----- -- , --
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--:-- | スポンサー広告 | page top↑
12-28 Wed , 2016
引退してしまった俳優さんについての思い
以前から書こう書こうと思ってたけど、風邪引いてて書けなかったこと。

わたしはこの人のことはほとんどまったく知らない。名前の呼び方すら知らない(最初の漢字、「なる」って読むの?それとも「なり」って読むの?)。顔もアップされてたのを見たけど、見たことがない人だった。なので、この人のことをどう呼んでいいのか分からない。

基本、わたしは俳優さんに対しては普段フルネーム呼び捨てで呼んでる。例えば好みのタイプの俳優さんは大杉漣、とかさ。そういう普段から言い慣れてる人に対しては、普段言い慣れた呼び方でそのまま書けると思う。が、この人に対しては今まで呼び名を口にしたことは一切無かったので、今ここで「○○さん」とか「○○」と言うのはとても違和感がある。だって今までまったく見たことない人なんだもの。だから何かに配慮して個別具体的な名前を書かないのではなく、単にわたしが今までまったく知らない人を馴れ馴れしく知ったかぶりして名前を書いたりすること自体にとても違和感があるので、書かないだけ。それをまず書いておく。

全然知らない人なのに、引退のニュースを知ってしまったのは、単にわたしが普段からYahoo!経由でスポーツナビに行って、そこからカープのその日のニュースを見る、という習慣があるからだ。好む、好まざるに関わらずYahoo!のトップにまずアクセスするので、なんとなしに気になったトップニュースにアクセスしてしまうことがある。このニュースも単にそうだっただけに過ぎない。

誰が引退したかはよく分からなかったものの、少し前からいわゆる薬物を使っているのではないかと噂されている、ということについては、それもなんとなくどこかで見たことがあったので知っていた。だから多分、そのニュースにアクセスしようって思ったんだと思う。しかしそのニュースの中にあった、引退への挨拶文みたいなのを読んでびっくり仰天した。その中に

この仕事をする上で人には絶対に知られたくないセクシャリティな部分もクローズアップされてしまい



と書かれていたからだ。性的少数者以外の当事者でない人には多分、この恐怖感は理解できないのではないかと思う。わたしこれ、読んで一番に思ったのは

「これだと自分のセクシャリティが"普通"でないって言ってるのと同じじゃないか!」

ってことだった。だいたい、性的多数者ならば、自分のセクシャリティのことは「絶対に知られたくない」とは思ってないだろうし、そもそも、知られたいとか知られたくない以前に、自分のセクシャリティは「みんなと同じ」で「みんなが知っている」ものなのだ。というか、みんな知っているどころか、自分のセクシャリティが何であるかすら、考えたこともない人も多いだろう。「普通」としか思っていない人もいるに違いない。ゆえに「絶対に知られたくないもの」が自分にあると思っているということは、この人は自分が何らかの性的少数者である、ということを「カミングアウトしている」ことになる。

ちなみにここで注意しておきたいのは、この挨拶文だと「この人は性的少数者なのかな?」って思うくらいにしか分からないということだ。まぁわたしもそれ以上のことはあまり興味がない。なんであろうが、わたしには関係がないことだし。この人はそれ以上のことが言いたくなかったからわざわざ「セクシャリティ」って言葉を使ったんだろう。

で、わたしはここ10年くらいは大抵、自分のセクシャリティをカミングアウトしたりしているが、それでもそれ以前は完全なクローゼットだったので、そのクローゼット状態の感覚って10年経った今でもまだ身体に染みついているらしい、ということをここから感じた。

というのは、完全なクローゼット状態のときというのは、絶対にそのことを知られたくないために、なにを隠さなければならないのか、ということについてものすごく頭を回転させなくてはならず、「このことについて何か言ったら、何かあるなって思われないかな?」と言うことについて、すごくすごく慎重に考えていたからだ。「このことについて何か言ったら、話を聞いた人はどう思うだろう?」ってことをひたすらひたすら考えて、事前に自分の中で「想定会話文」みたいのを作り、そこで問題がないようだったら人に話せる。会話してても常に頭の中では「その後の想定会話文」が作られ、話している人が怪しく感じないかをリアルタイムでチェックしている。だから頭は常にフル回転だった。

何か秘密を持っている、ということは、その秘密を持っている、ということすら周囲に悟られてはまずいのだ。具体的な秘密の内容ではなく、「何か秘密を持っている」こと自体を隠すことは、それが具体的になんの秘密であるか、ということ以上にとても気を遣うことだった。その気遣いでクタクタに疲れてしまうことだってあった。けど、ばれてしまうよりマシだったので、クタクタになってもばれないように気を遣った。

なので「絶対に知られたくないセクシャリティ」と公にすることによって、「この人は絶対に知られたくないセクシャリティがあるってことが分かってしまうじゃないか!」ってことを、読んだ瞬間、わたしは恐怖に感じたのだった。でもこれ読んで「あ、こんなこと言ったらばれちゃうよ!まずいじゃん!」って瞬間的に思ってしまうってことは、やっぱりクローゼット時代のあの「秘密を持っていることすら隠さなければならない」という感覚をまだわたしは捨て切れてないってことだよね。

でもこの人が「絶対に知られたくないセクシャリティ」って書くってことは、もちろん本人もここの部分で何かあると周囲に思われることは十分承知の上で書いたのだろう。だって多分、この人もクローゼット時代のわたしと同じどころか、みなに見られる芸能人なのだから、それ以上に気を遣っていたはずだ。「絶対に知られたくないセクシャリティ」であるなら、ばれるのが怖くて怖くてたまらなかったはずだ。なのでわたしには逆にここの部分は、この人の悲痛な叫びとしか感じられない。「窮鼠猫を噛む」とはちょっと違うが、クローゼット(「押し入れ」という日本語でもいいが)の中に隠れるように自分を押し込んできて押し込んできて、それでも外に引きずり出される、もう逃げられないと感じたので、逆にこちらから明らかにせざるを得なかった。「本当はこんなこと言いたくなかったんだ!」という叫びとともに。多分この人は、薬物疑惑が晴れても、次に自分のセクシャリティの問題に焦点が当たり曝露されてしまう、と考えたのだろう。そして、世間から取り沙汰されるセクシャリティを持っているのは薬物とは違って事実だから、もう隠しようがないと思ったのだろう。無理矢理外に引っ張り出されて、あれこれ事実に加え、事実でないことすら事実のようにおもしろおかしく興味本位で取り沙汰される。それがこの人にとっては耐えられないほど苦痛だったのだろう。この叫びは本当に痛々しい。わたしも当事者ゆえに、その痛々しさを身を切られるような思いで受け取っている。

この挨拶文の発表から、もう20日くらい経ったのかな。周囲ではいろいろあるようだけど、わたしは本人がそれ以上のことを公にされたくないのはもう分かっているから、マスコミ、報道陣に対して「これ以上曝露することは止めて欲しい」と強く思う。アウティングは人権侵害だ。それより、このことがあって以来、この人は安心できる場所にいるのだろうかと思う。こちらの方がわたしは心配でたまらない(ちなみに「どこにいるか」「誰といるか」などについても嗅ぎまわらないで欲しい)。できれば心穏やかにいられる人たちと、心穏やかに過ごせる場所で、心穏やかに過ごしていることだけを願っている。
スポンサーサイト
16:17 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
12-26 Mon , 2016
ジョージ・マイケルが死んだ
今朝起きて知った。
びっくり。

今まで彼の年齢を知らなかったが、どうやらわたしより5つ年上だったらしい。
わたしは彼のファンじゃなかったけど、彼が有名になったWham!の曲はリアルタイムで聞いていた。
ちょうどわたしが高校生の頃。声がすごくクネクネしてる人だなあって思ってた。
多分、流行った曲はほとんど知ってると思うし、好きだった。自分で買って聞こうと思うほどではなかったけど。

この人がちょいちょい「ゲイじゃないか」って言われてるのは知ってた。
ただわたしはエルトン・ジョンの方が好きで、エルトンに対してはゲイじゃないかと言われてる頃からむしろ当事者の勝手な思いとして「ゲイであって欲しい」って思ったり、彼の歌の歌詞に対して「どこかに同性愛的なメッセージが込められてる歌詞はないか」と思って一生懸命歌詞の言葉を追ったりしたこともあったが、ジョージ・マイケルに対しては全然そんなことはなかったのは、やっぱり歌自体、そこまで好きってわけでもなかったんだと思う。ただ、彼とエルトン・ジョンが歌った「Don't Let the Sun Go Down on Me」は好きだったな。過去にもカラオケで彼女と二人でこの歌を「ジョージ・マイケルとエルトン・ジョンごっこ」って言って歌ったこともある。

「どこかに同性愛的なメッセージが込められてる歌詞はないか」については、どこで読んだか忘れちゃったけど、ジョージ・マイケルが確か14歳くらいのときにエルトン・ジョンのなんて曲か忘れたけど(確か「Blue Moves」の中の曲だったと思うんだけど)、あれを「自分の歌だ」って泣きながら聞いたとか読んだことがあって、でも確かあの頃はまだジョージ・マイケルはゲイだってカミングアウトしてなかったような気がするんだよな。。その気持ちはわたしにも痛いほどよく分かったので、よく覚えてる。

しかし今年もいろんな人が亡くなった年だった。わたしの中ではデヴィッド・ボウイが大きくて、というか、フレディ・マーキュリーと歌った「Under Pressure」が大好きだったんだけど、ああこれで2人とも亡くなったんだなあって思って寂しかった。あとプリンスが亡くなったのもびっくりだった。大学時代の友人が彼の大ファンだったんだよね。ちょうどプリンスの名前がなくなって、「以前プリンスと呼ばれたうんたらかんたら」と呼ばれるようになった頃。そしてジョージ・マイケルか。'80年代に聞いてた洋楽の歌い手がどんどんこの世を去ってるなあ~。

なんか寂しいね。仕方のないことだけど。
17:27 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
03-28 Fri , 2014
好きになる性別はどこで決まるのか
昨日、駅のホームで電車を待ってたら、わたしの少し前に髪の毛が短くて、ちょっと金髪で背が高くて細身の女の人がいた。顔は見えなかったけど、ちょっとわたしの好みだったので(笑)、ドキドキしつつ、電車に乗ってその人に近づいてみた。

。。。見たら男性だった。中性っぽい顔つきをしてたけど、のど仏が出てた。

その途端「なーんだ、男だったのか」と思い、ドキドキした気持ちが思いっきり失望感に変わった。

「あー、わたし、性別で人を判断してるんだなあ」ってそのとき思った。

よく「わたしは同性愛者を受け入れてます」って人の中で、同性愛を肯定するつもりで

「愛に性別は関係ない」

っていう人がいるんだよね。

違います!同性愛者の好きになる相手は性別が決まってます!同性愛者は選んで同性が好きになります!異性は選びません。だから同性愛者の愛は性別が大いに関係があります!

その点、選んで異性を好きになる人と、対象は違うけれど同じなんだよね。性別が関係なく好きになる人は、一般的にはバイセクシャルか、パンセクシャルの人ってことだろう(デミセクシャルとかポリセクシャルも該当するっちゃ該当するかも知れないけど、中には該当しない人もいるから、まぁ一般的にはバイセクシャルかパンセクシャルってことになるんじゃないでしょうかと思う)。

だけどね。じゃあ「好きになる女性」ってなんなんだろ?と思うわけですよ。

「女性」って一体どういう人のことを指すのと。

わたしは、電車の中で見た人を女性だと思ったときはドキドキして見て、男性だと思った途端落胆した。同じ人なのに。でも、じゃあ女性の何にドキドキし、男性の何に落胆したのか。それを考えると結構難しいんだよね~。

人の性別は何によって決まるかというと、染色体、性ホルモン、性分泌、外性器、内性器、だったっけ、、でもどうやってその人が男性か女性かが決まるかというと、生まれたときの外性器の見た目、だ。人は生まれたとき、医師が外性器を見てそして男性か女性かが決まる。その男性とか女性ってのは、あくまでも「戸籍上」ということだ。しかも細かいことを言うと戸籍には性別は書いてない。書いてあるのはあくまでも「親との関係」だ。

ただ、日本では戸籍上の性別が、本人の社会的な性別になっている。生物学上の男性、女性とは言うなれば、外性器しか一致していない。もちろん中には外性器で判断がつかない場合もあるわけだけど。

外性器が男性だからと言って、内性器まで男性とも限らない。逆もしかり。性染色体がXYだから男性でXXだから女性とも限らない。そう考えると、何が男性で何が女性なのか、わたしは本当に性染色体も性ホルモンも性腺も外性器も内性器も全部女性じゃないと女性として好きにならないのか、と言われると、自信がない。

だいたい、わたし自身の性染色体なども正直、調べたことがないので分からないのだ。わたしが本当に完全に女性かというと、調べてないので分からない、というのが本当だ。なのにわたしは自分のことを女性だと思っている。もし、わたしが女性かどうかを調べて、もし、肉体的に完全な女性ではない、という結果が出たとしても、わたしは自分のことが女性であるとしか思えない。多分、この世界で生きてる人の大半がわたしと同じだろう。

とすると、わたしが自分のことを「女性である」と思っていることは、全く根拠がないことになる。たまたまわたしの肉体の一部は女性だと思うが、それだけを根拠に「女です」とは言えない。だから性別は「頭の中のもの」に過ぎない、というのが、今のところのわたしの結論だ。

でもね。「好きになる性別」は違うのだ。「頭の中が女性」という人だったらどんな人でも好きになるかというと、実はわたしはそうではない。肉体が女性じゃないと好きにならない。肉体が女性だったら、性染色体がXYでもいいかと言われると、そこはよく分からない。じゃあXXYだったらと言われるとそれもよく分からない。だけど一度でも男ジェンダーで育てられた人はちょっと嫌だなあって思ったりもする。もちろん、身体が女性でも男ジェンダーの人は好きにはならない(と思う)。すると、性別だけじゃなく、ジェンダーも関係あるのかよってことになる。

「性別は頭の中のもの」と言いながら、好きになる相手の性別は「頭の中のもの」だけじゃなく、身体やジェンダーが関係してくる。それはちょっと公平じゃないんじゃないの?って思うのだが、こればっかりは仕方がないんだよね、、

異性愛者の人も「自分が好きになる異性とは何か?」を考えてみるのも面白いんじゃないかと思う。中には「頭の中が自分と異性だったら、身体はどっちでもいい」って人もいると思うし。というか、実際いるしね。まぁそこのところの許容範囲(と言えばいいのか?)は女性の方が広いような気はするけれども。
22:57 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
12-15 Sat , 2012
嬉しい
わたしは自分のブログではあんまり触れてないが、レインボー・アクションっていう団体に所属してて、その中の「カフェプロジェクト」ってののチーフをやっている(チーフって言ってもカフェプロジェクトはわたし1人チームなんだけどね(笑))。カフェプロジェクトは「性的少数者かも知れない」人が集まる「かもカフェ」、性的少数者がキーワードとなれば誰が参加しても構わない「ゆるカフェ」という2つの集まりで、「かもカフェ」「ゆるカフェ」は隔月に1回開催、まぁそれぞれ集まった人同士で好きなことを話してもらおうというものなんだけど(詳細はこちらで)、今月の「かもカフェ」は今日やったのね。

毎回「かもカフェ」「ゆるカフェ」の告知をtwitterで気が向いたときにやってるんだけど、今日、かもカフェ終わって家に帰ってきたあとにtwitterの画面覗いたら、彼女の兄弟の配偶者さんから「かもカフェいいですね。近かったら行きたかったのに。今度この取り組みを自分のFacebookで紹介してもいいですか?」っていうリプライがあった。

わたしさぁ、それ読んですっごく嬉しくてさぁ。なんかものすごーく「受け入れられた感」があるというか、なんかもう言葉にならないほど嬉しくてさ。自分でもなんでこんなに嬉しいのかよく分からないんだけど嬉しいんだよね。

やっぱり同性愛者にとっては「相手の家族に受け入れてもらう」というのが特別嬉しく感じるのかなとか思ったり、そんなん感じるのはわたしだけかと思ったり。

異性愛者は相手の家族との付き合いは親子とか親戚付き合いになっちゃうから、どちらかというと「しんどいもの」なんだろうけど、同性愛者はまず「隠すこと」から始めている分、オープンにすると嬉しくなるのだろうか。まぁ距離的に離れているからと言うのもあるかも知れない。これで割と近所に暮らしてたらまた関係も変わってくるのかも知れない。そこら辺はよく分かんないんだけどね。

ただ、わたしは本当に嬉しかったんだよね。
22:39 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
06-07 Thu , 2012
レズビアンになったきっかけ?(その5)
その4の続き。

高校受験は第一志望が都立だった。だけどこれだけじゃ不安なので私立も滑り止めに受けることにしたのだが、あの当時、私立は男女共学が少なくて(今はもっと多くなったって聞いたけど)、選ぶのに苦労した。女子校はどうしても行く気がしなかった。

結局は第一志望の都立に合格するのだが、その学校は制服がなかった。「好きな洋服で行ける」っていうのは、洋服をあれこれ着たい人にはメリットかも知れないが、わたしのように着る服にあんまり興味がない人間にとってはちょっと苦痛だった。最初の頃は母親にあれこれ服を買ってもらって、頻繁に着るものを変えたりしてたんだけど、そのうち「いつも同じ服でいいや」と思って、ほとんど同じような格好、下は通年ジーンズで上は冬はシャツの上にセーターかトレーナーを着て、その上に上着、夏はTシャツ1枚って感じになった。その格好は今も基本的に変わってない。

高校に入ってしばらくしてから今度は数学の女の先生が好きになった。その先生は授業が進むのが早くて、教え方もすごくパキパキしててカッコよかった。わたしは中学の頃からあまり数学は好きではなかったが、その先生のおかげでご多分に漏れず、数学ばかり勉強するようになった。とにかく先生に気に入られたくて、テスト前はずっと数学の問題集を解いていて、分からなかったら先生に聞きに行ったりした。その先生のおかげというかなんというか、数学が分かるようになったので、その後わたしは理系の分野に進むことになるんだけど、先生の影響力ってすごいと思う(笑)

うちの高校は今はどうだか分からないが、その当時はクラブには複数所属してはならないけど、クラブと同好会なら掛け持ちをしていいという決まりだったので、わたしはクラブと同好会に入った。なんせその同好会の顧問が好きだった数学の先生だったんでね(笑)しかもその先生は1年の時のクラスの副担任でもあった。高校生活が始まってからちょっとしてから「クラスの人と馴染むために」ってんで遠足があったんだけど、副担任だったからその遠足ではわたしと一緒のバスだった。わたしがその先生を好きになったのは、もっと後のはずなんだけど、そのバスの中で先生が「22才の別れ」を歌ったことが今でも忘れられないってことは、まだ「好き」という感じではなかったものの、気になってはいたのかな。

だいたいその先生を好きになった理由は「高校になったらグラフはグラフ用紙なんかを使わずに切片や頂点の位置を計算して適当に線を引きます」の「適当に」ってところが気に入ったんだから(爆)このブログのタイトルにも「テキトー」という言葉が入ってるけど、わたしはこの「適当」って言葉が大好きでね。「中学ではグラフ書くのめんどくさかったけど、高校では適当に書いていいんだ!」と思ってミョーに嬉しかったんだよね。それがこの先生を好きになったきっかけ。なんか変だけど。

高校は共学だったのに、わたしはなぜか同級生と下級生の女子からもててね。バレンタインデーに学校に行くと、わたしの机の上にチョコレートがどっさり、という感じだった。特に同じクラブの後輩からは直に屋上に呼び出されて「誰にも言わないで下さい」と言ってチョコレートをもらったりした。んだけど、前も書いたように、わたしはそういうのイヤでねー。同好会で一緒の男子(これがまた絶対にチョコレートをもらえないほど変なヤツらだったが(笑))にわざとチョコレートでいっぱいになったかばんの中身を見せつけて「いいだろー」なんて言ってたけど、家に持って帰ったら家族の人に「わたしは食べないから食べて」と言って、もらったチョコレートは全部家族に食べさせた(なんてヤツ!)。高3のバレンタインデーは大学入試があるから学校に行かなくていい時期だったので、ホッとしたのを覚えている。

特にクラブの後輩からはすごく気に入られたのか、しょっちゅう手紙もらったりして。で、実はその後輩の友達(その人も同じクラブだったからわたしの後輩)がわたしと同学年の女の人(同じクラブだったからわたしと同輩)のことが好きだったみたいで、部室にいると2人が必ずいるんだよねー。2人すごく仲よさそうで。「付きあってんのかな」って思ったりもしたんだけど。でも詳しくは聞かなかったな。それを聞いたらこっちに飛び火して来そうで。

で、このわたしと同学年の女の人なんだけどさー。3年間を通じて、わたしとはずっと「隣の組」だった。隣の組って、体育だったり家庭科だったりが実は一緒なのよね。その人は見た目からするとあんまり「女の人」って感じじゃなくて、だから「女の人」って表現するのが自分の中ではちょっと変なように思えちゃうんだけど、その人が謎でさー。3年間体育で一緒だったけど、一度も水着姿を見たことがないの。何やら病気だという話だったんだけど、でもその他の体育の授業は普通に出てて。それから家庭科で自分のスカートを縫ったんだけど、最後に自分の作ったスカートを着てファッションショーをやったのね。でもその人は「自分のお母さんのスカートを縫った」ってことで、自分の作ったスカートは穿かなかったの。自分の「性」を意識するところでことごとくそれを拒否してて。あれはちょっと不思議だったけどね。でも嫌なものだったら「嫌」ということで、いろいろ理由を付けて拒否する、ということは、例えばトランスジェンダーの人で「コレをするのは嫌だ」って思ってる人も「周りからどう言う目で見られるか」を考えずにいろいろ知恵を絞って「やらない/できません」とは言えないかなぁ、この人みたいにって思ったりもするんだよね。ちなみにその人のその後はどうなったかは知りません。同じクラブだったけど、そんなに話したことはなかったしね。

同好会で一緒の男子とは結構仲がよかった。といっても、なんか変なヤツばっかりでね。でも今思うとその中の一人は結構自分では好きだったんだと思う。でも好きと言っても二人だけで過ごしたいとかそんなことは思わなくて、このままこのメンバーでずっと仲良くできればいいなと思っていた。

で、そのわたしが好きだと思った男子もわたしのことが好きだったらしい(あとでヤツの友達から聞いた)。あるときなんかお芝居みたいなのを観に行かない?って誘われたんだよね。でもわたしは親に「行っていい?」って聞いたら親は「遅くなるからダメ」って言ったので、素直に「親にダメって言われた」と言って断わったのだけれど。あのとき一緒に行ってたらどうなってたかなあと今でも思うことはある。同好会の別の男子とは高校卒業して大学入って大学院生になってからも結構付き合い合ったんだけど(もちろん大学も大学院も別の学校)、それは完全友達としてで、それらしい話になったことは1度もなかったな。

高校の時というと、ぼちぼち誰と誰が付き合ってるとかいう具体的な話があるらしいんだけど、わたしの聞こえる範囲では全くそういう話はなく。また「誰が好き?」と聞かれたこともなく。でもわたしは小学校のときも中学校のときも同じだったからそれを不思議と思うことなく今思うと全く鈍感に過ごしてた。

そういや同好会の男子はロリコンなヤツもいて「なかよし」だとか買っては「○○ちゃーん」って言ってた。それを見たからではないけど、当時は「別にかわいい、というものには男も女もないよね。女がかわいい女の子を好きになっても別に構わないよね」って思ってたなあ。「かわいいというのは普遍的だ」とかね。なんかそんなことをミョーに考えてたりした。

高校に入ってから割とすぐに無線の免許取ってね。でもうちはマンションだったからアンテナが建てられるわけでもなし、高校生だからお金もないし。そこで物理部が無線やってるからってんで、ホントは別のクラブだったわけだけど物理部にも知り合いいっぱいいたし、隠れて使わせてもらったりした(笑)当時は「CQ Ham and Radio」や「初歩のラジオ」なんかの雑誌を毎月買って読んでいた。

高校時代の趣味は、やっぱり変わらぬアニメと(ただだいぶ下火にはなっていたが)、無線、それからラジオを聴くこと、だったかなあ。無線機をちょこっと改造すると警察無線が聞けたりしたもので(当時はね。今はデジタルになって聞けなくなった)よく家で聞いてたりしたな(笑)それから「○石ラジオ」なんかは小学生の頃からよく作ってて、秋葉にキット買いに行ったりしてた。半田ごては2本持ってるし(W数が違うもの)、テスターも持ってたし、このときは「大学に行ったら電気系統のことを学びたい」って思ってたんだよね。ただ、高3のときいろんなことがあって理系は理系だけど、別の方向に進むことになっちゃったんだけどね。

あ、そうそう。高3のとき、数学の好きだった先生は1年の担任になってしまい、もう数学を教わることもなく、ずっと会えないままだったのだが、文化祭のときかなー、偶然見かけてね。そしたらお腹が大きくなってて、それがやたらとショックで話しかけられなかったのを覚えている。なんでショックなのかはそのときは全然分からなかったけど、あんまりお腹の大きい姿は見たくないって思ったんだよね。まーその先生は結婚してることは1年の頃からもちろん知っていたのだけれどね。

大学は男女共学どころか、うちの学科は、女子1割、男子9割、という感じだった。女子の割合が高かったところでも4割くらい?別にそういう環境に狙って入ったわけではないけど、まぁ理系だとこんな感じになるのかな。これ以降、わたしの周りは男性ばかりになって、女性はどんどん少なくなっていくんだよね。まぁあんまり気にならなかったというか、自分にとってはそういう環境の方が過ごしやすいと思ってた。実際過ごしやすかったし。

男子が圧倒的に多いところでは男女別に分けることもできないから、中学や高校と違って体育の実技も同じだったし、その他の実習なんかも全部分け隔てなかったんだよね。それに女子がうちの大学で目立つようになってからまだ少ししか経ってなかったから、大抵のトイレは男子トイレの一角を急造で仕切られたような「女子トイレ」だったし、本当に男女別に分かれてるトイレと言ったら、新しい建物になった大学生協のトイレくらいしかなかった。ただその分、なぜか女子だけは各自ロッカーが与えられてて、それは便利だった。まぁ更衣室も兼ねてたからかな?

