07-18 Fri , 2014
ゆりかごのうた 大松達知歌集/大松達知
無知を晒すようで恐縮なのだが、一応学校教育で、短歌、俳句、川柳などは習ってきたはずなのだが、学校を卒業してうん十年経つと、正直「あれあれ?俳句は季語があって5・7・5?川柳は確か季語がなくて5・7・5・7・7だっけ?じゃあ短歌ってなんだっけ?」などということが起きていて、、これって生まれたときから日本に住んでいて、しかも日本語を母語としながらものすごく恥ずかしいことだよねとは思うのだが、でも、自分の暮らしの中に「歌」というものが本当に無縁なので、仕方がない部分もあるのかな、なんて思っている。

だからといって、「歌」に興味が全くないわけではなく、斎藤茂吉の歌集なども持ってるし(文庫本だが)、俵万智なんかも知ってるし、俳句はなんかしみじみとした趣があっていいなあと思ってるし、なんというかな、ここだけの部分で言えば「一般的なフツーの日本人の感覚」なんだろうという認識だ(普段は「フツー」というカテゴリーも「日本人」というカテゴリーも使いたくないんだけどね)。ただ、「歌」については今まであまり接点がなかったんだよね。積極的に探そうとも思わなかったし。

今回のこの「ゆりかごのうた」を知ったのは、偶然、東京新聞を読んだからだ。確か書評じゃなくて、コラムみたいなところだったと記憶しているのだが、「父親になった人の父親の目から見た短歌」みたいな感じでこの人ともう一人の人が紹介されてたんだよね。確か5月頃だったかなあ?その2人のいくつかの歌が紹介されてたんだけど、わたしはこっちの人の歌の方がなんとなくいい感じだなって思ったのと、歌集を出したばかり(もう一人の人のは確か雑誌で発表だったかな?)だというので「もしかしたら図書館にあるかもね」と思って探したら、案の定、図書館に置いてあって(ただし、新刊だったのでだいぶ待たされた)それで予約して読んでみたのだった。

題名が「ゆりかごのうた」なのと、新聞に紹介されていたのが「父親の目」ってことだけだったので、この歌集、全般にわたって「子育て中の父親の歌」なのかなって思ってたけど、実際に読んでみるとそういうことは全くなく、「2009年から2013年(38歳から42歳)までに書紙誌に発表した作品の中から444首を選び、第4歌集とします。」とあとがきに書いてあるように、実にいろんな歌が入った歌集だった。

この人のことは、東京新聞を読むまで全く知らない人で、どういう背景を持つ人なのかも全く知らなかったのだが、歌集を読んでいるうちに「あれ、この人、野球が好きな人なのかな?」って分かってきた。他にもお酒がすごく好きそうだとか、英語教師をやっているとか、子供が産まれたとか、誰かが亡くなったとか、どこそこに旅行に行ったとか、そういうことがぽつりぽつりと分かる歌集だった。

わたし、今まで俳句とか短歌って、「句を通して読んだ人の気持ちを想像する」とか「読んだ人を通して情景を思い浮かべる」ことだと思っていた。学校教育でもそういう教わり方をするからさ。もちろん、それは間違ってはないだろう。「何が書いてあるかを文法的に正しく解釈して、そしてその句が何を言おうとしているのかを考える」ことは、句の本質的なものを捉える上ではとても大切なことだとわたしも思う。けどね、わたしはこの歌集の中の一つの短歌に出会ったとき、それまでとは違うものを感じたの。「ああ、短歌を読むってことは、自分の中にこういう感情を湧き起こすことがあるんだ」って思った。

打者を見つつ走者を見つつ送球を見つつ過ぎたりこの世の五秒


この句を読んだとき、「うわっ!」と思ったのね。それはまさしく、わたしが経験したことだった。

わたしは今はほとんどプロ野球オンリーになっちゃったけど、かつては社会人野球が大好きで、休みのほとんどを社会人野球観戦に注ぎ込んでた時期があった。年間100試合ほど観ていた。いろんな球場へ観に行ったけど、わたしは大抵バックネット裏の中段で、ホームより少し3塁側の席が定位置だった。そこからだと投手も打者も守っている人たちもランナーもみんな、一瞥できるからだった。

野球っていうのは、ものすごく奥が深いスポーツで、一人一人の心理状態、配球、守備位置、作戦、選手が持っている技量など、いろいろなところにアンテナを張り巡らせて、いろんなことが感じられるからわたしは好きなのだ。ただ野球をほとんどやったことがないわたしには、セオリー通りの作戦などは分かるけれど、配球とか細かいことは実はよく分からない。分からないし、それが間違っているかも知れないんだけれど「もしかしたらこうなんだろうか?」って自分なりに感じて解釈する。それがまたたまらなく面白い。

ああ、言葉にするとすごくつまんなくなってうまく説明できないな。ある場面、一方のチームはチャンスに、一方のチームがピンチに追い込まれる。ここでキャッチャーはピッチャーにどういう球を放らせるか、ピッチャーはキャッチャーの構えたところにボールを投げることができるか、バッターの狙い球はどんなものか、ランナーのリードの具合はどうか、ベンチの指示はどう出ているのか、野手の守備位置はどうなってるか、キャッチャーが打たせようとしている方向に野手はちゃんと守っているのか、高まる声援(社会人野球の応援はすごい!)、いろいろなことを観察して感じようとするわたし。「野球ってなんて面白いんだろう!」と感じる瞬間。そしてピッチャーがボールを投げて、、

この句を読むとね、あのときのわたしの気持ちがばーっと蘇ってくる。この句の中の「五秒」っていうのは、まさにわたしが打者を見て投手を見てランナーを見る、その「五秒」なんじゃないかと。

わたしがこの句を読んで真っ先に思い出した試合がある。

1999年7月25日、都市対抗野球大会3日目の第3試合。横須賀市(日産自動車)対大阪市(日本生命)の試合。7-8で迎えた9回の表、横須賀市の攻撃。2アウト1塁からタイムリーで1点返して同点にしたあと、大阪市のピッチャー土井は四球を出して2アウト1塁3塁。ここで横須賀市の黒須がセンター前にタイムリーヒットを打って逆転するのだが、まさにヒットを打つ直前、わたしは上に書いたとおり、投手を見、打者を見、ランナーを見、野手を見、盛り上がる応援を聞いた。これから起こることについてワクワクし、息を呑んだ「五秒間」だった。そしてその後、センターに抜けた黒須のヒットはスローモーションの映像としてまだわたしの頭の中に鮮明に残っている。あの試合を観た帰りにわたしは繰り返し「野球って本当に素晴らしい」って思った。野球を観ることは、わたしにとって数少ない「生きててよかった」と思えるものだった。

野球は間延びして面白くない、と言われることが多々あるけれど、あの「間」があるからこそ、野球は面白い。その間、いろんなことを感じられるから。それは独りよがりで事実とは違う解釈だったとしても、全然構わないと思っている。だって、そう感じたのはわたしだから。わたしがそう感じたということは「事実」なのだ。そして自分で感じたことは、自分の胸にだけに留めておく。自己満足でいい。

と、ここまで書きつつ。。この句を再び見ると

を見つつ走者を見つつ送球を見つつ過ぎたりこの世の五秒


なんと、「打者」だと思っていたのが「打球」ではないか!

あー、なんということ。ここが「者」であるか「球」であるかによって、この「五秒」は全く別の「五秒」ではないか!たった1文字の違いで場面が全然違ってくる。ああ、やっぱり俳句とか短歌って怖い。。

打球を見て、走者を見て、送球を見る、というのは、打者が打った後、のことだ。この人はロッテファンらしく、千葉マリンスタジアムに行ってロッテを応援する様子をいくつか短歌にしてるんだけど、きっとロッテの選手がヒットを打ったんだろう。その打った打球を見て、それからおそらく塁上にいたランナーの様子を見て、そして相手のチームの野手からの送球を見たってことなんだろう。それはそれで緊張感が伝わってくる一句なのだけど。。

わたしは特定の社会人野球チームは応援してない。けれど、プロ野球だったら、もう誰がなんと言ってもカープファンだ。同じ野球でありながら、社会人野球とプロ野球、特定の応援しているチームがある場合とない場合によって、わたしは野球の見方が全く違う。社会人野球は純粋にゲームとして楽しんでいる。どっちが勝っても負けても別に関係ない。ただ、緊張感のある試合が観たい。けれど、プロ野球は何が何でもカープの勝ちが観たい。どんなに大量得点差でゲーム自体は全然つまらなくなってしまったとしても、カープが勝っていたら満足するし、僅差で負けたらやっぱり悔しい。まぁそりゃあ、「いい勝ち方」ってのはあるから、いくら勝っても「こんなんじゃダメだよ!」って思うこともあるが、、

だからわたしはこの人が「打者を見つつ走者を見つつ送球を見つつ」と詠んでいて、その中に投手のことが入っていないのは、それは「応援しているチームがあるからだ」と思っていた。そして「その瞬間」の前の「五秒」のことを詠った歌なんだとばかり思っていた。そして「ああ、短歌って人の詠んだ句から自分の経験したことを思い出せる手段でもあったんだ」って、そう思った。

けど、あー、そうだったんだ。今回はそうではなかったんだね。

この句を作った人からすると「自分が作ってない句を勝手に作り上げてあれこれ言うな」って思われるだろうけど、確かに作った人を冒涜する行為ではあるよな。。ごめんなさい。だけど、わたしは本当に嬉しかったのだ。だって、あの句を読めば、あのときの、わたしの気持ちが自分の脳の中にパーッと蘇ってくるんだもの。

ちなみに、正しい句を読んで、これまた思い出した試合がある。

1995年6月20日。カープヤクルト戦。わたしはこの試合を広島市民球場で観ていた。9回裏4-6でカープは負けていたが、なんとノムケン(野村謙二郎現カープ監督)が逆転3ランを打ったのだ。このときは、ファンとしてすごく興奮した。「ノムケン、ありがとう!よー打ったな!!」って言いたかった。試合が終わったあと、球場前でノムケンの出待ちをした。「ありがとう、ありがとう!」って気持ちを伝えたかった。けど、本人を目の前にしてわたしは何も言えなかった。。言葉にしなければ相手には伝わらないが、「ありがとう」という言葉では自分の気持ちが伝えきれないと思ったからだ(それ以上に声を掛けるのが恥ずかしかったんだけど(^^;)。

「この世の五秒」はきっと、球場はファンの声援でいっぱいだったんだろう。「走れ、走れ」という声や「やったー」という声や「いいぞー!」って声が聞こえたんだろう。この句にはそういうことは何も書いてないけれど、でもわたしにはそれが聞こえる。

この人の野球に関する一連の句は、この人が球場のどこに座ってて、どういう応援をしているか、それがものすごく分かってね。全く見も知らぬ人なんだけど、球場でビールを飲みながら応援している姿がありありと浮かんでくる。それがとても不思議な感覚だった。わたしは人の短歌を読んでてあんまりその人の「生きている姿」を思い浮かべたことはない。どちらかというと、なんかセピア色のフィルターを通して見るような、なんとなく古ぼけていて、自分とは関係ない遠い世界であるような感覚がある。だけど、この歌集は全然違ってた。ちゃんと色が付いてた(笑)

この歌集、この人の生きている痕跡みたいなのが分かって、とても面白かった。歌集なんて、本当に今まで無縁で、あとこういうのを読むと「何か正しいことを感じなきゃ」みたいなプレッシャー?があって(学校教育の弊害か?)すごく敷居が高かったんだけど、これは本当に自然に読めた。

例えば英語教師として生徒のことをを詠んだ歌などもユーモアがあって面白かったし、あとこの人、お酒が好きなのね。「子供が産まれた」ってことでどんなことが書いてあるのかなって思ってたけど、まぁ正直それは「ふーん、そうなんだ」としか思えなくて(なんせ、わたしは人の親にはなったことがないからね)、実際のところはわたしは別のところ(=野球)に大いに反応した。

この歌集は「第4歌集」ということらしいので、前に3作出てるはずなんだよね。そっちの方も読んでみたいな。

ただ、一文字で意味が全く変わってしまう怖さ、ってのをこれを書いててモロ感じてしまった。正直、文語体はあまり正確に捉えることができなくて「まぁ適当でいいよね」って思ってたのだが。。あんまり適当でもよくないってことだよね。でも、それを気にしてたらまた敷居が高くなっちゃうしなあ。難しいとこです。でもこんなこと言ってたら、真剣に三十一文字を考えて作っている人に対して悪いなとも思う。

【追記】奇しくも今日は、プロ野球はオールスターゲーム第1戦。カープの選手がびっくりするほど多くスタメンで出場している。そして、東京ドームでは都市対抗野球大会が始まった。もう何年も観に行ってないけどな~、今年はどうしようかな。観るとハマるからなあ、あれは。
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04-11 Fri , 2014
非当事者であること/ルポ京都朝鮮学校襲撃事件を読んで
「ルポ京都朝鮮学校襲撃事件」って本を読んだ。

図書館で借りてきた本だったので、期日前に読まなければいけなかったのだが、最初の一週間ほどは読むのがつらくて最初の一章だけ読んで、ほとんど放置していた状態だった。けれど、それでは期限が来てしまう。意を決して続きを読んだ。苦しかった。何度も泣きそうになった。いや、実際涙が流れた。けれど不思議と「続きが読みたい」って思わせるような本だったので、残りは2日ほどで読めた。

んーなんて言えばいいんだろう。「差別を受けるってこういうことなのか」って改めて思わせられる本だった。この本には差別を受けた人の心理状況がどうなっていくかが丁寧に書かれている。それは「いじめを受けた子どもの心理」だったり「DVを受けている人の心理」だったりに、ものすごく似ていると思ったりする。過去にいじめにせよ、DVにせよ、被害者の心理状態を綴った本を読んだり、テレビを見たことがある。だから「差別を受ける」ってことはどういうことかについて、これが初めて読む本じゃない。初めてじゃなかったんだけど、大きな衝撃を受けた。もちろんだからといって、わたしは特に「朝鮮学校が受けた差別はいじめやDV被害と比べてもひどい」って言うつもりは全くない。わたしはこれらを比べるつもりはない。ただ「心理状態が似ている」って思っただけだ。

そしてこのような朝鮮人差別は今に始まったことではない、というか、昔からずっとずっとあって、戦争が終わってからもあって、そして恥ずかしいことに今も続いている。そう、これは恥なのだ。政府や警察、裁判所、文科省、国のすべてが朝鮮人差別をしている。国民の大半はそれを黙って見ている。一部の国民は直接朝鮮人差別をする。これが恥じゃなくて一体何が恥なのか。

人間には本能として「誰かを差別したい」って気持を持っていると思う。わたしにだってある。わたしだって「人を差別してはいけない」ってこういう場所で書くけどさ、実際はしてると思うよ(笑)人の心なんて裏では何を考えてるか分かんないよ(笑)黒くてドロドロしたものが自分の中にあることをわたしは自分で知っているし、そういうものを持っていることについてはいけないことだとは思わない。でもわたしはそれを絶対に表には出さないでおこうと思っている。表に出さないことが「自分のプライド」だと思っているから。まぁこの「プライド」に対してもいろいろあるのだけれど、まぁそれは自分が書きたくないことなんで書かない(笑)

だから「差別はしてはいけない」と書いても、実際は「差別は自分の表に出すな」ってことだと思ってるんだよね。

あ、差別をすることと人を嫌いになるってことは違うことだと思っている。自慢じゃないが、わたしには嫌いな人がたくさんいる。今、現在でもね。わたしは人を好きになることは滅多にないが、嫌いになることはものすごくたくさんある。よく「好き嫌いが激しい」っていうけど、わたしは好きがなくて「嫌いが激しい」人間だ。そして「嫌いな人と嫌いあう」ってことは「好きな人と好きあう」ってことよりも嬉しいって思ってる。中学生の時にクラスですごく嫌いな人がいて、向こうもわたしのことが嫌いみたいだったので、とても嬉しかった。今でもその人の名前と顔を覚えてるくらいだから、嫌いあってたことがよほど嬉しかったのかしらね。ただ、それはあくまで「個人対個人」のことだ。誰かを味方に付けて「一緒にあの人を嫌いあおうよ」と誘ったりはしない。人の好き嫌いなんて、極めて個人的なものだからだ。

差別と嫌いの違いって、「人間としての尊厳を傷つけるか否か」ってことじゃないかって思う。「人間としての尊厳」、まぁ別に「人間としての」って付けなくてもいいかなとは思うんだけど、「自分が自分であること」というのが尊厳なのかなあ。そして「自分であること」は決して「変えられない属性」じゃないと思うの。以前「自分で変えられない属性について差別するのは止めましょう」ってツイートがどこからか流れてきたときにわたし、「だったら変えられる属性について差別するのはいいのかなあ?」って思ったんだよね。自分で変えられない属性ってのは、人種だったり民族だったり性的指向だったりするわけだよね。じゃあ、変えられる属性って何だろう?って思ったんだけど、例えばね、人間が太ってるとか痩せてるとか、そういうのかな?って思ったんだよね。まぁいくら食べても太らない人は属性が変えられないかも知れないが、太ってる人は食べるの制限したら痩せられるでしょ。でもさ、太ってる人に「デブ」って言ったら言われた方は傷つくよね。それってゲイが「ホモ」って言われて馬鹿にされて傷つくのと同じだと思うの。そこに「変えられる属性」と「変えられない属性」の違いはないよね?それにさ、今や性別だって変えられるわけだよ?性別が変えられるから女を差別していいってことにはならないよね。

だからさ、結局さ、どういうことでも、変えられる属性でも変えられない属性でも、それについて差別することを表に出してはならないのだとわたしは思う。

なんかいつも感想を書くつもりが、話が変な方向に飛んじゃうんだけど(苦笑)

この本、よくできてて「ルポ」っていいつつ、いろいろな登場人物の過去の話とかうまく絡み合っててね。でもわたし、人の名前を覚えるのが苦手でね。日本の名字とか名前はそれでもあまり忘れないんだけど、不思議なことに名前が漢字でも横に朝鮮読みのフリガナが振ってあると途端に覚えられなくなる(笑)なので、取り敢えず申し訳ないんだけど勝手に漢字を「日本語読み」させてもらっている、この手の本は、、そして何度も登場人物が出たり入ったりするんだけど、これがね~。「あれ、この人誰だっけ?」って思うのよ、毎回。特に朝鮮の人は「金」って名前の人が多いもんですごく戸惑う、、まぁ半分くらい読んだら「ああ、この人だったよね」って思い出すけどさ。

しかし登場人物の過去の話などを読むと、本当に日本は昔から国を挙げて朝鮮人差別してたんだなと思うし、在日の人はこんな誰も味方がいない中でよくここまでやってこられたなあって思う。周りに味方がいなかったから、結束力が強いのだろうし、身内意識も強いのだろう。

わたしさ、この「結束力」や「身内意識」を目の前にすると、ああ、わたしはどんなに仲間に入りたくても仲間になれないなって思って寂しい気持ちがするの。それはわたしは決して「当事者」にはなれないってこと。前はそれが理解できなかった。なんとか一生懸命努力して認められたら「当事者」の仲間入りができるかなって思ってた。けど、逆に考えてね。アライ(=性的少数者を支持したり支援したりする多数者)が当事者になれるかというと、それは絶対に無理だから。第一、差別されて差別される気持ちは痛いほどに分かっても、それは自分に突き刺さってこない。差別されて身を引き裂かれるようなつらさは当事者じゃないと絶対に分からない。だから「所詮、シスヘテ(=シスジェンダーヘテロセクシャルのこと。シスジェンダーとは身体と自分が考えている性別が一致している人のこと、ヘテロセクシャルは異性が好きになる人のこと。要するに世間一般の人のこと)はシスヘテだよね」って心の底で思っちゃう。結局のところ、それなのだ。いくら、わたしが朝鮮の人に理解を示そうと、わたしは彼らにとって「差別する側の人間」なのだ。そういう危険性を持っている人間を身内扱いなど絶対にできないだろう。

でも。ってわたしは思う。非当事者なら、非当事者にしかできないことがあるのではないかと。それがね、この本には結構書いてあるのよ。ヒントがいろいろ。そういう意味ではこの本はとてもわたしの役に立ったし、今後、わたしは自分自身どうしていけばいいのかが少しだけ分かったような気がしている。

「当事者」と「非当事者」っていうのはね、いろんな場面でわたしの中に出てきて考えさせられる。わたしは「性的少数者当事者」だけど、非当事者であるものの方が圧倒的に多い。当たり前だけど。例えばさ、「凶悪犯罪被害者」について、わたしは非当事者だ。「自死遺族」についても非当事者だ。「北朝鮮拉致問題」に対しても非当事者だ。世の中の、ほとんどのことに対して、わたしは「非当事者」だ。

だからね、わたしは「非当事者」であることを貫きたいと思う。物事の、一つ一つによって自分の思いから立ち位置が変わってくると思うんだけど、一つ一つのものに対して「どういう角度で物事に向かうか」というのを意識的にやっていきたい。

世間は一般に「当事者(被害者)の気持ちになって」考えがちだ。例えば凶悪犯罪で重罰化をして欲しい、という被害者や関係者がいる。死刑制度存続を訴えたり、加害者を死刑にして欲しいと考える人たちもいる。それはそれでいいし、そういう思いは止められないと思う。けど、被害者や関係者以外の「非当事者」まで「同じ」になることはないと思う。非当事者は、非当事者であるからこそ、「加害者の犯罪に至った境遇、同じ事件を起こさないためにも社会をどう変えていったらいいのか」や「死刑制度があっても犯罪の抑止にはならないこと、であれば、どのようにしたら犯罪が減るのか」など、様々な視点からアプローチすることができる。もちろん中には被害者に寄り添う人もいるだろう。非当事者に課せられた使命は、長期的な展望で「どうやったら悲しむ人が減るのか、生きづらい人が減るのか、多くの人が住みやすい世界になるのか」を考えることだと思う。

それは「北朝鮮拉致問題」でも同じでね。っていうか、在日の人は「加害者」でもなんでもないんだから、攻撃する先が間違ってると思うけど、あんまりにも被害者寄りの人が多いと思うのよ。非当事者として何ができるか、この問題に関しては非常に難しいと思う。基本、国と国の問題だし。だけどさ、だからといって、在日の人を責めるのは間違ってる。もちろん彼らの中には北朝鮮を支持する人がいるだろう。けど、それはね、今までいろんな政治的な事情に翻弄されてきたっていうのがあるわけなんだよね。人の心っていうのは、そう簡単にすぐには変わるもんじゃない。もちろんわたしはその気持ちを「変えるべきだ」とは思わない。それは個人の自由だもの。ただ、誰が見ても国による拉致はいけないことだよね。それは多分、分かってると思うし、だからこそ複雑な思いを抱いている人もきっと多いんじゃないかと想像する。そういう気持ちは全く無視して、ただ拉致被害者とその周辺の人のことしか考えてなくて、在日の人を非難中傷していいものなんだろうか?

