02-22 Sun , 2015
こうやって自分を励ましていたんだ
昨日、なんかふとした拍子に昔アニメファンだったときに集めたアニメのオープニングやエンディングを入れたカセットを聞いてみた。カセットは主に中2のときから中3にかけて録音したもの。その当時はビデオなんか持ってなかったし、これがわたしのできる精一杯だった。カセットも貴重だったので、同じカセットで何度も録音して。。テレビとラジカセをラインで繋いで録音してた(さすがにラインを繋ぐ知識は持ってた)。

このようにして録ったカセットは2本あるんだけど、以後、繰り返し繰り返し聞いた。今聞き直してみると、やはり劣化しててモゴモゴという音になってしまってて悲しかった。。

で、昨日聞いてて(と言うか一緒に歌いつつ)、中学校、高校の時に嫌なこととか不安なことがあったときに自分を勇気づけるために歌ってたよなあって思い出した。それがこの2曲。



ヘイヘイヘイ 誰がなんて言ったって
すべてうまく ゆくさ明日
だから笑って 笑って groovy
You make me groovy ともに騒ごうぜ





誰でも最初は 怖いと思うわ
そうよそれでも みんな旅立つ
大きな 夢が胸にあれば
ほら 夜明けがまぶしく染まるわ
それが冒険 力の限り
あなたの翼が 遠く輝く



上が「銀河烈風バクシンガー」のエンディング曲で、下が「トンデラハウスの大冒険」のエンディング曲。わたしは大抵そうなんだけど、オープニングの勇ましい曲よりもエンディングのしみじみした曲の方が好きだ。オープニング曲は勢いはあっていいんだけど、歌ってると「これは、戦うことを正当化してないだろうか」っていつも思う。。

歌詞はこの歌の中の一部ね。これを見てもらえば分かると思うけど、わたしはなんか物事がうまくいかないとき、友人との関係で悩んでるとき、なにか緊張することがあることの前とか、この曲を風呂場でシャワー浴びながら歌ってた。これを歌うことによって、自分で自分を「大丈夫、大丈夫、なんとかなる」って励ましてた。

そういうことをふと、思い出してね。。なんかその当時の自分の姿を思い浮かべて泣いちゃった。ああ、こうやって自分自身励まして頑張ってたんだなって思って。

今でも物事、うまくいかないことが多々あるけど、歌を歌うことはもうないなあ。。もう自分自身を励まし疲れたってのがあるかも知れない。

おまけ。



今を悩んで 明日を夢見て
流されていく あなた町にひとりぼっち わたし何もせずに見ているだけ
何かがあると信じているが あなた自身が選んだことよ
明日がもし明日が ないと知ったら
あなたは そうよあなたは どうするかしら
今がそのときかも Get up now time now time for me
明日を夢見るなら Get up now time now time for me
やがて来る 幸せが 明日こそ 繋がるの
すべてすべてすべてすべて今
Now time for me now time for me



これは「メガゾーン23」ってアニメの中の挿入歌で「Tomorrow Blues」って曲。歌詞については、わたしが覚えてる限りだから、もしかしたら間違ってるところがあるかも知れないです。「メガゾーン23」ってテレビ放映も映画上映も何もなく、ビデオでのみ発売って、当時にしては(わたしが高2だったっけ?1985年です)かなり高飛車な戦術だったと思うけど。。もちろんわたしはこんな高価なビデオは買えず、友だちから借りて見ました。

もう中身についてはほとんど忘れてしまったんだけど、一つ、強烈に覚えてるところがあってね。それがこの挿入歌の部分なんです。登場人物についても細かいことは覚えてないんで、もしかしたら間違ってると思うけど、このアニメの主人公の一人である「時祭イヴ」っていう人は、人間じゃなく、確か今でいうと「初音ミク」みたいな感じ?作られた虚偽の人物だったと思う。彼女はアイドルなんだけど、次第に時の支配者によって「戦うことを賞賛する」歌を歌わされる。これがその歌です。新宿のALTAの大画面に、軍服を着せられた時祭イヴが出てきてこの歌を歌う。そういうシーンがこの作品にあります(だからといって「メガゾーン23」自体は反戦アニメということはなく、普通に戦うアニメだった。ただ、最終的に主人公側が負けるという結構珍しいアニメではある)。

見てたあの当時はただ漠然と「怖いな」って思うだけだった。

けど、今、それがもっと身近な怖さになってる。あれは作り話じゃなく、現実に起こりうることなんだと。

この曲は「軍隊に入りましょう」と勧めている曲だ。

「明日がもし明日が ないと知ったら あなたは そうよあなたは どうするかしら 今がそのときかも」というのは、「敵が攻めてきて明日がないと知ったら、あなたはどうするの?今がそのときなのよ、軍隊に入って戦いましょう」と言っているのだ。怖い、あまりにも怖い。今、自衛隊の縛りがどんどんなくなっていってる。集団的自衛権の行使で同盟国に何かがあれば、政府は「今がそのときです!」って言うに決まってる。「明日を夢見るなら、今、立ちあがって戦わないと!それが将来の幸せに繋がるんです!」って言うに決まってる。でも権力者や金持ちは自ら戦場には行ったりはしない。行かされるのは、権力も何もない、一般庶民。

怖い。あまりにも怖い。

そして、このような世界になったのは「あなた自身が選んだこと」なのだ。
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02-21 Sat , 2015
息苦しさを自分で治そうと思う~どうやら自分では無理
先週だったか、病院に行って尿の検体を出して来た。24時間、家で畜尿するのは結構大変でした(笑)
まぁでも、これはほとんど異常は出ないだろうなという気がする。。
3月頭に検査結果聞きに行きます。

それとは別に、もう、息苦しくて生活に支障が出て来始めたので(息苦しくて集中力が続かない)、自律神経専門、っていう整体に行ってきた。てか、わたし、一昨年の12月から去年の3月にかけて(前回の冬のシーズン)、背中がバリバリに凝って痛くてしんどくてたまらなかったときに、1週間おきに整体と整骨院に通ったんだよね。で、背中が治って以降は、整骨院は具体的に痛いところがあったら行くことにして、整体はここ1年、最近は1ヶ月に1回、ずっと通ってたんだよね~。その整体は基本90分4500円なところなんだけど、やってくれる人が結構真剣にやってくれて、気が付いたら2時間やってくれてる、なんてこともあるんだよね。最近は特に凝りがひどいから長時間やってくれるんだけど、それでも「時間内に調整が終わらないほど凝っている」って言われてて、もうちょっと頻度を上げるように言われてるんだけど。。まぁ諸事情で1ヶ月に1度にしてもらってます。ただ、そこには「息苦しい」とは言ってないの。言った方がいいんだろうが、なんかどうせやってくれる時間が長引く方向にしかならないと分かってるので、もうこれ以上はあれこれ言わない方がいいような気がするんだよね。通う頻度を上げられるわけじゃないので。

といいつつ、それより高額な自律神経専門の整体に行くのはどうなのよって話もあるけど(^^;

ここは彼女が探してきてくれた。わたしがもう息苦しくて、またうつ病ぶり返しそうになってたので。わたしはもう探す気力もなかった。

だいたい、息苦しいって、結構調べたらいろいろ「こうしてみましょう」みたいなのが出てくるんだけど、それ、できないから。わたしの息苦しさは息が吸えないんじゃなくて、吐けないのね。例えば肺にはもともと10、空気が入るように出来てるとするじゃない。普通は息が7か8、吐けて吸えるから、息苦しさは感じない。けど、5しか吐けないところに7か8、息を吸おうとすると、肺の中が10超えても吸い足りない感じがすると思うのよ。でも、肺は10しか中に空気が入れられないから、いつもいっぱいなのね。

で、中には「まず、息を吐きましょう」って書いてあるのがあるの。でもね、わたしはまずこれができない。息を吐いてるつもりなんだけど、どうしても吐ききれない。「やれ」と言われてもできないの。そんでなぜ「吐けない」のか、原因が分からない。自分ではどうしようもない。「肩甲骨はがし」とか、肩周りを動かす運動もやった。けど、ほとんど何の効果もなかった。おそらく、こういう状態になってしまったら、自分ではどうしようもないってことなんだろう。

で、彼女の探してくれたところは、なんといっても高い。1万円まではいかないが、その8.5割取られる。正直、あんまり頻繁には通いたくないところ。。だいたい、4500円だってわたしにはかなりきつい値段なんだよね。まぁそうはいっても、今の状態だと早晩またうつ病ぶり返すと思うし、こんな状態で生きてても時間の無駄というか、休んでても治るわけじゃないし。ってわけで、割としぶしぶ行ってきたんだけど。

わたしは息苦しさと背中と肩の凝りの他にも座骨神経痛によるしびれとか腰痛とかいろいろ持ってて(だから、整体はそれも調整してくれてるわけで、それ以上にごちゃごちゃ言いたくなかった)、それを全部見てくれるのかしらと思ってたら、割と息苦しさに特化したところしか見てもらえませんでした。てか、施術時間が30分程度だったから。「はやっ!」って思ったよ(笑)ただし、ベキボキまでは全然行かないけど、結構あちこち揉まれたり引っ張られたりして、でもわたしはそれが結構気持ちがよかった(笑)

てか、息を吸おう吸おうとずっとしてたので、肩や胸が上に上がっちゃってるから下げようとしてる感じだった。「下げようとしてるんだけど、なかなか下がらない」って言われたし、「この状態だったらもっと別の症状がいっぱい出てきてもおかしくないのに」って言われた。で「きっとそれは今は無意識のところにあると思う」って、なんかそれを意識下に置いた方がいいみたいなニュアンスで言われたので、まぁ否定はしなかったものの、無意識と意識は全く別のものなのにな、と思ってました(笑)てか、もし他のところの身体の不調を意識下に置けるようになったとして、でもそれは、自分が息苦しいことの他にまた身体の不調を感じないといけないということなので、できるならそんなことはやりたくないよね。今だって十分生きづらいんだから。

というか、無意識を意識できることなんて有り得ないと思う。無意識は無意識だから無意識なんであって、それが意識になったら、無意識じゃない。これはUFO(未確認飛行物体)が確認されたらUFOじゃなくなるのと同じ。UFOって宇宙人が乗った乗り物みたいに思われてるけど、UFOっていうのは、あくまでも「未確認飛行物体」なわけで、宇宙人が乗った乗り物はUFOとはもはや呼べないわけで。まぁただ、心ってのは不思議なもので、目を背けたいと思ってるものに対して「感じないように」してるってものもあるけどね。そういうのは初めから「無意識」とは言わないんじゃないかなあ。まぁ「心」というか「頭」だけど。おそらく頭は「何かある」って認識してるけど、そこに目を向けると自分がとんでもなくつらい目に遭うからそこから目を逸らしてるんだと思う。で、時には根本的に物事を解決するために苦しくてもそこに目を向けることが必要だってことなんだろうけど。

ただ、わたしについては、もうそういうつらいことはしたくないです(笑)目を背けて身体の不調が出てくるかも知れないけど、そうなったら対処療法で切り抜けるよ。その根本を治したいとは思わん。治すことに時間をかけるのは、もう時間の無駄のように思えてきたから。この歳になると。ただ、うつ状態になると生きてること自体がつらくなるので、ここまでにならないようにしないといけないけど。

で、治療は上にも書いたとおり30分くらいで終わったんだけど、身体にはかなり効いた、てか、結構ダメージ強かった。ダメージって表現していいのかどうかは分からないけど。帰るときにはいつもはほとんど感じることはない「ちょっと軽くなったかな?」ってことを感じた。あと、肩こりと背中が凝ってめちゃくちゃ痛かったんだけど、肩こりだけ治まった感じ。ただ、これも不思議なことで、今まで肩こり1、背中の凝り1で、1+1=2、だった痛みが、背中の凝りだけの1になったから、痛みが半分に感じられるようになったかというと、そうじゃないんだよね~。背中の凝り1だけでも十分つらいので、あんまりよくなったという感じない。「副交感神経優位に調整しておいたので、この後はできるなら用事は入れないで」と言われて「そういう風に調整できるのかよ?」って思ったんだけど、家に帰ったら眠くなって寝てしまった。まぁ、わたしは外出したあとは大抵眠くなるんだけど、その眠い状態がちょっと違ってて、なんというのかな、普段はもっと暴力的な眠気なのに、あのときは穏やかな状態だったというか。だもんで、普段は眠いときはぐっすり寝ちゃうんだけど、あのときは割とウトウトしただけって感じだった。

まぁ、高いお金払ったんだから、それなりに効果が出てくれないと困るわけなんですけどもね。

で、そうそう、肝心の息苦しさなんだけど、自分の感覚では去年の12月の下旬くらい、息苦しいは息苦しいんだけど息を吸おうと思ったら吸える状態、くらいになったかなあ。随時酸欠状態(本当は酸欠状態ではないのだけど)に比べたら、少しはマシになったというところか。まぁ、高いお金払ったんだから(以下略)。

しかし、西洋医学というのと東洋医学ってのは、使い分けないといけないのね~って今回ほど感じたことはない(まだ治ってないけど!)。もちろん、身体の不調=自律神経失調症、ではなく、いろいろ検査した上で、別の可能性を否定した上での自律神経失調症なのだが(てか、自律神経失調症って病名自体が「いろいろ検査した上で身体的には全然異常がない状態で、西洋医学的にはどこに異常がないか分からん、けど症状は確かにありますね」って病名だから)、結果が出るまで時間が掛かるし、それに西洋医学では異常がなければ対応しようがないわけで。まぁ精神科なんかは身体的な異常があるから薬を処方してるわけではないので、精神科は例外だけど、逆に言うと医者のさじ加減で薬が処方されてるわけだから、怖いよね(だからといって薬を飲むなと言ってるわけじゃなく、適切な薬を飲めば確かに楽になったりする。けど、適切な薬を処方できるかどうかはその医者の実力にかかっている、ということ)。

まぁ漢方なんか東洋医学に入るだろうけど、わたしはきちんとした漢方医に診てもらったことはないのでよく分かんないです。風邪の時に葛根湯もらったりするけど。果たして漢方医にちゃんと診てもらって適切な漢方薬が処方されたら、今回のこのような息苦しさに対して薬が効いたかどうかは分かりません。それは不明だし、今、わたしが「東洋医学」って言ってるのは、あくまでも「整体」のことで、でも日本の資格における「整体師」は病名を診断したりできないわけなので(診断すること自体、医師法違反になるし、そもそも検査するわけじゃないから診断もできんだろう)、そこは取り敢えずめんどくさくても西洋医学の検査で病気の可能性を否定してから通うべきなんだろうねー。まぁでも自律神経専門ってうたってる整体はある程度、やっぱりそれに特化して効果あるのかなー?って印象かな。ただ、何回くらい通ったら息苦しさが治るのかは分かんないけど。しかも、あと1ヶ月くらいしたら暖かくなるので、それによって「自然完治」の効果もあると思う。むしろ暖かくなってきたらそちらの方が効果が大きいと思うけどね。

あー、もう少し前から、12月くらいから通ったらよかったかなーと少し後悔。取り敢えずそこには来週も行きます。
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02-14 Sat , 2015
渋谷区「同性パートナーシップ証明」について思うこと
2月12日は朝から騒がしかったですね(笑)

というのも、渋谷区が3月議会で「男女平等および多様性を尊重する社会を推進する条例」についての案を出すそうで、この条例案の中に区が「同性パートナーシップ証明」を同性カップルに出して、区内で同性カップルを「婚姻に相当する関係」として扱うように「お願いする」というものが入ってるからだそうだ。

以下、共同通信の記事。わたしが確認したところによると、関東地方では東京と毎日の朝刊に載っていたそう。

--------------- ここから ---------------
 東京都渋谷区は、同性カップルを「結婚に相当する関係」と認め、証明書を発行する条例案を三月区議会に提出することを決めた。区によると、自治体が同性同士をパートナーとして証明する制度は全国で例がない。性的少数者(LGBT)の権利を保障する動きは世界的に広がっており、家族制度をめぐる論議が高まりそうだ。

 可決されれば四月一日施行、証明書は二〇一五年度内の開始を目指す。

 同性カップルがアパート入居や病院での面会を、家族ではないとして断られるケースが問題になっていることを踏まえ、区は区民や事業者に、証明書を持つ同性カップルを夫婦と同等に扱うよう協力を求める方針だ。

 条例案は、男女平等や多様性の尊重をうたった上で「パートナーシップ証明」を定めた条項を明記。区内に住む二十歳以上の同性カップルが対象で、必要が生じれば双方が互いの後見人となる契約を交わしていることなどを条件とする。カップルを解消した場合は取り消す仕組みもつくる。

 条例の趣旨に反する行為があった場合は事業者名を公表する規定も盛り込むという。

 憲法は婚姻関係を「両性の合意」のみに基づいて成立すると規定。区議会では条例案が従来の家族制度を揺るがしかねないとする議員の反対も予想されるが、区は、法律上の効力はなく「全くの別制度と考えている」としている。

 渋谷区は昨年、有識者らによる検討委員会を立ち上げ、LGBTの区民からも聞き取りをして条例の内容を検討してきた。桑原敏武区長は「互いの違いを受け入れ、尊重する多様性社会を目指すという観点から、LGBTの問題にも取り組みたい」と述べた。

 海外の同性パートナーシップ制度に詳しい京都産業大大学院の渡辺泰彦教授(民法)は「公的機関が同性パートナーの存在を認め、直面する問題に対処しようとする点に大きな意味がある。ドイツやスイスではまず地方自治体がパートナーシップ制度をつくり国家レベルに広がった。国内でも同様の動きが出てくるのではないか」としている。

◆渋谷区条例案ポイント
▼男女および性的少数者の人権の尊重。
▼同性パートナーシップ証明書の発行。
▼条例の趣旨に反する事業者名を公表。
▼男女平等・多様性社会推進会議の設置。
▼条例は4月1日施行、パートナーシップ証明は別途定める。
--------------- ここまで ---------------

まぁこういう案が出来、報道されることだけでも「大きな一歩」には違いないと思う。

ただ心配なのは、これ、決して条例が可決されたわけじゃないんですよね。まだ案の段階。3月の議会で通らなければ、何も変わらないどころか、「こういうのはまだ日本では早い」とみなされてるってことが証明されてしまうってこと。むしろ今後の同様の動きも抑えられてしまうのでは、という危惧の方が強く感じられてしまって怖い。で、こういうのが出ると、必ず「バックラッシュ」も起こる。これが世の常。それをどうかき消していくかが問題。これについては完全に同性愛者の権利問題なのだけれど、今までの世の中を変えていくためにはなぜか「多数者」に「認めてもらわないと」いけない。まぁ多数決の論理からするとそうなんだけど、でもなぜ少数者の権利、当然認められなければならない権利を多数者に「認めてもらわないと」いけないのかなぁって常々思ってるんだけどね。

