛団体が同じ日の同じ時間にその場所を取っちゃったらしいのね。だから、パレード開催団体はオープニングセレモニーを6月9日にして、パレードを6月28日に変更したそうだ。韓国では使用許可は1ヶ月前に「早い者勝ち」で取るらしく、そのために性的少数者たちはその使用許可を取るために随分前からソウル市庁の前に並んでいた(あれ、警察署だったかな?)。この様子は当時当事者たちのtwitterなんかでも画像付きで流れてきたりしてたのを見たことがある。色とりどりの風船が浮かんでて、しかも「今日の夕食は○○にしよう!」なんて書かれてて(わたしが見たときはチキンとコーラだったかな?)、すっごく楽しそうだった。

使用許可はパレード主催団体が一番に出したんだけど、反同性愛団体も「自分たちが一番に出した」と言い張って、しかも、ソウル警察はどっちが先だったか答えなかったみたいなのね。だから、裁判を起こしたということだった。で、結果は、パレード主催団体が勝った。というのは、複数の警察の管轄にまたがる場合は、韓国の場合はその上の組織(名前は忘れた)に使用許可を提出しなければならないらしいんだけど、パレード主催団体はちゃんとそうしてて、反同性愛団体はそれをしてなかったらしいのね。だから、パレード主催団体が勝訴した、とのこと。去年は相手のミスでなんとかなったけど、今年はおそらく向こうもそんなミスはしないだろうから、どうなるんだろうかと言っていた。

もう一つの訴訟は「雨のち虹色財団」と韓国法務省。韓国の法務大臣が2015年6月にプライドパレードを見て「表現の自由は尊重しなければならないが、健全な社会のためには一定の制限がある。(ゲイプライドは)我々の社会の伝統的な価値観に合わないので、制限すべきと考える」って言ったことに対して、「雨のち虹色財団」(英語の名称は「Beyond the Rainbow Foundation」と言うらしい)がその発言の取り消しを求めて訴訟を起こしたとのこと。2015年11月20日に1回目の審問があって、法務大臣が発言、2回目の審問は2016年の1月中旬に行われる。

ここで「なぜ、韓国では反同性愛の運動がひどくなったのか」という説明が始まった。韓国のパレードって2000年が最初で、途切れがなく15回行われてきたのに、妨害にあったのは2014年からなのね。それ以前はまったく妨害がなかったそうだ。

今、猛烈に同性愛者に対して攻撃をしてくるのは、保守系のキリスト教団体なのだそうだ。韓国の宗教を信じている人の割合は、46.5%が無宗教、22.8%が仏教、18.3%がプロテスタント、10.9%がカトリック、そして残りの1.7%はどのどれでもない宗教、なんだそうだが(2005年調べ)、この中の「プロテスタント」が、このような団体を含んでいるらしい。韓国でプロテスタントは韓国の経済成長とともに発展してきたそうだ。経済活動の活発化と宗教がうまくマッチして、韓国のプロテスタント人口が増えたそうだ。が、1990年代からそれが減少し始めた。その理由は、教団の中での指導者の不倫だったり、なんかいろんなモラルの悪さが表面化したことによって信者数が減少し始めたみたい。なので、教会は信者離れを防ぐためと信者の獲得をするために、2000年代の半ばごろから性的少数者を敵にして叩き始めたということだ。そして、在米の韓国系教会の影響を非常に受けていて、資金もそちらから流れてきているとのことだった。

そこで、在米韓国人の同性愛に関する意識の調査結果を見せられたのだが、「同性愛は受け入れない」割合はなんと過半数以上の55%、「受け入れる」は40%。同じ調査の在米日本人が「受け入れる」68%、「受け入れない」22%に比べると対象的な結果になっている。在米韓国人の「同性愛を受け入れない」割合が高いのは、在米韓国系教会の影響が強いからではないかと言っていた。この調査はおそらくアメリカの同性婚合法化前のデータだろうけど、アメリカ自体が同性婚合法化してしまった現在、この人たちの意識はどう変わるのかねとちょっと思ったのだが、でもアメリカは広いから、強固に「同性愛反対」なコミュニティって今までのまま、あまり変わらないんだろうな。。いや、もしかしたら「アメリカはこうだけど、韓国ではこうなって欲しくない!」と思ってじゃんじゃん資金を韓国の保守系キリスト教団体に送るとしたら、やりきれないよなあ。。

ちなみに保守系キリスト教団体の人たちは「同性愛は祈祷で治る」と思っているらしい。なので、去年の6月のソウルでのパレードにも反対派の人たちが集まってきて、お祈りしてたとか(なんと無駄なことを)。

そういうわけで、韓国のクリスチャンコミュニティの中には性的少数者は安全でないみたいだ。日本でもそういう話は一部聞くけど、でも、外部から見ると(わたしは信者ではないので)「受け入れる」教会もいくつかあるよね。主にプロテスタントで当事者が牧師さんの教会とか。カトリックは法王自体がどうかで下が受け入れるかどうか決まるみたいで、今の法王は「同性愛者に対する差別は許さない」人みたい(ただし同性婚には反対してる)。ただ、その考えが末端のカトリック教会まで浸透してるかというと、それは十分に怪しいと思うが。。(ただ、法王はこう言ってますよ!とは言えると思う→が、実際のところ、神父さん含め教会内にそういう素地がまったくないところでいきなり「法王はこう言ってる」とは言いにくいだろうと想像する)

その後は「韓国での同性婚の合法化への動き」の話に移った。もちろん韓国では同性婚は合法ではないが、近年では「公開結婚式」を行うゲイカップルや、役所に婚姻届を提出するゲイカップルもいるらしい。「公開結婚式」では、多くの市民の人にも祝福されたものの、一部、過激な反同性愛な人が人糞を撒いたそうだ。その人が取り押さえられている写真を見た。自分とは直接関係がないはずなのに、なんでそこまで人を憎めるのか不思議。婚姻届は日本と同じく「妻となる人」「夫となる人」という欄があったので、そこを「配偶者1」「配偶者2」に書き直して提出したそう。

そして、当然のことながら婚姻届は不受理だったのだが、その根拠は韓国の民法826条1項と2項とのこと。韓国の憲法36条1項は日本の憲法24条と同じようなことを書いてある(婚姻は両性の合意のみに基づく)らしいのだが、韓国の憲法にこの文言が入ったのは、1980年代だったそうだ。これは日本の憲法24条から来たということで、入った理由も日本と同じく「男女平等」の理念だという。それまで韓国の憲法には「男女平等」の概念がなかったそうだ。そして韓国の民法も日本と同じく「夫婦」と表現しており、それが「婚姻は男女のみ」という根拠になっているらしい。これも日本と全く同じだよね。日本において、2014年の時点では婚姻届不受理の根拠は「憲法24条」だった。が、2015年の時点では憲法ではなく「民法」が不受理の根拠に変わってきている(これは日本の話)。ここで話した弁護士さんも言っていたが、それだったら民法の「夫婦」の文言を「配偶者」にすればいいだけのことではないかと。

韓国ではこの婚姻届不受理を受け、裁判を起こしたらしい。それが2015年の1月に提訴したらしいが、そこから1回目の審問までの間に、アメリカでの同性婚合法化のニュース(2015年6月)が入ってきた。それまで韓国社会はこのような問題はまったく無視で、マスコミにも見向きもされなかったらしい。去年のパレードの許可を取るための座りこみのときもそうで、ソウル市庁(警察署?)で性的少数者当事者たちが1週間にわたって順番待ちをしてたときも、ニュースにも何もならなかった。が、アメリカで同性婚が合法化されたことにより、その翌月、2015年7月に行われた審問のときはマスコミがすごい来て報道されたとか。

そういう話を聞くと「日本でもそういう傾向が大いにあるよね」と思う。だってアメリカが同性婚を合法化したときの様子ってなんか、アメリカが世界に先がけて同性婚を合法化した、みたいな受け止め方だったじゃん。西欧ではもうほとんどの国がそれまで同性婚を合法化していたにもかかわらず。ってことは、それまではまったく話題にもならなかったわけだよね。そういう意味で、日本はアメリカの影響を多大に受けていると言える。そして、韓国もアメリカの影響を多大に受けているが、それとともに日本の影響も大きいみたいなんだよね。よくも悪くも。それは今までの発表の中で話されたことでよく分かる。韓国の軍隊内で同性愛が犯罪になっているのは、アメリカの軍隊にそういう規則があったからだし、韓国の憲法の中に「男女平等」の理念が入ったのは、日本国憲法の影響だ。そして、韓国で性別変更が可能になったのも、日本で「性同一性障害特例法」ができたからなのだ。だから、ここで話した弁護士さんは「アメリカだけではなく、今後の日本の動きにもすごく期待している」と言っていた。日本に対しては、この先あんまり期待できないんじゃないかなあ。。とは思うけど(悲観的)そしてわたしは「韓国」という国は、こういう複雑な面を持っている国なんだということをちょっと実感した。簡単に一括りに「親日」とか「反日」という言葉では表すことなんてできるわけがないよね。

そして「ここ最近の動き」として、先月行われた、韓国の国会議員の総選挙について少し話してくれた。確か、政権与党が惨敗した選挙だったと思うが、韓国の政党の中では性的少数者の存在を認めている政党は左派政党の3つ。この度、その中の「正義党」は6人が当選したそうだ。そしてもう一つ、性的少数者当事者が注目していたのは「キリスト教自由党」という反同性愛の党。ここが比例で議席を獲得するかどうかに注目していたらしい。韓国では確か4%の票を獲得できれば1議席確保できるらしいのだが、今回の選挙では、この政党は2.63%しか票を獲得できず、議席は確保できなかった。途中で「1議席確保したかも!?」というニュースが流れてきて、性的少数者当事者たちは騒然としたらしい。しかし、議席は確保できなかったが、これからは政党補助金がもらえるとのことで、これが今後どうなっていくかは分からない、と話していた。ただ、最初の方で韓国のプロテスタントは全人口の22.8%を占めていると言ったが、今回のキリスト教自由党への投票数を見ると、プロテスタントの人たちの一部しか「反同性愛」ではないということは分かった、と言っていた。

この話に繋げて、この弁護士さんは、今の韓国国内の状況は性的少数者にとってとても厳しいけれど、将来のことに対してはとても楽観的なんです、と話していた。その根拠は、韓国人というのは、とても変化が早い国民なんだそうだ。2013年現在、韓国人のうち「同性愛を受け入れるべきか?」という質問に対して「はい」と答えたのは39%、「いいえ」と答えたのは59%いたそうだ。ちなみに同調査で日本人は「はい」が54%、「いいえ」が36%だった。しかし、2007年に調査したとき、韓国人が「はい」と答えたのはたったの18%で、それから6年後の2013年と比べると21%も増加している。ちなみに日本人はその間5%しか増加していない(2007年に「はい」と答えたのは49%)。アメリカは増加率2位でプラス11%(49%→60%)。韓国の増加率は断トツ1位だ。これが「変化が早い国民」の根拠だ。

しかも「年齢層別の同性愛への寛容度」というグラフを見ると(なぜかこのグラフだけ日本語なんだけど(^^;)どの国も年齢層が上がるにつれ寛容度も低いんだけど、韓国は日本、アメリカ、ドイツ、スウェーデンの中でも60代以上は断トツ低い。まぁ、韓国の場合は20代もこの5カ国中1番低いんだけどね。だからだけどもっと時間が経てば、韓国ももっと寛容度が上がると考えられるのだ。でもそういう意味では日本の方がもっと将来は明るい感じだけどね。日本の20代の寛容度は7.0を超えていて(10.0点満点中)5カ国中2位、韓国の20代と日本の50代は同程度(およそ5.0)、日本の60代以上だけぐっと下がって3.5くらい(5カ国中4位)。

だから、韓国もこれから時代が進むにつれてもっと変わっていくだろうと思っている、と言っていた。

発表はこれでお終いで、あとは質問時間だった。わたしは発表の中で話された「コミュニティには頼れない」という当事者の声の意味がよく分からなかったので、それについて聞いたのと、あとは「地方の当事者はどうなんだろう」ということが気になったので、手を挙げて質問した。

「コミュニティには頼れない」というのは、韓国はいろんな団体があるものの、当事者のピアサポートみたいな団体はなく、ほとんどがこの弁護士さんたちのように「社会に訴える活動」をしているそうだ。なので、当事者が困っているときにサポートできるような団体をこれから作っていかなければならないって言っていた。あと、韓国での地方の団体って大邱に1つしかないらしい。韓国はもともとソウルに国民の人口の半分が住んでるし、それに国土が狭いから週末には地方からすぐソウルに来れてバーなどで発散できるって言ってたけど、でもそれって一時、日本でも同じだったんだよね。あ、全国民の半分は東京にはもちろん住んでないけど、地方の人が週末だけ東京で遊んで発散してまた帰る、ってことね。それだと地方に住んでいる性的少数者当事者は自分の地元では「ありのまま」でいられないってことを意味する。地元では自分を押し隠して、東京に出てきて発散するって、それってどうなの?ということは日本ではもうずっと前から指摘されていて、だからこそ、ここ数年の間、各地に性的少数者の団体ができて、そしてみんな地元で暮らしやすくなるために頑張ってる。

地方の人によく言われる。「東京はもっと頑張ってくれないと困る」と。「東京で話題にならないと地方ではどう話を切り出していいのかすら分からない」と。渋谷の同性パートナーシップ条例はその点、ものすごく話題になったので、それで地方も動きやすかったと。だから「東京には地方を牽引してもらわなくては困る」と言われた。

そうなんだよね~。そして地方の人が頑張ると、国内の底上げができて、全体がまた更に上がる、ということになるのよね。

わたしの問いの対する答えを聞いて、わたしはそんなことを思ったのだけど、もう時間がなかったし(わたしが一番最後の質問者だった。しかもジャンケンで勝って)、まぁいいやと思って何も言わなかった。それに地方の底上げよりも、判例とか法律の方が先にできるかも知れない状況かも知れないしね、韓国は(そういう意味では韓国は日本より「人々が声を挙げる」ということに対して抵抗感がないように感じる。これはとても羨ましい)。

ってわけで、知りたいと思っていた韓国の性的少数者の話が聞けてとても有意義なイベントだった。そういえば題名に「男女共同参画」ってなんで入れてあるんだろうねと最後に思った。ほとんどが性的マイノリティ、それも同性愛の話だったような(笑)まぁ、主催者の都合かな?

今年の韓国のパレードは多分来月だと思うけど(来月は各国でプライドパレードがあるね)、今年はどうなるんだろう。何も起こらなければいいなと思ってるけど。そして、いつかはわたしも韓国のプライドパレードに参加してみたいものだ。そのときまでに現地で通じる朝鮮語を話せるようになってたい!!(笑)
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05-12 Thu , 2016
東京レインボープライドパレード2016
20160507 1522531


このブログ、最近ほとんどセクマイイベントのことについては触れてない。というより、わたしがほとんどそういうイベントに行かなくなっちゃったからなんだけどね。だけど、パレードはやっぱり行くかな。普段会えない人たちにも会えるしね。ってわけで、先週末、7日、8日にあった東京レインボープライドパレード2016に行ってきた。東京レインボープライドパレードって確か5回目だったよね。初めて2日とも行ってきた。ただし、今年もパレードで歩かなかったけど。

2日とも、とあるブースのお手伝いって感じかな。「人手が足らないから誰か助けて」と言われたので、どうせなんの用事もないから「いいよ」って手を挙げた。

やー、すごい人手でしたね。まぁ、わたしはさっきも書いたけどパレードの1日目には今まで行ったことなかったから、例年と比べて人手はどうこう、とは言えないけど、2日目の人手はどんなもんかはちょっと分かるので、それを考慮すると「今年はまた人が増えたなあ」という感じだった。てか、2日目はブース間の道を歩くのさえ人がたくさんいてとても大変で。。すごかった。

ブースは様々な団体で賑わってましたね。特に企業ブースが大幅増で、前はほんの数えるほどしかなかったし、確か数年前は企業ブースを出してたところは「おお!ここは応援してくれるんだ!」みたいに思ったけど、今年は企業数が多すぎて、なんだか全部把握しきれなかったような。ただやはり、外資系企業が多いこと、それから金融、保険関係の企業が目についたような。ただ、年々増えていく来場者を考えると、他の企業もイメージアップのために今後も参入してくるだろうなあと予想される。東京のパレード自体、母体が変わったりしてることもあって、前のパレードと比較するのはいいのか悪いのかは分からないけど、前のパレードは企業と言えば「ゲイに支えられている企業」が主だったことを考えると、確実に時代は変わって来ているなあと思われる。

そして、今年はパレードのコースが変わって、渋谷駅前の交差点をパレードできるようになったらしい。これ、20年前に第1回目のパレードが行われたのと同じコースなんだそうだ。でも、それからいろんな嫌がらせにあって、そこは通れなかったし、それよりずっと短い距離でのパレードコースだった。警察官も厳しくて、パレードの隊列も途中で信号で止められてしまったり。けど、今年、それがなくなったのは、まぁ渋谷区自体が「同性パートナーシップ条例」を作った自治体だと言うことが大きいだろう。そういう意味でもこのパレードは恰好の自治体「宣伝媒体」でもある。そして今年、パレードは18挺団もあったそうだ。パレードだけで参加者4,500人(公式発表)。これは4,500人しかパレードを歩く希望者がいなかったのではなく、定員が決まっているのですぐに埋まってしまうので歩きたくても歩けない人たちはきっとたくさんいるのではと思う。2日間の合計人数は70,500人で、70,000人を超えた。夏にパレードやってた頃は、毎年10,000人には満たなかったから(パレード自体1日だけなので単純には比較できないけど)、まぁそんなこんなで、10年くらい前の過去から知ってるものとすれば「大きく変わったなあ」と思わざるを得ない。

もちろん、これについては賛否両論あるだろう。この結果を見ると「やっぱり資本主義社会なんだなあ」と感じざるを得ないし、「強いものが勝つ世の中なんだな」って痛いほど感じるし、「強いものが、何が正しいか決める世の中なんだね」ってことをひしひしと感じる。

ただそうはいっても、このイベント自体が「弱者のイベント」なわけで。で、思ったのは、確かに楽しかったでしょうよ、ってこと。会場で少し話した知り合いのヘイトスピーチ関係の人からは終わって「みんなニコニコして楽しいイベントでしたね」って言われたし。ヘイトスピーチの現場ではもちろんこういう雰囲気は皆無だからね。まぁ、それはそれでいいんです。楽しい雰囲気だったのは事実だし。でもね、わたしは来てた人に言いたい。特に来てた異性愛者の人たちに言いたい。

楽しむだけで終わるの?会場で「Happy pride!」ってみんなと言い合ったらもうそれで終わり?

って。あのパレードから、楽しむだけ楽しんであとは何もしない、ということであれば、それは搾取だということを自覚しておいた方がいい。

なぜ性的少数者はあのようなイベントをするのか。別に異性愛者の人たちに楽しんでもらいたいと思ってやってるわけではないです。そんな奇特なことは誰もしない。では何が目的かというと、普段、自分のありのままの姿が「社会的に見えない存在」にされているからこそ、あの場で性的少数者が集まって「自分たちだって、あなたと同じこの社会で暮らしているのだ」という「可視化」をさせたいがためにやっているわけです。

なぜ可視化したいかというと、それだけの人が権利がなくて「困っている」からですよ。わたしなんかからすると、このまま行けば、彼女と(今の時点で)10年以上一緒に暮らしてても、病院で最後を看取れるかなんかそのときが来てみないと分からないし、今だって扶養家族にはなれないし、年金だって健康保険だって「個人」として払ってます。財産持ってても(うちらにはないけど)彼女は「配偶者」として当然の相続権はありません。これが「法的に保障されない」ということ。「結婚」してたら、それが「制度」としてすべて認められる(結婚の部分についてはいろいろ議論がありますけど)。それに比べるとわたしはやっぱり「権利がない」わけです。異性愛者は「結婚するかしないか」が選べる。けど、わたしたちは「結婚する」という選択肢がない。「結婚しない(できない)」という選択肢しかない。

「そんなことを認めると社会がおかしくなる」とか、あなたは言えますか?あなた既にそういう「権利」、自分で持ってるんですよ。生まれながらにしてなんの努力もしなくても。それはあなたが「多数者」だから当然なんですか?わたしはまだ「権利」を持ってない当事者からあれこれ言われるのは、意見の相違だからそれは仕方がないと思う。けど、権利を持ってる人間から「てめえに権利なんかやらない」と言われることだけは許せない。「少子化がー」って言う人がたまにいるんですけど(笑)、今、同性婚が導入している国がどんどん出てきて、その中で出生率が落ちた国って例外的に少なく、ほとんどの国では上がってる(世界銀行統計に基づく)。少なくとも事実を知ってから言ってくれ(知ったらこれが理由にはならないことが分かるけど)。だいたい「少子化がー」って言う人は、同性婚認めたら、同性愛者の数が増えるとでも思ってるのかな(笑)

まぁ、今、日本で同性婚を導入することに賛成している人は、過半数を超えてるらしいので(去年の11月にNHKがやった全国意識調査による)、「権利をやらない」と思う人の方が今では少数者なわけだけど。ただ、過半数を超えていると言っても、たった51%で、これはほとんど「誤差の範囲」と言ってもいいくらいの数字だ。これを6割7割に押し上げるのはパレードに参加した異性愛者の人たちにかかってるわけだよね。まぁそんなん当たり前だけどね。性的少数者だけで6割7割の数字が取れるわけがないんだから。取れたらそれは性的少数者じゃないわけで(笑)異性愛者の人たちの同意があって初めて「多くの人たちが賛成している」と言えるわけだ。

でも、多くの人たちに訴えかけるのは当事者だけがやらなきゃいけないことなのか?異性愛者はパレードで楽しい思いだけして「あとは頑張ってね~!わたしはあなたたちが頑張るのをそばで見てるから!!」って性的少数者に言うんだろうか?それってすごい都合よくない?それがわたしの言ってる搾取なのだ。

「じゃあ、どんなことをやればいいんだ」って思うだろうけど、まぁそれは自分で考えて下さい。それはこちらが「こうしてくれ、ああしてくれ」と言うべき問題ではない。そもそもそう言ったとしても、それをそのままやってくれるという保証はどこにもない。自分でよく考えて「これならできそう」と思うことを少しでもやってくれればいい。「何かをやる」ということは、別にどこかの団体に入って活動しなければならないことを意味しているわけじゃないです。そんなことやってるのは、当事者だってごく一部の人だけだし。少なくとも、わたしが言ってるのは、パレードに参加して「ああ楽しかった」で終わらせては欲しくないってこと。それだけです。

さて、ここまでどのくらいの人が読んだか分からないけど(笑)

今回のパレードの1日目、自民党の稲田議員が来たようです。来たようです、っていうのは、自分の目では確認できなかったからね。人が多すぎて。わたしが1日目、会場に着いてみたら、入口付近ですごい人だかりとカメラがいて「どこの誰が来たんだろう?」って思ったら、そうだったらしい。その場では分からなかった。あとで聞いた。

しかしなぜ急にこの人が?なんの関係もないのに?って思ってた。けど、この人が今年の2月だったかに自民党の中で性的指向・性自認に対する特命委員会だっけ、正式な名前は知らないけど、それを作ったらしいね。この委員会の中でのトップではないけど、実質、言い出しっぺ、の人だし、まぁ、自民党の政調会長だからね。で、もう一つ、当事者の中では前々から超党派の議連、ってものが存在してるということはよく知られたことだろうけど、こちらでなんとかならないの、という声がある。

わたし、特命委員会と議連の違いが分からなかったんだけど、聞くところによると、議連って、勉強会とか確かにやってるけど、議連の役割というのは「各党の動きを探る」ところに過ぎないと。要するに、政策とかを練るところではないらしいです。で、政策とかはこの「特命委員会」がやってるらしい(てか、つい最近、出したよね。「カミングアウトしなくてもいい社会を目指す」とかなんとかいうやつ。これ作ったの、そこです)。

今まで当事者団体が目指してきたのは「差別禁止法」の制定だった。それが単なる「理解促進法」になっちゃった。なぜかというと、自民党は「差別禁止」が嫌いだからだ。というか、自民党自体が「日本社会において、顕著な差別はない」って言い切ってる団体だからさ(ちなみにこのことは「国連」で明言したので、これは別に自民党だけの意見じゃなくて、これは日本政府としての見解になっている)。あ、これは性的少数者に対しての差別、というわけではなく、すべての事例においてです。それに「差別禁止法」を作ると誰かが悪用する可能性があるからできない、って言うんだってさ。具体的にどういう悪用をするか、教えてもらいたいくらいだけどね。っていうか、悪用されるっていうんだったら、悪用されないような法律作ればいいんじゃないの?それに加えて「何が差別か明確に決められない」って言うんだってさ。きっと「何が差別か決められ」たら、自分たちが差別してることを指摘されちゃうからだね(笑)基本的になぜ自民党が「差別禁止法」を作りたくないかと言えば、自分たちがそれを利用して差別できなくなるからじゃないかと思う。

例えば昨日、ちょうど障害者が国会参考人だったっけ、それで出席する予定でいたんだけど「話すのに時間がかかるから」と出席を拒否された人がいます、ということが話題になった。障害者の場合は既に「障害者差別解消法」という法律がある。これは割と踏み込んだ法律みたいで、国や地方自治体は障害者を差別してはならない、という条項があるらしい。こういうの多分、自民党嫌いだよね(笑)こういう法律があると「お前たち、差別してるじゃないか。法律にも差別って書いてあるのに、ダメじゃないか」って言われてしまう。法律がないと「根拠はありませんから、自分たちがやってることは法には触れません~!」ってことになる。結局、自民党が「日本には差別はない」と言って「日本の風土に差別禁止法はふさわしくない」と言ってるのは、こういう法律があったら自分たちが差別者だって突き上げられて困るからに他ならない。だって、差別しない人は、別にこういう法律あっても全然困らないもん。

まあただ。わたしは、性的少数者に対しては別に「理解促進法」でもいいじゃん~?って思わないでもない。こんなん、あってもなくても別に「あ、そう」って感じなんだけど。確かに法律で性的少数者のことに触れている、という点では大きな一歩ではあるだろうが、まぁ評価するとしたらそこだけか。って言えるのは、わたしは世間からそこまで差別されているとは思ってないからで、差別されているとしたら、上に書いた、法的に保障されていない、ということだけなのよ(もちろん、これがそこに繋がる第一歩だと言うことは理解してる)。まぁだから、第一歩としてのやり方はいろいろあるだろうね、というのがこれに対する評価で、絶対に「差別禁止法」じゃないといやだ、ということはない。

しかし、自民党のこの言い分、実は、他の分野と全く同じなんだよね。今、「ヘイトスピーチ対策法」というのが国会で成立するだろうと言われている、というか、今日、委員会で採決らしいから、ここで通ったら国会でも通るだろう。わたしはこっちの方は明確に「差別禁止法」にして欲しかった。差別する人を処罰して欲しかった。てか、これを放置したままでいいの?って今でも思ってるし。あ、この場合の差別は「人種差別」だけど。こっちの方は本当にひどい。「日本は明確な差別事象はない」って言われると、性的少数者に対しては「まぁ概ねそうかな」とは思える。が、ことに人種差別については「どの口が言ってんだ?」って思う。あれを差別と言わずして、何が差別なのか。というか、これはだれそれが、という個人ではなく、国自体がもう制度的に差別しまくってるからね。だから、差別法作りたくないのよ。自分たちが差別できなくなるから。今、案で出てるのは「啓発・啓蒙」だけで、そんなのみんな分かりきってる。外国人を差別してはならないのは、ほとんどの人が知ってることだし、ほとんどの人は差別してない。今、対策を取らなければならないのは、教育しても教育できなくて差別しまくってる人に対して、差別を禁止して、それに対する処罰が必要だと言っているのに、それができない。

挙げ句の果て、出して来た与党案がめちゃくちゃで(1年ほど前に野党から案は出ていた。自民党はそれを通したくなかったのと、でも廃案にすると日本政府は「こんなひどい差別が起こってるのに何もやってない」ってことで国際的に非難が高まるから、不抜けた法律案を出してきただけ)。この法律案の2条には「適法居住要件」というのが付けられていて、この中に当てはまらない人たちに「難民」や「アイヌ」の人たちがいる。この法律案、このままで通ったら、要するに「難民やアイヌの人たちに対して、差別するのを国が認めています」というのと同じことなのだ。「差別していいのはこの人たちですよ」って国が言ってるのと同じなのだ。非常に怖い。これこそこれが「悪用される法律」って言えないか??

ってことで、わたしはこちらの方が大問題なのだ。そして、昔から持論として「外国人を差別していい」と言ってるのは、この間パレードに来た自民党議員だ。なのでいくら「性的少数者の問題は人権問題であると分かった」と言っても、わたしはこの人自体受け入れられない。どんなに性的少数者に対して理解していようが許せない。人間、許せることと許せないことがあるが、わたしはこれだけは許せない。

ってわけで、なんでわたしが「自民党の言い分」についてこんなに知ってるかというと、特命委員会に呼ばれた人とこの2日間、直接話してきたからです(笑)ちなみに特命委員会に言って話してきたということは、本人が団体のブログで書いてたから別に秘密事項でもなんでもないけど。その人は地方在住者なので、わたしはこの人とは毎年この場で少し話すだけの関係だけど、それでも付き合い自体は多分10年近い。この人が「自民党の論理」についていろいろ教えてくれた(ちなみにこの人自身は自民党支持者ではなく、非常に現実的な人だと思う。今の国会はどうしても自民党が賛成しないと法案は成立しない。取り敢えず「これが一歩」と考えている人は一刻でも早く法律を制定させるのが目標だろうから、どうしても自民党と話をしなければならない)。その人は特命委員会に呼ばれて話してきたときのことを話してくれた。そこでは議員の無理解から、その人自身が傷つくこともたくさん言われたそうだ。「今、いろいろな話をして(議員が)差別はいけないって言ってたのに、その(傷つく)言葉を当事者である自分に言うのか!?」と思ったそうだ。ただ、それはやっぱり無理解から来るもので、理解したら多分大丈夫だろうとは言われた。わたしはその「自民党の論理(禁止法は日本にそぐわないとか)」がやっぱりおかしいと思うんで、わたしもその人にいろいろ意見を言ったけど、わたしの頭の中にあるのは、人種差別のことが第一であり、性的少数者第一の人にはほとんど通じなかったみたいだ。。てのはやっぱり、性的少数者の方だと、自民党の言い分もある程度まぁそうかなと思えてしまうわけで。難しいですね。

それにしても、ネット上で自民党議員が来たことについて、あれこれ読んだけど、事実誤認が多いんだよなあ~。稲田議員は勝手に来て勝手に帰ったわけじゃなく、主催者側もちゃんと来ることを知ってたし(呼んだわけでもないが、それはどの議員にだって「来てください」とは言ってないだろう)、5分で帰ったわけじゃない。確かに時間的には短かったと思う(1時間程度)が、それでも会場を一回りはしたと思う。気に入らない相手のことに対して、否定的に見たくなるのは分かる(わたしを含めてだが)。しかし、「主催者側は来ることを知っていたか、知らなかったか」「5分で帰ったか、帰っていないか」というのは、比較的容易に判断できることで(あんだけのSPだのカメラマンだのいるのに、勝手に来るわけはないよなとか)、事実じゃないことに対してあれこれ言うのもどうかと思ってる。それって、結局、自民党支持の人たちが事実じゃないことばっか言ってるのと結局やってることは変わりがないんじゃないかな~と思う。

そもそも評価というのは事実を知った上で始めることで、例えば「たった1時間しか来ないなら来るな」と思うか「1時間もいたんだから上出来だ」と思うか「そもそもパレード会場に来るな」と思うか「来たとしてもまったく評価できない」と思うかは個人による。事実自体が誤認なのに、その上で評価しても、それは正当な評価とは言えない。事実自体をどう知るか、についてはそれに関わった人に聞くのが一番じゃないかね。まぁそこら辺については、知りたい事象にも因るでしょうけど。

今回のパレードに参加して改めて「自分のやれることはやらなきゃね」と思った。もちろん、今まで何もやってなかったわけじゃなく、少なくとも自分がやりたいことはやってたけど、まぁそれを今後も続けて行こうかなと。細々とでもいいんだよね。っていうか、わたしは権力者じゃないから細々としかできないし。まぁでもそれでいいんだ。
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09-27 Sun , 2015
境界線のないレインボーフラッグを見て考えた
ずっと前の日記に「わたし、この垂れ幕を去年の夏に発見して、そのとき気が付いたことがあった。この境界線のないレインボーフラッグらしきもの。でも画像を撮ってこなかったんだよね。なので今回は忘れず。これを見て何を思ったかをここに書くと長くなるので、このことについては後日別記事にすると思います。」

って書いてたのをすっかり忘れてたんだが、思い出したので書きます。

リバティおおさかで見た「境界線のないレインボーフラッグらしきもの」はこれ。

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発見したのは去年の夏。これを見て、わたしが一番に思ったのは「この中にない色がある」ということだった。正直今まで「境界線のある」レインボーフラッグは数えられないほどたくさん見てきたけど、このことに気が付いたのは初めてだった。

そのことに気が付いたのは、わたしは以前から自分のジェンダーのイメージは「灰色の丸」だったから。「レインボーフラッグに自分のイメージする色が入ってない」、最初、このレインボーフラッグらしきものを見て初めてそう思ったのだ。

が、実はこのことは「当然」のことでもある。だって、レインボーフラッグの定義は「6色の虹」であって、全部の色が初めから入ってないのだもの。最初は8色だったんだけど、印刷の都合などでピンクと紺色がなくなって今の6色になったと聞いている。その6色を「多様性の象徴」にしただけの話で、別にすべての色が入らないから多様性を表してないなんてことはない。だからある意味ない色があって当然のことだ。だけど、無意識にレインボーフラッグの中にはすべての色が入ってるんだなあなんて思ってたから、そうじゃないことに気が付いて少しびっくりしたのだ。

しかし、普通の6色に分かれているレインボーフラッグを見てもそんなことを思ったことなかったのに、なぜこの境界線がないレインボーフラッグらしきものを見て初めて気が付いたんだろうと思った。

少し考えてみて分かった。境界線がないことでレインボーフラッグより多様なものを表そうとしたからこそ、逆にない色が浮き出てきてしまったのだと。

もちろん、だからといって境界線がない方がいいとかあった方がいいとかそういうことではない。これは本当に自分にとっては興味深い現象だった、ただそれだけのことだ。

よく、性自認や性的指向を表すときに「男」と「女」が両端になって、男は青く、女は赤い色が付けられ、その間を赤と青のグラデーションで線が付けられているものがある。「人はこの間のどこかにいます」という説明がされるけど、それはウソだ。グレーはそのどこにもない。いわば、わたしのイメージする自分のジェンダーは男女の間にはない。世の中には「誰にも恋愛感情を抱かない」、そういう人も結構いる。その人たちはこのグラデーションスケールの中では表せない。「恋愛感情は抱くが肉体的な関係は持ちたくない」、そういう人もいる。これなんかもこのスケールの中でどう表せばいいの?って思う。

そもそもそれ以前に男は青で女は赤である必要もないのだ。「女は絶対に黒!」って思う人だっているだろうし、「男が赤だよね」って思う人がいてもいい。なんてったって「燃える男の赤いトラクター~♪」なんてCMがあったほどだし(随分古い(笑))。それに広島カープのチームカラーだって赤だ。これも「赤い炎」「燃える情熱」というイメージで'75年にそれまでの紺色のユニフォームから赤を基調にしたユニフォームに代わった。これを見れば分かるように、女=赤、では全くない。そして自分の「男」のイメージがパステルカラーであったとしても全然おかしくない。

「LGBTについて簡単に説明してください」と言われても、実はそんなに簡単なことじゃない。「何も知らない人にとってはそういうことは難しいので簡単に」と言われても、正直性はすっごく複雑なことで、まずは「簡単に男が青で女が赤でその間はグラデーションで」じゃなくて「いや、そういう風には表せないもっと複雑なことなんですよ」ということから説明すべきじゃないだろうかとわたしは思う。そうでないとそこからこぼれ落ちてしまう性的少数者が凄くたくさんいる。

そして大事なのは「じゃあ、あなたはどこにいますか」って、自分のことを考えることだと思う。「性的少数者は性の多様性を表している人たちだけど、わたしは異性愛者だからそうじゃない」というのは実は全然違う。性は一人一人違ってるのだ。何を男らしいか、何を女らしいかと感じるかだって、人によって全く違うのだ。だからこそ何が男らしいか、女らしいかという共通認識は実は持てないのだ。「誰を好きになるか」も今まで100%男性だったり女性だったりはおそらくしない。何よりも好きになった相手の性自認が自分の考えていた性自認とは違っていた場合はどうなんだろうか。それも人によりけりだろう。男性が好きになったと思ったら、実はその人の性自認は女性だった、それが許せる、許せない、人によって違うだろう。許せる人の性的指向はその場合は同性になるのか?

