04-15,2014
セクマイの映画祭
わたしが所属しているレインボー・アクションという団体が主催で、ゴールデン・ウィークに映像祭をやるそうです。

正直、どの作品がどういう作品なのかって全然把握してないので、どれがオススメとは言えないのですが(笑)、まぁわたしは前々から見たかったけど、見逃してた「百合子、ダスヴィダーニヤ」が見てみたいかな。題名の「百合子」っていうのは、宮本(中条)百合子で、この人と湯浅芳子って人の話なんだけど、わたしが湯浅芳子を知ったのは'90年に出た別冊宝島の「女たちを愛する女たちの物語」ってムック本だった。この頃はまだ湯浅芳子は生きてたんだよね。インタビューが載ってた。この頃('90年代)の印象としては、レズビアンの世界はウーマンリブの影響が強くてね、正直なところ「女同士の恋愛」と「女同士の連帯」がごちゃごちゃになってる感がするんだけど、まぁそれは歴史的な背景から仕方なかったような気はする。湯浅芳子なんて、女には選挙権すらなかった時代で、その中でいろんな女の人たちが自分たちの権利拡張についての活動をしてるときだったから、今というより'90年代とも単純に比較はできないと思うのだけれど、ただその中にも確かに「女を愛する女」は存在していたわけよね。湯浅芳子はこのインタビューの中で「自分はレズビアンだ」とは明確に言ってないのよ(そう言われるとそうかも知れない程度)。だけどまぁ生きてきた歴史を考えると仕方がないのかなって気はする。

そしてこの「女を愛する女たちの物語」と同時期に、この映画の原作本「百合子、ダスヴィダーニヤ」が出版されたんだよね。わたし、この本リアルタイムで本屋で見たんだけど「買おうかな」って迷ってるうちに手に入らなくなってしまった。で、ずっと古本を探してたんだけど見つからなくてね~。手に入ったのは数年前だった。それでまぁ読んだんだけど、ほとんど細かい印象は忘れてしまってて(汗)、大きな印象としては「吉武輝子の『女人吉屋信子』に似ている」というものだったんで、正直、あんまり面白くなかったんだろうと思う←オイ

吉武輝子の「女人吉屋信子」はねー、女同士の恋愛ってより、連帯の方をものすごく強調してる本で、それは別に女同士の恋愛を否定してるってわけじゃないんだけど、この人あんまり女同士の恋愛について考えてないんじゃないだろうかって思えたんだよね。わたしら別に自分を虐げる男が嫌いで女同士でいるわけじゃないから。まぁでもこの感覚は本当に新しいんだと思うよ、そう考えてみると。今では「同性愛は異性愛と性的な指向の向きが逆なだけで、恋愛感情は同じです」って言うけどもさ、ことに女同士の関係ってのは、今よりももっと権利のない時代だからね。必然的に女同士が力を合わせて生きていかなきゃならない時代だったわけよ。なので、ある意味仕方ないんだと思う。ただこの本、あまりにも「おいおい」ってところが多かったんで、逆に印象に残ってるんだよね~(笑)

てなわけで、この映画(百合子、ダスヴィダーニヤ)ができた、ってときももちろん知ってたんだけど、体調悪かったりなんかして、結局観に行けなかったんだよね。この映画の中には、わたしの大好きな俳優さんのうちの一人である大杉漣さんが出てるので、そういうのも含め「見たいなあ」とは思ってる。

あとの作品は知らんです。けど、この映像祭初上映のものがあったり、大画面で見ることができる機会であったりするらしいです。詳しい告知はこちら

--------------- ここから開催告知 ---------------
このたび、レインボー・アクションでは「第1回レインボー・アクション映像祭」を開催します。

セクシュアル・マイノリティの視点から、現代の社会を問い直す、
国内外の映画・映像を上映し、同時に、関係者によるトークイベントも実施します。

映画・映像を通じて生まれることばや思考を大切に、
普段はなかなか語りにくいことについても語れる場を提供する映像祭です。

多くの方のご参加をお待ちしております。

●日程 2014年5月4日(土・祝)~6日(火・祝)
●会場 東京ウィメンズプラザ ホール

上映予定作品
『 ジェリー・フィッシュ 』(監督:金子修介)
『 百合子、ダスヴィダーニヤ 』(監督:浜野佐知)
『 for you 』(監督:ペ・フィギョン)*本作は日本初公開です
『女として生きる』(監督:江畠香希)

*この他の作品も上映する予定です。詳細は現在調整中です
*監督や関係者によるトークイベントも実施予定です

●料金 前売り券:1,000円/1プログラム 当日券:1,200円/1プログラム
*全日フリーパスも発売予定です。購入方法等は決まり次第ブログにてご案内します。

◎最新情報はこちらからご確認ください◎
http://rainbowaction.blog.fc2.com/blog-entry-194.html


☆プレイベントも実施決定!
●日時 2014年4月29日(火・祝)19:00~21:30(18:30開場)
●会場 アップリンク ファクトリー

*内容等の詳細については、決まり次第発表いたします

☆レインボー・アクション Xラウンジによる関連イベントも合わせて実施します!

「性自認ってなに??いろんな性自認の人の話を聞いてみよう!」

●日時 2014年5月4日(日・祝)18:30〜20:30(18:00開場)
●会場 都内公共施設(お申し込みの方にお知らせします)
●資料代 500円

◎詳細はこちらからご確認ください◎
http://rainbowaction.blog.fc2.com/blog-entry-197.html

関連イベントのみ、定員制のため、事前の申し込みが必要です。
参加ご希望の方は、rainbowaction.xlounge@gmail.comまでご連絡をいただければと思います。


(本映像祭は株式会社ラッシュジャパンのLUSH JAPANチャリティバンクによる助成を受けて実施されます)
--------------- ここまで ---------------
08:47 | (性的少数者)映画のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
04-11,2014
非当事者であること/ルポ京都朝鮮学校襲撃事件を読んで
「ルポ京都朝鮮学校襲撃事件」って本を読んだ。

図書館で借りてきた本だったので、期日前に読まなければいけなかったのだが、最初の一週間ほどは読むのがつらくて最初の一章だけ読んで、ほとんど放置していた状態だった。けれど、それでは期限が来てしまう。意を決して続きを読んだ。苦しかった。何度も泣きそうになった。いや、実際涙が流れた。けれど不思議と「続きが読みたい」って思わせるような本だったので、残りは2日ほどで読めた。

んーなんて言えばいいんだろう。「差別を受けるってこういうことなのか」って改めて思わせられる本だった。この本には差別を受けた人の心理状況がどうなっていくかが丁寧に書かれている。それは「いじめを受けた子どもの心理」だったり「DVを受けている人の心理」だったりに、ものすごく似ていると思ったりする。過去にいじめにせよ、DVにせよ、被害者の心理状態を綴った本を読んだり、テレビを見たことがある。だから「差別を受ける」ってことはどういうことかについて、これが初めて読む本じゃない。初めてじゃなかったんだけど、大きな衝撃を受けた。もちろんだからといって、わたしは特に「朝鮮学校が受けた差別はいじめやDV被害と比べてもひどい」って言うつもりは全くない。わたしはこれらを比べるつもりはない。ただ「心理状態が似ている」って思っただけだ。

そしてこのような朝鮮人差別は今に始まったことではない、というか、昔からずっとずっとあって、戦争が終わってからもあって、そして恥ずかしいことに今も続いている。そう、これは恥なのだ。政府や警察、裁判所、文科省、国のすべてが朝鮮人差別をしている。国民の大半はそれを黙って見ている。一部の国民は直接朝鮮人差別をする。これが恥じゃなくて一体何が恥なのか。

人間には本能として「誰かを差別したい」って気持を持っていると思う。わたしにだってある。わたしだって「人を差別してはいけない」ってこういう場所で書くけどさ、実際はしてると思うよ(笑)人の心なんて裏では何を考えてるか分かんないよ(笑)黒くてドロドロしたものが自分の中にあることをわたしは自分で知っているし、そういうものを持っていることについてはいけないことだとは思わない。でもわたしはそれを絶対に表には出さないでおこうと思っている。表に出さないことが「自分のプライド」だと思っているから。まぁこの「プライド」に対してもいろいろあるのだけれど、まぁそれは自分が書きたくないことなんで書かない(笑)

だから「差別はしてはいけない」と書いても、実際は「差別は自分の表に出すな」ってことだと思ってるんだよね。

あ、差別をすることと人を嫌いになるってことは違うことだと思っている。自慢じゃないが、わたしには嫌いな人がたくさんいる。今、現在でもね。わたしは人を好きになることは滅多にないが、嫌いになることはものすごくたくさんある。よく「好き嫌いが激しい」っていうけど、わたしは好きがなくて「嫌いが激しい」人間だ。そして「嫌いな人と嫌いあう」ってことは「好きな人と好きあう」ってことよりも嬉しいって思ってる。中学生の時にクラスですごく嫌いな人がいて、向こうもわたしのことが嫌いみたいだったので、とても嬉しかった。今でもその人の名前と顔を覚えてるくらいだから、嫌いあってたことがよほど嬉しかったのかしらね。ただ、それはあくまで「個人対個人」のことだ。誰かを味方に付けて「一緒にあの人を嫌いあおうよ」と誘ったりはしない。人の好き嫌いなんて、極めて個人的なものだからだ。

差別と嫌いの違いって、「人間としての尊厳を傷つけるか否か」ってことじゃないかって思う。「人間としての尊厳」、まぁ別に「人間としての」って付けなくてもいいかなとは思うんだけど、「自分が自分であること」というのが尊厳なのかなあ。そして「自分であること」は決して「変えられない属性」じゃないと思うの。以前「自分で変えられない属性について差別するのは止めましょう」ってツイートがどこからか流れてきたときにわたし、「だったら変えられる属性について差別するのはいいのかなあ?」って思ったんだよね。自分で変えられない属性ってのは、人種だったり民族だったり性的指向だったりするわけだよね。じゃあ、変えられる属性って何だろう?って思ったんだけど、例えばね、人間が太ってるとか痩せてるとか、そういうのかな?って思ったんだよね。まぁいくら食べても太らない人は属性が変えられないかも知れないが、太ってる人は食べるの制限したら痩せられるでしょ。でもさ、太ってる人に「デブ」って言ったら言われた方は傷つくよね。それってゲイが「ホモ」って言われて馬鹿にされて傷つくのと同じだと思うの。そこに「変えられる属性」と「変えられない属性」の違いはないよね?それにさ、今や性別だって変えられるわけだよ?性別が変えられるから女を差別していいってことにはならないよね。

だからさ、結局さ、どういうことでも、変えられる属性でも変えられない属性でも、それについて差別することを表に出してはならないのだとわたしは思う。

なんかいつも感想を書くつもりが、話が変な方向に飛んじゃうんだけど(苦笑)

この本、よくできてて「ルポ」っていいつつ、いろいろな登場人物の過去の話とかうまく絡み合っててね。でもわたし、人の名前を覚えるのが苦手でね。日本の名字とか名前はそれでもあまり忘れないんだけど、不思議なことに名前が漢字でも横に朝鮮読みのフリガナが振ってあると途端に覚えられなくなる(笑)なので、取り敢えず申し訳ないんだけど勝手に漢字を「日本語読み」させてもらっている、この手の本は、、そして何度も登場人物が出たり入ったりするんだけど、これがね~。「あれ、この人誰だっけ?」って思うのよ、毎回。特に朝鮮の人は「金」って名前の人が多いもんですごく戸惑う、、まぁ半分くらい読んだら「ああ、この人だったよね」って思い出すけどさ。

しかし登場人物の過去の話などを読むと、本当に日本は昔から国を挙げて朝鮮人差別してたんだなと思うし、在日の人はこんな誰も味方がいない中でよくここまでやってこられたなあって思う。周りに味方がいなかったから、結束力が強いのだろうし、身内意識も強いのだろう。

わたしさ、この「結束力」や「身内意識」を目の前にすると、ああ、わたしはどんなに仲間に入りたくても仲間になれないなって思って寂しい気持ちがするの。それはわたしは決して「当事者」にはなれないってこと。前はそれが理解できなかった。なんとか一生懸命努力して認められたら「当事者」の仲間入りができるかなって思ってた。けど、逆に考えてね。アライ(=性的少数者を支持したり支援したりする多数者)が当事者になれるかというと、それは絶対に無理だから。第一、差別されて差別される気持ちは痛いほどに分かっても、それは自分に突き刺さってこない。差別されて身を引き裂かれるようなつらさは当事者じゃないと絶対に分からない。だから「所詮、シスヘテ(=シスジェンダーヘテロセクシャルのこと。シスジェンダーとは身体と自分が考えている性別が一致している人のこと、ヘテロセクシャルは異性が好きになる人のこと。要するに世間一般の人のこと)はシスヘテだよね」って心の底で思っちゃう。結局のところ、それなのだ。いくら、わたしが朝鮮の人に理解を示そうと、わたしは彼らにとって「差別する側の人間」なのだ。そういう危険性を持っている人間を身内扱いなど絶対にできないだろう。

でも。ってわたしは思う。非当事者なら、非当事者にしかできないことがあるのではないかと。それがね、この本には結構書いてあるのよ。ヒントがいろいろ。そういう意味ではこの本はとてもわたしの役に立ったし、今後、わたしは自分自身どうしていけばいいのかが少しだけ分かったような気がしている。

「当事者」と「非当事者」っていうのはね、いろんな場面でわたしの中に出てきて考えさせられる。わたしは「性的少数者当事者」だけど、非当事者であるものの方が圧倒的に多い。当たり前だけど。例えばさ、「凶悪犯罪被害者」について、わたしは非当事者だ。「自死遺族」についても非当事者だ。「北朝鮮拉致問題」に対しても非当事者だ。世の中の、ほとんどのことに対して、わたしは「非当事者」だ。

だからね、わたしは「非当事者」であることを貫きたいと思う。物事の、一つ一つによって自分の思いから立ち位置が変わってくると思うんだけど、一つ一つのものに対して「どういう角度で物事に向かうか」というのを意識的にやっていきたい。

世間は一般に「当事者(被害者)の気持ちになって」考えがちだ。例えば凶悪犯罪で重罰化をして欲しい、という被害者や関係者がいる。死刑制度存続を訴えたり、加害者を死刑にして欲しいと考える人たちもいる。それはそれでいいし、そういう思いは止められないと思う。けど、被害者や関係者以外の「非当事者」まで「同じ」になることはないと思う。非当事者は、非当事者であるからこそ、「加害者の犯罪に至った境遇、同じ事件を起こさないためにも社会をどう変えていったらいいのか」や「死刑制度があっても犯罪の抑止にはならないこと、であれば、どのようにしたら犯罪が減るのか」など、様々な視点からアプローチすることができる。もちろん中には被害者に寄り添う人もいるだろう。非当事者に課せられた使命は、長期的な展望で「どうやったら悲しむ人が減るのか、生きづらい人が減るのか、多くの人が住みやすい世界になるのか」を考えることだと思う。

それは「北朝鮮拉致問題」でも同じでね。っていうか、在日の人は「加害者」でもなんでもないんだから、攻撃する先が間違ってると思うけど、あんまりにも被害者寄りの人が多いと思うのよ。非当事者として何ができるか、この問題に関しては非常に難しいと思う。基本、国と国の問題だし。だけどさ、だからといって、在日の人を責めるのは間違ってる。もちろん彼らの中には北朝鮮を支持する人がいるだろう。けど、それはね、今までいろんな政治的な事情に翻弄されてきたっていうのがあるわけなんだよね。人の心っていうのは、そう簡単にすぐには変わるもんじゃない。もちろんわたしはその気持ちを「変えるべきだ」とは思わない。それは個人の自由だもの。ただ、誰が見ても国による拉致はいけないことだよね。それは多分、分かってると思うし、だからこそ複雑な思いを抱いている人もきっと多いんじゃないかと想像する。そういう気持ちは全く無視して、ただ拉致被害者とその周辺の人のことしか考えてなくて、在日の人を非難中傷していいものなんだろうか?

非当事者というのは、当事者じゃないから双方の気持ちや状況を考えることができるんだよね。それはきっと非当事者「特権」なんだろうと思う(笑)

こういうことを言うとね、すぐに「自分が被害者になったらどうするんだ」とか「被害者の気持ちを考えろ」って言う人がいるんだよね。それはね、被害者になったときに考えるよ。もちろん、今のわたしとは全く整合性が取れない考えになるかも知れない。だけどそれはそれでいいじゃないと思う。当事者になって、当事者でなければ分からない苦しみや痛みを持ったときに、わたしがどう考えるかは、今のわたしじゃ分かるわけがない。加害者が憎くて憎くて「死刑にして欲しい」って考えるかも知れない。でもそうじゃないかも知れない。それはそのときになってみないと分からないことだ。

少なくとも、今の「非当事者」としてのわたしは、非当事者のうちに非当事者の立場でやっていきたいって思ってる。もちろんできる範囲のことでしかやれないけどね。

また本の話に戻るけどねー。わたし、一番グッと来たのが「裁判を起こすかどうかの話し合い」のところだった。わたし、もっともっと軽く考えてた。そういう意味では「裁判所は公正だ」って思ってたの。もちろん、いろいろな思惑があって裁判所が公正じゃないことは知っていたが、でもまだどこかでそういうものに対しての「信頼」があったんだよね。でもさぁ、そこでも国を始めいろいろな人に痛めつけられた人たちは、躊躇してしまうんだよね。「そうなのか」って思ってちょっとショックだった。そして前に書いたけど今、朝鮮学校無償化排除問題で、全国で何ヶ所か、裁判を起こしている学校や生徒たちがいる。その裁判を起こすときも、こういう悩みや苦しみがあったんだろうなと推測される。わたしはあのとき「生徒が痛々しい」って書いたけれど、そして本当にそう思ったのだけれど、そういうのは通り越してるんだ、そう思ったらショックだったし、涙が出て来て仕方がなかった。だって理不尽なんだもの!どう考えても理不尽じゃん。国もそこに住んでる国民も誰も味方してくれないんだよ。味方どころか国を挙げて自分たちを攻撃してくるんだよ。わたしはなんで無条件に人が差別されている土地に平然と暮らしているの?誰かが傷つけられてて、それをどうして黙っていられるのか。

こういうこと書いてると「朝鮮人に味方する反日」とか「嫌なら日本を出て行け」とか思ってる人もいると思う。正直、わたしは「国」という枠組みは好きじゃない。「国」という枠組みがあるせいで、わたしたちは「国」からいろんなことを管理され、抑圧される。だから「国」という概念なんて滅びてなくなれって気持ちもある(かといって、アナーキストと言ったら全然違うのだが。。っていうかそこまで深くは考えていない)。しかしね、今現在「国」という枠組みがある以上、「こういう国でありたい」「こういう国であったらいいな」っていうのをわたしは持っている。今の日本はそれからどんどん外れて行ってるの!国はそこに住む人々のためにあるものであって、決して国があるから人々がいるわけじゃない。わたしは人々に寛容な社会であって欲しいと思う。人権が護られる国であって欲しいと思う。それは引いては「わたしが住みやすい社会」に繋がっているから。わたしが「こういう国になって欲しい」という要求は、それはやっぱりこの国が好きになりたいんだという思いがあるからだと思う。今の世の中が嫌いだからと言って、すぐ出ていくか、出ていかないかと考えるのは、わたしはよく分からない。好ましくない状態だからこそ、好ましい状態にしたい。ただそれだけだ。

この本ね、読んでて2箇所違和感があった。

1回目、学校が襲撃されたあとにバザーをやるんだけど、やった後にね、近隣住民に挨拶に行ったときにこう言われるの。

応対した(マンションの)副会長の対応は違っていた。大人たちのマナーの悪さを指摘しつつ、彼は言った。「ここのマンションは鴨川沿いで景観が良い、環境が良いということで入居してくる。新興住宅地のような感覚で入ってくる新しい人たちは、在日が多い地域だとか、歴史的経緯とか何の予備知識もない。だからこの公園や学校の様子を見てびっくりして反応してしまうのもやむを得ない側面もある。誤解、偏見から悪感情を持ってしまうところもある」。そして付け加えた。「努力せなアカンで」(51p)


終了後、地域に挨拶に回った。「行ってもいいのものかアカンものか分からなかったけど、『やっぱり行かなアカンやろ』って、二、三人で組んで、一組二、三ヶ所を回った」という。すると地域住民の何人かはバザーにも来て、物品を購入していた。ある年配の女性にこう言われた。「こんなんやったら全然問題ないんや。アンタら大人がちゃんとせなアカンねん。子どもらはきちんと挨拶するええ子ばかりやで」
 一緒にいたオモニ数人で思わず声を出して泣いた。「(略)でも会ってみると、何のことはない同じ人間だったんですよね。同じように、人間として、同じ目線で、年長者として私たちを諭してくれたのがうれしくて。私たち、何か自分たちを一段下のところで考えてしまってたのかなって。学校の問題だけじゃないと思う。在日ってどこか根無し草みたいなところがあるから。ほっとしたら涙が出た」(51p-52p)

読んで「えっ!?」っと思ったのね。これを書いた人でさえ、どうやらこの住民たちの発言を好意的に受け取っているようだ。でもさ、この本を読むと本当に朝鮮学校の教師を始め、保護者たちは近隣住民に対して理解を求めようといろんな努力してるのね、ずっとずっともう何十年も。もうそれは涙ぐましいほどで。なのにまだ「努力しなきゃならないの?」。わたしさぁ、これ読んで本当に腹立たしかったんだよね。歴史的経緯とか予備知識がないのは、それは誰の責任だよと。性的少数者のことでもさ、マジョリティは「知らないのが当たり前。教えられるのが当たり前」って思ってる人がいるけど、そんなん冗談じゃないよ!ちゃんと本読めよ!たくさん出てるよ!!知らないことを恥と思えよ!「分からないので教えて下さい」っていう気持ちで教えてもらえよ!もう、こういう「マジョリティの横暴さ」が嫌でさ。まぁ言われた在日の人たちの反応を責める気はなくて、本当によくやってるなと思うんだけど、こういうね、近隣住民の「横暴な」発言。さも「認めてやった」と言わんばかりの発言。わたしすごーく腹立った。

あと2箇所ほど気になるところがあった。それは金尚均さんのところで

金尚均も彼のパートナーも

って書いてあるのが2箇所ほどあるのよ(1箇所は39p、もう1箇所は63p。)。

これさぁ。ドキッとしたよ。「えっ、彼はゲイなの?」って。「パートナー」っていう言葉はわたし、どうしても「同性パートナー」に結びつけて考えてしまうところがある。そういうところに「ゲイダー」がピピピッと働く。まぁこんなのはゲイダーとは言わないかも知れないけどさ(笑)だけどね、続きを読むと彼には4人も子どもがいることが分かるの。ああ、なんだ、ノンケさんね。。(ふっ)みたいな(爆)

でもね、この本、他の人の夫婦関係のときに「パートナー」という言葉は使ってないのだ。しかも1箇所だけじゃなく2箇所ともなると、この金さんは取材を受けるときに「ここ、こういう風に書いて」って著者に注文付けたんじゃないだろうかって想像したりする。となると、金さんがこういうところの表現に気を配ってるってことは、例えばジェンダーの問題なんかにも気を配ってる人なんじゃないかと推測する。

それからねえ、1箇所、誤植を見つけた。

「朝鮮人が井戸に妻を入れた」(76p)

これさぁ、見つけたときに思わず不謹慎だったけど、笑っちゃいました。妻じゃないよね。これさぁ~、なんでこうなっちゃったんだろうね。字が似てるからかな?なんにせよ、次の版が印刷されるなら、改めておいた方がいいんじゃないかなと思います。

結局のところ、この事件に対しては裁判が行われ、一審では勝訴したものの、裁判所は「民族教育権」について全く触れなかったというところに、もうなんていうかね、国の機関の汚さを感じるというか(これを認めると後の「朝鮮学校無償化排除裁判」に不利になると予想される)この期に及んでまだ朝鮮人差別するのかって思って情けなかった。それに「ヘイトスピーチ」を犯罪とすると表現の自由と絡んでくるそうだ。もしそういう法律ができたとしても国に逆手にとられて「正統な批判」が犯罪になってしまう恐れがある、と。確かにそうだよね。でもだったらさ、ヘイトスピーチを犯罪にするんじゃなくて、わたしが前に書いたように「人種差別禁止法」の制定を目指すのはどうだろうかと思ったりする。もちろんこれでは性的少数者に対するヘイトスピーチは取り締まれないことになるけれど、でも、正直、わたしは今、一番問題なのは「外国人に対する差別」だと思っているから。もうずっとずっと100年くらい続いた(日韓併合が1910年だからね)朝鮮人に対する差別、もうこんなこと止めようよ。本当に切に切に願う。
18:23 | (一般)本のこと | トラックバック(0) | page top↑
04-09,2014
春が来た
20140409220011b7f.jpg   20140409220009baf.jpg


今年も春が来た。

てか、もう街のソメイヨシノは散っちゃったかも知れないけど、うちの桜は満開だ。ついでにわたしが植えたんじゃないが、毎年咲くらしいチューリップも咲いた。去年は咲いた途端に強い風が吹いて、すぐに花びらが散ってしまったんだよね。だから、今年は長持ちして欲しいんだけど。。

