01-23 Sat , 2016
おしまいかい
精神科の通院、いつまでのことを書いたかすっかり忘れてるけど(汗)、取り敢えずは12月から1月の診察まではずっとアルプラゾラム「サワイ」0.4mgのみ夕食後1錠で、前回12月8日に書いた日記のときに飲んでた半夏厚朴湯は「結局効かなかったですね」ってことで終わりになってた。

で、1月の診察の時にアルプラゾラム「サワイ」0.4mgも「多分効いてないでしょう」ってことで、「もう飲まなくていいよ」と言われた。ただ、薬の切り方は好きにしてねってことで、一応、次回の予約の日までの分は処方されたんだけど、まぁ今は結構好き勝手に飲んでる。頻度はだいたい2日に1ぺんくらいだけど。でもこれ飲むとやけに夜の寝つきがいいので、ちょっとそれはまずいということで(わたしは今、自力で眠れるので)半錠にして飲んでる。っていうか、これ1錠飲むだけですげー眠くなるし、眠らないまでも身体がとてもだるくなってそれが困る。まぁ、抗不安薬だし、筋弛緩効果もあるわけだから、それはそれで「効いている」と言えるのだろうけど、ただ、わたしの症状(息苦しさ)の緩和にはなってないから、結局はわたしの症状に対しては「効かない」ってことなのよね。

しかし、今回の診察では主治医から「自分が診察するようになってから全く精神的な症状が出てない」と言われ、、この主治医に診てもらうようになってこの3月で丸2年になるのか?確かにそりゃそうなのだが、なんかまるで「あなた本当に病気だったの?」って言いたげだったので「そりゃ、調子悪かったから病院来てるんじゃん」と言いたくなった(てか、当初は本当に状態が良くなかったと言いました)。わたしは今回3度目のうつで、その初診は2011年1月だったけど、そのときに「うつは3回繰り返すと病名が変わって反復性うつ病という名前になる。そして、ぶり返さないために、治ってもその後長く病院に来てもらうことになる」っていう説明をされたんだけど。。その「長く」というのがいつまでなのか今でもよく分からないところはあるし、精神的な落ち込みは2012年12月限りでなくなってるので、もうそれを考えると3年はうつ状態になってない。3年もうつ状態になってない、ってことは、その後「長く」ってことになってるかも知れなくて、それを考えてももう通院は終わりだよと言われてるのかも知れない。

ただ、、息苦しいのは相変わらずなんだけどね。いや、少しはよくなってると思いたいのだが。でもときどきめちゃくちゃ息苦しいときがまだあるんだよね。

だけどそれに関してはもう「処方する薬がない」と言われているので、次回、もしかしたら「これで通院終わり」と言われるかも知れない。まぁそれはそれでとてもすっきりさっぱりすることは事実だけど。。病院通いはとてもめんどくさかったしね。しかし、症状がまだあるのに「もう終わり」と言われることはなんかすっきりしない気持ちもする。

なんだけどね~、息苦しさというのは、もしかしたら精神科ではなく心療内科の分野ではないかという気もしてて。まぁだからといって心療内科にすぐかかろうとは思ってないけどさ。

そんなこんなで、なんとなーく病院通いも終わりなのかなと思っている今日この頃。

正直とても忙しい。行政書士の勉強、ついに本格的に始めたし。それに前にも書いたけど腕の痛みやら息苦しさで体調があまりよくない。痛いのを我慢しているからか、毎回必死に息をしているからか、すぐに疲れてやる気がなくなる。そんなときは1日休む。そうすると次の日は取り敢えず「やろうかな」って気にはなってる。まぁだけど、今が一年中で一番寒い時期で、これを乗り越えたらなんとかなると思って我慢しながらやってる。

そんなとこです。

【現在の処方】
アルプラゾラム「サワイ」0.4mg×1/2を頓服的に飲んでる
23:59 | 3度目のうつのこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
01-12 Tue , 2016
今日から始まった!「ウルトラマンスタンプラリー2016」!!
ついこの間「忙しくて今年は何も出来ないかも!」なんて書いてたけど、やっぱ今年もこれが始まったら「うーん、今年はちょっと出来ない」とは思えない!!

てなわけで、12月の中旬に駅で見かけたこのポスター、発見したときは「おお、またやるのか!」と思って楽しみにしてたのよ。

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去年はなんとなしに駅に貼ってあるポスターの写真を撮ってたらそのうちに全部集めたくなって、全駅を回ることになってしまい、ほとんど全部集めた時点で「駅からのメッセージ」にはまり、これは全駅制覇とは行かなかったけど、ほとんど集めてそれぞれの駅の特徴なんか分かって面白いなーって思ったのよね(去年の日記→「全駅制覇、ウルトラマンスタンプラリー!その1(ただしスタンプは押してない)」「全駅制覇、ウルトラマンスタンプラリー!その2(駅からのメッセージ)」)。

それが今年もまたあるという。

「やってやろうじゃないの!今年こそ、全駅制覇だ!」


ってことで。

今日は用事があって渋谷と新宿に行ったので、そのついでにスタンプ台のところまで行ってきた。っていうか、スタンプ台の前にずら~って並んでてびっくりしただよ!!それも大の大人ばかり!(自分もそうだが、、)きっと、みんなわたしのように駅でポスター見かけて「やるぞ、やるぞ(わくわく)」って思ってたに違いない。去年は「全部集めよう」って決心したのはもう期間終了するギリギリのところだったから、スタンプ台の周囲を見まわす余裕などほとんどなかったけど、今回はまだまだ先があるので、じっくり見ようと。

まず行った渋谷。

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なんとなまはげ。つか、こんな怪獣いたんだね(笑)

で、スタンプ台のところへ行ったら、こんなのがずら~っと(左から右に4枚貼ってあった)。

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ぬぁんじゃこりゃ。なぜここまで秋田弁??と思って駅のメッセージを見ると。

渋谷


なんと、渋谷駅の駅長さんは秋田県出身なんだと。ほうほう、面白い理由でこの怪獣を選んだんですね~。てかその右の写真を見るとこれ、全部秋田県出身の駅員さん?こんなに秋田県出身の駅員さんがいたんだ、渋谷駅。へえ~っ。正直、去年の渋谷はあんまり記憶になかったりして。。

そしてスタンプ台には

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ウルトラマンエース(だよね?)が「今日は渋谷駅に来てくれてありがとう!!」と。くわ~、渋谷駅、今年は力が入ってますね!

そして新宿駅。一瞬、駅のポスターを見たときは「あれ?」って思った。だって、去年と同じキャラクター?(結構駅のキャラクターって印象深かったところは忘れてないものなんだなと思った)

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去年も「ウー」でした。しかし、今年はこのポスターよく見ると(二代目)って。去年は「ウー」で今年は「ウー(二代目)」なのか。渋いぞ、新宿!しかしどうしてこんなに「ウー」に拘ってるんだ(笑)ちなみに去年、新宿駅の怪獣だった「ウー」はどうやら今年は信濃町にいるようだ。この手の顔は結構「駅員に似たのがいます!」みたいなメッセージが書いてあったりするのだが、果たして信濃町はなんで「ウー」になったのか。ちょっと楽しみだ。

ちなみに去年の新宿駅のメッセージは、特に似た駅員がいたというわけではなく、この怪獣、どうやら優しい怪獣みたいね。

新宿


これが去年の新宿駅「ウー」のメッセージ。そして下が今年の。

新宿


やっぱり新宿駅はこの「ウー」が心優しいというところが好きみたいですね。てか、この怪獣の選定、同じ人がやったに違いない(笑)

今年もわたしはスタンプを押すつもりはないけど、こんな風にスタンプラリーを楽しむつもり。去年は64駅で今年は65駅だっけ?ただし、去年はあった南柏がなくなって、東京モノレールの天王洲アイルと羽田空港第1ビルが増えたんだよね。っていうか、東京モノレールかー!うちの大学の上を走ってるんだよな、東京モノレール。天王洲アイルはちょうど在学中に建設されてて、確か大学院の時にできたんだよな~。友だちとあそこで「メシ食おう」って行って、中華料理屋さんに入ったのはいいけど、高すぎて腹一杯食べられなかったのを思い出すよ(トホホ)
22:57 | その他 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
01-10 Sun , 2016
年明け10日
こんな言葉はないですね。「梅雨明け十日」をちょっと捩りました(笑)

「梅雨明け十日」って最近あまり聞くことなくなっちゃったけど、梅雨が明けると10日は晴天が続く、ということわざみたいなもんです。あ、あれか。最近は「今日、梅雨明けしましたー!」ってことは宣言しなくなっちゃったからかな、気象庁が。なんか「梅雨明けしたものとみられる」みたいな言い方になっちゃいましたからね。ん?だとすると、この言葉は気象庁が「梅雨入り宣言」「梅雨明け宣言」をするようになって以降の言葉なのか?いや~、そんなことはない気もするなあ。どっちなんだろ?

てか、もう年が明けて10日も経っちゃったんですねー。思い返すと早い?いや、でも随分長かったような気もする?

ちょっと大変な正月ではありました。いろいろあって。

あと、12月から本格的(?)に来年度の行政書士資格の試験勉強を始めたので、まぁそれが最も忙しい理由かな。チャレンジ始めて3回目。しかし前2回はほとんど勉強できず。受験にすらたどり着けなくて。だからほとんど1回目の挑戦なんだけど、でも、意気込みが前2回とは違ってるので、今年はそれだけでも進歩した、ってことなんだろうか。特に去年は勉強やり始めたと思ったら息苦しくなって、で、息苦しいのを先に治そうと思って努力したけど結局は治らないまま1年過ぎてしまったので、もう治すのは諦めようってことです。息苦しいのを治してたら一生終わってしまう。

ただ今年、この試験勉強と朝鮮語3年目とあと時たま来る仕事、この3つやるだけで多分終わってしまうんじゃないかと。その他はほとんど手が回らない状況ではないかと。

本もここ数年は月3~4冊ペースだったけど、今年は無理かもなあ。去年いろいろ行ったイベントも今年は参加できないかもね。それより、旅行、今年も3月にどこか行きたいなあと思ってたけど無理かも。

なんてことを考えてたり。まぁでもいつかは何かやらなきゃ、この先進めませんからね。しかもこれに合格してももう一個その先に取りたい資格があるからね(司法書士ではない)。それ取るの、2年かかるそうだしね。とすると、最短でも3年かかり。一発で合格しないとそれ以上の時間がかかるということになる。。ただし、資格取ってもそれで食っていけるかどうかはまた別の話だけども。しかしそれでやりたいことができるようになるんだったら、まぁそれから先はそのときに考えればいいだろうってことで。

心配なのは、何かやろうとやる気を出すと体調を崩し、うつ病再発すること。これだけは人生の予定が狂うので勘弁して欲しい。なので、やりながら休むことも考えなければならないってことで、体力温存を第一に考えた方がいいだろうとは思ってるので、あまり無理しないようにする。けど、今年はもう既に無理しているような気がする、、、なんてったって、今年に入ってから、2日と連続して家にいたことがなく、今週も無理そうなんだよね。こりゃ疲れるわ。ただこの調子が続くと本気で体調崩しそうなので、今月後半は何も予定を入れないようにしよう。。(と言っても入ってきてはしまうのだけど)

取り敢えず今年の抱負というか、目標はこんなところかな。

まぁでも今でもかな~り体調悪いけどね。右腕が痛いのがすごくきつくなってきた。何年ぶりだろう、この痛み。2007年のシドニーに行ったときのことを思い出してしまう、、2008年の正月開けてからはほとんど寝たきりになってしまって。あんなことにはならないようにしたいけど、しかし、この腕の痛みもどうやって治まったのか覚えてない。あの頃は何もしてなかったので、きっとずっと休んでたんだろうけど(痛くてそれどころじゃなかったような気が)、あのときみたいにもう休めないしな。

正直、ちょっと困ってます。
23:00 | 自分のこと | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
12-30 Wed , 2015
もうこんな時期か
ブログに書きたいことはたまってるのに、忙しくて書く時間が全くないうちにもう年の瀬を迎えてしまった。
でも明日も忙しい予定だから、時間がある今日のうちに書いておく。

と言えども、最近はあまり季節感を楽しみたいと思うこともなく、365日(あるいは366日)普通の日で十分、という気がしている。まぁ猫の誕生日は祝いますけどね。

しかしまぁ、区切りではあるので、今年1年を振り返ってみると、今年はわたしにとって、とても不思議な年だった。

生きて考えてれば「なんでこれはこうなってるんだろう」と思うことが多々ある。本を読んでても疑問に感じることがあるし、日常を暮らしてても疑問に感じることはあるし、何かを見ても疑問に思うことがある。単純な知識問題ならともかく、何を手がかりに探せばいいのかさっぱり分からないこともある。

ところが今年はそれが「繋がる」ことがとても多かった。人に会ったり、イベント行ったり、学習会に参加したり、映画を観たり、劇を観たり、でもそれは特にその疑問を解決したいと期待して行ったわけではない。全く関係ないところで、でも自分の中で「あっ」って思うことがとても多かった。答えは見つからずとも、そのヒントになるものと出会うのだ。そのことをヒントにまた自分の中で思考を深め、そして行き当たる。しかしまた別のところでヒントと出会う。ヒントであったり、同じ思いをしている人に出会ったり。

今年はそんな、不思議な年だった。

ただ、だからといって「答え」が見つかったわけではない。というか、答えなんか見つかるような問題ではないと自分では分かっている。しかし、だからといってなぜ考えるのを止めないかというと、それは自分が人間だからだ、「人間は考える葦である」ではないか、なんて書くとカッコイイ~んだろうけどね(笑)別にわたしは人間だから考えているわけではなく、答えを探す行為が、今後自分はどうすればいいのか、自分は何が出来るのか、というある種の答えには繋がっていると思うからだ。要するに副産物で自分の行動が決められる、と言えばいいのか。疑問に思っている「答え」そのものは見つからないにしても。

多分、この中で一番大切なのは、疑問に思っている「答え」そのものではなく、「自分がどう行動するか」なんだと思う。ぐだぐだ自分の頭の中で考えてたって、それで世の中変わるわけはないんだもの。もちろん自分の行動には限界があって、行動したとしても世の中変わるわけはない。わたしは一声で世の中が変えられるような絶対的な権力者じゃないし、逆にそういう権力を持った人を忌み嫌っているから、自分は権力者にはなりたくないし。自分ができることは所詮、微々たるものだと思っている。けど「どうせ行動しても世の中変わらないよね」とブツブツ言ってるよりは、行動する方がよっぽどいい。それが自己満足に過ぎない、ということも十分承知だし、わたしはそれが自己満足であることに満足してるので、それはそれで構わない。とにかくわたしは行動をしなければならないと思う。そのこともはっきり分かった年でもあった。

わたしが主に考えていることは、過去のブログを読んでもらえば分かると思うが、「死刑」「宗教」「在日外国人(特に在日朝鮮人)」のことについてだけど、「死刑」については、今年、自分の考えに決着を付けることが出来た(もしかしたら、その結論についてはブログに書いてないかも)。「宗教」については、これは今も興味の対象。今年はいくつかイスラム教について書かれている本を読み、外観はどんな宗教なのかは一応分かったけど、でも人に出会ったわけではないので、まだ疑問満載。ただ、一つ一つの宗教についてではなく、「宗教」全体(なぜ宗教があるのだろうという疑問など)として考えるのもまた面白い。絶対に答えなんか出ないと分かってるけど、今のところは「人間がそれを必要としていた」と思っている。要するにひっくり返すと「宗教は人間が作った」なんだけど、それは仕方ないよね、わたしは宗教を信じてないんだから。また、わたしはずっと「宗教とは何か」という疑問もあったが、これはそれぞれの宗教、個々に「エッセンス」というものがあり、それは何かというものをそれぞれの教典から読み取っていく作業なのではないかと思っている。要するに、聖典に書かれていること一言一句が正しいのではなく、全体を読んだときに「共通する何か」があるんだろうと。そう考えると、おそらく仏教もキリスト教もイスラム教も(その他の細々した宗教についてはよく知らない)、根底に相通ずるものがあるのではないかと思う。

例えば聖書、キリスト教の教典である聖書だけども、旧約聖書の一番始めは「創世記」、いわゆる「天地創造」について書かれている(旧約聖書はキリスト教だけでなく当然ながらユダヤ教、そしてイスラム教の聖典でもある)。しかし、その1章と2章、全然違うことが書かれているのだ。1章では神は最初にいろんなものを創って、そして一番最後に人間を造った、と書いてある。それが6日目だったと。だがその直後の2章では、神はまず人間を造って、人間を助けるものを創ろうといって、他のものを創ったと書いてあるのだ。全く矛盾していることが書いてあるよね、直後に。しかも、大多数の人が読み始める最初のページ、おそらく一番読まれることが多いであろう箇所に。聖書ってどんなことが書いてあるんだろうと思っただけの信者以外の人だって1ページから普通読むだろうよ。これ、編纂するときになんでこんな矛盾しているものを載せてるんだろう、どちらか一方を削って「こちらが正解です」ってしなかったのはなぜだろう、そちらの方が都合がいいのになぜ敢えてそうしてないんだろう、と考えると、「聖書とは、一言一句を信じるものではないものである」と聖書自身が言いたいのではないかと思える。「聖書には矛盾していることも差別的なことも含んでいますよ。けども、それが聖書の本質ではないのです。しかし、この中には一本貫いていることは確実にあります。それが信じるものに値するものです」と言っているように思えるのだ。だから聖書で自分の都合のいいところのみを切り取ってそれを「聖書にはこう書いてある」と「教え」ている原理主義は、聖書自身が否定していることなのではないか、と。

尤も、わたしはだからといって聖書全部読んだことはありません(笑)ただ聖書というものは本当に奥が深い「読み物だ」とは思ってる。バベルの塔のところなんて、いつもいつも「よく昔の人がこんなこと考え付いたよなあ」って感心する(そういう意味ではわたしは聖書は「人が作ったもの」と思っている)。昨今の出来事で「バベルの塔」を思い浮かべることが、わたしはよーくあるから。

また、わたし、今年分かったことに「神(仏でもいいんだが、以下同じ)を信じる人は、神を通して人間を見ることができる人だ」ということがある。神を信じられない、わたしのような人間は「人間」でしかものが考えられない。別の視点から「人間」を見ることができない。しかし、神がいる人たちは、「神を通して人間を見ることができる」。このことが分かったときに正直「ちと悔しいな」って思ったのね。わたしは人間を「相対的」に見ることができない。わたしの中には「人間」しかないから。でも「神」という別の概念がある人は、神を通して人間を「相対的」に見ることができる。複数の視点を持っていることは、自己の考えを深められるだろう。そういう点で「悔しい」のだ。まぁだが、神を持っている人は「絶対的」なことが分かるかというと、そうじゃないけどね。神を信じている人たちの中の神は、やっぱり「相対的」なんだと思う。イメージ的には、この宇宙、絶対の座標軸があったとして、そこから見ると、個々の神の位置が違っている、みたいな感じになるかな。でもそれは仕方がないんだよね。人間自身が相対的なものなんだから。複数の視点が持てないから悔しいと思えども、神には出会わないと出会えない、ということもわたしは知っている。今後、出会うかどうかは今のわたしには分からない。出会ってないのだから、出会っていないまま、わたしは考えて行く。ただそれだけのことだ。

なんて話がとんでもなく抽象的なものになってしまったが、基本的に宗教とそこに住む人たちの文化や慣習、というものは非常に密接に関係してくるので、そういう意味でも個々の宗教を知ることは大切なことだと思っている。来年も個々の宗教を知ること、そして「宗教とは何か」「宗教はなぜあるのか」、この問題は引き続き考え続けて行きたい。まぁ、この疑問に答えなんかないと分かってるけどね(笑)

そして「在日外国人」、主に在日朝鮮人、在日韓国人、在日コリアン、なんて呼べばしっくりくるのかは分からないけど、その話。このことについて考えることは、本当にいろんなことを知らなければならない。歴史的な話だったり、法律的な話だったり、言語的な話(イメージ的には法的な論理というよりも感情的な言語を使用した論理と言えばいいのか)だったり、そしてその縁辺には元日本軍「慰安婦」の人たち(これについては現在、大きな動きがあったけれども、到底納得できない。だいたい謝罪する側が「このことは蒸し返すな」と言いつつする謝罪ってそれは本当に謝罪と言えるのか?まぁその他もいろいろ言いたいことがあるが)、そしてそこから「戦争被害」「戦争加害」、被爆二世としての自分、そして平和が脅かされている現在の「日本」。「在日」の問題を考えるとき、わたしの中にはこういうものがずっと連なって来ている。だからこそ、まずは「知ること」だと思っても、一度にたくさんのことを知ることは出来ないし、何しろ「知ること」といっても多岐に渡っているので膨大な量があるし、知ったらますます疑問が湧いてくるしで、そう考えると到底全部知ってから考えることなんて出来ない。だからこのことに関しては、今までわたしが「出会ってきた」人やものから少しずつ考えて行くしかないだろうと思っている。

ただ、今年に関して言えば、自分の中で一番はっきりしたのは「国とはなんだろう?個人とはなんだろう?国と個人との関係とはなんだろう?国と個人との線引きはどこなんだろう?」という疑問の方だった。これは今年わたしはいろんなものに出会ったけれど、何かに出会うたびにこの疑問はますます膨れあがってきた。そしてその答えは今のところ全く掴めてない。手がかりすらも分からない。しかしこのことが疑問になってきて、わたしは確実に前と変わってきていることを知った。わたしはつい最近、数年前に自分がこのブログに書いてたことを読んだ。そこには

わたしは決して、ジョン・レノンの作った「イマジン」のように「国が存在しなかったら」とは思わない。国家というものは必要なものだと思うから。ただし国家というアイデンティティを失わずに国と国とが緩い連帯を取ることはできないのかな、とは漠然と思っている。



って書いてある。このときは「国」というものに疑問を持っていなかった。でも、この考えは今年、変わった。上のことをわたしが書いたときに思っていたことは「もしこの地球が一つの国だったら」ということだった。でもこれは現実的に考えて有り得ないだろう。だって、一つの国になるとしたら、資本主義なの?社会主義なの?共産主義なの?とか、法律はどうなるの?とか通貨紙幣はどうなの?とか、そういう「現実的」なことを考えると「有り得ない」話だからだ。そういう意味でわたしは「国」というものに疑問を持たず「国家というものは必要だ」って書いた。

その理屈は今でも変わらない。しかし、一方、これまた現実的な話だが、国家が存在することによる弊害だってかなりあるのだ。「民主主義」とか「人権」という概念は、近年になり人間が発明したものだと思っているが、やはり根本的にこの世に生まれてきた人間は「人権」を持っているはずだ。幸福に生きる権利、自由に生きる権利は誰にでもあるはずだ(ただし「公共の福祉」に反してはならないと思う。「公共の福祉」って日本国憲法の文言だけど。で「公共の福祉」って「他人の人権を脅かさないこと」であって、単なる「人の迷惑にならない」とか軽い意味じゃないし、ましてや「国の都合の悪いこと」ではない)。ではその実現を果たすために「国」は絶対に必要なものなのか。「国」がなければすべての人は幸福に生きる権利、自由に生きる権利が持てないのかというと、全然そうじゃない。そのことの実現のためには特に「国」である必要性は全くないのだ。

ジョン・レノンの「イマジン」については、わたしはよく知らない。彼がどういう気持ちを込めて、この曲を作ったのかも全然知らない。けれど「国がないって想像してみて」というのは、まさにこういうことなんじゃないだろうかと。「地球上から国をなくす」というのは、アナーキストと言われるかも知れないが、わたしはそうじゃないんだよね。「人権」「民主主義」、そして「国家」このすべては人間が発明したものだとすると、わたしたちは国という概念を超える「何か」を発明することが必要なのではないかと。「この世に住む人たちがみんな自由に、幸せに生きている」そのことを想像しながら「では『国家』を超えるシステムとはなんだろう」って考えることが必要なのではないかと。

このことが、今年、わたしの分かったことで、去年までとはちょっと違ってきた部分だった。

「国と個人の関係」を考えたのは、正直、ここの部分だけの話ではなくね。ただ、今までは「国のイデオロギー」ってよく分からなかったんだけど、いろんなものに接しているうちにそれが見えてきた。と同時にわたし自身も知らないうちに国のイデオロギーによって洗脳されているんだ、ということも見えてきた。多分それはこの国で「日本人である」ということがどういうことか、少しながらも自分に「見えてきた」からだろうと思う。それまでは「日本人は日本で多大な権力を持っている」と言いつつ、でもそれは自分自身感じられなかった。が、そういう自分自身はべったりと「日本人の論理」で生きていた。そのことが少し感じられただけでも、わたしはとても嬉しかった。これを少し感じることができたということは、自分の「座標軸」をずらすことが可能だと言うことだから。

そしてこのずらした「視点」を保ちながら、来年に繋げていきたい。

最後に、うつ病的な視点から今年の自分を見てみる。

今年は比較的よく動けた年だった。多分、端から見ると「うつ病の人」には見えないだろう。そういう意味ではわたしも最早「うつ病」ではないと思っている。ただ、過剰に無理はしないように気をつけている。無理をしたら再発確実な反復性うつ病だからね。しかし以前と違ってきたのは「休んだら元通りになる」ってことだ。病気のときは身体がだるくてだるくて仕方がなかった。何をやるのもやる気が出ずに、多大に努力して動いていた、という感じがする。もう普通に動けていたときの状態が自分では分からなくなっていて「昔もやる気が出なかったけど、無理して身体を動かしていたのではないか」とずっと思っていた。何も考えずに身体がスッと動くなんて夢じゃないかって思ってた。

ところが、やっぱり身体って何も考えずにスッと動くものなんだよね。「やる気が出ない」というのは、出なかった頃は自分が怠けているのではないか、自分を甘やかしているのではないかってずーっと自分を責めてたけど、やっぱりそういうのは「病気の症状」だったのだ。そしてあのときは休んでも休んでも、寝ても寝てもずっとずっと身体のだるさは変わらないし、やる気も出たとは思えなかった。でも、今振り返って思うのは、やっぱり休んでも休んでも、寝ても寝ても身体が動かなかったりやる気が出ないときは、やっぱりそれは「休み方が足りない」んだってこと。休みが足りてきたら何も思わなくても身体がスッと動くし、何より何かやりたくなることができてくるのだ。

今も朝起きるとき、すごくだるくて起きる気がしない、起きるのが嫌な気分になることがある。そういうとき「あれ、自分はこれがデフォルトだったっけ?」って思う。だけど、その日、一日休むと翌日は動けるようになっている。朝、すんなり身体が動く。だから「あ、昨日はわたしは疲れてたんだ。だから起きれなかったのだ」って思える。うつ病のときは休んでてもあまりにも日々変わらなかったので、だるいのがデフォルト、みたいに思えちゃうのね。その感覚が今も残っているので、自分自身だるいときもそれは疲れではなく元からだと思ってしまうクセがある。けど、違うのね。今は一日で回復するようになったので、そういう意味でも「治ってきてるなあ~」って実感はあるし、身体がだるくて起き上がれなくても「今日は休もう」と素直に思える。

が、今ひとつ「治った」と言い切れないのは、疲れすぎると眠れないからだ。なぜか疲れすぎると眠れなかったり、眠りが浅くて全然寝た気がしなかったり、ってことは今でもある。なので「よくなってきている」けども「完全に治った」とまでは行ってないのだろう。だから、まだまだ油断大敵なのだが。。

今年1年は本当に充実した年だった。だが希死念慮は全然消えてない。むしろこれだけ活発に動いているのは「いつ死んでもいい。だけど悔いのない人生を送りたい」って思ってるからだし、もし明日死ぬとしても、わたしはそれで全然構わない。むしろその方が嬉しい。この世に自分が存在しているだけで苦痛だから。考えることも苦痛だから。息をしてるだけで苦痛だから。この世に未練なんか全くない。死んでこの世から早く消え去りたい。死んだら他人から自分のことを一切忘れられたい。この世にいたという痕跡を残したくない(死んだらこのブログも消去してもらう予定)。そしてわたしには「あの世」もない。「あの世」で自分が存在する、なんてそんな絶望的なこと、考えたくもない。わたしは「死んだら無になる」と思えるから、今、頑張れるのだ(だからわたしは宗教は信じたくても信じられない。宗教には「あの世」があるんだから)。死んでからいくら「あの世は何の悩みもない幸福な状況です」と言われても、自分が存在すると思っただけで苦痛なんだから、わたしにとっては幸福な状態であろうと苦痛なのだ。なんにせよ、わたしはわたしの存在自体をどこからも消し去りたい。これは明らかに「病的」なのは分かってるけど、これだけはもうどうしようもない。それは「病的」といっても、もうわたしの「一部」なのであり、そういう意味ではわたしは死ぬまでうつ病と「共存」していかねばならないのだろう。

よく他人から「生き生きしてる」とか「前に比べて元気になった」とか「顔色が良くなった」って言われるんだけど、確かに端から見るとその通りなんだろうと思うが、自分自身はあくまで「後ろ向き」に前に進んでいる感じだ。だって時間軸は前にしか向いてない。過去には絶対に戻れない。だとすると、前に進むしかないじゃないか。だけどわたしは自分が「生きたい」と思っては生きていない。自分で死ぬことができないから仕方なく生きている。だけど、生きている以上、悔いなく生きたい。「ああ、あれもやりたかった、これもやりたかった」「あそこに行きたかった、ここに行きたかった」と思いつつ死んでいくのはイヤだ。だから、わたしは今、できることを精一杯やる。一日一日を精一杯生きる。

来年もやりたいことはたくさんある。けど、それがいつ打ち切られても構わない。そんな思いを持って生きていく。

【追記】上の方で「創世記」云々、という話を書いたけど、あれは別にわたし自身が発見したことではない。このことについては、今年の不思議さを象徴するような話なのだが、直接的に「創世記」の1章と2章の書いてあることが矛盾している、ということについては今年読んだ「罪と死と愛と」という本に書いてあったものだ。そして「ではどうして矛盾しているものを直後に並べたのか」についての考察は、そこに書いてあったことを参考にわたしが大きく膨らませたものだ。実はここの部分、もう一つ、「男女」の造られ方が全く違う。このことについてはフェミニスト神学などが指摘しているということは以前から知っていたものの、問題はそこだけなのかと思っていたし、それがどういう意味を持つのかは考えたことがなかった。

そしてこの「罪と死と愛と」という本を知ったのは、「絞死刑」という大島渚の映画を観たからだった。そしてなぜそもそもこの映画を観ようと思ったかは、たまたま偶然チラシを見て知ったからだ。そう、順番を追って話すと、わたしはたまたまチラシを見て「絞死刑」という映画を知った。「観たい」と思ったのは、「小松川事件」という、これまたわたしは初めて知った事件だが(まあわたしが生まれる前の話なので)、貧しい在日の少年が2人の女性を殺害して死刑になった、という話を知ったからだった。事件は確か'56年頃起こって、'62年に死刑が執行された。死刑が確定した後、日本国内で助命嘆願が行われたらしい。それはあまりにも在日の少年が過酷な境遇におかれていたからだ。そして大島渚は'68年に「絞死刑」という映画を制作して上映した。'68年と言えば、ちょうどわたしが生まれた年だ。大島渚は「日本における在日朝鮮人の問題」としてこの映画を作ったらしい。わたしも「在日」のことについて描かれた作品だろうと思って観に行ったのだった。

ところが実際に映画を観ると「この映画のどこが在日朝鮮人に焦点を当ててるんだ?」という内容だった。わたしには「死刑制度について疑問を呈している」という映画としか思えなかった。そして内容も当時の人だったらそんなに細かい事件の背景は必要じゃないよね、というような映画だったので、事件自体のことははっきりしたことはよく分からないままの「なんか変な映画」だった。しかし観終わったときに、この映画を上映した主催の人が「小松川事件については、2冊の本が出ています」と教えてくれ、そのうちの1冊がこの「罪と死と愛と」だったのだ。ただこの本は少年死刑囚だった人と同じ在日の朴寿南さんという人との往復書簡集の一部だ。要するに手紙のやりとりのうちの重要な部分だけが抜粋されている本だった(重要な部分といっても、約300ページに2段組で書かれ、結構読むの大変だった)。そしてその他の1冊というのはこの2人の手紙のやりとりのすべてである「全書簡集」だ。けっきょく両方の本は手紙のやりとり、という形の本だったということだ。

「罪と死と愛と」を読んだら、これは在日というよりもキリスト教の話じゃないかと思った。そこに死刑囚ということは密接に絡んでいるが。というのは、この少年死刑囚は死刑が確定した後にキリスト教を信仰するようになっていたからだ。そこでは自分が死刑囚であるということと自分が犯した罪のこと、そして神とは信仰とは、ということが書いてある。確かに日本で生まれた朝鮮人、ということについても書いているが、この少年は生まれてから罪を犯して警察に捕まるまで、自分をあまり「朝鮮人」とは意識してないというか、本人は差別されるのでいつ周囲に自分が朝鮮人であるということがばれるか非常に恐れていたけれど、周囲は誰も彼のことを朝鮮人だと知った人はいなかったんだよね(雇い主は知ってただろうが。だって彼は就職の際も「朝鮮人だから」ということで大企業には就職できないのだ)。逆に「犯人は在日の少年だった」ということがクローズアップされすぎて本人はとても途惑っていただろうと書いてあった。彼は朴寿南さんとの手紙のやりとりにより、獄中、自分の民族意識に目覚めるのだ。だが、本を読んだ感想として、やっぱり主題は「信仰」にあるのではないだろうか、というのがわたしの感想だ。それくらい、信仰について書いてある内容が面白かった。上で「神がいる人は人間が客観的に見られて羨ましい」と書いたが、わたしがそう思ったのもこの本を読んでそう思ったからだ。

で、もうお気付きだろうが、なんとこの本は「死刑」「宗教」「在日」とわたしがそれまで別々に単独で興味を持ったことすべてが絡んでくる話で、その偶然さに非常にびっくりしたのだった。この話は今年、わたしに起こった「不思議さ」を象徴しているような話なんだけど、結局のところ、これは「象徴」に過ぎなくて、それ以外の分野でもあちこちで繋がったことが多かった。だから今年は本当にわたしにとって「不思議な年」だったのだ。
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12-09 Wed , 2015
子宮がん、検査を受ける目安
先々月に不正出血があり、そこでポリープが出来ていたので取ってもらったついでに、子宮頸がん検査と子宮体がん検査をしましょう、という話は以前に書いた。そして先月、ポリープの病理検査結果を聞いてきて、同時に子宮体がん検査をやってきたんだけど、その体がん検査の結果を最近聞きに行ってきた。まぁ、検査結果は10日で出るという話で、10日経っても電話がかかってこなかったので、異常なしなんだろうとは思っていた。

これで一連の検査等が終わったのだが、わたしは聞いておきたいことがあった。何しろ、婦人科なんてできるならお世話になりたくないところだ。多分、シスヘテ女性だって婦人科へはあんまり行きたくないところだろうから、レズビアンのわたしなんか本当に敷居が高い。行くたびに「わたしは女性とセックスする人間です」とは言いたくないから。かといって「異性愛女性前提」の話をされるのはきつい。問診票すら同性とセックスする人間のことを想定されてない。「いない」ものと想定されているわけだから、「いないもの」としてみなされている人間が「います」って言うことはとてもハードルが高い。今回行った病院は、まぁセクマイなら「ああ」って分かる病院なんじゃないだろうか。婦人科の診察が月に1回のとこ。ここはもともと「セクマイはいる」と想定されている、という安心感があるのでやはり心理的には行きやすい。そして婦人科の先生が来るのは月1回だけだからか、あの屈辱な体勢になる「内診台」がない。平坦なベッドの上に横たわって股開くだけ。これ、結構わたしにとっては楽だった。きっと体がん検査が全く痛くなかったのも、そういう心理的な面で緊張感がなかったからかも知れない。てなわけで、3回受診して話しやすくなってたところで常々「これはどうなんだろう」って思ってたことを聞いてきた。

まず、基礎体温計ってて疑問だったのは、基礎体温を測っていると排卵が起きていることは分かる。それによって生理が来るのも分かる。しかし、不正出血のときはそういう体温の変化に関わらず来るわけだから、それが不正出血なんじゃないの?って思ったが、無排卵の生理、というのがあるわけだから、体温に変化が無くても生理は来ますと言われた。そして、この年齢になってくるとダラダラと出血が続く傾向があるという。しかし、その出血が2週間以上続いたら、貧血になる恐れがあって止血しなければならないから、そのときは来てくださいと言われた。もちろん「何かある」可能性もあるという。なのでそれが病院に行く一つ目の目安。

もう一つは、頻繁に不正出血があること。数日おきに出血するなどのときも病院に来いと言われた。これが二つ目の目安。

以上が定期検査以外で「あれ」と思って病院に行く目安。

それ以外だと1年に一回は定期検査に来てね、と言うことになる。子宮頸がん検診はまず1年に1回、体がんは2~3年に1回かなあということ。これは体がんにかかりにくいからと言うことではなく、身体の負担を考えてとの理由なので、本当は体がんも1年に1回受けることが望ましいらしい。国保だと無料で検査が受けられるクーポンなんかが付いてくる年があるが、これの「子宮がん検査」は頸がん検査で体がんじゃないから、体がんを希望するならわざわざそう言わないとダメらしい。あ、体がん検査は40台後半くらいからね。体がんにかかりやすい年齢は、40台後半からだから。もちろんだからといってそれ以前の人は体がんにならないかというとそう言うわけではないが。まぁ40代後半以前はまれなことなので定期検査の必要性はないということだろう。

あと、気になってたのは卵巣がんなんだけど、これはひとまずエコーで腫れてるかどうかはチェックできるので、それが目安になるらしい。が、中には卵巣が腫れない卵巣がんもまれなんだけど、起こりうると。まぁもうそうなったら早期発見は無理ですってこと。今のところ医学にも限界はあるんだから仕方がない。わたしの場合は筋腫もあると言うことで、その大きさもチェックをしなければならないので、そのついでに卵巣は見てもらうことになる。

とまぁ、そんな感じで以前から聞きたかった子宮がんと卵巣がんについて聞いてきた。ちなみにわたしが行ってるこの病院は頸がん検査のキットは常時あるけど、体がん検査のキットはその都度持って来なければならないので、事前に予約するときに「体がん検査も受けたいです」って言わなきゃダメです。

しかしね~。前から思ってるけど「うちはセクマイフレンドリーです」って婦人科がもっと増えないかな。GIDの治療などで婦人科だってセクマイと全く関わりがないわけではないと思うんだよね(尤も、GIDはセクマイの中に入らない!という人もいるのは知ってます。そしてそれはそうだろうなという認識も持ってます)。婦人科の問診票で「セックス体験の有無」を聞くのは、単なる身体の中に入れる器具の大きさの違いだけって聞いたので(しかしそう考えると婦人科の医者は「セックス」というのは「女性器に男性器を挿入すること」としか認識していないということがよく分かるし、一人でもバイブで遊んでる人がいることなんか考えたりもしないんだろうと思ったりする)そこのところはもっといい聞き方をして欲しいなとか。最近「LGBTビジネス」という言葉が盛んに使われているけど(結婚式場とか保険とか)、こういうところだって「LGBTビジネス」の一つと言えるんじゃないだろうかね。
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12-08 Tue , 2015
ええっ、気付いてなかったの?
少し前だけど、病院行った。いつもの精神科。

わたしが「いや~、薬変えて眠れなかった原因ってワイパックスを断薬したこともあったみたいですよ~」って、前に書いた日記の内容のことを報告したら、主治医に「それはマズイ!」って言われた。。

てか、前回の時点で気が付いてなかったのか~、主治医~!みたいな感じ。。

ただ、何がマズイかというと、わたしは元々、睡眠剤なしで眠れていたのに、薬の効果で眠れていたのがまずかったみたい。まぁワイパックスと同系統のアルプラゾラムを飲んでるせいか、今回はセディールの時と違って3日ほどで元に戻ったのだけど、もしかしたらその眠りもアルプラゾラムの副作用で眠れてるのかも知れないというのはマズイらしい。そりゃ、元々眠れなくてそういうのが出てるのならともかく、自力で眠れてたんだから、その能力を削いでしまうってことになるのかも知れない。確か、眠れなくなってしまった人に対してこれまた同系統であるデパスなんかを処方されることがあるけど、わたしは2回目のうつがひどいときにあれを1日3回飲んでたけど、眠くもなーんともならなくて、不安もあんなので取り除けるとも思ってなくて「なんでこれ、出てるんだろ?」と思いつつ飲んでた。しかし同時期、父親が、眠れないときに飲むんだと言って、デパスをお守りのように持っていたが「あれで眠れるなんて信じれん」と思ってた(しかも半錠飲めば効くそうな)。きっと、眠れないときに処方されるのは本人の睡眠力を補うという意味で悪くはないんだろう。まぁ当たり前の話。

で、前回、アルプラゾラムの他に半夏厚朴湯も出てて、今回初めて「ちょっと息苦しいのが治まりつつあるかも」って状態になったものの、同時に飲み始めたので、どちらが効いているか分からない。。でもやっぱりアルプラゾラムの影響で眠れてるんならまずいよねってことで、アルプラゾラムを減らすことになった。1日朝晩2回だったのをまぁ1回減らす、みたいな?(ただし、減らし方は自由ですと言われて、一応処方上は1日2回で出てる)

なんだけど、現状のところ、朝1錠、夕食後半錠、という感じでアルプラゾラムは飲んでる。夕食後の半錠がなぜか減らせないというのは、これによって眠れなくなってたわけではなく、どうも寝る前に一番息苦しいのが出てきて「もしかしたら、これはアルプラゾラムを半錠にしているせいか?」と思ったりもするからだ。という時点でまず、半夏厚朴湯は効いてないんだな~という結論が出る。しかし、思い返すと別にアルプラゾラムを1日2回飲んでたときだって、疲れが一番たまる時間である夜の寝る前は息苦しいときはあったんだよね。ってことは、アルプラゾラムももしかしたら効いてないんじゃあ?って思わないこともない。しかし、これが精神病の難しいところで、薬を止めると息苦しいのがもっと復活してくるんじゃないの?と思えて止めることを躊躇ってしまう。というわけで夕食後は半錠なのだ。

正直、精神の薬はある程度「プラセボ」ってものがあると思ってる。偽薬ともいう。要するに小麦粉をカプセルに入れたものを「これはすごくよく効く薬ですよ」って言って飲ませると、それを信じた人は小麦粉でもある程度よくなる、という現象。だから「病は気から」って言われるんだけど、わたしはこの言葉、嫌いです。だってその「気」が病気になるんだもん。「気」が出ないのに、どうやって「気」を出すのよ。それは本人にとって苦しいことこの上ない。精神の病にとって一番回復の道に繋がるのは「楽になること」、これじゃないかとわたしは思う。だから、苦しいときは薬に頼ってもいいのよ、当たり前だけど。で、その効果が一定の「プラセボ効果」であってもいいの。楽になることが一番なんだから。

ただ、わたしがこう言えるのは「自分が依存になるほど薬は飲めない」体質だからって知ってるからだと思う。まず、身体が「この薬はもういらない」と判断したときは必ず身体に変な副作用が出てくる。それまで飲んでても全く起こってなかったことが。で、その副作用のおかげでその薬とは縁が切れる。そんなことを繰り返してきたので「楽になるなら薬を飲もうかな~、プラセボでもいいし」って素直に思えるのだ。

で、おそらく、アルプラゾラムはわたしの睡眠にはあんまり影響してない。半錠に減らした日も眠れなくならなかったし、逆に半錠飲んでも眠れない日もあるのよ。頭がぐるぐるしちゃう日とかは。だから、夕食後は半錠から1錠に戻そうかと思うこともない。だって、寝る前に息苦しくなるから。だけど、1錠に戻すのも抵抗感があるんだよね~。アルプラゾラム自体が効いてない気もしてて。ただ本当に「これ、効いてないわ」って確信を持てるほどではない。

というわけで、正直、この後どうするのかな~という感じ。まぁ、素直にこのことを主治医に話すけどさ。まぁでも今現在、息苦しいのより、背中と肩がめっちゃ痛い方の方がつらくなってる。頭を後ろに反らすと背中(と胸)が痛くて反らせないほど。

【現在の処方】
朝:半夏厚朴湯、アルプラゾラム「サワイ」0.4mg×1錠
夕食後:半夏厚朴湯、アルプラゾラム「サワイ」0.4mg×0.5錠
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12-07 Mon , 2015
「ふたつのイヤギ」(日本大学芸術学部演劇学科 平成27年度総合演習IIIA)を観た
これも少し前の話になる。

最初、この公演のチラシを見たときに「あっ」って思った。「イヤギ」というのは朝鮮語で「話」という意味だ(チラシでは「物語」になってるけど、多分、大した違いはない)。「ふたつのイヤギ」というのは、その通り、この公演は「ちゃんぽん」という作品と「我が家のイヤギ」という作品の2つの劇が連続して演じられて、それで1つの公演となっている。「あっ」と思ったのは「我が家のイヤギ」を作った人の名前を見たからだった。「金民樹(キムミンス)」となっている。

わたし、今年の5月に「航路(항로)」というドキュメンタリー映画を観に行って、その映画に出てた人のうちの1人がこの金民樹さんだったのだ。金民樹さんは韓国籍を持つ在日で、映画の中ではもう一人、朝鮮籍を持つ在日、金哲義(キムチョリ)さんって人が出てくる。彼らはそれぞれ自分の劇団を持っているのだが、2人で「航路」という演劇ユニットを結成しているらしく、彼らの作った演劇が何回か、韓国の済州島の劇団から招聘されるんだけど、朝鮮籍を持つ金哲義さんは今の政権では韓国に行くことができないのね。それは以前この日記にも書いたとおり。朝鮮籍の在日が韓国に行けたのは金大中と盧武鉉が大統領だったときだけで、李明博から今に掛けてまた渡航できなくなった。韓国大使館に行って申請しても旅行証明書が出ないのだ。しかも済州島は金哲義さんのおじいさんの出身地で、自分にとっては全く縁がない場所ではない。縁がある場所なのに自分が行くことができないのだ。だから、韓国籍を持っている金民樹さんだけ毎年行って、行けなかった金哲義さんの書いた文章をそこで代読している。

このドキュメンタリー映画「航路」の中で彼らの作った「マダン劇」というものが出てくる。マダン劇というのは、韓国(だけなのか朝鮮文化なのかはわたしは今のところよく知らないが)の演劇スタイルらしい。マダンとは「広場」という意味らしいのだけど、文字通り舞台と観客が一体化する、というなかなか面白い(観客にとってはちょっとドキドキする)演劇スタイルだ。またまた話は飛ぶけど、わたしが去年、在日がやるお芝居で最初に観に行った、きむきがんさんのひとり芝居「在日バイタルチェック」というのも、今考えるとマダン劇の要素を取り入れてるものだったんだな、と思う。観客が突然、舞台の中の役者の1人として取り込まれるのだ。「在日バイタルチェック」はこれはこれで、とても素敵な舞台だった。この「在日バイタルチェック」もそうだったが、この航路の2人が作っている劇も「故郷・朝鮮半島を離れ、日本でどういう思いをしながらここまで生きてきたか」という在日の歴史を伝える、というのが主な内容だ。このドキュメンタリーを観てるとね、「ああ、一回この舞台を観てみたいなあ」って思ったの。でも彼らのマダン劇は大阪でやってて、東京には滅多に来ない。しかも東京でやると赤字になるのだと。しかもわたしはいつ、どこそこで彼らのやるマダン劇があるという情報は入ってこない。だから、「ふたつのイヤギ」のチラシの中に「金民樹」という文字を発見したときに「これは絶対に観に行かねば!」って思ったの。