わたしの場合、性的指向は同性に向いているので自分はレズビアンだと思っているが、でも最近「男性も好きになる」ことに気が付いた。と言うよりも昔からわたしは男性には好みのタイプが存在している、ということは気が付いていたのだけどね。逆に女性には外見上の好みはほとんどない。まぁボーイッシュなタイプは好きなんだけども。。でも絶対にボーイッシュじゃなきゃダメってこともない(だいたい今一緒に暮らしている人はボーイッシュでは全くないし!)。まぁ恋愛対象である女性はわたしは割と「誰専」だったりする。

しかし逆に男性は好みのタイプがはっきりしてるので、一目で「あ、この人タイプ」って思う。電車の中で「おっ」って思う人も実際結構いる(言っておくと、男性に対しては基本「フケ専」。でもまれにそうじゃない人もいるが)。しかしここからが不思議なんだけども、好みの男性に対してわたしは近づきたいとか話したいとか一切思わない。逆に「その人の人生の中にわたしは入りたくない」と思う。でもその人がどういう人なのか、どういうことを考えて生きている人なのかは結構気になる。できるならずっとその人を追って見てたいなとか思う(本当にやるとストーカーになるのでやんないけど(笑))。でも相手にそういう自分を気が付かれたくない。なんせ自分の存在は知られたくない。ただ見守っていたい。別にその人が不幸になっても救いたいわけじゃなく、ただ見てたいだけ。

と言うことを以前誰かに話したら「究極の愛情だね」と言われたのだが、これって愛情?だいたいその人と知り合いになりたくない愛情なんてあるんだろうか。その人が別に幸福でも不幸でも構わないなんていうのは愛情と呼べるんだろうか。その人の人生の中に登場したくないくらいなんだから、当然のことながら性的な関係になんてなりたくないわけで。でも外見を見て「あ、いいなー」って思う人はいるのだから、この感情って一体なんなんだろうって思ったりする。

自分の性的指向を詳しく説明するとこんな風になる。けど、自認は「レズビアン」。「それでいいの?」って思う人もいるだろうけど、自認なんて定義に当てはまってなくても全然構わないと個人的には思ってる。自分がそうであると思えばそう。他の人が「それは定義に当てはまってない!」なんて言う資格ないと思う。第一、この今の自分の性質にどういう名前が付けられるというのだろうか。

「自分は異性愛者」って思う人は本当に自分は100%男(女)と思ってるのか、好きになる人は本当に100%異性なのか。自分は100%男らしいのか女らしいのか。まぁこれだけは別かな。だいたい「100%男(女)らしい」なんてことはこの世には存在しないから。人によって男らしさも女らしさも違うから。でも自分のことをちょっと考えると面白いかも知れない。異性愛者にだってその中での「多様性」はあるはずだ。それが例え名づけられていなかったとしても。
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09-12 Sat , 2015
彼は秘密の女ともだち
昨日、観てきた。

この映画を知ったのは、6月だったか「パレードへようこそ」って映画を観に行ったときにその映画館にこの映画のチラシがあって。題名を観たときにすぐに「これはトランスっぽい感じだな」と思ったの。でも、その後、その映画館でこの映画の予告を観たときに「あ、なんだ。つまらなそ」と思って観に行くの止めたのね。それがまたなんで観ようと思ったかというと、友だちが「よかったよー、この映画。フランス映画だからか単純な話ではなかった」みたいなことを言ってきて。だから「んじゃちょっと観に行こうかな」と思って観に行ったのだった。

観た感想。面白かった。結末が「ああ、これが一番いい結末だよね」って思えるものだった。

どういう映画かというと、一口で言えば、MtFレズビアンと結婚後にレズビアンって気が付いた人のお話なんだけど、まぁ正直、今のわたしは誰か人を一口で「この人はこうだ」ってカテゴライズしてしまうことがとても危険だと思ってるので、ここにはわざとカテゴライズして書いたけど、本当はどういう解釈をしようがどーだっていいと思ってる。例えば結婚後にレズビアンだって気が付いたって書いたけど、もしかしたらバイセクシャルかも知れない可能性もあるし。パンセクシャルかも知れない。どちらかというとバイよりパンかもって気もする。きゃー、カテゴライズはしないって言ってるのに!(笑)

主人公は女性で、7歳のときに出会った親友とずっとずっと親しく過ごしてきた。その過程が映画始まってから5分くらいですんなり描かれる。が、最初の場面はその親友のお葬式の場面なのだ。主人公(クレールという名前)は親友(ローラという名前)の弔辞を読みながら、二人が出会って共に過ごしてきた日々を思い出す。大人になり二人とも何人かの男性と付き合って、それからそれぞれの男性と結婚する。ローラの方が先に結婚するのだが、複雑そうな顔を見せるクレール。クレールが結婚したときはローラは既にお腹が大きかった。そして子どもが生まれたときはローラは既に車いすに乗るようになってて、それからしばらくして亡くなる。

この二人が過ごしてきた場面でわたし「あれっ」って思ったのね。親友だとしても、お互いに手の平を傷つけて血を出してそしてその手と手を握り合って「永遠の誓い」なんかするかなあ、とか、木に大きなハートマークの中に自分たちの名前を彫ったりするかなあとか。確かに女同士には「シスターフッド」って概念があって、ものすごく親しい関係が想定されているけれど、その「友情」と「恋愛感情」の間って何が一体違うんだろう?って。これはわたしがレズビアンだからそう思うのかも知れない。わたしが「この人は友情止まり」って思う人と「この人とは付き合いたい」って考えるその「差」って、もしかしたら肉体的な欲求だけなのかな、とか。まぁこれは異性愛者も同じではあるんだけどね。異性はみんながみんな恋愛の対象ではないでしょう。「この人は友情止まり」って人だってもちろんいるよね。ただ、それが同性であると、付き合い方は異性より親密になるんだよね。友だちと一緒に旅行するというんだって、異性の友だちと一緒に旅行するというとなんとなくハードル高く感じるけど、同性の友だちとはすんなり行けちゃうもんね。そして同じ部屋に泊まるし、一緒に風呂入ったりして、同性の友だちは異性の友だちより「近い関係」になれちゃう。だからこそ、わたしは自分自身「親友と恋人の違いって、自分ではどこで区別を付けているんだろう?」と思うわけです。まぁこの映画は結局、そこら辺がすべて「鍵」だったわけなんだけど。

死んだローラはダヴィッドという男性と結婚したのだけど、このダヴィッド、結婚前から女装してたという。ローラはそれを知っていて「自分の前なら女装してもいい。けど、外ではしないで」と言っていたと。そのことを主人公のクレールはローラの死後、ダヴィッドの家を訪れたときに知るんだけど、最初はすごくびっくりしてそのことを拒絶する。

わたしは既に何人か女装して過ごしてる人を知ってるし、女装できないけど自分は女だと思うって言う人と何人か話したりしたことがあるので、正直、女装に対しては見てもなんとも思わない。ただ逆に世間から向けられる目の怖さを知ってるので「すごいなあ」とは思ってるけど。こういう感覚を持っているので、映画を観て「あ、フランスでも女装に対しては世間の風当たりは強いんだ」とちょっとびっくりした。だってフランスってPacs(市民連帯契約法)が一番にできて、同性同士の法的な保障がされるようになったかなり初期の国であり、同性愛にはかなり寛容な国のイメージがあったからだ。

このことはこの後の話にも出てきて、話が突然飛躍するんだけど、クレールのダンナ、ジルにクレールとダヴィッドが「女友達」として一晩泊まりに行ったことがばれたときに、クレールが考えたのは「ダヴィッドが女装している」という本当の話ではなく「ダヴィッドはゲイだと気が付いて自分に相談するために一晩一緒に泊まった」というウソの言い訳だったのね。それはジル自体も「同性愛は許せるけど、女装は許せないだろう」と考えてのことだった。ジル自体も映画の中で「周囲はみんなゲイだらけ」という発言をしてて、ゲイに対しては何も思ってないようだ。まぁ最初に取ったクレールの態度やジルの女装の受け入れなさ=フランスの現実かというと、それはわたしにはよく分からないけど、でも、少なくともそういう現実が少しはあるからこそ、こういう映画が作られるんだろうしね。

最初はダヴィッドの女装を受け入れられないクレールだったが、ひょんなことから女装したダヴィッドのことを「ヴィルジニア」と名づけて、その当たりから徐々に受け入れ始め、一緒にショッピングを楽しんだりして、かなり大胆な行動を取るようになる。ダヴィッドは自分がするのは「女装」ではなく、自分は「女なんだ」ということが分かってくる。ただし、性的指向は変わらずに「女性」なので、まぁカテゴライズはしたくないんだけど、MtFレズビアンってことになる。これねー、なんかどっかで「なんで女性になりたい人なのに女性が好きなままなの?」って感想のコメントを読んだんだけど、日本ではさー、異性愛者の性同一性障害の人しか出て来ないので「同性愛だとおかしいから、自分が異性になる」って理解してる人もいるんだよね。だけど性的指向(何の性が好きか)と性自認(自分の性別は何か)は別物なので、自分の性別を変えたい人であっても、好きになる対象は変わりません。実際、男→女に変わりたい人の中で、女性が好きな人の割合は約半数です。逆に女→男に変わりたい人の中で、男性が好きな人の割合は約10%くらいしかいなく、この差がなぜ生まれるかはまだ良く分かってない。けど、女性になりたい人で女性が好きな人は現実的にもかなりたくさんいます。この映画、そのまま受け取ればその事実を知らなくても「この人はそうなんだ」で済むんだけど、異性愛規範が強い人が観ると「え、なんで?」ってことになっちゃうんだよね~。映画を観る上でこのような予備知識は特に必要はないとは思うけど、観るなら自分の「固定観念」を外してみないとよく分からない映画になっちゃう恐れはある。

で、ヴィルジニアと「女同士」として楽しんでいるうちに、クレールにも変化が訪れる。ローラとの日々を思い出すのだ。そしてあることがきっかけでクレールは「ローラとはただの親友という気持ちではなかった自分」に徐々に気が付いていく。この辺の描写はかなりうまいと思った。この辺の気付かせ具合が複数のシーンに渡って出てくるの。これはねー、わたしのような割と歳を取って自分が同性愛者だと気が付いた人にとっては、自分の体験と重ね合わせてちょっと懐かしくなったりするかも(笑)クレールは自分が同性愛者(か、または女性も好きになることができるか、それ以外かは断定はできないけど)であることに気が付き始める一方、ヴィルジニアのことも好きになっていく。そのことに気が付かされるのは、ジルにダヴィッドがゲイであるって気が付いたみたいだから、自分は相談に乗っていると言った後、3人で一緒にテニスをした後にシャワーを浴びるシーン。ここでクレールは男性のシャワー室に忍び込み、ジルとダヴィッドが一緒にシャワーを浴びているところを覗き込む。ここの「妄想」ね。ここもうまいと思ったなあ~。結局この後、クレールは女装を辞めていたダヴィッドに「ヴィルジニアが恋しいの!」と告白してしまう。

あ、これはあらすじ通りに語ってません。わたしが語りたいと思った場面から語ってます(笑)なので、映画を観てない人にとっては「なんのこっちゃ?」って思うかも。

わたしが一番印象に残って、好きなシーンは、この「ヴィルジニアが恋しい」とダヴィッドに告白した後、ダヴィッドはヴィルジニアとなり、その名前の元となったヴィルジニアホテルにクレールを呼んだシーンです。彼女らは自分たちが愛し合っていると知り、部屋に行ってセックスをする。けど、身体をまさぐっている間にヴィルジニアの身体には男性器が付いている、ということに気が付いたクレールは思わず「あなたは男だ!」と言って部屋を出て行ってしまうのね。その言葉にヴィルジニアはベッドの上で涙をこぼす。

このシーンは本当にせつなかった。ヴィルジニアにとっては、別に身体に男性器が付いていようが自分は女なんだよね。シリコンの胸であっても自分は女なんだよね。でも、相手にとってはそうではない。そこの「ギャップ」なんだよね。

わたしはこの日記、過去にもよく書いてるけど「自分は女が好きだけども、では一体女とはどの範囲のことなんだろう」ってよく考えるのね。例えば染色体、性ホルモン、内性器、外性器がすべて「女性形」の完璧な女性しか女性として愛せないんだろうか、と考えると、特にそうと思えない。特に染色体とか性ホルモンとか内性器とか、外から見て分かんないものはそれの「あるなし」は判断しようがないし、あるから好きになって、なかったら好きにならないなんて保障はどこにもないと思う。のようなことを考えると「では胸がなかったら」とか「男性器が付いていたら」ということまで押し広げて考えることができる。まぁここは想像の世界でしかないけど、ここの部分は個人個人で異なってて「別に男性器が付いていても本人が女だって言ってるし、自分にもそのようにしか思えないからセックスできる」って人だって確実にいる。「やっぱり男性器が付いてたら女性とは思えないからセックスできない」って思う人もいるだろう。「胸はなくても男性器がなかったら大丈夫」って人もいると思うし、それは人それぞれだ。で、自分はどうなの?って思ったとき、まぁよく分かんないよね(笑)そうなってみなければ。ただ、基本、わたしは外見が「ボーイッシュ」な女性が好きなので、そういう外見をしたMtFを探すのはまず困難、ってことにはなる。ただ、MtFの人であれば、わたしは「どこから見ても女性にしか見えない人」はあんまり好きじゃなく(これはわたしが女性っぽい女性が苦手だと言うことがあるからだろう)本人はそう思ってないと思うけど周囲から気が付かれたりする「中途半端な女装」の人の方が好きなんだよね~ってこれ、すごい本人にとっては失礼な言い草であろうというのは百も承知です。

女装にもいろいろあって、本人がどのような「女の人」になりたいかはそれぞれだよね。みんながみんな「完璧に女を目指している」わけでもない。無精髭生えたままで女装したい人だっているはずだし、「それが女としての自分」って思ってる人だっているはず。そういう人がいる中で、わたしの好みは「無精髭生えたままで女装してる人」だったりするわけです。好きなのに理由はないけど、わたしはその中にとてもその人なりの「女性」を感じるんだよね~。わたしが評価するなんてすごくおこがましいんだけど「ああ、この人はこの姿で十分女性だ」と思う。

この映画に出てくるダヴィッドも実はあまりきれいな女装、って感じじゃない。けどそれが本当に魅力的。そういうのを見ると、今度は「性的な対象」ではなく「じゃあ、女性って何?」と思う。

ただし、ただしですけど、女性というのは「外見」だけじゃない。生まれてから「女性ジェンダー」で育てられたか、「男性ジェンダー」で育てられたか、というものすごい大きな違いがある。簡単に言えば「女としてしつけられたか」と「男としてしつけられたか」。MtFは「男としてしつけられた人」が大半だと思うので、物事への気が付き方などがやっぱり「男性だなあ」って思うことが多々ある。「男としてしつけられてきた人」は基本とても鈍感です。逆にFtMは「自分は男性だ」と思ってても、すごく周囲に気を使ったり、すぐに気が付いてくれることが多い。これは今までの育てられ方だから、本人のせいではないのだけど、外見さえ女らしくすれば女としてちやほやされるMtFとか見てると「女性のいいとこ取りだよな~」ってつい思っちゃうこともある。あ、でも生来よく気がつくんだろうというMtFの人ももちろんいるし、そういうのを自覚して振る舞ってるMtFの人も当然いるのは確かです。ただ数は少ない。まぁだから、わたしなんか生物学的な男女差はあるけど、社会的な男女差って本当に「作られてる」ものなんだなと思ってるんだけどね。で、そんなことをいうと「ジェンダーフリー」とか言って叩かれる。いや、だから、生物学的な男女差はあるんですってば。力の差などは歴然としてるし、体格差もあるし、そこのところは男女同等とは思ってない。けど、「女性はよく気がつく」とか「細かい」とか言うのは、持っている性質と言うよりはほぼ生まれてからの「しつけの成果」だと思う。もちろん男性だってよく気が付く男性や細かい男性がいる。だから、本質的にはそこは男女の差というよりも「気が付く人間と気が付かない人間の差」というだけで。そして「気が付かない人間もしつけをすることによってある程度は気が付くようになる」んだとわたしは思う。だから「よく気が付く人」は決して「女性らしい」ことではない。

とはいいつつ、わたしはやっぱり「女性ジェンダーとして育てられた人」としか付き合えないと思う。それは「男は泣くもんじゃない、感情を顔に表すな、耐えろ、強くあれ、物事に動じるな」と育てられた人は物事に対して鈍感になってて周囲に気が配れず、自分の大まかな感情は分かるけど細かい感情が認識できないってことを意味すると思っているから、それが抜け落ちている人はわたしは好きになることはないだろうなーということです。自分がそう育てられたことがないからどうしてそういう風に考えるのか理解できないってことがあるけど、わたしにとっての「同性愛」の「同性」は、こういう部分が一致してなければならないってことなんだろうなーって思ったりする。でも異性愛女性も「自分の好きな男性の範囲はどこまでなんだろう?」って考えることが可能だし、考えてみると案外面白いかも知れないですよね。まず、染色体、性ホルモン、外性器、内性器(って男性にはないよね?あ、前立腺があるか)が全部揃った「男性」しか男性として好きにならないかって考えて、ああ、案外外性器はあんまり関係ないかもって思えるかも知れないし、胸があってもいいかもと思えるかも知れない。女装する人であっても、性自認は男性の人もいるから、パートナーが女装してても許せるなって思う人もいるかも知れないし、いや、わたしは絶対に嫌って人もいるかも知れない。絶対に「男らしい」人でなきゃやだって人もいるだろうし、マッチョな人はあんまり好きじゃない人もいるでしょう。そんな感じで「性の概念」ってどんどん広がるもんだし、境界は本当に微妙なもんだし、個人的なもんだし、あいまいなものなんだっていうことです。

あ、映画と全然違った話になっちゃったね。ただ、このヴィルジニアのふるまいや気が付き方などがどこまで「女性か」は分かんないです、映画では。まぁそこまで細かくは描けないでしょう。この映画は「肉体」を介して性の概念の曖昧さを描いた作品だと思うし、それはとてもうまくいってると思う。

話は元に戻るけど「身体に男性器が付いている」という理由で「あなたは女性じゃない」と言われて涙したヴィルジニアの気持ちを考えると本当に胸が痛い。まぁ「女になりたいって思う人がなんで男性器を付けたままで平気なの?」って疑問を持つ人もいるだろうけど、これも個人差です。日本では今の法律で男性器が付いたまま女性の戸籍に変更はできないので、強制的に取られてるのが現状だけど、これはとても乱暴な法律で、外国では性別適合手術を受けなくても望む性に変更できたりするところもある。だからアメリカでは元女性の父親から子どもが生まれたりすることもあるんだよね。こう書くと「ええー、性の秩序が乱れている」と思う人もいるかも知れないけど、でも、子どもが欲しいのと自分が男性でありたい、というのはどちらを断念しなければならないものなんだろうか?「それが秩序だ」って考えたとして、ではその「秩序」を守ったからといって、得するのは誰でしょう。誰もいないよね。残るのは「秩序を守らせた」という人たちの自己満足と、子供を産めなくなった元女性の男性の悲しみだけです。しかもこのような人は本当にごく一部の人たち。その他多数の人は「性別を変えたい」とも「性別を変えた上で子どもを産みたい」とも思ってない。思ったこともない。それができるようになったからといって「そうしたい」と思うはずがない。だったら「秩序」の枠組みだって破壊されるわけではない。まぁだから、破壊されるはずのないちっぽけな「性秩序」を守るための今の日本の「性同一性障害特例法」はとても乱暴な法律なんだってことが言いたいわけだけど。

ではヴィルジニアには男性器が付いていた、だから男だ、だからクレールは男性器が付いているヴィルジニアは愛せないか、というところで事件が起こります。ここで交通事故を使うのは、とても安易だから、この部分はもうちょっと違ったものにならなかったのかなーって気はするけども。ただこの事故の直前のメールのやりとりでヴィルジニアがクレールに対して送った「わたしは女よ!」というメールも一つの「鍵」だと思います。この「鍵」を踏まえてクレールがここを乗り越えるためには、デヴィッド(ヴィルジニア)を意識不明にさせておく必要があるんだよね~。意識不明から戻すために、クレールは一つの行動に出ます。このシーンは亡くなったローズにデヴィッドがやった行為と対になる行為なのね。ローズにやった行為によってデヴィッドは再び女装しようと決意する。そしてそのデヴィッドにクレールがやった行為が、デヴィッドをヴィルジニアにする(=クレールがヴィルジニアを女性として受け入れた)という行為。登場人物の一つ一つの行為にすべて意味がある。こういう理屈っぽさはフランス映画っぽいって言えるのかな。ただ見てる分にはあまり理屈っぽさは感じられないけど。あとで振り返ったときに気が付くって感じ。

そしてヴィルジニアは意識を取り戻し、そして退院したヴィルジニアとクレールはジルの元に行く。「話があるの」と。そして7年後。

まぁ結末までネタバレさせたら面白くないのでここは伏せるけど、わたしとしてはとっても爽快な結末だったです。正直、現実的にかなりありそうな結末だなーと思った。ただ、この結末に対しては「意味がわからん?」って人もいるようです。まぁ上にも書いたように「異性愛規範」が強い人は「??」だらけの話だし、納得いかない結末なのかも知れないですね。

そうそう、あと一つ。わたしが気に入ったシーン。
上にクレールとヴィルジニアが一緒に泊まりに行く、というシーンがあったって言ったけど、そこで彼女たちは夜、女装の人がショーやってる性的少数者が集まる場所(なんて言うんだろう、クラブとも違うし)に行って女装の人が「わたしは女」とかいう歌を歌ってるのを聞いたり踊ったりしてるんだけど、そこで踊ってる最中に一人、わたしの好みのちょっと少年っぽいレズビアンの子がクレールに近づいて来てモーションかけるのね。でもクレールはその子には目もくれず、ヴィルジニアの方しか目に入ってないし、そのうちヴィルジニアと一緒に踊り出しちゃうの。だから、そのモーション掛けて来た女の子がすごい名残惜しそうにクレールのことを見てるんだけど、もー、そのシーンの女の子、すんごくかわいかった!!!思わずかわいくて笑っちゃった(笑ってる人他にいなかったけど)。こういう細かいシーンなど、本当にこの映画、よくできてます(ただわたしの好みの子が出てきただけか(^^;)。

だけどこの映画、もう封切られてかなり経つけど、セクマイ界でもほとんど話題になってないように思えるのはなぜなんだろう?「パレードへようこそ」はあんなに話題になったのに。これは「新しい家族の形」の話です。ストーリーに無理がなく(交通事故のところを除いては)登場人物の行動も突飛ではなく、心理描写もとても緻密に描けてると思う。本当にお勧め映画です。東京では18日までシネスイッチ銀座というところでやってますが、19日からはアップリンクでやるようです。関西近辺も18日まで梅田でやってたかな。それ以外の地方はこれからみたいなので、是非。
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04-12 Sun , 2015
「えっ、中野区ってそうなの?」~"LGBT力☆リッチ&プア〜ダイバーシティの謎"で話したこと~
昨日の夕方、新宿二丁目のaktaで「LGBT力☆リッチ&プア〜ダイバーシティの謎」というイベントが行われたんだけど、その中でわたしは「えっ、中野区ってそうなの?」という題名で話をした。これは例の渋谷の条例(渋谷区男女平等及び多様性を推進する社会を推進する条例)ができたけれど、実はこれって既に中野区ではできるようになってるみたいよって、大雑把にいえばそういう話をするつもりだったのだけれど。

が、事前に調べて行くうちにどうやら「中野区だけじゃなく、もしかしたら日本に住んでるわたしたちにももう既にできることはあったのだ」ってことが分かってきた。もちろん、これは渋谷の条例と同じく法的拘束力はないけれど、でも、国が見解を出してたり、議会で質問、回答をもらっていることだったりするので、それなりに力はあるものだ。

なので、そういうことも含め、当日時間がなくて話しきれなかったこと(特に根拠の部分ではほとんど話をすることができなかった)、また、シナリオなしのぶっつけ本番でしゃべったので(わたし、こういうのでシナリオ作るの嫌いというのもあるが)言葉足らずなところがあったと思うので、あのとき自分は何を話したかったかということを記しておきます。

まず、渋谷の条例では「何ができるようになるのか」というのを、4月1日付け東京新聞に載ってた「東京都渋谷区が発行するパートナーシップ証明書の効力」という図を使って説明。この図は事前に区側が説明したものに基づいている。そこには

【有効】
・家族向け区営住宅への入居
【事業者が認めた場合は有効】
・入院時の面会や手術の同意書へのサイン
・企業からの結婚祝い金の支給
【効力なし】
・婚姻の証明、相続、配偶者控除など法律に基づく制度

と書いてある。しかし2月12日にこの条例がまだ案だったときに報道された「できること」は「アパート入居」と「病院での面会」が挙げられていた(そのときに書いたわたしの文章はここ。ここには共同通信で配信されたものを載せた)。これ、一つ一つを見ると微妙に異なっていて(例えばアパート入居は民間での家探しのことだし、区営住宅入居については区条例に基づくもの、入院時の面会にしたって、意識があるとき、意識不明なときで扱いが違う)、正確に言おうとするととても骨が折れることなんだけど、だけど、ここをしっかりしていないと「自分たちはどこまで何ができるか」がはっきりしない。なので、説明がすごく複雑になっちゃうかも知れないけど、一応書いておく。誰かの何かの参考になればと思います。ちなみに「★」マークが付いているものは「既にわたしたちができること」であり、「☆」マークが付いているものは「中野区でできること」になってます。

★わたしたちは既に、緊急時にはパートナーの安否について連絡をもらえることになっています。ただし、そのことを明記したものを災害時(事故時)に携帯しておかねばなりません★

わたしは随分前から「緊急連絡先カード」というものを財布の中に入れて持ってます。これは「わたしが事故にあって意識不明になったときにはこの人に連絡してね」というもので、そこにはパートナーの名前と連絡先が書いてあります。でもわたし、これって「お守り」みたいなものだろうって思ってた。けど、これについては厚生労働省が平成16年12月24日に「医療・介護関係事業者における個人情報の適切な取扱いのためのガイドライン」というものを出してて(その後2度改正されてて最新版は平成22年9月17日のもの)、その中の(2)第三者提供の例外②人の生命、身体又は財産の保護のために必要がある場合であって、本人の同意を得ることが困難であるとき(22-23ページ)に当たってます(②は機種依存文字だと思うけど、ここではそう書いてあるので許して下さい。②は「丸に2」です)。そこには例として「意識不明で身元不明の患者について、関係機関へ照会したり、家族又は関係者等からの安否確認に対して必要な情報提供を行う場合」「大規模災害等で医療機関に非常に多数の傷病者が一時に搬送され、家族等からの問い合わせに迅速に対応するためには、本人の同意を得るための作業を行うことが著しく不合理である場合」とあります。

そして、これについて、議会で質問をした人がいます。平成17年9月の大阪府議会定例会本会議において「同性パートナーもこの中に含まれるか」と聞いた人が。まぁ「大阪府」って時点でピンと来た人もいるだろうけど、尾辻かな子さんですね。わたし、この発言を読んで思わずうるっと来ちゃいました。本当は一連のやりとりを文章コピペしたかったんだけど、著作権がらみで許可を受けないとダメらしいので、取り敢えずそれは止めときます。で、尾辻さんはこの中で2つの質問をしています。「災害時に患者の情報を提供できる第三者の範囲に同性パートナーは含まれているか」ということと「府立の病院における同性パートナーの面接、病状説明等の取り扱いはどうなっているか」ということ。で、わたしがこれ読んで特に感動したのは一番最後の

厚生労働省のガイドラインに沿って、患者の意思が最優先されるということをお聞きしました。厚生労働省のガイドラインに沿って対応ということは、全国の病院でも同様の対応が可能ということで考えております。

という尾辻さんの発言ですね。これ、大阪府議会なんで、本当はわざわざここの部分は言わなくても構わないわけだよね。だけど、これをここでわざわざ発言したってことは、尾辻さんは全国の人に向かって「これはあなたたちにも使えます」と言いたかった、特にここを各地のこれからの議員に向かって「ここは使えますよ」って示してる。議員は自分の質問をするときに全国で既に言われていることはないか、徹底的に調べて「ここではこう言われてこういう回答がされています」ということを使うはずだから。なのでこれは完全に未来を見据えた発言なわけで、わたしはここに尾辻さんの政治家としての優秀さが垣間見えるような気がするんだよね~。この人が議員じゃないってことは、本当にわたしらにとっては損失というべきだと思うんだけど、今、尾辻さんは何やってんだろうね~、、、

話がずれました(笑)

で、これ、当然のことながら、今現在、渋谷区に住んでる人だって、お金がかかる公正証書とかいろんなものを提出して、公序良俗も誓って「同性パートナー証明」をもらわなくても、緊急連絡先カードを持っているだけで大丈夫なんだよね。

そして「緊急連絡先カード」は検索すると結構各地の自治体が作ってるのね。それを携帯してもいいと思うし、自分で作っても構わないと思うし、わたしはQWRCって大阪の団体が作ってる「緊急連絡先カード」を持ってます。緊急連絡先カードが欲しいと言えば、送ってくれるそうですが、その際、この緊急連絡先カードを作るためのカンパも忘れないようにして下さい!

で、中野区でも「防災緊急連絡カード」というのがあります。これは区役所8階13番窓口に行って「防災緊急連絡カードをください」と言えばタダでもらえます。実際、わたし行ってもらってきました。特に名前も住んでるところも何も言う必要はなかったし、窓口で対応してくれた人はとても親切でした。裏面に相手の氏名などを書く欄があって、そこに「続柄( )」ってところがあるんだけど、「ここには同性の場合、どう書けばいいですかね~。配偶者とは書けないし、妻とか夫とかじゃないですしね」って聞いたら、一生懸命考えてくれて「パートナーでいいんじゃないですか?」って答えてくれました。実際、窓口の人と話して思うことは多々あったんだけど(多分、自ら「同性パートナーが」とか言ってくる人に対応するのは初めてだろうなとか)、こちらに対して「協力したい」って姿勢は多々見えたというか(ちょっと過剰に感じてしまったけれども(笑))。とにかく「何、あんた?」とか「そういう人たちは知りません」という姿勢では少なくともなかったので、安心して窓口に行って欲しいです。

で、中野区の「防災緊急連絡カード」は、一つの特徴があります。他の自治体では「連絡して欲しい家族」と書かれているところが「連絡して欲しい家族等」と書いてあるんです。もちろん「家族」だったとしても、上に書いた理由で家族以外の人にも連絡はいくでしょう(たとえ名字が違ってたとしても)。けど、やはりここは「家族等」と書いてあるとなんだかホッとするんだよね。これはおかしいといえばおかしい感覚なのだけど。やっぱり心のどこかで「自分は法律で認められていない=家族と認められていない」引け目みたいなのは感じてるんだろうな~。

そして、中野区にはこれと関連してるけれど、一つ、他ではできないこともできることになってる。

☆中野区では、災害時に安否確認を区に照会した場合、同性カップルでも「同居の親族」と同等な情報がもらえます☆

これは平成25年11月26日中野区議会本会議(第4回定例会)で話されている。タグが付いてないのでこの中から発言を探すのは大変だけど、「石坂わたる」で検索してみてください。

ここに出てくる「災害対策基本法施行規則」というものなんだけど、そこの第八条の三に(安否情報の提供等)というものがまずある。

第八条の三  法第八十六条の十五第一項 の規定により安否情報について照会をしようとする者(以下この条において「照会者」という。)は、都道府県知事又は市町村長に対し、次の各号に掲げる事項を明らかにして行わなければならない。
一  照会者の氏名、住所(法人その他の団体にあつてはその名称、代表者の氏名及び主たる事務所の所在地)その他の照会者を特定するために必要な事項
二  照会に係る被災者の氏名、住所、生年月日及び性別
三  照会をする理由



災害が起こったときに、区に対して上記のことを明らかにして照会すれば、

3  第一項の照会を受けた都道府県知事又は市町村長は、次の各号に掲げる場合の区分に応じて、当該各号に定める情報を提供することができる。ただし、当該照会が不当な目的によるものと認めるとき又は照会に対する回答により知り得た事項が不当な目的に使用されるおそれがあると認めるときは、この限りでない。
一  照会者が当該照会に係る被災者の同居の親族(婚姻の届出をしないが事実上婚姻関係と同様の事情にある者その他婚姻の予約者を含む。)である場合 照会に係る被災者の居所、負傷若しくは疾病の状況又は連絡先その他安否の確認に必要と認められる情報
二  照会者が当該照会に係る被災者の親族(前号に掲げる者を除く。)又は職場の関係者その他の関係者である場合 照会に係る被災者の負傷又は疾病の状況
三  照会者が当該照会に係る被災者の知人その他の当該被災者の安否情報を必要とすることが相当であると認められる者である場合 照会に係る被災者について保有している安否情報の有無
4  前項の規定にかかわらず、第一項の照会を受けた都道府県知事又は市町村長は、当該照会に係る被災者が照会に際しその提供について同意をしている安否情報については、その同意の範囲内で、又は公益上特に必要があると認めるときは、必要と認める限度において、当該被災者に係る安否情報を提供することができる。



これに沿った対応がされる。一般には同性カップルの場合は「4」が当てはまる(同意の範囲内、であることから、自ら意思表示はしてなきゃならないけど)。んだけど、中野区からは「第3項の一」、要するに同居の親族と同じとして扱う、と回答をもらっているそうだ。ここまでの回答を役所にさせているのは、中野区、もしかしたら世田谷区でもやってる可能性は高い。けど、調べてないので分からない。まぁほとんど「独自」といってもいいだろう。

それから、パートナーが病気で入院している際、

★わたしたちは既に病院から患者(パートナー)の病状説明を受けることができます★

医療・介護関係事業者における個人情報の適切な取扱いのためのガイドライン」の話に戻るんだけど、そこの中の「5.家族等への病状説明」(8ページ)に「本人以外の者に病状説明を行う場合は、本人に対し、あらかじめ病状説明を行う家族等の対象者を確認し、同意を得ることが望ましい。この際、本人から申出がある場合には、治療の実施等に支障の生じない範囲において、現実に患者(利用者)の世話をしている親族及びこれに準ずる者を説明を行う対象に加えたり、家族の特定の人を限定するなどの取扱いとすることができる。」と書いてる。一方、患者が意識不明だったときは「医療・介護関係事業者において、本人の家族等であることを確認した上で、治療等を行うに当たり必要な範囲で、情報提供を行うとともに」とある。ここでは「家族等」についてははっきりと説明してないので、かなり微妙なところではあるが「家族等」と書いてあるところでどう判断されるかだろう。ただ、上に書いたけど、大阪の府立の病院は、すでに同性パートナーを家族として扱うと府が回答している。

★わたしたちは既にパートナーが人生の最終段階を迎えているときに、家族として今後のケアの方針などの話し合いに参加することができます★

これについては「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」というのがある。これは平成19年5月にできたものだけど、つい最近、今年の3月に改訂された。ただ改訂されたと言っても従来の「終末期医療」という文言が「人生の最終段階」に変わっただけみたいね。中身は変わってません。

このガイドラインを見ただけでは実は「家族」としか書いてないんです。が、これと同時に出された「解説編」の中の「注10」に「家族とは、患者が信頼を寄せ、人生の最終段階の患者を支える存在であるという趣旨ですから、法的な意味での親族関係のみを意味せず、より広い範囲の人を含めます(このガイドラインの他の箇所で使われている意味も同様です)。」と書いてある。こんなところに書いてただけでは分かんないじゃないか、と言いたいところだけど(笑)

ただし。

上記すべてのことに当てはまることなんだけど、

議会できちんとした回答をもらっていないところでは、これらは全部無視される可能性はあります。

あと、ガイドラインは「法律」ではありません。要するに「国としてはこう考えています」と言っているに過ぎなくて、そこには法的拘束力はありません。だから、

「ここにこう書いてあるからこう取り扱ってくれ」といっても、そうならない可能性はあります。

というか、実は無視される可能性の方が高いと思ってます(ただし、緊急連絡先カードはそれなりに実績のあるものだし、病院側も大規模災害時には身元不明より誰かしら分かった方がいいというメリットはあるから、おそらく無視はしないと思うけど)。特に患者の意識がなくなった場合などの取扱いは、「ただの友人」レベルになる方が多いでしょう。それはひとえに、病院側が「訴訟を起こされると困る」からです。現実として、自分の配偶者と自分の家族(親など)がとても仲が悪い場合がありますよね。配偶者だったら、法的に保護された存在なので、病院側はそれなりに丁重に扱わないといけないでしょう。だけど、本人が亡くなってしまったあと、配偶者と家族(親など)が病院の治療方針などをめぐって争う場面がある。「あいつが勝手にああやってしまったので、死んでしまったのだ」など。そうすると病院側は「なぜそういうことをやったんだ」と訴えられる。これが一番怖いわけで。配偶者も家族も法律で保護される存在だから、病院側は両方を同じように扱わないといけない。病院側は訴えられるととても面倒なわけです。が、これが片方、法律で保護されていない同性カップルや異性カップルでも事実婚の人たちだったら?