今年は珍しく、ソメイヨシノが満開の時に、花見を数回やった。花見と言っても散歩がてらとか病院帰りとかに桜が沢山咲いているところに行って花を見てきただけなんだけどね。改めて、日本は(日本と言っては大げさかも知れないが、少なくとも東京は)桜がこんなに大量に植えてある国なんだなあって思った。

なんかね、今年は桜を見ながら「この光景をよく目に焼き付けておこう」って思ったのね。「例えば、この桜がわたしにとって最後の桜になるかも知れないけど、この光景を覚えておいたら別にいいよね」って。いや、別に自分がすぐに死んだりはしないと思うけどさ(笑)、でももし最後だとしても別に悔いはないよねって。あ、いや、別にだからといって死にたいとかそんなんじゃないよ。いや、違うか。まぁ絶えずすぐにでも死にたいとは思ってますけどね(笑)、でも別に死ななくったっていいんだけど、なんかそういう気持ちで日々生きていくのがいいのかなって、最近なんかそんなことを思っている。

「精神状態あんまりよくないんじゃないか」って思われるかも知れないけど、特に悪いわけでもなく。

ただ、わたしは4月が嫌いだ。中学の時から、4月は組替えがあって、人見知りなわたしはそれが苦痛でたまらなかった。2学期が終わる頃になんとなくクラスに溶け込めて、3学期は天国みたいに感じるのに、また4月になると組替えがあって地獄に突き落とされる。これの繰り返しだった。「なんで毎年組替えがあるんだろ」ってずっと思ってた。これは社会人になっても同じだった。4月は異動の時期で、前年と同じメンバーなんてことはまずない。中高生のときみたいにクラスに知らない人が大半ってことはなかったけど、なんとなくやりづらかった。

そういうのを毎年毎年繰り返すたびに4月が嫌いになっていった。今はどこも属してないから、そういうのとは関係がないはずなのに、世間が4月ってだけでなんか嫌な気分になる。世間的には「新生活でわくわく」ムードなんだろうけど、わたしはそれが不安な気持ちに翻訳されてしまう。条件反射ってやつだ。

まぁそういうのは、蓋して通りすぎるのを待つのみなのかな。
22:45 | 育てているもののこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
04-07,2014
マウスピース作った
一旦、書きかけたブログが飛んでしまい、同じ内容のものを書くのが苦痛だったのでちょっと放置してた。しかし、もう一回、同じことを書くという行為がなぜこんなに苦痛なのか、、同じものは二度と書けないからってことなのかな。

ええと、マウスピースを作ったというか、3月末の歯科受診のとき「今のままだと苦痛で耐えられない。マウスピースを作って欲しい」と言ったのだけれど。

今のわたしの歯科受診は半年に一度。行ってわたしの歯の苦痛を話すだけ。治療方法がないから向こうは話を聞くだけ。それでなぜかわたしの方がお金を取られる。カウンセリングじゃないからっていうか、カウンセリングで苦痛が取れたらすごいと思うけど、もちろん話をしただけでは全くすっきりすることもない。苦痛を話してどうこうってことじゃないのだ、この症状は。なのにお金を払う。なんだかな~って毎回思っている。なのでもう医者通いはいいかなって思ってるんだけど、向こうがなんだかんだ言って引き留めるのだ。ってことで、ここ1年半くらいは半年に1度の受診になっている。

マウスピースの話は、前に一度したことがあって、でもそのときは作ってくれなかった。その理由はよく分からないけど、作ったとしてさして効果がないってことだったと思う。だけどわたしはあのとき無理矢理にでも苦痛を訴えて作ってもらえばよかったと思っている。だって結局マウスピース、作ることになったんだもん。わたしの場合、上の歯と下の歯を噛み合わせると、歯が溶けたように感じられ、そこからぶにぶにした味の付いた(酸っぱい!)冷たいものが口の中にどろ~っと出てくるような感じがする。それはもう寝てる間もそうだし、起きてる間はもちろんそうだし、1日24時間、感覚が変わることはない。せめて味さえ付いてなくて、普通の唾液みたいだったらいいのにって思うんだけど、もう、口の中に溶けてなくなることはない酸っぱくてまずい飴を舐めているような感覚なのだ。これがずっと続くんだから、本当に不快で気が狂いそうだ。

とにかく、歯と歯を合わせたくないんだけど、出てくるぶにぶにしたものが気になってつい、歯と歯を合わせてしまう。本能的にそのぶにぶにしたものを取り去りたいがために絶えず歯と歯を噛み合わせて舌で舐めている。そうすると他のことに全く集中できない。本を読んでてもテレビを見てても何をしても絶えず口の中が気になる。口の中に半分集中力を取られながら、いつも何かやっている(例えば今だってブログを書いている)。これでは何かに本気を出したくても、全然集中ができないから、いつも何かに気を取られたような気がして不完全な感じがするか、いつも以上にもっと集中しないと集中できないので極度に疲れる。

多分ね~、この病気にかかる前は、普段でも上の歯と下の歯はそんなに合わせてなかったんじゃないかって思うのよ。唾液もこんなに気になったことはあまりないし。なのに、ぶにゅぶにゅ出てくるもののせいで、それが気になって気になって仕方がない。つい、上の歯と下の歯を合わせてしまう。そして多分これも半分歯が溶けたように感じられるのでよく分からないんだけど、きっと普通の状態だったらきつく噛んだりしてるんじゃないかって思ったりする。だって、わたしそれで頻繁に頭が痛くなるんだよね。顎が疲れるまでは感じないのだけれど。あと口の中がとても狭くなったように感じる。なんというか、いつも口をぎゅっとつむった状態だから、口の中の頬の肉にシワが寄ってしまって取れないんだよね~。だからやっぱり今の状態って不自然なんだと思う。だけど意識して自然な状態ってできないもんで。というか、最早自然な状態がなんだったか分からないもんで。

上の歯と下の歯が物理的に合わない状態にしたらぶにぶにしたものが出て来なくなるんじゃないかと思って、それでティッシュを噛んだり、アイスクリームの平たい棒を細かく切ったものを右の歯と左の歯に2箇所入れてそれを噛んだりしたこともあった。でもね~、ティッシュはすぐに唾液でベタベタしてくるし、アイスクリームの棒は噛んでないと外れちゃうんだよね。ティッシュにしてもアイスクリームの棒にしても外れるから、結局いつも歯と歯を噛み合わせてないとダメなんだよね。絶えず歯と歯を噛み締めてるのも案外疲れるのだ。それにこれだと結局やっぱり口の中が気になって仕方がない。

ってわけで、今回、主治医には「このままだとつらい」ってことを強調して、だから「マウスピースが作りたい」と言ったのだが、前回は「うーん」って言ったくせに、今回は「是非作りましょう!」ってすぐに言われて「えっ、えっ?」ってなったのだが。。まぁだけど主治医によると、ティッシュ噛んだりアイスの棒噛んだりする人は結構いるみたいで。「あー、みんな考えることが同じだよな」って思った。だいたい身近な材料ってそれくらいしかないよね。で「マウスピースはアイスの棒よりちょっとマシ程度ですけどね」って言われた。うん、分かってる。もう元通りに戻るなんて期待しちゃいないし、思ってもいない。でも「ちょっとマシ」になるだけでも、全然違う。とにかく歯と歯を噛み合わせない方法が欲しい。そうすれば、ぶにぶにしたものがなくなるし、変な味の付いたものを飲み込まなくても済む。もうわたしのこれは、治療方法がない。治らないと諦めている。けど、それなら対症療法でどうにかして気にならない方法はないか。もう、そういう考えで行くしかない。

ってわけで、その日歯型を取ったのだけれど。はー、しんどかった。ちなみに上の歯だけね。

それから一週間後。歯科に行った。マウスピースはできあがってて、あとは少し調整するのみってことだった。

できたマウスピースは透明で固く薄いプラスチックのものだった。「喉は強い方ですか?」と言われ「いえ、弱い方です」と答えたのだが、、マウスピースを付けるとオエッとなってしまったので、端っこをちょっと削ってくれた。あんまり削りすぎると強度が足りなくなって割れるとのことで、本当にちょっとだけ削ったので、最初と大して差はないと思った。あとはマウスピースについての説明をちょこっとされたかな。「付けたままご飯は食べない方がいいです」と言われたが、正直、これを付けたままご飯って食べられるんだろうか。。わたしは絶対に無理。付けたままだとご飯が飲み込めずにオエッとなる、多分。。それに、わたしはご飯を食べてるときはあんまり歯が気にならないんだよね。歯と歯だけを合わせると、歯が溶けている感じに思えるのに、ご飯を食べたときだけはそうは思わないの。なので「マウスピース付けたままご飯は食べません」って答えたのだけど。

ちなみにこのマウスピースは保険が効いて5000円弱くらいだと思う。その日の診察料含めて5000円ちょっとだったので。

マウスピースができてから、今日で約一週間くらい?主治医に「アイスの棒よりちょっとマシ程度」って言われたんだけど、まぁ当たらずとも遠からずって感じかな。確かにぶにょぶにょしたものは歯と歯が合わさってないから出てこない。それはすごい楽。でも、なんか唾液は相変わらず味があるんだよね。口の中に入ってるプラスチックの板はまるで溶けないあめ玉を舐めているようだし。あと、上の歯と下の歯を噛み合わせると噛み合わなくてとても変な感じ。あのね~、本当はわたし、上の歯と下の歯を噛み合わせて落ち着きたいんだよね。それがこれだとちょっと無理って感じ。マウスピースって上の歯と下の歯を噛み合わせることができるヤツってないのかな。

わたしが考えて「これが楽そう」って思うのは、マウスピースとは呼ばないかも知れないが、塩ビかなにかのちょっと柔らかい素材で歯の半分くらい被せるもの、なんだけど、こういうのってどうやったら作れるのかなあ~って思う。わたしの場合、前側の歯は合わせてもぶにぶにしたものが出てこなくって、奥歯がそうなので、奥歯だけ被せるものがあったらなって思ったりする。誰かわたしと共同開発してくれないかな~って思うけど、でもそんなん開発しても需要がないよね、、

まだちょっとねー、マウスピースの圧迫感はある。だから、マウスピースを入れてはしゃべりにくい。すぐにオエッとなってしまう。まぁマウスピースって多分、付けたまま生活することを想定されてないよね。いろいろぐぐって調べてみたんだけど、ほとんどは寝てる間に使えってことになってるようだし。これって慣れるのかな。よく分かんない。

ただ、本当にティッシュとかアイスの棒よりはマシな感じはする。

ちなみに知らなかったんだけど、マウスピースは使ってるうちに亀裂が入ったり、擦り切れて穴が空いたりするらしい。消耗品なのね、これ。

まぁ一件落着じゃないけど、これでちょっとは集中できるようになって欲しい。。歯のことばかり気になるのは本当につらい。

取り敢えずまた半年後に再受診。
17:42 | 病名が分かった後のこと | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
03-28,2014
好きになる性別はどこで決まるのか
昨日、駅のホームで電車を待ってたら、わたしの少し前に髪の毛が短くて、ちょっと金髪で背が高くて細身の女の人がいた。顔は見えなかったけど、ちょっとわたしの好みだったので(笑)、ドキドキしつつ、電車に乗ってその人に近づいてみた。

。。。見たら男性だった。中性っぽい顔つきをしてたけど、のど仏が出てた。

その途端「なーんだ、男だったのか」と思い、ドキドキした気持ちが思いっきり失望感に変わった。

「あー、わたし、性別で人を判断してるんだなあ」ってそのとき思った。

よく「わたしは同性愛者を受け入れてます」って人の中で、同性愛を肯定するつもりで

「愛に性別は関係ない」

っていう人がいるんだよね。

違います!同性愛者の好きになる相手は性別が決まってます!同性愛者は選んで同性が好きになります!異性は選びません。だから同性愛者の愛は性別が大いに関係があります!

その点、選んで異性を好きになる人と、対象は違うけれど同じなんだよね。性別が関係なく好きになる人は、一般的にはバイセクシャルか、パンセクシャルの人ってことだろう(デミセクシャルとかポリセクシャルも該当するっちゃ該当するかも知れないけど、中には該当しない人もいるから、まぁ一般的にはバイセクシャルかパンセクシャルってことになるんじゃないでしょうかと思う)。

だけどね。じゃあ「好きになる女性」ってなんなんだろ?と思うわけですよ。

「女性」って一体どういう人のことを指すのと。

わたしは、電車の中で見た人を女性だと思ったときはドキドキして見て、男性だと思った途端落胆した。同じ人なのに。でも、じゃあ女性の何にドキドキし、男性の何に落胆したのか。それを考えると結構難しいんだよね~。

人の性別は何によって決まるかというと、染色体、性ホルモン、性分泌、外性器、内性器、だったっけ、、でもどうやってその人が男性か女性かが決まるかというと、生まれたときの外性器の見た目、だ。人は生まれたとき、医師が外性器を見てそして男性か女性かが決まる。その男性とか女性ってのは、あくまでも「戸籍上」ということだ。しかも細かいことを言うと戸籍には性別は書いてない。書いてあるのはあくまでも「親との関係」だ。

ただ、日本では戸籍上の性別が、本人の社会的な性別になっている。生物学上の男性、女性とは言うなれば、外性器しか一致していない。もちろん中には外性器で判断がつかない場合もあるわけだけど。

外性器が男性だからと言って、内性器まで男性とも限らない。逆もしかり。性染色体がXYだから男性でXXだから女性とも限らない。そう考えると、何が男性で何が女性なのか、わたしは本当に性染色体も性ホルモンも性腺も外性器も内性器も全部女性じゃないと女性として好きにならないのか、と言われると、自信がない。

だいたい、わたし自身の性染色体なども正直、調べたことがないので分からないのだ。わたしが本当に完全に女性かというと、調べてないので分からない、というのが本当だ。なのにわたしは自分のことを女性だと思っている。もし、わたしが女性かどうかを調べて、もし、肉体的に完全な女性ではない、という結果が出たとしても、わたしは自分のことが女性であるとしか思えない。多分、この世界で生きてる人の大半がわたしと同じだろう。

とすると、わたしが自分のことを「女性である」と思っていることは、全く根拠がないことになる。たまたまわたしの肉体の一部は女性だと思うが、それだけを根拠に「女です」とは言えない。だから性別は「頭の中のもの」に過ぎない、というのが、今のところのわたしの結論だ。

でもね。「好きになる性別」は違うのだ。「頭の中が女性」という人だったらどんな人でも好きになるかというと、実はわたしはそうではない。肉体が女性じゃないと好きにならない。肉体が女性だったら、性染色体がXYでもいいかと言われると、そこはよく分からない。じゃあXXYだったらと言われるとそれもよく分からない。だけど一度でも男ジェンダーで育てられた人はちょっと嫌だなあって思ったりもする。もちろん、身体が女性でも男ジェンダーの人は好きにはならない(と思う)。すると、性別だけじゃなく、ジェンダーも関係あるのかよってことになる。

「性別は頭の中のもの」と言いながら、好きになる相手の性別は「頭の中のもの」だけじゃなく、身体やジェンダーが関係してくる。それはちょっと公平じゃないんじゃないの?って思うのだが、こればっかりは仕方がないんだよね、、

異性愛者の人も「自分が好きになる異性とは何か?」を考えてみるのも面白いんじゃないかと思う。中には「頭の中が自分と異性だったら、身体はどっちでもいい」って人もいると思うし。というか、実際いるしね。まぁそこのところの許容範囲(と言えばいいのか?)は女性の方が広いような気はするけれども。
22:57 | (性的少数者)自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
03-25,2014
3月は別れの季節
昨日は精神科通院と、あと半年ぶりの歯科受診の日だった。

精神科は主治医とはこれが最後。お薬手帳によれば2011年4月からの付き合いだから、丸3年間お世話になったことになる。最初、この主治医に変わったときはなんかとても頼りなく思えていらいらしたこともあったんだけど、思えばそれは、患者の意志を尊重してるってことなのかなと思う。ただ、状態が悪くて決断できないときに「この薬はどうですか」とは聞かないでよって思ったりもまだしてるけどね、、状態が悪いときは「この薬が○○さんにとっていいと思います」って言って処方して欲しいって思ってる。こっちは藁をもすがる思いなんだから、、

だけど、この主治医は話はよく聞いてくれる人で、わたし、大学病院の精神科って3分治療だと思ってたんだけど(過去、でかい病院(not 大学病院)に行かされたときがあって、そこでは医者自らが「うちは3分治療ですよ」って言ってて、本当にその通りの3分治療だった。わたしはそれで悪化して入院した)主治医は長いときは30分も話を聞いてくれたことがある。大抵は15分くらいなのだが、それでも同じ病院の他の医者に比べるとかなり時間は長い方だと思う(患者を呼び出す声で誰は診察時間が短いとかすぐ分かる)。予約診療だが、1人に時間がかかるので時間がすごくずれこむこともあったけど、まあ自分の話もたくさん聞いてもらってるし、他の患者さんも具合が悪いときはたくさんしゃべることがあるよねと思って、あんまり気にしなかった。というか、わたしが病院に行くのはだいたい昼前後なのだが、「主治医、昼ご飯食べてないよね?」って思うこともしばしばだった。

昨日の診察は、最近わたしが調子がいいこともあって和やかムードだった。

身体が痛いところや調子の悪いところはまだ残ってはいるが、それでも今月中頃からは睡眠剤を飲まなくても眠れるし、それに朝起きるのも以前と比べると早くなったし、なにより前は全く朝はお腹空かなくて、ひどいときはコーヒー1杯で十分だったところが、最近はなんと朝起きるとお腹が空いているのだ。少し前に比べると信じられないほどいい方向に進んでいる。

主治医はわたしが「最近はやりたいことがやれる」と言ったら「躁状態」に入ったのではないかと少し心配していたようだったが、いや、体調自体がいいんですと上のような説明をしたら、納得したようだった。躁状態だったら、夜は眠れないもんね。っていうか、双極性II型の躁状態ってどういう状態なのかはよく知らないが。てか、わたしはII型なの?確か自立支援の診断名に「双極性」とは書いてなかったような気がするけど、、(反復性うつ病だったような気がする)

そんなわけで、わたしは「体調が良いのでジプレキサを0.5mgにして欲しい」と言ったのだが、主治医は「いや、薬が効いてるみたいだからこのままにした方がいいと思います」と言い。ジプレキサを止めたのは確か去年の10月くらいだったかな。12月に入ってから調子が悪くなったのは、主治医は薬を止めたからだと思っている、と言った。しかしわたし自身はそう考えてなくて、季節のせいだと思っている。今、調子がよくなったのも暖かくなったからだと思うと主治医に言った。結局、主治医はわたしの考えを尊重してくれた。まぁまた調子悪くなったら戻せばいいだけの話だしね。

ってわけで、今回は調子がいいからそんなに話すことはないかなと思ってたんだけど、それでも終わって時計を見てみたら15分経ってたのでちょっと驚いた。

歯科受診の話は来週に。結局「つらい、苦しい」って訴えたら、マウスピースを作ることになって、昨日歯型を取って来たんだよね。それができあがるの来週なんで、来週にまとめて報告。

今回の処方。リーマス100mg、ジプレキサ0.5mg(夕食後)、金ハル(頓服10回分)
13:02 | 3度目のうつのこと | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
03-24,2014
引っ越して1年
2014-3-14-2.jpg   2014-3-14-1.jpg


今の家に引っ越してきて1年が過ぎた。

引っ越した当初は、毎日毎日手続きや部屋の片付け、買い物などでヘトヘトだったことを思い出す。あの当時のことを思い出すと、体調は悪くないと思っていたが、新しいことをやるのが不安だったり抵抗感があったりしていたような気がする。けど、性格的にあまり延ばし延ばしやるのが好きではないので、結構無理してやっていた。

4月からいろいろ動いて、無理矢理始めたこともあったが、結局それは続けることができなくて、一旦中断にした。それとともに大学の勉強も中止して本格的に休むことにした。決めたのは確か6月に入ってだったと思う。

それ以来1年近く、結構のんびり過ごしてきた。今は好きなときに本を読んだり、週1回程度だけどボランティアをしたりしている。少し前に「調子がよすぎて不安」と書いたが、最近はそれを感じなくなった。

調子がいいと自然とやりたいことがどんどん出てくる。もちろん、やりたいことを全部やるのはまだ無理だと思って少しずつ動くことにしているが、ちょっとずつ、無理しない範囲でやりたいことをやるようにしている。こないだは庭に「インカのめざめ」というジャガイモの種芋と彼岸花を庭に植えた。

「インカのめざめ」は去年、札幌に行ったときに食べたおいしかったジャガイモだ。「来年は絶対に庭で育てよう」と思ってたのだが、ジャガイモを植えるのはこの時期と知り、それまでずっと待っていたのだ。正直、野菜の栽培をするのは小学生のとき以来で、自分が主体になって植えたことはほとんど経験がない。芋を育てるのは初めてだ。事前にネットでいろいろ植え方などを調べたのだが、たまたまEテレを見てたら「ジャガイモの育て方」をやってたので、それを参考にして植えた。

彼岸花は、わたしが大好きな花で前々から植えたかったものだ。新美南吉の「ごんぎつね」の中に、兵十のお母さんの弔いの場面に彼岸花が出てくる。その情景がものすごくわたしは大好きで、だからずっと彼岸花を植えたいと思っていた。プランターでもよかったのだが、ちょうど庭が付いている家に引っ越せることになって、それだったら庭に植えようと思ったのだ。最初は赤い彼岸花だけにしようかなと思っていたが、いろいろな彼岸花を見るとちょっと他の色の彼岸花も植えたくなって、結局赤い彼岸花を10本、黄色い彼岸花を3本、白い彼岸花を3本、計16本植えた。

庭で土いじりをしていると、なぜか気が休まる。そこに暖かい日差しがあるとさらに今度は気分がよくなってくる。

陽に当たる、というのは不思議なものだ。それまでわたしは大して気分がよくなることはなかったのだが、毎日朝起きて日が照っているととても嬉しくなる。日の差す時間がとても貴重な時間に思える。庭に出る以外のときは、最近は大抵陽が当たる部屋で寝ころんでいるのだけれど、全身にポカポカ陽に当たりながら、ぼけーっと庭を眺めている時間がとても幸せな時間に感じられる。なんとも言えないしみじみとした趣というか、なんか、古文に出てくる文章みたいな感じだけど(笑)、「あーこの時間生きられて幸せだった」って本当に思えるんだから、日光ってどんなに威力のあるものなんだろうって思ってる。だってわたし、2007年に口腔異常感症を患ってから、口の中がずっと気になって気持ち悪くて幸せだなんて思えなかったんだもの。もちろん、日を浴びても口の中の気持ち悪さは全然変わらないが、それでも日を浴びている自分と陽が当たっている庭を眺めることは、ちょっとわたしを「幸せ」な気分にしてくれる。はっきりいって、もうそれで十分じゃん?って思ったりもする(だからといってこの先ずっと生きていきたくなったかというとそれはまた全然別の問題)。

ここに越してきて1年、その大半をわたしは休んできた。でもまだもうちょっと休もうって思ってる。ただ、ちょっとずつ行動範囲を広げていって、そしてそのあと自分の目標に向かって進もうと思っている。気分が落ち込んでいたときは「このままずっとやる気が出ないままだったらどうしよう」って思ってた。けど、調子がよくなると自然とやりたいことが見つかってくる。最近「やる気というのは、出ないときだけ感じるものなんだな」って分かった。やる気が出るときはあんまり「さぁ~、やる気が出たぞ」とは思わない。なんか、自然に行動できてる。だから、やる気がどうとかはあんまり考えないことにした。

うつ病は治る。治るけれども再発率が高い。特にわたしのように3度再発したら、4度目の再発率は90%なんだそうだ。ということは、もうほとんど4度目のうつも確定なのだが、まぁなってしまったら仕方がない。というか、もううつ病のままでいいかな、だけど、今の調子が続くんだったらそんなに悪くはないかなと思っている。あとは歯の状態がもうちょっと気にならない方法があれば言うことがないのだけれど。。

【画像左】インカのめざめを植えたところ
【画像右】彼岸花を植えたところ
00:22 | 3度目のうつのこと | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
03-19,2014
それでも花は咲いていく/前田健
この本は以前、友人に「この本いいですよ」って言われて、図書館で借りて一回読んだのだけれど、非常に心に残る本だったので、購入してもう一回読み直し、そして感想をきちんと書いておこうと思ったので書いている。けど、、多分思うことが多すぎて、ぐっちゃぐちゃになる、かも(^^;

わたしはこの本を書いた前田健という人は、芸人であるってことと、ゲイとカミングアウトしてるってことしか知らない。どういう芸をしてるとかは全く知らない。まぁでも知らなくても全然この本を読むのに困らなかった(と思う)。知ってたら「えー、この人こういうもの書いてるんだ」と思うかも知れないけど、別にそんなんがなくても中身だけで十分楽しめる。全体を読んでの感想だけど、これはすごーく計算し尽くされた一冊なんじゃないかなあって思う。