うちの学校は1年の夏休みの間に「臨海実習」という必修科目がある。事前に大学のプールで100m何秒で泳げるかによってAからF班に分けられて、1週間、大学の実習所の前の海でひたすら泳がされる、という実習だった。これもタイム別だから男女関係なく、わたしはB班だったけど、全然泳げないのでF班って男子もいた。でも最初は全く泳げない人でも1週間経つと曲がりなりに1kmは泳げるようになっている、というかなりスパルタな実習だった。おぼれてもおぼれても浮き輪を投げられてちょっと休んだら「ほら、また泳げ」みたいな感じで絶対に船の上では休ませてくれない(足が攣ったら別)。女子なんて途中で生理になっても「タンポンして泳げ」って言われるほどで。。まぁ「必修科目」だから泳がずに見学ってわけにもいかないんだろうけど。

こんな風に「女子が少ない」=「女子は特別扱い」なんて環境じゃこれぽっちもなく、むしろ今までやってた男子だけの伝統をそのまま女子もやれって感じだった。それはむしろわたしにとっては歓迎すべきことだったし、その中ではわたしはあんまり「女」ってことを意識することはなかった。他の人はどうかは知らんが。

2年の時には「漁業実習」ってのがあるんだけど、これは「臨海実習」に比べると楽でね。楽しかった。確かこの実習では名簿順に班に分かれたと思うのだけれど、この実習が終わった後に「一緒に帰らない?」ってわたしを誘った男子がいたんだけど、わたしは既に別の人と一緒に帰ることにしてたので、何も考えずに「ゴメン、もう一緒に帰る人は決まってるから」って答えて断わった。この男子とはその後もいろいろ話したりしたんだけど、あるとき、わたしの友達(男)でその人とはクラブも同じだったので「一緒に帰らない?」って誘ってくれた男子よりも仲がよかったんだけど、そいつから「ヤツはお前のことが好きなんだってよ」って言われた。「ふーん」とは言ったものの、それを聞いてもわたしはじゃあ、どんな行動すればいいんかよ、と思って放っておいたんだけどね。

高校の時もそうだったんだけど、本人は何も言わず、本人の友達からわたしに向かって「アイツお前のことが好きなんだってよ」って言われるんだよね。あれはわたしに何をして欲しいのか全然分からないんだけどね。だいたい今までのこと読んでもらえば分かるように、わたしは恋愛に疎い。疎いのに主導権なんか取れるか!っていうか、元々個人的には付き合いたいとも思ってなかったので、そういうチャンスは何回かあったんだけど、結局男性とは付き合わずじまいだったんだよねー。

大学生になってからはさすがに誰と誰とが付き合ってる、っていうのが目の前に現われて「あ、ホントに付き合う人っているんだー」って思った(笑)わたしに恋愛相談を持ちかけてくる人もいたけど(女子で)、わたしは人と付き合ったことないから、ほとんど自分の感想みたいなのしか言ってなかったように思う(笑)

大学のときに好きになった先生はいなかったな。基本的に女の先生はほとんどいなかったしね。だからそれ以降は「なんか気に掛かる人」ってのは皆無だった。

大学生の間に成人式があったんだけど、わたしは七五三のときに既に着物を着たり化粧をしたりすることに反発を覚えていたので、親にはいつからかは覚えてないけど「成人式は振り袖なんか着ない」ってずっと言ってたし、親の方も「一時の着付けでお金を払うのなら、その分、残るものを」というので、皮のフードの付いたコートを買ってもらった記憶がある。そしてそれを着て成人式に行った。成人式はなんだか中学の同窓会みたいな感じだったな。

大学院は事情により別の大学に机があったので、ついに女が一人になってしまった。けど、あんまり気にならず、今まで通りだったけどね。やることやってれば、別に男女関係ないし、逆に研究機材を船に積み込むときなんかは結構周囲が配慮してくれた覚えがある。わたしはそういうことは嬉しい反面、やっぱ力関係においては、女はどうしても男に負けるなあって思った。

そして大学院生のときに、ふと「そういえば、わたしって好きな人がいないよな」って思い始めたわけで。別にそれで悩んだわけじゃないけど「なんでかな」と思って、それから前に書いたように過去を振り返ってみたら、あら、好きになった人いるじゃない、それも全部女の先生で、ってことに気が付いた(^^;そこから「あれ、もしかしてわたしって男より女の方が好きなの?」って思ったんだよねー。

そこから別冊宝島の「女を愛する女たちの物語」とか、「ゲイのおもちゃ箱」だとか「ゲイの学園天国」とか、当時、ちょうどゲイブームでそういう本が出てた時期だったので、そういうのを読みまくり。「なるほど。男とは一対一で付き合いたいとかキスしたいとか思わないけど、女だったら一対一で付き合いたいとかキスしたいとかセックスしたいとか思えるかも」って、そこで悟った。当時「微熱狼少女」って小説が出たりしたんだけど、その中に出てくる三島先生が好きだった。本当にこんな人現われないかなーとか(笑)

ただねー、女が好きって気が付いても、周りは男性ばかり。それから何年かして入った会社でもわたしが入って3人目の女(ただし自分の部署で)だった。

よく職場で女子が少ないと雑用はすべて女性に回ってくるって聞くけど、うちの場合はそういうのがなく、食器洗いは当番制だったし「女だからどうしろ」とも言われなかった。「結婚は?」とも言われたことがない。ただ一度だけ、あれは冗談だったのかどうかは知らないが上の人からいきなり「彼女できた?」って言われてびっくりしたことはある。その頃はまだ彼女がいない頃だったので、正直に「いません」って答えたんだけど、いるときに聞かれたらどう答えたかなあ?

そして長い間男ばかりのところにいたんで、女ばかりのところがすっかり苦手になってしまい、それは今でも同じだ(レズビアンのクセに(笑))。女ばかりのところに行ったら、自分で何話していいのかさっぱり分からなくなる。あと踊るの苦手だからいわゆるレズビアン向けのクラブイベントなどもとっても苦手。今まで1回だけそういうところに行ったことあるんだけど、踊れもせず、ずっと「壁の花」で誰も話しかけてくれはせず。。それにTシャツ、ジーンズというわたしの格好はとても「場違い」で、、もう二度とそういう場所は行くもんかと思ってる。世間一般はどう思ってるか分からないけど、レズビアンって結構みんなおしゃれなのよ。。わたしみたいなのは特殊なのよ。。

恋愛に関してなんだけど、今までの話を読めば分かるように、わたしはかなり「自分から人を好きになりにくい」性質らしい。だから最初に「Aセク寄り」って書いたんだけどさ。しかも恋愛するのはあんまり好きじゃないみたい。恋愛のドキドキ感がたまらないって人がいるらしいんだけど、わたしにとっては恐怖でしかない。そこのところを知っていてうまくやってくれたのが、今のわたしの彼女なんだけどね。ただそれでも付き合って3ヶ月目に「まだ今なら一人に戻れる」と思って彼女に「ちょっと考えさせてくれ」って言ったしね。だから彼女を失ったら多分、わたしは二度と恋愛はしない(できない)と思う。

まぁこんなわけで、基本、あんまりジェンダーには囚われない生活をしてたのは確かでね。わたし自身は普通にしてたらそうなったわけだけど、でも本などを読むとあまりに自分と違うから、それはとても驚くし(だからわたしには「ジェンダー受容体」がないのだろう)、あとは「女らしく生きるのが当たり前」と思ってる女の人の気持ちが全く分からない。それと、今までこう書いてきたからといって「自分は女と掛け離れてるんだ、すごいだろ、へへん」とも思ってない。どう考えてもわたしは女だし、それを超えようとか特別な存在でありたい、なんてことは全く考えたこともない。ただ、ジェンダーで考えると、女でも男でもありたくないかな。「女だから(世間一般の)女らしくしろ」と強要されるのもイヤだし、だからといって「男になりたい」ってことも全くないし。自分がやってるこのままが「女としての自分」で、それを世間一般と照らし合わされて「女らしくない」と評価されるのは心外だ。

注意をもう一回書いておくと、これはただわたしの場合、というだけであって、これがレズビアンの代表的な育ち方や考え方と思われるととても困るので誤解の無きよう。わたしのような、レズビアンであっても女性の中に入るのがすごく苦手、って人は、確かに存在するかも知れないけど、少ないんじゃないかな?レズビアン向けの雑誌などを読むとなんかキラキラしてて、全然わたしとは別世界って感じだし。。「この世界に入って行けない」って思うしね。でも本当はそういう中でレズビアンとして違和感なく過ごしたい願望もあるんだけど、レズビアンの中に入ると「何話していいのかさっぱり分からなく」なるので、すごく憧れはあるんだけどもう諦めてる。。(誰かわたしを誘って(笑))それとレズビアンであっても、わたしはAセク寄りなので、恋愛感情はほとんどないに等しいし、恋愛するのも怖い。働いているときは「このままずっと一生一人で生きていくんだ」って思ってた。今の彼女に出会わなかったら、多分そうなってたはずだ。

だからこれはレズビアン一般のお話ではなく、あくまで「わたし」に関しての話なのだ。
18:54 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
06-06 Wed , 2012
レズビアンになったきっかけ?(その4)
その3の続き。自分では引き延ばしてるつもりはなかったんだけど、これだけ引き延ばしてたら「一体どんなにすごい話が待ってるんだろうか」って思われちゃうよね。だから、もう書くこと書いて、ちゃっちゃと終わらせよう(笑)

わたし、幼い頃から本を読むのが大好きで、周りの同い年くらいの子どもと一緒に遊ぶということがあんまりなかった。あと人見知りも激しかった。そのためか親はわたしを3年保育の幼稚園に入れたのだが、3年間、同じ幼稚園だったら親しい友達ができたかも知れないのに、寄りによって3年間で3回、幼稚園を変わらなくちゃいけなくて(親が1年ごとに住む場所変えた)、人に慣れるどころか、幼稚園というところに馴染めず、家から近い幼稚園だったときには、なんと園長先生が家まで迎えに来てくれるという「登園拒否児」だった。

まー、もともと幼稚園は大嫌いだったんだよね。なんというか、これを言われると「は?」って言われるんだけど、子ども扱いされるのが大っ嫌いだった。描きたくもない絵を描かされたり、踊りたくもない踊りを踊らされたり。。寝たくないのに昼寝させられたり。そういうのが全部嫌だった。

特にいつの幼稚園の頃か忘れたけど、発表会で踊りを踊らされることになり、それが男女に分けられてて、女の子って女っぽい仕草で踊らされるのが本当に苦痛で、しかも発表会のときはすごく女らしい格好をさせられるから、嫌で嫌で仕方がなかった。まぁ基本、わたしは踊るのが苦手で、踊りで許せるのは盆踊りとフォークダンスくらいなものか。

家に帰って一人で本を読むのが好きだったんで、だいたい幼稚園終わってからは部屋に一人で閉じこもってたんだけど、親にしてみればそれが気にくわなかったらしく、友達と遊べってうるさかった。まぁそれなりに友達はいたのだけれどね。3つ目の幼稚園のときに住んでたところは、その後ずっと大学院まで住んでたので、3つ目の幼稚園で友達になった人とはその後も結構長い間一緒に遊んだ(それこそ高校くらいまでね)。

本を読むほか、仮面ライダーなどの特撮も好きだった。確か5歳くらいの誕生日には当時流行ってた「ライダーベルト」をもらって、高いところから「変身、トゥ!」なんて飛び降りていた記憶がある。あと自転車も仮面ライダーが付いていたような。一方、人形遊びは時折やったが遊び方が少しおかしかった、というか、うちには叔母から譲ってもらったリカちゃん人形だのバービー人形などがホントたくさんあったのだが、わたしはその人形の首を全部もいだり、服を全部脱がせて手足をあられもない格好に曲げて楽しんだり、人間ができないような格好(膝の関節を反対方向に曲げたりとか)をさせて遊んでいた。傍目から見ると、ほとんど虐待としかいいようがない遊び方だったと思う。人形に対してはこんなもんだったが、ぬいぐるみとなると別で、いつだったか、モンチッチのぬいぐるみをもらったことがあって、それはホント、猫かわいがりしてどこでも連れて行った。どこでも持って歩くもんだから、ついに布が薄くなって、そこから詰め物が出て来ちゃったりなんかしたのを、母親に何度も繕ってもらったりして。そのくらい、気に入ったぬいぐるみに対しては愛着がすごかった。

あと「ごっこ遊び」は全くしなかった。「他の人になる」ということが、わたしは怖いというか大嫌いで、そういう意味で演劇も大嫌いなのだが、もうすごく小さい頃から「自分は自分である」「自分以外のものはいやだ」という思いは持っていたように思う。

小学校に上がるとき、密かに「赤いランドセルは嫌だなあ」と思っていた。赤より黒の方がかっこよさげだったから。そしたらたまたま、親に小学校受験させられて、それが運良く合格し、わたしは私立の小学校に通うことになった。私立の小学校って黒いランドセルなんだよね(笑)そのときは嬉しかったなあ。あと、制服で学校に通うことになるのだが、制服は大好きだった。もちろんスカートで、わたしは普段はスカートはほとんど穿かなかったのだが、制服は別だった。なんか「ちゃんとしてる(と自分が思った)」ものについては、わたしは抵抗感がなかった。トランスジェンダーの人でランドセルが自分のと違う色がいいって思う人もいるようだ。そこら辺は似てる。けど、わたしは制服は嫌だと思ったことがないので、そこら辺は似てない。

あ、あと。この頃の時期には七五三があった。親はそれを楽しみにしていたようで、着物着せられて、化粧されて、写真館で記念撮影をした覚えがあるのだが、これがすごく嫌だった記憶がある(でも無理矢理親に笑えと言われて笑っている写真が残っている。悲しい、、)。このときの経験が「成人式には絶対に振り袖は着ない」とわたしに決断させた。

それからこれはもっと前の幼稚園頃の記憶だが、なぜかわたしはこの頃から親に対して「自分は結婚しない」と言っていたような気がする。よく小さい子どもに「将来の夢は?」と聞いて、女の子だったら「お嫁さん」とか「お母さん」と答えさせられるが、わたしはなぜか大きくなってから誰かと一緒に暮らしたり、自分に子どもがいる、という想像がまったくできなかった。だからそのときから「一生結婚しない」って言ったんだろうと思う。わたしは今まで親に「結婚しなさい」と言われたことはないが、5歳くらいから「自分は一生結婚しない」って言い続けてるんだもんな、と思ったりしている。

小学校に上がってからは、学校が楽しくて楽しくて仕方が無くなった。ただ、わたしは女子と遊ぶより男子と遊んでいた方が多かった。低学年の頃はあんまり気にならなかったが、大きくなるに連れ、女子はグループを作りたがる。そういうのに入るのが大っ嫌いでね。いつも男子と遊んでいた。男子のうち、1年から6年までずっと一緒のヤツがいたんだけど、そいつが動きがちょっととろかったりしたものだから、ご多分にも漏れず「おかま」だとか言われてたんだけど、わたしは6年間通じてそいつと一番仲がよかった。あまりに仲がよいので、他の男子から「お前ら夫婦か」と言われたこともあったんだけど、当人たちは言われても全然気にならなかったので、卒業までずーっとそのまま仲がよかった(おそらくそいつも「ジェンダー受容体」が欠如していたに違いない(笑))。

トランスジェンダーの人は幼い頃、生物学的な性と反対の性の人と遊ぶのが好きだったり、ゲイやレズビアンの人でも異性と遊ぶ方が好きだったりする人が割と多いと感じてるんだけど(本を読むとだいたいそんな印象)、でもあるとき周囲からあれこれ言われてそれでお互い意識して遊べなくなっちゃった、なんてことが多い。それがわたしからすると「なんで?遊びたかったら遊べばいいのに。なんでそうなっちゃうの?」っていつも思うんだけど、「ジェンダー受容体」がある人にとって、周囲からあれこれ言われるとそのことに囚われちゃうんだろうね、多分。でもそう言われても全然気にしなければ、何も言われなくなるんだけどね。

ただ、わたしが仲がよかった男子はそいつだけじゃなく、他の人ともそうで、例えば小学校2年のときに別の男子が「のらくろ」という漫画を持ってたんで借りて読んだり、その男子の家に行ってプラモデルの戦車などで遊んだ記憶があるし、その頃からわたしもプラモデルを作り始めた。最初はもちろん戦車。ただ、戦車のプラモデルは翌朝目覚めたらほとんど父親が作っちゃってて、がっかりしたなー。中学はアニメにはまったので、これまたちょうど流行っていた「ガンプラ(ガンダムのプラモデル)」をたくさん作ってた。この頃にはただパーツを外してボンドを塗って形を作るだけじゃなく、その後、すき間にパテを塗ったり、それを耐水ペーパーで磨いたり、着色したり、結構本格的になった。ガンプラに飽きた後は車のプラモデルになって、それから高校の時はバイクのプラモデルになった。

あと、放課後、男子はだいたいグラウンドで「カラバット」(プラスチック製のバットとゴムボールを使った野球)をやってたんだけど、わたしも女子一人にかかわらず、中に入ってやってた。随分大人になってから、同じクラスだった女子に「あのとき一緒に野球をやりたかったんだ」って言われたけど、だったらなんで入ってこなかったのか、と思う。わたしは女子一人でも別になんとも思わないで野球やってたし、その他の男子も別にわたしを入れることはなんとも思わず(と思ってたのはわたしだけか?)普通にやってたから。やはり「ジェンダー受容体」がある人は、周りの目が気になって異性の中では遊びにくいのか?

そういえばうちの学校は4年以降になるとクラブ活動みたいなものがあるんだけど(ただし課外活動ではなく授業中だったような)、わたしは迷わず「野球団」に入った。そこでもわたしは女子一人だった。けど、全然気にならなかった。野球、やりたかったんだよね。「カラバット」はグローブなしでできる野球だったけど、野球団の野球はグローブを使った野球だったし。

グローブと言えば、小学校2年くらいのときに親から買ってもらった記憶がある。そして休みになると父親としょっちゅうキャッチボールをしていた。わたしが小学校1年のときに、カープが初優勝し、それ以来、わたしはカープファンでね。父親が会社の関係で野球のチケットをもらってきて、後楽園(当時(笑))にカープ戦を何回か観に行った。野球熱は大学院生の頃から盛り上がり、社会人になってからは野球観戦(社会人野球の)が趣味になった。

男女問わず遊んでたので、担任は面談時に親に「○○さん(わたし)がいるおかげでクラスの男女の仲がいいです」と言われ、それがとても嬉しそうだった。けど、わたしにとってみれば、別に男女の仲をよくしようと思って遊んでたわけじゃなく。ただ遊びたい人と遊んでただけで。

だいたいどの本を読んでても小学校高学年くらいになるとクラスの中で「誰が好き」という話になるらしいのだが、わたしはそういう話は一切しなかったし、聞かれた覚えもない。もちろん特別に好きな人、というのはいなかったので「誰が好き」と聞かれても「いない」としか答えようがなかったけど。でも「恋愛」という概念は知っていて「わたしもいつかは人のことが好きになるのかなあ」とは思っていた。

小学校のときはやけに積極的で、高学年になるとうちの学校はやたら団(クラスを4分割して、1団にする。1団は2班に分かれる)で行動させたんだけど、その団長にはよく立候補してた。けど、他の団員と一緒になって遊んじゃったりして、担任から怒られたこともしばしば。責任感はあんまりなかったな(笑)でもだからといってすごく目立つ生徒ってわけじゃなく、例えば学級会であれこれ意見を言える人はすごいって思ってた。わたしはひたすら退屈で「早く終わらないかな~」って思ってた。

劇もよくやる学校で、これはわたしにとっては非常に苦痛だったんだけど、なぜか主役級の役が回ってくることが多かった。中でも小学校5年かなんかに「セロ弾きのゴーシュ」のゴーシュ役をやらされたんだけど、この中で「俺も男だ、頑張って稽古するぞ」という台詞が嫌で嫌でたまらなかった。だって、わたしは女なのに。って、何かを演じることすら嫌だったのに、それに輪を掛けて男を演じさせられたのが嫌だったので、このことは非常に記憶に残っている。

小学校5、6年の担任はこの頃から成長期を迎える女子に配慮して、教室の一角を「女子更衣室」にしたんだけど、わたしはそれを使うのがなんだか嫌でね。女ばかりのところが恥ずかしいというか、窮屈だというか。とにかく使うのが嫌だった。だから結局1回も女子更衣室では着替えなくて、女子更衣室の横の教室の後ろの机のところで着替えてた。この女子更衣室は他の組にはなくて、他の組の女子がうちのクラスはいいなあって言ってたけど、わたしはどこがいいのかさっぱり分からなかった。

確かに周囲の女の子はどんどん成長期を迎えてて、どんどん身長が伸びていくんだよね。わたしは元々背は高い方で、後ろから3番目とかそんな感じだったのに、知らないうちにどんどん追い抜かれていった。中学に入ったら前から8番目になってて、それがすごくショックだったなー。

中学からは父親が大阪に転勤したので、大阪の公立の学校へ。実は私立の小学校は、エスカレーター式で高校まであるんだけど、中学から女子校になっちゃうんだよね。で、わたしは女子校に通うのは嫌だって思ってたので、これまたちょうどよかったのよね。決してその学校が嫌いだというわけじゃなく、ただ女子校は通いたくなかったの。なんでか知らないけど、女子だけの空間にはいたくなかった、という感じ?女子だけってなんかすごくドロドロしてる感じがして怖かったし、女子の中だったらわたしは多分「ボーイッシュ」と見られて、女の子が寄ってくるのが怖かった(そうなる保障はどこにもないんだけどね。ただこの当時「女の子が寄ってきてヤだ」と思ってしまったのは、前にも書いたとおり「男の代わりをするのがヤだ」と思ってたから。まだ「女同士」って観念がなくて、相手が女だったら自分は男に見られてると思ってたから)。

トランスジェンダーの中でもMtFの人が男子校出身だったり、FtMの人が女子校出身だったりするけれど、ただMtFでも人によって、男子校でも(椿姫彩名さんみたいに)「自分のいやすい場所」にしてしまう人と(佐倉智美さんみたいに)「男子の中では絶対ダメ」と共学校の高校に入り直してしまった人がいるんだよね。わたしはどちらかというと後者のタイプかな。まぁ、結局一生「女子校」とは無縁だったので、いざ入ってみてどうなったかは不明だけれど。

というわけで、大阪の公立の中学に入学するわけだ。その中学が巨大な中学でね。12クラスあって、1クラスはだいたい45人くらいだったろうか。3学年揃うと全校生徒が体育館に入りきれないほどだった。

その中で前にも書いたけど、わたしは背が伸びなくて、前から8番目っていう、今までからすると信じられないくらい前になってしまって、結構ショックを受けた。だいたい中学入学した頃の身長が150センチだったかな。それがね、中1、中2で7センチずつ伸びて、中3になったら165くらいになり、背の順も定位置の後ろから2、3番目になってね。それはそれでホッとしたものだったけど、まさかそれからさらに背が伸びて、結局身長が170センチ超えることになるとは思ってなかったね。大学院の時も毎年健康診断があるんだけど、毎年2、3ミリ程度伸びてるんだよね。「あれ、誤差かな」と思うんだけど、その誤差が3年続くと1センチになるからね~。結局大学院生の頃になっても身長は伸び続けてました。

