12-12,2014
初めてピルを飲んだときの話
わたし、これまでブログでほとんど自分の生理のことについて書いたことはないと記憶してるんだけど、これは別に書くのを躊躇ってたわけじゃなく、単に何も問題がないので書くことがなかったからだ。

世の中には毎月生理があることが疎ましく思えるくらいに苦しむ人がいるのはいろいろな人から聞いて知ってるけど、わたしに関して言えば、生理が始まって以来、これまでどんなに精神状態が悪かろうが、ほとんど狂ったことはなく(シドニーから帰った後、2007年12月頃に1回狂ったことはあるけど、逆に言えば本当にそれだけ)、生理になったとしてもお腹が特に痛くなることもなく、気分が悪くなることもなく、イライラすることもなく、毎月散々な思いをしている人からすると多分それだけで「人生得してるね」って言われるだろうなあと思うほど順調だ。

そんな風なので、生理に関しては「ずれる」ってことがまずほとんど有り得ない。もちろん、1日や2日、早まったり遅れたりはするよ。でもそれは許容範囲でしょう。わたしだって別にロボットじゃないし。だからだいたい「次はいつ」って計算はできるのだ。

実は今年、旅行を何回かしてきたわけだが、その中で「あー、旅行中に生理が来ちゃうなあ」ってときがあった。いつもだったら別にそれはそれで仕方がないかなと思うんだけど、今回は最初からモロ当たりそうだったし、生理中はいろいろ気遣うこともあったり荷物が多くなったりしてやだなあ~と思ったので、そうだ、一度生理をずらすってのをやってみよう!って思った。

そのときの基礎知識としてあったのは「旅行中にピルを飲みつづけて、旅行が終わったあとに生理を来させる」、いわゆる「生理を遅らせる」って方法だった。でも、いろいろ調べているうちに旅行中決まった時間にピルを飲むことの負担や、もしかしたらピルによる副作用が起こってしまうことや、遅らせた後の生理は重い、それなら逆に生理を早く来させてしまった方が、旅行中にピルを飲むこともなく、薬飲んでないんだから副作用も起きることはないので快適、ってことが分かった。

ただ、生理を早まらせるためには遅らせるよりも早めに病院に行かなければならないってことも知った。少なくとも前の生理が始まるくらいまでには行かなければならないらしかった。

なので、前の生理が始まる少し前くらいに、家から一番近い、総合病院の中の婦人科に予約して行ってみた。

わたし、基本、婦人科は大嫌いだ。まぁ好きな人はあんまりいないと思うけど、同性とセックスする人間がこの世に存在するということを全く認識していないところに行くのは毎回とても勇気がいる。今回は別にそういうのとは関係ないので、若干気は楽だったけど、やっぱり診察するに当たって問診票を書かされて、その中では「異性愛者」を前提として質問されているので、とても答えづらかった。どこまで誤魔化して、どこまで事実を言うか、その誤魔化しと事実の間に齟齬がないだろうか、そういうところまで考えて回答しなければならないからだ。

まぁそれはそれでいいとして、少し待って診察室に呼ばれた。呼ばれたらいきなり

「生理を調整するのは自由診療ですから。保険は効きません。これ、病気じゃないですから。」と言われた。

いやー、そんなことは知ってたけど、それ、いきなり言うか?みたいな。

そして「本当に旅行中に当たるのか」みたいなことを言われたので、わたしは事前にiPadに入れた情報(わたしももうすぐ閉経に近いので、なんかちょっとくらい乱れるのかなと思って、去年から今年にかけて数ヶ月くらい基礎体温を測ってiPadのアプリで記録していて、結局全然乱れてないみたいだったので、基礎体温は止めてたんだけど、生理の記録(開始日、終了日)はそれからずっと入力してた)を見せて「わたしは、毎月きっちり来るんで、多分当たります」って言ったら、医者はそれをチラッと見て「きちんと来るっていっても2日くらいずれてるときもあるじゃないですか」って言った!いやいや、2日くらいは許容範囲じゃないの??

それから「じゃあピルを処方します」ってことになったのだが、その後にも「毎日決まった時間に飲まなくちゃいけない。ピルを飲んだらひどい副作用が起こることがある。ピルを飲んでも生理が来ることがある、絶対に旅行中に生理が来ないという保証はできない、そして遅らせた後に来る生理は重くなります、、、」みたいなことをクドクド言ってきた。なんかそれを聞いてるとまるで「あなたが自分の勝手で生理を止めたいって言ってるんですよ!副作用もあるし、それに飲んだって効果がない場合があるんですよ、生理が重くなるのもそれはあなたがそういう風に選択したからですよ、それでもいいんですか!それでもやるんですか!」って責められてるような気がした。

そりゃ、わたしだってできればこんなことはしたくないが、生理があるないとでは旅行の快適さは全然違う。わたしは医者に「アンタは男だからそういう悩みはないだろうよ。いいご身分で!」って言ってやりたかった。

わたしはこの時期に前もって行くと言うことは、生理を早められる時期でもあるわけで、わたしとしては医者自らが「この時期なら早められますよ」って言ってくれるのを期待してた。けど、話を聞くと遅らせることしか考えてないようだったので「この時期なら早められると思うんですけど」と言ってみた。そしたら

「早めるのはたいてい失敗するからしません」

って言われてお終いだった。そしてまたクドクドと「血栓になる可能性が高まったり、胃がムカムカすることがあります」って副作用の説明をして「胃薬を出しますか?これも自由診療ですから保険が効きませんけど!だって病気じゃないんですからね!」って言われた。わたしはめっちゃ腹が立ったので「いりません」と答えた。

それで処方箋をもらって会計したのだが、6800円だったかな?まあ保険効かないんで仕方がないと思ったが、でもわたしはこんな医者が処方した薬を処方通りには飲みたくなかった。だって、今ならまだ早めることができるんだから。

と思って、処方箋はもらったが、薬局に行かずに捨てた。めっちゃ腹立った。あの医者は普段、女の人に対してどんな診察をしてるんだろう?って思った。なんか人としてじゃなくてモノとして扱われたような気がした。生理をずらすことってそんなに我が儘だったり自分勝手なことなんだろうか?

ちなみにその病院は婦人科は知らないけど、産科はとてもいい病院だと言われてるようだけどね。総合病院だからその他の科ももちろんあるけど、もうわたしはあそこには行く気がしない。

で、家に帰って今度は旅行のために生理を調整するということをちゃんと明記してある病院をネットで探した。そこは家からはちょっと離れたところにあったんだけど、生理を早める方法と、遅くする方法がちゃんと説明してあったし、早めようとするならいつ頃に来院してってことも書いてあった。また、ピル外来ってのがあって、それがちょうど都合がいいことにその週末にあったので、その日に行くことにした。ピル外来だとピルを必要とする人だけが患者になるので、普通の日に比べると混んでないらしい。

その日になって、受付時間の30分くらい前に行った。混んで待つのが嫌だったから。そしたら、着いたら1番だった(笑)受付で「生理をずらしたい」と言ったら問診票の他に「生理調整用カレンダー」って紙をくれて、そこに4ヶ月前までの自分の生理開始日と終了日、旅行の開始日と終了日を書くようになってた。なので、そこに○印やら×印やらを書いて、そして待合室で待ってたら、まだ開始時間の前だってのに、もう名前が呼ばれた。

「旅行中に生理に当たるからずらしたいんですね」と言われ、「生理調整用カレンダー」を見て「確かにこれだと旅行期間中に生理に当たっちゃうね」と言われた。「決まった周期で来てるみたいだし」って言われたので「やっぱり、1日2日ずれても問題ないんだろが」と思った。「今の時期だと生理を早めることができます」って言われた。わたしも「はい、そちらの方がいいです」って答えた。

医者は「生理調整用カレンダー」を見ながら「じゃあ、この日からこの日までピルを飲んで下さい。毎日決まった時間の方がいいですが、数時間ずれても大丈夫です。飲み終わったら、この日から生理が来るはずです。95%の可能性で来ますが、残りの5%に入ると来ません。この日までこなかったらもう一度来院して下さい。もうそうなったら遅らせるしか方法はありませんから、遅らせるためにピルをまた処方します」って言われた。

95%!!そんなに高い割合で成功するのか?あの、前の医者の「ほとんど失敗します」ってのは、あれはなんだったんだ??って思った。思ったんだけど、この時点ではまだ本当に成功するか分からなかったんで不安だった。なんてったって「ほとんど失敗する」と言ったのも、同じ日本の医師国家試験を受けて通った医者なのだ。

副作用や血栓の話もされた。まれにひどい副作用が起きる人はいるけど、そんなに心配しなくていい、血栓予防のために水をたくさん飲みなさい。ピルを飲んで以降も1週間くらいは血栓のことに注意してください。ただ血栓になりやすいと言っても、一般の人の3倍くらいのリスクになるだけで、5000人に1人くらいですと言われた。前の医者はピルを飲むとまるで毒薬を飲むみたいに人を怖がらせることしか言わなかったけど、この医者は具体的な数字を挙げながら客観的に話してくれたのでとても安心感があった。

そして問診票を見ながら「子宮癌検診を受けていないようだけど、生理が終わったら一度、検診に来た方がいいですね」と言われた。そういや前の病院でも問診票に子宮癌検診の有無の項目があったが、そんなことは言わなかったな。まぁ「保険適用外」だから、そんなの関係ないと思ったんだろう。

帰るときには「旅行を楽しんで下さいね」って言われた。あー、なんなの、前の病院との差は。最初からここに来ておけば、あんなに嫌な目に遭わずに済んだのに。ちなみにここは「診療」という形でお金を取られなくて「保険外金額」で税込み3240円(ピル代含む)だった。

で、指示されたとおりに10日間、ピルを飲んだ。それでもわたしは不安だった。だって「たいてい失敗する」と言われたのだ。「副作用が出ますよ」と散々脅かされたのだ。その言葉が呪いのようにわたしの中にあった。

ピルの副作用。あったかなかったかというと、多分あった。飲み始めて2日後だったか、風呂場でシャワー浴びてたときに急に心臓を鷲掴みにされたような感覚がして気持ちが悪くなった。けど風呂から出て寝ころんでたら治った。3日目は平気だった。4日目、また風呂場でシャワー浴びてたら心臓を鷲掴みにされたような感覚があった。けど風呂から出たあと寝ころんで休むほどではなかった。その後は全くなかった。あの「心臓を鷲掴みにされたような感覚」ってのは、後にも先にも感じたことがないので、多分、ピルが関係したのではないかなとは思う。が、これも「副作用が出てくるんじゃないか、副作用が出てくるんじゃないか」とビクビクしながらのことだったので、そんなこと思ってなければ「副作用?いや、なんもなかったけど」で終わったんじゃないかって思う。

そしてピルを飲み終えて3日後。「この日に生理が来るでしょう」と言われた日。

はいはい、来ました。きっちりと来た。「すごい」って思ったよ、わたしは。生理ってコントロール出来るんだってね。いやあ、自分の身体ってこうやってコントロールできちゃうんだ。

ご存じの人も多いと思うけど、ピルが厚生省(当時)で薬として認可されるまで、ものすごい時間が掛かっている。それに対してバイアグラの認可スピードはあっという間だったそうで、そこには「男は自分の性を楽しむこと」がことのほか重要視されていて、「女の身体は女自身でコントロールすること」をよしとしていない風潮が感じられる。この風潮はまだ続いていて、ピル自体は薬としてどんどん進化していっているのに(身体に負担が掛からないような低容量のピルがどんどん出てきてるのに!)、日本ではその承認がなかなか降りなかったり、世界では当たり前に「この病気に対して使われますよ」という病気に使われてなかったりするらしい。まるで女性に対する嫌がらせのように。

ピルに対しての異様なほどの「副作用があります」説明は、女性にとってピルを飲む恐怖感を植え付ける行為だ。何もピルだけが異常に副作用があるはずがない。そんな薬だったらまず認可されないだろうし、世界でこんなに飲まれてない。どんな薬でも一定数の副作用はある。それをいうなら、精神病の薬の方がよっぽど怖いとわたしは思う(わたし自身も何度も、何種類の薬で副作用が出たことか。中には一歩間違えていたら多分死んでただろう(飲んだら頭が痛くなるのと同時に冷静に死にたくなった)薬もあった)。これらみんな処方されるときに「こういう副作用が出ます」とは一切説明されていない。飲んでてなんか「おかしいな」と思ってあとで聞いてみると「それは副作用だから飲まないで下さい(または薬を変えましょう)」と言われる。「いちいち副作用の説明なんかしてたら、怖くて薬なんか飲めない」その通りだ。だったらなぜピルだけがしつこいくらいに副作用の説明をされるのだろうか。説明だけじゃない。紙まで渡された。「わたしは今、こういうピルを服用しています」という製薬会社の紙だ。「他の診療科、医療機関を受診する際には、このカードを必ず提示してください。」と書いてある。飲んでる間はこの紙を携帯してなくてはならないのだ。しかし、ピルで起こる血栓症、これって妊婦が妊娠初期に起こす血栓症よりも随分可能性は低いのだ。確か、妊娠初期に起こす血栓症は一般の12倍だったか。ピル飲んで血栓が起きる可能性は上にも書いたが一般の3倍だからね。

結局これらのことは「女性にピルを飲ませない、飲ませたくない」方針なのだ。なんのためって、それは女性自身で自分の身体をコントロールさせないためだ。ピルはもともと避妊薬だ。女性が子どもをいつ作るか、いつ生みたいか、ピルを飲んで生理をコントロールすることによってそれが可能になる。子供を産むのは女性だ。女性が自分の人生においていつ子どもを作って生むかを決定することは、その女性自身の人生にもかかわってくる。それがなぜいけないのか。邪魔されるのか。女性だって自分自身の人生を自分自身で決定して生きる権利がある。それが、この国ではこういう政策によって阻害されている。

何が「女性が輝く国へ」だよって思ってるよ!都合のいいときだけ女を利用するなよ!

医師の中にも女性を尊重する(っていうか、ただ普通に扱ってるだけだけど)とそうでない医師がいるんだということがこの件で明確に分かって、本当にいい経験になった。まぁ授業料の6800円は痛かったけどね。。

しかし、本当に女性にピル飲ませたくない医者っているんだね。それは本当に驚きだった。
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12-10,2014
息苦しさ・その後
前の日記書いてもう1週間経ったのかな?

前に書いたラジオ体操やらスロージョギングやらってのは一応続けている。ただし、天気がいいときに限って、しかも「今日は疲れてるな~」と思ったらやってないけど。こういうのってあんまり無理しちゃいけない気がするんだよね。しかもわたしは最近めちゃくちゃ忙しくて、昨日まで4日連続夜出かけてたりしたので、なおさら無理はしなかった。

で、息苦しさはどうなっているかというと、少し回復傾向にあるかも知れない。

この「知れない」というのは、イマイチ自信がないからだ。

あまりにも長期間息苦しかったおかげで、深呼吸してしまうクセがすっかりついてしまい、なにかにつけて深呼吸をしてしまうのだ。ただ、前と違うのは、前は深呼吸して肺の中が空気でいっぱいになったとしても、まだまだ息が吸いたくて息苦しい思いをしていたのだが、今は深呼吸したら納得できるくらい息ができて苦しくない。これはだいぶ楽になった。第一息苦しい思いはしてないからね。

しかし、これも夕飯を食べた後くらいから次第に空気が肺の中に入りづらくなってきて、寝る前は結構息苦しい思いをしてたりする。要は息苦しくないのが丸1日、続かないのだ。きっと身体がだんだん疲れてくるんだろうと思う。

まぁでも徐々に改善のきざしが見られているので、この調子でいけばいいんじゃないかと思っている。

寝つきの良さは相変わらずで、これに関してはただただ驚くのみ。

わたしはいつも部屋を真っ暗にしないと眠れないので、わたしが寝てる隣で彼女が電気付けて本を読まれると眠れない。だからいつも「早く電気消して」って言ってたんだけど、今は隣で電気付けられても眠れるようになった。そのくらいほとんど一瞬で寝てしまう。

これは運動するようになったのがよかったのか、それとも毎日寝る前に彼女にやってもらってる足もみがいいのか、それがよく分からない。

まあ息苦しいのが改善されてきたのも、もしかしたらワイパックス1日2回飲んでるせいかもしれないし、主たる原因は分からないのだ。もちろん、一つずつ止めてみてどれが直接的に効いているのかって実験すれば分かるんだけど、やって再び息苦しいのに戻るのは嫌だし、このままで治まるならこのままにしておこうと。どうせワイパックスは年内にはすべて飲み終えちゃうくらいの量しかもらってないしね。

というわけで、息苦しさ回復までの途中経過でした。あとは早く深呼吸したくなること自体、忘れて欲しい。
22:29 | 3度目のうつのこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
12-04,2014
息苦しさを自分で治そうと思う
以前、9月下旬に「生きています」って題名で書いたんだけど、あれから2ヶ月以上経つのにまだ息苦しい。しかもあれを書いたときは「汗はおさまった」って書いてあるけど、いつの間にかまたじっとりと手足に汗をかくようになってしまい、寒いはずなのに汗かいて余計に指が冷たくなるという変な状態に。おまけに手に汗かくと携帯のタッチパネル(?)がスワイプしにくくなっちゃうとか、PCのキーボードが汗でベチャベチャになるとか、かなり気持ちが悪い状態に。

息苦しいのも初めは起きて少しして「あーなんか息苦しい」って感じで認識してたのに、それから少し経つと息苦しいのを起きた瞬間から思い出して、起きた瞬間から息苦しかった。寝てるときは息苦しさを感じないのに。汗もそう。寝てる間はかいてない。起きた瞬間からじわっと手足に汗をかく。これって絶対自律神経だよねって思った。

息苦しさをよく観察してみると、どうやら息が吸えないから苦しいんじゃなくて、その前に吐いてないみたいなのね。例えば肺の中に空気が0%だったら、100%息が吸えると言うことになる。しかし、もともと肺の中に30%既に空気が入っていると、息を吸おうと思っても70%しか肺の中に空気が入らないのだ。意識では100%吸いたいと思っても70%しか吸えないので息苦しく感じるのだ。それはよく分かった。が、問題はなぜ肺の中の空気が息を吐いても0%にならずに30%も残っているかだ(0%とか30%ってのはあくまでも例え話です。本当は息を吐ききった状態でも10%くらいは肺の中に空気は入ってるらしいです)。

「息を吐くことに集中しろ」

調べたら、こんなことが書いてあった。確かにそれはそうだ。けれど、絶えず絶えずそんなこと意識していられるもんじゃない、というか、意識してたら何もできない。普段は意識してなくても息は出ていくものだ。多分、自律神経の乱れというのは、こういうところに出てくるんじゃないかと思った。自律神経を整える呼吸法、というのをいくつかやってみたんだけど、それだけではまったく効果がなかった(そのときの呼吸は楽になるんだけどね)。

あ、一つだけ、息を吐くことに集中しなくても呼吸が楽になる方法があった。これは風呂に入ってて分かったんだけど、風呂に入ると周囲の水圧が肺を圧迫して知らないうちに肺から空気が出てるのね。だから、普通に呼吸すると普通に息が吸えて息苦しく感じない。あるときこのことに気が付いてね。それで「ああ、いつもは既に肺の中にある程度空気が入ってるからそれ以上息が吸えないんだ」ってことに気が付いたのね。

絶えず絶えず息苦しいから、意識して深呼吸をしてしまう。そうすると慢性的に肋骨の周辺の筋肉が筋肉痛になる。息を吸うと胸が痛くなる。肩で息をしているような感じだから肩も凝る。背中も痛い。こんな感じでは、やりたいことも集中してできない。2ヶ月ただ休んだだけでは全くよくならなかった。

ただ休んでっていうのは語弊があるな。その間、3回、精神科に行った。1回目はワイパックスを処方してもらった。でも1日1回だった。30日分。30日飲んだ。治らなかった。2回目、ジプレキサ0.25mgを処方してもらった。これも1週間飲みつづけたけど治らなかった。次の診察日は年明け。このままだと今年中にこの息苦しいのは治りそうもない。偶然、以前、息苦しかったときにワイパックスを1日2回飲んだ、そうしたら息苦しいのが治まった、というのを読んだ(このブログの2012年5月頃の日記に書いてある)。そこでこの火曜日に精神科に行ってきて「1日2錠、ワイパックスを処方して欲しい」と頼んで出してもらった(これを読むと全部わたしの指示で薬を出してもらっているが、、、その通りです(笑)今の主治医はあんまりはっきりしない人なので、こっちがあれこれ言って出してもらう状態)。

「今年中に絶対に息苦しいのを治す」

そう決めたのは、ノロウィルスに罹患したことだった。わたし、10月の半ばにもひどい風邪を引いた。最近わたしはあまり風邪を引かなかったのに、本当に久々のひどい風邪だった。それから1ヶ月後にノロウイルス罹患。今までの人生一度もかかったことなかったのにかかってしまった。もしかして、息苦しくなってから身体の免疫力が低下してるんじゃないか?って思った。自律神経と身体の免疫力の関係は、関係あるのかないのかは分からないけどね。でも、さっき書いたように息苦しさで肩が痛かったり、背中が痛かったりしてる。これは身体を動かさなきゃならないって思った。そして身体を動かせばある程度免疫力がアップするに違いない、そう思った。

で、ネットで「自律神経 整える」とか「自律神経 治す」とかで調べた。「自律訓練法」とかが真っ先に出てきたんだけど、これはわたしに向いてないので却下(笑)あとはストレスがどーとかって出てきたんだけど、わたしの場合、確かにストレス(金がない→稼がないといけない→でも体調が悪くて仕事できない→金は減るばかり)が掛かってこういう症状になっているとも言える。だけど、それは今考えてもどうしようもないのだ。そういうストレスを抱えたまま、息苦しいのを治さないといけないのだ。

いろいろ調べて「やってみよう」と思ったのがこれ。

起きてすぐ:朝日を浴びながらラジオ体操第一
午後:散歩30分以上(スロージョギング)
夕方:ラジオ体操第一
夕食後:コーヒーは飲まずはと麦茶(はと麦茶にはカフェインは含まれてない)
寝る前:湯船に浸かる
寝る直前:爪揉み&彼女に足の裏を揉んでもらう

これを11月23日から始めている。正直コーヒーはわたし、寝る直前に飲んでもカフェインのせいで眠れないなんてことは今まで一度もない。だから、別にそれはいいんじゃないかなあと思ったのだが、これとは別の理由で1日1杯(朝食時のみ)にしてるのは、ノロウイルスに掛かって丸2日、ご飯を食べられなかった(もちろんコーヒーなんか飲む気は起こらなかった)ときに出てきた頭痛がいつもの頭痛と違っていたからだ。どうも前々から丸1日コーヒーを飲まないとなんか頭が痛くなるような気がするなあと思っていたのだが、でもわたしはコーヒー依存症になるほど大量のコーヒーは飲んでない。けど、1日1杯以上(大抵3杯以下)は必ず飲んでる。んー、ついでにしばらくの間は減らそうかな、そう思ったのだ。

ワイパックス1日2錠摂取は11月28日夜から。実は手持ちのワイパックスが1シートくらいあったので、飲み始めた。なので現在ちょうど1週間かな?

運動を11月23日から始めて、実は次の日にはもう手足に汗をかかなくなった。最初は「偶然?」って思ったし、ぴったり汗をかかなくなったわけじゃなく、1日のうちに短い間だけど汗をかいたりするときがあった。けどそれも徐々に治まってきて、今はかかなくなった。

最近はなぜか雨がちで、雨が降ったら散歩ができないので、そういうときは家でストレッチしたりはしてるんだけど、やっぱり散歩の方が気持ちがいい。スロージョギングなので30分走り続けられるし、何より汗をたくさんかく。これがいいんじゃないかと思う。あと、腕を大きく動かしながら走っているので、肩が徐々に痛くなくなってきたような気がする。ただ散歩って一日用がない日じゃないとできない。何かしら出かけなければならない日は散歩はやってない。

そしてなんと、これらのことを続けていたら(ってまだ2週間も経ってないけど)なぜか寝つきがめちゃくちゃよくなった。夜になると眠くなってるし、布団の中に入るとすぐに眠れる。これはなんといってもすごい。で、できるだけ朝早く、朝早くと言っても8時頃だけど、8時頃には起きてラジオ体操をする。早く起きて、早く寝る。なんというか、今までのわたしからすると信じられないくらい健康的な生活をしている。

まーただ、これだけやっても、今のところ、息苦しさの解消にはあんまりなってないんだけどね。。別のところが改善されてきても、息苦しさは一番最後なのかなあ。。

というわけで、まだまだこれからも続けていこうと思ってるんだけど、今、こんなことしてますってことで。何らか改善が見られたらまた書きます。

【追記】現在処方されている薬。
ワイパックス0.5mg(朝食後)
リーマス100mg、ジプレキサ0.25mg、ワイパックス0.5mg(夕食後)
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12-02,2014
生誕17000日目
今日はわたしが生まれて17000日目の日らしい。

わたしにとってはただそれだけのことで、それ以上のことでもそれ以下のことでもない。
今日、たまたまこのブログを見たら左下に「この世に存在し始めて」ってコラムがあるが、それを見たらちょうど17000日だったので「そうか」と思っただけだ。

たまたま十進法で数えたら17000日だっただけで、十二進数だったら9A08で、十六進数だったら4268なだけだ。まぁ数字自体はこうやって見方を変えると「とんでもなくきりのいい数字」になるのもあれば、同じ数字でも全然パッとしない数字になるのもある。その人がどこに価値を置くかの問題だよね。「そうは言っても世の中は十進数で動いてるんだ!御託を並べやがって!」って思うかも知れないけど、一番身近なところで普段なんの意識もなく使ってる時刻は時間は○時は十二進法だし、○分は六十進法だ(ただ、この場合、厳密な意味での十二進法とか六十進法ではないと思う。ただ繰り上がりがそうであるだけで)。あとダースなんかもそうだよね。1ダース12本。あれも同じだし、コンピュータの世界においては完全に二進法が使われている。デジタルの世界も。あと十六進法も使われてるよね。

なぜ全部十進法じゃないかと言えば、十進法だと物事がややこしくなったりするんだろう、逆に。だから、ものに応じて一番都合のいいものを選ぶ。絶対十進法で考えなきゃいけないなんてことはない。だから、17000っていうのも、十進法で言えばたまたまそうだっただけ。そこに価値を置くかどうかはその人による。大抵の物事も多分、そんな風にできてるんじゃないかな~?

まあそれはさておき、わたしも46歳になった。
去年45歳になったときは「いつもなら四捨五入して考えるからもう50になったのに、違和感がある」って書いた。あれから1年経って46歳になったけど、やっぱり自分が50とは思えない。まぁでも去年より50であることの違和感が少なくなってきたかも知れないな。こうやって時が経つにつれ50でも違和感がなくなっていくんだろう。

46って数字自体は大して面白くなくて、偶数であっても2×23にしかならないのでつまらない。来年は素数かあ。。まぁこの数字になってくると、素数の割合も段々減ってくるわけだから、丁寧に過ごさなきゃならないなと思うけど、47は大して好きな素数ではないんだよな。。去年も書いたように48の方が楽しみだ。

特に46になったと言ってどうってこともなく。

でも、一昨年、去年に比べると病状がだいぶよくなってきたので、楽になってきたかも。あと、目標もできてかなりやりたいことも増えてる。去年の初め頃は「どうやったらやる気が出るんだろう」って思ってたけど、実際のところ、休んだらやる気が知らない間に出てきたというか。やる気を出すために休もうと思ってたわけじゃなく、何かやるたびに精神的に摩耗してしまって、すぐに「もうダメだ」って思っちゃう、少しエネルギーを蓄えてはすぐに消耗してしまう。これじゃあ長期的に何かできない、と思って、エネルギーを蓄えるために休んだのだ。休んだ期間は半年ほどか。この間、何してたのかはちっとも覚えてない。本読んでたっけなあ~?それすら覚えてない。

ただ、いつも不思議なのは「やる気」っていうのはいつ出るのか全く分からないってことだ。あるとき急にやる気満々になってるわけでもないし、急に何かやりたいって思い付くわけでもない。なんか日々過ごしているうちに徐々にやりたいことができてきて、それが今後の生きてくための目標になってたりするのだ。だからいつも調子が悪くなると「あのときはどうやってやる気を出してたんだろう?」って思うんだけど、調子がいいときは実はやる気なんか感じてない。そんなに一生懸命にもやってない。むしろ、状態が悪いときに一生懸命になる。やる気があるときは確かに「これがやりたい」って思うけど、一生懸命やりたいと思おうとは思ってない。ごく自然に思っている。だから難しいんだよね。きっかけとか何もない。気が付いたらそうなっている。だから過去から学べない。「回復の過程」が分かると調子悪いときの目標になったりもするんだけど。。それが分からないので調子悪いときはつらい。このまま一生、こんな状態でいるかも知れないって思えてしまうから。つらさが一生続くような気がする。

わたしにとって今のところ、歳を取って悪い気はしない。

老眼が進んでるのでめんどくさいなーって思うことはあるけど、老化はそれしか感じない。記憶力は昔から悪いから衰えたとも思わないし、むしろ4月から今まで朝鮮語の単語を800個以上覚えたけど、英語に比べると覚えるのがとても楽。50くらいの単語だったら2日あれば全部覚えられる自信が最近付いてきた。いや、ものによっては1日でも行けるかも知れない。記憶力がよくなったとは思わないけど、悪くなったとも特に感じない。

物事の考え方も前に「矛盾すること」って題名で日記を書いたのだけど、最近は「物事の境界は一体どこにあるのだろうか」ということについて考えていたりする。これは絶対にいいよね、これは絶対に悪いよねってものを両端から「じゃ、この条件をこう変えてみれば?」って徐々に近づけていって、自分の中の「いい」と「悪い」の間はどこにあるのだろう?っていう境界探し。これ、結構楽しいです。「許せない」と思っても徐々に境界に近づいて自問自答していると「あれ、さっきは許せないと思ってたのに?」って思うことがあって、境界が変わっていくのが分かることがある。

やっぱ、こういう思考実験ってある程度歳を取ってみないとできないんじゃないかな~って思ったりしてる。

だから、わたしは今のところ自分が歳を取るのは全然悪くないって思ってる。

もちろん、それ以前に「働けよ」ってのはあるんだが、正直まだ継続して働けるほどには体調はよくなってない。けど貯金の残高はどんどん減り続けてるので、まぁゼロにならないうちになんとかしなければとは思ってるんだけどね。

貯金の残高が減り続けていることを考えると本当に怖くて、そのことを考え始めると何も手に付かなくなるのは事実だ(何も手に付かないどころか、精神状態が悪化するんで病気が悪くなるきっかけになりそうで怖い)。でもそこをなんとか踏ん張って将来の収入確保のために、その前段階の資格試験受験しようとしてるし、まぁこんなんでも徐々に将来のことは考えている、ってことで。ただ、こんな歳になって仕事にありつけるのかって話がねー、、資格取っただけで食べていける職業なんかほとんどないしね。
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11-29,2014
彼岸花を見に(新美南吉記念館) その6
その5の続き。今度こそ、最終回、だと思う。

記念館を出たのは15時半過ぎだったかなあ~?わたしはその日、名古屋で友人と会うことにしてて、その待ち合わせ時刻が18時だったので、遅くとも17時くらいに半田口の駅を出たいと思っていたのだが、ちょっと中途半端に時間が余ってしまい、しかもかなり疲れていたので、その後、時間つぶしにそんなに歩きまわれそうもなく。なんせ記念館から半田口の駅まではそんなに遠くないんだよね~。一応、前にも書いたけど、事前にここで行きたいところをチェックして、どういう順番で回ろうかな~って考えてたのよね。しかし、それを全部回ったところでせいぜい1時間くらいにしかならないだろうと。それだったらもうちょっと電車に乗って海が見えるところまで行こうかなって思ったり。でも、電車の時刻を調べたところ、行って帰るだけでお終いになるギリギリの時間しかなく断念。まぁ時間がすごく余るだろうけど、どこかで休み休み行けばいいやと思って駅に向かって出発した。

記念館のすぐ前の大きい道をずっと駅方向に向かって歩くと途中で岩滑小学校がある。ここ、画像は撮らなかったんだけど、卒業制作レリーフみたいなの?そんなのが校門脇の塀みたいなところにずらーっと並んでた。新美南吉の作品をモチーフにしたレリーフみたいな感じだったが、ほとんどが「ごんぎつね」や「手袋を買いに」の中、一つだけ「うた時計」を見つけて「おお、こいつら分かっとる!」みたいな(笑)廉がおじさんのポケットに手を入れたらうた時計が鳴り出すところ。

「おじさんのオーバーのポケット、大きいね」
「うん、そりゃ、おとなのオーバーは大きいから、ポケットも大きいさ」
「あったかい?」
「ポケットの中かい?そりゃあ、あったかいよ。ぽこぽこだよ。こたつがはいってるようなんだ」
「ぼく、手を入れてもいい?」
「へんなことをいう小僧だな」
男の人はわらいだした。でも、こういう少年がいるものだ。近づきになると、相手のからだにさわったり、ポケットに手を入れたりしないと、承知ができぬという、ふうがわりな、人なつこい少年が。
「入れたっていいよ」
少年は、男の人のがいとうのポケットに、手を入れた。
「なんだ、ちっともあったかくないね」
「はっは、そうかい」
「ぼくたちの先生のポケットは、もっとぬくいよ。朝、ぼくたちは学校へいくとき、かわりばんこに先生のポケットに手を入れていくんだ。木山先生というのさ」
「そうかい」
「おじさんのポケット、なんだか、かたい冷たいものがはいってるね。これなに?」
「なんだと思う」
「かねでできてるね・・・・・・大きいね・・・・・・なにか、ねじみたいなもんがついてるね」
するとふいに、男の人のポケットから美しい音楽が流れだしたので、ふたりはびっくりした。男の人はあわてて、ポケットを上からおさえた。しかし、音楽はとまらなかった。それから男の人は、あたりを見まわして、少年のほかにはだれも人がいないことを知ると、ほっとしたようすであった。天国で小鳥がうたってでもいるような美しい音楽は、まだつづいていた。
「おじさん、わかった、これ時計だろう」
「うん、オルゴールってやつさ。おまえがねじをさわったものだから、うたいだしたんだよ」



ああ、画像、撮ってくるんだった~(笑)

岩滑小学校を過ぎるとすぐに岩滑郵便局があるのだが、その手前の細い道に折れる。ここは「そうれん道」というらしい。さきに紹介したサイトには、

現在、岩滑コミュニティセンターのある場所は、昭和8年まで岩滑の墓地でした。「ごん狐」でごんが六地蔵の陰から兵十の母の葬列を見る場所は、ここが舞台になっています。ここから光蓮寺に続くを「そうれん道」と呼んでいました。



と書いてある。これを見つけたとき、わたしは絶対にここに行かなきゃ!って思った。だって、ごんぎつねの中でわたしが好きな場面の一つだからさ。一番最初にも書いたけど、わたしが「彼岸花」で思い出すのは、真っ先にこのシーンだ。