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日本大学芸術学部はとても有名だってことは知ってたけど(昔、ラジオオタクでもあったし)、実際のところ、行ったのは初めての経験だった。まぁわたしは芸術とかほとんど無縁だからね~(笑)

ホールに入るとき、係員がいやに「前の方に座れ」だのなんだの言ってるなあと思ったんだけど、これはマダン劇だからなのだということをすっかり忘れてた。普通のマダン劇っておそらくこういうホール形式のところではやらないはず。本来なら「広場」のようなところでやる劇で、舞台と観客席の間はホール形式のような「断絶」はないんだろう。だから特に今回は「前の方に座れ」って言ってたんだろうなあ。本来、演劇のときはどの席が一番いい席っていうんだろうね?映画だったら見やすさを考えて真ん中からちょっと後ろにかけて、とか、音楽だったら音が混ざり合う2階席の一番前、とかだったりするけど(1階だったらやはり後方か)。よく分かんなかったので、かなり前方の方に座ったんだけど、今考えてみるとすごく危うかった!(笑)

事前に配られたパンフを読んでみると、この2つの劇、途中でカットしている部分があるらしい、時間の関係で。まぁ確かに普段だったら1つの劇はそれだけで観るものだから、カットしてある部分があるのは当然のことだろう。だが、わたしはそのカットしてある部分がとても気になって気になって。。はい、この劇を観た後でいろいろ調べて「ちゃんぽん」の方は元の脚本を探して読みました。もう一つも台本を売っているらしいので後日入手する予定。

「ちゃんぽん」は韓国で1980年に「光州事件」というのが起こったのだが、それが舞台になっているらしい。光州事件というと韓国の民主化運動の際、国が国民を弾圧した、ということしか知らなかったのだけど、それがコメディで描かれているという。一見、「この事件をコメディってどう描くんだろう?」って不思議な気持ちだったんだけど、これ、観てると本当に笑えるんだよね。ていうか、始まり方がすんごく面白くて。

普通、劇が始まる前って「ただいまより開演致します」とかアナウンスが流れるじゃん?違うのよ、これ。時間になったら突然人が出て来ていきなり始まるの。すっごいびっくりした。しかも前の方に座ってる観客2人が突然舞台の上に上げられて、そこでちゃんぽんを食べさせられるのだ!!あ、舞台の上の設定は、中華料理屋さんで。観客は、そのお店に来た「お客さん」という役を与えられる。いきなり舞台の上に連れて来られた観客はそりゃびっくりするし、うろたえるよね。「え、なんで自分が!?」「どうすりゃいいのよ?」みたいに。それだけでねー、笑えるの。舞台と客席との一体感はこんな感じで生まれる。そこで機転の聞く人ならうまく「役」になりきったりして、そこでまた観客席から笑いが起きる。これってすごいうまい劇のシステムだよね。ちなみにきむきがんさんの「在日バイタルチェック」も前の方に座ってるといきなり脈を取られたりするから、ご用心!(笑)

「ちゃんぽん」も「我が家のイヤギ」もネタバレしちゃっても構わないよね。劇って今までほとんど観に行ったことがなくて、観に行ったことがあるのは大昔、大学生の頃に高校時代の友だちがとある小劇団に所属していて、その関係で観に行ったのが何回か。下北沢でやってる系の演劇で、これ一体、どういう解釈をすればいいんだかっていう難しい感じの劇ばかりだった。そのときはそんなこと思わなかったけど、劇って映画と違って「古い演劇をリバイバルする」ことってなかなかないことなんだよなと。しかも演じる人は生身の人間だから、そのとき、そのときのことで、映画みたいに「へー、この人、こんなに若かったのか」なんてことは絶対にないわけで。劇ってその瞬間のものなんだと。「観たい」と思ったときしか観ることは出来ないものなのだ、そのほとんどは。そんな当たり前のことを今回、初めて認識し。なので、ネタバレしたところで、「これからこの劇を観るつもりだったのにバラされた-!」って人はほとんどいないだろうということでざっとあらすじを書いておく。

先ほど「ちゃんぽん」は光州事件を描いた作品だと書いた。舞台は光州にある、とある中華料理屋。36歳の男性が若い頃から修行して、お金を貯めてやっとのことで持てたお店だ。彼には異性の恋人がいる(ちなみにこの劇には同性愛者は出てこない、多分)。彼の恋人は喫茶店のレジの仕事か何かをやってる。彼は観客に対して貯金通帳を見せながら「今、やっと150万ウォン貯まった。けれど結婚するためには結婚式にいくらかかって、あれが必要でこれが必要で。。」と言い「もっとお金を貯めなければ」と言う。お店の従業員は2人。一人は実の妹。もう一人は実の弟のように面倒を見ている男。この妹と男も恋人同士、らしい。

実はこの設定、あとで脚本を読んだときに「あー、そうだったんだ」って初めて知ったのね。あまりにも「実の弟のように」面倒を見てたり、実の弟に対するような態度だったので、本当の弟だと思ってて、3人兄弟なのかと思ってたのよ。ここら辺、韓国人同士の「近しい関係」って本当に兄弟のようで、わたしには見分けが付かないのかも知れない、と思った。

お店に4人(主人公;社長、その恋人、従業員の男、社長の妹)が集まり「明日はピクニックだ」と言っている。そのためにカメラを借りてきたという授業員の男。光州の街は民主化を求める人たちでデモが起こり、政府は軍隊をそこに送り込んで鎮圧しようとしている。そのようなときに一本の出前の電話が入り、従業員の男が岡持ちを持って出前に行く。出前に行く途中の道で、腹を空かせた軍人2人が出てきて従業員に「その岡持ちを置いていけ」と命令する。従業員の男は「出前を届けてお金をもらってこないと社長に怒られるから置いていけない!」と言って拒否するんだけど、そこでもみ合いが起こって、岡持ちの隅に頭をぶつけて1人の兵士が怪我をしちゃうんだよね。

従業員がお店に帰ってきた後にテレビを付けると、テレビでは「一般の国民に混ざって北のスパイが入り込んで兵士に怪我をさせました!」と言っている。「北のスパイが民衆を煽って暴徒化させています!」と言っている。「軍隊はみなさまがた国民を守ると政府は発表していますから安心してください!」みたいなことを言う。ここの場面はテレビからアナウンサーが出てきて面白いと言ったら面白いのだが、クソですよ、クソ。韓国の放送局も日本の放送局も同じなんだなと。日本の放送局はどんなに国会前で人が集まってデモをしようが全く報道しなかったよね。安保法制の採決が行われる直前しか。しかも報道するとしたら「○人の逮捕者が出ました」とまるでデモに参加した人たちは暴徒たちであったかように大げさに報道する。韓国の放送局もそう。わたし、ついこの間の歴史教科書問題の時に偶然、朝鮮語の聴き取りに慣れるためにずっとKBS Worldを聞いてたんだけど、デモが起きる前には盛んに「歴史教科書」「歴史教科書」という単語が聞き取れた。が、デモが起こった後で「どうなったんだろう?」と思って聞いてみても、全く触れられないようだった。確かにニュースサイトでニュースになってはいたけど、その後どうなったんだ、あれだけ騒いでた「歴史教科書」の単語が全く出てこない。結局、報道機関なんてそんなもんなんだ、日本も韓国も。特に光州事件の時は韓国は軍事政権だったしね。でも、昔も今もそんなに変わりがないって!?とちょっと唖然としたのだった。

「北のスパイ」にされた従業員の男はそれは事実ではないことを外に伝えに行こうとするが、社長に止められる。そこからなぜか時は進み、次の日、ピクニックに行って帰った夕方の場面になる。そのあといろいろあって、岡持ちがふつけられた兵士は実はちゃんとした軍の兵士ではなく、単なる防衛(事前にもらったパンフレットによると、防衛軍というのは政府軍の戒厳軍や市民軍とは異なり、国内の徴兵制度において身体に不自由がある人、多めのお金を支払い、短い期間軍事訓練を受ける人のことで、韓国内では笑われるほどに低い身分の存在、なんだと)で、しかも仕事をさぼっている間に部隊から置いてきぼりをくらっていたことが分かる。そこで社長は兵士から銃だけは取り上げて、「もう勘弁してください」と言っている兵士たちを解放する。すると社長の彼女が務めていた喫茶店の店主から電話がかかってくる。デモで集まっている民衆にせめてコーヒーを届けようと道庁に行ったところで、銃で撃たれて死んだという。

それを聞いて従業員の男が「このままじっとしていられるか!」といって兵士から奪った銃を持って店から出て行く。妹もその後を追って出てしまう。止める社長。そこで場面が一転して、ピクニックの日に戻る。

楽しそうな4人の姿。サイダーを飲んだり、踊ったり。そこで前日、従業員の男が借りてきたカメラで記念写真を撮る。「タイマーが付いてるんだよ」って言いながら、またそのカメラを一番前の席の観客に預ける(笑)「あ、写真撮ってもらえますか?」って言いながら。それが遺影になる。ただ一人、生き残った社長が言う。

またあの日がやってきました。今日はこの町内あちこちでなくなった方たちをお祀りする日です。あのいまわしい春がくると、頭が辺になりそうです。春が、春じゃなく冬です。こころが寒いです。あの日以降、しばらくは何も手に付かなかった。死ぬこともできず、三人の墓を作って、また店を始めたところです。これ、見覚えありますか?通帳です。(中略)150万ウォンさえあれば、わたしたちの夢が実現するのに、1000万ウォン超えたのに胸の片隅にぽっかり穴が空いたようです。(後略)



この台詞を聞いたとき、わたしはそれまで泣いてなかったのに、思わず涙が目からにじみ出てきた。それは、これがただ「悲劇」であることに泣けたのではなく、何より、この事件が起こった日、1980年5月18日という日は、わたしの12歳の誕生日だったからだ(厳密に言うと光州事件は5月18日に始まったけど、その日に終わらずその先もっと激化して死者がたくさん出た)。あのときから35年しかまだ経っていない。ということは、まだまだ遺族がたくさん生き残っていて、今でもこの社長のような思いをわたしが生まれてきた日にしているだろうと、想像が付いたから。わたしがおそらくその当時一緒に住んでいた家族から「おめでとう」と言われた日に、まさに市民と軍隊が激突して亡くなった人がいるのだ。

東京新聞に今年「平和の俳句」というのが毎日載っている。いつだったか、ふと目にした俳句が「8月6日に広島で生まれたという複雑さ」みたいな俳句が載っていた。そのときは「まぁそうだろうね」としか思わなかった。実際、広島旧市内にあるお寺の中のお墓の墓碑銘を見ると「昭和20年8月6日」に亡くなった人がものすごくたくさんいることが分かる。その日は今でも「鎮魂の日」だ。その日に生まれてきた人の思いはどんなに複雑なんだろう。その俳句を目にしたときは「そうだろうなあ」としか思わなかったけど、このシーンを見てわたしはその俳句を詠んだ人の気持ちが初めて実感できたのだ。

もちろん12歳の誕生日のことなんて全く覚えてない。けど、そのときは韓国でそんなことが起こっているなんて全く知らなかったし、何より光州事件というのを知ったのは、2007年に「光州5.18」という映画が作られたときだった。この時に初めて「え。わたしの誕生日!?」って知ったのだ。この映画、観たいと思ってまだ観てないのだが。。

面白かった部分はほとんど説明を省いてしまったが、こういう悲しい事件でも途中で笑える場面にできるのって、これも「演劇ならでは」なのかなあと思った。映画だとまずこういう作り方はできないと思う。役者さんたちは何年生かすらよく分からないのだけど、どの人も結構印象に残った。ただ、一人二役とかあったみたいで、脚本を見ると「この人とこの人は別人なんだよね?」って初めて分かるんだが、劇を観ているだけでは「あの、最初に出てきたちゃんぽん食べに来た客は実は兵士だったの?」と思えてしまって、そこで「うーんと、えーっと?」と思ったりしてたので(一応、事前にもらったパンフでは二役の役名は書いてあるのだが。。)そこのところがすごく紛らわしかったように思う。あとはこの劇に関して言えば、台詞を噛んじゃった人が割といて、それがちょっと気になったかなあ。。あと「これは脚本の通りに行っていないのでは?」と思われる場面があって(食堂で兵士を捕まえてグルグル巻きにして、その上うるさかったので口にガムテープをしようとした場面)、あとで脚本を読んでみると確かに「ジャンノ(社長)、カウンターからテープを持ってきて、軍人たちの口をふさぐ。マンシク(従業員の男)も手伝う」と書いてあるんだよね。あの場面、確かジャンノではなくマンシクがガムテープで口をふさごうとしてたけど、ガムテープが手にくっついちゃってうまくふさげなかったのです。でもあそこはとっさの機転で「ええい、もういい」みたいな形であとはちゃんと繋げられてたんだよね。そこはすごく自然だった。まぁなんで気が付いたかと言えば、あそこでガムテープが付かない設定って変だと思ったから。ただそれだけの理由でした。

まぁそんなわけで、1つ目の「イヤギ」が終わった。少し休憩後、いよいよマダン劇「我が家のイヤギ」。

在日一世のおじいさんがリヤカーを引きながら出てくる。どうやら片足が不自由らしい。でも何やら「この話は自分が知らなかったお話」とか言ってる。このしゃべり方が在日一世らしいというのか、実際のところ、わたしは在日一世の人がどんなしゃべり方をするのかは聞いたことがないので分からないのだけど、きむきがんさんの「在日バイタルチェック」でもこんな感じで話している場面があったので、きっとそんな感じなのだろう。そこから物語は始まる。

身籠もった母親が出てくる。まだうまく日本語が喋れない。夫が北海道にいるらしく、それを追ってきたらしい。しかし青森でいきなり産気づき、そこで女の子が生まれる。だったっけな、よく覚えてないけど。。女の子にはお兄さんがいる。おじいさん、お母さん、お父さん、お兄さんと自分。女の子は廃品回収をしていたおじいさんのリヤカーに乗りながら、故郷、済州島の言葉を教わる。そして朝鮮人のための学校である朝鮮学校に通い始める(そのときは既に大阪にいる)。故郷にいる親戚から手紙が来ても、みな字が読めない。ので、一番歳は若いが朝鮮学校に行って文字を教わっている女の子が読む。みんな集まってそれを聞く。返事も女の子が書く。

近所の人たちが集まって宴会をする場面。貧しい中でも肩を寄せ合って生きていく人たち。ここでも観客が数人、舞台上に連れられていく。「いやー、しばらくやったなあ」とかいろいろ声を掛けられてすっかり「近所の人」になる。こういうところが「マダン劇」。

おじいさんが足の悪い理由が分かる。済州島4.3事件。これ、わたしもあまりよくは知らないのだが、解放後、韓国で選挙か何かあったときに、済州島の人たちが「アカだ」って言われて殺されたりしたんだよね。そこでせっかく解放後に日本から帰ってきた人たちがまた日本に戻って来た、そんな事件だったと思う。おじいさんはそれで足を悪くして、そして再び日本に戻ってきたのだった。が、やはり故郷が忘れられない。先祖もそこにいる。墓もある。というわけで、おじいさんとお兄さんはあるとき、済州島に帰るのだ。

ちなみにわたしはここで「あれ、帰国事業じゃなくて、自分の故郷に戻った人もいたんだ」と思ったが、まぁ日本と韓国が国交を回復した1965年以後であり、朝鮮籍から韓国籍に変えたら当然のことながら、韓国に戻れるということだよね。わたしはそれまであまりにも「帰国事業で朝鮮民主主義共和国に行きました」という話ばかりを知っていたので、ちょっと混乱した(^^;

それから数年後、おじいさんが病気になる。お母さんが心配して済州島に行くという。一人だけ韓国籍に変えて。しかし、お母さんが済州島に行っている間に韓国政府が日本に残っている家族全員に「朝鮮籍から韓国籍に変えなければ、母親は日本に戻さない」と言う。父親は悩む。なぜって子どもを朝鮮学校に行かせているわけで、当然のことながら朝鮮民主主義人民共和国側に付いている人だから。が、母親が日本に戻ってきたということは、不本意ながら家族全員、韓国籍に変えたということだろう。そこから父親は酒に溺れていく。
(しかしこの話って、蒼のシンフォニーを観たときとほぼ似てる感じなんだよね。パスポートが欲しければ、朝鮮学校を辞めさせろという、韓国側の主張。それは国と国とのイデオロギーの違いだから不本意ながらも仕方がないことなのかも知れないけれど、でも国の都合で引き裂かれている人たちを見ると「国」とは一体なんだろう、「国」と「人」の関係ってなんだろうって本当に考えさせられし、複雑な気持ちになるし、一体それをどうすればいいのだろうという気持ちになる)

お兄さんの方は済州島に帰ってしまったが、妹は朝鮮学校に通い、「朝鮮人」という民族を誇りに思って過ごしていく。そして朝鮮学校卒業後は歌舞団に入る。

お父さんがお酒を飲み過ぎて身体を悪くする。お兄さんがお見舞いにやってくるが、父親は面会を拒否する。すっかりきれいになった(それでもおんぼろな)朝鮮学校にお兄さんを案内する妹。かつてはお兄さんもそこの学校に通っていたのだ。

そこの場面がわたしは忘れられない。

妹は当然のことながら、自分たちの民族の言葉を「朝鮮語」という。しかし、韓国に帰って行ったお兄さんは「韓国語」という。妹は「なんで?うちら朝鮮半島から渡ってきて、朝鮮民族なんだから朝鮮語じゃないん?」という。お兄さんは「元は大韓帝国だったから、韓国語なのだ」という。

わたし、ここで初めて分かったんだよね。わたしは自分が朝鮮語のことを「韓国語」と呼ばずに「朝鮮語」と呼んでいるのは、この2人とは別の理由なんだと。わたしの理屈は、日本では朝鮮半島のことは「朝鮮半島」と呼び、また朝鮮戦争も「朝鮮戦争」と呼ぶ。学校でもそう習う。だから朝鮮語は「朝鮮語」なのだ。ここだけ「韓国語」にするとまるで「韓国の言葉」のようなイメージになってしまって、朝鮮民主主義共和国を無視しているように思えるのだ。だが、韓国では朝鮮半島のことは「韓半島」と呼び、朝鮮戦争のことは「韓戦争」と呼ぶ。だから「韓国語」なのだよね。韓国では今は本当に限られた言葉(例えば昔からある「朝鮮日報」とか)そういうときでないと「朝鮮」という言葉は使われない。

わたしの理屈は一見すると朝鮮民主主義共和国の理屈とよく似ていると思う。が、違うのだ。わたしはそこに「朝鮮民族だから」とか「朝鮮人だから」という理由はない。単なる、日本では「朝鮮半島」と呼び「朝鮮戦争」と呼んでいるから「朝鮮語」なだけだ。そしてわたしは何も不都合なことがない限りは「朝鮮語」を使うけれど、例えば韓国人の前で「朝鮮語」は使わない。それは彼らにとってとてもデリケートな問題だが、わたしは何かイデオロギーがあって「朝鮮語」と呼んでいるわけではないからだ。わたしは何のためらいもなく「朝鮮語」と「韓国語」を使い分けることが出来る。

その元になっているのは、何のことはない、わたしが「日本人」(ここでは日本に住むマジョリティとしての日本人ということ)だからなんだよなと。「在日当事者」ではないからだからなんだよなと。

んとね、「マジョリティであること」というのは本当に自覚しにくいことだ。なんてったって「普通」で言い表せてしまうのだから。「普通」ということはほとんどの人と共通点があると言うことで、だからこそ何も感じない。何も感じないところを何か感じろということはとても難しい。わたしはそれまでずっと「日本において日本人であるとはどういうことだろうか」ってずっと考えてきた。でも考えても考えても全然分からなかった。

蒼のシンフォニーを観に行ったとき、わたしはとてつもない違和感を感じた。しかしそれは「周囲が在日で自分が日本人」という違和感ではなかった。あの日記にも書いたけど、あのときは「知らない学校の同窓会に紛れ込んだ」ような違和感だった。あの場でわたしは、自分がマジョリティではなくマイノリティだと感じていた(当然のことながら、だからといってわたしはあの場所で「マイノリティ」だったわけではない。マジョリティとはただ数だけの問題ではない)。

だが、この場面を見たとき「なるほど、マジョリティとしての日本人とはこういうことか」と初めて分かったのだ。やっと自分の「立ち位置」がはっきりしたような気がした。今までわたしはもちろん韓国に対しても、いわゆる「北朝鮮」に対しても「今は、できるだけ公平に見よう」と思って来た。「今は」というのは、わたしがこの2つの国について、全くよく知らないからだ。全くよく知らないのに一つの些細な事実を取り上げて「これが真実だ」と思うのは偏見だ。わたしは自分が偏見を持つことが嫌だ。だからこそ、いろんな知識を知って、その上で判断したい。だが、肝心の「自分がどの場所から見ているか」がずっと自覚できなかったんだよね。だからそのことが分かってわたしは本当に嬉しかった。あの場面を見ながら「ああ、そうなんだ」って。自分のいる場所があの場面を観た瞬間「すとん」と来たというか。そして今後、いろいろなことを考えて行く上での大きな「鍵」をもらったような気がしている。あの「すとん」と腑に落ちた瞬間の感覚を大切にしていこうと思っている。もちろん一言注意しておくけど、これはナショナリズム的な意味の「日本人」ではないです。あくまでもマジョリティとしての「日本人」な感覚。「在日ではない」という感覚。そんな感じ。ただもしかしたらこの言い方は在日当事者にとって失礼に当たるかも知れない。「だから何なの」程度の話だろう、多分。でもこのことはずっとずっと自分でも考えて、でもずっと分からないことだったから本当に嬉しかったのです。

劇の内容について戻ろう。妹は歌舞団に入り「打倒、朴正熙!」を叫んでいる。一方、お兄さんは韓国で朴正熙を応援する側になっている。同じ血を分けた兄弟の中で分断が起こっている。ここは正直、わたしのような「部外者」には最も見えない部分だ。見えにくい部分でもある。だって、とてもデリケートなことだから。わたしは在日の人に向かって無神経に「分断ってどういうこと?それでどういうことが起こっているの?」とは聞くことは絶対にできない。本当はこういうことすら「書いていいのだろうか」と躊躇われる。だってわたしは「当事者」じゃないんだから。当事者たちの経験とか複雑な思いとか、それは「実感」することができないんだから。決して立ち入ってはならない部分。それを無神経に聞いてしまうことは単なる興味本位にしかならない。それは分かってる。だが、いろいろ考えていてこの部分に突き当たってしまうことって結構あるんだよね。わたしには今「見えている部分」と「全く見えない部分」があることは感じている。「全く見えない部分」は想像すら付かない。

うーん、これだと悪意を持つ人から見るととてつもない勘違いをされそうな言い方になってるな。「全く見えない部分」というのは、例えば今現在、在日の中で見えてる部分は「朝鮮学校」を中心としたものが多いということだ。しかし、在日全体の中で朝鮮学校と関わっている人って本当にごく少数だ。その他の部分はわたしには「全く見えない」。例えば性的少数者でいうと(これまた単純には比較して言えないのだが、イメージとしては)表に出てすごく目立ってる人もいるよね。カミングアウトしてテレビに出たりして。わたしだってある程度カミングアウトして生きてるし。ところがその「見えている部分」だけが性的少数者かというと全くそうではない。全く見えない部分で息をひそめて、いや、息をひそめてという言い方は悪いかも知れないが、ひっそりと暮らしてる人だっているわけだ、いろんな事情があって。もちろんその事情というのは「ゲイと分かると差別されるからカミングアウトできない」というのから「いや、性的少数者は一生日陰者として生きなければならないんだ」って考える人まで人の数だけ理由はあると思う。そして数からすると絶対にひっそり暮らしている人の方が多いと思う。でも見えないから世間からは「いない」ことにされる。「ゲイは芸術感覚に優れて」とかよく言われるけど、それは今現在「見えてる部分」がそうなわけであって、そうじゃない人の方がむしろ多いと思う。わたしが在日の人たちについての「見えない部分」というのはそれに似た部分がおそらくあるだろうということだ。もちろん全く同じではないのは当然だが。

ただ、わたしはその人たちを表に引っ張り出したいわけではない。「性的少数者は全員カミングアウトしろ」とは全く思ってないように。わたしが願っているのは、誰もがみな「暮らしやすい」世の中になって欲しいなあと思うだけ。それはそうなんだけど、見えない部分の人たちがどういう思いをしながら今の世の中をひっそり暮らしているのかと考えても、それはわたしから見えないんだから分からないです。性的少数者なら、わたしも当事者だからそりゃひっそり暮らしている人とも会う機会はある。どういう思いをしながら暮らしているかもある程度聞ける。でも在日は当事者じゃないので出会えない、わたしの方からわざわざひっぱり出して会いたいとは言えない。だから「分からない」のだ。だが分からないのは「いない」ってことではない。最低限でもそのことは肝に銘じておきたい。

というわけで、やっぱりこの辺の話がくどくどなるのは、もちろん誤解されたくないのもあるけど、複雑で分からないところが多いからだと思う。でも、分からないということを忘れなければ、いつかは何かあってまた「すとん」と来るかも知れない。一生分からないかも知れない(多分当事者じゃないのでこちらの方だろうけど)。出会うか出会わないかは今後の偶然に任せるしかない。

劇の続き。お兄さんは言う。「小国は、大国の都合でいつも振り回される。だから統一は絶対に実現しない!」と。そして故郷の済州島に戻っていく。亡くなったお父さんの遺骨と共に。しかしお兄さんはその後大変な目に遭っていることが分かる。日本に行ったとき朝鮮学校を訪れたことがばれて、あやうく逮捕されそうになったところを、以前、弁論大会で朴正熙からもらった賞状が出てきて逮捕されずに済んだ、と。

「小国は、大国の都合でいつも振り回される」、これは本当にその通りだ。といっても日本だって「大国」のうちに入っているし、何より第二次世界大戦後、同じ敗戦国だったドイツは東西に分裂したが、日本はしなかった。だけど日本の植民地だった朝鮮半島が分裂してしまった。んー、正直、ここら辺の歴史的な経緯については本当に概略しか知らないので、わたしは今、どうということもできない。そして世界の中では一応大国の部類に入っている日本だってアメリカという大国の前では小国だし、自ら進んでアメリカの言いなりになって、全然国民を大切にしていないことについてはとてもとても憤りを感じる。が、きっと朝鮮半島に住む人たちにとってはそれ以上の思いがあるだろう。だって間に日本が絡んでて、その日本はのうのうとアメリカ庇護の下で経済大国になったんだもの。では一体、自分はその中でどうすればいいんだろう。もちろんわたし個人の力でどうすることができるというわけではないが、でもだからといって誰も何もしなければ、強いものの言いなりになるだけだ。「念ずれば花開く」とか「小さなことからコツコツと」などの言葉が頭に浮かんでくるが(笑)、こればかりは知識を蓄えて時を待つしかない。何かアンテナを張っていれば、いつかは必ずどこかに通じる。それを信じて地道に歩むしかない。それが自分の出来ることと信じるしかない。この言葉は劇中で何回か繰り返されるのだけど、それを聞くたびに胸が痛かった。

その後、お母さんもぼけて亡くなる。すっかり歳を取った女の子(と言っても、もう白髪だ)。子どももいるし、孫もいる。「一世、二世と言うけれど、それは一歩、二歩と在日が歩んでいくことなのかも知れない」と最後に言う。「ああ、そうなのか」と思った。が、それはどの方向に向かって歩んでいるんだろう。人は時代と共に歩んでいるから、いつも同じ場所にはいない。そして一世と二世の思いは違うだろうし、二世と三世の思いも違うだろう。きっとそれが一歩であり二歩であるのだろう。実は、この言葉はまた、その後日、とあるところで思い出されることになる。このときはもちろんそんなこと知らなかったけどね。

この話は、途中からもうボロボロ泣けてきて。自分でも何でこんなに泣けるのかよく分かんないほど涙が出て来て止まらなかった。そして上に書いた3つのこと、「(自分の中での)マジョリティの位置」を発見してとても嬉しかったこと、そして「小国は大国に振り回される。だから、統一は絶対にしない」というお兄さんの言葉、最後に「在日一世、二世といいうのは、一歩二歩と歩むことなのかも知れない」という言葉が深くわたしの心の中に沈み込んだ。この劇を観に来て本当によかったと思った。

ただこのマダン劇、途中で朝鮮語が使われてたり、あとは在日の歴史を少し知らないと難しいかもなとは思った。その点、きむきがんさんの「在日バイタルチェック」の方が何も知らない人も理解しやすいかも知れない。あの話も本当によくできていて、在日の歴史が解放後から今の「高校無償化」の問題まで全部入ってるんだよね。これはホント、何も知らない人たちでもお勧めです。「在日の歴史」と言うけれど、実は在日の歴史だって日本の歴史の一部なんだよね。だって日本で起こったことなんだもの(「同化」という意味で言ってるわけではないです)。だから在日の歴史も、日本の歴史の一部としてやっぱり知っておかなければならないんじゃないかって、わたしはそう思うんだよね。このようなルーツを持つ人たちもこの日本で一緒に暮らしている。在日の中にこういう文化があること、もっと広い人に知って欲しいし、逆に在日の人だけのものにしておくのは本当にもったいない(ってそんなに偉そうなことわたしが言っていいのかどうかはよく分からないけど。なにしろ、わたしだって偉そうに語ってるけど、数年前までは全く知らなかったことなのだから。出会ったのは本当に偶然に過ぎなかったんだから)。「在日バイタルチェック」、今後も東京でやるかどうかは分かんないけど、去年、今年と東京でもやってたみたいなので、今後もまたこちらでやる機会もあるかも知れないですね。その他、大阪でやってるマダン劇も是非、また東京でやって欲しいなと思う。赤字になってしまう問題があるかも知れないが、赤字にならないためにもっとたくさんの人が観に来ないかな。

話が逸れた。「我が家のイヤギ」の方なんだけど、これが劇団タルオルムという金民樹さんの劇団でやったときはおそらくほとんどの役は在日の人が演じたんだろうなと思う。ちなみにこれは金民樹さん自身の話ではないです。金民樹さんが別の在日の人の話を聞いて、それを元にこの話を作ったそうです。今回は大学生で、んで多分、在日でない人が多く演じてたのではないかと思う。しかも観に来てた人はおそらく「日本大学芸術学部演劇学科」の中の人たちを知っているという人たちとか、やっぱり演劇関係者が多かったのかな。ということは、こちらもおそらく在日でない人、の方が多かったと推測される。

もちろん在日の役を在日じゃない人が演じても全くおかしくない。むしろ劇ってそういうものだと思う。が、在日の人がやるマダン劇はあまりにも「当時者性」というものが強いイメージがあるので、わたしは逆に在日の人がやる「マダン劇」はどういった雰囲気のものなのか、それがこの公演を観て、さらに強く感じられたんだよね。ただ、その逆を考えると(逆の逆なので話は元に戻っています)、わたしはあの場の雰囲気は違和感はなかったのね。それは実状はどうであろうと、自分の中に「この場にいるのはわたしと同じマジョリティである日本人が多いだろう」という思い込みがあったから。だからこそ、わたしは「朝鮮語」「韓国語」双方の主張を聞いたときに自分の中で「すとん」と落ちるものがあったのかも知れない。これがきっと当事者である在日が演じたとしたら、それを思うより「分断」のことの方が強く感じられてしまったかも知れないと今、思ったりしている。だが、そのことは劇を演じる人にとっては失礼な言い草だよね。演じる人によって演技力以外のところで説得性が変わるとしてしまうならば。だが、まだ本当のマダン劇を観ていない立場で想像するなら、きっと、マダン劇が行われるところでわたしは、この間の「蒼のシンフォニー」と同じ「違和感」を持つんじゃないだろうか。なぜなら、観に来る人は圧倒的に在日で、しかも朝鮮学校の校庭でやったり講堂でやったりすることも多いからだ。とするなら、わたしはまた「別の学校の同窓会に紛れ込んだ人」になっちゃって、そこでは「マイノリティ」を感じることになる(実際のところは全然マイノリティではないんだけどね。マイノリティというのはただ「少数」という意味ではないのだから)。とすると全く同じものを観たとしてもわたしはそこで「すとん」とならなかったのではないか。それを考えると「日本人の手でマダン劇をやった」ってことは(注;本当に日本人の手でやったかどうかは、事実かどうかは分からない。ただ、わたしの感覚としてだけど)、これはこれで大変な意味を持つということではなかろうか。だとすると、わたしが「偶然」出会ったこのことは、とても貴重な経験だったのではないかと。

演じた学生たちはすごく勉強しただろうと想像する、この劇をやるに当たって。劇の役作りについてはよく分かんないけど、でもその人を演じるのであれば、その人がどういう人なのか、今までどういう風に生きてきたかとか考えたりするよね、多分。だからこの劇を演じる上では学生はきっと在日の歴史のことについてうんと勉強したと思う。そして上でも書いたけど、おじいさんの口調なんて、本当にうまかったと思うし。しかもこの人、お兄さん役と実は二役だったんだけど、正直、気が付かなかったんだよね。それはお兄さんの幼少の時の役の人が、わたしには「女の子」に見えてしまったことも一因だろう(実際、女の人が演じたのがあることと、朝鮮語の名前はわたしには聞いただけでは男性なのか女性なのか区別が付かないので当初「姉妹」とばかり思い込んでしまってたのよね)。大きくなって出てきたとき「なんとなく似てる」とは思ったんだけど、帰ってパンフをよく見てみるまでは二役とは思わなかった。これってどう考えればいいんだろう?

あのね、初めにやった「ちゃんぽん」で主要な役をやってた人も、このマダン劇のちょい役(例えばお葬式の場面で棺を持つ人など)で出てくるの。そうすると「あっ、さっき出てきたあの人だ」とか分かっちゃうの。全然違う格好してても。それがなんかとても違和感があってね。「さっきあんな格好で出てたのに」とか。その役が印象深かったと言えばそうなんだろうけど、しかし、同じ劇の重要な役をふたつやりながら、同じ人に思えなかったというのは、うーん、どう評価すればいいのか。おじいさんとお兄さんは別人なんだから、当然「違う人」に見えるのは当たり前で(外見が似てたとしても)、そこのところの区別が役を演じる上でうまく付いていたと言うことなんだろうか。なんか不思議な感じです。

わたしはこの「総合実習IIIA」という授業の位置づけがちっとも分からないので、どういう人たちが演じてどういう位置づけの実習だったかはちっとも分かってないのだが(しかもアンケートには「照明はどうだったか」とか「大道具、小道具はどうだったか」とかいう質問があったんだけど、そんなのわたしには評価できないよ。照明とか小道具がいいとか悪いとかってどういうことなのかも分かんないんだから。というかその質問を読んで初めて「あ、照明とか大道具、小道具も学生がやってるのか」って初めて認識したほどだし。そういう質問があったこと自体、観に来る人って演劇関係者が多いってことだろうか?)この公演自体はとっても面白かった。「普段は在日の人が主体になって演じられる劇をそうでない人たち(これ、何度も言うけど実状は分かりません。わたしがそう認識しているだけ)が演じること」って本当はなんかものすごく意味があることだったんじゃないだろうか。ただ、だからといって日常的に在日の人たちが作ったマダン劇を日本人が「取り上げる」ことには反対だ。マダン劇は彼らのものなんだから。そことこことはきっちりと「線」で区切っておかねばならない。

本当は韓国で「ちゃんぽん」を観てみたいけど、さっき書いたように演劇はそう簡単にリバイバルするものではないから、観ることはできないだろうな。でも、この劇を観に来ている韓国の人たちがどういう反応をしながら観るのか、そういうことにも興味があったりする。でももし観るチャンスがあるとしたら、それまでに朝鮮語がもっともっと分かるようにしておかねば!

ちなみに「ちゃんぽん」の方は脚本を読んだが(これコピーするためにわざわざ都立中央図書館まで行きました)、カットしてある部分はなるほど、カットされてても話自体には影響はあまりないところだったなという感じかな。夢の中の話のようでした。拷問されるシーンだったけど。
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12-01 Tue , 2015
夏の東北旅行記 その3(人生初!山形・秋田)
今日から師走なんだけど、季節を無視した日記を書いてます(^^;

その2の続き。

わたしは昔から「枕が変わると眠れない」体質で、うつ病になってからはさらに「疲れたときの方が覚醒して眠れない」体質(というんだろうか?)になってしまった。しかもこれまた「睡眠不足だと頭が痛くなる」体質でね。よく歳を取ると「若い時みたいに何日も徹夜できなくなったー!」って言う人がいるんだけど、わたしは既に高校生の時から徹夜は無理だった。一回ねー、定期テストの時に徹夜で勉強してみたのよ。科目は物理で、しかもそれでもうテスト終了、というから最後はちょっと無理してみよっかな、みたいな感じで。

。。。散々だった。眠くて頭が痛いわでテストどころじゃなかった。なので「あ、わたしは徹夜無理」と思って、それ以来完徹したことない(睡眠障害で夜眠れなかったのは除く)。

でさー。旅行行くと必ず持っていくのは頭痛薬。絶対にどこかで疲れて頭が痛くなるから。長い旅行で途中、頭が痛くならなかったことがない。

そして3日目の朝、頭痛が起きちゃうんだよな~。1日目と2日目、よく眠れなくてね。身体はとっても疲れてるんだけどね。

8月3日(月)
というわけで、起きてみたら頭が痛かった。でも朝食は確か7時半って決まってたので無理矢理食べる。

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前日とメニュー違うけど、ここのYHは基本、和食なのね。前に来たときもそうだったと記憶してるが。。和食、洋食と日替わりになってるYHもあるよね。

朝食後、本当ならそれからすぐに出て、途中、ちょっと2駅ほど歩こうかなってプランを立ててたんだけど、頭痛いし、これ以上体力使ったらこの先持たない、と思って、1本電車遅らせて、チェックアウトギリギリまでYHで寝てることにした。だってねー、東京で旅行のプラン立ててたときは、東北ってこんなに暑いとは思いもしなかったのよ。夏の東北に行くのは初めてで、東北ってもっと「涼しい」イメージを持ってた。ところが仙台はほとんど東京の暑さと変わらない!「騙されたー!」って思ったね。尤も現地の人に聞くと「今年は異様に暑い」って話だったけど。。暑いと余計に体力奪われるじゃん。しかも頭が陽に当たるとこれまた頭痛の原因になるので。。

ご飯食べ終わってから2時間ほど寝てたら、頭が痛いのが治まってきたので「よかった」と思いつつ、YHを後にした。

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YHの最寄り駅、太子堂を10時11分発。太子堂から仙台まではなんかいろいろな線があって、どれに乗ったんだかはよく覚えてない。東北本線の他にエアポートなんたらとか、いろいろあるらしいね。

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仙台!てか、是非とも「むすび丸」が付いてる仙台駅の看板を撮りたいと思ったんだけど、前の日記にも書いたように今仙台駅ってなんかとっても構内を工事してるんだよね。これ、見つけるの結構大変だった。

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12時11分、仙台駅から仙山線に乗る。これからいよいよ山形へ。といっても山形までは行かないのだけど。実は人生、初めての山形県。山形は花笠音頭で天童とか尾花沢という地名は知っているけど、ああ、あと天童市は将棋の街だとかね。さくらんぼもそうかな?でもそれ以外のイメージって全くなかったです。

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13時26分、羽前千歳着。この先が山形なんだけど、山形まで行くとうまいこと奥羽本線に乗り継げないのね。まぁここから先は仙山線と奥羽本線の重複路線だからだと思うけど。

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電車が来るまで10分以上あったんで、駅のホームをブラブラしてたら、こんなものを発見。ここで線路内に物を落としたらわざわざ山形駅に連絡してそれで駅員さんに取ってもらわないといけないみたいで。でもそんなこと律儀にしてたら時間がどのくらいかかるんだろうかと思ったりして。山形からここまで駅員さんは何で来るのかな~とか、電車に乗り遅れたら飛んでもない目に遭うだろうなとか。

しかしここは本当に暑かった!確かに山形のここら辺って盆地だから余計に暑いとは分かってたけど、確か今までの日本での最高気温って山形が記録してたと記憶してるけど。で、ここで偶然iPodから流れてきた曲は、細川たかしの「津軽じょんがら」で、それを聞いたとき、ビミョーな感じだった。まぁここは津軽ではなかったけど、「津軽は雪ん中~♪」と歌われても全く想像が付かない(笑)あ、ちなみにわたしは別に細川たかしのファンではなく、数年前の紅白で細川たかしが「津軽じょんがら」を歌ったときにそれが頭から離れなくなっちゃって、次の年(って紅白の次の日はもう新年だが)の正月にiTunes storeでこの曲だけ買って、iPodに入れてたのだ。あと上にちょっと書いた花笠音頭もiPodに入ってて、なんでこんな曲が入ってるかといえば、わたしは日本の「音頭」が好きで何枚かCD持ってるからだった。沖縄民謡も好き。ただ、沖縄を除く日本の民謡はイマイチ。やっぱノリがいいのが好き。河内音頭も好き。まぁわたしの音楽の好みはそれだけじゃないけど、基本、日本の民族的なリズムってのは好きなんだよね。かけ声とか。エンヤコラセードッコイセ、とか(って河内音頭じゃん!)。まぁでもこの季節に聞く演歌などは、地元に近いけど、季節感が全く違うのですごーく違和感があって、それがとても面白かった。

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13時39分、奥羽本線、羽前千歳発。ところがこの電車ねー。既にものすごい人が乗ってて、危うく乗れないかと思うほどだった。ものすごい人、というのは、どうやら高校生みたいで。この日、集団登校日だったのかしら。多分、山形から乗ってきたんだよね、この子たち。でさぁ。びっくりしたんで未だにこの電車の中の光景が忘れられないんだけど、みんな電車の中で勉強してるの!!!@@;大抵、今どきはゲーム機持ってたりスマホの画面見てたりするじゃん。違うの。なんかねー、大きい画板みたいのをみんな持ってて、それを下敷き代わりにして書いたりしてるの。座ってる子だけじゃなく立ってても。画板をみんな持ってるってことは、いつも電車の中で勉強してるってことだよね。なぜかみんな、英語ばっかりやってたけど。しかも、子ども連れのお母さんに席を譲ったりしてて。ええ子や~、キミら。わたしはこれで山形県のイメージが変わりました(大げさ)。

そんな劇混みだった電車内も、途中でみんな降りていき。

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14時42分、新庄着。ここで1時間近く次の電車を待ったんだけど、もう暑くて暑くて。

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なんと34.9度。暑すぎて朦朧としたので駅の外を出ようとも思わなかった。しかしここ、新幹線の始発駅なんよね~。初めて知った。ローカル線と同じ線路を新幹線が走ってる区間なのよね。

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15時37分、新庄発。ここからも奥羽本線。途中、

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これなんて読むん?みたいな駅があり。「及位」はどうやったら「のぞき」と読めるのか?「のぞ・き」なのか「の・ぞき」なのか?「湯沢」って新潟にあったんじゃなかったっけ。ここ、山形、いや、もう秋田か、秋田だよね?ああ、そういえば新潟の湯沢は「越後湯沢」だったっけ。「越後」って付いてるのは、ここと区別するためだったのかとか。そして乗ってるうちに気が付くんだよね。。

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辺り一面が田んぼなことを!

んーなんていうのか。わたし、これまでここまで一区画が大きな田んぼを見たことがなく。すごいきれいだったー。わたし、この区間の奥羽本線の風景、この旅行の中でも印象に残る光景のNo.1です。

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そして本日の宿泊地、大曲YHがある飯詰駅、17時16分着。

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ここの駅は、当然のことながら(?)、無人駅でして。そこから30分くらいかなー、YHまで歩くのは。そう大した距離ではないし、なんてったって、周囲が田んぼだらけで本当に「わー」と思いながら、道を歩いてた。

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右側の画像の黒い点々は、カラスです。なんでかよー知らんが、何も植わってないところにカラスがたくさんいた。何かの種が蒔かれてたんだろうか。

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あまりうまいことは撮れなかったのだが、一応パノラマで。そういえば、3月に安曇野に行ったとき、安曇野YHの周囲も田んぼだらけだったけど、こんな感じなんだろうかとふと思ったりして。しかし本当に一区画が大きかった。秋田と言えば「あきたこまち」をすぐに思い出すけど、これらはみんな「あきたこまち」なんかしらん?