病院はこれ幸いと、法的に保護されていない人たちが無視できます。そうすると、そのあと余計な争いも起こらない。病院はとても楽なわけです。無理して法的に保護されていない人たちに説明したり、治療方針について相談したりしたら、法的に保護されている親族などから「なぜあのときにあんなことをした」と訴えられるかも知れない。こういうことがある限り、病院は同性カップルや事実婚カップルに対しては「親族として取り扱わない」という態度を取り続けるでしょう。わたしたちにとっては「不条理」としか思えない対応なのだけど、病院も余計なことをしてリスクは負いたくない。ガイドラインでそう決めてあっても、それは実質的には有効には使われないだろう。悲観的だけど、わたしはそう思ってます。

で、この解決方法だけど、それはもう、同性カップルが法的に保障される以外、道はないだろうなと思ってます。イコール同性婚かというと、それはまた違うとは思うんだけど、そういう権利がきちんと入っている「パートナーシップ法」制定とか、そういうのしか解決方法はないでしょうね。。。まぁ、わたしたちは今現在の世の中では、そういう「微妙な立場」なんですよね。

医療関係についてはひとまず終わります。次はアパート入居関係です。これは中野区独自です。

☆中野区では、同性カップルや友だち同士などで家を探すときに、区に認定された民間の不動産屋さんが協力してくれます。協力してくれなかったなどの悪質な場合は、区は不動産屋さんを指導でき、また最悪の場合は区の認定が取り消されます☆

これは平成23年12月5日中野区議会本会議(第4回定例会)で取り上げられたもの。これは区長が「住み替えを希望している方が困ることのないよう協力体制の整備に努めてまいりたい」と答えている。

で、具体的な内容なんだけど、同性カップルや友だち同士で家を借りたいと思ったときは、まず区役所に行きます。区役所9階4番窓口(都市計画分野住宅施策担当)が窓口です。そこで区に認定された「中野区住み替え支援事業協力不動産店」のリストを渡されるそうです。全部で40件くらいあるらしい。そこからまず行きたい不動産屋さんを探して、そこに行って物件を探してもらう。そこで見つかればいいんだけど、それで見つからない場合がある、または不動産屋さんの対応が悪かったりして探し出せないときがある。そういうときは、もう一回区役所の窓口に行きます。そうすると、区から一斉に協力不動産店に対し「こういう人たちがこのような物件を探しています」という連絡がいくそうです。で、その条件に合った物件がある不動産屋さんは、区に対して「こういう物件を持っています」というFAXをするそうです。で、希望者はその中から探す。

こういうシステムなんだそうです。で、不動産屋さんの対応が悪かったり、差別的な発言をされたときは、役所に言えば、役所から指導が行くそうです。最悪の場合は認定取消になることも。ただし、渋谷区と違ってそのことは公表はされません(渋谷区は事業者公表と規定されているが、この部分は「厳しすぎる」として附帯決議をつけて条例が可決されたけど)。実際、このシステムで物件を探した同性カップルもいるらしいのだが、実はすんごく数が少ないらしい。だって、このシステム、ほとんど宣伝されてないからね!区役所のウェブサイトを見ても(民間賃貸住宅への住み替え支援のページ)、どこにも「同性カップル」とか「友だち同士」って文字は見当たらない。「同性カップル」とか「友だち同士」は4.の「その他、自ら物件を探すことが困難な方」の中に入ってるんですよ!!!これでは「自分たちは入っているのかどうか」が、全然分かんないよ!区役所に問い合わせてみる気にすらならないよ!!!「防災緊急連絡カード」も区役所のウェブサイトで調べたときは、どこでもらえるか分かんなかったけど、ホント、中野区のウェブサイトは見にくい!!これ、どうにかして欲しい。。

で、最後です。渋谷区の条例についてなんだけど、わたしはこの条例について、2つだけ評価してます。

1点目は、

「同性パートナー」という文言を条例に入れたこと。

2点目は、

区営住宅について言及していること。これは「第16条 渋谷区営住宅条例(平成9年渋谷区条例第40号)及び渋谷区区民住宅条例(平成8 年渋谷区条例第27号)その他区条例の規定の適用に当たっては、この条例の趣旨を尊重しなければならない。」の部分のことです。

1点目から。一般的に考えて、今までどこにも表記されていなかった文言を条例に入れることは、非常に大変なこと。可決されなければ意味がないし、可決されるためには半数以上の議員の賛同を得られなければならない。条例に文言を入れると言うことは、本当に重いことだし、よくも悪くも「前例主義」である日本の行政に対して条例の中に「同性パートナー」という言葉を入れることは、次に繋げやすくなるということです。だからわたしはこのことについては、率直に評価はします。

2点目。今まで公営住宅の「入居条件」っていうのは、旧公営住宅法第23条第1項に「現に同居し、又は同居しようとする親族があること。」と定められていたらしいのね。「地域の自主性及び自立性を高めるための改革の推進を図るための関係法律の整備に関する法律(平成23年法律第37号)」の第32条(このpdf、縦書きでめっちゃ読みにくいんですけど!)に公営住宅法の一部をこう変えなさい、って書いてあり、この項は廃止されたらしい。これがなくなったことによる一番のメリットは単身者でも入居可能になったということらしい。でも、これがなくなったので、地方自治体独自で「どういう人が入居条件になる」というのを決められるということでもある(多分ね、、、)。

なので、今回の渋谷は区営住宅条例やその他の条例の規定に際して、この条例を考慮に入れろって書いてあるということは、区営住宅条例やその他の条例に「同性パートナー」という文言は入れ込むことは考えていないにせよ、同性パートナー証明を持っている人はそこに入りますよ、と言ってるってことだよね。ちなみに渋谷区営住宅条例は既に「(使用者の資格)第五条 二 現に同居し、又は同居しようとする親族(婚姻の届出をしないが事実上婚姻関係と同様の事情にある者その他婚姻の予約者を含む。以下同じ。)があること。」になってるんで、おそらく解釈として「事実上婚姻関係と同様の事情にある者」の中に区の発行した同性パートナー証明を持っているもの、を含めるんだろう。

いやー、昨日の時点では見落としてたんだけど、「地域の自主性及び自立性を高めるための改革の推進を図るための関係法律の整備に関する法律(平成23年法律第37号)」の先を読むとね、公営住宅法の一部をこう変えなさいの中(第32条の中)に「第二十七条第五項中「親族」の下に「(婚姻の届出をしないが事実上婚姻関係と同様の事情にある者その他婚姻の予約者を含む。)」を加える。」って書いてあるんだよね~。もしかしてこれ、解釈次第でなんとかなる問題になってたのね(ごめんなさい、昨日の時点ではここのことは気が付いてなかった)。

確かに家賃が民間の住宅に比べて安い公営住宅に申し込めることになったことは、一つの進歩だとは思う。今まで申し込む資格すらなかったんだから。けどね、公営住宅って倍率とっても高いんだよね。ってことは、

わたしたちは今まで宝くじを買う権利がありませんでした。だから買うことができなかった。今度からは宝くじを買えるようになりました。だけどだからといって宝くじが当たるかどうかは分かりません。

ということと同じことなんだよね。確かに宝くじは買わないと当たらない。けど、当たる確率はめっちゃ低いよね。ちょっと調べてみたところ、中野区の区営住宅の倍率は平均で12倍、渋谷区はもうちょっと低くて8倍程度だったかな、都営住宅などは100倍~300倍、400倍は当たり前でした。ってことは、いくらそこで「宝くじ」が買えても、こんなん当たるのかよ~みたいな感じなんだよね。そういう意味では当事者にとっては「実の少ない」条例改正なり、解釈とも言える。それだったら中野区の「住み替え事業」だったら、言えば必ず対応してくれるのでそっちの方が「実のある政策」と言える。

しかも区営住宅に申込みができる条件は、収入が定められている限度内にある人だ。申込みをしたいがために、数万かかる公正証書だのなんだのを作らないといけない。これって、本当に困窮している同性カップルは救われるのだろうか?という疑問も起こる。

ただ、評価できるのはやはり「宝くじを買えるようになったこと」。これはとりもなおさず「同性カップルの地位向上」を意味することなので、一つの進歩だとは言えると思う。ただ実は少ない。そういうことだよね。

とまあ、だいたいこんな趣旨のことを話してきた。

やっぱね、今回思ったのは「今現在でも案外できることはあるんだな」ってことと、使える制度はもっと使わなきゃってことだった。よく世田谷区議の上川さんが「役所に当事者の姿が見えない」って言ってるけど、今回役場の窓口に行ったときにそれは痛感した。確かに「カミングアウトなんかしたくない」って思うのは分かる。けど、別に役場の窓口で住所や名前を言うわけじゃないし、聞かれるわけでもない。もらえるものをもらえばいい。分からないことがあったら質問だけして帰ればいい。役所の職員、市区町村だったら住民の、都道府県だったら都道府県民の、そして国だったら日本に住む人たちのためにある。役所はそんなに怖いところじゃない。

昨日話すために、いろんなことを調べて、いろいろな人に聞いて、一番感じたのがそれ。わたしもそうだったんだけど、使えるものの情報共有があまりにもされてない。だから、情報共有はたくさんの人にしておかなきゃな~、そして実際使わなきゃな~、自分はここにいるってことを言わなきゃな~ってことだった。
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04-07 Tue , 2015
忙しい!のと「お知らせ」
旅行から帰ってきてしばらくは何も用事はなかったんだけど、3月終わり辺りからなんだかいろんなことが積み重なって、とてもとても忙しくなってきてしまった。なので、ブログがなかなか更新できない。旅行記も途中だし、息苦しいのも実はまだ続いてるので(とてもしつこい)、そのことについても書きたいんだけど。。

取り敢えず、自分のやってることで表に見えること。お馴染み、新宿二丁目のaktaでやります。

PART1 渋谷区と同性愛の謎のカ・ン・ケ・イ展
16:00-22:00

2014年の東京レインボーウィーク発行冊子で取り上げられた、竹内久美子著『同性愛の謎』(2012、文春新書)に書かれているLGBTにまつわる想像や妄想や期待や偏見に対する盛大なツッコミと、渋谷区による公園封鎖や野宿者排除を含めた浄化政策について批判的な視点での情報共有、おすすめ関連書籍の紹介の展示です。

誰の場や権利が奪われ、それがどのように正当化され、わたしたちがどう関与しているかを考えます。

イベント:LGBT力☆リッチ&プア~ダイバーシティの謎 4/11(土)16:30~19:30
主催:フツーのLGBTをクィアする
http://www.akta.jp/schedule/index.html

予定ではaktaの壁にパネルを11枚作って貼るんだけど、わたしはそのうち「同性愛者、両性愛者に対する偏見」という項目を担当しています。昨日の夜はそのパネルを作りに行ってきたところ。

それから、11日のイベント「LGBT力☆リッチ&プア~ダイバーシティの謎」でも今のところ、話す予定。ていうか、全然これに出るつもりはなかったんですけど(笑)リレートークという感じで、今のところわたしを含めて4人で話すことになってるのかなー。一人一人テーマは違ってて、わたしは「中野区」について話します。

といっても、正直、話せるのかなという気はしてて、よく分かんないので「予定」になってます。取り敢えず今回の渋谷のこれは、実は既に中野区ではできるようになってたんだよ、ってお話。だけど、渋谷区の条例で定められたことと中野区で今のところできることは、重なってるところもあるけどそうでないところもあり、一方的に渋谷区の批判にはしないつもりです(っていうか、こういうことやるとなんでも「反対してる」って思われるかも知れないけど、わたしは別に「反対」とは言ってなく、おかしいところもあると言ってるつもりなんだけどね。まぁ他の人はどうだかは知りませんが)。

あと、19日と25日に、わたしが所属してるレインボー・アクションって団体で、わたしが担当してる「かもカフェ」と「ちょこっと ゆるカフェ」というのをやります(っていうか「ゆるカフェ」「かもカフェ」はこれまで3年、毎月やってるけど)。

「ちょこっと ゆるカフェ」はパレードの合間の25日の夜にやります。対象は「地方からパレードを観に来た人」です。東京及びその近辺の人は少し遠慮して欲しいなと思ってます(東京及びその近辺の人には毎月やってるわけだから)。

詳細はここに(レインボー・アクションのブログに飛びます)。

第18回「かもカフェ」を開催します

「ちょこっと ゆるカフェ」を開催します●東京レインボープライドの合間の4月25日(土)18時半から、なかのZERO・和室にて

取り敢えずお知らせでした。
4月中はばたばたしてるので、あんまり記事が更新できないかも。
22:07 | (性的少数者)イベントなど | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
02-14 Sat , 2015
渋谷区「同性パートナーシップ証明」について思うこと
2月12日は朝から騒がしかったですね(笑)

というのも、渋谷区が3月議会で「男女平等および多様性を尊重する社会を推進する条例」についての案を出すそうで、この条例案の中に区が「同性パートナーシップ証明」を同性カップルに出して、区内で同性カップルを「婚姻に相当する関係」として扱うように「お願いする」というものが入ってるからだそうだ。

以下、共同通信の記事。わたしが確認したところによると、関東地方では東京と毎日の朝刊に載っていたそう。

--------------- ここから ---------------
 東京都渋谷区は、同性カップルを「結婚に相当する関係」と認め、証明書を発行する条例案を三月区議会に提出することを決めた。区によると、自治体が同性同士をパートナーとして証明する制度は全国で例がない。性的少数者(LGBT)の権利を保障する動きは世界的に広がっており、家族制度をめぐる論議が高まりそうだ。

 可決されれば四月一日施行、証明書は二〇一五年度内の開始を目指す。

 同性カップルがアパート入居や病院での面会を、家族ではないとして断られるケースが問題になっていることを踏まえ、区は区民や事業者に、証明書を持つ同性カップルを夫婦と同等に扱うよう協力を求める方針だ。

 条例案は、男女平等や多様性の尊重をうたった上で「パートナーシップ証明」を定めた条項を明記。区内に住む二十歳以上の同性カップルが対象で、必要が生じれば双方が互いの後見人となる契約を交わしていることなどを条件とする。カップルを解消した場合は取り消す仕組みもつくる。

 条例の趣旨に反する行為があった場合は事業者名を公表する規定も盛り込むという。

 憲法は婚姻関係を「両性の合意」のみに基づいて成立すると規定。区議会では条例案が従来の家族制度を揺るがしかねないとする議員の反対も予想されるが、区は、法律上の効力はなく「全くの別制度と考えている」としている。

 渋谷区は昨年、有識者らによる検討委員会を立ち上げ、LGBTの区民からも聞き取りをして条例の内容を検討してきた。桑原敏武区長は「互いの違いを受け入れ、尊重する多様性社会を目指すという観点から、LGBTの問題にも取り組みたい」と述べた。

 海外の同性パートナーシップ制度に詳しい京都産業大大学院の渡辺泰彦教授(民法)は「公的機関が同性パートナーの存在を認め、直面する問題に対処しようとする点に大きな意味がある。ドイツやスイスではまず地方自治体がパートナーシップ制度をつくり国家レベルに広がった。国内でも同様の動きが出てくるのではないか」としている。

◆渋谷区条例案ポイント
▼男女および性的少数者の人権の尊重。
▼同性パートナーシップ証明書の発行。
▼条例の趣旨に反する事業者名を公表。
▼男女平等・多様性社会推進会議の設置。
▼条例は4月1日施行、パートナーシップ証明は別途定める。
--------------- ここまで ---------------

まぁこういう案が出来、報道されることだけでも「大きな一歩」には違いないと思う。

ただ心配なのは、これ、決して条例が可決されたわけじゃないんですよね。まだ案の段階。3月の議会で通らなければ、何も変わらないどころか、「こういうのはまだ日本では早い」とみなされてるってことが証明されてしまうってこと。むしろ今後の同様の動きも抑えられてしまうのでは、という危惧の方が強く感じられてしまって怖い。で、こういうのが出ると、必ず「バックラッシュ」も起こる。これが世の常。それをどうかき消していくかが問題。これについては完全に同性愛者の権利問題なのだけれど、今までの世の中を変えていくためにはなぜか「多数者」に「認めてもらわないと」いけない。まぁ多数決の論理からするとそうなんだけど、でもなぜ少数者の権利、当然認められなければならない権利を多数者に「認めてもらわないと」いけないのかなぁって常々思ってるんだけどね。

だってさ。わたしももうじき彼女と一緒に暮らして丸10年を迎えるんだけど、やっぱり彼女が突然意識不明になって病院に運ばれたとき、わたしは病院から「家族」として扱われるのか?「面会謝絶」になったときに彼女に会えるのか?万が一、亡くなるときには、わたしはそばにいてあげられるのか?万が一、亡くなってしまったときに、わたしはお葬式にどういう形で出られるのか?単なる「親しかった友人」として?「家族」としてじゃないの?彼女の家族から「アンタは家族じゃない」って言われたら?わたしは彼女のお葬式にすら出られないの?っていう不安はいつも絶えず抱えてるから(厳密に言うとこれは「法的な地位」は保障されないので、家族関係には反映されません。だから、病院では家族として扱われたとしても、お葬式の時に家族に拒絶されるとそれは拒めません)。
※ただし、今のところの家族状況を見ると、彼女の親族からわたしに対して「アンタ葬式くんな」と言われるよりも、わたしの親族が彼女に対して「ろんたこの葬式には来るな」って言われる方が可能性高そうで怖いんだけど(^^;

確かにこれまでの10年間、わたしも彼女もお互い入院したことがあるけれど、そのときは病院側に関係をきちんとカミングアウトして「家族」として扱ってもらえた。それはもしかしたらとても運がよかったのかも知れない。双方意識をなくしたことはないので、そういう場合は認められるのかも知れない。だけど前に「家族」として扱われたからといって、将来も「家族」として扱われる保障はどこにもない。

本当にとてもとても不安定な身分なのだ。これが男女の場合だったら、たとえ婚姻届を出していないにしても「事実婚」として扱われ、当然の如く「家族」として扱われるだろう。わたしたちは普段、男女カップルと大して変わらない生活をしているはずなのに、こういう危機的な状況、人生がガラリと変わるかも知れない状況の時にはこんなにも差が出るものなのだ。

こういう不安を常に抱えているにもかかわらず、わたしたちの「権利」って他人から決めてもらわないといけないものなの?って思っちゃうよね。男女カップルなら当然として認められている「権利」なのに。

まあ、そうは言っても「世の中そういう風に出来ている」わけだから、なんでと思いながら「多数者」に自分たちの権利を「認めてもらわないと」いけないわけだけどもね。というわけで、3月の議会がいつから始まって、いつこの件について審議されるかはよく分かんないのだけど、それまでは自分の出来ることはするつもり。

だってさ。こういった「証明」がされることで、少し、不安な状況がなくなるんだよ。ほんの少しだけだけどもね。「病院で看取れる権利」はホント、最低限。今までその「最低限」すら認められてなかったわけだから、常に不安を感じざるを得なかったわけだけど(と言っても今回のこれは「法的に認められた権利」になるわけじゃなく、あくまでも区が事業者に対して「お願い」してるだけに過ぎない)。でもそれがなくなると想像するだけで、自分の上にのしかかっていた石が少し軽くなるように感じたんだよね。今まで自分の上に石がのしかかっていたとは認識してなかったんだけどさ。軽くなった分だけ前の重さが分かるというの?まぁ、でも本当に軽くなったわけじゃなく、条例案通らなければ軽くはならないわけだけど(っていうか、それ以前にわたしはそこに住んでないから条例案通っても何も変わらないんだけども(笑))。

アパート入居については、女同士というのは割と不動産屋さんからも問題は問われないわけで、これによって大家さんから入居を拒否された、というのはあまり聞かない。わたしも彼女とは今まで2回、一緒に部屋探ししてるけど、別に「女同士」を理由に貸してもらえないってことはなかった。問題は男同士なんだよね。これはしばしば耳にする。男2人だと部屋が汚く使われるという理由などで貸してもらえないそうだ。しかしこの理由は口実で、ホモフォビア(同性愛嫌悪)も多分にあるんだろうな~と思ったりする。

わたしなんかは彼女と「一緒に住みたい」と思って、そのまますんなり一緒に暮らしてるわけだけど、それが困難だというのは想像が付かなくてね。なんにしろ「当たり前」のように思ってるから。だからもしかすると病院でも家族と認められるのは、男女カップルとしては「当たり前」のように感じられるものなんだろうか。それが「当然じゃない」のは、想像が付かないことなんだろうか。でも「一緒にいて欲しいときに一緒にいられない」のは、病院にせよ、同居にせよ、同じことだ。わたしらにはいざという時「一緒にいる権利」が保障されていないのだ。

あと、このことが報道されてから、いろいろな否定的な意見が出てるのは知ってる。渋谷区はホームレス排除してるじゃないかとか。いや、だから、そのことについては全く別の話で、たとえ渋谷区がこの条例案通したとしても、それによってホームレス排除が「免罪」されるわけじゃないよね。条例通過したとしても「渋谷区さん、有難う!!わたしはこれであなたのやってることには何も文句は言いません!」ってことじゃないよね。別にこの条例案に賛成したとしても、渋谷区に魂まで売ってるわけじゃないのだ。ホームレス排除の問題は、深刻な問題だし、これはこれでこの先も追及していかねばならないだろう。そんなの当然のことだ。

それから「婚姻制度が強化される」っての。確かにこれは分かる(笑)でもさ、だからといって、わたしは2人の間に何の法的な権利がない状態が好ましいとは思えない(何度も言うが今回のこれは法的な権利ではないのだけれど。これは法的な権利への第一歩に過ぎないことはよく分かってる)。「婚姻制度解体」を言ってる人もいるけど、じゃあ、具体的に「婚姻制度解体」に向けて何か行動してるんだろうかっていつも思う。その行動が全然見えてこない。日本で「婚姻制度に与したくない」という理由で結婚しない男女カップルがいる。が、そういう人たちでも男女であれば「事実婚」になってしまうのだ。事実婚は法律婚から遺産相続以外の権利はほぼ認められている。それはとりもなおさず「婚姻制度の恩恵を受けている」ということになる。だけど同性カップルは一緒に住んでいるだけでは事実婚扱いにはならない。それは同性カップルには「婚姻制度」がないからだ。本当にこの日本から「婚姻制度」を廃止させたいのであれば、婚姻制度廃止をもっと世の中に訴えなければならないのに、そういう訴えはほとんど聞くことはない。身内でごちゃごちゃ言ってるのが聞こえるだけだ。
【後日追記】男女の「事実婚」についてだけど、確かに「遺産相続」と「税金」以外は法的な保障が受けられるのだが、それ以外、例えば成年後見人の申し立てはできなかったり、あと、なんと病院での「看取り」は法的な保障ではないので逆に「家族」として扱ってもらえない場合も多いらしいです。「事実婚」の場合、逆に法的な保障以外のところで保障されないって初めて知った。
(参考)http://konkatsu-nomiss.info/indignity/

また「婚姻よりも個人としての保障が手厚い方がいい」っていう声も知ってる。けど、具体的に「個人の手厚い保障」ってなんなんだろ?って思う。だって、病院に家族として認められるとか、住居にカップルとして入ることが出来るというのは、一人一人の保障を手厚くすることによっても保障されない権利だ。一人の生活は確かに不安な面もたくさんあって、でもそれは二人の生活から生じる不安とはまた全然別のものなのだ。

ただ、そういうものを「婚姻制度」によって保障するかしないか、というのはまた別問題なんだけどね。この世界には「婚姻」とは別の概念「パートナーシップ」ってのがあって、そこで保障されればいいじゃんか、という話もある。

まぁこれを話すと話が長くなってしまうのだけど(笑)、例えばフランス、フランスは同性婚が認められる前に「Pacs法」というものが出来た。「市民連帯契約」というものだ。これは特に同性の関係だけでなく、男女だったり、友人でも可、というもので、これによって同性の関係が認められたんだから、別に同性婚はいいじゃないか、ってことも言われてた。これ、オーストラリアでも同じ。オーストラリアでは先に「パートナーシップ法」が出来た。でも、この2つの国は結局のちに、同性婚制度を導入した。

なぜかというと、それは「婚姻の平等」をこの国の人たちは求めたからだ。異性愛者の婚姻と同性愛者の婚姻の間に全く差はない、要するに異性愛カップルと同性愛カップルは同等なのだ、というものを求めたからだ(同性愛カップルは婚姻に「準ずる」という関係ではない、ということ)。それはとりもなおさず同性愛者の地位の向上を意味する。同性愛者は「二級市民」ではない、ということを示すためだ。

果たしてこの日本で、どこまで求めるか、という問題はこの先にはあるだろう。けど、今はまだそういう話では全くないのだ。だって何度も言うけど、この条例案は別に同性カップルの法的な保障とは関わりがないから。だけどとにかくこの一歩が踏み出せなければ、この先の話もクソもない。

それから「カップル志向になって、独り者が生きにくくなるのでは」という声がある。まぁ確かにそれは有り得るので、その点は注意しなければならないとは思うが、だからといって、一人でいたい人たちのために、二人で生きていく上で感じる不安を持ち続けなければならないのかというと、それはちょっと勘弁してよと言いたい。というか、同性同士の関係を認めることと「一人でも生きていっていい」という概念が広まるのは両立しないか?と思う。

あ、少子化に繋がるとかそういうのは、アホらしくて反論する気にもならないので(笑)同性婚を導入した国の出生率を見てもらえば分かるけど、導入後、少子化になってないから。結果はその逆だから。同性婚を導入した国はちょこっとだけど出生率も上がっている(下がっている傾向はない)。それに同性婚が認められたら少子化って、どんだけ同性愛者の数が多いと思ってるんじゃって感じだよね(笑)別に同性愛者がこの世の中を動かしてるわけじゃないから(爆)あと、アメリカで「同性婚論議」が発生した一つの理由は、レズビアンたちが産んだ自分の子どもに対して、何の保障もないので、それをどうにかして欲しい、というところから始まってるわけで、レズビアンマザーが増えたからこそ同性婚の議論が始まったのだ。だから同性愛者は子どもを持てないわけじゃないんだよね(ただ、これも「結婚したら子どもを持たなければならない圧力」に繋がる恐れがあるので、そこんとこは気をつけないといけないのだけれど)。

あとはそうだなー。だからといって、わたしは「この条例案はすばらしい!」ってキラキラしてるわけじゃないです。これは本当に「第一歩」に過ぎなくて、そしてこれが戦いの始まりなんだと思う。だから、自分でもやれることをやらねば。案は一人歩きして勝手に条例になるわけじゃない。それを支持することを表明して、その案が本当に必要であることを世間に表明しなければ。誰かが勝手にやってくれるわけじゃない。権利って言うのは上から自然に降ってくるものじゃないんです、お情けみたいに。

行動に起こす、というのはしんどいことだと思う。でもそれを誰かに任せてていいんだろうか。自分が行動を起こさないで誰かに期待して、それがもしダメだったとしたらそれも他人のせいにしてしまうのか?まぁそういう思いがあって、わたしはその第一歩として自分のブログで意見を表明しているのだけれどね。
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04-15 Tue , 2014
セクマイの映画祭
わたしが所属しているレインボー・アクションという団体が主催で、ゴールデン・ウィークに映像祭をやるそうです。

正直、どの作品がどういう作品なのかって全然把握してないので、どれがオススメとは言えないのですが(笑)、まぁわたしは前々から見たかったけど、見逃してた「百合子、ダスヴィダーニヤ」が見てみたいかな。題名の「百合子」っていうのは、宮本(中条)百合子で、この人と湯浅芳子って人の話なんだけど、わたしが湯浅芳子を知ったのは'90年に出た別冊宝島の「女たちを愛する女たちの物語」ってムック本だった。この頃はまだ湯浅芳子は生きてたんだよね。インタビューが載ってた。この頃('90年代)の印象としては、レズビアンの世界はウーマンリブの影響が強くてね、正直なところ「女同士の恋愛」と「女同士の連帯」がごちゃごちゃになってる感がするんだけど、まぁそれは歴史的な背景から仕方なかったような気はする。湯浅芳子なんて、女には選挙権すらなかった時代で、その中でいろんな女の人たちが自分たちの権利拡張についての活動をしてるときだったから、今というより'90年代とも単純に比較はできないと思うのだけれど、ただその中にも確かに「女を愛する女」は存在していたわけよね。湯浅芳子はこのインタビューの中で「自分はレズビアンだ」とは明確に言ってないのよ(そう言われるとそうかも知れない程度)。だけどまぁ生きてきた歴史を考えると仕方がないのかなって気はする。

そしてこの「女を愛する女たちの物語」と同時期に、この映画の原作本「百合子、ダスヴィダーニヤ」が出版されたんだよね。わたし、この本リアルタイムで本屋で見たんだけど「買おうかな」って迷ってるうちに手に入らなくなってしまった。で、ずっと古本を探してたんだけど見つからなくてね~。手に入ったのは数年前だった。それでまぁ読んだんだけど、ほとんど細かい印象は忘れてしまってて(汗)、大きな印象としては「吉武輝子の『女人吉屋信子』に似ている」というものだったんで、正直、あんまり面白くなかったんだろうと思う←オイ

吉武輝子の「女人吉屋信子」はねー、女同士の恋愛ってより、連帯の方をものすごく強調してる本で、それは別に女同士の恋愛を否定してるってわけじゃないんだけど、この人あんまり女同士の恋愛について考えてないんじゃないだろうかって思えたんだよね。わたしら別に自分を虐げる男が嫌いで女同士でいるわけじゃないから。まぁでもこの感覚は本当に新しいんだと思うよ、そう考えてみると。今では「同性愛は異性愛と性的な指向の向きが逆なだけで、恋愛感情は同じです」って言うけどもさ、ことに女同士の関係ってのは、今よりももっと権利のない時代だからね。必然的に女同士が力を合わせて生きていかなきゃならない時代だったわけよ。なので、ある意味仕方ないんだと思う。ただこの本、あまりにも「おいおい」ってところが多かったんで、逆に印象に残ってるんだよね~(笑)

てなわけで、この映画(百合子、ダスヴィダーニヤ)ができた、ってときももちろん知ってたんだけど、体調悪かったりなんかして、結局観に行けなかったんだよね。この映画の中には、わたしの大好きな俳優さんのうちの一人である大杉漣さんが出てるので、そういうのも含め「見たいなあ」とは思ってる。

あとの作品は知らんです。けど、この映像祭初上映のものがあったり、大画面で見ることができる機会であったりするらしいです。詳しい告知はこちら

--------------- ここから開催告知 ---------------
このたび、レインボー・アクションでは「第1回レインボー・アクション映像祭」を開催します。

セクシュアル・マイノリティの視点から、現代の社会を問い直す、
国内外の映画・映像を上映し、同時に、関係者によるトークイベントも実施します。

映画・映像を通じて生まれることばや思考を大切に、
普段はなかなか語りにくいことについても語れる場を提供する映像祭です。

多くの方のご参加をお待ちしております。

●日程 2014年5月4日(土・祝)~6日(火・祝)
●会場 東京ウィメンズプラザ ホール

上映予定作品
『 ジェリー・フィッシュ 』(監督:金子修介)
『 百合子、ダスヴィダーニヤ 』(監督:浜野佐知)
『 for you 』(監督:ペ・フィギョン)*本作は日本初公開です
『女として生きる』(監督:江畠香希)

*この他の作品も上映する予定です。詳細は現在調整中です
*監督や関係者によるトークイベントも実施予定です

●料金 前売り券:1,000円/1プログラム 当日券:1,200円/1プログラム
*全日フリーパスも発売予定です。購入方法等は決まり次第ブログにてご案内します。

◎最新情報はこちらからご確認ください◎
http://rainbowaction.blog.fc2.com/blog-entry-194.html


☆プレイベントも実施決定!
●日時 2014年4月29日(火・祝)19:00~21:30(18:30開場)
●会場 アップリンク ファクトリー

*内容等の詳細については、決まり次第発表いたします

☆レインボー・アクション Xラウンジによる関連イベントも合わせて実施します!

「性自認ってなに??いろんな性自認の人の話を聞いてみよう!」

●日時 2014年5月4日(日・祝)18:30〜20:30(18:00開場)
●会場 都内公共施設(お申し込みの方にお知らせします)
●資料代 500円

◎詳細はこちらからご確認ください◎
http://rainbowaction.blog.fc2.com/blog-entry-197.html

関連イベントのみ、定員制のため、事前の申し込みが必要です。
参加ご希望の方は、rainbowaction.xlounge@gmail.comまでご連絡をいただければと思います。


(本映像祭は株式会社ラッシュジャパンのLUSH JAPANチャリティバンクによる助成を受けて実施されます)
--------------- ここまで ---------------
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03-28 Fri , 2014
好きになる性別はどこで決まるのか
昨日、駅のホームで電車を待ってたら、わたしの少し前に髪の毛が短くて、ちょっと金髪で背が高くて細身の女の人がいた。顔は見えなかったけど、ちょっとわたしの好みだったので(笑)、ドキドキしつつ、電車に乗ってその人に近づいてみた。

。。。見たら男性だった。中性っぽい顔つきをしてたけど、のど仏が出てた。

その途端「なーんだ、男だったのか」と思い、ドキドキした気持ちが思いっきり失望感に変わった。

「あー、わたし、性別で人を判断してるんだなあ」ってそのとき思った。

よく「わたしは同性愛者を受け入れてます」って人の中で、同性愛を肯定するつもりで

「愛に性別は関係ない」

っていう人がいるんだよね。

違います!同性愛者の好きになる相手は性別が決まってます!同性愛者は選んで同性が好きになります!異性は選びません。だから同性愛者の愛は性別が大いに関係があります!

その点、選んで異性を好きになる人と、対象は違うけれど同じなんだよね。性別が関係なく好きになる人は、一般的にはバイセクシャルか、パンセクシャルの人ってことだろう(デミセクシャルとかポリセクシャルも該当するっちゃ該当するかも知れないけど、中には該当しない人もいるから、まぁ一般的にはバイセクシャルかパンセクシャルってことになるんじゃないでしょうかと思う)。

だけどね。じゃあ「好きになる女性」ってなんなんだろ?と思うわけですよ。

「女性」って一体どういう人のことを指すのと。

わたしは、電車の中で見た人を女性だと思ったときはドキドキして見て、男性だと思った途端落胆した。同じ人なのに。でも、じゃあ女性の何にドキドキし、男性の何に落胆したのか。それを考えると結構難しいんだよね~。

人の性別は何によって決まるかというと、染色体、性ホルモン、性分泌、外性器、内性器、だったっけ、、でもどうやってその人が男性か女性かが決まるかというと、生まれたときの外性器の見た目、だ。人は生まれたとき、医師が外性器を見てそして男性か女性かが決まる。その男性とか女性ってのは、あくまでも「戸籍上」ということだ。しかも細かいことを言うと戸籍には性別は書いてない。書いてあるのはあくまでも「親との関係」だ。

ただ、日本では戸籍上の性別が、本人の社会的な性別になっている。生物学上の男性、女性とは言うなれば、外性器しか一致していない。もちろん中には外性器で判断がつかない場合もあるわけだけど。

外性器が男性だからと言って、内性器まで男性とも限らない。逆もしかり。性染色体がXYだから男性でXXだから女性とも限らない。そう考えると、何が男性で何が女性なのか、わたしは本当に性染色体も性ホルモンも性腺も外性器も内性器も全部女性じゃないと女性として好きにならないのか、と言われると、自信がない。

だいたい、わたし自身の性染色体なども正直、調べたことがないので分からないのだ。わたしが本当に完全に女性かというと、調べてないので分からない、というのが本当だ。なのにわたしは自分のことを女性だと思っている。もし、わたしが女性かどうかを調べて、もし、肉体的に完全な女性ではない、という結果が出たとしても、わたしは自分のことが女性であるとしか思えない。多分、この世界で生きてる人の大半がわたしと同じだろう。

とすると、わたしが自分のことを「女性である」と思っていることは、全く根拠がないことになる。たまたまわたしの肉体の一部は女性だと思うが、それだけを根拠に「女です」とは言えない。だから性別は「頭の中のもの」に過ぎない、というのが、今のところのわたしの結論だ。

でもね。「好きになる性別」は違うのだ。「頭の中が女性」という人だったらどんな人でも好きになるかというと、実はわたしはそうではない。肉体が女性じゃないと好きにならない。肉体が女性だったら、性染色体がXYでもいいかと言われると、そこはよく分からない。じゃあXXYだったらと言われるとそれもよく分からない。だけど一度でも男ジェンダーで育てられた人はちょっと嫌だなあって思ったりもする。もちろん、身体が女性でも男ジェンダーの人は好きにはならない(と思う)。すると、性別だけじゃなく、ジェンダーも関係あるのかよってことになる。

「性別は頭の中のもの」と言いながら、好きになる相手の性別は「頭の中のもの」だけじゃなく、身体やジェンダーが関係してくる。それはちょっと公平じゃないんじゃないの?って思うのだが、こればっかりは仕方がないんだよね、、

異性愛者の人も「自分が好きになる異性とは何か?」を考えてみるのも面白いんじゃないかと思う。中には「頭の中が自分と異性だったら、身体はどっちでもいい」って人もいると思うし。というか、実際いるしね。まぁそこのところの許容範囲(と言えばいいのか?)は女性の方が広いような気はするけれども。
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03-19 Wed , 2014
それでも花は咲いていく/前田健
この本は以前、友人に「この本いいですよ」って言われて、図書館で借りて一回読んだのだけれど、非常に心に残る本だったので、購入してもう一回読み直し、そして感想をきちんと書いておこうと思ったので書いている。けど、、多分思うことが多すぎて、ぐっちゃぐちゃになる、かも(^^;

わたしはこの本を書いた前田健という人は、芸人であるってことと、ゲイとカミングアウトしてるってことしか知らない。どういう芸をしてるとかは全く知らない。まぁでも知らなくても全然この本を読むのに困らなかった(と思う)。知ってたら「えー、この人こういうもの書いてるんだ」と思うかも知れないけど、別にそんなんがなくても中身だけで十分楽しめる。全体を読んでの感想だけど、これはすごーく計算し尽くされた一冊なんじゃないかなあって思う。

内容は、本人による(文庫版)あとがきによれば「セクシャル・マイノリティ」に属している人の話だという(直接こういう風には書いてないけど、文意はこんな感じ)。うん、確かに9つの短い話で構成されてて、各話は主人公も舞台も全然違う(オムニバス形式というのかな?)。そしてその中に出てくる人は、少女しか愛せない人であったり、セックス依存症(というのかな?)であったり、全然知らない異性の人の部屋に入って妄想する人であったり、SMの趣味がある人であったり、年上しか愛せない人であったり、セックスがしたくない人であったり、そしてゲイであったりして、いわゆる「成人した異性と恋愛してセックスができる人」(俗に言う「普通の人」)ではない。そういう意味ではここに出てくる主人公はみんな「セクシャル・マイノリティ(性的少数者)」である。

ところが、、いわゆる「性的少数者」の人の中で、小児性愛者とかSM愛好家(って2つ例に挙げたけど、この2つだけのことを言ってるんじゃないよ。以下も同じ)と一緒にされることをひどく気に入らない人がいる。いや、この文章からして既に「性的少数者」の中に小児性愛者とSM愛好家が入ってないってことに気が付くと思うけど。ただ、わたし自身は性的少数者の中に小児性愛者やSM愛好家が入っててもいいと思っている。思っているけど、じゃあ、普段わたしがこのブログでたくさん「性的少数者」って書いてるけど、この中に小児性愛者やSM愛好家が入っていると想定して書いているかというと、実は想定しては書いてない。なんで想定して書いてないかというと、言い訳がましく言えば、慣れとかクセなのかなあ?ただ「排除しよう」と思っているわけではない。

一般的に「性的少数者」や「セクシャルマイノリティ」という言葉は、LGBTと言われるレズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー(Xジェンダー含む)を中心に、パンセクシャル、アセクシャル(エイセクシャル)、ノンセクシャル(これは最近Wikipediaで削除されたようだが、、)、ポリアモリーなどを含んだ総称だ。そこには小児性愛者やSM愛好家、フケ専や二次コン(二次元コンプレックス)などは入っていない。レズビアンやゲイ、バイセクシャルは、性的指向の問題であって、トランスジェンダーは性自認の問題であると言われるが、小児性愛やSMは性的「嗜好」だと言われる。そして性的少数者はしばしば「指向」と「嗜好」は違う、と言ったりする。

確かに「指向」と「嗜好」は違う。ヘテロセクシャル(異性愛)を含む、同性愛や両性愛、無性愛、全性愛は愛情の方向性、それが異性に向くか、同性に向くか、両性に向くか、どこにも向かないか、全方向に向いているか、という「方向性」を示す言葉だ。一方、小児性愛やSM、フケ専や二次コン、セックス依存などは方向ではなく、好みだ。なので、性的指向と性的嗜好は両立する。異性愛者で小児性愛者、と言う人もいるし、同性愛者で小児性愛者という人もいる。異性愛者でSM愛好家という人もいるし、同性愛者でSM愛好家という人もいる。指向と嗜好は両立する。

指向と嗜好は明らかに性質が違う。だから、新聞や雑誌で「同性愛などの性的嗜好」と書かれると「性的嗜好じゃなく、性的指向だ!」と激怒する人がいる。そしてこう付け加える。「嗜好は単なる好みだけど、指向は生まれ持って変えられない性質だ」と。そしてそれは「嗜好よりも指向の方が上だ」というニュアンスを感じさせる。わたしもずっと長い間、そんな感じに思っていた。

だけど。「嗜好」も持って生まれたものじゃん?そして容易に変えられるものじゃないじゃん?って思う。よく考えてみるとね。なのに「嗜好」と蔑んで、下に見る。これって別に本人はそう思ってないかも知れないが、差別じゃん?自分たちが差別されて嫌な思いをしているのに、さらに差別される人が存在していいの?って思う。

おそらく、この本の著者もそういうことが言いたいんだと思う。だから「セクシャル・マイノリティ」の話の中に、一番最後の話にゲイの話を持ってきた。「指向」も「嗜好」も結局同じなんだよ、ってこの著者は言いたいんだと思う。まぁそのことに気づけるのは「指向と嗜好が違う」って知ってる人だけなんだけど。。だからね、わたしはそこに優しさを感じたんだよね。ああ、この人は優しい人なんだなって。

世の中に同性愛者と小児性愛者がごっちゃにされているなと感じるときがある。特にゲイは小児性愛者だと世間から思われている(そういやレズビアンは小児性愛者とは思われてないな)。そして性的少数者の話をすると「じゃあ小児性愛はどうなんだ」って言われることもあるのよね。。基本的に小児性愛をどう考えるかなんて、同性愛者だけの問題じゃないのに、なんで同性愛者が考えねばならんのだ?って思うときがある。そのような質問がなぜ出るかというと、同性愛が犯罪だと思ってるからじゃないかなって思うのよね。だから「同性同士で愛し合うことは犯罪じゃない」って言うと「だったら子どもと愛し合うのも犯罪じゃないのか。そうやって一つ認めると次々と認めなくてはならなくなって、社会の秩序が乱れる」って思考回路なんだと思う。だけど、判断力がある大人同士の恋愛と、判断力がない子どもとの恋愛って、全然違うと思うのよね。片方に判断力がなく、未成熟だからこそ、子どもとセックスしたら犯罪になるのだろうし。

ただね、、そう言えば言うほど小児性愛が蔑まれていくんだよね。確かに子どもに手を出した時点で犯罪だ。しかし、個人の「好き」という感情まで犯罪なんだろうかって思う。犯罪だからと言われて「じゃあ好きになるのを止めます」って言えるんだろうかと思う。その点「嗜好」であっても、好きであることはそう簡単に止められないのではないかって思うのだ。だから「指向は生まれつきのものであって変えられません。そこが嗜好と違います」という主張は間違っているんじゃないかと思うのだ。

うーん、本の感想なのになんでこんなことをつらつら書いてるかというと、最近、twitterで「小児性愛者であることを公にカミングアウトするべきでない」って感じのツイートを見たからだ。そういうことを言ってる人が性的少数者なのかそうでないのかは分からないのだけれど、ツイートした人は「カミングアウトする」ってことが、どんなにドキドキすることなのか、誰にも彼にもカミングアウトしてるわけじゃなく、自分を受け入れてもらえそうな人しかカミングアウトをしないのだってことが分かってないんじゃないかなあと思えたんだよね。同性愛者だとカミングアウトするだけでもかなりドキドキする。ましてや自分が「犯罪者」と間違えられる可能性がある小児性愛者だとカミングアウトすることって、かなりハードルが高いことだと思う。そしてカミングアウトすることは、別に「だから幼児、児童を襲いますよ」ってことじゃなく、小児愛者である自分を誰かに分かってもらいたいんだと思う。言えないことを持っていることは本当に苦しい。隠しておくことは苦しい。たった一人でも、自分の本当のところが分かってくれる人がいて欲しい、そういう感じではないのかなと思う。

この本の一番最初の話は小児性愛者の話だ。かなり、胸が痛くなる話。とても切ない。でも、それだけじゃない。この話の終わり方はこうだ。

神様――。僕は病気ですか?
僕はゴミのように燃えてなくなればいいですか?
白い手紙の破片に突っ伏して、朝まで僕は泣き続けた。
死ねばこんな僕も天使になれるのか、と思いながら眠った。
夢の中でまた奈美ちゃんが優しく僕を起こしてくれることを願いながら。