お昼がすぎると、ごんは、村の墓地へいって、六地蔵さんのかげにかくれていました。いいお天気で、遠くのむこうには、お城のやねがわらが光っています。墓地には、ひがん花が、赤い布のようにさきつづいていました。と、村のほうから、カーン、カーン、と、鐘が鳴ってきました。葬式の出るあいずです。
やがて、白いきものをきた葬列のものたちがやってくるのが、ちらちら見えはじめました。話しごえもちかくなりました。葬列は墓地へはいってきました。人びとが通ったあとは、ひがん花がふみおられていました。



旧墓地、というのが岩滑郵便局の裏の方にあるのだが、そこから光蓮寺までの道が「そうれん道」らしいんだよね。ただ、わたしはもうそのとき歩き疲れて旧墓地までも行く気がしなかったので、そうれん道の半分くらいしか歩けなかった。「ごんぎつね」に出てくる「そうれん道」は彼岸花がずっと咲き続いていたらしいけど、そこには一本も彼岸花は咲いてなかった。

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お寺は奥の工事してるとこ。だから、ホントすぐの距離。ここの間で道のへりに彼岸花が咲いてるところを想像しようとしたんだけど、ちょっと難しかった(笑)わたしが想像してたのより道幅が随分広くってね。で、あっという間にお寺に。

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ここ、なんか工事してたのか、人が何人かいてとても入りにくかったので素通りした(^^;この「光蓮寺」ってのは、新美南吉が亡くなったときにここのお坊さんに戒名を付けてもらったということだ。中に入ってみれば、もうちょっとこのお寺についての詳しく書かれたものがあっただろうな~と思うんだけど、なんか中に入りづらかったんだから仕方がない。

このお寺の先は最早「そうれん道」とは言わんのだろうと思ったんだけど、でも、わたしの頭の中にあるごんぎつねの葬列の場面とどこかに何か、一致するもの、似てるものがあるんじゃないだろうかって、一生懸命探した。例えば

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こういう道の100年前を想像したり(笑)

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ああ、ここはちょっとわたしの想像してた姿に近いかなーって思ったり。

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わたしのイメージする彼岸花って、土手のじゅうたんみたいに咲いてる彼岸花じゃなくって、こんなんだよなって思ったり。

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こういうところに上の画像のパラパラと咲いている彼岸花の姿を想像したり。まぁ思えばまるっきり怪しい人みたいに見えただろうな~(苦笑)なんでもない道を行ったり来たり。時には道ばたに座りこんでボーッとしてたり。おまけに画像どこで撮ろうかとかウロウロしたり。なんか何を撮りたいんだか分からないものを被写体にしてたり。だけど、ここはまさに、わたしにとっての「夢の国」、ごんぎつねの世界だったわけです。頭の中で40年弱、ずっとずっと描いてきたところ。頭の中で描いてきたものと現実の世界は全く違ったものだったけど、でも、わたしはずっとここに来たかった。それが今、ようやく叶ったわけです。きっと、40年間頭の中に暖めてきたものがこうやって現実の姿として目の前に現れる体験なんて、そうそうないはず。わたしは今、そういう極めて貴重な経験をしてるんだと、そう思いました。

そこから常福院ってお寺に行って、境内でしばらく休ませてもらった。ここの画像は撮ってこなかったんだけど、夏になると盆踊りをしてたところだって書いてあった。今現在のわたしの目から見ると、とても狭い敷地内でね。こんなところでみんなが集まって盆踊りしてたんだーって思った。あと確か、新美南吉の弟が戦死したのでここのお寺の招魂碑だったかに名前が書いてあるよーって書いてあったかな。探さなかったけどね。

常福院で少し休ませてもらったあと、「はなれの跡」に。ここは新美南吉と弟が暮らしていたところだそうだ。ただ、焼失して今は跡地に立っている看板のみ。周辺は普通の住宅地で、看板がなければ絶対に分かんないようなとこだった。

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ここから少し離れたところに岩滑八幡社という神社がある。ここの神社の前を南吉ははなれの家と実家を往復するときに通っていたそうだ(南吉はご飯は実家で、寝泊まりははなれの家でしていた)。岩滑八幡社の前の庭はかなり広くて、子どもが遊べそうな感じだった。

そこから、再び、南吉の生家に。その前にある常夜灯にも。常夜灯が出てくる作品もいくつかあるらしいんだけど、わたしは読んだことがない作品だった。

予定より時間がすごく余ってしまったんだけど、ここではもう時間が潰せないので、当初、速い電車(特急とか急行とか)で名古屋に向かう予定にしてたんだけど、のんびり各停で行くことにした。

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帰りはこの「ごん」がお見送り。今度来る機会があったら、ここを通り越して知多半島の先まで行って、海を見てきたいなあ~って思った。

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名古屋で無事に友人と合流でき、夕飯は一緒にしゃぶしゃぶを。3年くらいぶりに会うので、積もる話があるある。というか、3年って短いようでかなり長い時間なのだね。。報告されることにたまげてばかりでした。

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夜は予定通りに夜行バスに乗って東京へ。友人はわざわざ寒い中、バスの発車時間までそばにいてくれて有難かった。また会おうね~。たまにはこっち方面にも来て下さいな。

夜行バスってのは、スペース広くなったり椅子が座りやすくなったり、リクライニングもできたりするのになんであんなに寝にくいんだろうか。新幹線の座席は別に寝るようにできてないと思うけど、新幹線の座席の方がよっぽど座りやすい。新幹線では寝ようと思わないのに気が付いたら寝てたりすることあるし。あと、夜行バスは光が入ってこないようにするために窓にカーテンが引いてあって、それで外が全く見れなかった。これはかなり窮屈でした。どうせ眠れないんだったら、窓の外見てればいいやと思ってたから(真っ暗でもいいの)。

結局一睡もできず。浜松で一旦休憩したときは外に出なかったけど、足柄で止まったときは外に出てみた。

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辺りは真っ暗。吸い込まれそうだった。

そして、そこから2時間ちょっとだったかな。朝4時50分、ほぼ定刻通りに新宿に着いた。

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まだまだ暗い新宿駅西口。これから一日が始まるところ。

しかし、わたしはお疲れ。家に帰ってベッドの上で寝ました。

今回は「いつか行ってみたい」とずっとずっと思って来たところだったため、「やっとここに来られた」って思いと、あとは年月の移り具合を肌で感じた。新美南吉の世界はもう新美南吉の作品の中にしかないんだなーってつくづく思った。でも100年違いだけど新美南吉はまさにここで生まれて育って暮らしてたんだし、そう思うととても不思議な感覚だった。「ヒーロー」っていうと全然ヒーローなんかじゃないんだが、なんていうんだろうね、これらの作品はわたしの中の血と肉になってると言ってもいいと思うのよ。そういうものを子どもの時に植え付けられ、自分の中で段々育っていったものが今現在の自分の中に存在している。こういうものがあるってかなり幸せなことだよね。年月をかけないとこういう気持ちにさせるものはないもの。

そういう意味では、愛知県半田市岩滑ってところは、本当にわたしにとっての「夢の国」だった。
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11-27,2014
彼岸花を見に(新美南吉記念館) その5
その4の続き。多分、最終回。

「しんたのむね」辺りで既に足が痛くなってたんだけど、当然のことながらそこには休むところなんてない。ので、とっとと歩いて新美南吉記念館に向かった。途中、こんなん見つけた。

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「ごんぎつねの ふる里 岩滑」って書いてあって、上にちょこんとキツネが乗っている。

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ごんだ!ごんがびくの中を覗いて、いたずらしようとしているところだ!!

兵十はそれから、びくをもって川からあがり、びくを土手においといて、なにをさがしにか、川かみのほうへかけていきました。
兵十がいなくなると、ごんは、ぴょいと草の中からとび出して、びくのそばへかけつけました。ちょいと、いたずらがしたくなったのです。ごんは、びくの中のさかなをつかみ出しては、はりきりあみのかかっているところよりもしもての、川の中をめがけて、ぽんぽんなげこみました。どのさかなも「どぼん」と音をたてながら、にごった水の中へもぐりこみました。



わたしは感動して、どうにかうまく写真を撮ってやろうと、カメラ(iPhoneですが)の向きをあちこち変えてたりしたときに、学校帰りかなにかだったのかな?小学生が何人か、自転車に乗って通りかかった。みんな白いヘルメットを被ってる。そのうちの一人がわたしを見て「こんにちは」って挨拶してくれた。まぁ行動から観光客ってバレバレだもんね、、(笑)でも、嬉しかったです。

そこから少し歩いて、いよいよ新美南吉記念館に来た。

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新美南吉記念館、ちょっと変な建物だったです。変というか、まぁデザインされた建築物というのか。この画像の左側にはうっそうと茂った森みたいなのがあって、散歩したら楽しそうだと思ったんだけど、足が疲れ切って一周してくることすら不可能でした。残念だった、、観光客はちらほらだったかな~。そんなに少ないってわけでもなかったけど、多いってほどでもなかった。

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入口付近。この記念館があるところって、ごんぎつねの中に出てくる「中山さま」のところなんだよね。

これは、わたしが小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。
むかしは、わたしたちの村の近くの、中山というところに、小さなお城があって、中山さまというおとのさまが、おられたそうです。



既にこの話の中でもお城があったことは過去の話なのだけど、なんかこの場所とお城が全く結びつかなかった(笑)でも、でも、「牛をつないだ椿の木」を読んでみても分かるように、ここら辺は昔は山の中だったんだよね??昔って言ってもせいぜい100年くらい前のことで、それを考えるとこれから100年後、この風景はどう変わってるんだろうか、、、なんてこと思った。

記念館は新美南吉の生涯を丹念に追っていた。なんせ南吉自身、たった29年の生涯だったんで、1年1年がものすごく密度濃いんだよね。小学生(とは言わんけどさ、当時は)の頃の通知簿貼り付けられてたり、卒業証書が飾られてたり、恋愛して誰それと付き合ったとか振られたとか、うーん、なんかちょっと複雑な気分だったよ(笑)だって、自分が死んでから100年経つのに当時の通知簿、不特定多数の人にじろじろ見られてさ(笑)恋愛とか失恋とか言っても、この人の場合、あんまり直接的に作品と関係ない気持ちがしたし、プライバシーなんかないじゃんって死人には最早プライバシーはないのか?(笑)わたしだったら死んだあとでも見も知らない人に自分の通知簿覗かれて、その中に何書いてあるか読まれるのはいやだな~、誰それといつ付き合い始めたって書いてあるけど、前に付き合ってた人とは別れたって書いてないのに次の人と?前の人と別れた理由に何か隠したいことがあったのかしらね?なんて思われたくないよな~とか(笑)特に恋愛は一人でするもんじゃないから、相手の人生もあるわけだし、書けなかったのかしらね、とか。死んだあとに知らん人から好き勝手に思われたくないよね~、「死人に口なし」と言えども(笑)

記念館内の写真はほとんど撮らなかった。別に撮ってきても仕方ないしね。ただ、この2枚だけはなんか、気になったので撮ってきた。わたしの琴線に触れるものって、実にしょうもないもんです(笑)

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左は生前だいぶお世話になったらしい巽聖歌(わたしの持ってる文庫本2冊(角川書店、講談社文庫)とも解説は巽聖歌なんで、名前は知ってた)に宛てた手紙で、確か病気(結核)で東京から実家に戻らざるを得なくなって、実家から出した手紙だったかな。あれ、でもなんか印象として「一旦実家に戻っただけ」ってのがあるから、そうじゃなく、大学に入ったときだったかなあ?あー、忘れました(苦笑)ここだけ内容を読むと、まるでラブレターみたいだなあと思って思わず写しちゃった(笑)

右は「へー、そうなんだ」って思ったから撮った。ナフタリンかぁ~。わたしは「ナフタリン臭」で一番先に思い出されるのは「東京湾の臭い」なんだよね。大学生・大学院生の頃、晴海にうちの大学の船が置いてあって、そこからよく出航したんだけど、東京湾を出るたび、入るたびに目にするのは茶色い海の水と、あとなぜかナフタリンの臭いがしてね。でも、あるときからこの臭いを嗅ぐと「ああ、帰ってきたなあ~」って思うようになったの。なんか、こんな臭いで「帰ってきたこと」を認識するのって悲しいなと思ったんだけど、まぁそういうところで生まれ育ったんだから仕方ないよね、って思うようにした。鮭だって生まれた環境がどうあろうと、自分の生まれた川に戻ってくるんだもんね。

しかし、新美南吉の童話は、南吉が書いたそのままではなく、かなり巽聖歌の手が入ってるらしいね。(ちなみに「ごんぎつね」は鈴木三重吉の手が入ってるそうです)南吉の死後、巽聖歌が生前の南吉の作品を発表していくんだけど、南吉の書いたものは戦時色が強かったため(なんせ戦争終わらないうちに亡くなったからね)戦後の雰囲気に合わせて削除した部分も結構あるらしい。わたしが持ってる中で「あれ?」って気が付いたのは、「和太郎さんと牛」って作品なんだけど、この一番最後の部分。わたしが持ってる角川文庫の「牛をつないだ椿の木」(昭和43年2月20日初版発行、持ってるのは昭和53年6月20日18版)には

さて、この天からさずかった子どもの和助君は、それからだんだん大きくなり、小学校では、わたしと同級で、和助君はいつも級長、わたしはいつもびりのほうでしたが、小学校がすむと、和助君は、和太郎さんのあとをついで、りっぱな牛飼いになりました。そして、いまでは和太郎さんは、だいぶんおじいさんになりましたが、まだ元気です。おかあさんとよぼよぼ牛は、一昨年なくなりました。



って書いてあるのね。これが別の一冊、これもわたしが持ってる講談社Super文庫「新美南吉童話大全」(1989年8月21日第一刷)では

さて、この天から授かった子どもの和助君は、それからだんだん大きくなり、小学校では私と同級で、和助君はいつも級長、私はいつもびりの方でしたが、小学校がすむと和助君は和太郎さんのあとをついでりっぱな牛飼いになりました。そして、大東亜戦争がはじまるとまもなく応召して、いまではジャワ島、あるいはセレベス島に働いていることと思います。和太郎さんは、だいぶんおじいさんになりましたが、まだ元気です。お母さんとよぼよぼ牛は一昨年なくなりました。



になってて、なんと、和助君の結末が違っている。ちなみにこの本(講談社の方)は大日本図書「新美南吉童話集」を定本にしてあるそうだ。そして角川文庫の方の解説で、巽聖歌自身が

本書の編集にあたっては、従来定本とされてきたものに、さらに原稿のあるものは原稿に、それのないものは初発の単行本につきあわせ、完全を期した。しかしながら、制作年代を見れば分かるように、太平洋戦中に夭折した彼のことであるから、ミリタリズムでなかったにしろ、「軍帽」「聯隊」「将軍」といった種類のことばが、期せずして出てくる。時代に合わないそういう名詞は、なるべく避けるようにした。
それのみならず、戦時下の発表であるので、故意に誇張されている部面がある。戦時下では、不要不急のもの、戦意高揚する以外のものは、作品の発表すらできなかったからだ。「紙も弾丸」といわれた。
戦後、連合軍の占領下においては、これが逆転した。「飛行機」「軍艦」「戦闘」などということばが出てきても、厳しいGHQの追及があり、出版不許可になった。南吉の作品も、そういう波はくぐって、今日の生命を保っている、とはいっても、彼の書いたものは児童文学であったがために、ごく小部分の訂正削除ですんだ。今後も、でき得れば、このままのすがたで、残してやりたいと思っている。できない希望であるかも知れない。



と書いている。ってことは、「大東亜戦争~」の下りはGHQの目を気にしてのことだったんだろう。確かに新美南吉の作品は時代がまさに戦時中だったので、そういう類の話は割とある。ただ実際のところ、わたしが知ってる作品は「戦意高揚」とかそういう戦争を肯定するような話でもなく(もちろん否定するような話でもなく)、少佐が井戸に落ちて中国人に助けられた話(張紅倫)とか、朝鮮人と足袋屋のおばさんとのたわいない話(アブジのくに)とかで、逆にこの時代、差別が激しかったときにこういう作品を残してるんだよね。これって多分、特に意識して書いたんじゃないと思うんだよね。なんか自然にこういう人だったんだろうな~と思う。

あと、9月29日にはちょうど「南吉と良寛」って特別展をやっててね(もう終了しちゃったみたいです)、南吉の生涯の資料を見るだけで疲れ果ててたんだけど、なんかちらっと最後の方を見たら面白かったので、それで最初に戻って読んでみた。南吉の生前、出版された本は「おじいさんのランプ」と「良寛物語・手毬と鉢の子」だけだったそうで、それでこういう特別展をやったそうだ。面白そうだったので、「良寛物語・手毬と鉢の子」は記念館で買って帰っちゃった(入口のところでいろんな南吉の本が売られてます)。

で、あまりにも疲れたんで、記念館の2階のテ-ブルと椅子が置いてあるところで少し休んで。それから記念館を出た。

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入口のところにある「ごん」。あまりにもかわいい感じなので、わたしの中のイメージとは違うと思って、行きに見たときは「撮らなくていっか」と思ったのだが、なんか帰りに「まぁいいか」と思って撮ってきた(笑)

あ、最終回にしようと思ってたんだけど、なんか終わらなかった(笑)

その6に続く。。
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11-26,2014
彼岸花を見に(新美南吉記念館) その4
その3の続き。

さて、「しんたのむね」に来た。「しんたのむね」は新美南吉の作品のあちこちで出てくる地名だが、「しんたのむね」で一番に思い出されるのは「牛をつないだ椿の木」だろう。

「しんたのむねを下りたところにほったら、水が出るだろうかなァ」
と、ききました。それは、利助さんが牛をつないだ椿の木のあたりのことでありました。
「うん、あそこなら、出ようで、前の山で清水がわくくらいだから、あの下なら水は出ようが、あんなところへ井戸をほって何にするや」
と、井戸新さんがききました。
「うん、ちっとわけがあるだて」
と、答えたきり、海蔵さんはそのわけをいいませんでした。



海蔵さんは、水をのみにいっている間に利助さんの牛が椿の葉をくってしまったことを話して、
「あそこの道ばたに井戸があったら、いいだろうにのォ」と、いいました。
「そりゃ、道ばたにあったら、みんながたすかる」
と、いって、お母さんは、あの道の暑い日ざかりに通る人びとをかぞえあげました。大野の町から車をひいてくる油売り、半田の町から大野の町へ通る飛脚屋、村から半田の町へでかけてゆく羅宇屋の富さん、そのほかたくさんの荷馬車ひき、牛車ひき、人力ひき、遍路さん、乞食、学校生徒などをかぞえあげました。これらの人ののどがちょうどしんたのむねあたりでかわかぬわけにはいきません。
「だて、道のわきに井戸があったら、どんなにかみんながたすかる」
と、お母さんは話をむすびました。



わたしは、長い間これらの作品を繰り返し読みながらずっと「しんたのむね」の想像をしてきた。道はもちろん舗装してない砂利道かな、それとも土の道かな、わたしのイメージとしては黄土色の道だったので、多分土の道だと思ってるのだが、道のへりには椿の木が植えてあるくらいだから、きっと他の木もうっそうと茂ってるんだろう。崖になってるらしいから、すぐ近くに山があるんだろうか。あ、そういえば一番始めに「山の中の道のかたわらに」って書いてあったよな。だからここは山の中なんだ。きっと急な坂道なんだろう。だからみんな喉が渇くんだ。そしてそこの道をいろいろな人たちが行き交っている姿、せわしく行き来している姿、、を想像していた。

「牛をつないだ椿の木」は、以前にも書いたと思うがわたしの大好きな作品の一つだ。物語的にはちょっとお説教臭さというか、道徳の教科書的というか、そういうものがちらついて見えるのだけど、基本、わたしはこういう「人としての正しい行い」みたいなのに少し弱かったりする(笑)

金を持ってそうな利助さんが「その三十円をどうしておれが出すのかェ。おれだけがその水をのむなら話がわかるが、ほかのもんもみんなのむ井戸に、どうしておれが金を出すのか、そこがおれにはよくのみこめんがのォ」といって断るところ、それならと思って賽銭箱のようなものを椿の木に吊り下げて「ここに井戸をほって旅の人にのんでもらおうと思います。志のある方は一銭でも五厘でも喜捨してください」と書いた札を付けて、誰かが寄付してくれないか見ていたところ、札を読んでも誰も寄付しなかった場面。現実的にも大いにあることだ。昔、わたしが大学生の頃、大学には男子寮があったんだけど、女子寮がなかった。だから、遠方から通ってくる人が「女子寮を作りたい」って運動を始めたんだけど、結局「今運動して実現したとしても、自分たちが卒業するまでに寮が建てられるとは限らない」ことを知り、一瞬でその話は消えた。そういうことだよね。「今、こういう人たちがこういう目に遭って苦しんでいます。誰か助けて下さい」という話を聞いても「ああ、そうだね、かわいそうな人たちだね。悲しいね。涙が出るね。やりきれないね」と言って何もしない。そういうことだよね。

もちろんこれは、人のことを言ってるんじゃない。わたし自身のことだ。寮の話はわたし自身当事者でもあったしね。そしてもちろん、自分が聞いたすべての話に対してすべてかかわることは不可能だ。けど、それは何かをやらない理由にはならない。自分にできることは限られているけれど、できる範囲で何かをやる、やっていかねばならないとは思っている。なかなか難しいけどね。一番楽でやった気になれるのは金を出すことだけど、わたし、今、金、全然持ってないから、何か別の方法で、とは考えているけれど。

まぁ話を元に戻そう。

そして海蔵さんが「けっきょく、ひとはたよりにならんとわかった。いよいよこうなったら、おれひとりの力でやりとげるのだ」と決意し、いつもはお客を待っている間(海蔵さんは人力車ひき)、駄菓子屋でお菓子をつまむのが常だったんだけど、決意したあとは一切食べるのを止めてしまう。わたしは、ここの駄菓子屋のシーンがなんか好きでね。ついつい今までの習慣で駄菓子を食べたくなってしまう姿、それを必死で抑える姿。目の前にまざまざと光景が思い浮かぶ。新美南吉のすごいところは、文章のところどころで目の前にありありと思い浮かぶ、とても美しい表現があるところなんだよね。

例えば

秋の陽ざしは暖かく和んで、あちらの汲みたての水盤に水を飲みにくる蜂が、金色の糸をひいたように光った。(「良寛物語・手毬と鉢の子」より)



こんな表現。こういう美しい表現、目の前に浮かぶような表現があちこちにあるの、この人の作品。「おじいさんのランプ」の、わたしが一番好きなところ。

「わしの、しょうばいのやめかたはこれだ」
と、巳之助はひとりでいった。しかしたち去りかねて、ながいあいだ両手をたれたまま、ランプの鈴なりになった木を見つめていた。
ランプ、ランプ、なつかしいランプ。ながの年月なじんできたランプ。
「わしの、しょうばいのやめかたはこれだ」
それから巳之助は、池のこちらがわの往還に来た。まだランプは、むこうがわの岸の上にみなともっていた。五十いくつもがみなともっていた。そして水の上にも五十いくつの、さかさまのランプがともっていた。立ちどまって巳之助は、そこでながく見つめていた。
ランプ、ランプ、なつかしいランプ。
やがて巳之助はこごんで、足もとから石ころをひとつひろった。そして、いちばん大きくともっているランプにねらいをさだめて、力いっぱい投げた。ぱりいんと音がして、大きい火がひとつ消えた。
「おまえたちの時世はすぎた、世の中は進んだ」
と、巳之助はいった。そしてまたひとつ石ころをひろった。二番めに大きかったランプが、ぱりいんと鳴って消えた。
「世の中は進んだ。電気の時世になった」
三番めのランプを割ったとき、巳之助はなぜかなみだがうかんできて、もうランプにねらいをさだめることができなかった。



うわ、泣きそうだ、わたし。ここは何度読んでも本当に好きな場面で。このシーンは、わたしの頭の中で何回も何回も繰り返し想像してきたシーンだ。新美南吉の作品のすばらしさはこんなところにもあるとわたしは思っている。

あ、「牛をつないだ椿の木」の話だった(汗)

そして物語はこれで井戸を作ってめでたしめでたし、じゃないのだ。2年かけてお金を貯め、いよいよ井戸を掘らせてもらおうと地主の元に行くのだが、地主は「井戸を掘らせない」と言う。その地主はしゃっくりが止まらず、じきに死ぬだろうということで、地主の息子は「そのうちわたしの代になりましょうから、そしたらわたしが、あなたに井戸をほることを承知してあげましょう」と言うのだ。そこで家に帰って海蔵さんはお母さんに「あのがんこもんのおやじが死ねば、息子が井戸をほらせてくれるそうだがのォ。だが、ありゃ二、三日で死ぬからええて」と言ったところ、お母さんに「おまえは、じぶんの仕事のことばかり考えていて、わるい心になっただな。ひとの死ぬのを待ちのぞんでいるのは、わるいことだぞや」と言われる。海蔵さんはハッとする。ハッとして、まだ生きている地主のところに行く。そして「わしは、あやまりにまいりました。きのうわしは、ここから帰るとき、息子さんから、あなたが死ねば息子さんが井戸をゆるしてくれる、と聞いて、わるい心になりました。もうじきあなたが死ぬからいい、などと、おそろしいことを平気で思っていました。つまり、わしはじぶんの井戸のことばかり考えて、あなたの死ぬことを待ち願うというような、鬼にもひとしい心になりました。そこで、わしは、あやまりにまいりました。井戸のことはもうお願いしません。またどこか他の場所をさがすとします。ですから、あんたはどうぞ、死なないでください。どうぞなおってください」とまだ生きている地主に言う。

ただ、わたしはここの後半部分は嫌いです(笑)なぜ、自分が悪い心になったことをわざわざ地主に報告に行くのか。もちろん、そうしなきゃ話が進まないからだろうが、少なくとも言うべき相手は「地主の息子」であって、まだ生きている地主ではないと思う。悪い心を持ったことについては、反省すべきだが、その反省したことは別に人に言うことはないじゃない?反省したことを誰かに言うってことは、誰かに評価してもらいたい、という気持ちがどこかにあるんじゃないの?って、意地の悪いわたしはそう思ってしまうのだ。だから、わたしはこの後半部分は気にくわない。

あーでもこの話、うん、やっぱりどこか道徳的な話だよね(笑)けど、なぜわたしがそこまでこの話に惹かれてしまうのか、、それはやっぱりこの人の生き方に感動するからだと思うんだよね。

新美南吉の作品って、「ごんぎつね」は違うんだけど(「ごんぎつね」は分かり合えた瞬間に相手を失ってしまう、しかも自分の手によって、という不条理な話だよね)、「花のき村と盗人たち」とか「おじいさんのランプ」とかって、わたしが好きなのは、出てくる人の「生き方」が好きなんだな、結局。「おじいさんのランプ」は上の引用でだいたい分かると思うけど。

ちなみに「花のき村と盗人たち」でわたしが一番好きなシーンは

たいていの牛の子というものは、そこらをぴょんんぴょんはねまわって、持っているのがやっかいなものですが、この牛の子は、またたいそうおとなしく、ぬれたうるんだ大きな目をしばたたきながら、かしらのそばに無心に立っているのでした。
「くッくッくッ」
と、かしらは、わらいが、おなかの中からこみあげてくるのが、とまりませんでした。
「これで弟子たちに自慢ができるて。きさまたちがばかづらさげて、村の中を歩いているあいだに、わしはもう牛の子一ぴき盗んだ」といって、
そしてまた、くッくッくッとわらいました。あんまりわらったので、こんどはなみだが出てきました。
「ああ、おかしい。あんまりわらったんで、なみだが出てきやがった」
ところが、そのなみだが、流れて流れてとまらないのでありました。
「いや、はや、これはどうしたことだい、わしが、なみだをながすなんて、これじゃ、まるでないているのと同じじゃないか」
そうです。ほんとうに、盗人のかしらは泣いていたのであります。―かしらはうれしかったのです。じぶんはいままで人からつめたい目でばかり見られてきました。じぶんが通ると、人びとはそらへんなやつがきたといわんばかりに、まどをしめたり、すだれをおろしたりしました。じぶんが声をかけると、わらいながら話しあっていた人たちも、急に仕事のことを思いだしたように向こうをむいてしまうのでありました。池の面にうかんでいる鯉でさえも、じぶんが岸に立つと、がばっとからだをひるがえしてしずんでいくのでありました。あるとき猿まわしの背中におわれている猿に、かきの実をくれてやったら、ひと口もたべずに地べたにすててしまいました。みんながじぶんをきらっていたのです。みんなが自分を信用してくれなかったのです。ところが、このわらじをはいた子どもは、盗人であるじぶんに牛の子をあずけてくれました。じぶんをいい人間であると思ってくれたのでした。またこの子牛も、じぶんをちっともいやがらず、おとなしくしております。じぶんが母牛ででもあるかのように、そばにすりよっています。子どもも子牛も、自分を信用しているのです。こんなことは、盗人のじぶんには、はじめてのことであります。人に信用されるというのは、なんといううれしいことでありましょう。
そこで、かしらはいま、美しい心になっているのでありました。子どものころは、そういう心になったことがありましたが、あれから長いあいだ、悪いきたない心でずっといたのです。ひさしぶりでかしらは、美しい心になりました。これはちょうど、あかまみれのきたない着物を、急に晴れ着に着せかえられたように、きみょうなぐあいでありました。―かしらの目からなみだが流れてとまらないのは、そういうわけなのでした。



というところだ。ただし、これは特に「生き方」の場面じゃない。この場面もちょっとくさいところだけど、でも、わたしがここが好きなのは「何か努力をした結果、いいことが起こったわけじゃない」ってところなんだよね。なにか、自分が努力したわけじゃないのに、ふとしたことが起こり、心が変わる。ふとしたことに、敏感に心が反応する。わたしはこの話、これ以後の結末に至る話も好きなんだけど、でも、中でもこのシーンが一番好きで、「花のき村と盗人たち」というと、このシーンが一番に思い浮かんでくる。

もう一つ、わたしが好きな作品に「うた時計」があるんだけど、これは特に好きな場面ってのはないの。でも、全体的な話が好きなの。わたしはこの作品で「清廉潔白」って言葉を知った。

ああ、わたし、今まで新美南吉の作品に対する好みの共通点なんて考えたことがなかったけど、考えたら多分、それだったんだなー。。

あ、「しんたのむね」の話だけするつもりが、なんか大いに話がずれちゃった(笑)

で、今回、いろいろ回るに辺り参考にしたのがここなんだけど、この一番上の地図の中に「しんたのむね」ってあるでしょ。それをね、見た途端に「ここには絶対に行く!」って決めたの。これだけ思いがこもった作品に出てくるところだもの。これは絶対に行かなくちゃ!って思った。もう一つ、「半田池」も「おじいさんのランプ」の舞台になった、って書いてあるから、ここもすごく行きたかったんだけど、いかんせん、歩くしか手段がなかったもんで、ちょっと遠すぎて。。ああ、でも、ランプが吊り下げられて、ぱりいんって割られた、あの池、、いつか行ってみたい。。

で、「しんたのむね」付近に着いた。

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「へ?ここ?」って思ったね。。あまりにも、あまりにも、想像してたのとは違いすぎてって。第一、全然山の中じゃないじゃん!って当たり前なんだけどさ。。。あの話は日露戦争前後の話だから、今から100年以上前の話だしね!そりゃ、全然違ってるのは当たり前だよね!だからせめてそこから「100年前の光景」を想像しようとしたんだけど、、ちょっと難しかった。やっぱここがかつて「山の中」だったことを想像することなんかできなかった。でも、ここがあの「しんたのむね」かと思ったら、なんか心が熱くなったよ。

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「しんたのむね」付近には、こういう看板が立ってた。そこに書いてある

「しんたのむね」の下の旧道から少し入ったところには、作品の通り、清水が湧いていて、茶碗が置かれ、道往く人々や学校帰りの子ども達が喉を潤していました。



というのを読んで、よっぽどもうちょっと道を下ってそこがどういうところか見に行きたかったんだけど、その続きに書いてあった「そうした光景も見られなくなりました」っていうのを読んで止めた。既にここに来ただけで、そうとう足が痛かったから。。昭和40年代か~。わたしが生まれた頃だもんなあ~。。

けど、わたしの憧れだった「しんたのむね」に行くことができて、本当に嬉しかった。

その5につづく。。
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11-22,2014
ノロウイルス罹患
いやー、初めての経験。

ノロウイルスに感染してひどい目に遭った。

てか、ウイルス検査してないので本当にノロかどうかは分かんないけど、まぁ典型的な症状なので、まず確実だろうと思う。一昨日の夜に突然吐いて、その後、何回も何回も吐いて。次第に体中がピリピリ、ゾクゾクしてきて発熱の兆候、そして下痢までは行かなかったけどお腹がぐるぐる言って。一昨日の夜は一睡もできなかった。

夜が明けてから、死ぬ思いでタクシーに乗って病院へ。「典型的な胃腸炎ですね」と言われ水分補給と吐き気止めの点滴を2時間。少し楽になって帰ってきた。

それからずっと寝てて、夜に少しおかゆを食べて寝たら、また嘔吐。食べたもの、飲んだもの(水分補給のためにお茶やらポカリスエットを飲んでた)全部出た感じ。「よく胃の中にこんなに残ってるね」と思ったほどたくさん吐いた。まぁその夜はそれ1回切りだったけど。。

次の日は頭痛で苦しむ。なんで頭痛が出てきたのか分かんない。わたしは偏頭痛持ちであるけど、頭の痛さには非常に弱くって、それですぐに吐き気が来る。なので、このときになるとお腹が気持ち悪くて吐き気がするのか、頭痛で吐き気がするのか、よく分かんなくなってた。

結局固形物は夜におかゆを食べたきり。それまでまったくお腹なんか空かなかった。夜におかゆを食べて初めて「なんかもっと味のあるものが食べたい」と思って、同時にコーンスープも飲んだ。きっと身体の中の塩分が足りなくなってたのかなと思う。

そしたら急激にお腹がいっぱいになって気持ちが悪くなった。食べたことを後悔した。けど、これは寝てたら自然に治った。しかし、一旦治ったと思われた頭痛がまたぶり返してきて。。

今日の明け方、頭痛で目が覚めた。気持ちが悪くて何度も吐こうとしたんだけど、もう吐けなかった。きっと胃腸炎はもう治ってきてるんだろう。薬を飲んで、それでも治らなかったので彼女を起こしてちょっと頭を揉んでもらって、そうしたら頭痛はスッと消えて、眠れた。

症状が出て3日目の朝を迎えるが、丸2日、ほとんど何も食べてないので身体に力が入らない。

回復するのにはもうちょっとかかりそう。

いやー、ひどい目に遭った。
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11-19,2014
彼岸花を見に(新美南吉記念館) その3
その2の続き。今さらだけど記憶が薄れないうちに書いておかないと(笑)

彼岸花が植えてあるところは、矢勝川の高田橋ってところから弘法橋ってところらしい。わたしがスタートしたのは高田橋の方。その2の最後から2枚目の画像で橋が映っているが、これが高田橋。高田橋から弘法橋方面を望むと