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大曲YH。入口があまりにも普通の家の玄関みたいだったので、そこじゃなく、もっとYHの入口っぽいのがあるのかしらと思ってその先に行ってみたのだが、そんなものはなかったので「ここから入るのかー」と。ペアレントさんはよーく喋るおじさんでした。おじさんと言っても、わたしとあまり年齢は違わないんだけども(汗)

「急な客が来なければ、今日は部屋に一人です」と言われて案内されたのが

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じゃーん。クーラーなし!「でも開けっ放しにしておけば、外から涼しい風が入ってくるから」と言われ、え、開けっ放し???夜中でも?「まぁだいたい夜中にここを通る人なんていないから!徘徊老人以外は(笑)」え、ああ、そうなんですか。。。てか、プライバシー全くないじゃんかーって思ったけど、実際、泊まってる間は誰も入ってこなかったです(当たり前か)。でも、最初の方はちょっと落ち着かなかったな~(笑)

ペアレントさんから「今、秋田は竿灯祭りの最中だけど行かないの?盛岡でもさんさやってるよ」と言われ「ああー、ここは青森に行く途中でどこかに泊まらないといけなかったから来ただけなんです」と答える。「もうさー、この時期は東北は夏祭りだからね、どこでも!」と言われ、そっかー、そういや仙台もこれから七夕だったし、夏の東北ってそういう意味では「日常」ではないんだと思わされる。「日常?日常だったら冬がいいね。冬の方が日常だよ」と言われる。ここのペアレントさんは、地元出身の人ではないようで、埼玉出身の人だったかな?脱サラしてYHを経営してるらしい。とにかくしゃべり好きな人で、聞けば周辺のたくさんの見どころを教えてくれる。わたしは既にこのときまでに「今、わたしの体験してるのは、東北じゃないような気がする」と思ってたので、次に来るときは寒い時期に来てみようかなと思い始めてた。ので、ここの冬の行き場所を教えてもらったりした。冬はここらは横手でかまくら祭などがあるらしいのだが、それ以外はやはり温泉だとか。ただ、わたしのような公共交通機関を利用するとなると、その選択肢はぐっと減るみたい。

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この日の夕ご飯。ちなみに野菜類はすべて、ペアレントさんが自分で作ったものだそう。右上の黄色いのは食用菊だったかな。左上の汁物は秋田名物「きりたんぽ」だそうだ。普通、きりたんぽは冬のものなんだけど、まぁここでは夏も出してくれてるみたい。きりたんぽ、初めて食べました。

この日は朝、頭痛かったし、それまであまり眠れてないしで、ご飯食べた後早めに寝ようと思ってすぐ風呂入って布団の中に入ったのだが、なんかねー、消灯の少し前に新しい宿泊客が来て、その人とペアレントさんがずーーーっと食堂で話してるんだよねー。部屋、あけっぱなしにしてるじゃん?何を喋ってるのか、内容までは分からないけど、それがうるさくてさー。だいたい消灯過ぎたら静かにしなきゃなんないんじゃん、誰だって。それにこんなにうるさかったら誰かが注意するだろうよと思ってしばらく放っておいたのだが、12時近くになってもまだ喋ってる!なんかちょっとウトウトしかけたんだけど、声で起こされてしまって、わたし、これ以上眠れなかったら次の日も頭痛じゃん、こりゃ言わんと分からんわと思って仕方なく食堂まで行って「すいません、もう消灯時間、だいぶ過ぎてるし」と言ったら「ごめんなさい!」と言われてすぐに終わったけど、もー、どうなっとるん、ここのYH。ペアレント自ら消灯時間無視するなー。って、わたしも今まで眠れてなかったもんだからね、これ以上眠れなかったらという恐怖心もあったんで、どうも済みません。

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夜になれば、そこそこ涼しくなると言われ、確かに寝る前の時点で25度を割ってたけど、ちょうど明け方一番寒いときに起きたので「今は何度だろ?」と思ってみたら、22度台だった。確かにこれだとクーラーなしで行ける。ペアレントさんとはわたしが歯磨きしているときに少し話したんだけど(冬の見どころなどもそのときに教えてもらった)「こんなに暑かったらクーラー付けないとダメかなあ。でも、クーラー付けても稼動日数が年間10日くらいなものだし、付けたら維持費がかかるんだよね。。」と言ってたので、翌日「わたしは別にクーラーいらないと思いますけどね」と答えておいた。

ちなみにここのYH、わたしが泊まったときは全部で3人くらいしか宿泊客がいなかったと思うけど、その次の次の週だったか、大曲の花火の時は満員になるんだって。ただ、経営はかなり厳しいみたいですね~。YHってわたしが高校生の時は夏休みとなればどこもいっぱい、予約取れないところもたくさんあったのに、最近は本当の客が減ってるのね~。まぁこれだけの施設を数人で使うとホテルに泊まるより部屋は広いし、一人部屋だし、風呂もそれなりに広いし、これまた一人で十分浸かれるし、というので、今はかなり「穴場」になってると思う。ただ、同じ部屋に同じ旅行者がいないので旅の情報交換などができないのは、ある意味YHの醍醐味もなくなってしまってるというのが現状か。寂しいね。

その4へ続く。
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11-30 Mon , 2015
夏の東北旅行記 その2(東北レインボーSUMMERフェスティバル)
その1の続き。

しかしなぜこの日程で東北旅行をしようと思ったかというと、「8月2日に仙台で『東北レインボーSUMMERフェスティバル』があるからそれを見に行くため」だったんだよね。わたしは地方に住んでたこともあったけど、セクマイの活動は東京以外ではやったことがなく、地方の人が地元でどんな活動をやってるか、地方のセクマイはどんな感じで暮らしてるのか、そういうのがずっと知りたかった。地方のセクマイの人がどんな思いをして日常生活を送っているか、しばしば耳に入っては来たけど、実際にその場に行ったことはないし、雰囲気も分からない。それに特に地方には長く活動をしている団体が数多くあり、そういうところから学ばせてもらいたいとも思っている。地方というのは仙台に限らずね。

それから、東京で行われるプライドパレードのときは地方からもたくさんの団体の人が来てて、そこでいろいろ話したりはするんだけど、いつもいつも東京でしか会わない、というのが嫌だった。だってそれは彼らにとっては「非日常」なわけで、わたしはそういう彼らの「日常」が知りたかった。それと東京のパレードなんかわざわざ行かないよ、って人もいるだろうからね。そういう人と会って話をしたかった。

東京に住んでる人は、ほとんど東京を出ることはない。いつもいつも地方から来る人を迎えるだけ。わたしが地方に住んでたとき、東京に住んでた友だちはいつも「今度はそっちに遊びに行くから!」って言ってたけど、実際は1度も来てくれたことはなかった。そりゃ確かにわたしが東京に行くのは友だちに会いに行くだけではなく、別の用事もあったりしたからだけど、だけどいつもいつも「こっちから会いに行く」のは不公平だと思った。東京の人は傲慢だと思った。そういう経験があるからわたしはそうはなりたくないって思ってるんだよね。こういう、いくつかの理由があって、わたしは今回東北に行ったのだ。

8月2日(日)
宿泊先の「道中庵YH」は夕食の提供はなくなっちゃったけど、朝食はあるので。

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お米は宮城県産のお米って書いてあったかな~。

「東北レインボーSUMMERフェスティバル」は13時からなので、YHにいられるギリギリ10時までは部屋でのんびりして、それから出る(YHは連泊でもチェックアウト時間以後に部屋にいることは出来ない)。

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YHの玄関先にあった「むすび丸」。かわいい。気に入ったんで撮っちゃった。

それから仙台駅まで行ってふらふらと~。仙台と言えば「萩の月」なので、そういうのを買ったり。しかし、よく考えてみれば仙台って帰りも通るところだったので、何もこの日に買わなくてもよかったんだよね。。。「萩の月」は本当にわたし大好きなんだけど、一つ一つ箱に入ってたりするのがあまり好きではなく。なんかどこかで簡易包装の「萩の月」が売ってると聞いてたので、ネットで調べてわざわざ買いに行く。と言っても仙台駅の駅ビルの地下だったっけ。

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「東北レインボーSUMMERフェスティバル」の会場は仙台市市民活動サポートセンターというところだったんだけど、そこで7月18日から8月9日まで「虹色七夕」という展示イベントもやってたのね。だからそれを見るためにちょっと早めに着いておこうと思って「萩の月」を買った後、そちらへ向かった。で、上の画像は全然関係ないですが、確かあおば通とどこか交差してる広い道を渡るときに、歩行者は地下に降りなくちゃならなくて、地下に行ったらそこにあったもの。これは一体なんなんでしょ?噴水の施設だったとか?冬になるとここから暖かい空気がぶわーっと吹き出すとか?(それにしても仙台はものすごく暑かったです!!)

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そして、会場の仙台市市民活動サポートセンター。なんだかすごーく立派な建物だった。そこの5階の展示スペースで「虹色七夕」をやってたので先にそれを見に行く。

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展示スペースは全体がこんな感じ。

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まぁ一角と言えば一角なんだけど、でも丁寧に読んでいくと全部読むのはかなりかかると思った。当事者のメッセージあり、東北地方のさまざまな団体の冊子あり、芸術作品みたいなのもあり。

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こんな感じ。そうそう、一番右の画像の下に貼り付けてあったのは、七夕に関する短い小説だったんだけど、読んでみたらすごく笑えて面白かったので全文撮って来ちゃった(いいのかしら?)。

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わたしはこれ系統の話が好きでね(笑)彦星は実はゲイって設定。まぁホントはこれじゃ織姫がなんだかいいヤツでかわいそうに思えてくるんだけどね~(一年中機織りなんて(涙))。

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「虹色天の川」という作品。確かこれ、学生団体の作品だったっけ?当事者かどうかは分からないけど、いろいろな人の願いが書かれてあった。中には「おにくたべたい」というのがあって、書いてるときにお腹が減ってたのかな?とか思ったり(笑)「同性愛は罪と言われた」というのは見ててつらいね、、

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やっぱり忘れちゃいけないのがこれ。なんだけど、時間がなくてほとんど読めなかった。ウェブサイトでも公開してると書いてあったので、読んでみようと思いつつ、まだ読んでない。

わたしがこの展示を見てるとき、他に1人だけいて、でもその人は当事者じゃなく、当事者のことが知りたかったから来てみたって言ってた。「東北のことはよく分かんないけど、多分当事者じゃなくても参加できる交流会とかたくさんあるんじゃないですかね~」って言っておいた。てか、このときはまだ知らなかったけど、実際、そうらしいです。

で、そろそろ時間になるかなーと思って今度は地下1階へ。

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エレベータ降りて会場の中に入るとこんな風船がたくさん。カラフルできれいでしたよ~。で、会場。

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なにやらここで話されるらしい。ただねー、会場全体の画像はありません。ていうのは、プライバシーの問題があって、誰が写り込むか分からなかったから撮れなかったんだよね。この舞台が一番前方として、その後ろに椅子が何列にも並べられていて、それを取り囲む壁際に地元の団体のブースがいくつか出てた。わたしが会場に着いたときはまだ全然客がいなくて「本当にこの座席、全部埋まるの?」って思ったんだけど、始まるに従って人が増える増える。結局席は全部埋まって、周囲に少し座るスペースがあったんだけど、そこまで人が座っているという、かなり盛況のようでした(確か、参加者108人だっけ?終わってから参加者人数発表の時に誰かが「煩悩の数と一緒」って言ってたことを思い出す(笑))。

でねー。実際、舞台の上でいろいろあったのも全部、画像には撮らなかったの。正直、どこなら大丈夫でどこがダメかよく分からなくて。うー、例えば名古屋のNLGRとかはそんなの気にしなくて誰にも聞かずにバシバシ撮っちゃってたけど、なんというか、「ここ」では誰が顔出ししてるかしてないか、ってのがよく分からず。なのでここからはほとんど画像はありません。わたしはステージイベントが始まるまでは各団体のブースに行って誰彼かまわず挨拶をしてました。かなーり変な人だったですね。すみません、、

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この会場がすばらしかったのは、こうやって耳が不自由な人のために話したことをパソコンに入力してこんな感じで出す、ってスクリーンがあったこと。これ、こんな感じでパソコンが4つあって、4人の人でやってました。どういう役割分担があるんだろう?って思った。

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こういうの、やってくれるシステムがあるようです、仙台って。見てたらなかなか大変そうだったけど、これだと一瞬聞き逃してもスクリーンを見れば分かるので、耳が聞こえても便利だった。

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これが始まったところ。ただしねー、フェスティバルは第1部「武田こうじポエトリー・リーディング&トークショー」、第2部「ステージ・パフォーマンス」だったのだが、このサービスは第1部だけだったんだよね。まぁ歌ったり踊ったりのステージ・パフォーマンスにはこういうのは必要ないのかなあとも思ったけど、でも、今、何をしているかちょっとだけ字幕の説明があった方が分かりやすいんじゃないかとは思った。リアルタイムで文字化しなくても、事前にどういうパフォーマンスをするかは分かってるんだから。

第1部「武田こうじポエトリー・リーディング&トークショー」は、武田こうじさんという人とあと地元団体の当事者、ゲイとバイセクシャルの人(確か女性自認の人だったか)の計3人のトークショーだった。地元では武田こうじさんは有名な人なのかも知れないけど、わたしは全く知らなくて。地元の詩人だったかなあ。時折、武田さんの作った詩を武田さん自らが朗読してた。

それが終わったあとは「Living Together in SENDAI」ということで、HIV/AIDSの手記朗読。なんか久々にこういうの聞いた感じ。わたしも以前、Living Together Loungeがあった頃はちょくちょく二丁目に行ってたんだけど、あれがなくなってからはHIV/AIDS啓発活動のイベントに行くことがなくなってしまって。名古屋のNLGRもとんとご無沙汰してるし。

そして第2部「ステージ・パフォーマンス」。最初は舞台の上で何人か出てきて女装姿で踊ってた。誰も知らない人なんで、その人たちの性自認などは全く分からないのだけど、男性に見えた人は4人くらいいて、女性に見えた人は1人いた。こういうところで男女混合で踊るのはかなり珍しいと思うけど、まぁわたしは最近、その手のイベントを見ることがないので、今現在それが珍しいのかどうかは分からない。踊りが終わったあとは一人で出てきて突然オペラを歌う人がいて、これはちょっと斬新。てのは、東京、大阪、名古屋などの大都市でやるイベントって性的少数者(主にゲイだと思うが)のパフォーマーがかなりいて、その人たちだけでできちゃうんだよね。この前にやった女装姿で踊るとか、あとはドラァグクイーンが出てきてパフォーマンスやるとか、それで一イベントできてしまうくらい人数がいる。だからこういうところで「ゲイ文化」の中には入ってないオペラを披露するってことはかなり珍しいのではないか。少なくともわたしはこれまで見たことはない。

なんていうのかな~。地方ではセクマイが少ないって言われる分、地域の人を巻き込んでいかないといけないのかなって思いつつ、でもこれはかなり重要で効果的ではないかと思う。セクマイはセクマイで固まってたって、理解者は全然増えないし、逆にセクマイで固まられると当事者でない人は中に入りにくくなる。けど、こうやって理解者を巻き込んで一つのイベントを作っていくのって、大変は大変だろうけど、別の理解者も増やすことになる。地方は人数が少ない分、そうやってやらなければならないんだろうけど、これは東京でもやってかなきゃいけないよね~。まぁ東京レインボーパレードでは、毎年大物ゲストを呼んで、コンサートみたいなのをやってるけどね。てか、わたしは東京で行われるこの手のパフォーマンスってあとは年末にやるgakuGAYkaiしか知らんわ。そういう情報、最近はホント集めてないから知らない。

まぁとにかく、このオペラのパフォーマンスは斬新でかなり気に入った(笑)

次は月子さんっていう、地元では有名なのかしら、ドラァグではないけど女装の人?がポールダンスのパフォーマンスをしたのだけど、その前に準備と言うことでその間に見た「青葉城恋歌」に合わせたPVが流れ。これがまたすごい笑えた。仙台駅とか、萩の月とか、青葉城址とか、広瀬川とか、仙台の有名どころが出てきて、月子さんと思われる人が男に振られるんだか振るんだか(よく覚えてない)、胸パッド代わりに萩の月入れてたり、それを食べたり、なんかすごく面白かった。「あー、仙台にとってはこういうのがベタで笑えるんだなあ」って思った。わたしはもちろん地元の人ではないから、同じものを見てても捉え方が違ってるとは思う。

ポールダンスって初めて見たんだけど、すごいね。本当はとてもとても画像に撮りたかったんだけど、撮っていいのか分かんなかったから、終わったあとの画像。

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あとで聞くと、後ろの方の人はバシバシ撮ってたそうです。が、わたしより前にいた人は一人もカメラ向けてなかったからな~。残念だった。これに垂直に身体を立てるのってすごい腕の筋肉が必要だよね。

てなわけで、ステージ・パフォーマンスも終わり、最後に抽選会。当たったらLGBTフレンドリーなスキー場だったっけ、そこのチケットがプレゼントされるとかだったけど、わたし、それに当たっても元々スキーやんないしってことで、「当たるな~」って思ってたら運よく当たらなかった(笑)ちなみにそのLGBTフレンドリーなスキー場、どこだったかは忘れた。会津とかだったっけ。なんか宮城県じゃないんだなあとは思った記憶はある。

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これが外れて持って帰ったチケットで~す。

会が終わって、前日同じ部屋に泊まった地元の人から聞いた回る寿司屋でも行くかと思ってたら、会場で知り合いになった人が親切にも夕飯に誘ってくれて、8人くらいで一緒に食べた。

そこでいろいろ地元の人の話が聞けて楽しかったけど、やっぱり震災の時の話になった。なんか地域によって全然違ったみたいだけど、地震起きてからライフラインが復旧するまでが大変そうだった。「1週間くらい風呂に入らなくても生きていけるって分かった」って話してくれた人がいるけど、そうなのか~って感じ。あとは「あの季節でよかった」って言った人も。電気が使えなかったから、冷蔵庫が役に立たなかったんだけど、まだ寒い時期だったから食べ物が腐らなかったって。それにこれから暖かくなる時期、というのも不幸中の幸いというか。住んでるところが基準以上に傾いたので全壊の対象になったとか、浸水してもう住めないのに半壊にしかならなかったとか、そういうことも聞いた。地震が起きてすぐに電気が来なくなったから、情報が全く来なくて、たまたま前の人がワンセグで見てたテレビをちらっと見たときに東京の画像が写ってたので、その人は「東京が震源地だったんだ!東京が壊滅したらどうなるんだろう」って思い込んでたとか。そんなことを面白おかしく話してたけど、まだまだあの震災に遭った人の記憶は鮮明なんだよね。

仙台ではいろいろ交流会などのイベントもあり、今度はそういうのに参加してみたいなあ~と思った。何回も行けるわけではないけど、1度は行ってみたい。

というわけで、楽しかったです、この日。お世話になった皆さん、本当に有難うございました。

その3へ続く。
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11-29 Sun , 2015
夏の東北旅行記 その1(出発!)
いつの話?と思われるかも知れないが、取り敢えず夏に東北を旅行したことは一応、書きたかったことなので。

ただ、もうあまりにも前の話のような気がしてて、あんまり覚えてないかも知れないので、撮った画像を中心に、淡々と書くつもり。

旅行期間は2015年8月1日(土)から8月10日(月)。主に「青春18きっぷ」で旅行したが、あれは5回限りなので、最後の日のみ普通の切符、つか、普通にSUICAを使った。

8月1日(土)
出発の日。8時22分、東京駅から東北本線に乗る。てか、電車の区別、何線なのか、実はよく分からない、複雑すぎて。鉄オタではないし。画像を見ると「上野東京ライン」とか書いてあるね。でも乗れればいいんです、電車は。わたしはそんな感じ。「何形」だとかは全く興味がありません。

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確か、この電車は割と空いてて、しかもボックス席だったような気がする。わたしのイメージだと「鈍行」=「ボックス席」だったので、それが当たり前だと思っていたというか、田舎に行くほどそうだと思ってた。だが違ったのね。ボックス席に座れたのは、ここだけで、これから先はほとんど全部長いすだったのだ。長いすはねー、外が見られないから嫌なのよね。わたしは鈍行列車で音楽を聞きながらボーッと流れていく車窓を見るのが大好きだから。

10時16分、宇都宮着。ここからさらに東北本線に乗る。10時26分発。

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わたし、宇都宮駅の看板を撮って気が付いたんだけど、駅の看板、漢字表記のところとひらがな表記のところがあるんだよね。東京駅は漢字だったけど、宇都宮駅はひらがな。統一されてないのが意外。駅名を漢字表記にするとかひらがな表記にするとか、どういう基準で決めてるんだろう?

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この電車の中には「とちまるくん」というキャラクターのシールがたくさん貼ってあって、栃木のそれぞれの名産とか名勝を紹介してた。撮った画像は駅員さんだったけど、宇都宮の餃子とか、日光東照宮の「見ざる言わざる聞かざる」とか、そんなのもあったんじゃなかったっけ。こういうキャラクターがいるの、ここで初めて知りました。てか本当に今、各地のキャラクターがあるよねえ。この旅でもいろんなところにいろんなのがあったよ。しかし、この電車はなぜかすごーく混んでた。。最後まで。

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11時17分、黒磯着。11時33分、黒磯発。さらに東北本線に乗って北上。この電車も混んでたんだよなあ~。しかもさっき書いたように最初に乗った電車以外はずっと長いすだったので、景色も見れず。ちなみに音楽はiPodに入ってる曲をランダムに聞いてたような。。てか、この旅は「ここではこの曲」というのはほとんどなく、ずっとランダムだったような。そうするとたまに面白い現象が起こるんだよね(笑)

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12時38分、郡山着。12時42分、郡山発。まぁね、ここは本当に記憶ないね。だいたい乗り換え時間4分だと、着いたときに駅の看板撮って、それからこれから乗る電車の画像撮ってたらそれだけで多分おしまい。てかそれだけのことができるか、かなりドキドキなんだよねー。

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13時28分、福島着。14時11分、福島発。ここで30分以上時間があったので、駅の改札を出て(青春18きっぷは乗り降り自由)すぐ近くにあった喫茶店みたいなところで昼ご飯を食べる。何食べたかな~。旅行中は基本、昼食抜きなんだけど、なんとなくお腹が空いたんだよね。でもそんなに食べたいとも思わなかったので、軽くサンドイッチを食べたんじゃなかったっけ。コンビニに売ってるようなサンドイッチだった。それとコーヒー。画像は撮ってなかったね。今気が付いたけど。

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15時36分、仙台着。取り敢えずこの旅行の目的地の一つ。なんか仙台駅はあちこち工事をしていて、看板も仮に付けた、みたいなのが多かった。しかし朝8時半から15時半まで7時間か。7時間というとすごく長い感じがするんだけど、感覚的には「あっという間」だった。しかしこの電車、気が付くと右側の画像のような「もし津波が起こったときは」という注意書きが貼ってあって「ああ、震災があったところなんだよなあ」って。

まぁそれは、この旅行の日程を組み立てるときから思ってたけどね。わたしは行きと帰りは同じ道を通って帰りたくない性分なので、いかに「一筆書き」で行って帰るかを考えながら乗る電車を決めてるんだけど、今、常磐線の一部がまだ動いてなかったり、山田線の一部が代行バスだったりで、日程を組み立てるのにかなり苦労したんだよね。てか、常磐線経由では絶対に戻れないので(原発の影響で電車が動いてない)、仕方がなく行きと帰りは同じ東北本線経由を使わざるを得なかった。ただ、わたしは生まれてから一度も鈍行で東北を旅行したことがないので、当然のことながら震災以降、ここら辺に来たのは初めてなのだ。

あ。しかし。仙台は行ったことがある。過去に1度。学会で。あと東北は「点」で行ったことがあるところが多くて。例えば先ほど乗り換えのために降りた郡山は友だちの結婚式で1度来たことがある。あとは青森。青森は今まで2回行ったことがある。大学の時の乗船実習で1回、去年1回。あとはなし。そのくらい、縁がうす~い土地なんだよね、東北って。わたしにとっては。福島から東北だから、東北って「結構近いんだなあ」と思ったのだが、実はまだまだこのときは分からなかった。東北ってものすごく広いんだということに。。

そして今の時点では震災の影響があったとは全く感じられなくて。まぁそういうところを通ってこなかったからだけど。

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太子堂。本日泊まる「道中庵YH」があるとこ。っていうか、上に仙台に来たことが一回あってと書いたが、そのときもここに泊まったんだよねえ~。ちなみに右側の看板の上に付いてるおむすびみたいなキャラクターは「むすび丸」というんだそうだ。これも初めて見た。

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来たのが昔過ぎてもう全然覚えてなかったんだけど、YHの入り口。ここはねー、かつて泊まったときは自家製のお米とか野菜とか、そんなのでご飯を作ってくれてたんだけど、今は朝食のみで夕食の提供はなしになってた。あのときはちょうど、お米が不作の年だったかで、安いタイ米か何かが大量に入ってきたときだったんだけど、ここでは自家製のお米を食べさせてもらったことを記憶している。というわけで、夕食の提供がないんだから、仕方がなく仙台に行って何か食べるか、ということにし、もう一度仙台駅へ。

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の前に、太子堂駅のすぐ近くにある「ヨークベニマル」。東北には縁もゆかりもないけど、ヨークベニマルを見ると「東北」って感じがする。というのは、昔、ヨークベニマルの社会人野球チームがあったからだ。

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仙台駅は7日から始まる七夕祭りのために、改札降りたらこんなふうになってた。

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駅のあちこちにこんなのがあってねー。70年連続開催できたのも、ずっと平和だったからだよなーとか、そんなことを思ってた。だって、予約投稿したからあの時点ではここにはアップされてなかったけど、8月6日の日記は既にもう書いてて、あの中で「高校野球が始まって今年で100年だけど、第97回なのは、途中、戦争の影響で中止になった年が何年もあったからだ」と書いてたから。この旅は平和について考える旅でもあった。というか、平和だから旅行できるんだなってずっと思いながら旅行してた。

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外から見た仙台駅。しかし仙台は東北一の大都市だからか、なんだかすげーでかかった。駅なんかもものすごくでかかったし。中国地方でナンバーワンであるはずの広島駅はこれに比べると格段にショボイんだが。。ってなんで広島駅が出てくるかというとよく分かんない(笑)きっと東京、大阪、名古屋以外で知ってる大都市は広島駅しかないからだと思う(笑)

夕食を食べる時間まではまだ少し早かったので、どこかに行こうと思ったのだが、どこかに行けるほどの時間の余裕はなく。本当なら青葉城址などに行ってみたかったのだが歩いて行くには遠すぎて。だとしたら、もうここしかないよね、ここ。

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「広瀬川~、流れる岸辺~、思い出は~、帰らず~♪」で有名な広瀬川。まぁ行ってはみたけれど、ただの川でした(笑)なんとかして面白いところはないかなあと思って脇の森みたいなところに入ってみた!

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遠くからみると「なんじゃあこりゃあ」って像が見えて、近づいてよく見てみるとこれはキリシタン殉教の碑らしい。「ふ~ん、そうなんだ」くらいしか思わなかったのだけど、キリシタンは九州のイメージが強いんだが、ここら辺にもキリスト教が入ってきてて殉教者っていたのね。で、像から離れて行こうとしたら。

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猫ちゃん!なんか小柄な猫ちゃんなのか、それともまだ仔猫なのかは分かんなかったけど、猫ちゃんがいた。あんまり近づくと逃げちゃうと思って望遠で。かわいかったー!

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森の中の道をざくざく歩いてたら、黒い羽根のトンボが(多分、思いっきり見にくいと思うが)。黒い羽根のトンボって初めて見たー!しかし、ここは工事中でその先は行けず。結局来た道を戻ることに。

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そうそう、仙台の街を歩いてるとこの銀行があるんだよね~。七十七銀行。ここも社会人野球チームを持ってる。前はなかなか全国大会に出てこられなかったけど、JTとかなくなってしまってちょこちょこ都市対抗などの全国大会にも出てくるようになった。てか、JTの応援は好きだったんだけどな、、、

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適当に歩いてたら、小学校があって、なんか土井晩翠の母校だとか。そこには「荒城の月」の作詞をしたって書いてあったけど、わたし、荒城の月=滝廉太郎で、作詞をしたのは誰か全く知らなかった。すいません、、、なんかこの学校の中に資料室があるらしいんだけど、まぁ、時間がなかったので(しかも夏休みだし)、行ってません。

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仙台の街はこんな感じだった。七夕祭り近しって感じなのかな?

で、夕飯なんだけど、仙台は「牛タン」しか思い浮かばなかったので、取り敢えず牛タン定食が食べられるお店に行って牛タン定食を。ありきたりなんだけど、事前情報これしか知らんかったんだもん。

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うーん、旅行中のメモが消えてしまったので詳細は忘れたけど、確かこれは特製じゃなく普通の牛タン定食で1300円くらいしたかなあ。特製のになるとちょっと高くて手が出ないよって値段だったので、普通のにしたんだけど、んー、なんかちょっと硬かった。特別美味しいとはあまり思わなかったな~。

YHに帰ったら、同室にもう一人の人が。なんかよく分からないけど、旅行しようと思ったんだけど、あまりにも暑かったのでめげて、地元のYHに泊まったんだとか。どこの人かはよく分からないけど、仙台のことについて詳しそうだったので、いろいろ美味しいとことか教えてもらったんだけど、地元で美味しいタイ料理とかカレー屋さんとか、うーん、、わたし、仙台でしか食べられないものが食べたいんだけど(笑)って感じでした。まぁ確かに地元に住んでる人と旅行客の行くところは違うよねえ。

というわけで、初日はこんな風にして終わった。その2に続く。
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11-28 Sat , 2015
47歳
今年は47歳の年。

毎年1回は年齢についての日記を書いてるんだけど、去年は12月に「生誕17000日目」って題名で日記書いてるね。それを見ると、今日は生誕17361日目。あれから360日以上経ったんだね~。

去年、47って数字は素数なだけであんまり魅力がないって書いた。確かにそれはそうなんだけど、年齢のところに「47」って書くのが結構好きだったりする。数字自体には魅力がないのになんでだろう?とても不思議だ。

そして、今の時期になると来年の年賀状の印刷の受付、みたいなので、年賀状のサンプルを見るようになったんだけどさ。そこに印刷してある「申」って文字を見ると「あらっ」って思う。そう、来年は年女なんだよね~。つか、48という数字のことばかり考えてて、年女と言うことはすっかり忘れてた。てか、別にだからどうということもないが。。

しかし、45を2年も過ぎてるのに未だ、四捨五入して50とは考えられない。きっとわたしの中に「50歳」に対する強固なイメージがあって、そのイメージと自分が合わないからじゃないか?と思ったりする。「50」というと社会的にも落ち着いてて老人に片足突っ込んでるイメージが多分あるんだろうね(笑)今のわたしはまだまだ落ち着いてるどころの騒ぎじゃないからなあ~。。

去年の「生誕17000日目」の日記を読むと、病状がよくなってきただの、でもやる気が出るとか出ないとか書いてあるけど、んー、去年から今年の1年はね、とにかく息苦しかったね。正直、今も息苦しい。ただ、去年よりはちょっとは楽になってきたかな?って思ってたんだけど、最近の寒さのせいか、またひどくなってきてしまった。。肩こりというか、肩こりと背中の痛みとが合体して(これは去年からだけども)、それがちょっとよくなったかなと思ったらまたひどくなるの繰り返し。。先週までかなり楽だったんだけど、1週間前からまたひどくなった。なんなの、これ。これと息苦しさの相互作用で正直、身体の方はあんまり楽に動けるとは言い難い。

しかも15年来の座骨神経痛持ちでとうとう、足先からしびれが出てきた。その影響か、座骨神経痛で痛い方ではない反対の方の腰が痛い。

ということで、上半身も下半身もボロボロなわけですが。これって老化現象って言えるの?

ただ、なぜか精神の調子だけはOK。やる気というのは、出ないときに「なんで出ないんだろう」って思うものなのね。最近は「やる気」のことを考えることはほとんどない。確かにやる気が出ないときもあるんだけど、そういうときは「まぁいいか」って思える。というのは、仕事なんかで動かなきゃいけないときはやる気なくても動けるようになったから。きっとこういうのが「普通の状態」というのだろう。しかし、わたしの場合はそこからすぐに奈落の底に落ちて行く感覚を味わうことができるので、というか、もううつ病やりすぎて、自分の中のその感覚が忘れられなくなったというか、ただそういうことだけだと思うけど、今もある一定の条件が揃えば、多分すぐ、うつ状態に戻るだろうなあということはなんとなく分かっている。

でもここ数年で見ると、この1年はきっとかなり調子がいいとは思う。先週なんか、ほとんど毎日外出していたし。その頃は息苦しさも背中の痛みも結構なくなってきてたし。ところがね。「ちょっとは休まなきゃ」と思って休んだ途端、息苦しくなるわ、背中の痛みや座骨神経痛の痛みもひどくなるわで正直「休まなかった方がよかったのでは」と思ったほど。しかもわたしは休むと途端に何もしたくなくなる。まるで「慣性の法則」そのものじゃないかって思った。

外部から力を加えない限り、動いている物体は永遠に等速直線運動をし続け、静止している物体は永遠に静止している。

ってやつね。とにかく動いている間は次に動くのが簡単なのだけど、一旦休んじゃうと動き始めるのがとても億劫になる。精神科の主治医に「わたし、休むと体調悪くなるみたいなんですよね~」と言ったら「そんなことないです!」と言われた。主治医によれば、背中などの痛みは動いてないから血の巡りが悪くなってるんじゃないかと言ったけど、確かにそれはその通りかもと思うが、それ以来、外出しても楽になることはない。あー、ホンマ、休むんじゃなかったわ。

去年は「やる」と言っていた資格試験勉強、結局息苦しさでできず。今年は息苦しくてもやります。
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11-27 Fri , 2015
「蒼のシンフォニー」特別試写会に行った
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だいぶ前の話になるが、「蒼のシンフォニー」(そらいろのしんふぉにー)という映画の試写会に行った。

きっと「何その映画。全然知らない」という人が多いと思う。これは「ウリハッキョ」「60万回のトライ」と同様に朝鮮学校を扱ったドキュメンタリー映画だ。実は「ウリハッキョ」「60万回のトライ」にもちらっと出てくるが、実際の映像はほとんどなかった場面がある。それは朝鮮高級学校(日本の高校に相当する)の「祖国訪問」の場面だ。朝鮮高級学校においての「祖国訪問」というのは、おそらく日本の高校でいう「修学旅行」に当たるとわたしは認識してるんだけど、まぁ「祖国訪問」の行き先は当然のことながら朝鮮民主主義人民共和国、いわゆる「北朝鮮」だ。

ではなぜ先の「ウリハッキョ」と「60万回のトライ」ではその映像がほとんどなかったかというと、「ウリハッキョ」の監督さんは本国の韓国の人で、当然のことながらいわゆる「北朝鮮」には行くことができない。「60万回のトライ」は2人の監督さんで、一人は本国の韓国の人、もう一人は在日だったと思う。しかし、この在日の監督さんは確か、朝鮮学校には通ったことがない人なんだよね。だからこの映画も監督さん自らいわゆる「北朝鮮」には行けなかったのだ。で、この「60万回のトライ」では一人の生徒にカメラを託してて、「祖国訪問」の様子がちょっとだけ映像であることはあるんだけど、まぁ生徒が撮ったものだから、当然のことながらきちっとしたものではないのね。

ところが今回の「蒼のシンフォニー」は監督さんがいわゆる「北朝鮮」に行って「祖国訪問」の様子を撮ってきたという。わたし、それがとても「興味深かった」のね。単純に「観たい」って思った。だから、この映画に対しての「後援金」、いわゆる映画の制作費に当たるものだと思うけど、その募集をしていたときに、応援の意味を兼ねて少額だけどもお金を出してたのね。今回はその特典。そしてこの映画の一般公開は来年の春になるということで、そんなに先まで待てないよってことで行ってきたのだ。

ただ、行った後、映画の感想がここまで長い間書けなかったのは2つ理由がある。一つ目は「素直なわたしの気持ちを書いたら、当事者(この場合は在日認識がある当事者)の気持ちを傷つけてしまう可能性があるのではないか」と思ったこと。もう一つは「わたしが素直な感想を書いたとして、そこに全く悪意がなくても、悪意を持とうと思った人に対してはどうやったって悪意を持てるような印象を与えてしまうだろう」と予想されるからだ。当事者の気持ちを傷つけるのは嫌だし、悪意を持った人に悪い意味での「宣伝」になって伝わるのはわたしの本意ではない。それでずっと「どういう風に書けばいいのか」を考えていた。「書かない」という選択肢はなかったが、その「書き方」をずっと悩んでいた。が、あるとき思った。「正直に書こう」と。ただ、誤解や悪意を持たれるのは嫌なので、その都度、わたしがそれに対してどう考えたかを長々しく書こう、と。それでもきっと、文章ではわたしの気持ちはすべて伝えられないだろう。そのことについては予め言っておく。そして多分、これは「映画のレビュー」にはならないと思う。わたしが映画を観て印象に残ったこと、それについて考えたこと、それが主な内容になるだろう。

しかし、既にここから長々しい説明の一端に入るけど、これはあくまで「朝鮮学校」に関わりがある人たちの話だ。「朝鮮学校」=「在日」ではあるけれど、「在日」=「朝鮮学校」ではない(朝鮮学校は在日の「部分集合」ということ)。むしろ、在日の中で朝鮮学校に関わっている人たち(関わるというのは、朝鮮学校関係者、いわゆる朝鮮学校の卒業生やら家族やらということ)は在日の中でも少数の人に過ぎない。朝鮮学校とは全く関わりのない在日の人たちはいるし、数からするとこちらの方が「多数派」だ。朝鮮学校は今、生徒数が減少している。戦後70年近くの民族教育を担ってきた朝鮮学校が今、このような現状を迎えているのは、わたしはとても悲しいと思う。人数が少ないコミュニティの中に子どもを入れたくない(狭い世界の人間関係しか持てないことを避けたい)という理由で朝鮮学校に通っていても途中から日本の学校に転校してしまう、という例もよくあるらしい。現にこの映画では一人、中学時代はずっと1人で過ごした、という生徒が出てくる。それまでは同級生は5、6人いたんだそうだ。が、自分一人を残してすべて別の学校に行ってしまったと。この人、映画の中では言ってなかったけど多分、以前わたしが観た「アフタースクール 東日本大震災 東北朝鮮学校の記録part.2」というドキュメンタリーで出てきた子だよね?この「アフタースクール 東日本大震災 東北朝鮮学校の記録part.2」という映画は「東日本大震災 東北朝鮮学校の記録 2011.3.15-3.20」というドキュメンタリー映画の続編で、制作したのは先に紹介した「60万回のトライ」を制作した監督さんたちだ。東日本大震災で校舎が壊れてしまった東北朝鮮学校が、仮校舎を作って移転した先での話なのだけど、そこで中級部にたった1人だけで学んでいる生徒がいる話が出てくる。その子が多分、東北朝鮮中級学校を卒業したあとに、茨城の朝鮮学校に来たんだろう。

あ、大事なことを言い忘れていた。この映画の舞台となっているのは茨城朝鮮初中高級学校だ。そこの高級学校の生徒に焦点が当てられている。朝鮮学校がどこにどのくらいの規模である、ということはわたしはよく知らないのだが、初級から高級まですべてある学校っておそらく数が少ないと思う。前に出てきた東北の朝鮮学校は初級と中級しかない。その上に行くには、家から離れた高級部がある学校に行かなければならない。茨城朝鮮初中高級学校には生徒たちの寄宿舎がある。実家が遠くてとても通えない人たちのためだ。中には実家が新潟で、初級学校から1人、寄宿舎にいるという生徒も出てくる。初級学校といえば、日本の学校では小学校だよ。小学1年のときから親元を離れて寮生活って、本当にすごい。来た当初は寂しくて仕方がなかったそうだけれど。土日に親元に帰って、月曜日の朝、親が新潟から茨城まで車で送る。子どもも大変だけど、親も大変だったと思う。しかしこの子はとても面白い子だった。そういや「60万回のトライ」にも面白い子が1人いたな。いわゆるムードメーカーというか。その子はもともとそういう性格だったんだろうけど、でも、小学1年生、あ、違った。初級学校1年生って言えばいいのかな?からの寮生活でも伸び伸びと育てられたから、その子のもともと持っていた性格が発揮されたんだろうな。

というか。ここからずるずるといろんな話が出てきそうになるんだけど、話を元に戻す。というわけで、わたしが言いたかったのは「在日」=「朝鮮学校」ではないこと。むしろ朝鮮学校に通っていない在日の方が多数派であるということ。そして「多数派」にも関わらず、普段のわたしの目からはそれはほとんど見えない、ということだ。だから、この映画を観て在日の人はこういう人たちなんだーって思うのは違う。わたしはわたしの目からはほとんど見ることができない多数の在日の人に思いを馳せる。ただ、うっすらとだけど「内部は複雑」だろうとは察しながらもね。性的少数者もそうだけど、世の中で「透明人間」をやってるのもつらいことです。

朝鮮学校が目立っている理由というのは、わたしが言わなくても大半の人は分かるだろうと思うが、朝鮮学校無償化排除問題、というのが大きい。そしてその背景にあるのは「朝鮮学校は朝鮮総聯と関係があること」、そして「朝鮮総聯がいわゆる『北朝鮮』に結びついていること」、そしていわゆる「北朝鮮」の拉致問題、というのがどうしても出て来ざるを得ない。

ただ。わたしは基本的に朝鮮学校は民族教育権にあたると思っている。権利というものは制限が付けられないから権利なのであって、そこで「こういう教育はするな」と介入するものは権利ではないと思っている。もちろん権利は無制限ではない。しかし「無制限ではない場合」というのは、あくまでも「他者が持つ権利とぶつかり合う場合」にのみ何らかの制限が付けられるべきだ。だからいくら「表現の自由は無制限だ」と言っていても、そこに他人の人格を貶める発言(特にマイノリティに対して)を無制限にしていいはずはなく、そこでは一定の制限を設けるべきだと思っている、というか、これはわたしだけがそう思っているわけではなく、これが国際標準な考え方で、わたしが今言ってるのは単に「ヘイトスピーチ」だけの話ではないです。というかヘイトスピーチ自体が「表現の自由に当たらない」、だからヘイトスピーチは規制できるとする考えもあるだろう。そこら辺の細かな違い(ヘイトスピーチは表現の自由に当たり、しかし、公共の福祉(これは各人が持っている権利がぶつかり合ってしまった場合の話で、人に迷惑掛けるとかそういう意味では全くない)を考えると一定の規制が必要であるという考え方と、ヘイトスピーチ自体が表現の自由には当たらないのだ、という考え方)はさておき、どちらにしても、どういう表現方法でも「差別はしてはいけない」というのは当然のことだろう。

先ほど「国際標準」と言ったのは、その元になる国連の「人種差別撤廃条約」が既にそういうことを決めているからだ。そしてよく、これを持ち出すと「でも日本政府は第4条の(a)と(b)は留保しているからヘイトスピーチは規制できない」と言われるが、だいたい公人の差別発言を禁止した(c)は留保していないし、それより何よりこの条約の第4条というのは第2条に対して特別に「刑法で定めなさいね」ということを言っているに過ぎなく、その大前提になるのは第2条なのだ。もちろん、日本政府はここの部分は留保してない。ていうか、ここの部分を留保したら人種差別撤廃条約の締結国になった意味がない。第2条には「締結国は、人種差別を非難し、また、あらゆる形態の人種差別を撤廃する政策及びあらゆる人種間の理解を促進する政策をすべての適当な方法により遅滞なくとることを約束する。このため」とある。そしてこのために第2条では具体的に(a)から(e)が規定されているが特に(d)では「各締結国は、すべての適当な方法(状況により必要とされるときは、立法を含む。)により、いかなる個人、集団又は団体による人種差別も禁止し、終了させる。」と決められている。そして日本の裁判所は2009年12月に起きた京都朝鮮高校襲撃事件の裁判において、あのときに朝鮮学校の人たちに向けられた言葉はヘイトスピーチで、そのヘイトスピーチは「人種差別に当たる」とした(平成22年(ワ)第2655号 街頭宣伝差止め等請求事件、69ページ「5 本件活動による業務妨害及び名誉毀損が人種差別撤廃条約上の人種差別に該当すること」)。また裁判所は「このことから,わが国の裁判所は,人種差別撤廃条約上,法律を同条約の定めに適合するように解釈する責務を負うものというべきである。」(、63ページ「第3 人種差別撤廃条約下での裁判所の判断について」)としている。なお、この件に関しては2014年(平成26年)12月9日に最高裁が上告棄却して判決は確定している。

話を戻した割に、あんまり戻ってない感じがするが(汗)、なぜこのような話が出てくるかというと、この手の話をすると必ず「どっちもどっち」ということを言われるからだ。違う。圧倒的に差別をする方が悪いに決まっている。ヘイトスピーチを撒き散らす方が悪いに決まっている。そのことを一番最初に言いたいからだ。先ほど「朝鮮学校に通う子どもが少なくなっている」と書いたが、こういうところも影響しているとわたしは思う。差別の標的にされるようなところに子どもを通わせたくない、そう思う親もいるはずだ。だとしても、それは朝鮮学校が悪いわけではなく、そこに対してヘイトを撒き散らす人たちが悪いのだ。「だってそこには朝鮮総聯が絡んでいて、北朝鮮と繋がっていて、北朝鮮は日本人を拉致したから朝鮮学校は攻撃されるのだ」って意見が絶対に消えないことは分かっている。しかし、どういう理由にしたって「だから差別していいのだ」という理由にはならない。差別はどういうことがあってもしてはならないのだ。朝鮮学校が朝鮮総聯と関わっていること、朝鮮総聯はいわゆる「北朝鮮」側であること、いわゆる「北朝鮮」が他国に住んでいた人を拉致したこと、これは事実だろう。でも、そのことをなぜ「個人」が引き受けなければならないのか、と思う。だって、わたし自身のことを考えたとしても、わたし=国ではない。

だが、本当のところを言えば、わたしだってそこのところはどう考えていいのかよく分からない。分からないことは2つ。一つ目は、国と個人の関係。国はどこまで国で、個人はどこまで個人なのか。国と個人は明確に違うとは分かっていても、今のわたしにはその間にまっすぐな線を引くことは出来ない。わたしは「国」として、自分の意見を言うつもりはないけれど、もし相手が「国」として発言した場合はどうすればいいんだろう?この間体験した「原爆を落としたことで早く戦争が終わったことを理解して下さい」という言葉。あのとき感じたのは、これは個人の言葉ではなく、国の言葉だよなあということ。そのような言葉に対して、わたしは何をどう言ったらいいのか。

そしてもう一つ。朝鮮民主主義人民共和国、という国のこと。国の事情からしても、もともとあまり情報が入ってくるということはないのだけれど、今の日本に住んでいるとあまりにも「偏った情報」しか入って来ない。日本では日々「北朝鮮は悪い国だ」という情報ばかりが流れてきて、知らないうちに「洗脳」されている。そりゃもちろん言論の自由がない国とか独裁とか思うよ。No.2であっても気に入らなければすぐに粛正されてしまうとか、あるもん。でも、入ってくる情報と言えばそういうことだけ。あとは核問題か。今の日本に住んでて、そういう情報しかわたしたちには与えられない。これは「洗脳行為」に等しいだろう。だから、わたしは知りたいのだ、あの国の、それ以外のことが。何かを判断するためには、まず、多くのことを知らなければならない。だからわたしは知りたいのだ。どういう人たちがそこでどういうことをして暮らしてるんだろう、どういう風に暮らしてるんだろうって。多分「何を思って」ということを知るにはとてつもなく難しいとは思うけど。っていうか、おそらくそれは今のところはそれは不可能だと思うけど。あーそこで「でも近づきすぎたら北朝鮮に洗脳される」って言うよね、すぐ(笑)んなわけないじゃん。逆にわたしは今のこのような日本の状況で、自分がかなり「洗脳」されていることに気が付いている。ともすれば「悪意」を持って見兼ねない。先ほど上で「映画の感想を書くまで、こんなに長くなってしまった理由」の2つ目に「わたしが素直な感想を書いたとして、そこに全く悪意がなくても、悪意を持とうと思った人に対してはどうやったって悪意を持てるような印象を与えてしまうだろう」と書いた。けども、何のことはない、どうしてこういう見方ができるかというと、知らず知らずのうちにわたしだって「悪意」を持って見てしまう自分に気が付いていたからだ。「これは、わたしを洗脳させようと思ってこんなに都合のいい、きれいな場面をみせてるんじゃなかろうか」って、つい、そういう「疑いの目」で見てしまう自分がいることに気が付く。そういうことを考えている自分自身がものすごく嫌でなんとかしたいけど、でもこの「洗脳」はなかなか解けてくれない。。。わたしの場合、そっちの方が相当深刻だ。