内容は、本人による(文庫版)あとがきによれば「セクシャル・マイノリティ」に属している人の話だという(直接こういう風には書いてないけど、文意はこんな感じ)。うん、確かに9つの短い話で構成されてて、各話は主人公も舞台も全然違う(オムニバス形式というのかな?)。そしてその中に出てくる人は、少女しか愛せない人であったり、セックス依存症(というのかな?)であったり、全然知らない異性の人の部屋に入って妄想する人であったり、SMの趣味がある人であったり、年上しか愛せない人であったり、セックスがしたくない人であったり、そしてゲイであったりして、いわゆる「成人した異性と恋愛してセックスができる人」(俗に言う「普通の人」)ではない。そういう意味ではここに出てくる主人公はみんな「セクシャル・マイノリティ(性的少数者)」である。

ところが、、いわゆる「性的少数者」の人の中で、小児性愛者とかSM愛好家(って2つ例に挙げたけど、この2つだけのことを言ってるんじゃないよ。以下も同じ)と一緒にされることをひどく気に入らない人がいる。いや、この文章からして既に「性的少数者」の中に小児性愛者とSM愛好家が入ってないってことに気が付くと思うけど。ただ、わたし自身は性的少数者の中に小児性愛者やSM愛好家が入っててもいいと思っている。思っているけど、じゃあ、普段わたしがこのブログでたくさん「性的少数者」って書いてるけど、この中に小児性愛者やSM愛好家が入っていると想定して書いているかというと、実は想定しては書いてない。なんで想定して書いてないかというと、言い訳がましく言えば、慣れとかクセなのかなあ?ただ「排除しよう」と思っているわけではない。

一般的に「性的少数者」や「セクシャルマイノリティ」という言葉は、LGBTと言われるレズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー(Xジェンダー含む)を中心に、パンセクシャル、アセクシャル(エイセクシャル)、ノンセクシャル(これは最近Wikipediaで削除されたようだが、、)、ポリアモリーなどを含んだ総称だ。そこには小児性愛者やSM愛好家、フケ専や二次コン(二次元コンプレックス)などは入っていない。レズビアンやゲイ、バイセクシャルは、性的指向の問題であって、トランスジェンダーは性自認の問題であると言われるが、小児性愛やSMは性的「嗜好」だと言われる。そして性的少数者はしばしば「指向」と「嗜好」は違う、と言ったりする。

確かに「指向」と「嗜好」は違う。ヘテロセクシャル(異性愛)を含む、同性愛や両性愛、無性愛、全性愛は愛情の方向性、それが異性に向くか、同性に向くか、両性に向くか、どこにも向かないか、全方向に向いているか、という「方向性」を示す言葉だ。一方、小児性愛やSM、フケ専や二次コン、セックス依存などは方向ではなく、好みだ。なので、性的指向と性的嗜好は両立する。異性愛者で小児性愛者、と言う人もいるし、同性愛者で小児性愛者という人もいる。異性愛者でSM愛好家という人もいるし、同性愛者でSM愛好家という人もいる。指向と嗜好は両立する。

指向と嗜好は明らかに性質が違う。だから、新聞や雑誌で「同性愛などの性的嗜好」と書かれると「性的嗜好じゃなく、性的指向だ!」と激怒する人がいる。そしてこう付け加える。「嗜好は単なる好みだけど、指向は生まれ持って変えられない性質だ」と。そしてそれは「嗜好よりも指向の方が上だ」というニュアンスを感じさせる。わたしもずっと長い間、そんな感じに思っていた。

だけど。「嗜好」も持って生まれたものじゃん?そして容易に変えられるものじゃないじゃん?って思う。よく考えてみるとね。なのに「嗜好」と蔑んで、下に見る。これって別に本人はそう思ってないかも知れないが、差別じゃん?自分たちが差別されて嫌な思いをしているのに、さらに差別される人が存在していいの?って思う。

おそらく、この本の著者もそういうことが言いたいんだと思う。だから「セクシャル・マイノリティ」の話の中に、一番最後の話にゲイの話を持ってきた。「指向」も「嗜好」も結局同じなんだよ、ってこの著者は言いたいんだと思う。まぁそのことに気づけるのは「指向と嗜好が違う」って知ってる人だけなんだけど。。だからね、わたしはそこに優しさを感じたんだよね。ああ、この人は優しい人なんだなって。

世の中に同性愛者と小児性愛者がごっちゃにされているなと感じるときがある。特にゲイは小児性愛者だと世間から思われている(そういやレズビアンは小児性愛者とは思われてないな)。そして性的少数者の話をすると「じゃあ小児性愛はどうなんだ」って言われることもあるのよね。。基本的に小児性愛をどう考えるかなんて、同性愛者だけの問題じゃないのに、なんで同性愛者が考えねばならんのだ?って思うときがある。そのような質問がなぜ出るかというと、同性愛が犯罪だと思ってるからじゃないかなって思うのよね。だから「同性同士で愛し合うことは犯罪じゃない」って言うと「だったら子どもと愛し合うのも犯罪じゃないのか。そうやって一つ認めると次々と認めなくてはならなくなって、社会の秩序が乱れる」って思考回路なんだと思う。だけど、判断力がある大人同士の恋愛と、判断力がない子どもとの恋愛って、全然違うと思うのよね。片方に判断力がなく、未成熟だからこそ、子どもとセックスしたら犯罪になるのだろうし。

ただね、、そう言えば言うほど小児性愛が蔑まれていくんだよね。確かに子どもに手を出した時点で犯罪だ。しかし、個人の「好き」という感情まで犯罪なんだろうかって思う。犯罪だからと言われて「じゃあ好きになるのを止めます」って言えるんだろうかと思う。その点「嗜好」であっても、好きであることはそう簡単に止められないのではないかって思うのだ。だから「指向は生まれつきのものであって変えられません。そこが嗜好と違います」という主張は間違っているんじゃないかと思うのだ。

うーん、本の感想なのになんでこんなことをつらつら書いてるかというと、最近、twitterで「小児性愛者であることを公にカミングアウトするべきでない」って感じのツイートを見たからだ。そういうことを言ってる人が性的少数者なのかそうでないのかは分からないのだけれど、ツイートした人は「カミングアウトする」ってことが、どんなにドキドキすることなのか、誰にも彼にもカミングアウトしてるわけじゃなく、自分を受け入れてもらえそうな人しかカミングアウトをしないのだってことが分かってないんじゃないかなあと思えたんだよね。同性愛者だとカミングアウトするだけでもかなりドキドキする。ましてや自分が「犯罪者」と間違えられる可能性がある小児性愛者だとカミングアウトすることって、かなりハードルが高いことだと思う。そしてカミングアウトすることは、別に「だから幼児、児童を襲いますよ」ってことじゃなく、小児愛者である自分を誰かに分かってもらいたいんだと思う。言えないことを持っていることは本当に苦しい。隠しておくことは苦しい。たった一人でも、自分の本当のところが分かってくれる人がいて欲しい、そういう感じではないのかなと思う。

この本の一番最初の話は小児性愛者の話だ。かなり、胸が痛くなる話。とても切ない。でも、それだけじゃない。この話の終わり方はこうだ。

神様――。僕は病気ですか?
僕はゴミのように燃えてなくなればいいですか?
白い手紙の破片に突っ伏して、朝まで僕は泣き続けた。
死ねばこんな僕も天使になれるのか、と思いながら眠った。
夢の中でまた奈美ちゃんが優しく僕を起こしてくれることを願いながら。

これさあ。最後の一文が気になるんだよね(笑)これがなくて「と思いながら眠った。」で終わると、とっても切ない感じに終わるの。でもこの話はこれで終わってない。死ぬことを考えている割には、愛する相手が夢の中に出てこないかなあってちゃっかり思ってる(笑)著者はこれを美しいだけの話にはしたくなかったんだなって感じるのだ。そういうところにわたしは「ああ、ちょっとしたところでもよく練られている話だな」って思うの。

そしてこの本の一番終わりの話はゲイの話だ。これもとっても切ない。相手に自分の思いが伝えられないところは、一番最初の話ととてもよく似ている。ただ、同じ切なさでも、ゲイの方は未来はほんのりでも明るい感じがする一方、小児性愛者の方はこの後、この人はどうやって生きていくんだろう?って印象を持つ。

そーなの。小児性愛者は人を好きになってもそれが叶えられることはない。手を出してしまった時点で犯罪者だから。それに子ども自身が非常に傷つくはずだ、身も心も。自分の願いが叶うことは大切に思っている相手を傷つけることに繋がる。だからといって人を好きになってしまうのを止められるはずもない。それゆえ相手には告白できず、常に自分の中だけに持っているしかない。でもそれだと苦しいから、自分の持っている悩みを誰かに言いたいと思う。けど、カミングアウトする相手を間違えたら受け入れられるどころか変態扱いされ、冷たい目で見られるだろう。そう思ったら易々とカミングアウトなんかできない。結局自分の中で気持ちを押し殺しているしかない。想像してみるに、これはとてもつらいことだと思う。小児性愛者は自分自身の願いを叶えられないけど、では一体どうすれば「ちょっとはマシ」になるんだろうって考えたことがある。でもこれは分からなかった。「同じ仲間がいる」と分かればちょっとは気持ちは楽になるんだろうかとか、「誰か自分のことについて話せる友人」がいればちょっとは気持ちは楽になるだろうか、っていろいろ考えたのだけれど。。

なのでね、上にちょっと書いたけど「小児性愛者だとカミングアウトするな」っていうのは、どう考えても酷だと思うのよ、わたし。そうじゃなく、逆にもっと社会が受け入れるようにならないと、受け入れるというと「なんでそんな変態を受け入れなければならないの。犯罪者予備軍じゃない!そんな人が社会に堂々と生きられるようになったら、子どもが危ない」って考えちゃう人もいるだろうけど、そうやって蓋をして孤立させる方がわたしは怖い。もちろん世の中では少年少女に手を出して、捕まる人もいるけれど、でも多分、必死に自分の気持ちを押し殺して普段は普通な顔してつらい思いをしながら生きている人の方が多数だと思う。彼らにつらさだけを押しつけて、こっちは平気な顔をしてるなんてできないよと思う。ただ、結局は彼らの思いは遂げられないわけだから、受け入れられる社会を作っても、一体、どの程度つらくなくなるのかなとは思う。小児性愛者の問題って、本当に難しいんだよね。

なんて、小児性愛のことばかり語ってしまったが(汗)

この本の話を読んでると、面白いことに自分が「受け入れやすい話とそうじゃない話」があるのに気が付くのね。わたしが自分が「受け入れにくいな」って思う話って、セックス依存だったりSMの趣味のある人の話だったりする。あとマザコンとか。共感しにくい、というのかな。やっぱり個人的に好き嫌いはあるようだ。この本の話、というわけじゃなく、その行為に対してね。人が好きでやってる分には嫌悪感はないのだけど(だから「SM趣味でやってます」って人がわたしにカミングアウトしてもなんとも思わない)、それを自分に当てはめて考えると、もうこれはなんとも言いようがなく嫌な気分というか、嫌悪感が湧き起こってくる。わたし「ああ、これだな」って思うの。例えば「同性愛者です」ってカミングアウトしたときに「気持ち悪い」とか「襲うな」って言われることが。別にカミングアウトするってのは「あなたが好きです」とか「あなたを襲いたいです」って言ってるわけじゃない。ただ自分が同性愛者だってことを知ってほしい、ただそれだけのことなんだけど、言われた方は自分に当てはめて想像しちゃうんだろうね。同性とセックスしてる自分なんかを思い浮かべたりしちゃうんだろう。だからすごく嫌悪感が湧き起こるんだろうね。わたしは大抵のことならカミングアウトされても大丈夫って自分では思ってるけど、でも、こういう話を読むことによって自分の中に特定のものに対して嫌悪感があるのを改めて気が付かされるので面白いと思う。まぁSM系の話を読むと毎回、こういう嫌悪感を持つのだが、、多分ねわたし、SMについては「人権侵害だ」って思っちゃうの、、好きでいじめられるというのがどうしてもわたしには分からない。だからMの人がいじめられている描写などを読むと、いじめているSの人をぶち殺してやりたくなる。「お前も同じ目に遭え」って。わたし根本的にSMが理解できないんだと思う。よく「SとMは高度な信頼関係の中でプレイしています」って言われるけど、わたしはどうしてもそれが理解できない。いじめたり、いじめられるのは本当に嫌だ。いや、分かってるよ、一般に「いじめ」と言われているいじめとSMは全然違うって。でも、わたしの中では同じなの。同じって言うか、違うと分かってるけど、感覚的に同じものと捉えてしまうの。

ってSM嫌いを熱く語ってしまった。でもわたしは別にSM愛好家の人を否定はしてないからね。自分の中でものすごい嫌悪感はあるけど。

この本の話の中の主人公は、男もいれば女もいる(そういえば性が揺らいでる人の話はなかったな)。男が主人公の話は割と結末が救いようがないってのも見られるけど、女が主人公の話は結末がハッピーエンドというか、一段落して終わるものが多いように思えた。これは、どういうことなのかな。わたしはセックス依存の女の人は、ああいう結末じゃなくもっとズタボロになって終わればいいのにって思ったのだけど、そうはなってない。二次コンの話も「あら、この人は二次コン卒業なのかしら?」って思わせるような結末だ。ところが男が主人公の話は厳しいものが多い。これは著者が女性に対して優しいからか、それとも男の「セクシャル・マイノリティ」は社会的に厳しいものが女性より多いからか。異性の部屋に忍び込んでそこで自慰行為をする、なんて、男には有り得ると思っちゃうけど、女の人でそれをやる人いるのかな~って思ったりもするしね(それは男性に対する偏見だと言われるとそうかも知れない、、)。って考えると、著者がなぜその「嗜好」を選び、その「嗜好」それぞれに男と女を当てはめていったのかと考えるのは興味深い。アセクシャル(無性愛)は女性が当てはめられてたけど、わたしは男性が主人公の話が読みたかったな~。

話の結末の好き嫌いも、もちろんある。さっきも「もっとズタボロになって終わればいいのに」って思ったって書いたけど、「なんか安易な終わり方だなあ」ってのもあった。アセクシャルの人の話は、それが直接の原因とは書いてないが、幼い頃電車の中で痴漢に遭った、ってことになってるんだけど、これはこういう設定にはして欲しくなかったよな~。なぜかというと、そこには別に「原因」なんかはないからだ。同性愛もそうだけど、別に「何かあって」、同性愛者に「なった」わけではない。「何かあってなった」と思われていることでも、別にそれはきっかけであって、原因じゃないと思っている。だって「異性愛者になった原因」なんてないでしょ。ないから言わないでしょ。っていうか多分、わたしはアセクシャルの人がすべて「過去の性的被害からそうなった」って思われるのが嫌なんだよね。中にはきっとそういう人はいると思う。いると思うけど、そうじゃない人もいる。どちらかというと「そうじゃない人」として描いて欲しかったって思ってる。

あと細かいところだけど、最後の話の題名は「サンフラワー」なのだが、物語の中では「向日葵」で出てくる。題名をカタカナで統一したかったんだろうと思うが、これは物語の中で出てきたとおり「向日葵」(もしくはひらがなで「ひまわり」)がよかったんじゃないかなーって思う。サンフラワーと向日葵って、わたしの中でなんかあんまり「同じもの」って思えないんだよね。イメージが違うというかね。

それからこれは誤植なんだけど、文庫本134pで「同姓を好きな人はホモセクシャル」ってあるんだけど、これは「同性が好きな人は」だよね。もうね、この間違いってよく見るんだよ。「同姓愛者」とかね。そのたびに誰のこと?って思う。同じ名字の人ばっかり好きになる嗜好はない、っていつも思うんだけどね。これは間違われやすいので、特にこういう話を扱う本では気をつけて欲しかった。

なんか最後は文句ばかり付けてしまったが、でも、この本の中の話は一話一話、本当に丁寧に考えられて作った話だと思う。話の内容に破綻はないし、細かいところの設定がとてもきっちりしている。あとつい「本当にありそうな話」だと思えてしまうところがすごい。そして各々の「嗜好」と自分がどのくらいの距離か、ってのが分かって本当に楽しい。小児性愛者のつらさは自分のつらさのことのように感じられるけど、セックス依存症はなー、なんか分かんないな、とか。

「性的少数者はLGBTだけだ」と思ってる人、「性的少数者の話が読みたい」と思ってる人、これはオススメだ(ただしこれだけ読んで性的少数者を分かった気にはならないでね。性的少数者の世界は本当に奥が深いんだから)。

なお、この本の3つの話をピックアップして映画も作られたらしい。それは今はDVDになってるんだけど、わたしは図書館で借りて読んだ後すぐにDVDも借りて見た。まぁまぁだったかな。ただ小説で「こんな感じの人」って想像を膨らませてるところで、映画は個々の役者さんが演じてるわけだから「想像と違う」ってところもあると思う。あと、なぜか分からないけど原作と設定が変わってる話もあった。わたしは本の方で自分なりのイメージを作ってしまったから、DVDはちょっと「なんか違うな」って感じだったのだけど、でもこれはこれでいいんじゃないかと思う。わたしはDVDの中でも小児性愛者の話が一番よかったと思った(キャスティング含めて)。主人公の男の人を見て「あれ、この人、すごく川谷拓三に似てる!」って思ったのだが、調べてみたら川谷拓三の子どもだったので、これまたびっくりした。昔、大河ドラマ見てて、母に「津川雅彦と長田裕之って似てるね」って言ったら「当たり前よ、兄弟だもん」と言われてびっくりしたのを思い出した。
12:24 | (性的少数者)本のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
03-18,2014
60万回のトライ
今日は渋谷に「60万回のトライ」って映画を観に行ってきた。

この「60万回のトライ」というのは、大阪朝鮮高級学校ラグビー部を題材としたドキュメンタリー映画だ。わたしは基本、スポーツは野球にしか興味がないので、大阪朝高のラグビー部が全国的に強いことなどは全く知らなかった。というか、ラグビーはルールすら知らない。。どうやったら点が入るのかとか、何をすればいいのだとか。ノーサイドとかワンフォーオール、オールフォーワンという言葉は知ってたが(これは以前テレビでやってた山下真司が出てくる「スクールウォーズ」を見ていたためと思われる)、知ってるのは本当にそのくらいだ。日本のラグビー界については、多分、ものすごい基礎知識的なことも全然知らないだろう、、って決して自慢しているわけではないのだけれど。

この映画を見終わった後、一番に感じたのが「マッチョな世界だなあ」ってことだった。それがラグビーの世界だからなのか、在日の世界だからなのか、大阪だからなのかは、わたしには分からない。飲み会の席で、OBと思われるおじさんたちがいきなり洋服を脱いで筋肉美を自慢する、みたいなのはそのどれにも当てはまるのだろうか。その後のボケとツッコミみたいな仕草は大阪ならではなのかなってちょっと思ったけれど。。

正直、わたしはこういう世界は苦手だ(笑)それは「女には入れない男の世界」というのを感じて疎外感を持つからだ。女はあくまでもマネージャーとか、支えるしかできなくて、主役にはなれないからだ。そこがとても複雑な思いがするのと、あとはわたしはもともと身体を動かすことが大嫌いなので、スポーツはほとんどやってないから、女性を含めたスポーツ選手に対して一種の「羨望感」があり、そのことから起こる「嫉妬心」なのかも知れない。

スポーツは男女を問わず、多かれ少なかれマッチョな世界なのかも知れないけど、もちろんマッチョなのがいけないと言うつもりはない。わたしが「あーこういう世界には入って行けないなあ」って思うだけ。ただ、野球とかサッカーとか、今までいろんなドラマやドキュメンタリー、あと生の試合を見ているが、やっぱりそれらに比べてラグビーは身体と身体がぶつかり合うスポーツだからか、体型的にもマッチョだよね。わー暑苦しいって感じ←失礼

映画の大半はラグビー関係のシーンだったので、一見すると「高校生の青春もの」って感じもして、それはとてもさわやかだった。試合中に怪我をしてしまう子が何人もいて、それによってレギュラーになれる子なども出てきたり、試合がベストメンバーで戦えなかったりする。そういうのを見るとなんか、現実ってドラマみたいなんだなってつくづく思う。試合中、脳しんとうを起こして試合に出られなくなった子が、準決勝前に自分のユニフォームを2年生の子に渡すところなんか、本当にドラマみたいだった。でもたった106分しかない中で、各個人の個性が分かるんだよね~。主将は本当に頼りがいのある主将って感じだったし、おちゃめな子はおちゃめ、真面目な子は真面目って感じ。。もちろん、この映画の中では「キャラが立った子」を中心にしてるんだろうけど、それでもその撮影する目がすごく優しいというかね、優しいからこそ、生徒たち誰もがすごくかわいく撮れてる。ああ、いい関係で撮影できたんだな~って思えるんだよね。

だけど話はこれだけじゃなくて、やっぱり朝鮮学校の補助金削除などの問題も当然絡みがある。映画の中に2回ほど、橋下元大阪府知事が出てくるんだけど、もうね~、腹立つわ(笑)「大阪代表で花園に行ったら当然応援に行きますよ」と笑顔で言ったその日に補助金削除を決定するわ、「朝鮮高校ラグビー部には頑張って欲しいです」と言いながら「朝鮮学校に補助金を出さないのは当たり前でしょ?よその国だって同じことが起これば僕と同じ対応をしますよ」と言い放つ。アンタ、弁護士なら人権守れよ!!人権守らん弁護士がどこにおるんや(っていっぱいいそうだが、、、)。そして当然のことみたいに路上に出て署名を訴える生徒ら、、まぁその前にもこの学校はグラウンド裁判なども起こってるわけなんだが。この人たちがなんでこんな嫌がらせに遭わなければならないのか。なんでこんなに「理解される努力」をしなければならないのか。そして「善良なこと」を求められるのか(そこですぐに「北朝鮮が!」って言い出す人もいると思うのだが、前にも書いたとおりこれは「教育を受ける権利」の問題、しかも「少数民族が少数民族として教育を受ける権利」の問題で、本国がどういう国であろうが少数民族の権利は護られるべきである)。

ああ、悲しい。わたしはやっぱり悲しい。なぜ日本はこんなに寛容じゃない国なんだろう。さらに寛容じゃなくなることを今なぜ、多くの人は求めているのだろう。

とはいえ、映画を観てるとやっぱり、わたしも違和感を感じることがある。それは言葉。朝鮮語に違和感があるのではない。彼らがその言葉を「使い分けている」ことが妙に気になる。いい悪いじゃなく、単純に気になる。学校内では朝鮮語で話すと聞いたことがある。けど、なんだかとっても「日本の言葉」が聞こえるような気がするのだ。わたしは朝鮮語は全く分からない。だから、どの単語が日本語と朝鮮語、共通の発音の言葉なのかは分からない。だけど、彼らの話している言葉を聞くと「なんか日本語と朝鮮語って共通の発音の言葉がたくさんない?」って思えちゃうのだ。「全く分からない朝鮮語」の場合は、字幕だけ見ればいいので、あんまり気にならない。けど時折混じる「意味の分かる単語」を聞くと、字幕を読めばいいのか、耳で聞けばいいのか、無意識のうちに頭がこんがらがってる。これはとても疲れる(笑)

あと「使い分け」というのがね。福岡かどこかだったと思うが、ラグビー部が試合に来たので、地元の初級学校の生徒を訪問するシーンがある。体育館で歓迎会が開かれたが、そこでの質疑応答はもちろん朝鮮語だ。ところが帰りのバスの中で大阪朝高の子がしゃべってるのは日本語だ。バスの中では日本語をしゃべりつつ、見送りに来たバスの外にいる児童に対しては「あんにょんー」(だったかな?)って朝鮮語を使う。彼らにしてはほとんど無意識のうちにできることなんだろう。けどわたしはそれがとても不思議でならなかった。もちろん公式には朝鮮語で話さなければならないのだろう。わたしの目からすると、彼らは日本語も朝鮮語も両方不自由なくしゃべれるように見える。だったらなんで朝鮮語だけで話さないのか?それともやっぱり日本語で話す方が楽なのかな、、?