大阪の中学のときは、東京から来たというので、最初の頃はなんかいじめられたり、いろんなことがあった。クラブは美術部で、そこでアニメにはまった。クラブは女子が多かったものの、男子もいてね。クラブの顧問の先生はとても変な人だったんだけど、それでも結構楽しかった。いじめられてるときはほとんどクラブが楽しみで学校に行ってるようなものだった。まぁそのいじめも2学期の後半くらいに治まるんだけど。

1年のとき、社会科の女の先生が好きになった。その先生は話が好きで、自分が行った外国の話とか、授業中にいろんな話をしてくれた。その話がものすごく楽しくて、他の生徒も何かあったら「センセー、話して」ってねだってた。そうなるとわたしはその先生から好かれたくて、テスト勉強は社会に始まり社会に終わる、といった感じで、ほとんど社会の勉強しかしなかった(笑)それ以降、わたしは何人かの女の先生を好きになるんだけど、いつもこのパターン。男の先生を好きになるのはほとんどなかったな~。中2のときの歴史の先生くらいか。別に女の先生を好きになることについては、なんとも思わなかったな。好きって言っても「成績が良くて気に入られたい」くらいのことしか思ってなかったしね。

それからわたしの髪型についてなんだけど、小学校に入った頃が多分、人生で一番髪の毛が長かったんじゃないかな。おかっぱ、っていうの?肩に髪の毛が付くくらい長かった。それは自分がそうしたいからじゃなくて、親がそういう風にさせてたんだよね。わたしは髪の毛が長いのは嫌だった。だから、それからはだんだん髪の毛が短くなった。とはいうものの、わたしはいつも「なるべく短く」って言うんだけど、そういうと美容師さんは「刈り上げるんですか?」って聞くんだよね。そう言われるとなんか刈り上げるのって特別なことなのかなと思い、そこまでの勇気はなかったから、いつも「いや、刈り上げじゃなくて、でもギリギリまで短くしてください」って言わざるを得なかった。だけどいつもすっきりした感じはなくて、なんか中途半端な感じだった。刈り上げたのはもっと大人になってからで、最初に刈り上げてもらったとき「なんだ、この程度だったらなんでもっと早く刈り上げてもらわなかったんだろう」って思ったほどだった。

髪型に関しては、中学の頃になるとよく女子は髪型のことがヤケに気になって、櫛とか持って歩いたり、休み時間には女子トイレの鏡で髪型を整えてたりしたのを見たことがあったけど、わたしはそういうのには全く興味がなく、髪の毛は楽なのでできるだけ短くしたいって思ってた。髪型には全く興味がなかった。それは今でも同じで、新しい美容院に行ってあれこれこうしてくださいっていうのはすごい苦手。だからいつも行きつけの美容室があって「いつものようにしてください」というのがわたしの理想。だいたい、前髪が眉毛にかかるとか、耳は出すかとか、いろいろ聞かれても、めんどくさいだけなんだよね。そしてなるべく美容室には行きたくないので、行くと「もうじゃんじゃん切って短くしてください」と言い、それから髪の毛が長くなって洗ったり乾かしたりするのがめんどくさくなるまでは延ばし放題だ。

まぁ自分の容姿をどうこうすることについては、今も昔も全く興味がなくて、化粧したのは上に書いた七五三のときだけ?今まで化粧をしたいと思ったこともない。「化粧をするのはエチケット」とか言う人がいるけど、なんでそれは女性にだけ課せられなきゃならないんだと思うし、人間、中にドロドロした汚いものをいっぱい抱え込んでるクセに、顔だけきれいにしたってどうにもならんだろと思う。とにかく「きれい」に見せたくない。もちろん敢えて汚く見せようとも思ってないけど、自分を飾ることがものすごく嫌いだ。人に自分の「虚構」を見せるのが嫌なのだ。それは昔も今も一貫している。

あと中学の時というと、やっぱり女子はグループで行動する人が多かったんだけど、わたしはそういうのは全く好きじゃなくて、どこのグループにも属さなかった。別に一匹狼でいいじゃん、って思ってた。休み時間にみんなで連れ立ってトイレに行くのは「アホくさ」って思ってた。みんながみんな、同じ時間に尿意を感じるわけじゃあるまいしってね。だからわたしと友達はいつも「一対一」の関係だった。あ、でも中にはすごく自分と気の合う友達もいた。けど恋愛として「好き」って気持ちは持ったことがなかった。友達は友達だった。

ただ面白いことに、そういう態度だと結構不良グループ(っていうのかな。スカートの丈を長くしてた人たち;当時はスカート丈を長くしてるのは不良とかつっぱりって言われてた)の女子からも気軽に声を掛けられたりして、わたしとしてはそれが不思議だった。

中3でまた東京に戻ってくるのだが、近所の公立中学でね。1学年3クラスしかなくてびっくりした。中3のときは幼稚園で友達になった人たちと一緒になった。文化部が演劇部しかなく、そんでたまたま幼稚園で友達になった人たちはみんな演劇部だったんだよね。で、なぜかやっぱりアニメファンで。だから遊ぶのはその人たちってわけで、わたしの人生では珍しく男子と遊んだりってことはしなかったし、クラスの中で何やってたかの印象はすごーく薄い(わたしの中ではこの時代は「中3」じゃなく「高校受験生」のイメージがある。先生方やたら「受験生」「受験生」って言ってたし)。嫌いなのに演劇部に入ったのは、何か部活に入ってないと内申に響くから、という受験生的な理由。でも「演じるのは嫌い」って言ったから、専ら効果音とか裏方さんで役は一切やらなかった。

で、中学でもやっぱり「誰が好き」って話はぜーんぜんしなかった。「アニメキャラのうち誰が好きか」という話をした覚えはあるが(笑)でもアニメキャラって、別に男性キャラが好きでも女性キャラが好きでも別に構わないんだよね。女子が女のキャラを好きと言っても「えー」ってホモフォビックのような感じにはならなかった。「へー、そうなんだ」とか「いいじゃん、わたしも好きだよ」とか言えるし。それにわたしらの中学時代って、前にも書いたけど「パタリロ!」や「アニメトピア」が流行ってた時代だったからねー。「同性愛」は自分には関係ないけど、そういうのはあるんだろうって漠然と思ってたし、気持ち悪いとかそんなことは全く思わなかった。

というわけで、長くなったのでその5に続く。。
14:10 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
06-05 Tue , 2012
レズビアンになったきっかけ?(その3)
だいぶ間があいちゃったけど、その2の続き。

あ、その前に「その1」でも「その2」でも書いてた「ジェンダー受容体」って言葉はわたしの造語だ。ジェンダーというものはヒトが育つ過程で自然と身についていくもの、と考えられているが、自然と身についていくためには親を始め周囲から「男らしくしなさい」「女らしくしなさい」と言われながら育つと思われる。でも身につくためには「言われる」だけじゃダメなんだよね。本人がそう言われたことによって「男(女)らしくしなきゃ」と思ったり「男(女)らしくしたくないなあ」って思ったりすること、反応することがないと本人は「ジェンダー」を取り入れたり意識することはないのだ。そういう「男(女)らしくしなさい」という言葉に反応するかしないかが「ジェンダー受容体」があるかないかってことなんだと、わたしは自分の過去を振り返りながらそう思う。

わたしの場合、自分が育つ過程でおそらく「女らしくしなさい」とかそういう「ジェンダーのシャワー」みたいなのを他の人と同じように浴びてきたと思う。別に特殊な育ち方をしたわけじゃなく、自分だけ浴びなかったってことはないと思うしね。確かに両親からは強く強制されたという覚えはないけれど、、それなりに「女らしい格好をしろ」とか言われた記憶はあるし、、ただ、言われてもわたしには「ジェンダー受容体」がなかったので、右から左だったんだよね。他の人からも全く言われなかったわけじゃないと思う。けどそれに対しても右から左で、、要するにあんまり記憶にない。あんまり記憶ないから「わたしにだけそういうことはなかったんじゃないだろうか」ってずっと思ってた。けど上にも書いたとおり、わたしは決して特殊な育てられ方をされたわけじゃないし、自分の周囲を取り巻く環境も自分だけ特別だとは思えないのよね。だからそれなりに「ジェンダーシャワー」を浴びて育ったとは思うんだけど、それが自分の中に取り込まれたような気がしない。

「ジェンダー受容体」のイメージというのは、DSD(性分化疾患)の中で「ホルモン受容体」があるなしのイメージだ。もちろんDSDの場合、そういうものはあるとされている。が、ジェンダー受容体の場合はわたしの造語だからそれが本当にあるかないかは分からない。ただ便宜上そう考えると考えやすい、というものだ。

で、わたしはこれまで「性同一性障害30人のカミングアウト」を初めとするさまざまなトランスジェンダーの人のライフヒストリーとか、あと「女性同性愛者のライフヒストリー」を初めとするさまざまなレズビアンのライフヒストリー(「その2」にも書いたけど、池田さんや尾辻さんや笹野さんの本とか。しかしトランスジェンダーに比べると数は少ない)を読んでみたのだけれど、レズビアンのライフヒストリーに対してはどれも自分とは全く掛け離れていたため「あ、そうそう」「自分もそうだった」と思うことはなく、ただ「ふーん、そうなんだ」と思っただけで心を動かされることはなかった。でもトランスジェンダーは自分がトランスジェンダーでないにもかかわらず、「あー、この気持ち分かる」とか、逆になんかね、読んでるとだんだん違和感でもやもやした気持ちになってくるのよね。なんでかっていうと、レズビアンのライフヒストリーは「同性が好きになる自分」が焦点に当てられてて、ジェンダーにはほとんど触れられてないというか、触れてあっても「ふーん、そうか」くらいなものなのよね。「女らしくしなさい」と言われて自殺したいほど悩んだ、なんてことはほとんど書いてない(もちろん「悩んだ」くらいの人はいる)。まーわたしもそう言われて悩んだことはないのだけど。

だけど、トランスジェンダーの場合、「男(女)らしくしなさい」と言われて自殺したいほど悩んだ人はたくさんいる。そう言われて「自分は違う!」と思った人ばかりだし、FtMの人の手記などを読むと「あ、わたしもそうだった」って言うところが結構たくさんある。例えば子供の頃、どんなオモチャで遊んだかとか、どういうものが好きだったかとかね。だけど、一方、わたしが読んでもやもやするところがある。というのは「この人とわたしは同じようなオモチャを好んだり、あまり女らしくない行動をしたりしてるのは似てる。けどこの人は周囲に『女らしくしなさい』と言われて随分悩んでる。でもわたしがそう言われても全然悩まなかった。考えてみると結構『男っぽい』ことしてきて、周囲からも『変人』とか言われたけど、全然気にならなくて、自分の好きなようにしてきた。この違いはなんだろうか?」ということなのね。それはトランスジェンダーのライフヒストリー(FtM)を読むと必ずわたし、そう思うのよ(ただし、わたしには性別違和がなかったので、そのことがFtMの人とは決定的に違うのだけれど。
)。だからこそ、わたしは「ジェンダー受容体」という言葉を作りだしたのだけれど。悩む人はジェンダー受容体がある人なんだよね。そして未だかつてジェンダー受容体がないみたい、って人が自分以外実はいない。。。それはレズビアンでもトランスジェンダーでもね。。

そして例えばトランスジェンダーでトランジョン(性別移行)を始めた人は、例えば男女別に分かれているところ、トイレとかお風呂とか、そういうところへ行くことが非常に困難になる。またトランジョンしてない人であっても「自分は男なのに女子トイレに入るのはイヤだ」という人もいる。望む性のトイレに入り、周囲から何も言われずに出てくる、ということはヒヤヒヤものなんだけど、わたしも望む性(わたしは女だけど)のトイレに入り、周囲から何も言われずに出てくる、ということはヒヤヒヤなのだ。わたしが外でトイレに行くとまずじろじろ見られたり「ここは女性用ですよ」と言われたり、あとこれは被害妄想なのかも知れないが、何人かの人がわたしの方を見てヒソヒソ言ってるような感じがしたり。だから意を決してトイレに入って誰もいなかったら心の底から「よかった」と思ってホッとする。なのでここでも根本的なものは違うが、状況がすごくよく似てるんだよね。だから思わず「うん、うん、そうそう」って思っちゃう。ただトランスジェンダーの人からすると「自分は努力して見た目を自分の望む性にしてるけど、アンタは全く違うじゃないか」と思うだろう。中にはわたしが「生物学的な性」の上にあぐらをかいてることに憤りを感じるんじゃないかと思ったりする。

でもさあ。本来は「自分がそうしたいからする」んじゃないのかなあ。周囲の人から望んだ性に見られたくて過剰に望む性を身に纏わなくてもいいんじゃないかなあって思ったりもするんだよね。「それで望んだ性に見られれば苦労はしないわよ!」って思ってるトランスジェンダーの人っておそらくいると思うけど。。わたし自身は望む性に見られたくて過剰になるより「自分はこういう姿の男(女)なんです」って世間に訴える方がいいと思うんだけどな。まぁ、それやると疲れると思うけれども(わたしがそうなので)。

ってなかなか本題に入らないな(苦笑)

っていうか、純粋に性的指向だけで話をするとすると、

「いろいろあったけれど、あるときまで別に誰が好き、とか誰と付き合いたいって強く思ったことはなかったので、逆に20代半ばに『自分は人(この時は男だと思ってた)を好きにならないけど、なんでかなあ』と思って、自分の過去をいろいろ振り返ってみたら、実は女の人の方が好きだったんじゃん、ってことに気が付いた」

ってそれだけなんだよね(爆)まぁ気付き方なんて人それぞれだろうけど、今までわたしが読んだ本の中にはわたしのようなレズビアンは誰もいなかった。他の人はだいたい「あるときに女の人をすごく好きになり、でもこれは思春期には同性への憧れっていうものがあるから自分もそうで、いつかは男性を好きになるに違いないって思ってて、そして実際男性とも付き合ったりするんだけど、男性と付き合ってもしっくりいかず、思春期越えても女性が好きなままで、それでものすごく悩んだりするんだけど、他にも自分と同じような人がいることが分かって、あ、自分は女の人が好きなままでいいんだってことが分かった」みたいな感じかな。多少はもちろん各個人個人で違ってくるけど、ほとんどがこんな感じだった。わたしのように悩むほど女の人を好きになったわけじゃなくて、気が付いたときも特定の人が好きだったわけじゃちっともなく、ただ頭の中で考えて「あ、わたしはレズビアンなんだ」って思った人は、今のところ本を読んだ中では誰もいなかった。ただ、、わたしの彼女も確か今まで女の人と付き合ったことない割に「自分は女の人が好きかも」と思って気が付いた人だから、中には結構そういう人はいるのかも知れない。確かにわたしの話だと全然劇的でもなんでもないから、インパクトが重要な本とかお話とかドラマとかね、そういうのはしにくいだろうなとも思う。ただまぁ「女性同性愛者のライフヒストリー」は別にインパクト云々でできた本ではないけれどもね。でも「女性同性愛者のライフヒストリー」に話にある一定の共通性があるってことは、多分、レズビアンの中でもそういう風にして気づいた人が多いということではあるだろう。まぁ多くのレズビアンと自分が違ってるからと言って、わたしはそのことで悩んだりはしなかったけれど。

もう一つ、本で読んだレズビアンの人たちと違ってる部分がある。中・高校生のとき、同性に好かれたりする人がいる。わたしもそうだったんだけど、本で読んだ人たちはみんな「好かれて嬉しい」って言ってた。けど、わたしは好かれても全然嬉しくなかったし、嬉しいどころか逆に気持ちが悪かった。それはわたしがホモフォビア(同性愛嫌悪)だったからではなく、わたしを好きだった人たちというのが、悪いけどわたしを「男の代わり」に思ってたんじゃないかと感じたからだ。わたしを好きになってくれた人はみんなすごくおとなしくて、普段男子と全くしゃべったことがない、しゃべってるのを見たことがないような人たちだったからね。「男子としゃべったことがないけど、男性的なものに惹かれるから、その結果、そういう人たちにわたしは選ばれるのだ」と思ってて、でもわたしは自分のことは女以外に思われたくないので、すっごく気分が悪かったんだよね。あとはわたしの女性の好みが前にも書いたけど、全く逆なんだよね。当時はレズビアンの自覚は全くなかったけど、好みの点では自分にすごく忠実だったんだと思う。だから女性から好かれても全然嬉しくなかった。好みの人からそう言われたらどうだっただろうな。ただ、口に出して本人に言ったわけじゃないけど「気持ちが悪い」と思ってたのは、好いてくれた人には悪かったと思ってます。。そのバチが当たったのかどうかは知らないけど、レズビアンの世界ではわたしはもてたことはありません(爆)

ってことで、今回は核心部分に入れるかと思ったら、入れなかった(苦笑)その4へ続く。。
16:39 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
04-27 Fri , 2012
レズビアンになったきっかけ?(その2)
その1の続き。

前に

> というわけで、長くなったけど、わたしがレズビアンだって気が付いたまでを次から書いていきたいと思う。

って書きながら、なかなか書き出せなかったのは、わたしの中にどうしても「性的指向」と「ジェンダー」をごっちゃにされてしまう恐れがあるんじゃないかと思ったから。そこのところに【注】を付けないと、これを読んだ人が「レズビアンはみんなこうだ」って思われると困るから。

正直言って、わたしは一般的な「レズビアン」には程遠い存在だと思う。レズビアンといっても、わたしは「他人に恋愛感情を抱くことがない」Aセク(無性愛)寄りだと思うし(ただし、無性愛(Aセク)の定義については諸説いろいろあるようで、Wikipediaに言及されている「無性愛」と「非性愛」の項目については現在「問題がある」と書かれている)、ジェンダーについては「分からない」し。

ジェンダーについての「分からない」ってのはね、ジェンダーとかジェンダーロール(性役割)については「存在する」ということは分かるの。これは頭でね。だけどわたしの中には「○○らしくなりたい」とか「○○らしくしなくては」という概念が存在しない。それが前の日記に書いた「わたしはおそらくジェンダー受容体みたいなものが欠けている」と書いた理由。わたしはそれがないので全くよく分からないのだけれど、それが「ある」人にとっては「○○らしくなりたい」とか「○○らしくしなくては」と自然に思えるのだろうね。特に「○○らしくしなくては」というのは一種の「圧力」と感じる人がいて、だから「生きづらい」と思える人がいるんだと思う。

そういうのが一切ないわたしは、そういう「圧力」を全く感じたことがない。わたしはいつも「○○らしくなりなさい」と言われて悩んだ、とか生きづらさを感じた、という本を読んだときに「自分はかなり『女らしく』から外れた人間なのに、何も言われたことがないなんて、幸せな人間だったんだなあ」と思っていたのだが、よくよく考えてみると、全く言われなかった、ということもないんだよね。本当は他の人と同じように言われてたのかも知れないけど、気にならなかったんでその記憶がほとんど消えちゃったんだと思う。それとそういうことに対する「同調圧力」を感じる能力も欠けているので「圧力がかかっている」と感じたことがない。だから他の人と比較してどの程度そういうことが言われたかとか圧力がかかっていたかすら、実は覚えてないんだよね。だからその点については感じない分、わたしは「幸せ」なのかも知れない。

この「○○らしくなりたい」とか「○○らしくならなきゃいけない」と無意識で思ってる人はこの世で多いらしく、というかそういう人にとってはそれは既に「自分らしいこと」らしいんだよね。で、本当はその「○○らしい」というのは個人個人で異なっているはずなのよ。それと古今東西で「○○らしい」というのが統一されているわけでもなく、一方の地域で「男らしい」と思われていることが、他方の地域ではそうではない、ということはよくある。「男らしさ」とか「女らしさ」なんて、その時々で変わってくるし、個人個人でも異なっているもので、どこにも統一された「男らしさ」や「女らしさ」なんてものは定義されていないのに「男らしくしろ」とか「女らしくしろ」って言う人はなんなんだろうねって思う。そういう人は自分こそは「男らしい」とか「女らしい」って思ってるんだろうけど、「男らしい」とか「女らしい」の定義がないのによくそういうこと言えちゃうねって思う(ジェンダーフリーバッシングしてる人とか)。

要するにそういう人たちって「自分がルールブックだ」(古い)と思って自分の物差しブンブン振り回してるのと一緒だと思うんだけどね。そしてもしかしたらそういう人って逆に「○○らしくしなければ」という思いが強すぎる人で、だから人にもそれを要求しているのかなと思えて来ちゃう(自分も苦しんでるんだから、お前も苦しめ、みたいな)。普通になんの圧力も感じずに「男らしく」とか「女らしく」してる人の方が、その人にとってはそれが「自分らしくしている」と思っているわけだから、他人に寛容かも知れない。まぁわたしにしてみれば無意識に「男らしく」とか「女らしく」したいって思う人の気持ちがさっぱり理解できないので「本当にこの世の中にそういう人っているの?」って感じなんだけど。。(それはわたしがこの世の中の人に対して「本当に異性のことが好きって思ってる人がいるの?」と思えるのと全く同じだと思う。わたしにとっては「同性が好き」なのは自然のことなので「異性が好き」な人の気持ちが全く分からない。ということは裏返せば異性愛者にとっては「同性が好き」という気持ちも全く分からないのだろうと思う。だから「いつレズビアンになったんですか」って聞かれるわけだよね(苦笑))

あーあとわたしはこの「自分らしく」ってのも嫌いです(笑)というか「自分らしいってなに?」って思う。自分は自分なんだから、自分がすることは既に「自分」であって、決して自分「らしい」ものではないと思うんだよね。でも「自分らしくありたい」とは言うけど、あんまり「自分でありたい」とは言わないよね。なんでなんだろうね?そして「自分らしく生きろ」は、そうとしか言いようがなく「自分を生きろ」になると意味が変わってきてしまう。わたしはこの「らしく」って付けると「ニセ自分」みたいなイメージを持つんだけど、「らしく」の用法間違えてるのかなあ、、

なんてことをつらつら書いていたら、また長くなった。

要するにわたしが言いたいのはこれは「わたし」の場合であって、他のレズビアンの人にすべて当てはまるわけじゃないんですよーってことなんだよね。多分レズビアンの中でもわたしのように「ジェンダー受容体」がない人は少ないんじゃないのかなあって思う(今まで出版されている「カミングアウト本」を読んでみても)。で、わたしの場合、ジェンダー受容体がなく、しかもジェンダー自体が「分からない」か「どちらとも決めたくない」なわけなので、多分、周囲からは「女らしくない」とか「男っぽい」とか思われてると思うのよね。でも、今まで書いてきたように、わたしは「○○らしくしたい」とか「○○らしくしよう」と思ったことなど一度もなくて、わたしが思ってたのはひたすら「自分はどうしたいか」だったので、そこに「男」とか「女」のフィルターがかけられてないんだよね。

トランスジェンダリズム宣言―性別の自己決定権と多様な性の肯定」って本があってね、その中に「トランスジェンダーという言葉を作った人」のことについて書いてある。

「トランスジェンダー」という言葉を作ったのはヴァージニア・プリンスという人で、その人に寄れば「身体的性別であるセックスではなく、社会的性別であるジェンダーに違和感を抱く自身を表わすため」に作った言葉、なのだそうだ(130p)。

この定義によれば、わたしはまさしく「トランスジェンダー」なのだが、昨今の「トランスジェンダー」という意味の中には「身体的性別の違和を持つもの」が定義されてしまっているために、今の意味での「トランスジェンダー」の中にはわたしは入らない。わたしには性別違和はないからね。これ、いつの間に「性別違和」が含まれる言葉になってしまったんだろうって思う。おそらく推測するに、性別違和を持つ人とジェンダーに違和を持つ人というのは非常に近い関係で、しかも性別違和を持つ人の方がジェンダー違和を持つ人よりも数が多いんじゃないだろうか。だから、いつの間にかジェンダー違和だけでなく、性別違和を持つ人、という意味が含まれてしまったんじゃないかと思ったりする。

そういえば「性同一性障害」(GID)と診断されるガイドラインの中の「性別違和の実態を明らかにする」の中に「反対の性役割。日常生活のなかでも反対の性別として行動する、あるいは行動しようとする。しぐさや身のこなし・言葉づかいなどで反対の性役割を演ずる、あるいは演ずることを望んでいる」ってあるんだけどさ、ここでも「性別違和」と「ジェンダー」がごっちゃにされてると思うんだよね。大半の人は自分の(感じている)性別と性役割が一致しているのかも知れないけど、そうじゃない人もいるかも知れないのに。というか、これでは自分の(感じている)性別と性役割が一致しない「性同一性障害」の人は救われないよね。

要するに「今の自分の身体は男でも、自分は女だと思っている。けど別に女っぽくしようとは思わない人」なんかの存在は無視されている(少し専門用語を交えると「男っぽいMtF」は存在しないってこと。また逆の「女っぽいFtM」も同じ)。もし、こういう人たちが存在するとして、そして強い性別違和感を感じて性別適合手術(SRS)を受けたい、と思ったときは、無理に自分の「やりたくない」「男らしさ」とか「女らしさ」を身につけて医者に認めてもらわないといけない。これっておかしいんじゃないの?ってことだ(尤も「セクシュアリティの多様性と排除 (差別と排除の〔いま〕 第6巻) (差別と排除の「いま」)」の第4章(126p~)によると「性同一性障害」と診断する精神科医師は、特に「過度な」反対の性役割は求めていない、とのことだけれど(それより本人が性別移行後にちゃんと暮らせるかということに重点を置いているらしい))。でもある程度の「反対の性役割」は「マナー」だと言い切ってるので、わたしからするとそれは「なんだかなあ」って感じがするけどね。男っぽいMtFがいてもいいし、女っぽいFtMがいてもいいじゃん、ってわたしは思う。

って話がどんどん逸れていく(汗)

わたしはただ「性的指向」と「ジェンダー」は無関係っていいたかっただけなのに(笑)いつの間にか「性別違和」と「ジェンダー」が混同されている、という話になってしまった。

でもわたし自身、長い間「性別違和とジェンダー」について分離できなかったからね。だから、わたしはずーっと以前から「自分にはジェンダーはない」って思ってたけど、それと「トランスジェンダー」との間がすっぱりと分かれなくてなんだかずっともやもやしてたんだよね。性別違和は感じていないので、わたしはトランスジェンダーではないのだが、だけれども自分は一般に「女らしく」はなりたくなかった(もちろん「男らしく」にもなりたくなかったけど)、何かトランスジェンダーと「似ている部分」もあって、それがなんなのかよく分からなかったんだよね。

ちなみに「なぜ同性愛者が生まれるのか」について「ゲイの脳は異性愛者の女性に似ていて、レズビアンの脳は異性愛者の男性に似ている」といったことが「ごく自然に」前提条件になっているけれども、その考え方ってまさに「男と女は惹かれ合って当然」という「異性愛主義」に基づいているものなのだよね。

「男であるのに男が好き」→「男が男を好きなんて考えられないから、男好きな男の脳は女だ」→「だからゲイは女っぽい」
「女であるのに女が好き」→「女が女を好きなんて考えられないから、女好きの女の脳は女だ」→「だからレズビアンは男っぽい」

しかし、もう一方で「なぜトランスジェンダーが生まれるのか」という疑問もあるわけだよね。

「身体が男であるのに自分は女であると思っている」→「それは身体が男でも脳が女だからだ」
「身体が女であるのに自分は男であると思っている」→「それは身体が女でも脳が男だからだ」

ゲイやレズビアンとトランスジェンダーは全く違うものなのに、結論が同じになってしまう。これっておかしいでしょ?