だってさ。わたしももうじき彼女と一緒に暮らして丸10年を迎えるんだけど、やっぱり彼女が突然意識不明になって病院に運ばれたとき、わたしは病院から「家族」として扱われるのか?「面会謝絶」になったときに彼女に会えるのか?万が一、亡くなるときには、わたしはそばにいてあげられるのか?万が一、亡くなってしまったときに、わたしはお葬式にどういう形で出られるのか?単なる「親しかった友人」として?「家族」としてじゃないの?彼女の家族から「アンタは家族じゃない」って言われたら?わたしは彼女のお葬式にすら出られないの?っていう不安はいつも絶えず抱えてるから(厳密に言うとこれは「法的な地位」は保障されないので、家族関係には反映されません。だから、病院では家族として扱われたとしても、お葬式の時に家族に拒絶されるとそれは拒めません)。
※ただし、今のところの家族状況を見ると、彼女の親族からわたしに対して「アンタ葬式くんな」と言われるよりも、わたしの親族が彼女に対して「ろんたこの葬式には来るな」って言われる方が可能性高そうで怖いんだけど(^^;

確かにこれまでの10年間、わたしも彼女もお互い入院したことがあるけれど、そのときは病院側に関係をきちんとカミングアウトして「家族」として扱ってもらえた。それはもしかしたらとても運がよかったのかも知れない。双方意識をなくしたことはないので、そういう場合は認められるのかも知れない。だけど前に「家族」として扱われたからといって、将来も「家族」として扱われる保障はどこにもない。

本当にとてもとても不安定な身分なのだ。これが男女の場合だったら、たとえ婚姻届を出していないにしても「事実婚」として扱われ、当然の如く「家族」として扱われるだろう。わたしたちは普段、男女カップルと大して変わらない生活をしているはずなのに、こういう危機的な状況、人生がガラリと変わるかも知れない状況の時にはこんなにも差が出るものなのだ。

こういう不安を常に抱えているにもかかわらず、わたしたちの「権利」って他人から決めてもらわないといけないものなの?って思っちゃうよね。男女カップルなら当然として認められている「権利」なのに。

まあ、そうは言っても「世の中そういう風に出来ている」わけだから、なんでと思いながら「多数者」に自分たちの権利を「認めてもらわないと」いけないわけだけどもね。というわけで、3月の議会がいつから始まって、いつこの件について審議されるかはよく分かんないのだけど、それまでは自分の出来ることはするつもり。

だってさ。こういった「証明」がされることで、少し、不安な状況がなくなるんだよ。ほんの少しだけだけどもね。「病院で看取れる権利」はホント、最低限。今までその「最低限」すら認められてなかったわけだから、常に不安を感じざるを得なかったわけだけど(と言っても今回のこれは「法的に認められた権利」になるわけじゃなく、あくまでも区が事業者に対して「お願い」してるだけに過ぎない)。でもそれがなくなると想像するだけで、自分の上にのしかかっていた石が少し軽くなるように感じたんだよね。今まで自分の上に石がのしかかっていたとは認識してなかったんだけどさ。軽くなった分だけ前の重さが分かるというの?まぁ、でも本当に軽くなったわけじゃなく、条例案通らなければ軽くはならないわけだけど(っていうか、それ以前にわたしはそこに住んでないから条例案通っても何も変わらないんだけども(笑))。

アパート入居については、女同士というのは割と不動産屋さんからも問題は問われないわけで、これによって大家さんから入居を拒否された、というのはあまり聞かない。わたしも彼女とは今まで2回、一緒に部屋探ししてるけど、別に「女同士」を理由に貸してもらえないってことはなかった。問題は男同士なんだよね。これはしばしば耳にする。男2人だと部屋が汚く使われるという理由などで貸してもらえないそうだ。しかしこの理由は口実で、ホモフォビア(同性愛嫌悪)も多分にあるんだろうな~と思ったりする。

わたしなんかは彼女と「一緒に住みたい」と思って、そのまますんなり一緒に暮らしてるわけだけど、それが困難だというのは想像が付かなくてね。なんにしろ「当たり前」のように思ってるから。だからもしかすると病院でも家族と認められるのは、男女カップルとしては「当たり前」のように感じられるものなんだろうか。それが「当然じゃない」のは、想像が付かないことなんだろうか。でも「一緒にいて欲しいときに一緒にいられない」のは、病院にせよ、同居にせよ、同じことだ。わたしらにはいざという時「一緒にいる権利」が保障されていないのだ。

あと、このことが報道されてから、いろいろな否定的な意見が出てるのは知ってる。渋谷区はホームレス排除してるじゃないかとか。いや、だから、そのことについては全く別の話で、たとえ渋谷区がこの条例案通したとしても、それによってホームレス排除が「免罪」されるわけじゃないよね。条例通過したとしても「渋谷区さん、有難う!!わたしはこれであなたのやってることには何も文句は言いません!」ってことじゃないよね。別にこの条例案に賛成したとしても、渋谷区に魂まで売ってるわけじゃないのだ。ホームレス排除の問題は、深刻な問題だし、これはこれでこの先も追及していかねばならないだろう。そんなの当然のことだ。

それから「婚姻制度が強化される」っての。確かにこれは分かる(笑)でもさ、だからといって、わたしは2人の間に何の法的な権利がない状態が好ましいとは思えない(何度も言うが今回のこれは法的な権利ではないのだけれど。これは法的な権利への第一歩に過ぎないことはよく分かってる)。「婚姻制度解体」を言ってる人もいるけど、じゃあ、具体的に「婚姻制度解体」に向けて何か行動してるんだろうかっていつも思う。その行動が全然見えてこない。日本で「婚姻制度に与したくない」という理由で結婚しない男女カップルがいる。が、そういう人たちでも男女であれば「事実婚」になってしまうのだ。事実婚は法律婚から遺産相続以外の権利はほぼ認められている。それはとりもなおさず「婚姻制度の恩恵を受けている」ということになる。だけど同性カップルは一緒に住んでいるだけでは事実婚扱いにはならない。それは同性カップルには「婚姻制度」がないからだ。本当にこの日本から「婚姻制度」を廃止させたいのであれば、婚姻制度廃止をもっと世の中に訴えなければならないのに、そういう訴えはほとんど聞くことはない。身内でごちゃごちゃ言ってるのが聞こえるだけだ。
【後日追記】男女の「事実婚」についてだけど、確かに「遺産相続」と「税金」以外は法的な保障が受けられるのだが、それ以外、例えば成年後見人の申し立てはできなかったり、あと、なんと病院での「看取り」は法的な保障ではないので逆に「家族」として扱ってもらえない場合も多いらしいです。「事実婚」の場合、逆に法的な保障以外のところで保障されないって初めて知った。
(参考)http://konkatsu-nomiss.info/indignity/

また「婚姻よりも個人としての保障が手厚い方がいい」っていう声も知ってる。けど、具体的に「個人の手厚い保障」ってなんなんだろ?って思う。だって、病院に家族として認められるとか、住居にカップルとして入ることが出来るというのは、一人一人の保障を手厚くすることによっても保障されない権利だ。一人の生活は確かに不安な面もたくさんあって、でもそれは二人の生活から生じる不安とはまた全然別のものなのだ。

ただ、そういうものを「婚姻制度」によって保障するかしないか、というのはまた別問題なんだけどね。この世界には「婚姻」とは別の概念「パートナーシップ」ってのがあって、そこで保障されればいいじゃんか、という話もある。

まぁこれを話すと話が長くなってしまうのだけど(笑)、例えばフランス、フランスは同性婚が認められる前に「Pacs法」というものが出来た。「市民連帯契約」というものだ。これは特に同性の関係だけでなく、男女だったり、友人でも可、というもので、これによって同性の関係が認められたんだから、別に同性婚はいいじゃないか、ってことも言われてた。これ、オーストラリアでも同じ。オーストラリアでは先に「パートナーシップ法」が出来た。でも、この2つの国は結局のちに、同性婚制度を導入した。

なぜかというと、それは「婚姻の平等」をこの国の人たちは求めたからだ。異性愛者の婚姻と同性愛者の婚姻の間に全く差はない、要するに異性愛カップルと同性愛カップルは同等なのだ、というものを求めたからだ(同性愛カップルは婚姻に「準ずる」という関係ではない、ということ)。それはとりもなおさず同性愛者の地位の向上を意味する。同性愛者は「二級市民」ではない、ということを示すためだ。

果たしてこの日本で、どこまで求めるか、という問題はこの先にはあるだろう。けど、今はまだそういう話では全くないのだ。だって何度も言うけど、この条例案は別に同性カップルの法的な保障とは関わりがないから。だけどとにかくこの一歩が踏み出せなければ、この先の話もクソもない。

それから「カップル志向になって、独り者が生きにくくなるのでは」という声がある。まぁ確かにそれは有り得るので、その点は注意しなければならないとは思うが、だからといって、一人でいたい人たちのために、二人で生きていく上で感じる不安を持ち続けなければならないのかというと、それはちょっと勘弁してよと言いたい。というか、同性同士の関係を認めることと「一人でも生きていっていい」という概念が広まるのは両立しないか?と思う。

あ、少子化に繋がるとかそういうのは、アホらしくて反論する気にもならないので(笑)同性婚を導入した国の出生率を見てもらえば分かるけど、導入後、少子化になってないから。結果はその逆だから。同性婚を導入した国はちょこっとだけど出生率も上がっている(下がっている傾向はない)。それに同性婚が認められたら少子化って、どんだけ同性愛者の数が多いと思ってるんじゃって感じだよね(笑)別に同性愛者がこの世の中を動かしてるわけじゃないから(爆)あと、アメリカで「同性婚論議」が発生した一つの理由は、レズビアンたちが産んだ自分の子どもに対して、何の保障もないので、それをどうにかして欲しい、というところから始まってるわけで、レズビアンマザーが増えたからこそ同性婚の議論が始まったのだ。だから同性愛者は子どもを持てないわけじゃないんだよね(ただ、これも「結婚したら子どもを持たなければならない圧力」に繋がる恐れがあるので、そこんとこは気をつけないといけないのだけれど)。

あとはそうだなー。だからといって、わたしは「この条例案はすばらしい!」ってキラキラしてるわけじゃないです。これは本当に「第一歩」に過ぎなくて、そしてこれが戦いの始まりなんだと思う。だから、自分でもやれることをやらねば。案は一人歩きして勝手に条例になるわけじゃない。それを支持することを表明して、その案が本当に必要であることを世間に表明しなければ。誰かが勝手にやってくれるわけじゃない。権利って言うのは上から自然に降ってくるものじゃないんです、お情けみたいに。

行動に起こす、というのはしんどいことだと思う。でもそれを誰かに任せてていいんだろうか。自分が行動を起こさないで誰かに期待して、それがもしダメだったとしたらそれも他人のせいにしてしまうのか?まぁそういう思いがあって、わたしはその第一歩として自分のブログで意見を表明しているのだけれどね。
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02-08 Sun , 2015
息苦しさを自分で治そうと思う~原因はなに?
なんか前の日記からほぼ1ヶ月経ってるのね(^^;

んーと、息苦しさはほとんど変わってなくて、てか、一時期ちょっといいかなって思う時期もあったんだけど、それからするとまた悪くなってって言えるのかな。なんかしょっちゅう深呼吸してるからか、胸(胸というか、あばら骨というか)の筋肉が痛いし、肩は凝るし、そして脳では貧酸素を認識してるから、なんかいつも「空気足りない、空気足りない」って軽いパニックが起きてるような気がする。まぁパニックと言っても、いてもたってもいられないというんじゃなく、でも頭のどこかで「どうする、どうする?」って常に思ってる感じ?正直あんまり落ち着かないし、集中して何かやれる状態でもない。なので、今は勉強がほとんどできてない。最低限の朝鮮語だけ。

で、息苦しくて体調悪いと身体動かす気にもなれなくなって、結局のところ、ラジオ体操もジョギングも全部止めちゃった。夜に風呂に浸かるのと夜寝る前に足の裏を揉んでもらうってのは続けてるけど。

んでもって、1月の終わりだったかな。「女性専門外来」がある病院に行ってきた。まぁ年齢的に更年期になっててもおかしくないし、精神科の医者にも「もしかしたら更年期かも」って言われたので、そこに原因があって、薬の処方で今の息苦しさが治まるんだったらもう万々歳と。だいたい息苦しいと何も活動する気力がなくて本当に困ってるんで(動くと「今でも息苦しいのに、動いたらさらに息苦しくなるのではー!」という脳の回路が出来上がってて、ちょっとしたパニックになる。んで、それに反抗して動くのってとても気力がいって難しい)、別に更年期だったら更年期でも何でもいいんで、とにかく息苦しいのさえ治まってくれれば、という気持ち。

予約したのが今年の初めで、でもその時点でもう直近の予約は1月下旬からしかないと言われ、そこまで我慢。で、行ってきてそこの医者と話してきて、結局は検査しないと何とも言えないので(当たり前だけど)、と血液検査。あ、初診の時にいろいろなデータは持ってった。去年1年で2回、健康診断のために尿検査とか血液検査をしてたので、そのデータ。8月下旬に近所の病院に「だるい、しんどい」って行ったときに「もしかしたら甲状腺の病気かも」と言われ、そこで検査した甲状腺の血液検査の結果(そこでは異常なかった)。あとはわたし、自分自身でもそろそろ更年期だねと思って、一昨年の終わりから数ヶ月間、基礎体温を測ってたんだけど、そのデータ(iPadに入れてある)と、今回、女性専門外来に行くにあたり、やっぱそのデータは必要だよねと思って予約を取ってからは毎朝また測るようになったので、半月くらいの基礎体温のデータ。

基礎体温が必要ってのはねー、以前、2007年の11月に生理が1ヶ月に3回くらい来て、今までこんなことはなかったもんだから、驚いて婦人科に行ったんだけど、そこで「血液中のホルモンの量は個人差があって、それだけではどうこう言えない。3ヶ月くらい基礎体温を測って、その上でしか判断できない」って言われて、そこで「そうなんだー」って思ったからなんだよね。結局、生理が異常だったのはその月だけだったので、そのあと婦人科に行くことはなかったんだけど。ただ、そう言われてそのときに婦人体温計は買ってたので持ってたってわけ。あのときは測ったら紙のグラフにいちいち点打ってかなりめんどうだと思ったけど、今は体温データを管理するアプリがあるんで、朝起きて体温測ったらそこに入力するだけ。すごい簡単になった(もちろん2007年の時点でもPCでエクセル使えばできないことはなかったけどさ)。

おお、あとはお薬手帳。先方にももともと精神科に通っているということを告げないとね。

ってわけで、これらのデータを渡して、このときはどうだったとか、そういうことを話しつつ。いくつかは「コピー取らせてください」と言われ、コピーされた。で、基礎体温のグラフを見せたら一瞥して「多分更年期ではない」と言われた。半月くらいのデータでも分かるんだなーって思った。てか、更年期に入ると低温期と高温期がぐじゃぐじゃになってくるらしい。てか、本当に絶対値は関係ないのね。わたし、なんか朝一番の体温が37.4度くらいのときがあり、自分でも「これは、、熱出てんじゃないの?」って思うほどだったんだが。。まぁでもわたし、高温期の時はフツーに37.2度くらいはあるので、まぁそう大して上がっているわけでもないけど。。でもなんだか自分でも高温すぎて怖いときがある。

で、初診の時は30分くらい話をしたかなあ。結局血液検査。そして空腹時で血液検査してみないと分かんないのもあるから、と言われ、数日後にご飯食べないで病院行って、血液取られることになった。この数日後に行ったのがちょうど東京は雪の日でさー。散々だった。

そしてこないだ結果聞きに行ってきた。

結果は、いくつかの項目に基準値以上以下の数値はあるけど、大して異常と言うほどではない(基準値の3倍程度だったら「はっきりとした異常」なんだけど、1.5倍程度でそこまで異常じゃない)。血液中のホルモン量を見ても、まだ全然「閉経パターン」になってない、甲状腺もなんかちょっと橋本病の疑いがあると言われたけど、これも2007年12月に血液検査したときに同じこと言われて、しかもそのときは精密検査したんだけど、結局そうじゃないって言われたんだよね~。

あー、やっぱり。。。

わたしさー、原因不明の、でも確実に自分を生きにくくしている症状がありすぎる。腕の痛みにしたって、口の中の気持ち悪さにしたって。原因が分からなければ治しようがないので、結局痛さとか気持ち悪さをずっと感じながら生きていかなきゃならない。それに加えて息苦しさ?もーたくさんだ。。

まぁでも「まだ息苦しさが続いている」と言ったら、てか、「まだ息苦しいのがひどい」って言ったら「そうなんですか?」って言われて、てめぇ、息苦しいのが続いてるから必死になって病院行ってるんで、これが治れば病院なんか行かねーよ!って思ったんだが、1.5倍の異常の数値のあるところに関連する精密検査を1つやってみましょうってことになった。

これが24時間畜尿、ってものらしいんだそうだが、24時間中にやった尿を全部溜めて、その平均値な尿に対して何らかの検査をするらしい。何の病気か教えてもらったんだけど、すっかり頭から抜けてしまった。

これを次回の診察日までに結果が分かるようにしておかなければならない。結果が出るのは尿を病院に持って行って1週間後だそうなので、少なくとも次回の診察日の1週間前までには尿を提出。そのためにはその前に24時間尿を溜めないといけないので、まぁ逆算してどの日にどうしなきゃいけないのかをはっきり予定立てないとね。

で、一応、薬は出た。漢方。加味逍遥散ってヤツ。でもこれってなんか聞いたことあると思ったら、既に一昨年辺りに飲んでた薬だった。あのときはなんでこれを飲むようになったのかは分かんないけど、お薬手帳見たら、半年くらい飲んでて、それで止めてるんだよね。うーむ、果たしてこれは効くのか?(前、どんな症状で飲んだのか忘れたんだけど、大して効かなかったような)。

しかも、この薬飲むに当たっては、精神科の主治医の許可が必要だってんで、今度の精神科の診察まで薬は持ってるけど飲んでない(笑)てか、精神科かかってるとこういうのがすげーめんどくさい。なんでもかんでも「精神科に行って主治医に聞け」ってなるんだよ。去年の夏もそうだったけどさ。その前、ずっと前に腕が本当に痛くて、近所の内科に行ってどこかの大きい整形外科かなんかを紹介してもらおうと思ったら、紹介状書くどころか「精神科行け」って言われてそれでお終いだったもんね。そのときはわたし、精神科通ってなかったんだよ、うつ病治ってたから。近所の内科にはずっと前に風邪のとき行ったきりで、そのときは精神科通ってていろんな薬飲んでたからそれを申告したまでで。その数年前のデータが残ってて、それで「精神科行け」なんだからひどすぎる。「もう精神科通ってません。薬も一切飲んでません」って言ったけど無駄だった。なんでもうわたしにとっては精神科っていろんなところの足かせになってるとしか思えん。

まぁでも病院は病院なりの仁義があるのだろう。ましてや今通ってる病院はどちらとも大学病院だし。ってわけで、女性専門外来の先生には今回の検査結果と、あとそれに対する手紙を書いたので、精神科の主治医に渡すようにと言われた。

てなわけで、結局、原因が分からないから今のところは手の打ちようがない、ってとこなんだろうか。一応薬は出たけど。

あーもうわたしにとっては最悪の結果。一体どうすりゃいいのって感じ。精神的には気力が湧かないってことはないけど、体力的な部分で気力が湧かなくて困ってる。

もう、もう、どうしよう。。
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01-11 Sun , 2015
息苦しさを自分で治そうと思う~わけ分かんなくなってきた
あー、もう正月開けて10日以上過ぎたのね。