それからやはり福岡のシーンでだったか、朝鮮学校ラグビー部の父、という人が出てくる。全源治さん(残念ながら今からつい20日ほど前に亡くなられたらしい)という人らしいが、この人がラグビー部の部員に対して一言言う場面がある。そこでももちろん朝鮮語だ。しかし「慢心するな」ということを言いながら、ある一部分だけ「日本語の台詞」なのだ。ある一部分というのは「『俺は強いんだ』と思わないように」という「俺は強いんだ」という言葉だけが日本語だったのだ。わたしはそれを聞いて頭が「???」だった。どこでどう使い分けてるんだ?あの部分はなぜ日本語で言わなければならなかったのか?って思った。

わたしは、その時折混じる「日本語と同じ発音のような朝鮮語(かも知れない?)」と「使い分け」によって話される日本語に、違和感をものすごく感じた。多分これはわたしが一カ国語でしかしゃべれないからだと思うが、多分在日の人たち、特に朝鮮学校に通ったことがある在日の人たちにとってはこれが普通なんだよね。

あとは3年の子どもたちが修学旅行で「祖国」に行く話。もちろん韓国籍である監督はそこに付いていけるわけじゃないので、誰かに託したカメラの映像なんだけれど、なんていうかね、不思議なんだけど「ああ、彼らはここに行けるけど、わたしは行けないんだ」って思ったの。その感覚がとても不思議だった。だって、わたしは普段、どこでも自分の行きたいところは行けると思っている。日本国内はもちろん、今行きたいなって思ってる外国は、スペインだったりキューバだったり韓国だったりするけれど、金と時間さえあれば、わたしはそこに行ける。それは当然のことだと思ってる。けど、行けないところだってあるわけなんだよね。でもそこに行ける人もいる。なんでわたしはそこに行けないの?って思う。それがとても不思議、、まぁ日本国内でも自衛隊の施設や米軍基地なんかは入れないと知ってますよ。だけどわたしはこんなに自由なのに行けないところがあるの?って思っちゃうのだ。

在日は、在日全部と言っていいのか悪いのかは分からないけど、この人たちは日本と韓国、北朝鮮を繋ぐ人たちなんだなって思う。わたしは以前、朝鮮学校サッカー部の人の話が書かれてる「祖国と母国とフットボール」って本を読んだことがあるのだが、もう、国籍と国とがぐちゃぐちゃしてて、わけ分からんようになってた。この3つの国を行き来できる人たちであり、一方で国籍を選ばなければならない人たちでもあり、そういうことは彼らの持っている権利ではなく、歴史が彼らをそうさせたわけであり、その歴史は悲しい歴史だ。3つの国を行き来できる彼らが羨ましいと思う一方、別に彼らの意志でそうなったわけではないことも理解しなければならない。結局、どういう風になるのが今後、彼らの一番の幸福に繋がるんだろうって考えることがある。朝鮮半島は統一され、そして日本で少数民族として暮らしていけるのが一番なのかな。でもそうすれば、わたしだってどこにでも行けるってことだよね(もちろん日本と北朝鮮が国交回復すれば、その時点でわたしは北朝鮮にも行けるということになるけど)。

この映画は元々、韓国人である監督さんが、韓国でほとんど知られていない「在日」について知ってもらおうと思って撮り始めた映画なんだそうだ。この映画の中でも朝高の選手が(日本に交流試合に来た韓国の選手から)「風呂場でお前は日本人だって言われた」ってシーンが出てくる。監督さんは「ごめんね」というナレーションを入れていたけれど。。そして今日、韓国でもなんちゃらっていう映画祭にこの映画がノミネートされたって、上映が終わった後、監督さんが言ってた。韓国でもたくさんの人に観てもらえるといいですね。

映画の最後に朝高を卒業したラグビー部の選手だった人たちが、今は何をやっているかが出てくるんだけど、日本のラグビー代表(under 20以下だったかな?)になってる人たちが多いのね。わたしは日本国籍を持ってないと代表にはなれないのかと思ってたけど(野球もサッカーもそうだし)、どうやらそうじゃないみたいなのね。一定の条件があるみたいだけど。わたしは素直に頑張って欲しいって思ったよ。ルールは全く分からないけど、これからちょっと注目しちゃいそう。そして大阪朝高もいつかは花園で日本一になれるといいね。こう書くとまるで朝高びいきみたいだけど、仕方ない、他のところは全然知らないのだもの。きっと他の高校でも同じようにドラマがあるんだろうな。まぁそれはスポーツ全般に言えることなんだけどね。

観終わったあと、自然に大阪朝高ラグビー部を応援したくなる気持ちになってしまう、ということは、監督さんがそういう想いでカメラを回したと言うことなんだよね。それが十分伝わってくる映画だったと思う。

それから映画の中の音楽なんだが、わたし最初「このヘタウマな感じは、高校生の吹奏楽部が一生懸命吹いてるのかしら?」って思ってたけど、よくよく聞いてみれば、これ、去年NHKの連続ドラマでやった「あまちゃん」の音楽を担当された大友良英さんが作曲したものだったのね。そういやなんかとても「あまちゃん」に出てきた音楽と作風が似てます(笑)わたしがこの映画を初めて知ったのは、去年の9月だったかに、同じ監督さんたちが撮影した「東日本大震災 東北朝鮮学校の記録 2011.3.15-20」+続編「After School」を観に行ってからで、そのときに「今、あまちゃんで音楽を担当されている大友さんが、この映画の音楽担当ですよー」って言われたんだよね。あまりにもさりげなく出てきたんで、すっかり忘れてた。でも音楽の記憶は強烈に残ります。映像と音楽がとてもマッチしてた。

この映画、まだ28日まで渋谷でやってるみたいなので、是非どうぞ。ラグビー全然知らんわたしでも楽しめましたよ。25日までは毎日ゲストが来ているそうです。映画終了後にトークショーがありました。

最後に「北朝鮮」という名称についてなのだが、本来この国の名前は「朝鮮民主主義人民共和国」であり北朝鮮って名称じゃない。だから本当は朝鮮民主主義人民共和国って書けばいいんだろうが、なんかとても長たらしい感じがして変なので使うのは戸惑っている。中にはDPRKって書く人もいるんだけど、なんかそれも特別な記号みたいな気がしてちょっとって思ってる。普段からアメリカのことをUSAって書いてる人だったら、まぁ違和感ないのかなって思うけど。あとは「共和国」って言う人がいる。でも共和国はここ一つではないから、わたしは共和国とは呼べない。ってわけで、一般的に日本で呼ばれている「北朝鮮」を使ってるわけだけど、なんかそれも違和感感じながら使ってる。。わたしは一体、あの国をなんて呼べばいいのだろうか。。
19:59 | (一般)映画のこと | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
03-10,2014
13周年
今日、3月10日は東京大空襲の日だが、それとともにわたしと彼女が付き合い始めた日だ。あれから丸13年経った。

付き合ってから13年、一緒に暮らし始めて来月で丸8年も経つのに、わたしはようやく最近、彼女との「性格の違い」を実感し始めた。いや、もしかしたら性格の違いだけじゃないかも知れないが。。

わたしは親、特に母親からの影響を強く受けているらしい。わたしの母親はかなり完璧主義で、掃除や料理の仕方、お皿の洗い方、その他生活の細々したことがかなりきちんとしていないと気が済まなかった。それをわたしはまぁ母のようには行かないけど、かなり真面目に受け継いでいるようだ。

ただ、こういう生活はうつ病にはつらい。なんせ、ほとんどのことにやる気が出ないのだから「こういう風にやりたくてもできない」という状態が長い間続く。やりたくてもできない、ってのは、自分を否定することに繋がるので実は自分を責めてしまってつらい。わたしは彼女と生活するようになってからほとんどうつ病なのだけれど(一緒に生活し始める1年前からうつ病だった)なるべくそのことは考えないように、考えないようにしてやり過ごしていた。

一方、彼女は性格的にかなり大らかな人だ。大らかで随分わたしは助かっていることもあるんだけど、家事なんかはこっちが見ていて「うーん」って思うほどおおざっぱなことが多々ある。なんか昔は結構きちんとしてた人だったらしいが、あるときから「別にやらなくても死にはしない」と思ってやるのをやめちゃったそうだ。

なので、彼女が仕事が忙しいときなどは本当にちょっと「なに、これ。。」って感じになるのだ。

それがこの1年の間、いや、これはここ半年くらいかも知れないけど、なんかやたら「なにこれ」って思うことが多くなってきた。文句は言うんだけど「気になるのだったら、ろんたこがやれば」と言われる。こういうとき、対等な同性カップルは不便だよな、気が付く方が結局やることになって損じゃん、って思うんだけど、なんか段々「もしかして、これが離婚の原因1位と言われる『性格の不一致』というやつなのか」って思うようになった。

今のわたしは働いてなくて、ほとんど生活は彼女に頼り切っている。経済的な理由でわたしの方が別れを切り出すことはできない。「これって、専業主婦が別れられないってことと同じだよな」って思ったりする。まぁわたしは今のところ、別れようとは思ってないけど、別れたくても別れられない専業主婦の人の気持ちがすごくよく分かるなー、本当に別れたくて別れられないのは本当にきついだろうなって思う。

あ、大切な記念日になんてことを書いてるんだ!!

結局、わたしが今さら彼女のやることなすことに気に入らないのは、うつ病が徐々によくなってきてて、本来のわたしに戻ってきてるんだろうと思う。気になることは、徐々に自分でもやっているが、それでもやっぱり自分が全部やるのはやだと思っている。なんせ、わたしは家事が好きじゃない。彼女も嫌いみたいだけど。。まぁでもこういうとき「女だから」という理由で家事を押しつけられる身じゃなくてよかったと本当に思う。わたしゃ仕事してるとき、一人暮らしだったけど、仕事はやりがいがあって好きでやるのやだとは一切思わなかったが、家事はめんどくさくてめんどくさくて本当に嫌いだった。仕事だけやればいい男って本当に楽だよなって思ってた。今も思ってるけどね(笑)だからわたしの母親を始め、毎日家事をしている人は本当にすごいって思う。わたしには到底できないから。

なんか、記念日になんでこんなこと書いてるんだと思うけど、まぁ丸13年経って、今のわたしの状況はこんな感じ。

今日は例年どおり、ちょっと贅沢をしようと思って、近所のレストランを予約して行ってきた。初めてのところで、前評判は結構よかったところを選んだつもりだったのだけど、、確かにワインはおいしかったけど、料理はうーん、って感じだった。最後のコーヒーもちょっとぬるくて薄かったし。おいしい料理もあったんだけどね。あと雰囲気はよかったんだけどな~。別のメニューも試すべきか、ちょっと悩むところ。

来年はどうなってるかな~?あ、どうなってるかなってのは、わたしの状況のことね。今の状態がさらによくなって、彼女との生活、初と言っていいくらい、普通の生活ができていればいいのだけれど。。
23:06 | 二人のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
03-09,2014
マジョリティとマイノリティと
今日は、国立オリンピック記念青少年総合センターってとこで「朝鮮学校差別に反対する大学生全国集会」というイベントがあったんで、行ってきた。

シンポジウムと活動報告と演劇があったんだが、その間、いろんなことを考えてた。自分の思考のパターンについて。わたしはこの手の話を理解するためには、必ず「性的少数者」というフィルターで物事を見て理解している。「ああ、これは性的少数者の話で言うとこんな感じだ」とか「これはちょっと性的少数者の問題とは違うな」とか。そうするととても理解しやすいことは理解しやすい。時折感じる疎外感は、おそらく性的少数者の中にいるアライ(Ally:性的マジョリティで性的少数者に理解がある人)みたいなもんなんだろう、とか。逆に「あー、性的少数者の中にいるアライってもしかしたらこんな気持ちなのかも」ってちょっと新鮮に思ったりした。

なぜか来ている人の中で「誰が日本人か」ってことがすごく気になったりした。別に誰が日本人で誰が朝鮮人でも全然構わないのだけれど、もしかしたらこの中では自分は少数者なのかも知れないと思うと、ちょっとドキドキしたりした。なんでなんだろう?別にだからどうだってことは、全くないのに。そんなので区別をする方がおかしいんだって思おうとした。けど、集会ではやっぱり「日本人の支援者の人たちが」とか言われる。そのたびに違和感を感じた。「向こうだって区別してるじゃん」って。

(これって例えば性的少数者のイベントで、異性愛者が周囲の人を見渡して「誰が異性愛者なのか」って思ったり、「もしかしたらこの中で自分はマイノリティなのかな」ってドキドキしたりして、「いや、でも別に襲われるわけじゃないし、異性愛者も性的少数者も区別ないじゃん」と思いつつ、周囲から「ノンケ(=異性愛者のこと)」とか言われて「やっぱ性的少数者の方は区別してるのかな~」って思うこととすごい似てると思う。それを考えると性的少数者側は「区別してます」としか言いようがない。。)

などと、自分の中でぐちゃぐちゃ考えてたりした。そんな風に考えていながらも「いや!やっぱり性的少数者のフィルターを通して見てはダメなんだ。」と思ったり。だってすべて性的少数者の問題と置き換えて考えることなんかできないし、そのフィルターを通して考えることによって、曲解したり誤解することもあるんじゃないかと思ったから。まぁでもつい、やってしまうのだけどね、、

「日本人の支援者」と言われるたびに複雑な気持ちがした。「朝鮮人が当事者として差別に立ち向かいましょう」と聞くと胸がざわざわした。

だって、これは日本人の問題じゃん!

って言いたい気持ちがした。何人かの人が、日本人がこの問題に対して支援する理由として「再びあの時代を来させないため」というのを挙げた。ニーメラー牧師の有名な「わたしは共産主義者ではなかったので、声を挙げなかった、、」という言葉を挙げた人もいた。

でも!

って思う。それじゃ、朝鮮学校の問題って「炭鉱のカナリア」みたいじゃんって。違うじゃん。日本人が、将来の日本人の生活に危害を及ぼされるから、今、朝鮮学校を支援するの?違うじゃん。

日本は戦前から一貫して、朝鮮人を差別してきた。当事者なのは、差別をしている日本人の方だ。わたしたち日本人が(わたしたち日本人はって言い方大嫌いなんだけど)、自分たちの問題として取り組まなければならないんじゃないの?わたしたちは学校で「人を差別してはいけません」って習う。けど、差別してんじゃん。国からして差別してるじゃん。「国は差別するな」となぜ日本人が主体的に問わないのか。

ただね、、これもやはり性的少数者の側から考えると「性的少数者を差別しているのは、シスヘテ(性別違和のない異性愛者のこと。意味としては先ほど出て来たノンケとほぼ同じ)だろう。だからシスヘテが差別当事者なのだ。だから差別をする方が主体になってこの世の中の法律や環境を変えろ」って言ってるのと同じなんだよね。でも、シスヘテ自ら「同性婚できないのは、同性愛差別です」なんて言ってくれない。放っておけば同性婚なんて永遠に話題にならない。だから「やはり痛い目にあっている方が声を挙げなければ、その声はマジョリティに届かないのだ」って結論になる、、、

でもさぁ。わたしも時々そうなるんだけど、声を挙げ続けることって疲れるんだ。「なんでいつも説明しなくちゃいけないのは少数者で、多数者は説明を受けて当たり前、みたいな顔してるわけ?」って思うんだ。だから学生たちが必死に声を挙げているのを聞くと、痛々しくて見ていられないんだ。。時に「疲れた」とか「もう止めたい」とか思うだろうなって。「主体的に動いていきます!」って言ってる裏で「なんでこんなことしなくちゃならないの?」って思ってないかなって心配になる。

集会は、一番最初にサなんとか?よく聴き取れなかったんだけど、全部で5文字くらいの、太鼓と鐘を集団で叩く、民族音楽というのだろうか?なんかよく分からないけど、そんなのから始まった。わたしはそういうのを初めて見た(聴いた)のだけど、なんかすごく興味深かった。

シンポジウムは鄭さんっていう明治学院大学の准教授が「無償化から排除されることと、朝鮮学校の教育内容は本来は関係ないこと」と言ってた。わたしもそう思う。民族教育が保障されることは、人権の一つだ。人権とは、人間が生まれながらにして持っている権利のことだ。それは誰もが侵害されてはならない。日本人は人権を持っているという意識が薄いので、他人の人権も尊重できないのかなって思うことがある。わたしだって朝鮮学校と北朝鮮の繋がりについては知っている。でもそれが何?繋がりを断てば保障される人権なんて、それは人権とは言わない。人権とは、生まれながらにして持っている権利だ。教育を受ける権利は誰もが持っている。しかも、少数民族は少数民族として教育を受ける権利をきちんと持っている。

正直わたしは、無償化問題についてはそれ以外の理由なんかいらないと思っている。今日ももちろん国際人権法上の権利とも説明されたが、それ以外のことについてもいろいろ理由が挙げられた。それはそうなのだろうが、わたしとしては「これは人権問題です」としか言いようがないような気がする。まぁ世の中「人権問題です」と言って「はい、そうですか」じゃ済まないのはよく分かっているのだが。。

シンポジウムではもう一人、藤永さんっていう大阪産業大学の教授が話したんだけど、主に全国で起こしている裁判の話だった。この人の話で一番心に残っているのが「最近、反日という言葉をすぐに投げかけられるが、その言葉を聞くと、戦前、戦中に言われた『非国民』という言葉を思い浮かべる」と。ああ、そうだよね~。そうやって人を排除する言葉なのだ、反日も非国民も。

最後にやった劇は、戦後(解放後)すぐに朝鮮学校ができて、それが'48年以後に弾圧されて閉鎖令が出てって話だったんだけど、なんて言うんだろう、時折すごく違和感を感じるの。劇中、何曲か歌を歌うシーンが出てくるんだけど、わたし、その歌全く知らない。背景も知らない。もしかしたら、朝鮮学校で習う歌なんだろうか?とか、誰もが知ってるポピュラーな曲なんだろうか、とか、歌詞がなに言ってるんだか全然わからないので、想像しようもない。あと多分日本語で「先生」とか「お姉さん」とか「お兄さん」とか「おばあさん」とか、そういう意味の言葉なんだろうけど、その部分だけ朝鮮語なの。わたしは朝鮮語は全然知らなくて意味分からないから、そういうところにすっごく違和感を感じた。

そう、わたしは先ほど「多数者は説明されて当たり前だって思っている!」と書いたが、何のことはない、わたしだって説明しろとは思ってないが、知らないのは当たり前、違和感を感じるのは当たり前、自分の持つ感覚は当たり前だと思って書いている。これってマジョリティの傲慢じゃん。。。なんか、書いてて嫌になるね、矛盾してて。

ただ、多数者の論理としては「どうやって知れっていうんだ」ってことだろう。だけど、少数者としては「本とかたくさん出てるんだから、それを読んで勉強しろ」なんだよね。。ええ、読んでますよ。でも、なんか難しいのだ。きっと性的マジョリティも「性的少数者の言葉は全然分かんない」って思ってるだろうな~。まぁ性的少数者の言葉は当事者にさえ難しいもんね。。なんて、結局ね、こうやって自分の中でマジョリティとマイノリティの論理を自問自答してるのだ。そして、それはたいていの場合は明確な答えなんかない。だから、、難しいね。

劇の中で、日本の警察官が出てきたのだが、その役をしてる人たち(2人)の衣装が高校の制服(学ラン)みたいだった。そして、劇が終わってから全員揃って観客に挨拶したときによく見たら、その二人とも、学ランの第2ボタンがないのを発見しちゃって「あ~、2人とも、第2ボタンは誰かにあげちゃったのかしら。。」とか、内容と全然関係ないことを思ってしまった(笑)

最後に。上にも挙げた大阪産業大学の藤永さんがシンポジウムの自分の発表の最後に「能力がある人は能力を、金がある人は金を、力がある人は力を出そう」って言葉を朝鮮語でスライドに出した。「学生は今のところ、能力も金も力もないだろうけど、将来、何かができるようになって下さい」って言ってたけどさ、わたしみたいな、歳を取ってしまって能力も金も力もない人間は、一体何ができるのだろうか。。


【追記】紹介されたニーメラー牧師の言葉。ただ集会では「諸説あるようですが」とのことで、下記の言葉とは少し違う内容が発表された(ナチスは自分を攻撃したが、もう誰も残っていなかった、みたいな感じだった)。下記は以前わたしが読んだ、斎藤貴男、森達也著「日本人と戦争責任―元戦艦武蔵乗組員の『遺書』を読んで考える」に書いてあったもの。

ナチスに逮捕され、収容所から生還した牧師のマルチン・ニーメラーの有名な証言。ボストンのホロコースト慰霊碑に刻まれている言葉。

ナチが共産主義者を襲ったとき、自分はやや不安になった。けれども結局自分は共産主義者でなかったので何もしなかった。それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども依然として自分は社会主義者でなかった。そこでやはり何もしなかった。それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行なわなかった。さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であった。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであった。

22:26 | その他 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
03-05,2014
不安だ
なんか、すっごい久しぶりに不安な気持ちになっている。ここ1年以上は不安感は感じてなかったので、本当に久しぶり。

原因は、なんかしょうもないことで、この間、ふと「今、調子がいい」って思ったのだ。調子がいい、って思うのも、もしかしたらすごい久しぶりだったかも知れない。おそらく1年以上は調子がいいって思ったことはなかったような気がする。

なんか、最近動けるのだ。もちろん、去年の末から身体が痛かったりして、調子自体はあんまりいいとは思ってないのだが、まず「やろう」と思ったことに対して、すんなり身体が動くようになって来た。だから、もうずっと、家事(と言ってもコンスタントにやってるのは、洗濯と掃除だけ)をやるのもギリギリ、我慢できるまで我慢して、我慢できなくなってから(=溜めて)仕方なしに無理矢理身体を動かす感じで掃除や洗濯をやってた。

けど、最近は天気がいいと「あ、じゃ、洗濯やろうか」って気持ちになる。最近は雨続きでなかなか洗濯が出来ないので、洗濯物が溜まるんだけど、そういうときは洗濯機を2回回したりしてる(前は出来ない分は次回に回してた)。洗濯や掃除以外の、例えば、食器を洗ったり、何か作ったり、ってこともちょこちょこできるようになった。前は動きたいと思ってなかったので、必要最低限のことしか思い浮かばなくて、その分、用事も最低限になってたと思うけど、今は、なんかいろいろ気が付くので、ちょこちょこ外に出るようにもなった。

そして、そういう風にできる自分に気が付いたところで、不安になったのだ。「いつまた調子が悪くなったらどうしよう」って。

うつ病にかかった人間なら分かると思うけど、少し調子がよくても次に調子が悪い波が来たときに「ずーん」って落ち込む。しかも調子が悪くなっただけじゃなく、さらに「動けるようになったと思ったのに、まだ治ってなかったのだ」という落胆をすごく感じるんだよね。だからそれが何度も続くと今度は調子のいいときにさえ素直に喜べず「もしや、また調子が悪くなったら」ってどうしても思っちゃう。繰り返すうちに人間は学んでしまうのだ。

もちろんそういうことを繰り返していくうちに、調子がいいときも「いや、ここは動けるけど動かないでおこう」って思うようになる。結局うつ病って体力的なエネルギーや行動エネルギーが枯渇することだから、それが少し溜まった時点ですぐに動くとまたすぐにエネルギーがなくなって動けなくなる。それは結局持続的に動けるようになる(=健康な人と同じになる)こととは違うってことが分かるから、とにかく基礎的なエネルギーをどうやって自分の中に維持できるかを意識することが大事になって来て、そうすると「調子がいい=すぐに動く」になってこないと思うんだよね。

でも、そういう風にしてるつもりでも、やっぱり波は来る。あんまり無理してないつもりでも、あるときすごく気分が落ち込んだり動けなくなったりする。「本当に自分は治るのかなあ」って思い始める。それがまた自分を責めるきっかけになって、落ち込む自分をさらに貶める。悪循環なんだよね。それをどうやって脱出するかは、正直、わたしにも分かんない。ただ言えることは、動いたら休めないってこと。とにかく休んだと思っても、身体はそんなすぐにはエネルギーは溜まらないのだってことを本当に自覚しないと回復には繋がらないんじゃないだろうか。。

ってことで、わたしの場合は、ここ1年以上、不安も感じてないので、かなりいい感じだとは思うんだけど、病気が治るためには、最後に「関門」があると思うのよね。これ、2度目のうつのときもそうだったんで、多分今回もそれだろうな~って思ってるのだけど、病気がよくなると行動力が増して、自分の世界が広くなる。そうするとね、怖いのよ。今までずっと自分の殻に閉じこもっていて、世界は自分の前の数歩程度しかなかった。それが急に広がるととても怖く感じるのだ。

前はこの時点でカウンセリングに行って、それでそれがかなり有効だったんだけど、、あのカウンセリングももうなくなっちゃったので、今回は自分でどうにかするしかない。ほとんど「慣れ」だと思うので、時間が経てば怖くなくなるかも知れないと思いつつ、もしかしたら病気がまた悪くなったのかも、という一抹の不安は抱えている。しかし、こういう不安はあまりよくないのだけどね。不安が不安を呼んじゃうから。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」だと思うことにしよう。。気にしない、気にしない。
14:00 | 3度目のうつのこと | トラックバック(0) | コメント(6) | page top↑
02-25,2014
人間には誰にでも何かとの出会いがあるはず
あんまりこういう感じの題名は好きじゃないのだが(笑)

ただ、今回の日記は、書くことが決まっている割にはどういう題名を付けていいのか分からない。最初は「うつが治った言葉」にしようかと思ったんだけど、確かにこれはわたしはその言葉で1回目のうつ病が治ったと思っているだけで、別に誰でもその言葉で治るわけじゃないからね。次に「人生を変えた言葉」を考えたんだけど、まぁ確かにうつ病が治って次の一歩を踏み出したわけだから、わたしの人生はある意味変わったのかも知れないけど、普通「人生を変えた言葉」ってあんまりそういう意味じゃないような気がしたので却下した。というわけで、あんまり妥当な題名が思い浮かばないまま、今に至る、、

