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12-16 Sun , 2007
少数者は利益をもたらすものでないと受け入れられないのか
最近、うちの白うさぎ(謎)が「うさぎテレビ、うさぎテレビ」と言い続けるので、仕方がなくケーブルテレビでやっているカートゥーンネットワークなるアニメ番組を流し続けている局の番組を見ているのだが、何気なく見ていた番組の中で気になるものがあった。

どういう題名のアニメ番組かは忘れたが、でかい赤い大きな犬が出てくる番組だった。そのときの内容は、犬がでかくなりすぎて(なんてったって、人が住む家より大きい)引っ越さざるを得なくなった主人公一家が、新たな町に船でやってきたのだが、そこに住んでいる住民はその犬を見るなり、あまりのでかさに「これはいつか何か大きな問題を起こすに違いない」と考えるのだ。それがあるとき、森が火事になり、消防自動車の水では火が消せなくて、住民が池の水をバケツリレーをして一生懸命消そうとするのだが、全く歯が立たなくて、そこに来たでかい赤い犬が池の水をほとんど飲み干して、火を消す、すると住民が「何か問題を起こすんじゃなくて、この犬のことを全然知らなかったから誤解していたのだ。これからはよく相手のことを知って、自分のことも知ってもらって仲良くしよう」ということで自分から犬に挨拶してめでたし、めでたし、という話だったのだが。。

彼女とこれを見ながら「ありがちな話だね~」と話していたが、わたしはどうも腑に落ちない。

確かにこの話をただ見るだけでは「自分とは違うものだからといって、偏見の目で見るのは止めましょう」ってことになるかも知れない。が、そのきっかけは結局、そのでかい赤い犬が住民のためになることをしたから受け入れられた、ということに過ぎない。ではこの赤い犬が特に住民のためになることをしなければ、そのまま誤解を受け続けていたということだろうか。赤い犬はもともと「いい犬」なのかも知れないが、では「いい犬」でなければ受け入れられなかったのだろうか?普通でない人(と敢えて言う)が普通の人(と敢えて言う)に受け入れられるためには、普通の人にとって利益のある人でないと受け入れてもらえないのか?

この点が大いに疑問の残るところだ。

確かに何が普通の人で何が普通の人じゃないか、という問題もある。人はすべてマジョリティーである部分しかいない人なんか存在しなくて、何かしらマイノリティーである部分も持っていると思うから。しかし、その自分のマイノリティーである部分は気がつかなくて、ごくフツーの人間だと思っている人、この世の中はそういう自分と同じくごくフツーの人間で構成されていると思っている人も多分、この世の中では多いと思う。だから、最初に言ったような内容のアニメ番組も出来るのだろう。そしておそらくほとんどが何も疑問の残らないまま、通り過ぎていくんだろうと思う。

しかし、これをでかい赤い犬からしてみたらどうだろうか。外見で「何か問題を起こすんじゃないか」と見られているのは、この犬だって分かっているだろう。そして本人が意識したかどうかは分からないが、自分の出来る範囲のことをした、それだけで周りの人たちの見る目が180度変わって好意的に受け入れられるようになった。わたしだったら「なんなんだ、この人達は」と思うだろう。自分の利益になるような人としか付き合えないのか、と思い、人間不信になるだろう。

もちろん、普通の人たち(と敢えて言う)だって、気の合う人と気の合わない人はいる。が、それは多分、最初の偏見から始まるのではなく、付き合っていくうちに合う、合わないが決まっていくのではないのか。マジョリティーとマイノリティーでは最初の出発点が違っているのではないか。

マイノリティーは特別にいい人(役に立つ人)でないとマジョリティーに受け入れられないのか?普通の人と同じように普通ならばそれだけでは受け入れられないのか?受け入れられる、受け入れられないという言葉自体がもうおかしいのだけれどね。

そしてこの逆のことを言うと、何か犯罪があるたびにその人のマイノリティーの部分に焦点を当てられる(マスコミがそう書きたてる)。しかし、その人のマイノリティーの部分が犯罪を引き起こしているとは限らないのに。そして人々は「この人はこうだったからそういうことを起こしたのね」と誤解をする。そして、何も犯罪を起こしていない、同じマイノリティーを持つ人たちもそれで同じように誤解される。こういう場合はマイノリティーは個別に見てもらえない。しかし「特別にいい人」だけは「個別」に見られる。これは日本人がかつて他の黄色人種とは別に「名誉白人」として見られたのと同じじゃないか。そんなのは名誉でも何でもないのに。

わたしが犯罪を起こしたら(もちろん、犯罪を起こす気はないけれどね。わたしは完全な「小市民」だし(爆))、マスコミは「同性愛者が起こした犯罪だ」と書きたてるのだろうか。そしてそれを見た世間一般の人は「やっぱり同性愛者だから犯罪を起こしたのね」と思うのだろうか。逆に世の中の役に立つ素晴らしいことをしたら(そんなことをする気もないけどw)「同性愛者なのにいい人じゃないか」と思われるのだろうか?