体調の方なんだけど、わけが分からなくなってきた。

まず、突然3日の夜から眠りにくくなった。それまで自分でもびっくりするほど寝つきがよかったのに、3日の夜は全く眠れなかった。でもその原因は全く分からず。眠れなくなるようなことも何も起こらなかったし、実際、頭の中であれこれ考えるものもなかった。けど、目が冴えて眠れなかった。

その日以来、ちょっと寝ることに対して臆病になってる。「もしかしたらまた眠れなくなるんじゃないか」って。あ、そうそう。3日の夜は風呂に浸からなかったんだった。でもそれが原因なんだろうか??思い当たることはそれくらいしかなかったので、翌日から出来る限り風呂に浸かるようにしてるが、前よりも寝つきは悪くなった(ただ、普通に戻ったとは言える)。

あと、再び手足にいっぱい汗をかくようになってしまった。とはいえこんな時期なので、汗をかくと余計に冷たくなる。寒いと思ってるのに汗かいて余計に手足が冷たくなるって一体どういうことよ?って思っている。

そして息苦しいのは、、相変わらず。ただ、前と違うのは勉強しているときに気が付くと苦しくなってないってことだ。意識せずに呼吸してるってことだ。この「意識せず」っていうこと、これがなかなかできなくなってたんだよね。いつもいつも息をして「あ、まだ息が吸えない」とか「あ、今は息が吸えてる」とか、そういうことをずっと思ってたの。でも普通は呼吸ってほとんど意識してないじゃない?それが息苦しくなってから意識するようになり、そして自分の意識から離れなくなってた。今は限られた時間の中でしか意識しないけど、この時間がもっと増えればいいのにって思っている。

それからなぜか異常な肩こり。肩の筋肉が痛くて痛くて。とはいうものの、実は去年はそれが肩だけではなく背中全体が痛くて、それがものすごく苦痛だったので、それに比べると今は肩だけなのでまだ楽といったら楽。なんだけど、朝のうちは調子がものすごく悪い。まるで油さしてない機械みたい。

それに加えて右腕が痛い。これは2007年、シドニーに語学留学したときに痛めたもので、それ以来、ずっと腕の痛みは続いている。まぁ2008年の年末年始、年明けてからしばらく感じてた「腕を切って欲しい」と思うほどの痛みではないけどね。寒くなると痛みが増して、暖かいときはほとんど違和感は感じないので、神経痛か筋肉痛だと思っているが、でもこの痛みはどう形容していいのかよく分からず。イメージとしては「腕の中に流れている血管の中にトゲトゲした物体が流れてて、それがわたしの腕を痛くしている」って感じなんだけど。。

まぁそんなこんななので、正直あんまり身体の調子はいいとは思えない。

一応、11月の終わり頃からやってるラジオ体操や30分走ることは続けている。特に30分間のスロージョギングは、最近スロージョギングとは言えないんじゃないかな?って感じになってきた。なんというか、、スロージョギングだと身体に負荷がかからないので、逆に物足りなくなってきたんだよね。。で、ちょっと息苦しくなるまで走って、息苦しくなったら少し速度を落として息を整えて、ってことをやってたら、逆にスロージョギングができなくなってしまった(笑)

当初、走る時間はきっちり30分って決めたので、15分行ったところで引き返して往復30分、にしてたんだけど、なんか同じところを行ったり来たりするのもつまらないなあ~って思って、そのうちロの字のルートにした。スロージョギングをしているときはそのルートを回るのに40分弱かかることもあった。けど、いつの間にかスピードがアップして今では早いときは25分になってる。今日も走ってきたけど、今日は28分だった。30分以上かかることがなくなってきた。

ということは、近々距離をもうちょっと伸ばして、いつも曲がるところよりもうちょっと先まで行ってから曲がるようにした方がいいのかな?って思っている。

走ることで、走ったあと身体の調子がよくなるかというと決してそんなことはないんだけど、少なくとも朝起きたときの「油がさしてない機械みたいで身体の関節がギシギシする」って状態からはよくなるんだよね。走り始めの時はギシギシしてるんだけど、すぐに身体が温まってスムーズになる。それがちょっと無理してでも天気がいいときは毎日走ってる理由かな。

身体の方は、何が原因なのかよく分からないし、どうも自分では対処のしようもないような気がしてきたので、近々病院に行くつもり。というか、実はもう予約は取ってあるんだけど(年明けすぐに電話した)、なかなか混んでるようで一番早いのは今月下旬だって言われてそうなっちゃった。まぁそこで原因が分かって対処ができればいいのだけど。。
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01-02 Fri , 2015
高尾にゃんがうちに来て4年
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4年前の今日、1月2日は高尾にゃんがうちに来た日だ。うちって言っても一昨年引っ越したんで、今住んでる家じゃないけど。だから正確に言えば高尾にゃんと出会って4年ってこと。

高尾にゃんと出会った日のことは昨日のことのように覚えてるから「えー、あれからもう4年も経っちゃったの?」って感じだ。4年前の1月3日の日記を読んでもらえば分かると思うけど、高尾にゃんとはペットショップで出会った。なんか前々から猫を飼いたいって言ってて、それで急に思い立って年が明けてすぐの2日にペットショップに行ったんだよねえ。最初から「アメショを飼う」って決めてたから、ネットで検索して。当時住んでるところから電車で1時間くらい行ったところだったかなあ。

アメショは2匹いて、わたしはどっちがいいのか分からなかったんで、彼女に決めてもらったんだった。高尾にゃんにするって決めてからの手続きが長くてねえ。なんかもう家に帰り着いたのが20時頃で。本来なら猫トイレとか猫砂とか餌とかそういうもの一切も同時にそこで買ってくるものなんだろうが、わたしらの場合は電車での移動だったから、高尾にゃんの他、そういう重くてかさばるものを持って帰れなかったんだよね、物理的に。だからそういうのは家の近くのペットショップで買います、って言って、高尾にゃんだけを先におうちに連れて帰ってきたんだった。

で、帰ってきて速攻で高尾にゃんだけ家に置いて、ペットショップへ。ペットショップはもうほとんど閉まりかけてて、急いであれこれ買ったのを思い出す。

家に帰って早速ご飯を作って。なんか恐る恐る作ったよなあ、最初のご飯。確かミルクとふやかしたドライだったかなあ?高尾にゃんはそれを食べて、そして部屋の中をものすごく興奮して走りまわったんだ。あれは狭いケージの中から出られたって嬉しさだったのかなあ?って今も思う。そしてあまりにも興奮して走りまわりすぎて、食べたご飯を吐いちゃったんだよね(笑)あんなことは後にも先にもあれ1回しかなかったけど。

寝るときも大変でさ。わたしは高尾にゃんは段ボールの中で寝かせたかった。わたしはそれまで動物って金魚と鳥以外飼ったことがなくて、動物は動物の場所で寝るんだと思ってた。だけど高尾にゃんはどうやっても段ボールから出て来ちゃって。わたしらが寝てるベッドに来たがって来たがって。何回も段ボールに戻したんだけど出てくる。そしてまだまだ小さかった高尾にゃんはベッドの上に登ることすら難しかったのに、必死で爪を立てて登ってきて、わたしと彼女の枕元で寝たんだよね、結局。高尾にゃんは一体どういう気持ちで2人の枕元を寝る場所だって決めたんだろうね。きっと高尾にゃんは賢いから「ここが自分の家。この人たちがママ」って分かったんだろうなあ~。

飼い始めてからしばらくはわたしは全く慣れなくて。初日に付けた「高尾」って名前でどうしても呼べなくて、猫、猫って呼んでた。初めて「愛しい」って思えたのは、それからしばらくしてワクチンを打ちに行ったあとにぐったりと元気がなくなった姿を見てからだと思う。あのとき「ああ、守ってやらなきゃ」って思ったんだよね、自然に。それからはどんどん高尾にゃんにはまっていって。ここにも書いたけど、今では高尾にゃんとの出会いはどうしても偶然とは思えなくて、何か見えないものの力が働いてるんじゃないかとしか考えられなくて。それくらい、高尾にゃんはわたしにとっては特別な存在になっている。

ずっとずっと健康でいてねって思うけど、実は高尾にゃんはとても繊細な猫で、わたしが精神的に落ち込むと高尾にゃんもなぜか餌を吐いちゃったりするんだよね。わたしの調子が悪いと必ず心配そうな顔をしてわたしのそばにいる。いや、そういえばノロウイルスに罹患して吐きまくってたときはそばにこなかった。病院に行ってひとまず落ち着いたときに初めて高尾にゃんはそばに来た。なんかね、そういうのって単なる偶然とは思えないんだよね。きっと自分が力になれるときとそうじゃないときが高尾にゃんには分かってるんじゃないかと思う。

「いやいや、猫がそんなこと分かるはずがない」って思うかも知れないけど、でも、いろんな場面で「高尾にゃんはわたしのことを思ってくれている」ってことがすごく多いの。ばこからはそういうのは感じないんだけどね。。だから、高尾にゃんはわたしにとっては本当に特別な猫。

さてさてこのブログ。結構「猫 血尿」で検索されて引っかかることが多いんだけど、今の高尾にゃんは去年の10月の誕生日の時とちょっとお湯の量が違ってます。っていうのは、60cc、飲まなくなっちゃったんだよね。お湯が多いと「多くてこんなの食べられません」って顔してご飯食べるのを拒否するようになって。で、一時は30ccに減らしたのかな。それでようやくまた食べるようになった。けど、1回30cc、1日計60ccはちょっと少なすぎる。と思って、高尾にゃんには内緒でこそっと5ccずつ増やして、40ccずつにした。まぁ水を飲ませる目的は尿の中に結晶を作らせないためだから、pHを測ってそれなりに低かったら別に元の60ccに増やさなくてもいいだろうと思った。

で、しばらく40ccにしたところで尿のpHを測ったら、なんかすごく低くて6.0くらいだったかな。ちょっとね、これじゃ逆にシュウ酸カルシウムの結晶が出来るんじゃないかって心配するくらいの値だったんだけど。でもこれだとストルバイト結晶はできないpHなので、餌に混ぜるお湯の量は40ccにした。今のところ40ccだと拒否しないで食べてくれる。

朝:アーテミス(ドライ)10g、ジウィーピーク(ウエット)25g、お湯40cc
夜:アーテミス(ドライ)10g、ジウィーピーク(ウエット)25g、お湯40cc

体重は3.6kgで変わらずだけど、なんかちょっとあるとすぐに体重が減っちゃうので、おやつ(最近は猫用ジャーキーとか、ばこが昔まずくて食べなくなった療法食の残りとか(^^;)は少し多めにやってる。

そんなわけで、高尾にゃん、5年目もよろしくね。5年目だけじゃなくずっとずっとよろしくね。

【画像】昨日の高尾にゃん。鏡餅ならぬ猫鏡餅(笑)
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12-31 Wed , 2014
一年が終わるって気がしない
何か今年もあと数時間で終わるようなんだけど、今年はクリスマスもそうだったがどうも季節感がない。まぁそういうときもあってもいいよね。

ただ振り返ってみれば、今年はものすごく早く時間が過ぎたような気がする。1ヶ月があっという間に過ぎ去ってしまうのだ。時間を短く感じるというのは、充実していると言えるんだろうか。あんまり充実しているとは思わないんだけどなー。別に今年「これをやった」ってこともないしな。

あ、でも。一番「やった」と思えるのは、4月から朝鮮語を学び始めたことだった。始める際は特に何も感じなくてなんか「ちょっとやりたいな」程度だったんだけど、実際やってみると「あ、苦手な語学だったんだ(^^;」って思い出した(笑)1課終わるごとにやる単語テストにかなり振り回された。。今は17課を終わったところなんだけど、覚えた単語カードは8冊あるんで、約888個(単語カード1冊111枚なので)の単語は覚えたことになるかなあ。もちろん、記憶力が持続するわけはなく、覚えたらすぐに記憶から消滅するけどね。

ただ、1回のテストにだいたい50個~100個くらい覚えなきゃいけないんだけど、英語に比べると格段に覚えやすくてこれには本当にびっくりしてる。だから覚え初めの時は「一週間でこんなに覚えられるかなあ?」って不安だったけど、今は「あ、このくらいだったら大丈夫」って思えるようになった。

あと、それに伴って朝鮮語と日本語のニュアンスの違いや、韓国の習慣、文化などにちょっと興味を持ち始めて、いろいろ本を探して読んだりしてるところ。いや、本当は韓国だけではなくいわゆる北朝鮮の習慣や文化についても知りたいんだけど、それは知るのは難しいみたい。まぁここのところはいろいろと考えるところではあります。

ちなみに韓国語講座は来年3月終了だけど、できたらまた4月から継続して今度はレベル2の授業を受けたいと思ってます。語学っていうか英語は本当に大嫌いだったんで、授業が楽しみとか思ったことなかったんだけど、なぜか韓国語講座は楽しみなんだよね。もっと勉強してもっと知りたいと思うし、朝鮮語の文章読んでみたいと思う。ただこれがいつ授業についてけなくなって「嫌い」に変わるか、いつもヒヤヒヤしてるんだけど。。

それから8月だったかに来年資格試験受けるって書いたけど、あれも細々ながらやってる。本当は細々じゃいけないんだけど、8月下旬に調子崩して9月は休んで、10月に再開させたけどすぐまた休んで12月再開、12月も下旬になって息切れして今、少し休んでるところだけど。。(って休んでる方が本当に多いの~(泣))でも、12月は割と順調に進んだので、これからは慣れて継続して勉強していければって思ってる。

資格試験は、行政書士試験です。まぁこの資格を取ったとしてもすぐにお金が入ってくるわけじゃないってのはよく知ってるんだけど、自分のやりたい分野がいくつかあって、将来的にはそういうところで食って行ければいいなとは思ってます。いや、食う以前に別にお金稼げなくてもいいからやってみたいことがある、ってところかな。

法律は前から少し勉強してたし、もともと勉強したい分野なので、通信制の大学を辞めるときにそう決めてました。まぁ、公表しちゃったんでね(笑)これからは頑張ります。ちなみに伊藤塾の在宅講座です(笑)独学で勉強している人も多いみたいなんだけど、やっぱり自分の病気のこととか考えると独学はちょっとハードル高いかなと思ったので、取り敢えずペース配分がしやすい講座を受けることにしました。と言えども、それについていけるかどうか、すごーい心配なんだけどね。去年だったか、1回失敗してるしね(汗)

あとは健康面かー。実は今年、2回健康診断受けてて、1回目に尿検査で引っかかり、後日精検ってことで腎臓のエコーを受けたんだけど、その際の尿検査にも引っかかり、しかしエコーでは異常が発見されなかったのよね。あと細胞検査?ってのもやったんだけど、特に異常は見つからず。で、2回目の健康診断を今月受けたんだけど、やっぱり尿検査引っかかってしまった。しかも潜血が+++。げ。ひどくなってる?学生の頃からちょくちょく尿検査には引っかかってたんだけど、どれも再検査を受けると異常なしだったんだよね。こんなに連続して異常があったのは初めてで。でも、2回目の健康診断を受けたときの医者なんて「まー3人に1人は尿検査、引っかかりますからね~」みたいな感じで、特にこの先どうこうしろとは言われなかったので、今のところ放置してます。いいんかな、これ。まぁこれは今後も健康診断引き続き受けようと思ってるけどね。

うつの方はね-。どうかな。まだちょっと健康面に不安はある。息苦しいし。それに最近ちょっと気分が不安定になりかけることがある。これは再発の兆候なんだろうか。と思うと嫌な気分がするんだけど、まぁおかしいなと思ったらこまめに休みたいと思ってるけど、上にも書いたけど、試験勉強が。。。ここのところは本当に難しいよね。休んでたら確実に良くなるけど、そうすると生活していけない。。普通に動こうとするだけですぐにへばるので、本人としてはかなりもどかしく感じている。でも焦っても良くなるわけではないのは、身をもって分かっているので。。

まぁあとは日々いろいろと考えることがあるけど、それは書きたくなったときに書くってことで。

来年、とか実感ないんで全然思ってないんだけど、来年もよろしくお願いしますで一応締めくくっておきます(笑)
22:58 | 自分のこと | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
12-30 Tue , 2014
行ってきた
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わたしの母校、三鷹高校が第93回全国高校サッカー選手権大会の東京B代表になったそうで、今日、その試合が駒沢陸上競技場で行われたので行ってきた。

この大会、三鷹高校が出るのは7年ぶり2回目。前回初出場のときも開幕戦で今日も開幕戦。前回は国立競技場だったのかな?それも観に行って来た。でも全然覚えてない(笑)シドニーから帰ってきてものすごく腕が痛くて、歯もおかしくて、その原因を突き止めるためにいろいろ病院に通っていた時期だ。まぁ結局7年後の今もなんで腕があんなに痛くなったのかはよく分かってないし、歯に至っては今でも病院通ってて、でも治る見込みが全くないんだけど。。まぁそんな状態の時に観に行ったなあってことくらいしか覚えてない(笑)

今回、この大会に出場するって知ったのは、同窓会から「寄付のお願い」のハガキが来たからだった。これが来なかったら今でも知らなかったと思う(笑)甲子園の予選は毎回初戦敗退でもチェックするけど、サッカーは基本的に興味がないからね~。それに卒業してもう28年経つのか。なんでサッカー部が急に強くなったのか、そんなんも全然知らん。わたしがいた頃の鷹高はスポーツはそんなに目立った部はなかった。野球も弱かったし。まぁ唯一躰道部は強かったみたいだけど、その躰道部は今はないんだよね?わたしが入学する随分前はバレーボールが強かったそうだけど、わたしの頃は全然強くなかった。なんで、サッカー部が全国レベルと言われても正直、未だにあんまりピンと来てないんであった(笑)

まー卒業後は母校とは何の関わりもないし、同窓会報は来るけど、情報源はそれだけだしね。

サッカーのこともあんまり詳しくないんだけど、今回当たった東福岡ってところは強豪チームなんだってね。

確かにグラウンド(って言わないのか、サッカーでは。スタジアムっていうの?)で見た選手達の体格は全然違ってて、うちの高校の生徒はみんな貧弱に見えたし、東福岡の選手はでかくてごつくてびっくりした。

そうそう、今回で「三鷹高校」って校名は消えるんだそうだ。まぁそれは知ってたけど。来年の3月で鷹高の生徒は全部卒業して、あとはみんな中等教育学校の生徒になるらしいので。卒業生からすると「三鷹高校」って名前がなくなるのは本当に寂しくて残念なんだけどね。というわけで「三鷹高校」としての最後の大会だったらしい。

駒沢陸上競技場に着いたのは、試合の始まる15分くらい前だったんだけど、もういっぱいの人で座る場所を見つけるのにとても苦労したし、彼女と行ったんだけど、彼女とは並んで座れませんでした。天気はすごく良くて、前半は全く寒くなかった。後半になったら曇ってきてしまったので、寒かったんだけどね。

試合については、サッカーについては全く詳しくないし、まぁこの試合だけ見てあれこれ言うのはかわいそうなんで言わない。前半はよくボールが奪えたと思ったんだけど、それが全く次に続かなくて結局点が取れず。後半は向こうが本気出してきたのか、始まってすぐに1点取られ、その後一旦追いついたかに見えたんだけどオフサイドで幻のゴール。それから2点目が入れられて、2-0で負けた。まぁでも相手のシュート数は結構あったんで、よく2点で抑えられたと思った。キーパーは結構よく取ってたよね。

ま、そんなとこ。

来年から中等教育学校になるけど、どうなんだろうね~。高校から入ってこない分、6年間同じ環境で出来るのはメリットなんだろうか。そこんとこはよく分からない。

あ、そうそう。試合前に多分吹奏楽部だと思うけど(吹奏楽部はわたしの直接の後輩に当たるんだけどな!(笑))校歌を演奏してて、久しぶりに校歌、3番まで歌った。超なつかしかった。ま、このときかな。唯一母校と「繋がってる」って感じられたのは。
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12-26 Fri , 2014
息苦しさを自分で治そうと思う~息苦しい!
前の日記からさらに5日経ったのか。

実は今、息苦しくて息苦しくてたまらない。しかも、こんなに寒いのに手足に変な汗をまたかき始めた。症状は初めに戻ってしまった(ただ、相変わらず寝つきはいい)。

原因として考えられるのは「最近1週間ほど走ってない」という以外に考えられない。息苦しさがひどくなったのは昨日の晩からで、確かに朝、ワイパックスを飲むのを忘れてしまったのだが、夕飯後は飲んだし、それ以後に息苦しさがひどくなったので、あまりワイパックスが原因とは考えられない。朝晩のラジオ体操とか風呂入るのとか、足の裏を揉むのとか爪揉みは全部やってて、やってないのは30分のスロージョギングだけなのだ。

ただ、スロージョギングも毎日毎日やってたわけじゃなく、天気がいい日でうちに一日中いるときには必ず走っていた。ところが今週の初めからなんかちょっと精神的に疲れを感じ、それで身体を動かしたくなくなってしまったのだ(ラジオ体操程度ならいいんだけど)。で、「ま、いっか」と思ってたらこうなってしまった。

うーん、ジョギングがこんなに自律神経に影響を及ぼしているとは思わなかった。明日から天気がよかったら走らなきゃ。

ってあれ。前の日記を読み返すと、ジプレキサも止めたんだよな、そういえば。ジプレキサ自体は自律神経失調症の薬ではないはずなんだけどなぁ~?どっちが原因なんだろ?