非当事者というのは、当事者じゃないから双方の気持ちや状況を考えることができるんだよね。それはきっと非当事者「特権」なんだろうと思う(笑)

こういうことを言うとね、すぐに「自分が被害者になったらどうするんだ」とか「被害者の気持ちを考えろ」って言う人がいるんだよね。それはね、被害者になったときに考えるよ。もちろん、今のわたしとは全く整合性が取れない考えになるかも知れない。だけどそれはそれでいいじゃないと思う。当事者になって、当事者でなければ分からない苦しみや痛みを持ったときに、わたしがどう考えるかは、今のわたしじゃ分かるわけがない。加害者が憎くて憎くて「死刑にして欲しい」って考えるかも知れない。でもそうじゃないかも知れない。それはそのときになってみないと分からないことだ。

少なくとも、今の「非当事者」としてのわたしは、非当事者のうちに非当事者の立場でやっていきたいって思ってる。もちろんできる範囲のことでしかやれないけどね。

また本の話に戻るけどねー。わたし、一番グッと来たのが「裁判を起こすかどうかの話し合い」のところだった。わたし、もっともっと軽く考えてた。そういう意味では「裁判所は公正だ」って思ってたの。もちろん、いろいろな思惑があって裁判所が公正じゃないことは知っていたが、でもまだどこかでそういうものに対しての「信頼」があったんだよね。でもさぁ、そこでも国を始めいろいろな人に痛めつけられた人たちは、躊躇してしまうんだよね。「そうなのか」って思ってちょっとショックだった。そして前に書いたけど今、朝鮮学校無償化排除問題で、全国で何ヶ所か、裁判を起こしている学校や生徒たちがいる。その裁判を起こすときも、こういう悩みや苦しみがあったんだろうなと推測される。わたしはあのとき「生徒が痛々しい」って書いたけれど、そして本当にそう思ったのだけれど、そういうのは通り越してるんだ、そう思ったらショックだったし、涙が出て来て仕方がなかった。だって理不尽なんだもの!どう考えても理不尽じゃん。国もそこに住んでる国民も誰も味方してくれないんだよ。味方どころか国を挙げて自分たちを攻撃してくるんだよ。わたしはなんで無条件に人が差別されている土地に平然と暮らしているの?誰かが傷つけられてて、それをどうして黙っていられるのか。

こういうこと書いてると「朝鮮人に味方する反日」とか「嫌なら日本を出て行け」とか思ってる人もいると思う。正直、わたしは「国」という枠組みは好きじゃない。「国」という枠組みがあるせいで、わたしたちは「国」からいろんなことを管理され、抑圧される。だから「国」という概念なんて滅びてなくなれって気持ちもある(かといって、アナーキストと言ったら全然違うのだが。。っていうかそこまで深くは考えていない)。しかしね、今現在「国」という枠組みがある以上、「こういう国でありたい」「こういう国であったらいいな」っていうのをわたしは持っている。今の日本はそれからどんどん外れて行ってるの!国はそこに住む人々のためにあるものであって、決して国があるから人々がいるわけじゃない。わたしは人々に寛容な社会であって欲しいと思う。人権が護られる国であって欲しいと思う。それは引いては「わたしが住みやすい社会」に繋がっているから。わたしが「こういう国になって欲しい」という要求は、それはやっぱりこの国が好きになりたいんだという思いがあるからだと思う。今の世の中が嫌いだからと言って、すぐ出ていくか、出ていかないかと考えるのは、わたしはよく分からない。好ましくない状態だからこそ、好ましい状態にしたい。ただそれだけだ。

この本ね、読んでて2箇所違和感があった。

1回目、学校が襲撃されたあとにバザーをやるんだけど、やった後にね、近隣住民に挨拶に行ったときにこう言われるの。

応対した(マンションの)副会長の対応は違っていた。大人たちのマナーの悪さを指摘しつつ、彼は言った。「ここのマンションは鴨川沿いで景観が良い、環境が良いということで入居してくる。新興住宅地のような感覚で入ってくる新しい人たちは、在日が多い地域だとか、歴史的経緯とか何の予備知識もない。だからこの公園や学校の様子を見てびっくりして反応してしまうのもやむを得ない側面もある。誤解、偏見から悪感情を持ってしまうところもある」。そして付け加えた。「努力せなアカンで」(51p)


終了後、地域に挨拶に回った。「行ってもいいのものかアカンものか分からなかったけど、『やっぱり行かなアカンやろ』って、二、三人で組んで、一組二、三ヶ所を回った」という。すると地域住民の何人かはバザーにも来て、物品を購入していた。ある年配の女性にこう言われた。「こんなんやったら全然問題ないんや。アンタら大人がちゃんとせなアカンねん。子どもらはきちんと挨拶するええ子ばかりやで」
 一緒にいたオモニ数人で思わず声を出して泣いた。「(略)でも会ってみると、何のことはない同じ人間だったんですよね。同じように、人間として、同じ目線で、年長者として私たちを諭してくれたのがうれしくて。私たち、何か自分たちを一段下のところで考えてしまってたのかなって。学校の問題だけじゃないと思う。在日ってどこか根無し草みたいなところがあるから。ほっとしたら涙が出た」(51p-52p)

読んで「えっ!?」っと思ったのね。これを書いた人でさえ、どうやらこの住民たちの発言を好意的に受け取っているようだ。でもさ、この本を読むと本当に朝鮮学校の教師を始め、保護者たちは近隣住民に対して理解を求めようといろんな努力してるのね、ずっとずっともう何十年も。もうそれは涙ぐましいほどで。なのにまだ「努力しなきゃならないの?」。わたしさぁ、これ読んで本当に腹立たしかったんだよね。歴史的経緯とか予備知識がないのは、それは誰の責任だよと。性的少数者のことでもさ、マジョリティは「知らないのが当たり前。教えられるのが当たり前」って思ってる人がいるけど、そんなん冗談じゃないよ!ちゃんと本読めよ!たくさん出てるよ!!知らないことを恥と思えよ!「分からないので教えて下さい」っていう気持ちで教えてもらえよ!もう、こういう「マジョリティの横暴さ」が嫌でさ。まぁ言われた在日の人たちの反応を責める気はなくて、本当によくやってるなと思うんだけど、こういうね、近隣住民の「横暴な」発言。さも「認めてやった」と言わんばかりの発言。わたしすごーく腹立った。

あと2箇所ほど気になるところがあった。それは金尚均さんのところで

金尚均も彼のパートナーも

って書いてあるのが2箇所ほどあるのよ(1箇所は39p、もう1箇所は63p。)。

これさぁ。ドキッとしたよ。「えっ、彼はゲイなの?」って。「パートナー」っていう言葉はわたし、どうしても「同性パートナー」に結びつけて考えてしまうところがある。そういうところに「ゲイダー」がピピピッと働く。まぁこんなのはゲイダーとは言わないかも知れないけどさ(笑)だけどね、続きを読むと彼には4人も子どもがいることが分かるの。ああ、なんだ、ノンケさんね。。(ふっ)みたいな(爆)

でもね、この本、他の人の夫婦関係のときに「パートナー」という言葉は使ってないのだ。しかも1箇所だけじゃなく2箇所ともなると、この金さんは取材を受けるときに「ここ、こういう風に書いて」って著者に注文付けたんじゃないだろうかって想像したりする。となると、金さんがこういうところの表現に気を配ってるってことは、例えばジェンダーの問題なんかにも気を配ってる人なんじゃないかと推測する。

それからねえ、1箇所、誤植を見つけた。

「朝鮮人が井戸に妻を入れた」(76p)

これさぁ、見つけたときに思わず不謹慎だったけど、笑っちゃいました。妻じゃないよね。これさぁ~、なんでこうなっちゃったんだろうね。字が似てるからかな?なんにせよ、次の版が印刷されるなら、改めておいた方がいいんじゃないかなと思います。

結局のところ、この事件に対しては裁判が行われ、一審では勝訴したものの、裁判所は「民族教育権」について全く触れなかったというところに、もうなんていうかね、国の機関の汚さを感じるというか(これを認めると後の「朝鮮学校無償化排除裁判」に不利になると予想される)この期に及んでまだ朝鮮人差別するのかって思って情けなかった。それに「ヘイトスピーチ」を犯罪とすると表現の自由と絡んでくるそうだ。もしそういう法律ができたとしても国に逆手にとられて「正統な批判」が犯罪になってしまう恐れがある、と。確かにそうだよね。でもだったらさ、ヘイトスピーチを犯罪にするんじゃなくて、わたしが前に書いたように「人種差別禁止法」の制定を目指すのはどうだろうかと思ったりする。もちろんこれでは性的少数者に対するヘイトスピーチは取り締まれないことになるけれど、でも、正直、わたしは今、一番問題なのは「外国人に対する差別」だと思っているから。もうずっとずっと100年くらい続いた(日韓併合が1910年だからね)朝鮮人に対する差別、もうこんなこと止めようよ。本当に切に切に願う。
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02-22 Sat , 2014
神さまってなに?/森達也
これは一度、2010年頃に既に読んでいる本なんだけど、最近わたし自身が「神さまって何?」って考えてるので再読した。

前に読んだときにわたし、この本に対して星を4つ付けてるの。5段階評価で。わたしが星5つ付ける本ってまずないので(読んで自分の人生が変わったとか、相当心揺さぶられたとかそういうのじゃないと5つは付けない)4つというとかなり高評価の部類だ(本の評価は以前はソーシャルライブラリーってアプリで付けてて、今はブクログで付けてる)。

でも、正直、再読する前はこの本に何が書いてあるのかさっぱり忘れてしまっていた。そして2回目、読み始めたんだけど、途中までは「わたし、なんでこの本に星4つ付けたんだろう?」って言うほど面白くなかった。それは最初から「神さまはいる」って前提で話が進められているような気がしたから。いきなり「人間が神を求める理由」ってのが書いてあって、そこには「人間は自分に死があることを知ってしまったために、宗教を求めるんだ」って書いてあって、おいおいって思ったから。いきなりそこかよって。

人が死を知ってしまったために宗教を求めるのも、もちろん分からないでもないが、わたし自身は納得できないのだ。前にも何回か書いたと思うけど、わたしは死後の世界はどうでもよくて。というか、逆にわたしにはあっては困るのだ。魂が生き残るのもいやだ。死んだら一切が消滅しないと嫌なのだ。自分が存在すること自体が苦痛だから。それにいくら「そこでは永遠に心安らかでいられる」と言われても、苦しみや怒りなどの感情がない世界は、逆に楽しみや喜びもない退屈な世界なような気がするのだ。仮に楽しみや喜びだけの世界だと言われても、毎日ずっとずっと楽しみや喜びだけの世界って、そのうちまったく面白くなくなる世界だと思うわけなんだよね。苦しみや怒りなどのマイナスがあるから、逆に楽しみや喜びが何十倍にも大きく感じられるんだと思う。あとずっと心安らかなのも、ただ息をするだけで苦痛を感じている自分にとっては、地獄にいるのと等しく感じられる。わたしが心安らかでいられるのは、この世からもあの世からも抹殺されないといけない。消滅して初めて心安らかでいられるなあと思うのだ。

だからわたしには宗教でいくら「あの世で救われる」と言われても、それだとわたしは救われないのだ。で、「これが宗教の存在理由です、だから神さまはいると人間は感じているのです」と言われても、わたしは納得できないのだ。

この本はそういう説明をしたあとに、仏教、キリスト教、イスラム教の世界三大宗教の成り立ちの話が出てくるんだけど、仏教の部分はとても退屈だった。だからわたしは読んでて「なんでこれが星4つ?」って思ったのだった。なんていうかね~、仏教の教えってわたしには救いがないように感じられるのよね。言ってることは宗教的というよりも哲学的だし、あと「人生は苦しいものだ」と決めつけている感じがする。まぁ仏陀が悟りを開いた頃の民衆の生活はただ苦しいだけだったのかも知れないが、今のわたしはつらいながらも一瞬楽しかったり、面白かったり、心を動かされるときがある。まぁそれで「生きててよかった」とは思わないが、そういうひとときがあるからまだ生きていけるんだという気がしている。けどね、仏教って愛別離苦、というように、愛すらも苦しみなんだよね。ものに執着するのは苦しみだから、ものに執着しないようにしましょうって教えなのだ。これってあんまりだと思わない?なんか仏教の目指すところっていうのが、わたしにはとても「そうありたい」とは思えなくて、だからこそもっと仏教のことを知りたいと思っているのだが。。

あ、なんか仏教に対する文句になってしまった(笑)これは本の感想文だった。

だけどね~。キリスト教に入ってからしばらくして、俄然面白くなった。森節が冴えているというのかな。短く言い切る文章はスピード感があってぐいぐい引き付けられる。というわけで、イスラム教辺りのところで「やっぱりこの本は星4つだ」って確信した。特に最後の最後で「神さまを人間が求める理由」について、一番最初に書かれた「人間は死ぬって知ってしまったから」という理由以外にもう一つ理由があるって書いている。まぁそれも特に目新しい意見ではないのだけれど、でもわたしが最近読んだ本は(キリスト教関係の話だったんだけど)「死が恐怖」とか「永遠の命を与えられると約束することによって人間は平静でいられる」とか、そういう話ばっかりだったので、ちょっと嬉しかった。

ただ、まぁこの本の目的は宗教を説明するだけじゃなく「時には人を狂わせてしまうこともある、宗教とは何かを自分の頭で考えよう」ということなので、わたしの知りたいこととはちょっとずれているんだけどね。それにしても、やっぱりわたしは森達也の考え方や文章の書き方は好きだと思う。だけど、面白いことに、最終的にこの人とわたしが出す結論は違う。本の中に書かれている意見はほとんど「うん、うん、そうだよね」って思うんだけど、最後の最後で彼とわたしは意見が違う。死刑の時もそうだったし、今回もそう。それは自分でもとても面白いって思ってて、森達也の本は自分の意見を押しつけない「自由度」があるからだとわたしは思っている。今回、彼は「だから僕の結論。神さまはきっといる。そう思うことにする。」って書いてある。まぁそうした方が本の治まりがいいから、本当に彼がそう思ってこれを書いたかはかなり疑問だとわたしは思ってるんだけどね(ヲイ)。ただわたしの結論としては「神さまはきっといる」とはっきりとは思えない。「そう思うこと」にはまだしたくない。

っていうか、この最後の章「神さまは存在するの?」に書かれた「神さま」というのは、読んでみた印象としてかなり「キリスト教の神さま」に近いような気がする。仏教の仏のことを言ってるんじゃないような気がする。まぁこの本全般において、仏教の章を除いて、神と仏は明確に分かれてなくてなんかうやむやなんだけど(そこら辺は子ども向けの本なので仕方がないのかな)、そして最終章では宗教と神さまをくっつけて書いているので、印象としては「じゃあ、森達也の言う『神さま』ってどこかの宗教の神さまのことなのかな?」って感じなんだよね。だから、わたしはそこが違う。わたしは宗教とは関係なく、人間は神を求めているんじゃないかなと思っている。求めているからこそ、存在しているように見えるんだと思う。それはあくまでも「見える」んであって、存在しているかどうかはよく分からない。今のところ、わたしはそう思っている。

この本を読んでの感想はひとまずそれなのだけれど、その他に書いておきたいことがもう一つある。

この人がね、この本で言いたいこと。それは上にも書いたけど「宗教にはこういう危険なところがあるよ。だから自分の頭で考えよう」ってことだった。でもさぁ。これって宗教だけの話ではないんだよね。いや、宗教にも絡んでいるのだが、宗教だけというとちょっと違うと感じることがある。この本の中に

これは歴史を学びながらあなたに知ってほしいことの一つだ。特に正義とか善とか、多くの人が正しいとか間違っているとか主張して決まる概念は、とても揺らぎやすくて不安定だ。だからこそ人は間違いを何度も犯す。その瞬間には間違っていることに気づかない。それが正しいと何となく思い込んでいる。そしてあとから首をかしげる。どうしてあんなことをしてしまったのだろうかと。(111p)


読みながらあなたは、今どきこんなことが、とあきれるかもしれない。念を押すけれど、現在のイスラム諸国では、シャリーア(イスラム法のこと)を頑なに守るという国はむしろ少数派だ。でもかつては当たり前だった。罪人の腕や足を切り落とすとき、みんなで手に石を持って投げつけて罪人を殺すとき、いくらなんでも、と思う人はほとんどいなかった。べつにイスラムだけではない。中国でもヨーロッパでもアメリカでも日本でも、歴史を少しでも学べば、人はこれほどに残虐なことができるのかとあきれる。目を背けたくなる。違う生きものだと思いたくなる。
 だからあなたに知ってほしい。人はそういう生きものだ。周りの多くの人がやることなら、つられてためらいなくやってしまうときがある。周りの多くの人が大声を叫ぶことなら、つい自分も同じように大声で叫んでしまうときがある。あとから考えたときには何であんなことをしてしまったのだろうと思うようなことでも、そのときはすんなりとできてしまう。そして宗教はそんなとき、きちんと物事を考えたり悩んだり迷ったりすることを、停める働きをしてしまうことがある。(155p)


と書かれている箇所がある。

わたしはこれを読んで、昨今の日本のきな臭さを思う。国家を無条件に賞賛する人。強さとは自分の主張を強引に押し通すことだと考えている人。真実は一つしかないと思っている人。そういう人たちにも当てはまる言葉ではないか。もちろん、ここには宗教の入り込む余地もある。戦前と戦中の日本がそうだった(このことはこの本の中でも触れられている)。神道は国家に利用された。

しかし、これは宗教だけの話ではない。外国人を差別すること。特定の民族を差別すること。戦争加害を認めないこと。これらは今の日本では直接宗教とは関係がない。関係がないけれど、上の文章になんかとても当てはまるものがあるよね。ちょっと待ってよ。これ読んで「他の国が同じことをやってきたから、日本もやっていいんだ」とか「他の民族が日本のことを貶めているから、日本も他の民族を貶めていいんだ」って、思ってない?でもそれは正しいことなのかな。少しこれについて考えてみた方がいいんじゃないか。「他の人がやってるから、自分もやってもいい」ってなんだかおかしくない?それはこの文章の中の「周りの多くの人がやることなら、つられてためらいなくやってしまうときがある。」に該当しないかな。

かくいうわたしも、もちろん自分の考えがすべて正しいとは思ってない。思ってないけど、やっぱり人を貶めたり差別したりすることは嫌なのだ。それは自分の中では美しくないことだと思っている。「条件付き」の美しさなんて美しさじゃない。「正しい」という言葉が使えないので、美しいと言い換えているが(笑)それだけ「正しい」という言葉は使い勝手のいい言葉なんだなあ~と文章考えながらつくづく思ったりして。もちろん、わたしは自分が美しい人間だとはちっとも思ってないけどね。美しくはありたいと思ってるけど、おそらく永遠に美しくはなれないだろう。そういう意味では意味は全く違うんだけど、キリスト教で言う「罪人」って概念と似てる感じかも。人は生まれながらにして原罪を持っているという。うーん、ちょっと違うかな?(笑)キリスト教はキリストを信じていれば、罪はなくなるんだもんね。わたしのは、永遠に美しくはなれないんだからね。わたしの考えは「性悪説」と言えばいいのか。どう、努力しようが絶対に善人にはなれない。けど、一生、善人を目指して生きるのもいいじゃないって書きつつ、わたしは善人にはなりたくないんだった。。(爆)きっとそうだ。わたしは「善」って言葉が嫌いなのだ。「美しい」は許せるけど。ここら辺、自分でもとても興味深いんだけど、生まれつきの感覚に近くて、多分解析できないことなんだろうな、、

なんて、ごちゃごちゃわけ分かんないことを書いたけど(苦笑)

この本は世界三大宗教について知りたかったら、かなりよくまとまってると思う。前に「ふしぎなキリスト教」を読んだのだけれど、「予定説」についての説明はあの本ではよく分からなかったが、この本読んで「なんだ、こういうことなのか。あれはこういうことを言ってたのね」って思ったほど分かりやすかった。もちろん「ふしぎなキリスト教」とは目的が違って被ってないこともすごく多いんだけど、わたしはね、「ふしぎなキリスト教」はあんまり面白くなかったのよ、、(なので感想は書きません。多分文句ばっかりだろうから)

宗教戦争の説明の部分が多くて「なんでこの世に宗教なんてあるの?」ってつい思っちゃうような本だけど「だから宗教なんて百害あって一利なし」って短絡的な結論を出すんじゃなく、「宗教とはなんなのか」「なぜ人間は神を求めるのか」について、これを機会に考えてみましょうよって感じかな。だってさ、「宗教なんてないほうがいい」「必要悪だ」って思ってたとしても、多分、大部分の人は心のどこかに「超人的なもの」を求めてしまうはずだからさ。

でも僕は思う。時おり感じる。理屈や論理だけでは説明できない何かがある。その何かが何なのかはわからない。でも何かだ。

その何かを神さまと呼ぶ人がいる。(231p)

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02-05 Wed , 2014
自殺/末井昭
本来なら、わたしはこういう類の本は読まない。
読むとウンザリするのが分かっているから。
本の根底に「自殺はしてはいけない」ってのがあって、それに沿って書かれてるから。
そしてその内容はどうせ「人生は素晴らしい。だからもうちょっと生きてみよう」ってものだから。

ここで自分の思ってることや、やってきたことなどを素直に書くと、自殺したいと思っている人の後押しをしちゃうような気がして怖いのだが(過去にかかってた心療内科の先生に注意されたことがある)、基本的に今のわたしは「死にたい」と思って生きている。これはうつという病気のせいだと思っているが、一方で、うつ病が治ったとしても(もうほとんど治ってると思うけどね。落ち込みは全くないし)希死念慮だけはこの先も消えないと思っている。

死にたい理由、ってのは特にない。ただもう生きるために息をするだけでしんどいのだ。まぁうつ病に3回かかってるうちに、この感覚が染みついちゃったわけだよね。こういう考えの人に「いいことがあるかも知れないからもうちょっと生きてみよう」って言ったとしても、自分にとっては息することさえしんどいんだから「もっとしんどい目に遭え、もっとしんどい思いをしろ」って言われてるのと同じなのね。絶望的な気分になる。だから自殺防止のサイトなんか見ようとは思わないし、人に相談しようとも思わないし、ましてや本なんて読もうとは思わない。

で、実際、何度か死のうとした。けどダメだった。怖くてダメだった。

でもね、この「怖い」というのはね、よく言われる「人間は本質的には生きていたいんだ」っていうのとは違うのよ。生きていきたくはない、けど死ぬのは怖い。死は怖くないけど、自分の手で自分を殺すのが怖い。何回か自殺しかけてね、でもやっぱり死ねなくて、最終的に「あ、わたしは自殺ができない人間なんだ」と悟った。それからは自分で死のうとは思ってない。やろうと思ってもできないことは十分分かったから。それより「なんか空からでっかいものが自分の上に落ちてこないかな~」とか「事故に遭わないかな~」とか「心筋梗塞になって急死しないかな~」と思って生きている。そういうことで今すぐ死ぬのは全然怖くないし、むしろそれを望んでいる。

ただ、今思っていることが生涯変わらないかというと、それは分からない。特に「自分の命が今すぐではなく、何年か後(または数ヶ月後)に死ぬことが確実」って分かってしまったときはどうなるか分からないと思っている。もしかしたら「死にたくない」って思うかも知れない。それはそのときが来なければ分からない。

随分話が逸れたね(笑)だから、わたしはこの手の本は読みたくない本だった。

それがなんで読もうかなと思ったかというと、実はよく分からない(笑)この本は多分、twitterで知ったのだと思うけど、いろいろな人のツイートを見て、なんとなく嘘くさい「自殺防止啓発本」じゃない気がしたのかな。本の帯に西原さんの言葉が書いてあるって知ったからかな。西原さんのは前に「この世でいちばん大事な『カネ』の話」って本を読んだことがあって、それは題名からしてもそうなんだけど(笑)、正直な話だったんだよね。あとどこかに書評とか載ってたのを読んだんだっけ。よく覚えてないけど。「ちょっと普通の本とは違うかな」って思えてきて、それで買ったのだった。

で、読んだのだが、わたしが一番最初に読みながらずっと気になってたのは「これ書いたのは一体どういう人なんだろう?」ってことだった。いや、この本を書いたのは末井昭という人で、この本の中にはこの人が生まれてからどういう風に生きてきたかが割と詳しく書いてある。でもその内容と文体がチグハグなのだ。文体は「です、ます」で書いてあって、その書き方からして書いている人の印象はとても気が弱くてオドオドしながら生きている、って感じに思える。でも中身に書いてあることは、結婚していても何人かの女の人と付き合ってて、パチンコと麻雀が大好きなギャンブラーで、バブルの時は先物取引などに手を出して借金を莫大に作って、っていう、とても「オドオドした人」とは思えないようなことをしている人なのだ。それにまだ意外な点は、こんな人がキリスト教を信じている、ということだった。

最初、この人をわたしは全然知らなかったし、ただ「キリスト教を信じている」ってことが先に書いてあったので「あ、だからこんなにオドオドした感じの人なのかなあ?」って思ったりした(笑)いや、わたしにはなんかキリスト教を信じている人って自分を卑下しているイメージがあるのよ。「神さま、どうぞわたしを憐れんでください」とか、聖書に出てくるじゃん。「わたしを憐れんでください」ってことは、自分は憐れみの対象か!って信じてないわたしはつい、そんな風に思ってしまうので。。それはキリスト教を信じている人への偏見だろうなって思うのだけど。

でさ、最初の4章くらいまで読んだとき、人となりはまだよく分からないけど、書いてあることで思想的に自分と似ている人だと思ったので、まず「多分この本は最後まで読めるな」って思った(最近、思想的に合わない本が増えてきてつらい)。特に4章の「世間サマ」の話の中で「殺人事件の犯人が裁判で無期懲役の判決を受けたとき、その被害者の家族がテレビのインタビューで『残念です。極刑にして欲しかった』と言っているのを見てゾッとしますが、被害者の家族の心情よりも、被害者の家族の発言をさも正義のように放送するテレビ局と、それを見て被害者の家族と同じ気持ちになって『殺せ!』と思っている世間サマにゾッとするわけです。」云々のところは、本当にそうだと思ったのよね。

わたし前に死刑に関する本を読みまくったとき、自分の中で出した結論は「今のところ、死刑制度に賛成」だったわけだけども(っていうか、この結論に対する日記ってわたし書いてなかったのね。今見たら「自分なりの結論が出ました」って書いてるだけだった。あのときはそう書きたくなかったんだな、きっと(笑))あの時点で自分がそう結論を出した理由はただ一つ、「人を殺したんなら、やっぱり自分は殺されるべきなんじゃない?」(人の人権を侵害した人は、自分の人権も侵害されても構わないんじゃないか)ということからだった。要するに「目には目を」ってヤツだけれど、でもそう自分で結論を出したとしても「でも冤罪だったらどうするか」とか「死刑になった人を殺さなければならないのもまた人じゃないのか」ってことが頭の中をぐるぐるして、結局スパっと「これが結論です」って出せた結論じゃない。だからわたしも「殺せ!」と脊髄反射している世間サマに対しては非常に違和感がある。