前の日記で「神さまってなに?」という本の感想を書いたのだけれど、その本の中に、一箇所、こういうところがある。

 それは今から10年ほど前の話になるけれど、長く海外を放浪していた友人が、やっと日本に帰ってきた。久しぶりに会って驚いた。出発する前は多くの日本人と同じように特定の信仰を持たなかったはずの彼が、とても敬虔なクリスチャン(キリスト教徒)になって帰国したからだ。
「旅の途中、スイスとフランスの国境近くの村を通ったんだ」
 友人は言った。
「雪をかぶったアルプスの山なみがすぐそばにあって、小さいけれどとてもきれいな村だった。集落のはずれに古い教会があった。ふと中を見たくなった。それでもいろんな国で何度も教会のそばを通ったけれど、そんな気分になったことは初めてだ」
 教会に近づいた友人は、頑丈そうな木の扉を押した。たぶん鍵がかかっているだろうと思っていたのだけど、軋んだ重い音を立てながら、扉はゆっくりと開いたという。
「広い礼拝堂だった。でも誰もいない。しーんと静まり返っている。祭壇のほうに近づきかけたとき、突然パイプオルガンの音が、礼拝堂の中に響いたんだ」
 語りながら友人は、視線を宙に漂わせた。口もとはかすかな笑み。たぶんその瞬間を、思い出しているのだろう。
「パイプオルガンが鳴り始めるとほぼ同時に、ステンドグラスから夕日が差し込んできて、僕は陽の光に包まれた。パイプオルガンは荘厳に鳴り続ける。バッハのミサ曲だ。そのときにはっきりと感じたんだ。神の存在を」
 パイプオルガンが突然鳴り響いた理由は、友人より少しだけ早く来ていた教会のオルガン奏者が、明日のミサのために練習を始めたからだ。友人はオルガン奏者がいることに気づかなかった。誰もいないとばかり思っていた礼拝堂で、突然パイプオルガンの音が大音量で響き、驚く友人の視界に、西の空に沈みかけた夕陽の光が、ステンドグラスの窓から差し込んできた。
 言葉にすればそういうことだ。別に奇跡でもなんでもない。でも友人はその瞬間、生まれて初めて味わうほどの激しい感動に身を包まれたという。たったそれだけの偶然が重なっただけなのに、まるで湧き水のように涙が止まらなくなったという。
「・・・・・・愛されていると感じたんだ」
 首をかしげる僕に友人は言った。
「言葉の説明だけじゃ納得できないだろうな。でもその瞬間に確かに感じたんだ。愛されている自分を。そして赦されている自分を。いろいろ悩んだり考え過ぎたり考えが足りなかったり失敗ばかりしている自分を、いつまでもどこまでも肯定してくれる存在を。おまえはそれでよいと抱きしめてくれる存在を」

わたしさぁ、ここのところを読んだら涙が出て来たんだよね。わたしにもこんなことがあったなあと。こういう気持ち、すごくよく分かるなあと。ただ、わたしの場合は宗教との出会いじゃなかった。だから宗教の出会いだけじゃなく、別の出会いでも人はよくこんな思いをすることがあるような気がする。

わたしの場合は、言葉だった。わたしはそのとき、うつ病で実家にいた。あるとき何気なく一人でテレビを見ていた。それは「知ってるつもり」っていう番組で山本周五郎が取り上げられていた。あの番組は最後の最後、その人が言ってた言葉が紹介されるんだったと思う。そこに出てきたのが、

「絶望」とは人間だけが持つことのできる黄金である。

という言葉だった。

わたしはそのとき雷に打たれたようになった。「人間だけが」というのは、わたしにはあんまり問題じゃなく、絶望は黄金なのだ、ということが頭の中をぐるぐる回った。

わたしはそのとき絶望していた。目指していた研究者は嫌になり、でもこの先何をどうすればいいのか全く分からなかった自分。同性愛者であることは特に悩みはしなかったが、これから同性愛者という「少数者」して生きていかなければならない自分。うつ病である自分。まだ20代だったけれど、わたしの人生はこれからずっと絶望しかないと思っていた。

それが、その絶望は実は黄金なのだ、自分の心の中は真っ黒だと思っていたその中に、実は黄金がかすかに光っているのでは、と想像したときに例えようもない気持ちが湧き起こってきた。絶望は持っててもいいんだと思った。わたしはこれから先もずっと絶望感を抱えて生きていくことに絶望を感じていた。でもそれはもしかしたら絶望ではなく自分にとって大切なものになり得るものなのかも知れない。あとで考えるとそんな感じだったんだと思う。が、そのときはとても感覚的なもので、言葉に言い表しようがないものだった。この上で引用した森達也の友人の言葉で言うと「赦されている自分」に近い感覚だったのかも知れない。とにかく真っ暗だと思ってた中に何かがあるんだ、それだけでとてつもなく心が動いたんだよね。

そしてわたしはその言葉を繰り返しながら外に出た。細かな季節はもう忘れてしまったが、多分夏の初めか夏だったんじゃないかと思う。川沿いに背丈ほど草が伸びている場所に行って(なんでそこに行こうと思ったのかは分からない)草をかき分けながら、何回も何回もその言葉を噛み締めた。今でもそのことはよく覚えていて、目の前にその風景が浮かんでくる。

ただ、だからといって瞬間にうつ病が治ったとは思えない(当たり前だ)。けど、その言葉を知って以降、わたしは変わったと思う。

あのときはまだ世間に今ほど「うつ病」というものが知れ渡っていなかった。わたしは病院に行ってうつ病と診断されて(というか「軽いうつ」って言われた。'94年頃だったかな。。)薬が出された。最初に出された薬は全く効かなくて、次に出された薬は頭がクラクラしたんだよね。それを親に言ったら、親は「そんな薬飲んだら怖い」って言って、わたしから薬を取り上げちゃった。だからその当時、わたしはうつ病だったのに薬は全く飲んでなかった。あ、だからといって、わたしは「薬を飲まずにすべてのうつが治る」とは思ってない。たまたま、運が良く、薬を飲まないでもよかったってことだと思っている。2度目のうつは身体症状から先に出て、それは薬じゃないと治らなかったと思うし、適量飲めば、薬は悪いことはないと思っている。今だってずっと飲んでるしね。

ただ、だから「人生を変える言葉」ってあると思うのだ。そして、それはもしかしたら、人と宗教が出会うときと似てるのかも知れない。少なくとも、わたしは上の文章を読んだとき、自分のこのことがパーッと思い出された。「ああ、多分あんな感じだ」って共感できたのだ。もちろん、そういう出会い方をしなかった信者もいると思うけどね。

でも面白いのは、あのとき、わたしは本当に本当に苦しくて「何かにすがれるものならすがりたい」って何度も思ったのよ。けど、結局は何も信じられなかった。あ、別に具体的に神社や寺に行ったり、教会に行ったりしたわけじゃないけど。。あのとき行ってたら何か変わったかも知れないね。でも、わたしは行く気がしなかった。森達也の友人が「ふと(教会の)中を見たくなった」という「そのとき」じゃなかったんだと思う。けどその代わり、わたしは「言葉」と出会えた。その言葉に対しては「そのとき」だったんだろうとわたしは思う。

けど、その言葉の効果も今はないねー(苦笑)あの言葉は今のわたしには全く心を動かされないものになってしまった。まぁ仕方がない。あれから2度3度とうつ病を繰り返したから言葉も効力を失ってしまった。前の日記に書いたとおり、今のわたしは「生きたい」って思ってないけどさ、積極的に死ぬことも考えてない。生きててあんまり楽しいとかよかったとか思うこともないけど(前向きな言葉は大嫌いだ)、「自分を責めるのは止めよう」って思ってからは、結構楽に生きられるようになった。今はそれで十分だって思ってる。

ちなみに。山本周五郎はいつ、どこであの言葉を言ったのか。それがすごく気になってね。いろいろ調べた結果、「泣き言はいわない」(新潮文庫)って本に載ってることが判明した。ところがそこには

「絶望」は人間だけがもつことのできる黄金である。同じ意味で「酒」とよく似ている。
(断片-昭和25年のメモより)(34p)

って書いてあった!えっ、ちょっと待って。続きがあったの?しかも「絶望」と「酒」が一緒になってる。おーい、わたしは酒が黄金とは思わないよー(笑)わたし、そんなにお酒好きじゃないし。知らなければよかったと、調べたあとに思ったのだった。
21:54 | 過去の自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
02-22,2014
神さまってなに?/森達也
これは一度、2010年頃に既に読んでいる本なんだけど、最近わたし自身が「神さまって何?」って考えてるので再読した。

前に読んだときにわたし、この本に対して星を4つ付けてるの。5段階評価で。わたしが星5つ付ける本ってまずないので(読んで自分の人生が変わったとか、相当心揺さぶられたとかそういうのじゃないと5つは付けない)4つというとかなり高評価の部類だ(本の評価は以前はソーシャルライブラリーってアプリで付けてて、今はブクログで付けてる)。

でも、正直、再読する前はこの本に何が書いてあるのかさっぱり忘れてしまっていた。そして2回目、読み始めたんだけど、途中までは「わたし、なんでこの本に星4つ付けたんだろう?」って言うほど面白くなかった。それは最初から「神さまはいる」って前提で話が進められているような気がしたから。いきなり「人間が神を求める理由」ってのが書いてあって、そこには「人間は自分に死があることを知ってしまったために、宗教を求めるんだ」って書いてあって、おいおいって思ったから。いきなりそこかよって。

人が死を知ってしまったために宗教を求めるのも、もちろん分からないでもないが、わたし自身は納得できないのだ。前にも何回か書いたと思うけど、わたしは死後の世界はどうでもよくて。というか、逆にわたしにはあっては困るのだ。魂が生き残るのもいやだ。死んだら一切が消滅しないと嫌なのだ。自分が存在すること自体が苦痛だから。それにいくら「そこでは永遠に心安らかでいられる」と言われても、苦しみや怒りなどの感情がない世界は、逆に楽しみや喜びもない退屈な世界なような気がするのだ。仮に楽しみや喜びだけの世界だと言われても、毎日ずっとずっと楽しみや喜びだけの世界って、そのうちまったく面白くなくなる世界だと思うわけなんだよね。苦しみや怒りなどのマイナスがあるから、逆に楽しみや喜びが何十倍にも大きく感じられるんだと思う。あとずっと心安らかなのも、ただ息をするだけで苦痛を感じている自分にとっては、地獄にいるのと等しく感じられる。わたしが心安らかでいられるのは、この世からもあの世からも抹殺されないといけない。消滅して初めて心安らかでいられるなあと思うのだ。

だからわたしには宗教でいくら「あの世で救われる」と言われても、それだとわたしは救われないのだ。で、「これが宗教の存在理由です、だから神さまはいると人間は感じているのです」と言われても、わたしは納得できないのだ。

この本はそういう説明をしたあとに、仏教、キリスト教、イスラム教の世界三大宗教の成り立ちの話が出てくるんだけど、仏教の部分はとても退屈だった。だからわたしは読んでて「なんでこれが星4つ?」って思ったのだった。なんていうかね~、仏教の教えってわたしには救いがないように感じられるのよね。言ってることは宗教的というよりも哲学的だし、あと「人生は苦しいものだ」と決めつけている感じがする。まぁ仏陀が悟りを開いた頃の民衆の生活はただ苦しいだけだったのかも知れないが、今のわたしはつらいながらも一瞬楽しかったり、面白かったり、心を動かされるときがある。まぁそれで「生きててよかった」とは思わないが、そういうひとときがあるからまだ生きていけるんだという気がしている。けどね、仏教って愛別離苦、というように、愛すらも苦しみなんだよね。ものに執着するのは苦しみだから、ものに執着しないようにしましょうって教えなのだ。これってあんまりだと思わない?なんか仏教の目指すところっていうのが、わたしにはとても「そうありたい」とは思えなくて、だからこそもっと仏教のことを知りたいと思っているのだが。。

あ、なんか仏教に対する文句になってしまった(笑)これは本の感想文だった。

だけどね~。キリスト教に入ってからしばらくして、俄然面白くなった。森節が冴えているというのかな。短く言い切る文章はスピード感があってぐいぐい引き付けられる。というわけで、イスラム教辺りのところで「やっぱりこの本は星4つだ」って確信した。特に最後の最後で「神さまを人間が求める理由」について、一番最初に書かれた「人間は死ぬって知ってしまったから」という理由以外にもう一つ理由があるって書いている。まぁそれも特に目新しい意見ではないのだけれど、でもわたしが最近読んだ本は(キリスト教関係の話だったんだけど)「死が恐怖」とか「永遠の命を与えられると約束することによって人間は平静でいられる」とか、そういう話ばっかりだったので、ちょっと嬉しかった。

ただ、まぁこの本の目的は宗教を説明するだけじゃなく「時には人を狂わせてしまうこともある、宗教とは何かを自分の頭で考えよう」ということなので、わたしの知りたいこととはちょっとずれているんだけどね。それにしても、やっぱりわたしは森達也の考え方や文章の書き方は好きだと思う。だけど、面白いことに、最終的にこの人とわたしが出す結論は違う。本の中に書かれている意見はほとんど「うん、うん、そうだよね」って思うんだけど、最後の最後で彼とわたしは意見が違う。死刑の時もそうだったし、今回もそう。それは自分でもとても面白いって思ってて、森達也の本は自分の意見を押しつけない「自由度」があるからだとわたしは思っている。今回、彼は「だから僕の結論。神さまはきっといる。そう思うことにする。」って書いてある。まぁそうした方が本の治まりがいいから、本当に彼がそう思ってこれを書いたかはかなり疑問だとわたしは思ってるんだけどね(ヲイ)。ただわたしの結論としては「神さまはきっといる」とはっきりとは思えない。「そう思うこと」にはまだしたくない。

っていうか、この最後の章「神さまは存在するの?」に書かれた「神さま」というのは、読んでみた印象としてかなり「キリスト教の神さま」に近いような気がする。仏教の仏のことを言ってるんじゃないような気がする。まぁこの本全般において、仏教の章を除いて、神と仏は明確に分かれてなくてなんかうやむやなんだけど(そこら辺は子ども向けの本なので仕方がないのかな)、そして最終章では宗教と神さまをくっつけて書いているので、印象としては「じゃあ、森達也の言う『神さま』ってどこかの宗教の神さまのことなのかな?」って感じなんだよね。だから、わたしはそこが違う。わたしは宗教とは関係なく、人間は神を求めているんじゃないかなと思っている。求めているからこそ、存在しているように見えるんだと思う。それはあくまでも「見える」んであって、存在しているかどうかはよく分からない。今のところ、わたしはそう思っている。

この本を読んでの感想はひとまずそれなのだけれど、その他に書いておきたいことがもう一つある。

この人がね、この本で言いたいこと。それは上にも書いたけど「宗教にはこういう危険なところがあるよ。だから自分の頭で考えよう」ってことだった。でもさぁ。これって宗教だけの話ではないんだよね。いや、宗教にも絡んでいるのだが、宗教だけというとちょっと違うと感じることがある。この本の中に

これは歴史を学びながらあなたに知ってほしいことの一つだ。特に正義とか善とか、多くの人が正しいとか間違っているとか主張して決まる概念は、とても揺らぎやすくて不安定だ。だからこそ人は間違いを何度も犯す。その瞬間には間違っていることに気づかない。それが正しいと何となく思い込んでいる。そしてあとから首をかしげる。どうしてあんなことをしてしまったのだろうかと。(111p)


読みながらあなたは、今どきこんなことが、とあきれるかもしれない。念を押すけれど、現在のイスラム諸国では、シャリーア(イスラム法のこと)を頑なに守るという国はむしろ少数派だ。でもかつては当たり前だった。罪人の腕や足を切り落とすとき、みんなで手に石を持って投げつけて罪人を殺すとき、いくらなんでも、と思う人はほとんどいなかった。べつにイスラムだけではない。中国でもヨーロッパでもアメリカでも日本でも、歴史を少しでも学べば、人はこれほどに残虐なことができるのかとあきれる。目を背けたくなる。違う生きものだと思いたくなる。
 だからあなたに知ってほしい。人はそういう生きものだ。周りの多くの人がやることなら、つられてためらいなくやってしまうときがある。周りの多くの人が大声を叫ぶことなら、つい自分も同じように大声で叫んでしまうときがある。あとから考えたときには何であんなことをしてしまったのだろうと思うようなことでも、そのときはすんなりとできてしまう。そして宗教はそんなとき、きちんと物事を考えたり悩んだり迷ったりすることを、停める働きをしてしまうことがある。(155p)


と書かれている箇所がある。

わたしはこれを読んで、昨今の日本のきな臭さを思う。国家を無条件に賞賛する人。強さとは自分の主張を強引に押し通すことだと考えている人。真実は一つしかないと思っている人。そういう人たちにも当てはまる言葉ではないか。もちろん、ここには宗教の入り込む余地もある。戦前と戦中の日本がそうだった(このことはこの本の中でも触れられている)。神道は国家に利用された。

しかし、これは宗教だけの話ではない。外国人を差別すること。特定の民族を差別すること。戦争加害を認めないこと。これらは今の日本では直接宗教とは関係がない。関係がないけれど、上の文章になんかとても当てはまるものがあるよね。ちょっと待ってよ。これ読んで「他の国が同じことをやってきたから、日本もやっていいんだ」とか「他の民族が日本のことを貶めているから、日本も他の民族を貶めていいんだ」って、思ってない?でもそれは正しいことなのかな。少しこれについて考えてみた方がいいんじゃないか。「他の人がやってるから、自分もやってもいい」ってなんだかおかしくない?それはこの文章の中の「周りの多くの人がやることなら、つられてためらいなくやってしまうときがある。」に該当しないかな。

かくいうわたしも、もちろん自分の考えがすべて正しいとは思ってない。思ってないけど、やっぱり人を貶めたり差別したりすることは嫌なのだ。それは自分の中では美しくないことだと思っている。「条件付き」の美しさなんて美しさじゃない。「正しい」という言葉が使えないので、美しいと言い換えているが(笑)それだけ「正しい」という言葉は使い勝手のいい言葉なんだなあ~と文章考えながらつくづく思ったりして。もちろん、わたしは自分が美しい人間だとはちっとも思ってないけどね。美しくはありたいと思ってるけど、おそらく永遠に美しくはなれないだろう。そういう意味では意味は全く違うんだけど、キリスト教で言う「罪人」って概念と似てる感じかも。人は生まれながらにして原罪を持っているという。うーん、ちょっと違うかな?(笑)キリスト教はキリストを信じていれば、罪はなくなるんだもんね。わたしのは、永遠に美しくはなれないんだからね。わたしの考えは「性悪説」と言えばいいのか。どう、努力しようが絶対に善人にはなれない。けど、一生、善人を目指して生きるのもいいじゃないって書きつつ、わたしは善人にはなりたくないんだった。。(爆)きっとそうだ。わたしは「善」って言葉が嫌いなのだ。「美しい」は許せるけど。ここら辺、自分でもとても興味深いんだけど、生まれつきの感覚に近くて、多分解析できないことなんだろうな、、

なんて、ごちゃごちゃわけ分かんないことを書いたけど(苦笑)

この本は世界三大宗教について知りたかったら、かなりよくまとまってると思う。前に「ふしぎなキリスト教」を読んだのだけれど、「予定説」についての説明はあの本ではよく分からなかったが、この本読んで「なんだ、こういうことなのか。あれはこういうことを言ってたのね」って思ったほど分かりやすかった。もちろん「ふしぎなキリスト教」とは目的が違って被ってないこともすごく多いんだけど、わたしはね、「ふしぎなキリスト教」はあんまり面白くなかったのよ、、(なので感想は書きません。多分文句ばっかりだろうから)

宗教戦争の説明の部分が多くて「なんでこの世に宗教なんてあるの?」ってつい思っちゃうような本だけど「だから宗教なんて百害あって一利なし」って短絡的な結論を出すんじゃなく、「宗教とはなんなのか」「なぜ人間は神を求めるのか」について、これを機会に考えてみましょうよって感じかな。だってさ、「宗教なんてないほうがいい」「必要悪だ」って思ってたとしても、多分、大部分の人は心のどこかに「超人的なもの」を求めてしまうはずだからさ。

でも僕は思う。時おり感じる。理屈や論理だけでは説明できない何かがある。その何かが何なのかはわからない。でも何かだ。

その何かを神さまと呼ぶ人がいる。(231p)

17:19 | (一般)本のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
02-19,2014
高学歴者の哀しみ
日本社会は学歴社会だ。

中卒より高卒、高卒より大卒の方が世の中で優遇される。

一番顕著な例は仕事だと思う。「職業に貴賎なし」と言われるけれど、
実際は頭脳労働の方が肉体労働より上に見られ、また大企業の方が中小企業より上に見られる。
(もちろん中には「そんなことない!」って思う人もいるだろうが、世間的な風潮はこうだよね)

そして、その「上」と見られている職業に就くためには、学歴が必要だ。
募集要項に「大卒以上」と書いてある求人には高卒は応募すら出来ない。チャンスさえ与えられない。
そして、大卒でも「就職しやすい大学」とそうではない大学がある。
もちろん、難関大学と呼ばれている大学の方がそうでない大学よりも就職しやすい。
要するに日本社会は学歴社会なのだ。
まぁこんなこと、わたしが指摘するまでのことはないのだけれど。

時々「学歴がない」とか「低学歴」って自分のことを思っている人たちの声を聞くことがある。
その人たちはそれで人からバカにされたり、いないことにされたり、不本意な思いを随分しているのだと思う。
それはそれで「正しい」と思うので、わたしは納得しているし、世の中は変わるべきだと思っているし、協力できることはしたいと思っている。

けどね。
一方で「じゃあ、わたしは?」って思いをどこかに持っているのだ。

今までの日記を読んだりすると分かると思うけど、わたしはおそらく「高学歴」という部類に入っていると思う。
高学歴って、どう定義されているのかが分からなくて、一説によると「難関大学を卒業した人」が高学歴だと聞いたこともある。わたしはそうじゃなく、大卒以上が高学歴って言うのだと思っていたのだけれど。。まぁどちらにせよ、わたしの場合は大卒ではなく、修士修了なので高学歴だと思う。最終学歴って、中退は含まず、卒業(修了)した場合のみを言うってどこかで読んだ気がするので、取り敢えずわたしが学歴を言う場合はそこまでにしている。

けど、本当はその上に行っていたのだ。最終学歴とは言わずになんて言えばいいのか分からないけど、わたしは実は博士課程中退している。でも逆にこれを言うとびっくりされるので、普段はまず言わない。まぁその当時、わたしは研究者になるつもりだったので、当然のように博士課程に進学したのだが、結局途中で嫌になって辞めた。うつ病になっちゃったってのも大きいと思う。その当時かかってた精神科の医者に「それは学校を辞めないとよくなりません」って言われたのをよく覚えている。

だけどね~、辞めてどうなるの?っていうのが一番の問題だったのだ。なんてったって、就職先がない。勉強してた分野を生かすには「研究者」しかなくって、その他の道がない。まぁあったとしてもその頃は既に20代後半で、しかも就職は「超氷河期」と言われていた。大卒新人ならともかく、博士課程中退では一般就職のスタートラインすら立てず、本当に本当にどうすればいい?って、とても困ったのだ。

まぁこの先はあまり詳しくは書かないけど、もう道は一つしかなかった。だからわたしはものすごく努力した。今までやったことがないような努力をした。後にも先にもあんな努力をしたことはわたしにはない、と思うほど頑張った。

「学歴がないからスタートラインすら立てない」って言っている人に対して「そうなの!学歴はあるけど、わたしもそうだった!」って本当はとても言いたい。日本社会は均質的な社会なので「普通以外」をとても嫌がる。大卒は「当たり前」なので受け入れる。しかし、そこからはみ出たものは苦労したり努力しなければ、受け入れられないのだ(もちろんどんなに努力しても受け入れられない場合もある)。だからわたしも苦労している人の気持ちはものすごくよく分かるし、だから「わたしだって、すごく苦労してきたんだよ」って言いたい気持ちもある。

だけど、言えない。それは事象は同じでも立場が全く違うから。やっぱり「高学歴」は力を持つものだから。

話は変わるけど、最近ちょくちょく「男性差別」という言葉を聞く。そう言っている人の言い分は「弱者男性もいる」ってことらしいが、でもわたしはそれを聞くたびに腹が立つ。「目に見えない部分で、男性をどこかで享受してるでしょ」って思う。男はまず行動を制限されることはない。やりたいことをやれる。道路で寝てたって何も言われない。女性が道路で寝てたらまず人から何か言われるし、もしも襲われたりしたら「そういうところで寝ているから自業自得だ」と言われるだろう(例えがしょぼいね(笑))。でも多くの男性はおそらく自分が「男性として有利に扱われていること」についての自覚はあまりないように思える。だから「男性差別」なる言葉も発するんだと思う。