これさあ。最後の一文が気になるんだよね(笑)これがなくて「と思いながら眠った。」で終わると、とっても切ない感じに終わるの。でもこの話はこれで終わってない。死ぬことを考えている割には、愛する相手が夢の中に出てこないかなあってちゃっかり思ってる(笑)著者はこれを美しいだけの話にはしたくなかったんだなって感じるのだ。そういうところにわたしは「ああ、ちょっとしたところでもよく練られている話だな」って思うの。

そしてこの本の一番終わりの話はゲイの話だ。これもとっても切ない。相手に自分の思いが伝えられないところは、一番最初の話ととてもよく似ている。ただ、同じ切なさでも、ゲイの方は未来はほんのりでも明るい感じがする一方、小児性愛者の方はこの後、この人はどうやって生きていくんだろう?って印象を持つ。

そーなの。小児性愛者は人を好きになってもそれが叶えられることはない。手を出してしまった時点で犯罪者だから。それに子ども自身が非常に傷つくはずだ、身も心も。自分の願いが叶うことは大切に思っている相手を傷つけることに繋がる。だからといって人を好きになってしまうのを止められるはずもない。それゆえ相手には告白できず、常に自分の中だけに持っているしかない。でもそれだと苦しいから、自分の持っている悩みを誰かに言いたいと思う。けど、カミングアウトする相手を間違えたら受け入れられるどころか変態扱いされ、冷たい目で見られるだろう。そう思ったら易々とカミングアウトなんかできない。結局自分の中で気持ちを押し殺しているしかない。想像してみるに、これはとてもつらいことだと思う。小児性愛者は自分自身の願いを叶えられないけど、では一体どうすれば「ちょっとはマシ」になるんだろうって考えたことがある。でもこれは分からなかった。「同じ仲間がいる」と分かればちょっとは気持ちは楽になるんだろうかとか、「誰か自分のことについて話せる友人」がいればちょっとは気持ちは楽になるだろうか、っていろいろ考えたのだけれど。。

なのでね、上にちょっと書いたけど「小児性愛者だとカミングアウトするな」っていうのは、どう考えても酷だと思うのよ、わたし。そうじゃなく、逆にもっと社会が受け入れるようにならないと、受け入れるというと「なんでそんな変態を受け入れなければならないの。犯罪者予備軍じゃない!そんな人が社会に堂々と生きられるようになったら、子どもが危ない」って考えちゃう人もいるだろうけど、そうやって蓋をして孤立させる方がわたしは怖い。もちろん世の中では少年少女に手を出して、捕まる人もいるけれど、でも多分、必死に自分の気持ちを押し殺して普段は普通な顔してつらい思いをしながら生きている人の方が多数だと思う。彼らにつらさだけを押しつけて、こっちは平気な顔をしてるなんてできないよと思う。ただ、結局は彼らの思いは遂げられないわけだから、受け入れられる社会を作っても、一体、どの程度つらくなくなるのかなとは思う。小児性愛者の問題って、本当に難しいんだよね。

なんて、小児性愛のことばかり語ってしまったが(汗)

この本の話を読んでると、面白いことに自分が「受け入れやすい話とそうじゃない話」があるのに気が付くのね。わたしが自分が「受け入れにくいな」って思う話って、セックス依存だったりSMの趣味のある人の話だったりする。あとマザコンとか。共感しにくい、というのかな。やっぱり個人的に好き嫌いはあるようだ。この本の話、というわけじゃなく、その行為に対してね。人が好きでやってる分には嫌悪感はないのだけど(だから「SM趣味でやってます」って人がわたしにカミングアウトしてもなんとも思わない)、それを自分に当てはめて考えると、もうこれはなんとも言いようがなく嫌な気分というか、嫌悪感が湧き起こってくる。わたし「ああ、これだな」って思うの。例えば「同性愛者です」ってカミングアウトしたときに「気持ち悪い」とか「襲うな」って言われることが。別にカミングアウトするってのは「あなたが好きです」とか「あなたを襲いたいです」って言ってるわけじゃない。ただ自分が同性愛者だってことを知ってほしい、ただそれだけのことなんだけど、言われた方は自分に当てはめて想像しちゃうんだろうね。同性とセックスしてる自分なんかを思い浮かべたりしちゃうんだろう。だからすごく嫌悪感が湧き起こるんだろうね。わたしは大抵のことならカミングアウトされても大丈夫って自分では思ってるけど、でも、こういう話を読むことによって自分の中に特定のものに対して嫌悪感があるのを改めて気が付かされるので面白いと思う。まぁSM系の話を読むと毎回、こういう嫌悪感を持つのだが、、多分ねわたし、SMについては「人権侵害だ」って思っちゃうの、、好きでいじめられるというのがどうしてもわたしには分からない。だからMの人がいじめられている描写などを読むと、いじめているSの人をぶち殺してやりたくなる。「お前も同じ目に遭え」って。わたし根本的にSMが理解できないんだと思う。よく「SとMは高度な信頼関係の中でプレイしています」って言われるけど、わたしはどうしてもそれが理解できない。いじめたり、いじめられるのは本当に嫌だ。いや、分かってるよ、一般に「いじめ」と言われているいじめとSMは全然違うって。でも、わたしの中では同じなの。同じって言うか、違うと分かってるけど、感覚的に同じものと捉えてしまうの。

ってSM嫌いを熱く語ってしまった。でもわたしは別にSM愛好家の人を否定はしてないからね。自分の中でものすごい嫌悪感はあるけど。

この本の話の中の主人公は、男もいれば女もいる(そういえば性が揺らいでる人の話はなかったな)。男が主人公の話は割と結末が救いようがないってのも見られるけど、女が主人公の話は結末がハッピーエンドというか、一段落して終わるものが多いように思えた。これは、どういうことなのかな。わたしはセックス依存の女の人は、ああいう結末じゃなくもっとズタボロになって終わればいいのにって思ったのだけど、そうはなってない。二次コンの話も「あら、この人は二次コン卒業なのかしら?」って思わせるような結末だ。ところが男が主人公の話は厳しいものが多い。これは著者が女性に対して優しいからか、それとも男の「セクシャル・マイノリティ」は社会的に厳しいものが女性より多いからか。異性の部屋に忍び込んでそこで自慰行為をする、なんて、男には有り得ると思っちゃうけど、女の人でそれをやる人いるのかな~って思ったりもするしね(それは男性に対する偏見だと言われるとそうかも知れない、、)。って考えると、著者がなぜその「嗜好」を選び、その「嗜好」それぞれに男と女を当てはめていったのかと考えるのは興味深い。アセクシャル(無性愛)は女性が当てはめられてたけど、わたしは男性が主人公の話が読みたかったな~。

話の結末の好き嫌いも、もちろんある。さっきも「もっとズタボロになって終わればいいのに」って思ったって書いたけど、「なんか安易な終わり方だなあ」ってのもあった。アセクシャルの人の話は、それが直接の原因とは書いてないが、幼い頃電車の中で痴漢に遭った、ってことになってるんだけど、これはこういう設定にはして欲しくなかったよな~。なぜかというと、そこには別に「原因」なんかはないからだ。同性愛もそうだけど、別に「何かあって」、同性愛者に「なった」わけではない。「何かあってなった」と思われていることでも、別にそれはきっかけであって、原因じゃないと思っている。だって「異性愛者になった原因」なんてないでしょ。ないから言わないでしょ。っていうか多分、わたしはアセクシャルの人がすべて「過去の性的被害からそうなった」って思われるのが嫌なんだよね。中にはきっとそういう人はいると思う。いると思うけど、そうじゃない人もいる。どちらかというと「そうじゃない人」として描いて欲しかったって思ってる。

あと細かいところだけど、最後の話の題名は「サンフラワー」なのだが、物語の中では「向日葵」で出てくる。題名をカタカナで統一したかったんだろうと思うが、これは物語の中で出てきたとおり「向日葵」(もしくはひらがなで「ひまわり」)がよかったんじゃないかなーって思う。サンフラワーと向日葵って、わたしの中でなんかあんまり「同じもの」って思えないんだよね。イメージが違うというかね。

それからこれは誤植なんだけど、文庫本134pで「同姓を好きな人はホモセクシャル」ってあるんだけど、これは「同性が好きな人は」だよね。もうね、この間違いってよく見るんだよ。「同姓愛者」とかね。そのたびに誰のこと?って思う。同じ名字の人ばっかり好きになる嗜好はない、っていつも思うんだけどね。これは間違われやすいので、特にこういう話を扱う本では気をつけて欲しかった。

なんか最後は文句ばかり付けてしまったが、でも、この本の中の話は一話一話、本当に丁寧に考えられて作った話だと思う。話の内容に破綻はないし、細かいところの設定がとてもきっちりしている。あとつい「本当にありそうな話」だと思えてしまうところがすごい。そして各々の「嗜好」と自分がどのくらいの距離か、ってのが分かって本当に楽しい。小児性愛者のつらさは自分のつらさのことのように感じられるけど、セックス依存症はなー、なんか分かんないな、とか。

「性的少数者はLGBTだけだ」と思ってる人、「性的少数者の話が読みたい」と思ってる人、これはオススメだ(ただしこれだけ読んで性的少数者を分かった気にはならないでね。性的少数者の世界は本当に奥が深いんだから)。

なお、この本の3つの話をピックアップして映画も作られたらしい。それは今はDVDになってるんだけど、わたしは図書館で借りて読んだ後すぐにDVDも借りて見た。まぁまぁだったかな。ただ小説で「こんな感じの人」って想像を膨らませてるところで、映画は個々の役者さんが演じてるわけだから「想像と違う」ってところもあると思う。あと、なぜか分からないけど原作と設定が変わってる話もあった。わたしは本の方で自分なりのイメージを作ってしまったから、DVDはちょっと「なんか違うな」って感じだったのだけど、でもこれはこれでいいんじゃないかと思う。わたしはDVDの中でも小児性愛者の話が一番よかったと思った(キャスティング含めて)。主人公の男の人を見て「あれ、この人、すごく川谷拓三に似てる!」って思ったのだが、調べてみたら川谷拓三の子どもだったので、これまたびっくりした。昔、大河ドラマ見てて、母に「津川雅彦と長田裕之って似てるね」って言ったら「当たり前よ、兄弟だもん」と言われてびっくりしたのを思い出した。
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01-29 Tue , 2013
佐藤家の朝食、鈴木家の夕食
昨日の夜にBSジャパンでやってた「佐藤家の朝食、鈴木家の夕食」。

見た。

言いたいことはたくさんあるのだが、果たしてそれが適切なものであるかどうかは分からない。というのもわたし自身の中には「一般の人に知って欲しいレズビアンマザー、ゲイファザー像」ってものがあって(その実わたしはレズビアンマザーの実体についてもよく分かってないのだが(汗))どうしても「啓発的」なものを「善」としてしまう傾向にある。なので感想には多分に「これじゃ一般の人に誤解を受けてしまう」ってことが含まれていると思うのだ。それが果たしていいのかどうかは分からない。一つの作品として見なければと思うが、他に同じような作品がいくつもあるのなら「まぁこの作品はこうだよね」と言えるのだが、作品がこれしかない以上どうしてもこれが「代表」として見てしまう。だからわたしの感想には当事者として「この反応はおかしいんじゃないの?」ってのと内容的に「キャラクターの心の動きが引っかかる」ってのと「ここ、こういう書き方したら誤解を受けるんじゃないの?」って少し啓発的なものがそれぞれ入り交じってるところがあると思う。それをごちゃごちゃにして感想を書いてみたい。

まず、最初に2つの家族がすきやきを食べてるシーンで、片方のカップルがゲイカップル(というか、片方はバイセクシャルだから厳密に言えばゲイカップルではないのだけれど、ここではゲイカップルって呼ばせてもらう)ってばれたとき、なぜレズビアンカップルの方は「実はうちもそうなんです」って言わないのかってこと。これ、当事者にしてみれば結構不思議。当事者というのは心のどこかで同類を求めていて、例えば街で女性同士、男性同士歩いてる人を見かけると「あれはカップルではないか」と思っちゃうんだよね、習慣的に。そして心のどこかで「カップルであるといいなあ」という期待感も同時にあったりする。だから片方がゲイカップルって分かったら「あー、実はうちもなんです」って絶対に言うと思うんだよね。なのになんであそこで「同性愛カップルは近年増えてますからね。うちはそういうの全然気にしませんから」とか「うちは違います」ってことを言うのか、それがとても不自然に思えて仕方がなかった。

不自然と言えば、その次、ゲイカップルとその子どもが帰った後、レズビアンの人が「複雑って言うか、なんか変な家族ね」って言うんだけど、それを自分たちが言うか?って感じ。正直不自然。この台詞をわざわざ言わせたのはそれを受けて子どもが「うちの家族も変じゃないか。母親が2人なんて」って、この台詞を言わせるための台詞としか思えない。この台詞を言うことで視聴者に対して「ああ、この子どもは親のことで悩んでいるんだ」ってことを分からせるための台詞だとしか思えない。だから無理矢理言わせられた感があるのだけれど、でもやっぱりどう考えても自分ところと同類の家族に対して「あの家族なんか変」って言うのはどうも変だと思ってしまう。

あとそうそう、すきやきのシーンでゲイカップルの一人(バイセクシャルの人の方)にレズビアンの人が結婚を勧めるシーンがあるんだけどあれもかなり不自然。まずヘテロであったとしても初対面の人にいきなり言うか?ってのと、多かれ少なかれレズビアン自身も周囲から「結婚しないの?」と言われた経験はあるはずで、それがどんなに嫌なことかは身に染みて分かっているはず。だから他の人が結婚していないからと言って「いい人いますよ、紹介しましょうか」なんて絶対に言わないと思う。だからあそこのシーンもわたしからするとかなり不自然。

レズビアンカップルの方の子ども(息子)はどうやら同性愛について嫌悪しているらしかったんだけど、それはわたし、この子自身「自分はゲイじゃないだろうか」って悩んでいるからホモフォビア(同性愛嫌悪)が強いんだと思ってた。ゲーセンで友達にお金を渡すシーンとか、友達の手と自分の手が当たったときに思わず自分の手を引っ込めるシーンとか、あと決定的だったのはゲイカップルの子ども(娘)に対して「俺なんか同性しか愛せない血が流れてるみたいだし」と言ったシーンがあったし、ゲイカップルのゲイの人に対して「本当に女とは付き合えないのか」って聞いたシーンもあったし(ちなみに「(もう片方の人は)どうなのか」と息子に問われ「それは人のプライバシーに関わる問題だから答えられない」と答えたゲイの人の回答は素晴らしいと思った)、だからこそ、息子はホモフォビアが強く娘より両親を受け入れられないんだと思ってた。

けど、ゲイカップルの子ども(娘)に「じゃあわたしで試してみる?わたし、女だよ」って言われてセックスしちゃうんだけど、あれを持ってめでたくヘテロだったってことになるのかしら?わたし、この物語ではここのところがきちんと回収されてないって思っちゃうんだよね。女とセックスできたらゲイじゃないの?それはちょっと安易すぎない?同性の友だちに対する思いは一体何だったの?女とセックスできたらそれは消えちゃうの?ここんとこ、息子の心理がよく分かんないんだよね~。もっとここのところは丁寧に描いて欲しかったなと思ったりする。自分がゲイではないってことと、自分たちの母親を受け入れるってことは別問題だと思うのね。でもそれがなんかいっしょくたになってしまっている。

いっしょくたといえば、教師が三倍体と遺伝子組み換えの問題をごっちゃにして話してるんだよね。わたし、生物はあんまり得意でないので合っているかどうかは少し自身がないのだけれど、三倍体は自然界でもごく少数に存在しているよね。三倍体=遺伝子組み換えではないよね。授業中の説明にもあったとおり、三倍体ってのは、四倍体と二倍体が結合してできるものであって、それは遺伝子を操作した結果ではないはず。授業中、教師が息子に質問したのはあくまでも三倍体に対する「問題は何か」って聞いたんだと思ったんだけど、それに対する教師の答えって「遺伝子組み換えの怖さ」ってなんか違わない?

しかも「同性愛は自然ではない」ってことと「人工的に作られたものは不自然である」ってことを一緒くたにして語らせてる場面もあったよね。あの子供たちが父親の車で逃亡して見晴らしの良いところに行って話すシーン。あそこでは「種なしスイカ」についての話だったけど、種なしスイカ自体は三倍体であって、決して自然界に存在しないものではない。ごく少数だけど自然に有り得る話だ。まぁ確かに不妊ではあるけれどもね。そして同性愛も不妊ではあるが決して自然じゃないものじゃない。同性愛者にとっては同性を愛することは自然なことであり、作られたものではない。「子どもができない組み合わせ」は決して不自然なことじゃないと思うのね。そこんとこを打破して欲しかったなーと思う。結局あのシーンは娘が「だけどわたしは種なしスイカは好き」ってところで終わっちゃってて、なんだよ、好き嫌いの問題かよって思ってしまう。

それにしても人工的に作られたものは不自然であるって誰が決めたんだろう?そして不自然なものがそんなにいけないことなんだろうか?しかし、人間が生活する上では人間の手で作った「不自然なもの」に囲まれているではないか?パソコンにせよ、ハサミにせよ、ちり紙にせよ、電卓にせよ(ってこれは今、わたしのPC机にあるものを並べてみただけ(笑))。「不自然なもの」に囲まれているクセになんで子どもや家族の関係は「自然なもの」じゃなきゃいけないのか?息子に「種なしスイカは人工的で不自然」って言わせたのは「同性愛は不自然」って言わせたかったためで、それを回収する納得いく言葉がなかったのはわたしにしてみればとても残念だった。それを回収する言葉が好き、嫌いという好みの問題にされたようでなんだかなぁと思った。

しかもこれはわたしが思いっきり気に入らないシーンなんだけど、娘がパパに迫って、それから父親に「パパとお父さんの子どもを産んだら、わたしたち家族になれるのかな」っていうシーンがある。これって思いっきり血縁に拘ってないか?血が繋がってなきゃ家族じゃないの?子どもがいなきゃ家族じゃないの?夫婦は血が繋がってないよ、普通。夫婦だけの家族は家族じゃないの?自然じゃないの?

実はわたし、娘はそこら辺のこと理解してると思ったんだよね。でも最後の方で実は母親(の手)が欲しかったんだとか、血が繋がってなきゃ家族じゃないと思ってるとかって分かってすごくがっかりしたんだよね。だったらあの最初のパパと父親に囲まれて幸せそうな姿をしてたあれは何?って思っちゃうんだよね。息子に対して「自分はパパとお父さんの子どもだ」って言い切った、あれは何?って思っちゃうんだよね。

わたしとしては、どうしても「こういう家族だってなんらおかしくない」ってところを少しでも見せて欲しいって思っちゃうんだよね。「血が繋がってなくても、母親が2人でも父親が2人でも家族は家族だ」ってことをもう少し肯定的に描いて欲しかったんだよね。それはさ、上で書いた「啓発的なもの」に該当すると思うのだけれど。でもこの作品を見ると、あんまりそういうのは伝わってこなくて、多分、そういうのは別に伝えなくていいって思ってんだろうなって見ながら思った(それとも他の人にはそういうことが伝わってくるのだろうか。わたしの感じ方がおかしい?)。

あとさ、ゲイカップルはお互い相手のことを愛し合ってて、そして結構娘のこと二人とも親バカで心配してて娘のことすごく愛してるんだろうなって分かるんだけど、レズビアンカップルの方はどうもキーキー言ってるばかりに思えてしまって仕方がなかった(冒頭に2人のキスシーンはありましたけどね)。息子がおじさんに「なぜ(お姉さんカップルに)精子提供することを承諾したのか」と言われて、おじさんが「姉さんは明るさだけが取り柄だったのに、、うんぬんかんぬん」って答えたけど、正直姉さんは明るさが取り柄って性格には思えなかったし、むしろ息子の態度でおろおろする頼りない母親に思えたんだけど。。子供を産んで性格が変わったのだろうか、という風に見えた。

それから最後の方、弟に結婚を勧めるシーンがあるんだけど「家族っていいものよ」って、独り身のままじゃダメなわけ?子供を持たないと「家族」じゃないの?もしかしてこの作品、そのことが「最も言いたかったこと」なのか?

ここんとこ、すごく幻滅したんだよね。まぁわたし個人としては「恋愛は絶対にしなければならないものなわけ?」とか「人を愛するのって無条件にすばらしいことなわけ?」とか思ってるので、こういう言い方をされるとすごく反感を持つんだよね。その人が本当に結婚したくてたまらないんだったら、誰かを紹介することはいいかも知れないけど、そういうことを言わない人に対してまで結婚を勧めるようなことは避けるべきだ。その人はもしかしたら異性愛者でないかも知れない、誰も愛さない人かも知れない、今の生活で十分満足って思ってる人かも知れないから。上にも書いたけどレズビアンって割と周囲から「結婚しないの?」とか言われて答えられなかったりして嫌な思いをしてきてるはずだから、まずこういう話は無防備にはしないと思うんだけどね、、

まぁこういう考えも多分に「啓発的」なのかも知れないし、この作品を作った人はそういうことは別に描きたくなかったのかも知れない。わたしはこの作品について「こうあるべきだ」という意見を押しつけるつもりはない。これはわたし個人の感想だ。だからこの作品がわたしと合わなかっただけ、とも言えるのだ。だけどやっぱりわたしが期待していたこととは別の方向に行っちゃってるので、わたし自身はこの作品については「うーん」って思うんだよね。まぁあと息子の性的指向を初めとして「回収してない話があるじゃん」とか「結局みんなこれで満足しちゃったの?」ってのはある。最後、収束した感じで終わってるけど、わたしはなんかあんまり収束したって感じを持てなかったんだよね。だからある意味「消化不良」に感じる部分がある。

それとこれは蛇足かも知れないんだけど、これってたかが3日やそこらの話だよね(詳しく数えたわけじゃないから分かんないけど。ただ数日間に起こったこと、ってのは間違いないと思う)。だけどなんか時間配分が悪いような気がしたんだよね。息子がおじさんと会って、実はおじさんの子どもだったって分かったときなんて、一体何時間あるの?って感じだった。一旦家に戻ってきたりおじさんとさらに会ってバッティングセンターに行ったり景色の良いところまで行ったり。その間、母親たちはずっと子どもの帰りを待って全然ご飯食べてないのもちょっと違和感があった。何時間も待たされて「先に食べてましょう」ってことにならなかったのかな。

それから、娘は生理になって数日間しか経ってないのに湯船に入ったり(別に入れないことはないけど)SEXしたりしてる(別にできないことはないけど)。そこは「女」の当事者として「えー、これはちょっと生理終わるの早すぎでは」とか思ってしまった(爆)まぁここら辺の感じ方は個人で違うかも知れない。

それから娘が息子に「性別なんかなければいいのに」みたいなことを言ったあとで「でもスカートはけなくなるからやだ」みたいなことを言ってたけど、わたしはその論理がよく分からなかった。それだったら男がスカートはけるようになればいいだけの話じゃない(笑)女からスカートを取り上げる必要はないじゃない。

最後にキャストについて言ってみると、まずはつみきみほ。これはもう「櫻の園」好きなわたしとしては「おー、あの杉山さん!」って思ったね。しかも歳取ってもしゃべり方はあんまり変わってないみたいだったから、杉山さんを彷彿とさせ、まるで杉山さんの未来がこうなってるような感じがした(ただし、杉山さんは高校時代は不良だったのでそこのところは齟齬はあるが)。ちなみに「櫻の園」ではわたしは志水部長が好きでした~(笑)

それから池田政典。わたし、この人のデビュー曲「ハートブレイカーは踊れない」のときを知ってるんだよな~。あれから25年くらい経って、こんなに渋くなってるとは思わなかった。今回、このドラマで唯一まともなキャラだったかなと思ったりした。いい役ではあったよね。

ってわけで、なんか文句ばっか書いた感想だけれど、やっぱりちょっと個々の人物(特に息子と娘)を描き切れていなかったような気がする。「なんでこれがこうなるの?」って場面がちょっと多かった。最後は息子も母親たちを受け入れられたようだけど、そこもあんまりよく分からなかったし。娘の「パパたちの子供を産めば血の繋がった家族になれるのか」という問いの答えはなかったような気がするし。しかも息子と娘はくっつきそうな予感で終わってるし(片方の子どもが娘で片方の子どもが息子だったことから最初からそういう予感はあったんだよねー)。娘の方は最初から息子に興味があったようだが、息子の方の同級生への思いはどこにいったの?って感じだったし。

ああ、ごめんなさい。せっかく日本でもレズビアンマザーとゲイファザーを題材としたドラマが出てきた!って思ってたのに、それをぶち壊すような感想の数々で。。まぁでもこのようなドラマがやっと日本にも、って気はしてるので、こういう作品がもっと数多く制作されればなあと思ってます。
21:55 | (性的少数者)テレビのこと | トラックバック(0) | コメント(1) | page top↑
12-15 Sat , 2012
嬉しい
わたしは自分のブログではあんまり触れてないが、レインボー・アクションっていう団体に所属してて、その中の「カフェプロジェクト」ってののチーフをやっている(チーフって言ってもカフェプロジェクトはわたし1人チームなんだけどね(笑))。カフェプロジェクトは「性的少数者かも知れない」人が集まる「かもカフェ」、性的少数者がキーワードとなれば誰が参加しても構わない「ゆるカフェ」という2つの集まりで、「かもカフェ」「ゆるカフェ」は隔月に1回開催、まぁそれぞれ集まった人同士で好きなことを話してもらおうというものなんだけど(詳細はこちらで)、今月の「かもカフェ」は今日やったのね。

毎回「かもカフェ」「ゆるカフェ」の告知をtwitterで気が向いたときにやってるんだけど、今日、かもカフェ終わって家に帰ってきたあとにtwitterの画面覗いたら、彼女の兄弟の配偶者さんから「かもカフェいいですね。近かったら行きたかったのに。今度この取り組みを自分のFacebookで紹介してもいいですか?」っていうリプライがあった。

わたしさぁ、それ読んですっごく嬉しくてさぁ。なんかものすごーく「受け入れられた感」があるというか、なんかもう言葉にならないほど嬉しくてさ。自分でもなんでこんなに嬉しいのかよく分からないんだけど嬉しいんだよね。

やっぱり同性愛者にとっては「相手の家族に受け入れてもらう」というのが特別嬉しく感じるのかなとか思ったり、そんなん感じるのはわたしだけかと思ったり。

異性愛者は相手の家族との付き合いは親子とか親戚付き合いになっちゃうから、どちらかというと「しんどいもの」なんだろうけど、同性愛者はまず「隠すこと」から始めている分、オープンにすると嬉しくなるのだろうか。まぁ距離的に離れているからと言うのもあるかも知れない。これで割と近所に暮らしてたらまた関係も変わってくるのかも知れない。そこら辺はよく分かんないんだけどね。

ただ、わたしは本当に嬉しかったんだよね。
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10-06 Sat , 2012
レズビアンと婦人科
ヘテロ女性(この場合シスジェンダーヘテロ女性)も進んで行きたいとは思わない婦人科って(シスジェンダー)レズビアンならもっと行きたくないんじゃなかろうか。というか、少なくともわたしは「何か」なければ絶対に行きたいとは思わない。
※シスジェンダーというのは、性自認と性別が同じ人のこと。性別が「女(男)」で自分が女(男)だと思ってる人。トランスジェンダーではない人。

わたしの場合、今まで「何か」というのが2度ばかりあったので、2度ほど婦人科と言われるところに行ったことがある。レズビアンがヘテロ女性と比べて「行きにくい」と思う理由の一つに「性行為の有無」を聞かれることがあると思う(男性医師だと嫌だというのはヘテロ女性も共通らしい)。なんてったって婦人科で言う「性行為」の定義が分からないのだ。というか多分向こうは世の中に「女と女がセックスしている」なんてことをつゆとも考えていないだろうなと思われる受診前のアンケート(って言うのかな)で思い知らされるのだ。そのアンケートを前にして「自分がこの世に存在していない悲しみ」や「具体的にどうやって答えればいいのか分からない途惑い」を感じるのだ。まだ「会ってもいない」医師に対してカミングアウトしたらどうなるんだろう?本当にカミングアウトして理解してくれる医師なのかどうか分からないうちにカミングアウトはしたくないのは当然だ。ましてや受付の人に「この性行為って女性同士の場合はどうなるんですか」なんて聞けないだろう。

なんて急にこんなことを書いているのは理由がある。もうなぜそんなブログに行き当たったのか覚えてないのだが、子宮頸がんになってしまった人のブログを読んだのだ。最初の人から次の人、みたいにしていくつもいくつもブログを読みあさっていたのだが、その中で一人、「子宮頸がんになっていない人のためにワクチンと検診の必要性」を必死に書いている人がいて(その人は残念ながらもう亡くなられたらしいのだが)それを読みつつ「レズビアンの場合はどうなんだろう?」って思ったからだ。

そこには必ず「性行為をした男女なら誰でも(HPVウイルスに)感染する可能性がある」と書いてある。HPVというのはヒトパペローマウイルスのことで、そのウイルスはHIVみたいに「どこにいる」と限定されているウイルスじゃないらしい。種類は350種くらいあって、その中でもガンを発症させるウイルスは18種だったかな、あるそうだ。ワクチンを接種しても(2種と4種という2種類のワクチンがあるらしい)全部防ぎきれるわけじゃないらしい(ガンを発症させるウイルスは18種あるわけだから)。だからその人は「ワクチンを接種しても性行為をしたならば検診を受けてくれ、検診も細胞診だけではなくウイルスに感染しているかしていないかが分かる検査も受けて欲しい」と書いていたのだ。

ちなみに子宮頸がんはもちろん(生物学的な)女性しかかからないが、このHPVウイルスによってそれ以外のガン(陰茎がん、喉頭がん、舌がんその他)にかかる可能性があるので、男性もワクチンの対象としている国もあるらしい(残念ながら日本は遅れているので男性へのワクチン接種は想定されていないし呼びかけられてもいない)。もしガンを引き起こされなくても尖圭コンジローマの原因になるので、これも男女関係ないってことになる。

さて。感染は「性行為」って書いてあるけどHPVウイルスは例えばHIVのように「○○に存在する」とは何を見ても書いてないのだ。ということは、普通に手足についてたりする可能性もあるんだろうか?(そこら辺がよく分からないのだが)しかも感染予防としてコンドームもあんまり功を奏しないらしい(だから普通に手足にウイルスが付いてるのかなと想像したのだが)。「性行為」が「ペニスとヴァギナの結合」を意味するのであれば(ウイルスがペニスとヴァギナにしか存在しないならば)レズビアンはHIVと同じく「ローリスク群」ということになる(あくまでも「ローリスク」であって可能性は「ゼロ」ではないのでご注意を)。けれど何を読んでも(わたしが探した範囲以内だが)HPVウイルスは「性器にしか存在しない」とは書いてない。むしろ「どこにでもいる」と書いてある。

ってことは、レズビアンでも性行為をすればかかる可能性があるってことだよね?

ただ「レズビアンの性行為」というのは、おそらく一般のヘテロ男女の性行為に比べると考えられないくらい種類が多いと思われるので、多分その中にも「ハイリスクな行為」と「ローリスクな行為」があるはず。ただいかんせん、どこにHPVウイルスがいるのか分からないので、何が「ローリスクな行為」なのかはよく分からない。。ただ言えるのは性器を使わない性行為をすれば子宮頸がんになるリスクはゼロだよね、、(これは男女のセックスにも言えると思うが)

ちなみにこの「性行為」という言葉について、最初にも書いたけど医学上の「(男女の)性行為」ってどういう定義なんだろう?って思う。それこそ「ペニスとヴァギナの結合」しかないのだろうか。だって男女の性行為だってそれ以外いろいろあると思うんだよね。それとも8割9割は「ペニスとヴァギナの結合」しかないんだろうか。そこら辺は誰にも聞いたことがないんでよく分からないけど。

個人的には「性的に気持ちがいいこと」ならなんでも性行為になりうると思ってるんだけど(だから性器を使わない性行為も有りだと思う)、それはただわたしがそう思ってるだけであって、やっぱり医学上の「性行為」ってきちんと定義されてるんじゃないかと思うのよね。でも「医学的な性行為とはこれこれです」って聞いたことがないのはなんでだろうか?考えなくても当たり前だから?

そういうことを「子宮頸がんのワクチン接種と性交後の検診」を訴えていた人に聞いてみたかったな、と思う。その人は本当に真面目に「もう自分のような目に遭う女性を出したくない一心」からブログを書いていた。真面目に聞いたら真面目に答えてくれたんじゃないかと思うのだけれど。。子宮頸がんのこと、本当にすごくよく調べて書いてたから。

しかし一方で「女性特有」であるからか、有無を言わさぬ「女性ジェンダーへの強制」ってのもいろんな人のブログを読むと感じるんだよね。。だから「もしわたしがこの病気になったら」って思うとちょっとゾーッとするのも確かで。

まぁこの話は次にしようかな。ただこれを書くと「女性特有のガンにかかった人に対して攻撃してる」と思われてしまう可能性もあるので、どうしようかな。

まぁわたしがここで書きたかったのは、レズビアンにも行きやすい婦人科があったらいいな~ってこと。こそっとでもいいからレインボーフラッグを飾ってあるとかね。そうすればギリギリまで我慢しなくても気楽に行ける病院ってことで、病気の早期発見にも繋がるのではないだろうか。
19:14 | 性的少数者に関すること | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
09-06 Thu , 2012
心が女の子 -性の多様性について考える-
「心が女の子」っていう文章(?)をこないだどこかで見た。

女の子であるかどうかはともかくとして、これ見た途端、わたしは「あー、わたし違うなあ」って思ったのね。わたし、自分では「心が女」とは思えないなって。「じゃあ何よ」と言われると「分からない」としか言いようがない。それか「男でも女でもない」と言うか。

よく性同一性障害の説明なんかで「身体は○○だけど心は△△」っていうのがあるけど、あれってどうよって思うんだよね。そのような類の言葉で説明するなら、わたしの場合は「身体は女で、頭でも自分は女だと思ってるけど、心はよく分かんないか男でも女でもない」が一番感覚として近いんじゃないかなあと言う感じがする。

とすると今度は「頭と心の違いって何よ?」ということになる。ここがね、自分でもよく分からないというか難しいんだよね。突き詰めて考えれば心だって頭で考えた「何か」なんだから、自分の頭の中がどこかで分裂しているってことになる。でも自分の中では自分自身が矛盾してるとか混沌としてるという感じはなくて、ちゃんと分けられてるの。でもどこで分けられてるのかという実感がない。

そのようなことを少し前にtwitterでぶつぶつつぶやいてたんだけど、何人かの人に「分かるような気がします」って言われて「そういう感覚ってわたし一人じゃないんだなあ」と思った。

社会学的に言えば「頭と心」って「身体違和とジェンダー」なんだと思う。わたしには身体違和はないけどジェンダー違和はある、そういうことなんだと思う。

で、トランスジェンダーって身体違和がない、ジェンダー違和のみの人もいるそうだ。ってことは、わたしもトランスジェンダーに入ると思うんだけど、でもやっぱり自分では自分がトランスジェンダーとはあまり思えない。それはあまりにも「身体違和」が強調され過ぎちゃってるところがあるからだと思う。前にも同じようなことを書いたけれど、トランスジェンダーって言うのはアメリカのヴァージニア・プリンスって人が作った言葉で、その人は身体違和はなくジェンダー違和のみがある人だった。だから元々トランスジェンダーってのは身体違和ではなくジェンダー違和を感じる人のことだったんだけど、それが知らない間に身体違和がくっついて、今ではジェンダー違和より身体違和の方をまずありき、みたいになってしまっている(これは日本ではトランスジェンダーより性同一性障害の方が有名でよく取りあげられるからだろう)。わたしがこれまで読んだトランスジェンダーや性同一性障害についての本もトランスジェンダーについての歴史的経緯の話はされてても「(現在でも)身体違和のない、ジェンダー違和のみある人でもトランスジェンダーという」ということは一切書かれていなかった。もちろん、わたしはすべてのトランスジェンダーや性同一性障害に関する本を読んだわけではないので、その可能性は否定しないが、でも一般的に今読める本の中にはそう書いてある本に出会うことは非常に難しいんじゃないだろうか。

まぁそんなわけで、自分のことはあまりトランスジェンダーだとは思えないのだが、もし仮に自分がトランスジェンダーだったとしたら、では「レズビアン」ってカテゴリーはどうなるんだろう?って考えた。トランスジェンダーと同性愛は普通、トランスジェンダーの方は性自認で、同性愛は性的指向が関係するから、この両方は別の概念になる。だから、トランスジェンダーの人は異性愛者もいるし同性愛者もいるって説明をするわけだけれど(逆に言えば同性愛者の中にもトランスジェンダーの人はいる)、わたしの場合はジェンダー違和があっても、それは「男でも女でもない」「自分はどちらに入りたいのかよく分からない」っていう、いわゆる「Xジェンダー」に属するんだよね。無理矢理言えば「FtX」(Female to X)になるのだが、やっぱりこれってピンと来ない。だってわたしは身体違和がないからそういう面では「女」で揺るぎがないのに、Xって言われると「うーむ」となる。だから
むしろ「FtX(ジェンダー違和)」と書いた方が正確なんじゃないかと思う。

そしてXジェンダーだと性的指向がうまく表わせない。だって性的指向っていうのは「自分の性別」に対して(恋愛対象となる)「相手の性別」だからさ。自分の性別が「X」だと言い表わしようがないのよ。しかもわたしの場合は身体違和はないので、自分と同性である人が好きとも言える。だから「レズビアン」ではあるわけだ。だから無理して言えば「FtX(ジェンダー違和)レズビアン」ってことになるのかなあ?だけどこれってやっぱり変だよねって思えてしまう。

でね、これを考える際に「わたしは相手の性別を好きになるのか、それともジェンダーを好きになるのか」って思ったんだよね。だってトランスジェンダーが「身体違和」と「ジェンダー違和」の両方を含むのであれば、性的指向だって「性別かジェンダーか」と分けてもいいわけでしょ。

そうすると、わたしは考えてみると「女の身体を持った人が好きなんだ」ってことになるのね。残念ながら「心は女の人」でも身体が男の人だとわたしはおそらくその人は好きになれないと思う。ホント、悪いんだけどね。そればっかりは仕方がない。でもそれってわたしは「パンセクシャルじゃない」ってことなんだよね。パンセクシャルってのは日本語で「全性愛」と訳されて「男女の性別二元論に囚われずに人を好きになる人」のこと。バイセクシャル(両性愛)とはまた違うのね。バイセクシャルの人は男か女を好きになる人のことだからさ。その間っていうのはないのよ。だからバイセクシャルの人もわたしと同じく「男の体を持った人」か「女の身体を持った人」が好きになるわけ。「男の体だけどジェンダーは女」とかそういう人は対象にはならない。パンセクシャルって人の身体にはあまりこだわりがなくて、もしかしたらジェンダーで好きになるって人のことと言えるかも知れない。

ってことは、わたしは「FtX(ジェンダー違和)レズビアン(身体)」ってことになる。とするとこれまでに出てきたものを組み合わせると、

Maleヘテロ(身体(に惹かれる)):ヘテロセクシャル(異性愛者)
Maleヘテロ(ジェンダー(に惹かれる))
FtM(身体(違和))ヘテロ(身体):ヘテロセクシャル
FtM(身体)ヘテロ(ジェンダー)
FtM(ジェンダー(違和))ヘテロ(身体)
FtM(ジェンダー)ヘテロ(ジェンダー)
FtX(ジェンダー)ヘテロ(身体):ヘテロセクシャル
FtX(ジェンダー)ヘテロ(ジェンダー)

Femaleヘテロ(身体):ヘテロセクシャル
Femaleへテロ(ジェンダー)
MtF(身体(違和))ヘテロ(身体):ヘテロセクシャル
MtF(身体)ヘテロ(ジェンダー)
MtF(ジェンダー(違和))ヘテロ(身体)
MtF(ジェンダー)ヘテロ(ジェンダー)
MtX(ジェンダー)ヘテロ(身体):ヘテロセクシャル
MtX(ジェンダー)ヘテロ(ジェンダー)