まぁまずは走るの復帰させてそれで様子を見てみよう。それで元に戻ればやっぱり原因は走るの止めたことになるし、それでも元に戻らなければジプレキサを再開させてみよう。アカシジアが怖いけど。

ってなんか人体実験だな(笑)

でも息苦しいのって本当につらい。窒息しそうで窒息しそうでとても恐怖感を感じる。水の中で溺れてる感じ。だけど実際身体は別に酸素が足りてないわけじゃないから窒息はしないんだけどね。この認識のズレをどう正せばいいんだ。。
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12-24 Wed , 2014
クリスマスイブの日に
クリスマスイブの日にスーパーに行くと泣く。ここ数年特に。今年はスーパーに行かずとも既に泣いている。

そこには大量の鶏肉が売っている。もちろん「クリスマス用」として。その大量の鶏肉を見ると泣けてくる。

でも待って。別に「鶏がかわいそう」と思って泣くんじゃない。人間に食べられるために取られた命に対して泣くんじゃない。だったらわたしはとっくにベジタリアンかヴィーガンになってる。わたしは鶏肉含め、肉を食べることは好きで止めるつもりはないから、たとえほんの少し「わたしに食べられるために殺されるのか」と思っても、それは泣く理由にはならない。だってそれは仕方ないもの。人間は基本、食物連鎖の頂点にいるし、雑食性だから肉も野菜も穀物も食べる。そのように生まれついてきてるのだから、これは考えたって仕方がないし、わたしの中ではどうしても根本的に「動物がかわいそうだから肉は食べないって言っても、じゃあ穀物は食べられてかわいそうじゃないのか?」って思ってしまう。もちろん、ベジタリアンとかヴィーガンの人たちだって「穀物だからかわいそうじゃないから大丈夫」と思って食べてないだろうなと思う。人間は何かを食べないと生きていけない。しかもそれは穀物含め、他の命を食べないとダメなのだ。だったら最低限の食べ物を食べていこうと思って肉を食べるのを止め、仕方なく穀物と野菜を選んでいるに違いない。それはすごくよく分かるんだけれど、やっぱりわたしはそこに「命の選別」を見てしまう。だってその逆は成り立たないからだ。穀物や野菜の命を奪ってしまうことがかわいそうだから食べるのを拒絶して肉だけ食べる、なんて人はいないでしょう。もちろんそんなことすると人間自身の健康にはとても良くないとも思うが、でも、命の選別がなければ、肉ばかり食べるのを断つ、という人と、穀物や野菜を食べるのを断つって人が一定数いてもいるはずだよね。これってやっぱり「より人間に近いものが尊い」って考えられてるからじゃないかと。

なんていうのは、まぁわたしが「肉が好きで肉食いたいからゆえの言い訳」ってみてくれてもいいですが(笑)

じゃあなんで泣けるのか。その明確な理由はよく分からない。ただ、その売り場を見るといろんな人が見えるのだ。この日に合わせてどのくらいの鶏を飼育すればいいのかを考え、その日に向けて鶏を育て、そして出荷し、と畜し、いろいろな部位に切り分けてパックし、売り場に並べる人たちの姿を。一年の中で、今の時期が一番かき入れ時なんだろう。この日にどのくらい売れるかが今後、自分たちの生活に掛かってくる。たくさん売れるといいなあという期待。こうやって慌ただしく年の瀬が過ぎていって、正月を迎える。飼われている鶏は何も知らないで生まれてきて、何も知らないで殺される。スーパーの肉売り場で大量に鶏肉が売っているのを見ると、そのような人の思いとか、社会生活が動いている姿とか、ああ、世界ってこうやって動いているんだと思うとなぜかすごく無常を感じて、それで泣きたくなるのかも知れない。

そもそも、この日に鶏肉(七面鳥の地域もあるけど)を食べるような風習を作ったのは人間だ。そもそも「クリスマス」なんて概念を作ったのも人間だ(わたしは宗教は人が作ったものと思ってるからね。それはこことかここら辺に書いてある)。人間がこの日を「偉大な人が生まれた日にしよう」と決めて、「その日をみんなで祝おう」ということを決めて「その日には七面鳥を始めとするごちそうを食べよう」と決めて、そして大量の七面鳥や鶏がこの日に向けて飼育され殺されて食べられる。別に誰が悪いわけじゃない。動物の命を奪う人が罪深いわけでもない。それはすべて人間の営みの中から生まれてきたものだ。知らないうちに「そのようになっていた」のだ。しかしそのことを考えるとわたしは泣ける。これが世の中ってもので、これが生きているってことなんだなと。

そういえば、先月だったか「ある精肉店のはなし」ってドキュメンタリー映画を観てきた。これは牛を自分で育て、育てた牛を自分でと畜し、解体し、そしてその肉を自分の店で売る人たちの話だ(その中で部落解放問題についても触れられている)。最初の場面と最後の方で牛がハンマーで殴られて殺されていくシーンがある。わたしはそのシーンを見ながら不思議と「かわいそう」とは思わなかった。まぁそれは、わたし自身に背景があるからなんだけど、わたしは大学は水産で、大学1年での実習でその日は確か天候が悪かったので野外の実習が出来ず、屋内でえんえんとマグロの延縄の実習のビデオ(確か大学4年か専攻科の人がインド洋沖で漁業実習をやったときの様子)を見させられたんだけど、マグロの延縄は揚がってきたマグロを間髪入れずに心臓をえぐり取って、尾っぽを切って、えぐり抜いた心臓のところからホースで水をがーーーっと流し、血抜きをしなければならないのね。それをしないと肉の中に血が固まって、商品としての質が悪くなる(=高く売れなくなる)から。で、それが終わったら冷凍庫で急速冷凍をする。

わたしは個人的に血がものすごく苦手だ。採血なんて怖くて大嫌いで自分が血を抜かれているところは見たことがない。っていうか、怖すぎて見られない。他人の血ももちろんそうだ。点滴で繋がれてる人を見ると力が抜けて歩けなくなる。あそこの管は血管と繋がっている。点滴が逆流したら管の中には身体から血が出てきた血がたまる。想像するだけでも気持ちが悪い。よく点滴持ったままトイレに行けたり、点滴したまま眠れたりするもんだと思う。わたしうつで入院してたとき、寝る前に眠くなる薬を毎晩点滴してた。けど、絶対に終わるまで寝なかった。意識が朦朧としながら終わるまで絶対に起きてて、終わった瞬間にナースコールで看護師さんを呼んで、自分の身体から点滴の管を抜いてもらうまでは絶対に寝なかった。点滴を付けたまま寝たら、もしかして起きたときにベッド一面が血の海になってるんじゃないかと思うと本当に怖いから。まぁそれほど血に関しては弱い。

なのに。そのマグロの延縄の実習ビデオをえんえんと見させられていたら、自分の中で「人は人、マグロはマグロ」という認識ができてしまったようで、マグロの血抜きシーンを見てもなんとも思わなくなってしまった。だから魚だけは別に血を見ても全然平気だし、殺すシーンを見てもあんまりなんとも思わなくなった(ただ、躍り食いとかは好んではしたくないけどね)。

だから映画の中で牛を殺すシーンを見ても「マグロと似てるなあ」としか思わなかった。もちろんわたしはこれを映画で観てるだけで、その牛を育てたわけでもないし、それ以前の親しみが全くないからだと思う。だけど、当初思ってたほど「わー、かわいそうで見ていられないよー」ってほどじゃなかったので、それはちょっと意外だったな。

でね、その映画の中で主人公の弟さんだったかな、が言うの。「牛を殺すのは残酷って言われるけど、自分にとってはその殺された牛をにこにこしながらうまいって食べる方がよっぽど怖い」って。わたしさ、この映画を観て一番印象に残った言葉がこれだったの。「そうそう、全くその通りだよね!」って。あ、だけどこの人は映画の途中の方で「やっぱり自分が丹念に育てた牛をおいしいって言って食べてくれるのは嬉しい」とも言ってるけどさ。(ちなみにこの「ある精肉店のはなし」はとても良かったです。特に主人公のお兄さんの人柄にものすごく惹かれました。あの映画観て直接あのお兄さんがやってるお肉屋さんに訪ねて行っちゃう人の気持ちがよく分かる)

わたし、そのとき思ったんだ。結局「いただきます」って言葉は奪われた命に対して感謝して食べますって意味だろうけど、そんなん殺された生き物は言われたって全然嬉しくないよね。って。よく「おいしい、おいしいって食べたらその生き物も浮かばれる」みたいに言われるけど、おいしいって言われて感謝して食べられたとしても、「ああ、おいしいと思ってくれたから自分は死んだ甲斐があった」って納得する動物なんておらんだろうと。やっぱり自分が殺されるのはイヤだから、どっちを選べと言われたら、動物は感謝されずとも生きたいって思うだろうよ、って。結局「食べ物の命に感謝して食べましょう」っていうのも「おいしいって食べたら死んだ動物も浮かばれる」ってのも両方、人間が、いかにして自分の心を傷つけずに済むかの話でしかないんだなって。結局人間はそうやって何かうまく「誤魔化しながら」自分のやってることを正当化しているだけ。それは動物のためなんじゃじゃなく、自分たちの弱い心を守っているだけ。だって、そう考えてないと自分たちの心が痛んでやってけないから。

わたしはそれが「誤魔化し」であることを認識した上で受け止めたい。「そうやって自分の気持ちは誤魔化されて、守られているのだ」ということを認識して生きていきたい。

クリスマスイブの日に。そこで生活を営んでいる人たちを思い、殺された鶏を思い。誤魔化されない現実を感じながら、わたしは泣く。

【追記2014.12.27】
ちょっと追記。もしかしたら上の文章読んでわたしが「生き物殺して食べることに対して感謝しなくてもいい/感謝しても無駄なことだ」って受け取られたらイヤだなって思ったから。

奪ってしまった命に対して、と、自分が美味しく肉を食べられる状態にしてくれた人たちにはもちろん感謝をしなくてはならないと思っている。そのおかげでわたしは自分が食べたい肉が食べられるのだから。だから「いただきます」「ごちそうさま」の挨拶はちゃんとしようと思う。しかし、わたしが言いたかったのは「美味しく残さず食べたらその動物も浮かばれるに違いない/または満足している」っていうような、そのような考えが嫌いだと。だって、それは動物のためではなく、人間が自分の気持ちを納得させる言葉に過ぎないんだもの。そう考えることによって人間は生き物を殺した罪悪感から逃れてしまっている。

そうじゃなく、やっぱり人間は他のものの命を奪って生きていかざるを得ない存在だということを深く心に刻み込んで生きていった方がいい。そのようにして生かされている存在だと。あ、だからといってそれが人間の宿命とか運命とか言うつもりはなく、ただそれが現実なのだってことだよね。そういう風に世界ができてるんだという。
12:44 | 自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
12-22 Mon , 2014
バイブ、捨てた~♪
少し以前にアクセス解析を見たら「バイブ 買った」って検索用語で引っかかってたので、自分もそれで検索掛けてみたら結構すぐ出てくるのね、このブログが。以前書いた「バイブ買った~♪」って記事だけど、今読んでみると結構開けっぴろげに書いたなあ~って感じで懐かしいな(笑)まぁ今も思ったことや感じたことはそのまんま書いてるけどさ。

で、今回の題名なんだけど、そうなんです。わたし、こないだバイブ捨てたんです。全部じゃないよ(笑)取り敢えずもういらないかなって思ったものだけ。前の記事でもリンク張ってたラブピースクラブに「バイバイバイブキット」ってのがあるの。それを使いました。

これはバイブを入れる袋(アルミ袋)とそれを送る用の白い袋が入ってて、アルミ袋の中にいらないバイブをいれ封をして、それを白い袋の中に入れて、そしてゆうパックで送ったのですが(別にゆうパックじゃなくてもクロネコとかでもいいんじゃないかな?)。郵便局でね。「品名」を雑貨にしてたんです。まぁこういうの普通「雑貨」にするじゃないですか。

ところがね、郵便局のおねえさんに「品名に雑貨は使えなくなったんです。具体的に何が入っているか書いて下さい」って言われちゃったの!!!!わたし心の中で「えーーーーーー!!!?????」って。

めっちゃ焦りました。でも焦ったり考えたりすると余計に怪しまれると思って怪しまれないようにしようと思ったんだけど、穏便な品名が思い浮かばない!で、焦りながら頭をフル回転させた挙げ句

「じゃ、『電気製品』で」

と言ったら「電気製品もダメなんですよ。具体的には何ですか?」って聞かれてさらに焦って。

だってだって、わたしが「電気製品」って答えた時点で中に入ってるものは「電気で動くものだ」って分かってしまったわけで。いや、だけどだからといってここで「バイブです!」って答えるのはやっぱりどうしてもどうしても無理だったんで、そこからまたすごく焦って「何がいいだろ、何がいいだろ。。」って考えて。。郵便局のおねえさん的には絶対に怪しい客だと思ったはず。

で、仕方なく「おもちゃ」って書いてもらった。これじゃあもう既に半分くらい本当のことが書いてあるだろ!上に「大人の」って付けりゃ、まさにその通りじゃん!と思ったら、顔から火が出ました。まぁでも普通の子どものオモチャでも電気で動くものはたくさんあるし、いろいろ書き渋ったのは実はこれは子どもへのプレゼントで、驚かせるために中身を具体的に書きたくなかったのだ、というシチュエーションも有り得るはずだ!と思って、それを心の支えにして郵便局から戻ってきました。

てか、郵便局のおねえさん、分かっていながら書かせてたとしたら、相当のサディストだー!!!(分かってるわけないけど)

次から捨てるときのいい教訓になりました。今度は家でじっくり考えてから突っ込まれないような品名を書きたいと思います(笑)

てか、この「バイバイバイブキット」は本当に便利です。どうやって処分すればいいのか悩まずに済むから。これで安心してバイブが買えるってもんだ(しばらく買おうとは思ってないけどね(笑))。
12:25 | 自分のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
12-21 Sun , 2014
息苦しさを自分で治そうと思う~なかなか治らないね
あれからまた10日経ったのかな。

息苦しさが治ったかというと、あんまり治ってない。
ただ、前の日記読むと「息苦しくないのが丸一日続かない」って書いてあるのね。前回、そう書いてたことはすっかり忘れてたのだが、今はそれよりよくなってるかも。

というのは、丸一日、息苦しくない日もあるから。ただ、今まであまりに長期間息苦しかったので深い息をするたびに「あ、息がちゃんと吸えてる」って意識しちゃう。なかなか今までみたいに息していること自体無意識にやってるってことがない。なかなかやっかいだね、これ。

一方、息苦しい日もある。これはあまりに疲れたときとか、忙しいのが一段落した次の日とか。不思議と忙しいときは緊張してるのか、息苦しくない。気が抜けちゃってるときに息苦しく感じる。あとはあまり眠れなかった翌日とか。まぁあまり眠れないというのは、寝つきはいいんだけど、一旦起きた後に眠れなかったり、睡眠の質があんまりよくなかったりしたときだ。

こうやって息が吸える、吸えない、というのがまばらになって、そして息が吸えていくのかな~?