いわゆる「北朝鮮」のことばかりについて言い過ぎたけれども、この映画の中にも出てくるけど、実は近年、朝鮮学校を支えようとする韓国の人たちがいる。「モンダンヨンピル」という、東日本大震災に遭った朝鮮学校を支援することがきっかけで団体なんだけれども、韓国の歌手とか俳優さんとかなんかいろんな人が支援していて、毎年1回、韓国から日本にやってきて、コンサートなんかを開いてる。高校無償化の問題も応援してくれている。なので朝鮮学校は今や、北と南、両国で支えられているのだ。わたしには分からないけど、きっと、双方でとても難しかったりすることがあるんじゃないかと想像したりもする。けど、この輪が韓国でもっともっと広がって、そして朝鮮学校のことを知る韓国の人が増えればいいなあと思う。

なかなか話が元に戻らない(汗)もはや、映画の中の話をしているのかそれともまだ始まってないのか分かんなくなってきたけど、取り敢えず自分の中ではまだ話は始まってません(汗)長かったけど、ここから話は始まります(汗)

この特別試写会の会場に着いたとき、わたしはすごい「違和感」を感じたのね。それは、言葉だった。わたしは今まであんなに日本語と朝鮮語をちゃんぽんにして話している空間にいたことがなく。そこから感じた「違和感」だった。けど、違和感というとなんか言葉が悪いけど、なんていうのか、悪い意味ではなく、興味深いとか面白いとか、そういう感覚だろうか。この日本に住んでいて、こういう経験なんか滅多に出来ない。来ていた人はおそらくほとんどが朝鮮学校関係者だろう。なんか、来ている人はわたし以外はみんな親しい知り合いなんじゃないだろうかと思うほどだった(でも多分、わたしみたいな人もいたはずだと思うんだよねー)。まぁこの映画は朝鮮学校を題材としてて、それを朝鮮学校出身者が作ってるんだから当然の話だ。要するにわたしは「同窓会会場」に「別の学校の出身者」として紛れ込んでしまったのだ。そう思えば理解しやすい。ただ、違和感に拍車を掛けているのは言葉なんだけどね。

以前わたしは「60万回のトライ」の感想を書いた日記で、

わたしは、その時折混じる「日本語と同じ発音のような朝鮮語(かも知れない?)」と「使い分け」によって話される日本語に、違和感をものすごく感じた。多分これはわたしが一カ国語でしかしゃべれないからだと思うが、多分在日の人たち、特に朝鮮学校に通ったことがある在日の人たちにとってはこれが普通なんだよね。



って書いた。この日記を書いたのは2014年の3月で、わたしはこのとき朝鮮語は全く知らなかった。わたしが朝鮮語を習い始めるのは、この翌月の4月からだ。そして1年半後。わたしは彼らが日本語と朝鮮語をちゃんぽんで話す理由がちょっと分かる気がする。なんていったって語順が同じだから、途中で言葉を挟みやすいのだ。だからきっと、彼らの頭の中では「思い付いた言葉」をただ発してるだけなんだね。朝鮮語、日本語関係なく。そして、使ってる言葉はそんなに難しくなかった(笑)「あー、わたしでも意味分かるなあ」って思った。

そうそう、映画の中にね、「60万回のトライ」とは逆に、朝鮮学校唯一の日本人教師である藤代先生、という人が話す場面があるんだけど、あ、この藤代先生という人は、サッカーやってる人なのね。「祖国と母国とフットボール」だったかなあ。以前読んだ本の中にもこの人出てきて、わたしはこの本で彼のことを知りました。んでね、この人が映画の中で喋ってた言葉がね、主に日本語ではあるんだけど、ところどころ朝鮮語が混じってるのよ。もうどんなこと喋ったかは覚えてないけど、一言「オプソ」って言った場面だけは覚えてて、オプソって、없어、日本語でいうと「~ないので」って意味になるのね。あれ、「~ないので」は「없어서」じゃないかなあ?まぁ、それはいいんだけど、とにかく本来日本人である彼がそういうような言葉遣いをしてたものだから、会場から思わず笑いが漏れてね。それがとっても印象的だった。

でね、多分、わたしは「60万回のトライ」を観たときよりも言語に対しては意味が分かるようになっているし、言葉にしてもどうしてそういう言葉遣いになっちゃうかも分かるような気がするので、そちら方面は格段に理解力が上がったから、そういう面では「みんな、わたしの知らない言葉を喋ってる!」って感じではないのよ。だからあのときと比べると違和感は少なくなるはずなのに、実際自分がいる場面で、日本語と朝鮮語がちゃんぽんな場って今まで体験したことがなかったから「60万回のトライ」を観に行ったときよりもその場の違和感が強くて(あのときはどういう人たちが観に来てるかは全然分かんなかった)。でもね、なんだか分からないけどわたしはそういう「違和感」っていいなあと思うのよ、自分で。あのときわたしは違和感を感じながら「今の時間は貴重な体験だなあ」って思ってた。だって別の学校の同窓会に紛れ込むことなんてまずないじゃない(笑)ただ裏返せば、人生のほとんどの時間を違和感なく過ごせているこの空間では、わたしは紛れもなく「マジョリティ」側なんだなあと。うーん、細かいところを言えばちょっと違うところもあるけれどってこれについても、あとで書きます。

会場はほぼ満員でね。映画は確か日本語字幕付きだったか。まぁ字幕はいいんだけど、どういう人が話しているという身分とか名前とか出てくるんだけど(ドキュメンタリーに付きものの)、あの色彩のコントラストがちょっと見づらくて、結局誰が誰なのやらよく読めなくて分からなかったという。。それが残念でした。

映画自体は確か100分ちょっとではなかったかと思うんだけど、おそらく半分以上が「祖国訪問」のシーンだったかな。案外長かった、というのが正直なところ。わたしは「ウリハッキョ」や「60万回のトライ」のように祖国訪問はその映画の「ワン・シーン」みたいな位置づけかと思ってたから。

そしてこの映画、監督自らがナレーションやってるんだよね~。結構監督があれこれしゃべってるところも多かったけど、これはどうなのかな。例えば会場でもらったパンフの中に「韓国籍の生徒の両親に送られてきた1通の文書-『北韓(北朝鮮)を訪問した場合、国家保安法により処罰される可能性があります。パスポートが必要なら、朝鮮学校をやめさせてください』」と書いてあるんだけど、映画の中ではこれがほとんどそのままナレーションで説明される。朝鮮学校に通う子どもの国籍はさまざまで、韓国籍、朝鮮籍、日本国籍が入り交じっている。ちなみに朝鮮籍はいわゆる「北朝鮮」の国籍を持っているということではないのでご注意を。これは日本政府がかつて植民地時代に強制的に与えた日本国籍(その実、戸籍制度やいろいろな面で差別してたんだけど)をあるとき突然「あんたたち、外国人とみなすから」と言って取り上げて、取り上げた相手を勝手に「朝鮮籍にする」って決めたもの。だから、朝鮮籍自体は記号みたいなもので、国を表すものではない。いわば「無国籍」状態なわけだ。これ、外国に行って何かトラブルが起きたとしてもどこの大使館にも駆け込んで助けてもらえないと言うこと。とてつもなく怖い状態のままに置かれているのだ。まぁだけど、いわゆる「北朝鮮」には入国できる、朝鮮籍の人たちは。だが、いわゆる「北朝鮮」に入国できるのは実は日本国籍を持ってる人でも可能だ。

というか、いわゆる「北朝鮮」とは国交がないから日本国籍を持ったものは行くことができないって思ってる人も多そうだけど、実はそうじゃない。わたしだってお金払えばいわゆる「北朝鮮」に行くことができる。いわゆる「北朝鮮」は旅行することが可能な国だ。国交のあるなしは関係ない。だって、台湾だって日本は国交を持ってないけど(つか、日本は二つの中国を認めてないので台湾とは国交がない←てか、この件に関しても日本は台湾に対して本当にひどいことをしてるのだ。台湾を国と認めてた時期もあったんだからね)旅行できるでしょ。そしてもちろん日本国籍を持っているものは韓国にも行くことができるよね。でも「朝鮮籍」という記号を与えられた人は今現在、韓国に入国することは出来ない。李明博の前の政権、盧武鉉のときまでは朝鮮籍でも入国できたらしい(盧武鉉のときまでというか、金大中から盧武鉉までのたったの8年間のみ)。が、李明博以降、その流れを汲む今の朴槿恵も入国は出来ない。渡航はその時期の政権によって左右されるのだ。だから要するに、両国を何の問題もなく行けるのは、日本国籍を持ったものだけ、ということになる。韓国に住む韓国人は北にはもちろん行けないし、いわゆる「北朝鮮」に住む人たちだって南に行くことはできない。これを考えるとわたしは本当に複雑な気分になる。

というわけで、高級学校に通っているみんながみんな「祖国訪問」できるわけではないのだ。そのようなことを初めて知る。ついでにナレーションに話を戻すと、この場面ではそのことだけがサラッと伝えられ、それに伴う画像などは一切出て来ない。そりゃ当たり前のことだけど。プライバシーあるし。だからある程度、そういうことを説明するナレーションは必要だったと思う。が、最後の最後まで、あんなにしゃべるかなあ。まぁ、わたしはドキュメンタリーにはあまりナレーションは必要がないと考える人間なので、どうしてもそう思ってしまうのだけどね。あそこが一番、この映画で監督が言いたかったこと、ということなんだろうけど、もうちょっと自由にさせてもらいたかったな、というのが正直なところ。ネタバレになるのでここは具体的に何を言ったかには触れないけど。

平壌のホテルに着いたらすぐにテレビ付けて「テレビのチャンネルが2つしかない!!」って騒いでる生徒がなんともおかしくてね。でもきっと、日本で生まれ育った彼らにとっては、そのような部分を目の当たりにして考えることも多いだろうなと思った。

ただやはり、祖国訪問をして生き生きとしている姿は何というか、、どう理解すればいいのだろうと思う。確かに画面に写るいわゆる「北朝鮮」の人たちはとても親切で優しくて、素朴な感じがする。あんなに一緒に歌ったり、歌を熱く指導されたりすれば、別れるときは涙が出るだろう。しかし悪意を持って見るとそれがとてつもなく悪意を持って見れてしまう。「彼らは所詮『お客さま』扱いなんだろうし」とか「これで祖国に対して良い印象を持たそうと思ってるのか」とか「どうせ彼らにはいい部分しか見せないんだろう」とか「案内員と称して監視された中での行動だろう」など。もしかしたら「やはり朝鮮学校の生徒はみんな『洗脳』されてるんじゃないか」って印象を持つかも知れない。

だけどね、こうも考えたりする。わたしはいわゆる「悪意を持て」と洗脳されている人間だ。物事の片側しか知らされていない。しかし、彼ら(朝鮮学校に通っている生徒)は生まれたときから日本で育ってきてある程度裕福で自由な世界も知っている。彼らの方がわたしよりずっとずっと「両面」から物事を見ているはずだ。そして多分わたし以上に長く「国とは」とか「自分は」と悩み、考えているに違いない。上で「悪意を持って」と考えた部分なんか、きっと彼らだって十分そんな風に思える感覚も持っているに違いない。その部分は表には出せないけれど。

なお、なぜ朝鮮学校がいわゆる「北朝鮮」と関係するかは、戦後(彼らにとっては解放後)すぐに在日の人たちは子どもたちに朝鮮語を教える「国語講習所」というものを作った。ただ、設立の目的は「いつか本国に帰ったときに子どもたちが朝鮮語で話せないのはまずいから」という理由だったらしい。だが、歴史上、ここからいろんなことがあって彼らは本国に戻るよりも日本に残ることを選択した。そして、その後、朝鮮学校もいろいろな困難を乗り越えて今がある。その、一番苦しい、貧しい時代に在日の人たちに「彼らは我が国の同胞である」からと言ってお金を出してくれたのが、朝鮮民主主義人民共和国の金日成だったのだ。その当時の大韓民国は彼らのためには何もしなかった。だからこそ、今の朝鮮学校がある。

ということは、わたしは知識として十分知っている。ただ、当時の貧しい中、日本政府も韓国も自分たちを見捨てた中で、いわゆる「北朝鮮」だけは見捨てなかった、そのことに対しての「嬉しさ」というか、「感謝の気持ち」というか、それはわたしは「実感」はできないの、当事者じゃないから。確かに「嬉しかっただろうな」というのはある程度は分かるよ。でも、それはあくまでも「想像」でしかなく、「実感」ではない。きっと多くの日本人(と敢えて言うが)も同じだろう。まず第一、わたしなんか「貧しい」というのがよく分からないし。「貧しさ」が実感できないのだから、その上にある「助けてもらったという感謝の気持ち」だって当然実感できないだろう。だから、彼らの姿が「洗脳されている」ように見えてしまうのだ。今の若い彼らも多分、わたしと同じように「貧しい」ということがどういうことかは実感できないに違いない。けれど、自分たちのおじいさん、おばあさんたち、もしかするとお父さんお母さんだったり、ひいじいさん、ひいばあさんかも知れないが、彼らはそれで確実に救われた。それを考えるとやっぱり今現在の若い彼らだって「当事者」なんだよね。

映画の中で板門店を訪れるシーンがある。監督は北側から南側を見ているある生徒に「今どんな気持ちか」って聞くのね。その子は南側にルーツを持つ子で、でも朝鮮籍だから今、韓国に行くことはできない。おそらく今でも親戚や血の繋がる人は南側に住んでいるだろう。けど、会えない。わたしは「なんて残酷なことを聞くんだー、止めてあげてよ!」って思ったんだけど。この場面を観ると分かるように、「国」が彼らに対して直面しているのは確実だし、そして何も板門店に来て初めて分かることじゃない。きっと自分が気が付かないほど幼い頃から「国とは何か」「自分とは何か」という問いに直面して生きているんだろうと想像する。

だからね、わたしはそう考えると「何も言えないな」とも思うのよ。わたしが考えることなんて、彼らにとっては「まだそんなことを考えてるんだ、その歳で」って思うような初歩的なことなんだろうなと。「お前に言われんでも分かっとる」(カープの前田(智徳)風)って多分、思ってるだろうと。

それともう一つ言えるのは。祖国での彼らは本当に生き生きしているということだ。この気持ちはわたしにも分かる。いや、分かるような気がする。というのは、上にわたしは「人生のほとんどの時間を違和感なく過ごせているこの空間では、わたしは紛れもなく「マジョリティ」側なんだなあと。うーん、細かいところを言えばちょっと違うところもあるけれど」と書いた「細かいところ」に相当すること。

基本、わたしはほとんどの日常を違和感なく過ごしている。が、実はそうじゃないと気が付かされるときがある。それは、性的少数者のお祭り「プライドパレード」の会場に行ったときだ。あの時間、あの場所でいつも感じるのは「ああ、ここでわたしはありのままの自分でいていいんだ」ということ。あの会場では性的少数者もそうでない人も両方いるけど、少なくとも「性的少数者を受け入れている人たち」が集まる場所だ。性的少数者であることを否定されない場。気持ちはとてもすがすがしくて自由で、そして安心感がある。裏を返せばわたしは日常、意識してないけど緊張して窮屈な気持ちで生きてるんだなと思う。日常に戻っていくとその緊張も窮屈な感覚もよく分からなくなるんだけど、パレードの会場に行くと毎回毎回気持ちが解き放たれる。そして毎回毎回思う。「ああ、日常生活知らない間に抑圧されてるんだな」って。

きっと祖国に行った彼らもそういう風に感じたんじゃないだろうか。性的少数者は日常生活で予期しない部分で突然揶揄される言葉が出て来たり、異性愛者とは話が合わない部分もあったりするので話を合わせたりしなければならないことがあるけど、しかし日常的にヘイトに晒されているということはない。その点では朝鮮学校に通う彼らとは負担が違う。しかも祖国では自分たちを本当に大切に思ってくれて接してくれる。そりゃ、生き生きとして幸せな気分になるのは当然のことだろう。

あとそれから。先ほど「とても親切で優しくて、素朴な感じがする」って書いたけど。これについては複雑な気持ちもするんだよね。なぜかというと彼ら(いわゆる「北朝鮮」に住んでいる人たち)については確かにそういう面を持ってると思うんだけど、それは、苦しい中で生きてるからじゃないかとも思うのだ。敗戦後、日本人だってみんな貧しくて肩寄せ合って暮らしてきたということがまるで「美談」のように話されることがある。貧しかったけど「お前は大学に行け」といって兄は自分は進学せずに働いて自分の学費を稼いでくれた。そのおかげで自分は頑張って勉強して大学に進学した、という話も「美談」になる。一昔前までは田舎の人は純情で素朴な人たちと呼ばれていた。きっとこれらの話は全部「共通点」がある。

それとは別に、この映画の中で初級学校のときにパソコン入力コンクールで全国2位を取った子の話が出てくる。そのときその子はなぜか表彰式に呼ばれなかったそうだ。そこで「優勝なら誰も文句は言わないだろう」と言って、すごく努力をしてその後、優勝を勝ち取った。それも「文部科学大臣賞」だったそうだ。彼らを高校無償化から排除している文部科学大臣からその子は表彰された。

それは確かに「よくやったね!」と思う。が、その原動力は間違いなく「逆境の中」であったことも一因だろう。彼らに対してそのような目に遭わせてしまっている有権者であるわたしが素直に「よかったね」と言えるんだろうか。だけど先ほど書いたようにわたしはわたしで国ではない。だけどわたしは高校無償化排除を(自分の考えとは違うが結果的には)許してしまっている有権者であって、、と考えるとわけが分からなくなる。そしてその「栄光」を褒め称えることは「逆境」であることを許してしまっていることにはならないかと。

いわゆる「北朝鮮」に住んでいる人たちのことも同じで、国の体制のことや、国自体が不便なこと(停電もしょっちゅうするみたいだし)、そのことが彼らを「素朴」で「優しく」しているんじゃないかとすれば。そのことは「わー、いい人たちですね」って単純に思ってしまってはいけないのではないかと。だって「人間関係が昔のように濃密になりたいから再び貧しくなりたい」という人がいるだろうか?「一生懸命勉強するために再び貧しい生活になりたい」という人がいるだろうか?そう考えると「わー、いい人たちですね」って単純に言うことは「お前たち、ずっとその生活のままでいろ」と言っていることにならないか。

だからね、わたしはこの映画を観て、本当に複雑な気持ちがしたんだよね。。会場では結構すすり泣きの声とか聞こえてきて、やー、わたしとは全然違った視点から観てるんだろうなあとは思ったんだけど。

あ、そうだ。わたしがもらった試写会のパンフにはこの場面のことについて「そして、手にした優勝トロフィーに刻まれていた文字とは?」って書いてあるんだけど、その部分、カットされてなかったですかねー?映画の前にこの部分を読んでてちょっと期待してたんだけど、とうとうその部分は出てこなかったような?映画が終わってから監督を始め、この映画を制作した人たちの舞台挨拶があったんだけど、なんでも監督は当日まで映画を編集していたそうで。だからきっとその部分、削っちゃったんだよね(悲)パンフ作ったときにはあったけど。一体どういう文字が刻まれてたんだろう。。とても気になります。

20151030 205753


映画が終わったあと、挨拶する監督さん。

監督さんは「一人でも多くの日本人にこれを観て欲しい」と言っていた。わたしもそう思う。が、中には「悪意を持って」観てしまう人もいるのではないかと心配になったりもする。なんせ日本人の大半は「洗脳」されてるからね。どうか、そんなことにはならないで欲しいと思う。

しかし映画が終わったあとは本当に「同窓会」みたいで、わたしは映画を観てこの複雑な思いを事前にもらったアンケート用紙にどうやって書けばいいかとか思ってたんだけど、みんな感想書かずにすぐに会場から退出してしまって(会場がもう時間いっぱいだったと言うこともある)、ロビーでわいわいやってた。わたしはもちろんその中には入れないので(誰も知り合いおらんかったし!)アンケート書いて帰ろうと思ったんだけど、その時間もスペースもなかったので、仕方がないからそのまま帰っちゃったよ!(苦笑)

でもあの場で感じた「違和感」、あれは本当に貴重な体験だった。きっとこの先、あんな場に行けることは滅多にないんだろうな。そういう意味でもあのとき本当に行ってよかったと思う。
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11-16 Mon , 2015
子宮体がん検査受けてきた
先月書いた日記で、子宮口にポリープができてるのを取ったのと、ついでに子宮頸がん検査を受けたことを書いた。その結果を聞いてきたのだけど、そのときに子宮体がんの検査もしてもらった。あ、ポリープは悪性のものじゃなく、子宮頸がん検査でも異常なしだった。まぁポリープは前に1回できたものの再発で、1回目に取ったときも「病理に回します。1週間後、検査結果を聞きに来てね」と言われたのだが、めんどくさくて行かなかったのだ。どーせ、何か異常が見つかったら、こっちが行かなくても向こうから連絡来るだろうしね、、で、連絡も何もなかったので異常なかったんだなと思ってたの。だから今回も「多分、悪性ではないだろうな」とは思ってた。まぁでも、前回の日記にも書いたけど、だからといって丸っきり「シロ」だとは思ってません。じゃあ何のために検査受けたのよ、と言われると困るんだけど(笑)

検査結果を聞いた後、子宮体がん検査についての説明。何やら痛いとか、出血が何日か続くけど1週間以上止まらなかったら連絡しろとか、検査を受けると300人に1人の割合で腹膜炎だったかを起こす人がいるので、2、3日以内に腹痛が起きたら連絡しろだとか、なんか「こんな検査してホンマに大丈夫なんだろうか」と不安になって来た。てか、体がん検査がすっごい痛いってのは、わたしも何かどこかで聞いたことがあったんだよね。でも、こないだポリープ取ったときもめちゃくちゃ痛かったから(笑)あれ以上の痛さってどんな痛さなんだろうと少し興味もあった。

やっぱねー、一般の婦人科にある「内診台」と言われるものよりも、普通の診察台(とは言うものの、自動で上下する)の上に寝転がって股開く方がいいわ、わたし。あんまり屈辱的な感じもしないし。診察台で十分だとしたら、なんであれより高そうな内診台なんてあるんだろうか。あ、バスタオルは1枚、自分で持たされるけどね。

バスタオルを隔てているからか、まぁ物理的に目が付いている場所からは見えないところでやられてるからか、何をされてるのかはよく分かんなかったけど、最初にぶすっと器具を入れられた。これが痛かった。。。思わず「いて-」って言っちゃった。そしたら「まだ器具を入れただけだから、これからです」と言われた。「力抜いて、楽にして下さい」って言われたんで、あー楽にしなきゃなあと思って楽にした。で、そばにいた看護師さんに「消毒するものを」みたいなことを言ってて、それから「これから取りますね」みたいなことを言われて、どんなに痛いことが待ち受けてるんだろうと思ったら、何も感じないうちに「終わりました」と言われた。へっ?ホント?いつの間に?って思ったので「本当にもう取ったんですか?わたし、全然何も感じなかったんですけど」って言ったら「終わりましたよー。出血してるんで、ナプキンしますねー」って言われ、なんか独り言みたいに「器具入れるときが一番痛かったのね(笑)」って言ったのをわたしは聞き逃さなかったぞ!(笑)

終わってから「全然痛くなかったら、腹膜炎にもならないんですかね~」って聞いたら「感じ方は個人差がありますから。それとこれとは別です」と言われた。あ、でも結局その後もお腹痛くならなかったです。

家に帰ってから「ホンマにちゃんと採取できたんかな」と心配になった。だって注射より痛くなかったよ。注射とか採血のときに看護師さんに「チクっとしますね」って言われるけど、あれは本当にチクって感じるもん!てか、あの台詞、本当に大嫌いだもん。腕に意識のすべてが集中してしまって、痛くないものも余計痛く感じてしまうんじゃないかと毎回思ってるくらい。でも今回は本当に何も感じなくて。そういう人っているのかな?と思ってちょっとネットで調べてみた。

ええと。個人差がだいぶあるようです。あと体調にもよるらしい。医者の腕にもよると書いてあった。が、中に「子どもを産んだことがない人は痛い」って書いてあったのがあった。それは大ウソです。わたしゃ、子ども生んだことないもん。それに全然痛くなかったって人でも、検査を受けた後は下腹部に鈍痛が、と書いてあったのも読んだんだけど、わたし、それも全くなかった。検査を受けた前後で何かあったかと言われると、確かに少量の出血はあったよなー。けどポリープ取ったときの方が断然多かった。

検査を受ける前に医者から「この年齢だと毎年がん検査を受けた方がいい」と言われたのね。でもそれはなんの検査か分からなかったから「頸がん検査ですか?それとも両方ですか?」って聞いたら「まぁ両方毎年受けることに越したことはないけど、体がん検査は痛いので、2、3年に1回くらいでもいいですよ」って言われた。でもこれだったら毎年受けても全然大丈夫だわ、とは思った。体調にもよるそうだから、次に受けたときは痛いかも知れないけどね。まぁ本当に受けるかどうかは別問題として。だいたい、体がん検査は受けたとしても採取できる部分は一部だけなので、そこにがん細胞がないとがんって分かんないよーみたいなことらしいし。

そうそう、わたしはここ数年、基礎体温というものを計ってるんだけど(これはデータ集めてグラフにすると結構楽しい。今は計った後に数字記入するだけで自動的にグラフにしてくれるアプリがあるから本当に便利)、これまでは低いときでも36.6度くらい、高いときは37.4度くらいになって、なんでこんなに高いん?って思うことがしばしばあり。でも、先月はずっと低いままというか、下手すると今まで低かった36.6度より低い36.4度なんてこともある。そのことが不思議だったので、本当はそのデータを入れているiPad自体持っていけばよかったんだけど、忘れちゃったので仕方なく口頭で伝えると「それは排卵が来てないということです」と言われた。へー、そうなんだ。わたし、ずっと「どれが自分の『元の体温』と言えるんだろう」って思ってたんだけど、どうやら低いときが自分の体温らしいね。わたしは平均するとだいたい36.8度くらいだったので、ずっと平熱は36.8度だと思ってた。しかし、今はさらに低い体温になってるので、これは不思議。。

で、排卵が起きないと生理は順調に来ないそうだ。てか、なんだったっけ、排卵が来なくても生理が来るときはあるけど、それはある程度溜まったら、とかだったかなあ。なんかそんなわけで、周期的には来ないらしい。だから閉経に近くなると、生理が不順になるらしい。でも、それは「不正出血」かも知れず、その見分けが付かないから、閉経前後のわたしくらいの年齢は特にがん検診を受けた方がいいんだってさ。あとわたしの場合は筋腫もあるので、その大きさを確認するためにも1年に1度来た方がいいと言われた。あと筋腫があるとだらだら生理が続くときがあるが、2週間以上になるとさすがにまずいんで(少量でも)、そのときは病院に行ってねと言われた。

婦人科は、わたしにとって今までとても行きにくいところで、いろいろ知りたいことがあっても聞くことも出来なかったけど、やっぱ行ってみるものだと思った。でもそのためには自分のセクシャリティを向こうが分かってくれるところでないと、わたしは無理。婦人科ってとてもデリケートなところだから、やっぱ、気兼ねなく何でも言えるところでないと、自分が窮屈になっちゃう。

検査結果は1ヶ月後。でも本当は10日前後で出るらしく、わたしが行ってるところは1ヶ月に1度しか婦人科をやってない病院なので、また来月。「早く知りたかったら、別の内科の医師からでも伝えることはできます」と言われたけど、まだいろいろ聞きたいことがあるので、来月にした。でも、本当に何かあったら1ヶ月待たずにこっちに電話が来ると思うけどね。

会社の健康診断を初め、わたしは健康診断というものが大嫌いだった。その主な理由は「採血」だからだが、でも、そのデータの上がり下がりを見てると結構面白いので、わたしは最近年に2度、健康診断を受けている。なぜ年に2度受けられるかというと、東京に住んでいる被爆二世は無料で年に2度、健康診断を受けられるからだ。健康診断のうちの1度をがん検査に置き換えることも出来るらしいのだが、がん検査は異常のあるなししか分かんないし、そういうデータは集めても面白くないし。基礎体温を毎朝計ってるのも同じ。データ集め。これって実験観察みたいで本当に面白い。別にこの結果から「人間の身体はうまくできてるなあ」とは思わないけど、ただ生きてるだけでいろんな数字が出てくるのが面白い。これって多分、学生時代は実験系じゃなく、自然科学系だったからだろう。実験することで出てきた数字じゃなく、自然のものからデータを得る。そのデータから何か意味のあるものを読み取る。それってとても興味深い。

ちなみに今のところ、採血では貧血以外、全く異常はない。尿検査は毎度毎度引っかかる。なんでかはよく分からないけどね。一度、精密検査で腎臓のエコーをしたけど、腎臓には異常はなかった。異常がないので1年以上続いている息苦しさの原因も分かるはずはない。尿検査では毎度毎度潜血が出てるけど、どこから出血してるか分かんない。こういうのがあってもすべて「様子見」と言われる。未だにわたしの口の中はおかしい。口腔異常感症は全く治ってない。けど、検査してもどこも異常がないので「問題なし」。わたしはあのせいで起きてる間はずっと不快な思いをしてるんだけど、最近は誰にも何も言ってない。日記にもほとんど書いてないよね。でも一応、半年に1度は病院に行って先生に話してるよ。でもそれだけ。解決方法なし。薬さえ出ない。まー、わたしの口の中の不快さや、息苦しさによる生きづらさなんて、わたし以外は分かんないし、わたし以外は理解されようもないよね。「様子見」って言われて「こんなつらい思いをまだずっとし続けていかなければならないのか」って絶望し続けてる気持ちなんか医者には分かんないだろう。こういうことを言うとあまりよろしくないとは思うが、わたしは「典型的な症状」が出て「あなたはこの病気です」って言われることが結構羨ましいときがある。

健康診断ではどこも「異常ない」から健康体のはずだが、実際はこんなもん。だから「健康診断」はわたしにとってはただの「データ集め」に過ぎない。
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11-15 Sun , 2015
まだまだハマってる朝鮮語
半年に1度くらいしか朝鮮語のこと書いてないけど、実はまだ続けてる。去年の4月に始めてから1年半と少し。前の前の日記には、

で、来年の今頃はまた「騙されてたーーー!」って日記書いてるかも知れない(笑)

って書いたし、その前の日記にも

今後辞書を使えば「英語と同じ感覚だ」ってなって、嫌いになっちゃうじゃないかって不安がとても大きい。ああ、そんなことになりませんように。

なんてことを書いている。わたしには中学・高校の「英語嫌い」と大学時代の第二外国語で取った「ロシア語」の影響で「語学は自分に向いてないし、習ったらわけ分かんなくて絶望的な気分になる」という「決め付け」みたいなものが自分の中にまだあるのよ。だから、今はまだいいけど、いつか絶望的な気分になるんじゃないかと脅えているところがある。一番上の例で言うと、あのときからまだ約半年しか経ってなく「来年の今頃」にはまだなってない。だから、来年の今頃、すなわち来年の3月頃はそう思ってるかも知れない、まだそう思っているところがある。

しかし実際のところ、朝鮮語に対してはまだまだハマり続けている。辞書買って単語を調べ始めても嫌な気分にならなかった。嫌な気分にならないどころか、英語だと例えば単語の途中で「r」という文字があったとして(例えば「sovereign」とか)、そうすると「r?rってどういう順番だっけ、えーと、a、b、c、d、e、f、g、、、(頭の中でアルファベットの歌を歌う)」って未だにやらないと分かんないことがあるわけ。「それはお前がアホだからだ。何年間英語を勉強してたんだ」って言われると確かにそうなんだけど、どうしてもアルファベットの順番がすぐに出てこない。nはrの前だったか、後ろだったか、とか、sはmの前だったか後ろだったかとか。それが朝鮮語の場合はとても簡単に順番を覚えられるのだ。朝鮮語の辞書の母音の基本的な順番は「ㅏ→ㅓ→ㅗ→ㅜ→ㅡ→ㅣ」の順番なのだが、中には「ㅐㅔㅒㅖ」とか出てくる。でもこれらの順番まで入れて覚える必要はないのだ。その中の文字に基本「ㅏ」の文字が含まれていたら、その文字(ㅏ)の次を見ればいいから。

要するに「ㅐ」は「ㅏ」+「ㅣ」と考えられるので、「ㅏ」の次を、「ㅔ」は「ㅓ」+「ㅣ」と考えられるので「ㅓ」の次を見てみれば出てくる。「ㅒ」「ㅖ」も基本的には同じだ。「ㅒ」の文字は「ㅑ」+「ㅣ」だけども、「ㅑ」は「ㅏ」より一本棒が多いから「ㅏ」の次にあるのだ。ここでじゃあ「ㅐ」と「ㅒ」はどっちが先に出てくるかというと、「ㅐ」の方はあくまでも「ㅏ」が基本なので、こちらの方が先だ。

それに「ㅏ→ㅓ→ㅗ→ㅜ→ㅡ→ㅣ」の順番だって、「ㅏ」と「ㅗ」は陽母音、「ㅓ」と「ㅜ」が陰母音、ということさえ覚えておけば、縦長の陽母音のあとに縦長の陰母音、次も同じで横長の陽母音(ㅗ)のあとに横長の陰母音(ㅜ)、「ㅡ」「ㅣ」は両方陰母音だけども、「ㅜ」(ウ)の後は似てる読みの「ㅡ」(ウ)だと思えば(日本語と違い朝鮮語の「ウ」の発音は2種類あり、「ㅜ」は日本語より唇を突き出した「ウ」なんだけども「ㅡ」は唇を横に引っ張った状態で発音する「ウ」。日本語の「イ」の発音の口で「ウ」って言うような感じ)すっごく覚えやすいんだよね。覚えるというか、直感的に分かるって感じ?こういうところが実に合理的なの。

子音についてもよく「カナタラ~(ㄱㄴㄷㄹ)」って言うけど、最初の方はそれでいいとして、一番迷うのは「ㅈ」が「ㅅ」より前だったか後だったかなんだけど、わたしは「ㅇ」の前にあるのが「ㅅ」で後が「ㅈ」とだけは覚えてる。なぜ「ㅇ」を基準にしているかというと、「ㅇ」が出てくる文字が結構たくさんあるのよ。辞書で探してる最中「ㅇ」によく突き当たる。だから、それを知らない間に基準にしてた。

ただし、だからといってこれで全部すんなり辞書を引けるかどうかと言うとそうではなく。中に「ㅢ」とか出てくると「どっちを先に見ればいいんだっけ?」って迷うことはある。けど、順番の規則性を考えるより適当に探した方が早いので(あんまりこの手の文字が出てこないってこともある)そういう文字が含まれてたら適当に探す(笑)

要するに英語と違って文字の順番を「記憶のみ」に頼ることが少ないから、わたしには合ってるんだと思う。わたしは分からないものを分からないながらも丸のままに覚えるのがとても苦手。ただ、理屈を理解するとすんなり覚えられる。だから数学の公式なんかもそうなんだけど、っていうか、ああいうのはあまり「公式」として覚えようとは思ってなかった。しかし、理屈さえ覚えていれば公式は覚えなくても導けるんだけどね、ということをこの間会った人たちに話したところ「理系の人からはそう言われるんだけど、そもそもなんでxはxなんだかよく分からない。だから公式は分からなくても丸々暗記するんだ」と言われ。。確かにそこんところが分からなければダメなのかな。「x」って「何か分からないけど、まぁこういうのがあるはずです」みたいな感じだけどね。自分が知りたいもの、分からないもの、問われているものを「x」とする。そしてその分からないものがそこにあるようにして扱って式を立てる。すると式さえ導ければあとは四則演算等で計算してやれば、自然に分からないものが出てくるのよ。だから一度「x」の概念を導入すると、その前のそれを使わなかった時代(小学生の算数)の文章題は「x」を使わなければ解けなくなる。そんな感じなんだけどな、、、って話が逸れた。

4月からはクラスが1つ上がって初級の上、みたいなクラスになってる。ここでのメインは「下称形」と「間接話法」なんだけど、間接話法といったら「誰々がこれこれと言ってます」みたいな感じだったじゃない、英語では。でも朝鮮語の間接話法ってそうじゃなく、とても幅が広いみたい。「○○という△△」みたいなのも間接話法に入るんだって。要するに「富士山という山」みたいなものも「わたしは○○(名前)と申します」というのも間接話法の中に入る。「下称形」というのは、一般的に言うと「である」体のことで、小説や本、新聞なんかはこの文体なんだそうだ。今まで1年間やってたのはずっと「上称形」で、これは「ですます体」のこと。朝鮮語はこの「ですます体」が更に2つに分かれて「합니다体」と「해요体」に分かれる。あとはいわゆる「タメ語」の「해体」というのがあるはず(これはまだやってない)。で、なんで「下称形」と「間接話法」がセットになってるかというと、間接話法を使うにはまず文を下称形に変えられなきゃだめだかららしい。

あとは「기」とか「게」を用言につけて体言化(~すること)したり副詞化(~く、~に)したりする表現を主にやってるのかな。

わたしは元々、朝鮮語を始めたいと思った直接のきっかけがinstagramで猫を飼ってる韓国の人と繋がって、その人たちとコメントのやりとりをしたかったからなのだけど、そうすると「読む」「書く」ということが中心で、「聞く」「話す」はほとんど関係がない。それに書いてある文章の文法を分析して読む、ということの方がわたしは好きで、英語の時もそうだったけど、英語の場合はその文章の「構文」をまず分析してからってことをしてたので(これは大学受験勉強の影響がとても大きいと思う)朝鮮語もそういう方が慣れてると思うの。しかも、韓国ドラマとかK-popは全く興味が無いので、まず「聞く」ことがない。そして「読む」ことは音の変化もあって超苦手。未だに母音の読み方が違って先生から注意されるほど。。(トホホ)

授業は毎回、聴き取りから始まるんだけど(今やってるような内容ではなく、去年やってたような簡単な内容)これが聴き取れなくてね~。他の人たちは韓国ドラマを見ているからか、とても聴き取れるの。ていうか「なんでそんなに聴き取れるんですか?」って聞くと「ドラマを見てるからね~」って言われるの。確かに耳をそういうのに慣らさないと聴き取りってできないんだろうなと思ったんだけど、ドラマは興味がないから無理に見ることはできない。そこで考えたのが韓国のテレビとかラジオのアプリ。これ、探してみると結構あるのね。24時間ニュース専門とか。わたしは主に「KBS World Radio」または「KBSWorldOnair」というアプリでラジオを聴いてる。ダウンロードしたときはデフォルト言語が英語になってるけど、それを한국어にすると24時間放送が韓国語になる。それ以外にも「YTN」というニュース専門テレビのアプリもある。こっちの方は「字も付いてるよ」と教えてもらったのでダウンロードしたのだが、今のところまだどこに字幕が付いてるのか発見できず。少なくとも同じ画面ではないような気が。やはりすべて韓国語で書かれるとわけ分かりません。「設定」画面にしようとするとアプリ自体がすぐ落ちるので設定画面で何を設定するのかすら分かんないし。ドラマは会話だけど、ニュースは会話じゃないし、内容は結構難しいと思う。だけど、耳を慣らすために取り敢えずダウンロードして聞いている。それに先生によれば、ニュースは難しいようで案外「漢字語」を多く使われているので、日本語話者にとっては聞き取りやすいんだとか。確かに日本語でも難しい言葉は漢語になるよね。「取る」だって「取得する」になったり、「持つ」だって「所持する」になったりするもんね。確かに「取得する」「所持する」の方が一般的には硬くて難しいとされている言葉だけど、それを知っていれば、朝鮮語にもそれを流用できることが多いのかも知れない、ってことになるよね(と言いつつも、わたしもそこまで難しい単語を知っているわけではないので当然聞き取れはしないが。でも発音がなんだか似てて知らない単語でも「あれ?もしかして?」って思うことは少しだけあったりすることもある)。

ただ、ニュースでも分かるのは語尾だけ、ってこともよくある。さっき書いた体言化の「기」を使った「기 때문에(~のために、~のせいで)」という言葉は既に習ったのだが、これ「だけ」聴き取れることがよくある。しかしその前の言葉がわからないので「なんのために」なのかよく分からない。。「는데」(~なんですが)とかもそう。何が「~なんですが」かの具体的なことは分からないけど「なんですが」って言ってるなあ~とか。「부터~까지」(~から~まで)もよく言われる。でも何から何までかはよく分からない。。ちなみに「부터」は時間や順番に使われて、場所(例えば「ソウル駅から」とか)には別の言葉を使う。でもそこだけ聴き取れても具体的な意味がさっぱり分からないので、ストレスが余計にたまる(>_<)

あと聴き取れないのは数字。これは授業の中の聴き取りでもそうで、だからそれを克服したい!って思うんだけど、今のわたしはニュースの中でも数字の部分は「あ、これ、数字言ってる!」ってのは分かるのよ、なぜか。だけどそれが具体的な数字として頭に残らない。それに朝鮮語というのは連音化によって発音が変化しちゃうことが多く、例えば「100ウォン」だと、朝鮮語で書くと「백원(百ウォン、一文字一文字で発音すると、pek-won)」、これを連続して発音すると「배권(pegyon)」になっちゃうのよ。なぜかというと「백」の「ㄱ」が次の文字の「ㅇ」のところに入ってしまうのと、「ㄱ」の発音は語中に来ると濁っちゃうから。そうするとわたしの耳には全く知らない言葉のように聞こえてしまうのだ。まだ次に「パーセント」が付いた方が分かりやすい。パーセントは最初の子音が「ㅍ」だと思うので、これは連音化しないから。数字自体についてもこのことが言えて、例えば漢数詞「11」は「십일(십が十、일は一、一文字一文字発音すると、sip-ir)」なんだけど、これを発音すると「시빌(sibir)」となる(ㄹの発音については前も書いたけど、rなんだかlなんだかよく知りませんので適当な表記です。でもそういう類の発音にはなる)。ひどいのは「6」で、語頭の「6」だと「육(yuk)」だけど語中に来る場合の発音は「뉵(nyuk)」になっちゃう。日本語で電話番号をいうときは「ゼロサン サンハチロクイチ ロクイチゴウハチ」(数字は適当だからね!)って「6」はどこに来ても読み方は「ロク」だけど、朝鮮語だと「サンハチロクイチ」の「ロク」と「ロクイチゴウハチ」の「ロク」は違う読み方になる。これは鼻音化の関係だと思います。まぁ規則的と言えば規則的な発音のうちに入るけど。あと「16」とか「26」とか「十六」関係の発音はそれに加え更に鼻音化がもう一段階起こるので、ますます分からなくなる。「십육」の読み方が「심뉵(sim-nyuk)」だからね。

これに助数詞「日」がついて、例えば日付の「11日」なんかは「십일 일」(일は漢字の「日」でもある)になり、これを発音すると「시비릴(sibirir)」、要するにわたしの耳には「しびりる」と聞こえる。だからいくら11を「しびる」と覚えたとしても後に付く助数詞(上の説明で言うとウォンとか日とか。日本語も助数詞たくさんあるよね。本とか個とか)によってまた受ける印象が違って来ちゃうのだ。一番難しいのはさっき出た「十六」関係だけど、例えば「16日」は「십육 일(一文字一文字を読むと、sip-yuk-ir(=しっぷ ゆっく いる)」だけど、読み方は「심뉴길(=sim-nyugir=しんにゅーぎる)」になって「しっぷ ゆっく いる」とは全く別物。「しっぷ ゆっく いる」を早く読んで「しっぷゆっくいる」にしたとしても「しっぷゆっきる」くらいにはなるかも知れないが、絶対に「しんにゅーぎる」にはならない。だからもう「しんにゅーぎる」=「16日」って覚えるしかないのかなと。でも多分、別の助数詞が付くと全く分からなくなるな、これは。ちなみに「12」は십이で「しび」なんだけど、これが「12日」になると「십이 일」=「しびいる」で、「しびりる」の11日との違いが聞き取りにくい。。ということになる。日本語の発音で言われると分かるけどさあ。朝鮮語だったら分かんないわな、その違い。結局わたしはこの違いはまだ聴き取れてません。つい先日11日と12日だったので、ニュースでは随分この日付を言ってたような気がするけど、何が何だか分からなかった。それに、正解が何であるか分かるわけもないので、そこのところは聴き取れたとしても本当に合ってるかどうかは分からない。それが日本語字幕が付いてる韓国ドラマとの差かなあ~。

ただ。日本語では、助数詞に数字が付くと数字の読み方と助数詞の読み方、2つが変わってくるよね。例えば「一本」「二本」「三本」の読み方はそれぞれ「いっぽん」「にほん」「さんぼん」だ。「一」=「いち」と習っていても「いっ」になったりするし、「四」は「よん」って読むときもあるし、ものによっては「し」って読むときもある。「本」は基本は「ほん」という読み方だけど、付いてくる数字によっては「ぽん」や「ぼん」って読むことがある。まぁそういうのと似てるってことだよね。おそらく日本語を習っている人たちにとっては「なんじゃこれ!日本語ってこうなんだよ!!難しいよね!!!」って言いたくなるだろうな~と想像する(笑)日本語については考えたことがないんだけど、朝鮮語のように読み方に規則性はあるんだろうか。。でも「一日」(ついたち)「二日」(ふつか)「三日」(みっか)などを考えると規則性なんかない気がするんだが。それともこの読み方は「例外」なのかな?だいたい「一日」のどこまでが「つい」でどこからが「たち」か分かんないや。もしかすると「つ」「いたち」かも知れないし(まさか)。しかもだからといって「日」が「たち」と読むかというと、そんな読み方をするとは言えない気が。日本語を教えてる人はこういうこと、どうやって教えるんだろう?わたしが日本語を勉強していたとしたら「なんで一日は『ついたち』って読むのに、日は『たち』って読まないって言うんですか!ここで『たち』って読みがあるじゃないですか。なのになんで辞書には『たち』っていう読み仮名が書いてないんですか??」とか先生に聞きそう。。(調べてみたら「日」の読み方は「ニチ、ジツ、ひ、か」だそうです。。)多分、こういう理屈で考えても分からないことがあるから、わたしは語学が嫌いなんだと思うね。

ところでここで一旦話が逸れるが。今、読んでる本の中に「ゲーテは『外国の言語を知らない者は、自国の言語を理解できない』と言った。」と書いてあった。あ、これ別に語学関係の本ではないんだけど。そしてわたしは上に書いたように朝鮮語を勉強しながら、日本語のことをよく考える。これって英語を勉強していたときは全く考えたことがなかったんだけど。あまりにも言葉の構造が違い過ぎるので比較するとかしないとか思ったことがない。あとそれと「考え付かなかった」というのはあるかもね。若すぎて。例えば文章の構造の違いから思考の方向性の違いを考えるのは結構楽しいことなのかも知れない。主語が絶対にないといけない言語だとか、動詞が主語のすぐ後に出てくる言語だとか、名詞が女性名詞や中性名詞、男性名詞に分かれてる言語とか、どれも日本語の構造とは違っている。「そんなに性が大切なことなのか?」とか「なぜ男性名詞と女性名詞だけでなく中性名詞まであるんだろうか」とか、そういうことを考えるのは面白いことなのかも知れない。そこで「その言語を話す人たちの特徴」なんか分かるのかも知れない(一歩間違えると「●●は△△だ」と決めつけそうで怖いが)。きっとゲーテは幅広い意味で言ったんだろうね。言語ということだけではなく。思考回路という意味で。しかし、わたしは言語だから言語のことだけ考えている。そうすると日本語を勉強している人はこういうこと考えて話さなきゃならないのか~、結構めんどくさいのね、とかそんなことを思う。