あとその後引用されたひろさちや、という人の本は、わたしも読んでみたいって思った。この本全般に対して言えるんだけど、所々にわたしにとって、非常に興味深い本が紹介されてるのよ。「イエスの方舟」の千石さんの本なんて、紹介されたの全部読んでみたいと思ったし、近くの図書館に所蔵されているかを早速確認しちゃった。全部あったんで、今度読んでみようと思っている。わたしは一つの本から次の読みたい本を探すのに、こういう「参考文献」を利用することがよくある。そうすると世界が広がるんだよね。もともと興味ある本を読んでるんだから、そういう方向にどんどん広がる。しかも自分で探す手間がない。こういうのは本当に有難いと思う。

で、肝心の「自殺」に対してなんだけど、わたしは「うつと自殺」についての章がとっても気になってたの、4章まで読んだ時点では。この人、うつ病によって自殺しようとしてる人に対してはどういう風に書くのかなって。でもね~、この人もうつ病って診断されたことがあるらしいけど、死にたいって思ったことないらしいんだよね(それは初めの方にも書いてあるけど)。上に書いたけど、わたしの死にたい理由は、息するだけでしんどい、とか、この世に自分が存在することが許し難い、とかいうもので、そういうのを納得させるような言葉はないように感じたの。まぁ自分で言うのもなんだけど、こういうのは病気なんだよね。理由なく死にたいのは病気だ。だからまず、その病気を治さないといけない。多分、それくらいしか言いようがないと思うんだよね~。

ちなみにこんなところで紹介するのはなんだけど、以前(一昨年だったかな?)朝日新聞か毎日新聞で片岡鶴太郎のインタビューがあってね、そこに書かれたことがとてもわたしにとって「ああ、そうだな~」って思われたので、その記事を切り取って壁に貼っておいたの。普段は格言とか名言とか言われているものはとても安っぽく感じられて、わたしは大嫌いなのだけれど、その言葉は彼の実感したことだからか、すんなりと入ってきた。インタビューの中の一部がこれ。

-30代でボクシング、40代で絵画を始めるなど迷いなく全力疾走していますね。

(片岡さん)いえいえ、私だって、50歳を目前に八方塞がりの閉塞感にさいなまれたことがありました。きっかけなど、なかった。男の更年期ってヤツですかね。「どーせ俺なんか、ダメなんだ」と独り言を繰り返したり、「バカヤロー。おい、辛気くさい顔すんなよ。笑え、笑えっ!」と自分に対して呪文のようにつぶやいたり。
 いえね、仕事をしている時はいいんです。他人の人生を演じていられるから。自分自身でいることがこの上もなく大変な時期でした。
 あの時ばかりは、絵を描いても気持ちは晴れなかった。むしろ書き終わった時の孤独が身にしみる。ええい、こうなったら体を動かそうと、ジム通いを再開しました。動いて汗流して、ようがくたどりついた結論が、「自分の言葉で自分を傷つけるのはやめよう」でした。初めて知りました。他人の言葉でなくても、「自分なんてダメだ」と繰り返せば人は傷つくんです。


うつ病で動けなくなったとき、多くの人は自分を責めてしまうと思う。「なんで気力が湧かないんだ」とか「自分の努力が足りないのではないか」とか「自分は甘えているのではないか」とか。それで自分で自分を傷つけて、結局死にたくなる。わたしが自分のことを「この世に存在することすら許せない」と思うのは、まさにこれだと思った。ああ、自分は今まで散々自分のことを傷つけてきたのだなあと思ったら、なんか涙が出て来た。それは「世間サマ」に「お前は甘えている」と言われるのよりもっとつらいのだ。「世間サマ」だったら自分がそれを気にしなければいい。他人は無視しやすい。でも自分自身の「お前は甘えている」という言葉を無視することは難しい。自分の言葉で自分を傷つけていると自覚していないと無理だと思う。だって何に自分が傷ついているのか、自分が傷ついていることすら分からないのだもの。

わたし自身は「自分がこの世に存在することすら許せない」という考えをもう自分の中から取り除くことは不可能だと思っているので、そう思いながら生きていこうと思っているけど、それでも「なんで身体が動かないのだ」とか「気力が湧かないのだ」とか「甘えてるんじゃないか」という直接的に自分を責める言葉を自分に浴びせるのは止めたら、随分精神的に安定してきたように思う。

なんかまた話がだいぶずれたね(笑)

まぁ結局さ、この本は自殺についていろいろ書かれてて、確かに樹海の話とかは面白かった。「人間に精神など存在しない。あるのは脳内の化学変化だけ」ってのは読んでて「おお、そうだよな」と思ったし。けどこの本の結末もやっぱり「自殺は否定しないけど、できるならもうちょっと生きてみよう。そうすればきっといいことがあるよ」という感じだったので、まぁ「お前もか」みたいなね。

ただ、わたしがこの本は面白かった、と思うのは、初めにも書いたとおり、「この人ってどんな人なの?」ってことなのだ。4章以降はこの人がやってきたことがつらつらと書いてある。一見、気弱そうな文章だけれど、やってきたことは全然気弱じゃない。気弱だと周りに流されていく感じがするけど、そして確かにずるずると別れられないまま何人もの女性と付き合ったりするところとか、先物取引でずるずるお金を注ぎ込んじゃうところなんかは「決断力がないのかな?」って思わないところもないけれど、でも一方で、エロ雑誌作ってるときに毎月警察から呼び出しがあっても「お役目ご苦労さん」という気持ちで通ってたとか、ある程度社会的に成功しているところを見ると、気弱じゃこんなことできないとも思うんだよね。だって会社を大きくすることって決断の固まりだと思うから。本人は別に「会社を大きくしようとは思ってなかった」と言うに違いないのだけれど。本には「会社には会議に出ることと書類にハンコ押すのが唯一の仕事」みたいに書いてあるけど、きっとそんなんじゃなかったと思うよ。なんでもかんでもホイホイ判子押してたら会社なんて大きくならないと思うし。女の人にはまったときも、麻雀やパチンコにはまったときも、会社なんて二の次、みたいな書き方してあるけど、実際は仕事もしてたと思う(本人は仕事はしてないって思っているかも知れないが)。だから、この本ではこういう書き方をしてあるけど、本当はもっと違う感じの人、例えば男ジェンダーバリバリの人なんじゃないだろうかと思ったりしてる(やってることは男ジェンダーバリバリだし)。本にもチラッと「キレてものを投げつけたりする」って書いてあったり(ただこういう感情は怖いとも書いてあったけど)、「おまえらバカか!」と心の中で思ったりしたことがある(ただし口に出しては言えない)と書いてあったりするので、文章から印象づけられる「気弱さ」とは違う面もあると思うんだよね。

この人は今まで何冊か本を出してるみたいなんだけど、全部こんな口調で書いてあるのかが今、とても気になって仕方がない(笑)もし違うとすれば「ああ、やっぱりね」って思うし、逆に全部こんな口調だったら「なぜ?」って思っちゃう。「そういう風に見せることによって、何かがあるのか?」とかね。うーん、わたしは普段はあんまり文章からする人となりってのは疑問を抱かない。例えば上に出てきた死刑制度について、森達也と藤井誠二が書いた本をたくさん読んだけれど「この本を書いたこの人ってどんな人だろう?」とは思わなかった。それは今考えると「言文一致」というの?イメージ的に書いてる文章と性格が一致しているように思えたからだ。でも、この人は違う。読んでてすごく違和感がある。それは計算されたものなのか、そうじゃないのか、、どうなんだろう?

あとは宗教ね。この本の「観光気分で被災地巡礼」の章は、わたしはとてもじーんと来た。そこには旧約聖書の「ヨブ記」の話が書いてあって、そこに書いてあるヨブの3人の友人と、被災地を取材に来て「こういう災害が起きたのに神はいると思ってるんですか」と聞いた取材陣が同じだっていうの。もう何度も書いてるけど、わたしには神も仏もいない。けど「神がいる」ってことはこういうことなんだなあと。「宗教を信じるとはどういうことか」ってことをわたしはここ数ヵ月間考えてて、やっと分かったのは「宗教は頭で信じるものじゃないんだ」ってことだった。信じると信じないというのは、連続的なものじゃない。コンピュータの0と1のように不連続なものじゃないか、というのが、わたしの今のところ出した結論だ。だから人にいくら「これこれこうで、こういうことがあって信じるようになりました」というのを説明されても(実際「神を信じるようになった理由」などで検索を掛けると、キリスト教の洗礼を受けた人の言葉がたくさん出てくる)、どこかで飛躍しているように感じられてしまう。以前読んだ「イエスはなぜわがままなのか」という本の中に、著者が「何かを信じると言うことは、一目惚れするようなものだ」と書いていたけど、多分そういうことなんだろう。だからいくら「これがきっかけでわたしは神の存在を信じるようになりました」と言われても、信じてないわたしには理解できないだろうと思う。

でね、この本を読んでるうちに、わたしは自殺の話じゃなくて、この人がどうやってキリスト教と出会って、そして信じるようになったんだろうって、それが気になり始めて仕方なかった(笑)目次を読むと後ろの方に「聖書との出会い」という章があるのを発見してね。もう、早くそこが来ないかなって、そればっかり思いながら読んでた(笑)で、読んだら「うう、これだけじゃ足りない」って思った(笑)この人の書く、キリスト教への思いがもっと知りたいって思った。なぜなんだろうね。多分、今、わたしがもっとも興味があるのはそれだからかな。最近の日記はなんか宗教に絡んだことばかり書いてるけど、まったく予想してなかったが、この本はとてもそういう点でも「興味深い」本だったんだよね~。この後、この人は洗礼を受けるまでに至ったのかとか、そこにはどういう思いがあったのかとか、そういうことがとても知りたい(笑)

というわけで、長々と書いたわけだけど、正直、自殺についてはあんまり感じるところがなくて、だけどそれ以外のところですっごく面白かったし、興味深かった。著者の目的とはずれちゃったかも知れないけど、わたしはこれはこれでとても楽しめた本だった。
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01-14 Thu , 2010
モリのアサガオ
前に「死刑のある国ニッポン」という本を読んで、それからこの中で対談した藤井誠二と森達也の本を系統立てて読んでいる、って書いたわけだけど。その中で藤井誠二と森達也、両方と対談している(もちろん、別々にだけど)漫画家がいる。それが題名である「モリのアサガオ」を書いた郷田マモラという人だ。

死刑囚に接する刑務官が主人公というこの漫画、読んでみたかったのね。で、この漫画を読んでからもう一度、藤井誠二の方と対談した本を読んでみたかった。なぜかというと、どんな対談したか、内容を忘れてしまったからだ(苦笑)なので、マンガ喫茶に行ったあと、図書館に寄ってその本を読んでから帰るつもりでいた。

しかし、、わたしが会員になっているマンガ喫茶(っていうかネットカフェ)は、なんとこの漫画を置いてなかったのだ。。事前にこの漫画のことは、全7巻あるとか、双葉社ってところから出てるとか、そういうことは調べておいた。そのときに、この漫画が映画化されるってことも知った。映画化されるくらいなら、どこでも置いてあるだろう、と思って行ったのだが、そこのネットカフェの漫画の蔵書検索したら「ありません」と出て来た。

仕方がないので、PCを使う気はさらさらなかったんだけど、PCを立ち上げて、どこのマンガ喫茶なら置いてあるんだろう、と思ってぐぐってみたんだけど、どうやらこの近くにあるもう一件のマンガ喫茶もこのマンガを置いていないようで(行く前に蔵書検索できるシステムっていいよね)、仕方がないので、近場のマンガ喫茶はないか、と、んー、これで1時間近く費やしちゃったかな~。

で、探し当てたのが八王子にあるマンガ喫茶(っていうかネットカフェ)。もー、わざわざ行きましたよ、そこへ。せっかく漫画読もうと思って家を出て来たのに、このまま帰るってのもねーと思ってさ。

途中、腹が減ったのでラーメン屋に行く。一番安い390円だったかのラーメンを頼む。出て来たラーメンを見て「あ、ここって八王子だったんだ」と気が付く(笑)そう、玉ねぎのみじん切りが載せてある「八王子ラーメン」が出て来たのね。初めて本場の八王子ラーメン食べた。今まではコンビニの八王子ラーメンを食ってて、なかなかおいしいなと思ってたんだよね(笑)なんかコンビニの八王子ラーメンとはちょっとスープが違うような感じはしたけど、そーだねー、、豚の背脂を除いた尾道ラーメン、って感じ?なんか魚介類のスープが入ってるのかなあ??という感じがした。

それを食い終わって、目的地のマンガ喫茶へ。当然初めてなので会員証を作る。それから中に入って荷物を置いたあと、マンガを探し始めたのだが。。「双葉社」のところになく、ボーゼン。あると思って来たのにぃ!と思って店員さんに「あの。。どこか検索システムがあります?」と聞いたら「PCを立ち上げていただきますと、検索システムがありますので、それでどこに置いてあるかが分かります」と言われたので、またPC立ち上げるつもりじゃなかったのにーと思いつつ、PCを立ち上げ(これがまた、時間かかるんだ)、検索する。「なんで??」と思うところに本が置いてあった(笑)これでだいたいまた1時間弱の時間を費やしてしまい。

「まー、7冊だったら1時間半くらいかな」と思ったわたしが甘かった(苦笑)結局トータルで4時間45分もいた(笑)途中、何回か泣きました(苦笑)まー、マンガだからねーと思うようなストーリー展開だったけど、でも、なんていうんだろう、対談でこの著者も連載開始時は死刑存置か死刑廃止かよく分からないまま書き始めた、と知っていたので、読みながら「あー、この作りって森達也の『死刑』に似てるな」って思ったのね。あ、当然のことながら話が似てるわけでもなんでもなく、書く人がいろいろ試行錯誤をして自分なりの「死刑制度」について考えていく、という姿勢がね、「死刑」と同じじゃないかなと思ったんだよね。

前にわたしは「自分の死刑制度に対する考え方はまだまとまってない」って書いたんだけど、そして二人の本を読んで、もう一回最初の「死刑のある国ニッポン」を読み直して、それから考えてみよう、なんて思ってたんだけど。。実はこの「死刑」をね、読んだら知らないうちに自分の答えが出てた。多分、それまでいろんな本を読んでて、頭の中でもう飽和状態になってたのかな。読み終わってしばらくして出て来た。

そういうわけで、別に今さらまた何か読む、なんてことはしなくてもいいとは思ったんだけど、、でも存置派と廃止派の2人から対談を申し込まれてる人の作品ってどんなんだろう?って、多分、そこのところに一番興味があったのかな。「死刑」もそうだったんだけど、読み終えてから「著者(主人公)は悩みながらこの結論に達した。では読んでるあなたはどうなのか?」ということを突きつけられるんだよね。そういう意味では「死刑」と「モリのアサガオ」はお勧めだ。

で、全然関係ないけど、このマンガ喫茶、12日~26日まで女性には100円無料になる券がもれなくもらえる、ってあちこちにベタベタ張ってあってさ。当然このわたしにももらえると思ったわけ。だって、会員になったとき名前見るじゃん。わたしの名前はとても分かりやすい女の人の名前だからさ。どう考えても読み間違えするような難しい名前でもないしさ。だけど、会員手続きのときはなーんもなかった。だから、帰りのときにくれるのかなーって期待してたんだけど。

何ももらえなかった(号泣)

家に帰ってきてから彼女に「なんでそのことを店員さんに言わないのよ!」って言われたけど、んなのわざわざ請求してまでもらいたくないもん。。

そーいえば社会人時代に名刺交換して「この名前、なんて読むんですか」って聞かれたことあるんだよなね~。まさか受付の店員さんも同じこと思ってたわけじゃないよな。だいたい、下に「子」が付く名前で「なんて読むんですか」もクソもあるもんか!!(泣)
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12-30 Wed , 2009
まぶたがチック
うー、今朝起きてみたら右のまぶたがヒクヒクする。
「チック症状」だ。

わたしこれ、疲れたときになるんだけど、今、すごく疲れているかというと、先週は確かに毎日出歩くほど忙しかったが、今週は月曜日に出かけたきりで、ここ2日は特に家から出ていない。

だから「えー、そんなに疲れてないはずなのに、おかしいな~」って彼女に言ったら「本の読み過ぎじゃない?」と言われた。

確かに先週の木曜日に図書館から10冊本を借りてきて、今は6冊目を読んでいる。ここ最近は1日1.5冊~2冊のペースなんだけど、果たして目の使いすぎでチックになるんだろうか、、?

ちなみに「なんでこんなに本を読んでるんだ」と言うと、ずっと以前に「死刑のある国ニッポン」という本を新聞の書評か何かで知り、面白そうだからAmazonで買ったのね。でもいろいろ他のこともあったんで、ずっと放っておいたんだけど、今から1、2ヶ月前かなあ~。読み終わって。

この本は、死刑廃止派の森達也って人と、死刑存置派の藤井誠二って人の対談本なんだけど、どうも「真っ向から対立している」わけではなく、ホンの紙一重の差で「廃止」か「存置」なんだよね(とわたしは理解しているのだが)。存置の藤井氏は「殺された被害者の遺族」寄りで「『少なくとも』犯人には自分の命を持って償って欲しい。でもそうしたからといって、決して遺族の気が晴れるわけではない」と言う。対して廃止派の森氏は「『少なくとも』と言って(たとえ人殺しであろうと)一人の人間の命を奪うことは許されない」と言うんだよね。それ以外は本当にいろんな話が出て来たんだけれど、ほとんどの意見は(概ね)一致してたと記憶する。

だけどね。正直、わたしは死刑廃止か死刑存置かって前も分からなかったし、今も分からない。そしてこの二人の対談を読んだけど、正直「レベルが違う」って思ったの。わたしはこの人たち以上に死刑について考えたことなかったから。それと共にこの二人の背景、二人がそういう意見を持つには、今までその人はどんなことを見てきたんだろう、って思ったのね。片方は「殺された被害者の遺族」側に立ち、もう片方は「命の尊さ」の側に立っている。これってなんでだろ?って、そっちの方を知りたいと思った。そして、それがある程度分かった上で、もう一度、この「死刑のある国ニッポン」を読み直したい、そう思ったのね。

で、それから図書館に行ってこの二人の本を読みまくってるんだけど、最初は森氏の本はほとんど誰かに借りられていて(笑)、藤井氏の本から読むことになった。今までに7冊の本を読んだのかな。対談本を含め。もちろん、他の分野の本も書いてるけど、藤井氏は圧倒的に「殺された被害者の遺族」、それも「少年」によって殺された被害者、について書いてある本が多かった。もちろん、それに付随して「少年法」についての本も書いている。少年犯罪のことについて非常に勉強されているなあという感じって当たり前っちゃ当たり前なのだけれど。。ここでもわたしの知識のなさが露呈されてトホホって感じ、、法律はやっぱりサラサラ目を通すだけじゃ絶対に理解できないのは前から知ってたけどさ(笑)

森氏の本は、藤井氏の本を借りる際に一冊だけあったヤングアダルト用の本「神さまってなに?」だけをそのときに借りて、それ以降は図書館のウェブサイトから予約して、それを借りたのは24日だったんだけどね。今、その「神さまってなに?」を含めて5冊目の本を読んでいるところ。あとまだ4冊残ってるし、それに正直、この人の本の方がわたしに合っている、というか面白い。この人はもともとテレビのディレクターをやってたみたいなんだけど、オウム(オウム真理教ね)のドキュメンタリーを撮る辺りから、職業としてのテレビのディレクターができなくなってしまった(周囲が要因でもあり本人の要因でもあるような気がする)。そしてドキュメンタリーを撮る際でも、自分の中の「違和感」についてとことん考えて文章にしている。この「違和感」に対して正面から考えるところにとても好感持ったし、共感するところもあるし、だからこそ、今回借りた8冊だけじゃなく、もっと読みたいと思って、昨日と今日、図書館のウェブサイトで更に7、8冊予約してしまった(笑)

ってわけで、年明けすぐに図書館から連絡が来るだろうから、それまでに読み終えないと。。ってわけで、今、必死で読んでる、というか、必死じゃないんだよね。「読みたい」の。「寝ないで読みたい」って感じがする。ま、実際はちゃんと寝てるけれどもさ(笑)

そして森氏は特に「一つのテーマ」で本を書いているわけじゃない。ホント、多岐にわたる。まー、ドキュメンタリー作家(最近の止むに止まれぬ肩書き、と今読んでる本にはそう書いてある)だから、興味のある対象について書いているわけで、それは当たり前なんだけど。結構「タブー」とされてきた分野について映像にしてきたり、書いたりしてるみたいで「放送禁止歌」の本は、一時有名になったからわたしも題名だけは知ってた。著者は知らなかったけどね(笑)ただ、今回読む本の中にはこの本は入ってない。

今のところ特に「命」を題材にした本は読んでなくて、今後、そういう本があるのかどうかも、わたしには分かんないんだけど、一方は割と「それに特化した本(少年犯罪やその被害者たち)」を書いているので、分かりやすい一方、もう一方は読んだ本からわたしが推測するしかなくて、その心の動きがどうなるのか、これが今のわたしの一番の興味だ(もちろん、「心の動き」も知りたかったので、借りてきた本は年代の古い順に並び替えて読んでいる、といっても借りたときは年代は意識してないから、あくまでも「借りてきた順」の中の年代順だけどね)。

というわけで、まぶたのチックはとても不快なんだけれど、なかなか治りそうではない(汗)
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11-26 Thu , 2009
女性映画監督第一号(日本)
こないだ、ふとしたことで「日本の女性映画監督第一号」の人の写真を見たんだけど(女性監督第二号で女優の田中絹代と一緒に写ってるの)、その人、坂根田鶴子って人なんだけどさ、その写真を見ると一見「え」って思うの。それは、坂根さん、男装してるのね。しかも結構貫禄ある体つきなので「女性」って言われなければ、絶対に男性としか見えないのね。そうじゃないかも知れないけど、わたしはどうしても「FtMのオッサン」としか見えなかった。。

てなことで「どーしてもこの人のことを知りたい!」と思って、本を探したんだが。あったよ、1冊だけ。「溝口健二を愛した女―女流映画監督第一号 坂根田鶴子の生涯」ってのね。中古の方が入手しやすそうだったので、中古で買って。で、早速読みました。

男装した理由ってのは、当時の映画界は「女性のいるところ」ではなく、女性としてみられたくなかった彼女は男装して女と見られないようにして仕事した、ってのは、まー、分かるような気がする。この人の他にも男装して働いてた女性はいたらしいし。

で、別にわたしはこの人について別にどうこう言うつもりはない。なんか結局いろいろあって、戦後、ある未亡人と子どもと一緒に暮らしはじめて、その後、この人と共同で家も購入したらしいし、仕事場に子どもを連れて行って「うちの子」と紹介してたらしいけど、ま、だからといってこの人が実は男になりたかった人だとか、そういうことは決めつけて考えたりはしない。だって、本にはそこまでのことはもちろん書いてないもんね。ただ「家族ができた」って書いてあって、割と幸せそうな生活をしてたみたいだ。

だから「あー、こんな人もいたんだな」と思う程度にしておく(笑)

ただ、本自体はそんなに面白い本でもなかったなー。。悪いけど。

だいたい「えー」と思う書き方もあるわけね。この人の日記に「やむなく帰宿の途、大黒屋の前辺にて痴漢に遭う。酒気を帯びた詰め襟の青年、呆れた奴なり。出した腕を取って、逆に押返したれば、手強しと見たかブツブツ言いながらも行きたり。」って書いてあるところの解説に「晩年の田鶴子しか知らない人には、彼女が痴漢に襲われたとは想像もつかないだろうが、この頃の彼女の写真を見るとかわいい普通の女性で、深夜近い時間、女が一人で歩いていれば痴漢に襲われても仕方がないと思われる。」って、はぁ???ってことが書いてあるのよ!(この本書いたの女性だけど)それだったらこの人の論理では「女がかわいかった」り、「露出度の高い服を着ていた」り、もしかすると「女性専用車両に乗っていなかった」りすると、それは襲われても自業自得なわけなのね。こわ~。

なんて、気に入らない部分だけ書き出しても仕方ないけどね(苦笑)

なんというか、遺族や関係者に語ってもらったらしいんだけど、どこまでが本当の話なんだろうか、この人、ここで本当にこういうことを思ったんだろうか、ってちょっと思ってしまう。題名は「溝口健二を愛した女」だけれど、結局、溝口健二の奥さんも愛してたらしいし(だって本当にそうやって書いてあるんだもの)、「監督と自分は師弟関係。師弟関係は平行線」って考えて、溝口健二からのプロポーズも断わっている、とか。まぁ、この人、生前はほとんど溝口健二の話はしなかったらしいから、遺族の話を聞いてつなぎ合わせたのかなあ~、って考えたり。