また、トランスジェンダーの中にはゲイもレズビアンもいる。

「身体が男であるのに自分は女だと思っている。しかし好きになるのは女性」
「身体が女であるのに自分は男だと思っている。しかし好きになるのは男性」

こういう人(MtFレズビアン、またはFtMゲイという)は確実にいる(わたしの知り合いにもいる)。それもMtFレズビアンはMtFの中でもかなりの割合でいるという人は多い(ちゃんとした統計は取られていないけれども、当事者でそう実感している人はいる。FtMゲイについては、MtFレズビアンよりも少ない。これも当事者の中での実感だそうだ)。

こういう人たちの場合、その人の脳はどうなってると説明するのだろうね?はっきりいって「異性愛主義」ではこのような場合は「説明不可能」なのだ。

なのに平然と「男好きな男の脳は、女性の脳だ」と思い込まれている(例えばこういう本に書かれてたり)。いや「脳」に限定しなくても、なんらかの「女性と同じ部分」を探そうとしている(例えば脳梁だったりホルモンだったり)。

それって根本的に違うのだ。だからこういう研究をしている人は「男と女は惹かれ合って当然」という考え方である「異性愛主義」から脱するべきで、脱するためにはもう少し性的少数者(セクシャルマイノリティ)の実態について勉強したり、クィア理論などを勉強した方がいい(ただ正直、クィア理論はわたしもよく知らない)。

同性愛者はただ「同性」が好き、というだけなのだ。

「男として男が好き」
「女として女が好き」

ただそれだけなのだ。そこに余計な「異性愛主義」や「ジェンダー」はいらない。

あ、でも尤も「男らしい男の人が好きな男の人」とか、そういう意味では個人の好き嫌いには「ジェンダー」は絡んでくると思う。「女っぽい男が好きな男の人」はあんまり聞かないけど、レズビアンの方では「フェム(女っぽい)好き」と「ボーイッシュ(男っぽい)好き」の両方がいるからねー。ちなみにわたしはフェム苦手(笑)自分も全然女っぽくないけど、女っぽくない女性が好みです(だからといってあまりにも男っぽい人も苦手)。

でもこれって異性愛者も同じだよね。男性がすべて「女っぽい女性」に惹かれるとは限らないように。女性でも「男っぽい男性は苦手」って思う人もいるように。そういう「好み」においては、異性愛も同性愛も変わりがないんだよねー。

ってところで、その3へ続く。。

【注】この日記の中には「性同一性障害(GID)」と「トランスジェンダー」をごちゃごちゃにして書いてありますが、「性同一性障害(GID)」は一般に医療用語であり、「トランスジェンダー」は上にも書いたとおり「当事者が作った言葉」で、根本的には異なる言葉なんだけれど、今の日本の中では「トランスジェンダー」の中に「性同一性障害(GID)」があると位置づけられる考えが一般的で、「性同一性障害(GID)」の人は性別適合手術を望む人、というようなイメージがあります(一方「トランスジェンダー」は性別違和はあるけれど、様々な理由があり性別適合手術はしない人、というイメージがある)。しかし、トランス業界は非常に複雑なので「トランスジェンダー」「性同一性障害(GID)」の関係も複雑で、そうすっきりと分けられるわけではないです。
20:12 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
04-20 Fri , 2012
レズビアンになったきっかけ?(その1)
このブログは頻繁に「レズ きっかけ」「レズになった理由」「なぜレズビアンになるのか」「ビアン 気づく」「ビアン きっかけ」などの検索用語で引っかかっている。「ビアン」という用語で検索を掛けてくる人はおそらく当事者だろう。日本では「レズ」という言葉の印象があまりに悪いため(ポルノチックなイメージがあるなど)、当事者は自らのことを「ビアン」と呼ぶ人が多いからだ。ただ、この言葉に出会う前は当事者でも「レズ」以外の言葉を知らないため、「レズ」という言葉を使うこともあるし、この言葉が汚辱にまみれていると知っていてわざと「レズ」を使う当事者もいる。「レズ」と検索を掛けてくる人は「ビアン」という言葉に出会う前の当事者か、当事者以外の人だろうと思っている。

ちなみにわたしは「レズ」にはやはり嫌なイメージがあるので、自らのことは「レズ」とは呼ばず、さりとて「ビアン」では一般の人には通じないので、「レズビアン」と略さない形で言ったり書いたりしている(と言ってもこのブログの初期の方では「ビアン」を使っている。あるときに「ビアンじゃ一般人に通じんじゃん」と思って「レズビアン」表記に変えた)。

随分前の話だが、性的少数者(セクマイ)関係ではないオフ会に行ったことがある。もちろんわたしはレズビアンをカミングアウトしてるし、そこでも平気で彼女との話をしたりしていたのだが、オフ会が始まっていろいろ話をした後、急に「Ronさんはなんでレズになったんですか?」と聞かれた。その人はダンナさんと来てた女の人で、ダンナさんから「そんな失礼なこと聞いちゃダメじゃないか」と言われてたのだが、もしネットで全く知らない人から「なんでレズになったんですか」とメールで聞かれたのなら、わたしは「まずそれが全く知らない人に対して使う言葉か。当事者以外に『レズ』とは呼ばれたくないわ」と思い、返事もしないところだが、会って話している人は別だ。そこでは「じゃあ、あなたはいつ異性愛者になったんですか?」って聞き返したのだが、先方はその意味がよく分からなかったようだ。

しかし、この質問をずばっと目の前でされてから「やっぱり異性愛者の人はそう思ってるんだなあ」と思って逆に感心してしまったほどだったんだけどね。

ちなみにわたしが「じゃあ、あなたはいつ異性愛者になったんですか?」ってその人に聞いたのは、わたしが「自分はレズビアンに『なった』」とは考えてないからだ。あるときまで異性愛者で、それから何かがあって、それでわたしはレズビアンに「なった」わけじゃない。生まれつきレズビアンだった。そのことにあるとき「気が付いた」だけなのだ。

よく「レズに目覚める」とか言われるけど、それって女が無理矢理女にセックスされて、その気持ちよさに同性に目覚めて、という三流のポルノに出てくる話のようで、わたしはあんまり好きじゃないんだけどね、そういう話。まぁ中にはそういう人もいるかも知れない。それはわたしは否定しない。というか、否定するしないじゃなく、存在するしないだからね。そういう人は「わたしはレズに目覚めた」と言うかも知れない。

けど、今、世に出ているゲイやレズビアンの「カミングアウト本」を読むと、全然そうじゃないよね。ちなみにゲイやレズビアンのカミングアウト本はいろいろ出ているが、わたしはつい最近「ボクの彼氏はどこにいる?」(石川大我著)、「先生のレズビアン宣言―つながるためのカムアウト」(池田久美子著)、「カミングアウト―自分らしさを見つける旅」(尾辻かな子著)、「Coming OUT!」(笹野みちる著)を読んだのだが(尾辻さんの本と笹野さんの本は再読)、同じ同性愛者でも全然違うんだな、って思うんだよね。

っていうか、これらの本は4冊とも違うのだが、それでもわたしからすると「かなり似通っている」。彼らはかなり幼いというか、小さい頃からなんとなく「同性に惹かれる自分」に気が付いている。そして学校生活はそのことを隠したりするために、かなり苦労したりしている(笹野みちるは違うけどね)。多分、こういうのが「同性愛者」の一般的な姿なのかなーと思う一方、それとは全然違った形で「気が付いたわたし」は、一体なんなのだろう、とか、どうしてなのだろうとつい、考えてしまうのだ。

池田さんや笹野さん、特に笹野さんは女子校出身ということで「周囲に男友達が全くいなかった」と書かれている。尾辻さんは共学だったみたいだけど、やることが男っぽいということで、同級生から「尾辻は中性」と冷やかされて、それを懸命に否定してる。

わたしは全く逆なのだ。多分、わたしのようなケースは稀なんだろうけど。。で、稀だからこそ「一般論」で語れないんだよねえ。どこが「稀」かというと「他人から何を言われようと気にしない性格」だったことと、あとわたしは「ジェンダー(社会的、文化的な性)」が女でも男でもなかったこと、それと「ジェンダー受容体」みたいなものが欠けてるからだと思う。って書くとわけが分からないだろうけどね。しかも「性的指向」と「ジェンダー」は本来、全然関係ないものなんだよね。でも特にレズビアンの人のカミングアウト本を読むと、性的指向とジェンダーがごっちゃになって出てくるんだよね。それはやっぱり「女は女らしく」って周囲からの圧力が大きいからだと思う。

って書くと「やっぱりレズビアンは男っぽいのか。。」と思われるかも知れないけど、これも全然違う。しかし、一般には「レズビアンは男っぽい」と思われてる割に、AVなんかで出てくる「レズもの」の女優さんは全然男っぽくなく、むしろ「艶めかしいイメージ」があるわけで、こう考えるといかにマジョリティーに「都合良く」考えられてるかって分かるよねー。

というわけで、長くなったけど、わたしがレズビアンだって気が付いたまでを次から書いていきたいと思う。→その2
20:16 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
02-29 Wed , 2012
なるほど
先日、うちのホントに近所、自転車で15分のところでちょっとしたイベントがあり、その中に「セクシャルマイノリティ」に関する講義がある、というので行ってきた。

それは性的少数者以外の人に向けての話だったんだけど、始めに性的少数者について「知る」ってことで、セクシャルマイノリティとはどういう人のことか、という話だった。

それによると人の性を「性別」「性自認」「性表現」「性的指向」の4つに分けて、それぞれ男寄り、女寄り、という風にグラデーションになっている、とのことだった。なるほど、確かに今までは「性別」と「性自認」と「性的指向」でしか考えないと、わたしみたいに「ジェンダーがどちらとも言えない」って思ってる人はどうなるんだろう?どう表現すればいいんだろう?って疑問が湧いてくるけど、「性表現」という「自分は男らしくなりたいか、女らしくなりたいか」というものを加えると「あー、わたしはそのどちらでもないのね」ってことになる。

ふーん、そういう分け方もあるのか。ってなんだかすごく感心してしまった。

そして、そのどれにも当てはまらない人、決めたくない人、決められない人などがいるってことで、ちゃんとXジェンダーやAセク、DSDの人の説明もしてたので、こういう説明なら多分ほとんどの人を網羅しているんだろうなと思った。

ただ、例えばFtMとかMtFとかXジェンダーとかっていう「専門用語」は一切使ってなかった。まーただでさえ「性別が男で性自認が女で性表現が男で性的指向が女だったら?」などと考えると頭がごっちゃになるので(この場合は男っぽいMtFレズビアンってことになるだろう)、そこは敢えてそういう用語を使うのは避けたんだろうけどね。

でもそうは言ってもわたしみたいにある程度知っている人間だと「なるほど。そういう説明の仕方があるのか」と思えるけど、初めて聞く人はどうかな~、とは思った。このことを話した講師が聞く人に対してどの程度の理解を求めているかはよく分からなかったんだけどね。その後には性的少数者の自殺率が高いとかそういう話が続いたので「いろんな人がいるんだな」って思ってもらえればよかったのかも知れない。

まーわたしは、今までちょっとどういう風に自分を表現すればいいのか分からなかったので、なんだか疑問が解けたようで、少し嬉しかったんだけどね。ってカテゴリーに入りたがっているわけじゃないけど、やっぱり「自分ってどういう人間なんだろ?」ってつい、思っちゃうからね。。
23:47 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
02-17 Fri , 2012
読んだよ
978-4-939015-33-5.jpg


少し前「ブックマーク整理」という題の日記を書いてから、同じ職場で亡くなってしまった人からもらったメールを読んでいた。そのとき彼からもらった最後のメールの最後の最後に

> 昨年東京で行われたLGパレードの報告本がでました。僕の拙い文章も載ってるのでもし見掛けたら笑ってね

って書いてあるのを初めて発見。「報告本って?」と早速Amazonで調べたら、おそらくこの本だろうということで早速入手。届いたので読む。

どきどきしながら読んだんだけど、果たして彼の文章は載っていた。読んだよ、Mさん。あれから11年後にね。笑わなかったよ。でも泣きもしなかったよ。

あの当時、LGパレードと言われてもなんのことやら分からなかったわたし。その6年後からまさか自分がパレードに参加するとは思ってもみなかったな。

Mさん。あなたがもしずっと生き続けていたら、わたしの人生変わってたかな。仕事は辞めないで、Mさんと一緒に活動し、彼女を自分のところへ呼び寄せてたかな。そんなことを思ってるよ。。

【追記】LGパレードとは「レズビアン&ゲイパレード」のことで、2006年までは東京で行なわれていたパレードはこのような名称でした。2007年から「プライドパレード」に名称変更しています。
10:32 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
01-28 Sat , 2012
ブックマーク整理
昨日から今日に掛けて自分のウェブサイトのブックマークを整理した。

わたしは普段からあんまりサイトをブックマークするようなことはないんだけど(何度も見たりするサイトでもぐぐって探す習慣が)、それでもちょこちょこと増えていったり、あとは昔はよく見てたけど、今は全然、なんてサイトもあったんで、そのサイトがまだ残ってるかとか、まだ今後も見たりするかなーとか、そんなことを思いながらね。

でも一つ一つサイトを見ていくとねー、昔のわたしを思い出した。わたしは自分が同性愛者(レズビアン)であることは悩まなかったけれど、他の人はどういう風にして暮らしてるんだろうか、とか、どこで知り合えるんだろうか。それにもちろんその頃はゲイの友達なんかも全くいなかったわけだから、ゲイの人の生活、なんてのも知りたかったから、多分、当時は「すこたん企画」(現すこたんソーシャルサービス)にあった(今はない)「リンク集」から適当なサイトを探して、興味を持った人のサイトをずっと読み続けてたりしたよなあ。

今、自分がもしかしたら同性愛者かも知れない、とか、既に同性愛者であることに気が付いた、でも周りに誰も知り合いがいない、とか、同性愛者だけじゃなくて両性愛者とかトランスジェンダーの人でそういう人がいたら、まずどこにアクセスするんだろうか。ふと、そんなことを思った。

確かにわたしがまだまだクローゼットだった時代からすると、今は相談窓口もあるし、行くところに行けば、同じ仲間と会えるイベントなんかもあったりする。twitterで繋がる、なんて手もある。けど、、それには「勇気」がいる。ほんのちょっとの勇気なんだけれど、どうしても無理、って場合もある。相談窓口に出てくる人は、一体どんな人なんだろう、twitterの自己紹介のところに「ゲイ」とか「レズビアン」って書かれてる人をフォローしたら自分のことまで分かってしまうんじゃないか、そう思って相談したりフォローできなかったりする人がいるに違いない。そして本当に一人のときじゃないとゲイやレズビアンのブログなんかを覗いたりしかできない人がいるだろうし、家族にばれるのが怖くてブックマークできなくて、いつも検索で来て、来た後は履歴を消す、なんて人もいるだろう。

まさにわたしがそうだった。

わたしが地方に住んでたとき、うちの本当に近く(歩いて5分ほど)のところで、当時「すこたん企画」の伊藤さんだったかの講演会があったんだよね。わたしはそれに行きたかったんだけど、結局行かなかった。行かなかったんじゃなくて、行けなかった。それはもし、その講演会の会場に行く途中、知り合い(知り合い=職場の人、だったんだけど。わたしはその地での知り合いは職場の人しかいなかった)に出会ったら、そして「どこ行くの?」って聞かれたらなんて答えようか、って想像するだけで怖くて家を出ることすらできなかったんだよね。歩いて5分の間に職場の人と会う確率、なんて、考えられないほど低いって頭の中では分かってたんだけれど、確率はゼロじゃない。当時のわたしはそんなことまで考えてたんだよね。行った先でどういう人たちが来てるかも全然想像が付かなくて怖かった。もしかしたら自分も当事者だって思われるかも知れない(当事者なんだけどさ)って思うのも怖かった。すべてがなんでも怖かった。

今もきっと、そういう人がいるはず。ネットなら覗けるけど、実際に当事者が集まっているところに行くのが怖い、なんて人もいるだろう。そして東京ならともかく、地方となると自分以外の当事者と会えるなんてことがぐっと少なくなる。イベントもやってない。出会いたいけど出会えない。出会っても自分とは性格が合わない。話が弾まない。そういう人もいるはず(全部わたしの経験だ(笑))。

そういう人に「勇気を出せ」なんてわたしには言えない。言われたって勇気なんか出ないもの。一歩踏み出せるまでネットでいろんな人たちに触れて、自分なりにいろんなことを考えて、そして「これならできるかも」と思ったことからやればいい。わたしもこのブログを始めたのは、クローゼットだった自分をどこかで吐き出したかったからだ(それプラスうつ病、ってこともあったんだけど)。

今はそれなりにオープンに生きてて、知り合いも友達もいる、そんな姿はブログを始めた2005年当時では考えられなかった。もちろん、オープンに生きていくこと=正しいこと、ではない。本当に自分のことを知って欲しい幾人かの人だけにオープンにするって方法もあるし、全くのクローゼットでも構わない。本人が苦しくなければね。どこまでオープンにするかはその人次第なのだ。わたしは最早自分のことを隠すのが却って苦痛になって来たので、これから出会う人とはオープンで行こう、そう思っているだけなのだ。過去の知り合い(学校時代の友達など)には言ってない人も多い。彼女の存在をなくして自分の近況を語ることは不可能なので、カミングアウトしてない人とはそこで付き合いが途切れた人も多い。不本意だけどそうせざるを得ない。

いつの間にか自分の話になってしまったけど、今、自分のことについて悩んでいる人や、知り合いたいけど知り合えない人はいつの時代にもいるんだ、ってことをブックマークを確認しながら改めて思ったんだよね。最終的に勇気を出すのは自分なんだけど、そのハードルが時代と共に低くなることを願っている。

そして今回は、既になくなってしまったサイトやアクセスしなくなったサイトをばっさりと削除したわけなんだけど、それでもどうしても削除できなかった2つのサイトがある。

その2つとも、サイトは既になくなっている。なぜかというと、両方とも既にサイトの管理人が亡くなってしまったからだ。

2つともゲイの人のサイトだったんだけど、その当時、同じ県に住んでる人たちだった。1人は野球が好きな人のサイトだった。毎日日記を更新してて、それを読むのが楽しみだった。あるときパッタリと日記の更新がなくなって、どうしたんだろうと思ったら、そのサイトの掲示板にその人の友達だった人から、その人が亡くなった、という書き込みがされた。もちろん連絡を取ったこともない人だったけど、ショックでね。人ってそんなに簡単に死ぬんだって思った。日記を含むサイトはその後しばらくして消えてしまったんだけど、掲示板だけはその後もずっと残ってた。それをわたしはちょくちょく覗いてたんだけど、ある日、その亡くなった人の親御さんからの書き込みがあった。どうやら亡くなった息子のPCから見つけたらしかった。わたし以外にもその掲示板に元々書き込みしてた人も見てたらしい。それまで書き込みしてた人と親御さんとのやりとりが始まった。わたしはそれを見てた。しかしその掲示板もサイト元がなくなってしまったようで、消えてしまった。そのときもショックだったな~。もう永遠にどこの誰か分からなくなっちゃったんだな、と思って。

未だに夏が来ると「スイカバー」(ってアイスらしい)が好きな人だったことを思い出す。

もう一つは「すこたん企画」から知ったサイトだった。紹介文に「○○県に住んでいる人です」って書いてあったから読んでみたんだけど、その人の書いていることを読むと、どうやら同じ会社の人らしくてね。そこでわたしはその人に「もしかして、ここに勤めてませんか?」ってメールしたのだった。そしたら案の定、同じ会社に勤めてる人で、ただ、同じ会社ではあったけど、場所的には遠い人だった。だけど、分野が同じ人だったので「いつかは同じ職場になるかも知れませんね~」なんて話をしてたりした。しかし、それからほどなくして「病院に入院してます」という携帯メールが届いた。だけどそのメールの件名は「牛」だった。そのメールからでは何の病気か分からなかったけれど、それからしばらくしてふと、彼のサイトを覗いてみたら、彼の友人の手で彼がつい数日前にガンで亡くなった、という報告がなされていた。わたしは永遠になぜ、あのメールの件名が「牛」だったのか、分からずじまいになった。

彼がもし生きていて、わたしと会ってたとしたら、わたしは彼と団体作って会社の人にカミングアウトして活動してたかも知れないって思うことがある。わたしはその当時は全くのクローゼットだったけど、いつか何かしたいって思ってた。彼は別の少数者のための分野で活動してる人だったし、もし生きてたとしたら、性的少数者のための団体も作ってたと思う。彼には同じ性的少数者の仲間もたくさんいたようだし(ウェブサイトが更新されてたのも彼の遺言だろう)、ウェブサイトに書かれてたことがこれから動き出そうかな、とまさにそんな感じだったからだ。そうしたら、わたしの人生も変わってたかも知れないな~って、それは今でも思う。

そのサイトもしばらくしてなくなってしまったけれど、彼から来たメールは今でもわたしのPCに残っている。

もうなくなってしまった2つのサイトは二度と復活することがないサイトだけれど、わたしはどうしても削除することができなかった。
15:54 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
10-19 Tue , 2010
ジェンダー押しつけと白い靴下
昨日、洗濯物を彼女と一緒にたたんでたときのこと。