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こんな感じ。もちろん、川が曲がりくねっているので、ここから弘法橋を見ることはできない。この画像を見ると「あれれ、そんなに咲いてないじゃん」って思われるかも知れないが、わたしも行って初めて知ったんだけど、彼岸花って場所によって咲いてるところと咲いてないところの差が激しいのね。わたしは桜みたいに咲き始めたら全部満開で、あとは一気に散る、というのを想像してたのよ。だけど、全然そんなんじゃないってことが分かった。その1にも書いたけど、旅行行く前にここのサイトで見頃をチェックしてて(ここのサイト、今は更新止まってるけど、まつりの前後は毎日開花状況を更新してた)、ほぼ咲きそろったと思ったところで行ったんだけど、正直なところ、もうちょっと早めに行けばよかったと。まぁもうちょっと早めというと、バスの値段が高い金曜日の夜に帰ることになったり、土日に当たったりしてしまう日程になるんで、今年はタイミング的に仕方がなかったのかなーという感じがするが。ちなみに今年は例年より咲くのが早かったらしい。ただ、全部咲きそろうことはないので、この時期でも十分楽しめましたよ、もちろん。

土手を少し歩くと「ででむし広場」ってのがある。「ででむし」って言うとわたしがすぐ思い出すのは

生(あ)れいでて
舞ふ蝸牛(ででむし)の
触覚(つの)のごと
しづくの音に
驚かむ
風の光に
ほめくべし
花も匂はば
酔(え)ひしれむ



この詩ですね。これは新美南吉が安城高女だったっけ?に勤務してた頃に、クラスで詩の文集かなんか作って、その最初にあった詩なんだよね。今回、この句碑がないかなあって探してたんだけど、この句碑は安城市の元安城高女のあった小学校にあるらしい。この詩、前にも書いたけど、わたしが小学校5年だったか6年だったかに、なんで新美南吉が出てきたのか覚えてないんだけど(もしかして「おじいさんのランプ」を習った関係?)この詩を先生から紹介されて、覚えさせられたのです(覚えさせられたって言うとなんか無理矢理みたいだけど、そういうわけじゃない)。その他に新美南吉で「ででむし」っていうと「でんでんむしのかなしみ」という作品もあるけど(こっちの方は童話の割に哲学的なお話)、「ででむし」っていうのと「でんでんむし」っていう言葉は、わたしの中でかなり印象が違ってて、やっぱり「ででむし」は「ででむし」なんだよね~。わたしにとっては小学校の思い出と共にある作品だから、これもまた、いつか安城に行って、直接句碑を見てきたいな(小学校にあるそうなんだけど、入れるのかな?)。

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「ででむし広場」から望む。ここら辺はほぼ「満開」って言っていいんじゃないかと思う。まぁ、こんな感じで土手の斜面一面に彼岸花が咲いてるわけです。

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これは「ででむし広場」からしばらく行ったところ。結構「果てしなく」続いてる感じ。しかも、画像見て分かると思うんだけど、人がほとんどいなかった(笑)このずっとずっと先に「新美南吉記念館」があって、その周辺は確かに人が多かったんだけど、ここら辺まではわざわざ歩いてくるような人は少ししかいないみたいです。まぁあとは平日ってこともあると思うけどね、もちろん。

ただ、わたし、彼岸花を見ながら思った。「わたしのイメージしてたのは、川の土手の内側に咲いてる彼岸花なのにな」って。しかし、川は護岸工事で

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こんなになっていて、彼岸花を植えるすき間がないんだよね。。これは考えても仕方がないことなんだけど、物語が作られた昭和初期、の頃は全然こんなんじゃなくって、自然のままだったんだろうな、と。そこに彼岸花は咲いてなかったとしても、土手は草に覆われてたんだろう。そうだ、ここは「ごんぎつね」で兵十がウナギを獲っていた川じゃないのか。

ごんは、村の小川のつつみまで出てきました。あたりの、すすきのほには、まだ雨のしずくが光っていました。川はいつもは水がすくないのですが、三日もの雨で、水がどっと増していました。ただのときは水につかることのない、川べりのすすきや、はぎのかぶが、きいろくにごった水によこたおしになって、もまれています。ごんは川しものほうへと、ぬかるみ道を歩いていきました。
ふと見ると、川の中に人がいて、なにかやっています。ごんは、見つからないように、そうっと草の深いところへ歩みよって、そこからじっとのぞいてみました。
「兵十だな」と、ごんは思いました。兵十はぼろぼろの黒いきものをまくしあげて、こしのところまで水にひたりながら、さかなをとる、はりきりというあみをゆすぶっていました。はちまきをした顔のよこっちょに、まるいはぎの葉が一まい、大きなほくろみたいにへばりついていました。



平成26年になってしまった、今現在の川の姿からは想像するのがとても難しかったんだけど、かつてはこのようにしてウナギを獲っている人がいたんだよなって思いながら、土手を歩いていた。ああ、でも中には

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こういう、土手の内側で咲いているところもありましたよ。ここら辺はもう咲いたあとでほとんどしおれてたけど、

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中にはこんな感じで咲いてるところもあった。まぁ土手の内側で咲いてたのはほんの一部だったけどね。

こんな川にはもう、ウナギなんかいないだろうなと思いながら見てたら、

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こんなコイがいたし、それからもっと歩いていたら、こんな看板もあった。そっか。ウナギも市民の手で放流してたりするんだなあ。。コイはこういうところでも結構生きていけると思うんだけど、ウナギはどうなのかな?

彼岸花の方に話を戻すと、一応、咲いてるは咲いてる。んだけど、遠くから見ると

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こんな感じで、どうもわたしが想像してたような「土手一面が彼岸花で真っ赤」に染まってる感じじゃないんだよね~。一面が真っ赤なのはどこじゃろ、どこじゃろ、と思いながら歩いてたんだけど、どこも一面が真っ赤なところはなく、咲いているところと咲いてないところ、既に咲いちゃったところが混在してました。ただ、本当に近づくと

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こんな感じで、「彼岸花のじゅうたん」みたい。さらに近づくと

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こんな感じ。全面咲きそろってるように見えるかも知れないけど、よく見るとまだつぼみ状態のものもたくさん含まれてるんだよね。まだ咲いてないところは、

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これがつぼみ状態のところ。でも多分、これが咲く頃には今咲いているところはもう枯れちゃってるだろうな。枯れると赤い色が褪せてきて、

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この画像の手前の花みたいになってくる。まぁ多分、咲き始め以降はみんなこんな感じで咲き終わったものと咲いているものとこれから咲くのが混在してるんだろうね。その中でどの状態が「満開」なのかを見極めるのは結構難しいと思った。そうそう、中にはこんな感じで

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白い彼岸花もあった。黄色いのは見た感じじゃなかったかな。ただ、ここら辺は歩いてもうだいぶ経ったところで、足は痛くなるしお腹は空いてきたしで、正直なところあんまり「彼岸花!」って感じでもなかったのよね(苦笑)で、この「まつり」の期間中は記念館の近くに「彼岸花案内所」ってものが設けられてて、そこはどうも休憩所でもあるらしかったので、そこで名古屋駅で買った「天むす」を食べようと思った。事前にここら辺でどこか食べるところないかしらと思ってお店を調べたりしたんだけど、車ならともかく、歩いて行くのはとてもめんどくさそうだったんだよね。なので新幹線降りてから名古屋駅で弁当を買うことに決めてたんでした。「彼岸花案内所」の方に折れていく前に、こんな案内板があった。

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画像じゃ光っててよく見えないけど「童話『ごんぎつね』の舞台」って書いてある。ちなみにここに書いてある「権現山」だけど、わたしにはどれかよく分かりませんでした(苦笑)付近には小さな山みたいなのはいくつかあって。多分これだろうなってのはあったけど。「ごん」が住んでいると思われる、権現山からここ、矢勝川まで。昭和の初め頃の風景を一生懸命想像してみようと思ったんだけど、無理でした。。ってより、わたしの何十年って頭の中で持ってる「景色」の方が強かったのかな、、

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案内所に着いて、天むすを。案内所は広場みたいなところで、地元の人なのかな?がいくつか、お店を開いて何か売ってました。弁当の類じゃなく、土産物か少しの食べ物、あとは洋服だったか?なんか、こういうと悪いんだけど「こんなところでわざわざ買うかなあ」って思うものが売ってたような気がした(済みません。。)。で、テント張ってある下に椅子と机がいくつか置いてあって、そこで弁当を食べてる人がたくさんいました。ほとんどが地元の人で、わたしが見たところ、結構歳いってる人が多かったなあ。地元の人かなって思ったのは、横で会話を聞いてると、なんか地元っぽい方言だったから。みんな2、3人のグループで来てて、わたしみたいに一人で来てたのは誰もいませんでした(笑)

しばらく休んだあと、記念館の方には向かわずに、取り敢えず終点の弘法橋まで行った。

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弘法橋から来た方向の高田橋方面を望む。弘法橋付近は全然彼岸花なかったけどね。で、わたしはそこから記念館に向かわずに「しんたのむね」に向かいます。「しんたのむね」に行く途中、ススキがあったり、あと、周辺は田んぼでちょうど借り入れ直前、という感じだった。

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こういうのも「南吉童話」を構成しているものなのかなと。

その4に続く。。
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11-18,2014
彼岸花を見に(新美南吉記念館) その2
その1を書いてから半月以上経ってしまった(汗)9月29日に行ってきた旅行記を今頃書いても、って気もしてるけど、まぁ、書いて残しておきたい気もするんで、今のところは一応最後まで書く気でいます。

で、どこまで行ったんだっけ。あ、名古屋に着いたところまでか。いや、実は結構前に「その2」を書き始めてたんだけど、画像をアップする上でここのブログ、画像1枚2MBまでっていう制限があるんだよね。それにひっかかる画像が多くて、先に画像を加工してたらこんなに時間が経ってしまった、ということだったんだよね(汗)画像自体の加工は割とすぐに終わったんだけど、それが終わったら書く気と書く時間が失われてました(笑)

「新美南吉記念館」の最寄り駅は名鉄「半田口駅」なんだけど、ここに行くためにはまず、新幹線から名鉄に乗り換えなければいけないわけで、これが結構歩くんだよね。まぁ迷いはしませんでしたけどね。あ、でも名鉄がどこに行くのかよく分からなかったので(今でもよく分かってないが)名鉄乗り場の案内のところに飛行機のマークが書いてあって「あれ、これでいいのかな?」って不安に思ってしまったのは事実。名古屋から飛行機に乗ることはまずないので、飛行場自体どこにあるか分からないし、あと「半田口」って知多半島の方だから、なんかそれとイメージ合わなくてね。

で、名鉄名古屋駅に到着。てか、「名鉄」も駅名に入ってるのね。

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事前に電車の時刻を調べて行ったんだけど、少し前に着いちゃって(思ったより名鉄名古屋駅まで行くのに時間が掛からなかった)行き先の電光表示にまだ載ってなくて、ホームが本当にここでいいのか、かなり迷いました。だって名鉄って、同じホームでも乗る電車によって行き先が全部違うみたいなんだもん!その行き先がわたしが行こうとしている「半田口」と同じなのか、そうでないのか、地名だけでは判断できないので電車来て乗って、本当にそちらの方向に行くのか確認できるまで怖かったです。まぁ、初めて行くところだったしね、、

てなわけで、無事、半田口に到着。名鉄名古屋駅から40分くらいだったかな?1時間掛からなかったと思います。確か途中まで特急だか急行だか途中の駅を飛ばしていく電車で、その後各停に乗り換えた記憶が(ほとんど2ヶ月前なので既におぼろげにしか覚えてない(汗))。

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半田口には昼少し前に着いたんだけど、「まつり」の期間中だから、十数人は降りるだろうと思いきや、数人しか降りなかったのでちょっと拍子抜け。駅は「新美南吉」一色。まぁ当たり前か。

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こんなん、とか、駅を出て踏切を渡ろうとしてみれば

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こんなのがドーンって書いてあったりね。「ごんぎつね」のふるさとなんで、キツネの絵なんかががたくさん書いてあったり、立体の姿のキツネもたくさん見たんだけど、この先も。正直、どれもかわいすぎて、わたしの中の「ごんぎつね」とは掛け離れてた。わたしの中の「ごんぎつね」はもっと不細工な顔をしてます。

ごんは、「へえ、こいつはつまらないな」と、思いました。
「おれが、くりやまつたけをもっていってやるのに、そのおれにはおれいをいわないで、神さまにおれいをいうんじゃ、おれは、ひきあわないなあ」



こんなことを思ってしまう「ごん」だから。もっと眼が細くて、もっと口が尖ってて。不平、不満もたらたら言って。そういうのがわたしの想像している「ごんぎつね」。なにぶんにも、小学生の頃から繰り返し読んでいる「新美南吉」なので、わたしの中では何十年も繰り返し、繰り返し、想像されてきたものなんだよね。だから、描いてある「ごん」、飾ってある「ごん」はどれもかわいすぎるようにわたしには思えてならなかった。

駅を出て、彼岸花を見に、矢勝川に向かう途中でまず見たのがこれ。

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この画像自体は、帰るときに撮ったものなので夕方になっちゃってるけど。わたしはこの「岩滑」って文字を見て「ああ、やっとここに来たんだ」って思ったの。新美南吉の作品の中にはたくさん「岩滑」って地名が出てくる。この地名を初めて見る人は多分、これをどう読むのか分からないだろう。「岩滑」とかいて「やなべ」と読む。岩滑という文字ほど、わたしが「ここに来た」という実感が持てるものはなかった。これを見て、初めて「ここが多くの物語の舞台になったところなんだ」って実感した。

矢勝川に行く途中で、新美南吉の生家があるってことで、寄ってみた。

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生家の中は入ることができたし、階段降りて1階(と言えばいいのか。ここは家の向こうが「がけ」みたいになってて、ここから見ると平屋に見えるんだけど、この部分は実は2階なんだよね。2階というか、ここが1階で下に降りて地下1階、というか。でも別に「地下」ではないので、、表現が難しい)も降りて台所とか、みんなでご飯食べてたところとか、風呂桶とかそういうのも全部見られる。とても小さい家でした。小さいと言えばいいのか、低いと言えばいいのか。ご飯食べてた部屋なんて、多分、わたしは背を伸ばして歩けないくらいの低さだったんじゃないかと思う。「生家」というのは、新美南吉は生まれて8歳くらいで母方のおばあさんの養子になるんだよね。まぁなんかおばあさんと2人暮らしが寂しくて、数ヶ月で戻って来ちゃうらしいんだけど。それから、大きくなってからは離れが近くにあって、弟と一緒に離れに暮らしてたらしいです。ご飯を食べるときに母屋に戻ってきてたとか。

生家に寄ったあと、なんか近くにトイレがあるって言うんで行ってみたら、でかい金木犀の木が植えてあって、それも満開だった。そうそう、これからずっと土手を歩いて行くんだけど、なんかずっと金木犀の香りが漂っていてね。そういうのも思い出の一つとして残ってます。

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生家に寄って矢勝川に行く途中、こんなのを見つけた。

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お地蔵さま。新美南吉の作品にはお地蔵さまの描写ってあったっけ?あったとしても具体的に今、すぐには思い出せないんだけど、ただ、作品とこういう風景はとても合っていて。「ああ、こういう中で南吉はあれらの物語を書いたのだ」って思った。ただ、もうちょっとこういうのに遭遇するかと思ってたんだけど、わたしが気が付いたのはこれだけだった。

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というわけで、ついに矢勝川に着く。ただ、すぐに土手を歩いたわけじゃなく、この進行方向、道路を挟んだ右側に「ごんごろ緑地」という公園みたいなのがあったのでそこに寄る。

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「ごんごろ」といえば、すぐに思い出すのが「ごんごろ鐘」という作品。もちろんこの緑地の「ごんごろ」というのは「ごんごろ鐘」のお話から取ったものだろう。この作品は特に好き、というものではないが、戦時中、鐘を供出するときの出来事を書いた話で、中でもとりわけ印象的なのが

紋次郎君とこのばあさんが、
「三河のごんごろうという鐘師がつくったと書いてねえかン」
と、きいた。
「そんなことは書いてねえ、助九郎という名が書いてある」
と、吉彦さんがこたえると、ばあさんはなにかぶつくさいって、ひっこんだ。



というところだ。「ごんごろ鐘」の「ごんごろ」の由来について、作った鐘師のぜんそくが移っただの、三河のごんごろうが作っただの、最初は「ごんごん鐘」と呼ばれていたのがいつの間にか「ごんごろ鐘」になったのだの、って話が最初の方に出てくるのだが、供出するに当たって鐘を下ろして中を見たときの場面だ。「ごんごろう説」を唱えていたおばあさんが自分の説が正しいと思って聞いてみたら、全然違う人の名前が書いてあったので、ぶつくさ言って引っ込む。ここの場面、本当に目の前に浮かんでくるような感じ(笑)わたしは新美南吉の、時折すごくリアリティがある描写がとても好きだ。

まぁ、だからといってこの公園には名前以外にごんごろ鐘を思い出させるものはなかったのだけど。あ、あとは画像は撮ってこなかったんだけど、なんか石碑(句碑?)みたいなのが入口にあったような気がするな。

というわけで、その3に続く。。

次からやっと、彼岸花の画像、出ます。今回もなんだか前振りみたいなものになってしまった。。まぁでも、わたしにとってはここは一種の「夢の国」みたいな感じで、既にもう気持ちはふわふわしてたんだよね。。
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10-25,2014
彼岸花を見に(新美南吉記念館) その1
日記を書こうと思って気が付いたんだけど、カテゴリが「二人で行った旅行」しかないのね。わたし、夏の旅行もそうだったんだけど、一人で旅行に行くことが増えてきたし、今後も一人で行くことが多そうなので、カテゴリ増やそうかな~。それともこのままで行くかな?特に従来のカテゴリも「二人」というところを強調しているつもりはなくって、単に「旅行」カテゴリのつもりだったんだよね。

ただ、以前は「二人で行くことが当たり前のこと」ってどこかで思ってたのが、「別に一人で行ってもいいじゃん」って認識に変わったのは事実だと思います。そしてそれの大きい原因は「猫」ってこともあるだろうね。二人とも出かけてしまうと猫の面倒を見られなくなってしまうので。。

そしてわたし、実は一人旅は昔から大好き、だったんだよね。一人旅は高校生の時から始めたんだけど、夏休みや春休みに青春18切符で電車に乗りまくる、宿はYHに泊まって、という旅行をしてました。二人であれこれ感じたことを言いながらの旅行もいいんだけど、一人で誰と話すこともなく頭の中で思考を巡らせながらの旅行はまた格別。YHではいろんな人と出会うのも好きだった。今はYHも高くなっちゃってほとんど泊まることはないけど「ああ、わたしはこういうのが大好きだったんだ」ということを思い出した。

ってわけで、夏は日記には長崎のことしか書いてないんだけど、東京→長崎→薩摩川内→広島→大阪、って旅行をしてきてかなり楽しかった。そして今回は愛知県半田市にある「新美南吉記念館」に行ってきた。行ってきたと言っても、もう1ヶ月前の話ですが、、その後いろいろ忙しくしてたらこんなになってしまった(汗)

新美南吉、と言えば、ご多分に漏れず、小学校の授業でやったわけだけど、確か低学年の時は「手袋を買いに」、中学年で「ごんぎつね」をやり、高学年で「おじいさんのランプ」をやったんじゃないかと記憶している。ただ、高学年の時の「おじいさんのランプ」は授業でやったのかそれとも個人的に読んだのか、それが定かではなく。。でもあの時期に南吉の「あれいでて 舞うででむしの 角のごと」って詩を知って覚えさせられたりしたので、高学年でも何らかの形で新美南吉のことをやったのは確かなんだよね。

低学年の時の「手袋を買いに」は、著者が誰とか全く気にしてなかったし、何よりこの作品はわたしはあんまり好きではなくて。「ごんぎつね」で著者が新美南吉って知ったような気がするけど、これも当初は「ふーん」って感じだった。「文学」の授業で本当に長期にわたって長く長くやったのを思い出すんだけど、正直、わたしは「文学」の授業はあまり好きではなかったので。。(うちの小学校は私立だったんで、文部省検定の教科書は使ってなくて、独自に「ぶんがく」という教材が作られてて、それを使って授業をやってた)。最後にごんが兵十に撃たれて死んでもあんまりなんとも思ってなかった。

新美南吉にはまりだしたのは、だから「おじいさんのランプ」を読んでからかなー?「わしの、しょうばいのやめかたはこれだ」のところからの一連の文章は思い返すだけで涙が出てくる(今も思い出して泣いてる)。湖のほとりに吊り下げられたランプが一つずつ割られていくシーンは、わたしの頭の中の想像のシーンしかもちろんないんだけど、ものすごく鮮明で、多分わたしが死ぬまでわたしの頭の中に刻み込まれてるんだろう。新美南吉の作品にはそういった「想像なんだけど、ものすごく鮮明に頭の中にあるシーン」がとても多い。

それ以来、わたしは新美南吉という人が他にどういう作品を書いたのかがすごく知りたくて、文庫本2冊とムック本1冊、これはあの当時、本の探し方など知らなかったので、適当に本屋で目に付いた時点で手に入れた。持っているのは、角川文庫「牛をつないだ椿の木」昭和53年6月20日十八版、講談社文庫「ごんぎつね、最後の胡弓ひきほか14編」1991年5月20日第34版、講談社Super文庫「新美南吉童話大全」1989年8月21日第一刷。新美南吉はおそらく全集が出てると思うんだけど、全集とは出会わなかった。全集が置いてあるような本屋には行かないか、行ったとしても全集が置いてあるコーナーなんて行ったことないからなぁ。全集というものがある、ということも多分全然認識してなかったんだろうと思う。こういうとき誰か大人が「こういうのがあるよ」って教えてくれたら、、って思うことが最近よくあるんだよね。興味を持ってても子どもの力では探せる範囲が限られてるから、どうしても狭い範囲で終わっちゃう。そのときに広い世界を知ったら、、また違った経験ができただろうな、と。まぁいいんだけど。

作品をたくさん読むうちに、自分が好きな童話がいくつも増えた。「おじいさんのランプ」はもちろん、「牛をつないだ椿の木」「花のき村と盗人たち」「うた時計」、まぁ一般に「いい」と評価されてる作品なんで、それはちょっとつまらないかなと思うんだけど、好きな作品を挙げろと言われると真っ先に挙げるのはこれらの作品。「九助君の話」から始まる一連の九助君話は正直なところ、わたしはあんまり好きじゃない。なんか背中がヒヤッとする作品なんだよな、あれ。なんか冷たいドロドロしたものが押しつけられてる感じがする話たちなんだよね。こどもたちの生々しい関係性、生々しい感覚の話。そういう感覚がわたしはあまり好きじゃなかった。ただ、今読んだらどうなんだろう、、もしかしたら読んでた当時と全然違った感覚を持つかも知れないです。

ってわけで、新美南吉は好きだったんだけど、ある日、新聞を読んでたら、新美南吉の生まれ故郷半田市に「新美南吉記念館ができた」というのが載っててね。「これはいつかは行きたい!」って思ったのね。多分、平成の初め頃だったと思う。

ただ、ずっと「行きたい」とは思ってたし、名古屋にはあれから何度も行ったけど、そこから足を伸ばしてってことにはならなかった。そのうち「ごんぎつね」にあやかって、矢勝川の土手に彼岸花が植えられて、それが季節になると土手いっぱいに咲いてる彼岸花が見られる、ってことを知った。

わたしは「ごんぎつね」を学校で習っているときは好きとか嫌いとか全然思わなくて、ただ自分の前を通り過ぎてった作品だったんだけど、いつの頃からか、ものすごくグッとくるようになってね。特に彼岸花の描写のところがものすごく好きになって、それで彼岸花って花自体も好きになった。さっき「ごんぎつねにあやかって」って書いたけど、彼岸花を植えてる新美南吉顕彰会の説明文などでは、ごんぎつねの彼岸花のシーンはわたしが好きなシーンとは別のシーンが例に挙げられてる。

墓地には、ひがん花が、赤い布のようにさきつづいていました。



一般的にはそちらのほうの彼岸花のイメージなのかな、、しかし、わたしが彼岸花のシーンで最も好きなのは、兵十のおっかあの葬式の場面に出てくる彼岸花なのだ。

人びとが通ったあとは、ひがん花がふみおられていました。



ってわけで、これはますます行きたくなって、そしてようやく今年「行こう」ってことに決めた。だって、いつか「行こう」と思わなきゃいけないところなんだもん。何かのついでとかは絶対に有り得なさそうなところなんだもん。それに最近思い始めたんだけど「行きたいときに行くことにする」なんだよね。「いつか行けるから」と思ってても、何かがあって行けなくなるかも知れない。そのとき「ずっと行きたかったのに」って悔やむのはイヤなのだ。

ただ!今年は6月に札幌、青森にも行ったし、8月には九州の方まで行ったし、旅行行き過ぎってことで、金がない。なので、「ぷらっとこだま」っておそらく新幹線の中ではもっとも安く行ける方法で名古屋に行って、それから半田まで行き、一日そこで過ごして、夜は高速バスで東京に帰ってくる、というルートにした。まーこれでも交通費1万以上にはなるけど、泊まらないのでその分料金安くあげられるってことで。安く行こうとすると時間が掛かって、結局はそこで泊まらなくちゃならなくなる。タダで泊めてくれる友だちがいればそれでもいいんだろうけど、そんなのはないし、例えばネカフェみたいなところで泊まるにしても、わたしはもともと枕が変わるだけで眠れないタチで、今はそれに病気(うつ病)のせいで輪を掛けて眠りづらくなってるので、泊まったとしても全然眠れないで次の日を迎えて、さらにそこで予定を詰め込むと身体に負担を掛ける、、ってことになるので、それだったら時間をお金で買うということで、行きは高いけど新幹線、帰りは寝れなくてもいいから夜行バスで、あとは帰ってきて家のベッドで寝ればいいやってことにしたのね。夜行バスとか手足のばせなくても普通に眠れる人ってホント、得してると思うわ、、

ってわけで、いつものことながら前置きが長くてなかなか旅行記が進まないんだけど(笑)、9月29日(月)の早朝、東京駅からこだまに乗った。

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どうしてこの日になったかというと、彼岸花の咲く日をずっとずっとここで確認してて、満開になったら行こうと思ってたのだ。もともとこの時期には「ごんの秋まつり」(今年は9月19日から10月5日まで)というのをやってて、人が結構来るそうなのですね。で、わたしは特に人が多いと思われる土日には行きたくなかったし、夜行バスの値段が上がる金曜の夜はイヤだったし、行くならやっぱり天気がいい日がいいよねってことで考えると案外条件が重なる日が少なくて。で、29日になったんですね。

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東京駅の新幹線のホームから見た空。もちろん天気がいい日を選んだからなんだけど、天気がいい日でした。

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ベタなんだけど、車窓から見た富士山。富士山を見ると自動的に小学校の時の校歌が頭の中を流れます。歌い出しで既に「ふじの おやまが にっこりと」というものなので。。(笑)ただ、富士山が校歌の歌詞で出てくる範囲ってどの程度なんだろうなっていつも思う。関東地方の学校だと確率高そうだけど、それ以外の地域は出て来ないよね、多分。いくら「日本一の山」でも見えないところの山を校歌で歌うってことはないだろう。

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ということで、こだまで4時間掛けて名古屋へ。4時間って言うとかなり長く思われるかも知れないけど、電車に乗ってぼーっとしながら車窓を眺めているのが好きなわたしにとって4時間ってのは、あっという間の感覚なのだ。鉄道好きな人でも「撮り鉄」とか「乗り鉄」とかに分かれてるっていうけど、わたしは電車に乗って、窓の外を見ながらボーッとすることがものすごく好き。音楽を聞きながら、頭の中は取り留めのないことを考えてる時間は、すごくのんびりできて気分転換ができてストレス解消になる。普段の生活の中で頭をからっぽにできないわたしにとってはとても貴重な時間なのだ。だけどこういう鉄道の乗り方が好きな人のことはなんて言うんだろう?「乗り鉄」は電車に乗ってることが好きって人ではないよね。全線乗るのが好きな人のことだよね?わたしは電車に乗ること自体が好きなんだけど。。

長くなりそうなのでここで一旦切って、その2に続く。。
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10-23,2014
高尾にゃん、4歳のお誕生日おめでとう!
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今日じゃなくて、本当は昨日が高尾にゃんの誕生日でした。昨日はわたしが夜出かけてて都合が悪かったので、今日、恒例のお誕生日会をしました。

お誕生日会、と言っても、人間用のケーキ買ってきて、食べるのは人間で、高尾にゃんはむしろ無理矢理抱っこされて写真撮られたりするのでとってもいい迷惑で、それに誕生日だからと言って特別な餌がもらえるわけでもなく、何一ついいことはないけど(笑)

しかし、高尾にゃんも4歳かぁ~。まだまだ若いと思ってたけど、あと数年で中年になっちゃうのね。。まぁ猫は中年の期間が異様に長い動物らしいので、中年になったからと言ってすぐに年老いちゃうってことはないし、それにわたしは高尾にゃん自身は「永遠の子猫」だと思ってるのでいいんだけどね。まぁ歳を取って心配なのは病気にかかることだけど、まだ4歳だったらそれもないかな。

過去の日記にもちょろっと書いたけど、高尾にゃんは確か7月中旬辺りに嘔吐と下痢を同時にして、それから病院通いが始まった。治ったと思ったらまた下痢して、治ったと思ったらまた嘔吐して、って本当に心配で、いろんな検査をしたんだけど、結局原因は分からなかった。毛玉症だとかいろんなことを言われたけどさ。。しかも「もしかしたら膵炎かも知れないからまた血液検査をしましょう」と言われて(膵炎って何回も検査しなければ出てこない可能性もあると言われた)、でも高尾にゃんは血液検査は本当に大嫌いで、暴れてしまうので手足から血液が採れなくて、毎回首から取ってるのね。それがかわいそうでさ。だから考えに考えた挙げ句、検査は受けさせず、絶食から少量ずつのご飯にして、それでどうなるか見てみた。

そうしたらどうやらある餌が原因だったようで、その餌に戻したら下痢になっちゃった。その餌っていうのは、高尾にゃんが体調を崩す直前ではなく、少し前からやってて、だから原因としては考えにくいなと思ってたんだけど、でも結局下痢になったのはそれが大きかったみたいだ。なので、その前にやってた餌に戻したら下痢はしなくなった。嘔吐はね、見ている限りだけど割と精神的なものが大きいような気がしている。特にばことの関係においてね。

餌は本当に徐々に徐々に元通りにしていったんで、元に戻ったのはつい最近。それまでは1日3回に分けてやってたし。体重が下痢と嘔吐を繰り返して食べられないうちに3.6kg→3.4kgになってしまって、随分気になってたのだ。しかも最初の2日くらいは絶食させてくれと言われ、高尾にゃん、どんなにお腹空いてるだろうかと思うと身が引きちぎれる思いだったんだけど、まぁ心を鬼にして絶食させましたよ。それから少量ずつ1日3回与えたんだけど、やっぱり体重の減少が気になってね。まぁでも少量でも食べてたからそれ以上やせはしなかったかな。ちょっとずつ食べる量を多くして、最後は体重が元通りになるようにちょっと多めに餌をやったところ、無事元の3.6kgに戻ったので、それからは1日2回に餌を戻した。

取り敢えず今はこんな感じの餌。

朝:アーテミス(ドライ)10g、ジウィーピーク(ウエット)25g、お湯60cc
夜:アーテミス(ドライ)10g、ジウィーピーク(ウエット)25g、お湯60cc

しかし、、ばことの関係は本当にあんまりよくなくて。仲がすごく悪いって感じではないんだけど、いいわけではない。高尾にゃんはいつもなんだかイライラしてる感じがするので、何かリラックスできる方法はないかと思ってるんだけど、ばこは高尾にゃんのことが大好きでいつもくっつきまくるんだよね。だからばこを別室に隔離してその間に高尾にゃんとだけ遊ぼうとしても、ばこが泣きわめき、高尾にゃんもそれがとても気になる様子で到底遊びに集中できない。

もうどうすればいいのかね、、しかもわたしがばこと遊ぶと高尾にゃんはとても気に入らないみたいで、それが吐く原因になったりしてるみたい。彼女がばこと遊んでやる分には一向に構わないみたいなんだけど。わたしと高尾にゃんの間の絆って、わたしもそうなんだけど、高尾にゃんにとっても特別みたいなんだよね。もちろんそこまで思われててすごく嬉しいんだけど、そうなるとわたしはあんまりばこを構えないってことになって、それはそれでかわいそうな気もする、、

なんで、2匹にしてよかったかと言われると、うちはとても微妙な感じ。もちろんばこはばこでとてもかわいい猫なので、今さら手放しはしないけど。

まぁばこがもうちょっと大人になってくれればいいのかなあとも思ってるけど、どうなのかな。こればっかりは時間が経ってみないと分からないことだからね。

とにかく、高尾にゃん、今年1年も病気しないで元気に過ごそうね。

4歳のお誕生日おめでとう。
21:37 | 二人と猫のこと | トラックバック(0) | コメント(8) | page top↑
09-17,2014
生きています
あれ。

気が付いたら1ヶ月くらい放置してたね、このブログ。

っていうか、放置してたわけじゃなく、体調が悪かったんですね~。8月の下旬にぐっと涼しくなった時期があって、そこから急に体調が崩れました。お腹痛くなったり、食欲が湧かなくなったり、それに伴って体重が減ったり、肩と背中がガチガチに凝ったり、暑くないのに汗が出たり、夜眠れなくなったり、身体がだるくて仕方がなかったり。あ、微熱もあったな。でもわたしは普段から微熱なんだけどね。とにかく毎日だるくてだるくて。まぁこの症状全部当てはまるのは自律神経失調症なんだろうなと思ってました。

でも本当にだるかったので、なんとかならないかと思って近くの病院に行ったら「食欲なくて、というところは違うけど、もしかしたら甲状腺疾患かも知れないから念のため」と言われ、採血されて結果を見たら「異常なし」。貧血は割と深刻なほどだったけど、その他は全く異常はないので、多分、うつ病もあることだし、自律神経に問題があるんでしょうねー。まぁ様子を見て、それでも回復しないようであれば今掛かってる精神科で診てもらって下さい。うちは専門じゃないからねと言われ。

めちゃくちゃしんどくて病院行ってるのに、何もせずに帰されました。

まぁもう慣れっこだけどね。特に精神系の病気にかかってると、全部「気のせい」にされて、掛かってる精神科に行けと言われます。今、しんどいからなんとかして欲しいと思って行ってるのに、我慢しろって言われてるのと同じですよ、これ。ただでさえしんどいから電車に乗って自分の病院に行く元気がないんですが。。

まぁ、こんな愚痴を書こうと思ってたんじゃなかった(笑)