もっとも人をそういう目で見る人はこっちから願い下げなんだけどね(爆)
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15:19 | (一時帰国中)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
12-06 Thu , 2007
謎を解く鍵になる
「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎)という本がある。

この本を初めて読んだのはいつかはもう忘れてしまった。多分、小学校の高学年か中学生の時ではないかと思われる。そのときなんて感じたかは具体的には覚えてないけれども、かなり感銘を受けた本だったことは確からしい。だって、それから何年か経って、本屋で偶然この本を見かけたときに買ったから。

今持っている本は、岩波文庫の1983年12月20日第8刷なので、このときの年齢を考えると15歳なんだけど、記憶では中学生だったような気がしないので、高校生になってからか。それから幾度となく、思い出してはこの本を読み返している。「よかった」と思う割には具体的にどこがよかったかは次に読むときはすっかり忘れている、というしょうもないパターンなのだが、おそらく今までずっとこの本が「何度も読み返したくなる」というのは「六 雪の日の出来事」から「八 凱旋」までが引きずり込まれるように読んでしまうからだろうと思う。

で、この歳にもなって、というのもあるのだが、また久々に「君たちはどう生きるか」を読み直してみた。今までと違って、いくつか引っかかる部分ができていたが(笑)、これはわたしが大人になった証拠だろう(苦笑)でも根っこに流れている精神というのは、多分わたしが思っているのと同じはずだ。

そして今回、読んでみてハッとした部分がある。「四 貧しき友」のおじさんのNoteの部分だ。この本は昭和12年に書かれたものだから、今の日本とは状況がだいぶ違う。だからこの本に書かれていることをその通りに受け取ると、時代にそぐわない感じもする。が「裕福な主人公(コペルくん)=権力が強いもの=マジョリティー(数の上では違うけれども)」と「貧乏な友達(浦川くん)=権力がないもの=マイノリティー(数は違うけれども)」と考えたとき、今までわたしの中で悩んでいる「マジョリティーとしての自分」をどう考えていくかの鍵がそこに書かれていることを発見した。

そこには「貧しい人たちは自分を引け目に感じる必要はない。貧しいことに引け目を感じるようなうちは、まだまだ人間としてダメなんだ」と書かれつつも「だからといって、貧しい境遇にいる人々の、傷つきやすい心をかえりみないでいいとはいえない。少なくとも、コペル君、君が貧しい人々と同じ境遇に立ち、貧乏の辛さ苦しさを嘗めつくし、その上でなお自信を失わず、堂々と世の中に立ってゆける日までは、君は決してそんな資格がないのだよ」と書いてある。

もちろん、わたしがマジョリティーの部分はマイノリティーにはなれないので、その部分についての辛酸をなめ尽くすということはできないだろう。が、スタンスは多分、こういうことなのだ。それは上から下に見下ろすわけでなく、かといって不当に自分を落として相手を見上げることではなく「対等に向き合う」ということなのだ。といってもやはり、なかなか対等にすることは難しいに違いない。が、ある意味「方向性」は見いだせたかも知れない。もちろん、まだまだそれを自分の具体的な行動にしていくことにはかなり時間がかかるだろうけれども。

ちょっと頭がすっきりした。
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11-27 Tue , 2007
マジョリティーとマイノリティー
わたしはどうしても自分が「性的少数者」なので「マイノリティー(少数者)」の視点で考えがちだけど、最近「マジョリティー(多数者っていう単独の言葉はないのね、日本語は。少数者の反対語って実は日本語にはないんだ??)」のことも考えている。

というか、自分自身、あまり自分が社会の中の「絶対的多数」だと実感するときはなかったんだけど、今、それを強く感じていて、それでその「持って行きようのない感覚」に悩まされている。

今のところ分かっているのは「多数者には理屈はいらない」ってこと。だって、多数がそうなんだから、自分が何者であるかなんて考える必要がない。少数者は周りとは違うから「どうして自分はこうなんだろう」って考え続ける。だから「少数者である自分」はちゃんと確立している。しかし、自分が多数の中に入っているときは、一体、何から考えていいのかさっぱり分からない。だって、今まで疑問なんて感じたことがないんだから。何が疑問であるかさえよく分からない。だから、正直言って、どこをとっかかりにしていいのかよく分からない状態だ。それが「持って行きようのない感覚」ということ。

そしてその感覚がしっかりしておかなければ「少数者」に対する問いかけはできないんじゃないかと言うこと。自分は下手に「少数者」であるから、「多数者」からどういう言葉で傷つくか、十分分かっているつもり。だけど反面、少数者だから、という理由で安易にくっつきたくない。それはお互いの傷をなめ合っているようでいやだから。そうでなく、自分個人がよく考えた上で賛同できる部分は賛同し、違うと思ったときは違うと言いたいと思っている。でも多数者の立場での発言ってどこか「一個人の意見」と受け取られないんだよな。それはいくら「個人的な意見」としてもどこかその背後にある「多数者の影」がちらついて見えるのだ。これって考えすぎなんだろうか。。

だから「多数者」であるときには、その発言はかなり「抑え目」にしなければ、ただケンカ売ってるようにしか見えないんじゃないかなと感じていて、ではそうでない言い方って一体、どんな風に言えばいいんだろうと考えている。でもそれは逆に少数側から言えば「自分たちが配慮されるなんて差別じゃないか」と言われるのではないかと恐れている自分もいる。本当に「腹を割って話す」なんて面と向き合ってじゃないと無理なんじゃないだろうか、とか。

これは「少数者である自分が多数者を考えて、それを元に自分なりの多数者像」を逆転して考えるのが自分には分かりやすいのかな。あとはそれに対する知識ももちろん必要だ。なぜって少数者は「自分が何であるか」について考えるために、それなりの知識を必要とするからだ。が、1を知って10を知るどころか、100知っても10分かるか分からないかよく分からないという自分は、一体、そのことについてどれだけ知ればいいのだろうか。そして知ったことが事実ではないかも知れないと言うことについても、気をつけておかなければいけない。

というわけで、今のわたしはすごく頭が混乱してるのね(笑)
身体の調子が悪い割には、こんなわけ分からないことを考えているし、なんかぐじゃぐじゃな状態。。なんだか疲れた。気持ちを切り替えて頭真っ白にして眠りたい(苦笑)
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