深呼吸はするときもあるけど、以前に比べるとあまりしなくなったような気はする。なんというのかな、息苦しく感じるんだけど、無理して深呼吸しなくなった感じ。息苦しいから深呼吸すればいいんだけど、なぜかする気が起きない。それはとても不思議。でも不思議なのは息苦しいんだけど、窒息してるわけじゃない。まぁ本当は息が吸えてるから窒息しないのは当たり前なのだが、だからなんかずっと息をする気がしないまま「息苦しいなあ~」って感じてる。とても不思議な状態。

自律神経を調整するためのラジオ体操やスロージョギングなんかも続けてる。これで何か変わったかと言われると、よく分からない。別に大して生活の変化はない。寝つきの良さは相変わらず。あとまぁちょっと朝起きるのが早くなったかな。でもこれは努めて早く寝るようにしてるので、最近。その影響かも。

今の服薬だが、数日間連続して夜中に背中にアカシジアが起こって起きてしまったので、ジプレキサが悪さしてるのかなあと思って飲んでない。でもたった0.25mgの量のジプレキサがアカシジアを引き起こすとはあんまり考えられないのだが。。ただ、飲むの止めた日からアカシジアは起きなくなった。ジプレキサを止めたことで息苦しさへの影響はあまり関係がないみたい。

現在の飲んでいる薬
ワイパックス0.5mg(朝食後)
リーマス100mg、ワイパックス0.5mg(夕食後)
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12-12 Fri , 2014
初めてピルを飲んだときの話
わたし、これまでブログでほとんど自分の生理のことについて書いたことはないと記憶してるんだけど、これは別に書くのを躊躇ってたわけじゃなく、単に何も問題がないので書くことがなかったからだ。

世の中には毎月生理があることが疎ましく思えるくらいに苦しむ人がいるのはいろいろな人から聞いて知ってるけど、わたしに関して言えば、生理が始まって以来、これまでどんなに精神状態が悪かろうが、ほとんど狂ったことはなく(シドニーから帰った後、2007年12月頃に1回狂ったことはあるけど、逆に言えば本当にそれだけ)、生理になったとしてもお腹が特に痛くなることもなく、気分が悪くなることもなく、イライラすることもなく、毎月散々な思いをしている人からすると多分それだけで「人生得してるね」って言われるだろうなあと思うほど順調だ。

そんな風なので、生理に関しては「ずれる」ってことがまずほとんど有り得ない。もちろん、1日や2日、早まったり遅れたりはするよ。でもそれは許容範囲でしょう。わたしだって別にロボットじゃないし。だからだいたい「次はいつ」って計算はできるのだ。

実は今年、旅行を何回かしてきたわけだが、その中で「あー、旅行中に生理が来ちゃうなあ」ってときがあった。いつもだったら別にそれはそれで仕方がないかなと思うんだけど、今回は最初からモロ当たりそうだったし、生理中はいろいろ気遣うこともあったり荷物が多くなったりしてやだなあ~と思ったので、そうだ、一度生理をずらすってのをやってみよう!って思った。

そのときの基礎知識としてあったのは「旅行中にピルを飲みつづけて、旅行が終わったあとに生理を来させる」、いわゆる「生理を遅らせる」って方法だった。でも、いろいろ調べているうちに旅行中決まった時間にピルを飲むことの負担や、もしかしたらピルによる副作用が起こってしまうことや、遅らせた後の生理は重い、それなら逆に生理を早く来させてしまった方が、旅行中にピルを飲むこともなく、薬飲んでないんだから副作用も起きることはないので快適、ってことが分かった。

ただ、生理を早まらせるためには遅らせるよりも早めに病院に行かなければならないってことも知った。少なくとも前の生理が始まるくらいまでには行かなければならないらしかった。

なので、前の生理が始まる少し前くらいに、家から一番近い、総合病院の中の婦人科に予約して行ってみた。

わたし、基本、婦人科は大嫌いだ。まぁ好きな人はあんまりいないと思うけど、同性とセックスする人間がこの世に存在するということを全く認識していないところに行くのは毎回とても勇気がいる。今回は別にそういうのとは関係ないので、若干気は楽だったけど、やっぱり診察するに当たって問診票を書かされて、その中では「異性愛者」を前提として質問されているので、とても答えづらかった。どこまで誤魔化して、どこまで事実を言うか、その誤魔化しと事実の間に齟齬がないだろうか、そういうところまで考えて回答しなければならないからだ。

まぁそれはそれでいいとして、少し待って診察室に呼ばれた。呼ばれたらいきなり

「生理を調整するのは自由診療ですから。保険は効きません。これ、病気じゃないですから。」と言われた。

いやー、そんなことは知ってたけど、それ、いきなり言うか?みたいな。

そして「本当に旅行中に当たるのか」みたいなことを言われたので、わたしは事前にiPadに入れた情報(わたしももうすぐ閉経に近いので、なんかちょっとくらい乱れるのかなと思って、去年から今年にかけて数ヶ月くらい基礎体温を測ってiPadのアプリで記録していて、結局全然乱れてないみたいだったので、基礎体温は止めてたんだけど、生理の記録(開始日、終了日)はそれからずっと入力してた)を見せて「わたしは、毎月きっちり来るんで、多分当たります」って言ったら、医者はそれをチラッと見て「きちんと来るっていっても2日くらいずれてるときもあるじゃないですか」って言った!いやいや、2日くらいは許容範囲じゃないの??

それから「じゃあピルを処方します」ってことになったのだが、その後にも「毎日決まった時間に飲まなくちゃいけない。ピルを飲んだらひどい副作用が起こることがある。ピルを飲んでも生理が来ることがある、絶対に旅行中に生理が来ないという保証はできない、そして遅らせた後に来る生理は重くなります、、、」みたいなことをクドクド言ってきた。なんかそれを聞いてるとまるで「あなたが自分の勝手で生理を止めたいって言ってるんですよ!副作用もあるし、それに飲んだって効果がない場合があるんですよ、生理が重くなるのもそれはあなたがそういう風に選択したからですよ、それでもいいんですか!それでもやるんですか!」って責められてるような気がした。

そりゃ、わたしだってできればこんなことはしたくないが、生理があるないとでは旅行の快適さは全然違う。わたしは医者に「アンタは男だからそういう悩みはないだろうよ。いいご身分で!」って言ってやりたかった。

わたしはこの時期に前もって行くと言うことは、生理を早められる時期でもあるわけで、わたしとしては医者自らが「この時期なら早められますよ」って言ってくれるのを期待してた。けど、話を聞くと遅らせることしか考えてないようだったので「この時期なら早められると思うんですけど」と言ってみた。そしたら

「早めるのはたいてい失敗するからしません」

って言われてお終いだった。そしてまたクドクドと「血栓になる可能性が高まったり、胃がムカムカすることがあります」って副作用の説明をして「胃薬を出しますか?これも自由診療ですから保険が効きませんけど!だって病気じゃないんですからね!」って言われた。わたしはめっちゃ腹が立ったので「いりません」と答えた。

それで処方箋をもらって会計したのだが、6800円だったかな?まあ保険効かないんで仕方がないと思ったが、でもわたしはこんな医者が処方した薬を処方通りには飲みたくなかった。だって、今ならまだ早めることができるんだから。

と思って、処方箋はもらったが、薬局に行かずに捨てた。めっちゃ腹立った。あの医者は普段、女の人に対してどんな診察をしてるんだろう?って思った。なんか人としてじゃなくてモノとして扱われたような気がした。生理をずらすことってそんなに我が儘だったり自分勝手なことなんだろうか?

ちなみにその病院は婦人科は知らないけど、産科はとてもいい病院だと言われてるようだけどね。総合病院だからその他の科ももちろんあるけど、もうわたしはあそこには行く気がしない。

で、家に帰って今度は旅行のために生理を調整するということをちゃんと明記してある病院をネットで探した。そこは家からはちょっと離れたところにあったんだけど、生理を早める方法と、遅くする方法がちゃんと説明してあったし、早めようとするならいつ頃に来院してってことも書いてあった。また、ピル外来ってのがあって、それがちょうど都合がいいことにその週末にあったので、その日に行くことにした。ピル外来だとピルを必要とする人だけが患者になるので、普通の日に比べると混んでないらしい。

その日になって、受付時間の30分くらい前に行った。混んで待つのが嫌だったから。そしたら、着いたら1番だった(笑)受付で「生理をずらしたい」と言ったら問診票の他に「生理調整用カレンダー」って紙をくれて、そこに4ヶ月前までの自分の生理開始日と終了日、旅行の開始日と終了日を書くようになってた。なので、そこに○印やら×印やらを書いて、そして待合室で待ってたら、まだ開始時間の前だってのに、もう名前が呼ばれた。

「旅行中に生理に当たるからずらしたいんですね」と言われ、「生理調整用カレンダー」を見て「確かにこれだと旅行期間中に生理に当たっちゃうね」と言われた。「決まった周期で来てるみたいだし」って言われたので「やっぱり、1日2日ずれても問題ないんだろが」と思った。「今の時期だと生理を早めることができます」って言われた。わたしも「はい、そちらの方がいいです」って答えた。

医者は「生理調整用カレンダー」を見ながら「じゃあ、この日からこの日までピルを飲んで下さい。毎日決まった時間の方がいいですが、数時間ずれても大丈夫です。飲み終わったら、この日から生理が来るはずです。95%の可能性で来ますが、残りの5%に入ると来ません。この日までこなかったらもう一度来院して下さい。もうそうなったら遅らせるしか方法はありませんから、遅らせるためにピルをまた処方します」って言われた。

95%!!そんなに高い割合で成功するのか?あの、前の医者の「ほとんど失敗します」ってのは、あれはなんだったんだ??って思った。思ったんだけど、この時点ではまだ本当に成功するか分からなかったんで不安だった。なんてったって「ほとんど失敗する」と言ったのも、同じ日本の医師国家試験を受けて通った医者なのだ。

副作用や血栓の話もされた。まれにひどい副作用が起きる人はいるけど、そんなに心配しなくていい、血栓予防のために水をたくさん飲みなさい。ピルを飲んで以降も1週間くらいは血栓のことに注意してください。ただ血栓になりやすいと言っても、一般の人の3倍くらいのリスクになるだけで、5000人に1人くらいですと言われた。前の医者はピルを飲むとまるで毒薬を飲むみたいに人を怖がらせることしか言わなかったけど、この医者は具体的な数字を挙げながら客観的に話してくれたのでとても安心感があった。

そして問診票を見ながら「子宮癌検診を受けていないようだけど、生理が終わったら一度、検診に来た方がいいですね」と言われた。そういや前の病院でも問診票に子宮癌検診の有無の項目があったが、そんなことは言わなかったな。まぁ「保険適用外」だから、そんなの関係ないと思ったんだろう。

帰るときには「旅行を楽しんで下さいね」って言われた。あー、なんなの、前の病院との差は。最初からここに来ておけば、あんなに嫌な目に遭わずに済んだのに。ちなみにここは「診療」という形でお金を取られなくて「保険外金額」で税込み3240円(ピル代含む)だった。

で、指示されたとおりに10日間、ピルを飲んだ。それでもわたしは不安だった。だって「たいてい失敗する」と言われたのだ。「副作用が出ますよ」と散々脅かされたのだ。その言葉が呪いのようにわたしの中にあった。

ピルの副作用。あったかなかったかというと、多分あった。飲み始めて2日後だったか、風呂場でシャワー浴びてたときに急に心臓を鷲掴みにされたような感覚がして気持ちが悪くなった。けど風呂から出て寝ころんでたら治った。3日目は平気だった。4日目、また風呂場でシャワー浴びてたら心臓を鷲掴みにされたような感覚があった。けど風呂から出たあと寝ころんで休むほどではなかった。その後は全くなかった。あの「心臓を鷲掴みにされたような感覚」ってのは、後にも先にも感じたことがないので、多分、ピルが関係したのではないかなとは思う。が、これも「副作用が出てくるんじゃないか、副作用が出てくるんじゃないか」とビクビクしながらのことだったので、そんなこと思ってなければ「副作用?いや、なんもなかったけど」で終わったんじゃないかって思う。

そしてピルを飲み終えて3日後。「この日に生理が来るでしょう」と言われた日。

はいはい、来ました。きっちりと来た。「すごい」って思ったよ、わたしは。生理ってコントロール出来るんだってね。いやあ、自分の身体ってこうやってコントロールできちゃうんだ。

ご存じの人も多いと思うけど、ピルが厚生省(当時)で薬として認可されるまで、ものすごい時間が掛かっている。それに対してバイアグラの認可スピードはあっという間だったそうで、そこには「男は自分の性を楽しむこと」がことのほか重要視されていて、「女の身体は女自身でコントロールすること」をよしとしていない風潮が感じられる。この風潮はまだ続いていて、ピル自体は薬としてどんどん進化していっているのに(身体に負担が掛からないような低容量のピルがどんどん出てきてるのに!)、日本ではその承認がなかなか降りなかったり、世界では当たり前に「この病気に対して使われますよ」という病気に使われてなかったりするらしい。まるで女性に対する嫌がらせのように。

ピルに対しての異様なほどの「副作用があります」説明は、女性にとってピルを飲む恐怖感を植え付ける行為だ。何もピルだけが異常に副作用があるはずがない。そんな薬だったらまず認可されないだろうし、世界でこんなに飲まれてない。どんな薬でも一定数の副作用はある。それをいうなら、精神病の薬の方がよっぽど怖いとわたしは思う(わたし自身も何度も、何種類の薬で副作用が出たことか。中には一歩間違えていたら多分死んでただろう(飲んだら頭が痛くなるのと同時に冷静に死にたくなった)薬もあった)。これらみんな処方されるときに「こういう副作用が出ます」とは一切説明されていない。飲んでてなんか「おかしいな」と思ってあとで聞いてみると「それは副作用だから飲まないで下さい(または薬を変えましょう)」と言われる。「いちいち副作用の説明なんかしてたら、怖くて薬なんか飲めない」その通りだ。だったらなぜピルだけがしつこいくらいに副作用の説明をされるのだろうか。説明だけじゃない。紙まで渡された。「わたしは今、こういうピルを服用しています」という製薬会社の紙だ。「他の診療科、医療機関を受診する際には、このカードを必ず提示してください。」と書いてある。飲んでる間はこの紙を携帯してなくてはならないのだ。しかし、ピルで起こる血栓症、これって妊婦が妊娠初期に起こす血栓症よりも随分可能性は低いのだ。確か、妊娠初期に起こす血栓症は一般の12倍だったか。ピル飲んで血栓が起きる可能性は上にも書いたが一般の3倍だからね。

結局これらのことは「女性にピルを飲ませない、飲ませたくない」方針なのだ。なんのためって、それは女性自身で自分の身体をコントロールさせないためだ。ピルはもともと避妊薬だ。女性が子どもをいつ作るか、いつ生みたいか、ピルを飲んで生理をコントロールすることによってそれが可能になる。子供を産むのは女性だ。女性が自分の人生においていつ子どもを作って生むかを決定することは、その女性自身の人生にもかかわってくる。それがなぜいけないのか。邪魔されるのか。女性だって自分自身の人生を自分自身で決定して生きる権利がある。それが、この国ではこういう政策によって阻害されている。

何が「女性が輝く国へ」だよって思ってるよ!都合のいいときだけ女を利用するなよ!

医師の中にも女性を尊重する(っていうか、ただ普通に扱ってるだけだけど)とそうでない医師がいるんだということがこの件で明確に分かって、本当にいい経験になった。まぁ授業料の6800円は痛かったけどね。。

しかし、本当に女性にピル飲ませたくない医者っているんだね。それは本当に驚きだった。
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12-10 Wed , 2014
息苦しさ・その後
前の日記書いてもう1週間経ったのかな?

前に書いたラジオ体操やらスロージョギングやらってのは一応続けている。ただし、天気がいいときに限って、しかも「今日は疲れてるな~」と思ったらやってないけど。こういうのってあんまり無理しちゃいけない気がするんだよね。しかもわたしは最近めちゃくちゃ忙しくて、昨日まで4日連続夜出かけてたりしたので、なおさら無理はしなかった。

で、息苦しさはどうなっているかというと、少し回復傾向にあるかも知れない。

この「知れない」というのは、イマイチ自信がないからだ。

あまりにも長期間息苦しかったおかげで、深呼吸してしまうクセがすっかりついてしまい、なにかにつけて深呼吸をしてしまうのだ。ただ、前と違うのは、前は深呼吸して肺の中が空気でいっぱいになったとしても、まだまだ息が吸いたくて息苦しい思いをしていたのだが、今は深呼吸したら納得できるくらい息ができて苦しくない。これはだいぶ楽になった。第一息苦しい思いはしてないからね。

しかし、これも夕飯を食べた後くらいから次第に空気が肺の中に入りづらくなってきて、寝る前は結構息苦しい思いをしてたりする。要は息苦しくないのが丸1日、続かないのだ。きっと身体がだんだん疲れてくるんだろうと思う。

まぁでも徐々に改善のきざしが見られているので、この調子でいけばいいんじゃないかと思っている。

寝つきの良さは相変わらずで、これに関してはただただ驚くのみ。

わたしはいつも部屋を真っ暗にしないと眠れないので、わたしが寝てる隣で彼女が電気付けて本を読まれると眠れない。だからいつも「早く電気消して」って言ってたんだけど、今は隣で電気付けられても眠れるようになった。そのくらいほとんど一瞬で寝てしまう。

これは運動するようになったのがよかったのか、それとも毎日寝る前に彼女にやってもらってる足もみがいいのか、それがよく分からない。

まあ息苦しいのが改善されてきたのも、もしかしたらワイパックス1日2回飲んでるせいかもしれないし、主たる原因は分からないのだ。もちろん、一つずつ止めてみてどれが直接的に効いているのかって実験すれば分かるんだけど、やって再び息苦しいのに戻るのは嫌だし、このままで治まるならこのままにしておこうと。どうせワイパックスは年内にはすべて飲み終えちゃうくらいの量しかもらってないしね。

というわけで、息苦しさ回復までの途中経過でした。あとは早く深呼吸したくなること自体、忘れて欲しい。
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12-04 Thu , 2014
息苦しさを自分で治そうと思う
以前、9月下旬に「生きています」って題名で書いたんだけど、あれから2ヶ月以上経つのにまだ息苦しい。しかもあれを書いたときは「汗はおさまった」って書いてあるけど、いつの間にかまたじっとりと手足に汗をかくようになってしまい、寒いはずなのに汗かいて余計に指が冷たくなるという変な状態に。おまけに手に汗かくと携帯のタッチパネル(?)がスワイプしにくくなっちゃうとか、PCのキーボードが汗でベチャベチャになるとか、かなり気持ちが悪い状態に。

息苦しいのも初めは起きて少しして「あーなんか息苦しい」って感じで認識してたのに、それから少し経つと息苦しいのを起きた瞬間から思い出して、起きた瞬間から息苦しかった。寝てるときは息苦しさを感じないのに。汗もそう。寝てる間はかいてない。起きた瞬間からじわっと手足に汗をかく。これって絶対自律神経だよねって思った。

息苦しさをよく観察してみると、どうやら息が吸えないから苦しいんじゃなくて、その前に吐いてないみたいなのね。例えば肺の中に空気が0%だったら、100%息が吸えると言うことになる。しかし、もともと肺の中に30%既に空気が入っていると、息を吸おうと思っても70%しか肺の中に空気が入らないのだ。意識では100%吸いたいと思っても70%しか吸えないので息苦しく感じるのだ。それはよく分かった。が、問題はなぜ肺の中の空気が息を吐いても0%にならずに30%も残っているかだ(0%とか30%ってのはあくまでも例え話です。本当は息を吐ききった状態でも10%くらいは肺の中に空気は入ってるらしいです)。

「息を吐くことに集中しろ」

調べたら、こんなことが書いてあった。確かにそれはそうだ。けれど、絶えず絶えずそんなこと意識していられるもんじゃない、というか、意識してたら何もできない。普段は意識してなくても息は出ていくものだ。多分、自律神経の乱れというのは、こういうところに出てくるんじゃないかと思った。自律神経を整える呼吸法、というのをいくつかやってみたんだけど、それだけではまったく効果がなかった(そのときの呼吸は楽になるんだけどね)。

あ、一つだけ、息を吐くことに集中しなくても呼吸が楽になる方法があった。これは風呂に入ってて分かったんだけど、風呂に入ると周囲の水圧が肺を圧迫して知らないうちに肺から空気が出てるのね。だから、普通に呼吸すると普通に息が吸えて息苦しく感じない。あるときこのことに気が付いてね。それで「ああ、いつもは既に肺の中にある程度空気が入ってるからそれ以上息が吸えないんだ」ってことに気が付いたのね。

絶えず絶えず息苦しいから、意識して深呼吸をしてしまう。そうすると慢性的に肋骨の周辺の筋肉が筋肉痛になる。息を吸うと胸が痛くなる。肩で息をしているような感じだから肩も凝る。背中も痛い。こんな感じでは、やりたいことも集中してできない。2ヶ月ただ休んだだけでは全くよくならなかった。