洗濯物の中にわたしの白い靴下が大量にあって、わたしはそれを組み合わせるのに苦労していた。だいたい靴下は一気に○足組、△足組で買ってるんだけど、そうすると色はともかく長さがビミョーに違ってて、うまく組み合わせないと長さが違う靴下が残ったりして、結構めんどくさくてたいへんなのだ。

「めんどくさいなー」とブツブツ言いながら組み合わせてたんだけど、彼女が「そういえばろんたこはなんで白い靴下しか履かないの?」とわたしに聞いた。「え、それは中学の頃、学校には白い靴下しか履いて行っちゃいけなくてさ。それ以来、白い靴下しか履いちゃいけないような気がするんだよ。学校教育の弊害だね」と答えた。そう、わたしは中学の校則で「白い靴下に限る」と決められて以来、靴下はずーっと白いのしか履いたことがないのだ。白い靴下以外はなんか履いちゃいけない気がするんだよね。だから、当然買うときも、白い靴下しか買わない。このことに対してわたしは自分の中で特に疑問も持たず、疑問を持たないから中学卒業して25年以上になるけど、白い靴下を買い続けてきた。

そしたら彼女が「それって、社会におけるジェンダーの刷り込みと同じなんじゃないかなあ?」って言った。あっ、と思った。

物の本によると、ジェンダーとは「社会的な性」のことで、人間が社会生活を送る際に徐々に「女らしさ」とか「男らしさ」について教育されて刷り込まれていくらしい。でもわたし、このことを何遍読んでも自分ではさっぱり理解できないのだ。それは自分自身「教育された」記憶がないから。しかもわたしは「女らしさ」「男らしさ」から全然離れたところにいて、その概念すらよく分からない。昨日も書いたけど、わたしは本当にジェンダーってどういうことなのか、なんでそれが自然に獲得されるのかがさっぱり分からなかったんだよね。

でも、わたしにとって、ジェンダーの刷り込みってのは、白い靴下の刷り込みと同じ現象だったのだ!と同時にうわっ、こわっと思った。

わたしが白い靴下が当たり前で、それを履くことに何の疑問を持っていなかった、ということは、この世の中にはジェンダーの刷り込みをされて、それが当たり前で、そのように振る舞うことに何も疑問を持っていない人がこの世にたくさん存在する、ってことなんだよね。そして何も考えずにそれをまた人に押しつけるんだよね(わたしは白い靴下を人には押しつけないけれど(笑))。これが怖くなかったら何が怖いというのだろうか。

「なんだよ、くだらない。たかが靴下の話じゃないか」と笑う人は、知らないうちに自分に刷り込まれた「男らしら」や「女らしさ」についてよく考えてみるといい。「なぜわたしはこのような行動をするのか」よく考えてみるといい。案外根拠のないことだったりするかも知れない。わたしは昨日「したい人はしたいようにすればいい」って書いた。しかしもしかしたらそのことは「したいこと」ではないかも知れない。何も考えずにただなんとなくしていることかも知れない。それって本当はとても怖いことなんじゃないだろうか。
19:13 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
10-18 Mon , 2010
ジェンダー違和
わたしは常々男性によく間違われるが、間違われると言うことを言ったりどこかに書いたりすると、割と言われるのが「間違えられたくなければ、もっと女らしい格好をすればいいのに」というもので、でも、わたしはこの意見に対してはものすごい反発心を覚えてしまう。「わたしは既に女なのだから、わざわざ『女らしい』格好なんかしなくてもいいんです」というのをそういわれたときの回答としているが、では、なぜわたしはそう言われると無条件に反発心を覚えてしまうのだろうか、ということが長年の疑問だった。

女と見られるのはイヤなのか?と言われると、その答えはNOだけれども、わたしにとっては女らしくするのもNOなのだ。かといって男らしくするのも絶対にNOで、男に見られたいわけでは絶対にない。世間一般に言われている男らしくも女らしくもなりたくない、ってことは、自分は「X」なのだ、と言うところまで気が付いたのはホンの最近のことなんだけれど、FtMとかMtFとかFtX、MtXという用語はあるものの、ただ単体の「X」ってのは有り得ないわけで。考えられるのは「FtM」ってことなんだけど、これも自分じゃないような気がして。とにかく自分が「X」であることは分かったけれど、だったら何に対してのXなんだろうってずっと考えてた。

あ、ちなみにFtMとかMtFってのは、トランスジェンダーの人たちのことで、FtMってのは、女の身体なんだけど自分は男だと思ってる人、MtFってのはその逆、FtXとかMtXってのは、女(男)の身体なんだけど、自分はどちらの性とも思えない人、のことだ。トランスジェンダーの人たちは一般的に「身体違和を持つ人」のことで、よく身体の性と心の性が合致しない人とも言われるけど、心の性というのは非常に曖昧な言葉で、例えばわたしなんかも「心の性は何?」って聞かれると、正直よく分かんない。何が「心」なのかよく分かんないし、心に性があるかと言われると、それもよく分かんない。身体の性は女だと思ってるけど。。

そういうわたしは身体違和は全く感じない、シスジェンダーだ。シスジェンダーってのは、トランスジェンダーではない人のことだ。最近、シスジェンダーという言葉を聞くことが割と多くなってきたけれど(某映画のせいだ)、その中で「シスジェンダー=身体違和を感じない人のことで、性別を間違えられたことがない人」と捉えられているような気がして、それに対してもとても違和感を感じている。だって、わたしは性別間違えられる人だもん。「自分の意図した性別でない性に見られる」という点においては、わたし、トランスジェンダーの人と同じなのだ。だから、ホントその点だけなんだけれど、わたしはトランスジェンダーの人の気持ちがちょっとだけ分かるんだよね。

ただ、分かったからと言って、それ以降の気持ちまで全部似通ってるかというと実は全然違う。わたしは「女なのに男に間違えるなんて、どこに目ん玉付けて歩いてるんだ!」と公に向かって怒ることが出来る。しかし、トランスジェンダーの人は違うのね。「もっと自分を女(男)らしくさせなければ」と考えてしまうことがおそらく多いと思う。それは、生まれながらの身体が自分の思うところと違う、ということが大きな理由だろう。

けど。。とわたしは思うんだよね。わたしだって、本当に生物学的に女かと言われると、分かんない。だって、生まれてこの方、セックスチェックなんかしたことないもの。ただ、外性器の形とか、第二次性徴が女性向きだったことから「自分は女だ」って思い込んでるけど、もしかしたらそうじゃないかも知れない可能性だってあるんだよね。だったらこの「自分は女だ」って強く思う根拠は一体どこにあるんだろう?って考えたら、やっぱ「自分の気持ち」しかないわけで、それってトランスジェンダーの人が「自分は女(男)だ」って思う気持ちと全然変わらないんじゃないかなって思ったりする。

って何を書いているのかだんだん分かんなくなって来ちゃったけれど、本人が男だと言えば男で、女だと言えば女で、どちらでもない人はどちらでもない人なんだってことだよね。だからFtMの人が過剰に男性性を身につけることはないし、MtFの人にしても同じ。みんな女に見えるように髪の毛を長くする必要もないんじゃないかって思う。あ、ただし、本人がそれを望むのならそうすればいいとは思うけど。「女(男)に見えるにはどうしたらいいのか」って、そういう努力をしなくてもすむ世の中になればいいなって、わたしはそう思う。とは言えども、現実の世界は厳しいから、必死で自分の見られたい性に見られようと努力しているトランスジェンダーの人からは「なに寝ぼけたこと言ってんだ」って思われるだろうなとも思うけど。でもね、わたし、MtFの人がすべて「女らしい女にならなきゃいけない」って思うのは間違ってると思うんだ。中には「女らしくないMtF」もいても構わないと思うし、そっちの方が自然じゃないかって思うんだ。だから「寝ぼけたこと言ってる」と批判されるのを覚悟の上で言うんだけどね。そしてわたし、もっと「女(男)だけどそんなに女(男)らしくしたくないんだ」ってことを主張してもいいんじゃないかって、「そんなに血のにじむような努力をして(本人が望まない)女(男)にならなくったっていいんだ」ってことを主張してもいいんじゃないかって、そんな風に思うんだよね。

で、わたしのことに話は戻ると、まー、本当のところはどうだか分からないけど、わたしの身体は女で、それに対しては全く違和感を感じない。だから男性に間違われると「違う」って思うのかというと、どうやらそうでもないみたいなんだよね。わたし多分、男性に間違われると言うこと、イコール、男性器が付いている自分、を思い浮かべてイヤなんじゃなくって、もっと、なんというのかな、ふわふわした「男」って概念に対してイヤなんだと思う。そしてそれは「もっと女らしくすれば(しなさい)」というのも全く同じなんだよね、考えてみると。わたしの中で「女のイメージ」というのは、七面倒くさい化粧して、スカートはいたら大またで歩けない、自由を阻害されたもの、というのが非常に強い。わたし、そんな中に進んで入りたいなんて絶対に思わないし。

と思っている点でわたしは既に「X」なのだけれど、もちろん中には化粧が七面倒くさいなんて思ってない人もたくさんいるだろうし(男性も女性も)、スカートはきたいって思ってる人もたくさんいるんだよね(男性も女性も)。履きづらいヒールをコツコツ言わせて歩くのが好きって人もいるだろうし。それが一般的に「女らしい」って言われてることで、そういう風にしたいって思ってる人は、結局、ジェンダーが女性、ってことなんだよね。わたしが違和感を感じてるのは、実はこのジェンダーに対してなんだ、って最近なんだけど、ようやく分かってきた。で、わたしはジェンダーに対して「FtX」なのだ、ってことだ。

自分は女で、女らしい格好をしても全然違和感がない、そういう人はジェンダーが女性で、しかも肉体的な性とも合致しているので「女が女らしい格好をするのは自然だ」と思っている。だから平気で「女なんだから女らしい格好をすれば」って言えるんだよね。でも、わたしは身体は女だけれども、それと「女らしくしたい」というのが全くリンクしない。今までそう思う自分が当たり前だったから、ジェンダーに関する本を何冊読んでも理解できなかった。ジェンダーって「性役割」とか「男(女)らしさ」って説明されるけれど、もともとどちらの役割もしたくなくて、どちらにもなりたくないわたしにはその概念自体あるってこと、その概念に対して不思議ともなんとも思わない人がこの世の大多数だってことが理解できてなかったんだよね。これって、この世の大多数の人が異性愛者だってことを未だにわたしの中では理解できないのと多分同じ感覚なんだろうって思う。

そのことをこの歳にして初めて理解できたというか、ようやく自分の中の謎が一つ解けた。

そうそう、だけどこの「ジェンダー=FtX」の「F」にすんごく違和感があるのね、わたし。この「F」というのは「もともとは女性なんだけれども」の「F」なのだが、わたしにしてみれば「何がもともとなんだよ、わたしはもともとXなんだよ」って言いたくなるような「F」なのだが、もしかしてトランスジェンダーの人もMtFとかFtMとか言われたり名乗ったりするとき「もともと」を表わすMとかFに違和感を抱いているんじゃないかなあって思ったりする。「何を言うんだ、わたしはもともと『M(F、X)』なんだよ!」ってね。
17:40 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
05-26 Wed , 2010
思えば遠くへ来たもんだ
昨日まで昼夜問わず眠れてたのに、今日は昼間、寝ようとしてもまったく眠れなくなってて、どうやら風邪もこの辺でひとまず収束なのかな、と言ったところ。っていうか、身体って正直ね、と実感。

ただ、やる気は今のところまだ戻ってきておらず、それに加えて今日、3つ目の法学のレポートがまた不合格で戻ってきてて、しかも、今回の採点内容は書いた内容についてボロクソに書かれてたので、それはそれでまたへこみ、、というか、しばらくレポート書きたくない気分。。レポートを採点する人にもいろんな人がいるのね~って、そんなことを実感。

そんなこんなで今日は過去によく覗いてたウェブサイト、それもレズビアン系ね、そういうところを再訪問したりして時間を潰してたんだけど、なんかね~、ホームページ、というものが廃れてるのね。以前よく見てた掲示板が変な言語で埋め尽くされてるのを見て複雑な思いをしたり、しかしその中でもまだ頑張ってるところがあって、そういうところは「まだ続いてたんだ」と思うと嬉しく思ったりもしたのだが。

内容を読むと、周囲に言えない苦しい恋、カミングアウトしたいけどできない、誰にも言えないある人を思う気持ち、そんな言葉でいっぱいで、わたしがクローゼット時代だった頃とまったく変わっていない内容に「え。時代はもう2010年なんですけど?」と言いたくなったりしたのだが、これは時代が2010年になったことより、わたしが変わってしまった部分が大きい、てか、結局、わたしが覗いてた2000年前後と今は現実は全然変わってないんだ、ということに気が付かされて、せつなくなった。

今、比較的オープンになってしまったわたしとしては「大丈夫だよ、そんなに脅えなくても」とか「思っているよりは理解する人が多いよ」とか、そんなことを言いたくなるのだが、言う、言わないは個人の自由だからなあ~。ただ、言わない、じゃなくて言えない、という部分が大きいのだと思うけどね。

そしてこういう人たちは、セクシャルマイノリティー系のイベント(パレードとか)の情報が行き渡ってないところに置かれているか、そうでなければLABRYSやアニースなんかのレズビアンのミニコミ誌や雑誌を読んでいて、そこにはいっぱいパレードの話などもされていて、それが目に触れていないはずはないのに、なぜかまったく認識されてなかったこのわたしのように、興味がないからまったく記憶に残らないか、なんだろうと思う。

まー、何でもかんでも出てくればいいってわけじゃないと思うけど、少なくとも「つらい」「苦しい」って思って書き込みしてる人たちにはなにかできないかなと思ってしまう。

でもわたしの体験はわたしの体験でしかないんだよな~。今のわたしがあるのは、うつ病にかかったおかげ(?)だと思ってるしね。うつ病にかかってなければわたしは親にカミングアウトすることもなく、顔出しした画像載っけてるブログ書いてることもなかっただろう、と思う。

だから、あのときいた自分の位置と今の位置を見比べて「思えば遠くへ来たもんだ!」と思うんだけれど、これも(本人はそれほど意識しないまでも)少しずつ歩いてきたからなんだよね。

だから、どうか今「つらい」「苦しい」って思ってる人にも10年後には「そういえばあんなときもあったな」って思えるくらい楽な場所にたどり着けるといいねって思ったんだよね。

ま、余計なお世話かも知れないけどね。
18:27 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
04-05 Mon , 2010
結婚をめぐる考察
つい最近だけど、わたしの友人が教えてくれたYou Tube。



2008年に可決されてしまったカリフォルニア州の「Prop8」(同性婚禁止提案)に反対しているジョージ・タケイとそのパートナーのYou Tubeなんだけど、日本語字幕が付いてるのでわたしも見ることができた(笑)彼らは2008年の一時期、同性婚が認められていた時期に結婚しているわけだけど、また再び、同性婚が成立することを目的にしてこうやって活動している人たちで。そういう姿勢には本当に頭が下がる思いだ。

このYou Tubeの動画で、彼らの本当に幸せそうな姿を見て「羨ましい」という思いがまた吹き上がってきたわたし。一体わたしは彼らの何が「羨ましい」と感じるのか。結婚しているから「羨ましい」と思うのだろうか。

「結婚する」と言ってもいろいろある。結婚式がしたいのか、披露宴がしたいのか。婚姻届を役場に提出(日本の場合)したいのか。動画の中で彼らは「結婚は人生をもっと特別なものにする」って言ってたけど、特別なものにするってどういうことなのか。それは結婚してみなければ分からないものなのだろうか。

もちろん、彼らに直接聞けるわけではないので、彼らにとっての「特別」が本当に何を意味するのかは分からない。動画ではその「特別」について明確に触れているわけではないし、全体的に見ればこの動画は「同性婚を認めさせるため」のものであるからだ。

ただ、わたし自身ーこれは、自分自身の問いかけであって世の中がこうなればいいという希望ではないー「じゃあ、わたしは何をすれば納得するの?」というのが今のわたしにとって、とても興味深い。日本でも今、あちらこちらで「同性婚について」の動きを聞く。ネット署名なんかもやってる。もう少し前の自分なら喜んで署名したり、何らかの活動をしたりしただろう。けど、今はわたし、そんなんじゃないんだよね。でもそれはなんでなのか、自分でも分からないまま、うやむやで何もしていない。それってどうなの?という思い。それでも「結婚」と聞くととても羨ましい。結局、わたしってどう考えているのだろう、おそらくそれを整理したくて、この文章を書いてみることにする。

「どこかの教会で2人だけの結婚式を挙げる」
これはやらない。なぜなら、わたしには誓うべき「神」というものを持っていないから。だから教会はわたしにとって必要なものではない。上の画像の最後の方に出てくる仏式での結婚式に三三九度やお焼香を挙げるシーンが出て来て「えっ、これが仏式の結婚式なの?」とすごく仰天した。三三九度は神道じゃなかったっけ、とか、お焼香って葬式のときだけじゃないんだっけ、とか。でも仏式の結婚式を見たことがないわたしはこれに対しては何も言えることはないし、もしこういう形式の結婚式だったとして、それをやりたいかというと、全然やりたくない。「何かに誓う」というのは神や仏じゃなく、相手に誓うものだと思っているから。ということで、こういう「結婚」はわたしはしたくない。

「披露宴をする」
これは「わたしたちはこれから共に過ごします」ということを集まってくれた人たちに報告するようなものだと思ってるんだけど、わたし、こういう「見せ物」みたいなものは嫌いなのだ。もちろん、見せ物にならないようにする、ということもできなくはないと思うが、人を呼んで宣言したいかというと、したくない。なぜかというと、既にわたしたちの関係を知ってる人は知ってるんだし、その中で特別に集まってもらう必要性を感じないということと、やっぱり「見せ物になりたくない」というのが一番かな。わたしゃ、見せ物じゃないんだよ、シッシッ、って感じ。

「婚姻届を役場に提出する」
ま、これを今、本当にやっても受理されないと思う。が、もし、今「今日から同性愛者も結婚できるようになりました」と言われたとき、婚姻届を提出するか?というと、実は「提出しない」と思う。

なぜか。

答えは簡単で、名字を変えたくないから。「なんだ、そんな理由で結婚しないのか。結婚するより名字を変えない方がお前にとって重要なのか」と言われると「そうです」と答えるだろう。わたしは死んでも名字を変えたくない。これは結婚していろんな権利をもらえるよりもわたしにとっては価値があることなのだ。

ではなぜ、わたしがここまで自分の名字にこだわっているかというと、名字を変える必然性を感じないからだ。よく「夫婦別姓反対」の理由に「家族の一体感を損なうから」というのがある。わたしたちはもう5年一緒に住んでてお互い「家族」だと思っている。で、この間、名字が違うことが理由で彼女と家族じゃないなあと思ったことはただのいっぺんもない。わたしにはそういう「経験」があるのだ。だから、結婚によって名字を変える「意義」を感じない。「あんたらのところは子どもがいないからその程度しか感じないんだろう」という「反対派」に対しては「だったら、子どもがいる家庭だけが家族なのか」と問い返したい。ノンケ夫婦でも子どもがいない家庭はたくさんある。彼らは「家族」ではないというのだろうか。

今の日本は結婚していないノンケカップルは「将来的に結婚する」と考えられているので「準婚」の状態であり、財産権は付与されないが、その他は結婚している夫婦と同じ権利が得られている。だから今、この時点で日本で同性婚ができるようになった場合、同性愛者カップルも「準婚」状態に格上げ(この言い方引っかかるけどね)されるのではないのかとわたしは思っている。とすれば、名字を変えずに済み、ある一定の権利を得られる状態、実はこの状態が一番自分が望んでいるのではないかと思っているのだ。だからやっぱり日本も同性婚制度を検討する方向に、というのが論理的な行動なのだが、、なんとなく気が進まないのは、やっぱりこのままでは「夫婦同姓」だからだろうと思う。

ま、順番は「同性婚」→「夫婦別姓」でも「夫婦別姓」→「同性婚」でも、結果は同じなんだけどね。

この2つが揃ったときは、わたしは彼女と婚姻届を出すと思う(彼女の方はどう考えるかはこの際無視している)。

「養子縁組する」
これは同性愛者カップルにはよく執られる手段だよね。でももう既に分かるように、わたしは名字を変えたくない。従って養子縁組はしたくない。それに法律上の関係が彼女と親子になってしまう。彼女はパートナーであり、親じゃない。もちろん、法律上の関係なんかクソ喰らえ、って人もいると思うが、わたしはそこに拘る。それから今のままの法律だと、一旦、親子の養子縁組をしたら、それを解除しても過去に親子だったと言うことが残るため、婚姻できなくなる、という理由もある。やはり結婚できる「可能性」は残しておきたい。

「同性婚できる国に行って結婚する」
実はこれ、やりたい。けど、その意味を考えるとわたしは一体、何を求めているのかさっぱり分からなくなってくる。今現在、外国人同士の結婚を認めてくれ、更に同性婚できる国と言えば、真っ先に思い浮かぶのはカナダだが、カナダに行って結婚証明書をもらう、という行為はカナダという国から「お墨付き」をもらうということに過ぎない。そしてそれはもちろん、日本に住むわたしたちにとって、日本での効力はない。それじゃ、なんの意味もないじゃん、そう思う。効力がないのにしたいとはどういうこと?わたしはどこの国でもいいから国に二人の関係を認めてもらいたいというのか。国に認められるということが何か特別なことなのか。そう考えると分からなくなる。

でも、名字を変えずに結婚できる、という今のわたしの願いを叶える行為は実はこれなんだよね。

ということはあれか。今まで散々「結婚によりもらえる権利が羨ましい」と思っていたが、わたしは結婚によりもらえる権利は別になくても構わないと言うことか。

しかしそうだとすれば、わたしが望んでると思っていた「異性愛者と同じ権利を」というのが根底から崩れ去ることになる。そして「どこでもいいからどこかの国のお墨付きをもらいたい」だけだ、ということが分かる。

なんだ、わたしにとって「結婚」とはただ、それだけのことだったのか?

いや、そうじゃない、そんなくだらない理由でわたしは結婚したいんじゃない。「どこの国でもいいから認めて欲しい」なんて、そんな軟弱なヤツだったのか、お前は。

自分の行動がすべて「崇高なものである」必要性がどこにあるというのだ?すべて一貫した論理で行動する必要性がどこにあるのか?やりたいものはやりたい、くだらなくてもやりたい、そういう自分を認めろよ。

・・・・・・・
17:21 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
03-06 Sat , 2010
久々の休みの日だー
と言っても、4日間しか働いてないんだけどね(笑)

んー、今日は全然生産的な一日じゃなくて(今日「は」じゃなくて今日「も」かも知れない(苦笑))、何やってたかっていうと、ブログの「カテゴリ分け」を延々やってた。わたし、そんなにヒマじゃないんだけどなあ~。休みの日は勉強しようと思ってたのになぁ~、、、

このブログ、2005年10月に始めて現在に至っている。最初は自分がうつ病だってことと、クローゼットのレズビアンってことで、そのことを吐き出したくてブログを始めたんだと思う。あと「うつ病は必ず治る」と思ってたから、治っていくまでの過程が分かるといいな、と思っていたと思う。まー、うつ病は確かに治ったけどね。しかし最初から読み返してみると「なんじゃあこりゃあ」って思うほど恥ずかしい。

彼女に「こーんなことやあーんなことまで書いてて恥ずかしいから、もう非表示にしちゃおうかって思ってるんだ」って言ったら「書いたときがかわいそうだから(非表示にするのは)やめなよ」って言われ、そういうもんかなあと思って非表示にすることは止めたけど。でもうつ病が治っていくにつれ、自分を開示したがること、したがること。「自分の過去をこんなにさらけ出してみっともない」とか「偉そうに」とか。「こんなの読んだら誰も友だちになろうとは思わない嫌なヤツだよなー」なんてつくづく思ったりして。いや、偉そうで嫌なヤツは事実だと思うんだけどね(苦笑)

それにしても、2006年頃からだんだんと長文になってきて、2007年頃なんて、本当に毎日毎日よくあんな長い日記を書いていたものだと思う。今はまだ全部カテゴリをチェックしてなくて、2008年の4月までやったんだけど、ここら辺からは突如「性的少数者に関する日記」が増えてくるんだよね。今思うとこの頃も毎日毎日よく書いたものだと思う。

最近の日記を読んでもらえば分かると思うけど、わたしはほとんど「性的少数者に関する日記」は書いてない。正直言うと敢えて避けている。

その理由としては、、疲れちゃったんだよね、正直言って(これは前に何回も書いたような気がするな)。何をしたってわけじゃないけど、今はそういうことについて考えるのも避けてるし、最近、性同一性障害のニュースやアメリカの同性婚などのニュースも結構あるけれど、それについてもほとんど「見出し」しか見てない。中身読んでない。当然、人の書くブログなどで性的少数者を取りあげているものについても読んでない。読むとなぜかすごく嫌な気分がするから。もちろん、書いてる人が悪いんじゃない。こうなってしまったわたしがまー、悪いといえば悪い。

あと、傷つくことにすごく敏感になっている。同性愛を揶揄するような発言は読みたくもないし聞きたくもない。性的少数者に対して理解のない発言も読みたくないし聞きたくもない。これってさ、結構あるんだよね。なんか事故みたいな感覚なんだけど、それはとーとつにやってくる、みたいな感じ?でも「傷つきたくない」って思って心にバリア張る行為自体に疲れてしまって、だからわたしの心は頻繁に血を流している。「当事者」だから傷つくんだ、だから「当事者」というものから降りたい、と願っていたけれど、当事者からは逃れられない、ということが最近なんとなく分かってきた。これまで「当事者」について深く掘り下げてきたものをいっぺんに自分の中からなくすことは不可能だ。だからわたしは今、途方に暮れている。

こういうわたしを彼女は「ここを乗り越えたときのろんたこがどうなるか興味がある」って言う。

でもさぁ、なんか乗り越えられる感じがしないんだよね(苦笑)今のわたしはとにかくそういう話題は避けたくて、逃げ回っている。もっと別のことに熱中したいと思ってて、多分それは(大学の)勉強なんだろうなと感じている。いや実際、教科書を読むとこれがまた面白いんだよね。とにかく今は大学の勉強をしたいって思うし、新しいことを知ることについてわくわくしている。

そういうことをやっているうちに、今感じているとてつもない疲労感が回復してくればいいなあとは思ってるけど、今の時点では回復なんて考えられない。しかしもし、回復への道があるとすればそれは、一旦何もかも「チャラ」にするためにひたすら嫌なことから逃げ回らないと無理なんだろう。果たして自分にそれができるだろうか。でも、イヤだと思いながらずっとずるずる引きずっていくのももっとイヤだしね。

ここは一つ思い切った方がいいのかも知れない、なんて思っている。
22:08 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
11-12 Thu , 2009
わたしはホントにレズビアンなの?