なのでここ半月近くは何もせずにだらーんとしてました。そうしたら、汗が出るのは治まったんだけど、今度は息苦しい症状が出てきてねー。息苦しくって何もできない。。まぁでも息苦しさはこれまで何度も何度も経験してるので、別に肺に何かできてるとかそういうんじゃなく、やっぱこれも自律神経なんだよね。ワイパックス辺りを飲めば一発で治ることは分かってるんだが。。病院行くのめんどくさくて行ってません。予約を取り直ししなきゃならないし、どうせ主治医がいるのは火曜日しかないし。その主治医もねー、4月に替わってから、なんか信頼できなくてね。ちょっと病院変えようかとすら思ってるとこです。

ってところで、結局は様子見なんだけど、半月くらい休んでるから、もうそろそろやることはやらないとね。。

考えていることはあれこれあって、それをネタに書くことはできるんだけど、なんか最近とても文章にするのがめんどくさく思えてきてね。だからブログは放置してました。

まあ、あれこれ考えてるときは楽しいけど、でも考えるのも調子がよくないとできないんだなと、今回調子が悪くなって分かりました、というか、調子悪いとやっぱり少しうつ傾向が出てくるんだよね。もう考え方のクセみたいなもの?できない自分が嫌になって、普通に生活している人を見るととても怖くなる。嫌な気分になる。図書館で借りてきた本すら見るのが嫌になる。「ああ、これを期限までに読まなきゃならないんだ」と思って。プレッシャーを感じる。

そこですべてを放置して、何も考えずにいられたらいいんだけど、まず状態が悪いときは放置するのが難しくなる。何もできない自分が嫌なんでね。でも、体調悪いからできないんだけどね。そして「何も考えない」というのが無理。人間、起きてるときは何かを考えてるわけなんだよね。その内容はともかく。自分に負担のない適当にくだらないものってのが、わたしにはあまりなくてね。。気が休まる趣味とかないから(笑)本を読めば、この世界が嫌になるような内容だし、その嫌にならない世界にするには自分はどうしなきゃならないのかと考えると、これまたものすごい負担になる。考えても行動に移さないと意味がないし。でも今は自分は何もできないし。ネットで面白いブログ読もうと思っても、わたしが「面白い」と思うものはどれも考えさせられる内容ばかりで、これまた頭が休まらない。「あ~、こういう人もいるんだな、こういう風に考える人もいるんだな」ってあれこれ考える。わたしってつくづく普段から自分に負担を掛けて生きてるんだなあと思う。

まぁ調子が悪くなると毎度毎度このことを再認識するんだが。

一番変えなきゃならないのは、娯楽を「くだらない」と認識しているわたしの頭なのだが、この価値観って年を重ねる後とにどんどん「硬化」している感じなんだよね。もっと若いときはそれこそ音楽を聴くのが好きだったり、そういう別の楽しみもあったのに、そういうものを全部切り捨てちゃった。これはなんとかせねばならないと思うのだが、今のところ、何にもしようがないんだよな~。

まぁこういうことは調子がいいときに考えるべきことなんだよね。でも、調子いいときは自分の頭が考えたとおりにできるので、考えない。

運動でもしようかなと思うんだけど、なかなか思い切りもつかなくて。散歩も三日坊主だし。何か習いに行くには金かかるしね。

あーなんか、調子が悪いので、愚痴愚痴になってしまった。

まぁ取り敢えず生きてます。生きていますって言いたくなるほど、精神状態は悪くないけどね。
15:04 | 3度目のうつのこと | トラックバック(0) | コメント(4) | page top↑
08-20,2014
決断
まぁ決断っていっても、そんなに大層なことじゃないんだけど。

そろそろ病気の方も安定し始めて1年半ほどになるし、まぁその中で「休もう」と思って本格的に休み始めたのは去年の6月くらいで、本当に休んで何もしなかったのは今年の3月くらいまでなんだけどね。これから来年に掛けて、ある資格を取るために勉強しようと思っている。

4月から韓国語講座に通ってて、それがわたしの頭を少しずつ刺激していった。この韓国語講座、1つの単元が終わるたびに単語テストがある。その頻度は1週間に1度、もしくは2週間に1度、覚える単語は1回につき約70~100個。これが結構きつくてね。毎回、毎回、本当にヒーヒー言いながら覚えてる。

けど、これはわたしの記憶する能力を知らない間に復活させてくれててね。

実は去年だったか、やっぱり同じ資格の勉強を始めたんだよね。でも、勉強するんだけど全く記憶できる自信がなくて、というより、覚えようとすることがするすると頭の中を滑っていく感覚があって、全く覚えられなかったの。そうしたらすべて恐怖に思えてね。勉強ができなくなった。重い負担としか思えなくなった。そのときに「ああ、今はまだできないんだ」って悟って止めたのね。止めて休んだ。もちろん、いつか、よくなったらまた始めようと思ってたけど、具体的にいつ始められるかは全く見通しが立ってなかったの。

韓国語講座は別にそのきっかけにしようと思って始めたわけじゃない。なんとなく「やりたい」と思ったから始めただけ。始めたときは、単語テストが毎回あるなんて知らなかったし。でも、あとから振り返って考えると、これが結構よかったなあって思った。

単語を覚え始めた頃は、やっぱり頭の中で単語がするする滑る感じがして、とても不安だった。頭の中に記憶される、ということは、頭の中のどこかに引っかかっている、というイメージがあるのね、わたし。だから、その手がかりがない状態っていうのは、記憶されてないように感じられてしまうのだ。それが毎週毎週強制的に覚えさせられていると、引っかかりが少し感じられるようになって来た。「覚えている」という実感が湧き始めた。

それで「あ、来年の試験、受けてみよう」って思ったのね。本当はもっと遅く始める予定だったんだけど、いろいろあって今からできるということで、少し余裕を持って始めてみようってことになった。

もちろん、語学とは全く違う分野なので、勉強を始めたからと言って、覚えられるかどうかはやってみなければ分からない。もしかしたら前と同じく、頭の中をするする滑ってしまうかも知れない。けど、わたし、今の時点では結構楽観的なんだよね。それは病気が少しよくなってきたからかも知れないし、ここ数ヶ月、週1、週2おきに単語が覚えられたという自信かも知れない。とにかく最初は覚えられないかも知れないけど、やってるうちに大丈夫だって思えるだろうという根拠のない自信が今はある。

試験までまだあと1年以上あるんで、じっくりやっていきたいと思っている。
17:13 | 自分の将来について | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
08-09,2014
8月9日午前11時2分 ー長崎にて
去年の8月9日、わたしはこのような日記を書いた。

何度目かの長崎の平和祈念式典(最近、特に気になって言うけど、広島は平和「記念」式典で、長崎は平和「祈念」式典で字が違うのよ)を今日、テレビで見て「ああ、いつか長崎の式典に行ってみたいな」って思った。中継時間の関係かも知れないけど、長崎は城山小学校の生徒が歌う「子らのみ魂よ」と純心女子高校の生徒が歌う「千羽鶴」があって、それがかなり後に残る。年に1回聞くだけだけど、メロディーを聞くと思い出す。その歌を、生で聞きたいなあって思ったのだ。



で、ですね。じゃじゃーん。

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昨日、東京を出発し長崎に来た!

うーんと、あのとき考えたのね。「2年後くらいはどうかなあ?」って。でも2年後って70回っていう節目の年なんだよね。単なる「歌が聞きたい」ってだけじゃ、節目の年に行くことはなんか、不謹慎な気がしたの。「じゃ、3年後?」って思ったんだけど、わたし、今後3年間元気で生きてられるかなんて自信がない。ということは、、行くなら今年しかない!ってことで、かなり思い切って今年行くことにしたのだ。

今朝。祈念式典の開場は8時半だというので、8時過ぎに会場に行った。ぼちぼち人が並び始めてるころで、わたしは割と先頭の方だった。座席指定図を見たら一般客の椅子がほんの少ししかなかったので、大丈夫かなと思ったんだけど、何のことはない、開場後に聞いたら一般人でも遺族席に座っていいとのことだったので、遺族席のかなり前の方に座った。

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式典開始時間は10時35分なので、2時間近く待つことになるんだけど、その間、ボランティアの子どもたちが水のペットボトルや冷たいおしぼりを配ったりしてたのでちょっとびっくりした。

前にも日記に書いたかも知れないが、わたしは過去に1度、広島の方の平和記念式典には行ったことがある。もうかなり昔の話でほとんど記憶に残ってないんだけどね。そのときはそういうサービスは全くなかったと思う。これも時代なのかな。

今日の長崎は、台風の影響で風がものすごく強かったんだけど、それでも当初予想されたような雨は全く降らなくて。最初は曇り空かなと思ったんだけど、徐々に晴れて来て、最後の方はめちゃめちゃ天気がよくなってとっても暑かった。

しかし、広島の方は「あの日。。」って想像できるのに、なぜ長崎では想像ができないんだろう?原爆ドームっていう、リアルに残っているものがないからなんだろうか。それともやっぱりここはわたしと「無関係」だからだろうか。。だけどね、こういうことを言ってはなんなんだけど、わたし、広島の原爆で身内が行方不明になってても、全く悲しみはないのよね。だって会ったことない人たちなんだもん。生きてるところが全く想像付かないし。「この人たちが生きていたら」なんてことも思ったことがない。だけど、広島の原爆に対してはなんか知らんが「痛み」があるんだよねえ。昔からちょろちょろ話を聞かされてたからだろうか?正直、広島の平和記念式典にはもう参加したくないんだよね。広島の方はすごく生々しい感じが自分の中でするの。それなら毎年遠く離れた東京で、テレビに向かって黙祷してる方が気が楽なの。なんかとっても不思議な感じだよね〜。

そうそう、会場に入ってから、式典内容が書かれた冊子とレインコートをもらいました。式典内容を見ると、あれ、あれれえ〜?

城山小学校の児童が歌う「子らのみ魂よ」じゃなくて、山里小学校の児童が「あの子」って歌を歌うことになってる〜!@@;

ええーっ、なんでなんで?なんか年ごとに変わるの?これ。でも「子らのみ魂よ」ってわたし、もう数年間聞いた覚えがあって、結構曲も覚えてるんだが。特にこの8月になってから、わたしの頭の中では「せーんせいよー、こらのみたまよー♪」ってメロティが鳴り響くほどになってたんだけど。。正直なところ、これには随分ガッカリしてね。いや、山里小学校の人には全く罪はないのだけれど。ってわけで、当初の目的の半分しか達成できなかったんだよね、実は。しかし、何か歌うローテーションみたいなのが存在してるのかしら??

式典がようやく始まって。献花のときにケネディアメリカ大使が花輪持ってこっちに向かっておじぎをしたとき、結構な数の人たちが立ったり、自分のデジカメや携帯電話などで画像を取ったりね。一体、これは何?って思っちゃった。何かこの人にあるの?それともあのケネディ家の人だから?よー分からん。なんでそこまで人気なのか?本当によく分からなかったです。

てなわけで、あっという間に11時2分になって。立って黙祷しました。鐘の音といくつも重なって聞こえるサイレンの音、それから蝉の鳴き声。それだけが聞こえて来て、なんかとても印象的だった。長い長い1分間でした。ひたすら、鐘の音とサイレンの音と蝉の声に耳を傾けてた1分間でした。

そのあと市長の平和宣言。事前から集団的自衛権について言及するってことで、まぁ広島よりはまともだった。それに核兵器を使った戦争だけじゃなく、戦争自体に反対ということを明確に打ち出してたところもよかった。あと広島市長は全く触れなかった福島の原発事故のこともちゃんと触れてたし、そう考えると広島の方がかなり腰抜けだったんだよね。。本当に情けないな。

ところがそれを上回ったのが、被爆者代表が宣言する「平和への誓い」。実は市長の平和宣言も被爆者の平和へ誓いも事前に式典内容が書いてある冊子の中に既に載ってて、どういうことを言うのか、わたしは事前に読んで知ってた。ところがね。この人の誓いはものすごく説得力があった。事前に読んでたけど「え?こんなに厳しい内容だったっけ?」って思ったもん。

孫娘を亡くしたことの話の中で「自分が被爆者でなかったら」というところでは声を詰まらせていたし、集団的自衛権のこと、武器輸出しないでくれと言ったところ、ものすごく迫力があった。

わたし、思わず涙してしまったんだけど、ふと気がつくと会場整理のために、わたしの近くの通路で正面と反対向いて座ってた市役所のおじさん(わたしより年上だと思いたい(笑))が、うなづいていたか何かで、近くの遺族席に座っている人と目が合ってたのを見ちゃった。おじさん、ちょっと照れ臭そうに笑ってた。

この誓いは来ていた人の共感をかなり得たようで、まだ誓いが終わってない、これから年月日を言おうとするところで既に拍手が起きていた。市役所のおじさんも拍手してた。

児童合唱を挟んで首相の来賓挨拶があったんだが、怒りを感じるほどの内容で。広島のときも思ったが、復興して美しい街にしたのをなんでそんなに強調せねばならないんだろう?この式典は復興したことを褒め称えるものではなく、なぜ原爆が落とされたのか、そもそも戦争になったこと自体を反省し、再びこのようなことをしない、という決意を述べる場ではないのか。確か「先人に感謝する日でもある」みたいなことを言っていたような気もするが、感謝って何?原爆で死んでくれてありがとうと感謝しろというのか?(かなり悪意に取ってます)どうもこの人は復興に身を捧げたことがとてもお気に入りみたいだ。まぁしょうがないよね。ここしか褒め称えるところがないんだもん。この人は「日本人としての誇り」とは先人を褒め称えることだと思っているらしい。その先人とは、国を愛することを強要されて死んだ人だ。戦いなんかせずに生きたいと思った先人はどのくらいいたんだろう?そういう思いを全部無視して死を美化している。おまえなんか先人に呪い殺されてしまえ!と思ってます。まぁ一方でわたしは死んだ人が生きている人を呪うとは全く思ってませんがね。

被爆者による平和への誓い後の、市役所の案内係のおじさんに注目してたんだけど、おじさん、首相の挨拶のときは拍手してなかった(笑)会場の拍手も弱かったです。まぁ当然といえば当然。わたしもしなかったし。

次の県知事の挨拶も首相の挨拶とあまり変わらず。長崎市長と被爆者代表が明確に「戦争はNO」と言ってるのに対し、首相と県知事は「核兵器を使った戦争にNO」と言っただけで、戦争自体には反対は全くしてなかったね。そこが彼らの本音だろう。そしていつの間にか戦争を初めてしまって「こんなときに核兵器に反対なんてできますか」といってなし崩しに使うんだろう。これって今の「近隣諸国が日本を狙っている」というのとあんまり大差ないんだよね、実は。国民に危機感持たせて自分の思い通りに操っているだけだ。

それと県知事の挨拶は事実上、原発容認であったのもとても残念。核兵器による放射能と原発による放射能の違いがあるんだろうか?原発の放射能は安全とでも?前にも書いたけど、わたしは決して原発の技術を人類が捨て去る必要はないと思っている。ただ、国土全体に渡ってこんなに地震が起きる国、それも巨大地震が起こる可能性がある国では原発の技術は使うべきではないと考えている。この地球上ではね、有史以来、地震など起こったことがない地域もたくさんあるのよ。地震があっても何万年に1度とかね。そういうところでは使えるんじゃないかな。ただ、事故の危険性は残っていて、それは人類がどうすべきなんだろうけど。事故が起こり得るから原発技術は捨て去るべき、って考えもわたしにはよく分かるのだ。だって事故が一旦起きれば悲惨だもの。チェルノブイリみたいにね。

ああ、話が逸れた。

市役所のおじさんは県知事の挨拶ではまあまあ拍手してた。最低限、って感じだったかな。もうわたしはあの時点でおじさんに惚れた(笑)ちなみにわたしは拍手しませんでした。

それからいよいよ「千羽鶴」の合唱。これを聞きに来たんだもん、わたし。

言っちゃ悪いけど、決してうまくはないと思うのよ。でも、この曲はもうこんな感じ!ってイメージ出来上がっちゃってるから、これでいいの。しかもやっぱり生の声だと強弱がよく分かってよかった。最後の盛り上がりなんか、あー実際はこんな感じなんだって思ったからね。なんか「合唱聞きに来たんか!不謹慎だ」って感じなんだけど、でも、わたしの中では長崎の平和祈念式典って言ったらこれだからね。

そして広島と比べちゃいけないとは思うんだけど、式典としては長崎の方がわたしは圧倒的に好きです。まぁ広島のは自分が当事者なんで、どうしても自分の中のつらい思いとリンクしてしまってるところはあると思う。なので単純には比較はできないけど、戦争反対のメッセージは広島より長崎の方が上だと思うし、わたしには好感が持てました。本当に今回、思い切って来てよかったと思いました。

ただ残念なのが、最初の方にも書いたけど、城山小学校の「子らのみ魂よ」が聞けなかったこと。いろいろ調べても今回、なんでこの曲じゃなかったのか書いてないし、一体どうしちゃったんだろう?

ってわけで、長崎の方は1回だけじゃなく、もう1回くらいは来たいなあと思ってる。それ以外にも教会を中心にしていろんな行事があるのよね。でもそれも今回、台風の影響で中止になっちゃったりしたのもあってね。これはもう一回来いってことだろうと勝手に決めつけました(笑)ただ、東京からはすごく遠いんで、そう簡単には来られるはずもなく。。まぁ生きてれば5年後くらいに来ようかなと。でも5年後の日本を考えるとどうなってるか恐ろしいね。もしかしたら「時局を考えて」平和祈念式典なんか70回を最後に中止に追い込まれてるかも知れないし。

一回行った広島の平和記念式典はね、実は覚えてることと言ったら、場外で機動隊と中核派みたいなヘルメット被ってタオルで顔隠した人たちがもみ合ってるところなの。わたしあのとき、なんで8月6日にこんなことするんだろう?って思ってた。正直今もそう思ってるところはある。中核派の人たちは何が目的なの?って。

実は今日も式典が始まる少し前から場外で何言ってるんだか分からないけど、シュプレヒコールが聞こえて来てね。「こんなときくらい静かに祈りを捧げろ!」って思っちゃった。でもね、式典が始まって献花くらいの時間になるとその声は静まってたし、きっと彼らも分かってるんだと思うんだ。こんな日に大声を上げることについて。そしてきっとわたしたちと同じように11時2分には黙祷したんだと思う。そのあと少ししてからまたシュプレヒコールが始まったんだけど(笑)でもさ、わたし思ったんだよ。首相に抗議の声が直接あるって分からせるためには、こういう手段しかないってこと。確かにわたしでも彼らが何言ってんだかちっとも分からなかったんで、首相にも分かんなかったと思う。けど、いろんな人が、いろいろな方法で抗議してもいいじゃんって思えたの。被爆者代表の人は、平和への誓いで訴えた。長崎市長は平和宣言の中で訴えた。みんな、同じ方法を取らなくてもいいじゃん、いや、取れないよって。だったらわたしは一体何ができるんだろう?そんなことも思った(ただやっぱ、わたしが広島の記念式典行ったときはこんなに状況が荒れてなかったと思うし、一体あれは何だったのか?と今も思う。。)。

今日という日はもうじき終わるけど、2014年の8月9日はわたしの心の中に深く残った日だった。

 1945年6月半ばになると、一日に何度も警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り始め、当時6歳だった私は、防空頭巾がそばにないと安心して眠ることができなくなっていました。
 8月9日朝、ようやく目が覚めたころ、魔のサイレンが鳴りました。
 「空襲警報よ!」「今日は山までいかんば!」緊迫した祖母の声で、立山町の防空壕(ごう)へ行きました。爆心地から2.4キロ地点、金毘羅山中腹にある現在の長崎中学校校舎の真裏でした。しかし敵機は来ず、「空襲警報解除!」の声で多くの市民や子どもたちは「今のうちー」と防空壕を飛び出しました。
 そのころ、原爆搭載機B29が、長崎上空へ深く侵入して来たのです。
 私も、山の防空壕からちょうど家に戻った時でした。お隣のトミちゃんが「みやちゃーん、あそぼー」と外から呼びました。その瞬間空がキラッと光りました。その後、何が起こったのか、自分がどうなったのか、何も覚えていません。しばらくたって、私は家の床下から助け出されました。外から私を呼んでいたトミちゃんはそのときけがもしていなかったのに、お母さんになってから、突然亡くなりました。
 たった一発の爆弾で、人間が人間でなくなり、たとえその時を生き延びたとしても、突然に現れる原爆症で多くの被爆者が命を落としていきました。私自身には何もなかったのですが、被爆三世である幼い孫娘を亡くしました。わたしが被爆者でなかったら、こんなことにならなかったのではないかと、悲しみ、苦しみました。原爆がもたらした目に見えない放射線の恐ろしさは人間の力ではどうすることもできません。今強く思うことは、この恐ろしい非人道的な核兵器を世界中から一刻も早くなくすことです。
 そのためには、核兵器禁止条約の早期実現が必要です。被爆国である日本は、世界のリーダーとなって、先頭に立つ義務があります。しかし、現在の日本政府は、その役割を果たしているのでしょうか。今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじる暴挙です。日本が戦争できるようになり、武力で守ろうと言うのですか。武器製造、武器輸出は戦争への道です。いったん戦争が始まると、戦争は戦争を呼びます。歴史が証明しているではないですか。日本の未来を担う若者や子どもたちを脅かさないでください。被爆者の苦しみを忘れ、なかったことにしないでください。
 福島には、原発事故の放射能汚染でいまだ故郷に戻れず、仮設住宅暮らしや、よそへ避難を余儀なくされている方々がおられます。小児甲状腺がんの宣告を受けておびえ苦しんでいる親子もいます。このような状況の中で、原発再稼働等を行っていいのでしょうか。使用済み核燃料の処分法もまだ未知数です。早急に廃炉を含め検討すべきです。
 被爆者はサバイバーとして、残された時間を命がけで、語り継ごうとしています。小学一年生も保育園生も私たちの言葉をじっと聴いてくれます。この子どもたちを戦場に送ったり、戦禍に巻き込ませてはならないという、思いいっぱいで語っています。
 長崎市民の皆さん、いいえ、世界中の皆さん、再び愚かな行為を繰り返さないために、被爆者の心に寄り添い、被爆の実相を語り継いでください。日本の真の平和を求めて共に歩みましょう。私も被爆者の一人として、力の続くかぎり被爆体験を伝え残していく決意を皆様にお伝えし、私の平和への誓いといたします。
 平成26年8月9日
 被爆者代表 城薹美彌子



【追記】被爆者の「平和への誓い」、事前に用意してあった式典次第の冊子に書いてあったことと違ってたんですね。今日(10日)、地元の新聞読んで初めて知りました。だから読んだときと印象が違ってたんだー。新聞には「文中にない言葉が、自然とあふれ出た」って書いてあったけど、そうだったんだ。その勇気を賞賛します。

それから、昨日の平和祈念式典は台風の影響で異例ずくめだったようですね。開場時間を1時間繰り下げたり、献茶会、ってものが中止になったり。献茶会ってなんなんだろ?それにあそこ、例年はテントの中でやるのね。あの日差しの中でやったことはなかったのか。いや、ホント、暑かったです。高齢者には酷だったと思いますが、わたしの体験として、あの日差しが経験できてよかった。でもそれを知ってますます「普段の平和祈念式典」を体験してみたくなりました。またここに必ず来たい。
23:31 | 被爆二世・戦争などのこと | トラックバック(0) | page top↑
08-06,2014
8月6日午前8時15分
今朝、起きてゴミ出しをするときに、真夏の日差しを浴びながら「今日も暑いな。69年前のあの日もそうだったんだろうか」と思った。

ところが今日の広島は大雨だったらしい。雨の日は43年ぶりとのこと。道理でこの日は「晴天」というイメージしか持ってないわけだ。もし、あの日が雨だったら、、果たして爆弾は落とされたんだろうか。それとも長崎のようにどこか別の「晴れている」ところが選ばれて、その地に落とされたんだろうか。ふとそんなことを考えた。

もう何年も何年も同じ日に同じ日記を書いているけれど、今年も書く。

今日は広島に原爆が投下された日。1945年8月6日、午前8時15分に原爆が落とされて、わたしの身内が行方不明になった。その3日後、行方不明になった身内を捜すために祖父と父が入市、被爆者となった。それゆえわたしは被爆二世である。

身内は69年経った今も行方不明だ。8月6日、たまたま用事があって爆心地に向かったらしい。「らしい」というのは、誰もそこへ向かうのを見た人がいないからだ。そしてそのまま帰ってこなかった。だからおそらくあの日あのときは爆心地にいて原爆に遭い亡くなったのだろう、としか考えられない。まぁ今さら真実がはっきりするわけはない。このまま未来永劫、行方不明のままだろう。

最後の姿が分からないのだから、想像するしかない。広島には原爆投下によって一瞬の内に影だけ残して消えてしまったという、その影が投影された石が残っている(「人影の石」という)。わたしは幼い頃からその石の話を聞くたびに「もしかしたらその影は身内なのかも知れない」と思っている。不思議と被爆して焼けただれて「水をください」と言いながら死んでったという想像はあまりしない。おそらく想像としてはこちらの方がよりつらいからあまり考えたくないというのもあるだろう。だから「人影の石」の話はわたしにとっては「原爆の恐怖」を認識させるものではなく、感覚的なんだけど、あの石の影からわたしは妙に暖かいものを感じるのだ。遺族という当事者ゆえの歪んだ感覚と言えるんじゃないかなと思っている。

一方、「被爆二世」という当事者としての感覚。これは恐怖としか言いようがない。自分の中に病の爆弾を抱えているような感覚が常にある。将来どんな病気にかかるかは被爆者でなくても誰もが知りようがないし、それはわたしも同じなのだけれど、「人より病気になりやすいのではないか」「考えつかない変な病気になったらどうしよう(既に口腔異常感症という一般の人では考えられない変な病気は持ってるけど)」とどうしても考えてしまう。世の中には福島原発の事故で放射能の恐怖に脅えている人に対して「放射脳」と馬鹿にしている人もいるみたいだが、わたしは逆に馬鹿にできる人はおめでたいと思っている。全く人ごととして考えられて羨ましいとさえ思う。

最近ちょっと調べてみて知ったんだが、東京都に住む被爆二世は年に2回無料で健康診断が受けられるそうだ。ただし、健康診断を受けるためには自身が被爆二世だと言うことを証明しなければならなくて、親の原爆手帳の写しや親との関係を示す戸籍抄本、そして東京に住んでいることを証明する住民票の写しなどを申請書に添えて提出しなければならない。

そして認定されたある種の病気にかかると医療費は免除になる。認定されたある種の病気って見てみたらすごく幅広いんだよね。まぁ精神病は除外されてるから、今のところわたしは適用されてないわけだけど。この病気の種類を見て、わたしは「やっぱり被爆の影響によってあらゆる病気にかかりやすいと考えられているんだ」と思った。だから怖かった。ある意味「被爆二世はこういう病気にかかりやすいですよ」って都からのお墨付きを受けているわけだからね。

では逆にこの制度がなくなれば、病への恐怖心はなくなるかというと全然そんなはずないわけで。制度がなくても恐怖心はあるに決まっている(当然のことながら、今年初めてそういう制度があると知った以前から恐怖はずっと持ち続けている。恐怖心は物心付いてからずっと持っている)。逆にこういう制度があってよかったと思うし、「日々恐怖心と闘っているわけだからこのような制度があって当然だ」と思う。しかしね、おそらくこの制度は全国の都道府県のうち、広島、長崎はあるとしても、他は東京くらいしかないんじゃないだろうか(きちんと調べてないので分からないが)。これはひとえに当事者団体の活動によるものなんだろうなと推測する。本当にありがたいと感じると共に、東京以外に住んでいる被爆二世との格差があることに心が痛む。

こういうことを書くと「被爆者特権」っていう人がいるんだろうな。どこが特権だよ。特定の病気に対する医療費が免除されることと引替に、日々恐怖心と闘わなくてはならない身分になってみろと言いたい。わたしはこんな「特権」なんかいらないから「被爆二世」という身分を捨てたい。被爆の影響が自分の中にあるかも知れないという恐怖が全くない人生ってどんなにすがすがしい気持ちになるかと思うと、本当に本当にその方が羨ましい。わたしは被爆二世になんか生まれたくなかった。被爆二世として生まれた恐怖を「特権」などという輩にすべて押しつけることができたら、本当に喜んで押しつけるよ。医療費免除も喜んで押し付けてあげる。そしてわたしは恐怖のない人生を楽しむ。そんなことができたら、どんなにいいだろうと思う。

と同時にわたしがここで毎年同じようなことを書いているのは「わたしは被爆二世になんか生まれたくなかった」という気持ちからだ。このことは翻って「もう二度とわたしのような思いをする人間を作り出してはならない」と思うからだ。未来を生きる人たちにわたしのような思いはさせたくない。だから、わたしは戦争に反対する。

核兵器を使った戦争に反対するんじゃなくて、戦争自体に反対する。今日、広島市長の平和宣言とか、首相の言葉を聞いてて思ったのは「核兵器を使わない戦争ならしてもいいってこの人たちは思ってるのかな」ってことだった。特に首相の言葉は「核兵器廃絶に向けてぼくちゃんこれだけのことをしてますよ~」っていう羅列に過ぎなくて、聞いててすごく気持ちが悪かった。この人も平和、平和と言っているが、わたしが思ってる平和とは全く違うものだからね。広島市長も被爆者援護だけを国に求めるんじゃなくて、もっと積極的に今、国でなされようとしていることに明確に反対すればよかったのにと思う(集団的自衛権のことです)。

しかし今年の平和記念式典はなんだかとてもサラッと終わってしまった感があるな。平和記念式典ってわたしの中のイメージではもっとおどろおどろしいものがあって、本当はとても見るのが嫌なんだけど、今日のは「あれ?」って思った。中継の仕方が変わったのかな、、子ども宣言のとき、子どもたちが「お祖父さんが被爆者です」って紹介されているのを聞いて「へー。お祖父さんが被爆者って、わたしも同じだよ〜」って思ってたら、子ども宣言の中で「お祖父さんは5歳のときに被爆しました」って言ってた。げ。うちの父と同い年だったorz

ただ毎度のことながら、あれを見ると「悲惨な思い」「悲惨な目」「被害者」になりたくないから戦争をしてはならないという論理がねー。まぁ一方でそれは正しく、そして原爆投下されたという点では全くの被害者なので、この場では仕方がないと思うのだが、やっぱりそれだけではいけないと思うのよ、わたし。これも何度も書いてるけど、加害の面もきちんと認識しなければ。戦争では「誰かを殺す」(それが自分の意志に反していたとしても)「誰かを悲惨な目に遭わせる」「誰かの幸せを奪う」可能性があることもきちんと認識しておく必要があると思う。過去の加害の面について目を逸らさずに事実を知り、戦争をすることによって被害者だけじゃなく加害者になる可能性も十分あるということ。被害者だけじゃなく加害者にもなりたくないから戦争をしない、そのことももっと訴えていかなければね。

最後に。

被爆者と被曝者は違うものなんだけど、やはり被爆二世として気になるのは、福島原発の被曝者のことだ。最近新聞で読んだのだが、福島(だけではなくその周辺)の住民に対する健康被害調査、健康被害への国の補助、などの話し合いがされればされるほど「なかったこと」への方向に進んでいるらしい。「なかったこと」、それはイコール「ない」では全くない。「ないことにしたい」のであれば、逆にきちんと調査をして、本当に影響がなかったら「ありません」と言え。調査自体をしない、ということは、すなわち「調査したら何か不都合なことが出てきそうだからやらない」と言っていることと同じことだ。「調査したら不都合なことが出てきて、そのことが今後の原発を存続できないということに繋がるから調査しない」と言っていることと同じだ。福島(及びその周辺の地域)の人たちが自分の健康や自分の子どもへの健康に対してどんなに心細く、不安な気持ちでいるかは、被爆二世という当事者として、本当によく分かる。国民(住民、でもいいんだけど)に対してなすべきことをしない国なんて、それは国としての役割を果たしていない。国は「国土を守る」とか「大切な人を守る」とか国民に言わせようとしているけれど、でも国自体は全く国民を守ってくれないではないか。国を愛することを要求するだけ。国は国民を決して愛さない。大切にしない。しかし本来、国は国民のために存在する。国が存在するために国民が存在するんじゃない(という概念も本当は自明ではなく、非常に新しいものなんだけどね)。

わたしはもちろん原発に反対だが、調査して何か異常なことが出てくればいいとは全く思っていない。それが原発反対するための理屈に使えるとは全く思っていない。逆だ。異常がなければいいと思っている。健康被害調査を受けることによって、一人でも被曝に対する不安を取り去れる人がいたらいい。

こんな思いをする人間はわたしたち、広島長崎の被爆者とその子孫だけで十分なんだよ。
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07-31,2014
ばこがうちにきて1年
今日はばこがうちに来てちょうど1年。1年前の7月31日にばこはうちに来た。

あれから1年かあ~。なんかもうずっとうちにいた気がする。1年とは言わず、2年も3年も。いや、高尾にゃんがうちに来てからすらまだ3年半なんだけど(^^;わたしらがこの地に引っ越してきてからもまだ1年半なんだけど。時間の認知の歪みがすごいな、わたし。

ばこは今、1歳と2ヶ月半くらい?1年前に来たときは、体重1kgちょっとだったけど、今は5.0kgの堂々とした体格に。というか、一時は5.3kgくらいあってお腹がたぽたぽしてたんで、今ダイエット中でここまで減らした。動物病院の獣医さんからはばこの体格だったら4kg台まで落とした方がいいかねえ~と言われているので、あと100gか200g減が目標。しかし猫の体重を落とすのは難しい。。

少し前ですが、こんな猫になりました。

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ばこは病気知らず、と言いたいところなんだけど、つい最近血尿を出して治療中。高尾にゃんと違ってばこは水を飲む猫だ!と感動してたんだけど、それでも飲み方が足りなかったみたい。。ばこの場合は石が尿道に詰まっちゃって、一回、膀胱洗浄をした。石って言うか、細かい砂みたいなのがたくさん膀胱に入ってたそうだ。見せてもらったけど。。ただ、今のところ、経過は良好で、昨日、病院におしっこ持って行くつもりだったのに、昨日病院が開いてる時間にばこはおしっこをしなかったので行けず、今日はおしっこ採取に失敗して全く取ることができなかったので、今日も行けず、、明日は行くことができるかな?