ただ休んでっていうのは語弊があるな。その間、3回、精神科に行った。1回目はワイパックスを処方してもらった。でも1日1回だった。30日分。30日飲んだ。治らなかった。2回目、ジプレキサ0.25mgを処方してもらった。これも1週間飲みつづけたけど治らなかった。次の診察日は年明け。このままだと今年中にこの息苦しいのは治りそうもない。偶然、以前、息苦しかったときにワイパックスを1日2回飲んだ、そうしたら息苦しいのが治まった、というのを読んだ(このブログの2012年5月頃の日記に書いてある)。そこでこの火曜日に精神科に行ってきて「1日2錠、ワイパックスを処方して欲しい」と頼んで出してもらった(これを読むと全部わたしの指示で薬を出してもらっているが、、、その通りです(笑)今の主治医はあんまりはっきりしない人なので、こっちがあれこれ言って出してもらう状態)。

「今年中に絶対に息苦しいのを治す」

そう決めたのは、ノロウィルスに罹患したことだった。わたし、10月の半ばにもひどい風邪を引いた。最近わたしはあまり風邪を引かなかったのに、本当に久々のひどい風邪だった。それから1ヶ月後にノロウイルス罹患。今までの人生一度もかかったことなかったのにかかってしまった。もしかして、息苦しくなってから身体の免疫力が低下してるんじゃないか?って思った。自律神経と身体の免疫力の関係は、関係あるのかないのかは分からないけどね。でも、さっき書いたように息苦しさで肩が痛かったり、背中が痛かったりしてる。これは身体を動かさなきゃならないって思った。そして身体を動かせばある程度免疫力がアップするに違いない、そう思った。

で、ネットで「自律神経 整える」とか「自律神経 治す」とかで調べた。「自律訓練法」とかが真っ先に出てきたんだけど、これはわたしに向いてないので却下(笑)あとはストレスがどーとかって出てきたんだけど、わたしの場合、確かにストレス(金がない→稼がないといけない→でも体調が悪くて仕事できない→金は減るばかり)が掛かってこういう症状になっているとも言える。だけど、それは今考えてもどうしようもないのだ。そういうストレスを抱えたまま、息苦しいのを治さないといけないのだ。

いろいろ調べて「やってみよう」と思ったのがこれ。

起きてすぐ:朝日を浴びながらラジオ体操第一
午後:散歩30分以上(スロージョギング)
夕方:ラジオ体操第一
夕食後:コーヒーは飲まずはと麦茶(はと麦茶にはカフェインは含まれてない)
寝る前:湯船に浸かる
寝る直前:爪揉み&彼女に足の裏を揉んでもらう

これを11月23日から始めている。正直コーヒーはわたし、寝る直前に飲んでもカフェインのせいで眠れないなんてことは今まで一度もない。だから、別にそれはいいんじゃないかなあと思ったのだが、これとは別の理由で1日1杯(朝食時のみ)にしてるのは、ノロウイルスに掛かって丸2日、ご飯を食べられなかった(もちろんコーヒーなんか飲む気は起こらなかった)ときに出てきた頭痛がいつもの頭痛と違っていたからだ。どうも前々から丸1日コーヒーを飲まないとなんか頭が痛くなるような気がするなあと思っていたのだが、でもわたしはコーヒー依存症になるほど大量のコーヒーは飲んでない。けど、1日1杯以上(大抵3杯以下)は必ず飲んでる。んー、ついでにしばらくの間は減らそうかな、そう思ったのだ。

ワイパックス1日2錠摂取は11月28日夜から。実は手持ちのワイパックスが1シートくらいあったので、飲み始めた。なので現在ちょうど1週間かな?

運動を11月23日から始めて、実は次の日にはもう手足に汗をかかなくなった。最初は「偶然?」って思ったし、ぴったり汗をかかなくなったわけじゃなく、1日のうちに短い間だけど汗をかいたりするときがあった。けどそれも徐々に治まってきて、今はかかなくなった。

最近はなぜか雨がちで、雨が降ったら散歩ができないので、そういうときは家でストレッチしたりはしてるんだけど、やっぱり散歩の方が気持ちがいい。スロージョギングなので30分走り続けられるし、何より汗をたくさんかく。これがいいんじゃないかと思う。あと、腕を大きく動かしながら走っているので、肩が徐々に痛くなくなってきたような気がする。ただ散歩って一日用がない日じゃないとできない。何かしら出かけなければならない日は散歩はやってない。

そしてなんと、これらのことを続けていたら(ってまだ2週間も経ってないけど)なぜか寝つきがめちゃくちゃよくなった。夜になると眠くなってるし、布団の中に入るとすぐに眠れる。これはなんといってもすごい。で、できるだけ朝早く、朝早くと言っても8時頃だけど、8時頃には起きてラジオ体操をする。早く起きて、早く寝る。なんというか、今までのわたしからすると信じられないくらい健康的な生活をしている。

まーただ、これだけやっても、今のところ、息苦しさの解消にはあんまりなってないんだけどね。。別のところが改善されてきても、息苦しさは一番最後なのかなあ。。

というわけで、まだまだこれからも続けていこうと思ってるんだけど、今、こんなことしてますってことで。何らか改善が見られたらまた書きます。

【追記】現在処方されている薬。
ワイパックス0.5mg(朝食後)
リーマス100mg、ジプレキサ0.25mg、ワイパックス0.5mg(夕食後)
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12-02 Tue , 2014
生誕17000日目
今日はわたしが生まれて17000日目の日らしい。

わたしにとってはただそれだけのことで、それ以上のことでもそれ以下のことでもない。
今日、たまたまこのブログを見たら左下に「この世に存在し始めて」ってコラムがあるが、それを見たらちょうど17000日だったので「そうか」と思っただけだ。

たまたま十進法で数えたら17000日だっただけで、十二進数だったら9A08で、十六進数だったら4268なだけだ。まぁ数字自体はこうやって見方を変えると「とんでもなくきりのいい数字」になるのもあれば、同じ数字でも全然パッとしない数字になるのもある。その人がどこに価値を置くかの問題だよね。「そうは言っても世の中は十進数で動いてるんだ!御託を並べやがって!」って思うかも知れないけど、一番身近なところで普段なんの意識もなく使ってる時刻は時間は○時は十二進法だし、○分は六十進法だ(ただ、この場合、厳密な意味での十二進法とか六十進法ではないと思う。ただ繰り上がりがそうであるだけで)。あとダースなんかもそうだよね。1ダース12本。あれも同じだし、コンピュータの世界においては完全に二進法が使われている。デジタルの世界も。あと十六進法も使われてるよね。

なぜ全部十進法じゃないかと言えば、十進法だと物事がややこしくなったりするんだろう、逆に。だから、ものに応じて一番都合のいいものを選ぶ。絶対十進法で考えなきゃいけないなんてことはない。だから、17000っていうのも、十進法で言えばたまたまそうだっただけ。そこに価値を置くかどうかはその人による。大抵の物事も多分、そんな風にできてるんじゃないかな~?

まあそれはさておき、わたしも46歳になった。
去年45歳になったときは「いつもなら四捨五入して考えるからもう50になったのに、違和感がある」って書いた。あれから1年経って46歳になったけど、やっぱり自分が50とは思えない。まぁでも去年より50であることの違和感が少なくなってきたかも知れないな。こうやって時が経つにつれ50でも違和感がなくなっていくんだろう。

46って数字自体は大して面白くなくて、偶数であっても2×23にしかならないのでつまらない。来年は素数かあ。。まぁこの数字になってくると、素数の割合も段々減ってくるわけだから、丁寧に過ごさなきゃならないなと思うけど、47は大して好きな素数ではないんだよな。。去年も書いたように48の方が楽しみだ。

特に46になったと言ってどうってこともなく。

でも、一昨年、去年に比べると病状がだいぶよくなってきたので、楽になってきたかも。あと、目標もできてかなりやりたいことも増えてる。去年の初め頃は「どうやったらやる気が出るんだろう」って思ってたけど、実際のところ、休んだらやる気が知らない間に出てきたというか。やる気を出すために休もうと思ってたわけじゃなく、何かやるたびに精神的に摩耗してしまって、すぐに「もうダメだ」って思っちゃう、少しエネルギーを蓄えてはすぐに消耗してしまう。これじゃあ長期的に何かできない、と思って、エネルギーを蓄えるために休んだのだ。休んだ期間は半年ほどか。この間、何してたのかはちっとも覚えてない。本読んでたっけなあ~?それすら覚えてない。

ただ、いつも不思議なのは「やる気」っていうのはいつ出るのか全く分からないってことだ。あるとき急にやる気満々になってるわけでもないし、急に何かやりたいって思い付くわけでもない。なんか日々過ごしているうちに徐々にやりたいことができてきて、それが今後の生きてくための目標になってたりするのだ。だからいつも調子が悪くなると「あのときはどうやってやる気を出してたんだろう?」って思うんだけど、調子がいいときは実はやる気なんか感じてない。そんなに一生懸命にもやってない。むしろ、状態が悪いときに一生懸命になる。やる気があるときは確かに「これがやりたい」って思うけど、一生懸命やりたいと思おうとは思ってない。ごく自然に思っている。だから難しいんだよね。きっかけとか何もない。気が付いたらそうなっている。だから過去から学べない。「回復の過程」が分かると調子悪いときの目標になったりもするんだけど。。それが分からないので調子悪いときはつらい。このまま一生、こんな状態でいるかも知れないって思えてしまうから。つらさが一生続くような気がする。

わたしにとって今のところ、歳を取って悪い気はしない。

老眼が進んでるのでめんどくさいなーって思うことはあるけど、老化はそれしか感じない。記憶力は昔から悪いから衰えたとも思わないし、むしろ4月から今まで朝鮮語の単語を800個以上覚えたけど、英語に比べると覚えるのがとても楽。50くらいの単語だったら2日あれば全部覚えられる自信が最近付いてきた。いや、ものによっては1日でも行けるかも知れない。記憶力がよくなったとは思わないけど、悪くなったとも特に感じない。

物事の考え方も前に「矛盾すること」って題名で日記を書いたのだけど、最近は「物事の境界は一体どこにあるのだろうか」ということについて考えていたりする。これは絶対にいいよね、これは絶対に悪いよねってものを両端から「じゃ、この条件をこう変えてみれば?」って徐々に近づけていって、自分の中の「いい」と「悪い」の間はどこにあるのだろう?っていう境界探し。これ、結構楽しいです。「許せない」と思っても徐々に境界に近づいて自問自答していると「あれ、さっきは許せないと思ってたのに?」って思うことがあって、境界が変わっていくのが分かることがある。

やっぱ、こういう思考実験ってある程度歳を取ってみないとできないんじゃないかな~って思ったりしてる。

だから、わたしは今のところ自分が歳を取るのは全然悪くないって思ってる。

もちろん、それ以前に「働けよ」ってのはあるんだが、正直まだ継続して働けるほどには体調はよくなってない。けど貯金の残高はどんどん減り続けてるので、まぁゼロにならないうちになんとかしなければとは思ってるんだけどね。

貯金の残高が減り続けていることを考えると本当に怖くて、そのことを考え始めると何も手に付かなくなるのは事実だ(何も手に付かないどころか、精神状態が悪化するんで病気が悪くなるきっかけになりそうで怖い)。でもそこをなんとか踏ん張って将来の収入確保のために、その前段階の資格試験受験しようとしてるし、まぁこんなんでも徐々に将来のことは考えている、ってことで。ただ、こんな歳になって仕事にありつけるのかって話がねー、、資格取っただけで食べていける職業なんかほとんどないしね。
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11-29 Sat , 2014
彼岸花を見に(新美南吉記念館) その6
その5の続き。今度こそ、最終回、だと思う。

記念館を出たのは15時半過ぎだったかなあ~?わたしはその日、名古屋で友人と会うことにしてて、その待ち合わせ時刻が18時だったので、遅くとも17時くらいに半田口の駅を出たいと思っていたのだが、ちょっと中途半端に時間が余ってしまい、しかもかなり疲れていたので、その後、時間つぶしにそんなに歩きまわれそうもなく。なんせ記念館から半田口の駅まではそんなに遠くないんだよね~。一応、前にも書いたけど、事前にここで行きたいところをチェックして、どういう順番で回ろうかな~って考えてたのよね。しかし、それを全部回ったところでせいぜい1時間くらいにしかならないだろうと。それだったらもうちょっと電車に乗って海が見えるところまで行こうかなって思ったり。でも、電車の時刻を調べたところ、行って帰るだけでお終いになるギリギリの時間しかなく断念。まぁ時間がすごく余るだろうけど、どこかで休み休み行けばいいやと思って駅に向かって出発した。

記念館のすぐ前の大きい道をずっと駅方向に向かって歩くと途中で岩滑小学校がある。ここ、画像は撮らなかったんだけど、卒業制作レリーフみたいなの?そんなのが校門脇の塀みたいなところにずらーっと並んでた。新美南吉の作品をモチーフにしたレリーフみたいな感じだったが、ほとんどが「ごんぎつね」や「手袋を買いに」の中、一つだけ「うた時計」を見つけて「おお、こいつら分かっとる!」みたいな(笑)廉がおじさんのポケットに手を入れたらうた時計が鳴り出すところ。

「おじさんのオーバーのポケット、大きいね」
「うん、そりゃ、おとなのオーバーは大きいから、ポケットも大きいさ」
「あったかい?」
「ポケットの中かい?そりゃあ、あったかいよ。ぽこぽこだよ。こたつがはいってるようなんだ」
「ぼく、手を入れてもいい?」
「へんなことをいう小僧だな」
男の人はわらいだした。でも、こういう少年がいるものだ。近づきになると、相手のからだにさわったり、ポケットに手を入れたりしないと、承知ができぬという、ふうがわりな、人なつこい少年が。
「入れたっていいよ」
少年は、男の人のがいとうのポケットに、手を入れた。
「なんだ、ちっともあったかくないね」
「はっは、そうかい」
「ぼくたちの先生のポケットは、もっとぬくいよ。朝、ぼくたちは学校へいくとき、かわりばんこに先生のポケットに手を入れていくんだ。木山先生というのさ」
「そうかい」
「おじさんのポケット、なんだか、かたい冷たいものがはいってるね。これなに?」
「なんだと思う」
「かねでできてるね・・・・・・大きいね・・・・・・なにか、ねじみたいなもんがついてるね」
するとふいに、男の人のポケットから美しい音楽が流れだしたので、ふたりはびっくりした。男の人はあわてて、ポケットを上からおさえた。しかし、音楽はとまらなかった。それから男の人は、あたりを見まわして、少年のほかにはだれも人がいないことを知ると、ほっとしたようすであった。天国で小鳥がうたってでもいるような美しい音楽は、まだつづいていた。
「おじさん、わかった、これ時計だろう」
「うん、オルゴールってやつさ。おまえがねじをさわったものだから、うたいだしたんだよ」



ああ、画像、撮ってくるんだった~(笑)

岩滑小学校を過ぎるとすぐに岩滑郵便局があるのだが、その手前の細い道に折れる。ここは「そうれん道」というらしい。さきに紹介したサイトには、

現在、岩滑コミュニティセンターのある場所は、昭和8年まで岩滑の墓地でした。「ごん狐」でごんが六地蔵の陰から兵十の母の葬列を見る場所は、ここが舞台になっています。ここから光蓮寺に続くを「そうれん道」と呼んでいました。



と書いてある。これを見つけたとき、わたしは絶対にここに行かなきゃ!って思った。だって、ごんぎつねの中でわたしが好きな場面の一つだからさ。一番最初にも書いたけど、わたしが「彼岸花」で思い出すのは、真っ先にこのシーンだ。

お昼がすぎると、ごんは、村の墓地へいって、六地蔵さんのかげにかくれていました。いいお天気で、遠くのむこうには、お城のやねがわらが光っています。墓地には、ひがん花が、赤い布のようにさきつづいていました。と、村のほうから、カーン、カーン、と、鐘が鳴ってきました。葬式の出るあいずです。
やがて、白いきものをきた葬列のものたちがやってくるのが、ちらちら見えはじめました。話しごえもちかくなりました。葬列は墓地へはいってきました。人びとが通ったあとは、ひがん花がふみおられていました。



旧墓地、というのが岩滑郵便局の裏の方にあるのだが、そこから光蓮寺までの道が「そうれん道」らしいんだよね。ただ、わたしはもうそのとき歩き疲れて旧墓地までも行く気がしなかったので、そうれん道の半分くらいしか歩けなかった。「ごんぎつね」に出てくる「そうれん道」は彼岸花がずっと咲き続いていたらしいけど、そこには一本も彼岸花は咲いてなかった。

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お寺は奥の工事してるとこ。だから、ホントすぐの距離。ここの間で道のへりに彼岸花が咲いてるところを想像しようとしたんだけど、ちょっと難しかった(笑)わたしが想像してたのより道幅が随分広くってね。で、あっという間にお寺に。

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ここ、なんか工事してたのか、人が何人かいてとても入りにくかったので素通りした(^^;この「光蓮寺」ってのは、新美南吉が亡くなったときにここのお坊さんに戒名を付けてもらったということだ。中に入ってみれば、もうちょっとこのお寺についての詳しく書かれたものがあっただろうな~と思うんだけど、なんか中に入りづらかったんだから仕方がない。

このお寺の先は最早「そうれん道」とは言わんのだろうと思ったんだけど、でも、わたしの頭の中にあるごんぎつねの葬列の場面とどこかに何か、一致するもの、似てるものがあるんじゃないだろうかって、一生懸命探した。例えば

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こういう道の100年前を想像したり(笑)

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ああ、ここはちょっとわたしの想像してた姿に近いかなーって思ったり。

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わたしのイメージする彼岸花って、土手のじゅうたんみたいに咲いてる彼岸花じゃなくって、こんなんだよなって思ったり。

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こういうところに上の画像のパラパラと咲いている彼岸花の姿を想像したり。まぁ思えばまるっきり怪しい人みたいに見えただろうな~(苦笑)なんでもない道を行ったり来たり。時には道ばたに座りこんでボーッとしてたり。おまけに画像どこで撮ろうかとかウロウロしたり。なんか何を撮りたいんだか分からないものを被写体にしてたり。だけど、ここはまさに、わたしにとっての「夢の国」、ごんぎつねの世界だったわけです。頭の中で40年弱、ずっとずっと描いてきたところ。頭の中で描いてきたものと現実の世界は全く違ったものだったけど、でも、わたしはずっとここに来たかった。それが今、ようやく叶ったわけです。きっと、40年間頭の中に暖めてきたものがこうやって現実の姿として目の前に現れる体験なんて、そうそうないはず。わたしは今、そういう極めて貴重な経験をしてるんだと、そう思いました。

そこから常福院ってお寺に行って、境内でしばらく休ませてもらった。ここの画像は撮ってこなかったんだけど、夏になると盆踊りをしてたところだって書いてあった。今現在のわたしの目から見ると、とても狭い敷地内でね。こんなところでみんなが集まって盆踊りしてたんだーって思った。あと確か、新美南吉の弟が戦死したのでここのお寺の招魂碑だったかに名前が書いてあるよーって書いてあったかな。探さなかったけどね。

常福院で少し休ませてもらったあと、「はなれの跡」に。ここは新美南吉と弟が暮らしていたところだそうだ。ただ、焼失して今は跡地に立っている看板のみ。周辺は普通の住宅地で、看板がなければ絶対に分かんないようなとこだった。