Maleゲイ(身体):ゲイ
Maleゲイ(ジェンダー)
FtM(身体)ゲイ(身体):FtMゲイ
FtM(身体)ゲイ(ジェンダー)
FtM(ジェンダー)ゲイ(身体)
FtM(ジェンダー)ゲイ(ジェンダー)
MtX(ジェンダー)ゲイ(身体):ゲイ
MtX(ジェンダー)ゲイ(ジェンダー)

Femaleレズビアン(身体):レズビアン
Femailレズビアン(ジェンダー)
MtF(身体)レズビアン(身体):MtFレズビアン
MtF(身体)レズビアン(ジェンダー)
MtF(ジェンダー)レズビアン(身体)
MtF(ジェンダー)レズビアン(ジェンダー)
FtX(ジェンダー)レズビアン(身体):レズビアン
FtX(ジェンダー)レズビアン(ジェンダー)

Male(身体)バイ(身体):バイセクシャル
Male(身体)バイ(ジェンダー):パンセクシャル
MtF(身体)バイ(身体):バイセクシャル
MtF(身体)バイ(ジェンダー):パンセクシャル
MtF(ジェンダー)バイ(身体):バイセクシャル
MtF(ジェンダー)バイ(ジェンダー):パンセクシャル
MtX(ジェンダー)バイ(身体)
MtX(ジェンダー)バイ(ジェンダー)

Female(身体)バイ(身体):バイセクシャル
Female(身体)バイ(ジェンダー):パンセクシャル
FtM(身体)バイ(身体):バイセクシャル
FtM(身体)バイ(ジェンダー):パンセクシャル
FtM(ジェンダー)バイ(身体):バイセクシャル
FtM(ジェンダー)バイ(ジェンダー):パンセクシャル
FtX(ジェンダー)バイ(身体)
FtX(ジェンダー)バイ(ジェンダー)

になる。「:」以降は今一般に、どんな呼び名で呼ばれてるかということで、これを見ると名が付けられてるのは全体的に半分くらい?ただ、バイセクシャルの場合、パンセクシャルもこれに当たるので、バイセクシャル、パンセクシャルの場合は割と名付けられてるって感じかな。

ただ実際に

FtM(ジェンダー(違和))ヘテロ(身体)
FtM(ジェンダー)ヘテロ(ジェンダー)

このような場合(頭では自分は女だと思っていて、でもジェンダーは男性だと思っている人)が有り得ても、性自認はでは身体の方を取るのか、ジェンダーの方を取るのか分からないので、その人の性自認はどうなるのか本人にしか分からないという場合もある。

MtF(ジェンダー(違和))ヘテロ(身体)
MtF(ジェンダー)ヘテロ(ジェンダー)
FtM(ジェンダー)ゲイ(身体)
FtM(ジェンダー)ゲイ(ジェンダー)
MtF(ジェンダー)レズビアン(身体)
MtF(ジェンダー)レズビアン(ジェンダー)

以上の場合も同じだ。

そして例えば

MtX(身体)ヘテロ(身体)
MtX(身体)ヘテロ(ジェンダー)

のような場合は有り得ないということで除外した。「自分はどういう人が好きになるか」は分かっても、性自認は他人と自分の対象的な関係ということになるので、自分が(身体的に)Xジェンダーだと相手のことをどうみていいのか分からないんだよね。

ってことで一口に「性の多様性」とか言ってるけど、実際に考えてみるとちょっとしたことを付け加えるだけでこんなにたくさんの種類になるのだ。もちろん、概念は「身体違和」「ジェンダー違和」「身体を好きになるか」「ジェンダーを好きになるか」だけじゃないだろうから、そういうことを考えると本当に性は多様性だなって思うのだ。

なんて、自分のことを考えていたつもりが、最終的には「性の多様性」に行き着いてしまった。
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06-07 Thu , 2012
レズビアンになったきっかけ?(その5)
その4の続き。

高校受験は第一志望が都立だった。だけどこれだけじゃ不安なので私立も滑り止めに受けることにしたのだが、あの当時、私立は男女共学が少なくて(今はもっと多くなったって聞いたけど)、選ぶのに苦労した。女子校はどうしても行く気がしなかった。

結局は第一志望の都立に合格するのだが、その学校は制服がなかった。「好きな洋服で行ける」っていうのは、洋服をあれこれ着たい人にはメリットかも知れないが、わたしのように着る服にあんまり興味がない人間にとってはちょっと苦痛だった。最初の頃は母親にあれこれ服を買ってもらって、頻繁に着るものを変えたりしてたんだけど、そのうち「いつも同じ服でいいや」と思って、ほとんど同じような格好、下は通年ジーンズで上は冬はシャツの上にセーターかトレーナーを着て、その上に上着、夏はTシャツ1枚って感じになった。その格好は今も基本的に変わってない。

高校に入ってしばらくしてから今度は数学の女の先生が好きになった。その先生は授業が進むのが早くて、教え方もすごくパキパキしててカッコよかった。わたしは中学の頃からあまり数学は好きではなかったが、その先生のおかげでご多分に漏れず、数学ばかり勉強するようになった。とにかく先生に気に入られたくて、テスト前はずっと数学の問題集を解いていて、分からなかったら先生に聞きに行ったりした。その先生のおかげというかなんというか、数学が分かるようになったので、その後わたしは理系の分野に進むことになるんだけど、先生の影響力ってすごいと思う(笑)

うちの高校は今はどうだか分からないが、その当時はクラブには複数所属してはならないけど、クラブと同好会なら掛け持ちをしていいという決まりだったので、わたしはクラブと同好会に入った。なんせその同好会の顧問が好きだった数学の先生だったんでね(笑)しかもその先生は1年の時のクラスの副担任でもあった。高校生活が始まってからちょっとしてから「クラスの人と馴染むために」ってんで遠足があったんだけど、副担任だったからその遠足ではわたしと一緒のバスだった。わたしがその先生を好きになったのは、もっと後のはずなんだけど、そのバスの中で先生が「22才の別れ」を歌ったことが今でも忘れられないってことは、まだ「好き」という感じではなかったものの、気になってはいたのかな。

だいたいその先生を好きになった理由は「高校になったらグラフはグラフ用紙なんかを使わずに切片や頂点の位置を計算して適当に線を引きます」の「適当に」ってところが気に入ったんだから(爆)このブログのタイトルにも「テキトー」という言葉が入ってるけど、わたしはこの「適当」って言葉が大好きでね。「中学ではグラフ書くのめんどくさかったけど、高校では適当に書いていいんだ!」と思ってミョーに嬉しかったんだよね。それがこの先生を好きになったきっかけ。なんか変だけど。

高校は共学だったのに、わたしはなぜか同級生と下級生の女子からもててね。バレンタインデーに学校に行くと、わたしの机の上にチョコレートがどっさり、という感じだった。特に同じクラブの後輩からは直に屋上に呼び出されて「誰にも言わないで下さい」と言ってチョコレートをもらったりした。んだけど、前も書いたように、わたしはそういうのイヤでねー。同好会で一緒の男子(これがまた絶対にチョコレートをもらえないほど変なヤツらだったが(笑))にわざとチョコレートでいっぱいになったかばんの中身を見せつけて「いいだろー」なんて言ってたけど、家に持って帰ったら家族の人に「わたしは食べないから食べて」と言って、もらったチョコレートは全部家族に食べさせた(なんてヤツ!)。高3のバレンタインデーは大学入試があるから学校に行かなくていい時期だったので、ホッとしたのを覚えている。

特にクラブの後輩からはすごく気に入られたのか、しょっちゅう手紙もらったりして。で、実はその後輩の友達(その人も同じクラブだったからわたしの後輩)がわたしと同学年の女の人(同じクラブだったからわたしと同輩)のことが好きだったみたいで、部室にいると2人が必ずいるんだよねー。2人すごく仲よさそうで。「付きあってんのかな」って思ったりもしたんだけど。でも詳しくは聞かなかったな。それを聞いたらこっちに飛び火して来そうで。

で、このわたしと同学年の女の人なんだけどさー。3年間を通じて、わたしとはずっと「隣の組」だった。隣の組って、体育だったり家庭科だったりが実は一緒なのよね。その人は見た目からするとあんまり「女の人」って感じじゃなくて、だから「女の人」って表現するのが自分の中ではちょっと変なように思えちゃうんだけど、その人が謎でさー。3年間体育で一緒だったけど、一度も水着姿を見たことがないの。何やら病気だという話だったんだけど、でもその他の体育の授業は普通に出てて。それから家庭科で自分のスカートを縫ったんだけど、最後に自分の作ったスカートを着てファッションショーをやったのね。でもその人は「自分のお母さんのスカートを縫った」ってことで、自分の作ったスカートは穿かなかったの。自分の「性」を意識するところでことごとくそれを拒否してて。あれはちょっと不思議だったけどね。でも嫌なものだったら「嫌」ということで、いろいろ理由を付けて拒否する、ということは、例えばトランスジェンダーの人で「コレをするのは嫌だ」って思ってる人も「周りからどう言う目で見られるか」を考えずにいろいろ知恵を絞って「やらない/できません」とは言えないかなぁ、この人みたいにって思ったりもするんだよね。ちなみにその人のその後はどうなったかは知りません。同じクラブだったけど、そんなに話したことはなかったしね。

同好会で一緒の男子とは結構仲がよかった。といっても、なんか変なヤツばっかりでね。でも今思うとその中の一人は結構自分では好きだったんだと思う。でも好きと言っても二人だけで過ごしたいとかそんなことは思わなくて、このままこのメンバーでずっと仲良くできればいいなと思っていた。

で、そのわたしが好きだと思った男子もわたしのことが好きだったらしい(あとでヤツの友達から聞いた)。あるときなんかお芝居みたいなのを観に行かない?って誘われたんだよね。でもわたしは親に「行っていい?」って聞いたら親は「遅くなるからダメ」って言ったので、素直に「親にダメって言われた」と言って断わったのだけれど。あのとき一緒に行ってたらどうなってたかなあと今でも思うことはある。同好会の別の男子とは高校卒業して大学入って大学院生になってからも結構付き合い合ったんだけど(もちろん大学も大学院も別の学校)、それは完全友達としてで、それらしい話になったことは1度もなかったな。

高校の時というと、ぼちぼち誰と誰が付き合ってるとかいう具体的な話があるらしいんだけど、わたしの聞こえる範囲では全くそういう話はなく。また「誰が好き?」と聞かれたこともなく。でもわたしは小学校のときも中学校のときも同じだったからそれを不思議と思うことなく今思うと全く鈍感に過ごしてた。

そういや同好会の男子はロリコンなヤツもいて「なかよし」だとか買っては「○○ちゃーん」って言ってた。それを見たからではないけど、当時は「別にかわいい、というものには男も女もないよね。女がかわいい女の子を好きになっても別に構わないよね」って思ってたなあ。「かわいいというのは普遍的だ」とかね。なんかそんなことをミョーに考えてたりした。

高校に入ってから割とすぐに無線の免許取ってね。でもうちはマンションだったからアンテナが建てられるわけでもなし、高校生だからお金もないし。そこで物理部が無線やってるからってんで、ホントは別のクラブだったわけだけど物理部にも知り合いいっぱいいたし、隠れて使わせてもらったりした(笑)当時は「CQ Ham and Radio」や「初歩のラジオ」なんかの雑誌を毎月買って読んでいた。

高校時代の趣味は、やっぱり変わらぬアニメと(ただだいぶ下火にはなっていたが)、無線、それからラジオを聴くこと、だったかなあ。無線機をちょこっと改造すると警察無線が聞けたりしたもので(当時はね。今はデジタルになって聞けなくなった)よく家で聞いてたりしたな(笑)それから「○石ラジオ」なんかは小学生の頃からよく作ってて、秋葉にキット買いに行ったりしてた。半田ごては2本持ってるし(W数が違うもの)、テスターも持ってたし、このときは「大学に行ったら電気系統のことを学びたい」って思ってたんだよね。ただ、高3のときいろんなことがあって理系は理系だけど、別の方向に進むことになっちゃったんだけどね。

あ、そうそう。高3のとき、数学の好きだった先生は1年の担任になってしまい、もう数学を教わることもなく、ずっと会えないままだったのだが、文化祭のときかなー、偶然見かけてね。そしたらお腹が大きくなってて、それがやたらとショックで話しかけられなかったのを覚えている。なんでショックなのかはそのときは全然分からなかったけど、あんまりお腹の大きい姿は見たくないって思ったんだよね。まーその先生は結婚してることは1年の頃からもちろん知っていたのだけれどね。

大学は男女共学どころか、うちの学科は、女子1割、男子9割、という感じだった。女子の割合が高かったところでも4割くらい?別にそういう環境に狙って入ったわけではないけど、まぁ理系だとこんな感じになるのかな。これ以降、わたしの周りは男性ばかりになって、女性はどんどん少なくなっていくんだよね。まぁあんまり気にならなかったというか、自分にとってはそういう環境の方が過ごしやすいと思ってた。実際過ごしやすかったし。

男子が圧倒的に多いところでは男女別に分けることもできないから、中学や高校と違って体育の実技も同じだったし、その他の実習なんかも全部分け隔てなかったんだよね。それに女子がうちの大学で目立つようになってからまだ少ししか経ってなかったから、大抵のトイレは男子トイレの一角を急造で仕切られたような「女子トイレ」だったし、本当に男女別に分かれてるトイレと言ったら、新しい建物になった大学生協のトイレくらいしかなかった。ただその分、なぜか女子だけは各自ロッカーが与えられてて、それは便利だった。まぁ更衣室も兼ねてたからかな?

うちの学校は1年の夏休みの間に「臨海実習」という必修科目がある。事前に大学のプールで100m何秒で泳げるかによってAからF班に分けられて、1週間、大学の実習所の前の海でひたすら泳がされる、という実習だった。これもタイム別だから男女関係なく、わたしはB班だったけど、全然泳げないのでF班って男子もいた。でも最初は全く泳げない人でも1週間経つと曲がりなりに1kmは泳げるようになっている、というかなりスパルタな実習だった。おぼれてもおぼれても浮き輪を投げられてちょっと休んだら「ほら、また泳げ」みたいな感じで絶対に船の上では休ませてくれない(足が攣ったら別)。女子なんて途中で生理になっても「タンポンして泳げ」って言われるほどで。。まぁ「必修科目」だから泳がずに見学ってわけにもいかないんだろうけど。

こんな風に「女子が少ない」=「女子は特別扱い」なんて環境じゃこれぽっちもなく、むしろ今までやってた男子だけの伝統をそのまま女子もやれって感じだった。それはむしろわたしにとっては歓迎すべきことだったし、その中ではわたしはあんまり「女」ってことを意識することはなかった。他の人はどうかは知らんが。

2年の時には「漁業実習」ってのがあるんだけど、これは「臨海実習」に比べると楽でね。楽しかった。確かこの実習では名簿順に班に分かれたと思うのだけれど、この実習が終わった後に「一緒に帰らない?」ってわたしを誘った男子がいたんだけど、わたしは既に別の人と一緒に帰ることにしてたので、何も考えずに「ゴメン、もう一緒に帰る人は決まってるから」って答えて断わった。この男子とはその後もいろいろ話したりしたんだけど、あるとき、わたしの友達(男)でその人とはクラブも同じだったので「一緒に帰らない?」って誘ってくれた男子よりも仲がよかったんだけど、そいつから「ヤツはお前のことが好きなんだってよ」って言われた。「ふーん」とは言ったものの、それを聞いてもわたしはじゃあ、どんな行動すればいいんかよ、と思って放っておいたんだけどね。

高校の時もそうだったんだけど、本人は何も言わず、本人の友達からわたしに向かって「アイツお前のことが好きなんだってよ」って言われるんだよね。あれはわたしに何をして欲しいのか全然分からないんだけどね。だいたい今までのこと読んでもらえば分かるように、わたしは恋愛に疎い。疎いのに主導権なんか取れるか!っていうか、元々個人的には付き合いたいとも思ってなかったので、そういうチャンスは何回かあったんだけど、結局男性とは付き合わずじまいだったんだよねー。

大学生になってからはさすがに誰と誰とが付き合ってる、っていうのが目の前に現われて「あ、ホントに付き合う人っているんだー」って思った(笑)わたしに恋愛相談を持ちかけてくる人もいたけど(女子で)、わたしは人と付き合ったことないから、ほとんど自分の感想みたいなのしか言ってなかったように思う(笑)

大学のときに好きになった先生はいなかったな。基本的に女の先生はほとんどいなかったしね。だからそれ以降は「なんか気に掛かる人」ってのは皆無だった。

大学生の間に成人式があったんだけど、わたしは七五三のときに既に着物を着たり化粧をしたりすることに反発を覚えていたので、親にはいつからかは覚えてないけど「成人式は振り袖なんか着ない」ってずっと言ってたし、親の方も「一時の着付けでお金を払うのなら、その分、残るものを」というので、皮のフードの付いたコートを買ってもらった記憶がある。そしてそれを着て成人式に行った。成人式はなんだか中学の同窓会みたいな感じだったな。

大学院は事情により別の大学に机があったので、ついに女が一人になってしまった。けど、あんまり気にならず、今まで通りだったけどね。やることやってれば、別に男女関係ないし、逆に研究機材を船に積み込むときなんかは結構周囲が配慮してくれた覚えがある。わたしはそういうことは嬉しい反面、やっぱ力関係においては、女はどうしても男に負けるなあって思った。

そして大学院生のときに、ふと「そういえば、わたしって好きな人がいないよな」って思い始めたわけで。別にそれで悩んだわけじゃないけど「なんでかな」と思って、それから前に書いたように過去を振り返ってみたら、あら、好きになった人いるじゃない、それも全部女の先生で、ってことに気が付いた(^^;そこから「あれ、もしかしてわたしって男より女の方が好きなの?」って思ったんだよねー。

そこから別冊宝島の「女を愛する女たちの物語」とか、「ゲイのおもちゃ箱」だとか「ゲイの学園天国」とか、当時、ちょうどゲイブームでそういう本が出てた時期だったので、そういうのを読みまくり。「なるほど。男とは一対一で付き合いたいとかキスしたいとか思わないけど、女だったら一対一で付き合いたいとかキスしたいとかセックスしたいとか思えるかも」って、そこで悟った。当時「微熱狼少女」って小説が出たりしたんだけど、その中に出てくる三島先生が好きだった。本当にこんな人現われないかなーとか(笑)

ただねー、女が好きって気が付いても、周りは男性ばかり。それから何年かして入った会社でもわたしが入って3人目の女(ただし自分の部署で)だった。

よく職場で女子が少ないと雑用はすべて女性に回ってくるって聞くけど、うちの場合はそういうのがなく、食器洗いは当番制だったし「女だからどうしろ」とも言われなかった。「結婚は?」とも言われたことがない。ただ一度だけ、あれは冗談だったのかどうかは知らないが上の人からいきなり「彼女できた?」って言われてびっくりしたことはある。その頃はまだ彼女がいない頃だったので、正直に「いません」って答えたんだけど、いるときに聞かれたらどう答えたかなあ?

そして長い間男ばかりのところにいたんで、女ばかりのところがすっかり苦手になってしまい、それは今でも同じだ(レズビアンのクセに(笑))。女ばかりのところに行ったら、自分で何話していいのかさっぱり分からなくなる。あと踊るの苦手だからいわゆるレズビアン向けのクラブイベントなどもとっても苦手。今まで1回だけそういうところに行ったことあるんだけど、踊れもせず、ずっと「壁の花」で誰も話しかけてくれはせず。。それにTシャツ、ジーンズというわたしの格好はとても「場違い」で、、もう二度とそういう場所は行くもんかと思ってる。世間一般はどう思ってるか分からないけど、レズビアンって結構みんなおしゃれなのよ。。わたしみたいなのは特殊なのよ。。

恋愛に関してなんだけど、今までの話を読めば分かるように、わたしはかなり「自分から人を好きになりにくい」性質らしい。だから最初に「Aセク寄り」って書いたんだけどさ。しかも恋愛するのはあんまり好きじゃないみたい。恋愛のドキドキ感がたまらないって人がいるらしいんだけど、わたしにとっては恐怖でしかない。そこのところを知っていてうまくやってくれたのが、今のわたしの彼女なんだけどね。ただそれでも付き合って3ヶ月目に「まだ今なら一人に戻れる」と思って彼女に「ちょっと考えさせてくれ」って言ったしね。だから彼女を失ったら多分、わたしは二度と恋愛はしない(できない)と思う。

まぁこんなわけで、基本、あんまりジェンダーには囚われない生活をしてたのは確かでね。わたし自身は普通にしてたらそうなったわけだけど、でも本などを読むとあまりに自分と違うから、それはとても驚くし(だからわたしには「ジェンダー受容体」がないのだろう)、あとは「女らしく生きるのが当たり前」と思ってる女の人の気持ちが全く分からない。それと、今までこう書いてきたからといって「自分は女と掛け離れてるんだ、すごいだろ、へへん」とも思ってない。どう考えてもわたしは女だし、それを超えようとか特別な存在でありたい、なんてことは全く考えたこともない。ただ、ジェンダーで考えると、女でも男でもありたくないかな。「女だから(世間一般の)女らしくしろ」と強要されるのもイヤだし、だからといって「男になりたい」ってことも全くないし。自分がやってるこのままが「女としての自分」で、それを世間一般と照らし合わされて「女らしくない」と評価されるのは心外だ。

注意をもう一回書いておくと、これはただわたしの場合、というだけであって、これがレズビアンの代表的な育ち方や考え方と思われるととても困るので誤解の無きよう。わたしのような、レズビアンであっても女性の中に入るのがすごく苦手、って人は、確かに存在するかも知れないけど、少ないんじゃないかな?レズビアン向けの雑誌などを読むとなんかキラキラしてて、全然わたしとは別世界って感じだし。。「この世界に入って行けない」って思うしね。でも本当はそういう中でレズビアンとして違和感なく過ごしたい願望もあるんだけど、レズビアンの中に入ると「何話していいのかさっぱり分からなく」なるので、すごく憧れはあるんだけどもう諦めてる。。(誰かわたしを誘って(笑))それとレズビアンであっても、わたしはAセク寄りなので、恋愛感情はほとんどないに等しいし、恋愛するのも怖い。働いているときは「このままずっと一生一人で生きていくんだ」って思ってた。今の彼女に出会わなかったら、多分そうなってたはずだ。

だからこれはレズビアン一般のお話ではなく、あくまで「わたし」に関しての話なのだ。
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06-06 Wed , 2012
レズビアンになったきっかけ?(その4)
その3の続き。自分では引き延ばしてるつもりはなかったんだけど、これだけ引き延ばしてたら「一体どんなにすごい話が待ってるんだろうか」って思われちゃうよね。だから、もう書くこと書いて、ちゃっちゃと終わらせよう(笑)

わたし、幼い頃から本を読むのが大好きで、周りの同い年くらいの子どもと一緒に遊ぶということがあんまりなかった。あと人見知りも激しかった。そのためか親はわたしを3年保育の幼稚園に入れたのだが、3年間、同じ幼稚園だったら親しい友達ができたかも知れないのに、寄りによって3年間で3回、幼稚園を変わらなくちゃいけなくて(親が1年ごとに住む場所変えた)、人に慣れるどころか、幼稚園というところに馴染めず、家から近い幼稚園だったときには、なんと園長先生が家まで迎えに来てくれるという「登園拒否児」だった。

まー、もともと幼稚園は大嫌いだったんだよね。なんというか、これを言われると「は?」って言われるんだけど、子ども扱いされるのが大っ嫌いだった。描きたくもない絵を描かされたり、踊りたくもない踊りを踊らされたり。。寝たくないのに昼寝させられたり。そういうのが全部嫌だった。

特にいつの幼稚園の頃か忘れたけど、発表会で踊りを踊らされることになり、それが男女に分けられてて、女の子って女っぽい仕草で踊らされるのが本当に苦痛で、しかも発表会のときはすごく女らしい格好をさせられるから、嫌で嫌で仕方がなかった。まぁ基本、わたしは踊るのが苦手で、踊りで許せるのは盆踊りとフォークダンスくらいなものか。

家に帰って一人で本を読むのが好きだったんで、だいたい幼稚園終わってからは部屋に一人で閉じこもってたんだけど、親にしてみればそれが気にくわなかったらしく、友達と遊べってうるさかった。まぁそれなりに友達はいたのだけれどね。3つ目の幼稚園のときに住んでたところは、その後ずっと大学院まで住んでたので、3つ目の幼稚園で友達になった人とはその後も結構長い間一緒に遊んだ(それこそ高校くらいまでね)。

本を読むほか、仮面ライダーなどの特撮も好きだった。確か5歳くらいの誕生日には当時流行ってた「ライダーベルト」をもらって、高いところから「変身、トゥ!」なんて飛び降りていた記憶がある。あと自転車も仮面ライダーが付いていたような。一方、人形遊びは時折やったが遊び方が少しおかしかった、というか、うちには叔母から譲ってもらったリカちゃん人形だのバービー人形などがホントたくさんあったのだが、わたしはその人形の首を全部もいだり、服を全部脱がせて手足をあられもない格好に曲げて楽しんだり、人間ができないような格好(膝の関節を反対方向に曲げたりとか)をさせて遊んでいた。傍目から見ると、ほとんど虐待としかいいようがない遊び方だったと思う。人形に対してはこんなもんだったが、ぬいぐるみとなると別で、いつだったか、モンチッチのぬいぐるみをもらったことがあって、それはホント、猫かわいがりしてどこでも連れて行った。どこでも持って歩くもんだから、ついに布が薄くなって、そこから詰め物が出て来ちゃったりなんかしたのを、母親に何度も繕ってもらったりして。そのくらい、気に入ったぬいぐるみに対しては愛着がすごかった。

あと「ごっこ遊び」は全くしなかった。「他の人になる」ということが、わたしは怖いというか大嫌いで、そういう意味で演劇も大嫌いなのだが、もうすごく小さい頃から「自分は自分である」「自分以外のものはいやだ」という思いは持っていたように思う。

小学校に上がるとき、密かに「赤いランドセルは嫌だなあ」と思っていた。赤より黒の方がかっこよさげだったから。そしたらたまたま、親に小学校受験させられて、それが運良く合格し、わたしは私立の小学校に通うことになった。私立の小学校って黒いランドセルなんだよね(笑)そのときは嬉しかったなあ。あと、制服で学校に通うことになるのだが、制服は大好きだった。もちろんスカートで、わたしは普段はスカートはほとんど穿かなかったのだが、制服は別だった。なんか「ちゃんとしてる(と自分が思った)」ものについては、わたしは抵抗感がなかった。トランスジェンダーの人でランドセルが自分のと違う色がいいって思う人もいるようだ。そこら辺は似てる。けど、わたしは制服は嫌だと思ったことがないので、そこら辺は似てない。

あ、あと。この頃の時期には七五三があった。親はそれを楽しみにしていたようで、着物着せられて、化粧されて、写真館で記念撮影をした覚えがあるのだが、これがすごく嫌だった記憶がある(でも無理矢理親に笑えと言われて笑っている写真が残っている。悲しい、、)。このときの経験が「成人式には絶対に振り袖は着ない」とわたしに決断させた。

それからこれはもっと前の幼稚園頃の記憶だが、なぜかわたしはこの頃から親に対して「自分は結婚しない」と言っていたような気がする。よく小さい子どもに「将来の夢は?」と聞いて、女の子だったら「お嫁さん」とか「お母さん」と答えさせられるが、わたしはなぜか大きくなってから誰かと一緒に暮らしたり、自分に子どもがいる、という想像がまったくできなかった。だからそのときから「一生結婚しない」って言ったんだろうと思う。わたしは今まで親に「結婚しなさい」と言われたことはないが、5歳くらいから「自分は一生結婚しない」って言い続けてるんだもんな、と思ったりしている。

小学校に上がってからは、学校が楽しくて楽しくて仕方が無くなった。ただ、わたしは女子と遊ぶより男子と遊んでいた方が多かった。低学年の頃はあんまり気にならなかったが、大きくなるに連れ、女子はグループを作りたがる。そういうのに入るのが大っ嫌いでね。いつも男子と遊んでいた。男子のうち、1年から6年までずっと一緒のヤツがいたんだけど、そいつが動きがちょっととろかったりしたものだから、ご多分にも漏れず「おかま」だとか言われてたんだけど、わたしは6年間通じてそいつと一番仲がよかった。あまりに仲がよいので、他の男子から「お前ら夫婦か」と言われたこともあったんだけど、当人たちは言われても全然気にならなかったので、卒業までずーっとそのまま仲がよかった(おそらくそいつも「ジェンダー受容体」が欠如していたに違いない(笑))。

トランスジェンダーの人は幼い頃、生物学的な性と反対の性の人と遊ぶのが好きだったり、ゲイやレズビアンの人でも異性と遊ぶ方が好きだったりする人が割と多いと感じてるんだけど(本を読むとだいたいそんな印象)、でもあるとき周囲からあれこれ言われてそれでお互い意識して遊べなくなっちゃった、なんてことが多い。それがわたしからすると「なんで?遊びたかったら遊べばいいのに。なんでそうなっちゃうの?」っていつも思うんだけど、「ジェンダー受容体」がある人にとって、周囲からあれこれ言われるとそのことに囚われちゃうんだろうね、多分。でもそう言われても全然気にしなければ、何も言われなくなるんだけどね。

ただ、わたしが仲がよかった男子はそいつだけじゃなく、他の人ともそうで、例えば小学校2年のときに別の男子が「のらくろ」という漫画を持ってたんで借りて読んだり、その男子の家に行ってプラモデルの戦車などで遊んだ記憶があるし、その頃からわたしもプラモデルを作り始めた。最初はもちろん戦車。ただ、戦車のプラモデルは翌朝目覚めたらほとんど父親が作っちゃってて、がっかりしたなー。中学はアニメにはまったので、これまたちょうど流行っていた「ガンプラ(ガンダムのプラモデル)」をたくさん作ってた。この頃にはただパーツを外してボンドを塗って形を作るだけじゃなく、その後、すき間にパテを塗ったり、それを耐水ペーパーで磨いたり、着色したり、結構本格的になった。ガンプラに飽きた後は車のプラモデルになって、それから高校の時はバイクのプラモデルになった。

あと、放課後、男子はだいたいグラウンドで「カラバット」(プラスチック製のバットとゴムボールを使った野球)をやってたんだけど、わたしも女子一人にかかわらず、中に入ってやってた。随分大人になってから、同じクラスだった女子に「あのとき一緒に野球をやりたかったんだ」って言われたけど、だったらなんで入ってこなかったのか、と思う。わたしは女子一人でも別になんとも思わないで野球やってたし、その他の男子も別にわたしを入れることはなんとも思わず(と思ってたのはわたしだけか?)普通にやってたから。やはり「ジェンダー受容体」がある人は、周りの目が気になって異性の中では遊びにくいのか?

そういえばうちの学校は4年以降になるとクラブ活動みたいなものがあるんだけど(ただし課外活動ではなく授業中だったような)、わたしは迷わず「野球団」に入った。そこでもわたしは女子一人だった。けど、全然気にならなかった。野球、やりたかったんだよね。「カラバット」はグローブなしでできる野球だったけど、野球団の野球はグローブを使った野球だったし。

グローブと言えば、小学校2年くらいのときに親から買ってもらった記憶がある。そして休みになると父親としょっちゅうキャッチボールをしていた。わたしが小学校1年のときに、カープが初優勝し、それ以来、わたしはカープファンでね。父親が会社の関係で野球のチケットをもらってきて、後楽園(当時(笑))にカープ戦を何回か観に行った。野球熱は大学院生の頃から盛り上がり、社会人になってからは野球観戦(社会人野球の)が趣味になった。

男女問わず遊んでたので、担任は面談時に親に「○○さん(わたし)がいるおかげでクラスの男女の仲がいいです」と言われ、それがとても嬉しそうだった。けど、わたしにとってみれば、別に男女の仲をよくしようと思って遊んでたわけじゃなく。ただ遊びたい人と遊んでただけで。

だいたいどの本を読んでても小学校高学年くらいになるとクラスの中で「誰が好き」という話になるらしいのだが、わたしはそういう話は一切しなかったし、聞かれた覚えもない。もちろん特別に好きな人、というのはいなかったので「誰が好き」と聞かれても「いない」としか答えようがなかったけど。でも「恋愛」という概念は知っていて「わたしもいつかは人のことが好きになるのかなあ」とは思っていた。

小学校のときはやけに積極的で、高学年になるとうちの学校はやたら団(クラスを4分割して、1団にする。1団は2班に分かれる)で行動させたんだけど、その団長にはよく立候補してた。けど、他の団員と一緒になって遊んじゃったりして、担任から怒られたこともしばしば。責任感はあんまりなかったな(笑)でもだからといってすごく目立つ生徒ってわけじゃなく、例えば学級会であれこれ意見を言える人はすごいって思ってた。わたしはひたすら退屈で「早く終わらないかな~」って思ってた。

劇もよくやる学校で、これはわたしにとっては非常に苦痛だったんだけど、なぜか主役級の役が回ってくることが多かった。中でも小学校5年かなんかに「セロ弾きのゴーシュ」のゴーシュ役をやらされたんだけど、この中で「俺も男だ、頑張って稽古するぞ」という台詞が嫌で嫌でたまらなかった。だって、わたしは女なのに。って、何かを演じることすら嫌だったのに、それに輪を掛けて男を演じさせられたのが嫌だったので、このことは非常に記憶に残っている。

小学校5、6年の担任はこの頃から成長期を迎える女子に配慮して、教室の一角を「女子更衣室」にしたんだけど、わたしはそれを使うのがなんだか嫌でね。女ばかりのところが恥ずかしいというか、窮屈だというか。とにかく使うのが嫌だった。だから結局1回も女子更衣室では着替えなくて、女子更衣室の横の教室の後ろの机のところで着替えてた。この女子更衣室は他の組にはなくて、他の組の女子がうちのクラスはいいなあって言ってたけど、わたしはどこがいいのかさっぱり分からなかった。

確かに周囲の女の子はどんどん成長期を迎えてて、どんどん身長が伸びていくんだよね。わたしは元々背は高い方で、後ろから3番目とかそんな感じだったのに、知らないうちにどんどん追い抜かれていった。中学に入ったら前から8番目になってて、それがすごくショックだったなー。

中学からは父親が大阪に転勤したので、大阪の公立の学校へ。実は私立の小学校は、エスカレーター式で高校まであるんだけど、中学から女子校になっちゃうんだよね。で、わたしは女子校に通うのは嫌だって思ってたので、これまたちょうどよかったのよね。決してその学校が嫌いだというわけじゃなく、ただ女子校は通いたくなかったの。なんでか知らないけど、女子だけの空間にはいたくなかった、という感じ?女子だけってなんかすごくドロドロしてる感じがして怖かったし、女子の中だったらわたしは多分「ボーイッシュ」と見られて、女の子が寄ってくるのが怖かった(そうなる保障はどこにもないんだけどね。ただこの当時「女の子が寄ってきてヤだ」と思ってしまったのは、前にも書いたとおり「男の代わりをするのがヤだ」と思ってたから。まだ「女同士」って観念がなくて、相手が女だったら自分は男に見られてると思ってたから)。

トランスジェンダーの中でもMtFの人が男子校出身だったり、FtMの人が女子校出身だったりするけれど、ただMtFでも人によって、男子校でも(椿姫彩名さんみたいに)「自分のいやすい場所」にしてしまう人と(佐倉智美さんみたいに)「男子の中では絶対ダメ」と共学校の高校に入り直してしまった人がいるんだよね。わたしはどちらかというと後者のタイプかな。まぁ、結局一生「女子校」とは無縁だったので、いざ入ってみてどうなったかは不明だけれど。

というわけで、大阪の公立の中学に入学するわけだ。その中学が巨大な中学でね。12クラスあって、1クラスはだいたい45人くらいだったろうか。3学年揃うと全校生徒が体育館に入りきれないほどだった。

その中で前にも書いたけど、わたしは背が伸びなくて、前から8番目っていう、今までからすると信じられないくらい前になってしまって、結構ショックを受けた。だいたい中学入学した頃の身長が150センチだったかな。それがね、中1、中2で7センチずつ伸びて、中3になったら165くらいになり、背の順も定位置の後ろから2、3番目になってね。それはそれでホッとしたものだったけど、まさかそれからさらに背が伸びて、結局身長が170センチ超えることになるとは思ってなかったね。大学院の時も毎年健康診断があるんだけど、毎年2、3ミリ程度伸びてるんだよね。「あれ、誤差かな」と思うんだけど、その誤差が3年続くと1センチになるからね~。結局大学院生の頃になっても身長は伸び続けてました。

大阪の中学のときは、東京から来たというので、最初の頃はなんかいじめられたり、いろんなことがあった。クラブは美術部で、そこでアニメにはまった。クラブは女子が多かったものの、男子もいてね。クラブの顧問の先生はとても変な人だったんだけど、それでも結構楽しかった。いじめられてるときはほとんどクラブが楽しみで学校に行ってるようなものだった。まぁそのいじめも2学期の後半くらいに治まるんだけど。

1年のとき、社会科の女の先生が好きになった。その先生は話が好きで、自分が行った外国の話とか、授業中にいろんな話をしてくれた。その話がものすごく楽しくて、他の生徒も何かあったら「センセー、話して」ってねだってた。そうなるとわたしはその先生から好かれたくて、テスト勉強は社会に始まり社会に終わる、といった感じで、ほとんど社会の勉強しかしなかった(笑)それ以降、わたしは何人かの女の先生を好きになるんだけど、いつもこのパターン。男の先生を好きになるのはほとんどなかったな~。中2のときの歴史の先生くらいか。別に女の先生を好きになることについては、なんとも思わなかったな。好きって言っても「成績が良くて気に入られたい」くらいのことしか思ってなかったしね。

それからわたしの髪型についてなんだけど、小学校に入った頃が多分、人生で一番髪の毛が長かったんじゃないかな。おかっぱ、っていうの?肩に髪の毛が付くくらい長かった。それは自分がそうしたいからじゃなくて、親がそういう風にさせてたんだよね。わたしは髪の毛が長いのは嫌だった。だから、それからはだんだん髪の毛が短くなった。とはいうものの、わたしはいつも「なるべく短く」って言うんだけど、そういうと美容師さんは「刈り上げるんですか?」って聞くんだよね。そう言われるとなんか刈り上げるのって特別なことなのかなと思い、そこまでの勇気はなかったから、いつも「いや、刈り上げじゃなくて、でもギリギリまで短くしてください」って言わざるを得なかった。だけどいつもすっきりした感じはなくて、なんか中途半端な感じだった。刈り上げたのはもっと大人になってからで、最初に刈り上げてもらったとき「なんだ、この程度だったらなんでもっと早く刈り上げてもらわなかったんだろう」って思ったほどだった。

髪型に関しては、中学の頃になるとよく女子は髪型のことがヤケに気になって、櫛とか持って歩いたり、休み時間には女子トイレの鏡で髪型を整えてたりしたのを見たことがあったけど、わたしはそういうのには全く興味がなく、髪の毛は楽なのでできるだけ短くしたいって思ってた。髪型には全く興味がなかった。それは今でも同じで、新しい美容院に行ってあれこれこうしてくださいっていうのはすごい苦手。だからいつも行きつけの美容室があって「いつものようにしてください」というのがわたしの理想。だいたい、前髪が眉毛にかかるとか、耳は出すかとか、いろいろ聞かれても、めんどくさいだけなんだよね。そしてなるべく美容室には行きたくないので、行くと「もうじゃんじゃん切って短くしてください」と言い、それから髪の毛が長くなって洗ったり乾かしたりするのがめんどくさくなるまでは延ばし放題だ。