えー、これは「フツーに生きてるゲイの日常」(akboshiさん)とこから借りてきた?動画です(本人には既に使用の許可を得ているって、別に得る必要はないんだろうけどね。今まで無断で自分の日記にたくさん貼り付けてたし(爆))。

これ「同性愛者の地雷」って題がついてるのね。まぁそれはこの動画を見たら何が地雷だったのかが分かるけどね。画面のakaboshiさんの右隣に座ってるパフスペースの管理人、浜田さん(向かって左側から2人目)が、このイベントの事前の打合せのときだったっけな、ターリさん(空間を挟んでるけど、浜田さんの右隣に座ってる人)に向かって「ターリさん、ホントにレズビアンなの?今まで誰かいい人と出会ってないんじゃないの?」って聞いたらしいのね。

それを聞いてakaobshiさんは「自分が思う以上に刺さってきた」とその日の日記に書いているけど、この日記を読んだときに、当然わたしはそこにいるわけがないので「一体、浜田さん、どういうことを聞いたのかなあ?」って思ってたのね。で、後日このことを「パフ★シネマ」のトークで触れてるのがこの映像なわけだけど。

で、この映像を見て「ああ、なるほど、浜田さん、そんなこと言ったのか」って思ったんだけど、わたしさぁ、直に言われてないせいか、「え、これで?」って思ったのは事実なんだよね。

とは言えども、この日記を書く際にまた再びチェックし直したんだけど、最初これを見たときはその前半部分「ホントにレズビアンなの?」だけ言われたと思い込んでて、それで「え、でもわたし、未だに自分自身でこう思うことあるよ?」って思ってそのことを書こうと思ってたのね。そうしたらその次に「今まで誰かいい人いなかったんじゃないの?」があるって知って「あ、ちょっと自分が書こうとしてたことと違う方向だ」って思っちゃったんだけど、まぁ、そういうわけで、この2つのことについて、ちょっと二つに分けて考えたいと思う。

って考えると言ってもそんなにすごいことじゃなく、普段、わたしも「自分は本当にレズビアンなのかなあ?」って思ってるってことが書きたかったの(笑)んー、これは、別に自分が「同性が好き」ということが揺らいでる、というわけではなく、そのことはもうわたしにとっては「自明なこと」なわけ。自分の中では「自明なもの」なゆえ、逆に言うと、この世の中は実際はヘテロセクシャルの人間の方が圧倒的に多い、ということが理解できないのね。わたしの感覚で言うと「なんで異性を好きになる人が世の中の多数を占めているのか、さっぱり分からない」わけ。いや、もっと言うと「なんで異性(なんか)を好きになる人がこの世にいるんだろう?」ってことなんだよね。。

これを読んでる異性愛者の人は「逆だろ、それは!なんで同性(なんか)を好きになるんだ、だろう、普通。この世の中は圧倒的に異性愛者なんだから」と思ってるに違いない。いや、そう思う気持ちも分かる。だって異性愛者の方が圧倒的に多いから、異性愛者の人は「自分は異性を好きになる」ということを多分、あまり「なぜだろう?」とは考えてないと思う。「異性を好きになるのは当たり前だしー」って、多分、疑問にも思わずここで終わってしまってる人が大半だろう。

けどさ、数の多少はあれど、自分を基準にしたらこれって当たり前の質問なんだよね。多分、いくら考えても「なぜ自分は同性(異性、または両性)を好きになるか」なんて分かるわけない。だけどそれは自分の中では当たり前のこと。当たり前だからこそ、他の人がなんで自分と同じじゃないのかって不思議に思うんだと思う。で、異性愛者の場合はそこに「だって、世の中大半が異性愛者だし」って思ってて、「だから同性愛者とか両性愛者なんか異常なんだよ」って思うのかも知れない。

しかしわたしにしてみれば、わたしの基準としては「異性(両性)を好きになる気持ちなんか分かんない」わけ。そして驚くことに、この世の中の大半の人は異性が好きなわけ。自分は少数派なわけ。それが信じられないわけ。だってわたしのこの気持ちは本当に自然なものだから。だから、逆に自分が「少数派である」ことがどうしても納得できないんだよね。だから「わたしって本当に『レズビアン』って呼ばれる人なんだろうか?」って思うわけ。

分かってもらえるかなあ~。

わたしは、自分がレズビアンだと気が付いたときも、特に同性の人を強烈に好きになったってことはなかった。そして同性の人と付き合ったこともなかった。でも、頭の中で考えると、わたしはやっぱり女性に惹かれるんだよ。男性とは個人的に付き合いたくないって思ってるんだよ。もう、それしかわたしが「レズビアンである」という根拠はなかったんだけど、わたしは自分が「レズビアンである」って気が付いてから、徐々にそういう世界に近づき始めた。レズビアンって気が付いても長い間恋人ができるわけじゃないし(一生懸命探したんだけど(爆))、でもそれでも自分はレズビアンなんだ、って思ってた。

彼女ができてね、初めてSEXしたとき、わたし、彼女に向かって「わたしって本当にレズビアンだったんだね~」と言って、彼女を驚かせた(笑)いや、別にSEXをすることだけがそうだとは思わないんだけど(好きじゃなくても同性とSEXする人はいるからね)、でも、やっぱ彼女が好きで、彼女と触れ合って、あー、幸せと思ったわたしは、やっぱり女性が好きなんだなあ~って、なんかそこで実感したところがあったのね。ただ、、散々SEXしまくってるのに、わたしはまだ「あー、わたしってレズビアンなんだー」って言い続けてるところ(思い続けているところ)があって、なんでなんで毎回毎回そんなことを思うかというと、「わたしはこんなに自然なのに、なんでわたしの方が少数なんだー?」ってところがまだ納得できてない、ってのがあるらしいのね。

わたしの中では別に「少数であることが悪い」という思いはなく「なんで自分の中ではこんな自然なことが、大多数の人にとっては不自然なんだろう?」ってところが多分、わたしをいつまでもいつまでも「えー、なんでー?」って思わせてるんだと思う。

だから多分、「あなたって本当にレズビアンなんですか?」って聞かれたら「いや、実はわたしもそう思ってるんです」と答えてしまいそうで怖い(笑)聞いた人とわたしの答えは明らかに意味が違ってるわけだから。なんか聞いた人に誤解を与えてしまいそうな答え方だよね、これって。

で、もう一つの方。「今まで誰かいい人と出会ってないんじゃないの?」に対してはね、多分、わたし、これを聞かれたら「んじゃ、なんであなたは同性と付き合わないんですか。今まで誰かいい人と出会ってないだけじゃないですか。あなたがわたしにした質問はそれほどおかしな質問なんですよ」って逆に問うたら分かるだろうって思ってたの。

けど、多分、それを言われた異性愛者はどうしてそう聞かれるのか分からないだろうな、と思う。だって、彼らはわたしのように「なんでわたしは異性が好きなんだろう?」って多分考えたこともない人だもの。そういうところでやっぱり「非対称」なんだよねえ~。

異性愛者は誰も好きになったことがないときから「異性を好きになるもんだ」と刷り込まれてるから、本当に異性を好きになっても自分のことを「おかしい」とは思わない。ところが同性愛者の場合は「異性を好きになるもんだ」と言われてても、自分が惹かれるのは同性で「あれ?なんでだろう?」ってところから始まる人が多いんじゃないかなと思う。刷り込まれる前に「同性にときめいていた」って人もいるだろうけどね。

わたしみたいな超奥手の人は「あれー、誰も好きにならないな。おかしいなー」と思ってて、その疑問から自分を思い返して「あれ、わたしったら結構女の人は好きになってたんじゃん」と気づく、って人もいるだろう。あるときまで異性と付き合ってて「なんだかなー」と思ってたら、あるとき「あ、同性が好きだったんだ」って気が付く人もいるだろう。よく「いつ同性愛者になったんですか?」って質問があるけど、あれは「なった」んじゃなくて「気が付いた」なんだよね。同性愛者になったのは生まれつきだ、ってわたしは思ってるし。

まーだから、「あなたこそなんで異性が好きなんですか?今までいい同性に巡り会ってないんじゃないですか?」って聞かれて「はぁ?なんでそんなこと聞くんだ」って思う人は、余計なお節介だと思うけど、今一度「なんで自分は異性が好きなんだろう?」って考えた方がいいかも知れない。そこには答えがないことに気が付くから。同性愛者だって同じだ。なんで自分が同性が好きなのか、わたしは今でも分かんないよ。でもそれは、決して今まで「いい異性と出会わなかったから」じゃない。そしてそれは「いい同性に巡り会わなかったから、あなたは『異性愛者になった』のではない」ことで、おそらく分かるだろう。
22:46 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
10-30 Fri , 2009
熱い身体で
今日は午前中、気分がものすごく不安定に。
と思ったら、午後からどうやら熱が出て来た模様。ま、7度3分だけど。6度8分が平熱のわたしにとっては「微熱」みたいなもんだけど。
だけど、熱が出る前ってどうしてこう、気分が不安定になるんだろうなあ。。

ってわけで、今日は気持ちがいいほど晴れた日だったのに、
何もせず、一日ベッドに入って寝てた。

そして「あなたは一人じゃない」って言葉について考えてた。
若くして自分が性的少数者であることについて「こういう人間は世界で自分一人だけじゃないか」って悩むと言うことを聞いたことがあるけれど、わたしは気が付いても全然悩まなかった。

それはなぜだろう?って。

確かに思春期を越えてずっと大人になって気が付いたってのはあるかも知れない。
けど、じゃあ「そういう人は自分以外にもいる」ってどうして分かったんだろ?
わたし、それまでにそういう関係の本を読んだことあったっけ?
って思ったんだけど、記憶にない。

「一番最初に出会った『性的少数者に関する本』ってなんだっけ?」って思ったんだけど、あんまりはっきりとした記憶に残ってない。ただ、小学校のときの友だちんちが本屋で、そこで「薔薇族」を見かけたことがある。そのときわたしはいくつだったか覚えてないんだけど「薔薇族」がどういう雑誌だか、多分知っていた。

なんでだろ?

思い出そうにも思い出せない。

自分は性的少数者と気づいて悩む人もいる。
でも、全然悩まない人もいる。

この違いって一体、どこから来てるんだろう?

寝起きにぼーっとした頭で考えてたんだけど、分からない。

でも少なくても
「悩んだ人間の方が人間として成長してて、
悩まなかった人間は成長してない」
なんてことはないよなあ~とも。

これって悩まなかった人間の持つ罪悪感だろうか。
18:47 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
07-11 Sat , 2009
うふ(はぁと)
いやいや、今日は忙しかった。。
18日は「プレリュード」があるから、その日にやるプログラムのうちで観たいと思う映画祭のプログラムを、今日、バルト9でやったので、2本観てきたのと、その後は、プレリュード+αのBrass MIX!の練習。帰ってきたら23時を回っていたよ。

バルト9で観たのは「キャンディ・レイン」と「アウトレイジ」の2本だったんだけど、「キャンディ・レイン」は、あまり自分向きの映画ではなかったので(ふわふわしてる映画ってわたしあんまり好きじゃない)、それは置いておくとしても、ドキュメンタリーの「アウトレイジ」は面白かった!!

あ、ただ、、観終えたあと、偶然(?)双子の弟に会ってちょっとだけ話したんだけど、彼は「人がいっぱい出て来すぎて、途中意識が飛んだ」とか言ってた(笑)ま~、そうだろうな~。あれはちょっとアメリカの同性愛者権利獲得運動等の話を予備知識として持っておかなければ、途中でわけ分かんなくなるだろうと思う。と言っても、わたしだってそんなにたくさん本を読んだわけじゃない。たったの5冊。「同性婚 (世界人権問題叢書)(ゲイの権利をめぐるアメリカ現代史)」と「ゲイの市長と呼ばれた男〈上〉―ハーヴェイ・ミルクとその時代」「ゲイの市長と呼ばれた男〈下〉―ハーヴェイ・ミルクとその時代」とつい、こないだ読んだ本「そしてエイズは蔓延した〈上〉」「そしてエイズは蔓延した(下)」の5冊だ。ただ、「そしてエイズは蔓延した」も登場人物がものすごく多く、わたしはもう出て来た人がよく分かんない人でも、過去に遡って探したりはせず、そのまま読んじゃったんだけどね。

これでどういう人がいるというのをだいたい知っておくと、この映画は格段に面白く観ることができると思う。実は、本当はこの映画の感想を今日は書きたかったんだけど、もう今日は疲れたのでまた後日。「えー!?」っと思うことがあったりして、すごく興奮(?)したし、途中はちょっと感動して涙出て来た。。いや、この映画は本当に面白くて、わたし、18日、プレリュードの出番が終わったら速攻スパイラルホールに向かおうかしらと思ってるくらいだ。あれ、もう一度観たい。

という話は置いておいて(笑)

今日は都内某所でブラミの練習だったんだけど、終わってからね、まー、タクシーで駅に向かったわけですわ。で、その乗ったタクシーのおっちゃんがね、なんか話し好きらしくてこっちに「今は外はどんな感じの天気ですか」から始まって「来週梅雨明けするかも」とか「例年より梅雨明け早い」だの「でも今年は梅雨らしい梅雨だったらしいですよ」だのって散々こっちに話を振ってきた挙げ句、「そ、それはギターですか、それとも、、うーんとトランペット。。」と聞いてきたので、なんでギターとトランペットが一緒やねん、と心で思いつつも「いや、これはトロンボーンです」と説明した。

そしたらそのおっちゃん「女の人でこういう楽器を吹くのは珍しいんじゃないですか」と聞いてきた。というか、わたしその時点で「あ、このおっちゃん、わたしを女だと思ってるんだ!!!」と思ってすごくびっくりした。。そう、わたしの最近の女と見られるパス度、多分、1割切ってる(汗)だから、もう「男に間違われるのが当たり前」みたいになってしまっていて、そこをどう切り抜けるか、ということが今のわたしがやらなきゃいけないこと、みたいに思ってたので、女に見てもらえた(?)ってのは、わたしの中でとてもびっくりするような出来事で(爆)、でも、それは全然大げさじゃなく、「いや~ん、わたし、このままでも十分女じゃん!!」なんて嬉しくなってしまったが、なんかおかしい感じもするよね(汗)

いっそのこと、おっちゃんに「ありがとう~!!」とか「どうして女って分かったんですか!!」って聞こうかと思ったくらいなんだけど、まぁそれは止めておいて(笑)「いや、最近はトランペットとかトロンボーンでも吹いてる女の人増えてきてますよ」って言っておいた。いや、真偽の程は不明(爆)「肺活量増えませんか?」と言われたので「わたしは高校の時に楽器を始めたけど、確かに肺活量は増えた気はします」と答えたところで、目的地に着いた。

やー、そのおっちゃん、すごく親切で「財布しまったら教えて下さい。ドアを開けますから」とか、あー、どこのタクシー会社だったか、チェックすればよかった。。

ってわけで、実はものすごく気分をよくして帰ってきたわたしだったが、しかしよく考えると、やっぱなんか変な気もする。。わたしは女性で、どういう格好をしても女だ!って思ってたり言ってたりする割に、女と見られると「あー!分かってくれた」なんて思うのはちょっと変だよね?でも実際、パス度1割未満だと、そういう感覚になるのよ(笑)で、男だの女だのって説明しなくてすむのってすごい楽、と思って帰ってきた。

やっぱなんか変だよねえ?(苦笑)
23:32 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
06-26 Fri , 2009
女子であること
21日のパフナイトは「男子であること 胸があること」という「トランス的」な特集で、最初に「男子であること」という映画を観たあとで、FtM、自分は一体なんなんだかよく分かんない、昔はFtMだと思ってたんだけど、今はどーでもいいというか、どっちでもないようなどっちでもあるような(という風にわたしは認識したんだけど)人たちが、トークをした。

といっても、前の3人が話してるだけじゃなく、時間が経つにつれて観客の人からも意見が出たりして(わたしもそのうちの一人ですが(笑))、なかなか面白い時間だったんだけど。わたしとしては、あの日を含め、頭痛に襲われっぱなしだったので、映画はあんまり真剣に観られなかったのが、残念と言えば残念。

そのあと、あの日、参加した人の日記を読んで、そこでもまたコメント付けたりして、あそこで個々が何を考えて話してたかとか、あとで振り返ってみたときとか、そういうのをずーっと考えさせられる1週間でね。ぼちぼち自分の中で溜まってきたんで吐き出したいと思ってるんだけど。

ただ、自分の頭の中で整理したことを書くんじゃなくて、今の状態は、むしろ自分の頭の中で整理できないから、取り敢えず出したいことは出して、それでなにか整理されるといいなあという状態でこれを書いている。だから、読んでる人はなおさら言ってることが分かんないかも知れない、というか、自分で自分の考えはこうだ、と人に説明する気で書いているんじゃないんで、多分、分からんと思う(笑)

基本的な自分の立場を書いておくと、わたしは生物学的には多分女性で、性自認は女性。女性であることに揺らいだという記憶はない。あと性的指向は女性、そのような自分が書いている。

そして性別違和を感じている人の本当の気持ちはわたしには分からない。ただ、今までいろんなものを読んだり聞いたりしてると、性別違和を感じている、ということは、自分の身体に違和感、ひどいときには嫌悪感を持っている人なのかなあと認識している。しかし、その度合はひとそれぞれで、それは人によって違うので、その人がそのときどきでどう言っているか、によってしか理解できないと思っている。この「理解」というのがすこし上から目線で気にくわないんだけど、ようするにその人が「自分はこれこれこうである」というのを素直に信じる、というか。そんな感じ。

だから、わたしは「その人が自分に対してそういってるんだから、何も文句を言う必要はないんじゃないの?」ってこと。だって、根本的なところで「性別違和がある」って言ってる人に対して「それはおかしい、間違っている」なんて言えないでしょ?それはわたしが同性愛者で「それはおかしい。同性愛者は間違っている」と言われることと同じことだと思っている。異性愛者はそれを問われないが、でも異性愛者だって同じだ。異性愛者に対して「それはおかしい。異性愛者は間違っている」と言われたら?ほとんどの異性愛者は「いや、そんなはずはない。この世の中は異性愛者が大半だからおかしくない」って言うだろうけど、それってただ「数が多いか少ないか」の問題だけじゃん。「多いから合っている」「少なければ間違っている」という理屈は理屈じゃないでしょ。

だって、学校に通っていたときのことを思いだしてみるといい。例えば数学や算数の答えで、引っかけ問題などで大多数の人は間違い、引っかからなかった少数だけ合っていた、って経験も誰もが何回かしているはずだと思う。だから「大多数がそうだからそれが合っている」ということではあるまい。もちろん、異性愛者も同性愛者も両性愛者もその他の人も「これが合っている」という答えすらないはずだが。結局は「その人によってどれも合っている」と考えるべきだと思っている。

って、なんか話が逸れたような気がする(汗)

でも、わたしがあの映画を観て、そしてその後のトークで人が言っている意見を聞いていると、「ある違和感」をずーーーっと感じてたのは確かで。それは多分、あそこでは「自分がどうしたいか」ではなく「他人の目から自分はどう映っているか」の方に偏ってたからだと思う。わたしはずっと「他人の目なんかどうでもいいじゃん」と思ってたし、今でも思っている。

あそこのトークでまめたくんが「'70年代のフェミニストがブラジャーを焼いているところを見て、それでその中にナベシャツもぶちこみたい」って言った気持ちは、多分、ここに繋がってくるとわたしは思っている。要するにナベシャツを付けてないとなんで男に見られないんだ、どういう自分でも自分は男なんだ、って、わたしはそういう風に彼が言っていると解釈したんだけど違うかな。

ただ、、わたし、この'70年代のブラジャーを焼く話は、少し前に彼女に聞いてて「それは違うんじゃない?」って言ったんだよね。んー、火の中にコルセットや、そういう、無駄に身体を締め付けるようなものは確かに焼いても構わないと思う。しかし、、女性にとってはブラジャーって、正直なくては困る人だっているのだ。胸がでかい人はブラジャーをすることによって胸の重みを直接肩に感じなくて済む、といった「しなければならない理由」がある人もいると思う。まー、わたしなんかは、自分の胸の重みなどはどう頑張っても感じることが出来ないし、ブラジャーなんかあってもなくても同じ、みたいな人にとっては、確かに火の中にブラジャー投げ込んで「はー、すっきり。これで一生ブラジャーとはおさらばだー!」って思えるよ。けど、胸の重みをブラジャーで軽減している人にとっては、火の中にブラジャーを投げ込んだあとも、ブラジャーは必要なものだ。「解放のため」に投げ込んだブラジャーをまた日常生活で付ける、ということに対して、この行為は虚しさを感じるだけなんじゃない?ってわたしは彼女に言ったんだけどね。だから、わたしは「ブラジャー」を焼くという行為については、よく分からないんだよね。。「ブラジャーは象徴なんです」って言う人もいるだろうけど、だったら、ブラジャーじゃなくて他の、それこそコルセットとかそういうものを象徴にすればよかったのに、って、わたしは思ったりする。

あ、また話が逸れた。

ただ、性別違和を持っている人が「自分がそうなりたいもの」と自分を見比べて、自分はどうしたいのか、と考えるのは自然なことだと思っている。そう思ってるんだけど、しかし一方、わたしは自分自身のことを考えると、ちょっと違うような気もする。多分、わたしはそう思うのは、わたしには「性別違和」がないからだと思う。

そう、わたしはあの後「自分が女子であることとはどういうことか」をずっと考えてたんだけど、どんなにいろいろ考えても、それに何か意味があるとは思えなかった。他の人がどう考えているかは分からないんだけど、わたしは自分の行為が「男らしいか」「女らしいか」によって決まるわけじゃなく、ただ「自分がこうしたいからこうする」と考えて行動してきた。

前の日記にも書いたけど、わたしは見た目、あまり女らしくないみたいだ。だからしょっちゅう男と間違えられる。で、それで怒っていると「女らしい格好をすれば間違えられないよ」と言われたこともあるが、なんで既に女であるわたしが「女らしい格好」をしなけりゃならないわけ??わたしは「女らしい」んじゃなくて、既に「女」なんだよ。この「女であるわたし」がどういう格好をしようが、わたしが女以外のものになるわけないじゃん、ってわたしはそう思って生きてきたんだけど、んじゃあ、そう思える根拠は何?って思ったのね。

そうすると、その根拠は、生まれたときに医者が外性器を見て性別を判断するのと同じ、なわけで。わたしが「女である証拠を見せろ」と言われたら、全部脱いでやるー!これなら文句ないだろ、とおそらく根本のところでそう思ってるからだろうな、っていうことに気が付いた。