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ここから少し離れたところに岩滑八幡社という神社がある。ここの神社の前を南吉ははなれの家と実家を往復するときに通っていたそうだ(南吉はご飯は実家で、寝泊まりははなれの家でしていた)。岩滑八幡社の前の庭はかなり広くて、子どもが遊べそうな感じだった。

そこから、再び、南吉の生家に。その前にある常夜灯にも。常夜灯が出てくる作品もいくつかあるらしいんだけど、わたしは読んだことがない作品だった。

予定より時間がすごく余ってしまったんだけど、ここではもう時間が潰せないので、当初、速い電車(特急とか急行とか)で名古屋に向かう予定にしてたんだけど、のんびり各停で行くことにした。

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帰りはこの「ごん」がお見送り。今度来る機会があったら、ここを通り越して知多半島の先まで行って、海を見てきたいなあ~って思った。

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名古屋で無事に友人と合流でき、夕飯は一緒にしゃぶしゃぶを。3年くらいぶりに会うので、積もる話があるある。というか、3年って短いようでかなり長い時間なのだね。。報告されることにたまげてばかりでした。

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夜は予定通りに夜行バスに乗って東京へ。友人はわざわざ寒い中、バスの発車時間までそばにいてくれて有難かった。また会おうね~。たまにはこっち方面にも来て下さいな。

夜行バスってのは、スペース広くなったり椅子が座りやすくなったり、リクライニングもできたりするのになんであんなに寝にくいんだろうか。新幹線の座席は別に寝るようにできてないと思うけど、新幹線の座席の方がよっぽど座りやすい。新幹線では寝ようと思わないのに気が付いたら寝てたりすることあるし。あと、夜行バスは光が入ってこないようにするために窓にカーテンが引いてあって、それで外が全く見れなかった。これはかなり窮屈でした。どうせ眠れないんだったら、窓の外見てればいいやと思ってたから(真っ暗でもいいの)。

結局一睡もできず。浜松で一旦休憩したときは外に出なかったけど、足柄で止まったときは外に出てみた。

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辺りは真っ暗。吸い込まれそうだった。

そして、そこから2時間ちょっとだったかな。朝4時50分、ほぼ定刻通りに新宿に着いた。

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まだまだ暗い新宿駅西口。これから一日が始まるところ。

しかし、わたしはお疲れ。家に帰ってベッドの上で寝ました。

今回は「いつか行ってみたい」とずっとずっと思って来たところだったため、「やっとここに来られた」って思いと、あとは年月の移り具合を肌で感じた。新美南吉の世界はもう新美南吉の作品の中にしかないんだなーってつくづく思った。でも100年違いだけど新美南吉はまさにここで生まれて育って暮らしてたんだし、そう思うととても不思議な感覚だった。「ヒーロー」っていうと全然ヒーローなんかじゃないんだが、なんていうんだろうね、これらの作品はわたしの中の血と肉になってると言ってもいいと思うのよ。そういうものを子どもの時に植え付けられ、自分の中で段々育っていったものが今現在の自分の中に存在している。こういうものがあるってかなり幸せなことだよね。年月をかけないとこういう気持ちにさせるものはないもの。

そういう意味では、愛知県半田市岩滑ってところは、本当にわたしにとっての「夢の国」だった。
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11-27 Thu , 2014
彼岸花を見に(新美南吉記念館) その5
その4の続き。多分、最終回。

「しんたのむね」辺りで既に足が痛くなってたんだけど、当然のことながらそこには休むところなんてない。ので、とっとと歩いて新美南吉記念館に向かった。途中、こんなん見つけた。

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「ごんぎつねの ふる里 岩滑」って書いてあって、上にちょこんとキツネが乗っている。

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ごんだ!ごんがびくの中を覗いて、いたずらしようとしているところだ!!

兵十はそれから、びくをもって川からあがり、びくを土手においといて、なにをさがしにか、川かみのほうへかけていきました。
兵十がいなくなると、ごんは、ぴょいと草の中からとび出して、びくのそばへかけつけました。ちょいと、いたずらがしたくなったのです。ごんは、びくの中のさかなをつかみ出しては、はりきりあみのかかっているところよりもしもての、川の中をめがけて、ぽんぽんなげこみました。どのさかなも「どぼん」と音をたてながら、にごった水の中へもぐりこみました。



わたしは感動して、どうにかうまく写真を撮ってやろうと、カメラ(iPhoneですが)の向きをあちこち変えてたりしたときに、学校帰りかなにかだったのかな?小学生が何人か、自転車に乗って通りかかった。みんな白いヘルメットを被ってる。そのうちの一人がわたしを見て「こんにちは」って挨拶してくれた。まぁ行動から観光客ってバレバレだもんね、、(笑)でも、嬉しかったです。

そこから少し歩いて、いよいよ新美南吉記念館に来た。

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新美南吉記念館、ちょっと変な建物だったです。変というか、まぁデザインされた建築物というのか。この画像の左側にはうっそうと茂った森みたいなのがあって、散歩したら楽しそうだと思ったんだけど、足が疲れ切って一周してくることすら不可能でした。残念だった、、観光客はちらほらだったかな~。そんなに少ないってわけでもなかったけど、多いってほどでもなかった。

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入口付近。この記念館があるところって、ごんぎつねの中に出てくる「中山さま」のところなんだよね。

これは、わたしが小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。
むかしは、わたしたちの村の近くの、中山というところに、小さなお城があって、中山さまというおとのさまが、おられたそうです。



既にこの話の中でもお城があったことは過去の話なのだけど、なんかこの場所とお城が全く結びつかなかった(笑)でも、でも、「牛をつないだ椿の木」を読んでみても分かるように、ここら辺は昔は山の中だったんだよね??昔って言ってもせいぜい100年くらい前のことで、それを考えるとこれから100年後、この風景はどう変わってるんだろうか、、、なんてこと思った。

記念館は新美南吉の生涯を丹念に追っていた。なんせ南吉自身、たった29年の生涯だったんで、1年1年がものすごく密度濃いんだよね。小学生(とは言わんけどさ、当時は)の頃の通知簿貼り付けられてたり、卒業証書が飾られてたり、恋愛して誰それと付き合ったとか振られたとか、うーん、なんかちょっと複雑な気分だったよ(笑)だって、自分が死んでから100年経つのに当時の通知簿、不特定多数の人にじろじろ見られてさ(笑)恋愛とか失恋とか言っても、この人の場合、あんまり直接的に作品と関係ない気持ちがしたし、プライバシーなんかないじゃんって死人には最早プライバシーはないのか?(笑)わたしだったら死んだあとでも見も知らない人に自分の通知簿覗かれて、その中に何書いてあるか読まれるのはいやだな~、誰それといつ付き合い始めたって書いてあるけど、前に付き合ってた人とは別れたって書いてないのに次の人と?前の人と別れた理由に何か隠したいことがあったのかしらね?なんて思われたくないよな~とか(笑)特に恋愛は一人でするもんじゃないから、相手の人生もあるわけだし、書けなかったのかしらね、とか。死んだあとに知らん人から好き勝手に思われたくないよね~、「死人に口なし」と言えども(笑)

記念館内の写真はほとんど撮らなかった。別に撮ってきても仕方ないしね。ただ、この2枚だけはなんか、気になったので撮ってきた。わたしの琴線に触れるものって、実にしょうもないもんです(笑)

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左は生前だいぶお世話になったらしい巽聖歌(わたしの持ってる文庫本2冊(角川書店、講談社文庫)とも解説は巽聖歌なんで、名前は知ってた)に宛てた手紙で、確か病気(結核)で東京から実家に戻らざるを得なくなって、実家から出した手紙だったかな。あれ、でもなんか印象として「一旦実家に戻っただけ」ってのがあるから、そうじゃなく、大学に入ったときだったかなあ?あー、忘れました(苦笑)ここだけ内容を読むと、まるでラブレターみたいだなあと思って思わず写しちゃった(笑)

右は「へー、そうなんだ」って思ったから撮った。ナフタリンかぁ~。わたしは「ナフタリン臭」で一番先に思い出されるのは「東京湾の臭い」なんだよね。大学生・大学院生の頃、晴海にうちの大学の船が置いてあって、そこからよく出航したんだけど、東京湾を出るたび、入るたびに目にするのは茶色い海の水と、あとなぜかナフタリンの臭いがしてね。でも、あるときからこの臭いを嗅ぐと「ああ、帰ってきたなあ~」って思うようになったの。なんか、こんな臭いで「帰ってきたこと」を認識するのって悲しいなと思ったんだけど、まぁそういうところで生まれ育ったんだから仕方ないよね、って思うようにした。鮭だって生まれた環境がどうあろうと、自分の生まれた川に戻ってくるんだもんね。

しかし、新美南吉の童話は、南吉が書いたそのままではなく、かなり巽聖歌の手が入ってるらしいね。(ちなみに「ごんぎつね」は鈴木三重吉の手が入ってるそうです)南吉の死後、巽聖歌が生前の南吉の作品を発表していくんだけど、南吉の書いたものは戦時色が強かったため(なんせ戦争終わらないうちに亡くなったからね)戦後の雰囲気に合わせて削除した部分も結構あるらしい。わたしが持ってる中で「あれ?」って気が付いたのは、「和太郎さんと牛」って作品なんだけど、この一番最後の部分。わたしが持ってる角川文庫の「牛をつないだ椿の木」(昭和43年2月20日初版発行、持ってるのは昭和53年6月20日18版)には

さて、この天からさずかった子どもの和助君は、それからだんだん大きくなり、小学校では、わたしと同級で、和助君はいつも級長、わたしはいつもびりのほうでしたが、小学校がすむと、和助君は、和太郎さんのあとをついで、りっぱな牛飼いになりました。そして、いまでは和太郎さんは、だいぶんおじいさんになりましたが、まだ元気です。おかあさんとよぼよぼ牛は、一昨年なくなりました。



って書いてあるのね。これが別の一冊、これもわたしが持ってる講談社Super文庫「新美南吉童話大全」(1989年8月21日第一刷)では

さて、この天から授かった子どもの和助君は、それからだんだん大きくなり、小学校では私と同級で、和助君はいつも級長、私はいつもびりの方でしたが、小学校がすむと和助君は和太郎さんのあとをついでりっぱな牛飼いになりました。そして、大東亜戦争がはじまるとまもなく応召して、いまではジャワ島、あるいはセレベス島に働いていることと思います。和太郎さんは、だいぶんおじいさんになりましたが、まだ元気です。お母さんとよぼよぼ牛は一昨年なくなりました。



になってて、なんと、和助君の結末が違っている。ちなみにこの本(講談社の方)は大日本図書「新美南吉童話集」を定本にしてあるそうだ。そして角川文庫の方の解説で、巽聖歌自身が

本書の編集にあたっては、従来定本とされてきたものに、さらに原稿のあるものは原稿に、それのないものは初発の単行本につきあわせ、完全を期した。しかしながら、制作年代を見れば分かるように、太平洋戦中に夭折した彼のことであるから、ミリタリズムでなかったにしろ、「軍帽」「聯隊」「将軍」といった種類のことばが、期せずして出てくる。時代に合わないそういう名詞は、なるべく避けるようにした。
それのみならず、戦時下の発表であるので、故意に誇張されている部面がある。戦時下では、不要不急のもの、戦意高揚する以外のものは、作品の発表すらできなかったからだ。「紙も弾丸」といわれた。
戦後、連合軍の占領下においては、これが逆転した。「飛行機」「軍艦」「戦闘」などということばが出てきても、厳しいGHQの追及があり、出版不許可になった。南吉の作品も、そういう波はくぐって、今日の生命を保っている、とはいっても、彼の書いたものは児童文学であったがために、ごく小部分の訂正削除ですんだ。今後も、でき得れば、このままのすがたで、残してやりたいと思っている。できない希望であるかも知れない。



と書いている。ってことは、「大東亜戦争~」の下りはGHQの目を気にしてのことだったんだろう。確かに新美南吉の作品は時代がまさに戦時中だったので、そういう類の話は割とある。ただ実際のところ、わたしが知ってる作品は「戦意高揚」とかそういう戦争を肯定するような話でもなく(もちろん否定するような話でもなく)、少佐が井戸に落ちて中国人に助けられた話(張紅倫)とか、朝鮮人と足袋屋のおばさんとのたわいない話(アブジのくに)とかで、逆にこの時代、差別が激しかったときにこういう作品を残してるんだよね。これって多分、特に意識して書いたんじゃないと思うんだよね。なんか自然にこういう人だったんだろうな~と思う。

あと、9月29日にはちょうど「南吉と良寛」って特別展をやっててね(もう終了しちゃったみたいです)、南吉の生涯の資料を見るだけで疲れ果ててたんだけど、なんかちらっと最後の方を見たら面白かったので、それで最初に戻って読んでみた。南吉の生前、出版された本は「おじいさんのランプ」と「良寛物語・手毬と鉢の子」だけだったそうで、それでこういう特別展をやったそうだ。面白そうだったので、「良寛物語・手毬と鉢の子」は記念館で買って帰っちゃった(入口のところでいろんな南吉の本が売られてます)。

で、あまりにも疲れたんで、記念館の2階のテ-ブルと椅子が置いてあるところで少し休んで。それから記念館を出た。

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入口のところにある「ごん」。あまりにもかわいい感じなので、わたしの中のイメージとは違うと思って、行きに見たときは「撮らなくていっか」と思ったのだが、なんか帰りに「まぁいいか」と思って撮ってきた(笑)

あ、最終回にしようと思ってたんだけど、なんか終わらなかった(笑)

その6に続く。。
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11-26 Wed , 2014
彼岸花を見に(新美南吉記念館) その4
その3の続き。

さて、「しんたのむね」に来た。「しんたのむね」は新美南吉の作品のあちこちで出てくる地名だが、「しんたのむね」で一番に思い出されるのは「牛をつないだ椿の木」だろう。

「しんたのむねを下りたところにほったら、水が出るだろうかなァ」
と、ききました。それは、利助さんが牛をつないだ椿の木のあたりのことでありました。
「うん、あそこなら、出ようで、前の山で清水がわくくらいだから、あの下なら水は出ようが、あんなところへ井戸をほって何にするや」
と、井戸新さんがききました。
「うん、ちっとわけがあるだて」
と、答えたきり、海蔵さんはそのわけをいいませんでした。



海蔵さんは、水をのみにいっている間に利助さんの牛が椿の葉をくってしまったことを話して、
「あそこの道ばたに井戸があったら、いいだろうにのォ」と、いいました。
「そりゃ、道ばたにあったら、みんながたすかる」
と、いって、お母さんは、あの道の暑い日ざかりに通る人びとをかぞえあげました。大野の町から車をひいてくる油売り、半田の町から大野の町へ通る飛脚屋、村から半田の町へでかけてゆく羅宇屋の富さん、そのほかたくさんの荷馬車ひき、牛車ひき、人力ひき、遍路さん、乞食、学校生徒などをかぞえあげました。これらの人ののどがちょうどしんたのむねあたりでかわかぬわけにはいきません。
「だて、道のわきに井戸があったら、どんなにかみんながたすかる」
と、お母さんは話をむすびました。



わたしは、長い間これらの作品を繰り返し読みながらずっと「しんたのむね」の想像をしてきた。道はもちろん舗装してない砂利道かな、それとも土の道かな、わたしのイメージとしては黄土色の道だったので、多分土の道だと思ってるのだが、道のへりには椿の木が植えてあるくらいだから、きっと他の木もうっそうと茂ってるんだろう。崖になってるらしいから、すぐ近くに山があるんだろうか。あ、そういえば一番始めに「山の中の道のかたわらに」って書いてあったよな。だからここは山の中なんだ。きっと急な坂道なんだろう。だからみんな喉が渇くんだ。そしてそこの道をいろいろな人たちが行き交っている姿、せわしく行き来している姿、、を想像していた。

「牛をつないだ椿の木」は、以前にも書いたと思うがわたしの大好きな作品の一つだ。物語的にはちょっとお説教臭さというか、道徳の教科書的というか、そういうものがちらついて見えるのだけど、基本、わたしはこういう「人としての正しい行い」みたいなのに少し弱かったりする(笑)

金を持ってそうな利助さんが「その三十円をどうしておれが出すのかェ。おれだけがその水をのむなら話がわかるが、ほかのもんもみんなのむ井戸に、どうしておれが金を出すのか、そこがおれにはよくのみこめんがのォ」といって断るところ、それならと思って賽銭箱のようなものを椿の木に吊り下げて「ここに井戸をほって旅の人にのんでもらおうと思います。志のある方は一銭でも五厘でも喜捨してください」と書いた札を付けて、誰かが寄付してくれないか見ていたところ、札を読んでも誰も寄付しなかった場面。現実的にも大いにあることだ。昔、わたしが大学生の頃、大学には男子寮があったんだけど、女子寮がなかった。だから、遠方から通ってくる人が「女子寮を作りたい」って運動を始めたんだけど、結局「今運動して実現したとしても、自分たちが卒業するまでに寮が建てられるとは限らない」ことを知り、一瞬でその話は消えた。そういうことだよね。「今、こういう人たちがこういう目に遭って苦しんでいます。誰か助けて下さい」という話を聞いても「ああ、そうだね、かわいそうな人たちだね。悲しいね。涙が出るね。やりきれないね」と言って何もしない。そういうことだよね。

もちろんこれは、人のことを言ってるんじゃない。わたし自身のことだ。寮の話はわたし自身当事者でもあったしね。そしてもちろん、自分が聞いたすべての話に対してすべてかかわることは不可能だ。けど、それは何かをやらない理由にはならない。自分にできることは限られているけれど、できる範囲で何かをやる、やっていかねばならないとは思っている。なかなか難しいけどね。一番楽でやった気になれるのは金を出すことだけど、わたし、今、金、全然持ってないから、何か別の方法で、とは考えているけれど。

まぁ話を元に戻そう。

そして海蔵さんが「けっきょく、ひとはたよりにならんとわかった。いよいよこうなったら、おれひとりの力でやりとげるのだ」と決意し、いつもはお客を待っている間(海蔵さんは人力車ひき)、駄菓子屋でお菓子をつまむのが常だったんだけど、決意したあとは一切食べるのを止めてしまう。わたしは、ここの駄菓子屋のシーンがなんか好きでね。ついつい今までの習慣で駄菓子を食べたくなってしまう姿、それを必死で抑える姿。目の前にまざまざと光景が思い浮かぶ。新美南吉のすごいところは、文章のところどころで目の前にありありと思い浮かぶ、とても美しい表現があるところなんだよね。

例えば

秋の陽ざしは暖かく和んで、あちらの汲みたての水盤に水を飲みにくる蜂が、金色の糸をひいたように光った。(「良寛物語・手毬と鉢の子」より)