ただ、あまりにも日本の女性映画監督一号、って知られてないらしいのね。田中絹代が一号だと間違われてもいるらしいし。そういう意味では「あー、こういう人もいたんだな」って分かっただけでも勉強にはなったが。。ちょっとなんだか「モヤモヤ感」みたいなのも残ったのは事実で。

でもネットでぐぐってみると「女性ゆえ、存分に才能を発揮できなかった」ってことで、これが女性センターなどで話として取りあげられてるみたい。もう何年も前のことだけど。今後はまた、そういう機会があったら、是非参加してみたいもんだと思っている。
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11-19 Thu , 2009
今日は
図書館に行って本を返してきたんだけど、また3冊借りてきてしまった(汗)

わたしが図書館で借りる本って大抵「まー、読んでもいいんだけど買ってまでは読みたいと思わない本」なんだよね。

で、そのうちの2冊をもう読み終えてしまった(笑)

まー、感想を書くほどの本ではなかったけれども、ある意味、「真逆」の本でそれはそれで組み合わせとしては面白かったかな。。

さて、これから3冊目に突入します(笑)

こうやって借りてきた本は1日や2日で大抵読んでしまうのだが、返すのはどーしてもめんどくさくて、2週間後になっちゃうんだよね~(苦笑)

しかし、今日は寒かった~!
この冬(冬なのか、もう??)初めて手袋はめて外歩いたよ。
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10-20 Tue , 2009
横道世之介
わたしが取ってる毎日新聞で、最近この本を取りあげた記事が目に付いたものだから、買って読んでみた。

というか、この本は、実は毎日新聞に連載されていた小説だったらしい(2008年4月1日~2009年3月31日)。それを加筆修正して出したのがこの本。いやー、新聞に連載されている小説にはほとんど興味が無いので、これが連載されていたとは、この本が出るまで全く知らなかった。

連載開始月の4月にこの小説も「四月 桜」から始まっており、一月に1つの章で出来ているので、おそらく連載を読んでいると、そのときの季節感が一緒になって楽しめただろうな、という感じはする。そしてもし、わたしがこの小説の存在に気が付いて、その当時、読んでいたとすれば、一日一日がとても待ち遠しかっただろうな、と思わせるような小説だった。

わたしはこれを読んで、なんとも言えない懐かしさを感じたのは、なんてことはない、この小説の主人公とわたしは同い年だったからだ。あの当時、同じ東京で、同じ大学生だった、というのは、この小説を読む人の中でおそらく最もこの話をリアルに感じられる年代だと思う。あの当時、「バブル」と呼ばれていた頃、わたしは大学生だった。景気がいいことはなんとなく分かってたし、「こんなものにこれだけ金つぎ込むの?あほらし」みたいな感じはしていたが、自分自身はただの大学生で、あまりバブルの恩恵を受けた覚えがない(バイトもしてなかったんでね)。けど、読んでると「ああ、そうそう、そんな感じだった」って思うところが多々あって、それがものすごく懐かしかった。

話自体は、おそらく1987年4月に長崎から大学進学のために上京してきた「横道世之介」くんの大学1年生のときに起こったお話しがメインとなっている。それが縦軸とするならば、時折織り込まれる横軸は、彼と関わってきた人のその後のお話し。一月に1つ、ではなく、数ヶ月に1つ程度織り込まれるのだが、その時間軸が段々現代に近づいて来て、最終的には去年で終わる。

1987年に横道世之介が関わってきた人で、彼の現在を知っている人は(ほとんど)誰もいない。「あ、こんな奴いたっけな」と思い出されてはまた記憶の底にしまいこまれる、それだけの存在だった、とも言えるが、何年経ってもふと「あ、アイツ、どういうヤツだったっけ」と思い出されるというのは、それだけ存在感があった、というべきなのだろうか。

んー、ぶっちゃけて言うと、2008年11月に40歳になっている横道世之介は死ぬ。それが読みながら分かってくる(もちろん、分かるのは11月になってからだ)。それまでは取り敢えず「今の彼は何をしているのかな」と思いつつ読んでいくのだと分かるが、11月以降はひたすら「彼が亡くなったって、なんでだ、どうしてだ」というはやる気持ちを抑えながら読んでいった、という感じだろうか。

実はわたしは書評だったか何の記事化だったかで、主人公に「死」が訪れることを最初から知っていた。んー、だから、本当に面白かったのは、やっぱりこの連載をリアルタイムで読んでいた人たちだろうな、と思うんだけどね。でも「死」を入れるのは、ある意味「ずるい」とも思う。だって、生きているより死んでいる方がドラマチックだ、明らかに。そして最後は急激に1987年と2008年が交錯していくのだ。永遠に交わることのない年月が、なぜか絡み合っている。「写真」という「その時代を封じ込められるもの」によって。

そしてこの小説は、2008年11月に亡くなってしまう主人公が、1987年に大学1年だった主人公が、その後、どうなっているかが垣間見えるようになっている。ここら辺の描き方はちょっと心憎い感じがする。結局彼はカメラマンになるのだが、その出会いが大学1年のときにあったこと。その後彼はどんな写真家になったのか。そこら辺がうま~く描かれてるんだよね。しかも、読者はそのときにはもう主人公はこの世にいないことを知っている。ここの組合せがね、やっぱり何とも言えないのね。彼の生き死にが分からないときは、1987年の彼はただの普通の大学生だ。サークルは幽霊部員で、講義には朝寝坊して遅刻して、深夜にバイトして、車の免許を取るために教習所に通って。。わたしらの時代にはどこでもいた「普通の大学生」だった。あ、今の大学生はどうだか分からないからこういう描き方するけれども。

ところが小説の中で「彼が死んだ」と言うことが分かってからの1987年の彼の行動は、なんだか「普通の大学生」に思えてこないのね。彼と関わった人は、なにか、必然的なものであったかのようにすら思えてくる。んー、これはわたしの場合だけど、他の人が読んだらまた全然違う感想を持つかもね。

ただ、本当に、わたしにとってはものすごく懐かしかった。「彼ら」は市ヶ谷にある大学(おそらくH大だろう(笑))に通い、わたしは港区にある国立大学に通っていた。もしかしたら新宿辺りですれ違っていたかも知れない、とすら思える。それだけでも小説に自分のことをシンクロさせられるのね。「あー、あの時代、そうだったよなー」と思えるところがものすごく多くて。

しかしわたし自身は「大学進学をきっかけに上京」してないから、上京してきた友だちなどをつい、思い出してしまったりした。もしこれが、大学進学をきっかけに上京してきた人ならば、さらに主人公の生活はシンクロするだろうと思う。

だから、この本は、わたしらの年代とはものすごく「合う」小説だと思う。が、それより10年上の人が読んだら?とか10年下の人が読んだら?といらぬ心配をしてしまう。この時代を同い年で同じ場所でリアルタイムに感じてきたからこそ味わえるものがこの小説にはあると思う。それ以外の人が読んだらどうだろうか、と思う。それはそれでまた別の物語になるのだろうか。

この主人公はとりわけ特色がある人ではないわけで、どちらかというと「彼の周り」の世界が面白かったりするんだけど、それもこの主人公がいたからであって、なんか不思議なんだよね。。

で、あとね。サラリとゲイが出てくるの。主人公と同じ大学へ通う加藤くん(笑)。最初会ったときから「女の子にはあんまり興味ないんだよね~」なんて言っちゃって。だけどはっきりカミングアウトはしない。しかし、主人公が夏の暑さにクーラーがついているという理由で、その加藤くんの部屋に入り浸るようになるんだけど、そこで加藤くんからのカミングアウト(笑)しかし主人公は「タイプじゃないから」と一蹴(爆)そしてハッテン公園にハッテンしに行く加藤くんとともにスイカを食いながら付いてく主人公。だけど主人公はカミングアウトされても驚きもしない。しかも「公園内には入らないから」と言って、公園の外でスイカ食ってるという(笑)なんだかわけ分からない風景なんだけど。

そして、加藤くんのその後の生活が割と早めに描かれる。大学4年のときに知り合ったパートナーとその後同居。同居前に、パートナーが突然病気で倒れて入院したときに、加藤くんがずっとそばにいるにもかかわらず、身内ではないので病院側は親が着くまで病状を説明しなかったり、その後もパートナーは親にはカミングアウトしていないので「こんなときに結婚していれば」みたいなことを堂々と加藤くんの前で話してしまって、加藤くんも「そうですね」、みたいに曖昧な答えをしてみたり、みたいな割と「ありがち」な話が書いてある。で、やっぱり何かあったときに、、と思って同居に踏み切るらしいんだけど。でも、そこには男同士の暮らしが、サラリと描かれてて、それが全然特異じゃないのね。それがとてもね、いいなって思ったんだよね。

こう考えるとこの小説はわたしとの共通点がとても多い小説で、それだからこそ、年代が違う人とはまた別の印象があるんじゃないかなって思う。あとはあのときの東京と今の東京を知っている人。東京を知らない人にとっては、あまりピンと来ないんじゃないかなと思う。

そういう意味で万人受けする、というよりはピンポイントで受ける、という小説じゃないかな、という気はする。ま、わたしなんかそれにやられる方だけどね。しかし、わたしの年代ももう、こういう本が書かれる歳になったんだなあ~ってしみじみ思う。

で、この小説の主人公はどうも透明な感じがしてとらえどころがないなあ~って今でも思ってるんだけど、雰囲気的にはなぜか「桃尻娘」の「木川田くん」を思い出させるのよね。それも木川田くんから見た木川田くんじゃなくて、周囲が見る木川田くんの印象、みたいな。。って難しいかな(笑)
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05-31 Sun , 2009
次郎物語 第5部
昨日「青臭い本を読んでいる」って書いたけど、それは「次郎物語」のことで、これは第1部が一番有名で、それが5部まであるってことを知らない人も多いと思う。でも、わたしはこの物語、最初の方はあまり好きじゃない。なんでこれが「子どもが読むべき児童図書」に挙げられてるのかさっぱり分からない。この話ってのは、第3部辺りから徐々に面白くなってくる、と自分では思っている。まー、わたしも最初に読んだきっかけは多分、児童の読む本として良書と挙げられていたからだと思うのだが、いつ、5部までの存在を知ったのか分からないし、初めて全部読んだときがいつだったのか、さっぱり思い出すことが出来ない。

でも、持ってる第5部の文庫本(新潮文庫)は昭和57年8月で第55刷だから、わたしが中学2年のときに買ったのだと推測される。実は、この「次郎物語」は、3部、4部、5部を先に買っていて、1部と2部が合わさった「次郎物語 上巻」(新潮文庫)は、その後で買い足したものだ。今は多分、「上巻」と「下巻」になっているのだろうと思う。

とにかく最後の方が好きだった、という印象しか持っていなかったが、今回、読み直してみて「ああ、やっぱわたしは第5部が一番好きだったんだな」と思ったのは、第5部の一文にエンピツで線が引いてあったからだ。それは「人間は大事な時ほど大らかでないと、的をはずしてしまうものだ。」という文章だった。いつ線を引いたのかは全く思い出すことが出来ないんだけど、過去にこの本を読んで、いつだか分からないけど、それを読んだときは、そういうことが大いに気に掛かっていたのかと思って少し笑えた。

今、40も一つ越えた、この歳になって、もう一度この第5部を読み返してみると、そんな一文じゃない、この第5部全体に渡って、この本を書いた「下村湖人」という人が、何を思ってこれを書いたのか、それが分かるような気がした。と言っても、この人、第5部を書いた1年後くらい('55年=昭和30年)に亡くなっているので、その後起こった日本の高度成長期なんかもちろん知らないだろうし、もう遠い遠い昔の話なんだけど、でも、今でも通じるところがある、というのは、日本人というものの性質ではなかろうか。

ちなみに第4部は5・15事件で主人公次郎が敬愛している中学校の教師、朝倉先生が諭旨退職、その少し後で次郎自身も中学を退学したところまで、その後、双方の東京での暮らしを描いたものが第5部で、ここには2・26事件が出てくる。いわゆる日本が戦争に突入していく時代を書いているのだが、わたしにはそれが「遠い昔の話」ではなく、むしろ今でも十分に通じる時代にまた逆戻りしているのではないかと、恐ろしい気持ちで読んでいた。

声の大きいものに、何の疑問もなくついて行ってしまう日本人の性質、お上(国)のやることに、今でもほとんど疑問を感じていない日本人の性質、精神論が好きな日本人の性質、そういうものすべてがあの戦争に飲み込まれていった背景ではないのか。

何かに異を唱えるとすぐに「反体制的」と言われる今の日本。反体制的ではなぜいけないのか、国が行なうことは全て正しいのか、それもほとんど考えないで体制側につく日本人。「愛国心」と言えば、国歌斉唱国旗掲揚だと思っている日本人、もっと「国を愛する」とはどういうことなのか、考えた方がいいのではないか。愛するものだからこそ、苦言を呈する、そのような愛し方もあるのではないか。

人間の基本的人権は、国家が保障しているものではなく、人間、そのものに与えられた普遍的な権利である。それを今、学校で教えているか?少なくとも、わたしの目には「昔の方が都合がよかった」と思っている人間に、将来国をになう若い人たちが、何も疑問を持たず、強い方に賛成し、弱いものへは自分の強さを見せつけていじめる、そんな教育を受けさせられているような気がしてならない。

そして、この本の魅力は、、その中で如何に生きていくべきなのかが随所に出てくることだ。確かにそれは一見「弱腰」に思えるかも知れないが、しかし、国全体が狂ってしまっているときに「これが正しい」と言うことは勇敢だけれども、しかしその人間は体勢に押しつぶされて殺されるだけである。そうではなく、来るべき「夜が明けた」ときにいち早く、新しい世界を作るために、自分自身を研ぎ澄ませておかなければならない、というのは、とても理に適ったことだと思う。わたしは今回、この本を読んでここの部分にハッとさせられた、ということがある。ただし著者は「ふたたび同じ道を歩まないように」という思いでこのような話を書いたのであろう。

そして、わたし自身は「いつか来た道」によってものも言えなくなる時代が再び来るとしたら、もうそれまでだと思っている。年齢的に言って、わたしは新しい世界を見ることはないだろう。だから、ますます「いつか来た道」の状態にしてはいけないんだと思う。

日本の教育にはもっと「人権教育」が必要だと思う。「権利が欲しい」と叫ぶ人々に、多くの目は「権利ばかり欲しがって義務を果たさない」と冷たい。それはとても悲しいことだとわたしは思う。なぜ、その人たちは権利を欲しがっているのか、自分はなぜ、その権利を持っているのか、権利を欲しがる人をすべて「反体制的」と非難する前に、「なぜか」ということを、自分の頭を使って考えて欲しい。どこかに書いてある意見をそのまま何も考えずに自分の意見にするんじゃなくて、そこにはどういうものが隠されているのかを考えて、自分の言葉として語って欲しいと思う。

もちろん、このことは誰かに向かって言ってるんじゃなくて、自分自身にも向けられた言葉だけどね。

ちなみにこの「次郎物語」は著者の構想では第7部まであったらしいが、それを永遠に読めないのは返す返すも惜しいところだと思う。わたしは次郎自身にはあまり共感はしないのだけれど、戦争中の次郎(とその周辺の話)と戦後の次郎(とその周辺の話)を読んでみたかった。それは、初めて全部通して読んだときの気持ちと変わらない。

なお、「次郎物語」はネットで全部読めるらしい。ちょっとびっくりしたけど、こういうものがあるとは知らなかった。
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05-20 Wed , 2009
ながい坂
山本周五郎の代表作の一つに「ながい坂」があるが、あるときまでは、わたしはこの作品が山本周五郎の中では一番好きだった。

が、あるとき読み返して初めに読んだ時の印象とちょっと違うことに気が付いて「あれ、こんな話だっけ」と思って、それ以来はあまり好きじゃなくなった。

今、、、もう一回読み返したら、またあのときとは違う印象を持ちそうだと思う。

読むべき本はたくさんあるんだけど、やはりもう一回読もう。
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03-28 Sat , 2009
「ディア・ピョンヤン(Dear Pyongyang)」
「在日コリアン映画祭」の2日目、「Dear Pyongyang(ディア・ピョンヤン)」っていうドキュメンタリー映画が上映された。上映後、この作品を撮った監督さんと、大学教授がトークショーをしたんだけど、そのときに同じ題名(ディア・ピョンヤン―家族は離れたらアカンのや)で本が出ている、というのをその監督さんから聞き、帰ってからAmazonで見たら、新刊でも売ってたんだけど、中古で75円で売ってたヤツを買った。だって、今、金ないし。。(^^;

うちに届いた日に一気に読んだ。正直「童貞の教室」より面白かった。まー「童貞の教室」は読む対象が中学生くらいだからかな。あ、ちなみに同じく「よりみちパン!セ」シリーズの「さびしさの授業」(伏見憲明著)も図書館で注文して読んだんだけど。。。全然面白くない本だった(苦笑)印象としては、何かを言うために発表されている映画や本などのあらすじを蕩々と述べている、という感じがした。それだったら、橋本治の「シンデレラボーイ シンデレラガール」の方がどんなに面白いか。いや、実は同じことを同じ例を挙げて(障碍者のこと)述べてるところがあるんだけど、インパクトが全然違う!これってだた、わたしが橋本治が好きだからってのとはちょっと違う感じがするのだけれど。。まぁこれ以上言うのはよそう(笑)

で、話は「ディア・ピョンヤン」に戻すと、これは映画を観てから本を読んだ方が絶対にいい、と思う。映画を観たときは「なぜ、済州島出身の父親が、北朝鮮を『祖国』とあがめるんだろう?」というのがわたしの謎でもあったが、実はこの映画を撮った娘も同じようなことを思っている。でも、この本には幼い頃の父親の話なども載っているのだが、それを読むとある程度納得ができる。戦中から「金日成」という人が抗日運動の闘士だった、ということ。戦後、北朝鮮が日本に住む朝鮮人に対して「在外韓国人である」と見なしたこと、民族の教育のために膨大な金を日本に送金したこと、こういう背景があって、あの当時は北朝鮮という国に「救われた思い」をしていたこと、こういうことがあって、行ったこともない土地に対して「祖国」への感謝や共感を得ていったこと。

しかし、その「祖国」は自分たちが思ったようにはいかなかった。いつしか、「祖国に帰った」自分の息子たちの、あまりにやせ細った写真を見てショックを受け、物資やお金を仕送りするようになったこと。

監督はついに「息子たちを祖国に帰して、自分たちはどうするつもりだったのか」を聞くことは出来なかった。というか、これが当初親の思っていたようにならなかった、というのが本当のことだろう。あの当時は祖国統一までにこんなに時間がかかるはずはないと思われたし、また、北朝鮮が今のようになるとは想像だにさえしなかったことだろう。今や、北朝鮮に渡った身内は、ほとんど「人質」のようにわたしには思われてしまう。子や孫が不自由な思いをしないために、両親はせっせと物資を送る。これは人間の感情として、当たり前のことだ。北朝鮮に住む家族は、脱北するしか北朝鮮から離れるすべはないのだ。そして、自分らの行動が、もしかしたら北朝鮮に住む家族に何かの影響を及ぼす可能性がある、と分かっているから、もし仮に心の底では「しまった」と後悔していようが、表面上は「将軍さまのおかげ」と褒め称えなければならない。あ、ホントのところは分からないよ、わたしには。もしかしたら今も本気でそう思っているかも知れないし。しかし、本気だろうがウソだろうが、もう取らねばならない態度は一つしかないのだ。

しかし、この本には映画では全く触れてなかった監督自身の結婚と離婚、そして朝鮮学校のことなどが書いてあって、面白かった。ただ、この監督、わたしより歳が4つ上なのね。トークショーで見たときは、絶対にわたしより年下だと思ってた。けど、この本読んでびっくり。なので、この監督が通っていたときの朝鮮学校と今の朝鮮学校はだいぶ違うと思うけれど、でも、ああ、こんな世界だったのか、と思う。朝鮮大学校文学部を卒業したら、必ず朝鮮学校の国語の先生になることが確約され、本人の希望なしで配属が勝手に決められる。そこで「No」というと、別の人が入ることになり、次々に他の人にまで影響が及んでしまうため、「No」とは言えない。朝鮮学校の先生になったら、朝鮮大学校へ何人送り込むかのノルマが課せられ、成績優秀なものは、たとえ本人が日本の大学進学を望もうと朝鮮大学校への進学を勧める、優秀な人材を残すために。実際、今はどうだかは知らないが、この監督が学校に通っていた頃は、そのようなものだったらしい。

大学なのに全寮制で門限は8時。その当時、この監督は演劇がやりたくて、そして演劇を見たいので、毎日のように外出許可をもらわなければならない。最初の1年目は大変だったそうだが、2年目になると判子を押す人も「今日は何の劇?」」って聞くようになってきたというので、やはり、出過ぎた杭は打たれない、ということか。その代わり大学では「変人」扱いされていたようだが。

トークショーの時に聴いたが、ピョンヤンでの撮影は、表向きは「家族のビデオを撮るため」で、映画にすることは一切伏せていたという。北朝鮮の報道陣への規制は厳しいらしいが、家族としてならば、何ヶ所か取ってはいけないところもあるものの、基本的には自由だそうだ。そして、何十本とビデオテープを持ち込んでもそれがダメだと言われたことはなく。ただし、出国の際は、撮ったビデオをぜーんぶ当局にチェックされるのだという。

何年間かに渡って撮影して映画として公表したが、これによって北朝鮮が何をするということはなかったが、どうもこの本を出してから、監督は北朝鮮への入国できなくなったらしい、と言っていた。なので、今は親にも会えない、と。日本に住んでる親にも会えないなんて、この日本で北朝鮮当局の人間が、マークする人物に対していちいちチェック入れてるのかな??と思うが、どうなんだろう?