「高学歴」もこれと一緒だ。この社会は「学歴社会」だ。学歴があればいいと思われている。だから「高卒です」と言ったときと「院卒です」と言ったときに対して、他人は別の印象を持つだろう。その人に対する態度も変わってくるかも知れない。そういう、目に見えない部分での違いは確実にあると思う。そしてその違いをひしひしと感じているのは、おそらく高学歴の方ではなく、学歴を持っていない人の方が多いのではないかと思う。

だからこそ。わたしは「自分も同じ気持ちだよ」とは言えない、と思っている。だって「同じ」じゃないから。

そう、それは頭ではよく分かっている。

でも一方。「じゃあ、わたしのこの苦労してきた経験や気持ちはないものなの?」とも思うのだ。あんなに一生懸命頑張った、まぁ、その頑張りは一応報われたわけだけども、でも、あんなに苦しくて、一生懸命で、頑張った自分は隠しておかなきゃならない自分なのかなあって。それを思うとちょっと悲しいんだよね。

そりゃ、恵まれてるって思ってるさ。いくら勉強したくても金銭的な面で諦めた人ってたくさんいると思うし。金銭面だけじゃなく、勉強をずっと続けられる環境だったし。本人の努力だけの問題ではないって分かってる。それはそうなんだ。けど、それだけじゃ割り切れない思いもわたしの中には確実にあるわけなんだ。だけど、わたしのこの思いを誰かに伝えれば、きっと傷つく誰かもいるだろう。この文章で、傷ついた人はきっといる。わたしは誰も傷つけたくない。けど、自分の思いもなかったことにはできない。

この矛盾する思い。
18:45 | 自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
02-12,2014
考えても分からない
「考えても分からないことってあるよね」と聞いたら誰でも「あるある」って答えると思う。

まぁ少し考えてみても「正義とは何か」とか「善とは何か」とか、そこは「全人類に対しての」じゃなく「自分にとっての」にしてもやっぱり分からないってことはあると思う。

ただ、今回書きたいのは、そういう「定義系」の「分からない」じゃなく、感覚系の分からない、だ。

これはわたし、本当に不思議だなあ~って思ってるんだけど、

例えば、わたしはとても涙もろい。それは格好が悪いので本当は嫌なんだけど、一番嫌なのは「これは感動する」とか「感動秘話」とか「泣ける話」と銘打ってあるものに泣けることだ。二番目は「誰もそんなところで泣かないのに、自分だけ泣いてる」ってことかな。二番目のヤツは「ここの部分が自分の琴線に触れている」ってことが分かるのもある。あと言葉には出来ないけど感覚で分かるのもある。もちろんなんで泣けるのか、全然分からないこともある。

でも、一番不思議なのは一番目の「泣ける話で泣く」ってことだ。はっきり言って、泣ける話の「泣ける場面」のほとんどはそれを作った側から「さあ、ここで泣きなさい。ここは感動するところだよ」って言われているのが分かる。話自体はとても安っぽくて陳腐なのも分かる。だからわたしとしては「こんなところで泣くのは、制作者側の意図にモロはまっているようで恥ずかしいから泣きたくない」し、気持ちは全然感動してなくて、むしろ「お涙ちょうだい」に対して呆れているのだが、それでも泣いてしまうのだ。

「気持ちは全く感動してないのに、なんで泣けるのか?」といつもいつも思うし、泣きながらこの不思議な感覚を味わっていたりする。自分の意に反して泣いているのって、本当にわけが分からなくて、そういうときに自分の「無意識」というのを感じる。

無意識って、人間が意識していない行動に対してあれこれ分析して「実はこう思ってる」みたいに言われることがあるけど、泣くという行動はとても単純なためか、他の人からは「泣いている」としか見えないからか、分析しようがないんだよね。いくら考えても考える「きっかけ」すらない。

わたしみたいな人間は、それこそ無意識のうちに「理由はこうだ」と分析してしまうところがある。もちろん頭では分析しきれないことがいろいろあるのは分かっている。けど、いざ、このような感覚を味わうととても不思議な感じがするんだよね。あの不思議な感じというのも、書き表すことができない。宙に浮いている感じ、に似てるのかなと思ったが、書くとなんか違うような気がする。。

そういや仏教の教えに「言葉にした途端、変質してしまう」みたいなのがなかったっけ?

こういう感覚を楽しむことは、意識的にはできないので、とても楽しかったりする。泣けるのはしゃくに障るんだけどね。

15:06 | 自分のこと | トラックバック(0) | コメント(3) | page top↑
02-11,2014
矛盾すること
前に「歳を取ったってことなのかな」って題名で日記を書いた。つい1ヶ月ほど前だけど。

そこには「自分の感覚が広くなってきた」って書いたんだけど、具体的に感覚が広くなるとはどういうことか。思い付いたので書いておく。

ある事象Aに対して
「これに対する自分の意見は○○である」

と決めてきた(決められた)のが「自分のことがある程度分かってきた」ということの根拠だった。事象Aに対して、意見を求められればはっきりと自分の意見が言えると思っていた。そしてはっきりと言える自分は理性的だと思っていた。

そうやって、事象A、事象B、事象C、、と事象ごとに「自分の意見」を持ってきたが、最近、異なった事象に対しての「共通点」を探すようになった。そしてそれに対しての自分の態度に共通点と矛盾点がある、ということを感じるようになった。共通点はまだいいのだが、矛盾点はそれ自体、どう考えていったらいいのか、、矛盾は矛盾のままでいいではないか、という考えももちろんあるのだが、もし矛盾しているのなら、自分はどこでどう判断して共通する事象Aと事象Bに対して矛盾を許しているのかという「原因」が知りたいと思っていろいろ考えている。

なんて書くと難しげに見えるのだが、例えば、今はオリンピック(ソチ)の最中だ。ソチでの五輪は正直、ロシアの反同性愛法の関係で、見ること自体に抵抗感があるのだが、それとは別にわたしは最近あまりオリンピックには興味がない。こないだのロンドンのオリンピックもあまり見なかった。だけど、オリンピックが終わったあとに行なわれるパラリンピックは積極的に見た。オリンピックに比べて圧倒的に放送時間が少ないことに憤りも覚えた。オリンピックはあまり見なかったのに、パラリンピックは見た、というのは、そこに「自分にはあるとは思えない能力」が見られるからだった。例えば「ゴールボール」(鈴の入ったボールを投げてゴールに入れる競技)とか「盲人サッカー」とか。とにかく「自分の持ってないすごさ」が見たかった。

こう書くと「オリンピックでも人間のすごさが分かる競技があるよね」と思われるだろう。その通りだ。100mを如何に短く走れるか。金属の玉を如何に遠くまで投げられるか。人間はどのくらい重いものが持てるのか。実はわたしはこのような競技を見るのは好きだ。だけど、これらの競技って「日本人」はそんなに得意じゃない。オリンピックというのは日本人がメダルが取れると期待される競技を主に中継されている。なので、わたしが見たい番組と放送される番組の内容に乖離がある。なので、興味ないのであまり見ない、ということになってしまう。ゴールボールは日本チームが強いのもあって、それで放送された。まぁそういうことなのだ。

それとは話が変わって、最近、交響曲を作ったという人が実は指示書だけ書いて、別の人が作曲してたってことが分かった。その人はわたしと同じ被爆二世で、耳が聞こえない、という人みたいだ。NHKで以前、その人のドキュメンタリー番組が作られたということだが、実はわたしもその番組を見ていた。そこで初めてその人を知ったのかな?だけど、あまり感じることがなく、別にその人が作曲した音楽が聴きたいと思わなかったので、それはそれきりになっていた。そしてこの事件が発覚しても、わたしは「作られた曲に罪はないのに」と思っていた。別にあまり腹も立たなかった。それはテレビを見ただけで、具体的に自分がCDを買うなどお金を払ったわけじゃないからだろうなと思った。「騙された」と騒いでいる人に対しては「耳の聞こえない人が作った音楽っていうだけで寄ってたかって持ち上げときながら」と思った。「素晴らしい曲は誰が作っても素晴らしいんじゃないの?どうしてそこにその人の『属性(しかも不幸な)』のが入っちゃうの?それっておかしいんじゃない?」と。

ところが先に「パラリンピックが好きだ」と思っちゃう自分の気持ちと「耳の聞こえない人が作った音楽」に対して感動している人の気持ちって、もしかしたら共通点があるんじゃない?って思い始めた。確かにわたしはあからさまに「健常者より劣った障害者にこんな能力があるなんて」と思っているわけではないが、でも思っていることはそれにかなり近いことなのでは、と。

そう考えている自分は「障害者は差別されてはいけない」って思っておきながら、一方では「健常者より劣った障害者」とどこかで感じているんじゃないだろうか。こういうのが仏教で言う「偏見」なのかな。わたしは人間なのでどうしてもそういうことは克服できないと思う一方、やはり自分が偏見を持っているということは許せない。

ただ、ニセ作曲者さんに対して「騙された」ことから発せられる、個人を非難中傷する言葉だとか、他の障害者を貶めかねないような発言とか、そういうのは止めた方がいいのでは、と思うのだが、これもどこからどこまでが非難中傷で、どこからが個人的な怒りか、と線引きするのが難しいんだよね。特にこういうことでわたしが思ってしまいがちなのは「騙される方が悪い」だが、それはわたしがこの件に対しては騙されなかったから。

しかも、騙された方が悪い、は、実は非常に危険な論理だ。騙す、騙されは、騙した方が悪いに決まっている。騙した人がいなければ、騙される人もいないのだから。

まぁわたしは別に「普遍的な真理」を求めているわけじゃない。でもせめて「自分が納得できるような結論」は欲しいと思っている。けど、こういうのって考えても簡単に答えが見つかるわけじゃないんだよね。そうすると、前の日記に書いたように「物事がすごく曖昧でしか捕らえられないようになっ」てしまう。

それはとても気持ちが悪い状態だ。特にわたしは一旦「自分で結論を出した」と思っているのだから。自分に対する矛盾をどのように考えたらいいのか。一番簡単なのは矛盾している自分をそのまま受け入れることなんだろうが、それはいろいろ考えた末、どうしようもなかったらだと思っている。今すべきなのは、矛盾を受け入れる自分にするように努力するんじゃなく、どの時点で矛盾が生じたのかを分析し、そしてそれに対してどのように整理していくかだと思う。

まぁこういうことをすることに対しても「それが何か意味があるの?」と思ったりするけどね。「半年後にこの世にいないと分かっていたとしても、同じことをするのか」とかね。そう考えると「無常」を感じざるを得ないけどね、、
15:46 | 自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
02-05,2014
自殺/末井昭
本来なら、わたしはこういう類の本は読まない。
読むとウンザリするのが分かっているから。
本の根底に「自殺はしてはいけない」ってのがあって、それに沿って書かれてるから。
そしてその内容はどうせ「人生は素晴らしい。だからもうちょっと生きてみよう」ってものだから。

ここで自分の思ってることや、やってきたことなどを素直に書くと、自殺したいと思っている人の後押しをしちゃうような気がして怖いのだが(過去にかかってた心療内科の先生に注意されたことがある)、基本的に今のわたしは「死にたい」と思って生きている。これはうつという病気のせいだと思っているが、一方で、うつ病が治ったとしても(もうほとんど治ってると思うけどね。落ち込みは全くないし)希死念慮だけはこの先も消えないと思っている。

死にたい理由、ってのは特にない。ただもう生きるために息をするだけでしんどいのだ。まぁうつ病に3回かかってるうちに、この感覚が染みついちゃったわけだよね。こういう考えの人に「いいことがあるかも知れないからもうちょっと生きてみよう」って言ったとしても、自分にとっては息することさえしんどいんだから「もっとしんどい目に遭え、もっとしんどい思いをしろ」って言われてるのと同じなのね。絶望的な気分になる。だから自殺防止のサイトなんか見ようとは思わないし、人に相談しようとも思わないし、ましてや本なんて読もうとは思わない。

で、実際、何度か死のうとした。けどダメだった。怖くてダメだった。

でもね、この「怖い」というのはね、よく言われる「人間は本質的には生きていたいんだ」っていうのとは違うのよ。生きていきたくはない、けど死ぬのは怖い。死は怖くないけど、自分の手で自分を殺すのが怖い。何回か自殺しかけてね、でもやっぱり死ねなくて、最終的に「あ、わたしは自殺ができない人間なんだ」と悟った。それからは自分で死のうとは思ってない。やろうと思ってもできないことは十分分かったから。それより「なんか空からでっかいものが自分の上に落ちてこないかな~」とか「事故に遭わないかな~」とか「心筋梗塞になって急死しないかな~」と思って生きている。そういうことで今すぐ死ぬのは全然怖くないし、むしろそれを望んでいる。

ただ、今思っていることが生涯変わらないかというと、それは分からない。特に「自分の命が今すぐではなく、何年か後(または数ヶ月後)に死ぬことが確実」って分かってしまったときはどうなるか分からないと思っている。もしかしたら「死にたくない」って思うかも知れない。それはそのときが来なければ分からない。

随分話が逸れたね(笑)だから、わたしはこの手の本は読みたくない本だった。

それがなんで読もうかなと思ったかというと、実はよく分からない(笑)この本は多分、twitterで知ったのだと思うけど、いろいろな人のツイートを見て、なんとなく嘘くさい「自殺防止啓発本」じゃない気がしたのかな。本の帯に西原さんの言葉が書いてあるって知ったからかな。西原さんのは前に「この世でいちばん大事な『カネ』の話」って本を読んだことがあって、それは題名からしてもそうなんだけど(笑)、正直な話だったんだよね。あとどこかに書評とか載ってたのを読んだんだっけ。よく覚えてないけど。「ちょっと普通の本とは違うかな」って思えてきて、それで買ったのだった。

で、読んだのだが、わたしが一番最初に読みながらずっと気になってたのは「これ書いたのは一体どういう人なんだろう?」ってことだった。いや、この本を書いたのは末井昭という人で、この本の中にはこの人が生まれてからどういう風に生きてきたかが割と詳しく書いてある。でもその内容と文体がチグハグなのだ。文体は「です、ます」で書いてあって、その書き方からして書いている人の印象はとても気が弱くてオドオドしながら生きている、って感じに思える。でも中身に書いてあることは、結婚していても何人かの女の人と付き合ってて、パチンコと麻雀が大好きなギャンブラーで、バブルの時は先物取引などに手を出して借金を莫大に作って、っていう、とても「オドオドした人」とは思えないようなことをしている人なのだ。それにまだ意外な点は、こんな人がキリスト教を信じている、ということだった。

最初、この人をわたしは全然知らなかったし、ただ「キリスト教を信じている」ってことが先に書いてあったので「あ、だからこんなにオドオドした感じの人なのかなあ?」って思ったりした(笑)いや、わたしにはなんかキリスト教を信じている人って自分を卑下しているイメージがあるのよ。「神さま、どうぞわたしを憐れんでください」とか、聖書に出てくるじゃん。「わたしを憐れんでください」ってことは、自分は憐れみの対象か!って信じてないわたしはつい、そんな風に思ってしまうので。。それはキリスト教を信じている人への偏見だろうなって思うのだけど。

でさ、最初の4章くらいまで読んだとき、人となりはまだよく分からないけど、書いてあることで思想的に自分と似ている人だと思ったので、まず「多分この本は最後まで読めるな」って思った(最近、思想的に合わない本が増えてきてつらい)。特に4章の「世間サマ」の話の中で「殺人事件の犯人が裁判で無期懲役の判決を受けたとき、その被害者の家族がテレビのインタビューで『残念です。極刑にして欲しかった』と言っているのを見てゾッとしますが、被害者の家族の心情よりも、被害者の家族の発言をさも正義のように放送するテレビ局と、それを見て被害者の家族と同じ気持ちになって『殺せ!』と思っている世間サマにゾッとするわけです。」云々のところは、本当にそうだと思ったのよね。

わたし前に死刑に関する本を読みまくったとき、自分の中で出した結論は「今のところ、死刑制度に賛成」だったわけだけども(っていうか、この結論に対する日記ってわたし書いてなかったのね。今見たら「自分なりの結論が出ました」って書いてるだけだった。あのときはそう書きたくなかったんだな、きっと(笑))あの時点で自分がそう結論を出した理由はただ一つ、「人を殺したんなら、やっぱり自分は殺されるべきなんじゃない?」(人の人権を侵害した人は、自分の人権も侵害されても構わないんじゃないか)ということからだった。要するに「目には目を」ってヤツだけれど、でもそう自分で結論を出したとしても「でも冤罪だったらどうするか」とか「死刑になった人を殺さなければならないのもまた人じゃないのか」ってことが頭の中をぐるぐるして、結局スパっと「これが結論です」って出せた結論じゃない。だからわたしも「殺せ!」と脊髄反射している世間サマに対しては非常に違和感がある。

あとその後引用されたひろさちや、という人の本は、わたしも読んでみたいって思った。この本全般に対して言えるんだけど、所々にわたしにとって、非常に興味深い本が紹介されてるのよ。「イエスの方舟」の千石さんの本なんて、紹介されたの全部読んでみたいと思ったし、近くの図書館に所蔵されているかを早速確認しちゃった。全部あったんで、今度読んでみようと思っている。わたしは一つの本から次の読みたい本を探すのに、こういう「参考文献」を利用することがよくある。そうすると世界が広がるんだよね。もともと興味ある本を読んでるんだから、そういう方向にどんどん広がる。しかも自分で探す手間がない。こういうのは本当に有難いと思う。

で、肝心の「自殺」に対してなんだけど、わたしは「うつと自殺」についての章がとっても気になってたの、4章まで読んだ時点では。この人、うつ病によって自殺しようとしてる人に対してはどういう風に書くのかなって。でもね~、この人もうつ病って診断されたことがあるらしいけど、死にたいって思ったことないらしいんだよね(それは初めの方にも書いてあるけど)。上に書いたけど、わたしの死にたい理由は、息するだけでしんどい、とか、この世に自分が存在することが許し難い、とかいうもので、そういうのを納得させるような言葉はないように感じたの。まぁ自分で言うのもなんだけど、こういうのは病気なんだよね。理由なく死にたいのは病気だ。だからまず、その病気を治さないといけない。多分、それくらいしか言いようがないと思うんだよね~。

ちなみにこんなところで紹介するのはなんだけど、以前(一昨年だったかな?)朝日新聞か毎日新聞で片岡鶴太郎のインタビューがあってね、そこに書かれたことがとてもわたしにとって「ああ、そうだな~」って思われたので、その記事を切り取って壁に貼っておいたの。普段は格言とか名言とか言われているものはとても安っぽく感じられて、わたしは大嫌いなのだけれど、その言葉は彼の実感したことだからか、すんなりと入ってきた。インタビューの中の一部がこれ。

-30代でボクシング、40代で絵画を始めるなど迷いなく全力疾走していますね。

(片岡さん)いえいえ、私だって、50歳を目前に八方塞がりの閉塞感にさいなまれたことがありました。きっかけなど、なかった。男の更年期ってヤツですかね。「どーせ俺なんか、ダメなんだ」と独り言を繰り返したり、「バカヤロー。おい、辛気くさい顔すんなよ。笑え、笑えっ!」と自分に対して呪文のようにつぶやいたり。
 いえね、仕事をしている時はいいんです。他人の人生を演じていられるから。自分自身でいることがこの上もなく大変な時期でした。
 あの時ばかりは、絵を描いても気持ちは晴れなかった。むしろ書き終わった時の孤独が身にしみる。ええい、こうなったら体を動かそうと、ジム通いを再開しました。動いて汗流して、ようがくたどりついた結論が、「自分の言葉で自分を傷つけるのはやめよう」でした。初めて知りました。他人の言葉でなくても、「自分なんてダメだ」と繰り返せば人は傷つくんです。


うつ病で動けなくなったとき、多くの人は自分を責めてしまうと思う。「なんで気力が湧かないんだ」とか「自分の努力が足りないのではないか」とか「自分は甘えているのではないか」とか。それで自分で自分を傷つけて、結局死にたくなる。わたしが自分のことを「この世に存在することすら許せない」と思うのは、まさにこれだと思った。ああ、自分は今まで散々自分のことを傷つけてきたのだなあと思ったら、なんか涙が出て来た。それは「世間サマ」に「お前は甘えている」と言われるのよりもっとつらいのだ。「世間サマ」だったら自分がそれを気にしなければいい。他人は無視しやすい。でも自分自身の「お前は甘えている」という言葉を無視することは難しい。自分の言葉で自分を傷つけていると自覚していないと無理だと思う。だって何に自分が傷ついているのか、自分が傷ついていることすら分からないのだもの。

わたし自身は「自分がこの世に存在することすら許せない」という考えをもう自分の中から取り除くことは不可能だと思っているので、そう思いながら生きていこうと思っているけど、それでも「なんで身体が動かないのだ」とか「気力が湧かないのだ」とか「甘えてるんじゃないか」という直接的に自分を責める言葉を自分に浴びせるのは止めたら、随分精神的に安定してきたように思う。

なんかまた話がだいぶずれたね(笑)

まぁ結局さ、この本は自殺についていろいろ書かれてて、確かに樹海の話とかは面白かった。「人間に精神など存在しない。あるのは脳内の化学変化だけ」ってのは読んでて「おお、そうだよな」と思ったし。けどこの本の結末もやっぱり「自殺は否定しないけど、できるならもうちょっと生きてみよう。そうすればきっといいことがあるよ」という感じだったので、まぁ「お前もか」みたいなね。

ただ、わたしがこの本は面白かった、と思うのは、初めにも書いたとおり、「この人ってどんな人なの?」ってことなのだ。4章以降はこの人がやってきたことがつらつらと書いてある。一見、気弱そうな文章だけれど、やってきたことは全然気弱じゃない。気弱だと周りに流されていく感じがするけど、そして確かにずるずると別れられないまま何人もの女性と付き合ったりするところとか、先物取引でずるずるお金を注ぎ込んじゃうところなんかは「決断力がないのかな?」って思わないところもないけれど、でも一方で、エロ雑誌作ってるときに毎月警察から呼び出しがあっても「お役目ご苦労さん」という気持ちで通ってたとか、ある程度社会的に成功しているところを見ると、気弱じゃこんなことできないとも思うんだよね。だって会社を大きくすることって決断の固まりだと思うから。本人は別に「会社を大きくしようとは思ってなかった」と言うに違いないのだけれど。本には「会社には会議に出ることと書類にハンコ押すのが唯一の仕事」みたいに書いてあるけど、きっとそんなんじゃなかったと思うよ。なんでもかんでもホイホイ判子押してたら会社なんて大きくならないと思うし。女の人にはまったときも、麻雀やパチンコにはまったときも、会社なんて二の次、みたいな書き方してあるけど、実際は仕事もしてたと思う(本人は仕事はしてないって思っているかも知れないが)。だから、この本ではこういう書き方をしてあるけど、本当はもっと違う感じの人、例えば男ジェンダーバリバリの人なんじゃないだろうかと思ったりしてる(やってることは男ジェンダーバリバリだし)。本にもチラッと「キレてものを投げつけたりする」って書いてあったり(ただこういう感情は怖いとも書いてあったけど)、「おまえらバカか!」と心の中で思ったりしたことがある(ただし口に出しては言えない)と書いてあったりするので、文章から印象づけられる「気弱さ」とは違う面もあると思うんだよね。

この人は今まで何冊か本を出してるみたいなんだけど、全部こんな口調で書いてあるのかが今、とても気になって仕方がない(笑)もし違うとすれば「ああ、やっぱりね」って思うし、逆に全部こんな口調だったら「なぜ?」って思っちゃう。「そういう風に見せることによって、何かがあるのか?」とかね。うーん、わたしは普段はあんまり文章からする人となりってのは疑問を抱かない。例えば上に出てきた死刑制度について、森達也と藤井誠二が書いた本をたくさん読んだけれど「この本を書いたこの人ってどんな人だろう?」とは思わなかった。それは今考えると「言文一致」というの?イメージ的に書いてる文章と性格が一致しているように思えたからだ。でも、この人は違う。読んでてすごく違和感がある。それは計算されたものなのか、そうじゃないのか、、どうなんだろう?