日本語を勉強している人が日本語を勉強する上で「て形」ってものを教わるんだと調べて知った。「書いて」とか「買って」とかの「て」なんだけど、その前の文字がいくつかの種類に分かれるらしく「書いて」だったら「い」とか「買って」だったら「っ」とか「読んで」だったら「ん」とか、そういうことらしいんだけど、その説明を読んでてウンザリした。難しすぎる。どこやらの文字が何行(あ行とかか行とか)だったら「て」が付く、とかそんな感じだった。覚えるのがめんどくさすぎる。日本語を勉強している人は、そんなことを考えながら話してるのか、そんなことを思った。まぁでもゲーテが言ってることは合っている。わたしは朝鮮語を勉強することがなければ決して日本語のことだって知ろうとは思わなかったし、日本語を勉強している人の気持ちも考えたことがなかった。閑話休題。

そしてそれに加えて。朝鮮語には固有の数詞もある。日本語でも「いち」「に」の他に「ひとつ」「ふたつ」という数え方があるが、まぁそれと同じようなものなんだけど、日本語だとせいぜい「ここのつ」までしかないのに比べ、朝鮮語の固有数詞は99まである。しかも日本語では「ひとつ」「ふたつ」なんて、ものを数えるくらいしか使わないのに対し、朝鮮語は○時△分の「○時」の「○」、「●歳」の「●」は固有数詞なのだ(もちろんこの他にも固有数詞を使わなければならない助数詞はたくさんある)。日本語の「一つ」「二つ」に当たるものは「하나」「둘」「셋」「넷」、、だが、例えば「1時1分」は「한 시 일 분」(시=時で、분=分)になる。固有数詞「1」は「하나」なんだけど、このように次にすぐ助数詞が来ると「한」に変化する。そのように変化するものは1以外には2、3、4と20。そして。漢数詞は例えば「35」なら「三」「十」「五」と分けられるが、固有数詞は「三十」+「五」になる。要するに「十」(열)「二十」(스물)「三十」(서른)「四十」(마흔)「五十」(쉰)、、、という単語が「九十」(아흔)まであるのだ。だから、朝鮮語では99まで固有数詞で数えられる。で、これを覚えておかなければならないのは、年齢を言うときはこれを使わなければならないから。朝鮮半島において年齢っていうのは、敬語を使う上でとても大切な情報だ。だから、自分より年上か年下かを知るために割と出会ってすぐに年齢を聞かれるとか。なので「少なくとも自分の年齢は固有数詞で言えるように」と先生からずっと前に(固有数詞を習うのは随分最初の頃なので)言われました。。

ただ不思議と、わたしは他の数字は全く聴き取れないというか、いつ言ってるかさえ分からないのに「8」(여덟)「9」(아홉)だけは妙に聴き取れる。なので最近よく分からないけど、(韓国の)高校、8時10分から8時半、ということだけ聞き取れるニュースが何回もあり、始業時間が変わったのか知らん?とか、そういうことを想像してるんだけど、まぁその他のことは何も聴き取れないんだから、本当にこういう状態、イライラするー!ちょっとは分かって嬉しい反面。

数字の読み上げだけをするアプリなんかないのかしらって思って探したんだけど、あったよ、一応。でも助数詞付きではなかったのと、まったく連音化してなくて単独の数字しか読み上げないアプリだったので(日本語で言うと「十」「万」「五」「千」「三」「百」「八」「十」「五」みたいな)これは慣れるとすぐに聞けるようになってしまう。問題は連音化した言葉が聞けることだから、このアプリはあまり役には立たなかった。`

というわけで、本当に意外なんだけど、まだまだちょっとでも朝鮮語が知りたい、聞けるようになりたいと思って、いろんなアプリを探したり、何か分かりやすい参考書みたいなのはないかな~って探したりしている。最近「標準韓国語文法辞典」てのを買いました。やっぱこれから先の勉強は語尾だと思うので。。

そしてこんなにまだほとんど何も聴き取れないのに等しいのに、結構聴くのは楽しい。新しく習った文法、例えばさっき出てきた下称形や間接話法なんかも習うと面白い。英語だったら「もうやだ、、」って絶対に思うはずなのに、それを全く感じないのは多分、日本語にない概念がまだ出てきてないからかなあ。だって「時制の一致」とか「仮定法」とか「過去完了」とか、わたしは本当に嫌いだった。ああ「定冠詞」「不定冠詞」すら嫌いでした。もうね「a」をつけなきゃならないのかとか「the」かとか、分かんないよ、そんなの。そういうのが朝鮮語には一切ない。その点は日本語と同じ。これは本当に気が楽だよね~。ところどころ、動詞のあとに付く語尾と形容詞にのあとに付く語尾が違ったりするけど(しかも動詞と形容詞の区別も日本語とは少し違う部分があるけど)、そういうのはまだ理解できるから。

なのでinstagramにも半年前以上に書けることが多くなってる。てか、本当にそれが正しい韓国語なのかは分からないけど、自分の言いたいことを書いたあとに「韓国語はまだうまく書けないので、意味が分かるか心配です」みたいなことを最後に付け加えると「意味は分かりますよ~」とか「韓国語、上手ですね」とか返事を書いてくれるようになった(笑)ちょっとずつ進化してるようで、それはやっぱり嬉しい(最初は読めもしなかったんだから!)。ただ、やっぱり向こうの人が自分の画像につけてる韓国語は分かんないです。韓国にも「ネット言葉」みたいなのはあるらしいし、わたしはまだまだ文法も知らないことの方が多いからそれがネット言葉なのか、単なる文法を知らないのかも区別が付かない。で、こういうのを自分からわざわざ文法まで調べるようなことはしません。それやるとわけ分かんなくなって朝鮮語自体を嫌いになってしまう可能性があるから。今は習ったことだけしっかり身に付けようと思ってる。それだけでも結構大変なんだから。

というわけで、朝鮮語を習い始めてから1年半ちょっと。今のところはまだ大丈夫そう(笑)聴くことはこれでいいとして、あとは読みです。読むのも苦手。こればっかりは教科書を繰り返し読む練習しなきゃならないんだけど、あまりにも読めないんで一番気が重い。。でもこれも練習しやすいようにいろいろアプリ探してきた。「Audipo」ってアプリを使って最初は早さを0.75倍くらいにしてゆっくり目から練習して、1倍の速度で言えるように繰り返し読むのが一番わたしにとっては楽な方法かも知れない。でも正直あまりやってない。これはとってもまずい。クラスで一人で読まされる場面もあるんだけど、読めないと思うと余計に緊張して読めなくなる(>_<)。クラスは3人しかいないし(1年目の終わりまで4人だったのに2年目になったら1人辞めちゃった)、わたし以外の2人は本当によくできる人たちなので付いていくだけで精一杯。予習・復習はちゃんとやらないと付いてけないので、丸1日やんない日とかもあるけど、でも大抵の日は何かやってる。そう、まだまだやる気はある。

でも半年後くらいに「やっぱり語学は語学だったーーーーー!もうやだーーー!」って言ってるかも知れないとはまだ思ってる(笑)

【追記】ラジオはほとんど聴き取れないので、ここで触れる気はなかったのだが、、確かに「역사 교과서」(歴史 教科書」という単語はものすごい頻繁に聴き取れてて「これはかなり問題になってるな」とは思ってた。が、それ以上のことは残念ながら聴き取れる能力が今のわたしにはない。(日本語のニュースを読んで)わたしは歴史教科書を国定の1つに決めるべきではないと思うし、そういう意味ではデモに参加した韓国市民と意を同じくする。

もう一つ言うと、パリで起こったテロだが、こちらの方はちょっと複雑すぎて。。こちらの方は少し以前にアブドルバーリ・アトワーンさんという人が書いた「イスラーム国」という本を読んだのだが、もしこのテロについて単純に「テロは絶対に許さない」としか思っていなかったら、この本を読んでみることをお薦めする。この人はアラブ人の報道者なので非常に取材が行き届いている。変に情報が偏っていない。この人、殺されたりしないかしらと心配に思うほど。これを読むと(イスラーム国は欧米が生んだ、といわれる)欧米以外のアラブ諸国にもいろんな問題があると分かるし、そして何より思うのは、ここに関わっている国々は誰もみんな平和なんか望んでいないのだ、ということがすごくよく分かる。みんな自国の利益追求(石油、そしてお金)ばかり。なぜ今「イスラーム国」が生まれてしまったのか、そのことをもっとよく考えるべきだし、多分状況は複雑すぎてよく考えても解決方法なんかすんなり出て来っこない。「イスラーム国」自体も、原理主義ではあるが、原理主義ならネット使って情報拡散するなと言いたい。なんでこの部分だけ「現代的」なそれが許されるのか。自分たちにとって都合のいい解釈をするのであれば、それは「宗教を信じている」とは言えないのではないか(こんなこと無宗教者であるわたしになんか絶対に言われたくないと思うけど)。この本で、実は1つ日記を書こうと思ったんだけど(それくらい考えることはたくさんあった)、でも止めたんだよね~。もう図書館に返しちゃったし。約400ページとちょっと厚いが、この問題は少なくともこれくらいの分量がないと説明しきれないくらい複雑なのだ。

Pray for Korea.Pray for Paris.と書くのは簡単だ。だが、わたしはそれをしたくない。第一にわたしには祈るべき神はいないから。それも理由のうちの一つだが、こういう気持ちを書いて発散させるより、書きたい気持ちをぐっと抑えて自分に何が出来るのかを考えたい。人一人ができることはほとんどないのは分かっているけど、でもそれでもあがき続けて考え続けたい。
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11-13 Fri , 2015
ハードディスク入れ換え(備忘録)
わたしが初めて自分のPCを買ったのは学生時代で、それはインターネットをするためだった。高校生の時に既に家にはPCがあったのだが、当時のPCは使い方がよく分からず、ただBASICで円が描けて「わー」とかそういう世界だったし(逆に言うとわたしはそれくらいしかできなかった)、ゲームするにもテープ(カセットテープ)を読み込ませる時代だったし、それどころか、雑誌には機械語でゲームのソースが書いてあり(単なる数字の羅列)、それをチマチマ打ち込んでからゲームをするという、今から思うと信じられない世界だったのだ。うちのPCはほとんど「ワープロ」、一太郎を使うことしかPCらしいことはしてなかった。パソコン通信は当時からあるとは知っていたが、なんせお金が無い高校生だし、金がかかるので親には到底「やってみたい」とは言えなかったんだよね~。

ところが院生の頃からネットが盛んになって来て、最初は学校でやってたんだけど、次第に「家でやってみたい。チャットやってみたい」みたいな感じで、初めて買ったのは133MHzのノートPCだった。その当時で30万で、それでも結構安い方だった。それから2年前まで一貫してノートを使ってたんだけど、その理由は「家が狭いから、デスクトップを置くスペースがない」という理由でしかない。今は2人で住んでるからそれなりに広いし、ノートより断然安くてスペックも高いデスクトップにした方がいいよねってことで、今から2年ほど前だったかに初めてデスクトップにしたのだ。だいたいその前のノートPCは使ってるうちに画面が写らなくなって、それが保証期間が過ぎた直後だったんで無償で直してもらえなくて。だからモニタを買って接続して、そうするとキーボードも必要なのでキーボードも別につけて、ほとんどノートPCみたいじゃない状態だったんだよね、既に。初めて買ったデスクトップの機種はLenovoのThink Centre M93p SFF proってヤツだが、正直、中身のことはあんまりよく考えずに買ったんだよね~。だったんで、デフォルトのDVDがROMで、買った後に気が付いて「しまった」って思った。

しかも使ってるうちになーんか動きが遅くなってきたので、メモリを増設。ここからが始まりだった。今までノートPCもメモリは増設したことがあるし、そういうものをいじるのはそんなに抵抗感はないのだが、不思議とPCは自作しようと思ったことはなかったんだよね。まぁ自作しても大きすぎて部屋に置けない、というのがあったのだけど。ノートのメモリ換装は別に全部開けて基盤がバッチリ見える、みたいなものではなかったから、そう抵抗感はなかったのだが、逆にデスクトップは開けたら中身が全部見えるので、わたしにとっては結構事前のハードルは高かった。だけど実際にやってみたらメモリの増設は簡単だった。あらかじめメモリ増設の解説してあるサイトを探しておいて、なるほどね~みたいな感じ?ちなみにメモリ自体はいろいろ種類もあるし、ヨドバシに行って機種の名前を言って「これに合うもの」と言って買った。バルクにするかどうか、すっごく迷ったが、まぁ掛けだと思って安いバルクのメモリにした。PCを開けるときは「どうすればいいんだ?」って思ったけど、この機種って開けるの本当に簡単にできてて、ネジも手で回せるほど大きい。

開けたとき、思ったよりも中にホコリがたまっててびっくりした。もしかしたら動きが悪かったのはこういうのも原因だったかも知れない、と思った。元々キーボードの間のホコリを取るためにノズルからシューッと空気が出てくるヤツ(なんて言う名前なのか知らない)は持ってたので、それでシューッとしてホコリを吹き飛ばしたりした。メモリはそんなわけですんなり換装できた。

次はDVD。やっぱROMは使いづらかったので、RAMに替えた。DVD-RAMって結構安いのね。これも事前にいろいろDVDの入れ替え、というサイトを探してやり方を調べた。最近は親切な人がいて、調べたら結構簡単にやり方が出てくるので、本当に有難い。ケーブルがIDEかSATAかどうか事前に調べて、ってことだったのでPCを開けてみたけど、SATAケーブルだったです。まぁ今どきのPCはほとんどSATAらしいが。

これもやり方は簡単だった。といえども、サイトで説明してあった自作のPCにDVDを組み込む、というよりも、このLenovoのPCはネジも何もいらず、逆に「あれあれ、違うぞ?」って感じで最初はちょっと恐る恐るだったんだけど、なんとなく視覚で「ここをこうすればいいの?」って分かるようになってるので、それが分かればネジで止めることもなく、本当に簡単にできた。自作の場合はDVDを入れ換えるときに前面からDVDを取り出すのが一般的みたいなんだけど、このThink Centreのわたしのは前じゃなくて後ろ側から取り出すみたい。それが一番「これでいいのかなあ?」って迷ったところだった。でも逆に言うとそれだけだった。

それに気をよくして今度はハードディスクも入れ換えることにした。といっても、実際のところ、このPCって250Gしか用量がなく、その9割近くをもう使ってたのね。ノートPCのときは容量が足りないなんて思ったことは一度もなかったのだが、今のPCはほとんどが画像データだと思う。高尾にゃんとばこの画像を撮ったらほとんど全部PCに写してるし、同じ画像もいろんなところに重複してあったりするので(バックアップいろんな方法で取ってたらそうなった。Dropboxからのとか、iCloudからのとか。まぁ同じのが何枚あってもいいの。ファイルが壊れたときのことを考えると)、それが多分かなりの容量なんじゃないかな。自分の使っているPCの名前で検索して、ハードディスクを増設した人のブログがでてきたので「なるほど」と思い、まずはハードディスクを買った。今度はネットで買った。2Tとか3Tとか売ってたんだけど、やっぱそれなりに高いのね。ハードディスクって。DVD-RAMの値段の数倍はする。まぁ元々250Gだったんで、1Tでも4倍になる。まー、しばらくはそれでいいかな、ってことで、Amazonだったかで「WD HDD 内蔵ハードディスク 3.5インチ1TB Black WD1003FZEX」ってのを買った。あとはSATAケーブルも。参考にさせてもらったブログにはそれが必要だって書いてあったんでね。SATAケーブルは6Gbのに。ハードディスクは6Gb対応だしって、本当はマザーボードが6Gb対応じゃないとそこまでの速度は出ないと言うことらしいのだが、あとでマザーボードが何か、仕様書見て6Gbに対応してるって分かった。こういうのをいろいろ調べると知らないうちにPCの中身が分かってくるのね。

で、いざモノが届いて「さて、入れるか」と思ったら。わたしのPCには増設スロットがない。「あれ???」って思ったら、その人が持ってたのはミニタワーで、わたしのはスリムタワーだったので、増設スロットってものがないヤツだったのね。ってことは、増設じゃなく、ハードディスクを入れ換えないとダメなんだってことが分かった。そこからまたネットで「どうすりゃいいのよ?」って調べたら、古いハードディスクを新しいハードディスクに丸ごとコピーする「クローン」ってものを作れば、簡単にハードディスクの入れ替えができる、ただし、クローン作ってもうまくブート(起動)できないときもあるけどね、ということが分かった。ブートできないとなると、その対応はわたしはやり方を見ても理解できない(そこまでPCの内部には詳しくないので)。なのでそうなったらやっかいだなと思ったのだが、とにかく今のハードディスクの9割以上は消費してしまってるので、遅かれ早かれハードディスクは大きいものにしなくてはならない。しかもハードディスクはもう新たに手に入れてしまったのだし。

ということで、とにかくやるしかない。

しかし、クローンを作るってどうやってやるの?ってまず思った。クローン作成のためのソフトは無料の「EASEUS Todo Backup」が良さそうだったのでそれを使うとして、どうやって新しく買ったハードディスクを繋げばいいんだ、と思ったけど、よく考えたら外付けHDDのような形で外付けでくっつければいいのよね。ってことで、こちらの方はヨドバシにわざわざ買いに行きました。ネットでもいろいろ見たんだけど、イマイチ何がいいのかよく分からなかったし、価格.comなんかで一番安いの探しても、今まで買ったことのないところから買うのはなんとなく抵抗感となんかめんどくささを感じたし、それにこの手の製品って思ったほど高いのね。HDDケースにすると4000円くらいする。なので実際店頭に行って、いろいろ見て自分が一番いいと思ったのにしようと思って。

ヨドバシでいろいろ見たんだけど、その中で「オウルテック 2.5インチ/3.5インチSATA HDD用アダプタ ACアダプタ付 SATA⇒USB3.0 USB3.0 新IC UASP対応 ガチャポンパッ!でデータ移動 OWL-PCSPS3U3U2」ってのにした。アマゾンの値段よりヨドバシの方がちょっと高かったかな~。まぁそれでも2000円台で買えた。

家に帰って早速PCと接続。まずはハードディスクのフォーマットから。これも検索して分かりやすく書いてあったサイトに書いてあったとおりにしたの。コンパネから管理ツールに行って、コンピュータの管理→ディスクの管理、ね。しかし書いてあったようにすんなり行かず、いくら経っても「新しいスパンボリューム」ってところが有効にならない。でもPCの作業するときはいつも思うけど、カリカリしちゃいけないんだよね~。カリカリして無理矢理どうにかしようとすると、いつもひどい目に遭う。今のPCになってから、何をどうしようとしたのか忘れてしまったけど、一度、無料のソフトをダウンロードしようとして変なところをクリックして、変なソフトをダウンロードして変なウイルスもらってきてしまったことがあった。他のところに変なことはしないウイルスらしかったが、調べたらレジストリを書き換えられてしまうもので、そこを書き換えれば元通りになるらしかったが、そこを書き換えて元通りにしたとしても、なんかすごく気持ちが悪かったので、一回、すべてデータ消して最初からインストールし直したことがある。イライラしているときはあまり説明を読まずに目に付いたものをクリックしちゃうから気をつけなきゃなあって、そのとき思った。のに、やっぱりカリカリするといろんなことをしてしまうみたいです。

今回はWinの(あ、ちなみにわたしはWin7です。Win7なんだけど、32ビット版という。。これもよく調べて買わなかった報いですわ)中の話なので、変なことにはならなかったものの、結局あとから考えてみるとなんだかすぐにはそれが有効にはならなかったみたい。あるときひょっと見たら「新しいスパンボリューム」が有効になってて、それで無事にフォーマットすることが出来た。てか、フォーマットするだけでいろんなことがあり、、前途多難。

その後、先ほどの「EASEUS Todo Backup」を動かしてみた。なんかすっごい早さでクローンができたみたいだったので「もうできたのか」と思い、しかし、バックアップディスクを作った方がいいというので、ついでにこれも作る。DVDをRAMにしておいて本当によかった。ハードディスクを入れ換えた。これもネジなしで入れ換えることが出来る。簡単だった、と思ってスイッチをONにする。あれ。BIOSがうんたらかんたらと言っている。どうやら「起動ディスクがない」というのと「起動ディスクを探してます」って警告が交互に出るようで。。「F1」を押してBIOSの内容を見てみる。というとBIOSの使い方分かってそうだけど、実は全く分かりません(笑)ただ、BIOS上の「System Summary」からハードディスクを認識しているかを見たら、ちゃんとハードディスクは認識してるみたいだった。その程度のことなら分かるんだけどね。

で、ここで先ほど作ったバックアップディスクの出番だ!と思ったんだけど、確かに何か動いて画面が出てきたけど、わたしはここで何をどうすればいいのかさっぱり分からず。終わり方すら分からない。「あー、他にもうやりようがありません」と運を天に任せる気持ちでそのままスイッチオフ。怖いよね~、これ。BIOSってどうやって終わらせたらいいんだろう?これでPCがいかれたら目も当てられない。まぁ運がよく、壊れたりはしなかったけど。

「おかしいな」と思い、まず、ハードディスクを古いものに入れ換えた。もしかしたら新しくした6Gbのケーブルが原因だったりして?って思ったのだが、特にそれは問題がなかったようだ。で、先ほどの「ディスクの管理」でクローンが出来てるはずの新しいハードディスクの中身を見てみると。何も入ってない!クローンが出来たと思ってたけど、あの時間の短さは何もやってなかったんだと言うことが分かった。てか、できたあとはこうやって確認しないとあとでえらいことになる、ということを一つ学習した。

それからクローンを再度作ろうと「EASEUS Todo Backup」を動かす。使い方を書いたサイトもいろいろ見てみる。最近はこのソフト、日本語化されてて随分見やすくなったのだが、なかなか最新のバージョンのことを書いたサイトがなかった。で、動かして分かったんだけど、エラーが出るのね。最初のはすぐにエラーが出て終わっちゃったことが分かった。サイトにいろいろコメントが書いてあったんだけど、やっぱりエラーが出て止まるって書いてある。どうやら読み込み先に不良セクタがあって、それがあるとエラーが出てしまうみたいだ。その場合はWinのメニューのコンピュータから目的のハードディスクドライブを選んで、そこでプロパティ、ツールタブからエラーチェックをすればいい、って書いてあった。なので、これをしてみる。そして再度クローン作成へ。

次はいいところまでいったかと思っても、やっぱり途中でエラーが出る。何回も何回もエラーが出る。そのうち突然ソフトから「再起動します!」みたいなことを言われ、「再起動ヤだ」と言いたかったんだけど、そうするしかなかったので再起動をした。するとうまく立ちあがらずに今度はリカバリーみたいな画面が出てきて、それからどうするの?状態。このときもその後どうやって正常にPCを終わらせたらいいのか分からなかったので、運を天に任せてスイッチオフ。こういうのが一番怖い。。(考えると結構めちゃくちゃやってる)

毎回同じエラーなのかと思い、再度クローン作成。エラーが出たら書き留める。エラーの内容は「0x1760E077書き込みに失敗しました」って書いてあった。書き込みエラー?読み込みじゃなく?ってことは、読み込み先ではなく書き込み先に不良セクタが??ってことで、今度は同じ方法で新しく買ったハードディスクのエラーチェックを。これでまたクローン作成へ。今度は1時間以上動いて一番大きいパーティーションの内容が全部コピーできたみたいなのに、最後のパーティーションの途中でまたエラー。そういえばこっちのパーティーションの方はエラーチェックしてなかったと思ったのでやったりしたんだけど、なんかうまくできない。「EASEUS Todo Backup」はエラーがすぐ起きたあとに再度動かそうとしても、それ以降はちょっとするとすぐにエラーになっちゃって最後まで動きそうにない。そこでやり方が書いてあったサイトにコメントがたくさんついてるのを発見して、他の人はどうなんだか読んでみた。その中にやっぱりエラーが出てクローンが作れないと言ってた人がいた。その人に対してそこの管理人さんは「自分だったらHDDの検査ツールで検査する」って書いてあったので、HDDの検査ツールを探す。どうもWinに付属しているエラーチェックツールは弱いらしい。そこで探し出したのが「FromHDDtoSSD」。

これ、不良セクタに対してはかなり強力みたいなのだが、不良セクタを修復するモードってとっても時間がかかって、なんか27時間くらいかかるって書いてあったので、だいたい今まで使ったことないハードディスクにそんなに困難な不良セクタはないだろうと思って、普通モードで完全スキャンした。これ、複数のドライブもいっぺんにやってくれるみたいなので、今まで使ってた古い方のドライブもチェックして。終わるまでに6時間以上かかるみたいだったので、わたしはそこでお休みなさい。寝てる間にPCは働いてね、って感じだった。

で、朝になって起きたら終わってて、特に問題がなさそう。ていうか、正直「これでダメだったらどうすんだよ」って思った。まぁ、セクタバイセクタにチェック入れずにクローン作ってたんだけど、それにチェック入れる方法がまだあるよなあとか、ダメでもいろいろまだやる方法はあると思ってたけどね。

最後のクローン作成はもう祈るような気持ちだった。前日はエラーが出るまで最長で2時間後くらいだったが、今回は進度がすごく遅くて、4時間以上かかった。進み具合が分かる棒グラフみたいなのがあって「ここまで出来ましたよ」って少しずつ左から右へ色が付いていくのだが、見てたら前日は2分に1回くらいの頻度でちょっとずつグラフが進んでたにかかわらず、今日は時間を計ってみると6分に1度しか動かないときがある。ハードディスクに接続しているコネクタは緑の点滅してて、動いてるというのは分かるんだけど、グラフがなかなか動かないと途中で飛んだのか、と思ったりして。ホント、最後までヒヤヒヤした。

しかし、何がよかったのか、時間を掛けて不良セクタをチェックしたのがよかったのか、単に運がよかったのかは分からないけど、ついに最後まで進んでクローンが出来た。ただ、前にそのまま入れ換えて失敗したので、今回は慎重に。まず、ディスクの構成でちゃんとコピーできてるかどうかを見る。コピーは出来てるけど指定してなかったのに未指定のパーティーション(容量は少なかったんだけど)が出来てて「なにこれ?」って感じだったのと、ボディーとなるドライブに「ブート」って書いてなかったのが気になった。けど、これについては何がどうだったらいいのか調べてもよく分からなかったので、結局はまぁ一応コピーは出来てるみたいね、ということしか確認が出来なかった。

ハードディスク入れ替えのためにPCを開けること3度目。3度目はもう慣れたもので(笑)。でもスイッチを入れてちゃんと動くか、そこのところは本当にドキドキものだった。だってうまくコピーできても動かなかったら、今度はどこをいじればいいのか、それはわたしの理解を超える分野だからだ。

しかし、結局のところ、そこまで心配しなくてもよかった。ハードディスクを入れ換えただけでちゃんと起動した!わー、すげー嬉しかった。そして、未指定に区切ってあるパーティーションが気になったので、最後に「AOMEI Partition Assistant Standard Edition」という無料ソフトをインストールして、それで結合。やり方はとても簡単だった。未指定のパーティーションを「結合」にして結合先を指定、それから「適用」を押すだけだった。

「AOMEI Partition Assistant Standard Edition」もそのためにわざわざ調べたんじゃなく、クローン作成をするときにうまくいかなかったので、いろいろ調べていた最中に知ったソフト。まぁ今回のクローン作成のために、2つのソフトを補助的に使った、ということになる。

これでハードディスクの容量のことで「もうすぐいっぱいになっちゃうからどうしよう」ってヒヤヒヤしながら使わなくて済むようになったので一安心。しかし、おそらくハードディスクを換装しちゃったので、メーカーの保証は効かなくなっちゃったよね。。まー仕方ない。

結局今回時間がかかったのは、クローン作成のときにエラーが出て作成できないってことで、それは何種類かのディスクのエラーチェックを繰り返したからだった。根本的に相性が悪いとか、ブートできなかったとか、そういう問題ではなかった。やってみれば極めて単純な問題だったけど、やってる途中は本当にこれでいいのか、この方法がダメだったら他にどういう方法があるか、それをネットで探し歩いた。探せばまぁ、親切に説明してくれるサイトがいくつかあって、本当にそういう人、有難うございますって感じ。

ただ、デスクトップって本当に自分でバージョンアップさせたいと思ったらできるんだね~。いろいろ調べながら「あー、こういうこともできるんだ」と思ったりしたので、今度新たにデスクトップを買うときは、普通にタワー買っちゃうかも。

まぁ次にハードディスク換装するための備忘録でした。
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11-10 Tue , 2015
いろいろ変わる薬
息苦しさについて書いたの、前回のいつだろ?9月23日の日記だから1ヶ月半ほど前?

結局のところ、あのとき「息苦しさが治りつつある?」って書いたんだけど、まだすっきり「治った」とは言い切れていない状態。

前回飲んでたセディールはダメだった。結局手足の汗はずっと飲みつづけてても治らなくて、しかもものすごく寝つきが悪くなった。寝つきが悪いだけでなく、眠れなくなった。なのでセディールを飲んでた1ヶ月間、寝不足から来る頭痛が頻繁に出て(もしかしたら、薬の副作用もあったのかも。でも分かんないけどね)何回頭痛薬を飲んだことか。

なので次に病院に行ったときは「効かないし、眠れなくなったから薬を変えて欲しい」と言って、結局またワイパックス0.5mgを1日朝晩2回、という処方に戻った。ただ主治医からは「ワイパックスはあまり長期間飲む薬ではないんですよね~」と言うことで、1ヶ月経ったらまた新しい薬を試す、ということにした。ワイパックスを飲んでいる1ヶ月間は、相変わらず息苦しさは改善されるということはないんだけど、手足の汗と寝つきの良さは戻ってきた。というか、わたし、このときは全く思ってなかったんだけど、すっごい寝つきがいいって思ってたら、これはどうもワイパックスの影響だったらしく。。

ワイパックスに戻して1ヶ月後、病院に行った。そのときに主治医から「作用機序が異なる薬はもうあと1種類しかなくて、それはあんまり。。その他は漢方薬で、もうその他にはない。これが効かなかったら薬じゃなく、その原因を取り除くための別の方法しかない」と言われたので「別の方法ってカウンセリングですか?でもわたし、今特に悩んでることもないし、正直、カウンセリングでは何も話すことはないです」って答えた。主治医には言わなかったけど、もし悩んでることがあったとしても、わたし、カウンセリングなんかじゃダメなんだよね。ただ話を聞いてもらっても「だからそれが何?」って思ってしまう。別にわたし、普段誰にも言えないことなんかないからさ。既にわたしの中では「悩み」ではなくなってるけど、問題はいろいろあるのは分かってる。でもこれ、正直誰に話したって簡単に答えが出るような問題ではない。わたしが欲しいのは「わたしが今まで考えも付かなかった斬新な考え」なんだけど、彼女に相談しようが何しようが、自分が今まで考えた域を超えるような「解決方法」って全くないのよ。カウンセリングも1年通ったけど、ほとんど傾聴だけでわたしはもう自分で考えて分かりきってることをなんでこの人にわざわざ説明しなければならないのかしら、しかもお金払って、ってずーっと思ってた。別に分かって欲しいわけではなく、わたしは「その解答」が欲しいのだ。もちろん、カウンセリングは解答を与えてもらうところではないところは十分に分かってる。解答は自分で導き出すものだって。でも、そのとっかかりすら分からないというか、わたしは誰かに話をすることによって頭が整理されていくタイプでは全くないんだよね。

まぁ、自分のことについて長年考えて行くうちに「これはもうどうしようもないことなんだ」って思って来た。なのでもう考えることは止めた。これが息苦しさに繋がってるとは思ってないし、その「問題」について再度誰かに話すのはもう嫌だ。だって不愉快なことだから話したくないもん。気分悪いし。なので、カウンセリングなんかは絶対に受ける気はない。

だもんで、医者にはほとんど「さじを投げられた」状態になってしまったんだけど、まぁ、今回は漢方薬を飲んでみましょうと言うことになった。それから「ワイパックスと同じ系統の薬では、もうわたしには効かないと言うことですかねえ。デパスは確かに飲んでも全く効いたことがないですけど、セルシンは結構自分では効くような気がしましたけどね~」とか言ってみた。そうしたら「ワイパックスよりは効き目が弱いけど、同じ作用機序の薬を出します」と言われ、結局、漢方薬は「半夏厚朴湯」、抗不安薬は「アルプラゾラム」が出された。半夏厚朴湯はわたしは初めて飲む漢方薬だったんだけど、まぁ今まで飲んだ抑肝散などはわたしはあまり効かなかったので。。

「アルプラゾラム」というのは、商品名ではソラナックスで、これも前に飲んだことはある。が、こういうの、うつ状態の時に飲んだからと言ってどのくらい効いたかはよく分からないのだ(多分、2回目のうつ病がひどかったときに飲んでた薬のうちの1つだと思う)。ただなぜかよく分からないけど処方箋には「アルプラゾラム」と書いてあったので、薬局が勝手に「ジェネリックでいいですね~」と言って「アルプラゾラム『サワイ』」って薬にしちゃった。まぁ別にいいけどね。

で、そのような処方になったその日の夜。前日まであれだけ寝つきがよかったのにまた全く眠れなくなった。「なんで??」って思ったんだけど、どうやらこれ、ワイパックスの離脱症状らしかったんだよね~。わたしは全く睡眠剤と意識してなかったんだけど、最近の寝つきの良さの原因はどうやらこれだったらしく。そういやワイパックスを飲んでいた1ヶ月間の中で、2回だけ飲み忘れたことがあったんだけど(次の診察日までぴったり処方されるので、その薬が余って最後に分かる)、その中で「いつもは眠れるのに何で今日は全く眠れなかったんだろう?」って日が1日あり。どうやらこの夜が飲み忘れた2回のうちの1回だったんだろうと思った。あとの1回はおそらく朝飲み忘れたんだろう。っていうか、睡眠剤って割と精神的なものにも作用してて「飲む/飲まない」という「行為」自体が睡眠「できる/出来ない」という精神作用に大きく影響すると思っている。けど、そんなこと全く思ってないのに眠れない、というのは、それは薬のせいというほかなく。わー、ワイパックスも結構怖い薬なんだなって思った。あ、でも、ワイパックスを飲んだのはこれが初めてでも何でもなく、今まで数え切れないほど何回も飲んでて(2回目のうつ病は息苦しさから始まったんだけど、そのときに初めてワイパックスを飲んだ。で、それから息苦しさって何回も起こっているので)でも止めたから眠れなくなったって思ったのは、前回が初めてだったから。その前まではワイパックスを止めたから眠れなくなったとは1度も思ったことはない。で、前回はそのまま新しい薬(セディール)のせいか、ずっと眠れなかったので、眠れないのはすっかりセディールのせいだと思ってた。実際、その後も眠れなかったのはそうだと思うけど。今回は眠れなかったのは最初の1日、状況から考えて寝てたとは思うんだけど全く寝た気がしなかったのがその後の数日、その後は前のようにまた寝つきの良さが戻っている。

思うにこれは、今飲んでるアルプラゾラムが効いてるのかも?と思ってたりもする。ワイパックスよりは弱いけど、作用機序は同じだからね。まぁでも、睡眠剤として効いてたとしても、徐々に量を減らしていけば自力で眠れることはもう分かってるので、特になんとも思ってません。睡眠剤は依存性があるとかいろいろ言われるけど、だからといって飲まなくて眠れないのは本当につらいし、それに眠れなかったら寝不足で頭が痛くなるからね、わたし。QOLがすんごく悪くなる。だから自分ではどうもならなくて眠れないときはやっぱり睡眠剤に頼るよ、わたし。で「薬がなくても眠れるかも?」と感じ始めたら、徐々に減量していけば止められるもん、睡眠剤。今まで何度もそうして来てるし。まぁ今回のこれは、特に睡眠剤として出されてるわけではなく、いわば「副作用」としての寝つきの良さなので、ちょっと違うんだけど、まぁ止められるのは変わりがないし。それより息苦しくなくなって生活しやすくなる方がわたしにとってはよっぽどいい。てか、息苦しくなくて生きられるのってこんなに楽なことはないよ。それが薬飲むことによって息苦しくなくなるのなら、わたしゃ薬飲む方を選ぶよ、絶対。

てなわけで、この2種類を飲み始めて2週間ほど経つかなあ。漢方薬は1ヶ月飲みつづけなければ効果が判定できないと言うことで、今、評価はまだできないと思う。思うんだけど、なんというか、息苦しさを自覚するためか、頻繁に深呼吸しないと気が済まなくなってたのが、あまり意識しなくなったような気がする。最近は、息苦しいと思って息を吸うとちゃんと息ができる、って感じまではよくなってたんだけど、なぜか息できるはずなのに息苦しさを感じて、だから相変わらず深呼吸の回数は減ってなかったんだよね。それが今は深呼吸の回数は減ってきたように思う。ただ完全に息苦しさがなくなったわけではないし(たまに息苦しいなと思うと気がある)、あと、息苦しさに伴ってひどいと思ってた肩こりや背中の痛みはまだ軽くなったとは思わない。まぁでも頻繁に深呼吸してたときに比べるとこれだけでも格段に楽にはなった。

思うに、わたしは人が飲む1/2~1/3くらいの量で薬の効果があるみたいだ、と前の主治医に言われてたが(だからジプレキサなんて1/5錠のときがあった)、もしかしたらワイパックスは強すぎて効果が出なかったのかもね。とすると、今のわたしにはリーゼ辺りがあってるのかも??と思ったり、、リーゼは弱すぎて過去、全く効かなかった薬だけど。で、きっとあのとき今の主治医は言わなかったが、わたしが「眠れなかった」というのは、ワイパックスの離脱症状と分かってたんじゃないかな~。だから、作用機序が同じ、少し軽めの薬を処方したのではないかと。まぁそれは当たってた、と言えるだろう。あのときわたしが挙げたデパスは作用は強めで効き目は超短時間、セルシンはすごい長時間らしいので、ワイパックスと同等の作用時間、効き目がちょっとワイパックスに劣るのが、ソラナックスらしい。なるほどね。わたしは薬に関してはわたしが「わたしの今の調子はこれこれこうです」と言ったら「じゃあこれで。この薬はこれこれこうでこういう感じです」ってパッと自分で決めてくれる医者の方が頼りがいがあって好きなんだけど、今の主治医とはなんだか、あれこれ話し合って薬を決めてる感じがするので、どうしてもそれが「頼りない感じ」に思えちゃう。でも、まぁ当たり前だけど薬に対する知識はあると思うし、なんというか「頭がいい」感じはするんだよね、あの主治医。ただまだ随分若いので、経験がないというか(って随分失礼な患者だね、わたしも(笑))。あとは、漢方薬がどの程度効いてくれるかだな。

ただ、この薬を飲んでも完全に息苦しさが治らなかった場合、どうするんだろうね~とは思っている。「もう薬じゃ治せない」って言われたし。カウンセリングやだし。どうなんのかね。

【現在の処方】
朝、晩:半夏厚朴湯、アルプラゾラム「サワイ」0.4mg×1錠
18:56 | 病名が分かった後のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
11-08 Sun , 2015
真実は一つじゃない
真実は一つだ、って思ってたときがあった。と言ってもそれは「わたしにとっての真実」であり「あなたのとっての真実」ではない。そこまでは分かってた。でも最近、自分の中であっても「真実とは一体なんだろう?」って思うことがある。自分の置かれた状況と気持ちが複雑すぎて、何が「自分にとっての真実」なのか、自分は一体どう考えるべきなのか、それが全く分からないことがある。

ちなみに。「あなたの真実」というのがいつも正しく、そこに対して誰も何も言えないかというとそう言うわけではない。なぜかというと誰にとっても「事実は一つ」だからだ。だから「あった」ことを「なかった」ということは、それは真実どころか事実でも何でもなく、それに対しては「あなたは間違っている」としか言いようがない。もちろんわたしが「あった」ことを「なかった」として「それが真実である」、としたときも当然わたしは間違っている。そのことは前置きの一つとしてあらかじめ書いておく。

さて。この夏は戦後70年だったってことで、その時期にいろんな催し物があったのだけど、わたしもその中でいくつか興味あるものに参加した。まぁそれ以前にその数ヶ月前に元日本軍「慰安婦」についての勉強会に参加したことがそもそものきっかけになっていたりする。その勉強会は全く知らない人に向けての勉強会だったので、とてもためになった。今まで元日本軍「慰安婦」関係の本は何冊か読んだことがあるのだけど、本を読むよりずっと分かりやすくて細かい話も頭に残っている。その後、公開された「『記憶』と生きる」という元日本軍「慰安婦」の人たちを撮影したドキュメンタリー映画を観たりしたので、わたしはまず、8月14日に行われた「戦後70年 東アジアフォーラム-過去・現在・未来-」というイベントに関心を持った。

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イベントを聞いてて感じたのは「これは、初級向けの内容じゃないじゃん!」ってことだった。まぁこういう話に初級も中級もないとは思うけど、全体的に話がとても難しくて、前提条件として「歴史を知っている(加害行為と言うよりも、その後の戦後補償の歴史など)」ということだったので、そういうのはほとんど知らなかったわたしには理解すると言うよりも「なんじゃこりゃ」という思いが強かった。しかし基調報告の中で「日本の外務省は、当時の連合軍捕虜の人たちを毎年何人か日本に呼んで、その人たちに毎年公式に謝罪している」ということが話されたんだけど、わたしはこのことを初めて知った。てか、巷でそのようなこと、今まで聞いたことありました?そしてその都度報道されてましたっけ?