確かにこの本は、朝鮮学校や北朝鮮(ピョンヤン)の実態、は書いてあると思うが、特に体制批判しているわけでもないし、自分の親兄弟、そして自分のことについて書いてあるだけなのに、と思う。まぁ、本当のことを書かれると困るんだろうけどね、北朝鮮当局としては。水が朝の時間の2時間しか出ないとか、停電はしょっちゅう起こるとか。いいチマ・チョゴリの生地は実は「韓国製」だとか(笑)

しかし、わたしはこの本を読んで、一層映画の中に出て来たお父さん、お母さんの気持ちの理解が深まったと思ってるし、また、日本の中でこのような思いをしている在日の人がたくさんいるんだろうなと思うと、胸が痛くなる。そして、今はまだ、親が仕送りなどをしているが、これは将来、日本に住む子どもに引き継がれるはずだ。しかし、これから何代も何代もそういうことが続くことがないよう、なにか手立てはないのだろうか、と思ったりする。

北朝鮮というと、拉致問題や、核問題、ミサイル問題など、本当に問題山積、という感じなのだが。。そこに住んでいる人たちはごく一部の人を除いては、わたしと同じ一市民に過ぎないと思う。だからこそ、つらいし問題は複雑だ。

ベルリンの壁が打ち壊されたときのように、どうにかならないのかなあ~。。
なんて。自分ではどうしようもないからね、考えたってどうしようもないんだけど。
わたしとしては、今、わたしと近いところでこのような事実がある、ということを認識するしかないんだよね。。
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03-25 Wed , 2009
「童貞の教室」
こないだの「在日コリアン映画祭」で「あんにょんキムチ」を観た後に、監督のトークショーがあって、そのときにこの「童貞の教室 (よりみちパン!セ)」って本が、今日できて、今、10冊ばかり会場に置いてあるからよかったら買ってください、って結構アピールしてたんだけど。その中には「あんにょんキムチ」では撮してない家族のことなんか書かれてる、って言ってたから、あー、それじゃ読んでみたいなと思って、しかし、会場で売ってる10冊はすぐに売り切れてしまうだろうと思って、家に帰ってAmazonで注文してみたんだけどね。

うちにその本が来てから、1時間くらいで全部読んじゃった。てか、これ、子供用つーか、ヤングアダルトの本なのね。漢字に全部ルビが振ってあった。この「よりみちパン!セ」シリーズで、伏見憲明がなんか書いてるのは知ってて、だけど、こんなに1時間弱で読めてしまう本をわざわざ買うのは勿体ないなと思って、うちの自治体の図書館検索したら、どうやらあるらしい。が、今、帯出中なんだそうだ。明日、図書館に行く日なんだけど、返ってきてないかな~。

ってのは、まあ、いいとして。

わたしが「あんにょんキムチ」を観て疑問だったこと。書いてあったことでちょっとは事情が分かったんだけど、要するに、監督が5歳の時に、日本に帰化したらしい。在日一世である彼のお祖父さんやお祖母さんも一緒に帰化書類を提出したんだけど、お祖父さん、お祖母さんは認められず、監督の父母と監督、その妹だけが帰化できたとのこと。で、やっぱり帰化したのと同時に父親が母親方の「婿養子」になったため、名字が「松江」になったらしい。

確かに「婿養子になった」という説明は映画の中でされてた、と思う。けど、わたしの印象では在日一世であるお祖父さんが「松江」姓を名乗り始めた、という印象が強いんだけど。監督自身、韓国に行ってお祖父さんの故郷を訪ねたとき、親戚の人が「なぜ『松江』という名字にしたか」という説明とか受けてたじゃん?だから、わたしはこの「松江」というのは創氏改名でそう名乗ったのだとばっかり思っていた。

だって、お墓が「松江家の墓」でさ、そのとき「家紋を作ってもらった」って言ってたじゃん。で、お墓に松江家の家紋がばっちり入ってたじゃん。で、「家紋は韓国にはないから」って言ってたじゃん。あれ、もし母方の婿養子になったのなら、そのままその「松江家」の家紋まで引き継いでもいいんじゃないのって思ったんだよね。

あ、もちろん、家紋ってのは、父から男の子、母から女の子に伝えるものだと言うことは知ってるよ。だから、監督のお父さんが松江家に婿養子に入ったからと言って、本筋ならば、別にその家紋は母親の家系のものだから、父親は家紋がないまま、ってことになる。けどさー、ってわたしはどうしても思っちゃうんだよね。

それから、監督が妹に「お前、自分の名前についてどう思ってんだよ」と言ったとき。妹さんは「え。松江でしょ」って最初は答えたんだけど、監督から「違うだろ」って言われて「柳って言うんだよねえ」って答えてたから、わたしはてっきり、戸籍名はまだ柳のままかと思ってたんだよね。それがわたしが誤解をした一因でもある。

てなわけで、そこの部分は「よくわかんねーな」ってところなんだけど、まー、個人的事情に入る事柄なのかも知れないから、特にあれこれ詮索しない。けど、あの部分は誤解されやすいと思う。それだけは言っておく(って偉そうな(^^;)。

この「童貞の教室」というのは、この監督が「童貞。をプロデュース」って映画を作ったから、このような題名になったらしく、この「童貞。をプロデュース」というのは、「野ブタ。をプロデュース」っていうテレビドラマ?から拝借したって書いてあったんだけど、もともと民放見ないわたしにとっては、元を知らないわけだから、いくらそれが「元ネタ」であろうと、わたしはそんなこと言われたって、,全然そんなの知らないもん、としか言いようがない(笑)

で、読んでたのね。この監督、23歳まで童貞だったらしいんだけど、16で童貞を喪失したってことにしてたらしい。けど、内心、「自分はまだ童貞だ」ってことがすごくすごく気になってたらしいのだ。わたしなんぞ、その感覚が分からないから、なんでそんなに焦ってるのかよく分からないんだけど、男の世界では童貞は早く卒業すべきもの、なの?女性はその点「処女は守るもの」だよねえ、っていうか、この考えすらもうすごく古いとは思うけど。あるところでは「処女なんか早く捨てたい」って思ってる人もいるだろうし、「いや、結婚するまでは誰とも」って思ってる人もいるかも知れない。まー、いろいろな人はいるとは思う。でも、ここに書かれているように経験ないのにあるフリをする、とか、早く捨てないとカッコ悪い、というところまでは来てないよね?わたしは「世間で思われている処女や童貞」のことについては、詳しくないので、正直分からないんだけど。

自分自身のことについて言えば、わたしは30過ぎても処女だった。だって、誰とも付き合ったことなかったし。そんでも、わたしは別にそれで構わないと思ってたし、だいたい、自慰行為で気持ちよくなることはその前からずっと知ってて、それさえして気持ちよくなれば、別に一生処女でもいいや、とも思ってた。「処女」の定義ってのは、実はよく分からなくて、異性と性交渉するってんだったら、わたしはまだ処女だったりするし(爆)多分、このままずっと一生処女だと思うよ。でも、別にそれでも構わないと思ってるけど。。

で、話としては「普通」ってどういうことだろう、ってことで、監督が日本に帰化したときに「これで普通になれた」と言われ、監督はその「普通であること」に知らないうちにがんじがらめにされていく。「普通であろう」と努力する。で、一方、雑誌に「日本人男性の童貞喪失平均年齢は17.4歳」ということが載っていてショックを受ける。だから16歳のときに童貞を捨てたストーリーまで作ってしまう。

まー、この本は、「童貞。をプロデュース」を撮る話が主なんだけど、最後の方読んでるとね、なんか橋本治の「シンデレラボーイ シンデレラガール」が思い出されてね。そっちの方を読み返したくなった。で、結局、これで何度目になるか分からない「シンデレラボーイ シンデレラガール」なんだけどね、読んだよ、全部。んー、共通点は最後に自分自身のことについて書いてある、というのが似てたのかな、って思う。中身は、、多分全然違う(笑)。

「童貞の教室」に出てくる監督の初体験の話は、リアルで、それがまたせつない。そのせつなさと「シンデレラボーイ シンデレラガール」に出てくる橋本治が高校3年の体育祭のときの仮装行列のハリボテを教室で一人で作った、ってところのせつなさが何故か自分の中で重なったんだよね。なんでか分かんないけど(苦笑)

ってわけで「シンデレラボーイ シンデレラガール」だけど。これ、読むたびに違うところで「うーん」って引っかかるんだよね~(笑)橋本治の中では断トツで読みやすい本だと思う。だって、だいたい中学生くらいを対象にして書いてるし。だからさらっと読むこともできるし、さらっと読むと「あー、なんかいい本読んだ」って気になるんだよ、この本(笑)結局は「人生長いんだから、いつからでもやり直しができる。だから、怖いかも知れないけど一歩、踏み出していこうよ。失敗しても大丈夫だから」って感じかな。だけど細かい目で読んでいくと「あれー」って思うところがあって。

今回、わたしはそれで引っかかってちょっと考えてることがある。「あ、なるほどそうだったのか」と思って目から鱗の部分もあった。んー、この本、橋本治が30か31のときに書いた本なんだけどさ。今、わたしは40なんだけどさ。で、今、橋本治はもう還暦過ぎたはずなんだけどさ(苦笑)

でも、こうやって何度も読んで、そのたびに新しいことを発見していける本って結構好き。

最後はすっかり橋本治の話になっちゃったけど(苦笑)
こんなことやってられる自分は今、幸せだと思う。
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12-18 Thu , 2008
吉屋信子を読む
と言っても、吉屋信子の本を読むわけではない。「ゆめはるか吉屋信子〈上〉―秋灯(あきともし)机の上の幾山河 (朝日文庫)」という本があって、それを読み始めたということ。

あ、吉屋信子というのは、有名な作家で、生涯の大半を門馬千代という女性と過ごし、晩年頃は門馬千代を養女にしたという、まー、要するにその当時はどう言われたかよく分かんないけど、今だったら完全に「レズビアンカップル」だったお二人。

この人について書かれたものはね、既に「女人 吉屋信子」っつー本が'80年代の最初に出ててね、わたしはこの本の存在を知ってから、古本屋で探しまくったんだけど(もう既に本屋には売ってない本だったので)、ホント、神田中の古本屋探してね、ようやく見つけたときはすげー嬉しかったのを今でも思い出す。一瞬、ウソじゃないかと思ったほどだもの(笑)

で、この本、こないだ(といっても少し前だけど)読み返したら、なんかね、この著者である吉武輝子って人は、別にレズビアンではないんだけど、この吉屋信子と門馬千代の「愛」について、賛美しまくり。男女の愛よりも女同士の愛情の方が上なのだー、みたいな書き方がしてあって、わたしは男女の愛も女性同士の愛も男性同士の愛も根本では変わらないだろうと思ってるからさ、なんかその姿勢にはすごーく醒めた。

なんであるものを讃えるために、他のものを貶めなければならないんだろうね。。

ってことで、実はあの本はあんまり好きじゃないのだ(苦笑)ただ、この本が書かれた時期は、吉屋信子は亡くなってたけど、吉屋千代となった人は生きていてね、最後の方で吉屋信子との「女同士の恋愛」については否定っつーか、「明治の女ですから」ってぼやかしてるんだけどね。まー、まだその頃は関係者がたくさん存命してたんで言えなかったのか、本当にこの二人は肉体的な関係はなく、精神的な愛情だけの関係だったのかはよく分からない。まー、そんなのはこっちはどーでもいいんだけどね。ただ、この本の中で、吉屋信子は「同性婚」について語っていたこともあった、って書いてるんだよね。。そして吉屋信子の姪だったかも養子縁組して、吉屋千代の面倒をみてたとも書いてあったんで、一体、どういういきさつで姪が養子縁組されたのかも不思議なところではある。

あーただ、わたしは吉屋信子の作品は、実は一冊も読んだことがなくて。。(苦笑)彼女の著作で有名どころは「花物語」とかだったりするんだけど、なんてーの、女学生同士の儚い思い、みたいな繊細な物語はわたし、苦手でね(苦笑)、読む気が起こらないのだ。それより晩年に書かれた「徳川の夫人たち」なんかの方にちょっと興味があるけど。。まーでも、わたしはあまり「物語」とか「小説」って最近は読まないからなあ。。

で、この「ゆめはるか吉屋信子」は田辺聖子が書いていて、上下巻の2冊あり、今回は中古の文庫本を買ったんだけど、1冊が厚い厚い。上巻だけで約700ページある。「女人吉屋信子」の方は、単行本でもそんなに分厚くなかったので、すぐに読むことができたんだけど、これは結構読むのに時間がかかりそうだ。って今日読み始めたんだけど、ベッドの中で(爆)。そうしたら、知らない間に睡魔に引き込まれてて、寝てしまっていた(苦笑)んー、寝ころんで読むとメガネが邪魔くさくなって取るんだけど、メガネを取ったら、今度は字が見えづらくてね。一生懸命字を追っている間に眠くなるらしい(苦笑)

ってわけで、これからは寝ころんで読まないことにした(笑)

まだまだ読み始めだから、どういう類の本かよく分からないけど、彼女によると(彼女は一回買って読んだんだけど、わたしと一緒に暮らす際に、古本屋に売ってしまったそうだ)「あったことだけ忠実に書いてて、あんまり著者の考えとか書いてない作品だった」って言ってたから、そっちの方がいいかも。とにかく「女人吉屋信子」は女を持ち上げすぎで、気味が悪かったので。(苦笑)
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08-09 Sat , 2008
無理だった
昨日、うだるような猛暑の中、唯一冷房のある寝室で「ひとを“嫌う”ということ」という本を読んだ。この本、実はもうずっと前に買ってあった本で(だって、2000年に出た本だもん)、それでも途中で読むのを挫折していた本だった。

最近、ずっとずっと考え続けていることがあって、それでどこから発見されたのかよく分からないけど、ポッとこの本が出てきた。考え続けていることについて「もしかしたら答えが出てくるかも知れない」と思って読んだ本だった。だから、一気に読んだ。

だけど、分かったのは、この本は初めから「わたしが読む本じゃなかった」ってことだった。なぜなら、この本は「人を嫌うことが罪悪だ」と思いこんでいる人に対して「人を嫌いになるということは、好きになるということと同じくらい人生を楽しめますよ」という本だったからだ。いつのことからか、多分、中学辺りからだと思うけど「嫌いな人と嫌いあえたら、こんなに幸福なことはない」って思ってた自分は、あまりに当たり前のことが書いてあったので、読んでも無駄だった、ってことだ。

しかし、一つだけ改めて分かったのは、「ある人の一部が好きでなくなると、それがどんどん増幅していって、最後には生理的にも受け付けなくなることがある」ってことだった。もちろん、わたしだってそういうことは知っているつもりだった。けど、改めて言われると「そっか」と思い、そして今、わたしが考えている事項については、どう考えてもそれが当てはまらないことだ、ということが分かった。それがなぜなのか、わたしにはよく説明できない。

思い返せば、わたしは人の好き嫌いがとても激しい。そして上にも書いたように「嫌いな人とは嫌い合えればそれは幸福なことだ」と思っている。ただし、それはあくまでも「個人対個人」のことであり、他人を巻き込むことは許されないと思っている。小学校の頃、よくなんの理由もないのに「○○さんを無視しようよ」と言われたことがある。けど、わたしはその人を嫌う理由がないので「どうして無視する必要があるの?」と聞くと、理由も言わないで去る、というパターンが続いた。人を嫌いになるのは個人の自由だけど、なんでそれを他人に押しつけるのか、さっぱり分からなかった。そしてそれによって「もしかしたら自分が無視されるかも」とは全く思わなかった。そういうところで、わたしはとても幸いなことに感覚が鈍いんだと思う。で、それを断わったからと言って、自分が無視された記憶もない。もしかしたら、無視されてたかも知れないけど、そこら辺はよっぽどのことじゃないと気がつかないんだよね、わたしって(^^;

というわたしも一度だけ無視でなく「いじめ」に遭ったことがある。中1のときだ。わたしは小学校は東京だったが、中学進学と共に父親の会社の都合で大阪に行ったのだ。わたしの行った中学は、1学年12クラスという超マンモス校。1学年だけでも500人以上いる計算になる。その中で、わたしは一人だけ「転校生」だった。けど、他のみんなも新しく「入学」したわけで、わたしの「転校」というのはうやむやだった。けど、一人だけ「東京から来た」という理由でいじめられた。まぁその頃のいじめって今みたいに陰湿ではなくて、無視されたり、椅子に画鋲が置いてあったり、輪ゴムを目に直撃されたり(これ、すんごく痛かった)、そんなもんだったけど。。

わたしは学校でいじめられていることは誰にも言わなかった。ああいうのって言えないもんなんだよね。親はどうやら察知したみたいだったようだけど「別になんともない」で押し通したし。でも、やっぱり毎日学校に行くのはつらかった。ただ、唯一の救いがあった。それはクラブ。うちの中学は新設校で、そんなにクラブもなかったんだけど、わたしは美術部に入った。そこでクラスの違う友達ができた。授業中は特にいじめられることもないから気が楽だったけど、苦痛なのは昼休みだった。そこで、わたしは一人で昼ご飯を食べて、あとは1組から自分の知り合いに次々と「挨拶する」ってことを思いついた。12クラスもあったので、昼休み中に全部は回りきれなかった。授業が終わってしまえば、あとは楽しいクラブだから、わたしはその頃は、ホント、クラブに行くために学校に通っていたようなものだった。

結局、いじめはあることがきっかけでピタッとおさまった。クラスの球技大会で、うちのクラスが惜しいところで負けたのね。で、わたし、涙もろいんで、思わず号泣した。そしたら、なぜかいじめがおさまった。今まで無視されていたのが急に話しかけられるようになって、なんだかとっても不思議な気がした。一体、あれはなんだったのだろうかと今でも思う。

まぁ、幸い、いじめを受けたのはこれが最初で最後のことだったんだけど。

確かに「いじめ」はよくないと思う。けど「個人対個人」で嫌い合うのは一向に構わないと、いじめを受けてさえもそう思い続けている。ただ「自分が誰を嫌っているか」を人には言うべきではないと思う。それは、嫌いな相手にだけ通じていればいいことだとわたしは思う。そして密かに嫌いなもの同士、嫌いあっていれば、無駄に話をしなくても済むし、顔を合わせることだって避けられるし、本当に幸福だと思う。

ま、そういうことがこの本に書いてあったので「なあんだ」って感じはするんだけどね。ちなみに人を嫌いになる原因としてこの本では8つ挙げられている。

1.相手が自分の期待に応えてくれないこと
2.相手が現在あるいは将来自分に危害(損失)を加える恐れがあること
3.相手に対する嫉妬
4.相手に対する軽蔑
5.相手が自分を「軽蔑している」という感じがすること
6.相手が自分を「嫌っている」という感じがすること
7.相手に対する絶対的無関心
8.相手に対する生理的・観念的な拒絶反応

わたしの場合は圧倒的に「相手が自分を『嫌っている』という感じがすること」で、嫌い合うってことが多いかな。わたし、他人からの「好き光線」は超鈍感なんだけど、「嫌い光線」には超敏感なんだよねえ~(笑)で、自分からは滅多に「この人嫌い」って思うことはないんだけどね。

で、この本によると、1.~6.が、7.、8.に進行するんだそうだ。それを考えると、わたしは今現在、徹底的に避けている自分の親族に対して、最初は1.から始まり、今はもう8.まで行っちゃった、って感じかな。当分、いや、生涯を通してもしかすると8.のままかも知れない、と思う。だけど、それは人によって変わるんだ、ってことが、この本を読んで分かって、わたしはどうしてもどうしても嫌いになれない人間も存在するんだってことが分かった。

それはわたしにとって嬉しくもあり、そしてつらくもあるんだって、そう思った。

そういえば、今日は長崎に原爆が落とされた日。
去年のようにテレビで「平和祈念式典」を見ようと昨日の晩まで思っていたのに。。。
起きたら、オリンピック(重量挙げ)をやっていて、そっちの方に夢中になってしまったら、気がついたら投下時刻の30分以上過ぎていた。ああ、何やってんだ、わたし。。。やはり、広島の場合は「当事者」で、長崎はそうでないからか。。来年は、絶対に長崎の平和祈念式典を忘れずに見よう。

長崎市長による「長崎平和宣言

長崎が、人類の歴史の中で、最後の被爆地となりますように。
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06-11 Wed , 2008
日本語
今、岩波新書から出ている「日本語(上)」って本を読んでいるの。で、その著者の金田一春彦って人が「日本語は書くだけで性別が分かる特徴を持っている」と書いてあったので、わたし、早速女のマネ(というか、わたしは女なんだけれども(^^;)をしてみることにしたの。

だけどね、この本って3/4くらい読んだところなんだけど、もうウンザリだわ。わたしが知りたかったのは「日本語ってどういう風にできたのかしら?中国語とか、朝鮮語の影響はどの程度まであるのかしら?」ということなんだけれど、読んでいるうちにむかついてきたの(爆)この本、はっきり言って「日本語礼賛」の本なのよ。一等初めの方はそうでもなかったのだけれど。。

ちょっと前の方に「中国語は新しい言葉(多分、外来語と言いたかったのでしょうね)に対して意味ではなく、読み方が重要視されるので当て字に苦労している。功克力(チョコレート、でもわたし、広東語の講義でチョコレートは朱咕力って習ったのよ?)とは『何かの精力剤の名かと思う』」とある意味けなしながら、次のページに「日本には漢語というすさまじい力のあるものを持っている」なんて書いてあるの。読んでると「一体、何が言いたいの?」っていう感じがするわ。しかも語彙が多いと未開の言葉だと言われているらしいんだけど、それについてもなんかごちゃごちゃと言い訳してて、結局は「日本語が一番美しい」ってことが言いたい本なんじゃないかと思って本当はもうあんまり読む気がしないの。。

日本語と比較するのは、絶対にそれより「劣る」と思っている部分だけなのよね。例えば「日本語はひらがなさえ覚えれば、なんでも書ける。しかし、英語の場合は単語を覚えないと文章が書けないから、同じ小学校1年の2学期に書かせた作文の内容は、日本人の方が上だ」みたいなことが書いてあって、唖然としたわ。それを言うなら、朝鮮語は、日本語と違ってハングルしかないから、日本人のそれと同じことが言えるわよね。でもそれとは比較しないの。とっても「ご都合主義」って感じがするわ。

それにいくらひらがなが書けたとしても、小学校1年の2学期じゃあ、大した内容の文章は書けないと思うわ。いきなり「いまのにほんのこっかいは、さんぎいんでよやとうぎゃくてんしているので、ほうあんをとおすさいには、じみんとう(げんみつにいうとれんりつよとう)だけではなくやとうのきょうりょくもひつようです」なんて内容のことは書けないと思うわ。それなのに、何を持って上とするのか、わたしにはよくわからないし、根本的な問題として、どの言語が優れているかなんてすごく馬鹿馬鹿しい問題だと思うのだけれど。。

ということで、いささか腹を立てているわたしなの(笑)
でも読み出したので、あと1/4、頑張って読むわ。でも時間の無駄って感じもしないでもないわ(爆)

今日の晩は、眠りに就く際に彼女がお腹が痛くなっちゃって、帰ってくるまで待っていたの。というか、それまで眠れなかったの。そして、帰ってきたのが分かって「まだ起きてるよ」って言ったの。彼女はそれからわたしが寝るのを見届けてから、またトイレに行ったらしいんだけど、わたしは「まだ起きてるよ」って言ったことしか覚えてなかったの。その後の記憶はないので、寝たんだろうけど「起きてるよ」という言葉のままだと思ってたらしいから、ずっと寝てないつもりだったの。。だから今日はほとんど寝た気がしなかったの。。

そして今日は心療内科に行ってきたのだけれど、不安の気持ちは一切伝えず、眠りのことだけについて話してきたわ。というか、今は不快ではあるけれど、不安で何も手が付かないことはないのよね。でも、抗うつ剤はまだ出てるの。今日、主治医は結構機嫌がよさそうだったから、アナフラニールは飲んでないとでも言えばよかったと後で思ったわ。。本当は出された薬の半分も飲んでいないんだけれど(苦笑)なんてったって、今は3割負担なので、薬代が高いのよね。。ちょっとずつ薬を減らしていることにして(爆)、徐々に出してもらわないようにしなくちゃいけないわね。

今日はWii fitもWii Sportsもやったし、広東語の宿題も半分以上やったし、あとは寝るだけ。。といいつつ、本当は発音練習もやりたかったのだけれど。。できなかったわ。。。orz

明日は出かける予定はないから、頑張ってやるわ!
というか、その次の日はもう金曜日なのだけれど。。(汗)
ちょっと今週は忙しかったって感じかしら。

ああ、女言葉って割と疲れるわね(苦笑)
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07-04 Wed , 2007
女性週刊誌、初めて全部読んだ(爆)
f799f235.JPGえー、尾辻かな子さんが「週刊女性」に出た。(でも、多分、このURLでは、次の号が出るときは変わってるだろう)ってんで、彼女が買ってきた。わたしじゃないっすよ。彼女が買いました(爆)。

実は、女性週刊誌って、わたしは買ったことがないのね。で、美容院なんかに行くとよく目の前に置かれるんだけど、髪の毛切っているときは、メガネを外さないといけないし、メガネ外すと、ほぼなーんも見えないので、読みたくても読めないのだ(爆)

んで、自分で買おうという気すら起こらなかったしー。多分、読んでも訳分かんないと思ったしー。なので、いい機会だってんで、ぜーんぶ読んじゃった(^^;

多分、女性週刊誌にもいろいろ「棲み分け」があって、一概には言えないんだろうけど、読んでみた感想は、、なぜか「皇室ネタ(しかも皇后と雅子さんネタ)」が多い。。しかも、すんごく「好意的」。同じ民間出身である皇后と雅子さんには共通点があるんだろうけど、皇后がいかに皇太后(もう亡くなったが)にいじめられていたかとか、そんなことがバリバリ書いてある。。なんかさー、ホントかも知れないけど、亡くなられた人の悪口はあまり読んでて気持ちのいいものじゃなかったな。生きてるときから、こんなこと書かれてたのかは全然知らないけど。

あとは、いきなり「ハンカチ王子」が出てくるんだもんなー。あれにはびっくりした。「ハンカチ王子」ってこんなに有名なんだ。。どうやら日米大学野球選手権のために渡米するらしいが、持っていたバックのブランドを明かすとか、さすがに女性週刊誌ならではだな。。目の付け所が違う(爆)

それから、なんか書いてあることがバラバラでさ。高島忠夫が鬱から生還、って書いてある割には、誰かからの人生相談で「ダンナが浮気して、うつ病になって。。」というのがあったんだけど、「アナタはダンナの悪口を言い過ぎ。自分が我慢して夫に尽くしなさい」とか書いてある(汗)。うつ病なら、そんなこと言っちゃマズイだろう、みたいな。。

それから、STD(性行為感染症、性感染症とも呼ばれるらしい)の啓発とかもやってんのね。というか、女性ってこんなに遊んでるのかしら。。???まぁ、ダンナの浮気なんかで感染させられることもあるみたいなんだけど、中には「いつ、誰と寝たかなんかよく覚えてないし、彼がいるときも元彼とHしてたし。。」みたいなことも書いてある!!えーと。。何とも言いようがないんですけど。んでご丁寧に「婦人科への行き方」なんてのが説明してあって、中にはわざわざ「これまで何人の人とSEXしたかとは問われません」って(汗)わたしゃ、自分自身のことについてしか分からないけど、これって、一般常識の範疇なのかしら。。???まぁ、STDの中にちゃんとHIVについても書いてあって、異性愛者間性的接触に対するHIVの問題も含めて書いていたってことについては、好印象だったわ。

ああ、あと一貫して感じられたのが「家族の絆」ね。しかもやっぱり「異性愛者」しか取り上げられてないのは、まぁ、仕方ないかしら。その中で尾辻さんのインタビューの見出しに大きく「同性愛者」って書いてあったのが、やっぱ、印象的だったわ。。でもあれ見た異性愛者の女性ってどう思うんだろう??って正直思った。各候補のインタビューももちろん読んだけど、どうなんだろう。わたしにはよく分かんないや。でも、議員年金の質問のところで「この法律は4月1日に廃止されていますが」って答えてたのは、尾辻さんとあと、さくらパパだっけ、わたし、この人よく知らないんだけど(爆)、この2人だけだったわ。。あとの人は知らなかったのか、敢えて言わなかったのか??