実は高尾にゃんとの関係はあんまりよくありません。ばこは高尾ねーちゃんのことが大好きなんだけど、高尾にゃんはばこのことはあんまり好きじゃないみたいなんだよね。。まぁそれは分かる。だってばこっていきなり高尾にゃんのことを後ろから抱きついてきたりするんだもの。。(もちろんばこは去勢済みです)あと、せっかく高尾にゃんの頭をペロペロしてても、これまたいきなり手で高尾にゃんの頭を抑えつけてペロペロしようとするんだもの。。高尾にゃんは乱暴なことが嫌いなんだよね。

乱暴と言えば、ばこは若いからか遊び方が激しい。ちょっとしたおもちゃでも目の前で振ると食いつきがよくてよくて。そして周りのことは全く見えなくなる。ジャンプしてあっちこっちに当たりまくる。だもんで、高尾にゃんはすごい遠慮がちになる。わたしが高尾にゃんと遊ぼうとしてもばこが先に出てくるし、例えばこを別室に閉じ込めて高尾にゃんとだけ遊ぼうと思っても、おもちゃを振るとその音でばこがここから出せ出せと鳴きだし、高尾にゃんはその鳴き声が気になって遊びに身が入らない。正直、もうどうすりゃいいのって思ってる。。

てなわけで、高尾にゃんが今回、体調を崩したのも、一因はばこによるストレスなのかな~なんて思わないこともない。。

ただ、最近はちょっとだけいい関係になってるんだけどね。これは今日の午前中のばこと高尾にゃん。

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こんな感じでちょっとずつ距離は短くなってるような気はするんだけどね。それもこれも、ばこは高尾にゃんが大好きだからなんだけど。。

うちにきて1年経って、ばこの性格もなんとなく分かるようになった。小さい頃は本当に物怖じしなくて人なつっこかったんだけど、その反面、何を考えてるのかさっぱり分からなかった。高尾にゃんはかなり小さいときに「お座り」を覚えさせられたんだけど(餌を与える前に「お座り」と言ったらちゃんとお座りするようになった)ばこは何度言っても分からない。基本的に餌をもらうために何かをする、何かをしたら餌をもらえるという概念自体が分かっていないようだ。高尾にゃんの時はそんなことを教えなくても共通認識としてちゃんとあったもんだから、そこが分からない猫がいるとは全く思わなくて。そしてそこから認識させることすらどうやっていいのか分からなくて。だから「まぁばこは仕方ないよね」で諦めた。

性格は相変わらず人なつっこくて、家に人が来ると誰彼構わずついて回る。うちにきた電気工事のおじさんとか、宅配便の人とかに愛想を振りまいて「こういう猫だったら飼ってみたいですね~」とか「かわいい猫ですね」っていつも言われる。

人に対してまったく恐れがないので、大らかなのかと思いきや、ちょっと神経質なところもある。雷が怖いみたいだし(高尾にゃんは全然怖くないみたい)、おしっこを取られるのが嫌いで、こっちがおしっこを取ろうとする気配を察するとなかなかトイレに行かない。しかもこっちがお風呂に入ってるとか、絶対に取れない状況の時にトイレに行く。こういうところはなかなかの頭脳派だ。

しかもしつこい。ばこは気に入ったおもちゃをガジガジするのが大好きなのだが、遊ばないときはいつも本棚の上の方に引っかけて置いている。それを執念深く下から飛んで取ろうとしたり、上から取ろうとしたり。1日何回もやる。こっちが危ないと思って本棚の中に隠しても(ガラスの扉になっている)外から見えるもんで、なんとかして取ろうと狙っている。絶対に忘れない。この執念深さは別のところにも発揮されてて、「いけません」と言われたことを何度も何度もやる。高尾にゃんなんか「いけません」って言われると、いけないことは人が見ている前ではやらない。いないときにこっそりやったりする。けどばこは怒られても何度も何度もやる。かといってばこも馬鹿じゃない。いけないことをやるときは、ばこがムシャクシャしているときだ。

ばこは高尾にゃんと「怒られる」という認識が違っているらしい。高尾にゃんは「怒られたら嫌だから、ママ達が見てないときにやろう」と思っているらしいが、ばこは「怒られる」ということは「自分に声を掛けてもらえる」と思っている。だからばこ自身が遊んで欲しいとか、何か声を掛けてもらいたいとき、ムシャクシャしてて構って欲しいときにわざと悪いことをする。「ばこ!」と怒ると「にゃーん」と甘えた声を出す。まぁかわいいといえばかわいいんだけどねー。

基本、ばこは高尾ねーちゃん大好きなのだが、人間にも甘えてくる。高尾にゃんのように寝ころんでいると身体の一部にぴたっとくっついてきたりはしないのだが、わたしが寝ている夜中に知らないうちにわたしの枕元に来て寝ているとか、朝、わたしが遅くまで寝ていると、ご飯を食べたあとのばこが「にゃーん」と言いながらベッドに上がってきて、わたしが布団の中に「入る?」と言って空間を空けてやるとその中に入ってきてゴロゴロ言ったりする。「撫でてください」ってやってくることもある。ただ、人間にはあまりくっつきたがらない猫だ。

あとそれから案外忍耐強い。高尾にゃんは拘束されるのが大嫌いだから、ちょっとでも撫で撫でするために拘束したりすると、もうしっぽをぶるんぶるん振って「嫌です!!」ということを主張し、そこから逃れようと抵抗し、一瞬のスキを付いて逃げていく。けどばこは逃げない。嫌な素振りはするけど割と黙って撫でられている。時々諦めたように「ふーっ」と深いため息を付いたりすることがある。まぁこっちもかわいそうだから5分くらいで解放するけどね。

あと、ばこは割と暑がりだと思う。今の季節、高尾にゃんは猫ベッドで寝てるけど、ばこは基本は床の上で伸びている。こんな風に。

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これ、今日の朝です(笑)こんな風に安心しきった様子でどこでも転がるので、うっかりして踏んづけそうになる(笑)

ってわけで、ばこもこの家に来て1年かー。これからも末永く高尾にゃんと2匹で暮らして欲しいと思ってるんだが、高尾にゃんの具合があんまり良くないんだよね、、昨日から3たび下痢をし始めて、今日は嘔吐も復活。夜になってまた動物病院に行ってきた。もう、体重がどんどん減って来ちゃって、わたしは泣きそうです、、どうか1日も早くよくなりますように。。
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07-29,2014
高尾にゃんの具合が悪い
彼女のことは一段落付いたと思いきや、今度は高尾にゃんが吐いたり下痢したりしてね。その前はばこが血尿出したりしたんで、わたしは彼女が骨折して以降、自分の病院を含めて本当に病院通いが続いている。まぁ今では彼女の病院には付いて行かないけど、動物病院に連れて行くのは今はどうしてもわたしじゃないとダメだし、うちは車がないので、わたしがその都度動物病院に猫を抱えて自転車で行かなきゃならない。まぁすごい遠くにあるわけじゃないけど、かなり大変な思いをしている。わたし自身、全く別のことで今、精神的に大ダメージ受けてて、調子があんまりよくないんだよね。。ふう、いつになったら終わるんだろ、この試練。まぁ人の人生に試練なんてないとわたしは思ってるんだけどね~。因果関係はあるが。

高尾にゃん、確か7月10日だったかの朝、ご飯を食べたあと吐いてね。午前10時頃だったかな。いつもは吐くとしたらご飯を食べた直後に吐くんで、数時間後ってのはほとんどないことなのね。しかもそのときに発見したんだけど、トイレじゃないところに下痢をしてて。毛布の上だったんだけど、高尾にゃんはよく毛布だったり布だったりラグだったりタオルだったり、まぁそういうところで時たまウンコすることがあって。そういうときは布がぐじゃぐじゃになってるから「あれ?」って感じで分かるんだけど、このときもそうだったから、直感的に「これはばこじゃなくて高尾にゃんだ」って。今まで吐いて下痢をすることなんて1回もなかったんで、すぐに動物病院に連れて行って診てもらった。

「梅雨時は動物もよく体調を崩して吐いたり下痢したりする」って言われて、吐き気止めと下痢止めの注射をされて、吐き気止めと下痢止めの薬が出て「これで様子をみましょう」と言われた。でね、ここから2日間くらいは下痢がまだ出てたんだけど、それ以降はちゃんとしたウンコになって。だけど吐くことだけは止まらなくてね。1日1回は必ず吐いてた。だけど、吐くタイミングがバラバラでね。食べたものをすぐ吐くときもあれば、朝、ご飯を食べる前に吐いたり、内容も透明な中に毛が入ってるのだったり、茶色だったり、いろいろで、何が原因か分からないの。高尾にゃんはもともとグルーミングが好きで、毛を吐くことが多いのね。多いと言っても何もやらないと1週間に1度程度かな。ブラッシングを2日に1回くらいやると吐かない。だけど、このとき毎日ブラッシングしても、毎日吐いてね。明らかに変だと。なんで、この1週間後くらいだったかな、前の晩吐いて、朝ご飯食べたあとも吐いたんで、また動物病院に連れて行った。

実は高尾にゃん、今年の2月にも吐いて病院に行って、そのとき血液検査してもらったのね。結果は全く異常なしで。なので「もう1回血液検査しても前とあんまり変わらないと思います」って言われて、取り敢えずはレントゲンだけ写してもらった。結果は異常なし。考えられるとしたら膵炎だって言われたけど、膵炎はもっとたくさん吐いたりするんだそうだ。で、そのときは下痢は止まってたんで、ちょっと薬が変わって、吐き気止め2種類が出た。ああ、あのときは確か、水分補給のために皮下点滴をしてもらったんだっけ。

家に帰って吐き気止めを飲ませてたんだけど、吐き気は治まらなくて、しかもまた下痢になって来たので、その数日後だったかなー、また病院に連れて行ってね。確かそのときは出した便を持っていったのかな。で、糞便検査をやってもらったんだった。虫はいないって言われたけど、やっぱり腸の調子がよくなくて、悪玉菌が増えている、これはおそらく大腸炎でしょうって言われて、吐き気止めと整腸剤をもらって帰ってきたんだよね。これでよくならなかったら、念のため、血液検査をしましょうってそのときに言われた。

で、その日の夜から朝に掛けて高尾にゃんは6回も下痢してね。しかもまずいことに次の日はいつも行く動物病院は休診日で。でもこれだけ下痢をしてたら放っておけないってことで、ちょっと離れた、初めて行く動物病院に連れて行くことにした。そこで「これこれこうで、病院かかってたんだけど今日は休診日で」って説明して、診察してもらうことになった。

診察室で今までの経緯を詳しく話したら「どこまで治療しますか?」って言われた。まぁそりゃそうだろう。次の日はいつも行ってる動物病院は開くし。取り敢えずつなぎで診てもらってもいいわけだしね。けど、わたしは高尾にゃんがかわいそうで、早く原因を究明して対応して欲しかったので「検査して欲しい」って言った。そこの病院の先生も「これだけ長く吐くのと下痢が続いているのは何か異常がある証拠で心配です」と言った。なので、血液検査とまたレントゲンを取ってもらった。結果は異常なし。だけど、膵炎の可能性があるから、外部に出して検査してもらうって言われた。それからこれからしばらく毎日皮下点滴しに来てくれって言われて、あとはご飯の量をいつもの半分に減らすように言われた。高尾にゃんは食欲だけはいつもと変わらなかったんで、これはちょっとかわいそうだったんだけどね。

それが先週の火曜日のことで、わたしはそこから毎日病院に高尾にゃんを連れて皮下点滴に通った。木曜日に膵炎の結果が出て、膵炎じゃないって言われた。金曜日だけは疲れ果てて頭が痛くて身体が動かなかったので、彼女に行ってもらった。。彼女は今はまだ自転車に乗れないのでタクシーで連れて行った。それでも高尾にゃんは金曜日の夜までは毎日吐いてたんだよね。。下痢も木曜日までしてた。

それだからか「異物を飲み込んでいないか、バリウム検査をしてみましょう」って金曜日言われたそうで、土曜日の朝にわたしが連れて行った。前日の21時以降は飲み食いさせるなって言われて。まるで人間の検査と同じだなって思った(笑)バリウム検査は、バリウムを飲ませて何時間後にレントゲン、って感じで何枚も撮るんだそうだ。検査が終わったら家に電話が来るって言われたんで、待ってたんだけど、18時を過ぎても電話がかかってこなかったんで、こちらから電話しちゃった。そしたら「まだ終わってません」って言われて。高尾にゃん、大丈夫かなって思った。まぁそれから30分くらいしたら「終わりましたから迎えに来てください」って言われたんで、すぐに行ったけど。

結果は何も飲み込んでないってことだった。だけど胃は確かにかなり荒れていると。それに、これから出てくるウンコの中になんか異物っぽいものがある。毛には見えない、でも何か分からないので、ウンコが出てきたらほぐして中身を見て下さい、って言われた。

帰ってきた次の日の夜に高尾にゃんはウンコした。最初の方は黒かったけど、途中からバリウムが混じった白いウンコが出てきた。仕方がないのでその出てきたウンコをジップロックというビニールの袋に入れて、そこの中にお湯を入れて、ロックしてビニールの外側からウンコを揉んで、ウンコの水溶液を作った。もちろんわたしだってこんなことはやりたくないけど、かわいい高尾にゃんのためだものね。そしてウンコの水溶液を今度はペーパータオルで漉した。漉したものを何度か洗ってまた漉して、それで出てきた内容物を調べた。ほとんどが毛だった。でも、毛に混じってなんか、ザラザラした砂粒みたいなのがたくさん出てきた。「これってバリウムの粒なんだろうか?」と思ったが、よく分からなかったので、内容物を取り敢えず乾かして、次の日にラップに包んで病院に持って行った。水溶液を濾過して内容物を調べる、なんて、小学校か中学校の理科の実験みたいで実はちょっと楽しかった(笑)だから理科の実験も日常生活に全く役に立たないわけじゃなく、どこで何が役に立つかなんて全然分からないよなって思った。

バリウム検査で異常がなかったら、最後にエコー検査をしましょうって言われてたので、バリウム検査から1日おいて、エコー検査をした。これが昨日。エコー検査も前日21時以降は絶食だそうだ。

高尾にゃんはもともと病院に連れて行くのはそんなに苦じゃない。キャリーバッグの中に入るのは好きじゃなくて嫌だって言うけど、入ってしまえばにゃんとも鳴かない。自転車で連れて行くときも何も言わない。一方ばこは泣きわめく。まるで「今からこの人は猫を捨てに行くんですー!ばこは捨てられちゃいますー!助けて下さいーーーー!」って言わんばかりに泣きわめく。街行く人に振り返られてとっても恥ずかしい思いをする。でも高尾にゃんは鳴かないのでそういう思いをすることもない。

病院で診察の順番を待っているときも鳴かない。キャリーの中でおとなしくじっとしている。診察室に呼ばれて診察台の上に乗せられても鳴かない。体温を測るために肛門の中に体温計を入れられるのは嫌みたいだけど、だからといって爪を立てたりすることもない。前はフーとかシャーって言うときもあったんだけど、今はされるがままで耐えている。

血液検査はさすがに抵抗するので、手からは取れなくていつも首から取るのだけど、それ以外の、今回やったレントゲンとかバリウムとか、すっごくおとなしくしてたそうで、いつもいつも検査してくれた人から「高尾ちゃんはやりやすかったです」と言われる。

それだから、わたしも高尾にゃんはとっても病院につれて行きやすいんだけど、それがなんだか却って不憫でね。高尾にゃん、ごめんね、ごめんねっていつも思う。さすがにバリウム検査で9時間くらい病院にいたときは一刻も早く帰りたかったらしく、わたしが迎えに行って、先生から検査の結果を聞いているときにニャーニャー小さい声で鳴いて「早く帰りたいよう」って言ってた。

わたしもさ、高尾にゃんが半日家にいないともう寂しくて。高尾にゃんはわたしが家にいるときはなにげにそばにいつもいてくれて、わたしがベッドに寝ころんでいると足元に来るし、わたしが机に向かっていると同じ部屋の中で転がっているし、ほとんどいつも、わたしの視界の中にいるんだよね。それがいないとなると、妙に寂しくてね。「ああ、いつも高尾にゃんの存在に慰められてるんだなあ」って実感したの。

なので、エコー検査でまた半日くらい病院、って言われて「うーん」って思ったんだけど、まぁこれが最後の検査だからと。高尾にゃんは、一時は餌の量が半分になったけど、金曜日の夜からは通常の量に戻ってた(いつも食べてるのじゃなく、療法食だけどね)。けど、土曜日は検査で朝から晩まで食べられず結局1食、日曜日はちゃんと食べたものの次の日の朝は何も与えられないので随分お腹が空いていたと思う。病院で体重測ったらかなり体重が減ってた。そして前日出したウンコの中身、わたしじゃ判断付かないので持っていって見てもらったんだけど、やっぱり何か分からないようだった。明確な異物ではなかったんだよね。まぁ異物って普通、紐とかプラスチックとか、そんなのらしいから。ちなみに出てきた砂粒みたいなのはバリウムじゃないって言われた。バリウムは粒じゃないそうだ。高尾にゃん、あんた、どこで何舐めたの。。??ただ、毛が多く混じっていたことから「毛玉症」と言えるかもと言われた。あ、もしエコー検査で異常がなかったらね。ただ、家に帰ってきて毛玉症(毛球症)について調べたら、消化器官に毛玉がたまる病気なんだってね。最悪の場合はたまった毛玉を手術で取り出さなきゃいけないんだとか。でも、先生はそういう意味で言ったんじゃないみたい。なるべく毛を排出することがこんな状態(吐き気や下痢)にならなくさせる対処法だと。そのためには餌を毛玉ケアの餌に変えるとか(実はもともと高尾にゃんの餌は毛玉ケアの餌なのだが)サプリを与えるとか、そういう対処方法しかないと言われた。要するに根本的な薬はないってことね。今回みたいに吐き気や下痢になったときに、対症療法として吐き気止めとか下痢止めが出るくらいしかないみたい。

まぁそんな説明をされたあと、高尾にゃんはエコー検査で病院に預けて、それからわたしは一旦家に帰った。エコー検査はバリウムとは違ってそんなに長いことかかる検査じゃないって言われてたけど、確かに病院から電話がかかってきたのは16時頃だったかな。なので、電話がかかってきてすぐに迎えに行った。

検査の結果はこれも異常なし。だから、朝に言った毛玉症でしょうねーと言われた。まぁわたしはバリウム検査、エコー検査ともう最悪のことしか考えてなかったので、少しホッとしたんだけどね。だって、ネットで調べれば調べるほど怖い名前の病気しか引っかかってこなかったんだもの。もちろん、最終的には内視鏡検査ってのがあるらしい。けどこの検査は全身麻酔をしなければならないのと、高尾にゃんの年齢を考えたら、そこまでしなくていいんじゃないかなあってことで、一応検査はこれで終了ってことになった。吐くのは金曜日の夜から止まってたし、下痢もその前の夜から止まってたので、餌も療法食から通常のものに変えていいですよー、ただし1週間くらい掛けてちょっとずつね、と言われた。薬はまだ飲ませないとダメで、もしかしたらまた吐き出したり下痢をしてしまう可能性もあるんだと。今止まってるからってずっと止まってるとは限らないですって言われた。ただ、次の通院は何もなければ薬が切れたときで、また吐き始めたりしたらそのときにすぐに来てくださいと言われた。

ってわけで、ようやく今のところは病院通いから解放されたのだけど、高尾にゃんはここ毎日病院に行ってたから警戒してるのか、今日は午前中ずっと部屋の隅のカーテンの影に隠れていた。

もうさ、本当に大変だったですよ!しかも、明日はばこのおしっこを取ってまた病院につれて行かなければならない。。上にも書いたとおり、ばこは病院につれて行く間、ひんひん泣きわめくのでつれて行きにくい。。まぁ病院の建物に入ってしまえばまた鳴かなくなるんだけど(診察室でも泣きわめくことはない。鳴くのは外でだけ。なんでだろ?)。

正直、大変な日々を送っております。。いや、おりましたって過去形にしたい。。今後、高尾にゃんが再び悪くなりませんように!

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昨日、検査が終わったあとの高尾にゃん。「やれやれ、えらい目に遭った」
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07-18,2014
ゆりかごのうた 大松達知歌集/大松達知
無知を晒すようで恐縮なのだが、一応学校教育で、短歌、俳句、川柳などは習ってきたはずなのだが、学校を卒業してうん十年経つと、正直「あれあれ?俳句は季語があって5・7・5?川柳は確か季語がなくて5・7・5・7・7だっけ?じゃあ短歌ってなんだっけ?」などということが起きていて、、これって生まれたときから日本に住んでいて、しかも日本語を母語としながらものすごく恥ずかしいことだよねとは思うのだが、でも、自分の暮らしの中に「歌」というものが本当に無縁なので、仕方がない部分もあるのかな、なんて思っている。

だからといって、「歌」に興味が全くないわけではなく、斎藤茂吉の歌集なども持ってるし(文庫本だが)、俵万智なんかも知ってるし、俳句はなんかしみじみとした趣があっていいなあと思ってるし、なんというかな、ここだけの部分で言えば「一般的なフツーの日本人の感覚」なんだろうという認識だ(普段は「フツー」というカテゴリーも「日本人」というカテゴリーも使いたくないんだけどね)。ただ、「歌」については今まであまり接点がなかったんだよね。積極的に探そうとも思わなかったし。

今回のこの「ゆりかごのうた」を知ったのは、偶然、東京新聞を読んだからだ。確か書評じゃなくて、コラムみたいなところだったと記憶しているのだが、「父親になった人の父親の目から見た短歌」みたいな感じでこの人ともう一人の人が紹介されてたんだよね。確か5月頃だったかなあ?その2人のいくつかの歌が紹介されてたんだけど、わたしはこっちの人の歌の方がなんとなくいい感じだなって思ったのと、歌集を出したばかり(もう一人の人のは確か雑誌で発表だったかな?)だというので「もしかしたら図書館にあるかもね」と思って探したら、案の定、図書館に置いてあって(ただし、新刊だったのでだいぶ待たされた)それで予約して読んでみたのだった。

題名が「ゆりかごのうた」なのと、新聞に紹介されていたのが「父親の目」ってことだけだったので、この歌集、全般にわたって「子育て中の父親の歌」なのかなって思ってたけど、実際に読んでみるとそういうことは全くなく、「2009年から2013年(38歳から42歳)までに書紙誌に発表した作品の中から444首を選び、第4歌集とします。」とあとがきに書いてあるように、実にいろんな歌が入った歌集だった。

この人のことは、東京新聞を読むまで全く知らない人で、どういう背景を持つ人なのかも全く知らなかったのだが、歌集を読んでいるうちに「あれ、この人、野球が好きな人なのかな?」って分かってきた。他にもお酒がすごく好きそうだとか、英語教師をやっているとか、子供が産まれたとか、誰かが亡くなったとか、どこそこに旅行に行ったとか、そういうことがぽつりぽつりと分かる歌集だった。

わたし、今まで俳句とか短歌って、「句を通して読んだ人の気持ちを想像する」とか「読んだ人を通して情景を思い浮かべる」ことだと思っていた。学校教育でもそういう教わり方をするからさ。もちろん、それは間違ってはないだろう。「何が書いてあるかを文法的に正しく解釈して、そしてその句が何を言おうとしているのかを考える」ことは、句の本質的なものを捉える上ではとても大切なことだとわたしも思う。けどね、わたしはこの歌集の中の一つの短歌に出会ったとき、それまでとは違うものを感じたの。「ああ、短歌を読むってことは、自分の中にこういう感情を湧き起こすことがあるんだ」って思った。

打者を見つつ走者を見つつ送球を見つつ過ぎたりこの世の五秒


この句を読んだとき、「うわっ!」と思ったのね。それはまさしく、わたしが経験したことだった。

わたしは今はほとんどプロ野球オンリーになっちゃったけど、かつては社会人野球が大好きで、休みのほとんどを社会人野球観戦に注ぎ込んでた時期があった。年間100試合ほど観ていた。いろんな球場へ観に行ったけど、わたしは大抵バックネット裏の中段で、ホームより少し3塁側の席が定位置だった。そこからだと投手も打者も守っている人たちもランナーもみんな、一瞥できるからだった。

野球っていうのは、ものすごく奥が深いスポーツで、一人一人の心理状態、配球、守備位置、作戦、選手が持っている技量など、いろいろなところにアンテナを張り巡らせて、いろんなことが感じられるからわたしは好きなのだ。ただ野球をほとんどやったことがないわたしには、セオリー通りの作戦などは分かるけれど、配球とか細かいことは実はよく分からない。分からないし、それが間違っているかも知れないんだけれど「もしかしたらこうなんだろうか?」って自分なりに感じて解釈する。それがまたたまらなく面白い。

ああ、言葉にするとすごくつまんなくなってうまく説明できないな。ある場面、一方のチームはチャンスに、一方のチームがピンチに追い込まれる。ここでキャッチャーはピッチャーにどういう球を放らせるか、ピッチャーはキャッチャーの構えたところにボールを投げることができるか、バッターの狙い球はどんなものか、ランナーのリードの具合はどうか、ベンチの指示はどう出ているのか、野手の守備位置はどうなってるか、キャッチャーが打たせようとしている方向に野手はちゃんと守っているのか、高まる声援(社会人野球の応援はすごい!)、いろいろなことを観察して感じようとするわたし。「野球ってなんて面白いんだろう!」と感じる瞬間。そしてピッチャーがボールを投げて、、

この句を読むとね、あのときのわたしの気持ちがばーっと蘇ってくる。この句の中の「五秒」っていうのは、まさにわたしが打者を見て投手を見てランナーを見る、その「五秒」なんじゃないかと。

わたしがこの句を読んで真っ先に思い出した試合がある。

1999年7月25日、都市対抗野球大会3日目の第3試合。横須賀市(日産自動車)対大阪市(日本生命)の試合。7-8で迎えた9回の表、横須賀市の攻撃。2アウト1塁からタイムリーで1点返して同点にしたあと、大阪市のピッチャー土井は四球を出して2アウト1塁3塁。ここで横須賀市の黒須がセンター前にタイムリーヒットを打って逆転するのだが、まさにヒットを打つ直前、わたしは上に書いたとおり、投手を見、打者を見、ランナーを見、野手を見、盛り上がる応援を聞いた。これから起こることについてワクワクし、息を呑んだ「五秒間」だった。そしてその後、センターに抜けた黒須のヒットはスローモーションの映像としてまだわたしの頭の中に鮮明に残っている。あの試合を観た帰りにわたしは繰り返し「野球って本当に素晴らしい」って思った。野球を観ることは、わたしにとって数少ない「生きててよかった」と思えるものだった。

野球は間延びして面白くない、と言われることが多々あるけれど、あの「間」があるからこそ、野球は面白い。その間、いろんなことを感じられるから。それは独りよがりで事実とは違う解釈だったとしても、全然構わないと思っている。だって、そう感じたのはわたしだから。わたしがそう感じたということは「事実」なのだ。そして自分で感じたことは、自分の胸にだけに留めておく。自己満足でいい。

と、ここまで書きつつ。。この句を再び見ると

を見つつ走者を見つつ送球を見つつ過ぎたりこの世の五秒


なんと、「打者」だと思っていたのが「打球」ではないか!

あー、なんということ。ここが「者」であるか「球」であるかによって、この「五秒」は全く別の「五秒」ではないか!たった1文字の違いで場面が全然違ってくる。ああ、やっぱり俳句とか短歌って怖い。。

打球を見て、走者を見て、送球を見る、というのは、打者が打った後、のことだ。この人はロッテファンらしく、千葉マリンスタジアムに行ってロッテを応援する様子をいくつか短歌にしてるんだけど、きっとロッテの選手がヒットを打ったんだろう。その打った打球を見て、それからおそらく塁上にいたランナーの様子を見て、そして相手のチームの野手からの送球を見たってことなんだろう。それはそれで緊張感が伝わってくる一句なのだけど。。

わたしは特定の社会人野球チームは応援してない。けれど、プロ野球だったら、もう誰がなんと言ってもカープファンだ。同じ野球でありながら、社会人野球とプロ野球、特定の応援しているチームがある場合とない場合によって、わたしは野球の見方が全く違う。社会人野球は純粋にゲームとして楽しんでいる。どっちが勝っても負けても別に関係ない。ただ、緊張感のある試合が観たい。けれど、プロ野球は何が何でもカープの勝ちが観たい。どんなに大量得点差でゲーム自体は全然つまらなくなってしまったとしても、カープが勝っていたら満足するし、僅差で負けたらやっぱり悔しい。まぁそりゃあ、「いい勝ち方」ってのはあるから、いくら勝っても「こんなんじゃダメだよ!」って思うこともあるが、、

だからわたしはこの人が「打者を見つつ走者を見つつ送球を見つつ」と詠んでいて、その中に投手のことが入っていないのは、それは「応援しているチームがあるからだ」と思っていた。そして「その瞬間」の前の「五秒」のことを詠った歌なんだとばかり思っていた。そして「ああ、短歌って人の詠んだ句から自分の経験したことを思い出せる手段でもあったんだ」って、そう思った。

けど、あー、そうだったんだ。今回はそうではなかったんだね。

この句を作った人からすると「自分が作ってない句を勝手に作り上げてあれこれ言うな」って思われるだろうけど、確かに作った人を冒涜する行為ではあるよな。。ごめんなさい。だけど、わたしは本当に嬉しかったのだ。だって、あの句を読めば、あのときの、わたしの気持ちが自分の脳の中にパーッと蘇ってくるんだもの。

ちなみに、正しい句を読んで、これまた思い出した試合がある。

1995年6月20日。カープヤクルト戦。わたしはこの試合を広島市民球場で観ていた。9回裏4-6でカープは負けていたが、なんとノムケン(野村謙二郎現カープ監督)が逆転3ランを打ったのだ。このときは、ファンとしてすごく興奮した。「ノムケン、ありがとう!よー打ったな!!」って言いたかった。試合が終わったあと、球場前でノムケンの出待ちをした。「ありがとう、ありがとう!」って気持ちを伝えたかった。けど、本人を目の前にしてわたしは何も言えなかった。。言葉にしなければ相手には伝わらないが、「ありがとう」という言葉では自分の気持ちが伝えきれないと思ったからだ(それ以上に声を掛けるのが恥ずかしかったんだけど(^^;)。

「この世の五秒」はきっと、球場はファンの声援でいっぱいだったんだろう。「走れ、走れ」という声や「やったー」という声や「いいぞー!」って声が聞こえたんだろう。この句にはそういうことは何も書いてないけれど、でもわたしにはそれが聞こえる。

この人の野球に関する一連の句は、この人が球場のどこに座ってて、どういう応援をしているか、それがものすごく分かってね。全く見も知らぬ人なんだけど、球場でビールを飲みながら応援している姿がありありと浮かんでくる。それがとても不思議な感覚だった。わたしは人の短歌を読んでてあんまりその人の「生きている姿」を思い浮かべたことはない。どちらかというと、なんかセピア色のフィルターを通して見るような、なんとなく古ぼけていて、自分とは関係ない遠い世界であるような感覚がある。だけど、この歌集は全然違ってた。ちゃんと色が付いてた(笑)

この歌集、この人の生きている痕跡みたいなのが分かって、とても面白かった。歌集なんて、本当に今まで無縁で、あとこういうのを読むと「何か正しいことを感じなきゃ」みたいなプレッシャー?があって(学校教育の弊害か?)すごく敷居が高かったんだけど、これは本当に自然に読めた。

例えば英語教師として生徒のことをを詠んだ歌などもユーモアがあって面白かったし、あとこの人、お酒が好きなのね。「子供が産まれた」ってことでどんなことが書いてあるのかなって思ってたけど、まぁ正直それは「ふーん、そうなんだ」としか思えなくて(なんせ、わたしは人の親にはなったことがないからね)、実際のところはわたしは別のところ(=野球)に大いに反応した。

この歌集は「第4歌集」ということらしいので、前に3作出てるはずなんだよね。そっちの方も読んでみたいな。

ただ、一文字で意味が全く変わってしまう怖さ、ってのをこれを書いててモロ感じてしまった。正直、文語体はあまり正確に捉えることができなくて「まぁ適当でいいよね」って思ってたのだが。。あんまり適当でもよくないってことだよね。でも、それを気にしてたらまた敷居が高くなっちゃうしなあ。難しいとこです。でもこんなこと言ってたら、真剣に三十一文字を考えて作っている人に対して悪いなとも思う。

【追記】奇しくも今日は、プロ野球はオールスターゲーム第1戦。カープの選手がびっくりするほど多くスタメンで出場している。そして、東京ドームでは都市対抗野球大会が始まった。もう何年も観に行ってないけどな~、今年はどうしようかな。観るとハマるからなあ、あれは。
18:26 | (一般)本のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
07-16,2014
薬が減る
昨日は彼女の退院の日だったんだけど、わたしの精神科の診察日でもあって。だから午前中は彼女の病院に行き、午後からは自分の病院に行った。

4月から新しい主治医に変わったんだけど、なんかねー、イマイチなんだよね。前の主治医から「若い人です」って言われてたんだけど、確かに経験値がなさそう、、なんかとても頼りない感じ。まぁ経験値がないのと頼りないのはまた別の問題かなとは思うけど、わたしはなんでもそうなんだけど、はっきりした人が好きなんだよねえ~。はっきりした人とは自分と合う、合わないがはっきりしてるから、その後の対応もしやすいんだけど、はっきりしない人は何をどう考えてるのかさっぱり分からないので苦手。まぁでも関係は患者と医者なんで、嫌いと思ってても付き合わなきゃなんないけどね。でもはっきりしてる人はすぐに「あーもうこういう医者だったら別の病院行こう」ってすっぱりこっちも決められるけど、はっきりしない人にはダラダラなっちゃう傾向にあるよね。

とはいえ、わたしの薬に対する感受性を考えると、これからまた一からやり直すには怖すぎるものがあるんで、今のところは病院変えようとは思ってないですけどね。

前回の診察のときに「もしかしたらもう睡眠剤はいらないかも」って話してたんだけど、取り敢えずは出してもらってたのね。でも結局ほとんど飲まずに眠れたし、いくつか前の日記にも書いたんだけど、この睡眠剤があるせいでわたしは1ヶ月に1度の通院を余儀なくされていたので、早く切りたかったんだよね。

それと、ジプレキサ。これも前回の通院後から一切飲んでない。前回3月頃にジプレキサを復活させたのは、肩が凝ったり背中が痛くなったりしたので、前の主治医から「飲んでみてはどうでしょう?」って言われたので飲んだのだったが、わたしは肩が凝ったりしたのは冬で寒いからだと思ってたので、夏にどうなるか試したいって言ってたんだよね、そのときから。前の主治医は「じゃ、それは新しい先生に相談して下さい」って言ってたんだけど、前回、わたし、言い忘れちゃった。

けど、前はジプレキサ飲まなくなって2ヶ月ほどで肩が凝ったりしてきたので、今回止めるとすれば7月に入ってからではなく、6月のうちに止めておかなければならない。9月もまだそれなりに暑いけど、そこから先は寒くなってくるので、寒さが理由でないことを証明するためには、6月から止めて、8月9月は様子を見ておいた方がいいんじゃないかと思ったからだ。

てか、これは自分の身体を使った人体実験だなあと思うのだけど、まぁわたし自身はこういう実験は結構好きだったりする(笑)