2010年から年に2回ほど(当初は2回以上ある年もある)、元アメリカ軍兵士と元オーストラリア軍兵士を日本政府が招聘し、その中で毎年、外務大臣が公式に彼らに謝罪をしているらしい。わたしはそのことを聞いてすごくびっくりした。そしてそのことはわたしの中で妙に頭の中に残った。

このときは「東アジアフォーラム」での話だったので「こういうことがある一方、元日本軍『慰安婦』の人たちにはそのようなことは全くない。これは差別としか言いようがない」、そんな感じで出てきた話だった。

次に「話を聞いてみたい」と思ったイベントは、韓国・朝鮮人元BC級戦犯の人の話が聞けるという、むさしの平和のための戦争展「朝鮮半島と日本」というイベントだった。失礼ながら、そういう人たちがいらっしゃることをわたしは全く知らなかったし、おそらく今回の機会を逃すと聞くことは出来ないだろう、そう思ったから行った。

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てっきり元BC級戦犯の人だけの話が聞けるのかと思いきや、その前に「『戦後70年』・未解決の戦後補償を考える」という題での講演があり、またその話が前回の「東アジアフォーラム」よりも数段上の話で、なんだかもう本当に知らなかったことばかりだったし、今まで考えたこともないような「横断的」な戦後補償の話だったので、妙に感動して帰ってきた。わたしの中では今までは「補償問題」って元日本軍「慰安婦」の人たちとか、あとは在外被爆者の人たち、どっちかというと外国(っていうか、そのほとんどは日本の元植民地であるというイメージなのだが)から日本に向かってのこと、というイメージが強かった。国内でシベリア抑留されていた人たち、その中で亡くなった人たちのことのことが最近、話が動き出したことは少し知ってたんだけど、そういう人たちとか、それどころか日本で空襲に遭った民間人とかそういう人たちまで「戦後補償問題」に入ってるとは思いもしなかった。そしてその中にも元連合軍の捕虜の人たちの補償問題が入っている、ということ、そして何より元BC級戦犯というのは、戦争中の捕虜の扱いに関する「人道的な罪」によって極東裁判で死刑になったり懲役を科せられたりしてた人たちのことだ、ということをそのとき初めて知った。ちなみにこのとき元BC級戦犯として話をして下さったのはここで少し触れたんだけど李鶴来(イハンネ)さんという人だ。そう、わたしこの「若者から若者への手紙 1945←2015」という本を読む前に、直接、李鶴来さんからの話を聞いてたんだよね、偶然。

この戦後補償の話を聞いて思ったんだけど、戦後補償のことについていろいろ運動している人たちは、実にいろんな人たちを横断的に見ていて支援しているんだってことだった。元日本の植民地だった人たちだけじゃなく、元連合軍の人たち、そして今日本に住んでる日本人の人たち。あの戦争で被害に遭った人たち、すべての人に対して「国は補償すべきだ」と思って活動しているんだなと思った。なんかわたし、それがとっても新鮮だったんだよね。これまでに補償に対してどういう運動をしてきたかの説明もあったんだけど「わー、すごい」って単純に思った。司法だけでなく立法や行政、すべてにアプローチしている。どういう「立場」の人だったかは全く関係がなく、「被害者」という一点ですべて共通している人たちを支援している。しかしその運動の結果の動きを見ると、政府は補償する相手を選んでいる。誰にも何も補償していないわけじゃない。「何回謝罪すればいいのか」と言うことなく何度も謝罪している相手がきちんと存在する。一方、「当時は日本人だったから」と言って罪だけ償わせて、勝手に日本国籍を剥奪した挙げ句「今は日本人じゃないから」ということで補償は全くしていない人たちもいる。「何度も謝罪を繰り返すことは未来志向ではない」ということで切り捨てられる人たちもいる。そこに「差別」が厳然としてある。今までその「差別」の部分だけ見えてたんだな、わたしはそう思った。このことを知っただけでもわたしの世界は随分広がった。

で、これからが本題。あるときなにげに開いたウェブサイトから偶然に「元連合軍の捕虜の人で、日本に連れて来られて強制労働させられた人たちの話を聞く会がある」ということを知った。日本の外務省が毎年、何人かの元連合軍捕虜の人たちを日本に呼んで公式に謝罪しているという、それだ。そのことを知ったときに「そういう人たちの被害の話を聞いてみたい」、そのことを真っ先に思った。直接被害を受けたという人の話は、あと数年すると一生聞けなくなってしまうのだ。でも、そういう人たちがいる、と言うこと自体、8月14日の東アジアフォーラムに行っていなければ知らなかっただろう、元BC級戦犯の人の話を聞かなければ、その被害者の人たちの具体的なイメージも湧かず、たとえそのウェブサイトでそんな交流会があると知ったとしても、絶対に自分のアンテナには引っかかってこなかっただろう。そういう意味では一つ何かに参加してみたことが、次々に思いも寄らない方向に繋がっているんだと実感した。

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交流会会場に入った途端、すごい違和感を感じた。そこには英語が飛びかっていた。なんとなく英語が飛びかう空間って「陽気」なイメージがあるのだ、わたしには。とても「被害の話」がされるような雰囲気には感じられなかった。それって多分、自分が知らず知らずのうちに身に付けた「英語」のイメージなんだろう。そして、これはそのときまでになんとなく薄々感じていたのだけど、「戦勝国」でありながら、敗戦国の被害者である、ということが、わたしには複雑に感じられて仕方がなかった。いや、頭では分かる。国が戦争に勝つことと、自分自身が戦争の被害に遭うことは関係がない。関係がないことは頭では分かっているのになぜかとても違和感がある。そしてもう一つ。わたし自身は被爆二世で、アメリカが広島に原爆を落としたからこそ、自分はある意味、その「被害者」でもある。あ、今回来日したのはすべて元アメリカ軍兵士の人たちね。もちろん彼らが直接落としていないことは明らかだ。国と個人は次元が全く違う。そこのところは切り離して考えなければならない。そう、そのことは頭の中では分かってる。けど、心はなぜかとても複雑だった。しかし、その複雑さというのはこういう場面でもない限り滅多に味わうことは出来ない。わたしは自分の中でその複雑さに対してかなり興味深かった。こう表現することは語弊があるかも知れないが、実に「面白かった」。そしてその違和感は、会が進むにつれ大きくなっていった。

交流会が始まった。被害者の元日本軍捕虜たちの人はみな90歳を超えていて、みな家族や身内の人たちと一緒に来ていた。中には自分が話さずに、身内の人が代読する場面もあった。全部で9人の人たちが来ていたんだけど、最年少が90歳、最高齢が97歳。中には車いすの人もいた。

一人一人が自分が受けた被害について話す。あらかじめ用意した紙を見ながら話す人、紙など見ずに、それでも何年の何月何日にどこでこういうことがあって、その結果どういうことがあって、ということを蕩々と述べる人。いろんな人がいた。中に1941年12月8日の真珠湾攻撃の日から捕虜になった人が数人いて(当時の北京のアメリカ大使館を警護していた人たちが逃げる途中で捕まったらしい)、自分の中で「捕虜として捕まる」というイメージがなんか全然違っているような気がした。あと「自分は生き延びることが出来たのは神のおかげである」と神に感謝している人たちも結構いた。それから「空腹で仕方がなかった」ということを訴える人がほとんどだった。

当時の日本軍に対して何をされたかということについて具体的に言うのかと思いきや、「殴られたのはこういうことをしたときのただ一度きりで、それ以外は言うことに従っていれば何もなかった」という話や、逆に「労働の行き帰りに通る道になっていたマンゴーがすごく熟れていたときに、食べることを見逃してくれた兵隊がいた」という話もあった。戦争が終わって国に帰ったあとに妻と出会って子どもが出来て、とか、国に戻ったときに妻がちゃんと待っていてくれたとか、そういう家族に関する話も多かった。あと「軍でこういう働きをしてこういう功績を残し、表彰された」とか、なんというか、、、あと「日本人のヒーロー的な存在が自分の中にいる」って話した人もいた。その人は真珠湾攻撃の際に成功して「トラ・トラ・トラ」って打電した人。あとで質問時間の時に「なぜその人があなたにとってのヒーローなんですか?」と質問があったんだけど「勇気ある行動だったと思うから」って答えていて、わたしは逆に変な気持ちになった。なんか違う。うーん、なんというのか、本当の気持ちを言っていない、ようにも受け取れる。変に日本に対して「配慮」しているようにも思われる。しかし、穿った見方かも知れないがそれは「戦勝国」の人だから?いや、そうではなく「本音」を言うのはとてもつらいことだから、話せないのでは。。といろんなことを感じた。

それは質問時間に「ヘルシップ(地獄船の意味で、わたしは今回初めてこれも知ったのだが、日本に運ばれてくる船での彼らの扱いはとてもひどく、最終的には1坪当たりに7、8人という感じで押し込められ、それこそ身動きが一切出来なかったらしい)での話を聞かせてくれ」という質問があったときのことだった。誰が答えてもいいと言う質問に対しては、発言したい人が手を挙げて発言するのだが、この質問についてはまったく手が挙がらず。しかも「あなたたちは知らない方がいい」という人もいた。この発言は「配慮」とも受け取れるし「そのことは話したくない」ということにも受け取れる。結局、わたしだって複雑な気持ちだったが、彼らだって複雑な気持ちなんだろう、そう思った。だからこそ「その後は幸せだった」と強調したくなるのではないか、とすら思った。

一番驚いたのは日本では敗戦後の新憲法で「憲法9条」、すなわち「戦争放棄をしたこと」が憲法で定められたことを知っているか、という質問に対しての答えだった。元捕虜の9人のうち、そのことについて知っているのはたったの4人。同伴した家族、年代はちょうどわたしと同じくらいの人が多く、主に40代の人たちと思われたが、その人たちですら知っていたのは半数以下。元捕虜のうち知っている人の家族は知っている、という感じだったけど、中には「そんなこと全く聞いたことがないわ」という、わたしくらいの年代の人がいた。これにはすごく驚かされたし、会場内でもどよめきが起きた。日本に憲法9条があることを、日本はもう戦争をしないと70年前に誓ったことは、全く「世界の常識」ではなかったのだ(アメリカ=世界、でないのは分かってるけど、敢えて)。如何に今まで「日本には憲法9条があります」と世界に訴えて来なかったのだろう、わたしたちはその努力を怠っていたのだ、と思った。

が、そうなのだ。この人たちは「退役軍人」なのだ、って、彼らの話を聞きながらちょっとずつ思っていたときのことだった。「アメリカの退役軍人」、、、何かとても複雑な気がする。と思ったら。最後の最後に「原爆を落としたからこそ、戦争が早く終結したと言うことを理解して欲しい」と発言した人がいた。

その瞬間、わたしはちょっと頭を殴られたような感じがした。その言説がアメリカ内にある、特に退役軍人の人たちにとっては根強いものである、ということはもちろん知っていたが、わたしはこのことをまともに誰かから直接言われた経験はなかった。そしてこの言説についてわたしは、ある意味一種独特の考えを持っている、というか、よく分からないところがある。よく分からない、というのは、この発言を聞いて「その考えは許されない」と激怒する人たちがいる、それは主に被爆者の人たちである、ということだ。わたしは二世であるにも関わらず、身内があの原爆で亡くなっているにも関わらず、実はなぜ「その考えは許されない」ものであるのか、よく分かっていない。

戦争が終わったのは8月15日だ。これは事実だ(「ポツダム宣言受諾日」は8月14日で、「降伏文書」の調印は9月2日だけど)。

だから、8月16日以降に特攻する予定の人たちは助かった。8月15日に戦争が終わったから特攻せずに生き残れた、という人の話は今までたくさん読んだことがあるし、その日以降の空襲もなかったから、その日以降空襲で死んだ人はいない。8月15日に戦争が終わったから、死ななくていい人が死なずに済んだ、ということはある。

が、問題は「原爆が落とされたことによって8月15日に戦争が終わることになったのか」なんだけど、これは本当のところは誰にも分からない、というか、「本当のところって何?」と思う。15日に戦争を終わらせたい人たちと終わらせたくなかった人たちがいた。それまで中立宣言をしていたソ連が8月9日に参戦した。8月6日と8月9日に原爆が落とされた。日本各地で空襲があった。そのどれ一つ取って「このことが100%の原因で戦争が終わった」ということはないだろう。どれもが戦争が終わった原因たり得るし、そのどれもが100%戦争終結の理由にならない、ということも有り得ない。原爆投下だけを「戦争終結の理由ではなかった」とは言えないだろう。だとすると「原爆投下も戦争終結の一因であった」としか言えないのではないだろうか。だからわたしは「原爆投下したことが戦争の終結を早めた」という言説を真っ向から否定できない。

被爆者やその家族、原爆で身内をなくした人がこのことに対して猛反発する意味が実は全くわたしにはわからない。「戦争を早く終結させるために殺されたのか」と思うのであれば、では逆に「戦争を早く終結させると考えられていない、その他の空襲などで亡くなった人はどう考えればいいのか」と思ってしまう。人が一人死ぬ、ということは、そこには意味づけなどなーんもないと思っている。軍人が国を守るという意識の中で敵艦に突っ込んでいって死ぬのも、ジャングルで餓死するのも、空襲で爆撃されて死ぬのも、原爆によって一瞬の内にこの世からいなくなるのも、「水をくれ」と言いながら死ぬのも、「死」という意味ではみんな平等だ。誰の死が尊くて、誰の死はそうでなかったか、なんてことはないのだ(そしてもう一つ踏み込んで言うと、戦争で亡くなった人たちは言い方は悪いがみんな「犬死に」だと思っている。誰一人「死にたい」と思って死んだ人はいない。みな国によって無理矢理殺されたのだ)。そう考えると「なぜ、原爆投下が戦争を早く終わらせるという言説に問題があるのか」と思えてしまう。

ただ「戦争の早期終結の原因は原爆だった」と考えることがまずいことになるのは、「だから再び戦争に原爆が使われる正当な理由になる」、この一点だけだと思う。それは「再び自分たちのような目に遭う人が起きないように」と思っている被爆者や二世の人たちにとっては特に許せないことになるだろう。

が、わたしはそうは考えない。あ、もちろんわたしも「再び原爆が投下されるようなことがあってはならない」と思ってますよ。しかし、その理屈は上のようなものではない。確かに太平洋戦争において、原爆投下は戦争の早期終結に繋がっただろう。しかし、そうであったとしても、もう二度とそれを理由として原爆を投下してはいけない、そう考えている。人間は「自制心」というものを持たなければならない。いくら誰かが憎くてその人を殺したいと思ったとしても、その人を殺してはならない。それと同じだ。人間である以上、一定の「自制」必要で、「自制」はこのような場合にこそ使われるべきなのだと思っている。それが今のところのわたしの考えるところか(しかしこの考えだと核兵器は「抑止力」にならない、ということになるんだよね。ということは「核兵器は抑止力だ」と思っている人たちには自制心なんてものはないと考えられる。そう考えるアンタらは本当に「人間」なのかね?)。

そう。わたしは「原爆投下が戦争を早期に終結させた」、この言説はある一定程度「真実だ」と思っている。頭の中ではそういう結論が出ている。しかし、自分の目の前で「原爆投下は戦争終結を早めた。それは理解して欲しい」その言説を聞いたとき。それは発言した人にとっては「真実」なんだろうと思った。そしてわたしだって一定程度「真実だ」とは思っている。しかしそう思っていても、「理解」していたとしても。気持ちはものすごく複雑だった。ともすれば「理解」などできないと思った。なぜなんだろう。なぜ自分はこんな気持ちになるんだろう。とても不思議に思った。それはやはりわたしが「被爆二世」だからか。身内に原爆で亡くなった人がいるからなのか。自分の気持ちが複雑すぎて、言葉では到底言い表せなかった。なんて考えていいのか全く分からない。このような状態になるのはなぜなんだろう、いっぺんにいろんな気持ちや思いが出てきて、頭が本当に混乱した。そしてそのようになる自分の現象がとても興味深かった。なかなかこんな状況になれるもんじゃない。その後、数日間はそんな感じだった。頭がクラクラしていた。

そして思った。その発言をした人は、中に原爆で身内を殺された人がいたと知っていてもその発言をしたのか。決めつけては悪いのだが、おそらく彼らは原爆のあのキノコ雲の下で何が起きたかおそらく知らない。だって憲法9条のことだって知らなかったんだもん(覚えてるけど、この発言をした人も9条のことは知らなかった)。しかし、原爆投下当時日本にいた彼らは、もしかしたら自分の上でその原爆が落とされた可能性があったのだ。現に原爆で亡くなったアメリカ人捕虜の人は存在する(偶然だが、11月4日の東京新聞朝刊にその記事が載ってた。丸木位里・俊さんの「原爆の図」の中に「米兵捕虜の死」という絵がある。その前で退役軍人が号泣したという話だった)。「原爆が戦争終結を早めた」という言説は特に問題ではないとわたしは考えているが、少なくとも、このような事実を知った上での発言だったら、もしかしたら少しは印象が違っていたのかも知れない。

あと一つ。わたしは今まで気が付かないうちに「被害者のイメージ像」というのを持っていたんだなあと改めて気が付かされた。今までは圧倒的に「被害者」=「この日本で差別されている人たち」だったから。この中にはもちろん性的少数者も含まれるよ。そういう人たちのイメージは共通していて、今までわたしは違和感を感じたことはない。けどもそのことは同時に自分の中で格差をつけていることにならないか。もちろん、相手のことがあってではあるけど、なぜかこの交流会では「被害者」という感じが薄かった。それはいいとか悪いとかじゃなく、被害者はこうあるべきだとかそうじゃないとかではなく。でも多分、それは「格差」じゃないのかも知れない。「立ち位置」と考えた方がしっくりくるのかも知れない。でもやっぱり彼らは「被害者」であることには変わりはない。なのになんでわたしは違和感を感じてしまうんだろう。。

そんなこんなの交流会だったんだけど、でも、話が聞けたこと自体はとてもよかった。会の締めの挨拶に代表の人も言ってたけど、特に全く知らなかった「ヘルシップ」についてはもっと知らねばならないと思った。わたしはこのことについては本当に全く、その言葉すら知らなかったからね。ちなみに「東アジアフォーラム」で基調報告した人と、この会の最後の締めの挨拶をした人は同じ人でした。こうやって「戦後補償」全般に関わってる人なんだなあ~。本当にすごい人だなあ~って思った。

戦争被害者については、いろんな分野にたくさんの人たちがいる。わたしは今のうちにもっともっといろんな人たちの話が聞きたい。きっとこれが最後の機会となるだろう。そうしたら、わたしはもっともっと今以上に複雑な気持ちになるかも知れない。でも、戦争って、物事って多分、そういうことなんだ。一つの「事実」があらゆる「立ち位置」から見ることによって、全く別の「真実」があるはずなのだ。いろんな人の「真実」を見た上で、わたしは自分にとってどんな「真実」を得るんだろう。今のわたしはそんなことを思っている。
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10-22 Thu , 2015
高尾にゃん、5歳のお誕生日おめでとう!
10月の半ばに風邪を引いたのと、そのあとは仕事で10日ほど忙しくしてたのと、それからは日々忙しかったので日記が後追いになってしまった(日付は変えてるけど、今日は11月7日)。本当はブログに書きたいことがいくつかあって、まぁそれは追々書いていこうと思ってる。って夏の旅行の記録すらまだ全然書けてない(^^;

10月22日は高尾にゃんの5歳のお誕生日だった。

毎年、高尾にゃんのお誕生日はケーキを買ってきてロウソク立ててお祝いしている。もちろんケーキを食べるのはわたしたちで、高尾にゃんには一切食べさせない。高尾にゃんにとっては自分の誕生日は無理矢理抱っこされて写真を撮られる、とっても迷惑な日でしかない(笑)

だいたいお誕生日の数日前に家の近くのケーキ屋さんに行って予約してくるんだけど、今回も同じようにした。予約するケーキ屋さんはいくつかあるんだけど、今回は今年のばこの誕生日のところと同じだったかな。ただ今年のばこの誕生日の時は彼女が予約してきた。今回の高尾にゃんのはわたしが行った。毎年毎年誕生日ケーキであることを告げて、メッセージをつけてもらうんだけど、これまではいつも「たかおちゃん、おたんじょうびおめでとう」というメッセージにしてた。いつも呼んでる「高尾にゃん」には抵抗感があってできなかった。だって猫のお誕生日を祝うためにケーキを予約しているってなんか恥ずかしかったんだもん。

だけど猫を約5年も飼ってると慣れちゃうというか、開き直れるのかな~。今年のメッセージは「たかおにゃん、おたんじょうびおめでとう」にしてもらった。お店の人に「実は猫のなんです~(笑)」って言えた。言う直前まで言おうかどうかちょっと迷ったけど、言っちゃった。そうしたらお店の人は「そうなんですか」ってにこやかに言ってくれた。

当日はわたしは行けなかったので彼女にお店に取りに行ってもらったのだが、わたしが家に帰ったら「なんか猫の絵が描いてあるよ」って言われた。見たらこんなのだった。

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やーん。かわいい!

やっぱあのとき「猫の誕生日です」って言ってよかった。。というか、もっと早く言えばよかった。ていうか、お店の人の心遣いがとっても嬉しい。

そこに「5」のロウソクを立てていろんな角度から高尾にゃんの写真を撮る。が、高尾にゃんは写真を撮られるのが大嫌い(みたい)。毎年、嫌そう~な顔をしてるけど、今年は本当に嫌そうだった。。わたしと彼女が入れ替わり抱っこしたり、部屋を明るくしたり暗くしたり。その間、何枚写真を撮っただろうか。その中で「まだこれはマシかな」ってのはたったの1枚しかなかった。

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これ。これでも相当嫌そうな顔してるけど。でもまだロウソクの方を向いてるので随分マシなのだ。その後、いつも通りわたしと彼女でケーキを食べてお祝いしました。

猫で5歳と言ったら、中年への差し掛かりってことになるのかな。若い若いと思ってたけど、これからはそう思ってはいられないんだよね。そして今までは次の誕生日が来ることはある程度「当たり前」に思ってたけど、これからは「当たり前」に来ないかも知れない。今どきの猫は長寿だから15歳、20歳はさほど珍しくないっていうけど、わたしの知ってる猫は大抵10歳くらいで死んじゃってるので、「もう半分来てしまった」という思いが強い。死に至る病気になるのは(ガンとか)その個体の持っている性質が強く表れると思うので、それはもう仕方がないとは思うものの、その心の準備はしておかねばならないなあと思っている。その代わり猫が長生きすると大抵かかるという慢性腎臓病への発病には十分に気をつけているつもり。ただ最近は午後のオヤツにツナ缶やマグロ缶、ササミ缶、カツオ削り(減塩)とリンやマグネシウムが高いものをやることが多いので(ただ量としてはおやつだから少量だけど)いけないかなあ。でも、猫たちは毎日すっごくそういうおやつを楽しみにしてるんだよね。

高尾にゃんとばこの関係だけど、相変わらず高尾にゃんはばこのことがあまり好きじゃない。けど、たまに高尾にゃんが遊びたい気分満載になったときにばこに仕掛けて追いかけっこや取っ組み合いをしてることもある。そんなことをするとばこは「あれ、高尾ねーちゃんと遊べるんだ」と思って、自分が遊びたいときに高尾にゃんに近づいていくんだけど、そのとき高尾にゃんの気分が乗らないとすぐに「シャー」って言う。なんで、二匹で遊ぶのは高尾にゃん次第みたい。ばこはそのことをよく分かってないようです。ってばこには分かんないよね、そういう複雑なこと(笑)

まぁこういう調子なんで、高尾にゃんとばこが寄り添って寝る、なんてことは全くないし、猫団子なんか夢の又夢というか、もう夢ですらない、って感じだろうか。

でも1年半ほど前に2人で旅行した間にペットシッターさんにうちに来てもらって猫たちの面倒を見てもらったんだけど、今年も9月30日から1泊、彼女と2人で旅行した際にまた同じペットシッターさんに見てもらったのね。そのときに「1年半よりも2匹の距離が近づいている」と言われた。毎日一緒に暮らしているとそういう変化には気付きにくいが、たまに見るとその違いが分かるんだろう。まぁだからといって今後関係が劇的に変わるということはないだろうが、少しでも近づいてるんだったらよかったと思う(双方の猫のストレスのためにも)。

高尾にゃん、ペット保険には入ってるけど、この1年は病気では全く病院へ行かなかった(最後に調子が悪くなったのは去年の7、8月)。毎年何かしら体調を崩してその際に健康診断を受けてたんだけど、こういう調子だったら調子が悪くなくても「にゃんドッグ」受けさせないとダメかなと思っている。

最後に今食べてるご飯。最近はヤラーの多頭飼い用の缶詰をやってたんだけど、高尾にゃんはあんまりそれが好きじゃないのか、次第にダラダラ食いになってきてしまったので、いろいろ調べてアズミラの「ラム&バーレイ」と「オーシャンフィッシュ」の大きな方の缶も与え始めた(ちなみにばこは何でも食べる。一応、今まで食べない餌もあったけど、今はほとんど好き嫌いなく何でも食べる)。それをやるまで高尾にゃんはフィッシュ味があまり好きではないんだと思ってたんだけど、このアズミラの「オーシャンフィッシュ」は大好きみたい。ダラ食いがほとんどなくなった。

どうやら高尾にゃんは同じ味のご飯が続くと飽きてしまうみたい。なので、いくつかの味の缶詰をローテーションして食べさせることにした。今はまだアズミラの「ラム&バーレイ」と「オーシャンフィッシュ」を交互にやってるだけだけど、今後はヤラーの「チキン味」と「フィッシュ味」も復活させて(全然食べないわけではないので)4種類の缶をローテーションしてやろうかと考えている。ドライは今までと同じアーテミス。

今、高尾にゃんにやってる餌の量。
朝と晩:ドライ(アーテミス フレッシュミックス フォーライン)8g、ウエット(上記の缶をローテーション)25g、お湯40g

ドライ、前はもう少し量が多かったんだけど(確か10g)、どうも量が多すぎると残してしまうので8gにした。高尾にゃんはその分、おやつが欲しいみたい。おやつは午後にカツオ削りとか、ツナ缶を少しやって、あとは寝る前にご飯にやってるドライのアーテミスを何粒か(多分トータル10粒以内、ばこは5粒以内←ばこはすぐに太るので制限)やってる。

高尾にゃんはわたしにとっては本当に特別な猫。

今でもわたしの調子がちょっとでもおかしいと感じるときはずっとそばから離れない。こないだ風邪を引いてしまったときもずーっとそばにいてくれた。大抵わたしはベッドに寝てて、高尾にゃんは最近寒くなってきたし、たまたまわたしの足元で寝転がってるのかなあと思ったんだけど、久しぶりにパソコンを立ち上げるためにパソコンにある部屋に移動したら、高尾にゃんもくっついてきて、そのままわたしがパソコンの前にいるとずっとその近くでうずくまってた。そのときに「ああ、高尾にゃんはずっと一緒にいて心配してくれてるんだなあ」って思った。

今年の春頃(既に5月はそうだった)から、わたしが風呂に入る前に一緒に付いてきて、風呂場で撫でてもらうのが習慣になってた。過去形なのは、最近寒くてわたしが裸のままで高尾にゃんを撫でるのがつらくなってきたから、わたしの方から止めさせたんだけど。それでもわたしが歯磨きが終わって風呂に入ろうとすると、風呂桶の蓋のところでちょこんと座って待ってる高尾にゃんは本当にかわいかった。そして、わたしは風呂場の中に入ろうとすると、コロンコロンするのだ。

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こんな感じ。これは今年の5月。お風呂場だとばこが来たりしないから邪魔されずにナデナデしてもらえると思ったのかな。理由はよく分からないけど、こんな感じで来るので、毎晩5分くらいはずっとナデナデしてて。毎日すごく楽しみにしていたようだ。

忙しくて全然構ってやれないときや、外出することが多くて家にいないときが続いたときなどは、家に帰ると即座に膝に乗ってきたりする。やっぱり毎日少しでもナデナデして欲しいんだろうな~。

そして。高尾にゃんはとても頭がいい。頭がいいのは前からそうだけど、日々進化している。朝は彼女が猫のご飯をやる係なんだけど、ばこはうるさく鳴き続けるしか脳がない一方、高尾にゃんはこちらが起きざるを得ない状況を作る。今まではだいたい彼女が起きないときは、わたしの方から言ってもらおうとして、寝る際に外してるメガネなんかをガチャガチャいじって、それでわたしが起きて時間を見て「そろそろご飯を作った方がいいんじゃない?」って言わせるように仕向けてた。が、最近はルンバの上に乗ってルンバを動かすこともあって、高尾にゃんは一体、ルンバを動かせば、ままたちは絶対に起きざるを得ないって、ルンバの動かし方を習得したのも驚くことだけど、あの小さな頭のどこからそういう考えが浮かんでくるんだろうって本当に不思議に思う。

ちなみに最近instagramでアップした中でわりと「いいね」をもらえた高尾にゃん画像。

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右の画像はハロウィーンのためにわざわざこういう色の「坊ちゃんかぼちゃ」が売ってきたので買ってきたもの。ハロウィーンかぼちゃってのは食べられない、観賞用のでっかいかぼちゃらしいんだけど、この「坊ちゃんかぼちゃ」は食べられるかぼちゃで、しかもあとで食べたんだけどめっちゃ美味しかった。高尾にゃんは特にかぼちゃとか関係ないので買ってきたままのかぼちゃと写真を撮りました。題して「猫とかぼちゃ」。それ以上の意味はありません。

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その数日後、確か10月30日だったかに中をくりぬいてハロウィーンかぼちゃにしたかぼちゃと共に、ハロウィーンと言えば黒猫でしょってことで、ばこと記念撮影。ちなみにinstagramの中では猫に魔女の帽子とか被せた画像が結構アップされてたのだけど、黒猫に黒い魔女の帽子を被せても全然面白くないよね、しかも絶対に帽子は嫌がるしってことで、こんな感じに。しかし、ばこはかぼちゃには関心を示さず。猫はかぼちゃを食べないので当たり前か。

ま、こんな感じで今のところわたしたちは猫たちと暮らしてます。
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10-09 Fri , 2015
病院に行って喜ばれるばこちん
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今日、ばこを動物病院に連れて行ってワクチンを打ってもらった。

ばこちんは1歳になるかならないか頃、尿道結石になってしまって、病院で治してもらったことがある。そのすぐあとにわたしたちは1週間くらいの旅行をすることになってしまって、希望では家にペットシッターさんに来てもらって面倒みてもらうつもりだったんだけど、またおしっこが出なくなってしまって、もし発見が遅かったら命に関わってしまうってことで、高尾にゃんだけおうちでペットシッターさんに見てもらって、ばこは病院に入院させたんだよね。そこの病院はペットホテルもやってるところだったので。

旅行が終わってばこを病院に迎えに行ったら、そこの動物看護師さんたちはもうばこにメロメロになってて。なんか、すごいなついてかわいかったらしいの。動物病院にはいろんな猫が来てるけど、ばこみたいにフレンドリーな猫はとても珍しいらしい。なので、それ以降もその動物病院にばこを連れて行くととても歓待される。ばこを連れて行ったとき「高尾ちゃんは元気ですか?」とは聞かれないのに、高尾にゃんだけ病院に連れて行くと必ず「じんくんは元気ですか?」って聞かれる(病院ではばこは「じんくん」と呼ばれている。まぁ「陣馬」だからね)。

最近のばこは本当に健康で滅多に病院にかかることはない。まぁ1年に1回のワクチンの機会しか病院にはまず行かない。それが今日だった(本当は先月だったんだけど、いろいろ忙しかったので。。)。「連れて行ったら病院の人たちは喜ぶだろうなあ」って思ったから、病院には連れて行きやすいのだが、ばこはなぜかキャリーの中に入れて外に出るとすごい声で鳴くのだ。。まるで「この人は、ぼくをどこかに捨ててこようとしてますー!!」とか「ぼくはどこにつれて行かれるのー?怖いですー!」とか、うるさくて「ちょっといい加減にしてよーー;」レベルの鳴き声。

最近、わたしはキャリーバッグは肩に背負う「リュックタイプ」にしてるんだけど(うちは車がなく、自転車で動物病院に行くために普通のキャリーだと前カゴに入らなくて安定しなくて怖いから)、中から猫の鳴き声がすると街行く人は必ずこちらを見る。それがとっても恥ずかしくて。病院に行く途中にでかい道を渡らないといけなくて、そこでは大抵赤信号で待たなければいけないのだが、待ってる最中に周りの人から「猫ちゃんですか!」って必ず声を掛けられる。も~、いい加減にしろ、ばこ、状態。

今年は何事もなければいい、と思ってたら、その大きな交差点ではなぜか秋の交通安全のアピールみたいなのでおばさんたちがたくさんいて、ティッシュを配ってた。しかも時間的に近所の保育園の子どもたちの散歩の時間なのか、先生たちに連れられた子どもがいっぱいいる。「げー」って思ってたら、案の定ばこが鳴いて、保育園の先生が「あ、猫ちゃんの鳴き声がするね」って言い出した。ばこはそんなことつゆ知らずいつものように「ぼくはどこに行くのー?」って鳴いてるものだから、次第に子どもたちも気がつき始め「猫ちゃんだ、猫ちゃんだ」って言い始める。交通安全のためのティッシュを配ってるおばさんも「あら、この中に猫ちゃんがいるの?」って言う。わたし、こういうのが本当に苦手。こういうことで人から注目されたくないし、出かけてるときには知人にも会いたくないタイプだ。なぜかよく分からないけど、関係ない人に自分の行動を知られたくない。犯罪に巻き込まれてアリバイを証明しなければならなくなったときはきっと困るタイプだろうとは思うが(笑)

まぁそんなこんなで信号が青になったので一目散に自転車を走らせて、病院に向かう。以前は病院の中に入ったら鳴くのを止めてたばこは、今回は病院の待合室でも鳴いた。前に患者さん(患畜さん?)がいたので少し待ったが、次に呼ばれる。

診察台の上に載せられたばこはいつもの動物看護師さんから「じんくん、元気だった?」と声を掛けられる。ばこは嬉しそうに喉をゴロゴロならせながら動物看護師さんの手に頭をすりつける。ワクチンなので、事前に体重を測ったりちょっとした健康診断をするんだけど、ばこのお腹に聴診器を当てた獣医さんが「ゴロゴロ言ってますよ、この猫」って嬉しそうだった。獣医さんだから明らかに好きとか嫌いとかは顔に出したりしないけど、この獣医さんも結構ばこのことが好きなんだよね。「かわいいですね」ってこれまで何度も言ってくれてるし。体温を測られるために肛門に体温計を突っ込まれたときも平然としてて周りがびっくりしてた。が、ピピッと鳴る直前にばこは自分の肛門に変なものが入れられてることが初めて分かったようで「あ、やだ!」って身体をくねらせた。ばこ、今頃気がついたのか(笑)「今、気がつきましたね」って獣医さんに笑われたぞ、ばこ。

体重は4.95kgで体温は38.1度だったかな~。ばこの体重の目標は4.8kgなんだけど、なかなか減らない。まぁ獣医さんからは「この猫は体つきから4kg台で」と言われてるんで、ギリギリOKか。今日も別に何も言われなかったし。

いよいよワクチン打たれたんだけど、ここの病院では手足なんかには打ってくれないのね。一般と同じく首の後ろに打たれます。ワクチン打ったところにガンができるっていうんで、手足に打ってくれる病院もあるとか。その方が万が一ガンになったときに手足だったら切断できるから。ただ、わたしは今までいくつかの病院でワクチン打ったけど、手足に打ってくれる病院はなかったなあ~。まぁワクチンについても1年に1度打つ必要はないだとか、ワクチンは身体に負担がかかるとか知ってはいるものの(知ってるどころか、高尾にゃんの場合はワクチンを打つと3日は熱が出て何も食べなくなっちゃって大変なときがあった)、実際、ペットホテルやシッターさんに預けるとなるとワクチンを打っておかないと預かってくれなくなってしまうし、ずっと家の中で暮らしてると言っても、いつなんどき災害が起こって避難所生活になるとも限らないから、まぁ本当はワクチンってそんなに打ちたくはないんだけど、若いうちはそれでも1年に1回は打っておかなきゃなとは思ってる。

ワクチンを打たれてる間もばこはそれに気がつかなかったようできょとんとしてた。獣医さんが「気がついてませんね」って嬉しそうに言った。ワクチンを打った後は「もういいですよ」って言われて、キャリーに入れようとしたんだけど、ばこはキャリーの中が嫌いで入らない。動物看護師さんが「すぐにキャリーの中に入る猫ちゃんが多いのに、じんくんは入りたくないのね~」って言ってた。ちなみに高尾にゃんはすぐにキャリーの中に入る方。ばこは診察室とか知らない人間に囲まれたとしても、それが怖いとか全く思わないみたい。人見知りを全くしないどころか、すべての人間は自分とお友達とでも思っているのか、誰のそばにも行って挨拶してくる。

そういやこないだ、宅配便のお兄さんがうちに荷物を持ってやって来た。ばこはいつもどおり玄関まで出迎えて、お兄さんに向かって「かわいがってください」アピール。お兄さんはばこをたくさん撫でてくれて、その後どう思ったのか、わたしに「自分はこういうものです」って名刺を置いていった。今までうちに荷物を持ってきた宅配便のお兄さんが自分の名刺を置いていったのは初めてのことで、あれはどういう意味があったんだろうって今でも不思議に思ってる。

そんなわけで「病院には1年に1度、ワクチンの時に来るのが一番だよね~」って動物看護師さんたちに言われながら、病院をあとにした。

帰りもまた一苦労。例の交差点で信号待ちしてたら、交通安全のアピールの時間帯が終わったらしく、ティッシュを配ってたおばさんたちがどんどん交差点に集まってきたんだけど、そこでばこが鳴いちゃって「あら、猫?」って又声を掛けられ。中を見て「まぁ真っ黒な黒猫?黒猫って珍しいんでしょ?」とか言われ。わたしもつい「今、病院でワクチン打ってもらったんです」とか、いらない情報を話し。この猫、これがなければ本当に扱いやすいいい猫なんだけどな。ちなみに高尾にゃんはキャリーの中ではにゃんとも鳴かない。病院でもすごくおとなしい。わたしにしてみれば高尾にゃんの方がすごく楽なんだけど、まぁ病院の人たちにはそこまでフレンドリーじゃないからね、高尾にゃんは。

というわけで、1年に1回の病院も終わり。わたしもようやく肩の荷が下りた。

上の写真は昨日のばこ。最近寒くて毛布出したばっかりなんだけど、その毛布を噛みながらフミフミしてるとこ。

ちなみに参考のために今やってる餌を書いておくと、

朝、晩ともドライはアーテミス13g、ウエットはヤラーの多頭飼いの缶詰(チキンと魚を交互に)25g、それにお湯を80cc以上。毎回毎回2分でペロリ。
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10-07 Wed , 2015
不正出血
どーも8月辺りから変だったんだよね。

うんこをすると血が出てる。肛門からじゃなく膣から。紙で拭くとうっすらと潜血が。

ちょっと気になったので彼女に言うと「痔じゃない?」という。「いやー、だから違うんだってば!」と言ってたんだが、少し前に外出先で突然うんこが行きたくなって、仕方がないのでトイレに行って(外出先だったので時間を掛けたくなかったので)すんごいいきんで出して、その後、家に帰ってきてから見たら、かなり血が出てる。これはちとなんかやばいんじゃないの???と思って、婦人科に行ってきた。婦人科って言っても、1ヶ月に1回しかやってない婦人科です(分かる人には分かるだろう)。

一般の婦人科は異性愛者しか想定してない問診票で答えるのに一苦労、そして基本、男性医師には診てもらいたくないってことで、まぁ前々から何かあったときのためにって目を付けておいた病院ね。以前、そこの病院は皮膚科にかかったことがあって。診察券も持ってたし、たまたま婦人科の1ヶ月に1度の診察日が直近の週にあったので、これはいいぞと思って予約を入れた。

「どうしたんですか」と聞かれ「不正出血があるみたいなんです」と答える。「どういうときに出ますか」と言われたので、こういうこと答えるの恥ずかしかったんだが「いやー、うんこしたあとに。。」と答えると「それは痔じゃないですか」とここでも言われるーー;いーや、だから、違うだってば!自分のことなんだから、どこから出血してるかくらい、分かるんだって!でもそう言われた医者は「そんなこと信じられません」みたいな顔をしてたが。

で、去年、健康診断を受けたときに血尿が出て、精密検査で腎臓のエコーをしたときに「なんか子宮筋腫みたいなのがありますねー」って言われたことが気になったので「ここでは筋腫の検査もできますか」と聞いたらできるとのこと。あと、子宮頸がんの検査はもちろん、わたしくらいの年齢になると子宮体がんの可能性も高くなってくるので、そっちの方も検査した方がいいとのこと。「あーもうついでだから何でもやります」って行って検査室へ。

といえどもそこは月1回しか婦人科はやらないため、内診台などはなく。ただの診察台に寝転がって、そこで股を開くだけでした。正直、内診台より抵抗感なかったかも。

医者は見た途端「あー、なんかすごい大きいポリープがありますね。それも2つ」と言った。あー、ポリープ。今から10年くらい前に実はポリープが子宮口に出来て取ったことがあるんだよね。そのときに「再発しやすいからまたできるかも」って言われたの。やっぱり再発したのね。「すごく大きくて、親指の爪くらいのが2つありますねー。これ、取っちゃいますねー」って言われて、いろいろゴリゴリやられて痛かった(^^;正直、その間に子宮頸がんの検査もしたらしいが、どれが検査なんだかさっぱり分からないうちに終わってた。エコーで子宮筋腫を見たらすげーたくさんありますと言われた。どれも小さいらしいが。一番大きなので2.8cmくらいって言われた。まあ筋腫によって生活に支障が出るほど出血したり痛みが出てきたらなんとかしなきゃいけないらしいが、そうでないうちは経過観察なんだそうだ。ただし、まれに悪性の肉腫であることがあって、その場合は1年間にめちゃくちゃ大きくなったりするらしいので、1年後にまた検査した方がいいと言われた。

んでもって、取ったポリープは悪性じゃないかを確認するために病理に。これが9000円ちかくかかると言われ、財布の中がすっからかんになってしまった(それでもまだお金が足りていい方だよ。運が悪かったら財布の中、9000円入ってないときがあるからね)。

で、次の受診は1ヶ月後。そのときに子宮体がんの検査をするみたい。わたしが行ったときは検査のキットがなくてできなかったんだってさ。次は持ってくるって。

てなわけで、多分、不正出血の原因はポリープでしょうと言われた。まぁわたしもまさかまたポリープが出来てたとは知らなかったし、前にポリープが発見されたときはこういう症状じゃなかったからね。それを言われるまで全然再発したとは思ってなかった。

不思議なことに内診される嫌悪感というのはほとんどなく。ちょっとゴリゴリされてだいぶ患部は痛かったのだが、それすらもあまり恐怖心を感じず。これだったら目に見える注射や点滴の方が断然やだわ。子宮体がんの検査はちょっと痛いですよーと言われたが、それも特に今のところどうも思ってない。それにがん検査ってやったとしても実は信頼度100%というわけではないことも知ってて、検査で悪性腫瘍が見つかるのは「時の運」だと思ってるから、まぁ結果もそんなに緊張しない。「異常なし」だって本当に異常がないかと言えば、全然そんなことないし(なんて書くと「じゃあなんで検査受けるのか」ってことになると思うけど、まぁ不正出血の原因がポリープであるとは限らないってことと、まぁ当てにはならないけど1回くらい検診受けておいてもいいかなと思ったんで。でもあんまり理由になってないね)。

しかし、婦人科には女性医師しか診てもらいたくないってんで、今まで女の人にしか診てもらったことはないのだけど、当たった医者はみんなどちらかというと「しっかりした人」が多くて話した感じもぶっきらぼうでちょっと怖い(^^;優しい婦人科の女性医師って人はいないのかしら。。なんて思うけど、女性だから優しいとか思うのは多分偏見なんだろうなー。逆に一回、ピルをもらうためにレディースクリニックみたいなところに行ってきたんだけど、そこの男性医師の方がよっぽど優しそうだった。だけど男性医師に内診をされるというのは、心理的にとてもハードルが高すぎてわたしには無理。

ちなみに一般の婦人科で書かされる問診票について、性交の有無とかいろんなこと聞かれるのは単に膣の中に入れる器具の大きさの問題のみで、それ以上の意味はないらしい。わたしが「婦人科はどこからをセックスとみなしてるかよく分からないから問診票を記入するときにとても考えてしまう」って言ったら、そんなことを言われた。あー、そうですか、器具の大きさを決めるためにそういう質問すんのね。じゃあ、人とは未経験でも、バイブで遊んでたりしたら「経験あり」にできるのかね(笑)

まぁ聞いてみてよかった。
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09-27 Sun , 2015
境界線のないレインボーフラッグを見て考えた
ずっと前の日記に「わたし、この垂れ幕を去年の夏に発見して、そのとき気が付いたことがあった。この境界線のないレインボーフラッグらしきもの。でも画像を撮ってこなかったんだよね。なので今回は忘れず。これを見て何を思ったかをここに書くと長くなるので、このことについては後日別記事にすると思います。」

って書いてたのをすっかり忘れてたんだが、思い出したので書きます。

リバティおおさかで見た「境界線のないレインボーフラッグらしきもの」はこれ。

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発見したのは去年の夏。これを見て、わたしが一番に思ったのは「この中にない色がある」ということだった。正直今まで「境界線のある」レインボーフラッグは数えられないほどたくさん見てきたけど、このことに気が付いたのは初めてだった。

そのことに気が付いたのは、わたしは以前から自分のジェンダーのイメージは「灰色の丸」だったから。「レインボーフラッグに自分のイメージする色が入ってない」、最初、このレインボーフラッグらしきものを見て初めてそう思ったのだ。

が、実はこのことは「当然」のことでもある。だって、レインボーフラッグの定義は「6色の虹」であって、全部の色が初めから入ってないのだもの。最初は8色だったんだけど、印刷の都合などでピンクと紺色がなくなって今の6色になったと聞いている。その6色を「多様性の象徴」にしただけの話で、別にすべての色が入らないから多様性を表してないなんてことはない。だからある意味ない色があって当然のことだ。だけど、無意識にレインボーフラッグの中にはすべての色が入ってるんだなあなんて思ってたから、そうじゃないことに気が付いて少しびっくりしたのだ。

しかし、普通の6色に分かれているレインボーフラッグを見てもそんなことを思ったことなかったのに、なぜこの境界線がないレインボーフラッグらしきものを見て初めて気が付いたんだろうと思った。

少し考えてみて分かった。境界線がないことでレインボーフラッグより多様なものを表そうとしたからこそ、逆にない色が浮き出てきてしまったのだと。

もちろん、だからといって境界線がない方がいいとかあった方がいいとかそういうことではない。これは本当に自分にとっては興味深い現象だった、ただそれだけのことだ。

よく、性自認や性的指向を表すときに「男」と「女」が両端になって、男は青く、女は赤い色が付けられ、その間を赤と青のグラデーションで線が付けられているものがある。「人はこの間のどこかにいます」という説明がされるけど、それはウソだ。グレーはそのどこにもない。いわば、わたしのイメージする自分のジェンダーは男女の間にはない。世の中には「誰にも恋愛感情を抱かない」、そういう人も結構いる。その人たちはこのグラデーションスケールの中では表せない。「恋愛感情は抱くが肉体的な関係は持ちたくない」、そういう人もいる。これなんかもこのスケールの中でどう表せばいいの?って思う。

そもそもそれ以前に男は青で女は赤である必要もないのだ。「女は絶対に黒!」って思う人だっているだろうし、「男が赤だよね」って思う人がいてもいい。なんてったって「燃える男の赤いトラクター~♪」なんてCMがあったほどだし(随分古い(笑))。それに広島カープのチームカラーだって赤だ。これも「赤い炎」「燃える情熱」というイメージで'75年にそれまでの紺色のユニフォームから赤を基調にしたユニフォームに代わった。これを見れば分かるように、女=赤、では全くない。そして自分の「男」のイメージがパステルカラーであったとしても全然おかしくない。

「LGBTについて簡単に説明してください」と言われても、実はそんなに簡単なことじゃない。「何も知らない人にとってはそういうことは難しいので簡単に」と言われても、正直性はすっごく複雑なことで、まずは「簡単に男が青で女が赤でその間はグラデーションで」じゃなくて「いや、そういう風には表せないもっと複雑なことなんですよ」ということから説明すべきじゃないだろうかとわたしは思う。そうでないとそこからこぼれ落ちてしまう性的少数者が凄くたくさんいる。

そして大事なのは「じゃあ、あなたはどこにいますか」って、自分のことを考えることだと思う。「性的少数者は性の多様性を表している人たちだけど、わたしは異性愛者だからそうじゃない」というのは実は全然違う。性は一人一人違ってるのだ。何を男らしいか、何を女らしいかと感じるかだって、人によって全く違うのだ。だからこそ何が男らしいか、女らしいかという共通認識は実は持てないのだ。「誰を好きになるか」も今まで100%男性だったり女性だったりはおそらくしない。何よりも好きになった相手の性自認が自分の考えていた性自認とは違っていた場合はどうなんだろうか。それも人によりけりだろう。男性が好きになったと思ったら、実はその人の性自認は女性だった、それが許せる、許せない、人によって違うだろう。許せる人の性的指向はその場合は同性になるのか?