まぁ自分の容姿をどうこうすることについては、今も昔も全く興味がなくて、化粧したのは上に書いた七五三のときだけ?今まで化粧をしたいと思ったこともない。「化粧をするのはエチケット」とか言う人がいるけど、なんでそれは女性にだけ課せられなきゃならないんだと思うし、人間、中にドロドロした汚いものをいっぱい抱え込んでるクセに、顔だけきれいにしたってどうにもならんだろと思う。とにかく「きれい」に見せたくない。もちろん敢えて汚く見せようとも思ってないけど、自分を飾ることがものすごく嫌いだ。人に自分の「虚構」を見せるのが嫌なのだ。それは昔も今も一貫している。

あと中学の時というと、やっぱり女子はグループで行動する人が多かったんだけど、わたしはそういうのは全く好きじゃなくて、どこのグループにも属さなかった。別に一匹狼でいいじゃん、って思ってた。休み時間にみんなで連れ立ってトイレに行くのは「アホくさ」って思ってた。みんながみんな、同じ時間に尿意を感じるわけじゃあるまいしってね。だからわたしと友達はいつも「一対一」の関係だった。あ、でも中にはすごく自分と気の合う友達もいた。けど恋愛として「好き」って気持ちは持ったことがなかった。友達は友達だった。

ただ面白いことに、そういう態度だと結構不良グループ(っていうのかな。スカートの丈を長くしてた人たち;当時はスカート丈を長くしてるのは不良とかつっぱりって言われてた)の女子からも気軽に声を掛けられたりして、わたしとしてはそれが不思議だった。

中3でまた東京に戻ってくるのだが、近所の公立中学でね。1学年3クラスしかなくてびっくりした。中3のときは幼稚園で友達になった人たちと一緒になった。文化部が演劇部しかなく、そんでたまたま幼稚園で友達になった人たちはみんな演劇部だったんだよね。で、なぜかやっぱりアニメファンで。だから遊ぶのはその人たちってわけで、わたしの人生では珍しく男子と遊んだりってことはしなかったし、クラスの中で何やってたかの印象はすごーく薄い(わたしの中ではこの時代は「中3」じゃなく「高校受験生」のイメージがある。先生方やたら「受験生」「受験生」って言ってたし)。嫌いなのに演劇部に入ったのは、何か部活に入ってないと内申に響くから、という受験生的な理由。でも「演じるのは嫌い」って言ったから、専ら効果音とか裏方さんで役は一切やらなかった。

で、中学でもやっぱり「誰が好き」って話はぜーんぜんしなかった。「アニメキャラのうち誰が好きか」という話をした覚えはあるが(笑)でもアニメキャラって、別に男性キャラが好きでも女性キャラが好きでも別に構わないんだよね。女子が女のキャラを好きと言っても「えー」ってホモフォビックのような感じにはならなかった。「へー、そうなんだ」とか「いいじゃん、わたしも好きだよ」とか言えるし。それにわたしらの中学時代って、前にも書いたけど「パタリロ!」や「アニメトピア」が流行ってた時代だったからねー。「同性愛」は自分には関係ないけど、そういうのはあるんだろうって漠然と思ってたし、気持ち悪いとかそんなことは全く思わなかった。

というわけで、長くなったのでその5に続く。。
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06-05 Tue , 2012
レズビアンになったきっかけ?(その3)
だいぶ間があいちゃったけど、その2の続き。

あ、その前に「その1」でも「その2」でも書いてた「ジェンダー受容体」って言葉はわたしの造語だ。ジェンダーというものはヒトが育つ過程で自然と身についていくもの、と考えられているが、自然と身についていくためには親を始め周囲から「男らしくしなさい」「女らしくしなさい」と言われながら育つと思われる。でも身につくためには「言われる」だけじゃダメなんだよね。本人がそう言われたことによって「男(女)らしくしなきゃ」と思ったり「男(女)らしくしたくないなあ」って思ったりすること、反応することがないと本人は「ジェンダー」を取り入れたり意識することはないのだ。そういう「男(女)らしくしなさい」という言葉に反応するかしないかが「ジェンダー受容体」があるかないかってことなんだと、わたしは自分の過去を振り返りながらそう思う。

わたしの場合、自分が育つ過程でおそらく「女らしくしなさい」とかそういう「ジェンダーのシャワー」みたいなのを他の人と同じように浴びてきたと思う。別に特殊な育ち方をしたわけじゃなく、自分だけ浴びなかったってことはないと思うしね。確かに両親からは強く強制されたという覚えはないけれど、、それなりに「女らしい格好をしろ」とか言われた記憶はあるし、、ただ、言われてもわたしには「ジェンダー受容体」がなかったので、右から左だったんだよね。他の人からも全く言われなかったわけじゃないと思う。けどそれに対しても右から左で、、要するにあんまり記憶にない。あんまり記憶ないから「わたしにだけそういうことはなかったんじゃないだろうか」ってずっと思ってた。けど上にも書いたとおり、わたしは決して特殊な育てられ方をされたわけじゃないし、自分の周囲を取り巻く環境も自分だけ特別だとは思えないのよね。だからそれなりに「ジェンダーシャワー」を浴びて育ったとは思うんだけど、それが自分の中に取り込まれたような気がしない。

「ジェンダー受容体」のイメージというのは、DSD(性分化疾患)の中で「ホルモン受容体」があるなしのイメージだ。もちろんDSDの場合、そういうものはあるとされている。が、ジェンダー受容体の場合はわたしの造語だからそれが本当にあるかないかは分からない。ただ便宜上そう考えると考えやすい、というものだ。

で、わたしはこれまで「性同一性障害30人のカミングアウト」を初めとするさまざまなトランスジェンダーの人のライフヒストリーとか、あと「女性同性愛者のライフヒストリー」を初めとするさまざまなレズビアンのライフヒストリー(「その2」にも書いたけど、池田さんや尾辻さんや笹野さんの本とか。しかしトランスジェンダーに比べると数は少ない)を読んでみたのだけれど、レズビアンのライフヒストリーに対してはどれも自分とは全く掛け離れていたため「あ、そうそう」「自分もそうだった」と思うことはなく、ただ「ふーん、そうなんだ」と思っただけで心を動かされることはなかった。でもトランスジェンダーは自分がトランスジェンダーでないにもかかわらず、「あー、この気持ち分かる」とか、逆になんかね、読んでるとだんだん違和感でもやもやした気持ちになってくるのよね。なんでかっていうと、レズビアンのライフヒストリーは「同性が好きになる自分」が焦点に当てられてて、ジェンダーにはほとんど触れられてないというか、触れてあっても「ふーん、そうか」くらいなものなのよね。「女らしくしなさい」と言われて自殺したいほど悩んだ、なんてことはほとんど書いてない(もちろん「悩んだ」くらいの人はいる)。まーわたしもそう言われて悩んだことはないのだけど。

だけど、トランスジェンダーの場合、「男(女)らしくしなさい」と言われて自殺したいほど悩んだ人はたくさんいる。そう言われて「自分は違う!」と思った人ばかりだし、FtMの人の手記などを読むと「あ、わたしもそうだった」って言うところが結構たくさんある。例えば子供の頃、どんなオモチャで遊んだかとか、どういうものが好きだったかとかね。だけど、一方、わたしが読んでもやもやするところがある。というのは「この人とわたしは同じようなオモチャを好んだり、あまり女らしくない行動をしたりしてるのは似てる。けどこの人は周囲に『女らしくしなさい』と言われて随分悩んでる。でもわたしがそう言われても全然悩まなかった。考えてみると結構『男っぽい』ことしてきて、周囲からも『変人』とか言われたけど、全然気にならなくて、自分の好きなようにしてきた。この違いはなんだろうか?」ということなのね。それはトランスジェンダーのライフヒストリー(FtM)を読むと必ずわたし、そう思うのよ(ただし、わたしには性別違和がなかったので、そのことがFtMの人とは決定的に違うのだけれど。
)。だからこそ、わたしは「ジェンダー受容体」という言葉を作りだしたのだけれど。悩む人はジェンダー受容体がある人なんだよね。そして未だかつてジェンダー受容体がないみたい、って人が自分以外実はいない。。。それはレズビアンでもトランスジェンダーでもね。。

そして例えばトランスジェンダーでトランジョン(性別移行)を始めた人は、例えば男女別に分かれているところ、トイレとかお風呂とか、そういうところへ行くことが非常に困難になる。またトランジョンしてない人であっても「自分は男なのに女子トイレに入るのはイヤだ」という人もいる。望む性のトイレに入り、周囲から何も言われずに出てくる、ということはヒヤヒヤものなんだけど、わたしも望む性(わたしは女だけど)のトイレに入り、周囲から何も言われずに出てくる、ということはヒヤヒヤなのだ。わたしが外でトイレに行くとまずじろじろ見られたり「ここは女性用ですよ」と言われたり、あとこれは被害妄想なのかも知れないが、何人かの人がわたしの方を見てヒソヒソ言ってるような感じがしたり。だから意を決してトイレに入って誰もいなかったら心の底から「よかった」と思ってホッとする。なのでここでも根本的なものは違うが、状況がすごくよく似てるんだよね。だから思わず「うん、うん、そうそう」って思っちゃう。ただトランスジェンダーの人からすると「自分は努力して見た目を自分の望む性にしてるけど、アンタは全く違うじゃないか」と思うだろう。中にはわたしが「生物学的な性」の上にあぐらをかいてることに憤りを感じるんじゃないかと思ったりする。

でもさあ。本来は「自分がそうしたいからする」んじゃないのかなあ。周囲の人から望んだ性に見られたくて過剰に望む性を身に纏わなくてもいいんじゃないかなあって思ったりもするんだよね。「それで望んだ性に見られれば苦労はしないわよ!」って思ってるトランスジェンダーの人っておそらくいると思うけど。。わたし自身は望む性に見られたくて過剰になるより「自分はこういう姿の男(女)なんです」って世間に訴える方がいいと思うんだけどな。まぁ、それやると疲れると思うけれども(わたしがそうなので)。

ってなかなか本題に入らないな(苦笑)

っていうか、純粋に性的指向だけで話をするとすると、

「いろいろあったけれど、あるときまで別に誰が好き、とか誰と付き合いたいって強く思ったことはなかったので、逆に20代半ばに『自分は人(この時は男だと思ってた)を好きにならないけど、なんでかなあ』と思って、自分の過去をいろいろ振り返ってみたら、実は女の人の方が好きだったんじゃん、ってことに気が付いた」

ってそれだけなんだよね(爆)まぁ気付き方なんて人それぞれだろうけど、今までわたしが読んだ本の中にはわたしのようなレズビアンは誰もいなかった。他の人はだいたい「あるときに女の人をすごく好きになり、でもこれは思春期には同性への憧れっていうものがあるから自分もそうで、いつかは男性を好きになるに違いないって思ってて、そして実際男性とも付き合ったりするんだけど、男性と付き合ってもしっくりいかず、思春期越えても女性が好きなままで、それでものすごく悩んだりするんだけど、他にも自分と同じような人がいることが分かって、あ、自分は女の人が好きなままでいいんだってことが分かった」みたいな感じかな。多少はもちろん各個人個人で違ってくるけど、ほとんどがこんな感じだった。わたしのように悩むほど女の人を好きになったわけじゃなくて、気が付いたときも特定の人が好きだったわけじゃちっともなく、ただ頭の中で考えて「あ、わたしはレズビアンなんだ」って思った人は、今のところ本を読んだ中では誰もいなかった。ただ、、わたしの彼女も確か今まで女の人と付き合ったことない割に「自分は女の人が好きかも」と思って気が付いた人だから、中には結構そういう人はいるのかも知れない。確かにわたしの話だと全然劇的でもなんでもないから、インパクトが重要な本とかお話とかドラマとかね、そういうのはしにくいだろうなとも思う。ただまぁ「女性同性愛者のライフヒストリー」は別にインパクト云々でできた本ではないけれどもね。でも「女性同性愛者のライフヒストリー」に話にある一定の共通性があるってことは、多分、レズビアンの中でもそういう風にして気づいた人が多いということではあるだろう。まぁ多くのレズビアンと自分が違ってるからと言って、わたしはそのことで悩んだりはしなかったけれど。

もう一つ、本で読んだレズビアンの人たちと違ってる部分がある。中・高校生のとき、同性に好かれたりする人がいる。わたしもそうだったんだけど、本で読んだ人たちはみんな「好かれて嬉しい」って言ってた。けど、わたしは好かれても全然嬉しくなかったし、嬉しいどころか逆に気持ちが悪かった。それはわたしがホモフォビア(同性愛嫌悪)だったからではなく、わたしを好きだった人たちというのが、悪いけどわたしを「男の代わり」に思ってたんじゃないかと感じたからだ。わたしを好きになってくれた人はみんなすごくおとなしくて、普段男子と全くしゃべったことがない、しゃべってるのを見たことがないような人たちだったからね。「男子としゃべったことがないけど、男性的なものに惹かれるから、その結果、そういう人たちにわたしは選ばれるのだ」と思ってて、でもわたしは自分のことは女以外に思われたくないので、すっごく気分が悪かったんだよね。あとはわたしの女性の好みが前にも書いたけど、全く逆なんだよね。当時はレズビアンの自覚は全くなかったけど、好みの点では自分にすごく忠実だったんだと思う。だから女性から好かれても全然嬉しくなかった。好みの人からそう言われたらどうだっただろうな。ただ、口に出して本人に言ったわけじゃないけど「気持ちが悪い」と思ってたのは、好いてくれた人には悪かったと思ってます。。そのバチが当たったのかどうかは知らないけど、レズビアンの世界ではわたしはもてたことはありません(爆)

ってことで、今回は核心部分に入れるかと思ったら、入れなかった(苦笑)その4へ続く。。
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04-29 Sun , 2012
東京レインボープライド2012に行ってきた
従来の東京プライド主催のパレードではない、東京レインボープライド主催の東京レインボープライド2012というパレードに参加してきた(ってこのイベント、パレードなのに「パレード」という名称は付けてないのね)。

実のところ、今のわたしは体調的には回復期にあり、行けるか行けないか迷ったのだけれど、パレードには参加せず、会場に行くだけだったら大丈夫かな、と思って、行くだけ行ってみた。

G.W.が始まったから、都内は空いているかと思ったら何が何が。新宿行くまで電車の中は大混雑。ちょっとした通勤ラッシュ並みに混んでた。。なので会場の代々木公園に着くまでに既にわたしは疲れていた(苦笑)

しかも今日はすっごく天気が良くて。天気がいいのは有難いのだが、少々気温が高かったような。。しかもステージ前の席は空いていて座れるのだが、日差しを遮るものがないため、座っていても体力は消耗する。ってことで、最初はステージ前の席に座っていたのだが、早々に退散した。

ただ、後ろの席の方に親の会の人がいたので、つい最近、「子どもがカミングアウトする前に同性愛者だと知ってしまった どうすればいいか」などという検索用語でわたしのブログが引っかかってたので、そういう人が親の会に出会えればいいなと思い、親の会のサイトをリンクさせてもらったんですよーと報告(?)したりした。わたしのブログを読んでも全然参考にならないからさー。それで親の会の人とちょっと話した。わたしもいろいろあって、未だに親から「理解不能」などと言われたりするからさ。いや、理解不能なのはいいのよ。わたしだってなんで自分が同性愛者なのかよく分かんないもん。それにそれは誰のせいってわけじゃないしね(んなこと言ったら、異性愛者だってなんで自分が異性愛者で生まれてきたのか分からんでしょ。それと同じなのよ、ホントは。なのになぜか少数者だけ「なんで○○なんですか」って言われるという。。それってとても不条理だと思うのだが)。だから、別に親から理解されようがされまいがそんなことはいいのだけれど、でもそういうときに親の会の人から「親は子どもの幸せを願うけど、子どもは親の幸せなんか願わなくてもいいのよー」なんて言われるとなんだかホッとした。。本当の親ではないけれど、「親」って立場の人にそう言われることって結構有難かった。。

それからはフラフラとブース巡りをしたり、あとは久しぶりに会う知り合いと話したり。

会場は結構人が来てた。夏のパレードはわたし、楽器吹くのがメインで、会場の様子なんてほとんど知らないのだけれど、人によって「外国人が多いね」とか「女の人が多いね」とかいろいろ聞いた。確かに一見、なんも関係なさそうな外国人のノンケカップルに見えるような人たちが、実はなんかよく見ると身体にレインボーを付けまくってる、、なんてのも目撃したんだけどね。ただやはりというか、楽器関係者は少なかったような(笑)まぁパレードで楽器を吹く、というのは一種の「自己主張」で結構それが快感だったりもするので、それがないとあんまり興味がないかな、と思ったり。

あとはマスコミ関係者を割と見かけた。なんか一見なんの関係もなさそうな経済誌だったり、放送局だったりいろいろ。。最近、企業で「LGBTダイバーシティ」なんかが注目されてて、その影響なのかな。またブースも一見、LGBTになんも関係なさそうなベーグル屋さんとか、そういうのもあったし。そういう意味では前に比べると別の方面(経済的な面)から注目され始めたのかも知れないなと思う。前はパレードがあっても全然報道されなかったものねえ。

あ、あと、ゲイカップルで同性婚しているアメリカ大阪総領事の人たちも来てた。わたしは見てないけど、パレードが終わったあとのステージで何か挨拶があったらしい。そういや、政治家のみなさんも来てましたねー。そういう意味では政治的でもあったかも。でも政治が変わらないとわたしらの生活も変わらんもんね。政治家の人たちもどんどん参加してもらって、大いに政治的になった方がいいと思う。

ちなみに主催者側の発表では、パレード参加者2500人、沿道参加者2000人なんだそうだ。わたしらみたいにパレードの登録もせず、沿道からも見なくて、ただ会場に行っただけの人間ってカウントされてるのかな。

「もうすぐパレード出発です」ってときに、わたしらは会場を後にして、表参道のgossipってゲイフレンドリーなカフェに行った。一回、彼女と一緒に行ってみたかったんだよね。

わたしらみたいにパレード抜け出してここに来てる人はいるかな、と思ったんだけど、わたしらが店に着いたときは、店の中はだーれもいなかった。そしてしばらくの間はうちら2人だけで、疲れてたんだけど、とてもゆっくりすることができた。お店の人もわたしらを見たらカップルだと思ったのか「今日、パレードやってるんですよね」って聞いてきた。なので「うちら、パレード会場にいたんですけど、パレードには参加せずにこっちに来たんですよ」って話したりして、和やかなムードだった。コーヒーおいしかった。

ってわけで、この時期にやる初めてのパレードにしては随分人が集まったんではなかろうかと思う。わたしは事前の宣伝があんまりないなーと思ってたんだけど、そうでもなかったみたいね。

今年は8月にもまたパレードがあるし。

わたしは東京に2つパレードがあったっていいと思ってるんだよね。選択の余地ができたし、出たい人は2つとも出ればいいし。。ただ、大変だろうけど、単発でなく継続してやって欲しいなーと。継続することによってまた参加する人が増えてくるだろうしね。それは毎年じゃなくても2年おきでも3年おきでもいいんだけどね。継続するってことが分かっていれば。

なんて部外者からの勝手な意見でした(笑)

あーでも久々に仲間に会えて嬉しかった。
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04-27 Fri , 2012
レズビアンになったきっかけ?(その2)
その1の続き。

前に

> というわけで、長くなったけど、わたしがレズビアンだって気が付いたまでを次から書いていきたいと思う。

って書きながら、なかなか書き出せなかったのは、わたしの中にどうしても「性的指向」と「ジェンダー」をごっちゃにされてしまう恐れがあるんじゃないかと思ったから。そこのところに【注】を付けないと、これを読んだ人が「レズビアンはみんなこうだ」って思われると困るから。

正直言って、わたしは一般的な「レズビアン」には程遠い存在だと思う。レズビアンといっても、わたしは「他人に恋愛感情を抱くことがない」Aセク(無性愛)寄りだと思うし(ただし、無性愛(Aセク)の定義については諸説いろいろあるようで、Wikipediaに言及されている「無性愛」と「非性愛」の項目については現在「問題がある」と書かれている)、ジェンダーについては「分からない」し。

ジェンダーについての「分からない」ってのはね、ジェンダーとかジェンダーロール(性役割)については「存在する」ということは分かるの。これは頭でね。だけどわたしの中には「○○らしくなりたい」とか「○○らしくしなくては」という概念が存在しない。それが前の日記に書いた「わたしはおそらくジェンダー受容体みたいなものが欠けている」と書いた理由。わたしはそれがないので全くよく分からないのだけれど、それが「ある」人にとっては「○○らしくなりたい」とか「○○らしくしなくては」と自然に思えるのだろうね。特に「○○らしくしなくては」というのは一種の「圧力」と感じる人がいて、だから「生きづらい」と思える人がいるんだと思う。

そういうのが一切ないわたしは、そういう「圧力」を全く感じたことがない。わたしはいつも「○○らしくなりなさい」と言われて悩んだ、とか生きづらさを感じた、という本を読んだときに「自分はかなり『女らしく』から外れた人間なのに、何も言われたことがないなんて、幸せな人間だったんだなあ」と思っていたのだが、よくよく考えてみると、全く言われなかった、ということもないんだよね。本当は他の人と同じように言われてたのかも知れないけど、気にならなかったんでその記憶がほとんど消えちゃったんだと思う。それとそういうことに対する「同調圧力」を感じる能力も欠けているので「圧力がかかっている」と感じたことがない。だから他の人と比較してどの程度そういうことが言われたかとか圧力がかかっていたかすら、実は覚えてないんだよね。だからその点については感じない分、わたしは「幸せ」なのかも知れない。

この「○○らしくなりたい」とか「○○らしくならなきゃいけない」と無意識で思ってる人はこの世で多いらしく、というかそういう人にとってはそれは既に「自分らしいこと」らしいんだよね。で、本当はその「○○らしい」というのは個人個人で異なっているはずなのよ。それと古今東西で「○○らしい」というのが統一されているわけでもなく、一方の地域で「男らしい」と思われていることが、他方の地域ではそうではない、ということはよくある。「男らしさ」とか「女らしさ」なんて、その時々で変わってくるし、個人個人でも異なっているもので、どこにも統一された「男らしさ」や「女らしさ」なんてものは定義されていないのに「男らしくしろ」とか「女らしくしろ」って言う人はなんなんだろうねって思う。そういう人は自分こそは「男らしい」とか「女らしい」って思ってるんだろうけど、「男らしい」とか「女らしい」の定義がないのによくそういうこと言えちゃうねって思う(ジェンダーフリーバッシングしてる人とか)。

要するにそういう人たちって「自分がルールブックだ」(古い)と思って自分の物差しブンブン振り回してるのと一緒だと思うんだけどね。そしてもしかしたらそういう人って逆に「○○らしくしなければ」という思いが強すぎる人で、だから人にもそれを要求しているのかなと思えて来ちゃう(自分も苦しんでるんだから、お前も苦しめ、みたいな)。普通になんの圧力も感じずに「男らしく」とか「女らしく」してる人の方が、その人にとってはそれが「自分らしくしている」と思っているわけだから、他人に寛容かも知れない。まぁわたしにしてみれば無意識に「男らしく」とか「女らしく」したいって思う人の気持ちがさっぱり理解できないので「本当にこの世の中にそういう人っているの?」って感じなんだけど。。(それはわたしがこの世の中の人に対して「本当に異性のことが好きって思ってる人がいるの?」と思えるのと全く同じだと思う。わたしにとっては「同性が好き」なのは自然のことなので「異性が好き」な人の気持ちが全く分からない。ということは裏返せば異性愛者にとっては「同性が好き」という気持ちも全く分からないのだろうと思う。だから「いつレズビアンになったんですか」って聞かれるわけだよね(苦笑))

あーあとわたしはこの「自分らしく」ってのも嫌いです(笑)というか「自分らしいってなに?」って思う。自分は自分なんだから、自分がすることは既に「自分」であって、決して自分「らしい」ものではないと思うんだよね。でも「自分らしくありたい」とは言うけど、あんまり「自分でありたい」とは言わないよね。なんでなんだろうね?そして「自分らしく生きろ」は、そうとしか言いようがなく「自分を生きろ」になると意味が変わってきてしまう。わたしはこの「らしく」って付けると「ニセ自分」みたいなイメージを持つんだけど、「らしく」の用法間違えてるのかなあ、、

なんてことをつらつら書いていたら、また長くなった。

要するにわたしが言いたいのはこれは「わたし」の場合であって、他のレズビアンの人にすべて当てはまるわけじゃないんですよーってことなんだよね。多分レズビアンの中でもわたしのように「ジェンダー受容体」がない人は少ないんじゃないのかなあって思う(今まで出版されている「カミングアウト本」を読んでみても)。で、わたしの場合、ジェンダー受容体がなく、しかもジェンダー自体が「分からない」か「どちらとも決めたくない」なわけなので、多分、周囲からは「女らしくない」とか「男っぽい」とか思われてると思うのよね。でも、今まで書いてきたように、わたしは「○○らしくしたい」とか「○○らしくしよう」と思ったことなど一度もなくて、わたしが思ってたのはひたすら「自分はどうしたいか」だったので、そこに「男」とか「女」のフィルターがかけられてないんだよね。

トランスジェンダリズム宣言―性別の自己決定権と多様な性の肯定」って本があってね、その中に「トランスジェンダーという言葉を作った人」のことについて書いてある。

「トランスジェンダー」という言葉を作ったのはヴァージニア・プリンスという人で、その人に寄れば「身体的性別であるセックスではなく、社会的性別であるジェンダーに違和感を抱く自身を表わすため」に作った言葉、なのだそうだ(130p)。

この定義によれば、わたしはまさしく「トランスジェンダー」なのだが、昨今の「トランスジェンダー」という意味の中には「身体的性別の違和を持つもの」が定義されてしまっているために、今の意味での「トランスジェンダー」の中にはわたしは入らない。わたしには性別違和はないからね。これ、いつの間に「性別違和」が含まれる言葉になってしまったんだろうって思う。おそらく推測するに、性別違和を持つ人とジェンダーに違和を持つ人というのは非常に近い関係で、しかも性別違和を持つ人の方がジェンダー違和を持つ人よりも数が多いんじゃないだろうか。だから、いつの間にかジェンダー違和だけでなく、性別違和を持つ人、という意味が含まれてしまったんじゃないかと思ったりする。

そういえば「性同一性障害」(GID)と診断されるガイドラインの中の「性別違和の実態を明らかにする」の中に「反対の性役割。日常生活のなかでも反対の性別として行動する、あるいは行動しようとする。しぐさや身のこなし・言葉づかいなどで反対の性役割を演ずる、あるいは演ずることを望んでいる」ってあるんだけどさ、ここでも「性別違和」と「ジェンダー」がごっちゃにされてると思うんだよね。大半の人は自分の(感じている)性別と性役割が一致しているのかも知れないけど、そうじゃない人もいるかも知れないのに。というか、これでは自分の(感じている)性別と性役割が一致しない「性同一性障害」の人は救われないよね。

要するに「今の自分の身体は男でも、自分は女だと思っている。けど別に女っぽくしようとは思わない人」なんかの存在は無視されている(少し専門用語を交えると「男っぽいMtF」は存在しないってこと。また逆の「女っぽいFtM」も同じ)。もし、こういう人たちが存在するとして、そして強い性別違和感を感じて性別適合手術(SRS)を受けたい、と思ったときは、無理に自分の「やりたくない」「男らしさ」とか「女らしさ」を身につけて医者に認めてもらわないといけない。これっておかしいんじゃないの?ってことだ(尤も「セクシュアリティの多様性と排除 (差別と排除の〔いま〕 第6巻) (差別と排除の「いま」)」の第4章(126p~)によると「性同一性障害」と診断する精神科医師は、特に「過度な」反対の性役割は求めていない、とのことだけれど(それより本人が性別移行後にちゃんと暮らせるかということに重点を置いているらしい))。でもある程度の「反対の性役割」は「マナー」だと言い切ってるので、わたしからするとそれは「なんだかなあ」って感じがするけどね。男っぽいMtFがいてもいいし、女っぽいFtMがいてもいいじゃん、ってわたしは思う。

って話がどんどん逸れていく(汗)

わたしはただ「性的指向」と「ジェンダー」は無関係っていいたかっただけなのに(笑)いつの間にか「性別違和」と「ジェンダー」が混同されている、という話になってしまった。

でもわたし自身、長い間「性別違和とジェンダー」について分離できなかったからね。だから、わたしはずーっと以前から「自分にはジェンダーはない」って思ってたけど、それと「トランスジェンダー」との間がすっぱりと分かれなくてなんだかずっともやもやしてたんだよね。性別違和は感じていないので、わたしはトランスジェンダーではないのだが、だけれども自分は一般に「女らしく」はなりたくなかった(もちろん「男らしく」にもなりたくなかったけど)、何かトランスジェンダーと「似ている部分」もあって、それがなんなのかよく分からなかったんだよね。

ちなみに「なぜ同性愛者が生まれるのか」について「ゲイの脳は異性愛者の女性に似ていて、レズビアンの脳は異性愛者の男性に似ている」といったことが「ごく自然に」前提条件になっているけれども、その考え方ってまさに「男と女は惹かれ合って当然」という「異性愛主義」に基づいているものなのだよね。

「男であるのに男が好き」→「男が男を好きなんて考えられないから、男好きな男の脳は女だ」→「だからゲイは女っぽい」
「女であるのに女が好き」→「女が女を好きなんて考えられないから、女好きの女の脳は女だ」→「だからレズビアンは男っぽい」

しかし、もう一方で「なぜトランスジェンダーが生まれるのか」という疑問もあるわけだよね。

「身体が男であるのに自分は女であると思っている」→「それは身体が男でも脳が女だからだ」
「身体が女であるのに自分は男であると思っている」→「それは身体が女でも脳が男だからだ」

ゲイやレズビアンとトランスジェンダーは全く違うものなのに、結論が同じになってしまう。これっておかしいでしょ?

また、トランスジェンダーの中にはゲイもレズビアンもいる。

「身体が男であるのに自分は女だと思っている。しかし好きになるのは女性」
「身体が女であるのに自分は男だと思っている。しかし好きになるのは男性」

こういう人(MtFレズビアン、またはFtMゲイという)は確実にいる(わたしの知り合いにもいる)。それもMtFレズビアンはMtFの中でもかなりの割合でいるという人は多い(ちゃんとした統計は取られていないけれども、当事者でそう実感している人はいる。FtMゲイについては、MtFレズビアンよりも少ない。これも当事者の中での実感だそうだ)。

こういう人たちの場合、その人の脳はどうなってると説明するのだろうね?はっきりいって「異性愛主義」ではこのような場合は「説明不可能」なのだ。

なのに平然と「男好きな男の脳は、女性の脳だ」と思い込まれている(例えばこういう本に書かれてたり)。いや「脳」に限定しなくても、なんらかの「女性と同じ部分」を探そうとしている(例えば脳梁だったりホルモンだったり)。

それって根本的に違うのだ。だからこういう研究をしている人は「男と女は惹かれ合って当然」という考え方である「異性愛主義」から脱するべきで、脱するためにはもう少し性的少数者(セクシャルマイノリティ)の実態について勉強したり、クィア理論などを勉強した方がいい(ただ正直、クィア理論はわたしもよく知らない)。

同性愛者はただ「同性」が好き、というだけなのだ。

「男として男が好き」
「女として女が好き」

ただそれだけなのだ。そこに余計な「異性愛主義」や「ジェンダー」はいらない。

あ、でも尤も「男らしい男の人が好きな男の人」とか、そういう意味では個人の好き嫌いには「ジェンダー」は絡んでくると思う。「女っぽい男が好きな男の人」はあんまり聞かないけど、レズビアンの方では「フェム(女っぽい)好き」と「ボーイッシュ(男っぽい)好き」の両方がいるからねー。ちなみにわたしはフェム苦手(笑)自分も全然女っぽくないけど、女っぽくない女性が好みです(だからといってあまりにも男っぽい人も苦手)。

でもこれって異性愛者も同じだよね。男性がすべて「女っぽい女性」に惹かれるとは限らないように。女性でも「男っぽい男性は苦手」って思う人もいるように。そういう「好み」においては、異性愛も同性愛も変わりがないんだよねー。

ってところで、その3へ続く。。

【注】この日記の中には「性同一性障害(GID)」と「トランスジェンダー」をごちゃごちゃにして書いてありますが、「性同一性障害(GID)」は一般に医療用語であり、「トランスジェンダー」は上にも書いたとおり「当事者が作った言葉」で、根本的には異なる言葉なんだけれど、今の日本の中では「トランスジェンダー」の中に「性同一性障害(GID)」があると位置づけられる考えが一般的で、「性同一性障害(GID)」の人は性別適合手術を望む人、というようなイメージがあります(一方「トランスジェンダー」は性別違和はあるけれど、様々な理由があり性別適合手術はしない人、というイメージがある)。しかし、トランス業界は非常に複雑なので「トランスジェンダー」「性同一性障害(GID)」の関係も複雑で、そうすっきりと分けられるわけではないです。
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04-20 Fri , 2012
レズビアンになったきっかけ?(その1)
このブログは頻繁に「レズ きっかけ」「レズになった理由」「なぜレズビアンになるのか」「ビアン 気づく」「ビアン きっかけ」などの検索用語で引っかかっている。「ビアン」という用語で検索を掛けてくる人はおそらく当事者だろう。日本では「レズ」という言葉の印象があまりに悪いため(ポルノチックなイメージがあるなど)、当事者は自らのことを「ビアン」と呼ぶ人が多いからだ。ただ、この言葉に出会う前は当事者でも「レズ」以外の言葉を知らないため、「レズ」という言葉を使うこともあるし、この言葉が汚辱にまみれていると知っていてわざと「レズ」を使う当事者もいる。「レズ」と検索を掛けてくる人は「ビアン」という言葉に出会う前の当事者か、当事者以外の人だろうと思っている。

ちなみにわたしは「レズ」にはやはり嫌なイメージがあるので、自らのことは「レズ」とは呼ばず、さりとて「ビアン」では一般の人には通じないので、「レズビアン」と略さない形で言ったり書いたりしている(と言ってもこのブログの初期の方では「ビアン」を使っている。あるときに「ビアンじゃ一般人に通じんじゃん」と思って「レズビアン」表記に変えた)。

随分前の話だが、性的少数者(セクマイ)関係ではないオフ会に行ったことがある。もちろんわたしはレズビアンをカミングアウトしてるし、そこでも平気で彼女との話をしたりしていたのだが、オフ会が始まっていろいろ話をした後、急に「Ronさんはなんでレズになったんですか?」と聞かれた。その人はダンナさんと来てた女の人で、ダンナさんから「そんな失礼なこと聞いちゃダメじゃないか」と言われてたのだが、もしネットで全く知らない人から「なんでレズになったんですか」とメールで聞かれたのなら、わたしは「まずそれが全く知らない人に対して使う言葉か。当事者以外に『レズ』とは呼ばれたくないわ」と思い、返事もしないところだが、会って話している人は別だ。そこでは「じゃあ、あなたはいつ異性愛者になったんですか?」って聞き返したのだが、先方はその意味がよく分からなかったようだ。

しかし、この質問をずばっと目の前でされてから「やっぱり異性愛者の人はそう思ってるんだなあ」と思って逆に感心してしまったほどだったんだけどね。

ちなみにわたしが「じゃあ、あなたはいつ異性愛者になったんですか?」ってその人に聞いたのは、わたしが「自分はレズビアンに『なった』」とは考えてないからだ。あるときまで異性愛者で、それから何かがあって、それでわたしはレズビアンに「なった」わけじゃない。生まれつきレズビアンだった。そのことにあるとき「気が付いた」だけなのだ。

よく「レズに目覚める」とか言われるけど、それって女が無理矢理女にセックスされて、その気持ちよさに同性に目覚めて、という三流のポルノに出てくる話のようで、わたしはあんまり好きじゃないんだけどね、そういう話。まぁ中にはそういう人もいるかも知れない。それはわたしは否定しない。というか、否定するしないじゃなく、存在するしないだからね。そういう人は「わたしはレズに目覚めた」と言うかも知れない。

けど、今、世に出ているゲイやレズビアンの「カミングアウト本」を読むと、全然そうじゃないよね。ちなみにゲイやレズビアンのカミングアウト本はいろいろ出ているが、わたしはつい最近「ボクの彼氏はどこにいる?」(石川大我著)、「先生のレズビアン宣言―つながるためのカムアウト」(池田久美子著)、「カミングアウト―自分らしさを見つける旅」(尾辻かな子著)、「Coming OUT!」(笹野みちる著)を読んだのだが(尾辻さんの本と笹野さんの本は再読)、同じ同性愛者でも全然違うんだな、って思うんだよね。

っていうか、これらの本は4冊とも違うのだが、それでもわたしからすると「かなり似通っている」。彼らはかなり幼いというか、小さい頃からなんとなく「同性に惹かれる自分」に気が付いている。そして学校生活はそのことを隠したりするために、かなり苦労したりしている(笹野みちるは違うけどね)。多分、こういうのが「同性愛者」の一般的な姿なのかなーと思う一方、それとは全然違った形で「気が付いたわたし」は、一体なんなのだろう、とか、どうしてなのだろうとつい、考えてしまうのだ。

池田さんや笹野さん、特に笹野さんは女子校出身ということで「周囲に男友達が全くいなかった」と書かれている。尾辻さんは共学だったみたいだけど、やることが男っぽいということで、同級生から「尾辻は中性」と冷やかされて、それを懸命に否定してる。

わたしは全く逆なのだ。多分、わたしのようなケースは稀なんだろうけど。。で、稀だからこそ「一般論」で語れないんだよねえ。どこが「稀」かというと「他人から何を言われようと気にしない性格」だったことと、あとわたしは「ジェンダー(社会的、文化的な性)」が女でも男でもなかったこと、それと「ジェンダー受容体」みたいなものが欠けてるからだと思う。って書くとわけが分からないだろうけどね。しかも「性的指向」と「ジェンダー」は本来、全然関係ないものなんだよね。でも特にレズビアンの人のカミングアウト本を読むと、性的指向とジェンダーがごっちゃになって出てくるんだよね。それはやっぱり「女は女らしく」って周囲からの圧力が大きいからだと思う。

って書くと「やっぱりレズビアンは男っぽいのか。。」と思われるかも知れないけど、これも全然違う。しかし、一般には「レズビアンは男っぽい」と思われてる割に、AVなんかで出てくる「レズもの」の女優さんは全然男っぽくなく、むしろ「艶めかしいイメージ」があるわけで、こう考えるといかにマジョリティーに「都合良く」考えられてるかって分かるよねー。

というわけで、長くなったけど、わたしがレズビアンだって気が付いたまでを次から書いていきたいと思う。→その2
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03-19 Mon , 2012
グレーゾーン
いつ頃からかはあんまり記憶にないんだけど、最近三ツ矢雄二がテレビに出るたびにさー「三ツ矢雄二 カミングアウト」で検索がドバッと来て、そんでわたしが2008年8月27日に書いた「'80年代のアニメ界って」って記事が引っかかるみたいなのね。

というか、わたしは逆にテレビ、特に民放は全くと言って見てないから、なんで突然「三ツ矢雄二 カミングアウト」で検索がたくさん来るんだろう?って思ってたんだよね。そしたらなんか最近、オネエタレントの一人(?)として、三ツ矢雄二が結構テレビに出てるらしいね。わたしなんかは逆に検索結果で「あ、また三ツ矢雄二テレビに出たんだ」って知るくらいでさ(笑)

だけど、わたしは彼がテレビに出てるところは全く見たことないんだが、、というか、わたしが「アニメトピア」を聴いてたのは中学2年から3年に掛けてで、それから約30年経ってるんだよね、もう。あの頃14、5歳だったわたしが既に43歳だよ。三ツ矢雄二は60近いはずだよね。それでなんかちょっと、、見るのが怖い(笑)っていうか、よく考えたらわたしは「動いてる三ツ矢雄二」は見たことないんだった(笑)アニメで声当ててるときか、ラジオで話してるときか、あとは写真でしか見たことない。だからかな、見るのが怖いのは。