あとはドクター・中松氏ですが、彼はこんなところでこんなことを言っている

つか、司会の人に「なんでアナタは知名度があるのに、当選しないのか。もっとうまいやり方があれば当選すると思うのに」って聞かれたとき(だいたい16分30秒くらいのところ)、「わたしは落ちるとか通るとかいう概念でやっておりません」って答えてるんですけど。。っていうか、その次の言葉を聞いてるとどうも「選挙に出ることが大切で、通ったら困る」みたいなこと言ってるんですけど!!これって、都知事選挙に出た某自称ファシスト候補に似てないか?(爆)司会の人も「それを言ったらこちらはなんて答えていいのか分かりません」って言ってるよ。

あ、ちなみに尾辻さんもこの討論(って全然討論じゃないんだけど)のトップバッターで出てくるんだけど、なーんというか、始まったばかりでまだみんなの酒が回ってなかったからか、無難な質問しかされなかった(ような気がする)。のと、やっぱり質問への回答の仕方はうまい。誰か、尾辻さんをいじめてくれ!!(爆)ちなみにこれ

始まってから5分後くらいに尾辻さんが出てくる。ま、余談ですが。でもまぁ、様々な意見があるもんですなあ~。

話が逸れた。

んで、こないだ「FRIDAY」を買ったが(これも尾辻さんがらみで)、この雑誌の袋とじは見事に女性のヌードだったが、女性週刊誌の袋とじって、占いなのね(爆)。いや、この号だけかも知れないけどー。なんかこの差に笑えた。占いとか風水とかそんな記事が満載、みたいな。。あ、あとは広告は圧倒的にダイエットとか化粧品が多かったかな。それから「むだ毛処理」なんかの記事があって、むだ毛ってなんだ!!って感じ。全身が毛に覆われているのは、ほ乳類だからなんだぞ!!とか。あ、そういうこと言っても無駄?(爆)というわたしには、実は、脇の下に毛があまり生えてなかったりして。。ずーっと「一体、いつになったら生えてくるのかしら?」と思ってたけど、ほとんど生えてこなかったのよね。あ、ただし、それ以外は結構毛深いです。指の先にまで毛が生えてるし。しかも、予備校時代にめっちゃ寒い教室の中で授業を受けてたら、腕に生えている毛がものすごく長くなりました。。こういうのって有りなのかしら。。?

それから假屋崎省吾の記事があったけど、最後に「どんだけ~」って。。(汗)これって分かって書いてるのかしら。。

あとは「同性から支持されているJは?嫌われていると思うJは?」ってコーナーがあったんだけど、Jって何かしら(汗)しかも、同性から支持されているって、これって女性じゃなく男性芸能人なのよね。しかも、なぜかキムタク(元カープのキムタクじゃなくて(笑))が「同性から見てもカッコいいと」って書いてあるけど、BAdiの記事読むと、キムタク、人気投票で最悪なんですけど。。やっぱ、ゲイとは感覚が違うのかしら。

また「ニュースの顔」には、なんと「民主くん」が!!なんか、勝手にアレンジされてて”いじられキャラ”になってるって書いてあったけど、確かにあれはいじられキャラだよな。。間抜けな顔してるし(爆)ただ、一体どんなアレンジがされてるのかは知らないけど。

印象に残ったのが、怖~いマンガ。。どうも嫁と姑のマンガらしいんだけど、絵が怖いの。。もう一つのは、ほのぼの系っぽかったけど。こういうの、女性に受けるのかしら??そういえば、今やってるNHKの朝の連続テレビ小説も、主人公がいじめられ続けてて、視聴率が上がってるらしいわね。。わたしゃ、途中で見なくなりましたけど(どーせ、見てたって、最終回まで見られないんだもん。シドニー行っちゃうから)。

しかし、もー、ホントにたっくさんの芸能人のニュースが出てて、わたしゃ基本的にNHKに出てくる人しか分からないもんだから、知らない芸能人のニュースはとばし読みしました(爆)あ、でも「ビリー隊長が来日したときの素顔」の記事は結構面白かったかもー。この人、NHKに出てこなくても、マイミクさんがいっぱい「入隊」してるから、名前だけは知ってるの。。

で、最後の最後に出ました、細木数子。どうやら「さくらパパ」の占い(というのかしら?)をやってるんだけど、その中に「名簿登載順位がどうなるかが問題よ」って書いてある!!だからー、参院選は今は、拘束選挙方式じゃなくて、非拘束選挙方式になったんだってば!!今は順位はないんだってば!!!これって、最早この人の発言云々じゃなくて、編集段階で訂正しなくちゃいけないことなんじゃないか???

というわけで、ツッコミどころ満載の女性週刊誌でした。。もう多分、読むことはないわ、この手の雑誌は。

【画像】関係ないけど、近田春夫の「星くず兄弟の伝説」のCDジャケット。これって、絶対に女性週刊誌のパクリだよね。でも、実はこのCDって結構プレミアだったりする。
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01-26 Fri , 2007
「心理相談室」に行ってきます&「うつからの完全脱出」
ここで少し書いたが、叔母から紹介された「心理相談室」の予約がやっと取れて、今日、行くことになった。うーん、今の状態はかなりよくなってきているので、本当に必要かどうかは分からないんだけど、取り敢えずは行ってきます、って感じかな。
まぁ、あの「怪しげな医者」よりは十分マシだと思ってます(汗)

でも、何を話したらいいのかなー。具体的には何も思いつかない。。向こうから聞いてくれるのかな。

昨日、ちょっといろいろあって、今晩は一睡もできなかった。ので、一昨日(1月24日)に書いていたもう一冊の本を読んだ。

うつからの完全脱出 9つの関門を突破せよ!

って本なんだけどね。この本にはあるクライアントJくんのうつがよくなっていくさまが描かれている本なんだけど、結局、本を通じてこの作者(この人、カウンセラー)が言いたいことは「休息を取りなさい」ってことなんだよね。確かに、休み方が分からないとか、ちょっと調子がよければすぐに行動して、また逆戻り、ってのは、このブログを読んでもらっても分かると思うけど、これはうつの患者にはよく見られることなんだって。(それだけうつ患者は生真面目だってことらしい。わたしも生真面目なんだろうか?(笑))そして何より「焦りは禁物」ってこと。そして「うつは必ず治る」ってこと。あと、周りの人の協力も絶対必要だってこと。

ただねー、このJくんは仕事をしながら、うつを治してるんだよね。だから、仕事をしながらうつを治している人にとっては参考になるかも知れない。それを思うと、一日中、療養できる自分は恵まれてると思うし、周囲の人もみんな自分のうつを受け入れてくれている。彼女はもちろんのこと、わたしの場合は親も理解があるしね。(2回目だからか?(笑))このJくんの親ってのが、また親の理解がなくてね。それに対して非常に苦しんでいるし、Jくんの親も自分の息子のうつを受け入れられなくて、大変そうだった。今、うつと戦っている人で「もう治らないんじゃないか」とか「気持ちがとても焦っている」という人にとってはオススメの本。

そういえば、この本の中に書いてあったことだけど「休むため」には、歌を歌ったり、楽器を演奏したりすることがいいそうだ。全然知らなかったけど、春先に20年ぶりにトロンボーンを吹きたくなったのは、このせいなんだろうか??その割にはちっとも上達してないんだけど(^^;(この本には、楽器がうまくなる成長感、達成感が得られるって書いてあるんだけどねー)

あと、医者はカウンセラーじゃないので、人生相談を持ちかけても無駄だと言うことが書いてあった。医者はとにかく、患者の病状を診て、薬を出す人。ベテランの医者ならともかく、若手の医者は、人生経験も豊富でないので、患者がいくら相談事を持ちかけても、解決できない、と言うのだ。ま、それはそうだよなー。だから、医者にはとにかく今の自分の身体の状況を詳しく説明することにとどめていくように書いてあった。そうでないと「自分の話を聞いてくれない」と思ってしまって、すぐに医者を変えたがる気持ちになってしまうそうだ。

でも、うちの主治医(いつの間にかまた主治医に戻ってるけど(^^;)は、とことんまで話を聞いてくれる。わたしなんか、1時間かけて話し合ったこともある。(だけど、わたしにはその言葉が通じなかった。っていうか、こっちは別に人生相談は持ちかけてないんだけどね。「休め」というのをこっちが頑なに拒否したために、話が長くなっていったのだった)他の人はどうかわからないけど、本当に毎回毎回すごく長く先生と話している患者さんもいる。(予約取ってるから、同じ日の前後になりやすいのよ)ああいう人は、人生相談を持ちかけてるんだろうか??

ただ、前にかかっていた医者は、結構な歳だったけど、確かに薬のことしか話をしなかったなー。こっちが言ってることに対してはメモを取るんだけど。ま、でもそのときも別にわたしは人生相談してたわけじゃないし。

要するにわたしのうつっていうのは、前にも書いたように本当に身体の疲れから来ていて、身体を休ませれば、早く治るはずだったのよね。でもやっぱりうつ病だから、うつ病患者特有の考えをしてしまっていたらしい。

わたしがこの本を読んで一番、印象に残った言葉。それは「人生を『定まったもの』とイメージしないほうがいいですよ。人生は、そんなに思うようには進まない。そのときそのときで、自分らしいほうを選択していく。それを続けていくのが人生です。実は、過去とは自分が選択したものなのです。今ならそれを選ばないと思っても、当時はそれがいちばんと思って選択したものです。」という言葉。まさにその通りと思う。。続く言葉が「その選択に、あとは他人の動きとか、運命とかが関係してくるので、必ずしも素晴らしい過去だけになるとは限りません。これは誰も同じ」はは、まったくもってその通りだな。。

ただ、わたし自身は今までの生き方には、そんなに悔いてはいない。「もうダメだ、どうしよう」と思った時期もあったけど、結局はいい方に転がったし。だから、これからもたとえどんなことがあろうと、わたしは割と楽観視してるんだよな。

ちなみに題名にもあるように、この著者はうつを治すには9つの関門があると考えている。だけど、読んでても今、自分がどこら辺にいるのかがよく分からなくてねー。著書は「最後の最後で、短期だが最大瞬間風速の自殺衝動の嵐が襲ってくる」と言う。それを自分に当てはめて考えると、どうやら11月辺りに2回自殺行動を引き起こしたが、それに該当するんじゃないかと。とすると、わたしはこのうつの関門すべてをもう乗り越えてしまったことになる。うーむ。どうなんだろうか。

この人は

人はどうして死にたがるのか 「自殺したい」が「生きよう」に変わる瞬間

という本も出している。これはわたしが2ちゃんのメンヘル板を読んでいるときに「いい本だ」と書かれていたので、知った。確かに「死にたがるメカニズム」については詳しく書かれていてとても参考になった。2ちゃんもたまには信用できる情報があるのよね。大抵はウソだけど。(爆)まだうつになりたての時だったからね。だけど「自殺したい」が「生きよう」には変わらなかった。

もし、そのメカニズムを知りたいのであれば、これはオススメの本。「なるほどねえ」と思う。だから、これは「周囲の人にわかってもらいたい」ときに読ませる本、と言った方がいいのかも知れない。

あー、今日は久しぶりに朝、生で「芋たこなんきん」を見た。うちは両親とも見ているんだけど、父は「面白い」と言ってみている。しかし母は「主人公があまりにもいい子ちゃんで見てていやになる」と言う。まぁ、わたしはどちらの意見も分かるんだけどね。でも、なんか毎日、田辺聖子の本を宣伝している(もちろん、本当の題名は出さないけど、調べりゃすぐに分かることで)ような気がしてね。NHKで毎朝やってるんだから、すごいCM効果だろうなーと思ってみている。(笑)
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01-24 Wed , 2007
トトロ時計、修理中&「ツレがうつになりまして。」
7f67e064.JPG開去年の1月にトトロの時計を買った。二人が付き合った5周年記念として。それが、年末に電池を入れ替えたんだけど(だんだん遅くなってきたのよね、時刻が)、それ以来、動きがおかしくなってしまって。。画像を見ると分かると思うんだけど、毎正時になったらぴら~っと上の部分が開いて、音楽と共にトトロが踊り始めるのよね。

それが、閉まるときに音楽がものすごく小さく聞こえるようになってしまった。なので、買った時計店(ネットで買ったんだけど)に、彼女がメールを送った。もう一度、電池を抜いて、5分待ってからまた電池を入れて欲しい、5分経てばリセット状態になるので、と言われた。

で、やってみたんだけど、やっぱりダメだった。そのことをまた、時計店にメールすると「保証書と共に送り返してください」って言われたのね。で、保証書を探したんだけど、入っている箱はそのまま取ってあるのに、保証書だけ消えていて、、で、去年の1月22日に買ったので、彼女に「やばいよ、やばいよ。もう保証期限も切れちゃうし。その前にまた連絡取って聞いてみた方がいいよ。22日に買ったのは明らかなんだしー」って言って、またその時計店にメールを送った。

するとなんと、保証書を送ってきてくれるという!しかも、この時計、どうも回路の不具合が見つかったらしく、時計店修理でなく、直接メーカーに送ってくれ、と言う。なんか、めちゃくちゃ親切な時計店。彼女がメールを送ってもすぐに返事が来るそうだし。

で、保証書が時計店から送られてきたのは、20日の夕方。その日の夜にメーカー宛に彼女がその時計を送った。

そうしたら、昨日、メーカーの方から電話があった。向こうで電池を入れ直したところ、正常に作動したらしい。彼女から「年末に入れ替えたのは、新しい電池だったよねえ?」って聞かれたんだけど、正直、よく分かんなくてね。(^^;うち、やたらめったら単1電池があるもんで(トトロ時計は単1電池4つ入れる)、電池箱(その名の通り、電池が入ってる箱のことね)を開いて、多分、適当な単1電池を入れた覚えが。。だけどね、時間がどんどん遅れていく、ってことはなかったから、電池の能力に不足はなかった、と思ってるんだけど。。

「メーカーで回路を見るので、2週間ほどかかります」とそのとき言われたらしい。というわけで、今、うちの居間(っていうか、台所と一緒になってるんだけどね。うちに来てくれた人は知ってると思うけど)には時計がなくて。習慣になってるから、ついつい見てしまう。で見るたびに「あ、ない」って何度も思うんだけど、、時計がないので不便でたまらない。それだけ今までよく見てたんだなーって思ってね。習慣は怖いなあ(笑)

昨日は、ちょっと彼女とあってね。いろいろ話をした。彼女自身、わたしがうつから立ち直りかけていて、どうやって接していいのか、よく分からない模様。前にも書いたけど、一緒に住み始めたときはもう既にわたしはうつ病にかかっていて、正常だったときはない。遠距離の時は正常だったんだけど。で、彼女もわたしも今、わたしのうつの状態が、本当に治っているのか、それともまた悪くなるのか、よく分からない。わたしは「もう大丈夫」って思ってるんだけど、彼女によれば「もう大丈夫」っていうほど危ない、という。最近、彼女が「これ、面白いよ」というので、

ツレがうつになりまして。

という本(絵で描いてあるからマンガだけど)を読んだ。かなりわたしに似ている。(ただ、わたしは「スーパーサラリーマン」ではなかったので。。職場で遊んでばっかいた。もちろん、定時退社(爆))ただ、仕事と社会人野球を観て、それとともに遠距離で彼女と付き合うことになったもんだから、休める時間がなかったんだよね。日本選手権の時なんか、最初の4日大阪に行って(だいたい土曜日からはじまるから、火曜日までね)、それから水曜日と木曜日は仕事に行って、金曜日の朝早くから(だって、金曜日って準々決勝(1日4試合)だから、朝早くから始まるんだもん)家を出て、そして日曜日に決勝を見終えて、それからまた月曜日から会社、ってハードな生活をしていた。(爆)

わたしの有休、20日間あったんだけど、それはすべて野球観戦につぎ込んでいた。当然、夏休みもそうね。5日あったんだけど、3日間は都市対抗を観に行き、あとの2日は日本選手権の県予選を観に行っていた。もうわたしの有休はすべて、野球に注ぎ込まれていた。(あれ、彼女のためには??(笑))

結局、わたしがうつになったのは、忙しすぎたんだと思う。そして、それは仕事じゃなくて(だって、仕事では全くストレス感じてなかったもん(爆))、具体的には身体の疲れから始まっていった。(息苦しさを感じ始めたのが最初だった)だから巷でいわれている「働き過ぎ」とか「ストレスがたまっている」とか、もちろん「精神的に弱い」とか、そんなんじゃないのよね。ただ、単純に身体が疲れてしまった、それでうつ病になってしまったわけ。楽しいことをしていても、うつ病にはかかるのだ。

この「ツレがうつになりまして。」は、ツレがうつになって苦しんでいるときが、わたしと似ていると思う。この本は彼女が買ったんだけど、何度も「これ、分かる~」というところがあったという。実際、わたしは、当事者なんだけど、覚えていないことが多くて。似ているところもあったけど、こんな感じだったのかなぁ~って思ったくらいかな。だから、この本は当事者じゃなくて、うつ病を看病している人にオススメの本。

そして、わたしはもう一冊、うつに関しての本を「これ、参考になるよ」って言われて渡されている本がある。それはまだ、読んでないんだけどね。読んだらまた、意見を書きます。

いや、アクセス解析をいろんなところに仕掛けておいたら、案外、薬の名前で検索してくる人が多くてね。ま、このブログはもともとうつ病ブログなので、、他のうつ病の人に役に立てたら、こんなに嬉しいことはないと思う。

ってわけで、昨日は彼女といろんな話をした。ベッドに入っても、2時間くらいは話したんじゃないかなあ。それでもまだ、話足りなかったんだけどね。「これから二人の関係を再構築させていかなきゃね」ってことになった。

で、わたしのトロンボーン。昨日はちゃんと練習しましたよ。音源に合わせて練習してるんだけど、例の149小節目は、やっぱ指揮者がいないとダメね。ってことは、やっぱTくんと心中、か。(笑)
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01-24 Tue , 2006
ありのまま-ていねいに暮らす、楽に生きる。
この本は、mate!さんから薦められた本である。「京都の法然院の住職が書いた本なので、途中、仏教的な教えも入っていますが、その部分を気にしなければ、なんだか前向きになれる本でした」とのことだったので、すかさず購入。

本の中身は、それぞれ「ていねいに暮らす」「豊かな一日のために」「ともに生きる」「ありのまま」と4章に分かれており、その一つ一つの章にたとえば「おはようございます」「掃除する」などの短いエッセイ風にそのことが書かれている。

一番初めにこの本を読んだとき「掃除する」のところに「同じことを繰り返す日常の積み重ねで人生はつくられているのではないですか」と書かれていて、きれい好きのくせに掃除嫌いなわたしは、ちょっとハッとさせられる言葉だった。そういえばそうなのだ。毎日起きて、朝ご飯食べて、後片づけして、顔洗って、寝て、昼ご飯食べて、後片づけして。。少なくとも今のわたしはこのような生活を毎日続けている。この積み重ねが人生なのだ、と思ったら、いつもは苦になる食後の後片づけも「人生、人生」と思ってそんなに苦にならなくなった。

あとは「お風呂に入る」。わたしはどうしても風呂桶の中に長くは浸かっていられない。風呂桶の中でボーッとするのが我慢できないのだ。それをこの本では自分と風呂の水とを「内と外」という表現をし、「内と外とが溶け合う一体感は、深いリラクゼーション」へとつながる、と書いてある。それを読んで、今までは熱いお湯に一気に入ってパッと出るわたしだったが、少し温めのお湯に浸かって、内と外とを意識している。なかなか一体感は得られないが。。

それから「花を飾る」という項で、花を手向けるということが、自分の命の代わりに、花が自分の命を捧げているという意味を持つ、ということを知って、花を贈るときは自分の命を贈るつもりで、もらうときは相手の命をもらうつもりで、大切にしようと思った。この意味は、自分の中でとても感動した。今まで思ってもみなかったことだからだ。花を飾るということは、花の命をもらうことなのだ。そしてその命をもらって、またどこかに返せばいいのだ。そうやって命は循環し、宇宙のしくみを畏れ敬う気持ちが生まれ、「わたし」はこうして生かされているのだから、今日一日を大切に生きよう、という思いに至るのだ。

この本は最後に行くほど佛教的な教えが簡単に書かれている。そのキーワードは「縁」だとわたしは思う。昨日のわたしと今日のわたしは違う。その違いは自分の身の回りに於ける人とのかかわり、すなわち「縁」なのである。それによって、例えば自分が将来やりたいことが変わったり、思った通りにいかなかったり、逆に思い通りになったりする。でもそれでもよいのだ。それが「縁」であり、そうやって自分の人生に対して真剣に向き合い、努力する。この世の生き方はそれでよいのだ。

法然や親鸞は「この世では悟りは得られない」との結論に達し「他力」を言い「南無阿弥陀仏」を唱えることによって、あの世で悟りが得られる、と考えている。「他力」というのは他人に依存することではない。自力で悟りが得られないために、仏さまの力を借りるという意味で、他力なのだ。先ほども書いたが、人は、この世で自分の人生をただただ一生懸命生きればよい。

「南無阿弥陀仏」の意味も、恥ずかしながらこの本で初めて知った。「すべて仏さまにお任せします」「阿弥陀さまを信じます」そのような意味だそうだ。自分の人生を一生懸命生きながら、この「南無阿弥陀仏」を唱える。するとあの世で悟りを得ることができるということなのだ。

実はわたしの実家は浄土真宗である。熱心な信徒である祖母は毎日3回、仏壇の前に座ってお経を唱えている。折に触れ「阿弥陀さまが守って下さっているんだよ」とは聞いていたが、何しろわたしは無神論者。「はぁそうですか」てなものだった。

だが、この本を読んで、わたしは少しずつ考えを変えられているような気がする。もちろん、あの世で悟りを開きたいわけではない。この世で阿弥陀さまに見守ってもらわなくてもよい。だが、この世で、一生懸命、自分が思ったように生き、縁によってそのときどきで考えを変え、無理矢理に初志貫徹しなくてもよい、自分自身にそんなにこだわらなくてもいいんだよ、という考え方に、そんなに肩に力を入れて生きなくてもいいんだな、と思った。特に、今、わたしは病気療養中で、毎日、同じようなことをして過ごしている。自分の病気がよくなっているのか悪くなっているのかよくわからない。そんな中で、昨日の自分と今日の自分は違う、と言われると、ふっと気が楽になるような気がする。

ただ、一つ分からなかったことがある。それは宇宙観。本にも何度か宇宙とつながっているようなことが書かれているが、それがどういうイメージを持てばいいのかが、わたしにはよく分からなかった。風呂の中での内と外から宇宙をイメージする、命の循環から宇宙をイメージする、しかしそのどれも、わたしにはどうしても宇宙まで想像できなくて、宇宙観の項があったらよかったのになぁと思った。

実家で病気療養中、仏壇の前に座ったのはたったの2回。それを今、少し悔いている。もう少し、座ってもよかったのではなかったのか、と。また、今度実家に帰ったときは、なんか今までとは違った気持ちで仏壇と迎えあえそうだ。とともに、生前に戒名が決まっている祖母。そのことがわたしにはどういう気持ちか信じられなくて「どんな気持ち?」と聞いたことがある。そのとき「ホッとした気持ち」と答えられたが、そのときは訳が分からなかった。でも、それも今はなんとなく分かるような気がしてきている。今年90になる祖母、まだまだ元気だが、きっとあの世で悟りを開けることと、そのことを阿弥陀さまに感謝する気持ち、日常を感謝する気持ちで、毎日仏壇の前に座っているのだろう。

mate!さんには「仏教的な教えも入っていますが」と言われていたが、わたしは見事にその部分にはまってしまった。
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01-09 Mon , 2006
それでも、警官は微笑う
ホント、久し振りに本を読んだので感想を書こうと思う。

この本を最初に見つけたのは、彼女の友達のコンサートに行ったとき、時間待ちしている間に入った本屋さんでだった。分厚い単行本。題は「そして、警官は奔る」。なんとなく題名に惹かれてパラパラと本をめくった。するとその前にこの著者は「それでも、警官は微笑う」という本を書いていることが分かった。もしかしたら、続き物かも知れない、どうせ読むなら最初から読みたい、そう思ったわたしは、それからこの本について調べ、既にノベルズ化していることを突き止め、そして買ったのだった。