わたしの場合、性的指向は同性に向いているので自分はレズビアンだと思っているが、でも最近「男性も好きになる」ことに気が付いた。と言うよりも昔からわたしは男性には好みのタイプが存在している、ということは気が付いていたのだけどね。逆に女性には外見上の好みはほとんどない。まぁボーイッシュなタイプは好きなんだけども。。でも絶対にボーイッシュじゃなきゃダメってこともない(だいたい今一緒に暮らしている人はボーイッシュでは全くないし!)。まぁ恋愛対象である女性はわたしは割と「誰専」だったりする。

しかし逆に男性は好みのタイプがはっきりしてるので、一目で「あ、この人タイプ」って思う。電車の中で「おっ」って思う人も実際結構いる(言っておくと、男性に対しては基本「フケ専」。でもまれにそうじゃない人もいるが)。しかしここからが不思議なんだけども、好みの男性に対してわたしは近づきたいとか話したいとか一切思わない。逆に「その人の人生の中にわたしは入りたくない」と思う。でもその人がどういう人なのか、どういうことを考えて生きている人なのかは結構気になる。できるならずっとその人を追って見てたいなとか思う(本当にやるとストーカーになるのでやんないけど(笑))。でも相手にそういう自分を気が付かれたくない。なんせ自分の存在は知られたくない。ただ見守っていたい。別にその人が不幸になっても救いたいわけじゃなく、ただ見てたいだけ。

と言うことを以前誰かに話したら「究極の愛情だね」と言われたのだが、これって愛情?だいたいその人と知り合いになりたくない愛情なんてあるんだろうか。その人が別に幸福でも不幸でも構わないなんていうのは愛情と呼べるんだろうか。その人の人生の中に登場したくないくらいなんだから、当然のことながら性的な関係になんてなりたくないわけで。でも外見を見て「あ、いいなー」って思う人はいるのだから、この感情って一体なんなんだろうって思ったりする。

自分の性的指向を詳しく説明するとこんな風になる。けど、自認は「レズビアン」。「それでいいの?」って思う人もいるだろうけど、自認なんて定義に当てはまってなくても全然構わないと個人的には思ってる。自分がそうであると思えばそう。他の人が「それは定義に当てはまってない!」なんて言う資格ないと思う。第一、この今の自分の性質にどういう名前が付けられるというのだろうか。

「自分は異性愛者」って思う人は本当に自分は100%男(女)と思ってるのか、好きになる人は本当に100%異性なのか。自分は100%男らしいのか女らしいのか。まぁこれだけは別かな。だいたい「100%男(女)らしい」なんてことはこの世には存在しないから。人によって男らしさも女らしさも違うから。でも自分のことをちょっと考えると面白いかも知れない。異性愛者にだってその中での「多様性」はあるはずだ。それが例え名づけられていなかったとしても。
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09-23 Wed , 2015
息苦しいのが治りつつある? ~息苦しさを自分で治そうと思う
過去に「息苦しさを自分で治そうと思う」って題名の日記をいくつか書いてるけど、直近は今年の3月だったようで、あれから半年経ってしまったのね。

3週間飲みつづけたワイパックスだったんだけど、結局手足に異様な汗をかく、のが止まったくらいで息苦しさも背中が痛いのも治らず。なので3週間後に病院に行ったときに「手足の汗以外はあんまり効かないです」って訴えた。主治医も「そのぐらいしか効果がないのはね~」と言って、次は「セディール」って薬になった。ワイパックスに比べるとそんなに強くはない薬だけど、ワイパックスとは作用機序が違いますと言われた。家に帰って調べてみたらセディールはセロトニンに関与する薬らしい。それを朝晩1錠ずつ。10mg×2回。

飲んで1週間以上になるけど、4日目くらいに手足の汗が復活してきて、しかも背中の痛みも復活。てか、背中の痛みは今まで全然治まってないと思ってたけど、そうじゃなかったってことが分かったところで、今さらなんだけどね。まぁこの時期は本当に精神的にも負担が掛かってるわ、毎日出かけてたわで、確かに身体にはものすごい負担が掛かってて、そのままワイパックスを飲みつづけてても同じように悪化してたかも知れない。まぁセディールは元々セロトニンをいじる薬なので効き目が現れるのに時間が掛かるんだよね、抗うつ剤と同じく。ちょうど薬を変えたくらいの時期に精神的に負担が掛かることがあったので、セディールにとってはちょっと不利な条件だったかもね。

その中で息苦しいのをホント、なんとかしたいと思っていろいろ考える。感覚としては「息を吸っても既に肺の中には空気があるのでそれ以上吸えない」というもの。そのためには息を吐かなきゃいけないんだけど、どうも吐けない。前に自律神経の整体で「横隔膜が上がってて下がらないから肺の中に空気が行かないんだ」って話をされて(自立神経の整体は高かったし、その割にあまり効果がないように感じたのでとっくに通うのを止めました。今は普通の整体だけ行ってる)、そっか、息を吐いたり吸ったりできないのはそのためなのかな、と思い、どういうキーワードか忘れたけど「横隔膜 下げる」だったかなあ。それで一番上に出てきたサイトの方法を試してみた。確か腹式呼吸で空気をお腹に溜めて、そこから息を止めてお腹を引っ込めて空気を肺の方にやる。そこで1秒。そこからまた空気をお腹の方にやって、それからまたお腹を引っ込めてってことを4回する、それが1セットとか書いてあったかなあ~。

これ、もしかしたら効果あったかも!直後からすっきりした、ってことはないんだけど、知らないうちに息苦しくてやだなって思わなくなったような気がする。

背中はまだ痛いし、手足に変な汗はかいてるし、座骨神経痛は痛いんだけど、取り敢えず以前のように「息苦しくて集中力がなくなって精神的には息が吸えないパニックになりかけ」みたいな状態にはほとんどならなくなった。それとともにストレッチポールで背中を伸ばし始めたんだけど、今までは結構「日中は息が吸えてても、寝る前(主に歯磨き後)から息苦しさが復活(多分一日の疲れが出てきてるんではと思った)」ってことが起こってて、寝るときに息苦しくて寝つきが悪くなってた。それを風呂に入った後、寝る直前にストレッチポールで背中を伸ばしてから寝ると、今はそんなに寝るときに息苦しくないんだよね~。

その証拠に、わたし、息苦しかったときはうつぶせで寝てたのね。そうすると自重で肺の中の空気が出ていくから却って息が吸いやすいの。ところが息が吸えるようになってからうつぶせで寝るとなんか苦しくなって眠れなくなってね。今は仰向けの体制の方が寝つきがいいのです。

ってことで、どうやら1年続いた息苦しさはこんな感じで対応できそうってことが分かってきた。もうちょっと早く対処法を見つけてたらなあって気もする。今までは「息苦しい ストレッチ」「肩こり ストレッチ」とかそういうので検索してたんだけど、それを試してみてもほとんど効果はわたしにはなかったのよね~。いわゆる「肩甲骨剥がし」みたいなストレッチ。ただ、息苦しさはある程度治まっても、背中の痛みとか他のことはこの呼吸法だけじゃよくならないみたい。まぁでも息苦しいのが一番嫌だったので、治まりつつあって本当によかった。

あとは次の診察に行ったときにワイパックス復活してもらうかなあ~。セディールも1日60mgまでは増やせるって聞いたのだけど、わたし、抗不安薬とはいえセロトニンをいじる薬はあんまり好きじゃないんだよね。わたし、抗うつ剤で何回もひどい目にあったことがあるんで(主にSSRI系の薬であって三環系はわたしはそんなに副作用はないんだけど)。

というわけで、これからも一つ一つ、身体の調子をよくしたいと思ってるけどどうかなあ。手足の汗はワイパックスで治まるとして、あと大きいのは背中の痛み。これもワイパックスで少し痛くなくなった気もしたが、結局は全部は取れなかったんだよね。ワイパックスとストレッチポールを根気よく続けていくしかないのかねえ~?

現在飲んでいる薬:セディール10mg×1日2回(朝、晩)。その他の薬は飲んでません。
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09-22 Tue , 2015
若者から若者への手紙 1945←2015
このカテゴリの日記が続くね。でもこれはちょっと書いておきたかったことだから。

この本は「ころから」ってところから出てる本。わたしはこの本を図書館で借りて読んだ。と言っても割と出たばかりの本なので、読みたい人がたくさんいたみたいで、予約してたんだけど。で、順番が回ってきて借りられたわけ。

それがちょうど安保法案の採決への動きが激しくなってきたときだった。借りられる期間は2週間あるのだが、他の本の兼ね合いとか、家を出てて本が読めなかったりして、この本の大部分を読んだのは、ちょうど横浜であった地方公聴会が終わった日(9月17日)だった。そして翌々日未明に法案は可決されてしまった。

この本は1945年(終戦時)に若者だった人たちからの戦争に対する証言、その証言を読んだ今現在の若者が、1945年当時の若者だった人たちへの返事、という構成で成り立っている。確か全員で15人だったか(それに対する返事も15人)。証言者はいろいろな人たちだ。東京大空襲で家族を失った人、中国で何をやったかを話す人、広島の被爆者で顔がケロイド状態になって長く家から出られなかった人、フィリピンに行って飢えに苦しんだ人、731部隊に所属していた人、長崎で被爆者の看護をした人、沖縄の離島から離島に強制移住させられた人など。一般に言われる被害者もいるし加害者もいる。

わたしは「この法案では日常に巻き込まれるほどの戦争はそう簡単には起きないだろう」、そう思ってたんだけど、でもこの中でその当時教師をしていて、子どもたちと一緒に田舎に疎開した人の話の中で、真珠湾攻撃が起こった日(1941年12月8日)、朝、家を出るときに空を見上げて「この青い空の一体どこで戦争をしているんだろうと思った」という文字を読んで震えが止まらなくなった。今の、今までの平和な暮らしはどこまでも永遠に続く平和じゃなくて本当に薄氷を踏むようなものだったんだ、そう思うととても怖かった。

この教師のお父さんはこの日、真珠湾で戦争を仕掛けたことを新聞で知り「アメリカと戦争をするなんて、なんて馬鹿なことを」と叫んだそうだが、きっと少しの知識を持っていれば、そういう考えを持てたんだろうと思う。そしてそれから終戦に至るまで、こういう考えを持っていた人たちはどのように考えながら過ごしたんだろう。「勝てるわけがない」と思いながらも戦争に協力したんだよね、多分。

その一方、この時代に教育を受けた人はバリバリの軍国少年で、そういう人たちは「日本が負ける」とは信じてなかったし、戦争が負けて終わったと知っても、直後に戦争が終わって嬉しいとかそういうことは全く思わなかった、らしい。全部が全部ではないけど。「日本は勝つ」としか思ったことがなかったんだから、負けた場合のことなんて考えたこともない、そういうものだろう。改めて「教育」の恐ろしさを感じる。

あと印象的だったのは、一般に「加害者」って呼ばれている人たちは、どんなに冷酷無比なことをしていても全然そう思ってない、自分がどんなに恐ろしいことをしているかが分かったのは、もっともっと先のことなんだってこと。自分の罪に苛まれている加害者って、実はとても少数なんじゃないだろうかと思えてきた。確か今年の夏にどこかのテレビ番組で元日本軍「慰安婦」の人たちを取り上げてたのを見たが、そのときに「慰安所に行っていた」という元日本軍兵士の人がインタビューされてた。その人は慰安所に行っていたことに対しても「明日死ぬかも知れないんだから、まさに『突撃一番』です」(突撃一番とは、当時配られていたコンドームの名前)と全く悪びれずに答えていた。今でも「あのときは仕方がなかった」と考えていて、自分が加害者とは思っていないようだった。きっと、そういう人たちが圧倒的多数なんだろう。そして自分の加害を認識していたとしても証言まではする気がない人たちもたくさんいただろう。とすると、こうやって加害の証言を残してくれた人って本当に一握りしかいないってことだよね。それを思うと加害証言をするのもつらかったと思うが、本当に貴重な証言を残してくれて有難うございますと言いたくなる。

そしてわたしはこの本を読んで「戦争ってのは、一人の人の中にでも被害と加害が入り交じったものなんだ」ってことがよく分かった。確かに被害者の度合がものすごく強い人もいる。広島、長崎の被爆者もそうだし、沖縄の離島で強制移住させられた人もそうだろう。特にあの当時は女性には参政権がなかった。あの当時の人たちが「戦争は嫌だ」と思ってたかどうかは知らないけど、少なくとも国政に自分の意志を表明する機会はなかったわけで、そういう人たちの加害者度は少ないと思う。生まれた頃から軍国教育をされて「お国のために戦う。自分は長くは生きられない」と疑いもなく育てられた人たちもある意味被害者だと思う。あと戦地によってもだいぶ違うと感じた。戦争末期にフィリピンのジャングルに送り込まれた人は、そもそもフィリピンに着いたこと自体が奇跡のようなものだし(ほとんどの人は輸送船が撃墜されて沈没して死んでしまった)、既にそこは制海権も制空権もなんにもないところで、ただただジャングルを彷徨って食べ物でないものまで食べてやっと生き残った、という人たちだ。中国に行って中国人を無残に殺しまくっていた、という人たちとは加害度合は少ないだろう。

でも教師はどうなんだろう。疎開先で空襲を受けたりしたので一面は被害者と言えるが、子どもたちに軍国教育をして、その戦争を支えていたのは確かだ。「お国のため」と信じ込ませて戦場に送り込む。それは立派に加害の一面を持っていると言える。だから加害者は何も戦場で戦っていた人たちだけとは限らない。また、この証言者の中には当時植民地だった朝鮮半島の人で、そこから戦場に行って、そしてそのときの行為が「戦犯」だと言われて死刑判決を受けた人もいる(のちに死刑判決は撤回され、生き残れた)。この人は戦争中は捕虜の監視をする仕事だった。当時の日本軍は捕虜に対して過酷な労働とほんの少しの食べ物しか与えなかったから、完全なジュネーブ条約違反に当たるのだけど、そういうものがあるとは全く知らされていなかった。捕虜の扱いが甘いと見られれば、自分が上官からひどい目に遭う。それだけでも加害と被害が入り交じっていると思うが、もっと不条理なのは、戦後、1951年サンフランシスコ講和条約において旧植民地から来た人は「日本国籍剥奪」されたのに、その当時巣鴨プリズンで服役していた朝鮮半島出身の戦犯の人たちは「当時は日本国籍だったから」という理由で、その後もずっと服役をさせられていたということだ。しかもこれだけじゃない。巣鴨プリズンから出たあとは、日本国籍を持っている人であればいろいろ国の恩恵を受けることができた。が、日本国籍を持っていない(剥奪された)人たちには何もなかった。都合のいいときは「日本人だったでしょ」と言われ、都合の悪いときは「だってあなた日本人じゃないでしょ」と言われる。ものすごいひどい話だよね。

でも、こういう人たちだって加害と被害の両面を持っている。でないと戦犯にはならないわけで。しかし圧倒的多数の人は加害者の面を持っていてもこうやって裁かれることはなかったし、この人たちは服役して罪を償っただけでもその罪は消えているのかも知れない。そして当然、「自分は加害者です」と加害証言をしている人たちも100%加害者なわけではない。悲惨な戦場に送り込まれた上でのことだから、その点では被害者とも言える。いろいろな人の証言を読みながら「誰もが被害者で、誰もが加害者だ」、そんなことを思った。

ただし、だからといって「誰もが被害者で、誰もが加害者だったのです」というと、これまた「だからみんなで反省しなければならない」になるからやっかいな問題だ。この考えは、本当に戦争を始めようとした人や、自分は激しい戦場には行かないで、遠くから命令を下していた人たちなどの「加害性」を批判することができなくなる。そうじゃない。一般国民よりもっと悪いのはその当時、国を動かしていた人びとだ。そのことがはっきり追及されなかったので「一億総ザンゲ」になってしまったのだ。一般庶民は物事を動かせる権限は少ない。その少ない権限のうちでの加害、被害なのだ。わたしたちはそのことを忘れてはならないと思う。一番追及されるべき人間は、戦争を始めた当時、国を動かしている人間だったのだと。次に何かがあったときのためにもね。

15人の証言を読んで、わたしが一番印象に残ったのは品川正治さん、という人の証言だった。わたし、これを読むまでこの人全く知らなかったのだけど、戦後、日本の経済界の重鎮だった人らしい。

この人は旧制高校のときに召集されて中国に行った。普通だと旧制高校に行ってたら士官の身分で行けるんだけど、学校でいろいろあって「二等兵で行きます」ってことになったらしい。一二四〇高地で戦ったときに相手の迫撃砲で撃たれて、足にその破片が残ってる、レントゲンを撮ったときに写るって書いてあった。その後、戦争が終わった3ヶ月後に俘虜収容所に入れられ、5ヶ月後に復員船で日本に帰れたのだが、この人の証言で一番印象的だったのがこれだった。

1946年4月、やっと山口県の仙崎港に復員。上陸を待つ間、船の中で配られた新聞に「憲法草案」が出ていました。九条二項の「国の交戦権を認めない」というところ、最初は信じられなかった。だが、別の新聞にも同じことが書いてある。ぼくの部隊の人たちは、それを読んで全員泣きました。俘虜収容所で「われわれのこれからの生き方は、二度と戦争しない国をつくれるかどうかだ。でなければ死んだ戦友の魂が浮かばれない」と話し合ったのだから。しかしまさか、国家の成文憲法にここまではっきりと書いてくれるとは……。これがぼくの日本国憲法との出合い、一生忘れられない出合いなのです。
ぼくは、かつては「国家が起こす戦争」を前提に、ものを考えていた。でも、戦地で戦争の現実を目の当たりにし、すぐに疑問が湧いてきた。
「いったい誰のために戦っているのだろう」「勝ったとしても日本が幸せになるだろうか、こんなに中国の人を殺して」と。こんな戦争、やるべきではない。国民同士はなんの恨みもない……。
誰のために、何のためにと考えていたら、戦争を起こすのは国家という抽象的なものじゃない。満州にいた関東軍をはじめ、軍の中枢にいる人たちと日本の軍需産業、戦争をやればもうかる連中が仕掛けたのだ、と腑に落ちた。
戦争を起こすのも人間ならば、それを許さず止める努力ができるのも、人間なんです。ぼくは兵隊だったからそれがわかった。将校として戦争に参加し、最高の待遇を受けた人たちがのちに政界、財界の指導者になりましたが、彼らに戦争の悲惨さはわからない。実際に戦闘させられるのは兵隊だからね。



「戦争を起こすのも、そうさせない努力ができるのも人間」。憲法を変えると言っている今ならよく分かります。だれが憲法を変え、戦争を起こさせようとしているのか、今の日本でははっきり見えるから。
政治家も財界人も「日本はアメリカと同じ価値観を持っている」と言って憲法を変えようとしているけれど「憲法で戦争をしないと決めている日本と、絶えず戦争をして軍需産業が国を支えているアメリカとは、価値観が違う」とはっきり言えば、ベルリンの壁が崩れる以上に画期的なこと。言い切ったら、日本がふたたび武装することを心配しているアジア諸国との関係も変わってくる。何よりアメリカも、戦略を変えざるを得ない。
日本が憲法九条を捨ててしまったら、地球上にこの理念はなくなってしまう。しかし二十一世紀には否定できない理念だからね。今や旗はボロボロだけれど、「日本には九条が必要だ」と国民が選びとれば、いっぺんに金色の旗に変わるよ。



この部分を読んだらもう泣けてね。まさしく、今、まさしくわたしたちは憲法九条二項を捨ててしまおうとしている。旗はボロボロどころか穴が開けられる寸前だ。この人が今、生きていたら(この人は2013年8月29日に惜しくも亡くなられています)なんて思うだろうか。なんで人の命は長くてもせいぜい80年なんだろうか。前の戦争を体験した人がどんどんいなくなって、そして戦争を体験したことがない人たちが再び戦争をしようとしている。戦争は古代から繰り返されているけれど、どんどん技術が進んでいっぺんにたくさんの人が殺せる武器や爆弾、落としたあとも生物に被害を与え続ける兵器(核兵器)が開発されている。今や「原子力の平和利用」で各地に原発があり、その上に一発の普通の爆弾が落とされるだけでもどんなに周囲に被害が及ぶか。その被害がなくなるまで一体何年かかるのか。その間、人は住み続けられるのか。もうそんな時代になってしまった。

そして兵器を開発するのは抑止力のためではなく使うために開発されているのだ。開発するためには厖大な金が掛かるし、開発された兵器を買うのにも厖大な金がいる。そういうことで経済を回していっていいのか。経済についてはわたしは全く詳しくはないが、品川さんも書いているように、軍需産業に依存し始めればそこから抜け出すことは難しくなる。アメリカのように戦争をし続けなければ国が保てなくなる。あの法案が通ることで、日本はこの道を歩めることが可能になろうとしている。

この時期にわたしがこの本を読んだのは単なる偶然に過ぎない。でも、あのときに読んだからこそ、わたしはこの本に対して強烈な印象を持った。

証言者一人一人宛てて、今の若者からの返事がある。ほとんどの人が「そのときの状況じゃないので、本当のあなたの気持ちは分からないと思うのだけれど」と書いていた。中に「生きているうちに会いたかった」と書いている人がいた(この本で登場する1945年当時若者だった人たちはこの本が出版される前に既に約半数ほど亡くなられてます)。本当に、わたしも生きているうちに直接話を聞きたかった。だが、本人は既に亡くなられていても生きていたときに語られたこの本を読めば、思うことはたくさんあるはずだ。この本の中には一つの戦争によってさまざまな経験をした人たちがいる。今まで戦争の話で聞いたこともない人たちもいる(沖縄の離島から離島に強制移住させられて、その移住させられた島でマラリアにかかって移住させられた人の1/3が亡くなっていたと初めて知った)。それを知るうえでも是非多くの人に読んで欲しいと思う。

この本、最後に「あなたも手紙を書いてみませんか」と書かれていた。まぁ自分で買った本ではないので実際に送りはしないが、わたしはやはり品川さん宛てに書いてみたい。

「2015年9月18日未明、安保法案が可決され、あなたが『一生忘れられない出合い』と書いた憲法九条二項は効力を失いました。国民に託された旗はボロボロどころかもう穴が開いてしまいました。けれど、わたしはここからこの旗をみんなで金色の旗に変えてみせます」

ここからは蛇足なんで読まなくていいんだけど、この本の中で、中国で加害体験を語った人と731部隊にいて同じく中国の人たちに対して人体実験をした人の加害証言が載ってたのね。その人たちは戦争が終わってから2人とも「撫順戦犯管理所」ってところに送られている。その記述を読んでたらね、「なんかどーも、おじいさんの戦争体験として、わたしが親から聞かされた話によーく似てるなあ」って思い始めたのね。わたしは親から祖父は中国でひどいことをしてシベリアに送られた、そこで徹底的に反省したら認められてもう少しで戦犯になるところを免れた、しかし一番最後に日本に復員してきた、って聞かされてたのね。その「徹底的に反省して許される」ってところがとてもよく似てたのよ、祖父の話と。でもそこは中国であってシベリアではない。祖父はシベリア抑留されてたんだから、シベリアから帰ってきたはずだと。「一体どういうことかなあ」って思い、それでちょっと調べたんだけど、どうもシベリア抑留された人の中の1109人がシベリアから1950年に中国に移送されたらしいのね(Wikipedia「中国帰還者連絡会」による)。そして撫順戦犯管理所に送られてきた人の中に、愛新覚羅溥儀がいると。「ああ、うちのおじいさんもこの1109人の中に入ってたんだ」ってそのとき初めて分かったの。だって祖父は1990年代だったかに「ラスト・エンペラー」というこの愛新覚羅溥儀が主人公になった映画があったのだけど、それが公開されてるときにうちの叔母(祖父にとっては自分の娘、当たり前か)に対して「溥儀君か」と言って、その当時溥儀と一緒にいたって言ってたらしいのだ。わたしはその叔母からその当時、そのことを聞いた。この話は過去に日記に書いたことがあるんだけど。

ただ「日本に一番最後の復員船」は、Wikiを読むと1964年みたいなんだけど、それだと叔父や叔母が生まれたときを考えると計算が合わない。おかしいな~、と思ったら「1956年6月から7月の間に重要戦犯容疑者以外の容疑者たちは管理所内の臨時法廷で「起訴免除、即時釈放」の判決を受ける。」と書いてある(「中国帰還者連絡会」の項)。ああ、なるほど。「危うく戦犯になりそうだった」というのはこれか。祖父はここで起訴免除、即時解放になった人のうちの一人なのだ。ということは、親から聞かされてた「一番最後に復員した」というのはまぁ事実ではないけど、それ以外はこういうことだったんだ。

わたしは祖父と一緒に暮らしたことはなく、お盆とお正月の年に2回、会うだけだった。高校以降は「わざわざ行くのは面倒。それより家族でお正月がしたい」と帰省自体しなかったことも多々あった。だから、祖父に戦争体験を聞いたことは皆無だ。ただ、今、わたしが記憶している「祖父の雰囲気」は、ちょっと口では言い表せない独特のものがあった。わたしに対しては本当に優しいおじいさんだったんだけどね。その「雰囲気」は子どもながらに「そこは触れてはいけない」ように感じていた。まぁでもこれってわたしが本当に小さい頃の印象だから、今じゃ自分の中ではほとんど「おぼろげ」なのよ。だがそれは今思うと多分「加害の事実」に対してではない。「シベリア帰り」が復員後の日本でどういう風に見られていたか。多分わたしが受け取った雰囲気はそちらの方が大きかったのではないかと今、推測する。

そういう点でもこの本はわたしにとって、とても印象深い本になってしまった。
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09-19 Sat , 2015
わたしは忘れない
このタイトルを思い付いたとき、「そういえば、こういうタイトルの小説があったよね」ってふと思い出した。有吉佐和子の「わたしは忘れない」。どういうきっかけがあったのか忘れたけど、最初読んだのは中学生だったかな。結構好きな小説だった。売り出し中のモデルが主人公で、最初は楽しいこと、きれいなこと、でも物を考えることや泥臭いことが大嫌いで避けていた人なのだが、CMの撮影か何かである離島(確か黒島だったっけ?架空の島だと思うが)に渡ったとき、そこに台風が来て船が運航できなくなって島に何日間か閉じ込められちゃうんだよね。で、閉じ込められてる間、いろんなことがあり(これについては具体的には忘れたけど、災害とかいろんなことが起こったと思う)島の人たちがその中で泥臭く、地道に懸命に生きていることを知り、考えが変わっていく、という話だった。多分まだ持ってるはずなので今度読み返してみよう。
【追記(翌日)】ちょっと読み返してみたら、ぎゃー、話が全然違ってた(笑)CMの撮影かなにかで島に渡ったのではなく、いろいろあって傷心な気分で自らその島に行ったんでした。

前置きが長くなった。というか、いい加減、早く旅行記を書きたいと思ってるのだが、どうもその気になれなくてここまで来てしまった。でもこの一週間は自分自身が異様な緊張感を持ってた。特に横浜の地方公聴会があった16日から眠れなくなった。国会で今、どういうことが起こっているのか気になった。「そのとき」が来るのが怖かった。通ると分かってても「そのとき」が嫌だった。だからドキドキして全く眠くならなかった。

ついに通ってしまいましたね、安保法案。まぁこれは「想定内」のことだったので、通ったからと言って特に落胆はしてない。わたしはこの件で国会前を始め何ヶ所かのデモや集会に参加したけど、デモに参加する前は「デモに参加して、何かが変わるんだろうか」と思ってた。よくデモを批判する人たちが「ただ騒ぎたいだけじゃないか。発散させて終わりじゃないのか。そんなことをしても何も変わらない。自己満足に過ぎない」って言うけど、わたしもデモに行く前は確かにそれは言えると思ったし、だからこそデモに参加するのはちょっとねと思ってたし、デモに参加した今も「そういうところもあるかもね」って思ったりもするけど、でもやっぱり何か違うんだよなあって思う。わたしはこれに関するデモや集会にしか参加してないけど、確実に「響くもの」はあったんだよね。

最初はデモや集会に参加して「頭数」となることで、政府与党の議員の中でちょっとは「造反議員」が出たり、内部で異論が出たりすることを期待していた。過去、いろんな問題において政府与党内でも造反議員が出たりってことはよくあったことだし、内部から批判の声ってのも聞こえてくることはあったから。それは市民のデモの成果ではなかったけれども。でも今回、国会前にあんなに人が集まっても、政府与党からは一人の造反者もいなく、内部からの批判の声すら出てこなかった。これはすごく怖いことだと思った。これは決して政府与党が「一枚岩」ってことではない。だって人にはいろんな感じ方があるし、政治家だったらみんな自分自身の考えは持っているだろうし、自分の信念に基づいた行動をしたいと思ってるだろうし、自分の意見は言いたいだろうと思う。外に向けては発信できなくても内部では「やっぱり少しこれはおかしいんじゃないか」って議員間で話されてもおかしくないと思う。そうじゃなくみんな同じこと(強行な採決の仕方は正しいとか、議会運営の仕方は正しいとか、法案は絶対に通さなければいけないとか)を思ってたら却ってそっちの方が怖いよ(笑)完全複製人間じゃん。ロボットじゃん。

けど、そうできなかったのはそれが多分全部封じられてたんだと思う、上からの圧力によって。「異なる意見は言ってはいけない、それが例え内部であっても」という雰囲気に充ち満ちてたんだと思う。異なる意見が言えなかった、行動に移せなかったのはあくまでも自分の保身のため。造反して次の選挙の公認が取れなかったらとか、そういう「自分の保身」のために自分の信念を曲げた議員は絶対にいると思う。「政治家が本当にそれでいいのか」って疑問に思うけど、逆にもう政府与党の中では平気で「言論弾圧」が行われてるんだろう。そう感じて本当に怖かった。

しかも日に日に増える国会前の警察官。カマボコと呼ばれる青い車両(正式名称は知らんけど)が国会前の道路をふさぐ形でずらっと並べられたときは本当にびっくりした。国会前の道路は2回決壊したことがあったのだけど、そういうことが起こると力ずくでさせないように命令する。実際に決壊できないように車を並べる。いくら人が集まっても車をどかさない。結局こうすることは、政府与党に全く余裕がなかったことの表れだと思うが、権力によって抑え込もうとする態度。本当に怖いと思った。過去の自民党というのは、もっともっと余裕があって、そのことが逆に「大きな権力を持っている」という気がしたものだ。今は小物の政治家がなりふり構わずに権力を振りかざしている、そういう印象しかない。

ただ、結果的にはこういう態度が市民の怒りを逆に噴出させることになってあれほどまでになったと思うけどね。そういうことをもし計算できなかったとしたら本当に頭が悪い政府与党と言うしかないし、それは分かっていたけどそういうことは力で抑え込めばいいと思ってやっていたとしたら「民主主義って何?」って本気で思うし怖い。そしてその裏に「どうせ法案が通っても次の選挙までには有権者は忘れるだろう」という考えがあるとしたら、これほど「国民なめんな」って思うことはない(「国民なめんな」コールについては賛否両論あって、わたしは「否」の方なんだけども)。

ということで、政府与党についてはデモや集会によっても「変えることはできなかった」と思う。でもまぁ、これについては「ひょっとしたら」って思う程度でそんなに期待してたわけじゃないから失望感もない。ただ怒りだけは増したけどね。

しかし一方で確実に「響いている」と思ったのは、野党の態度だった。法案採決までできることを精一杯やる、それがこちらまで十分に伝わってきた。確かに法案は廃案にはできなかった。「所詮は引き延ばしではないか」と思われるのも十分に分かる(なんで金曜日24時を越えたのにその後で採決されることになったんだろうって今も思ってるんだけど。当初の言われ方では金曜日24時過ぎれば連休後の週明けになると思っていたのだが)。けど地方公聴会後のあの粘り、そして委員長解任の動議、内閣不信任案動議、各野党の演説を聞いたらね、「ああ、わたしの言いたかったことを国会という場できちんと言ってくれてる、怒りの声を直接言いたかった人に言ってくれてる」、そう思ったよ。特に山本太郎が委員長解任の意見陳述のときに「まず国会議員から、防衛大臣から、総理大臣から戦場に行け!」って言ったけど、わたしはまさしくそれ、そのことを彼らに伝えて欲しかった。あれは本当に嬉しかった。そして彼らにそう言わせているのはこのわたしたちだと感じた。全国で集まって声を挙げている人が彼らを動かしているのだと。これが「間接民主主義」だと。本当に実感した。国会前で直接議員の演説を聞いてるから余計そう思うのかも知れない。国会前の自分たちの叫びが本当に野党議員の耳に届いている、そういう実感があったから余計そう思うのかも知れないけれど。

わたしは普段、国会中継なんかほとんど見ないし、議員がそこでどんな演説をしているか、聞いたこともなかった。面白そうじゃないので聞こうとも思わなかった。しかし、今回、いろんな人が長い長い演説をしたけれど、それが無駄に長いとは全く思わなかった。どの演説も本当に説得力があったし、聞き応えがあった。「フィリバスター」というのは元々演説を引き延ばす作戦で、その中で聖書を読んだり憲法を読んだりして時間稼ぎをする、そう聞いてたけど、そういう意味では「引き延ばし作戦」なんかじゃ全然なかった。「ああ、本来政治家ってこういう演説ができる人たちなんだ」って思った。単純に「あれだけ蕩蕩と淀みなく、理路整然と喋れてすごい」って思った。

委員会の議長解任の動議の賛否の演説はまだ時間制限が設けられてなかったけど、その後、いくつかの大臣の問責決議案などから時間制限が掛かり、本当にあれは信じられなかった。今までフィリバスターはあんまり聞いたことがなかったけれど、牛歩戦術などはかつて野党がやっていたことはわたしの記憶にちゃんとある。それを時間制限の発議で禁止した、なんてこと聞いたことがない。牛歩だってフィリバスターだって、戦術として認められていると言うことは、権力側がそれを「少数側の権利」として認めていたということだ。その対応策として時間制限があるならば、それは戦術とはなり得ないからだ。しかも国会で国会議員の演説に時間制限を設ける、これは今日の安保法案採決の時に民主党の福山議員が言ってたけど、言論の府である国会でそれを行うって、それは自ら言論の府である国会を否定しているに等しい。わたしだって彼らの演説を、彼らがやりたかった、話したかった演説を、話したいだけ話す演説をすべて聞きたいと思っていたのに。そのわたしの権利さえ侵害されたと思う。

しかし中では時間制限を無視して演説を続けた議員たちがいた。「ルール破りだ」というヤジがたくさん飛んでいたけど、何がルール破りだと思った。自分たちはどうなんだ、って。地方公聴会後の締めくくりさえせず、よく分からない採決繰り返して議事録にも採決結果が記録されていない。あれのどこがルール破りではないのか。「やったらやり返せ」はわたしは好きじゃない。だけどこの件に関しては「時間制限」というルールの方がおかしいのだ。そして議長の「時間制限をとっくに超えています。これ以上続けるのであれば発言を禁止せざるを得ません」というプレッシャーに負けずに演説を続けた議員たち、正直言ってあれこそが頑張っている姿として具体的に見えたと思う。山本太郎の一人牛歩だって同じだ。もちろん「あれは次の選挙のために今、頑張っておく姿を見せる作戦だ」という考えもあるだろう。山本太郎に至っては「完全なパフォーマンスでしかない」と思う人もいるだろう。でもさぁ。わたしはあれこそが「デモの成果」だったと思うのだ。彼らは本当に渾身の力を込めて演説をしていた。山本太郎の演説もすごかった。あれは単なる「パフォーマンス」じゃない。見ていて熱意が伝わってきたし「本気で頑張ってる」って感じた。「一分一秒でも採決を送らせたかった」という山本太郎の言葉は本当だろう。本気か、単なるパフォーマンスかは見ていればよく分かるものだ。でも彼らをそうさせたのは、わたしたちも本気だったからだ。

確かに「たったそれだけのためのデモなの?」って思う醒めた人もいるだろうなと思う。けど、今までデモしてて、その効果が目に見えて分かるってこと、なかったように思う(脱原発のデモは効果を挙げたみたいだけど)。それに演説の時間制限でも分かるけど、政府与党は数を力にして次々とめちゃくちゃなことをやってくる。そうしたらできることといったら、もうあんなことしかないじゃない。その他に何ができるというのか。

そういう点ではわたしは時間制限を超えて演説した民主党の議員の人たちはよくやったと思う。逆にそれをしなかった共産党、あと維新の党も入るのかな、なんでなのかなと思った。共産党はやっぱりエリートの塊なのかねえ。それとも党員がそういうことを許さない雰囲気があるのか。そこら辺のことはよく分かんないけど。

あとそうそう、これに関連して言いたいことがあった。これだけ全国の人たちが注目していたのに関わらず、国会中継をしないNHK!!NHKは一体何をやってるんだと。議長解任の動議の日は大量の抗議電話があってなのか全部流したけど、それ以降も内閣不信任案などが提出されていたにも関わらず、まったく中継をしなかった。ネットでしかその様子を見ることはできなかった。これってなんなの?電話で抗議が殺到しなければ中継をやらないのか?毎回毎回「中継してください」って電話掛けなきゃ中継しないの?本当にNHKはおかしいとしか言いようがない。あの野党の人たちの演説を多くの人に見られるのが怖かったのか。政府与党がめちゃくちゃな議会運営をしていることが直接分かってしまうから怖かったのか。上からの圧力で放送できなかったのか。

とにかくわたしが感じた「デモの成果」は野党が頑張ってくれたことだと思う。あそこまで議員の人たちと通じ合っている、そう感じたことは今まで本当になかったから。選挙前にちょっと演説聞いて投票する。でもその後、議員たちは国会で何を喋ってるのか、どういう行動をしているか、全く見えなかった。それが今回、見えたから(ただ、わたしが投票する人はほとんど当選した記憶がないところが悲しい。わたしは特定の支持政党がない完全な無党派層だけど、保守系政党には一度も投票したことがない、いわゆる「革新系」(この言葉は死語だよね)の無党派層であり、毎回投票には行くけど候補者が当選した経験はほとんどない。あ、市区町村議員は別ね)。

そういえばそのことでも言いたかったんだった。「デモに行く前にちゃんと選挙で投票してるのか」みたいな言葉をtwitterなんかでたくさん見たけど、ちゃんと毎回行って投票してるわ!しかし、投票した候補者が通らなかったら、わたしはわたしの意志を表す機会がないではないか。だって国会でわたしの「代弁者」はいないのだもの。

当初、デモや集会に参加しながらも、わたしは「自分がやりたくないと思ったことはしない」って決めてたからコールは一切しなかった。叫ぶことによって自分自身が高揚してコールの先導をしている人たちのことを熱狂した目で見てしまうことを恐れていた。確かに国会前に行き始めた頃はコールしてる多数の人がちょっと熱狂的で怖いなと感じたこともあった。けど、ここ2週間くらいかな。空気がどんどん変わってきたと感じてた。みんな、本気で怒ってコールしてるんだよなあって。誰かに先導されて踊らされてコールしてるわけじゃなく、本当に直接怒りを持って国会にいる国会議員、特に政府与党、中でもとりわけ総理大臣に向けて言ってるんだなあと。確かに「戦争反対」とか「安倍は辞めろ」とか「廃案」というコールは、わたしはこの法律が直接戦争に結びつくとは思ってないし、安倍だけが辞めればいい問題じゃないし、廃案は望んでても無理だというのは分かってた。だからそういうことで納得いかないコールではあるけれど、一人一人の力のない民衆が何か大きな権力に異議を唱えるにはこういう短くて端的なものでないと表せないんじゃないか、そう思うようになった。

それから抗議の声によって野党の人が力づけられている、そう感じたことは大きかった。「野党はがんばれ」と言うことで本当に頑張ってくれている、国会内にわたしたちの声が届いている、そう感じたからこそわたしは本当に最後の最後、行ったときにコールをした。だけどコールしたからと言って高揚感は全くなかった。頭はすごく冷静だった。発散されたとも思わなかった。「そんなものなのかな」って思った。まぁその日は土砂降りの雨の中だったからかも知れないけど。

さて。この法案が通ることは「既定路線」だった。とすると、今後はどうするか。それはもう、次の選挙で自分の意志を示すしかないでしょう(っていうか、わたしはこういうことがなくても毎回投票に行ってるけどね!)。今日の未明にあったことを来年7月の参議院選挙まで忘れない、そのことを「合い言葉」にしなければならないと思う。特に今まで保守系政党に投票したことがあって、この法案に反対だった人はどうかこの思いを忘れないで投票行動に繋げて欲しいと思っている。今まで「誰も入れたい人がいない」と言って選挙に行かなかった人も投票して欲しいと思っている。「棄権」は結局反対票にはならないのだから。

そして野党の人たちには是非選挙区では「選挙協力」して欲しい。去年の選挙でも総投票数は与党よりも野党の方が多い。にもかかわらずこういう結果になってしまっているのは、とりもなおさず選挙区制度の問題なんだけど、だからこそ野党が分散して候補者立てたら絶対に与党には勝てない。是非すべての選挙区において「与党候補者対野党候補者」の一騎打ちにして欲しいと思う。有権者に「自分が投票すれば変わる」と思わせて欲しい。これはかなり難しい問題だと思うけど、是非是非実現して欲しいと思う。比例区は好きな党に入れてもらっても、選挙区では複数候補者立てないでって思う。
【追記】これをアップするまで全然知らなかったんだけど、今日、共産党の中央委員会総会で「戦争法(安保法制)廃止の国民連合政府」の実現が提案されたんだってね。次の選挙で野党の選挙協力を呼びかけたとか。今後注目したい。っていうか、各党、いろんな思惑はあるだろうけど本当に頑張って欲しい。安保法の廃案と集団的自衛権行使容認の閣議決定を取り消したいみたいだから政権取らないとダメだけど、そのためには少なくとも4年後?の衆議院選挙まで待たないといけないってことだよね。今の状態で今の政府与党が衆議院を解散するわけないしね。

来年の7月までの約1年、きっと「戦争」は起こらないだろうと思う。そのときに政府与党はなんと言うか。「みなさんが懸念したように戦争状態にはなっていません。だからこれからも戦争にはなりません」と言うだろうよ。それに騙されてはいけない。当たり前だ。法律が施行されるまでは効力はないし、施行後にすぐに何かコトが起きればそれこそ怖い。そしてその間に軽減税率が実施されることになったとか(既にこの話題は今日の朝刊に載ってたよ)、そういう市民にとって「甘い汁」を少し吸わせておく。まぁそれで「チャラ」だと評価する人も中にはいるだろうけど、それはあくまでも彼らの「所詮有権者はこんなもの」という作戦だということに気が付かなければならない。そういう目先のことに騙されてはいけない。なんてったって、彼らは「違憲の法案」を通したのだから。それが許されていいはずがない。

今日のこの思いを自分の意志にしたければ、「わたしは忘れない」、これは絶対に肝に銘じておかなければならない。
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09-15 Tue , 2015
昨日のこと
20150914 193152


昨日書いたように、昨日は国会前に行ってきた。今回は一人ではなく初めて彼女と二人で行った。

実はわたしは12万人が集まったと言われている8月30日にも行ってて、その日は初めて国会前の道路が開放された日だった。それまではずっと道路と歩道の間には鉄柵がびっしりと置かれて、そこに警官が道路に出ないように監視してたのだ。で、歩道の中が2つに区切られてて、人が集まる場所と人が移動する場所になってた。

ところが30日は人が多すぎてどこかで鉄柵が決壊して道路に出られるようになったらしい。気が付いたらそうなってた。30日はわたしは時間ちょっと前に国会前に着いてたけど、まぁいつもよりは人が多いなあとは思ったが、そこまで多いとは感じなかった。で、今回は入ったことがない憲政記念館の公園に行ってみようかなあと思って中に入ったのだ。そしてそこからいつもいる国会前の北側のエリアの方に向かって歩いてたら、どうもなんかいつもと様子が違う。「どうしたんだろ?」と思って横を見たら道路に人が出てる。「あれれ?今日は道路に行けるんだ」と思って、公園から外に出て道路に出たのね。

だから、30日の時はいつの間にかどこかで何かが起こってそうなったんだろう、としか分からなかった。すごい混み合っていたというイメージも何もない。本当に「あれれ?」という感じ。そして道路に出ると、もう主催者が何をやってるとかどこで誰が挨拶してるなんて全く聞こえてこないの。その日は坂本龍一が来てたらしいんだけど、それは家に帰った後で知ったくらい。周囲ではみんな思い思いのコールしてるし、本当にバラバラ。これから何がどうなるか、いつまでやってんだかとかさっぱり分からない。なので、適当にいたいだけそこにいて帰ってきたのね、30日は。

昨日は国会前に着く前から警官がすごかった。しかし人もすごかった。正直、30日より人口密度は高く感じられた。だからわたしは道路も時機に開放されるだろうと楽観的に思ってた。

いつもどおり国会の北側エリア(集会が行われているところ)を目指して歩いてたんだけど、途中から人がいっぱいで動けなくなった。と言っても後ろから人が来るのか、あと自分がいたところがあまり窮屈だったので前の方に行きたいと思ってたこともあったと思うんだけど、それでも前の方に進んでて、結果的にはステージからは少し遠いけど(だから誰が喋ってるか何も見えない位置だった)、救護車のところよりは前方にいる、という位置に多分いた。途中まで写真を撮る余裕はあったんだけどそれも時機になくなった。

当初から「道を空けろ」という声は出てた。だけどもステージでコールが始まるとそっちに引きずられて「道を空けろ」の声はなくなる。でも自分のいるところは本当に人でぎゅうぎゅうでちょっと空いてる満員電車のようだった(本当の満員電車って足が地面に着かなくなるからね。密室だからそうなるんだけど)。だからステージで誰が何を言ってるなんて全く耳に入らなくなった。そのうちどんどん押されるようになった。「道を空けろ」の声もどんどん大きくなった。わたしも「道を空けろ」ってコールした。実はわたしはこれまで何回も集会やデモに参加してるが、一度だってコールしたことはなかった。まさか初めてのコールが「道を空けろ」だとは思わなかった。この日は大江健三郎が来てて、そこで挨拶したらしいんだけど、そんなの全く聞こえなかった。道路側の鉄柵で挟まれている人たちから「押さないで」という声が聞こえた。っていうか、わたしも鉄柵の方にどんどん押されて鉄柵のすぐ近くまで行ってしまった。そこは歩道と道路の際で歩道との段差があるところみたいで(もちろん見えないから感覚なんだけど)、片足が着かない。すごく不安定な場所。「ここに段差があるから居づらい」と言ったら、代わりに誰かが場所を替わってくれて、わたしは少し中に入れた。その人は屈強な感じの人だったけど両手で大きな旗を持ってて、だからその後ものすごく押されてたときにめちゃめちゃ体勢を崩しててとてもかわいそうだった。。というか、場所を替わってもらわなければ、わたしがあそこにいたんだと思ってとても胸が痛かった。鉄柵の近くから「押さないでください」と言われても、自分は押してるつもりはない。けどどこかから力が掛かって自分の身体が動いてしまう。だからきっと誰かを押してたし、押すなと言われても「無理」としか言いようがなかった。

っていうか、こうなっている原因はただ一つで、それは鉄柵で歩道が囲まれてるからだった。歩道にいる人数がもう飽和状態をとっくに越しているのに行き場がないから人の押し合いへし合いになるのだ。そこにいる警官は人が道路に出ないようにしてて、警官も「押すな」と言っていた。「気持ちが悪くなった人がいます」「倒れた人がいます」と言われたが、その原因を作ってるのは他でもなく道路を解放しない側であって、押したり押されたりしているわたしたちじゃない。国会前の道路は別にそこを通らなければ行くことができないところがある道じゃない。だって国会前の道から国会に入っていく車なんて一台もないのだから。国会前の道はまっすぐ行けば国会だが、国会前で左右に分かれてて、どこかへの抜け道だ。とすれば、そこまで道路を守ることはないではないか。車は迂回させればいいだけの話だ。警官は一体、誰を、何を守っているんだろう?市民の安全ではないのは確かなことだった。

そのうち、どこかの鉄柵が決壊したのだろう。道路に人がどんどん出て来た。だけどわたしたちの前の警官はそれでも封鎖し続けていた。人が押し、押されてうねりがすごかった。そのうねりに乗りきれない人は倒れた。わたしのすぐ横の人も倒れてしまった。超党派議員で結成している「過剰警備監視」って旗を持ってる人たちが近くに来たんだけど、こちらを見て悲惨そうな顔をしているだけで誰も何もしてくれなかった(ようにわたしには見えた)。道路の向こう側の自分はゆったりしたところでこちらの状況を見ている。警官は「押すな」というばかりで開放するつもりはない。けどどこかではもう決壊してて人が道路にどんどん出てきてる。なのにわたしは行き場がない。道に出てる人がどんなに羨ましかったことか。「誰も助けてくれない状況」ってこういうことなんだなあって思った。

目の前にいる警官に思わず叫んだ。「あなたは誰を、何を守っているのですか?」と。周囲は騒然としてたから警官にその声が届いたかどうかは分からない。もちろんわたしだって子どもじゃないんだから警察官は正義の味方でいつも市民の味方だなんて思っちゃいない。いざとなれば市民を抑圧する直接の手を下すのはこういった人たちだと言うことは十分知っている。それでも「何で、誰のために?」とわたしは叫びたかった。わたしは自分が本当にちっぽけな誰からも守られない存在なんだって思い知った。そしてわたしが今立ち向かってるのは巨大な権力なんだってことも本当に実感した。もちろん当の警官だって「自分は何のためにこんなことをやってるんだろう」って思わないことはないと思う。だって彼らの「働き」は誰の何のためにもなってないんだから(決壊したからには権力のためにもなってないだろう。昨日は完全に権力側の敗北だった)。ただ、上からそういう命令が下されてそれが任務になってるだけだ。それは分かるが、既に道路が開放されても「死骸化」した命令がまだ生き残ってる、それを感じてわたしはものすごくゾッとした。