だいたいジプレキサと言っても0.5mgしか飲んでないので、飲んでも飲まなくても気分的には全く変わらないのだ。ただ、わたしの場合、調子が悪いと精神的じゃなく、身体的にしんどい症状が出て来やすいみたいなので、前の主治医はそれに対してジプレキサが有効だと思っていたと思う。前の主治医も比較的頼りない感じだったけど、でもちゃんと聞いてみると「自分はこう思うのでこうしてます」ってことをはっきり言う人ではあったので、そこからわたしの意見を言って、どうするのが一番いいのかを話せたんだよね。他の病気はどうだか知らないけど、精神の病気って長くかかるからか、自分の納得しない薬とか飲みたくないじゃん。調子が悪いときは医者に全面的に任せるにしても、わたしの場合、もう気分的な落ち込みは1年半以上ない。反復性うつ病の場合、落ち込みがなくなっても、今までみたいに「じゃあもう治りましたね」ってことはないので、今後もあと数年は病院のお世話になると思ってるけど、でも、やっぱり飲んでも仕方ないと思う薬は飲みたくないのだ。

なので昨日の受診時に「後付けになってしまって申し訳ないんだけど、ジプレキサも止めてます」と言った。まぁ上に書いたような理由を言ってね。主治医としてはわたしとの付き合いが短く、何も言いようがなかったと思うんだけど、飲まないことによる影響が出てないことを聞いてから「分かりました。取り敢えず止めてみましょう」と言った。

わたしねー、この主治医とは4月からだけど、ちょうど初めて診察を受けた日が、ちょうど彼女の骨折直後でね。かなりハイテンションだったと自分でも思う。それでそのとき「今はこういうハイテンションなんだけど、だからといってこれは『躁状態』ではないと思う」って言った。ほれ、リーマスって双極性障害の薬だからさ。前の主治医がリーマスを投与するにあたって「もしかしたら双極性II型かも知れない」って言ってたのが気になっててね。でもわたしは今まで躁状態にも軽そう状態にもなってない(躁状態、軽そう状態の定義に全く当てはまらない)から、自分では双極性障害とは思ってないんだよね。彼女に聞いても「ろんたこは違うと思う」って言う。

って説明したつもりなんだけど、前回(6月)の診察でまた話に「躁状態がうんたら~」って話が出てきて、わたしは「いや、わたしは躁状態になったことはないです」って話すんだけど、主治医はそれを認めない感じがするのね。少しでも可能性がある場合は否定できないって感じで。一回「かも知れない」って思われたことを覆すのは難しいなと思った。わたしは自分でうつ病だと思っている。希死念慮が全く消えないからね。あと、眠らなくても平気な状態なんかになりっこない。だって一晩でも徹夜すると頭が痛くなるので、わたしは高校1年の定期テストで1回徹夜して以来、徹夜はしたことがないのだ(1回で懲りた)。ってことを長々と説明しても言い訳してるみたいに聞こえるので、そんなことは言わないし、もし今も希死念慮があるって知ったら、別の意味で警戒されてしまうと思って言わなかったんだけどね。

ってわけで、今月もそういう話を繰り返ししたくなかったので、今回はそういうことは一切話さなかった。まぁ話さなくてもこれからの付き合いの中でそうじゃないって分からせるしか方法はないよなと思うから。

今の主治医は、今のような調子のいいときは別にいいんだけど、調子を崩したときはまずいんじゃないかと思ってる。まぁ調子はもう崩れないとは思ってるけど、でも3回うつ病繰り返した人の4回目の再発率は90%なんでね。まぁ4度目のうつももう確定に近いとは思ってるんだけど。。でもできるならそれが来るのはずっと後にしたい。

もちろん、薬は飲みたくないんで、ゆくゆくはリーマスも止めたいとは思ってるけど、でもまぁまずは単剤でどこまでいけるかだな。

次の診察は、もう1ヶ月の縛りがなくなったので、1ヶ月半後になった。こちらの方も徐々に期間を延ばして、病院に通う日数を少なくしたいと思ってる。

今回の処方。
リーマス(100mg)、ロキソニン(頓服10回分)
13:49 | 3度目のうつのこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
07-15,2014
退院しました
昨日、手術が終わったあとに「痛い、痛い」と言ってたので、どうなるのかなと思ってたんだけど、今朝になったら痛みが引いたようで、今日、無事に退院しました。

昨日1日は歩いちゃいけなかったので、トイレも車いすで看護師さんが付いてきたらしいんだけど、今日になったらもう歩いていけたって言ってたので「人間の快復力ってすごいなあ」と思いました。まぁ患部はしっかりとなんかすごく幅広のテープでがっちり固定されてるから傷口は開いたりはしないとは思うんだけど、でもそうは言っても骨が見えるくらいまで切開したと思ったら、なんだか地面に足を付けるのが怖そう(^^;

今日は朝8時少し前に彼女から「多分退院できる」というメールがあったので、10時頃に病院に行って、会計が出るのを少し待って、その後お金を払って家に帰ってきた。

まーこれで一応、今回の件は一安心。2週間後に抜糸で、抜糸したら普通に歩いていいとのこと。

いやー、ここまで来るのは結構長かった。4月中旬だから3ヶ月以上?この間、外出はほとんど車いすだったし(彼女が一緒の場合)、怪我をする前は買い物係はどちらかというと彼女の役割だったのに、それがすべてわたしに回ってきて、それが外出嫌いなわたしにとっては結構大変だった。。

まぁでも、自分の負担が増えた割には、わたしの体調はすごく悪くなったわけではなく、多少の負荷をかけられても大丈夫だったってことが証明されたので、わたしとしても少しは自信になったかな。うつ病からの回復って、別に誰かに「こうしなさい」って言われるわけじゃなく、手順がないので、自分がそろりそろりとやっていくしかないんだよね。そういう意味ではいい試練にはなったかな。
22:34 | 二人のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
07-14,2014
手術終わりました
無事に手術が終わった~。

前回は骨が折れてたから歩けなくて手術室まで車いすで行ったんだけど、今日は歩いて手術室に入っていった。手術は前の人が終わってからってことで、一応11時からとは言われてたんだけど、11時半頃だったかなあ。前の手術のときは朝イチで、しかもなんか緊張の面持ちで手術室に向かったんだけど、今回は2回目だからか割と余裕がある顔をしてた。

しかし手術室の周辺ってなんで同じ臭いがするんだろうね。わたしは以前、今通ってる精神科の病院で「電気けいれん療法」ってのを10回やるために手術室に10回入ったことがあるんだけどさ、あのときの手術室に入ったときと同じ臭いがするから、なんかあそこの前を通ると自分が手術室に入ったときのことを思い出すんだよね~。なんていうの?臭いが青い感じがする。臭いには色はないんだよ!って思われるかも知れないけど、ちょっとひんやりしてて冷たい感じの臭いなんだよね。乾いた空気の感じの臭い。背中が少しぞくっとするような臭い。かなり大きな病院なので、手術室が一体いくつあるのかはついに最後まで分からなかったんだけど、10回も手術室に入ったので、すごく大きな手術室もあれば、「あれ?」って思うほど小さな手術室もあった。手術室に入るときは、手術を受ける患者のベッドがずらっと並んでて、まるで駐車場に入る車になったみたいだって思った。一度自動ドアの中に入ると待たされるところがあって、そこから「何番の手術室に入ってください」みたいなアナウンスがあって、それで手術室に連れて行かれる。

まぁ彼女の病院はそこまで大きくないから、駐車場に入る車みたいなことはないんだけど(第一、歩いて手術室に入るし)なんか臭いでそういうことを思い出してしまったりしていた。

その後はお昼ご飯食べたり、待合室で本を読んでたりした。終了予定は2時間後って言われたけど、前回は終了予定時間より30分も前に「終わりました」って声を掛けられたので、今回も早めに終わるかな?と思ったけど、きっちり2時間後に終わった。前回は待合室で待ってたら看護師さんに「終わりましたよ」って言われて、そこから手術室の前まで迎えに行ったんだけど、今日はなぜか最初に待合室に執刀医が来て「手術終わりました。ピンは全部取りました」などの説明があった。わたしが「あの、、本人は?」と聞いたら「まだ手術室です。わたしは終わってすぐにこちらに来たので」と言われたので「じゃあここで待っていればいいですか?手術室まで行かないで」とまた聞いたら「あと5分もすればこちらに来ると思いますので、ここで待っててください」と言われた。ので、エレベータの前で待ってたら、看護師さんに「終わりましたから手術室まで行きましょう」と言われたので結局手術室まで行ってきた。なんじゃらほい、、

手術室から戻ったらいつも思うんだけど「病人」になってるんだよねー。点滴の管に繋がれてるし、酸素マスクはしてるし。

病室に戻ってきてからは、彼女と話ができるわけでもなく(ずっとうとうとしてるので)すごくヒマだったんで、1時間くらいしてから家に帰ってきた。前回は酸素マスクを取って、水を飲むまで病室にいたんだけど、今回はもういいやと思って。ただ、わたしが病室を出るちょっと前から「足が痛い、痛い」って言ってたので「看護師さんに痛み止めを頼んでみる?」って聞いて、痛み止めの入った点滴を追加してもらった。

帰ってきてしばらくしてから彼女からメールがあったんだけど、痛みはあんまり取れてないみたい。あんまり痛いようだったら睡眠剤もらって強制的に寝るんだよって返事したんだけど、どうなってるかな。

取り敢えず、予定では明日退院なんだけど、あんまり痛いようだったら明後日まで退院を伸ばすみたい。

痛くなってないといいなー。
21:38 | 二人のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
07-13,2014
再入院しました
っていっても、予定通りなんだけどね!

4月の終わりの手術で足にピンを埋め込んだ彼女。あれから8週間以上経って、再びCTを撮ったところ、めでたく骨がくっついたということで、この度、その除去手術をすることになった。前回は諸事情があって10日ちょっと入院してたけど、今回は今日入院、明日手術、明後日退院の2泊3日。おそらくあっという間に家に帰ってくることだろう。

一応、明日は手術なので、わたしも前回同様朝から病院に行く予定。今日も入院したあとに彼女の病室に行ったんだけど、看護師さんはみんな彼女のことを覚えていたらしい。まぁ前回10日以上、入院したからねえ。。で、わたしのことも覚えていてくれたのか、明日手術の際に何時に病院に行ったらいいかとか、当たり前のように看護師さんに教えてもらった。

前回の手術はちょっと恐怖感あったみたいだけど、今回は2回目ということと、ピンを除去して早くせいせいしたいって気持ちが強いみたいで、どちらかというと「手術を待ち望んでる」って感じ?まぁ、わたしは経験したことがないのでよく分からないんだけど、足にピンを埋め込んでると地面に足を付けるとピンが折れそうな気がして怖いんだと。それからピンを埋め込んでるせいかどうか分からないけど、足の表面がときおり電気が走るみたいに「ピリッ」となるから、しょっちゅう「痛い、痛い」って言ってる。ピンを除去してそれがなくなってくれるといいんだけどね。

ピンを取り除くんだから、もう一回患部を切るみたいなんだけど、それでも再び松葉杖になることはないとか?うーん、もうすぐに地面に足を付けて歩いても大丈夫ってことなんだろうか。リハビリにももう来なくていいかも知れないと言われているらしい。今までかなり丁寧にリハビリしてきたんだけど、最後の最後はこんなものなのかなあ?

まぁなんにしても、明日の手術はうまくいきますように。ピンを取り出すだけと言っても、全身麻酔なのでやっぱりちょっと心配なのは心配。
22:32 | 二人のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
07-01,2014
猫は天然の睡眠剤
もう今日から7月になっちゃったね。今年も半分終わったわけか。なんか早いような、、

わたしは前回の精神科の診察(先月17日)の数日後から睡眠剤を飲むのを止めている。「もうなくても眠れるだろうな~」って思ったので止めた。

飲むのを止めてから何か変わったってことはない。止めた日の眠りはすごく浅かったけど、あれっていつもそうなんだよね。でもわたしが飲んでるハルシオンは超短期しか効かない薬なので、眠りの深さには大して影響はないはずなんだよね。それでも止めた日はそういうことが起こるってことは、睡眠剤って精神的に影響するもんなんだよなって思う。いや、睡眠剤自体が精神への影響を及ぼしているんじゃなく、飲むという行為が安心感をもたらすというか。飲んでないと「眠れないんじゃないか」と不安に思う。不安に思うと本当に眠れなくなる。

睡眠剤を切るとき、一番やっかいなのがこれだ。飲んでも飲まなくても大して変わりないって思ってるのに、飲まないと不安になって眠れなくなる。睡眠っていうのは物理的に薬が効く以上に精神的なものの影響が強いと思う。

わたしはもう今まで何度も睡眠剤を切ってはまた使い、を繰り返してるので、睡眠剤を切ることにもある程度慣れている。睡眠剤を切るコツは「睡眠剤の力で寝ていると感じられるときは絶対に薬を止めないこと」かな。睡眠って本当に大切で、眠れないと今度は精神に影響を及ぼす。眠れないことで気分が悪くなって落ち込んだりする。それは本末転倒だから。「睡眠剤を飲まないと眠れない身体になるんじゃないか、依存症になるんじゃないか」って思いがちだけど、まぁわたしの場合の話だけど、数年飲んでても別に依存症にはならなかった。わたしは中途覚醒がひどかったので、導入剤だけじゃなくユーロジンなんかも飲んだけど、あれを飲んでも中途覚醒は治らなかったな。結局、中途覚醒を治すには、うつ病自体がよくならないと無理だった。睡眠剤はハルシオンの他にはドラール、マイスリー、ロヒプノール、ロゼレム、アモバンなんかを飲んだことあるかな。でもアモバンは苦くて1回で変えてもらった。ロゼレムは全く効かなかったのでこれもすぐ止めた。長く飲んだのは、ドラール、マイスリー、ロヒプノール、ハルシオンかなあ。もちろんいっぺんに処方されたわけじゃないけどね。一番酷いときは3種混合だったかな?ドラール、ロヒプノール、ユーロジンとか、マイスリー、ロヒプノール、ユーロジンとか。今は睡眠剤の3種混合はできないらしいけどね。ドラールは朝起きたときに頭が痛くなる副作用が出たので中止になったことを思い出す。あと、睡眠剤としてデパスが出ることがあるらしいけど、わたしはあれでは全く眠くならなかった。デパスは確か抗不安薬として1日3回飲んでた時期があったけど、結局効果は全く感じられない薬だったな。

睡眠剤じゃないけど、ジプレキサは眠りに多大な影響を及ぼした。寝ても寝ても眠くて全く起きられない。量を減らすと途端に睡眠が浅くなる。減らしたあと睡眠の深さが元に戻るまでに1週間くらいはかかったかなー。

まぁ「こんなに飲んでても大丈夫かな」って思っても眠れるうちはしばらくそれを続けてたほうがいいと思う。そのうち何となく「これ、なくても眠れるような気がする」って思うようになる。そしたら試しに飲んでる量の2/3にするとか1/2にしてみる。眠れなくて不安になったときは元に戻す。「まだ、今は減らす時期ではなかったんだ」と思って。わたし、別に薬使って眠れてるんならそれでいいじゃんって思うんだよね。だってその方が楽なんだもの。わたしが薬止めたいと思うのは、単に寝る前に薬飲むのがめんどくさいのと、薬の効果の前に眠れるようになっちゃうから、薬の意味をなさないなと思うから。そういう状態なのにわざわざ飲みつづけてるのって馬鹿みたいだからね。そして薬止めてて、また何かあって眠れないなと思ったら、頑張らずにすぐ薬は再開しちゃう。だって眠れない方がつらいんだもの。それに別に飲んでたって時が来たら止められるから。睡眠は精神の影響を受けやすいのでちょっとでも止めることに不安に感じたらそれはまだ時期じゃないってこと。決して焦らない。

毎日、コンスタントに眠れだすと、だんだん「薬飲まなくても眠れるんじゃないか」って思って来る。わたしの場合、薬止めても大丈夫かなって思い出すのは、薬を飲んだ直後なのに眠れること。薬って効き始めるまでに時間がかかるから、本来薬が効いて眠くなるのなら、15分から1時間くらい待たないとダメだ。けど、それ以前に寝ちゃうってことは、要するにそれは自力で寝てるってことなんだよね。それが実感できるようになればだんだんと「薬飲まなくても眠れる自信」が付いてくる。まあ睡眠剤の止めどきのタイミングってこんな感じかな、わたしは。とにかく睡眠剤を止めるためには「自力で眠れる自信」がなければダメだと思う。ここで焦って自信がないのに睡眠剤を止めちゃって、それで眠れないってことが分かると、精神的に余計に「睡眠剤がなきゃ眠れない」って思いこんでしまって(身体が自然にね)、逆に止めづらくなっちゃうんだよね。だからわたしはよほど自信がない時じゃないと「止めよう」とは思わない。

でもいっぺんに睡眠剤を飲まなくするのはちょっと不安なので、取り敢えず「止めよう」と思ったときは、それまで飲んでた薬を半分にして寝てみる。わたしは今回、金ハルだったのだけど、しばらくは半分に割ったのを飲んで寝てた。それでしばらく寝てみて、それでも眠れると思ったら、薬を止める。薬を飲む、飲まないっていうのは本当に安心感が違うんだよね。どんなに「半分にしても眠れたんだから飲まなくても大丈夫だ」って思っても、やっぱり薬を飲む行為ってなぜか安心感があったりするんだよね。それがたとえ半分でも。それを振り切るのは結構大変だ。

なので、話が最初に戻るが、薬を飲まずに寝た最初の日って眠りが異常に浅かったり、途中で目を何度も覚ましちゃったりするんだろう。ただ、次の日にはもう普通通り眠れるけどね。これで何日も眠りが浅かったりするようであれば、それはまだ身体が睡眠剤は必要だって言ってることなので、無理しないで薬を復活させた方がいい。復活させても「飲まなきゃ眠れない身体になっちゃったんだろうか」なんて思わない。今はまだ、自分は薬が必要なんだって、ただそれだけのこと。いつかは飲まなくて済む日が来るのは確かだから。

てなわけで、今は睡眠剤は飲んでないんだけど、その代わり最近いい睡眠剤を見つけてね。

それは、猫。

うちは高尾にゃんは拘束されるのがすごく嫌いなのでできないのだが、ばこは比較的従順に身体を撫でさせてくれる。なので、寝る前に「ばこちゃん、一緒に寝よ」と言ってばこをベッドに連れて行って、横で寝かせてあとはひたすら撫でる。

ばこの毛はふわふわでとっても気持ちが良い。それに撫でるとすぐにゴロゴロ言い出して、それを聞いてるわたしまで気持ちがよくなってきてしまう。そうしていると、知らないうちに半分くらい寝てたって分かるときがある。意識ははっきりしててあれこれ考えてるつもりだったのに、ふと我に返ると今考えてたことが何も思い出せない、みたいな。そうなるともうばこがいなくても大丈夫。すぐに眠れる。ばこは何分か経つと布団の中に入っているのが暑くて耐えられなくなるみたいで出ていく。残念ながら朝まで一緒に寝てくれることはない。ただ、ばこも撫でられているうちに眠くなるのか、布団から出たところでぱったり寝てしまうことはある。だいたいがわたしの枕元なんだけど、そうなるとばこに枕の大半を占領されてしまう。が、まあそれは全然構わない。

わたしが眠くならないうちにばこが出て行ってしまうことも多々ある。けど、それでも不思議とその後絶対に眠れるんだよね~。

というわけで、今のところ、睡眠剤代わりのばこがわたしを眠らせてくれる確率は100%。そう、一度たりとも眠れなかったことはないのだ。これってすごい。昨日なんか昼間にちょっと寒かったので、布団にくるまって、布団の中でiPadを見てたりしたのだが、ばこがぐるぐる言いながら布団の中に入りたいとやってきて(ばこは自ら布団の中に入ってくることも多々ある。撫でて欲しいのかな)布団の中に入れてやり、撫でてたら、別に昼寝する気は全くなかったのにその後、数時間眠ってしまった。。そう、ばこを撫でると寝たい、寝たくないにかかわらず、自動的に寝てしまうのだ。。

これは本当にすごい天然の睡眠剤だ!もうばこは手放せない!!

ちなみに今飲んでる薬は、リーマス100mgのみ。ジプレキサも処方されてるんだけど勝手に止めてます。前々から0.5mg飲んでも効き目ないんじゃないの?って思ってたし(なんせ1/5錠だしね)、2月か3月にジプレキサが復活したのもうつが酷くなったというんじゃなくて、背中が痛くて仕方なくなっていやいや飲まされた、っていうのが理由だったので、痛くなくなった今、止めてみて、それでまた痛くなったらジプレキサが効いてたんだなって分かるから。わたしは背中が痛くなったのは、冬で寒かったからじゃないかなって思ってるんだけど、前回はタイミング的に重なってしまったのでよく分からなかったのだ(主治医と意見が対立した)。なので夏に一回どうなるか試してみたかったんだよね。まぁ次の診察の時に主治医には言います。睡眠剤は止めてみようと思ってるって言ったんだけど、ジプレキサについては言うのを忘れてしまったので。

ハルシオンには30日処方のしばりがあるので、これが出されてる間は1ヶ月に1回は病院に行かなければならない。それがとてもめんどくさい。そういうことも睡眠剤切りたいなって思う理由にはなっている。ジプレキサは今処方されてるのは0.5mgで、薬局で粉状にしてるみたいなのね。これがめっちゃ時間がかかるのよ、処方の時に。シートでほいっと出されるのは簡単なんだろうがね。それでわたしは薬局で長く待たされるのがものすごくいやなのだ(誰だって待たされるのは好きじゃないと思うけど)。ってわけで、こういうのも薬を切りたい理由の大きい理由になっていたりする。だいたいこの1年間以上、わたしは全く落ち込んでないのだ(小さな落ち込みはそりゃあるけど、それは生きてりゃ落ち込むこともあるだろうよ。この世で落ち込まない人などいるんだろうか?)。反復性うつ病は安定してからも数年病院に通わないといけないらしいが、その点はもう分かってるのでいいのだが、それでも飲む薬は最小限にしたいよなって思っている。
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06-22,2014
北海道、青森旅行6日目(帰京)
さて、旅行6日目。いよいよ最終日。

昨日うっかりして書き忘れたが、実は青函トンネルを通るとき、わたしの頭の中では「津軽海峡、冬景色~♪」の音楽が鳴り響いていた。ホント、いつも思うんだが、ベタだよねえ。「津軽」って字を見るだけで自動的に頭の中で音楽が始まるんだもんね。だけど、どうしても歌い出しが思い出せない。彼女に「あおもりーえきはゆきーのなか、の前の歌詞、なんだっけ?」って聞いたんだけど、彼女も思い出せない。一生懸命考えてやっと「うえのはつのやこうれっしゃおりたときから」っていうのを思い出した。

しかし、この曲名曲だよね。今まで歌詞の意味も考えずに歌っていたが、今回、頭の中で歌詞を考えていて初めて「この人は青森駅から青函連絡船に乗って北海道に行く人の曲なのだ」って認識した。それまで津軽とか青森とかのイメージが強くて、そこからさらに北に行く人って理解してなかった。それになんだかよく分からないけど、わたしの中では北海道より青森や下北半島の方が寒くて暗いイメージがあって、そしてそれが演歌と結びついちゃってた。青函連絡船が通ってた時代のことはわたしは知らないが(大学3年のときには既に青森駅近くに八甲田丸が展示されてた)、この曲ができて以降は、青函連絡船に乗ったとき、この曲を思い浮かべた人は多いんだろうな~。しかし、そう考えると演歌って別に普段は意識してないのに、自分の身体に入り込んじゃってるなーって思う。尤も最近の演歌の新曲って全く知らないが。

さて、朝起きて、ご飯を食べに行った。札幌のホテルからずっと朝食はホテルに付いてる朝食バイキングなどを食べてたんだけど、函館までは全部朝食別料金だった。青森のホテルを探すとき、青森はどこのホテルも朝食付きだった。普通、朝食付きのときの朝食って結構しょぼいイメージがあったんだけど、わたしが泊まったホテルは今までのお金を払って食べた朝食バイキングと全然変わらないくらいの質だった。これには結構びっくり。まぁ、宿泊料金の中に朝食の代金が入ってるのかも知れないが、だからといって宿泊料金が他のところと比べて特別に高いってわけじゃなかったのよ。

そのホテルはフロントと同じ階に食堂があったんだけど、彼女と一緒に下に降りていったら、前日、わたしと同じく友人の婚姻届を見守ってた人がいたんでびっくり。「あ、同じホテルに泊まってたんですねー」って話をした。その人はもう既に朝食を食べたらしく「ここの朝食、おいしかったですよ」って教えてくれた。こういう偶然の再会みたいなの、わたしは好き。

ご飯を食べた後はしばらく部屋のベッドの上で寝てたが(疲れてるんだもん!)もうすぐチェックアウトぎりぎりの時間になるというので、ホテルをチェックアウト。友人のところに向かった。

友人のところでしばらくのんびりして、お昼近くになったのでお昼を食べに行こうってんで、なんかどっかのお店に行った。そこで確か、海鮮丼を食べたんだけど、これがすっごく美味しかった!わたし、普段は朝もお腹が空かないし、昼も動かないと全然お腹が空かないので、このときも実はあんまりお腹は空いてなかったんだけど、それでもあっという間に食べちゃった。海鮮丼を持ってくるときにお店の人が中に入ってる魚の名前を教えてくれたんだけど、地元名の魚が多くって、正直、何が何やら分からなかった。

ご飯を食べた後は「もう駅に行った方がいいよ」と言われたので、タクシーに乗って新青森駅に。車いすでなければ青森駅から電車に乗って新青森駅に行けたのだが、前日に青森駅の人に聞いたら「その乗り継ぎ時間では車いすだと難しい」って言われてたんだよね。確か、乗り継ぎ時間4分だったっけ、8分だったっけ。その1本前にするとものすごく前に青森を出なきゃならなかったので「タクシー使うかねえ?」って言ってたの。

札幌ドームの時もそうだったけど、電車で行けば数百円で済むのに、タクシーだと何千円もかかる(青森駅から新青森駅までは何千円もしないが)。車いすで移動っていうのは、つくづくお金がかかるもんなんだなと思った。

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青森駅と違って新青森駅は近代的だった。エレベータですぐに改札に行けて、そして改札で「車いすです」って言ったんだけど、なんと「ここの電車は全部バリアフリーだから自分で乗って下さい」って言われた。そんなこと言われたの初めて!一体、バリアフリーってどういうバリアフリーなん?って思ったけど、確かに段差はなかったが、列車とホームの間には溝があって、わたしは彼女を乗せた車いすが動かせなかったorz

どこがバリアフリーじゃヽ(`Д´)ノウワァァァン

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確か「はやぶさ」だったかな、新幹線。なんかやたら中がきれいだった。新車?って思ったけど、置いてあった公衆電話に「この電話は新札が使えます」って書いてあったので「新札??いつの話?」って思った。結局、新しかったんだか古かったんだかはよく分からない。。

でもここの車いす席はよかった。この旅行でいろんな車いす席に座ったんだけど、同行してるのに席が離れちゃう車両があって(車いすの人は隣の席がない)そういうのはつまんなかった。まぁ車両にはいろんな事情があるだろうけどね、、(新幹線みたいに3つの席が並んでるとは限らなくて、左右2席、2席しかないところがあるから)これができるのか可能かは分からないんだけど、彼女みたいに少しなら自力歩行できる人だったら、わざわざ車いす席を取らないで、車両の一番後ろの席を確保できれば、すき間に車いすを収納できて普通の席に座れるので、それがいいのかなって思った。

この日の青森は曇っていたが、東京に近づくにつれ雨が降ってきたり。わたしは東京から仙台までは新幹線で行ったことがあったのだが、この日ついに陸路での青森、東京間が繋がった。しかし、仙台の次が大宮って、、新横浜の次が名古屋みたいなもんか?

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というわけで、東京着。東京に着いたら雨がいっぱい降っててびっくりした。

東京駅ではホームでスロープを持った駅員さんが待っててくれた。やっぱりスロープは必要だと思った。

そこから乗り換えの電車のホームまで駅員さんが誘導して連れて行ってくれたのだが、東京駅はなんて複雑なの!!普段エレベータを意識してないからだと思うけど、あれは事前に分かってないとすごく迷うと思う。でも分かってないと、前にも書いたけど、途中でお店に入ってお土産や弁当は買えない。。駅員さんに誘導されるとどこにも寄れないのだ。東京駅って普段見ないお土産とか結構売ってるので、わたしは見て歩くのが好きなんだけどな~。弁当も最近、地方の弁当を売ってるので喜んで買ったりしてるんだけどな。まぁわたしの場合は今回だけだろうけど、ずっと車いす生活してる人はこういう場合はどう対応してるんだろう?

最寄りの駅に着いたらさらに雨が激しく降っていて、これは歩いて帰れないので(元々傘を持って行かなかった!)タクシーで帰ろうということになった。この旅行では本当にタクシーよく使ったな。

それにしても、この旅行では実に様々なことを経験できて、本当によかった。いろんなことを感じ、いろいろなことを思った。彼女ともたくさん話したし、いつもより身近に感じられて楽しかった。この旅行で思ったこと、感じたことを今後の自分の生活の中で生かしていきたいと思う。

天候に恵まれた旅行だったが、まさか帰ってきてから東京は丸一週間、雨が降り続けるとは全く思いもしなかった。。
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06-21,2014
北海道、青森旅行5日目(青森で同性の婚姻届提出を見守る)
今回「旅行しよう!」って決めたのは、青森に住む友人から「6月に役所に婚姻届を出そうと思ってるんだけど、元気だったら見守りに来て」と言われたのがきっかけだった。

わたしはいつか、青森に行きたいと思っていた。今回のことがなくても多分行ってたと思う。もっと後になっただろうけど。それは以前、この友人とは違う別の地方に住む人がtwitterで「東京の人は自分の地元に行きたい、行きたいって言うけどほとんど来ない。地方に住む人ばかりが東京に何度も行っている」と呟いているのを見たことがあったからだった。

地方に住んでて東京に友だちがいるけど、結局いつも会うのは東京でばかり、という経験はわたしもしてる(わたしの場合は東京に住んでたことも地方に住んでたこともあるから両方経験してるけど)。確かに東京の方が人がたくさんいるし、ものもイベントもたくさんあるから、イベントに行くついでに友だちに会って、なんてこともできる。できるんだけど、自分だけがいつもいつも東京に行くっていうのは、なんだかなーって思ってしまう気持ちもあるんだよね。だからその友人には「いつか青森に行くね」って言ってたんだけど、ちょうどいい機会だし行ってみようって思ったのだ。

ちなみにその友人と初めて会ったのは、いつ、どこでだったのかちっとも覚えてない(笑)ただ、わたしがこっちに戻ってきたのは2005年だし、その翌年から性的少数者などの集まりに行きだしたので、おそらく2006年か2007年から知り合いだったんじゃないかなと思う。今回友人と「初めて会ったのはいつだっけね」と話をしたんだけど、双方とも覚えてなかった。ただ、それからもつかず離れずでその友人とは「すっごく仲が良い」ってわけじゃないと思う。いつも偶然どこかで出会って、少し話してからまた離れる、って感じ?だけど、わたしはその友人をとても尊敬してるし、信頼もしている。

その友人はとても目線が低い人。生まれ育ってきた環境が全く違うのでそれは仕方がないことだと思うのだけれど、わたしはいつもその友人の目線の低さに脱帽する。わたしは同じものを見てもその目線にはなれない。まぁそれはそれで仕方がないことだと思うけど、でも、いつも言ってることを聞くと「ああ、すごいな」って思う。そこら辺はうまく言葉では言い表せないんだけど、自分には持っていないものを持っている人。だから尊敬している。

実はわたしがレインボー・アクションって団体で、2年前かな?ゆるカフェとかもカフェってのをやってみようかなって思い始めたときに相談したのが、その友人だった。こういうものをやってみようと思ってるんだけどどう思う?って。もちろんレインボー・アクション内で事前に話し合ってもいたけど、そことは関係ないところで誰かに相談したいと思って思い浮かんだのが、その友人だった。

まぁその友人とは、そういう関係。

さて、旅行5日目。まず、函館から青森に向かった。

実は青森に行くのはこれで2度目だったんだけど、そのときは船で行ったので(昨日書いた大学3年生の時の漁業実習で、小樽に上陸した後、太平洋側を通って晴海に帰ろうとしたところ、台風が来ているということで陸奥湾に停泊ということになり、そのついでだから青森に上陸しようということになった。で、余談だがちょうどその日は「ねぶた」の日で街中すごい人、すごい鈴の音だったのを記憶している)陸路を通って青森に行くのは初めてだった。

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確か「スーパー白鳥」って電車だと思うんだけど、これで青森まで2時間くらい?間、30分くらいは青函トンネルの中だったかな?青函トンネルに入る前にもいろんなトンネルをくぐるんだけど、丁寧に「次は第一○○トンネル」だとかの表示が出た。青函トンネルに入ってるときは「この上は海なんだ」って思うと結構怖かった(笑)「トンネルが水圧で潰れたら、一瞬のうちに死んでしまうんだろうな」とか思ってた(笑)でも、こうやってどこでも地下では地続きなんだよなって思ったら、とても不思議な気持ちがした。そして人間は普段は地球の表面で細々と暮らしてるんだよな~って思った。

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青森駅に着いたんだけど、青森駅って業務用エレベータしかないんだって。だから車いすとともにわたしも普段は一般人が通れないところを歩いたんだけど、これは貴重な経験でした。チラシとか駅舎を季節ごとに飾る物(造花とか)がたくさん置いてあった。すごい古びた感じのところだった。まぁ一般客用のエレベータが整備されないくらいのところなんだから、職員用の通路なんかにはお金はかけられないんだろうね。

駅を出て、取り敢えずホテルに荷物を置いて、それから昼ご飯を食べて、友人のところに行った。前回いつ会ったのか思い出せないほどで(笑)、でもまぁ変わってなかった。他の人もたくさん来てたんだけど、みんな知らない人ばかり。わたしはこういうとき、知らない人に話しかけるのが苦手なんだよね~。そして多分「話しかけづらそうなオーラ」を出してるんだろう、絶対に向こうからも話しかけてこないんだよね(爆)以前はそれでも無理矢理こちらから話しかけて知り合いになりたいって思ったりもしたんだけど、最近はまぁいいや別にって感じなので、ほとんど黙ってた。そのうち幾人かと知らないうちに話したりもしたんだけど、どこの誰かを全然聞かなかったので、今になっても誰なんだか分からない人が結構いたりする。まぁ縁があったらまたどこかで会えるやね。

なんとなく役所に行くのは15時って決めてたみたいなんだけど、でも結局それより早く役所にみんなで行ったみたい。友人のパートナーさんは「緊張する~」って言ってたけど、わたしにはあんまりピンと来てなくて。

そもそも友人が「同性同士で婚姻届を役所に出そうと思う」って聞いたとき、わたしは「うわー、すごいな」って思ったの。前々から「日本で同性同士で婚姻届を役所に提出した話を聞いたことがない。誰かやればいいのに」って話は聞いてたし、わたしらもしてた。誰も提出していないところで「日本では憲法24条に『両性の合意』って書いてあって、だから結婚は男女しか認められてない」って言われてたけど、でも誰も提出してないんだから、本当に受理されないのかは分かんなかった。今まで分からないところで議論してたわけだよね。もしかしたら受理されるかも知れなかったんだから。きっと今まで同性同士で婚姻届を役所に提出した人たちはいたのかも知れないが、でも、その話は一般に性的少数者の活動をしている人の間では聞こえてこなかったんだよね。