んで、てっきりわたしは彼は今もゲイと公言してて、そんでオネエやってんだと思ってた。最近出てくる「オネエ系」と呼ばれている人たちはまぁゲイとかゲイの女装家とか性同一性障害の人がごっちゃにされてるらしいのは知っていて、折に触れ「ゲイはオネエだけじゃない」って言ってたけど、三ツ矢雄二は別。だって、中学んとき、あんだけ「オカマ」を連呼し、男探ししてて、オネエ言葉バリバリでしゃべってたんだもん。だからわたしの中の認識はとっくの昔から「三ツ矢雄二=ゲイでオネエ」なわけ。

だけど、ネットでぐぐってたら、彼、今は「グレーゾーンです」って言ってるんだってね。そうなんだ。まぁ、わたしはテレビを見てないので、オネエ丸出しでそう言ってるのか、それとも真面目に言ってるのか、それは分かんない。けど、あー、そうなんだ、彼の今のスタンスはそうなんだって知って、まぁちょっと寂しくも思ったけど、そうなんだって思うことにした。だってカミングアウトなんて自己申告じゃん。しかもかつては「オカマ」を公言してたかも知れないけど、もしかしたら本人は今はそうじゃないかも知れない。あれから30年も経っちゃったんだもん。性的指向にもゆらぎはあるからね。「グレーゾーン」にはいろんな解釈の仕方があって「本当はゲイだけど言いたくない」から「自分自身分かんなくなっちゃった」「本当はノンケだけど言いたくない」まで、すべて考えられる。でもその中で「言いたくない」のだけは共通してると思う。言いたくないんだったら、それ以上追及する必要はなく「グレーゾーン」を信じるしかあるまい。

あと三ツ矢雄二のブログも読んだけど、そこでは特にオネエ言葉使ってるわけじゃないし、男好きとも書いてない。だから「あの頃の三ツ矢雄二とはもう違うんだなー」って思うしかない。「あの頃」が大好きだっただけに、上にも書いたようにとても寂しいんだけど、それはしょうがないよね。

まぁはっきりと言わない、と言うのは「芸能界における作戦」なのかも知れない。それは考えるけど、でもそれはいくら考えたとしてもわたしには分かるわけないしね。

そういえば「アニメトピアIII」ってアルバムにね、「カルチャーショック・ティーチャー」って曲があるの。その曲の作詞は三ツ矢雄二なの。その曲の歌詞の中にね、

あら、ステキな人ね
まるでコケティッシュ・トッツィギャル
華やか にぎやか ビューティフル
親しくなるには 丸適(まるてき)マーク
(↑このパートは島津冴子が歌ってる)

あら どうも有難う
いつもおどけてフラッパー
カコクでシビアな芸能界
こうしているのがラクチンなの
(↑このパートは三ツ矢雄二が歌ってる)

という歌詞があるんだけど、それを思いだした。彼はあのときオネエでいて、自分を「あたしはオカマよ!」って言ってたことがラクチンだったんだなあと。

いやー、この曲、今でも大好きなんだけどねー。やたら楽しいし、わけ分かんない曲だし(爆)ただあの世界はもうないんだな、って思うとやっぱり正直寂しいよね。

そしてわたしが今思っているのは、わたしが2008年の8月27日に書いた日記で「あー、なんだ、彼はゲイなのか」って思わないで欲しいなということ。確かに30年前のあの時点ではああいうこと言ってたし、オネエ言葉バリバリでしゃべってたのは事実。だからといって、今もそうかというと、本人が言わない限りは決してそうじゃないってことだ。例え彼が今もオネエ言葉バリバリでしゃべってたとしても、それがゲイだとは限らないし、カミングアウトするしないは本人の自由だし、今はしてないんだから「ゲイとは言えない」という認識をすべきだろう。それに「疑惑」だのなんだの、ってのは、わたしはあんまり好きじゃない。たとえそれをウリにしてて人気が出てるにしてもね。

ま、わたしは30年前の三ツ矢雄二しか知らなくて、今はどういう言ってるのかを最近知って「ああ、そんなら」と思って書いてみたわけだけど。そりゃさ、彼がゲイだったら嬉しいなって気持ちはあるよ、当然。だけどそうじゃないんだったら、そうじゃないって認識変えないとね。カミングアウトっていうのはそれだけ個人が尊重されなくちゃならない繊細な話なのだ。
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03-17 Sat , 2012
女同士のセックス
だいたい毎日のようにタイトルのような「女同士のセックス」だの「女どうし セックス」「女同士 SEX」「女同士 セックス やり方」だのっていう言葉で検索にひっかかってるんだけど、こういう検索用語で来る人って、当事者なのか、それともレズビアンのセックスに興味があるノンケ(異性愛)男性(もしかしたら女性)なのか、そこのところまではわたしにはよく分からない。でも多分後者の方が多いんだろうなって気がする。

後者だと仮定するとすれば、なんでそんなものに興味があるのかって思う。まぁいわゆるAVの中でも「レズもの」という分野はあるので、そういうのが好きな人がいるんだってことは分かってるけどね。

言っておくけど、確かにこのブログの中にはSEXについての記述はたくさんしてる。HIV/AIDSのことだっていろいろ書いているし。けど、悪いけど「わたしと彼女」に関するSEXの記述はない。まあ中にはレズビアンのブログを書いてる人の中にはどうやってSEXしてるかを書いてるのもあるかも知れない。それはそれで個人の自由だから別に構わないと思う。けど、わたしはそういうのは公表するつもりはない。

だいたい、そういうものは二人の関係であって、二人が話し合ってやればいいこと。それに尽きる。別に自分がどこを感じるかなんて、SEXをする相手に把握してもらえばいいことでしょ。これ読んでる人には関係ないことじゃん。そしてこれはノンケのSEXにも当てはまると思うけど、百人いたら百人、みな、感じるところが違うってことだ。これは別に女だけじゃなくて男も当てはまんじゃないの?わたし、男じゃないからよく分からんけど。だから、レズビアンのSEXもノンケのSEXも基本的にはそんなに違わないと思ってる。だけどノンケカップルでSEXのやり方について二人で話し合って決めるってのはあんまり聞いたことがない。むしろAV見て勘違いしたノンケ男が女性に対して顔射してSEXは終わると思ってる、みたいな話を聞く。AVはあくまでもAVであって、あれは女は演技してるんだからね(男の方も多分演技してると思うけど)。多分最初からヒーヒー声を挙げたりはしないと思うよ、身体のつくりから言って。

それと同じくAVのいわゆる「レズもの」でされてる行為がそのままレズビアンのSEXかというと、これまた全然違うとわたしは思ってる。わたしもいくつかの日本の「レズもの」AVを見たけど、どれもあんまり好きじゃなかった。やたら長たらしいキスシーンとかさ。唾液交換とかさ。悪いけど見てて「気持ちわり~」ってわたしなんか思っちゃうね。AVは「見せ物」と思ってるんだけど、あんなに延々とキスシーン見せられて面白いのかね?わたしはキスシーンはつまんないんで飛ばしてる(爆)あとやってる人の爪がやたらと長いのが気になる。爪長くしたままやってるなんて、やられてる人のことをなんも考えてない証拠。

「レズもの」AVで決定的なのは「それじゃ全然気持ちよくないよね」と感じられることだ。演技してるのが丸わかり。だから正直楽しめない。もしかしたらこれはノンケもののAVでも同じなのかも知れないが、ノンケものを見る趣味はわたしにはないので、何とも言えない。あとディルド使ったAVは「男根主義」そのものだと思う。だいたいディルド擦ったり吸われたりしても気持ちいいわけないじゃん(笑)ディルド擦って「イク姿」なんて、ホント「見せ物」だなって思う。そういうのが男の幻想なんだろうか?ディルドなんてただの道具に過ぎないのに。ああいうところで「男根主義」を見せられると逆にこっちは萎える。ので、道具を使いたくないレズビアンは少なからずいるんだろうね。レズビアンのSEXには「男」を感じさせる部分は不要なんだからさ、というかあったらイヤだし(笑)

ってわけで「レズものAV」でやってる行為と実際のレズビアンSEXって多分全然違うと思う。それに実際やってるのを見たとしても、それはつまんないと思うよ(笑)だって「人に見せるためのSEX」じゃないからさ。AVは「人に見せるためのSEX」でしょ。それはノンケのAVと実際ノンケのやってるSEXが違うのと同じだよね、多分(両方とも見たことないけど)。

とにかくわたしはとにかくSEXは相手と話し合ってやるものだと思ってるので、感じないときは感じないと言う(しかしノンケのSEXで女が「感じない」というと男は傷つくそうだが、なんじゃそりゃって感じ)。本来はノンケ女の方も恥ずかしがらずに感じないときは感じない、そしてどこをどういう風にされたら自分は気持ちが良いのかというのをSEXをやる相手に伝える必要があると思う。そこを言わずに男性主導だから、女性の方はあんまりSEXが楽しくないとかできればやりたくないとか義務感でやってるって思っちゃうと思うんだよね。あともしかしたら「自分は何をされたら気持ちが良いのか分かんない」って思ってるノンケ女はもしかしたら予想する以上にたくさんいるかも知れない。もうね、それを知るためには自分の身体をよく知りなさい、としか言いようがないです(笑)日本の性教育は「卵子と精子が、、」って話ばっかで、肝心のSEXのこととか、自分の身体についてとかのことについては教えてくれない。でも本当に重要なのはそこだと思うんだよね、わたし。だってノンケのSEXだって目的は「子供を作るため」が全部じゃないでしょ。お互い「抱き合いたいな」って思うからSEXするんでしょ?だったら「もっと自分の身体についてよく知ること」をなんで教育しないんだって思う。自分の身体がどこをどうされると気持ちがよくなるのか、ということを知る、ということは、自分の身体が大切に思うってことと同じことなんだよ。それが頭の硬い教育委員会とかそこら辺の人たちは「SEXは恥ずかしいことだから教えるな」ってことになって、結局、日本人は自分の身体のどこをどうされると気持ちがよくなるのかも分からず、AVばっか見て結果的には男も女も自分の身体を大切にしないことになる。これって間違ってるんじゃないのって思う。

「自分の身体を知ること」って要するに自慰行為のことだけどね。これはとても重要なことだとわたしは思ってる。それをすることによって自分はどうされると気持ちが良いのかってことが分かるから。

あ、でもね。一つ別なことで大切なことがある。それは「自分の身体をどこをどうやっても気持ちいいと感じない」とか「自分でやると気持ちいいって感じるけど、人には触って欲しくない」って人も中にはいること。それを知ることも大切なことだ。自分の身体を知るという意味においてもね。そういう人は必ずいるし、それは特別異常なことじゃない。だからもし自分の身体を触ってみて「あんまりいい気持ちはしないなあ」と思ったら、それはそういう人間なんだって、それを認めること。決して「感じないから」って悩む必要はないからね。それに「感じるように努力する必要」もない。そういう身体なんだって、自分で自分を認めてあげてください。そういう人でも決してSEXができないんじゃなく、それを理解してくれる人がいればいい。それはそれで難しいことかも知れない。けど、きっと見つかると思うし、それ以前に「自分は人とSEXしたくない」って思うなら、それはそれでいい。SEXにはいろんなやり方がある。穴に棒を突っ込むだけがSEXじゃない。「どうやったら気持ちが良くなれるか」がSEXだから。それは身体で感じなくても心が気持ちよければそれでいいとわたしは思っている。

以上はノンケ男性(女性)に向かって書いたものだけれど、当事者にも当てはまることだと思ってる。まずは自分がどうされると気持ちが良いのか、それを知ること。そしてそれをSEXをする相手にちゃんと伝えること。それが一番大事なことだと思う。あと、SEXの話をするときは、必ずセーファーセックスのことも考えないといけないんだけど、ノンケのSEXもゲイのSEXもレズビアンのSEXもこれに分類できない人たちのSEXについても、セーファーセックスはちゃんとすること。まぁセーファーセックスと一口に言っても、やり方はいろいろあって、ここでは長くなるから説明しないけどね。でも特にノンケやゲイのSEXに関しては「コンドーム」を使うことは重要だ。ここでも「コンドーム付けて」と言ったら嫌われるとか、気持ちよくないからって言って断わられるとか、いろいろあるけれども、自分の身体を守るのは自分だからね。

もし生でやりたいのならば、まずお互い3ヶ月は誰ともSEXしないこと。HIVの抗体ができるのは最後のSEXをして3ヶ月、と言われている。この間にHIV/AIDS検査をしても抗体ができてないからはっきりとした結果は出て来ない。だから、3ヶ月間は待って、それからHIV/AIDS検査をする。そしてお互いに陰性だったら、生でして下さい。でもそれには条件がある。「特定の(検査をした)相手としかSEXしない」ことをお互いに約束すること。そうしなければ、感染の危険性が出てきてしまうからだ。ただこれはお互いが本当にお互いを信用できるか、という問題点も孕んでいる。「浮気はしてない」「遊んでない」と言っていても本当にそれが信用できるか。それはあなたとその相手の問題なので、そこのところはよく考えて下さい。

あと当事者の中では道具を使うかどうか、考えてる人たちもいるかも知れない。ノンケ男性(女性)はレズビアンのSEXに道具を使うかどうか、興味津々って人たちもいるかも知れない。答えは「使いたかったら使えばいい」。これもノンケのSEXと変わらない。ノンケだってレズビアンだって道具を使いたい人もいれば、使いたくないって人もいる。それはSEXをする相手と話し合って興味があれば使ってみればいいし、なければ使わなくてもいい。ただ、レズビアンの中には道具を使うことに対して、非常に毛嫌いしてる人たちがいるのも知ってる。それは上にも書いたけど、やっぱAVでは必ずと言っていいほど道具が出てくるからね。。あれを見て「レズビアンのSEXは道具を使うって思われてるからヤだ」って思う人もやっぱいると思う。あと、特に電マを使ってるのを見てると「ホントに気持ちいいって感じてるんだろうか」って思っちゃうのも確か。どちらかというとすごく痛々しく思えてしまうから。だけど、上にも書いたようにSEXは人に見せるものじゃない。相手と一緒にやるもの。だから興味があれば使ってみればいいし、それに道具は電マだけじゃないしね。ディルド(いわゆる「ペニスバンド」とか「ペニバン」って一般には言われてるヤツ)もあるしね。バイブとかローターもあるしね。ただ、またセーファーセックスの話になるけど、できれば道具に関しては共有して使わない方がいい。共有して使うのなら、コンドームをちゃんと付けること。

「そんなのどこで手に入るの?」って思ってる当事者、別にノンケ男性でも女性でも構わないけど、わたしは「ラブピースクラブ」をお勧めする。ここは女性なら誰でもお店に行けるし、男性は確か女性同伴じゃないとダメだったと思うけど、取り敢えずは行ける。ノンケカップルでもさ、レズビアンカップルでもさ、二人が「これ、ちょっと使ってみたいなー」「こっちはどうかなー」とか話し合いながら、道具を選んでる姿ってなんか素敵じゃない?残念ながら地方に住んでて「行けない」って人は通販使うしかないけど。ここの商品は女の人たちが、女の人のことを考えて売られてるものだから、女の人はすごく安心できると思う。それに本当に多種多様なものを売ってるしね。

ってわけで、果たして「女同士のセックス」で検索掛けて来た人がここまで読むかどうかは知らんが(爆)、取り敢えずはわたしが思っていることを書いてみた。
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03-10 Sat , 2012
「もし同僚が同性愛者だったら」を見た
先月、朝日ニュースターで「ニュースの深層」という番組の中で「オネェだけじゃないLGBTの人生」を見たと日記に書いた。そうしたら今度は同じ「ニュースの深層」の土井香苗さんのときに「もし同僚が同性愛者だったら」という題で番組をやることを知り、それも見たのだけれど。

前回のゲストは知らない人だったんだけど、今回のゲストは木村真紀さんで、木村さんとは知り合いだ。ま、知り合いと言っても2007年以降は会ってないんだけどね。やはりわたしにとっては木村さん=尾辻さんの前カノ、というイメージを持っちゃってる。だから、あのときと比べて「あー、なんだか雰囲気が少し変わったなあ」とか、そういう余計なことを思ってしまって、番組の中で何を言っていたのか、十分集中しきれなかったところはあるし、それに番組を見ている最中、ワクチン打って調子を崩したうちの猫が吐いてしまったりしたものだから、聴き取れなかったところなどがあって、日記に書こうかどうしようか迷ったのだけれど。まあ見たことは見たので、それを残しておく。

木村さんは今、虹色ダイバーシティという団体の代表を務めているらしい。肩書きというか、テロップに流れてきたのは「関西学院大学非常勤講師」だったが、話の中では「コンサルタント会社に勤めており、会社ではカミングアウトしていない」と言っていたので「は?どういうこと?」と思ったのだが、実際はどういうことなんだろうね。カミングアウトしてないのに番組に出ちゃって、それを同僚が見ちゃったら、どうするんだろう?ってそんなことも思ったのだけれど。。まぁそれはそれでいいのかな。

しかし、こう言ってはなんだが、わたしの知ってる木村さんとはちょっと印象が変わったというか、なんかテレビのライトに照らされてたせいなのか、顔が輝いて生き生きしてるような感じがした。あとは着ている服のせいなのか、雰囲気が少しマニッシュになったというか。そして今は女性のパートナーさんがいらっしゃるようだ。

番組で話されてた順番を既に覚えてないのでぐっちゃぐちゃだろうけど、記憶にある範囲で書くと、

初めは「今日のニュース」の中にロシアのプーチンが大統領に再選されて、そして反プーチン派の身柄を拘束している、というのがあった関係と、今、ロシアのなんとかって都市で「反LGBT法」みたいなの(LGBTと表明してはならない、みたいな法律だったと思う)が策定されようとしていて、木村さんは国際会議の場所でロシアでパレードをやろうとしていた人と知り合ったが、次に彼を見たときは、彼が当局によって逮捕されている姿でショックだった、と語り、そしてそのロシアと日本とは共通点があります。G8の中で、同性パートナーシップ法がないのは、このロシアと日本だけなのだ、という話をした。

それから「LGBTってなんですか」という話から始まり、まぁLはレズビアンで、、という説明をしてたんだけど、ちゃんと「LGBTの中にもこの概念に当てはまらない人もいます」って言ってて、そこはさすがって感じだった。また「ダイバーシティ」については「多様性」を意味する言葉で「虹色」と言うのは、性の多様性を表わすものだ、と、まぁこれは、何も知らない人向けの用語説明だったわけだけど。ただなぜ性の多様性を表わすレインボーが6色なのかについては、パレードのときに二手に分かれなければならなかったから、と説明されてたけど、これは初めて聞いた。わたしは確かWikiで読んだと思うんだけど、最初はピンク色などを含む8色だったんだよね。ところがピンク色ともう一色は印刷しにくいってことで、6色に落ちついた、そう思ってたんだけどね。

そして会社ってところは、仕事だけをする場所だと思われているが、実は案外その人の家族のことなど話されている場でもあり、例えばその人に子どもがいたり、子どもがインフルエンザにかかっているとか、そういうことが意識しなくても「当たり前」に情報として伝わってきてたりするのだが、性的少数者としてカミングアウトしていないと、自分は独身だと思われており、しかも、パートナーが例えいても、そのことについては語れない、要するに異性愛者が気軽に自分の身の回りで起きたことを何気なく話しているのに比べて、性的少数者は「これを言ったらどう思われるか」を常に考えて、話さざるを得ないんだということを話してた。例えば今公開されている「人生はビギナーズ」という、父親がゲイとカミングアウトした話の映画(わたしも観に行きたいと思っているのだがまだ観てない)についての話を同僚としようと思っても「もしかして自分の感覚はヘテロの人と違ってたらどうしよう」などと思ってしまうんですよね、と木村さんは言っていた。

確かにわたしも会社に勤めてたときはまさに誰にもカミングアウトしてない状態だったから、彼女がいることは伏せてたし、そういうことは全く触れなかった。だから同僚からは「社会人野球一筋な人」と思われてたと思う。まぁわたしの場合は周囲から結婚だのなんだのと言われたことはないので、その点はすごく楽ではあったが。子どもの話をする同僚は確かにいたねえ~。そういう点でなにも隠す必要がない異性愛者はとっても気が楽だと思う。

そういう「気を使わなければならない環境」にあるLGBTは、仕事の能率にも影響を与えるそうで、例えばLGBTに対して理解のある職場で、その人が「ありのままの自分」を出せるところだと、出せない人に比べて5%だったか10%だったかくらいの仕事の能率が違うんだ、という統計があるそうだ。だから会社自体が「LGBTに対して理解がある」ようになれば、職場の5%くらいを占めると言われているLGBTの仕事の能率自体が上がり、それによって会社に利益をもたらす、という「いい循環」が生まれる、とのことだった。この職場の5%っていうのは、ゴールドマンサックスだったかでの企業調査によるものらしく、でもそういう中でも「カミングアウトしない人」もいるだろうから、実際にはもう少し多いと思ってると木村さんは言っていた。だけど日本で1万人以上従業員がいる、とある企業のお偉方の中には「うちにはそういう従業員はいません」ときっぱり言ったそうで(苦笑)、「1万人もいる中で絶対にそんなことは有り得ないのに」と思っていたそうだ。ってホント、日本の経営者って意識低いよねえ~、、

また、欧米だったか米国だったかで行なわれた「働きやすい会社ベスト100」の調査では、その100社とも全部、LGBTに対する差別禁止規定があったり、何らかの形でLGBTに対する配慮がある会社だったそうだ。特に「北米トヨタ」はランクも非常に高くて、米国ではこういう風にちゃんとLGBTに配慮している会社だそうだが、では日本のトヨタに関しては、というと、それはよく分からない、とのことだった。

そしてマーケティングの話では、可処分所得の高いゲイに対するアプローチも結構されていて、LGBTは一大マーケットとして見られているということだったが、確かにアメリカのゲイやレズビアン雑誌を見ると車の広告、しかも日本の車の広告なんかよく載ってるし、そういう意味では日本の車会社は欧米では「LGBTマーケット」を意識した戦略を立ててる証拠で、でもなんでそれを本国である日本に当てはめないのか、と思う。ただ、日本のゲイ雑誌の中で突然車の広告を出すのはちょっと無理があるが。日本のゲイ雑誌は基本、エロ雑誌だからね~。海外で見られる「エロ抜きのLGBT向けの雑誌」は今、日本ではわたしが知る限りに於いてはないもんね。

ただ、雑誌に広告を出す以外、例えばCMの中に異性愛者カップルや家族の中に同性カップルを紛れ込ませたものを作るとか、そういう方法はあると思う。LGBTはそういうものに非常に敏感なので「あ、ここの会社、自分たちを受け入れてくれている」と思えば、そこの会社の商品は買いたくなると思うんだよね。

あと、番組の中でも言ってたけど、国際レズビアン&ゲイ映画祭ではソフトバンクやBODY SHOPなどの会社の協賛が付いているそうだ。そうすると「ああ、ここの会社は自分たちの存在を知ってくれているんだ」と思えるよね。で、やっぱりそういう会社を応援したくなってしまう。これは人間心理だよね~。

ただし、LGBTはそんなに甘くもなく(笑)、その会社が会社の中でLGBTをどう扱っているのかも厳しく見ている、と言ってたな。

そしてLGBTについてのサポート体制が整っている会社は、業績も上がっているそうだ。だから、これはLGBTだけが得しているわけではなく、会社側にもメリットがあることなんだ、ということを強調していた。現に日本IBMはLGBTに対してのサポート体制が整っているということで割と知られている会社だが、LGBTについてのサポート体制を整えたのと同じ時期から会社の業績が上がり始めた、とのことだ(それまでは他の会社と同じく下がり気味の傾向にあったらしい)。「その理由はどうしてだと思いますか?」と土井さんに聞かれた木村さんは「既に市場が多様性だからだと思います」と答えてた。多様な人のニーズを把握するためには、会社内に多様な人がいないと対応できないと、そういうことらしい。

その「体制」の作り方についての説明もあった。これは先ほど挙げた「虹色ダイバーシティ」のウェブサイトにも載っているが、最初は「支援体制を作ろう」、これによって今まで「会社の中では自分しかいない」と思って孤立していたLGBTの人たちが「ああ、自分の会社にはそういう支援をしてくれるんだ」と思うことによって、何か悩みがあれば相談出来る体制を整える、ということ。次に「制度を変えよう」、例えば「LGBTの人に対して差別してはならない」などの規定を作ること。これは例えばセクハラだとかパワハラだとかを禁止するのと同じような感じで、その中にLGBTのことも入れ込む、ということだ。そうすると会社にいるLGBTの人は自分が差別されないことを知って、安心して会社の中にいることができるということに繋がる。LGBTの人の離職率も減る。すごく能力の高いLGBTの人が会社にいたとして、その人が「やっぱこの会社は居づらい」と思って辞めてしまったら、その会社はすごく損をすることになるよね。そして最後に「意識を変えよう」、管理者に研修を受けさせるなどして上司の意識を変えさせる。会社で「ホモがさー」とか「オカマがさー」という話題になったとしても、上司から「そういうことを言うのは実は差別なのだ」と指摘されるのをもし、LGBTの人が見ていたら「ああ、この人ならもしかしてカミングアウト出来るかも知れない」って思えるよね。そして会社の中にもLGBTの存在が明らかになって、そしてLGBT自体の繋がりも出来る。そういう体制を作りましょう、という話だった。

それから「よく同性愛者は社会に貢献してない」って言われるけど、木村さんは「そうとも限らない」って言ってた。だってカップルで暮らしてても「独身扱い」だから、扶養控除がない。とすれば、結婚している異性愛カップルよりも同性愛カップルの方が国に税金は多く支払っているのだ。これはうちにも当てはまる。わたしは仕事をしてないから、税金は払ってないけど、もし彼女の「扶養」ってことになったら、彼女の税金は「扶養者控除」を受けられる。けど、彼女は法律上独身なわけだから、そんな恩恵は受けられない。その分だけ多く、税金を支払っていることになる。まーこのことは事実婚の異性愛カップルには当てはまらないけどね。でも、異性愛者は「結婚するかしないか」を選択できるが同性カップルは選択できない。そこの違いだよね。

あとは木村さんはレズビアンってことで「女性と言うこととレズビアンと言うことのダブルマイノリティと認識している」と言っていたな。上に「ゲイの可処分所得は高い」と書いたが、日本では男性を100としたとき、女性の賃金は69.8(確かそのくらいだったと記憶している)しかならず、レズビアンカップルはゲイカップルに比べるとダブルで可処分所得が低い、つまり貧乏だってことだ。それはLGBTの問題ではなく、女性問題になってくるのだが、レズビアンはそういう問題も抱えている、と言っていた。

まあ、確かにそれは言えるのだろうけど、わたし自身の実感としては「自分は将来一人で暮らしていかねばならないのだから、それなりの仕事に就かねば」と思って、一人でも十分暮らしていけるような仕事に就いているレズビアンの人もいると思うんだけどね。ただ、そういう人は特に問題はないけれど、やはりカツカツで暮らしているレズビアンも多いことも事実で。それはもう、日本の労働環境を今とまるっきり違う体制にしていかないといけないと思ってるんだけど、日本はそういうところ、とても保守的だからねえ。。今の体制ではどうしても歪みが出てきてもうどうしようもない、となったときにしか体制は変わらないのでは、というちょっと悲観的な見方をわたしはしている。一時あんなに言われてたワークシェアリングなんか、今じゃ全然聞きもしないからね。とことんまで追いつめられないと政治家も経営者も分からないんだと思っている。

とまぁ、覚えている範囲ではこんな感じだったかなあ。とにかくLGBTがいやすい職場というのは、会社にとってもメリットがあるんですよ、ということを強調していたように思う。この番組、題名は「もし同僚が同性愛者だったら」だったが、実際にはLGBT全体の話になってた。まぁ木村さんはレズビアンなので「レズビアンの状況はどうですか?」と話をふられている場面もあったけれどね。

あとこれは余談だが、先月やった「オネェだけじゃないLGBTの人生」の番組に対してはとても反響が大きかったそうだ。反響が大きいってことは、次に繋がるってことなんだよね。まぁ今回の番組はそれを受けてなのかどうかは知らない。けど、CSで誰もが見られるってわけじゃないけど、でもLGBTに関して取りあげられる、というのは、わたしとしてはかなり嬉しいことだし、これからも時折誰かを呼んでLGBTに関する話題が放送されたらなあと思っている。土井さんは先月だったか、朝日新聞にも「朝日新聞はLGBTに対してのオピニオンリーダーになるべきだ」という記事を書いてたよね。まー、わたしは朝日新聞のみならず、他の新聞にもLGBTの話題が載ればいいなあと思っているクチではあるが。

まぁこの番組に対しては、知り合いが出てると話を聞くより「あー、木村さん、今はこんなになってるんだ」とどうしても思っちゃって、話にあんまり入り込めなかったというのもあるし、あと猫が吐きまくって大変だったと言うこともあって、前の「オネェだけじゃないLGBTの人生」に比べると忘れちゃった部分がたくさんあって申し訳ない。

んでも、こういう番組を見た経営者が「うん、そうか」と思って体制を整える動きをしてくれたらいいなー。決して「いない」わけじゃないんだから。少なく見積もっても人口の5%というと、20人に1人なんだから、それ以上の規模の会社では必ずいるってことなんだよね。だから、もし「うちの会社にはそんな人はいない」と思ってても、取り敢えずはLGBTに関する支援体制を作って、支援してますよ、という意志を見せるのが重要。そこからもしかしたら「うちの会社にもいたんだ」ということが分かるかも知れない(それでもまだカミングアウトできないって人もたくさんいるだろうとは思うんだけれども)。正直「支援体制なんか整ってなくても別に今のままで大丈夫」って人は多そうだ(わたしだったら多分そう思う)。それより「本当の自分が分かってもらえそうな人がいる」って分かった方が嬉しいけど、それって上の区分で言うと最終目標になっちゃんだよね。。やはり「そんな人はいない」って思われても最後まで体制は整えておくべきなんじゃないだろうかと思ったり。個人的にはね、そう思ったりもする。ただ、上に書いたように会社にとってもメリットがあるこの話、日本の会社でも是非実現していただけたらと願う(大手企業数社は既に導入したようではあるが)。
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02-29 Wed , 2012
なるほど
先日、うちのホントに近所、自転車で15分のところでちょっとしたイベントがあり、その中に「セクシャルマイノリティ」に関する講義がある、というので行ってきた。

それは性的少数者以外の人に向けての話だったんだけど、始めに性的少数者について「知る」ってことで、セクシャルマイノリティとはどういう人のことか、という話だった。

それによると人の性を「性別」「性自認」「性表現」「性的指向」の4つに分けて、それぞれ男寄り、女寄り、という風にグラデーションになっている、とのことだった。なるほど、確かに今までは「性別」と「性自認」と「性的指向」でしか考えないと、わたしみたいに「ジェンダーがどちらとも言えない」って思ってる人はどうなるんだろう?どう表現すればいいんだろう?って疑問が湧いてくるけど、「性表現」という「自分は男らしくなりたいか、女らしくなりたいか」というものを加えると「あー、わたしはそのどちらでもないのね」ってことになる。

ふーん、そういう分け方もあるのか。ってなんだかすごく感心してしまった。

そして、そのどれにも当てはまらない人、決めたくない人、決められない人などがいるってことで、ちゃんとXジェンダーやAセク、DSDの人の説明もしてたので、こういう説明なら多分ほとんどの人を網羅しているんだろうなと思った。

ただ、例えばFtMとかMtFとかXジェンダーとかっていう「専門用語」は一切使ってなかった。まーただでさえ「性別が男で性自認が女で性表現が男で性的指向が女だったら?」などと考えると頭がごっちゃになるので(この場合は男っぽいMtFレズビアンってことになるだろう)、そこは敢えてそういう用語を使うのは避けたんだろうけどね。

でもそうは言ってもわたしみたいにある程度知っている人間だと「なるほど。そういう説明の仕方があるのか」と思えるけど、初めて聞く人はどうかな~、とは思った。このことを話した講師が聞く人に対してどの程度の理解を求めているかはよく分からなかったんだけどね。その後には性的少数者の自殺率が高いとかそういう話が続いたので「いろんな人がいるんだな」って思ってもらえればよかったのかも知れない。

まーわたしは、今までちょっとどういう風に自分を表現すればいいのか分からなかったので、なんだか疑問が解けたようで、少し嬉しかったんだけどね。ってカテゴリーに入りたがっているわけじゃないけど、やっぱり「自分ってどういう人間なんだろ?」ってつい、思っちゃうからね。。
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02-17 Fri , 2012
読んだよ
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少し前「ブックマーク整理」という題の日記を書いてから、同じ職場で亡くなってしまった人からもらったメールを読んでいた。そのとき彼からもらった最後のメールの最後の最後に

> 昨年東京で行われたLGパレードの報告本がでました。僕の拙い文章も載ってるのでもし見掛けたら笑ってね

って書いてあるのを初めて発見。「報告本って?」と早速Amazonで調べたら、おそらくこの本だろうということで早速入手。届いたので読む。

どきどきしながら読んだんだけど、果たして彼の文章は載っていた。読んだよ、Mさん。あれから11年後にね。笑わなかったよ。でも泣きもしなかったよ。

あの当時、LGパレードと言われてもなんのことやら分からなかったわたし。その6年後からまさか自分がパレードに参加するとは思ってもみなかったな。

Mさん。あなたがもしずっと生き続けていたら、わたしの人生変わってたかな。仕事は辞めないで、Mさんと一緒に活動し、彼女を自分のところへ呼び寄せてたかな。そんなことを思ってるよ。。

【追記】LGパレードとは「レズビアン&ゲイパレード」のことで、2006年までは東京で行なわれていたパレードはこのような名称でした。2007年から「プライドパレード」に名称変更しています。
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02-15 Wed , 2012
「オネェだけじゃないLGBTの人生」を見た
今日の20時から朝日ニュースターでやった「オネェだけじゃないLGBTの人生」って番組を見た。というか、これは今回の題名で、本当は「ニュースの深層」って番組名だったかな?初めて見たんだけど、ヒューマンライツウォッチの土井香苗さんが司会をやってた。

ゲストに出てきた松中さんって人もその人が代表をやっている「グッド・エイジング・エールズ」って団体も初めて知って、へー、こんな活動してる人たちがいるんだ、って思った。まーわたしは最近、あんまり外出てないしね。そういう情報もあんまり集めてないしね。

わたしの知らない団体は多分、たくさんあるんだろうけど、いい傾向だ(笑)日本にも性的少数者がいろんな団体作って、いろんなことやればいいのにって思ってるからさ。今はそれぞれ「点」でしかないかも知れないけど、それがいつしか「面」になって、全体的に底上げされるのを期待しているんだけどね(って偉そう(^^;)。

番組自体は可もなく不可もなく、って感じだったかな。押さえるべきところはちゃんと押さえてると思ったし、それこそ「オネエ」しか知らないような人たちにとっては分かりやすい番組だったんじゃないかなと思う。

内容としては「昨日はバレンタインデーでしたねー」という話から始まり、「バレンタインデーにチョコをあげるのは男性から女性、女性から男性と思われているけれど、男性から男性へ、女性から女性へ、という場合もありうる。愛の形は一つだけじゃないんですよね」と話を同性愛に持って行く、という形だった。それからゲストの説明。ゲストの松中さんって人はゲイなのだが、いつゲイだと気が付いたか、とか。松中さんの場合、小学校高学年の頃から周囲が異性のことについて話しているのに、男性につい目が向いてしまう自分に「あれ?」と思い始め、「でもいつかは治るだろう」と中学、高校にかけて考えていたのに治らず、大学に入ったときに「観念」したそうだ。ゲイ雑誌を見て「自分と同じような人がいる」ということも知ったらしい。ただ、松中さんの場合は、自分がゲイであるということについてはそんなに悩まなかった、ということで、でも、中には自殺を考えるほど悩む人もいる、という話もしていた。

その後は「LGBT」って何?という話。ここでは身体の性と心の性、という表現の仕方をしていた。Lはレズビアンで身体の性は女性、心の性も女性だが、恋愛対象が女性の人のこと。Gはゲイで身体の性は男性、心の性も男性だが、恋愛対象が男の人のこと。Bはバイセクシャルで、身体の性は女性、心の性は女性で、恋愛対象は男女両方、または身体の性が男性、心の性は男性で、恋愛対象は両方の人、Tはトランスジェンダーで、身体の性と心の性が不一致な人、つまり女性の身体に生まれつつ、心が男性、男性の身体に生まれつつ、心が女性、そういう説明の仕方だったかな。

そして今、テレビに出ているいわゆる「オネエタレント」の人は、例えばマツコデラックスさんなどはおそらくゲイで、女装(特に女になりたいわけじゃなく、女の格好をしたいだけ)をしたい人であろう(本人に確認したので本当のところは分からないけど、という註釈付き)、逆にはるな愛さんは、男性の身体で生まれて女性になりたいというトランスジェンダーで、「オネエ」と一括りにされているけれど、ゲイとトランスジェンダーが入り交じった状態なのだと。

ただ、ゲイはすべてがオネエではなく、例えば同じ職場の同僚の中にもLGBTが含まれている可能性がある。ある会社が「あなたはセクシャルマイノリティですか?」というアンケートを取ったところ「そうである」と答えた人が全体の5%~8%いたそうだ(でもこれって、すごーくカミングアウトしやすい会社じゃないとこういう結果は出て来ないとわたしは思うんだけどね。これはおそらく外資系の会社か、LGBT先進国の会社のアンケートの結果じゃないかな。今の日本で同じアンケートを取っても、こんなに高確率でLGBTであると答える人はいないと思う)。松中さんは会社の一部で自分はゲイであると言うことをカミングアウトしているそうだが、LGBTにとって就職活動というのは、一つのハードルになっている。自分を異性愛者と偽って会社に入るという手もある(同性愛者の場合)が、自分を偽りたくない人の場合、どうやって自分のことを説明するのか。また、トランスジェンダーの人は、自分の戸籍上の性別と違う格好で就職活動をしたいけれど、そのとき、会社の人から不審な目で見られないだろうかと脅える場合がある。

外資系の会社の場合、例えば日本IBMなどは、会社を挙げてダイバーシティー(多様性)を認めているので、面接官に本当のことを言っても、彼らは訓練を受けているので、当事者が傷つかない対応をしてくれると思うが、日本の会社ではまだまだだろう、とのことだった。ただ、日本でもソフトバンクはゲイフレンドリーで、同居している同性同士の人であれば、家族割りが使えるとか、そういう話もしていた。

また、松中さんは広告代理店に勤めているそうだが、ある日本の車会社と一緒に仕事をしたとき、それまで男性だと思っていた人が、あるとき「これからは女性として見て下さい」と言われて、びっくり仰天したそうだ。そのときは松中さんは自分がゲイであることは認識していたが、まだ周囲にカミングアウトしていなかったときの話で、その社風を羨ましく思い、本気でその会社に転職しようかと思った、と言っていた。

会社全体の5%~8%いる、ということは、チームで仕事をしていた場合はもしかしたら、一人や二人、LGBTの人がいるかも知れない状況なのに、周囲はそれを知らない状況なので、言った本人は冗談かも知れないが、当事者にとっては全く笑うことの出来ないことも起こる、という話の中で、具体的に、ある会社の役員会だったかな、会議で禁煙をした人に対する嫌がらせ(?)で、わざとその人の前にメンソールの細い煙草を本人の目の前に置いておいたら、その人は「自分はこんなオカマの吸うような煙草は吸わない」と言い、実際、その会議の場にはゲイもレズビアンもいたので、周囲が凍り付いた、という話をしていた。でもこれって、見ながら彼女と話してたんだけど、どっちもどっちだよね、って(笑)確かにゲイを揶揄するような言葉遣いはどうかと思うが、それ以前に禁煙している人に対して嫌がらせするってのはねー(苦笑)