この本はミステリーであるそうだ。「こういう話でさ」と彼女と電話しているときに話したら「そういうのはミステリーって言うんだよ」と教わった。それほどわたしはミステリー小説は滅多に読まない。だが読み終わってみると、案外面白く読めた。それは、この本はきっちりと、無理のない伏線が張ってあって、その伏線が矛盾なく使われているからだ、と思う。わたしはこのように伏線をきっちり処理してある本が好きなのだ。また、警察本庁と地方署(というのかな)の関係や、役所の内部の決まり事などが、ちゃんと取材が行われているように思われ、その部分でも矛盾点や作り事を感じさせなかった。

「立派かどうかは知りませんが。後悔って字は、後で悔やむと書く。どうせ悔やむのなら、何もしないでしなかったことを悔やむより、やってしまって悔やんだ方がましだ。やるだけやって、その結果、悔やんだとしたら二度としなければいいだけだ。」
これは主人公である武本巡査部長の父親の言葉だが、この本はこの文章で貫き通されている。武本巡査部長を見習い、出てくる人物が皆、この言葉を信じて、後悔する前にやるだけのことはやるのだ。そこがとてもカッコイイ。無骨な武本巡査部長の魅力が存分に表されている。

この本には、何本かの軸がある。主人公の武本巡査部長と潮崎警部補を軸とする警察の軸、(元)麻薬取締官である宮田の軸、それと犯人である林の軸、犯人である林と林を抹殺しようとする組織の軸。それがあるときは交差し、あるときは離れる。その軸が非常に複雑に絡み合う。また、警察の軸と犯人の軸がいつ、交差するのか。どのようにして交差するのか、最初は交差することなど考えもつかなかった軸が、段々近づく動きは、読んでいて少しも飽きさせることがなかった。そして当たり前ながら、この4本の軸が交差するところがクライマックスである。

また、この本は途中で誰が犯人か分かるようになっている(林)のだが、その犯人も最終的には組織から任務を解かれ、追われる身となり、決して警察の軸対犯人の軸、だけでないところがよかった。犯人が組織からどのようにして逃げるか、いかにしてコンテナの中に隠してある銃を、自分の身を守りながら奪い取れるか、犯人の林が援交の女子高生とSEXしながら、ああでもない、こうでもないと理詰めで自分の身を守れる方法を必死に考える場面は、読んでいて非常に興奮した。(殺されちゃった女子高生はちょっとかわいそうだったけどね)

ただ、このようによくできた本でも、ちょっと作為的だなと思われた部分がある。それは銃を買おうとした暴力団関係者に送りつけられた犯人からの封筒と、同性愛者の片桐に送ってきた銃の箱の中、その両方に微妙ながら茶葉が含まれていた、ということだ。もちろん、それがなければ警察の軸と犯人の軸は交差しない。しかしいくらお茶を飲みながら銃を詰めたとしても、茶葉まで入るか?そこのところが少し苦しかったかな~。

ただ、茶道の家元の次男である、潮崎警部補がその茶葉について、説明するところがある。「これは日本で作られたお茶でもないし、中国で作られた日本茶でもない。この茶葉は非常に珍しいもので、河南省の陽竜銀針だ」と語るところである。もちろん、これはまとめて書いたもので、その都度少しずつ解き明かされていくのだが、その場面も非常に痛快だった。これもきちんとした取材がなされているからであろう。

それと惜しい場面はもう一つ。潮崎がインターネットのチャットで偽名の女の子になり、拳銃入手先の情報を得るのだが、その中に林もいて、早くからその女の子が実は潮崎である、ということをつかむのだが、その潮崎という者が何者であるか、調べようと思ったらすぐに調べが付き、そうしたら警察が自分を追っていることが分かるのに、なぜそうしないかが少し気になった。この部分は最初の部分に近く、林なら即座に手を打つことができたであろうに。物語の中盤に入り、武本と潮崎が林の会社である星和フーズ株式会社に乗り込んで、初めて林は潮崎の名前を思い出すのである。

そして、最後は大団円で終わるかと思いきや、そうではないところにもこの本の面白さはあるとわたしは思う。出てきた誰もがすべて、幸せにはならないのである。また、犯人である林は捕まってはいないのだ。海に車ごとつっこみ、行方不明、ただしどこかで水死しているだろう、程度のことしか分からない。しかし武本は、彼はまだ、どこかで生きている、と思っている。

メフィスト賞という賞を取ったというこの本、わたしのような伏線が張り巡らされてそれを矛盾なく解き明かされていくのが好きな人には、オススメである。少し分厚い娯楽本、といった感じだろうか。

ただねー、一つ言いたかったことがあるのよね。それは「同性愛は個人の嗜好だ」という潮崎警部補のセリフ。決して嗜好なんかじゃない、とわたしは言いたい。嗜好じゃなくて志向、だと。だってわたし、好きで同性愛者やってるんじゃないもんね。
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12-06 Tue , 2005
ぼんち
最近、衝動買いで本を買うことが多い。実はこの本も衝動買いで買った本である。

本屋の少し入ったところに、この本は売っていた。著者は山崎豊子。有名な、有名すぎる作家である。わたしは今まで、彼女の作品の中では「白い巨塔」とNHKの大河ドラマにもなった「二つの祖国」の2つの作品を読んだことがある。この2つとも、読んでは考えさせられ、また記憶に残る作品だった。最近、この人の「沈まぬ太陽」が単行本化され、それを読みたいと思ったのだが、この作品は全5巻もあり、今のわたしにはちょっと荷が重すぎる。それでその近くにあった「ぼんち」が目に止まったのだった。ちょっと厚めであるけれど、全1巻。山崎豊子の作品なら面白いに違いない、そう思いながら、内容も確かめずに買った。

買ってから一番最後のページを見ると昭和36年1月31日発行、とある。なんだ、新しい本じゃないのか、とわたしは思った。新刊書と並んでいたので新刊だと思ったのである。「では一体どんな内容の本だろう」と思ってわたしは読み始めた。

読んだ感想は。。はっきりいってイマイチだった。わたしが本を読むときは、本の中の誰か(主人公が主だが)に感情移入して読む読み方をする。けれどもわたしはこの作品に出てくる誰にも感情移入して読めなかったのだ。原因は簡単。時代背景が古すぎて想像できないのである。船場の老舗の格式、芸者遊び三昧、複数の妾持ちは当たり前、どれも今のわたしには関係がないし、想像が付かない。それだから、イマイチ物語に入り込めなかったのだ。

この物語は、船場の老舗の足袋の卸問屋「河内屋」の旦那である主人公、喜久治とそれをめぐる女たちの話である。時代は大正から昭和の初期、第二次世界大戦直後までであり、祖母、母、妻、芸者、妾、その他いろいろな女たちが出てくる。船場の老舗の格式を重んじる祖母と母、子供を産んですぐに離縁させられた妻、毎日のように芸者遊びをし、これはと思った女を妾にして、その生活一切の面倒を見る、毎日のように妾の家を順々に廻り、酒を飲み、遊ぶ喜久治、そのような生活を描いた話である。

わたしには、この物語のキーワードは3つあると思われた。この本の題名にもなっている「ぼんち」、「女には騙されてもいいが、男には騙されるな」という父の死に際の言葉、そして「幇間(たいこもち)とは、女の道に苦労して、何かものを人に考えさせるような人間である」という言葉、この3つである。

初めの言葉、「ぼんち」というのは良家の甘い「ぼんぼん」と違い「根性がすわり、地に足が着いたスケールの大きなぼんぼん」という意味であるが、主人公喜久治は婿養子である父の死に際に「ぼんぼんになるな、ぼんちになれ」と言われる。そういう点では、妻とは離縁させられたものの、複数の芸者を引き抜いて用意した家に住まわせたり、商売でも新しい足袋を考え、作らせて売らせ、金を儲けたりするので、そのような点では、この主人公は「ぼんち」であるとわたしは思う。

2番目の言葉、「女には騙されてもいいが、男には騙されるな」という言葉だが、これも父の死に際の言葉である。しかし、中番頭の秀助に数万円の金をかすめ取られていたのだが、発覚したときは、もう秀助は召集令状が来た後で、完全に騙されてしまい、結局は「男に騙される」という結果を招く。

最後の3つめの幇間が言った言葉は、逆に旦那に対して「女道楽をしても何かものを考える人間にならねばならぬ」と言い換えられると思う。喜久治も散々女遊びをしたあと、残った4人の女をすべて同じ寺に疎開させるのであるが、戦後、その女たちと手を切るために手切れ金を持って、その寺に向かう。しかし、その寺で4人の女たちがそれぞれ将来の自分の道を考えていることを知ると、女たちには会わず、帰って行く。

本の中ではこの帰って行く場面について、「自分を取り巻く一切のものが潮の引くような鮮やかさで、遠くへ去っていく思いに襲われた」、という言葉で書かれている。要するに、この本ではここで喜久治は本物の「ぼんち」になれたということがいいたかったのだろう。

わたしはこの結末には賛成できる。しかし、心のどこかで「だからどうした」という気持ちがあるのだ。それは最初に書いたように今と時代背景がまったく違うからであろう。一人の人間が複数の人間と肉体的な関係を持つ、たとえそれがまったく違うタイプの人間であっても、わたしはその考えには同意することができない。その時代でのある階級の人間は、稼いだ金はぱあっと遊びに使って豪華に遊ぶ、そうすることが「粋」なことだったのだろう。それらは頭では分かるのだが、実感として湧かないのだ。わたしには、それが「粋」なことだとは思えないのだ。そういう意味で、この本はわたしに対して何の感動も与えなかった。

しかし、一つ思ったことがある。それは日本の美しい言葉がなくなっているということだ。例えば、着物関係の言葉だけでも、たかが40ページの間に、大島紬、博多独鈷、帷子、紗、紋綸子、前垂れがけ、木綿縞、糸入縞貫等と言う言葉が出てくる。これは着物関係だけでなく、髪の毛の結い方だとか、建物の名前だとか、今までわたしの聞いたことのない言葉が、全編にわたってどっさり出てくる。それらの言葉を考えるとき、たとえ、芸者遊び、妾等が受け入れられない自分と矛盾している、と分かっていても、このような言葉を廃れさせた戦後の日本とは、一体何なのだろう、と考えずにはいられなかった。

これがわたしの「ぼんち」に対する感想である。
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12-03 Sat , 2005
<新編>ぼくは12歳
この本を見つけたのは、本当に偶然だった。

実は実家に帰る日に、別の本を買いに新宿の紀伊国屋に寄っていったのだが、そこでふと「ちくま文庫」のコーナーが目に入り、「ここには(橋本)治ちゃんの本は絶対に全部揃ってるよね」と確認しに行ったところ、偶然、この本が先に自分の目に入ってきたのだった。

「ぼくは12歳」。忘れもしない、この本。なぜかというと、わたしも12歳の時に小学校の図書館でこの本を読んだから。自分と同じ歳の人がなぜ、自殺なんかしたんだろう、そう思って読んだから。真四角の全体的に青っぽいハードカバーの本がまざまざと目に浮かんでくる。それが単行本化されたのか。。<新編>となっているのは、ハードカバーのあの本に「未知の若い人々と」という少年の両親と読者との往復書簡を併収してあるからだ、と本の裏表紙に書いてあった。

しかしそのとき、わたしはその詩の内容を思い出そうとしても思い出せなかった。思い出したのは、上に書いたハードカバーの四角い青い本、ということと、自殺した子供は、有名な高史明という人の子供だった、ということだけだった。(どうしてその当時、高史明氏を知っていたかは、今でもよく思い出せない)

25年ぶりに手に取った本である。一体、どういうことが書かれていたのか、今読んだらどんな感想を持つだろうか、と思って買うことにした。

この本は、著者である少年が小学6年の晩秋から、死に至る中学1年の7月まで書いた詩と、小学2年から中学1年までの作文・読書感想文、そして両親が書いた「悲しみの中から」という追悼文(?)と今回新たに併収された「未知の若い人々と」という読者との往復書簡で成り立っている本である。

詩を読むと、その当時の自分と比べてかなり早熟な子供だったことが分かる。きっと内容がまったく思い出せなかったのは、まだまだ未熟だったわたしが、その意味をほとんど理解できなかったからだろう。中には素直にそのまま読める詩もあるが、ときどき「これが小学生の書く言葉なのか?」と思わせる難しい表現などが出てくる。

また、小学校6年の時に書かれた「愛の合しょう」という詩の中ではベンチに座る恋人たちの「チュッ」という音が愛のクライマックスとして描かれている。小学6年でもう「せい春のたび立ち!」という言葉が使われている。でもそこには死を予感させるものは何もない。「かなしい気がする/うれしい気がする/不安な気がする」と「せい春」について無邪気な心で書かれている。

彼には好きな人がいたんだな、と思われる詩もいくつかあった。あるいは好きな人がいるとして想像して書いていたのかも知れない。また彼は、自分が大人になった姿を想像しながら書いた詩も何編かあった。大学に入学したとき、ハタチになったとき、結婚したとき、、

そして彼は「自由」と言う言葉を何度も使って詩を書いている。自由とは一体なんなのか、自分の中に自由はあるのか。最初は無邪気に書かれていた「自由」だったが、次第にそれが悩みとなっていくような気がした。そして何かによってばらばらになっていく自分。「ひとり」と題された詩は悲しい。

ひとり
ひとり/ただくずされるのを/まつだけ

彼は一体、何から崩されようとしていたのか。自由になることに極度に不安を覚えていたのだろうか。それとも段々大人になっていく自分に違和感を感じていたのだろうか。それともまったく、別の意味がそこには隠されていたのだろうか。。

そして彼は「ぼくはしなない」という詩を書いた日に、近くのマンションの屋上から飛び降り自殺をする。これは一体どういうことなのか。「ぼくだけは/ぜったいしなない/なぜならば/ぼくは/じぶんじしんだから」(「じぶんじしんだから」のところに点が打ってある)詩の後半にはこう書いてある。こう書きながらもなぜ、彼は死んでいったのだろう?この世から自由になるために?それとも自分自身になるために?

自分自身のことについては深く考えていたわたしだが、自由という言葉はあまり考えない青春時代だった、と今思う。それだから、今、彼の詩を読んでもあまりピンとは来ないのだろう。

むしろ、わたしには後半部分の両親の「悲しみの中から」や読者とのやりとりである「未知の若い人々と」の方が分かりやすかった。両親の「なぜ我が子は死んでしまったのだろう」と嘆く姿、後悔する姿、「真史くんの気持ちが痛いほど分かる」という読者とのやりとり、中でも父親である高史明氏が、赤ん坊の持つ『本能の知恵』から徐々に成長して行くに連れ獲得される『言葉の知恵』によって、人間は生と死を分裂させ、本能で生きていく動物と違い、あらゆる存在と一体となる道を失っていくと言い、だが『知恵』を超越するものは決して『死』ではない。『言葉の知恵』によって導かれる『死』はやはり『言葉の知恵』から生まれたもので、『死』は『言葉の知恵』を超越することはできない、と述べている。

そして、分裂した生死を『言葉の知恵』によって生きることを、全面的に善とし、万物の霊長と見る見方をひるがえして『罪悪深重』(ざいあくじんじゅう:罪深く、悪重きもの)の身としてみること、で生と死を統一し、他のあらゆる存在と、あらためて生きたつながりを回復してゆくのではないか、と結論づけている。

わたしにとってはまだまだ「死」というものが長く遠い先にあるもの、しかも「生」と絡ませて考えてみたことがないので、高史明氏が言いたいことはよく分かるが、実はこれもいまいちピンとはこなかったのだった。しかし、いつかわたしも「生と死」が身近に迫ってくることがあるだろう。そのときわたしはなんと思うのだろうか。
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11-25 Fri , 2005
僕が批評家になったわけ
やっと読み終わりました、この「僕が批評家になったわけ」(加藤典洋著・岩波書店・1700円)。何でこの本を読みたくて買ったのか、よく覚えていないんだけど、確か毎日新聞の書評欄かなにかに書いてあったのかな。そのときは「この本面白そう」と思って、それで本屋で買ったんだけど。。

読み終わった感想。「とんでもなく難しくて、なに書いてるのかさっぱり分からなかった」でした。だって今まで考えたこともないようなことが、書いてあるんだもの。別に言い訳するわけじゃないけど、わたしは理系だから、批評とか評論とか哲学とかそんなことを深く考えたことないし、とにかく全然知識がないもんだから、哲学者の名前とか、彼らが何を書いてるのか、さっぱり分からなかったし、それを解説している加藤さんの文章もさっぱり分からなかった。。(全然知らない人だけど、すんません、加藤さん)

唯一分かったのは、批評というのは「何かを読んだとき、面白いと感じる。どこが面白く感じるんだろう、また、自分はどうしてそれを面白いかと感じるんだろう」と言うことが批評への第一歩、ということ。文学批評から始まったこと。それが段々別のものへの批評も行われるようになったこと、この広義の意味での批評と言う言葉の中に評論という言葉があること、評論から論考、論文、随筆、エッセイ、コラムなど様々な分野に分かれたこと。

批評のキーワードは「言葉でできた思考の身体」「批評の酵母」「世間という名のスクリーン」と言うことは何とか理解できた。「批評の酵母」というのは何かを読んだり見たりしたりして「面白い」と感じる、その「面白さの根源」のことなのかな、と思ったりしたんだけど。。それでいくと、対談、注、手紙、日記、切れ端、人生相談、字幕・シナリオ、名刺、科学論文、マンガにはその「批評の酵母」があるらしい。

前半の例には「徒然草」の文が多く取り入れられており、どうもこの中にも「批評の酵母」が含まれているらしい。。どうしてその中に「批評の酵母」が含まれているか、そこのところはよく分からなかったが。。

また昔は「誰もが室内の幻灯機に自分の書いたものを写して、それを人に見てもらう」というあり方から、「誰もが空の上に大きく広がったスクリーンに、自分の書いたものを写しだし、それを見ようと思えば誰にも見てもらうことができるので、気持ちとしてはすべての人に見てもらおう、と思って書く」ということに変わってきたこと。それが「世間という名のスクリーン」であるということ。そのスクリーンに投影することが文学等を批評するということ、になるのかなぁ。そういう風にわたしは理解したんだけど。

これらのことは、本の前半に書いてあるんだけど、1回読んだだけでは分からなくて、5回も6回も読んでやっと理解できた部分である。。。

本の後半ははっきりいって、いろいろな哲学者や批評家の名前がたくさん出てきて、たくさんの難しい例を挙げてあるので、ほとんどと言っていいほどよく分からなかった。分からなかったというより読んでいると「ふんふん、そういうことか」と少しは分かるのだが、それを自分の口で自分の言葉で説明せよと言われたら、それはできない、ということである。だから、後半部分の感想は書けない。

あー、しかし、なんでこんな本を面白そうと思って買っちゃったのかなぁ。それが本を読みながら、一番に感じたことだった。そして、この手の本を読んで理解するには、もう少し基本的な文学、哲学、批評、評論等の文科系の勉強をした方がいいみたいだ、と思いながら読んだ本だった。それにこの本の題名である「僕が批評家になったわけ」なんかちーっとも分からなかったし。あー、もう何がなんだか分からないや。今は頭の中がぐちゃぐちゃです、はい。。

追記:結局「僕が批評家になったわけ」という本は、著者である加藤さん(なれなれしげ(^^;)が「自分は批評についてこう考えている」と言いたかった本なのでしょうね。その後、本の全体を考えたとき、そう思いました。
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11-23 Wed , 2005
東京タワー オカンとボクと、時々、オトン
一昨日買った本でたくさん平積みになってた、っていうのがこの本。
なんとなく、ホントになんとなく買ってしまった。
内容はボク、こと中川雅也が記憶を持ちだした3歳頃から、彼のお母さん(オカン)が死ぬまでの話。

著者のリリー・フランキーって人、全然知らないんだけど、一番後ろのページを見ると、どうやら本の中のボクと生まれた歳と出た大学が同じで、やってることも似てる。ということから、もしかしたらこの人の自伝、かもしれない。(あのー、事前知識ゼロで書いてますんで。。)

読み終わった感想。泣きはしなかったけど、ほのぼのとしていい話だったなぁ~という感じ。全体的に読みやすい文章だった。また、時々人生の教訓めいた語りが渋い。「『5月にある人は言った。・・・・・』と言った。」と言う文章が繰り返し出てくる。5月はオカンの誕生日がある月だ。(全然関係ないけど生まれた月日がわたしとまったく同じだった。。)もしかしたら、著者は5月を特別な月と思っているのかも知れない。

内容は先ほども書いたが、ボク、こと中川雅也が、しょっちゅう出てくるオカンと時々出てくるオトンとどうやって暮らしてきたか、という話。ボクとわたしとは歳が5つほど離れており、地方育ちのボクと、最初から東京に住んでいたわたしとは、育った背景が全然違ったので、読んでいて少々違和感があった。なんといってもわたしには都会への憧れ、といったものがないのだ。新宿も渋谷もすぐ近くにあって、電車に乗ればすぐ行けるところにある、普通の街でしかない。しかし、地方で育つと東京はすばらしいところに見えるらしい。

著者と思われるボクは福岡、小倉生まれ。オトンの実家がある町である。そこで3歳まで一緒に暮らすが、4歳になったとき、突然オカンが出て行くといい、著者はそのオカンと一緒に小倉の家を出て行く。引っ越した先がオトンのお姉さんの嫁ぎ先、というビミョーな親戚関係の家で1年過ごすことになる。その後、やっぱり居づらかったのか、オカンは自分の実家である筑豊に出戻りという形で帰って行く。そこは自分の母親が住んでいるところだった。父親はもう死んでいない。ボクとオカンとおばあさんと。3人でそこに住むことになる。オカンは町の料理屋で働いたり、友人が経営するドライブインに勤めたりしていた。

オトンは何の仕事をしているのかボクにはさっぱりわからない。玄関の扉を足で蹴破って、寝ていたボクの口の中に焼き鳥を無理矢理つっこませて食べさせようとしたり、子供をクラブに連れて行ったり、動物園と称して競馬場に連れて行ったり、はちゃめちゃな人だ。時々出てきてはボクをとんでもない目に遭わせる。

ボクはボクでおそらく地方の子供たちが1回はする遊び、すなわち橋の欄干の上を立って歩いたり、どれだけ高い木に登れるかといった度胸試しや、蜂の巣を棒でつついたり、うんこに爆竹を仕掛けてどのくらい逃げないでいられるかを試したり、カエルの皮をはがして肛門に爆竹を仕掛けたり、、、そういう遊びをしながら育っていく。

高校は大分にある美術の学校に行き、一人暮らしを始める。何も美術をしたかったのではなく、今いる自分の街を離れたい、ということからだった。高校時代にはモルモン教徒の同級生に恋をして、その子から聖書を読んで欲しいと言われたり、その後、洗礼を受けて欲しいと言われ、泣く泣く別れたり、学校に行くのをついつい怠り、毎朝先生に迎えに来てもらったりと、そんな高校生活を送っていた。大学への進学はどうしようか迷っていたが、そんなときにオトンから「大学は受けとけ。後から行こうと思ってもいけるもんやない」と言われ、憧れの東京にある、武蔵野の美術大学を受験することになる。

そして大学には見事に受かったものの、毎日がぐーたら暮らし。4年で卒業できなくて、5年目に大学を卒業する。卒業したって定職には就かない。もちろんお金はなく、家賃を滞納しては出て行かされる、の繰り返し。ひどいときは電気も水道も電話も止められて、トイレは近くの公衆便所に通い、電話は公衆電話を使う生活。食べるものがなく、仕方なく腐ったものを食べて上から下からゲロゲロ。。トイレの水は止められていて流れないのに。。とそんな生活を5年続ける。

その間、著者は食べていくために様々な仕事に就き、なんとか人並みの生活ができるようになったとき、オカンの甲状腺と声帯にガンが見つかる。声帯は取ると声が出なくなるので、甲状腺のガンだけ取り除き、声帯のガンはヨード治療で進行を抑えることにする。

退院後、「冥土のみやげ」と称してオカンの姉妹とボクとボクの従兄弟でハワイに行ってぎゃーぎゃー騒いだりして、とてもガンにかかっているとは思わないオカン。母親が死んだ後も実家で独りで住んでいるオカンにある日、鎌倉からオカンの弟の夫婦が戻ってくる。ボクもボクで今住んでいる家の持ち主が戻ってくることになり、出て行かなければいけなくなる。

「東京に出てくるか?」ボクはオカンに言う。弟夫婦と言ってもやはり一人暮らしとは違い、気を遣う存在である。オカンは1週間考えさせてくれ、といい、そして「東京に行っておまえと一緒に暮らす」という決断をする。

その後、さらに仕事が入ってきてそれなりに過ごせるようになったボクの家は、オカンが作る手料理によって絶えず人が出入りし、にぎやかになる。そんなとき、オカンにまた、ガンが見つかるだった。。

とまあ、あらすじを追えばだいたいこんなような話だ。自伝(に近いもの?)なので、最後に「だいぎゃくてーん」ということもなかったが、最後のところのオカンのボクに対する遺書、オトンに持っていた複雑な気持ちが、淡々と、感傷的になることなく、さらっと書かれているので、とても読みやすく、ストレートでまっすぐに自分の中に入ってくる話だった。