けどね、では「胸があったら女の人なの?」って思ったのね。そうすると「いや、胸があったってなくったって女じゃん」って思えるのね。そしてその答えをどんどん押し広めていくと「いや、外性器の形だけで性別を決めちゃいかんでしょ」ってことになるのね。そうすると、、残ったものは「頭で自分は男か女か」と考えることが、その人の性別ではないか、という気がしてきたのね。

だったら、FtMの人もMtFの人も(FtXもすべて含めてね)「自分はこうです」って思ったことを主張していけばいいじゃん?って思ったのね。身体がどうあれ、自分の思ってるとおりにすればいいじゃん、って。

でも、これは一方で「違うんでないの?」とも思ったのね。それは、性別違和を感じている人は、多少なりとも自分の身体に違和感や嫌悪感を持っている人だってこと。「頭の中では自分はこうなんだから」って考えても、やっぱり自分の身体が自分の思ったような形にならないと、そういう人たちの根本的な解決にはならないんじゃないだろうか、ということが一つ。

もう一つは、他人から見たとき。

この考えをずんずん推し進めていったとき、一つ思ったことがある。「the L word」の1シーズンでリサっていう、身体は完全な男性なんだけど、心は女性で、性的指向も女性だから「レズビアン」って人が出て来たわけ。その人のことを考えたの。わたし、その人のことは多分「レズビアン」として接することはできると思う。けどね、これが自分の恋人だとしたら、、と考えたときに「それは無理だ」と思ったのね。だって、心がいくら女性でも、肉体は男性なんだもの。やっぱ、わたしは男の身体は抱きたくない。彼女に「ペニスをディルドだと思って(笑))」って言われたんだけど、わたしはディルドに萌えるが、ペニスには萌えない。「何が違うの?」と言われると「いや、だから取りはずし可能なものと可能じゃないものは違う」としか言えない。。

ってことは、やっぱ自分も「見た目」で判断してるんじゃないか、って思うんだけど、でも根本的に男性の身体には魅力は感じないんだもん。だからわたし、レズビアンなんだもん。ここで「心が女性だから、肉体は男性の体つきしてても大丈夫」と言える人は、レズビアンじゃなくて、パンセクシャル(全性愛)なんだと思う。。

ということは、パンセクシャルの人よりもホモセクシャル(同性愛者)の人の方が多分、圧倒的に多いだろうから、自分が恋愛対象になるためには、やはりある程度は身体を変えた方が恋人は作りやすいのかな、と思ったりね。。ただ、パンセクシャルの人にしても、初めから自分はパンセクシャルだって気が付くより、自分のパートナーが性を変えたいと言いだして、それで徐々に変えていっても、その人をパートナーだと思える、そこで初めて「パンセクシャルだ」って分かる人が多いような気がするけど。

って、また何が言いたいのか分からなくなってきたけど、要するに、このわたし自身もパートナーは「女の身体を持っている人」じゃないとダメってことなんだよね。あと、頭で「男性」と思っているようなFtMの人とも付き合えないだろうなと思っている。あ、この場合パートナーとしてってことで、友だちだったら多分、どういう人でも友達になれると思うけど。だから、わたしにはパートナーの条件としては「ある一定の」条件が必要だってことになる。

と、ここまでは分かった。

しかし、未だに分からないのは、性別違和を感じていない人で、異様に「男らしさ」とか「女らしさ」にこだわっている人。わたしの考えとすれば、もう肉体が男性(女性)であるんだから、それ以上に「男らしい」とか「女らしい」って考える必要ないんじゃないの?ってこと。そういう人は「男(女)らしくしなくちゃ男(女)になれない」と考えてるんだろうか。自分のやりたいことを「男らしさ」と「女らしさ」で見比べて「あ、こっちは男(女)らしいから、こっちを選ぼう」って感じてるんだろうか。だとすると、わたしにとっては非常に複雑な考え方をしているとしか思えない。「自分がやりたいからやる」じゃなぜいけないの?それが今の社会規範で「男(女)らしい」って判断されたとしても、男(女)である自分がやるんだから、たとえ女らしいことを男性がやったとしても、別に女性になるわけじゃないでしょ。そこんとこがわたしには全く理解できない。

しかし「なんで自分が理解できないのか」を考えると、これまたわけ分かんなくなってくる。

子どもの頃のことを考えてみる。わたしには、、実は母親から「小さいときは男になりたいって言ってて、立ちションしてたことがある」って聞いたことがある。しかし、わたしはそういう記憶が全くない。わたしはそれを聞くまで「自分が男になりたかったときがあった」とは思いもしなかった。今もそういう記憶自体がないので「本当なのかなあ?」という気がする。逆に母親の履いてる靴やバッグなどの持ち物を持って、妹と庭を歩いているような写真が残っているし(まさか本人は「女装だ」と思ってたとは思えないし(笑))。

あとは「男は黒、女は赤」っていうランドセル分けは子供心に「いやだな~」って思っていた。なぜって、わたしは黒いランドセルの方が格好良く見えたからだ。まー、こっちの方は、わたしが運良く私立の小学校に入れて、その小学校は男女ともランドセルは黒、だったので、それはすごく救われた。

ただ、、小学校4年から始めた剣道で、防具を注文するときだったと思う。男子はみんな「黒い胴」だったのに、わたしは女だからっていう理由で「赤い胴」を注文された。そのとき「赤い胴は赤胴鈴の助みたいでかっこいいぞ」と剣道の先生から言われたことが鮮明に記憶されている。けど、わたしは「赤い銅はカッコ悪そうで嫌だ、てーか、赤胴鈴の助みたいにカッコいいんだったら、なぜ男子にも赤い胴を付けさせないんだ」って思ってたんだけど、何も言えなくて、で、結局中3まで赤い胴を付けて剣道やってたんだけど。あのときくらいかな、自分の中で「不本意」だと思ったのは。

でもわたしは「赤」が嫌いだったわけじゃない。ただ、ランドセルとか、胴が赤いのは黒いのに比べてカッコ悪い、って思ってたんだよね。ということは、わたしには「カッコイイか」「カッコ悪いか」という基準で動いていた、ってことはあるかも知れないな。ただ、人からは「カッコイイ」とは言われたくなかったというこの矛盾(苦笑)

んで、それ以外は「男女」で分けられて「女だから」と言ってやりたくもないことをさせられた、という記憶はない。逆にやりたくない面倒くさいことはだいたい「男子だけ」って言われて「女に生まれてラッキー♪」ってことは何度もあった。わたしは注射が大嫌いで、できるなら避けて通りたかったが、予防接種のときは、名簿順で、男子が先だから「先じゃなくてよかった」と思ってたし(笑)

親はわたしのことをどう育てたかったのかはよく分からない。クリスマスプレゼントや誕生日プレゼントの中で覚えてるのは、なんか「子どもミシン」みたいな、糸で縫い付けるヤツじゃなくて、単なる木工用ボンドでくっつけるような仕組みをしてたミシンをプレゼントされたことがあって、それで遊んでた記憶もある。一方、その当時はやっていた「仮面ライダーV3」のライダーベルトなんかをプレゼントされて、「へーんしん、トゥ!」なんて、高いところから飛び降りたりしてた記憶もある。これはホント小さい頃ね。

あとは「人形遊び」はしたことがない。「ごっこ遊び」も嫌いだったんだけど、これはわたしの根本に「自分は自分以外しかなりたくない」って頑なに思ってた部分があるからだと思う。わたしは「演じる」ことが大嫌いなのだ。だから、小学校のときに演劇で何かの役をするのは、本当に本当にイヤだった。わたし、こんなこと言いたくないのに、なんで台詞言わなきゃいけないんだ、とか思ってたし。「自分じゃなくなるもの」になるのが、小さい頃から本当にイヤだった。

「人形遊び」はしたことない、って書いたけど、それは「一般に考えられている人形遊び」というものをやったことがない、という意味であり、わたしは自分なりの「人形での遊び」はしていた。すなわち、わたしのやり方はまず「人形の首を全部もぎ取る」「服を全部脱がす」「人間には有り得ない格好をさせる(関節を逆に曲げたりすること)」、こういうことがわたしの「人形遊び」だった。当時、足を引っ張るとスカートがブワッと広がるしくみのリカちゃん人形かなんかがあったのね。わたしはその「広がる仕組み」が知りたかった。だから、人形の洋服を全部、脱がせてみた。そうしたら、なんてことはない、腰から傘の骨みたいなのが出てて、それが動くだけだった。それ以上のことは人形を分解しなくちゃならなかったので、できなかった。人形を壊してまでその仕組みが知りたい、と思ったわけではなかった。

というのが、わたしの「人形」に対する「扱い」だった。ほとんど「非人間的扱い」だったんだけど(苦笑)

しかしこれがぬいぐるみとなると全然違っていた。ぬいぐるみは、、、溺愛した(苦笑)幼い頃「モンチッチ」を買ってもらったことがあるんだけど、それに「チッチ」って名前付けて、どこにでも持ち歩いていた。しかも、そのモンチッチが、あたかも自分の人格があるように設定して、わたしは一人遊びをしていた。そのうち、人形の布が擦り切れて中からなんか、プラスチックの粒みたいなのが出て来ちゃったりしたんだけど、そのたんびに母親に言って、今度はぬいぐるみの綿を入れてもらって、直してもらった。結局、あれはわたしがあんまりそれに執着しすぎるってんで、怒られたかなあ、、それともボロボロになってもう遊べなくなったのか。よく覚えてないけど。

実はわたしの「ぬいぐるみ好き」っていうのは、今でもずーーーーっと一貫してある。そして特に「ぬいぐるみ」じゃなくってもいいんだ、わたし(笑)なんとなく優しい肌触りのものが大好きで、ハンドタオルとか、そういうものにものすごく固執して偏愛していた。もちろん、名前も付けて。これが今でもずっと続いていると言ったら、驚きだろうか?

例えば、わたしはいつの頃からか覚えてないんだけど、寝る前のおやすみ用手袋の片方だけ、名前を付けてずっと一日中一緒だった。その手袋の名前は、、「ろんこ」(爆)。そう、わたしのハンドルネーム「ろん」ってのは、実はここから来てたりする。。よくハンドルネームのことで「なんで『ろん』って付けたんですか?」と言われて、今まで「ロンリーのろん、だよ」とか「ウーロン茶のろんだよ」とか適当に答えていたが。。実は「ろん」の「ろ」の字は「てぶくろ」の「ろ」の字から来てたりする(爆)

今ではmixi始め、ハンドルネームは「Ron」になってるが、ブログの題名を見ても分かるように、当初は(てか、セクシャルマイノリティーのサイトでのわたしのハンドルネームは)「ろん」だった(「Ron」でなしにね)。わたしは別に「ろん」という名前が、英語で言うと「Ronald」という男の名前の省略形だなんてまーーーーったく思わず、てぶくろ「ろんこ」がいたから、自分が「ろん」だったんだよね。なんでてぶくろが「ろん」で自分が「ろんこ」じゃないかというと、これは簡単で、わたしが単なる女性が好きってことだけだ(苦笑)「ろん」だとどうもあんまり女性じゃない感じがして、だからてぶくろに「ろんこ」って付けて、で、もともとどーせわたしは女だからどうでもいい名前「ろん」になったのだ。

「ろんこ」の話は途轍もなく長い話になるので省略するけど、今のろんこは象のぬいぐるみ「ぞお」と結婚して、「ぞうこ」(3歳)「ろんう」(2歳)「ろんぞ」(1歳)の3人の子持ち、という設定だ。で、今、実は「ぞうこ」は京都を旅行中、という、まさしく今でもわたしは「ぬいぐるみ」で遊んでるわけだけど。

こういうことが「女らしい」と判断されるものかどうか、なんて、わたしには関係ない。とにかくなぜか、ぬいぐるみやふわふわして肌触りがいいもの、については、わたしは名前を付けて、いつしかそれに性格もできて、その中で生きている。多分、これはずっと変わらないものだと思う。

一方、わたしは小学生の時から野球が好きで、放課後は男子に混じって野球やってたし、小学校の高学年になると、電気回路に興味を持ってお風呂ブザーを始め、ラジオなどを作ったりしてたし、高校に入学したら無線の免許を取って「CQ~」ってやってたし、夏の時期は「スポラディックE層(Eスポ)が出て、とんでもなく遠くのFM局の電波が届かないかな」とか、FMラジオのアンテナだけでなく、AMラジオのアンテナを買ってきたり、そこだけ見るととても「男らしい」趣味を持っていた。

そういえば、随分前に小学校の友だちとオフ会をしたとき、同じクラスだったある女の人に「あのとき自分も野球がしたかった」と言われた。「んじゃなんで参加しなかったの?」って聞いたんだけど、彼女は多分、彼女なりの考えがあって参加できなかったんだろう。っていうか、その考えは多分、わたしにはないもの、理解できないものなんだろうな、と思ったんだけどね。

制服は中学までだったけど、好きだった。うちの高校は制服がないから、自分の好きな格好をしていってたんだけど、多分、今とほとんど変わらないと思う。ただ、たま~に「女装」したくなるときがあって、そういうときは中学の制服のスカートを着ていったりした。そう、わたし、スカートってそれしか持ってなかったから(苦笑)で、そのときはクラスの人にびっくりされて「なんで?」とか言われて。「いやー、なんかこれ着たかっただけなんだけど」みたいな(笑)

普段ははかないスカートに対して、なぜ制服ならいいのかというと、わたしは「制服はきちっとしててカッコイイ」って思ってたんだよね。別に学ラン着たかったってことはないし。だから、例えば制服のある職場だったとして、それがわたしの目に「カッコイイ」って映れば、わたしは別にスカートでも構わないって思ってる。ただ、自衛官とか消防士、警察官の女性の制服って、、帽子がカッコよくないんだよね(爆)ただ、男性と同じ帽子だと、これまた女性には似合わないんだよね。。ってわけで、多分、わたしの価値観って「男」とか「女」じゃなくて、「何が自分にとってカッコイイか」なんだってことが、なんとなく見えてきたかも。。

ただ、前にも書いたけど、人から「カッコイイ」とはあまり言われたくない。。「かわいい」とは言われたいけど(爆)

わたしはわたしのことを「自分は女だ」って思ってて、それは多分、周囲からいつも「男性」と間違われているから余計に「わたしは女なんだよ!!!」って過剰に思っている部分があるかも知れない。だから逆に言うとわたしは「性別違和」は感じないのかも、と思ったり。「自分の性を疑え」ってことで、いろいろ疑ってみたりしたんだけど、それによってわたしの性自認が揺らぐことはまずない。わたしは自分が女であるということに違和感はない。逆に男であると思うとすごく違和感がある、というか違和感どころか嫌悪感がある。男でも女でもない、と思うと嫌悪感はないが違和感はある。

ってわけで、わたしは自分のどこからどう見ても「自分は女だ」としか思えないのよね。。

「女子であること」はわたしにとってはどう考えても疑うべきことではなく、だから「女子であること」にわたしはこだわるけれど、ただその「女子」の中身は、わたしがやりたいと考えたものならなんでもその中に入ると思っている。で、わたしの基準は「男か女か」ではなく、「(自分の中で)カッコイイかカッコ悪いか」の方が重要なのかな。

で、人にはそれぞれそういう「基準」みたいなのがあって、それは他人がとやかく言うものじゃない、って、根本的にそう思ってる、ってことなのかなあ。だから世間の基準で動いてる人に違和感を感じるんだと思う。多分。いまのところはそういう結論。ってこれって全然結論じゃなくて、既に分かっていることではあったんだけど(苦笑)

取り敢えず、何が言いたい文章なんだかよく分からないけれど、吐き出したかったので吐き出してみた。

テーマ:性的少数者(LGBTIQ) - ジャンル:日記

19:16 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
06-13 Sat , 2009
ジェンダーと身長の関係
今日は親と年が違う双子の弟と会ったんだけど(っていうか、今日はIDAHOのイベントの東京反省会の日でした)、昨日の日記に関して、面白いことを言われた。

つーか、彼はレズビアンの人がたくさんいるところで話してるときと、会社の女の同僚から話しかけられるときとの「差」を感じたことがある、と言う。それは「レズビアンの人たちと初めて話したとき、なんか冷たい感じがした」と言うのだ。「そういう意味で考えると、会社では自分は『男』と認識されているから、相手は一般的に『男に接するときの女性の態度』で話しかけるんだよね。それに比べてレズビアンの人は、ゲイなんかにどういう風に思われようが構わなくて、そのままの姿で話してくるから、最初『なんだか冷たいなあ~』って感じたんじゃないか」って言ってた。そして「Ronさんは男性から話しかけられたとき、一般的に『男の人が女性に接している態度』、例えばちょっと甘い感じで話しかけられた、と感じることはないの?」と聞かれた。

それでわたし考えたんだけど。。あんまりそう感じたことがないし、例えば異動したばかりのほとんど知らなかった上司さえ、最初はなんだか遠慮してたような気もしないでもないけど、わたしがこのような人間だと分かると、結局はそういうのがなくなっちゃうんだよね。。

それにさらに思い出したけど、大学時代、わたしは合気道部に入部したんだけど、同級生で、ま、学科も一緒だった男子と途中まで帰り道が一緒だったので、クラブが終わったときはいつも一緒に帰ってたんだけど、彼は「自分はずーっと男子校だったから、女子とは恥ずかしくて話せないんだ」ってよくわたしに愚痴をこぼしてた。「ええと、あなたの前にいるわたしも女ですけど、一応」と言ったら「お前はなんだかよく分からないけど、話せるんだよ」と言われて、「一体、わたしと他の女子のどこが違うと言うんだろう」と複雑な思いをしたことがある。あ、でもこのときはわたし自身も自分がレズビアンだとは思ってなかったんで、レズビアンであることとは多分、関係ないと思う。

でね、弟と更に話していて「あー、Ronさんって背が高いからじゃない?ほら、他の女の人って自分より背が低いって印象だけど、Ronさんは僕と背の高さが同じくらいだし」って言われた。それ、確かにそうかも知れないなぁと思った。

わたしは身長が172cmあって、これはだいたい日本人男性の平均身長に相当する。ということは、わたしより背の低い男性は、日本には約半数が存在するわけ。女性ではわたしより明らかに背の高い、と感じる人はほとんどいない、というか、だいたい高くても同じくらいの身長かなーって思うことは最近まあまあある。

それで思い出したんだけど(思い出してばかりだね)、例えば、今、習ってる空手。わたしは今、一応、大人の白帯クラス、みたいなところに分けられてて、その中には男性も女性もいるんだけど、身長によって相手と組まされるときが多くて、そうするとわたしの相手は男性になるわけ。んでさ。こういってはナンなんだけど、女性同士やると、力ないのに更に相手にぶつけちゃいけないって思ってしまって、わたしも本気でできないんだよね。。向こうもなんかそんな感じだし。で「手加減しなくていいですよー」とは言うんだけど、なんか遠慮されるのかなあ。。わたしなんか、間違って、相手に顔面にパンチ喰らわせてしまったことさえあるのに。。(苦笑)

でね、男性と組んでやるときは、向こうが手加減するの。それは分かるの。でもね、所詮白帯同士なので、いつもいつも「寸止め」ってわけにはいかず、どうしてもパンチ喰らったりするのよ(笑)それでも「別に平気」って顔してたら、多分、向こうもある程度慣れるんだと思う。まだ手加減されてるなと思うこともあるけど、まー、手加減してたら今度は自分の稽古にならないから、先生にすぐに注意されるしね(笑)で、わたしの場合は、相手が男性なので、まー、わたしのへなちょこパンチを食らわせても大丈夫だろう、ってことで、わたしの方が思いっきりできるので、これがありがたい。

よく考えてみれば、こういうことって案外あったように感じるのよね。合気道部のときも、身長合わせてたんで、わたしは同じくらいの背の高さかもうちょっと背の高い男子と組んでたし。

んー、そういうのも、わたしが常日頃恐れていた「男女差別(区別?)」がない方向に行ってたんだなーって。だから、逆に女扱いされなくて、こっちが楽だった、ってのはある。

昨日の日記書いて、彼女から「ろんたこってさ、生まれつきジェンダーフリーを実践してるんだよ」となんかミョーに感心してたけど、それがぶつからずに今まで続けられたのも、この身長がそうさせた、というのはかなりあるんだろうな。

なんて、今日は空手が終わってからコンビニに寄って夕飯買ったんだけどさ。見てしまった。おじさんがレジに打ち込むときに「29」という水色のボタンを押したのを。。。

をいをい。年齢はともかく、わたし、今日、半袖Tシャツ一枚よ?この胸(一応、Bカップ相当)が分からんのか!!とちょっと憤慨しながら帰ってきたのでした。。言っとくけど「女扱いされない」のと「女と認められない」ってのは別の次元の話だかんね!!

テーマ:同性愛 - ジャンル:日記

23:31 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
05-22 Fri , 2009
ぎゃー
明日は11時から代々木公園で「TOKYO Pride Festival」が行われるんだけど、そんでもって、わたしは例の如くBrass MIX!でトロンボーンを吹くんだけどさ。

IDAHOが終わってから楽器の練習すればいいや~と思ってたら、翌日から風邪引いて、結局何も出来なかった。。orz

しかも、明日は8時半に集合で、どうも19時まで拘束されるらしい??
風邪がまだ完治してないところで、楽器吹くのつらいわ~とか、いや、それ以前に全然練習してないから吹けるのか~?とか、朝、そんなに早く行けるのか?とか、もう、いろんな不安要素ばっかりだけど、取り敢えずは行ってきます。。

ちなみにBrass MIX!は初っぱな11時からもう出番ですんで、見に来る人は早く来てね~。

今日は病院の日で、よく考えればIDAHOの日以来の外出(その間、近所の医者に風邪診てもらったのは除く)だったんだけど、結構マスクして歩いてる人が多くて、びっくりした。主治医もマスクしてて、だけど「こんなの無理矢理付けさせられて」とか言ってたんで、わたしが「マスクって予防にならないですよね?だって、ウィルスがすき間から入り込むじゃないですか」って言ったら「まったくそうなんですけどね」と言われた。

わたし、今回、自分が風邪引いて強く思ったのよ。外から帰ってうがいとか手洗いはもちろん、病気にかからない有効な手段かも知れないけど、一番大切なのは、体力を低下させないってこと。だってわたし、風邪引かないようにずっと外出後は手洗いとうがいと欠かしてなかったのに、風邪引いたもん。だから、一番大切なのは、よく食べてよく寝ることだとわたしは思う。

と言いつつ、せっかくの休みの日に、彼女から「今日は一日休みなさい!」と言われても、ついつい掃除だの洗濯だの始めてしまうわたしは、彼女から言わせると風邪引くのも「自業自得」なんだってさ。「ろんたこは病弱なんじゃなくて、動きすぎなの!」と今日、こっぴどく言われてしまった。。

ああ、明日は早起きが出来て、んで、練習だけで唇が死にませんように。あと、、体力がずっと持ちますように。って誰に願ってるんだか。

練習は諦めて、今日はもう寝よ。
22:07 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
05-14 Thu , 2009
2日連続した休みが欲しい
もー、言いたいことはすべて題名に現れている!!(爆)

だけど、カレンダー見ると、今月はそれが無理っぽい。。orz

たまには落ちついて本を読みたい~!