あとは宗教ね。この本の「観光気分で被災地巡礼」の章は、わたしはとてもじーんと来た。そこには旧約聖書の「ヨブ記」の話が書いてあって、そこに書いてあるヨブの3人の友人と、被災地を取材に来て「こういう災害が起きたのに神はいると思ってるんですか」と聞いた取材陣が同じだっていうの。もう何度も書いてるけど、わたしには神も仏もいない。けど「神がいる」ってことはこういうことなんだなあと。「宗教を信じるとはどういうことか」ってことをわたしはここ数ヵ月間考えてて、やっと分かったのは「宗教は頭で信じるものじゃないんだ」ってことだった。信じると信じないというのは、連続的なものじゃない。コンピュータの0と1のように不連続なものじゃないか、というのが、わたしの今のところ出した結論だ。だから人にいくら「これこれこうで、こういうことがあって信じるようになりました」というのを説明されても(実際「神を信じるようになった理由」などで検索を掛けると、キリスト教の洗礼を受けた人の言葉がたくさん出てくる)、どこかで飛躍しているように感じられてしまう。以前読んだ「イエスはなぜわがままなのか」という本の中に、著者が「何かを信じると言うことは、一目惚れするようなものだ」と書いていたけど、多分そういうことなんだろう。だからいくら「これがきっかけでわたしは神の存在を信じるようになりました」と言われても、信じてないわたしには理解できないだろうと思う。

でね、この本を読んでるうちに、わたしは自殺の話じゃなくて、この人がどうやってキリスト教と出会って、そして信じるようになったんだろうって、それが気になり始めて仕方なかった(笑)目次を読むと後ろの方に「聖書との出会い」という章があるのを発見してね。もう、早くそこが来ないかなって、そればっかり思いながら読んでた(笑)で、読んだら「うう、これだけじゃ足りない」って思った(笑)この人の書く、キリスト教への思いがもっと知りたいって思った。なぜなんだろうね。多分、今、わたしがもっとも興味があるのはそれだからかな。最近の日記はなんか宗教に絡んだことばかり書いてるけど、まったく予想してなかったが、この本はとてもそういう点でも「興味深い」本だったんだよね~。この後、この人は洗礼を受けるまでに至ったのかとか、そこにはどういう思いがあったのかとか、そういうことがとても知りたい(笑)

というわけで、長々と書いたわけだけど、正直、自殺についてはあんまり感じるところがなくて、だけどそれ以外のところですっごく面白かったし、興味深かった。著者の目的とはずれちゃったかも知れないけど、わたしはこれはこれでとても楽しめた本だった。
00:37 | (一般)本のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
01-31,2014
薬が増えた
と言っても別に体調がすごく悪くなったわけじゃないけどね。

月曜日は病院の日だった。

今のわたしは、以前書いたような咳はもう完全に治まってる。結局加湿することがよかったみたいだ。あれから徐々に咳は治まり、今月の半ばくらいにはもう咳が止まった。一回、呼吸器科に行ってきたんだけど、喘息は治ったとしてもすぐに薬を止めちゃいけないらしく、前に出て全然効かなかった、中くらいの強さの喘息の薬を吸入してねと言われ、今はそれを吸っている(吸っているっていうとなんかすごく変な感じがするね(笑))。それが終わったら軽い薬になって、それでも出なかったら薬は終了らしい。あと1ヶ月半はかかるかな。でもそのくらいの時期からまた、猫の毛が抜け始めるだろうから、今度は気をつけないとね。

身体の痛みの方は相変わらずなんだけど、あのときよりは随分マシになったかな。整体は週1回、きちんと通っている。元々は背中の痛みと左の二の腕が痛くて通い始めたんだけど、背中は凝るととんでもなく痛い日があるが、腕の方は徐々に治ってきている。あとは10年来持っている座骨神経痛。これは長くかかりますよと整体の先生からも言われている。

ってわけで、身体の調子の悪さは相変わらずで、一日ほぼ何もしてないのに夕飯を食べ終わるとものすご~く疲れを感じて眠くなる。だから夜はほとんど一瞬のうちに眠れてしまう。中途覚醒はなく、まぁ次に起きるのは6時間か7時間経った頃。猫がね、朝起こすのよ。それでどうしても目が覚めちゃう。朝の餌をやるのはわたしじゃないので、その後も2~3時間は寝ますけどね←オイ

っていうか、今月8日の日記を読み返してみたけどさ、悪いところは相変わらず悪いけど、食欲とか睡眠とかは改善されてるのね。日記は付けてみるもんだ(笑)わたし、自分の状態は全然変わってないのかと思ってたよ。ただ相変わらず歯の中は厳しくて、ティッシュ噛んでるけどね。なんでこれ、全然よくならないのかねえ。。本当に集中力がこれによってだいぶ削がれていて、気が滅入る。

で、月曜日は病院だったんだけど、結論から言うとジプレキサが0.5mgから1.0mgに増えた。まぁ0.5mgで効果あったら、わたしすごいよ(笑)錠剤の含有量少ない方のジプレキサは1錠2.5mgなので、0.5mgというと1/5錠なわけ。まぁ主治医も1/5錠で効くとは思ってなかったと思う。「慣らしですからね」って言われた。おいおい、そうだったのか。といえども2/5錠である1.0mgでも効くとは思えないけどね。前に1.0mg飲んでたときも効いた感じが全然しなかったしね。かといって半錠である1.25mgにすると、効果は感じられないのに眠気がひどくなるので、わたしとしてはそこまでは増やしたくないのだ。。ということをちゃんと言ってきたけど、次はどうなるのかね。効果出ないと飲んでても仕方ない気はするのだが。ただ主治医はどこの時点かは知らないが、効果があると思っているようだけれど。

そうそう、主治医が4月から病院を変わるそうだ。わたしの薬に対する特徴をよく分かってくれている主治医が変わるのは残念だが、まぁ仕方ないよね~。引き継ぎをちゃんとやってくれたらまぁそれでいいかな。ただ、後任の医者がもしかしたら今の主治医よりもっと若くなるかも知れないとかで、そうすると大丈夫なのかなあという気はしてる。そういえば、入院したときに診てくれた、もう一人の医者がいたなあ。あの人、まだいるのかな?今度聞いてみよう。。

取り敢えず今飲んでるのは、リーマス100mg、ジプレキサ0.1mg(夕食後)、金ハル(就寝前)。

17:38 | 3度目のうつのこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
01-30,2014
理屈じゃないこと
以前、わたしは「見えないものの名前」って題で日記を書いた。高尾にゃんと出会えたことが、どうしても「偶然」とは思えない、何か見えないものの力が働いたんじゃないかって思える、そしてそのような「見えない力」を自分に及ぼすものに、人間は「神」という名を付けたんじゃないだろうか、ということだった。

わたしには宗教でいう「神」はいない。「仏」はわたしの持っている日本的な感覚から「いる」んじゃなくて「なる」もんなような気がしているが、でも今のところ、わたしは「死んだら仏にしてやる」と言われても断るような気がしている。理由はこの世でもあの世でも、どんな形であれ、わたしはもう存在したくないから。

だけど、わたしは人間が神を作りたくなる気持ちは分かる、と思っている。こんなこと言うと何かを信じている人にとても失礼なのだけど、人間は弱い生き物で、どこかに「絶対」と思うものや、今はつらいことばかりだけど、死んだら安寧に暮らせると思うことで、生きている間、安定して暮らせるんだろうと思っている。そしてそれはそんなに悪いことじゃないと思う(カルト宗教などは別ですよ!)。

でも以前はそんなことはあんまり思ってなかった。別に「無神論者です!」ってのを誰に強要するわけじゃなかったけど、神とか仏とかはまだいいにせよ、この世界で「超常現象」って呼ばれているもの、特に精神世界(スピリチュアルって言うんだろうか?)はとても否定的でバカにしていた。まぁ今も否定的でバカにしたい気持ちは大いにあるのだが。。占いとかおみくじの類もそうで、わたしは性格が4種類しかない血液型占いとか12種類しかない星占いなんかはもう長いこと読んでもないし、おみくじも最近は引いたことがない。ああ、これを書くこと自体「こんなもん信じてるなんてね」って根本ではわたしが思ってるってことが伝わってしまうかも知れないなあ。。(汗)まぁああいうものに振り回されて一喜一憂するのはアホらしいなあと今でも少し思っていたりする。

わたしは特にこの世で物理的に解明されていることしか信じないってわけじゃないって思ってたし、自分の目で見たことだからって、それが信用できるとは思ってない(錯覚があるから)。ただちゃんと自分が納得できる根拠があれば、信じられる。ある意味、わたしは理屈的な人間なのかも知れなかった。スピリチュアルなものもそれなりに理屈があるのだろうけれど、なんかどこかで飛躍していると思ったし、そういう意味でわたしにとっては論理的じゃないんだよね。だからスピリチュアルなものは胡散臭くて信じられない。まぁそういうものが多かれ少なかれ、お金に絡んでいることも印象がよくないのかも知れない。石は石で自分が素敵だなと思っているものを楽しめばいいのに、それがなんだかよく分からない「パワーストーン」だのと称されて、その分、金額が高くなっているような気がするのだ。正直わたしはあんまりそういうものに対して好印象を抱いていない。

まぁこんな風にして、わたしはある意味「強硬派」というか割と「原理主義」に近かったのかも知れない。論理原理主義というか、理屈原理主義というか。今でも根本的なことは変わってないと思う。

けど、やっぱりちょっと変わってきたんだよね。まぁいろいろあってね(笑)

例えば、猫が死んじゃったとする。神も仏も自分にはいないし、わたし自身、死んだら無になると思っている。魂などは存在しない。だから、猫はもうどこからみても、消滅したことになる。人が死んだとする。これも消滅してしまって、無だ。あの世にもこの世にもどこにもいない。

そう考えると、多分、悲しみって深いんだろうな~と思う。だって拠り所がないんだもの。

それより「虹の橋」なるものがあって、そこに死んだ動物は生きている姿で走りまわっている。そして、自分が死んだときに、虹の橋で再会できて、そこから一緒に天国に行けるのだ、って思うと「ああ、今は別のところで自分を待っててくれるんだなあ」「自分が死んだらまた会えるんだなあ」という気持ちになって、それは生きている人間にとっての「救い」になる。

大切な人が死んじゃったとしても、その人は空の上でいつも自分を見ていてくれる、とか、あの世で平穏に暮らしてくれてる、とか、天国にいる、とか、いやそうじゃなく、いつも見えない姿で自分のそばに実はいてくれるんだ、と思うことで、生き残った人の気持ちは少し楽になったりすることがあると思う。

そういうものを全部否定したとすれば、喪失感はモロ、人を襲ってくるだろう。まぁそれで自分を克服できる人もいると思うが、世の中にこんなに「死生観」がさまざまあるということは、やはりすべてを否定して生きていけるほど人間は強くできてないんじゃないだろうかと思う(とはいえ、死生観があるからこそ、それに人間が毒されている、という考え方ももちろんあるだろうけど)。

わたしの死生観は上にも書いたとおり「死んだら無になる」で、わたしが死んだ後はこの世に一切の痕跡を残して欲しくない、というものだ(今のところはね。将来的には変わるかも)。だからもし不慮の事故とか突然死したときのことを考えて、彼女には「ブログもtwitterのアカウントもあれもこれもみんな削除してね」って頼んでる。わたしと関わった人すべての人からわたしに関する記憶は抹消してもらいたいって思ってる。

でもね、それは無理なことなんだよね。たとえブログやtwitter、ネット上でわたしの痕跡がなくなっても。わたしがどんなに「記憶を消し去って」と希望していても。だってさ、そう頼んでいるわたし自身の記憶の中には、もう今はこの世にいない人の記憶がずっと存在していて、それは多分わたしが記憶を失うまではずっと存在し続けてるだろうなって思うんだもの。

小学校時代の同級生だった人。その人は18歳のときに亡くなった。その人とは小学校1、2年のときしか同じクラスじゃなかったし、中学以降は別の学校に行ったので、名前は知ってるけどあんまり親しくはなかった。高校卒業してすぐの4月だったかな。亡くなったって聞いて、お葬式に行った。そのお葬式のことが今でも忘れられない。キリスト教形式のお葬式だったんだけど、終わった後に教会の敷地内の建物の中にみんなが集まって、立食式で出前のお寿司を食べた。そのとき父親らしき人が、親戚の人か知り合いの人かは分からなかったけど、多分親しい人だったのだろう。その人を見るなり一瞬泣き笑いみたいな顔になって、ガッシリ抱きついたのだ。そして二人とも抱き合いながら泣いてた。その光景が忘れられなくてね。スローモーションみたいにわたしの頭にこびりついている。春の風の強い夜だった。4月になって、同じような気候になると今でも思い出したくなくても思い出されてしまう。

もう一つ。わたしが小学生の頃だったか、父親の会社関係の人だったかよく知らないが、その人の奥さんが亡くなった。あるとき、家に香典返しが送られてきた。それは緑色のタオルだった。そこに添えられていた手紙に「妻が忘れ去られないように、妻の名前である緑色のタオルを送ります」みたいなことが書いてあった。なぜかわたしにとって、その手紙と緑色のタオルは衝撃的で、どこの誰かは全然知らないけど、あの緑色のタオルを使うたびにそのことを思い出した。そのタオルがなくなった今もタオルを送られた「みどりさん」のことは思い出すんだから、ある意味、そのダンナの思った通りになってるわけだ。

というわけで、わたし自身、亡くなった人の記憶は今でも残ってるのだ。

だからわたしの願いである「死んだら忘れて欲しい」ってことは、絶対に叶いっこない願いだってことは分かってる。だけどそれは故人の意志なんだから、忘れる努力はしろって少し前までは思っていた。

だけど今は逆にわたしが「死んだらもう無になって、あの世にもこの世にも存在しない」って言わない方がいいのかなって思ってる。

それは、そう言うことによって、残された人たちの拠り所がなくなってしまうから。残された人の死生観がどういうものかはわたしには分かんない。けど、もし「常に空から自分のことを見守ってくれている」って思いたい人がいてもさ、わたしが生きてる間中「死んだらどこにもいない」って言ってたとしたらそう思えないじゃん。「空から見守ってくれてると思いたいけど、ろんたこはそんなことあるわけないと言ってた」って思ったら、その人にとっての拠り所がなくなってしまう。拠り所がなければ、ずっとずっと悲しみに沈んだままになっているだろう。もちろんわたしはそんなことは望んでない。だとしたら、死後のことは各人が好きなように思ってくれればいいんじゃないか。葬式は遺されたもののためにあるって言うけど、死生観も遺されたもののためにあるんじゃないだろうか。最近そんなことを考えるようになった(とはいえ自分の葬式や自分の遺骨については、わたしが指示するとおりにして欲しいと思っている)。

そして、わたし自身の死生観。もちろん「死んだら無になる」って思ってる。けど、それを頑なに守らなくてもいいんじゃないか。人間が「神」という存在を作ったように(神さまを信じている人にはとっても失礼な話ですけど)、そのときそのときでわたしが感じる何かを信じてもいいんじゃないか。そう、これは理屈じゃない。「論理的でないから」という理由だけで、自分の悲しみを拠り所のないままにしておいたら、精神的にすごくつらいと思う。理屈じゃないものを信じることは、自分で自分を救うことだ。多分そのときが来れば、わたしは何かを感じるだろう(もしかしたら感じないかも知れない)。でもそれでいいのだ。どういうことを感じようとそれを否定するようなことはよそう、と今は思っている。
23:47 | 自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
01-23,2014
日本国に人種差別禁止法の制定を求めます
昨日、1月22日の午後、神戸の朝鮮学校に男が侵入して教員に「朝鮮人か」と言いながら鉄棒で殴りかかって怪我を負わせる事件が起こったとのこと。男が学校内にいたのをたまたま教員に発見されたが、これが見つからなくて教室に侵入し、生徒を襲撃したら、と思うと本当にゾッとする。いや、今回は生徒に対しては直接の危害が加えられなかったものの、生徒や関係者の人たちが現在もどんなに恐怖に脅えているかと思うと、本当にいたたまれない。

ただ、このような在日の人に対しての差別感に起因している事件、というのは悲しいことに今始まったことじゃない。日本が近代化の道を歩み始めて以降、近隣の国々に対する差別というのは連綿と行われてきたことであり、戦後(第二次世界大戦後)も国は国民に対してそれを正してこなかった。国を動かしているのも人だが、このことを考えると、国が近隣諸国の人々を差別しているというのは、結局日本人がそういう体質を持ってるからじゃないかと考えたくなる。もちろんこれは日本人だけの体質ではないだろう。が、先進諸国では人種差別をする人もいる一方、それはいけないと抑止する「人種差別禁止法」も存在するのだ。日本はそれが存在しない。いうなれば国が「人種や民族によって差別しても別に構いません」と表明しているのと同じだ。

昨日のこの事件が起こったと知ったとき、わたしは「自分に何が出来るだろうか」と考えた。もちろん、これまでも全く考えてこなかったわけじゃない。国や地方自治体が朝鮮学校に対して補助金を出さないこと(いわゆる無償化問題と言われるが、別に今までも国や地方自治体が朝鮮学校に対してお金を出して、授業料が無償化されたことなどない。国や地方自治体が朝鮮学校の授業料に対して「無償化しましょう」と言ったこともない。あくまでも一部に対して負担する「補助金」にすぎない。「無償化」という言葉はわざと国民の印象を操作しているのではないかとわたしは思っている。もちろん「無償化」の元は日本の公立高校に対する「無償化」ということが始まりというのも知っている)に対してもいろいろ考えてきたし、街頭で在日の人に対するヘイトスピーチが行われるたびに心が痛い。

では自分は何が出来るかというと、やった方がいいと思われるもの(例えばカウンター行動など差別者に対する直接行動)はすべてできるかというとそうではなく、自分の出来ることしか出来ないと思っている。まぁ自分のやっていることに対して、自慢たらしげに何をやっているかはここでは書かないけれども、わたしは嘆くだけ嘆いて全くなにもやってないわけじゃない。でももちろんこれで満足してるわけじゃない。いつも「何か出来たら」って思ってる。今回も自分は何が出来るかと考えたときに、思い付いたのがブログで自分の意見を表明すること、だった。

ただ、こういう事件が起きて、一体わたしは何を言えばいいのか、分からなかった。このような事件が起きてしまったのは、こういう風潮を作り上げたという点で、わたしも全く責任がないわけじゃないと思う。けどわたし一人の責任でもない。わたしには在日の友だちもいるけれど、だからといって「こんな日本にしてしまってごめんなさい」というつもりはない(本当はとても言いたい気持ちはするのだけど、それを言われたって困るのは向こうだろう。わたしが何か具体的に差別行動を行っていたのならともかく、やってない人間に謝られても向こうは何も言いようがないよね)。差別者に対して「差別は悪い」と言っても、多分彼らは考えを変えないだろう。人、それも自分の意見と反対の意見の人からあれこれ言われて意見をコロリと変えるような人は多分いない。そういう点においては、ネットで、例えば掲示板やツイッターで、いろいろ言ってもほとんど無駄だ。

差別者がなぜ差別するのかを考えても、正直わたしにはちっとも分からない。もちろんわたしの中に差別心が全くないとは言い切れない。気が付かないうちに差別をしたりしているだろうと思う。けど、差別したくて差別をするってことは、自分の中には全くないとは思う。それは自分が差別されたら嫌だからだ。同じように自分が傷つけられたら嫌なので、わたしは人を傷つけない(傷つけようと思ってわざと傷つけるようなことはしない)。あ、もちろん人だけじゃなく、犬とか猫などの動物とか、壁紙とかふすまとか、そういうのもそうだけど。。ただ蚊だけはね、、ごめんなさい、見つけたら殺しちゃいます。犬や猫は殺さないで蚊は殺すのか、それは矛盾してないかと言われるとそうなんだけど、それができたらわたしは悟りを開けて成仏できるよ、ホンマ(笑)(注:念のため。わたしは多分、どっかの檀家の信徒になってるだろうけど、わたしは仏教を信じてない、というか、どこからどこまでが仏教の教えなのかよく分からない、仏教の教えって何?状態なので、今のところは信じてないです)

まぁ話は逸れたが、差別者の心を話し合いによって変えるのはまず無理だし、できたとしても膨大な時間がかかるだろう。それにわたしは差別する人の気持ちが全く分からない。だからあれこれ分析することもできない。雨宮処凛さんが右翼時代の自分の気持ちを書いたりしているのを読んだことがあるが、そういうもんなんだとは思ったが、でもそれがすべてじゃないだろう。だからわたしは差別者の心情が分かって「でもね、そうじゃないんだよ」と言うことはできない。

と考えると、やっぱり法律なんじゃないかなと思うのだ。日本は国連に随分前から人種差別禁止法を制定するようにと勧告されている。でも政府はそれをずーーーーーっと無視し続けている。そりゃそうだよね。だって、戦後の憲法からも外国人差別の条項を削除しちゃったんだもの。GHQが日本に提案した憲法案の中には外国人差別禁止の条項が入っていたのにもかかわらず、当時の官僚と政治家が言葉巧みにそれを外させてしまった。結局そこなんだよね。わたしが最初に「日本人には外国人(主に朝鮮や中国の人たちに対するものだと思う)に対して差別してはいけない、なんてこれっぽっちも思ってないよね」っていうのはこれなのだ。押しつけと言われて一部から評判がよくない現憲法だが、なんのことはない、その当時の日本人の考えを反映した憲法にちゃんとなってるのだ。そしてその体質は今になっても全く変わってない。

今の日本の風潮を考えると、このことを提案しても通るのはかなり難しいとは思う。けど、このことを地道に言い続けていくのが、今のわたしに出来ることなんじゃないだろうか、と思う。日本国民の、有権者の一人として呼びかけていきたいと思う。
12:38 | その他 | トラックバック(0) | page top↑
01-17,2014
歳を取ったってことなのかな
歳を感じる、というと、イコール老化現象だと思ってしまう人がいるかも知れないけど、わたしはまだそんなに老化現象は感じてない。まぁ一番感じるのはどんどん老眼になってることだけど、正直それだけ。あ、あと白髪もか。老眼は確かに不便だよね。わたしの場合、近眼も強度なので遠くても近くても焦点が合わなくて結構めんどう。白髪は人によってはすごく嫌う人もいるけど、実はわたしは好きなので、気にならない。

そういうことじゃなく、今わたしが「これは歳を取ったってことなのかな」って思うことは、自分の感覚が広くなってきたということだ。

わたし、30代くらいからある程度「これについてはわたしはこう思う」というのがはっきりしてきたと思っていた。自分なりに考えて、自分が正しいと思う結論は出したと思っていた。もちろんそれなりにいろいろな検討をして出した結果だった。

わたしはだいたい、ものを考えるときは帰納法を使っていると思っている。演繹もしないわけじゃないが、演繹で考えるときはだいたい無意識にしてることが多いと思う。帰納法は一つの命題を考えて、それが具体的ないくつものことに当てはまることによって、命題が一般化されることをいうが、その具体的ないくつものこと、というのが最近になってぐっと幅広くなってきたと思う。

ところがそれが幅広くなってきたことによって、命題が一般化されなくなってしまった。すると、今まで「こうだ」と思ってたことが、実はそうじゃないこともあるんだ、ってことが段々分かってきた。そしてわたしは段々「これはこうだ」と言えなくなってきてしまった。だから物事がすごく曖昧でしか捕らえられないようになった。

と同時に若い人が「これはこうだ」って言い切ってしまっているのを見ると「まだ若いなあ~」って感じてしまうようになった。もしかしたらこれが一番「歳を取った」って言えることなのかも知れない(笑)

だからわたし、過去、自分のブログに書いてたことが恥ずかしいんだよね。多分、とてもえらそげなことを書いてて、なんて傲慢なんだろうと思う(傲慢なのは今でもだけど)。できるなら消してしまいたい。。(笑)
23:05 | 自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
01-13,2014
成人の日に
今日は成人の日ですね。

ってわたしのときは成人の日は1月15日で、役所主催の式典に出た記憶はあるんだけど、正直、中学の同窓会みたいだったという記憶しかない。記念にもらったのは写真立てで、確か後に「不備があった」ってもう一つ送られてきたんだけど、どこをどう見ても何が「不備」か分からなくて、結局2つとも今でも使っている。

ただ、成人式はそのくらいの記憶しかなく、式典のことは全く覚えてないんだよね。

それよりもわたしは自分が二十歳の誕生日を迎えたときのことの方がよく覚えてて。前に書いたかも知れないけど。

二十歳の誕生日、わたしは国立国会図書館に行った。

国会図書館、今は満18歳以上なら入れるみたいなんだけど、その当時は20歳にならないと入れないところだった。わたしの誕生日以前、大学生なら20歳未満でも入れた時代もあったみたいなんだけど、わたしの誕生日の頃は大学生でも20歳超えてないと入れないところだった。だから、20歳になったときに初めて行ってみた。

入館するときに、身分証を見せなきゃならなかったんだけど、もちろんだけどすんなり入れた。

でも、わたしは不思議だった。「昨日ならわたしはここに入れなかったんだよね」って。だってわたし自身、昨日の自分と今日の自分は何ら変わってない。昨日の自分と今日の自分は同じ自分なのだ。なのになんで昨日はダメで今日はいいの?昨日と今日は何が違うんだろう?不思議で不思議でたまらなかった。

今は、、不思議じゃない。それは「人が決めた枠組みなんだ」と思っている。自分が変わっても変わらなくても自動的に「その日」が来てしまえば、権利を得たり剥奪されたりする。それはさ、何も国会図書館に行かなくても、例えばテレビのクイズの応募の「○○日の消印が有効です」みたいなのでも同じこと。すべて人間が人為的に決めたもの。ただそれだけのこと。

ただそれだけのことなんだけど、その権利が与えられたことによって徐々に人間が変わってくるんじゃないかと思う。昨日と今日の自分は違っているようには思えないけど、そこに権利を与えられることによって、社会的な身分が変わり、それによって自分の意識が変わって過去の自分と違う自分になる。日本だけじゃなくこの世界は大人になるほど与えられる権利が多くなってくると思うけど、その権利が自分を再び作り替えていくもんなんだよね。それは義務にしたって同じこと。権利も義務もその後の人間を作り替えていく。そしてあるとき振り返ってみたら、あのときの自分と今の自分がかなり乖離してしまっていることに気が付いて唖然となったりするんだよね(笑)