が、一つだけ気になるところがあった。それはボクがまだ小さいときに小倉のおばあちゃんが誰かに「生みの親より育ての親っていうけんねぇ。。」というところだ。ボクも読んでいる人もずっとそれが気にかかるようになっている。しかし、全部読むとボクは絶対にオカンの子供である、ということが分かる。それならなぜ、小倉のおばあちゃんがそのようなことを言ったのか。そこがよく分からなかった。まあストーリーを面白くしているといえば、そうなのだが。。それだけが少し気に入らなかったかな。全体的には比較的楽に、楽しく読める、という感じの本だった。
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11-20 Sun , 2005
石に泳ぐ魚
柳美里が書いたこの本、作中人物のモデルとなった人物が裁判所に訴え、それが話題になったことは覚えている。わたしは内容についてはあまり詳しくは覚えてないのだが、確か顔のあざか何かについて、プライバシー侵害として訴えたんではなかったんだっけ。また、今回のこの本は、裁判中に柳美里が「改訂版」として裁判所に提出し、これも原告側は訴えたが、棄却されたという。文庫本となったこの本は、その「改訂版」である、と本の終わりに書いてあった。

読み終えた感想。率直に言って「結局この本、何が言いたかったの?」「なぜ著者はこういう題でこういう小説を書いたの??」
確かに「改訂版」であり、削除された部分も数カ所あるだろう。おそらくそこのところを少し削いでしまったのではないか、わたしにはそういう風に思える。主人公と里花の関係が急に親密になっていくところが説明不十分でよく分からないのだ。主人公は最後に新興宗教にはまってしまった里花に言う。「わたしにとってあなたは魔除けなの」と。そして里花と柿の木の男だけが憎しみを介在させることなく触れ合うことができたのに、と。それを思わせるまでの主人公と里花の関係がよく分からないのだ。

問題となって削除されたと思われるところは読んでいて「ああ、こういうことだな」とすぐにわかった。里花の顔の右側には魚の形をした痣か何かがあったのだろう。そういうことを匂わす文章も改訂版には書いてある。「私は、自分の顔の中には一匹の魚が棲んでいるって思ってたの・・・小さい頃からずっと・・・ずっとね」というところだ。また、里花はその魚が棲んでいることによって今まで自分は「ずっと演じてきた」と思っている。

しかし、何を演じてきたのか。ゲイであるとされる演出家の前島には「今まで演じてきたなんてとんでもない。あなたは自分以外になれないように宿命づけられているの」と言われる。里花はそれには答えず、逆ににこにこして主人公に「いつかあなたの書いた台本で自分が演出して主演するわ」と主人公に言うのだ。里花の顔に魚が棲んでいることについて、里花自身はどう思っているのか、そこのところの説明がもう少し欲しかった。そうすれば、主人公との関係も少しは理解できたかも知れない。

しかしゲイというとなんですぐオネエ言葉になるのだろうねえ。。今まで普通の言葉遣いをしてきた人がですよ、里花に「役者になれない」っていうところで急にオネエ言葉になるんだもん。しかもこの人、「ゲイ」じゃなくて「ゲイということになっている」ってただ書かれているだけなのに。んじゃあなにか、この人は「ゲイである」ことを演じているってことなのか??と思っちゃいましたよ。あ、これは細かいことですが。(^^;

「石に泳ぐ魚」ということで、魚が出てくるシーンは結構たくさんある。「夏の夜の通行人は性別がはっきりしない魚のように見える」だとか「戸口の上の方に吊されている魚の干物」だとか「何処かで魚を解体している匂いがする」とか「釣り針にひっかけられた魚のように身を捩った」だとか。里花が武蔵野美術大学の大学院を受験するときの作品の一つも魚であるし。これで里花が魚に固執しているということが理解できる。しかし一番は、一番最後に出てくる新興宗教にはまってしまった里花の「顔の中に棲む魚が嘲笑うように跳ね上がった」というところだろうか。しかしそれと石とがどうしてつながるのかがよく分からなかった。

あと主人公も「私は何故水と魚の記憶に囚われているのだろう」「私の脳内のフロッピイには太古の記憶まで保存されているのだろうか、そこには透明な水の中に一匹の魚が棲んでいる」と考えているが、これは唐突すぎて、なぜそこでそのようなことを思うのか、それが何を意味するのかがわたしには分からなかった。もしかすると里花の顔の中に棲んでいる魚と主人公の脳内にいる一匹の魚、それが両方に共通するものだった、だから主人公と里花は親密になったのだと著者は言いたかったのかも知れない。

一方、その主人公だが、、なぜあんなにSEXしたがるのかねぇ。。(と前にも違う本の感想に書いたような気がする)お腹に子供ができたけど、それがお腹の中で死んでて手術することになったりするんだけど、ああいうのってなんか意味があるんだろうか。その分、SEXせずに隣に寝るだけの男だった「柿の木の男」がなぜか重要な位置を占めてるんだよねえ、里花と一緒で。一番最後のシーンも新興宗教にはまった里花とともに、なぜか死んだと思っていた「柿の木の男」も一緒に出てくるし。本には、主人公にとっては「憎しみでこの汚濁しきった世界とつながってきたが、この2人だけは憎しみを介在させることなく触れ合うことができた」と書いてある。あ、そうか。主人公にとってはSEXする男や父親、母親、その他今まで付き合ってきた友達=憎しみで汚濁しきった世界、なんだ。だから主人公は世界とつながるために人を憎み、また男とSEXしてたんだ。

うーん、なんかまとめようがなくなってしまった。

まあ全体的な印象としては、伏線も何もなく、比喩が多く使われ、すーっと物語が進んでいく、矛盾したところは見あたらなかったけど、なんかじめじめした文章で、結局著者は何が言いたかったんだろうなーという感じの本でした、というところかな。もしかしたら著者は「憎しみ」と言う感情にこだわったことを書きたかった、とも思えたりするけど。。だけどわたしはこういう文章、こういう小説は苦手だなぁ。
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11-18 Fri , 2005
女ひとり世界に翔ぶ
実はわたしが仕事を辞めたのは、彼女と一緒に住みたいっていうのが第一の理由だったけど、国際社会で働いてみたい、っていうのも理由のうちの一つだった。それまでが狭い世界で働いてて、ずっとこれが続くのかなって思ってたから。

だからインターナショナルな仕事ってどういう感じなんだろうって興味津々で、それだから彼女から彼女がこの本を読む前に奪って持ってきた。

読んだ感想は、、「すごいなあ」の一言。著者の小野節子さんという人はオノ・ヨーコの妹、というだけじゃなくてひいおじいさんが安田財閥の創始者、おじいさんが元日本興業銀行の総裁、父親が元東京銀行のニューヨーク初代支店長、また叔父と従兄弟に画家と彫刻家がいて、伯母がバイオリニストというすごい家系。なんか最初からスタートラインが違うって感じがしたんですけど。。

日本の大学を卒業後、著者はスイスのジュネーブにある大学院を博士課程まで進み、同級生だったイタリア人の人と結婚する。結婚後、ほどなく習慣の違いから離婚を決意、ワシントンで職探しをするのだが見つからず、日本に戻ってくるのだが、そこで学者でもやろうと思ったところ、思わぬことに遭遇する。その前に願書を出していた世界銀行に就職が決まったのだ。といっても推薦者がすごい。東京銀行の初代頭取、推薦してもらったときの頭取、と偉い人が身近にぞくぞくといて、その人達に推薦してもらい、そこから世界銀行の理事に挨拶に向かう。するとすんなり就職が決まったのだった。普通の人ではこうはいかないだろう。

イタリア人の夫とは離婚しようと思っていたが、ちょっとした運命のいたずらで離婚には至らなかった。彼女は言う。「結婚後25年は哲学者デカルト生活をともにしているような感じで、しっくりなじむようになったのは50代半ばを過ぎた、ここ4、5年だ」と。

その後、モーリタニアという国を8年間担当し、いろいろな投資を行う。当時は無駄なことだと言われたりもしたが、結果的にはその国のためになっている。しかし時代はアメリカ中心に動いていて「ワシントン・コンセンサス」という保守的なマクロ経済担当の促進と市場の発展を原動力にする考えが起こるようになっていった。先進国は行政の縮小、民間主導への転換を行うことによって競争力を高め、発展することができるが、発展途上国はそうはいかない。まず、公のものを作って、そこから国民を指導することによって、その国が発展していく。それをやらずに無理矢理民営化したり、独裁者政権に金を貸す。すると国民全体にはその金は行き渡らず、民営化した会社、独裁者のみがその金で潤うことになる。発展途上国に「ワシントン・コンセンサス」を持ち込むべきではない、と彼女は考えている。

著者は一貫して銀行の中の政治とは無縁な存在でいようとする。しかし、日本の大蔵省(現財務省)からはやっかいものとされていたり、自分の今後のキャリアに生かそうとした人間しか来ず、本当にその国のことを考えて行動するような人間はいない。また、著者のような民間から来た人間のことは「バナナ」(表は黄色いが中は白い)といって2級白人のように見られて、同じ日本人に馬鹿にされる。彼女は一生懸命、国際社会での日本の立場をあげようと努力するのだが、そういう人達によってそれを阻まれてしまう。日本人ばかりではない。外国人にだって同じような考えの人がいる。自分の頭を越えて上司に自分の悪口を吹き込まれる、そうするといくらその世界で実績を上げていようが、降格人事にされてしまう。

そんなこんなで著者は世界銀行から米州開発銀行に押しやられる。いつか世界銀行に戻るという約束をつけて。しかし、そこでも同じような目に遭う。しかし、彼女だって負けてはいない。いろいろな人脈を駆使して(だいたい、同級生のダンナが橋本龍太郎だったりするんだから)、またオンブズマンに相談して、立場を守ろうとする。そこが彼女のすごいところだ。彼女の思うところはたったの2つ。自分の担当した国をよりよいものにすること、国際社会に置いて日本人の地位を上げること。そのことを思い、必死で奮闘するのだが、なかなかうまくいかない。日本の外務省のポストにそう簡単に民間人は入れないのだ。結局米国開発銀行には10年いることになり、世界銀行には強引に戻るということになってしまう。

世界銀行では彼女は運営委員会の事務官という立場になり、組織開発基金(IDF)の政策、指針が各地域で的確に実践しているかの監視を担うことになる。この仕事はやりがいがあったそうだ。

また、米国開発銀行で不遇の立場に置かれている間、彼女は近くの芸術大学で木や鉄の彫刻をして、芸術活動も行っている。それが評価され、キューバのハバナのビエンナーレに作品を展示することになる。本当にすごい人だ。

この本を読んで思ったのは人間言うべきことは言う、やるべきことはやらねばならない、ということだ。もちろん、著者は上に書いたように、この世界の実力者を知っていて、その人達に協力してもらいながら事を進めている。これは何も後ろ盾がないわたしのような一般人には無理なことだろう。そういう意味で恵まれた人だとは思ったが、やはり「信念の人」というのが一番の感想であろう。

振り返って自分を考えてみると、これからすべてが始まる、ということだ。それに向かって努力ができるか。本当のところ、よくわからない。英語だってもうほとんど忘れているし、その上他の言語となれば、かなりの努力が必要だろう。人脈も作らねばならないだろう。その上、鬱病がまだ治りきっていない。要するにわたしはまだまだスタートラインにさえ立っていないと言うことだ。

きっと1ヶ月前にこの本を読んでいたら「絶対わたしには無理だ」と思っていたことだろう。しかし今はなんとかして自分のできるとっかかりを探したいと思っている。まだまだ遅くはない。(と思いたい)早く病気を治してやれることを見つけ、コツコツと努力していきたいと、今はそう思っている。この本はそう感じさせてくれる本だった。
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11-16 Wed , 2005
となり町戦争
いや~、びっくりしましたね。著者が男か女か分からず、googleで「となりまち戦争」と検索したらざくざくと本の感想が。ま、文学賞取ったから当たり前かも知れないけど。それを読むと自分の感想が書けなくなっちゃうから、全然読みませんでした。だから男なのか女なのか未だに分からず。男だって言う話もあるけど。

ま、それはともかくとして本の感想だが、一番最初読んだとき、最後までどうなるんだろうと思って眠らさなかっただけに面白い本の部類には入るんだろうが、よく読むとやっぱり分からないところがいくつか。気に入らなかったところがいくつか。逆によく書けていると思うところもいくつか。

まず本人が公務員だけあってよくかけているなあと思ったのは、辞令交付式の場面。あれって本当に仰々しいお盆に乗せて辞令を運んでくるのよね。また、立ち位置の描写なんておかしすぎて笑ってしまった。ああいう些細なところにこだわるのがお役所なのよね。また、役所から来た文章、辞令等がそのまま載っかっているのもリアリティ十分。

それから「なぜ戦争をしなければならないか」についての説明。あくまでも「殺人」でなく、「今後の町の発展のため、今後の行政のあり方を見据えての戦争で殺人ではない」という姿勢を崩さない。主人公は一貫して「なぜ戦争をしなければならないのか」にこだわり、役人であり、偽装結婚(?)までさせられた香西さんに「役人としてでなく個人としての戦争とは」を突きつける。役人としての仕事と個人としての考えは違う、ということを役人自身が持っていることがある、という一種の「つらさ」が共感できる。

また、地元説明会のとき。区長に先に根回ししておいた部分は非常に笑える。役所の会議ってめちゃくちゃにならないように、最初に重要な人に会議の「落としどころ」を説明しておくんだよね。で、結局「もう戦争をやることに決まっているんだ」の一言で地元説明会が終わってしまう。あとでお礼を言うところなんかもうブラックジョーク以外の何者でもない。

あとは業務分担表を作って主担当と副担当を決めるシーンとか、取得実績のためだけに家族経営をしているところでも登録業者であれば入札してくること、について役人があれこれ言うシーンがとても「お役所的」で笑えた。

次に読んでいてよく分からなかった部分。主人公は一貫して「この戦争になんの意味があるのか」を問い続ける。「なぜとなり町と戦争をしなければならないのか」にこだわる。となり町からの戦争公社の査察を逃れるためにいろんな指示に従い、いろんなところに行き、いろんなところに連れて行かれる。しかしそれには主人公は戦争のリアリティを感じることができない。ようやくリアリティに感じることができたのは、香西さんが何かを失いかけているかも知れないと思った部分と自分が香西さんを失う部分、この著者は「戦争とは失うこと」だと結論づけたかったのか。

また、些細な部分では主人公を自分の町まで送り届ける車はなんだったのか。本で香西さんは町職労の関連労の青年部に協力してもらうとあるが、果たして主人公の乗った車の運転者と補助席に座っているものはその者だったのか。町職労の青年部はとなり町の青年部だったのか(どうかんがえても舞阪町の青年部ではないよなあ)、また段ボールに入った遺体を受け取るとき、どうかんがえても主人公の会社の主任だったということ(なぜ敵と味方が一緒になってんの?)、自分の家が戦争公社によって査察を受けたとき唯一なくなっていたものは「闘争心育成樹」だけだったが、それがどうして最後に香西さんから返されたのか(香西さんは家に帰らないと育成樹を取れないし、またなぜその育成樹だけを持って行ったのか)、そこのところが説明不十分でちょっと分かりづらかった、というか分からなかった。

あと、気に入らなかった部分は、香西さんが主人公と業務とはいえSEXするところ。あれは主人公が戦争をリアルに感じることができることへの伏線、香西さんを失いたくないと思いはじめる伏線の一部だと思うが、業務で結婚したとはいえ、そこまでやる必要があるのか。SEXとはそういうものなのか。そういう伏線の張り方しかなかったのか。男女のSEXを知らない、本当に好きな人としかSEXをやりたくないわたしにとって、そこのところが少し理解できなかった。

とまあ、褒めるよりけなした方が多い感想だったが、それはわたし自身が無理のない伏線の張り方、小説の結論を求める、という読み方しかできないためであって、それを考えると気楽に読める小説、くらいの評価かなぁ。。しかしモノが戦争のためにそう気楽に読めた、ということもないんだけど。うん、やっぱり一番大切な主人公の戦争への思いがよく分からなかった、という部分でちょっとイマイチ、という評価にしておこう。
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11-14 Mon , 2005
違和感
昨日、「卒業まで死にません」の感想を書くか書かないか分からない、と書いたが、この本を読み終わってどうも違和感が生じてきたので、ちょっとそれを書いてみたいと思う。

まずタイトルの「卒業まで死にません」についてだが、最後に婚約者に託したという4編の詩を読むと、確かに彼女は死にたい、死ぬつもりで書いたと言うことが分かるのだが、本文の日記を読む限り、死にたいと思っていたとは到底思えないのだ。(本にはこの題名をつけたのは日記に「卒業まで死にません」と言う記述が何度かあったと書かれていたが、本に収録されている日記にはそのことは一つも触れていない)卒業までの数ヶ月間、彼女は薬を飲んでは眠り、また薬を飲まなくても眠り、学校へ行き、友達と遊んだり、カラオケで3時間も4時間も歌ったりする。そこには深い絶望感も死に対する欲求も描かれてはいない。(まあ友達と遊びまくるということが深い絶望感につながっていると考えたら考えられるが)3月17日で彼女の日記は終わっている。しかし最後まで彼女は死にたいと考えていたとは思えないのだ。確かに2月に1度、父親と言い合いになり、ビルから飛び降りようとしたことが書かれている。しかしそのことよりも、飲みたい薬を飲みたいだけ飲んで、寝る。自分の欲しい薬をどうやって手に入れようか、どう医者に説明すればそれが手に入るか、薬を処方してもらい、容器に入らなくなるまで薬をため込む。それが死とつながっているのか。

解説に香山リカが書いている。もし自分が彼女の担当医だったら、と。「表情は豊かで疎通性は良好、話にもまとまりがあり、奇異なところはない。言語化の能力は高い、自分をある程度、客観視できるようだ」そして彼女には「南条さんは自分のことをきちんと言葉で語れる人のようですね。理解力も高いみたいだし。では、これからあなたの話を手がかりに、一緒にどこに問題があるかをさぐってみましょう。ここでは思ったことを何でも話して下さいね」と話すだろう、と。しかしこの時点で自分は一つの失敗をしている、と。彼女にそれを言うことで「相手が自分に何を期待しているかを素早く察知し、それに合わせて行動してしまうようなタイプです。わたしがこう告げたことにより彼女は『理知的で話し上手な女の子』の役割をいやでも演じなければならなくなるのです」と。

そうなのだ。彼女はきっとネットで自分の日記を発表することになってから、ネットアイドルを演じつづけたのだ。そして現代のちょっとイカれた女子高生を演じ続けたのだ。わたしにはそうとしか思えない。彼女は自分の日記でさえ、自分の本当の思いをつづることはできなかったのではないか、と。

しかし、わたしからすると彼女はどうしても鬱病だったとは思えない。(本にも彼女が鬱病だったとは書かれていないが)どちらかというと人格障害だったのではないか。リストカッターだったというのもそれを物語っている。リストカッターと自殺志願者は違う。リストカッターはどちらかというと自分を傷つけて、自分が生きている証拠である赤い血を見て安心する、また、他人にその傷をわざと見せるために行う。自殺したいのなら、静脈ではなく、動脈を切るだろう。現にわたしが最も病状が悪かったとき、首の頸動脈を切りたいと思っていた。車が急に自分めがけて飛び込んできて死ねないかな、と思っていた。自分がこの世にいることが許せない気がした。とにかくどんな方法でもいいから死にたかった。(薬を貯めてまで死にたいとは思わなかったけどね。どうせ薬を大量服薬しても死ねないのは目に見えてるし)

それがどうして彼女は死んでしまったのだろう。本当に彼女は死にたかったのか。そこのところがどうしてもわたしには分からない。そしてこの本を読んだあとに違和感が残ったのだ。

ちなみに彼女は寝るために実にいろいろな薬を自分でチョイスして飲んでいる。そしてそれはとてつもなく効くのだが、実は薬を飲まなくても眠れている。現在、早朝覚醒で悩んでいるわたしにとってそれだけ眠れる彼女はとてもうらやましいし、彼女は本当に薬を飲む必要があったのかなと思っている。

その眠れないわたし。今日は2時半に目が覚めてトイレに行った。「トイレに行ったら眠れない法則」に従って、追加の睡眠剤を飲んだがはっきり言ってその後はほとんど眠れなかった。わたしにとって、今の一番の悩みはこの早朝覚醒であり、これさえよくなればほとんど病気が治ったのと同然だろう。(もちろんまだまだ薬は飲み続けなければならないことは確かだが)ああ、6~7時間続けて眠ってみたい。。
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11-13 Sun , 2005
本が読めた!
昨日はその前の夜、眠れなかった割に昼間も眠れなかったので、思い切って町に出て本屋に行ったりドトールでコーヒー飲んできました。ま、帰ってから少し寝たんだけどね。

本屋では橋本の治ちゃんの「『三島由紀夫』とはなにものだったのか」が文庫で出ていて、ちょっと心が動いたんだけど、以前彼女からこの本の単行本を借りて読んだとき、ちいとも分からなかったことを思い出して、結局止めました。(苦笑)彼女、まだこの本持ってるかなぁ。持ってたら再度、挑戦してみよう。最低でも「同性愛を書かなかった作家」の部分だけでも。

で、ちょっと気になる本があったんだけど、どーせ読まないだろうな~と思って一旦本屋を出て、その近くにあるドトールでコーヒーとスイートポテトを食べて。ほげ~っとしてました。隣のおばちゃんらの団体をちらちら眺めたりして。で、やっぱりさっき気になる本がもっと気になってきたのでドトールを出てからもう一回本屋に戻り、その本を手にとってどうしようか迷ってました。

その本の名は「卒業式まで死にません」。2000年8月に単行本が刊行され、それが今、文庫として本屋の本棚に並んでました。高校を卒業してからたった20日で死んでしまったリスト・カッター、薬物依存者、ネットアイドル、、いろんな面を持つ彼女の日記。ある意味、有名過ぎるほど有名な著者の南条あやのこと、わたしはいつの間に知ったのでしょうか。よく覚えていませんが、自殺したのが1999年なので、もう6年も経っているんですね。

で、結局その本を買ったのは、今、自分が飲んでる薬のことが書いてあったってことが一番の理由かな。何となく親近感が湧くというか。。でも6年前ってまだSSRIやSNRI(注:今、抗うつ剤として主に使われている薬)がなかったのね。ちょっとそれには時の流れを感じましたね。

帰りの電車の中で読みふけってたんですが、最初の方に書いてある別冊宝島に載ったという文章を読むと、元来リストカッターどころか血を見るのもイヤ(だけどかさぶたをむくのは好き)、注射を初めとする医療器具も大嫌いなわたしにとって、彼女の取った行動を読むともう気持ち悪くて。電車の中で何度本を閉じたでしょうか。表面の皮だけでなく静脈まで達すると15センチくらい血が吹き上がるとか、出てきた血をバケツに入れてトイレに捨てに行くとか、そういう記述の場面はもう気持ち悪くて。吐きけさえ催しました。

本文の日記に入るとそういう過激な表現はなくなりましたが、でもこの人、どういう薬の飲み方をしてるのか、自分の好きな薬をチョイスして飲む、粉にして鼻から吸う、先生の指示に従ってきちんきちんと薬を飲んでいる模範生の(模範囚じゃないよ(笑))わたしからすると、本当に信じられないことをやっています。そういえば、入院しているときに「この薬、2錠って言われてるんだけど効かないから3錠飲んでる」って人がいて、びっくりしたっけ。。。ま、それはともかくとして、そういう状況を軽い文章で書いてたりするから読みやすいんだけれど。身の破滅に向かって進んでいくような、そんな気がしてたまりません。いや、まだ半分くらいしか読んでないんですけどね。

そんなこんなで昨日は彼女との電話が終わったあと、ちょっとこの本を読みふけってました。2時半頃一旦目が覚めましたが、そのあと時間をおかずにまた眠れたようです。けど4時にまた目が覚めて、睡眠剤を飲みました。けど結局眠れませんでした。目は開かないほど眠いのに、頭の芯だけはっきりして。「薬で頭の芯をぼやかしてくれないかな」と思ったけど、そういうことにはならず、でも起きたら6時過ぎてました。おや、わたしは寝たのでしょうか。全然寝た気がしないのに。(苦笑)

今日は昨日買った本の残りの部分を読みます。彼女がどうやって死んでいったのか、心境に変化はあったのか、それとも今のままだったのか、とても興味があります。本を全部読んでからの感想は。。書くかも知れないし、書かないかも知れません。

とにかく、わたしが病気になってから初めて読んだ本です。まさかわたしもこの本が初めての本になるとは思わなかったけれど。それでも何かの本を読めた、と言うだけでだいぶ進歩したかも知れません。この本を手がかりにして、彼女から何冊か借りてきた本を読みたいと思ってます。果たして読めるかどうか。。
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