周囲はみんな悲鳴とか思い思いの叫びやコールで騒然として、今はどういう動きをしているのかさっぱり分からなかった。鉄柵の近くにはいたのだけど、鉄柵を開けようとしているのかどうかも見えなくて、誰が何をやっているのかもさっぱり分からなかった。でもそのうち鉄柵がどけられたらしい。どけられたといっても全然見えなくて、どけられたといっても人がそこからすぐに道路に出られるようになったわけではないらしくて、なんだかよく分からなかった。けど、そこにいた背の高いメガネを掛けた外国人らしき人が(この人もその直前押されてぐちゃぐちゃになってたんだけど)「もう大丈夫です。出られます」って言った声だけで鉄柵が破られたってことだけ分かった。

だからわたしはこのとき実感したの。「混乱してたら自分の周囲1mで起こっていることも分からないんだ」って。

そしてなんだかわけが分からないまま、わたしは道路に出た。道路ではあちこちで「安倍は辞めろ」というコールが自然発生的に起こっていた。警官は集団になってどこかに消え去った。分かっていたことだけど、警官は別に市民を守るためにいたんじゃなかった。

しかしわたしはこうも思う。「あれだけ人がいて、あれだけぐちゃぐちゃだったのによく暴徒化しなかったな」って。あとから一人、公務執行妨害で逮捕者が出たって知ったけど、あれも権力側からの「見せしめ」だろう。あとは「暴力的な人がいました」と対外的にイメージを付けるだけの。道路が開放されてからも特に暴力的なことが行われたわけではなく、みんなは思い思いのコールをしてただけだった。まぁ確かに主催者側としては全く統制が取れなかった集会だっただろう。が、本当に平和的な光景だった。まぁそういうのが「日本」ってヤツなんだろうな。それが権力者に有効であるかどうかは別として。

道路が開放されて1時間、わたしはプラカードを掲げてから家に帰った。
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09-14 Mon , 2015
今日は国会前へ
20150914 110921


今日、国会前に行きます。

わたし最近「この法案が通ったら自分の生活はどう変わるんだろう」と思うことがある。多くの人の戦争のイメージは、先の太平洋戦争の「本土決戦」なのかも知れないが、きっとこれからはそんなことにはならないと思う。

(あ、中国とか韓国とかいわゆる北朝鮮が攻めてきてっていうのは、最初から却下ね。あれはどう考えても現実には起こらないような気がする。だって、どういう理由があって日本を攻めてこようとするのかが全く分からないから。尖閣?あんな人も立てない(もちろん住めない)ような岩礁が欲しいと言って中国が日本を攻めるだろうか?あほくさ。日本を占領して中国にしたい?あんな広大な領土を持ちながらこんなちっぽけな島国を攻めて何か中国にメリットある?しかも地震は頻繁に起こるわ、災害は頻繁に起こるわ、火山は噴火するわ、デメリットはたくさんあるのに国土には資源が全くないところだよ、日本列島って。はっきりいってお荷物にしかならんだろうよ、こんな土地持ってても。考えられるなら海洋資源だろうが、これねー、日本近海に資源があるあるってわたしが大学生の頃から言われてるけど、これが開発されて「何かがありました!」って未だに聞いたことがないんだけど。。韓国も竹島のために日本を攻めてくる?日本海を東海って呼びたいがために攻めてくる?(笑)あー、あほくさ。いわゆる北朝鮮に至っては、あそこは韓国は敵だけど日本まで攻め込む余裕があるとは思えないんだけど(この言い方はいわゆる北朝鮮を非常に馬鹿にしていると思うので、あまりこういう言い方はしたくないんだけど)。ってことで、隣国がうんぬんについてっていうのは、ただ政府が馬鹿な国民に対して危機感煽りたいためだけのウソ方便だと思ってるのね、わたし。)

じゃあ政府は何のためにこの法案を通そうとしているかというのは、まぁアメリカのためだってのははっきりしてるよね。だってこの法案は「夏までに絶対に通します」って去年の12月の時点で自衛隊の偉い人がアメリカに対して勝手に約束して来ちゃってるんだし(国会軽視も甚だしい)。それに南スーダンへの自衛隊の派遣の手順も内部資料で出てきたじゃん。結局日本はアメリカの戦争を支援したいから、この法案を通そうとしてるわけです。

確かに反対派の言うとおり、日本が世界で戦争に加担できるようになると敵は増えるだろう。そしてテロの標的にもなるだろう。そういう意味でもしかしたらしばしば日本国内でテロが発生するようになるかも知れない。

けど、多分それだけ。過去のように空襲されたり原爆落とされたりってことは多分ない。だから、わたしの日常生活もほとんど変わらないだろう(運悪くテロに巻き込まれたりしない以外は)。

これって今のアメリカと同じ。アメリカは今まで本土が空襲されたことはない。だから多くの人びとは「戦争はどこか遠い国でやってる」もので自分は巻き込まれない。戦ってくれるのはアメリカ軍兵士。それも大学の奨学金が返済できないから軍隊に入らざるを得ない貧しい人たちが多く含まれている軍隊。ある程度お金持ってたら軍隊には行かなくてもいいし、そういう金持ちの人たちの周囲には貧しくて軍隊なんかに行ってる人はいない。戦ってる人たちは応援するし、国の名誉だと思ってるけど、基本的に殺されても身内じゃないから胸が痛まない。いや、もしかしたら胸は痛まないけど「アメリカがやられた!だからやりかえさなければならない」と思うかも知れない。その気持ちがさらに戦争を拡大していく考えだとも思わないで。

多分日本もそうなるだろう。戦争に行くのは「誰か」で自分じゃない。その「誰か」が勝手にどこかで戦ってくれてる。戦果を挙げれば「日本がやった!」と喜び、「誰か」が戦死すれば「日本がやられた!」と思う。まるでゲーム。自分はぜんぜん痛まない。戦争で「誰か」が亡くなっても「尊い命が失われた。もうこれ以上犠牲が出るのは耐えられないから戦いを止めよう」とは考えない。「こちらの尊い命が犠牲になったんだ。敵にもダメージを喰らわせろ」としか考えられなくなる。でも、自分は平和な日常生活。テレビ見て笑い、映画を観て泣く。音楽を聞いて愉快な気分になる。美味しいご飯をたらふく食べる。これまでとちっとも変わらない。

これが多分、現実。きっと日本政府も「あの法律を通しても大半の人の生活は変わらなかったでしょう?だから、あんなに反対することはなかったんですよ。これからも安心して政府に任せてください」と言うだろう。

もちろんその裏では力のない、声を挙げられない人たちがたくさん犠牲になる。でもそれは見て見ぬフリ。だって生活が貧しいのは仕事しないで怠けてるからでしょ。そんなの自己責任だよね。それに自衛隊に入れば運が悪かったら戦場に送られて戦死するかも知れないけど、生き延びれば給料はもらえるわ、奨学金はチャラになるわ、うはうはじゃん。それって結局「勝ち組」じゃん?貧乏な人はそうすりゃいいんだよ。自衛隊に行かないなんて「甘え」。

きっと日本はこういう世界になるだろう。

そういう世界が来て欲しいか来て欲しくないか。

わたしは来て欲しくないから今日、国会に行く。
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09-13 Sun , 2015
国立ハンセン病資料館に行ってきました
ハンセン病患者が隔離政策によって過酷な人権侵害を引き起こしていたことはなんとなく知ってたし、それに今年の3月に大阪の「リバティおおさか」に行ったときもハンセン病の差別の歴史についての展示を見たりして、1993年に「らい予防法」が廃止された後も九州の温泉旅館が宿泊を拒否するなどして未だにその差別がある、ということは知っていた。でもそのときは「療養所に行ってみたい」とは思いもしなかった。

「あれ、行けるんだ」と知ったのは、昨日に引き続き「パレードへようこそ」が原因なんだけど(笑)それを観に行ったときの予告に「あん」という映画があって「なんか面白そう」と思って観に行ったからだった。「あん」という映画(原作は同名小説)の中で、多磨全生園という療養所のロケのシーンがあったのだ。その後、わたしは小説の「あん」の方も読んだ。映画では確かに元ハンセン病患者に対する差別が描かれてはいたが、それに対して「ずいぶん昔に特効薬ができて今はもう治る病気になってる。だから元患者から感染することはない」ってことはほとんど強調されてなかった。わたしはそれがちょっと不満だったのだが、原作の方はそれがきっちりと書いてあったし、しかしそう書いてはあったが、登場人物は元ハンセン病患者の徳江さんが住んでいる多磨全生園を訪れたときに「移るのではないか」とビクビクしている描写もある。小説の方が人の差別感情、偏見に対してよりリアルな感じがした。映画はその部分ではちょっとマイルドだったかなあと言う感じ。

まぁ感想はこれくらいとして、そのときに初めて「行きたい」って思ったの。多分、家からそんなに遠くじゃないはず。だけど「いつか」って思ってた。が、先月の終わりだったか、東京新聞をなにげにめくってたら「多磨全生園『人権の森』散策ガイドの開催に伴う参加者の募集」という文字が。これはまたとないチャンスじゃん!と思って、早速応募した。先着50名ってことで大丈夫かなって思ったんだけど(わたしのように「あん」を見て「行きたい」って思った人って他にもいると思って)、でもなんとか先着50名の中に入れたようだった。

で、今日、行ってきた。集合場所が「国立ハンセン病資料館」だったので、まずそこに行ってきたんだけど、なんというか、国立ハンセン病資料館は、多磨全生園の中にあるのね。

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入口はこんな感じ。

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休館日を見ると、土日祝日ではなく、全部翌日とか月曜とかなので、休日は開いてますってこと。

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入口に今日の催し物の張り紙が。最初はここの「映像ホール」というところで市長の挨拶やら自治会の会長の挨拶やらボランティアの人の挨拶やら。てか、わざわざ東村山市長がこんなところで挨拶するって、これ、そんなにすごい行事だったんかと少しびっくりしたのだが、東村山はほとんど多磨全生園と歴史を共にしてきているらしく(東村山の歴史は126年で多磨全生園の歴史は106年って言ってたっけ?)、ここで人権啓発をきっちりやっていきたいようだった。3人の挨拶の後、資料館の職員さんだったっけ、多分そうだったと思うけど、その人が20分くらいのガイダンスを。ここに入所してくるときは本名を奪われ、ここで新しい名前を付けられて、そして死んでからも外に出られないのだ、と。わたしは今日初めて知ったんだけど「北条民雄」って人がいて、その人は23で亡くなったけど作家だったらしい。その人の生誕100年がつい最近だったらしいが、死後77年経って初めて本名が公表されたと。その他にも2年前に亡くなった詩人がいたんだけど、この人は弟さんが葬式に来たけど本名は名乗れなかったと(ただし、その後、弟さんが親戚を説得して自分ところのお墓に分骨できたらしいです)。「今でもこういう現実があるのだ」と教えてくれました。そして前で話してた誰もが言ってたんだけど「この施設は本当に広い。だから、今日、1時間やそこらで全部回るのは無理。なので今日をきっかけにして何度も来てください」って言っていた。

その後、5班に分かれてボランティアの人に説明をしてもらいながら、散策。50人だとしても1班10人だから、これまた少人数でじっくり説明してくれる感じ。散策ルートが書いてある地図をもらったが、確かに園内は広すぎて今回回れるのはごく一部って感じだった。

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まずは「永代神社」。確か「えいたい」ではなく「ながしろ」って読んだと思う。この神社、実は入所者の宮大工さんが建てたそう。っていうか、ここは隔離されてたんで本当に全部自分たちの手でやらなければならなかったみたい。この先のものも全部作ったのは入所者だったと言ってた。だいたい元々多磨全生園は今よりもかなり狭かったんだけど、入所者が増えてしまったので、入所者が働いたお金(園内で家畜を飼ったり作物を育てたりしてたらしい)で土地を買い、今のような35万平米の大きさになったらしい。だけど、土地を買っても自分名義で登記できない(本名名乗れないし、戸籍とかどうなってたのか分からないけど)ので、入所者が土地を買って国名義にしたのだとか。でもそういうのって「国有地」になるのだろうか?そこら辺、どう整理してあるのかよく分からないけれど。。今度行ったときに誰かに聞いてみようと思う。というわけで、土地からして自分で稼いで広くしたのだ。

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入所者の中には学齢期の子どももいたので、園内には学校があったらしい。1979年に生徒がいなくなって閉校になったあともしばらく校舎は残っていたのだが、老朽化のため2008年に取り壊されたそうだ。だから今はひろーい空き地みたいになってる。「出発」というのは、最後の生徒たちで作った記念碑らしい。

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「望郷の丘」と呼ばれるところ。ここはもちろん元々は平地だった場所なのだが、昔は隔離政策で脱走できないように周囲は全部堀があったらしいのね、というか、この堀も入所者が掘らされたのだが。その余った土をここに持ってきて丘みたいにしたんだと。そして木を植えてここの高いところから自分の故郷を思う、そういった場所だったらしい。今はぐるりに柵があって中には入れない。数年前までは入れたそうだが、子どもが落ちたとかで。ここから眺める景色はどんな景色だったんだろう。

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ちなみにこれが敷地内と敷地外を区切っている木々です。さっき言った堀もここに沿ってあったらしい。といっても、今はもう区切られてません。外から見ると(右側の画像)何やらまだ背の高い木が植わってるけども、それはもう施設内、なんです。元々の区切りは左の画像に見られる今は1mくらいになってしまったものです。この画像を見るだけだとなんか雑然と雑草が茂ってるだけに見えるかも知れないけど、ここは元々柊(ひいらぎ)の木が3mほど生い茂ってて、その上には鉄条網なんかも張り巡らされていたらしい。これは確か「あん」でも出てきたけど、柊の葉っぱってトゲトゲしているので痛くて突破できないのね。そういえば、今日、ここを案内してくれたボランティアのおじさんは地元で生まれ育った人なんだけど、子どもの頃は親から「ここには絶対に近づくな」と言われていたそうです。「病気がうつるから」と。

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ちょっと見にくい画像でごめんなさい。ここには「敷石道 この一帯は関東ローム層で、雨の日や霜柱が融けたときなどは、下駄がとられるほどぬかて、更に盲人たちは出歩くのに難渋した。1930年頃、道に石を敷く話がもちあがり、患者と職員とか費用を出し合って工事にかかった。しかし、これではとても足りず、「多磨」誌の前身である「山櫻」を通すなどして募金を呼びかけ、それぞれの不自由舎をつなぐとともに、医局や風呂場、礼拝堂などへの敷石道を造った。盲人たちは敷石を杖の先で探り探り歩いた。」と書いてある。その敷石道ってこれ。

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広い道も狭い道もずっと敷石が張り巡らせてあった。

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唐突だけど、園内には宗教施設がいくつかあった。これは聖公会のを適当に撮ってきただけだが、仏教(宗派は分からず、、)とキリスト教(カトリック、おそらく日本基督教団、そして聖公会の3つ)があった。やはりこういうところで暮らしていると宗教は心の支えになるんだろうね。しかし、様々な職業の人たちがいたからすべて入所者の手でやってきたと言っても、宗教者まで入所者とは思えず。でも隔離政策の中、坊さんや牧師さん神父さんたちはどうやってここの施設にいたんだろうか。まぁこれも次に行ったときに誰かに聞いてみよう。

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園内は本当に緑が多いんだけど、これは緑化委員会の人たちが植えたり、あとは1本5千円で個人個人が苗木を買って植えたものらしい。その木のところには名札が付いてたりした。この他、写真は撮ってこなかったんだけど、さくら公園と呼ばれる桜がたくさん植わってるところや、梅園などもあった。あと今回は行かなかったんだけど、恩寵公園というところもきれいらしい。そういう意味ではとても自然が残っているというか、この自然は意図して作られたものだから残ってるわけじゃないけど、ちょっと自然を感じたくなったらここに来るといいなあって感じ。森みたいなところもあった。

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そして、最初にも書いたけど、ここに来た人は死んだ後も故郷には帰れない人がたくさんいました。だからこうやって納骨堂も自分たちで作らざるを得なかった。右側の画像の「尊厳回復の碑」というのは、強制的に堕ろされた子供たちを偲んでだそうです。入所者は結婚できても強制的に断種手術をさせられて子どもを作らせないようにされていた。世界にハンセン病患者を隔離していた施設は多々あれど、断種手術まで行われていたのはただ日本だけだそうです。ちなみに堕ろされた子供は長い間ホルマリン漬けになってたらしい。碑の前におもちゃが置いてあるのは、子ども(にもなれなかった)霊を慰めるためでしょう。納骨堂とか、そういうものはあまり撮りたくなかったので撮ってこなかったんだけど(だってやはりとても神聖な場所だと思ったので)、この話を聞いて「これは撮るべきだ」と思って撮りました。もう二度とこういう目に遭う人を(親も子も)出してはならない。

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これが「いのちとこころの人権の森宣言」の碑。ボランティアの人が「どうぞ全文読んでください」と言っていた。東村山市内の小学生には見学に来た際に、この文を声を出して読ませたりするそうだ。ここにはもちろんまだ実際に住んでいる人がいる。200人くらいいるって言ってたかな。だから傍若無人に見学していいというわけではない。あくまでも住んでいる人の迷惑にならないようにして見学しなければならない。そしてこの地で何が行われていたか、それを勉強する地でもある。そして二度とこのようなことを起こしてはならない。それを十分肝に銘じるところでもある。東村山市には是非頑張ってここを保存して、そして一人でも多くの人が訪れるようにして欲しい。

こんな感じで時間としては約1時間ちょっとだったかな。説明を聞きながら回ったんだけど、あっという間だった。一つ一つもう少し丁寧に見たいと思ったんだけど、ボランティアの人は「自分がゆっくり回りすぎて、資料館見学してもらおうと思ったのにほとんど時間がなくなってしまった」って言ってたんで、これでもかなり時間を掛けて回ったんでしょうね。確かに散策が終わってから、資料館に戻ったんだけど見学時間はあと20分くらいしかなかった。ので、ほとんど資料館は見られず。でもいいんだ、また来るから。

終わりにまた映像ホールに戻って、そして市の人の挨拶聞いてアンケート書いて終了。

ここでは定期的に「お話し会」とか「清掃ボランティア」とか「お祭り」などという行事が行われているらしい。だから、そういうのをきっかけに行ってみるのもいいかも知れない。
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09-12 Sat , 2015
彼は秘密の女ともだち
昨日、観てきた。

この映画を知ったのは、6月だったか「パレードへようこそ」って映画を観に行ったときにその映画館にこの映画のチラシがあって。題名を観たときにすぐに「これはトランスっぽい感じだな」と思ったの。でも、その後、その映画館でこの映画の予告を観たときに「あ、なんだ。つまらなそ」と思って観に行くの止めたのね。それがまたなんで観ようと思ったかというと、友だちが「よかったよー、この映画。フランス映画だからか単純な話ではなかった」みたいなことを言ってきて。だから「んじゃちょっと観に行こうかな」と思って観に行ったのだった。

観た感想。面白かった。結末が「ああ、これが一番いい結末だよね」って思えるものだった。

どういう映画かというと、一口で言えば、MtFレズビアンと結婚後にレズビアンって気が付いた人のお話なんだけど、まぁ正直、今のわたしは誰か人を一口で「この人はこうだ」ってカテゴライズしてしまうことがとても危険だと思ってるので、ここにはわざとカテゴライズして書いたけど、本当はどういう解釈をしようがどーだっていいと思ってる。例えば結婚後にレズビアンだって気が付いたって書いたけど、もしかしたらバイセクシャルかも知れない可能性もあるし。パンセクシャルかも知れない。どちらかというとバイよりパンかもって気もする。きゃー、カテゴライズはしないって言ってるのに!(笑)

主人公は女性で、7歳のときに出会った親友とずっとずっと親しく過ごしてきた。その過程が映画始まってから5分くらいですんなり描かれる。が、最初の場面はその親友のお葬式の場面なのだ。主人公(クレールという名前)は親友(ローラという名前)の弔辞を読みながら、二人が出会って共に過ごしてきた日々を思い出す。大人になり二人とも何人かの男性と付き合って、それからそれぞれの男性と結婚する。ローラの方が先に結婚するのだが、複雑そうな顔を見せるクレール。クレールが結婚したときはローラは既にお腹が大きかった。そして子どもが生まれたときはローラは既に車いすに乗るようになってて、それからしばらくして亡くなる。

この二人が過ごしてきた場面でわたし「あれっ」って思ったのね。親友だとしても、お互いに手の平を傷つけて血を出してそしてその手と手を握り合って「永遠の誓い」なんかするかなあ、とか、木に大きなハートマークの中に自分たちの名前を彫ったりするかなあとか。確かに女同士には「シスターフッド」って概念があって、ものすごく親しい関係が想定されているけれど、その「友情」と「恋愛感情」の間って何が一体違うんだろう?って。これはわたしがレズビアンだからそう思うのかも知れない。わたしが「この人は友情止まり」って思う人と「この人とは付き合いたい」って考えるその「差」って、もしかしたら肉体的な欲求だけなのかな、とか。まぁこれは異性愛者も同じではあるんだけどね。異性はみんながみんな恋愛の対象ではないでしょう。「この人は友情止まり」って人だってもちろんいるよね。ただ、それが同性であると、付き合い方は異性より親密になるんだよね。友だちと一緒に旅行するというんだって、異性の友だちと一緒に旅行するというとなんとなくハードル高く感じるけど、同性の友だちとはすんなり行けちゃうもんね。そして同じ部屋に泊まるし、一緒に風呂入ったりして、同性の友だちは異性の友だちより「近い関係」になれちゃう。だからこそ、わたしは自分自身「親友と恋人の違いって、自分ではどこで区別を付けているんだろう?」と思うわけです。まぁこの映画は結局、そこら辺がすべて「鍵」だったわけなんだけど。

死んだローラはダヴィッドという男性と結婚したのだけど、このダヴィッド、結婚前から女装してたという。ローラはそれを知っていて「自分の前なら女装してもいい。けど、外ではしないで」と言っていたと。そのことを主人公のクレールはローラの死後、ダヴィッドの家を訪れたときに知るんだけど、最初はすごくびっくりしてそのことを拒絶する。

わたしは既に何人か女装して過ごしてる人を知ってるし、女装できないけど自分は女だと思うって言う人と何人か話したりしたことがあるので、正直、女装に対しては見てもなんとも思わない。ただ逆に世間から向けられる目の怖さを知ってるので「すごいなあ」とは思ってるけど。こういう感覚を持っているので、映画を観て「あ、フランスでも女装に対しては世間の風当たりは強いんだ」とちょっとびっくりした。だってフランスってPacs(市民連帯契約法)が一番にできて、同性同士の法的な保障がされるようになったかなり初期の国であり、同性愛にはかなり寛容な国のイメージがあったからだ。

このことはこの後の話にも出てきて、話が突然飛躍するんだけど、クレールのダンナ、ジルにクレールとダヴィッドが「女友達」として一晩泊まりに行ったことがばれたときに、クレールが考えたのは「ダヴィッドが女装している」という本当の話ではなく「ダヴィッドはゲイだと気が付いて自分に相談するために一晩一緒に泊まった」というウソの言い訳だったのね。それはジル自体も「同性愛は許せるけど、女装は許せないだろう」と考えてのことだった。ジル自体も映画の中で「周囲はみんなゲイだらけ」という発言をしてて、ゲイに対しては何も思ってないようだ。まぁ最初に取ったクレールの態度やジルの女装の受け入れなさ=フランスの現実かというと、それはわたしにはよく分からないけど、でも、少なくともそういう現実が少しはあるからこそ、こういう映画が作られるんだろうしね。

最初はダヴィッドの女装を受け入れられないクレールだったが、ひょんなことから女装したダヴィッドのことを「ヴィルジニア」と名づけて、その当たりから徐々に受け入れ始め、一緒にショッピングを楽しんだりして、かなり大胆な行動を取るようになる。ダヴィッドは自分がするのは「女装」ではなく、自分は「女なんだ」ということが分かってくる。ただし、性的指向は変わらずに「女性」なので、まぁカテゴライズはしたくないんだけど、MtFレズビアンってことになる。これねー、なんかどっかで「なんで女性になりたい人なのに女性が好きなままなの?」って感想のコメントを読んだんだけど、日本ではさー、異性愛者の性同一性障害の人しか出て来ないので「同性愛だとおかしいから、自分が異性になる」って理解してる人もいるんだよね。だけど性的指向(何の性が好きか)と性自認(自分の性別は何か)は別物なので、自分の性別を変えたい人であっても、好きになる対象は変わりません。実際、男→女に変わりたい人の中で、女性が好きな人の割合は約半数です。逆に女→男に変わりたい人の中で、男性が好きな人の割合は約10%くらいしかいなく、この差がなぜ生まれるかはまだ良く分かってない。けど、女性になりたい人で女性が好きな人は現実的にもかなりたくさんいます。この映画、そのまま受け取ればその事実を知らなくても「この人はそうなんだ」で済むんだけど、異性愛規範が強い人が観ると「え、なんで?」ってことになっちゃうんだよね~。映画を観る上でこのような予備知識は特に必要はないとは思うけど、観るなら自分の「固定観念」を外してみないとよく分からない映画になっちゃう恐れはある。

で、ヴィルジニアと「女同士」として楽しんでいるうちに、クレールにも変化が訪れる。ローラとの日々を思い出すのだ。そしてあることがきっかけでクレールは「ローラとはただの親友という気持ちではなかった自分」に徐々に気が付いていく。この辺の描写はかなりうまいと思った。この辺の気付かせ具合が複数のシーンに渡って出てくるの。これはねー、わたしのような割と歳を取って自分が同性愛者だと気が付いた人にとっては、自分の体験と重ね合わせてちょっと懐かしくなったりするかも(笑)クレールは自分が同性愛者(か、または女性も好きになることができるか、それ以外かは断定はできないけど)であることに気が付き始める一方、ヴィルジニアのことも好きになっていく。そのことに気が付かされるのは、ジルにダヴィッドがゲイであるって気が付いたみたいだから、自分は相談に乗っていると言った後、3人で一緒にテニスをした後にシャワーを浴びるシーン。ここでクレールは男性のシャワー室に忍び込み、ジルとダヴィッドが一緒にシャワーを浴びているところを覗き込む。ここの「妄想」ね。ここもうまいと思ったなあ~。結局この後、クレールは女装を辞めていたダヴィッドに「ヴィルジニアが恋しいの!」と告白してしまう。

あ、これはあらすじ通りに語ってません。わたしが語りたいと思った場面から語ってます(笑)なので、映画を観てない人にとっては「なんのこっちゃ?」って思うかも。

わたしが一番印象に残って、好きなシーンは、この「ヴィルジニアが恋しい」とダヴィッドに告白した後、ダヴィッドはヴィルジニアとなり、その名前の元となったヴィルジニアホテルにクレールを呼んだシーンです。彼女らは自分たちが愛し合っていると知り、部屋に行ってセックスをする。けど、身体をまさぐっている間にヴィルジニアの身体には男性器が付いている、ということに気が付いたクレールは思わず「あなたは男だ!」と言って部屋を出て行ってしまうのね。その言葉にヴィルジニアはベッドの上で涙をこぼす。

このシーンは本当にせつなかった。ヴィルジニアにとっては、別に身体に男性器が付いていようが自分は女なんだよね。シリコンの胸であっても自分は女なんだよね。でも、相手にとってはそうではない。そこの「ギャップ」なんだよね。

わたしはこの日記、過去にもよく書いてるけど「自分は女が好きだけども、では一体女とはどの範囲のことなんだろう」ってよく考えるのね。例えば染色体、性ホルモン、内性器、外性器がすべて「女性形」の完璧な女性しか女性として愛せないんだろうか、と考えると、特にそうと思えない。特に染色体とか性ホルモンとか内性器とか、外から見て分かんないものはそれの「あるなし」は判断しようがないし、あるから好きになって、なかったら好きにならないなんて保障はどこにもないと思う。のようなことを考えると「では胸がなかったら」とか「男性器が付いていたら」ということまで押し広げて考えることができる。まぁここは想像の世界でしかないけど、ここの部分は個人個人で異なってて「別に男性器が付いていても本人が女だって言ってるし、自分にもそのようにしか思えないからセックスできる」って人だって確実にいる。「やっぱり男性器が付いてたら女性とは思えないからセックスできない」って思う人もいるだろう。「胸はなくても男性器がなかったら大丈夫」って人もいると思うし、それは人それぞれだ。で、自分はどうなの?って思ったとき、まぁよく分かんないよね(笑)そうなってみなければ。ただ、基本、わたしは外見が「ボーイッシュ」な女性が好きなので、そういう外見をしたMtFを探すのはまず困難、ってことにはなる。ただ、MtFの人であれば、わたしは「どこから見ても女性にしか見えない人」はあんまり好きじゃなく(これはわたしが女性っぽい女性が苦手だと言うことがあるからだろう)本人はそう思ってないと思うけど周囲から気が付かれたりする「中途半端な女装」の人の方が好きなんだよね~ってこれ、すごい本人にとっては失礼な言い草であろうというのは百も承知です。

女装にもいろいろあって、本人がどのような「女の人」になりたいかはそれぞれだよね。みんながみんな「完璧に女を目指している」わけでもない。無精髭生えたままで女装したい人だっているはずだし、「それが女としての自分」って思ってる人だっているはず。そういう人がいる中で、わたしの好みは「無精髭生えたままで女装してる人」だったりするわけです。好きなのに理由はないけど、わたしはその中にとてもその人なりの「女性」を感じるんだよね~。わたしが評価するなんてすごくおこがましいんだけど「ああ、この人はこの姿で十分女性だ」と思う。

この映画に出てくるダヴィッドも実はあまりきれいな女装、って感じじゃない。けどそれが本当に魅力的。そういうのを見ると、今度は「性的な対象」ではなく「じゃあ、女性って何?」と思う。

ただし、ただしですけど、女性というのは「外見」だけじゃない。生まれてから「女性ジェンダー」で育てられたか、「男性ジェンダー」で育てられたか、というものすごい大きな違いがある。簡単に言えば「女としてしつけられたか」と「男としてしつけられたか」。MtFは「男としてしつけられた人」が大半だと思うので、物事への気が付き方などがやっぱり「男性だなあ」って思うことが多々ある。「男としてしつけられてきた人」は基本とても鈍感です。逆にFtMは「自分は男性だ」と思ってても、すごく周囲に気を使ったり、すぐに気が付いてくれることが多い。これは今までの育てられ方だから、本人のせいではないのだけど、外見さえ女らしくすれば女としてちやほやされるMtFとか見てると「女性のいいとこ取りだよな~」ってつい思っちゃうこともある。あ、でも生来よく気がつくんだろうというMtFの人ももちろんいるし、そういうのを自覚して振る舞ってるMtFの人も当然いるのは確かです。ただ数は少ない。まぁだから、わたしなんか生物学的な男女差はあるけど、社会的な男女差って本当に「作られてる」ものなんだなと思ってるんだけどね。で、そんなことをいうと「ジェンダーフリー」とか言って叩かれる。いや、だから、生物学的な男女差はあるんですってば。力の差などは歴然としてるし、体格差もあるし、そこのところは男女同等とは思ってない。けど、「女性はよく気がつく」とか「細かい」とか言うのは、持っている性質と言うよりはほぼ生まれてからの「しつけの成果」だと思う。もちろん男性だってよく気が付く男性や細かい男性がいる。だから、本質的にはそこは男女の差というよりも「気が付く人間と気が付かない人間の差」というだけで。そして「気が付かない人間もしつけをすることによってある程度は気が付くようになる」んだとわたしは思う。だから「よく気が付く人」は決して「女性らしい」ことではない。

とはいいつつ、わたしはやっぱり「女性ジェンダーとして育てられた人」としか付き合えないと思う。それは「男は泣くもんじゃない、感情を顔に表すな、耐えろ、強くあれ、物事に動じるな」と育てられた人は物事に対して鈍感になってて周囲に気が配れず、自分の大まかな感情は分かるけど細かい感情が認識できないってことを意味すると思っているから、それが抜け落ちている人はわたしは好きになることはないだろうなーということです。自分がそう育てられたことがないからどうしてそういう風に考えるのか理解できないってことがあるけど、わたしにとっての「同性愛」の「同性」は、こういう部分が一致してなければならないってことなんだろうなーって思ったりする。でも異性愛女性も「自分の好きな男性の範囲はどこまでなんだろう?」って考えることが可能だし、考えてみると案外面白いかも知れないですよね。まず、染色体、性ホルモン、外性器、内性器(って男性にはないよね?あ、前立腺があるか)が全部揃った「男性」しか男性として好きにならないかって考えて、ああ、案外外性器はあんまり関係ないかもって思えるかも知れないし、胸があってもいいかもと思えるかも知れない。女装する人であっても、性自認は男性の人もいるから、パートナーが女装してても許せるなって思う人もいるかも知れないし、いや、わたしは絶対に嫌って人もいるかも知れない。絶対に「男らしい」人でなきゃやだって人もいるだろうし、マッチョな人はあんまり好きじゃない人もいるでしょう。そんな感じで「性の概念」ってどんどん広がるもんだし、境界は本当に微妙なもんだし、個人的なもんだし、あいまいなものなんだっていうことです。

あ、映画と全然違った話になっちゃったね。ただ、このヴィルジニアのふるまいや気が付き方などがどこまで「女性か」は分かんないです、映画では。まぁそこまで細かくは描けないでしょう。この映画は「肉体」を介して性の概念の曖昧さを描いた作品だと思うし、それはとてもうまくいってると思う。

話は元に戻るけど「身体に男性器が付いている」という理由で「あなたは女性じゃない」と言われて涙したヴィルジニアの気持ちを考えると本当に胸が痛い。まぁ「女になりたいって思う人がなんで男性器を付けたままで平気なの?」って疑問を持つ人もいるだろうけど、これも個人差です。日本では今の法律で男性器が付いたまま女性の戸籍に変更はできないので、強制的に取られてるのが現状だけど、これはとても乱暴な法律で、外国では性別適合手術を受けなくても望む性に変更できたりするところもある。だからアメリカでは元女性の父親から子どもが生まれたりすることもあるんだよね。こう書くと「ええー、性の秩序が乱れている」と思う人もいるかも知れないけど、でも、子どもが欲しいのと自分が男性でありたい、というのはどちらを断念しなければならないものなんだろうか?「それが秩序だ」って考えたとして、ではその「秩序」を守ったからといって、得するのは誰でしょう。誰もいないよね。残るのは「秩序を守らせた」という人たちの自己満足と、子供を産めなくなった元女性の男性の悲しみだけです。しかもこのような人は本当にごく一部の人たち。その他多数の人は「性別を変えたい」とも「性別を変えた上で子どもを産みたい」とも思ってない。思ったこともない。それができるようになったからといって「そうしたい」と思うはずがない。だったら「秩序」の枠組みだって破壊されるわけではない。まぁだから、破壊されるはずのないちっぽけな「性秩序」を守るための今の日本の「性同一性障害特例法」はとても乱暴な法律なんだってことが言いたいわけだけど。

ではヴィルジニアには男性器が付いていた、だから男だ、だからクレールは男性器が付いているヴィルジニアは愛せないか、というところで事件が起こります。ここで交通事故を使うのは、とても安易だから、この部分はもうちょっと違ったものにならなかったのかなーって気はするけども。ただこの事故の直前のメールのやりとりでヴィルジニアがクレールに対して送った「わたしは女よ!」というメールも一つの「鍵」だと思います。この「鍵」を踏まえてクレールがここを乗り越えるためには、デヴィッド(ヴィルジニア)を意識不明にさせておく必要があるんだよね~。意識不明から戻すために、クレールは一つの行動に出ます。このシーンは亡くなったローズにデヴィッドがやった行為と対になる行為なのね。ローズにやった行為によってデヴィッドは再び女装しようと決意する。そしてそのデヴィッドにクレールがやった行為が、デヴィッドをヴィルジニアにする(=クレールがヴィルジニアを女性として受け入れた)という行為。登場人物の一つ一つの行為にすべて意味がある。こういう理屈っぽさはフランス映画っぽいって言えるのかな。ただ見てる分にはあまり理屈っぽさは感じられないけど。あとで振り返ったときに気が付くって感じ。

そしてヴィルジニアは意識を取り戻し、そして退院したヴィルジニアとクレールはジルの元に行く。「話があるの」と。そして7年後。

まぁ結末までネタバレさせたら面白くないのでここは伏せるけど、わたしとしてはとっても爽快な結末だったです。正直、現実的にかなりありそうな結末だなーと思った。ただ、この結末に対しては「意味がわからん?」って人もいるようです。まぁ上にも書いたように「異性愛規範」が強い人は「??」だらけの話だし、納得いかない結末なのかも知れないですね。

そうそう、あと一つ。わたしが気に入ったシーン。
上にクレールとヴィルジニアが一緒に泊まりに行く、というシーンがあったって言ったけど、そこで彼女たちは夜、女装の人がショーやってる性的少数者が集まる場所(なんて言うんだろう、クラブとも違うし)に行って女装の人が「わたしは女」とかいう歌を歌ってるのを聞いたり踊ったりしてるんだけど、そこで踊ってる最中に一人、わたしの好みのちょっと少年っぽいレズビアンの子がクレールに近づいて来てモーションかけるのね。でもクレールはその子には目もくれず、ヴィルジニアの方しか目に入ってないし、そのうちヴィルジニアと一緒に踊り出しちゃうの。だから、そのモーション掛けて来た女の子がすごい名残惜しそうにクレールのことを見てるんだけど、もー、そのシーンの女の子、すんごくかわいかった!!!思わずかわいくて笑っちゃった(笑ってる人他にいなかったけど)。こういう細かいシーンなど、本当にこの映画、よくできてます(ただわたしの好みの子が出てきただけか(^^;)。

だけどこの映画、もう封切られてかなり経つけど、セクマイ界でもほとんど話題になってないように思えるのはなぜなんだろう?「パレードへようこそ」はあんなに話題になったのに。これは「新しい家族の形」の話です。ストーリーに無理がなく(交通事故のところを除いては)登場人物の行動も突飛ではなく、心理描写もとても緻密に描けてると思う。本当にお勧め映画です。東京では18日までシネスイッチ銀座というところでやってますが、19日からはアップリンクでやるようです。関西近辺も18日まで梅田でやってたかな。それ以外の地方はこれからみたいなので、是非。
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08-29 Sat , 2015
ワイパックス再び
昨日の日記に「これからは旅行記を書く」って書いたものの、なんだかあれだけ読むと「こいつは死ぬ間際のために旅行をしとるのか」という印象を持たれるだろうな~と思うので、少し言い訳。

わたしは今別に旅行のためだけにのほほんと生きてるわけじゃなく、一応、少し在宅で仕事してる。本格的な仕事が来始めたのは4月以降だけど、まぁ、正直言ってそんなに稼げてない。前の仕事の出来によって次に繋がるということだけど、全然来ないこともないし、殺到することもない。向こうから打診がなければ仕事に繋がらないので、たくさんやりたくてもできない。まだまだ月に1万稼げればいい方なので、本音を言えば「なんじゃこりゃ」なんだけど、まぁ全然お金にならないよりはいいか。ただ、ずっとこのままでいいとは全く思ってないので、これからも何か考えなきゃ、といったところ。ちなみに行政書士は今でも目指してるけど、勉強の方は全然。

頑張れない一番の理由は、去年の夏の夏バテを今でも引きずってることで、夏バテが1年続くってそう滅多にないことなのではと思ってるんだけど、夏バテって1年続くんだね~。これにはびっくり。今年も去年と同じく、8月下旬になったらガクッと寒くなってきてしまったが、幸いというか、夏バテの上に夏バテになることはなく。去年感じただるさとか熱っぽさとか異様に汗かくとかそんなことは起こってない。あ、でも異様な汗かきと滅多に不順にならない生理不順にはなった。だけどこれはもしかしたら別の原因があるかも。婦人科行くの嫌だから行ってないけど。ただ1年前からずーっと続く息苦しさや背中の痛さは相変わらず。これが取れないと、わたしは通常の生活が送れない。机の前にそんなに坐っていることもできないし、集中力が続かない。だから、これをなんとかしたいと思って今までも散々努力してきた(日記にも書いてある)。でもどうにもならない。。

「旅行中はどうなの?」って話なんだけど、旅行中も息苦しいです。背中も痛いし。よくこれを耐えながら旅行行ったり日常生活送ってるもんだと自分でも感心する。もう息苦しくない、背中痛くない普通の状態ってよく分からない。

で、6月の終わりだったか、精神科に行ったときに「もう考えられるのはこれしかない」といって、飲んでたリーマスをなくしてもらった。リーマス、飲まなくなったことで背中の痛みや息苦しさが改善されたかというと、ほとんどそういうことはなかった。まぁ、リーマス自体の副作用にはそんなものはないわけだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。。

そして今週、再び精神科の受診日だったのだが、取り敢えず事情を話してワイパックスを再び出してもらうことにした。「1日2回では効かなかったので、それ以上出してくれ」と言ったのだが、ワイパックスはこれ単体で割と強い薬なので、1日2回までしか出せない、その代わりこれが効かなかったら次回は別の薬を出す、と言われた。「前と条件が違いますからね」と言われたのは、前にワイパックスを飲んだときは、リーマスと同時に飲んだでしょってことなのか。だとすれば確かにそれはそうなのだけど。次回は3週間後。「ワイパックスは30日間限度だから、30日分出しますか」と医者に聞かれたけど、別にオーバードーズする気もないので、21日分でいいですと答えた。どういうつもりで主治医が30日分出すと言ったのかはよく分からない。

今のところ、飲み始めて数日なんだけど、ちょうど仕事で頑張らなきゃいけないときと重なって、そのせいか、めっちゃ気持ちが悪くなってね。背中が痛すぎて気持ち悪くて仕事、どうなるかと思った。取り敢えず仕事を出した後は努めて何もしない生活を2日、送ったところ、気持ち悪いのはやっと今日、治まったかな。ただ、眠たくて眠たくて昨日も今日も昼間はずっと寝てた。でもこれでかなり楽になった。息苦しさは変わってないけど。

あと、7月の終わりだったかに「ストレッチポール」という棒みたいなのを買って、その上に寝ころぶようになった。これは背中の痛みを改善させるため。これですべてがすべて、よくなったとは言わないけど、それまで背中全体が痛かったのがこれをやったおかげかなにかで、背中の下半分の痛みはなくなった。で、長いこと上半分痛かったんだけど、それも昨日、今日とずっと寝たら、左側は痛くなくなって、右だけになった。要するに、今背中の痛みで残っているのは、右の上側。範囲はだんだん縮まっている、と考えられるのではないか。

それにわたしは加えて座骨神経痛によって右側の腰が痛かったり、左側のお尻の骨が座ったときに痛かったり、左足がしびれたりしてるんだけど、ストレッチポールを横にして腰を載せて、お腹の筋肉を伸ばしたら、右の腰が痛いのだけは治った。座骨神経痛までは治ってないけどね。そっちの方はそんなんでは治らないと思うし、治ったとしてももっと時間が掛かるはず。なんせ座骨神経痛自体は10年以上持ってるんだから。そっちの方は地道に整体に通ってる。だからといってよくなる兆候はほとんどないけどね~。

というわけで、結局なんだかんだ言いながら、息苦しいのと背中の痛みはまだ治ってなくて、いろいろやってるとこ。

取り敢えず3週間は、ワイパックス0.5mg×1日2回(朝、晩)。その他の薬は飲んでません。
22:17 | 病名が分かった後のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
08-28 Fri , 2015
ま~旅行記でも書きましょうかね
なんせ最近、書くことがあまりない。
書くことがあまりないというのは「書きたいことがない」というわけではなく、書きたいことはあるのだが、書き始めるとめんどくさいほど長くなるかも知れなく、かつ、結論なんかない、ということだからだ。書いたとしても「現実って言うのは複雑なんだよね」という結論にしかならない。だからなんか書いたって仕方がないんじゃないかな~って思ったりする。

全然関係ないけど「断片的なものの社会学」(朝日出版社)という本がある。まだ新刊の部類に入ると思う。

著者は社会学者でわたしとほぼ同年代(向こうが1つ年上)なのだが、読んでみてとても面白かった。自分が今まで生きてきて考えていたこととリンクすることが多いし、同じように結論が出ていないというのが共感できる、というか、「ああ、この人もここまで考えてて、でも、やっぱり答えは出てないんだな」と思うとなんかとても親近感が湧く。

結局長く生きるということは、現実に起きていることはそんなに単純明快でスパッと答えが出るものよりも、なんかどう、考えていいのかさっぱり分からないことがたくさんあるってことを知るって言うことなのかなと最近よく思う。そこには明解に「善」と「悪」の線を引くことはできないし、何が正義で何が正義じゃないか、正義の絶対値なんかない。ただ生きてて「絶対」なのは、人間はいつか絶対「死ぬ」ことだけ。これだけがこの人生において「確実」なものなのだ。

だとすれば、その確実な「死」に向かってどう生きていけばいいのか。

わたしは自分がどういう死に方をするかまだ全く分からないにせよ、ある程度準備はしておきたいと思う。最近わたしが結構あちこち旅行しているのはそのせいだ。わたしは一つでも自分の心に残る風景を自分の頭の中に残しておきたいと思う。そして死ぬ前にその風景を思い浮かべながら死んでいきたいと思う。もちろん、そういう「死に方」ができるかどうかは今の時点では分からない。今まで生きてきた記憶なんか全部失って死ぬってこともあるだろうし、病気や事故で瞬間的に死んでしまって今までの人生を振り返る余裕なんかないかも知れない。でも、それだったらそれで別に構わない。今の時点で自分の最後が分かる人なんていないんだから。

「あの世に金は持っていけない」とはよく言われる言葉だ。でもさあ、持って行けないのは金だけじゃないんだよね。生きてるときに身に付けた知識だって経験だって資格だってすべて持って行くことはできないわけで。それらは「いかに自分が生きているときに生きやすい道具であるか」ってことだけで。「あ~、人生ってそういうもんなんだなあ」って最近よく思う。しかしそれは現実なんだから、それが寂しいとか虚しいとか、そこにそういう感情をくっつけることはないんじゃない?って思う。「物事はそういう風にできている」わけなんだから。まぁそこに寂しさとか虚しさとか、そういうことを感じると「文学」や「芸術」ってものに発展していくのかもね。

だから、わたしは自分の最後は自分が今まで見てきた美しい風景を思い浮かべながら死ねたらいいなと思っている。なので、今のうちに身体が動くうちに行こうという気力があるうちに、行きたいところにはどんどん行っておくのだ。最近、旅行ばかりしてますね、体調が良くなったんですねって言われるけど、まぁ、本人の意識としてはあくまでも旅行するのは死を意識してのことだし「後ろ向きに前に進んでます」という感覚だ。まぁそんなわけで。

夏の東北旅行、記録として残しておきたいと思う。

この旅行中に感じたことのキーワードは「平和」と「日常」だった。
15:36 | 一人旅 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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