こういう自体になった元凶は、土日に空手をやることになったからだけど、でも今週末はIDAHOのイベントがあるし、来週の土曜日はTOKYO Pride Festivalがあるし、空手はその日は休まなくちゃいけないんだけどね。

しかも、わたしの仕事って土曜日の朝に来て、だいたい月曜の夕方に納品するんだけど、今週来週はこの通り、イベントがあるんで「誰か他の人を探してもらうか、納品日を1日ずらすかにして欲しい」と言ったら、納品日が延びてもいいことになって、わたしはイベントが終わっても、休むヒマなく仕事せんといかん。きついぞ~、これは。

仕事があるってことは、お金に繋がることだから嬉しいことなんだけどね。

まーでも、IDAHOとTOKYO Pride Festivalが終われば、ちょっとは日常が安定してくるかな。

あ、そうそう。IDAHOのメッセージは本日24時までです。こちらからどうぞ。「今年はあまり集まらないのでは」と心配してたけど、なんやかんやで100は行きそうです。で、今年は各メッセージ、読み応えあり!だから、絶対に当日、マイクは持たないんだ、わたし。だって泣きそうになると思う、絶対。
21:12 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
03-27 Fri , 2009
悟った
去年の終わりくらいから悩んでいたことが解消された。
それは

一体、自分はモノガミーなのだろうか、それともポリアモリーなのだろうか

ということ。
でもこれって、そうそう簡単に分かることじゃないんだよね。考えたって分かるわけないし。
だけどわたしは自問自答を繰り返し、最近それを悟ったの。

いや「悟った」と言っても、自分自身に問うただけで結論を出したわけではないけどね。
まぁこれ以上は言わないけれど。

分かったんだよね。「あ、わたしは今の状態で他の人と付き合うの無理だ」って。もし付き合うとしたら、やっぱり今の彼女との関係をきっぱりと精算してからじゃないと先に行けないな、って。

というわけで、わたし自身はどうやらモノガミーらしい、ってことが分かった。
だけど、わたしはポリアモリーの人も否定しないっていうか、存在するのだもの、否定したって。それはわたしが同性愛者であるっていうのは誰から否定されても、存在するのは確かなのと同じで。

ただ、、ポリアモリーの人とは付き合えないかな(あ、恋人とかパートナーとしてってことだけど)。

この結論を出すまで4ヶ月か、途中、病気のことと絡まったり、全く別件のことで精神的に負担になったことがいくつも重なって立ち上がれなくなっちゃったりしたけど、そしてつらくてつらくてたまらなかったけど、結論が出せてよかったと思う。

ま、だけどこういう結論を出したこと=今の彼女とずっと付き合っていく、のはまた別問題だから、当然のことだけど。もちろん、今の自分は、彼女を捨てて他の人と付き合いたい、と思っているわけではないけれど、だけど、この先はどうなるか分からないもんね。

てか「まだ自分の可能性を捨ててないのか」って言われそうだけど、わたしは彼女と別れたいわけじゃなくて、逆にその関係を強固なものにしていきたいだけ。今はホント、それだけを考えてる。
21:29 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
02-14 Sat , 2009
王様の耳はロバの耳!って言いたくなるときがあるんだよね
ここ数日間にあったことって、一体なんだったんだろうなって思う。結局徒労に終わっただけか。。

ってわけで、今はすんごくむなしい思いをしてるんだよね。。

何もしなければよかったのか、
他に何か別の方法があったのか、
そもそもなんでわたしがそんなことやらなきゃならなかったのか。。

まぁいい。何を書いているのか分からない人が大半だろうから。

心になにか悩みを抱えていても、
わたしはすぐに誰かに相談するようなことはできない。

なぜって、わたしが誰かにその話をすることによって、その人に対する評価をその誰かが変えてしまうのを恐れるから。

これはわたしの問題で、誰かの問題ではない。わたしの言い分はわたしの言い分で、わたしは正しいと思ってやっているから、そのことを誰かに伝えたときに、わたしのことを悪く思うはずはない。

逆にわたしがそのことを言うことによって、話をした別の人の印象を悪くしてしまうことをわたしは恐れる。上にも書いたように、わたしに起こったことは、わたしのことで、誰かに起こったことではないのだ。わたしは別に自分のしたことについて賛同を得たくて話をするのではない。大変だったねとも言って欲しくない。あなたが悪いわけじゃないからとも言って欲しくない。わたしは自分を正当化するために話をするのではないのだ。

それと、わたしがそのことを口に出して言うことによって、わたし自身がそのことについて「決定的」なものにしてしまうことも恐れている。頭で考えているときは、何を考えていてもいいと思うけど、それを口に出していったら、それは、自分の中でも確定的なものになってしまう。わたしはそれも恐れる。一旦「こうだ」と口に出して言ってしまったら、わたしはもうそれについては、自分の中では評価を変えることはできない。

もちろん、上の2つのことさえもどこかに吹き飛ばすほどのことであれば、わたしは即座に彼女に打ち明けるだろう。それによって相手の評価を貶めるようなことがあっても、わたしはそのことについて悪いとは全く思わないだろう。けれど、そうではないときは、、誰かに言いたいという気持ちはじっと自分の中で我慢しなければならない。これって結構苦しい。

だから今は、

「王様の耳はロバの耳!」

と叫ぶ穴が欲しかったりする。。

ときに、自分のいる世界と全く別の世界に行ければな、という思いがある。わたしは今、社会的にはどこにも属していない状態なので、ものすごく世界が狭いのだ。

性的少数者である自分というのは、自分の一部ですべてではないはず。なのに、今は自分の全てが性的少数者関係で動いているので、こういう「息詰まり感」を感じるんだろうと思う。

。。。どこか、別の場所に行きたい。。少しの間でもいいから。

というわけで、今は現実逃避モード。
だけど、現実逃避していても、性的少数者に関する本を読んでちゃ、現実逃避にはならんのよね。

あー、もう、ぱーっと、どこかに行きたい。地球の外へにでも。
16:42 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
02-06 Fri , 2009
「Ronさんの日記ってたまにスゴイのありますよね」
と、今日会った人に言われた(苦笑)

スゴイのって、、いわゆる「レズものDVD」を見た感想、らしいが、そーいえば、最近、そういうネタ書いてないよなーと思ったんだけど、これはね、TSUTAYAでもう「見たい」って思うレズものDVDがなくなっちゃったんだよねぇ~(笑)

わたしの行くTSUTAYAには、準新作ものと、もう新作じゃなくなったもののところに「レズビアンもの」があるのだが、これ、結構少ないのよね。特にもう新作じゃなくなったもの。準新作ものの中には「ふたなりもの」と呼ばれる、いわゆるなんてーの、「あら、女性なのにペニス付いてるよ」みたいな人たちのも含まれてるんだけど(普通「ふたなり」と言ったら、半陰陽の人のことなんだけどねぇ。。(-o-))、これがまた、よく分からないんだけど、ペニスつーか、張型って言えばいいのかよく分からないけど、細工がしてあるみたいで、なんかペニスの先からミルク飲み人形がまるでおしっこをしたときのようにミルクみたいなのがピューピュー出るのだ。

。。。こんなの、見る気しねぇ(-o-)

ってわけで、準新作に結構な割合で含まれてる「ふたなりもの」は避けてるので、もう見たいのがなくなっちゃったんだよね(苦笑)

確かにわたしはディルドを付けたレズビアンものは萌えるんだけど、その先からミルクみたいなものが出てくるのは萌えないのよ!!(苦笑)なんてーか、好みが激しいとは思うけど、所詮、好みってこんなものじゃないだろうか、と思ったりする(笑)

わたしの希望としては、そんなに人数が出てこない(最大でも3人)、できるだけ幸せな気分になれるようなものを希望しているんだけど、どうもレズものって「調教」だの「陵辱」だのってのが多いんだよねー。わたし、嫌がってる人を無理矢理SEXしたりするのってあんまり好きじゃない。

こないだ見たのが、SMとは全然書いてなかったヤツなんだけど、ほとんどSMっぽくて、全然萌えなかった。。ディルドのシーンはいっぱいあったんだけど。。やられてる方がとってもいやな顔をしていたので、見ながら「なんだかなあ~」ってばっか思ってた。

なので、しばらくはレズものDVD探しはナシかな~。。なんて思ってる。

だから、しばらく「スゴイの」書けなくてごめんなさいね、Rさん(笑)
23:33 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
12-30 Tue , 2008
自分が差別しちゃいそうな人たちって?
今日はある人とデート♪(なんて書いたら殺されそうだけど(笑))

んー、ホント、いろんなことが話したかった人でね。やっと会うことができたんだけど、それでもやっぱり時間が足りなかった。その中で出てきた話。「差別や偏見を持たない人ってこの世にいるわきゃないよね」という話をしてたら「じゃ、Ronさんは、どんな人に差別とか偏見を持つの?」って聞かれた。

わたしが「えーと、刑を終えて出所してきた人」って答えたら「急にまた、なんで~?」って言われたんで、「いやあ、平成14年に国がさあ、人権教育・啓発に関する基本計画てのを出してね、その中に国が『この人は差別しちゃいけませんよ』というのをまとめて書いてるんだけど、その中には女性だとか子供だとか老人だとか、障碍者だとか、HIV/AIDSにかかった人だとか、ハンセン病の人だとか、同和地区に住む人だとか、あ、ちゃんとその他の中に『同性愛者への差別といった性的指向の問題』とも書いてあるんだけどね、その中に『刑を終えて出所した人』ってのがあるんだぁ。でね、わたし、一つ一つ見てってさぁ、ダメそうなのが、刑を終えて出所した人だったの」と答えた。

「その、刑を終えて出所してきた人に対して、どんな偏見を持ってるの?」って聞かれたから「いやー、そりゃ、殺人犯とかがさぁ、近くに住んでるって聞いたら怖いじゃん?」「でも、人を殺した人って、ホント、よっぽどの理由があって人を殺したんだと思うよ。そんな誰彼見境なく人は殺さないと思うけど」って言われたから「いやでもさぁ、そのよっぽどの理由が自分に降りかかってこないとも限らないじゃん。一回、そういうことがあって人をあやめたんだからさぁ、、」って答えた。そう、それだったら「刑を終えて(=罪を償った)」という意味がない、とわたしも思うんだけれどね、、

あ、ただわたしは続けた。「あーでもさぁ。もし、個人的に近くにそういう人がいて、その人の人となりと知ったとしたら、もしかしたらその人に対する偏見はなくなるかもね」「それってさ、要するに同性愛者と同じじゃん?同性愛者って『誰彼見境なく襲う人』って思われてるけど、個人で親しくなったら、そういう風には思われないでしょ」「確かにそうだけどね」

とそのときは「うーん、何かが違う」と思いつつもそう答えたんだけどね。

家に帰ってきて、もう一回考えてみた。そうしたら違いが分かった。

要するに女性や子供、老人、その他の、ここの「人権教育・啓発に関する基本方針」に書いてあるもので「刑を終えて出所した人」以外は、多分、その人がどういう人であれ、差別はしないだろうな、と思えるものなのね。ところがこの「刑を終えて出所した人」に関しては「個別対応」なのよ。個人的に付き合ってみて「この人大丈夫そう」って思ったら偏見なくなると思うの。だけど「刑を終えて出所した人」っていう「一まとめの集団」にするとね、その集団にわたしはやっぱり偏見を持ってしまう。

だからおそらく同性愛者もね、「同性愛者」として一まとめで見たときに偏見を持つ人って多分、たくさんいると思う。もちろん「同性愛者」という一まとめで見ても偏見も何もないよ、って人もたくさんいると思う。それはやっぱり個人差があると思うのね。で、おそらく一まとめで偏見を持ってみる人に対しては、ホント、個人個人を知ってもらって、それでその人の偏見を解くしかないと思う。そして、だからといって、急にその人から「同性愛者全体」に対する差別はなくならないんじゃないかなあ、と思ったりもする。

裏を返せば、やっぱりわたし自身「刑を終えて出所した人」は、個人個人の人と親しくなって「この人、安心」と思えば偏見はなくなるだろうけど、だからといってそれを「すべての刑を終えて出所した人」に押し広げて考えにくいのよ。

「そりゃさぁ、同性愛者の誰でも受け入れられるって人はいないと思うよ」とその人も言ったし、わたしも同意した。でもそれは個人レベルでの人の「好き嫌い」の話で、もしかしたらその人が同性愛者だと言うこととは何も関係のないところで好き嫌いが生じるんだと思う。それは人間関係だから、大いに有り得るし、わたしだって、すべての人と仲良くなれるとは到底思ってないし、逆に嫌いな人と嫌い合えたらどんなに幸せかとか、そんなことさえ思っていたりする過激な人間なのだ、わたしって。

けどね、差別や偏見を持つ、ってのは、個人レベルの話でなく、一まとめにしたときにどう思うか、の話だと思うのね。そう、今日はそれを整理して話すことができなかったのが悔やまれる。一まとめの集団と個人単位をいっしょくたにして話してしまった。これは反省。

「わたし、今、刑を終えて出所した人が周りにいないけどさあ」って言ったら「もしかしたら、言えないだけでいるかも知れないよ」と言われた。。。そうなんだよね。わたしがただ「見えないだけ」で、本当は近くに存在している可能性もある。それはわたしという同性愛者があなたのそばにすぐいるように。そこは気をつけなくちゃなあと思ったけどね。いつ、いかなるときでも、どういう背景を持った人が近くにいるかも知れない、それが具体的にはなんであるかはもちろん想像も付かないけど。。でも、少なくともそういう人から「実はね」ってカミングアウトされる人間になりたいと思う。

でも、わたしの周りにいる(かも知れない)「刑を終えて出所した人」は、これでわたしに対してカミングアウトしにくくなってしまったのかも知れないね、、(苦笑)

今日はたったの3時間くらいしか離せなかったんだよねー(笑)それでもあっという間に時間、過ぎちゃったし。
今度は二丁目行って話しましょう、是非。
21:32 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
12-04 Thu , 2008
隣の芝生は青い、のかなぁ?
最近、ちと気になることを聞いた。レズビアンでもフェム系(見た目が女らしい人のこと)の人は、カミングアウトするときやその後、しばらく大変らしい。

その理由は、外見が女らしい故、まず「レズビアン」だと信じてもらえないらしい。。そして「男を紹介してあげようか?」とか「今までいい人と付き合ったことがないんじゃない?」とかって言われるらしい。。へー、初めて聞いた。っていうか、正直言うと、ちょっと羨ましいって思っちゃダメ???

わたしは今、カミングアウトしてるのは、小学校の友達と大学院時代、研究室が一緒だった人で現在も付き合いがある1人と、それから元職場の数人。中学、高校、大学の友達にはほとんどと言っていいほどカミングアウトしていない。あっ、高校時代の友達で、一番親しい友達にはカミングアウトしたけど。あとは親兄弟。おお、それからネットで知り合った人(社会人野球関係含む)。

親と兄弟(妹だけど)からはそれぞれから「なんとなく分かってた」みたいなことを言われたんだけど、これはねー、幼い頃から「わたし結婚しないから」って言い続けてたからかな~とか思ってたりして。あ、妹の理由は違うのね。わたし、別にオーラソーマとか信じているわけではないんだけど、あのボトルで一つ好きな色の組み合わせがあって、それは27番なんだけど(上が赤で下が緑)、それを選ぶ人って同性愛者が多いんだって言われた!!が、さすがにそれはうそだろーーーー!って思ってる(笑)だって、そんなこと、信じられるかい!同性愛者にもいろいろいて、同じ色の組み合わせでそんなのが決まってたまるかい!てな感じだ。

でもさぁ「結婚しないから」って幼い頃から確かに言ってるけど、わたしはどうしても自分が結婚して誰かと一緒に住んで、それで自分が子供を育ててるところなんかちっとも想像が付かなかったから、っていうのが理由で、その時自分の将来としては、ずーっと一人で暮らしてるだろうなあと予想してたわけで、将来、女性と同居する、なんてことはもちろん考えてもみなかった。自分のことレズビアンだって分かっても、特に誰かと一緒に住みたい、などとは考えもしてなかったし、彼女と出会う前は「このまま一人でこうやって生きていくんだなー」って思ってた。そう、だからわたしの今の生活は、全然予想されていなかったことなのだ!

今までの友人にカミングアウトできたのは、そういう反応がないだろうな、と思ったから。そしてそれは正解だった。みんなやっぱちょっと予想外みたいな感じで驚いていたか、あとは「ま、そういう人もいるだろうな」と思った人もいた。誰一人「そうだと思った」とは言わなかった。だからカミングアウトできたんだと思う。

中、高、大学時代のほとんどの友人にカミングアウトできてないのは、ま、中学はねー、転校しちゃったんで、なかなか会えないってのはある。こっちに帰ってきてからの友達とはほとんどやりとりしなくなっちゃったし。で、高校と大学は、、、その一番いやな「そうだと思った」とか「やっぱりね」って言われる可能性がとても高いから。

高校の時、わたしは下級生と同級生の女性からとてももててたけど、、それって、今、わたしがレズビアンなのと全然関係ないから!あのときは本当にイヤでイヤで、実はちょっと気持ちが悪いなって思ってて(苦笑)、わたしは同性なんか好きにならないし、とも思ってたし(その代わり、同性を好きになる人がいるだろうなとは思ってたよ)、バレンタインデーにもらったチョコレートは、悪いけど、気持ちが悪くて、もらったのは全部、家族に食べてもらっていたほどなのだ。。あのね、なんというか気持ちが詰まってると思うと、とても気持ちが悪かったのよ。。なので、その一ヶ月後にお返し、なんてことはもちろんやったことないしね。だって、もらって別に嬉しかったわけでもなんでもなく、バレンタインデーはホント、学校に行くのが気が重い日だったのだ。なんで、お返しはしたことがない。

って、まー、なんてひどい女なんでしょ(爆)

大学んときは、入学直後にそんなに親しくない人から「あなたってレズ?」って聞かれたのが、ものすごーく本人にとって傷になっている。これはね、自分が「レズビアンだ」って気がついたときに、「何で本人が気がつく前に、他の人に言われたのだろう?」ってとても気になったのと、そのことがずっとずっと心の中に引っかかって取れないからだ。

そんなわけだから、わたしは高校も大学も卒業したあとにレズビアンだって気がついたんだっていくら言っても信じてくれないだろうなあと。いや、もし信じてくれたとしても「やっぱ、そうだったんだ」って思われるのが、もうそれ自体でイヤなことなのだ!!

だから、、フェム系の人はカミングアウトするのは大変だって言われても、こっちとしては「え、いいなあ。。」としか思えなくて。っていうか、別にわたし、レズビアンだからボーイッシュ(って言うんだろうか?)なわけじゃないのよ!わたしは自分でこの格好が好きだからしてるだけで、別に男になりたいとか、そんなんじゃないから。。ってどうして言い訳をここでしなければならないんだろう(苦笑)

高校はまぁ、そんなに付き合いがないから、特にカミングアウトはしなくても大丈夫だとは思うんだけど、大学の友達がねー、、まだクラブの時の友達とは結構付き合いがあって、その中の誰一人としてカミングアウトしてないので、それがちょっと憂鬱。。絶対ね、数年のうちに会うことになるはずなんだよね~。うちの部活の同級生って結構結束強くて、大学の卒業時に「大学卒業して10年経ったら、みんなで集まろう!」って言って、ホントに10年後に有馬温泉に泊まりに行ったのだ。そのとき「じゃあ、その10年後、また集まろう!」って言ってたので、、あと何年後だろう?4年後か。

はぁ。。なんだか気が重い。

それまでにすげーフェム系の姿になって「ええー、どうしたの?どういう心境の変化?」と言われるのと同時に「レズビアンでーす」ってカミングアウトしたら、、楽しいかも知れない(なんて)
20:53 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
11-22 Sat , 2008
エロDVDの見方って?
わたしが「エロいもの」にどんなに飢えているか、このブログ読んでる人だったら分かるだろうけど(笑)

わたしが「レズもののエロDVDが見たい、見たい」と騒いでいたら「レズビアンでも見応えのあるエロDVDがあります」と言って送ってくれた人がいた、と言っても、わたしゃ、その人からちゃんとその人が買った値段で買ったので、わたしはそのDVDを買ったことになるんだけど。その作品は「舐め愛レズ」という。ここに出てくるAV女優さんは三上翔子って人と立花理子っていう人で、どちらも後に監督までやってから、引退したという。この両人は「レズものDVD」の地位を向上(?)させた功労者らしい。

で、見たんだけど。。

あー、わたし、こういうのダメかも。ってか、まずエロDVDって、見たらエロい気分になって「やりたい~!」って気持ちになるのかと思ってたけど。わたし、全然エロい気分にならないー!

どころか、見ているとキスシーンばっかでいらいらしてくる。キスが終わったら胸とか脇の下とか念入りに舐めてるんだけど、わたしだったらあそこまで時間を掛けてやられたら「時間切れ」になってしまう(爆)わたしって結構「タイミング」があるのよ!それを逃しちゃうと「もうダメ~、いかない~」ってことになってしまい、、彼女にそれを話したら「ろんたこのタイミングで作品作ったら10分で終わるよ」と言われてしまった。。。orz

レズビアンのSEXって無制限と言われているが、わたしは10分で終わるそうだ、いや、終わらないってば!!!(爆)つーか、他の人たちは知らんけどね。だいたい、そういう話とかまったくしないし。ゲイの人とは割とエロい話をしたりするけど(わたしはBadiで情報を得ているだけだけど)、レズビアンの人とはエロい話ってまったくしたことないんだよねえ。。とっても不思議なんだけどねえ、、そういう雰囲気にもならないのはどうしてかねえ。。??

あ、んで、DVD見てるじゃん。そうするとその女優さんたちの絡みじゃなくて、自分たちのことをすぐ思い浮かべて「あ、これちょっとやってみたいかも!」とか「ちょっと、この体位じゃ感じるより、この体位の無理さ加減で、全然気持ちがよくなさそうだよね」とか結局「テクニック」として見てしまうので、ファンタジーも何もあったもんじゃない。しかも、モザイクんとこは「この手の動かし方なら、、クリトリスだけ触ってるな」とか「これだったら指入れてるだろう。何本かな?2本くらいかな?」とか「これ、ぜってーいってねぇよ」とか、そういうところばっかり「観察」しちゃって、ダメね、わたし。。

あとは指入れてるところで、せっかくグチュグチュ音がしてるってのに、あえぎ声の方が大きくて、やらしい音が聞こえねーよ!!!!!とかさぁ。。これって、どうなんだろうね。男性との見方が違うのか、それともわたしの見方がおかしいのか??ぜってーあえぎ声よりもグジュグジュ音の方がやらしく思えるんだけどなあ~。。そう、なんかね、全体的にあえぎ声が大きくて、なんかいろいろ言ってるのは分かるんだけど、何を言ってるのかよく分からないんだよねえ。。あの声を聞きたいと思ったら、もっとボリューム上げなくちゃいけなくて、そうすると、あえぎ声がもっと大きくなるから、今度は近所の迷惑(?)になると思って聞けないしさあ。

あとやっぱ「違う」って思ったのは、そこには「愛の言葉」は必要ないんだよね。これ、見てて一番違和感を感じた。で「あー、そういうもんなんだな」ってちょっと思った。確かに途中で一ヶ所だけ「わたしたち、ラブラブだね」という台詞は出てくるのだが。。そして、なんとなく恋人っぽい場面も出てくるんだけど。。でもこの二人は別にカップルじゃないんだよねー。なんかね、そういうのを見て初めて「ああ、エロDVDってそうなんだ」って再認識したって感じ。当たり前と言えば、当たり前なんだけど。。

まー、この作品は、道具も何も出てこないシンプル(?)なものなんで、見やすいことは見やすかったけど。。個人的には道具が出てきた方が萌えるかも?(笑)ただ、なんてーの、あの唾液攻撃はなんとかして欲しい。。。どうも「唾吐き」というテクニック(?)があるようだが、わたしには、あれは単に気持ち悪い行為にしか思えなかった。。

あとは絵になるからかなあ~、「貝合わせ」が最初と最後に1回ずつ出てくるけど、わたしゃあれだといかないんだよ!!!じゃなくって(汗)

最初のは多分、二人ともいってないだろうな~と思ったけど、最後のは「あ、いっちゃったかな?」とは思った。ええとどっちの方だったっけ。髪の毛の黒い人の方。名前がいまだに覚えられなくて(この二人、結構顔が似てるのだ!)、髪の毛の黒い人の方が、乳首が陥没乳で、ちょっと茶色っぽい髪の毛をしている人の方が乳首が立っててきれいだなーとか思ってそれでこの2人を区別してたんだけど。 ←どういう見分け方してるのか?

っていうか、全体的に「わたしはこのDVDをどうやって見たらいいんだろう?」って本当のところではずっとずっと思ってた。「エロDVDの見方って、、どうすればいいのかな?」とも思っていた。だってさ、見てても全然興奮してこないし、なんか頭の中でぐちゃぐちゃ想像してるし、結局わたしの相手は彼女だし(爆)

うーん、他のも見てみたいと思って、いろいろ見てみたんだけど、他のは何人も出てきたり、放尿プレーだとかちょっと見たくないやって思うものがたくさんあったんで(道具には多分、抵抗はないんだけどねえ~(笑))、またオススメのものがあったら教えてください!(って誰に言ってるんだか(笑))っていうか、「レズもの」っていっぱいあるんだねえ。。ルミエールにも売ってるけどさ。なんかパッケージ見ただけで買う気が失せるんだよね(苦笑)それかあとは「ソフトレズ」みたいなんで、ちょっと物足りないかな~って思ったり。

などというわたしは、もしかしたらレズエロDVDの監督ができるかも知れん。とか思ったりもしたんだけど、でもその作品って結局、わたしの「エロファンタジー」になるわけなんだよね。

。。。誰も買わないかも(爆)
22:43 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
| ホーム | 次ページ
AX
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。