もちろん、権利や義務を得たりするだけが人間変わる要素ではないけど、人間変わる要素のうちの一つにこういうことがあるんじゃないかな~って思うのだ。

成人の日は個々の誕生日とは違うので、通過儀礼でしかないと思うけれど、二十歳になると日本では成人として扱われることになる。自分自身が気が付かないうちに様々な権利を与えられる。昨日の自分と今日の自分は違わないように思えるかも知れないけど、実は全然違う。でもまぁ「全然違う」と言われてもそのときは自覚できないだろうし、自覚できなくても別にどうってことはない。ただわたしみたいに後から振り返って「あー」って思う日が来るかもね程度の話。
12:39 | 自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
01-08,2014
一増一減
昨日は病院の日だった。

12月は精神状態は悪くなかったけど、体調がものすごく悪く、そして今でもそれが続いているので、そのことを主治医に話したら「○○さんはこれまで見ても身体状態に影響が出やすいと思うので、精神医学からのアプローチをするならジプレキサを再開するのが妥当だと思います」と言われた。

ちなみに今出てる身体症状とは、まず、身体が凝ってすごく痛いということ、食欲不振だってこと、正月開けてすぐ(1日と2日)にひどい頭痛で苦しんだこと、歯の状態がひどいこと(これは最近自覚したのではなく去年後半からずっとそう思ってたんだけどね)、歯の状態が気になって夜寝つきが悪いこと(これに関しては11月頃にまた睡眠剤を再開した)、これくらいかな。身体はまぁ10年ほど前から座骨神経痛があるのだが、その影響か、座骨神経痛を持っている側と反対側の腰が痛くなってしまい、それでも長い間そのままで過ごしていたのだが、去年の夏頃から左の二の腕がある一定方向に回すと筋肉痛みたいな痛みが出てきて、それが徐々にひどくなってきて腕を動かせなくなったのに加え、12月に入ったら背中全体が痛くて痛くてたまらなくなったんだよね。整体に通ってて、徐々によくなってきてはいるものの(背中の痛みはなくなった)、痛いところがあるのは割と変わらず。食欲不振は胃が痛いときもあったんだけど、それが治ってからもずっと食べたくない気がしている。歯はもう治らないものと諦めているけど、やっぱりつらいものはつらくてね。上の歯と下の歯を合わせるとぶにゅぶにゅした感じのものが絶えず出てくるので、気になって歯を噛み締めてしまって頭痛になったりするのかなと思ったり。今は気にならないようにちり紙を折りたたんで噛んだりしてるけど、それも直に唾液でベタベタになって不快になってくる、、もっとなんかいいものはないかなあ。マウスピースを考えてるんだけど、以前、歯科の方の主治医に相談したところ、あんまりいい返事はもらえなくて作ってもらえなかったんだよね、、なんでだか分からないけど。まぁ今度行ったときにまた相談してみるけどね。

話が逸れた。で、わたしもこれがうつの身体的な症状じゃないとは言い切れないのよね。わたしの場合、本当に身体に出やすくて、2回目のうつ病だって最初は精神的な症状じゃなく、息苦しいという身体的な症状だったからね。だけどジプレキサはあんまり復活させたくない。なんてったって暴力的な眠さで朝起きられなくなるのだ。ということでわたしが「うーん」って迷ってたら「0.5mgでもいいですよ」と言う。ジプレキサって最少が1錠2.5mgなんだけど、その5分の1の量だ(ちなみに1錠以下は粉薬になる)。前に止める直前が1mgだったので、その半量。「そんな量で効くんですか」と聞いたら「○○さんの場合はごく少量でも効きますからね」と言われた。まぁそれもそうなんだけど、ほとんど気休めの量だよね。。まぁ主治医はわたしが副作用出るとすぐに薬のせいにして止めちゃうって知ってるからそう言うんだろうな。ちなみにわたしは副作用は薬のせいだと思ってます。だって、止めたら副作用もなくなるんだもん。今回も胃が痛くなったときに漢方薬は止めちゃった。抑肝散加陳皮半夏ってのだったけど、そしてこの漢方薬はただの抑肝散よりは胃に影響がなかったけど、食欲が廃絶されると思うとね(ただし、その他に喘息の薬も飲んでて、そっちの方が副作用は強かったと思う。で、この際食欲に関係するものは全部飲むの止めたのだ。飲むの止めて確かに胃は痛くなくなったけど、食欲までは戻ってきてない)。

0.5mgで何も変わらなかったら量増やされちゃうんだろうけどな~。わたし自身はこんなに身体が痛かったりするのは、寒いのが大きな理由じゃないかと思ってるのだが、まぁこれからさらに2月に掛けて寒くなるしね。ってことで「まぁそれじゃ飲みます」ということでジプレキサ再開になった。何もしなかったらこのままだけど、このままなのは身体がつらいからね。。要は今のままだと身体がかなりきつくてやってられないから。まぁ0.5mgのジプレキサにかけたってわけ(大げさ)。

そして漢方薬はなくなり(もともと1日3回のところを2回に減らしてたし)ジプレキサ追加で一増一減。そういえばリーマスは処方されてから丸1年だなあ。確か去年の1月7日の診察の時から飲み始めたんじゃなかったっけ?結局1年間ずっと100mgのままだった。わたしは別にこんなんじゃ効いてないんじゃないのって思うんだけど、主治医は効いてるような気がするっていうんだよね。まぁこの量だと血液検査も受けなくていいくらいの量だしって思って飲みつづけているが。。

取り敢えず今飲んでるのは、リーマス100mg、ジプレキサ0.5mg(夕食後)、金ハル(就寝前)。
17:57 | 3度目のうつのこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
12-31,2013
今年も終わり
なんだかあと数時間したら今年が終わってしまうらしい。

けど正直、実感が全くない。身体の調子が悪いからかなあ~。
ほとんど何もせず一日が終わってしまう、というより、何もしないだけならまだいいんだけど、絶えず身体の痛みに耐えてて正直しんどい。
寝てる間は別に痛くないので、寝てる間だけは幸せ。

最近「祈ること」について考えている。

祈るって、生まれつき人間が持っている行為なんだろうか?
人は一般的に誰に向かって祈りを捧げてるんだろう?
なぜ人は祈りたくなるんだろう?

わたしは最近「神や仏に対して何か願い事をするのは間違ってるんじゃないか」と感じている。
だって、いくら祈ったって願いが叶うわけないもん。
例えばとても不幸な境遇の人がいたとして、その人のために祈ったとしても、
それは単なる自己満足でしかないんじゃないか?って思う。
それだったら、自分が何かその人のためにできるかを考えて、それを実行する方がよっぽど建設的じゃないかと。
もちろんその人のために自分は何も出来ないことがある。
きっとそういうケースの方が多いだろうと思う。
でもだからといってそこで祈ってしまったら、そのことはそれで忘れてしまうのではないかと。
それだったら何もできない自分を自分の中に深く刻み込ませておいて、
その人のためには何も出来なくても、いつか、誰かのために何かできるように忘れないことが大切なんじゃないかと。

それ以外にも自分のために祈るってこともあるだろう。
「病気が治りますように」とかさ。
でも、祈って治るんだったら医者はいらないよね。
てか、自分自身、何度も何度も病気がよくなればいいなって願ったけど、物理的に考えて、病気は原因をなんとかしなければよくならないわけで。祈っただけで治ったというのなら、所詮その程度の病気だったってことだろう。
なので自分のために祈るのもなんだか無駄なことという気がしている。

でもだとしたら、一体何を祈るのだろう?
願望ではないことを祈ることって一般的に存在するのだろうか?

もちろん何かに祈ることによって、精神的な安定効果はあるかも知れない。
けど正直それだけじゃん、って感じがする。
それが大きいって人もいると思うけど、わたしは精神的な安定はあんまり祈ることと関係ない。

でもそれでも何かに祈りたくなるときがある。
それが考えても考えてもよく分からないのだ。
その都度「なぜわたしはそんな無駄なことをしたいと思ってしまうのだろう?別に誰が願い事を叶えてくれるわけじゃなし」と思う。

願う、ということと、祈る、ということは別なんだろうか。
願わない祈りがあるのだろうか。

前に書いたけど「神」は今のところ、わたしは人間が作った概念だと思っている。
だから祈る対象はそういう「神」でもいいんだけど、「祈る」という行為がどこから来るか。
なぜ祈っても誰かが願いを叶えてくれるわけじゃないのに祈りたくなるのか。
祈るという行為は自分にとってなんなのか。

なにか参考文献とかないかな~。

というわけで、この課題は来年に持ち越し。
18:36 | 自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
12-30,2013
こういう曲があったんだね


今からどのくらい前だったかな?

たまたまtwitterで、この動画がリンクされてて、いつもはリンクされてる動画なんかほとんどクリックすることはないのに、なんでかクリックしてみたんだけどね。初めて見たとき、うわーって思ったんだ。それ以降、何度も何度もこの画像が見たくなってその都度検索して見てたりする。

この曲は今年の曲なんだってね。これを見るまで全然知りませんでした。

歌詞が時折英語に翻訳されてるんだけど、最初は歌詞なんて把握してなかったの。でも字幕読んで「あれ?これって歌の歌詞を英訳したものでは?」と思ったら「わー」って来た。だってわざわざ英訳してるということは、少なくともそれをメッセージにしてるってことだし、それにその歌詞が、何とも言えないものだったんだもの。。

正直、これをがんにかかってる人が見てどう思うのかは分かんない。もしかしたらものすごく傷ついてしまう内容かも知れない。けど、少なくとも闘病を支えている人たちはこういう思いなんだろうなって。その思いについ、涙してしまう。傲慢な涙だよなと思いながらね。わたしは自分のこういうところが嫌いだ。
21:46 | その他 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
12-29,2013
ここまで来た
最近はほとんど日記書かなくなっちゃって、このブログ1ページ(30件)でほぼ1年が網羅されるほどなんだけど、こないだ少し過去記事を読み直してみたら、今年の1月の日記の中で、

> 他人事のことであれ、自分のことであれ、どちらにせよ、心のエネルギーを使っているわたし。
>
> 心にエネルギーを蓄えるって一体どうすればいいんだろうね。何も考えないことがエネルギーを蓄えることなんだろうか。何も感じないことがエネルギーを蓄えることなんだろうか。

と書いていた。これを読んで「あ、今のわたしはこのときと変わってるな」って思った。

あのときもいろんな人のブログ読んでたけど、今もいろんな人のブログを読んでる。時に読んでてしんどい内容だなーってのもある。で、あのときは「こういう現実があります」というのをまともに受けてしまって「自分がなんとかできないか」「何も出来ない自分がとても情けない」、こんな風に思ってしまっていた。そう大してたまってない心のエネルギーが放出されっぱなしになっていたわけ。だから絶えず「疲れた、もう何も感じたくない」って思ってた。

あれから半年以上過ぎて、自分から「休もう」と思ってほとんど何もしなくなって、相変わらず人のブログは読んでるけど、不思議とそれが自分に突き刺さってくることはなくなった。前は「何か一言コメント残して接触したいなあ。関係ないけど見てますよってことを知らせたいなあ」って思ってたけど、今は「そっとしておこう」って思ってる。それはね、やっぱり当事者同士じゃないと本当のところは分かり会えないと思うから。本当に本当につらいとき、そのことを経験してない人がいくら言ったとしても、それは表面的なものでしかない。だって経験してない人は表面的なところでしか理解できないんだもの。そしてその安易な言葉は当事者をものすごく傷つける。

だけど、いろいろな人のブログを読み、いろんな思いや現実を知るにつけ「今のわたしはこういう世界とは無縁だけれど、もし、人との会話の中や何かで関係ができたときに、自分は自分でできることをやろう」と思っている。これが前との差。少し対象と距離を置いて考えられるようになったような気がする。そういう意味ではわたしの心の平安も保たれてるし、エネルギーがたまったわけではないが、枯渇した感じもなくなった。

あと、数ヶ月前まで夜寝るときはぐるぐるいろんなことを考えて眠れない日が連日だったけど、これも昼間は同じことをしてる割に夜寝るときまで引きずらなくなった。

原因はなんだか分からない。積極的に取っている休みのせいかも知れないし、よく分かんないけど時期的なものかも知れない。ともかく精神的には結構安定してきた。結局最後の落ち込みから今月で丸1年たったし(1日単位の細かい不安とかは少し起こったりするけど)上にも書いたように楽になってきた。

ただ、、精神の安定と逆比例して体調が悪いんだよね~。

10月中旬から咳が止まらなくなってる。最初、鼻炎を診てもらっていた耳鼻咽喉科に行って薬もらってきたんだけど、全然効かなかったので、次にネットで呼吸器科を標榜してる病院に行ったんだけどさ。そこではレントゲン撮って「まぁほとんど異常ないですね。多分風邪です」って言われて、抗生剤やら飲まされたんだけど全然効かないので2回目に行ったら別の医者が「アレルギーです」と言って、今度はアレルギーの薬。それでも効かなかったので3回目に行ったら2回目と同じ医者に「咳をするから喉が荒れて咳をしたくなるんです」と、それって暗にわたしが咳をわざとしてるから止まらないって言いたいの?という感じで、しかも今度はきっつい抗生剤(後で調べたらマイコプラズマ肺炎に使う薬みたいだった)と咳止めを出されて。それを飲んでも全然効かなかったので、友だちに「ここいいですよ」って言われた病院に変えた。

そこは初診でCT(前の病院でレントゲン撮ったから今度はCTにしましょうって言われた)と血液検査。検査受けて少しして「炎症反応はほとんど出てないからアレルギーの可能性が高いです」って言われ。おいおい、前に出された抗生剤は無駄なものだったんじゃん!そして10日後に「動物上皮アレルギーの値が非常に高い」って言われ「猫アレルギー」確定。。orz「咳喘息」という診断が下された。そして喘息用の吸入薬などを飲むも、全然効かず。2回行った時点で「うちの病院は呼吸器科の先生も来てますから、そちらで診てもらうのも可能です」と言われたので、3回目はそちらに行って診てもらう。「これで効かないということは、この薬では軽すぎると言うことです」って言われ、少し重い吸入薬になったんだけどこれもほとんど効かず。4回目に行ったら「あれで効かない患者さんは最近珍しいです。今は喘息も良い薬ができて、ほとんどの人が効くんだけど。もしかしたら別の病気かも知れません」って言われorz

今は喘息でもかなり重めの薬を使っているところなんだけど、正直あんまりこれでは改善されてない。ただ、観察してると空気が乾燥してるところで喉がイガイガするような気がするので、加湿器をたいたり、あとスチーム式の吸入器を吸ったりしてると割といいのかな?って感じはする。

これはこれで一つの症状なんだけど、もう一つ、身体自体がすごく痛いってのがあって。背中が凝ってるのか、ものすごく痛くて。背中が痛いのは内臓の病気などが隠れてる可能性もあるのでやばいな~と思ってるんだけどね。まぁ今ひどいのは背中というより肩だけど。左腕も夏頃から痛くてって、書き出すと本当、全身ボロボロなんだけどね、、なんでこんな感じになっちゃったのかな~?って感じ。楽な姿勢が全然ない。

ただ、寝てるときは痛みを感じないんだよね。だから寝てるときが一番楽。でも寝て、起きたら身体は楽になってるかというと全然。。

精神的にはかなりいい調子になってるのになあ~。それとも精神的なものが身体に出て来ちゃってるのかしらね。

なんだかわけ分からん。
12:40 | 3度目のうつのこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
12-27,2013
覚え書き(猫の名前変遷)
20131227234929859.jpg      2013122723493002a.jpg


●高尾にゃん

猫ちゃん→みーこ(子猫の時、みーみー鳴いていたから)→高尾ちゃん→高尾にゃん

●陣馬にゃん

陣馬にゃん→みーこ(みーみーうるさいから)→じんばこ→ばこ→ばこばこ→ばにゃん
                           ↓
                           くろいこちゃん→くろいこ
                           ↓
                           陣馬うんこ教教祖→教祖→ウンドバー(ドイツ語の「ウンダバー(素晴らしい)」から)→うんこドバ男

ちなみに「陣馬うんこ教」というのは、1日2回うんこすると健康になるという教えを元にした宗教(笑)。陣馬にゃんは今のところ、1日2回うんこしてます。思えば高尾にゃんもそうだったんだけど。突然ドイツ語が出てきたのは、最近、Eテレで語学番組ばっか見てるから。「美しい(と思われる)言葉」って質問でドイツの人が「ウンダバー」って答えてたのを聞いて。

しかし、名前の変遷を見てみると、陣馬にゃんはいじられキャラ、ってとこなのかな?(^_^)
16:50 | 二人と猫のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
12-17,2013
見えないものの名前
ここのところ、わたしは「神」のことについて考えている。

といっても、神を信じたいわけじゃなく、神が存在するとも思っていない(キリスト教的な意味合いにおいて)。
というと「無神論者だ」とか「不可知論者だ」って思われるかも知れないが、そんなことはない。
(過去はわたしは「無神論者」だと思っていたが)

「神」という言葉がある以上、神という概念は存在すると思っている。
「心」というものが、本当は存在しないが(人間が感じたりするのは脳の中であって「心」ではない。ましてや「心臓」などという臓器では決してない)あたかも存在しているかのごとく「ある」のと同じことだと思う。

そう、心という言葉と同じく、神は人間が作り出したものだ。
おそらく「そういうのは神とは呼ばない」って思う人がたくさんいると思う。
まぁそりゃそうだとわたしも思う。
例えば人間が存在する前から石とか岩とか存在してたと思うけど、
人間が名付けたから急に存在が確認されたわけじゃなく、
もともとそこにあったものだからだ。それを単に人間が「石」とか「岩」とか名付けただけだ。

だけど「神」は目に見えないものなんだよね。
そこが「石」や「岩」と違うんだと思う。
目に見えない概念をなぜ人間は名付けたのか、って考えると、
そこに何か「ある」としか考えられなかったのだろう。

わたしがそんな風に考え始めたきっかけは、猫だった。

わたしの愛する高尾にゃん。
もうかわいくてかわいくて、涙が出るほどに大好きなんだけど、
この猫との出会いを思うと「何か見えないものの力が働いていた」としか考えられないんだよね。
仏教ではすべてのことは「縁起」(原因があるから結果がある)というのらしいのだけれど、
確かにありとあらゆる要因が重なって、そして高尾にゃんと出会った、のかも知れないけど、
わたしはここにそういうのを超えた「何か」があるような気がしてならない。
「誰か」がわたしを高尾にゃんと出会わせてくれた、とね。

いや、わたしも高尾にゃんとは偶然に会ったんだと思うよ。
たまたまあの日、ペットショップに行く気になって、
たまたま検索したら飼いたいなと思ってたアメショがその店にいるってのが分かって、
まぁ近くだからちょっと行ってみようって話になって、
その店はアメショのオスとメスがいたんだけど、
わたしはどっちにするか決められなかったので彼女に「どっちがいい?」って聞いて、
彼女が考えた挙げ句「じゃ、メスの方」って言って。
そしてそれが高尾にゃんだった。
うん、単なる偶然。
仏教で言うなら「細かい縁起が積み重なって高尾にゃんと出会った」ことになるのだろう。
そしてそれは事実なのだ。

なのにわたしはそうは思えないのだ。
「なぜ偶然(とか縁起)と思えないのだろう?」って何度も何度も自分に問いかけて、
いろいろ考えたのだけれど、よく分からない。
分かったのは「高尾にゃんは自分にとって特別な存在なのだ」ということだけ。
偶然に出会ったことを納得できず、「誰かに出会わせられた」と感じるってことは、
わたしは「偶然に出会った」ということを自分の中で「下位」に位置づけてるのかな、と思ったりしたが、
うーん、意識の上ではあんまりそうは思わないが、もしかしたらそう思っているのかも、、くらいにしか思えない。

では「誰かに出会わせられた」ってことで高尾にゃんの評価が上がるかというと、
別にそういう意識もなく。

じゃあなんで「誰か」が必要かというと、それはわたしが「誰か」に感謝したいから。
「高尾にゃんと出会わせてくれてありがとう」って気持ちがわたしの中にはあって、
それを「誰か」にぶつけたいから。

そういう気持ちを誰かにぶつけたい。
だから人間は「神」という言葉を作りたくなったんじゃないかって。
(もちろん宗教は「(神や仏への)感謝」より「(自分たちの)救済」を求める気持ちの方が大きいのではないかと思うけど)

わたしは前は「神も仏もいない」って思ってたけど、
最近は「神という存在を求めている人間が神という言葉を作ったのだ」と思っている。
無神論の「神」ってのは、キリスト教的な意味においての神がいないってことなんだろうか、と思うが、
そういう意味では信じてないのでわたしには神はいない。
(神が存在するのと神を信じるのでは概念は違うと思うのだけれど)
だけど「人間の目に見えない力がどこかで働いているのではないか」と思える以上、
そこに「何か」があるんじゃないか、いやあると思いたい。
それを「神」と名付けていいのかどうかはよく分からないが、
でもそれが「神」であるって考える方がなんだかわたしにとってはしっくりくるような気がする。
そういう点ではわたしは無神論じゃないし、不可知論でもなくなってしまったような気がする。

わたしの目には見えない誰か、
それは神であるかも知れないし、ないかも知れない。

でもわたしはあなたに感謝します。
高尾にゃんと出会わせてくれて、本当に有難う。

【追記】
陣馬にゃんとはそう思わないのか?と思ってる人もいるでしょうね。
残念ながら、陣馬にゃんはまだそうは思えないのです。。
彼女とは?
彼女ともそうは思えません。「縁起」の方が合ってると思います。
あ、「縁起」って言っても、仏教を信じてるわけじゃなく、
「原因があって結果がある」ということは、仏教の教えと言うよりは物事の普遍的な道理なので、まぁそうだよね、と。
要するに彼女とは「誰かに引き合わされた」とは思えないという。
13:03 | 自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
11-16,2013
45歳
45歳になった。

わたしは自分でもよく分からないんだけど、年齢は四捨五入して考えている。
いつからかというと、25歳になったときで、あのときは「あーもう四捨五入して30かあ」って思って、それから5年間はすっかり30歳になった気でいた。
なので、本当に30歳の誕生日を迎えたときは今までの地続きのようでなんの感慨もなかった。

25になるまで誕生日は素直に嬉しかった。けど25になったときに「30かあ」と思って、それ以降はそんなに嬉しくなくなった。まぁそれでも27歳のときは「3の3乗」だったから、その歳を心待ちにしてたところはあるし(大していいことが起こった歳じゃなかったが)、素数の歳は「今年は素数じゃん」って思ったりもする。32歳になったときは、職場で「16進法で20だから、二十歳の誕生日です」って触れ回ってたなあ、、(遠い目)

今は48歳になるのが楽しみ。48は多くの数字で割り切れるからね。

まぁ単年で「今年は好きな数字だから」という理由で、その歳を心待ちにしてる年はある。そういうときは年齢書くだけでうきうきしちゃったりもする(だから1年間幸せなんだけど、次の年になると好きな数字が書けないのでがっくりくる)。

35歳になったときは、25になったときと同じく四捨五入して40歳になった気でいた。

そして今年は45歳なので、もう50歳にならないといけない。

けど、、

30とか40になったときと違って、50ってなんか違和感あるんだよね。
「わたしが50?」って違和感が一番強い。。まぁ実際には45なんだから、50じゃないんだけど、それでも25のときとか35のときは自分が30歳や40歳だってすんなり思えた。けど、今回はなんかできないのだ。わたしの中で「50歳っていうとこんな感じ」っていうのがあるのかなあ~?50歳というと随分落ち着いたイメージがあるけど、わたしはまだまだ何かになりきった、って感じが全くしなくて、逆にこれから何かになりたいって思ってるから、それと50歳ってそぐわないのかな。もちろん、何かをやり始めるのに年齢は全く関係ないっていうのは、頭では分かっているのだけれど。今の状態があまりにも情けなく、ほとんど毎日療養生活を送ってるだけだからね。。おかげさまで精神状態は非常に安定しているのだけれど。

彼女から「そんな年齢の数え方(四捨五入で考えている)してる人はいない!」って言われたんだけど、なんかわたしにはこの方がしっくりくるのだ。不思議なんだけどね。

そして本当に50歳になったときはおそらく「四捨五入して100歳じゃん!」って思うんだろうな。。まぁいいよね、思うだけなら。多分その次(四捨五入して200歳)はないもの。。これって、27歳のときに「3の3乗はあるけど、4の4乗はないよね」と思ったときの気持ちに似てる。自分はそこまで生きるはずは絶対ないという、不思議な気持ち。。。この日常が永遠に続くわけがないとは頭ではよく分かっている。が、自分が最期を迎えるときの想像がどうしてもできない。

それはある意味幸せなことなのかも知れない。
12:28 | 自分のこと | トラックバック(0) | コメント(4) | page top↑
| ホーム | 次ページ