わたしらも「婚姻届出そうか」って話はしたことがある。けど、わたしはともかく、彼女の方はカミングアウトしてない親や身内がたくさんいる。もし婚姻届を役所に提出したとして、カミングアウトしてない親や身内の人が知ったらどうなるだろう、って考えるととてもじゃないが怖くてそんなことはできなかった。だから「もし、わたしらがうんと歳を取って80歳とか90歳になってもまだ日本で婚姻届が出されてない状況だったらそのときは出そう。80とか90になればもう怖いものなんかないもんね」って話をしていた。

だから今回、友人らが婚姻届を出すって聞いたときに「すごいな」って思ったのだ。きっとそこからすぐに「裁判だ!」って考える人もいるだろうし、それ以前に「婚姻届を出すとは、婚姻制度を強化する恐れがあって許せん」って考える人もいるだろう。婚姻届を出すってことは、そんなぐちゃぐちゃところに自分の身を置くということだ。それを考えると、とてもじゃないがわたしには怖くてそんなことはできない。それを敢えてやるということがどんなにすごいことなのか、いやおそらく友人たちは「すごいこと」とは考えてなくて、ただ「やってみなきゃ分からない。今後なんてどうなるか知らない」って思ったのかも知れない。婚姻制度の強化については確かにそれはそうなのだが、でも、だからといってわたしらに「権利がない」状況は事実なのだ。いや、「権利がない」状況はもしかしたら「そう言われている」だけで、婚姻届を提出したら受理されて得られる権利なのかも知れない。今まで誰もそれをやってこなかったので、そういうことすら分かっていないのだ。だから受理されなかったとしても、それは今後のための第一歩。何も、誰も分からなかったことからの一歩なのだ。

役所に着いて、まず整理券を取った。そこから番号を呼ばれるまで結構待った。わたしは遠くにいたので聞こえなかったのだけど、友人のパートナーさんが「婚姻届を出しに来た」って整理券配ってる人に言ったら「おめでとうございますって言われた」って言ってた。

青森市役所は寒くってね。なんかすっごく風の通りがよくて寒かった。だけど、地元の人はほとんど半袖を着てた。。わたしは上着をホテルに置いてきたことをとっても悔やんでいた。一応、長袖Tシャツだったんだけど、それ1枚だったから本当に寒くて寒くて。。

そしていよいよ番号が呼ばれて友人たち2人が役所の人に婚姻届を提出した。

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総勢10人ちょっとで行ったと思うんだけど、みんな二人の様子を見るわけでもなく、知り合い同士で話すわけでもなく、ただ、受付の前にずらっと置いてある長いすに座ったままずっと前を見ていた。わたしは長いすの最後列の後ろでずっと立ったんだけど。おそらくあそこにいた一般市民の人は、誰も今、婚姻届を出した2人を見届けているなんて思わなかっただろうなと思う。

わたしは婚姻届を提出した二人と役所の人の会話を聞いたわけじゃないし聞こえてきたわけじゃないので、ここからはわたしの見たままなんだけど、役所の係の人はまず、二人の話を聞いた後、一旦奥に行った。これはおそらく推測なのだが、係長クラスの人に聞きに行ったんじゃないかと思う。そしてその後長い間戻ってこなかった。これもおそらく推測なのだが、自分でいろいろ考えてたんだろうと思う(受理できないのであれば、法律の根拠が必要なので)。

その間わたしたちは上に書いたとおりずっと前を見ていたのだが、全然関係ない役所の人数人が書類棚の影からちらちらっとこちらの方を見た。それもちらっと見てはすぐに書類棚の影に隠れる。こちらを見て「一体、どういう人たちなんだろう?」って思っているような好奇の目。わたしはすごく嫌な気がした。しかも、後であのとき来てたみんなと話したら、全員がその視線に気が付いていた。あそこでは誰も何もしゃべってなかったのに、みんなチラチラ見られていたことに気付いていたのだ。役所の人は隠れながら見ているので気が付かれないと思ってそういうことをやったのだろうが、全くそんなことはなく、みんな気が付いていた。役所には実に様々な人が来ると思う。「何か訳ありげ」な人が来たら、役所の人(おそらくその中でも数人だと思うけれど)はそのたびにああやって書類棚の影からちらちらと見てるんだろうか、、あれは本当に止めて欲しいと思ったし、誰が来たってちらちらと向こうから見られる筋合いはない。本当に感じが悪かった。

わたしはずっと係長らしき人の姿を見ていた。係の人が相談に行って、何かあるなら係長自身も動くはずだと思ったからだ。しかしその人はずっと動かなかった。途中で電話したり(電話があったのか自分から電話したのかは分からない)してたけど、それが今回の婚姻届と関係あるとはあまり思えなかった。

正直、係の人が奥に引っ込んでからこんなに待たされるとは思ってもみなかった。婚姻届を提出した二人はずっと受付のところに座ったままだし、係の人はいつ帰ってくるかも分からない。「こんなに待たせるんだったら『時間がかかるので何分後に来て下さい』って言って解放してくれよ~」って思った。戸籍の届出の待ち人数も、まぁ1人か2人だったが少し増えてたし、友人たちがいるところ以外の受付は1つしかなく、他に待ってる人にとってはかなり時間を取られたんじゃないかなと思ったからだ。

そうこうしてるうちにやっと係の人が戻ってきた。分厚い黒い六法全書らしきものを持ってきた。そこで友人たちはいろいろと係の人とまたやりとりをしていた。聞くところによるとここで「両性の合意の両性というのは、一般に男女のことです」って言われたらしい。

あー、あれからしばらく経ってしまったんで、ここら辺の記憶は薄いな。長く説明されたのか、短かったのかはよく覚えてない。もしかしたら、ここで友人が泣いてしまって、役所の人が後ろに置いてあるティッシュを取って渡したかも知れない。わたしはそれを見ながら「なんでここにティッシュなんて置いてあるんだろ」って漠然と思ってた。友人がなんで泣いたかは後で聞いたんだけど、覚えてない(^^;確か、役場の人にちょっと無遠慮なことを言われてそれで泣いたって言ってたような、、

しかし、役所の人が手に取りやすい後ろの方にティッシュが置いてあったってことは、ここで戸籍届や戸籍の変更届を出す人は、何かいろいろ事情があって泣かれるのかなあって後で思った。婚姻届が受理されてうれし泣きをする人がいるのだろうか、誰かと縁を切ってうれし泣きをする人がいるんだろうか、子どもの出生届をして嬉しくて泣くのかなあ?誰かが亡くなって、抹消届を出すときに悲しくて泣くんだろうか。そう考えると、日本人の人生の節目には戸籍が付いてくるもんなんだよね。なんか複雑。わたしは基本的にこんなんで人間の関係性を縛られたくないと思う。「家族」ってだけで誰かの面倒を見なきゃいけなくて、「家族じゃない」ってことで誰かの死に目にも会えない。家族かどうかを判断されるのは、すべて戸籍にどう書いてあるかによる。今、もし彼女が倒れて意識不明になって面会謝絶になったとしたら、法律的に家族(というか親族)じゃないわたしは病院側に面会を断られる可能性が大きい。わたしと彼女の関係はそういう危険性を常に孕んでいるってことなのだ。そしてこれが「権利がない」ってことなのだ。

というわけで細かいところはよく覚えてないんだけど、覚えてるのは「あと1時間くらいしたらまた来て下さい」って言われたことだった。そのときの時間はもう16時頃で「え、役所って17時までなんじゃないの?」って聞いたら「ここは18時までやってるって言われた」って言われたことだった。1時間待たされる理由は「婚姻届を受理できないのだが、今まで婚姻届の不受理の証明をしたことがないので、それについて内部の者と検討する」って言われたり「不受理すること自体がまだ分からないので、その点を含めて内部の者と検討する」って言われたり、どっちがどうなんだかわたしにはよく分からなかった。なのでこの時点では「もしかすると受理される可能性もまだ残ってるのかもよ?」って言ったりしてた。もし受理されたとしたら、わたしも彼女とここで婚姻届を提出しちゃおうか、なんてことを勝手に思ってたりした。

1時間待たされるというので、見守っている人たちと友人ら全員がそこを立って、近くの喫茶店へ行って時間を潰した。話がついたら携帯に電話がかかってくるとのことだったが、1時間と10分経ったときに、役所の人から電話があった。なので、もう一回、役所に向かった。

17時過ぎた役所はもうあまり人がいなかった。特に戸籍の受付は待ってる人は誰もいなかったんじゃないかな?なので係の人にすぐに呼ばれて、そしていろいろ説明を受けているようだった。もう結論は出ているので早かった。結果は不受理。なので提出した婚姻届は返された。不受理証明が出るので、希望するなら出しますよってことで書類を書かされたんじゃないかな?聞くところによると、1通450円だとか。勝手に不受理しながら、不受理証明は金取りますよ、っていうのはなんとも納得がいかないところであるけれど、まぁ市長の公印ついてるから仕方がないんだろうなあ、、

しかし、不受理証明をもらうまでがまた、時間がかかってね~。結局不受理証明を受け取ったのは17時40分頃だったかな。不受理の理由は「憲法第24条第1項」だった。そして役所として、地方法制局(要するに国の機関)に問い合わせたとのことだった。地方法制局から本庁(法務省)に問い合わせたかどうかは知らない。問い合わせ内容も不受理理由はこれでいいのかを聞いたのか、それとも不受理証明の書き方を聞いたのかは知らない。

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日本国憲法第24条第1項を根拠とする不受理というのは、要するに「両性の合意」の「両性」というのは、男女に限るもの、と解釈されたようだった。

日本国憲法第24条
一 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

不受理されたって分かったときに、一番に思ったのは「ああ、わたしと彼女の関係は国では認められないってことなんだな」ってこと。もちろん国に認められるだけがすべてじゃないと思うよ。別に国のお墨付きをもらわなくたって、わたしと彼女は付き合って14年目になるんだから。一緒に暮らして8年経つんだから。けど、上にも書いたように「認められない」ってことは、権利がないってことなのだ。財産をもらう権利がない。配偶者控除がない。公営住宅にも入れない。死に目に会えないかも知れない。彼女が判断能力を失ったとき、自分がどんなに彼女のためになるようなことをしたいと思っても、法的には無関係なのでできない。世間が彼女を「パートナー」として認めてくれない。男女という組み合わせであったら、そこには愛情など何もなくても紙切れ一枚で婚姻が認められ、夫婦としての権利が与えられる。わたしらはどんなに相手を思いやってもそれが認められない。もちろん、愛情があることが何にも増して一番だとは思わないけどさ。でも同性同士の婚姻は、双方がどんなに望んだとしてもこの国では認められない。

それが、この日、正式に分かったことだった。

もちろんわたしはこの判断はおかしいと思っている。この憲法が制定された時点で、なぜ第24条に「両性の合意」という文字が入れられたかという経緯を考えると、それは決して「同性婚の禁止」を意味していたわけではないからだ(ここら辺のことは「新憲法の誕生 (中公文庫)」を読むといい。この本は、現在の日本国憲法がどのように誕生したのかが非常に詳しく書いてある。一部の人が言うように、日本国憲法はGHQの押しつけでたったの1週間でできた、なんてことは全くない。逆に日本人の政治家や官僚がいかにして自分たちにとって都合の悪いものを現憲法から排除しようとしてきたかがよく分かる本だ)。「両性の合意」という文言は一般に「家庭生活における個人の尊厳」そして「男女平等の観点」から入れられたと言われている。

戦前の明治憲法下では婚姻は家と家同士の結びつきだった。婚姻は両家の家長同士で決めることができ、そこに結婚する本人たちの意志はなくても婚姻させることができた。だから現在の憲法では「両性の合意のみに基づいて成立」、すなわち本人たちの意志、本人たちの合意がなければ婚姻することができない、とされた。わざわざ「両性」という文言になったのは、その当時、同性で婚姻するということは想定外であったからだと思う。想定外であることは、すなわち憲法制定時には同性婚という概念がなかった、ということは、この憲法は同性婚を禁じているわけではない、と解釈されるべきではないか。まぁこれはわたしの考えじゃなく、わたしが自分で考えたわけでもなく、一般に同性婚を認めてもいいと思っている人たちの考えだけどね。

それから一般的に法律のことを考えるときには「立法の主旨」を一番に考えないといけないよね。「立法の主旨」とは「なぜこのような法律が作られたのかを考えろ」という意味だけれど、これを考えることなく、ただ法律に書いてあることの文言だけで判断されることは許されない。でも、今回のこれは、どう考えても「立法の主旨」は考えられていない。ただ文言が「両性」になっているから、「両性」とは一般的に男女を差すから、ってことでしか判断していない。明らかにこれは間違った判断だとわたしは思う。憲法は改正せずとも憲法24条の立法の主旨を考えたとき、これは同性婚は禁止していない、むしろ個人の尊厳を尊重し、法の下の平等を尊重する現憲法の理念に即して考えると同性婚は現憲法の下で認められているものと思っている。

それにしても、、悔しいよね。わたしは本当に悔しかった。それに悲しかった。わたしたちの関係が国から認められない。国は認めてくれない。それが本当に悔しくて悲しかった。

まぁだからといって、わたしが婚姻制度を欲しているかというとこれはまた別の問題なのだけどね。これをいうと読んでる人の頭がぐじゃぐじゃになっちゃうかも知れないのだが、実はわたしは特に彼女と婚姻したいとは思っていない。特に現時点の婚姻制度の下ではね。それは「夫婦同姓」ってことが実は大きい。わたし、彼女の名字になりたいとか思ったことないし、彼女に自分の姓を名乗って欲しいなんてことも全く思ってない。わたしが狙っているのは同性同士の事実婚の関係だ(彼女はどう思ってるのかはわたしは知らない)。しかし、今は同性同士の婚姻が認められない以上、同性同士の事実婚という概念も有り得ない。事実婚は法律婚あってのものだからだ。だから、わたしは同性婚を求める。もちろん事実婚はイコール法律婚ではない。事実婚は遺産相続が認められてない。そういう点があるけれど、でも、わたしは今のところは事実婚がいい。ただ、中にはやっぱり「同性婚したい」って人ももちろん多いだろう。異性愛者は結婚するかしないか、法律婚するかしないかを選ぶことができる。でもわたしらにはその選択肢は全くない。その選択をしないまでも選べるか、選べないかということは全然違うことなのだ。だからわたしは同性婚を求める。

わたしの友人がこの不受理を受けて今後どうするかは知らない。友人たちのことだから、この辺はしっかりと自分たちの考えの元に進んでいくと思ってるし、その判断をどうしようとわたしは友人たちの考えを尊重する。

わたしは今では全くtwitterを見なくなってしまったので、今回、いろいろ反響があったらしいことは知っているが、具体的に誰が何をどう言ってるかは全く知らない。でもやっぱり、いろいろな反響があったらしいと聞くと今後、友人たちの知らないところで何かがあったり、何かを言われたりすることがあるんじゃないかと心配している。

不受理証明を受け取って、役所を後にした。

夜は、お店を貸し切って「残念会」をした。手巻き寿司やらホタテの焼いたのやらがたくさん出て、とっても美味しかった。この頃には誰かは全然分かんないけど、来てた人と話すようになって、いろんな話をした。

わたしはまた、青森に来たいと思った。今度はこんな特別な日じゃなくって、何でもない日に行きたいと思った。多分、絶対にまたここに来る。そう思った。

夜の10時過ぎにみんなと別れてホテルに帰った。
いい日じゃなかったけどいい日だった。

翌日はいよいよ帰京する日。
この旅の終わりの日。
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06-20,2014
北海道、青森旅行4日目(函館で百万ドルの夜景)
なんか旅行に出てから「車いすで外に出たことによる憤りの多さ」みたいなのが中心になってるなーって、今まで書いたのを読み返してみるとそう思うんだけど、実際、憤りを多く感じたのは確かです。彼女に腹を立てたのも事実。でも、それは瞬間湯沸かしみたいで、長続きしなかったんだよね。わたしの怒りって普通は一旦怒ってしまったらなかなか怒りがおさまらないで、数日続いてたのに。

これって案外怒りを数日続けると、とてもじゃないけど彼女の車いすを押すことができないって、頭のどこかで思ってたのかも知れない。怒りながら誰かの面倒をみるのは不可能だから。だから、わたしにしてみれば素晴らしく切り替えが早くなったんじゃないかってちょっと思ったりする。まぁ怒らないのが一番なんだろうけど、それは無理。

それに怒ってたばかりじゃなく、前にも書いたけど車いすを押しながらの方が彼女との会話がたくさんできて、今回は本当に今までのどの旅行よりも彼女とたくさん話した気がする。なのですっごい楽しかったのだ。まぁでもここにはそういう他愛ない彼女との会話は書いたりはしないからね、、(笑)

さて4日目。前の日も天気よかったけど、この日もよかった。

この日の午前中はホテルでのんびりし、10時半頃チェックアウト。そのまま歩いて札幌駅に出て、昼食の弁当などを買い、そして函館行きの電車に乗るために、改札前の待ち合わせ場所みたいな、長いすがずらっと並んでいるところで座って時間を潰していた。

すると彼女の方にいきなり駅員さんが声を掛けて来た。「函館にいらっしゃる方ですか?」って。まさにその通りだったんだけど、ちょっとびっくりした。わたしらだいたい20分くらい前に行けばいいかなって話してたのね。それより前にまさか向こうから声を掛けてくるなんて思ってもみなかった。

その駅員さんは親切に改札を通ってエレベータに案内してくれ、ホームまで連れて行ってくれた。駅員さんがいるとエレベータが非常に乗りやすい。他の乗客の人も「車いすの人がエレベータに乗ります」と言われると、先に乗せてくれるから。でも逆にね、いないと冷たいんだ。。もう何回も同じこと書いてるけどさ。「だから先導してくれる駅員さんが必要」なんじゃなくって、駅員さんがいなくてもエレベータに乗りやすい環境って作れないのかな。

駅員さんに先導してもらうのはとっても有難いのだが、これだと全く寄り道ができないのね。エレベータに乗る前にちょこっと売店に寄りたいと思っても(買うものが決まってるわけじゃなく、なんか面白そうなお土産物がないかな~とかちょっと見るだけ)、駅名の書かれた看板の写真が撮りたくても、駅員さんに先導されるとひたすらまっすぐに目的地(ホームや出口)に向かうだけ。わたしは個人的に

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こういう駅の看板(っていうのかな)を撮るのが好きなんだけど、駅に着いた途端、ホームで駅員さんが待ってて、そして出口に誘導してくれると、こういう看板の写真を撮るのが難しい。いや、歩いてる途中にちょっと見かけたら「ちょっと待って下さい」って言って撮れるのだけれど(実際そういうこともあった)、電車を降りてからすぐにエレベータがあったり、出口があったりすると、わざわざ逆行して看板のあるところまで行くのが難しいの。。いや、それはこっちが「駅の看板撮りたいんで」って言えばいいんだろうけどね。ただ、帰りに東京駅の地下で弁当買って帰りたかったんだけど、それはさすがに言えないなあと思ったよ。「弁当買ってくるまでここで待ってて下さい」とはねえ。だからといって、東京駅はとても複雑で、自分と彼女だけでは絶対に(乗り換えの)駅のホームまでたどり着けないと思った。

わたしら、普段何気なくどこでも好きに行けて好きなことをしてるけど、車いすで移動するとそれができないことが多々あるんだなあと思った。あ、でも駅によっては電車からスロープだけ用意してあとは勝手に行って下さい、ってところもあったし、「最後まで誘導しましょうか?」って聞いてくれる場合もあった。駅員さんが車いすを押してくれるところもあった。だからそれは駅によっても駅員さんによっても対応が違うんだろう。

まぁそんなこんなで電車に乗って出発。北海道の車窓を楽しんだ。天気がよかったので、本当にきれいな北海道の風景だった。ただ、地理にそんなに詳しいわけじゃないんで、どこを走ってるかはグーグルマップさんに教えてもらいました(笑)

洞爺湖辺りでわたしの頭の中に、あの例の「はーるばる来たぜ 函館へ~♪」って歌がグルグル流れ出し。おいおい、函館はまだまだじゃないかって思いと、なんてベタなんだろうってあきれる思いとでまたグルグルし。。そう、わたしの人生の中で初の函館訪問だったのだ。本当にはるばる函館に来ちゃったのだ。

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ちなみにここの駅はホームと通路と改札が全部バリアフリーなので、とても楽だったです。っていうか、こんなに楽なのに駅員さんが車いすを押してくれた。

しかし、函館は寒いのなんの!なんで札幌より南にあるのにこんなに寒いんだと思った。確かこれは白老に行ったときも感じて、、地形的な何かがあるのかも知れないけど、札幌が30度のとき、たった電車で1時間かそこらしか行ってないところ(白老)がその半分の15度だなんて、信じられなかった!でも、暑かったのは札幌のみで、実は次に行った青森も寒かったんでした、、ということは、札幌が例外なのか?

駅からすぐホテルにチェックインした。部屋に入って少し休んだり、夜は函館山からの夜景を観に行く予定にしてたんだけど、そこまでどこをどう行ったらいいかとかその他の見どころを彼女がホテルのフロントに聞きに行ったりした。ホテルの部屋もめっちゃ寒かったので、わたしはすぐに荷物から長袖Tシャツと上着を出し、それから部屋全体を暖めるために暖房を入れた。けどしばらく経ってもなかなか暖かい風が出てこなくて、、

まぁいいかと思い、結局、予定を立てたあとに外出したのだが。夜になってもまだ寒くて、でもエアコンからなかなか暖かい風が出てこなかったので、彼女がフロントに電話したら、なんと、もう中央操作でエアコンから暖かい風は出なくなってたんだってさ!「寒い寒い」って言いながら暖かい風が出るのを待ってたけど、結局それは冷房の風だったんだってさ!フロントの人に「外の方が暖かいと思いますよ」って言われたと彼女が言ってた。なんなんだよ、それは。。。

外に出る際にもあまりにも寒く、わたしは手袋をして車いすを押した。東京を出るときに「まさか、手袋まではいらないよね」と思いつつも、まぁ上着のポケットに入ってるから出すのが面倒でそのまま入れてきたんだけど、まさかそれが役に立つとは。。まぁしかし、手袋をして歩いてる人は他にだーれもいなかったのは事実だけどね。でもわたしはそれがあるおかげで随分助かった。

最終的には函館山に行こうと思ってたけど、途中にある教会とか寺院とかは坂がきつすぎて車いすでは無理でしょうってフロントの人に言われたので、それだったら海沿いの倉庫群の方を回ってみようってことになった。日没の30分後くらいの時間が美しいと言われたんで、その日の日没時間がだいたい19時だったかな。18時半目指して函館山のロープウエイに乗ろうってだいたい決めておいた。函館山のロープウエイについては、事前に車いすでも乗れることを確認していた。

倉庫群に行くまで、ずっと広い通りを車いすを押しながら歩いて行ったんだけど、朝に海産物を食べさせてくれるお店が多いのかしら?夕方通ったらもう全くお店は開いてなくて、朝の方が活気があるのかなあ~?だからなのか人通りもほとんどない。道を歩いてる人なんかいない。ただ、倉庫群に近づくにつれ観光客がいたような?彼らは一体どこから来たのかしら?歩いて移動してなかったのかしら。あ、街には至る所でタクシーが待ってた。道の角々というか、建物の出入り口ごとに何台ものタクシーが待ってた。なので実はとってもタクシーが捕まえられやすいところだったんだよね~。車いすの人にとってはこれはとても便利だった。乗りたいところで乗れるんだから。初乗りも札幌と比べると安かった。

倉庫群は海の近くで、海の近くにはこんな漁船が留まってた。

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この2つは角度を変えて撮った同じ船なんだけどね(笑)そう、イカ釣り船!集魚灯がたくさん並んでて、しかもイカ釣り機が両舷にずらっと。水大出身のわたしからすると、こういうのはもう見るの大好き!この船を見ながら操業しているところを思い浮かべる。これ全部にイカがかかってるところは壮大だろうな。ちなみにわたし自身、大学3年のときに学校の船(もちろん漁船。まぁ1,800トン以上ある漁船なんだけど)に乗って大和碓近辺(あくまでも近辺で大和碓じゃない)に行ってイカ釣り実習をしたことがある。大和碓近辺の深さ3,000m近いところでね。もう全くと言っていいほど釣れなかった(爆)むなしくイカ釣り機だけがぐるぐる回っててね。何分かに1回、イカが引っかかる程度しか釣れなかった。そういう思い出がわたしにはあります。

倉庫群に行って、倉庫の中に入ってどんなお店があるのか覗いてみたんだけど、わたしはあんまり興味は惹かれなかったなー。彼女は寒かったので靴下を買いました。でも買って正解だったみたい。このあとすっごく寒かったから。

時間もいい時間になってきたんで、タクシー拾って函館山のロープウエイ乗り場に行った。いやー、教会や寺院に行こうなんて思わなくて正解。めっちゃ急な坂の途中にあった。こんなんじゃとても車いすは押しては歩けない。雰囲気はとても異国情緒溢れるみたいなんだけど、、惜しかったな。また機会があって、彼女がそのときまでに歩けるようになってたら(歩けるようになってると思うけど)今度はこっちの方面に来たいと思った。

ロープウエイ乗り場は少しずつ人が多くなっているようだったけど、車いすで来たと言ったらすぐにエレベータのところに案内してくれたし、ゴンドラには優先して一番最初に乗せてくれた。おかげで一番いいところで外の景色を見ることができた。

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これがロープウエイで登っているときに見えた函館市街の景色。

頂上(っていうのかしら?)に着いたらね、展望台なんだけど、うわー、こんなに観光客がいたのかってほど人がいて、しかも夜景の景色のよさそうなところにずらっと人が貼り付いてた。で、展望台で一番高いところはそこからさらに階段を上らなきゃいけなくて、車いすでは行けなかったので彼女は車いすを降りて杖を付きながら上まで登っていったんだけど、これがすごく怖くてね。夜景のきれいな時刻になるにつれ、どんどん人で溢れかえってきて、なんか修学旅行で子どももいっぱい来てたし、階段から夜景がきれいに見えるもんで、階段に立つ人がたくさんいて登れるところがホント、人一人分くらいしか空いてなくて、しかもどんどん暗くなってくるもんだから怖くてね。彼女に付いて歩こうにもスペースがないもんだから結局、わたしは一人で先に行くことになってしまった。

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これが日が沈むところ。夜景がきれいな函館市街地とは逆の方向。こっちの方は割と人が少なかったんだよね。

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これが「百万ドルの夜景」と言われる函館市街地の夜景。確かにきれいだった。風がすごく強くて寒かったけどね。で、夜景ってそんなに長時間見るものではないから人がコロコロ変わっていくんだけど、スペース的にも車いすの人は到底入って行けないような雰囲気だったし、一体車いすでないと移動できない人はどうやってこの景色を見るんだろうって思った。そう思ったらね、やっぱり今の時間は無理なんじゃないかと。おそらくこの時間が一番人が来る時間だと思う。日が段々暮れて景色が変わるとき。徐々に暗くなっていく風景を一番見たいと思うだろうと思った。だって現にわたしらだってだからこの時間に来たんだから。

けどね、わたしらがそう考えたのは「何も障害がない前提」で物事を考えちゃったからなんだよね。前日の札幌の地下道や札幌ドームへ行く道もそうだったけど、わたしは車いすで街を移動したことがなかったから「フツーの感覚」と同じ感覚で街を歩こうとした。でも、そこは車いすにとってはとっても不便な街だった。おそらくこのままずっと車いす生活や車いすを押す人の生活を続けなきゃならないんだったら「車いすで街に出るのはこんなに不便だったんだ。じゃあもう街に行くのはよそう」って思ったと思う。だって普通に出かけるのよりも数倍疲れるんだもの。体力的なものだけじゃなくて精神的に疲れるんだもの。

だからきっと、この夜景を見るのもね、こんなに人がめちゃくちゃ多い時間じゃなくってもっと前後にずらすと思うの。夜景じゃなくて昼間の風景とか、もっと夜遅い時間とか。そうしたら人が減ってて車いすでも見やすくなるだろう。

けどさぁ。だったら車いすの人間は一番きれいな風景を観られないっていうわけ?

正直、わたしはどうすればいいのか分かんないのよ。人の群がるところで、一番前のスペースを確保しようと思ったら、健常者だって努力しなきゃならない。っていうか、あの場でわたしは「健常者の怖さ」を目の当たりにしたの。今まで他のどの場所だって「車いす」を見たら人は道を譲ってくれた(エレベータは除くけど)。でもそれは健常者に余裕があるときであって、こういう場所みたいな「早い者勝ち」な場所だと自分のことしか考えなくなるので、誰も譲ってはくれないし、身体が不自由なことも考慮してくれないので怖い。でもだからといって「譲ってくれ」「配慮してくれ」とは言えない。言いづらい。だってみんな余裕がないのだもの。

これと似たような状況がラッシュアワーの電車に座りたい人じゃないかなってちょっと思った。始発駅の電車に乗るときなんだけど、扉が開いた途端、みんな一斉に座席に向かう。みんな座りたいので殺気立ってるよね。あの場で「自分は今日はしんどいから席を譲ってくれ」とは言えない。逆に座れたときは誰にも席を譲りたくないって思うから。座れたことでホッとして「今日は座れてよかった」と思う自分がいるから。

でも一方、身体が不自由な人はこの時間を避けて電車に乗れというの?好きな時間に電車に乗れないなんて理不尽じゃないか。そうも思う。

譲りたくない人の気持ちも分かるし、でもそういう健常者に配慮して生きざるを得ない障害者の状況は心が痛む。わたしはこれまで散々「道を譲れ!」「エレベータに乗る車いすの人のことを配慮しろ!」って今まで言ってきたけど、でもこのような状況はどうすればいいのか。わたしは自分自身疲れているときにやっと座れた席を誰かに譲ろうとは思わない、いや、思えない。常に誰かに席を譲りたいなんて優しい心は持ってない。だからこの問題は正直なところ、今の自分にはどうすればいいのか分からない。

けどその分、車いすや身体の不自由な人はきっとどんどん街に出づらくなってる。「ちょっとでも人がいないところに」「ちょっとでも人がいない時間に」って思ってたら、どんどん外には出られなくなる。「あーまた外に出ると気を遣うのか」って思ったら外に行きたくなくなる。わたしも普段なら人がいる、いないとか、街が歩きやすいかそうでないか、そんなこと今まで全く考えたことがなかったけれど、そういうのを常に考えて行動している人たちがいるんだろうな、そして自分もそういう立場に置かれたらだんだんと行動範囲が狭くなっていくんだろうなって思った。

帰りのロープウエイは待っている人がものすごくたくさんいてどうなるのかと思ったんだけど、結局は「車いすです」って言ったら待たずに乗せてくれた。ただ帰りはゴンドラに一番先には乗せてはくれず、一般客と一緒に中に入ったんだけど、これまた夜景がきれいな場所を確保したい一般客が我先に入っていったんで怖くてね。健常者の怖さというのをつくづく感じたよ。

確かに行きも帰りもほとんど待たずにロープウエイに乗れて、特に帰りはおそらく車いすじゃなかったら2~30分以上は待ってただろうから、配慮されてよかったといえばよかったとは思うけど。でもさ、本音を言えばこの程度で配慮されてよかったとはちっとも思わなかったの。トータルで見れば、やっぱり車いすは割が合わない。体力も精神力も健常者より遣って、それでもやっぱり同じにはなれない。それって「当たり前じゃん」って思われるかも知れないけど、果たして同じじゃないことが当たり前でいいことなんだろうか。

そんなこんなで4日目も終わった。疲れていたので夜は一瞬の間に寝てしまった。

5日目に続く。。
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06-15,2014
北海道、青森旅行3日目(札幌ドームでカープ観戦)
3日目。

この旅行を決めたとき、まず考えたのが「もしかしたら交流戦の時期じゃない?」ってことだった。わたしの頭の中ではかなり高い割合で「野球」が来る。シーズン中はそんなに観に行くわけじゃないけど、やっぱり何かあったときは、まず野球。ってことで、日程を調べたら、札幌行ってる間にちょうどカープの試合があるじゃん!「なんてラッキー!」と思い、チケット開始日に内野指定席を予約した。

しかし、その後に彼女が骨折してしまった。旅行は車いすで行くしかない。球場は?普通の席には座れない(席にたどり着くまで、階段がたくさんあるから)。どうしよう、、と思ったが、事情が事情だし、取り敢えず日ハム球団に電話して、指定席を車いす席に替えてもらえないか相談した(野球観戦自体を中止にする考えはこれっぽっちもなかった)。球団に電話したら「チケットのキャンセルはできません」と言われた。が「事情がありますし、内部でちょっと話し合ってみます」とそのあと言われた。一旦電話を切ったあと、しばらくして向こうから電話がかかってきた。「事情が事情なのでキャンセルできます。手続きして下さい」って。車いす席は球団が取り扱ってないみたいだ(ローソンチケットのみだったかな)。なので「今までの指定席を車いす席に振り替えることはこちらではできないので、こちらではキャンセルし、ローソンで車いす席を取り直して下さい。しかし、車いす席も残席わずかなので、こちらの指定席をキャンセルする前に車いす席を取りに行って、車いす席が取れたらこちらをキャンセルして下さい」と言われた。そのとき「いや、でも車いす席が取れなかったからといって、指定席に座れるわけじゃないんだよ~」と思ったが、別にここでそういうことを言っても仕方がないので黙ってた。

そして球団から言われたとおり、先にローソンで車いす席を予約した。それから指定席のキャンセル手続きをした。でもね、球団の人はとっても親切だったよ。その後に手続き方法を書いたメールが球団から来たんだけど、そこにはわざわざ「お大事になさってください」って書いてあったし。だからそのあとの続きに「今後とも、ファイターズへ熱いご声援を賜りますよう、何卒よろしくお願いいたします」って書いてあったのを読んだときは、思わず「カープファンでごめんなさい」って思っちゃった(笑)

ただね、車いす席ってどうも3塁側しかないみたい?(日ハムは3塁側がホーム側)車いす席自体は、1塁側、3塁側って分かれたチケットは販売してないです。チケット取ってみたら「3塁側」って書いてあって「あれ?」って思ったんだけど。。しかも車いす席は安いと思う。1枚1,500円だった。だからなのか、2人で来てて、2人とも車いすじゃない人がいた(大半は車いすの人か、車いすと付き添いの人だったけど)。

まぁこういうことが旅行に行く前にあったのだが。

旅行3日目ともなると、疲れがだいぶたまってきているのが分かった。特に足の裏が痛くてね。立っているのと押して歩くのが苦痛で。この日は夕方から野球がある以外はフリー。取り敢えず札幌駅目指して歩きましょうってことになったのだが。。ちなみにホテルは大通公園近くのホテルだったので、札幌駅までは結構距離があったんだよね。急ぐときはタクシーで行き来してたけど、この日は時間が豊富にあったので、歩いて行ってみようってことになったのだ。