松中さんはそれまで全くのクローゼットだったが、カミングアウトしようと思ったきっかけは、会社の研修でアメリカのニューヨークに半年ほど行っていたとき、ゲイコミュニティーを見たり、周囲の人の中に自然とLGBTの人が溶け込んでいる雰囲気を自由に感じ、それで日本に帰ってきてから「グッド・エイジング・エールズ」を仲間と一緒に立ち上げた、ということだった。そして、そのときは両親にはカミングアウトしていなかったんだけど、あるとき父親が定年退職し、その後PCを買って、いろいろ検索している、ということを兄弟から知らされ(松中さんは3人兄弟の真ん中で、そのときは兄と弟にはカミングアウトしていたらしい)、これは早晩検索で自分のことがばれてしまう、そこでばれてしまうまえに自分から両親に直接カミングアウトしようと思って、正月帰省したときに自分で両親にカミングアウトした、とのことだった。

そのときの両親の反応は、父親は微妙な感じだったが、母親がすぐに受け入れてくれ、その場では松中さんの過去の恋人の話になったり、今まで聞いたことがなかった父親と母親との出会いなどの話になり、すごく楽しかった、と言っていた。ただその母親もお酒に酔ったときにポロッと「もしかして、小さい頃、叩いたことが原因で女の人が嫌いになったの?」と言われ、松中さんはそれを「全然そういうことじゃないから」と否定したって言ってたな。やはり今の日本ではどうしても子育ては母親が中心だから、母親が責任を感じちゃうんだろうなー。

その立ち上げた「グッド・エイジング・エールズ」は、性的少数者フレンドリーな老人ホームというか、お年寄りが暮らす場所を作りたいと考えているそうで、特に異性愛、同性愛、その他関係なく、独り身の人であったりした人でもOKな場所にしたいってことだった。そういう話を両親にしたら、父親があるとき「自分もそこに入っていいか」というメールを松中さんによこしたが、松中さん自身は仕事で忙しく、1週間くらい返事をしなかったら、母親から「お父さんが毎日メールボックスを覗いています」というメールが来たそうで、そのときはメールをせず、急いで電話を掛けたって言ってた。

「結婚は男女だけのもの」と今の日本では思われているが、欧米の先進国を中心に同性同士が結婚できる(同性婚)国もあり、その説明とか、あと結婚までは至らないけれど、同性同士のパートナーシップ制度を作っている国の説明とか、同性同士の関係でも法的に保障されている国がある、という話をしていた。

あとはグッド・エイジング・エールズでは、将来的に年寄りが集まって暮らす場所のことだけを考えているんじゃなく、去年の夏は葉山で土日のみ「カラフルカフェ」というLGBTが中心となったカフェで、LGBTフレンドリーの人なら誰でも来てね、というカフェをやったんだとか。ご近所さんのふれあいとか、あと、異性愛者のミュージシャンがそこでコンサートを開いたりとか、やっていたときは「土日しかない会社の休みをすべてカフェに使ってクタクタ状態」で「もうこんな大変なことはやらない」と思ったそうだが、喉元過ぎればなんとやらで、あの楽しさが忘れられず、おそらく今年も開催する、とのことだった。その「カラフルカフェ」のスポンサーはアルファロメオで、やってる期間、車を貸してくれたし、ぶつけて壊しちゃった修理代も全部持ってくれたって言ってたな(笑)

それから、日本にもいろんなLGBTの活動がありますよ、ってことで先月、1月15日に世田谷区でやった「LGBT成人式」のことが紹介されていた。世田谷区長を初め、区議の人もたくさん来てくれた中で、350人ほどのLGBTが集まり、その中で成人を迎えた人が「LGBTとして強く生きていく」ことを宣言したりしたってことだった。まぁLGBT成人式については、わたしも事前に知っていたし、知り合いも何人か行って、非常に感激して帰ってきたそうなので(LGBT成人式と言えども、対象は今年の新成人だけではなく、すべての成人対象だった。というのは、自分の成人式にどうしても出たくない、と考えて出なかったLGBTの成人が多いからだ。トランスジェンダーの人はそれが顕著で、例えば身体が男性であっても「振り袖を着て出席したい」と思う人だっているわけだが、実際の成人式でそれができるかというと、すごく難しい。だから自分の成人式は出なかった、という人も結構いる)、きっといい式だったんだろうなと思ってるし、ここまでやった早稲田大学のRe:Bitさん、すごいというか、きっとここまで来るにはとても大変な道のりだっただろうけど、よくやり遂げたと思ってるんだけどね。ただ、来年からはどうするんだろうと思ってたり。今年だけのイベントなのかな、これ。

そして最後に「日本のLGBTの人たちは全部でどのくらいいると思いますか?」の問いに「そんなん、全体が見えなきゃ割合なんか分かるわけないだろ、くだらん質問するな」とわたしは言いたいところだったが(笑)、松中さんは「存在的にはおそらくやはり5~8%くらいいるだろう。自分は自分がカミングアウトしているので、周囲にもカミングアウトしている人は多いけれど、日本全体で言うとまだまだ全然カミングアウト出来ない状況、多分、カミングアウトしている人は1割くらいしかいないんじゃないか」と答えていた。もちろん「カミングアウトすることが決していいということではないけれども」とも付け加えていた。そして「日本でもっとカミングアウトできるようになるにはどうすればいいか」という質問に対しては「おそらく法的な整備、同性婚までは無理かも知れないが、パートナーシップ制度の確立、といったものが必要だろう」と。それから日本の会社に対してはそういう「前例」はないかも知れないが、社員の中には必ず存在しているのだから、そういう人を意識した対応をして欲しい、と答えていた。

まぁ、だいたいわたしの記憶しているところではこんなところかな。番組全体で言うと、だいたいのことは網羅していると思う。そういう点で番組自体は「可もなく不可もなく」って感じ、とわたしは思った。

ただねー、やっぱりわたしはそこから漏れてしまう人たちのことをつい、考えてしまうんだよね。

トランスジェンダーでも、必ずしも反対の性になりたいって思ってる人ばかりじゃないとか(どちらの性にもなりたくない人、どちらの性かよく分からない人もいる;一般にXジェンダーと呼ばれる)、トランスジェンダーの中にもゲイやレズビアン、バイセクシャルがいる、とか、あとはあんまり恋愛はしたいって考えてない人、とかね、恋愛するけど性交渉はしたくないと思ってる人とかね。あと逆にどういう人たちも全部恋愛対象(両性愛者は「男」と「女」に惹かれるけど、どちらの性にもなりたくない人とか「男」「女」という枠に囚われない人にも惹かれる、という意味)の人、とかね。

LGBTを語るとき「愛にはいろんな形がある」ってよく言われるけど、でも中には愛のない人だっているわけで、だからわたしは最近「愛することは素晴らしい」とは手放しで言えなくなった。確かに人を愛することは素晴らしいけど、そうじゃなくったって素晴らしい、って、人を愛することだけがすべてじゃない、言うならそう言おうと思ってる。

だってわたしらは散々世間から「いないもの」にされてきたんだもん。いや、今だって「いないもの」にされている。けど、それでもLGBTの中では多数派だから、LGBTを語るときはまず無視されない。けど、そのLGBTを語っているときでもそれでもまだ「いないもの」にされてる人たちがいる、そういう人たちはどう思うだろうってさ、そう思っちゃうんだよね。

ただ、そういうことを言い出すときりがない、というのはある。何も知らない人からすると、余計頭が混乱してしまうかも知れない。性別は男で、でも女性になりたくて、でも女性が好きってどういうこと?とか。

でもだからといって「いないもの」にされる人がいていいんだろうか、と思う。

あと「身体の性」「心の性」という言い方、確かに分かりやすい表現なんだけれど、「心の性」って結局なんなんだろう?って今わたしは思ってるんだよね。「男になりたい」というのと「男らしくなりたい」というのは「心の性」と表現すると一致してしまう、ような気がする。でも厳密に言うと違うわけだよね。中には「男にはなりたくないけど、男らしくなりたい」って人だっているし、その逆の「女にはなりたくないけど、女らしくなりたい」って人だっているわけで。わたしなんかは「自分は女と思ってるけど、別に男らしくも女らしくもなりたくない」って思ってるわけだし「自分は男と思ってて、でも女らしくなりたい」って知り合いもいる。こういうのって厳密に言えばトランスジェンダーには入らない。けど、そういう人を呼び表わす言葉がない。性別違和があるわけじゃないからXジェンダーでもない。

そう考えると「心の性」という言い方は微妙だよなって思う。かといって、他に分かりやすい言葉があるかというと、それは難しいんだよね。。まず「性別違和」があるかないか。それによってトランスジェンダーかそうでないかが決まるだろう。そして「なりたい」のか「らしくなりたい」のか。トランスジェンダーはその両方を含むことになる。性同一性障害はどっちかというとそのうちの「なりたい」になるのかな、今は。ただ、性同一性障害も将来的には概念がどんどん変わってくるみたいなので、もしかしたらいつかは「トランスジェンダー」=「性同一性障害」になるかも知れないけど、でも「性同一性障害」って病名を付けられることにもなるから、嫌がる人もたくさんいるだろうね。なんて、ホント、トランスジェンダーはとても難しいのだ。人の数だけトランスジェンダーがある、って思った方がいいようにわたしは思ってるんだけどね。それから性別違和のないわたしみたいなのはこういう括りでは何とも言えない存在になる。

あ、別にこれは番組を批判しているわけじゃないよ。あれはあれでよかったと思うし、ただわたしの感覚はそうなんだよね。

それと、なんかかなり就職活動とか、ちゃんと就職してる人がいる団体って感じだったので、わたしのような40代にもなってまだ病気でふらふらしてる人間からすると、ちょっと接しにくいかなぁという感じが(苦笑)接しにくい、というか接点がない、というかね。

まー、そんなことを思ったのでした。これがCSの番組じゃなくて、地上波(ってもう言わないんだっけ?地デジ?)の番組だったら、もっとたくさんの人が見られたんだろうなーと思うと惜しい。オネエだけがゲイじゃないし、ゲイはオネエだけでもない。あとレズビアンとかバイセクシャルとか他の性的少数者ももっと出てくればいいのになーって思うんだけど、今の日本じゃまだまだ出てこない。出てこないんじゃなくて「出てこられない」んだろうけどね。「いない」って思われてるからさ。

それがちょっと悔しいね。
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02-04 Sat , 2012
「同性愛の謎」の驚くべきトンデモさ
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竹内久美子という人が書いたこの本、最近出た本のようだが、こんな本が本当に出回っていいのか?と思ってしまうようなトンデモ本だ。これを何も知らない人たちが読んで信じてしまったら、と考えると怖いくらいだ。

ツッコミどころが多すぎて、どこから書いていいのか分からないんだけど、全体的に書きようが大げさだ。「なんと!○○だったのだ!」とか、とにかく「!」が多い。だけど、ここに書いてあることって、さも新しげで「最新情報」みたいな感じがするけど、実は既にどこぞに書いてあることなんだよね~。新しくもなんともない。しかも、なんといっても著者が同性愛者の理解について圧倒的に足らないか未熟。

まぁ気になったところ、最初から挙げてきましょか。

まず「キンゼイレポート」で有名なキンゼイなのだが、同性愛者って書いてある。わたし、今までいろんなキンゼイについて書いてある本を読んだことがあるけど、同性愛者って記述は初めて見た。というか、ジェンダー・スタディーズ(大阪大学出版会)の42ページに「キンゼイは、人間はみな基本的に両性愛、それも一生固定しているのではなくて、流動的なものだと考え、0が100%異性愛で10が100%同性愛という尺度でいえば、クライド(キンゼイの助手)は3、キンゼイは1と診断する。」と書いてある。まぁ実際、キンゼイレポートによる異性愛と同性愛の尺度は0から6の7段階で、なんでここでは0から10って書いてあるのかは謎なんだけど、この記述を見るとキンゼイはどちらかというと異性愛者寄りであり、同性愛者だとは言えない。このクライドって助手とキンゼイはクライドの誘いで性的関係を持つんだけど、それが「同性愛」と判断されたのかなぁ?でもキンゼイには妻もいるんだけどね。

あとペニスの大きさが大きい方が、ゲイの間では魅力の一つって書いてあるんだけど、まぁそれについては本当なのかどうなのかは知らない。でもこの人、「ゲイのセックス」=「アナルセックス」としか思ってないようだ。なんかオーストラリア人のゲイが日本のゲイとセックスしたときにペニスの大きさが足りなかったので何の満足も得られなかったとか、ゲイの主流はバイセクシャルで、そのバイセクシャルの行なう同性愛行動は、実は異性愛行動のための練習だとか。同性愛関係の本(特に「同性愛って何?」みたいな基礎知識本)には必ず「ゲイの行なうセックスはアナルセックスだけではない」って書いてあるわけで。オーラルのみとか、しごきあいとか、そういうセックスの仕方もあるわけなんだよね。わたしも見てきたように言うけどさ(笑)、実際、そういうセックスしかしないって話をゲイの人としたこともあるんだよね。だから「ゲイのセックス」=「アナルセックスのみ」と思わせるようなこれらの表現は、ゲイの間違った知識を植え付ける役割もしているわけで。その罪は大きいと思うよ。

それからドイツの性科学者であるヒルシュフェルトは自身が同性愛者で、同性愛について研究し、その原因が生物学的な問題であることを主張していたのに、男性同性愛者のことを自ら「倒錯者」と言い、そのことについて「それにしても倒錯者とは・・・。同性愛が病気ではないとWHOが見なしたのが1990年。ヒルシュフェルトについてはまだ時期が早すぎたというべきか。」と書いてるけど、あの時代は同性愛者は倒錯者と呼ばれ、同性愛行為は犯罪とされたり治療の対象になっていた。だから、ヒルシュフェルトは生物学的な原因だから治療しても治らない、と言ったのだ。しかし結局、そのことさえ逆手にとられて、ナチスに「障害者(劣性遺伝子を持つもの)」と見なされ「断種されなければならない存在」とされて強制収容所にぶち込まれ虐殺の対象になってしまった。そういう「歴史的な背景」を全然知らないのか、この人は、って感じだ。何が「時期が早すぎた」だ。同性愛が病気でないとされるまでの同性愛者たちの過酷な歴史や努力を全く書こうともせず(もしかして知らない?)、ものすごく呑気(あるいは脳天気)としか言いようがない。

「知らない」と言えば、ヘテロの被験者とゲイの被験者を集め、父、母、一番年長のキョウダイ、一番年下のキョウダイ、という4人に絞り、以下の4つの質問をした実験。(1)これら4人の住んでいる場所から、それぞれどれくらい離れた場所に住んでいるか。(2)彼らと、過去1ヶ月に何回会っているか(電話で話した回数も含める。)(3)彼らと過去1年間のうちにどれだけお金が動いたか(あげた、ともらった、の両方で。単位はUSドル)(4)彼らとどれほど心の距離があると感ずるか。1(とても近い)から7(とても離れている)までの7段階で答える。

この結果(1)はあまり違いがなかったけれど、(2)で差が出て、ゲイグループは電話も含め、父母に会う機会が少ない、(3)は省略、(4)心の距離はゲイグループの方が心の距離がある、と出たそうだ。で、その結果を受けて「血縁者の繁殖を助け、間接的に自分の遺伝子のコピーを残そうとしているのだという『ヘルパー仮説』には信憑性がなくなってくる。」って書いてあるけど、なんでこの人「同性愛者にはカミングアウト」という問題があることを考えないのだろうか?このゲイの被験者はカミングアウトしているかどうかには全く触れていないので、何とも言えないのだけれど、家族との距離感が遠いのは、カミングアウトしていないせいとも考えられるし、カミングアウトしたものの、家族から拒否されて家族と会わないって人もいるだろう。「ヘルパー仮説」云々を本当に証明したいのであれば、被験者のゲイは全員家族にカミングアウト済みで、家族との関係も良好な人たちを選ばなければならない。しかもこのことは「実験条件」として明白に書かれなければならない。こんなの全然「科学実験」でもなんでもない。こんな実験をしてこんな結果が出てくるのは、ある意味「当然」のことだ。

それと同じことが言えるのは、ある実験において、ゲイについてはゲイコミュニティーと'94年にトロントで行なわれたゲイとレズビアンのパレードに参加していた男性、異性愛者については「ロータリークラブ」のような社会奉仕団体の組織をいくつかと2つの大学のキャンパスにビラを貼って集めたそうだ。そして条件に合ったのは736人で、これらの人々にいよいよ性的指向を訊ねたら、2つの例外があった、と。「ゲイパレードの際に集めたのに、自分は異性愛者だと答えた例と、社会奉仕団体で集めたが、自分は同性愛者だと答えた例だ。前者についてはどういうことなのかわからないが、後者の場合に同性愛者が一例しかないというのも、考えてみれば不思議だ。社会奉仕団体のメンバーは性的指向に関係なく集まってくるはずである。とすれば、キンゼイ報告やその他の調査でわかったように、社会奉仕団体においても男の数%が同性愛オンリー、十数%がバイセクシャル、というような結果が現われても不思議はないはずなのだが。」って書いてあるんだけど、これ読んだときに、呆れて何も言えなかった。

あのさぁ。ゲイパレードはゲイだけのものじゃないんですけど。ゲイパレードにだって異性愛者はたくさん参加してるんだよ?同性愛者の親も参加してるし異性愛者の友達も参加してる。もしかしたら誰も知り合いはいないけど、ゲイパレードは楽しいから、また、ゲイの権利を応援したいから参加したいって思って参加する人もいるかも知れない。そういう「アライ」さん(異性愛者でLGBTフレンドリーな人たちのこと)がいて、そういう人たちもパレードに参加していることをこの人全く知らない。ゲイパレードに参加するのは当事者だけだと思い込んでいる。なんて無知なんだろう。そして、同性愛者が一例しかないというのも、そんなに人に簡単にカミングアウトするなんて人はいない、と考えるべきなんじゃないの?こんなの全然不思議でもなんでもない。だって、突然あまり親しくもない人から「あなたの性的指向はなんですか?」って訊ねられて素直に「わたしはゲイです」なんてオープンに答えられる人なんかそうそういないはずだ。そういう「同性愛者の置かれた状況」について、この人は本当に全く知らない。それでよくこんな本書けるもんだと思うね、全く。

それから遺伝子の問題。「人間には22対の常染色体と一組の性染色体がある。性染色体は男でXY、女でXXの状態である。男は父親からYを受け継ぐ都合上、Xは必ず母親由来のものを受け継ぐことになる。このX上に問題の遺伝子があると、男では症状が現われてしまうのだ。一方で女が全員セーフなのは、性染色体がXXだからだ。どちらのXにも問題の遺伝子が乗っていなければ、もちろん問題は起こらない。そしてたとえ問題の遺伝子を乗せているXを一つ受け継いでいても、もう一つの正常なXがちゃんと働くので、問題が発生しないようになっているのである(ちなみに、2つのXのどちらにも問題の遺伝子が乗るという事態は、この一族のようなケースでは近親交配を行なわない限り起こり得ない)。」そして血縁者の誰に同性愛者が多いかどうかをあれこれと書いているが、結論として「どうやら男性同性愛に関わる遺伝子のうち最も重要と思われるものは、母から息子へと伝えられているらしい。父から息子へは伝わらないようだ。」「男性同性愛に関わる遺伝子の一つが、性染色体のXに存在することはほとんど疑いようがない。他の人々の研究によっても、男性同性愛者の母方に男性同性愛者が多いことが確かめられていて、それはX上に男性同性愛遺伝子の一つが存在することの動かぬ証拠だからである。」と書いてある。

あのー。この理論だと、女性同性愛者、いわゆるレズビアンは存在しない、ということになってしまうのだけれど。女は症状が出てこない「保因者」でしか有り得ないんでしょ。レズビアンであるということは、XXはどちらとも「異常」(敢えてこの言葉を使う)ということなんだけど(この説によればね)、XXが異常な場合って近親交配の結果でしか起こり得ないんでしょ?だったらレズビアンはなぜ生まれてくるの?レズビアンはみんな親が近親交配した結果なの?少なくともうちは違うけど?(笑)

それから、男性異性愛者と男性同性愛者のキョウダイの数を比較した研究では「姉の数も、弟の数も、妹の数も違いはなかった。違いがあったのは、兄の数のみである。同性愛グループには兄が多い!」(この本、こういう風に「!」を多用してるのよ)「このように、すべての被験者を兄の数によって分類すると、兄の数が多い場合ほど、同性愛者の占める割合が高くなっていくことがわかる。」「ブランチャードらによると、兄が一人増えるごとに、男の子が将来同性愛者になる確率は33%増していく勘定になるという。」「ともかく理論上の計算によれば、男性同性愛者の7人に1人は、兄がいることが原因となっている、とブランチャードらは結論しているのである。」「それにしてもなぜ、兄の数なのか?姉はなぜ関係ないのだろう?それは…兄が男であるのに対し、姉は女だからである!」(また「!」かよ。。)そしてその理由としては「そもそも女が子を身籠もること自体、大変な出来事だ。胎児は自分と相手の男の遺伝子を半々に受け継いだ存在で、いわば半分は自分であり、半分は他人である。その他人の部分においては異物であり、免疫的に拒否反応が起きても不思議はない。しかし、そうはならないよう我々の身体はできている。胎児と母親とがつながっている場所である胎盤は、まさに関所のような役割を果たしており、栄養以外の物質はなるべく通れないようになっている。もっともそれでも解決できていない問題が微妙に残されている。それらのうち、最大の問題の一つが、女が男の子を身籠もった場合だ。男しか持たない性染色体、Yからつくられる、男しか持たない物質が、この関所を通り、母親の体内に侵入してきた場合、異物とみなされてしまうのである(男の性染色体はXY、女の性染色体はXXという状態)。その物質、H-Y抗原は、男の体の細胞の表面などに存在している。母親が男の子を身籠もっているとき、母親の血液の中にこの抗原に対する抗体がつくられることがある。それは男の胎児を免疫的に攻撃し始めるわけだが、H-Y抗原は何と、脳の細胞表面に特に多く存在するという。つまり、母親の抗体が男の胎児の脳を攻撃し、彼の脳の男性化を阻止するかもしれないー。攻撃の確率は、女が男の子をより多く身籠もるほど、高くなっていく。兄が多い男の胎児ほど、母親から免疫的に攻撃され、脳の男性化が阻止される確率も高くなるだろうというわけである。」

呆れてものも言えないトンデモ理論だが。。これもね、じゃあなんでレズビアンは生まれてくるの?って回答にはなってないよね。母親が女の胎児を身籠もっている場合、胎児の遺伝子はXXなわけだから、Y遺伝子が持つというH-Y抗原が胎児の脳を攻撃することはないわけでしょう、この理屈からすると。そもそもXX遺伝子を持つ胎児はH-Y遺伝子は持ってないわけなんだから。XX遺伝子を持っている胎児の脳は攻撃される対象を持ってない。攻撃されてないんだから、脳は一般の異性愛者女性と全く同じでレズビアンは生まれてこないってことになるよね。この理屈も上の理屈と同じく、レズビアンの場合は全く説明が付かないのだ。この説も「男性同性愛者のみ」で考えられており、そこに「女性同性愛者」がいるってことは全く考えられていない。

以前散々言われた「ホルモンシャワー説」(母親が妊娠中にストレスを受けて、男性ホルモンが少なくなったからゲイが生まれるという説)とか「脳梁説」(ゲイの脳梁は女性と同じくらい太いという説)と同じなんだけどさ、これじゃレズビアンの場合は成り立たないんだって(「脳梁説」の場合、レズビアンは男性と同じという可能性はあるが、それに触れられている論文は今まで見たことない。それに脳梁の太さがただ「同じ傾向」があるというだけで、同性愛と結びつける因果関係がはっきりとしない)。こういう実験でいつも気になるのは、対象は「ゲイ」で「レズビアン」のことはまるっきり無視されてることだ。科学者って、わたしも理系だから経験あるんだけどさ、ありとあらゆる場合を想定して、それでも成り立つ、ということを証明して初めてその説が「普遍的」に成立するんじゃないの?同性愛者は男性だけでなく女性もいるんだよ?あと、同性愛者だけでなく両性愛者(バイセクシャル)もいるけど、その人たちの場合はどう考えればいいんだろうね?(ちなみにすべての人間が同性愛、異性愛、両性愛だけに分けられるだけではなく、その他に全性愛、無性愛、非性愛、その他があり、「脳の○○によって△△愛者になる」という結論が出したいのであれば、これらすべてのパターンに当てはめてもおかしくない理論を打ち立てなければ「普遍的」とは言えない)

【後日追記】もう一つ。仮に、あくまでも仮にだが、「女性化(男性化)した脳を持つ男性(女性)」=「ゲイ(レズビアン)」ならば、性別違和を持った人の脳はどうなっているのだろうって疑問が湧いてこないか?この世界には性別違和を持つ人がいる。生まれたときの外性器の形で性別は決められるが、大きくなるにつれ、自分の性別が自分の決められた性別とは違うと感じられる人たちだ。属に「身体の性と心の性が一致しない人」とか「性同一性障害(GID)」とも言われる(※)。まぁそういう人たちがいるってことも完全に無視しちゃってるよね、この本は。「女性化(男性化)した脳を持つ男性(女性)」=「性別違和を持っている人」とも考えられないことはないよね。っていうか、逆に女性化(男性化)した脳を持ってるんだから「同性が好き」ってよりは「女性(男性)になりたいんだ」って考えた方が理屈として通るんじゃないか(っていうか、これはあくまでも反論するために考えた理屈であり、何を持って「女性化(男性化)した脳」と判断できるのかは今のところ誰にも分かっていないということです。脳の重さとか、脳梁の形とか、目に見えるものでしか判断していない。脳の中身の方が重要かも知れないのに、脳の中身については全く研究されていない)。

(※)「性同一性障害」というのは病名であり、それにともなって何らかの医療行為を受けたい人が医療行為を受けるために病院に行ってそういう診断名を付けてもらうわけで、性別違和を感じる人が全員「性同一性障害」なわけではありません。そもそも性別違和を感じる人が全員「異性になりたい、異性として暮らしたい」と思っているわけではありません。ここのところは千差万別で、「その原因は何なのか、どこから来るのか」ということを解明するのは非常に困難だと思います。また、性別違和を感じている人は必ずしも異性愛者ではありません(同性愛者もいます)。なので、こういった原因を追及していくのであれば、「同性愛者」と「性別違和を感じている人」はきっちり分けて考えておく必要があります。【追記終わり】

そして、何も知らず、というか「もしや自分の息子はゲイなのでは」と思っている母親がこれを読んだらどんなに傷つくか。。何も知らない母親は「自分のせいだ」って思っちゃうよ、これ。実際、子どもにカミングアウトされて混乱している親が「何か知りたい」と思って同性愛について書かれた本を探す、ということがある。そのときにもしこの本を手に取ってしまったら。。。悲劇が起こるよ。(子どもにカミングアウトされて困惑されている親御さんのために。カミングアウト・レターズ(太郎次郎社エディタス)という本があります。これを読んでみて下さい)

ちなみに「ゲイ遺伝子説」については、同性愛入門(編・伏見憲明、ポット出版)の41ページから43ページで触れられてて(というか、ゲイ遺伝子説だけでなく、脳の違い説も載ってて、この「同性愛の謎」に書かれている内容はほとんど既に2003年の時点でこの本に書かれている)、同じ実験をカナダで行なったところ、X染色体に遺伝子がありそうだという結果を得ることはできなかった、と書いてあるし、科学で分かる男と女になるしくみ(サイエンス・アイ新書)に至っては「ゲイ遺伝子に関する研究は進められているが、そのたびに結果が違う。結局のところ、同性愛男性に共通する『ゲイ遺伝子』があるかどうかも、あるとしたらどこにあるかもはっきりとしていない、ということだ。」(82ページ)と書いてある。だから、ゲイ遺伝子については、こんなにはっきりと「X染色体に原因がある」とは言い切れないのだ。これしか読んでない人はこれ信じちゃうと思うと怖いよ、ホント。

あとまだあるんだよ(笑)

「男性同性愛者は男性異性愛者と体格に差がなくても、ダーツ投げ、ボール投げが全般に苦手で、それは女性異性愛者と同じくらいのレヴェルだったのである。1991年に双子研究を発表したベイリー&ビラードも、いくつかの質問の中に、こどもの頃、スポーツにどれほど興味があったかという項目を設定している。するとやはり、男性同性愛者は男性異性愛者ほどにスポーツに興味がなかった。そもそもスポーツが苦手だから興味がないと言うことなのかも知れない。」と書きながら、別のページでは「ワールド・アウトゲームズとは、LGBTによるスポーツとカルチャーの祭典で、この時92カ国から5518人が参加している。陸上、水泳、バドミントン、バレーボール、テニス、サッカー、アイスホッケー、フィギュアスケートといったオリンピックにある種目の他に、ゴルフ、ダンス、エアロビクス、カントリー・ウエスタンダンスなどもある」と書いてある。

あの~。ゲイがスポーツ苦手で興味なかったら、そもそもこんな大会やらないんじゃないの?それとも参加してるのはすべてレズビアンなの?確かにゲイは子供の頃、ボール投げなどが不得意で、野球なんか全然興味がないっていう人もいるよ。でもさ、それがすべてじゃないんだよ?中には身体動かすのが好きなゲイもいっぱいいるよ。だって、ジムに通って身体鍛えてるゲイの人って本当にたくさんいるんだから。それなのになんで「ゲイはスポーツが苦手で興味がない」って決めつけるの?それって「ゲイは女性的」と思ってる、いわゆる「偏見」ってやつなんじゃないの?

あとこういう記述もある。「メイクアップアーティストやスタイリスト、美容師、華道家、編み物の先生、ダンサー、作家などにずば抜けた才能を持つ男性同性愛者が多く存在するという印象があるが、そうだとしたらこうした背景(女が得意とする分野が得意。)があるからかもしれない。」

そういう分野でゲイが目立つのは、今のところは事実かも知れない。けれど、それは誰かがカミングアウトしたことによってカミングアウトしやすい環境なのかも知れないよ。現に今、日本には男性歌手で正式にカミングアウトした人は存在しない。音楽を含むアーティストなどにゲイが多いのだったら、日本の男性歌手の中にもゲイがたくさんいるってことでしょ。でも、今のところ誰も存在しないことになってる。それって日本の男性歌手はみんな異性愛者だからなの?それだと「アーティストに多い」って記述と矛盾しない?あのね、今、日本では「ゲイ」=「オネエ」だと思われているの。オネエじゃないゲイはゲイと「認められてない」の。オネエじゃない日本の男性歌手は、まだ日本ではカミングアウト出来ない存在、そう考えることはできないだろうか?そしてそれを一般論に広げると、芸術の分野以外ではゲイがいてもまだまだカミングアウト出来ない。だからいないことになってる。ホントはいるけどただ見えないだけ。だから実はゲイはどこにでも存在する。そうは言えないか?だいたい「ゲイ」=「オネエ」ってのも偏見なのよ(「ゲイ」=「女っぽい」と思われているのと一致する)。きっと実際には「女っぽくないゲイがいる」と分かったら、異性愛者の人は脅威を感じたり混乱したりするからなんだろうね。だって異性愛者の頭の中は「男(っぽいもの)と女(っぽいもの)が惹かれ合う」という図式しか頭にないのだもの。「男(っぽもの)と男(っぽいもの)が惹かれ合う」とか「女(っぽいもの)と女(っぽいもの)が惹かれ合う」と考えると理解不能で怖いんだろう。それと「ゲイは女をしのぐ才能がある」ってのも偏見。確かにそういう人は存在するだろうけど、その割合がずば抜けて高いなんて、同性愛者の全貌が見えない限り、今のところ誰も何も言えないのだ。

そして「偏見」といえば「左右の脳の大きさの違いという点においては、男性異性愛者と女性同性愛者が似た傾向にある一方で、男性同性愛者と女性異性愛者が似た傾向にあるのだ。」「ともあれ、男性同性愛者は女性的な脳を持ち、女性同性愛者は部分的に男性的な脳を持つことがわかった。あくまで平均的な話ではあるが、巷間で言われている、男性同性愛者が女っぽく、女性同性愛者が(男役の人に限られるかも知れないが)、男っぽいことの理由の一つが解明されたようである。」

あの、、どこが解明されたのかさっぱり分からないんですけど。ただの脳の大きさでなんで性的指向が決められちゃうの?そこにはどういう理屈があるの?脳の大きさと性的指向の関係を理論的に説明して欲しいものです。基本的にこの手の研究は「男性同性愛者の脳」=「女性的な脳」、「女性同性愛者の脳」=「男性的な脳」を持つ、と決めつけているけれど、それ自体果たして真実かどうかは疑わしいのだ。だって誰も明らかにしてないんだもん、その関連性。「男が好きなら女の脳」「女が好きなら男の脳」って最初から決めつけてるんだよね。それは上にも書いたとおり、異性愛者の頭の中には「男と女が惹かれ合うのが当たり前」が基本であって、そのことに何の疑いも持ってないのだもの。本当はそこのところから解明すべきじゃないの?その「当たり前」と思っていることをまず疑ってみれば?

しかも女性同性愛者の「男役」って。。まぁ、昨日の日記には文句付けたかも知れないけど、こういうこと書かれるから「レズビアンとはどんな人ですか?」という質問の答えに「重要な点は、男性的な女性=レズビアンではないと言うことです。同性愛者は必ず異性装をするわけではありません。異性装をしていても性的指向は異性愛である人も多くいます。逆にごく普通にスカートをはきロングヘアーというような、外見上女性のステレオタイプである人にもレズビアンはたくさんいます。むしろそういう人のほうがレズビアンの中では多数派です。外見上の特性と性的指向とはあまり関係がないと考えて、先入観を捨ててください」(医療・看護スタッフのためのLGBTIサポートブック(メディカ出版) (14-15ページ))って書かなきゃならないんだろうね。。ホント、悲しいよね。こういう本を読んだ人が「レズビアンってやっぱり男っぽいんだ」と思う。偏見を植え付けているようなものだよね。

まだあります(笑)

ドミニカ共和国の首都、サント・ドミンゴの西にある、人口4300人ほどのサリナス村の人々の調査をしたところ、24人の偽両性具有の男性が見つかった。「彼らは性染色体の上では男、つまりXYの状態にある(女の場合、性染色体はXXである)。しかし、生まれたときにペニスがなく、というか、クリトリスかと思うような小さな突起があるだけ。睾丸はあるが、腹腔の中に留まっていて、陰嚢へは降りてきていない。さらにヴァギナ(膣)のような行き止まりの袋状の構造や、陰唇のような形の部分もあるのだ。その外見から女の子と見なされ、女の子として育てられるが、やがて思春期を迎えると、声が急に低くなり、筋肉も付いて男らしく、たくましくなってくる。ペニスが発達し、睾丸も陰嚢の中へ降りてきて、射精も可能となって男へと大変身。ちゃんと精子もつくっていて、性的にも女に惹かれる。こうなると正真正銘の男と言える。」この章の題は「性転換する一族!?」って書いてあるんだけど、これ、知ってる人が読めば、性転換じゃなく、明らかにDSD(性分化疾患)だよね。「偽」両性具有ではなく、「真性」両性具有(とは今は言わないけどね)だよね。

ちなみに前に紹介した科学で分かる男と女になるしくみ(サイエンス・アイ新書)にもこの話が載っていて、そこにはこの人たちはテストステロンという性ホルモンをDHT(ジヒドロテストステロン)に化学変換するための酵素(5α還元酵素2)を十分につくることができない人、5α還元酵素2欠乏症の人たちだと書いてある。だから決して「性転換」などではなく、DSDの人たちなのだ。しかも、精子は作られているらしいが、ペニスの先端から精子が出るわけではないので(彼らは元々未熟な膣を持っていて、そこから出るらしい)、体内受精で女性を妊娠させることはできないらしい。ああ、この「同性愛の謎」にも最後に取って付けたように「彼らはテストステロンをジヒドロテストステロンに変える酵素に欠陥がある。そのためにテストステロンの効果は現われるが、ジヒドロテストステロンによる効果は現われないということだった。」と書いてある。てか、それ分かってるなら「性転換」とは言えないだろうが。。まさか、DSDの人たちが存在するってことを知らないで書いたわけじゃないよね?なんか「性転換」という一瞬過激で「ドキッ」とするような言葉で表現するのって止めて欲しいと思う。第一、この人たちはそういう身体に生まれついてしまった以上、それが「自然」なことなのだ。決して「異常」なことではない。それにもかかわらずこのような表現方法をするということは、DSD(性分化疾患)の人を傷つけるばかりでなく、性同一性障害への偏見、ということにも繋がってくる。まるで性転換するのが衝撃的なことで、異常、みたいな。。

最後ね。

同性婚やパートナーシップ法のことも触れてるんだけど、その中で気になったのがフランスのPacs法の記述。「1999年に成立し、施行されたが、2005年に税制や子どもの親権について、男女が結婚した場合とほぼ同じ法的優遇措置がとられるようになるや、異性愛カップルがどっとなだれこんだ。パックスには同性愛者限定という項目がなかったからだ。」って書いてあるんだけど、これ、すごく違和感あるんだよね。だってPacs法って別に同性愛者のパートナーシップを目的に作られたものではなく「連帯民事契約」と訳されるように、ある一定の条件(18歳以上であること、直系親族間、直系婚姻間、三等親以内の傍系親族間でないこと)を満たせば、誰でも契約を結ぶことができるんだから。だから、友だち同士だって構わないわけ。あと、フランスでは元々男女の同棲(事実婚)関係がすごく多かったから、それでパックスを結ぶってイメージがわたしにはあった。

で、実際にこれは2004年に出た本なんだけど、パックス―新しいパートナーシップの形(緑風出版)って本があって、その中には「(1999年から)2001年3月31日までにパックス全体の数は3万7千件に達し、その中の6割は異性愛者のものであると見積もっている。異性愛同棲カップル(250万組)の割合は3万から5万と推測される同性愛同棲カップルの割合よりずっと多いはずであるから、パックスの統計はただ単にこの統計上の現実を反映したものである。」(13-14ページ)と書いてあって、「同性愛の謎」に書かれたような「2005年になって初めて異性愛のカップルもパックスを結ぶようになった」みたいなイメージはない。この本はいちいち「大げさ」なんだよね。なんか「衝撃的」なことを書いてやろう、書いてやろうとして誤解や偏見に加担している、そんなイメージを持つ本だ。

ってわけで、なんかすごく長々と書いて来ちゃったけど、この本を読んで「これが同性愛の実態だ!」なんて思われるとものすごく迷惑なわけ。こういう本が平然として新刊で売られてるんだから、日本もまだまだだよなって思うよ、ホント。同性愛を対象とする本を書くのなら、もっともっと同性愛者のおかれていた歴史や現在の現状、性的少数者一般への知識、を持ってちゃんとしたことを書いて欲しい。

というか、わたし自身「なぜ同性愛者が生まれてくるのか」を解明するより「同性愛者が存在することは自明なのだから、その同性愛者がどうやってこの世の中で生きやすい世界を作るか」を考えた方がよっぽど建設的だと思うけどね。「なぜ同性愛者が生まれてくるのか」が解明できたら、同性愛者が生きやすくなる世界になるとでもいうのだろうか。逆にナチスのように「同性愛者を根絶やしにするため」に利用されるのではないかと危惧する。

ちなみに同性愛のことを知りたいと思うのなら、わたしは今のところ同性愛と異性愛(岩波新書)がお勧めだ。これは別に同性愛になる理由、などは書いていないが、今の(主に)日本における同性愛者の置かれた状況や、今に至る状況などが割と詳しく書かれている。内容も比較的新しいし、どうせ読むならあんなトンデモ本じゃなく、こちらのほうを勧める。
23:50 | (性的少数者)本のこと | トラックバック(0) | コメント(8) | page top↑
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