しかしこの日の札幌は最高気温が30度越すってことで、本当に暑い!ちょっと車いすを押して歩いただけで首筋を汗が流れる。なので、大通公園から地下に入ることにした。ここからずっと札幌駅まで地下を通っていけるのだ。大通公園から地下に入るエレベーターはすぐに見つかって、地下道に行けたのだけど、車いすを押しながら気になったのは「車いす用の出口の少なさ」(要するにエレベーターの少なさ)だった。歩行者用の出入り口はそこここにあるのに全部階段のみ。「ここで災害が起こったら、わたしはどうやって外に出たらいいんだろう?」って何度も思った。

とにかく疲れがたまっていた。途端に不機嫌になる。「なんでわたしが車いすを押して歩かなきゃならないの?」「車いす押して歩くと人に気を遣ったり、道路の状態(段差とか)に気を遣ったり、もう体力だけじゃなく精神力も疲れてるのになんでこんなことしなきゃならないの?」。「なんで彼女が骨折して、わたしがこんな大変な目に遭わなきゃいけないんだよ」って思いが自分の中でどんどん膨らんできて。。結果、それは彼女に当たることになるのだった。。といっても当たっても仕方がないことは頭では分かってるんだけど、疲れてると自分の感情って本当にコントロールしにくいのね。まあその閾値が低いのは、相手が彼女だからなんだけど。。

札幌駅で昼ご飯を食べること以外、何も決めてなかったが、札幌駅に着く前に本屋があったので少し寄ってみたら、そう言えば前日行ったアイヌ民俗博物館のことを思い出し「北海道にならもしかしたらアイヌの本のコーナーがあるかも」と思って探してみた。が、そこはそう広くもない一般的な本屋さんだったので、そういや紀伊國屋書店とか大型の本屋さんがないかなと思って調べてみたら、札幌駅の近くに紀伊國屋書店があるって分かったので、そこに行った。

1階にはなさそうなので、2階かなと思ったのだが、エスカレータは目の前にあるのに、エレベータは見たところない。わたしがあまりにも機嫌が悪かったからか、彼女は「ろんたこはエスカレータに乗って2階に行って。わたしは自分で探して行くから」と言われ、わたしは言われたとおりにした。あとで彼女に聞いて分かったんだけど、紀伊國屋、1階のエレベータは一旦、店の外に出ないとダメなのね。2階は店の中なのに。もともと全く知らないところなのに、いきなり車いすで出かけるというのは、もしかしたらとても無謀なことをしているのかも知れない、と段々思い始めてきた。

結局、紀伊國屋では「アイヌの歴史――日本の先住民族を理解するための160話」って本と「アイヌ差別問題読本―シサムになるために (プロブレムQ&A)」って本、2冊を買った。ちょうどその前日「和人と交流する前のアイヌの歴史ってどうなってるんだろう?」って疑問に思ったので「アイヌの歴史」って本はタイミングが良かった。しかもこの本は5月末に発売されたばかりの本のようだ。あと差別についても知りたかったので「アイヌ差別問題読本」を買った。その他にもたくさんアイヌに関する本はあったんだけど、どれも割と高かった(「アイヌの歴史」も税込みで3,000円以上する)。

いろいろな本をパラパラめくってるときに、なんか「アイヌの真実」みたいな本があったので、なんの気なしに手にとって読んでみた。そしたら「アイヌの歴史のこれは嘘」みたいなことが書いてあったので「なんだこれは?」って思ったのだが、アイヌの歴史については全く知らないので、それが本当なのか嘘なのか分からないのでなんとも言いようがないなあと思ってたら、次に「和人によって差別されていたのは嘘」って書いてあって、その証拠に「差別しなかった和人も中にはいた」みたいなことが書かれてたので「ああ、要するに『関東大震災の時に朝鮮人を助けた日本人についてどう思いますか』って在日の人に聞いて『朝鮮人差別はなかった』って言わせたい人と同じなんだな」って思った。これ、本当に聞かれるんだよ。わたし、前にmixiで在日コミュに入ってたことがあったんだけど、本当にこんなことを聞く人がいてびっくりした。助けた人は誰の誰べえさんって名前がはっきりしてるみたいなんだけど、逆に名前が伝わってるってことは、すごく珍しかったってことじゃん?みんなが差別している中で、差別しなかったから名前とか記録が残ってるんだよ。差別してた人の名前が残ってないのは、差別していた人が大多数だからじゃん。

それに「差別はなかった」って人がいつも使うのは「差別してなかった人たち」でしょ?今で言うと例えばヘイトスピーチに対してカウンターを行っている人たちのことだ。もっとずっと将来に今の時代のことを「ヘイトスピーチをしていた人に対して、カウンターを行っている人たちもいた。だから差別はなかった」って言うの?それはすごくおかしいことじゃない?それに、その時代、差別をしてなかった誰の誰べえさんは、今現在「差別がなかった証拠」として差別主義者に名前を挙げられてるのはとっても不本意だと思うんだよねえ。。

ってことで、どこの分野でも同じような人がいるんだなあと思ったのだった。

紀伊國屋をあとにして、ご飯食べたりいろんなことをして、さて、いい時間になったので札幌ドームに行きますかって地下鉄の事務室に「福住駅に行きたいんですけど」って駅員さんに声を掛けたときだった。彼女が「あっ、しまった!!!チケット、ホテルに置いてきた!!!」って言い出した。そこでわたしが爆発。だってこれからホテルに戻ってまたさらに駅に行って札幌ドーム?

わたしさぁ。前の晩、彼女が「じゃあ明日は朝ゆっくりして、適当なところでホテルを出て、それから直接ドームに行こう」って行ったときから何回か「チケット、忘れてないよね?」って聞こうかなって思ってたんだよね。でもまぁ自分から言ってることだし、まさか忘れないよねと思ってその都度言葉を飲み込んでたんだけど。。ああ、やっぱり聞いておけばよかった、なんであのとき聞いておかなかったのか、聞いていればこんな目に遭わなかったのにと思って自分で自分が腹立たしく、その腹立たしいのを全部彼女にぶつけてしまった。

駅員さんには福住駅ではなく、大通駅までってことで急遽、行き先を変えてもらって地下鉄に乗ったのだが、札幌の地下鉄って、車いすが通れる幅の改札って本当にエレベータの近くにしかないのね!?適当なところで入ろうとしたら自動改札のところで車いすがはまっちゃって、結局、彼女には数歩歩いてもらって、車いすは折りたたんで通ったり、本当に踏んだり蹴ったりだった。もう腹が立って腹が立って。。車いすで自由に通れない地下鉄のシステムに腹が立って、初めて通るところだからエレベータもどこにあるか全く分からない、探すのに手間がかかって腹が立って、歩ける人よりもさらに遠回りすることにも腹が立って、そしてチケットを忘れてきた彼女にも腹が立って、チケットの確認をしなかった自分にも腹が立って。車いすを押しながら彼女をガンガン責めたりした。他に人が乗ってるエレベータの中でも怒りまくっていたので、周りがシーンとしちゃったりして、、

あのさー、わたしは東京の新宿の地下道や地下鉄がどうなってるとか、車いすで行ったことがないので分からないんだけど、札幌の地下鉄ってエレベータだけで外に出ようとするとすっごく大変なのだ。地下2階とか地下1階があって、地下1階でわざわざエレベータを乗り換えないと地上に出られないようになってたりするらしいのだ。エレベータにはちゃんと「EV地上乗り換え」って表示があったんだけど、それを見てわたしがその階を押して降りようとしたら、一緒に乗ってた人が「その上でも地上に出られますよ」って言ったもんで、それを信用して上まで行ったら、そこからはなんと階段しかなくって、車いすでは上がれない。「いい加減なこと言うな!!!」って本当にキレそうだった(ってキレたけど、彼女に)。

本当に、初めて行くところで何も下調べをせずに行くとこんな目に遭うんだと思った。けど、逆にこれって、いかに車いすのことを考えて地下鉄が設計されてないってことだよね?地下鉄だけじゃなく、ふらっと入れるお店もそうだ。わたし今回、札幌ラーメンを食べることを楽しみにしてた。けど、わざわざ行ったとしても車いすで入れるかどうか分からない。ラーメン屋といえば、人気店は人がずらっと店の前に並んでいたりする。その中で車いすだとどうなのか。お店だってバリアフリーとは限らない。ラーメン屋は店内がめちゃくちゃ狭いところもある。わたしはもうこれ以上、人に気を遣うのは嫌だった。ただでさえ道を通るだけでも相当気を遣って押して歩いているのに。なので今回はほとんどラーメンは食べなかった。きっと車いすの人はこうやってどんどん外に出ていきたくなくなるんだろうって思った。

ホテルでチケットを取ってきて、それからまた大通公園に向かう。ホテルの人から「ここら辺の近くではあのビルにエレベータがあって、そこから地下に行けます」と言われていたので、そのビルから行こうとしたが、なんとそこもエレベータで降りたあと、なぜかエスカレータで上がって地下に行くようになってた!なんのためのエレベータなんだか??仕方なく、彼女は立ってエスカレータに乗ってもらい、わたしは車いすを折りたたんでエスカレータに乗った。「もういやだ!!!!」って何度も思った。。確かに「車いすの人は係員を呼んで下さい」ってインターホンがあったりしたが、このためにわざわざ人に来てもらうって、そんな時間の余裕はなかったし、それにあれはとても心理的な負担が大きい。。1歩も歩けない人だったら呼ばないと無理だが、、

ようやく乗れた福住行きの地下鉄は、もうその日のカープ戦を観に行く人でいっぱいだった。そのときようやく気が付いた。「帰りはもっと混む」ことに。。試合終了後の電車がどんなに混むかは、今までの観戦経験からよく知っている。あの中を車いすで行くなんて、想像するだけで絶対に無理だ。そこでわたしは彼女に「帰りはタクシーにしよう」って言った。あ、タクシーを使うことは、彼女からホテルを出る際に「そんなに大変だったらタクシーで行こう」って言われてて、でもそのときは「タクシーはもったいないからやだ」って言ってたんだよね。だって、地下鉄だったら一人、240円で行けるけど、タクシーだと何千円ってかかるんだよ、、わたし本当は行きも帰りも地下鉄のつもりだった。けど、帰りは物理的に無理だと判断した。。

話は前後するが、前日、白老駅でこんなポスターを見た。

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そのときは「ふふん、受けて立つ!!」って思ってた。その前の試合、カープは勝ってたからね。で、わたしはさりげなく(?)、こんなTシャツを着て行ってた。

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2年前だったか、カープと赤い羽根の共同募金がコラボしたTシャツ。カープ坊やが赤い羽根に乗っている絵だ。

福住駅から札幌ドームまでは遠いと聞いてたんで(一回行ったことあるんだけどすっかり忘れてた)、だいぶ覚悟してたら、そんなに遠くは感じなかった。ただしここでも「エレベータはどこ?」って係員の人に聞いたりした。「この先ももう一つ階段がありますが、その横をずっと行くとエレベータがありますのでそれに乗って上に行って下さい」って係員の人に言われた。一つ目のエレベータは割と目に付くところにあったので、地元の人はよく知っているからか、車いすじゃない人がたくさん乗っていた。ところが二つ目のエレベータはかなり奥まったところにあって、そこまで行ってエレベータに乗ろうという車いすじゃない人は1組の夫婦(らしき人たち)しかいなかった。要するにそれ以外の人は「そこまで行ってまではエレベータを必要としない」人たちだったのだ。

まぁね、エレベータを必要とするかしないかを車いすかそうじゃないかで分けることはとても危険なことだと思っている。電車に座りたい人が必ずしも老人や身障者じゃないみたいに、目に見えない障害を持っていたり、わたしみたいにその日はとても疲れてて「どうしても座りたい」って思うように「ちょっとエレベータに乗りたい」って思う人もいるだろう。だから車いすを使ってない人がエレベータに乗ってたからといってそれは必ずしも非難されるべきことじゃないと思う。けどさ、やっぱり一方で便利なところにあるエレベータは使って、そうじゃないところのエレベータは使わずに階段でってなるなら、エレベータを使うしか選択の余地がない人のために空けてよって思っちゃいけないだろうか?

今回の旅行で思ったのは、使いやすいところにあるエレベータほど人がたくさん乗っていて、車いすの人は使いにくいってことだった。使いにくいところにあるエレベータは人は使ってない。けど「なんでわたし、こんなに回り道しなきゃいけないんだろう」って何度も思った。。うん、エレベータを使うことは問題ないことかも知れない。けど、車いすに乗っている人がいたら、その人を優先してあげようよ、、本当にね、「どうぞ」って降りる人、一人もいなかったの。みんな素知らぬ顔をして「車いすの人は乗れませんよ」オーラを醸し出してるの。だから、わたしは今後はエレベータは極力乗らない、乗ってたとしても、車いすの人が待っているときは率先して降りようって思ってる。何回やり過ごしても上から(下から)大量の人が乗ってきて途中からは乗れないってことが本当にあるんだよね。

ま、そういうわけでドームに着いて、座席を探したらこんなところだった。

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車いすの人はそのまま車いすで観戦、付き添いの人はパイプ椅子を持ってきて座るというものだった。確かにいつも観戦するような内野席よりは目の位置が高くて、選手はちょっと遠かったけど、その分、外野が広く見渡せて、外野の守備がよく見られたのでよかったかな。あと、座席の幅が普通の席よりもだいぶ広かったので足が十分伸ばせてよかった(笑)

カープファンは結構来てて、外野席の一角は赤く染まっていた。

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ただ、それ以外は全部日ハムファンだった。当たり前と言っては当たり前なのだが、関東のセ・リーグの試合って球場の半分くらいカープファンなので、実はあまりビジターって感じはしないんだよね。東京ドームはそうでもないと思うけど、わたし、基本的に東京ドームは行かないし。なので久々に「敵地で闘う!」みたいな感じだった。

試合が始まって早々に先発の篠田が自ら2点タイムリーを挙げて「おお!」と思ったのもつかの間。3回にすぐ同点に追いつかれたと思ったら、その後中田に3ランくらってあっという間に5ー2と逆転された。そこからもカープは日ハムの投手があんまりよくなくて散々出塁するんだけど、全く点には結びつかず。逆に日ハムはランナーを出すと必ずホームに戻ってくる。ってことでじゃんじゃん点を入れられ、結局10-2で負けたのだった。。(そして余談ではあるが、この日からカープはなんと9連敗!やっと今日、6/1以来の2勝目で連敗脱出した)

わたし、この試合観ながらね、「圧倒的多数の応援の中で負けてるチームを応援してるときの気持ちって、なんかマイノリティの気持ちと似てるな」って思ったの。圧倒的多数の勝ってるチームの応援者に「なんだ、弱いなこのチームは」って言われたときの気持ち。あ、もちろんこんなこと言われてないけどね(笑)でも「弱いな」って言われて言い返せない惨めな気持ちと、誰かに「同性愛者気持ち悪い」って言われたときの気持ちってちょっと似てるんじゃないだろうか。もちろん同性愛者であることの負い目なんかないけど、でもどこかで圧倒的多数の社会に対してビクビクしてしまう気持ちは持ってるんだよ、わたし。

テレビなら負けた途端に「相手のヒーローインタビューなんか見れるか、ケッ!」てなもんで、即座に消してしまうんだけど、まぁ滅多に札幌ドームなんか来られないからねってことで、最後の最後まで観てた。そしたらね、ヒーローインタビューが終わったあとに

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球場を暗くして、こんな花火が上がった。日ハムは、ホームで試合に勝ったら必ずこれをやってるのかしら?

というわけで、札幌の最後の晩は終わった。

4日目に続く。。
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06-09,2014
北海道、青森旅行2日目(アイヌ民俗博物館)
2日目。

この日は白老町にあるアイヌ民俗博物館に行った。

わたし、北海道には何回も行ったことがあるけれど、それまでアイヌの人たちを意識したのはこのときの1回くらいしかなく。それ以降も何をどう知ったらいいのか分からなくて、気にはなってたんだけど、そのまま放置していた。

ところがね。つい最近「なぜ、いまヘイトスピーチなのか」って本を読んだら、その中の1章がまるまるアイヌについて書かれたものだったのね。アイヌの人たちの権利を明治政府がどのようにして奪っていったのか、政策を中心にして書かれた章だった。それを読んでさ、わたし「うわ、こんな歴史わたし全然知らんじゃん」って。アイヌの人たちに対して差別や偏見があるというのは知っていたけれど、こういう風にして一民族が滅ぼされていった、ということについては全く勉強不足だった(旧土人法くらいは知ってたけど)。んーでもね、そういうものがどういう本に書いてあるのか、どういう本を探せば自分の知りたいことが書いてあるのかがよく分からなかったんだよね。

実はこの本を読む前から「今回はアイヌ民俗博物館に行こう」って思ってた。友人と話してて「北海道に行くんだよね~。んで、1日丸まま空いてる日があるんだけど、どこに行こうかなって思ってるんだ」って言ったら「こういうのがありますよ」って教えてくれたの。そのときに行こうと決めてたんだけど、本当にタイミングがよくこの本を読んだ。この本を読んで「絶対に行かなければ」って思ったから。

んで、事前に白老までどうやっていくのか時間などを調べたんだけど、札幌から速い電車で行こうとすると午後になっちゃうんだよね。わたしは事前にアイヌ民俗博物館のウェブサイトを調べて、そこでお昼ご飯を食べたいと思ったので、苫小牧まで速い電車で、そこから30分待ち合わせして普通電車で行くルートを考えた。それだと午前10時台に白老駅に着くことが出来る。行きの電車は前日、札幌駅に着いたときに買って、そのとき車いすであることも同時に告げたんだけど(ただ、買うのにめっちゃ時間がかかった。1時間以上窓口で待たされた)、帰りの電車の切符を買うのをすっかり忘れてて、行きの苫小牧で待ってた30分の間に買った。

特急に乗ってるときは気が付かなかったんだけど、苫小牧からの普通電車に乗ってたら「そういや無人駅ではどうやって車いすで乗り降りするんだろう?」って気が付いた。旧国鉄の駅って、その当時から確か半分くらいが無人駅じゃなかったっけ?わたしは普段「駅には人がいるもの」って思って、それが当たり前の感覚なんだけど、実はそうじゃない駅が多数あるわけなんだよね。そのことに初めて気が付いた。

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白老駅では駅員さんがスロープを持って待っててくれた。その駅員さんに「帰りの電車は○時○分ので帰りますので、よろしくお願いします」って告げたら「その時間、白老駅は1人しかいないので介助できません」と言われた。そのとき「あ、そうなのか」って思った。自分でやるしかないんだなって。今の彼女は自力歩行は杖を伴ってはあるが、一応可能だ。だから電車には彼女は自分で杖を付いて歩いてもらって乗り、わたしは車いすを抱えて入ればいい。だけどそれが可能じゃない人は電車に乗せるのはかなり大変だよなあって。かなり大変どころか、車いすごと持ち上げて乗せるには数人いないと無理だ。まぁ田舎に住んでいる車いす生活の人って自分で車移動してて、電車なんかにはほとんど乗らないんだろうけどね。でも、車いすの人には「電車に乗る」という選択肢が一つ消えるのは確かだよね。そのような選択肢を消してしまっていいのだろうか、、と思った。ただ選択肢を消さないためには人員確保が必要で、そのためには費用がもちろんかかる。都会なら「頑強な男数人でなんとかしてやれよ」って思うけど、田舎の電車に乗っている人は人数も少ないからほとんどそれは期待できない(だろうと思う)。うーん、難しい。だからといってわたしは車いすの人の選択肢が狭められて当然とはまったく思わないんだけどなあ。ただこの旅行では、車いすで外に出ることはとても不便、ってことが本当に身に染みた。これはまだ始まり。

白老駅に着いた途端。「さむっ!」って思った。6月2日は札幌では最高気温が30度を超えると言われてて、実際、朝ホテルを出たときも全く寒くなかったんだよね。なので上着を持ってきてはいたんだけど「ま、いらないね」と言ってホテルに置いてきてしまったのだ。天気アプリで白老町の最高気温を見てみたら、15度くらいだった。「札幌の半分!」ってびっくりした。だって札幌より南にあるし、札幌から電車で1時間くらいのところだし、札幌とそんなに大差ないと思い込んでた。上着を持って来なかったことに対して、その日1日中後悔しました。。車いす押してるときは汗をかくほどだったんだけど、押さないと寒くてね。ただ、天気はすごくよかった。画像を見れば分かると思うけど、雲一つない晴天でした。空気が(寒かったけど)気持ちよくて、「ああ、北海道!」って感じがした。

白老駅からアイヌ民俗博物館まで、1kmほどあるっていうので、最初はタクシーで行こうかって話してたんだけど、白老駅で待っているタクシーなど1台もなく。まぁ別に歩いて行けばいいよねってことで、車いす押しながら向かった。少し寒かったけど、でも道は広かったし(少しボコボコしてて押しづらかったけど)景色は綺麗だし、とっても気持ちがよかった!近くには自然保養林などがあるらしく、車いすでなければちょっと行ってみたかったなって思った(また来ればいいんだけど)。

しかしそこで車いすを押していると、今まで思ったことがなかったようなことがふと、頭の中に思い浮かんだ。

クララの車いすを押して歩くハイジの姿とわたしが重なったのだ。

最初は「え?なんで突然、アルプスの少女ハイジが??」って思ったけど、どうやら北海道の自然とアルプスの自然が自分の中で結びついちゃったようで。思わず

なんて発想が貧困なんだ。。。

と苦笑した。しかもそのあとで、わたしの頭に思い浮かんだのは「北の国から」のさだまさしのあの音楽!ここでも

なんて発想が貧困なんだ。。。

って思いましたよ。ホント、ベタすぎるものしか思い浮かばないのね、わたし、、でも、正直、北海道に来てこの音楽が思い浮かんだのは、そう何回もないんじゃないかな。テレビで「北の国から」の連続ドラマをやったのは多分、わたしが中学1、2年の頃で「北海道の田舎」に対するわたしのイメージってのは、あそこでできあがったんだと思う。いやもう、ほとんどあれしかないと言っても過言ではないだろう。だから発想が貧困なんだよな~。典型的な都会人だよね。まぁほとんど都会でしか暮らしたことがないのは事実なんだけど。

1kmもあると思ってたのに、景色を見ながら彼女とあれこれ話してたらすぐに着いた。車いすってさ、前にも書いたんだけど、押す人と乗ってる人の距離感がいいの。押しながら話せる。今回はいつもより彼女と多く会話したような気がするし、並んで歩くのとはまたちょっと違って、もっと近い感じの距離感を楽しめた。それはよかったと思う。

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着いてチケットを買ってたら、係の人に「もうすぐ茅葺きの家(チセ)でコタンの解説とアイヌ古式舞踊をやる」って言われて、それで走ってその場所に行った。

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左がチセと呼ばれる茅葺きの家。このように5件ほど並んで建てられている。右がチセの中に吊ってあった鮭。去年の秋に近くの海で獲ってきたものだそう。それを冬の間は外に干して腐らないようにして、それから家の中に持ってきて天井から吊って、家の中のいろり(っていうのかな?)で自然に燻製にするそうだ。いろりの火は絶対に絶やさないって聞いた。この燻製は公演が終わったあと、チセを出たところで売ってたが、わたしらは酒を飲まないんで燻製はあんまり食べないんだよね。ってわけで、見ただけで買ってきませんでした。

公演は最初、男の人(って決めつけるのは嫌なんだけど、まぁ多分男性自認の人だと思う)が出てきてアイヌについてのいろんな説明があった。北海道の地名の8,9割がアイヌの言葉由来なこと、チセについて、アイヌの女の人たちは唇の周りに刺青をしていたこと、そんな話だったかな。とても落ち着いた声の人だった。だけど、わたしはいくつかの話でちくちく自分の心に突き刺さるものを感じた。

チセについて。実際のチセはこんなに大きくない。このおよそ1/3~1/4程度。このような建築物は今は建てられない。これは文化財として許可を受けたもので、今はアイヌはこのような家には住むことができない。

なのでアイヌは今は「あなたたちと同じ」ような家に住んでいる。

アイヌの女の人は12,3歳頃から少しずつ口の周りに刺青を入れることをしていて、これを完成させることが大人の女として認められることだった。しかし、この刺青は明治政府に禁止された。それでも刺青を入れる人も中にはいたが、今現在、生きているアイヌの女の人で刺青を入れている人はいない。

この人は「アイヌは和人から差別された」なんて一言も言ってない。同化政策をとられたとも一言も言ってない。だけど、この人はどんな気持ちで説明してるんだろう。1日に4度も5度も。それを考えるとたまらなくなってきた。このときはまだ、他の施設を回っていなかったので、どういうものがどういう風に展示されているのか分からなかったけど、回ってるうちに「ああ、ここは単なる『民俗博物館』なのだ」ということが分かってきた。確かにアイヌの民族や文化を紹介する施設なのだが、ではどうしてこれらのものが今に伝わってこなかったのか、なぜ「民俗博物館」として展示されるような対象になってしまったのか、それについてはほとんど何も書いていないに等しかったのだ。これを除いては。

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その人はまた、チセに積んである漆器の箱(容器?正式な名称は忘れた)について「これは和人が作ったもので、鮭100匹分や熊(何頭か忘れた)と交換したものです。この箱が多くある家ほど『狩りに優れた家』としてアイヌの人たちから賞賛されました」と説明した。わたしはそれを聞いてふと「和人が来る前のアイヌの生活ってどのようなものだったんだろう?」って思った。んだけど、それに関するものは一切なし。

確かにね。「民俗学」として調査の対象にならねばこういったものは残されなかったんだと思う。アイヌは自分自身の文字を持っていなくて、自分たちの歴史を紙に書いては残してこなかった。しかし、いろんなことを口伝えで伝えていっているのだ。それは今でもユーカラは残ってるよね。残ってるけどおそらくそれが全部ではないんじゃないか。それ以外にも口伝えで伝えられていたものはあったんじゃないだろうか。アイヌ民俗博物館にあったアイヌの文化や生活は「和人と交易」があって以降のものしかなかった。「それ以前」、アイヌの人たちはどこでどのように生きていたのか、どういう暮らしをしていたのか。そういうことには一切、触れられてなかった。

実はその疑問を博物館を出たところにある、ミュージアムショップのレジにいた人にちょっと聞いてみたのだ。アイヌの人が着ていた刺繍の入った服も布の生地は和人との交易で手に入れたものなんだとか。「それ以前はどういうものを着てたんですか?」と聞いたら「植物の繊維を編んだものだったと思います」と言われた。「そういえば、和人との交易以前のアイヌの人の暮らしって全然この展示じゃ分かんないですね」って言うと「それは分からないんです。今、調査中です」って言ってた。本当に調査中なのかは分かんない。もうどんどん同化が進んじゃってるなかで、今から突然何か新しい事実が分かるというのだろうか。調査中って、遺跡とかそういうものがあるんだろうか。

あと、博物館を見て回りながら思ったのは、この展示では「アイヌの人たちがどこでどうやってどのようにして暮らしていたのか」が全く分からないということだった。確かに文化や習慣などは分かる。なんだけど、一体、アイヌの人たちは和人が来る前は北海道のどこの地域に住んでいたのか。海の近くなのか、山の中なのか、平野なのか、それが全く分からない。かつてどういう地域にどうやって暮らしていたのかさっぱり見えないため、なんか分かったような分からないような、とても変な感じなのだ。文化だけ見せられて「ここでこういう人たちが暮らしていましたよ」と言われても。。例えば遺跡なんかで出土物だけじゃなく柱の穴とかあると「ああ、ここでかつて人が暮らしてたんだなあ」って想像ができる。だけど「北海道で」と言われても具体的なイメージがつかめない。まさかどこでどうやって暮らしているかすら分からなかったってことではないよね??

それが博物館の展示物を見ながら思ったことだった。

あと「アイヌの人たちと神」の関係が面白くてね。アイヌの人たちは自分の身の回りにある木や動物などは全部神の国から来たもの、と考えていたらしい。だから神の国から来たものはとても大切にしていたし、熊送りの儀式(イヨマンテ)などは動物を神の国に戻してやると考えていたらしい。ところが面白いのは、アイヌの人たちは死んだら神の国に行くとは思ってなかったようだ。少なくともアイヌの人たちの葬式の説明文にはそのような説明はしてなかった。なんだったっけな、この世と同じような生活をすると考えられてて、そのような生活ができるために日用品などを一緒に埋めてたらしいんだけど、そこは「神の国」だとは書いていなかった。ということは、アイヌの人以外は神の国にいて、アイヌの人たちは神とは繋がってないことになる。これってとても面白い考え方だなーって。自分たちが神にならないのはいいよなって(笑)

民俗博物館は結構人が来ていた。近くにとても大きい駐車場があるのだが、観光バスが何台も止まっていたし、1時間に1回ある公演も毎回人がそれなりに集まっていたようだった。博物館内のすべての説明文は、日本語、英語、中国語、韓国語がついていた。それだからか外国人も結構来ていたようだ。

博物館を出たあとは、ちょうどお昼だったので、博物館の前にあるミュージアムカフェでご飯を食べた。

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「オハウセット」ってやつと

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「ペネイモ」ってやつ。

オハウセットは塩味のつゆの中に人参、大根、じゃがいもなんかの野菜がたくさん入ってて、それに鮭が一きれ入ってる汁だった。ご飯は粟みたいなのが混ぜてあったかな。なかなか美味しかった。ペネイモはなんか素朴な味でほんのり甘かった。でもあんまり「じゃがいも」って感じがしなかったな。なんかちょっとしたデザートみたいな感じで食べた。

そのあとは、湖畔を見て歩いた。ここの場所って「ポロト湖」って湖の近くにあるんだよね。それが天気がいいのもあって、ものすごく綺麗でね。

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ただ、ここも元からアイヌの人たちが住んでた場所じゃなく、1965年に白老市街地にあったアイヌ集落をポロト湖畔に移設・復元したものらしい。うーん、どういう意図があって移設したんだろう。なんかそういうことがとても気になる、、

ここは手工芸の実演とか体験学習なんかもあるらしいんだけど、手工芸をやってるチセに行ったら「実演中なので中に入らないで下さい」って書いてあって見られなかったし、体験学習は事前予約なのね。。ってわけで、結局14時くらいで博物館を出て、それからまぁのんびり海を見たりしながら駅の方に行きましょうってことになった。ここ、本当に海の近くなのだ。って海のすぐのところを道が走ってるので、そこを目指して車いすを押して行ったのだが。

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室蘭街道、だったかな?ここに出るまでとても大変で、しかも車いすでは到底行けなかった(途中、舗装してない砂利道があったので)。だから、わたしだけ様子を見に行ったんだけどさ。道幅がものすごく広くて、そして横断歩道がないorz なので、車は恐ろしいほど飛ばしている。もう怖くて怖くて(^^;画像だけ撮ってそそくさと戻りました。

しかし、これだけ道幅が広くてさ、車も結構走ってたのに、道を歩いてる人がほとんどいなかった。。そこを車いすを押して歩くのは楽しかった。駅まですごい回り道して、しかも駅を通り越して商店街みたいなところまで行って、本当にこの日はものすごくよく歩いた。けど、疲れをほとんど感じなかった。しかし、そこで身体が疲れていないはずはなく、翌日は朝から足の裏が痛くなり、そしてわたしは不機嫌になっていくのだった。。

3日目に続く。
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06-07,2014
北海道、青森旅行1日目
旅行から昨日帰ってきた。

前の日記の最後に「ずっと笑顔で旅行できればいいな」なんて書きながら、朝、家を出る直前、つまらないことで大喧嘩したわたしたち。あーあ、最初から何やってんのかねえって感じ。車いすで出るってことで、彼女の方はいつになく緊張していたようだった。

最寄りの駅には事前に電話した際に「当日30分前にお越し下さい」と言われてたので、きっかり30分前に行って「○○分の電車に乗りたいんですけど」と言ったら「ホームでお待ち下さい」と言われ、ほとんど30分、駅のホームで待った。すげーヒマだった。。まぁ空港まで何本も乗り継ぎしなきゃならないので、事前にどれに乗っていくかということは決めておかなきゃならないとは思うんだけど、わたしはてっきり改札通る前に待たされると思ったので、それはすごく意外だったし、本当に30分も時間が必要なのか?って思った。

日曜日の午前中に移動ってことで、電車は結構空いてた。ので、思ってたより楽だった。空港に着いてから、車いすで乗るってことを航空会社に申告しなければならなくて、窓口に行こうとしたんだけど、その窓口がめっちゃ混んでる。でもまぁこんなもんだろと思って待ってたら1列目になって窓口からよく見えるようになった途端、窓口の誰かが案内をする人に「車いす優先の窓口があるからそちらに案内してあげて」と言ってて、それでわたしたちは別の、もうちょっと離れたところにある優先窓口に案内された。そういう窓口が用意してあるなんて、全然知らなかった!優先窓口では車いすの人が結構いたので、車いすに普段から乗ってる人には有名な窓口なんだろうか。

優先窓口で搭乗手続きを済ませたあとは、車いすの乗り換え。なんか飛行機に乗るための普段の車いすより少し幅が狭い車いすがあるみたいなんだよね~。普段の車いすは他の荷物とともにそこで預けられた。車いすを乗り換えてから手荷物検査を受け、搭乗口に。そこで待ってたら係員の人に声をかけられて、いの一番に飛行機の中に案内された。しかもそこから飛行機の中までは係員の人が車いすを押してくれて。飛行機が新千歳空港に着いてからも荷物受け取りの場所までは全部係員の人が車いすを押してくれた。新千歳空港は車いすの場合、一旦、これから飛行機に乗る人の待合室のところに出るのね。多分、これしかエレベーターがないんだと思う。まぁ自分が押したわけじゃないから別にいいんだけど、でも普通に行くよりかなり歩いた。そう、この旅は本当によく歩いた!普段なら階段を使うところをスロープのあるところまで行かなければならない、スロープの坂はゆるやかにするために長い距離が必要だ。エレベーターが近くにない!1日目はまだそんなに疲れてなかったからなんとも思わなかったけど、3日目くらいになるとわたしはどんどん疲れていって、そして彼女とつまらぬことで言い合いになったりした。。

新千歳空港から札幌までは電車だったんだけど、改札で「車いすです」って言ったらすぐに通してくれて、全然待たずに電車に乗れた。旅はここからずっとJRで移動だったんだけど、JRはおおむねエレベーターも整備されてたし、駅員さんも親切だったし、結構快適だった。

ホテルに着いてから少し休んで(その日は朝早かったのですごく眠かった)それから少しプライベートな用事。

まぁいろいろ思ったことがあったし、それを書きたい気もするんだけど、プライベートなことなんで止めておきます(笑)

20時半ごろ終わってホテルに帰ってきて、ホテルに付いてるレストランでコーヒーを飲んだあと部屋に戻ってすぐ寝る用意。疲れてるはずなのに、なんかあんまり寝た気がしなかったな。

というわけで、1日目はおしまい。
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