こんな表現。こういう美しい表現、目の前に浮かぶような表現があちこちにあるの、この人の作品。「おじいさんのランプ」の、わたしが一番好きなところ。

「わしの、しょうばいのやめかたはこれだ」
と、巳之助はひとりでいった。しかしたち去りかねて、ながいあいだ両手をたれたまま、ランプの鈴なりになった木を見つめていた。
ランプ、ランプ、なつかしいランプ。ながの年月なじんできたランプ。
「わしの、しょうばいのやめかたはこれだ」
それから巳之助は、池のこちらがわの往還に来た。まだランプは、むこうがわの岸の上にみなともっていた。五十いくつもがみなともっていた。そして水の上にも五十いくつの、さかさまのランプがともっていた。立ちどまって巳之助は、そこでながく見つめていた。
ランプ、ランプ、なつかしいランプ。
やがて巳之助はこごんで、足もとから石ころをひとつひろった。そして、いちばん大きくともっているランプにねらいをさだめて、力いっぱい投げた。ぱりいんと音がして、大きい火がひとつ消えた。
「おまえたちの時世はすぎた、世の中は進んだ」
と、巳之助はいった。そしてまたひとつ石ころをひろった。二番めに大きかったランプが、ぱりいんと鳴って消えた。
「世の中は進んだ。電気の時世になった」
三番めのランプを割ったとき、巳之助はなぜかなみだがうかんできて、もうランプにねらいをさだめることができなかった。



うわ、泣きそうだ、わたし。ここは何度読んでも本当に好きな場面で。このシーンは、わたしの頭の中で何回も何回も繰り返し想像してきたシーンだ。新美南吉の作品のすばらしさはこんなところにもあるとわたしは思っている。

あ、「牛をつないだ椿の木」の話だった(汗)

そして物語はこれで井戸を作ってめでたしめでたし、じゃないのだ。2年かけてお金を貯め、いよいよ井戸を掘らせてもらおうと地主の元に行くのだが、地主は「井戸を掘らせない」と言う。その地主はしゃっくりが止まらず、じきに死ぬだろうということで、地主の息子は「そのうちわたしの代になりましょうから、そしたらわたしが、あなたに井戸をほることを承知してあげましょう」と言うのだ。そこで家に帰って海蔵さんはお母さんに「あのがんこもんのおやじが死ねば、息子が井戸をほらせてくれるそうだがのォ。だが、ありゃ二、三日で死ぬからええて」と言ったところ、お母さんに「おまえは、じぶんの仕事のことばかり考えていて、わるい心になっただな。ひとの死ぬのを待ちのぞんでいるのは、わるいことだぞや」と言われる。海蔵さんはハッとする。ハッとして、まだ生きている地主のところに行く。そして「わしは、あやまりにまいりました。きのうわしは、ここから帰るとき、息子さんから、あなたが死ねば息子さんが井戸をゆるしてくれる、と聞いて、わるい心になりました。もうじきあなたが死ぬからいい、などと、おそろしいことを平気で思っていました。つまり、わしはじぶんの井戸のことばかり考えて、あなたの死ぬことを待ち願うというような、鬼にもひとしい心になりました。そこで、わしは、あやまりにまいりました。井戸のことはもうお願いしません。またどこか他の場所をさがすとします。ですから、あんたはどうぞ、死なないでください。どうぞなおってください」とまだ生きている地主に言う。

ただ、わたしはここの後半部分は嫌いです(笑)なぜ、自分が悪い心になったことをわざわざ地主に報告に行くのか。もちろん、そうしなきゃ話が進まないからだろうが、少なくとも言うべき相手は「地主の息子」であって、まだ生きている地主ではないと思う。悪い心を持ったことについては、反省すべきだが、その反省したことは別に人に言うことはないじゃない?反省したことを誰かに言うってことは、誰かに評価してもらいたい、という気持ちがどこかにあるんじゃないの?って、意地の悪いわたしはそう思ってしまうのだ。だから、わたしはこの後半部分は気にくわない。

あーでもこの話、うん、やっぱりどこか道徳的な話だよね(笑)けど、なぜわたしがそこまでこの話に惹かれてしまうのか、、それはやっぱりこの人の生き方に感動するからだと思うんだよね。

新美南吉の作品って、「ごんぎつね」は違うんだけど(「ごんぎつね」は分かり合えた瞬間に相手を失ってしまう、しかも自分の手によって、という不条理な話だよね)、「花のき村と盗人たち」とか「おじいさんのランプ」とかって、わたしが好きなのは、出てくる人の「生き方」が好きなんだな、結局。「おじいさんのランプ」は上の引用でだいたい分かると思うけど。

ちなみに「花のき村と盗人たち」でわたしが一番好きなシーンは

たいていの牛の子というものは、そこらをぴょんんぴょんはねまわって、持っているのがやっかいなものですが、この牛の子は、またたいそうおとなしく、ぬれたうるんだ大きな目をしばたたきながら、かしらのそばに無心に立っているのでした。
「くッくッくッ」
と、かしらは、わらいが、おなかの中からこみあげてくるのが、とまりませんでした。
「これで弟子たちに自慢ができるて。きさまたちがばかづらさげて、村の中を歩いているあいだに、わしはもう牛の子一ぴき盗んだ」といって、
そしてまた、くッくッくッとわらいました。あんまりわらったので、こんどはなみだが出てきました。
「ああ、おかしい。あんまりわらったんで、なみだが出てきやがった」
ところが、そのなみだが、流れて流れてとまらないのでありました。
「いや、はや、これはどうしたことだい、わしが、なみだをながすなんて、これじゃ、まるでないているのと同じじゃないか」
そうです。ほんとうに、盗人のかしらは泣いていたのであります。―かしらはうれしかったのです。じぶんはいままで人からつめたい目でばかり見られてきました。じぶんが通ると、人びとはそらへんなやつがきたといわんばかりに、まどをしめたり、すだれをおろしたりしました。じぶんが声をかけると、わらいながら話しあっていた人たちも、急に仕事のことを思いだしたように向こうをむいてしまうのでありました。池の面にうかんでいる鯉でさえも、じぶんが岸に立つと、がばっとからだをひるがえしてしずんでいくのでありました。あるとき猿まわしの背中におわれている猿に、かきの実をくれてやったら、ひと口もたべずに地べたにすててしまいました。みんながじぶんをきらっていたのです。みんなが自分を信用してくれなかったのです。ところが、このわらじをはいた子どもは、盗人であるじぶんに牛の子をあずけてくれました。じぶんをいい人間であると思ってくれたのでした。またこの子牛も、じぶんをちっともいやがらず、おとなしくしております。じぶんが母牛ででもあるかのように、そばにすりよっています。子どもも子牛も、自分を信用しているのです。こんなことは、盗人のじぶんには、はじめてのことであります。人に信用されるというのは、なんといううれしいことでありましょう。
そこで、かしらはいま、美しい心になっているのでありました。子どものころは、そういう心になったことがありましたが、あれから長いあいだ、悪いきたない心でずっといたのです。ひさしぶりでかしらは、美しい心になりました。これはちょうど、あかまみれのきたない着物を、急に晴れ着に着せかえられたように、きみょうなぐあいでありました。―かしらの目からなみだが流れてとまらないのは、そういうわけなのでした。



というところだ。ただし、これは特に「生き方」の場面じゃない。この場面もちょっとくさいところだけど、でも、わたしがここが好きなのは「何か努力をした結果、いいことが起こったわけじゃない」ってところなんだよね。なにか、自分が努力したわけじゃないのに、ふとしたことが起こり、心が変わる。ふとしたことに、敏感に心が反応する。わたしはこの話、これ以後の結末に至る話も好きなんだけど、でも、中でもこのシーンが一番好きで、「花のき村と盗人たち」というと、このシーンが一番に思い浮かんでくる。

もう一つ、わたしが好きな作品に「うた時計」があるんだけど、これは特に好きな場面ってのはないの。でも、全体的な話が好きなの。わたしはこの作品で「清廉潔白」って言葉を知った。

ああ、わたし、今まで新美南吉の作品に対する好みの共通点なんて考えたことがなかったけど、考えたら多分、それだったんだなー。。

あ、「しんたのむね」の話だけするつもりが、なんか大いに話がずれちゃった(笑)

で、今回、いろいろ回るに辺り参考にしたのがここなんだけど、この一番上の地図の中に「しんたのむね」ってあるでしょ。それをね、見た途端に「ここには絶対に行く!」って決めたの。これだけ思いがこもった作品に出てくるところだもの。これは絶対に行かなくちゃ!って思った。もう一つ、「半田池」も「おじいさんのランプ」の舞台になった、って書いてあるから、ここもすごく行きたかったんだけど、いかんせん、歩くしか手段がなかったもんで、ちょっと遠すぎて。。ああ、でも、ランプが吊り下げられて、ぱりいんって割られた、あの池、、いつか行ってみたい。。

で、「しんたのむね」付近に着いた。

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「へ?ここ?」って思ったね。。あまりにも、あまりにも、想像してたのとは違いすぎてって。第一、全然山の中じゃないじゃん!って当たり前なんだけどさ。。。あの話は日露戦争前後の話だから、今から100年以上前の話だしね!そりゃ、全然違ってるのは当たり前だよね!だからせめてそこから「100年前の光景」を想像しようとしたんだけど、、ちょっと難しかった。やっぱここがかつて「山の中」だったことを想像することなんかできなかった。でも、ここがあの「しんたのむね」かと思ったら、なんか心が熱くなったよ。

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「しんたのむね」付近には、こういう看板が立ってた。そこに書いてある

「しんたのむね」の下の旧道から少し入ったところには、作品の通り、清水が湧いていて、茶碗が置かれ、道往く人々や学校帰りの子ども達が喉を潤していました。



というのを読んで、よっぽどもうちょっと道を下ってそこがどういうところか見に行きたかったんだけど、その続きに書いてあった「そうした光景も見られなくなりました」っていうのを読んで止めた。既にここに来ただけで、そうとう足が痛かったから。。昭和40年代か~。わたしが生まれた頃だもんなあ~。。

けど、わたしの憧れだった「しんたのむね」に行くことができて、本当に嬉しかった。

その5につづく。。
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11-22 Sat , 2014
ノロウイルス罹患
いやー、初めての経験。

ノロウイルスに感染してひどい目に遭った。

てか、ウイルス検査してないので本当にノロかどうかは分かんないけど、まぁ典型的な症状なので、まず確実だろうと思う。一昨日の夜に突然吐いて、その後、何回も何回も吐いて。次第に体中がピリピリ、ゾクゾクしてきて発熱の兆候、そして下痢までは行かなかったけどお腹がぐるぐる言って。一昨日の夜は一睡もできなかった。

夜が明けてから、死ぬ思いでタクシーに乗って病院へ。「典型的な胃腸炎ですね」と言われ水分補給と吐き気止めの点滴を2時間。少し楽になって帰ってきた。

それからずっと寝てて、夜に少しおかゆを食べて寝たら、また嘔吐。食べたもの、飲んだもの(水分補給のためにお茶やらポカリスエットを飲んでた)全部出た感じ。「よく胃の中にこんなに残ってるね」と思ったほどたくさん吐いた。まぁその夜はそれ1回切りだったけど。。

次の日は頭痛で苦しむ。なんで頭痛が出てきたのか分かんない。わたしは偏頭痛持ちであるけど、頭の痛さには非常に弱くって、それですぐに吐き気が来る。なので、このときになるとお腹が気持ち悪くて吐き気がするのか、頭痛で吐き気がするのか、よく分かんなくなってた。

結局固形物は夜におかゆを食べたきり。それまでまったくお腹なんか空かなかった。夜におかゆを食べて初めて「なんかもっと味のあるものが食べたい」と思って、同時にコーンスープも飲んだ。きっと身体の中の塩分が足りなくなってたのかなと思う。

そしたら急激にお腹がいっぱいになって気持ちが悪くなった。食べたことを後悔した。けど、これは寝てたら自然に治った。しかし、一旦治ったと思われた頭痛がまたぶり返してきて。。

今日の明け方、頭痛で目が覚めた。気持ちが悪くて何度も吐こうとしたんだけど、もう吐けなかった。きっと胃腸炎はもう治ってきてるんだろう。薬を飲んで、それでも治らなかったので彼女を起こしてちょっと頭を揉んでもらって、そうしたら頭痛はスッと消えて、眠れた。

症状が出て3日目の朝を迎えるが、丸2日、ほとんど何も食べてないので身体に力が入らない。

回復するのにはもうちょっとかかりそう。

いやー、ひどい目に遭った。
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11-19 Wed , 2014
彼岸花を見に(新美南吉記念館) その3
その2の続き。今さらだけど記憶が薄れないうちに書いておかないと(笑)

彼岸花が植えてあるところは、矢勝川の高田橋ってところから弘法橋ってところらしい。わたしがスタートしたのは高田橋の方。その2の最後から2枚目の画像で橋が映っているが、これが高田橋。高田橋から弘法橋方面を望むと

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こんな感じ。もちろん、川が曲がりくねっているので、ここから弘法橋を見ることはできない。この画像を見ると「あれれ、そんなに咲いてないじゃん」って思われるかも知れないが、わたしも行って初めて知ったんだけど、彼岸花って場所によって咲いてるところと咲いてないところの差が激しいのね。わたしは桜みたいに咲き始めたら全部満開で、あとは一気に散る、というのを想像してたのよ。だけど、全然そんなんじゃないってことが分かった。その1にも書いたけど、旅行行く前にここのサイトで見頃をチェックしてて(ここのサイト、今は更新止まってるけど、まつりの前後は毎日開花状況を更新してた)、ほぼ咲きそろったと思ったところで行ったんだけど、正直なところ、もうちょっと早めに行けばよかったと。まぁもうちょっと早めというと、バスの値段が高い金曜日の夜に帰ることになったり、土日に当たったりしてしまう日程になるんで、今年はタイミング的に仕方がなかったのかなーという感じがするが。ちなみに今年は例年より咲くのが早かったらしい。ただ、全部咲きそろうことはないので、この時期でも十分楽しめましたよ、もちろん。

土手を少し歩くと「ででむし広場」ってのがある。「ででむし」って言うとわたしがすぐ思い出すのは

生(あ)れいでて
舞ふ蝸牛(ででむし)の
触覚(つの)のごと
しづくの音に
驚かむ
風の光に
ほめくべし
花も匂はば
酔(え)ひしれむ



この詩ですね。これは新美南吉が安城高女だったっけ?に勤務してた頃に、クラスで詩の文集かなんか作って、その最初にあった詩なんだよね。今回、この句碑がないかなあって探してたんだけど、この句碑は安城市の元安城高女のあった小学校にあるらしい。この詩、前にも書いたけど、わたしが小学校5年だったか6年だったかに、なんで新美南吉が出てきたのか覚えてないんだけど(もしかして「おじいさんのランプ」を習った関係?)この詩を先生から紹介されて、覚えさせられたのです(覚えさせられたって言うとなんか無理矢理みたいだけど、そういうわけじゃない)。その他に新美南吉で「ででむし」っていうと「でんでんむしのかなしみ」という作品もあるけど(こっちの方は童話の割に哲学的なお話)、「ででむし」っていうのと「でんでんむし」っていう言葉は、わたしの中でかなり印象が違ってて、やっぱり「ででむし」は「ででむし」なんだよね~。わたしにとっては小学校の思い出と共にある作品だから、これもまた、いつか安城に行って、直接句碑を見てきたいな(小学校にあるそうなんだけど、入れるのかな?)。

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「ででむし広場」から望む。ここら辺はほぼ「満開」って言っていいんじゃないかと思う。まぁ、こんな感じで土手の斜面一面に彼岸花が咲いてるわけです。

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これは「ででむし広場」からしばらく行ったところ。結構「果てしなく」続いてる感じ。しかも、画像見て分かると思うんだけど、人がほとんどいなかった(笑)このずっとずっと先に「新美南吉記念館」があって、その周辺は確かに人が多かったんだけど、ここら辺まではわざわざ歩いてくるような人は少ししかいないみたいです。まぁあとは平日ってこともあると思うけどね、もちろん。

ただ、わたし、彼岸花を見ながら思った。「わたしのイメージしてたのは、川の土手の内側に咲いてる彼岸花なのにな」って。しかし、川は護岸工事で

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こんなになっていて、彼岸花を植えるすき間がないんだよね。。これは考えても仕方がないことなんだけど、物語が作られた昭和初期、の頃は全然こんなんじゃなくって、自然のままだったんだろうな、と。そこに彼岸花は咲いてなかったとしても、土手は草に覆われてたんだろう。そうだ、ここは「ごんぎつね」で兵十がウナギを獲っていた川じゃないのか。

ごんは、村の小川のつつみまで出てきました。あたりの、すすきのほには、まだ雨のしずくが光っていました。川はいつもは水がすくないのですが、三日もの雨で、水がどっと増していました。ただのときは水につかることのない、川べりのすすきや、はぎのかぶが、きいろくにごった水によこたおしになって、もまれています。ごんは川しものほうへと、ぬかるみ道を歩いていきました。
ふと見ると、川の中に人がいて、なにかやっています。ごんは、見つからないように、そうっと草の深いところへ歩みよって、そこからじっとのぞいてみました。
「兵十だな」と、ごんは思いました。兵十はぼろぼろの黒いきものをまくしあげて、こしのところまで水にひたりながら、さかなをとる、はりきりというあみをゆすぶっていました。はちまきをした顔のよこっちょに、まるいはぎの葉が一まい、大きなほくろみたいにへばりついていました。



平成26年になってしまった、今現在の川の姿からは想像するのがとても難しかったんだけど、かつてはこのようにしてウナギを獲っている人がいたんだよなって思いながら、土手を歩いていた。ああ、でも中には

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こういう、土手の内側で咲いているところもありましたよ。ここら辺はもう咲いたあとでほとんどしおれてたけど、

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中にはこんな感じで咲いてるところもあった。まぁ土手の内側で咲いてたのはほんの一部だったけどね。

こんな川にはもう、ウナギなんかいないだろうなと思いながら見てたら、

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こんなコイがいたし、それからもっと歩いていたら、こんな看板もあった。そっか。ウナギも市民の手で放流してたりするんだなあ。。コイはこういうところでも結構生きていけると思うんだけど、ウナギはどうなのかな?

彼岸花の方に話を戻すと、一応、咲いてるは咲いてる。んだけど、遠くから見ると

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こんな感じで、どうもわたしが想像してたような「土手一面が彼岸花で真っ赤」に染まってる感じじゃないんだよね~。一面が真っ赤なのはどこじゃろ、どこじゃろ、と思いながら歩いてたんだけど、どこも一面が真っ赤なところはなく、咲いているところと咲いてないところ、既に咲いちゃったところが混在してました。ただ、本当に近づくと

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こんな感じで、「彼岸花のじゅうたん」みたい。さらに近づくと

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こんな感じ。全面咲きそろってるように見えるかも知れないけど、よく見るとまだつぼみ状態のものもたくさん含まれてるんだよね。まだ咲いてないところは、

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これがつぼみ状態のところ。でも多分、これが咲く頃には今咲いているところはもう枯れちゃってるだろうな。枯れると赤い色が褪せてきて、

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この画像の手前の花みたいになってくる。まぁ多分、咲き始め以降はみんなこんな感じで咲き終わったものと咲いているものとこれから咲くのが混在してるんだろうね。その中でどの状態が「満開」なのかを見極めるのは結構難しいと思った。そうそう、中にはこんな感じで

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白い彼岸花もあった。黄色いのは見た感じじゃなかったかな。ただ、ここら辺は歩いてもうだいぶ経ったところで、足は痛くなるしお腹は空いてきたしで、正直なところあんまり「彼岸花!」って感じでもなかったのよね(苦笑)で、この「まつり」の期間中は記念館の近くに「彼岸花案内所」ってものが設けられてて、そこはどうも休憩所でもあるらしかったので、そこで名古屋駅で買った「天むす」を食べようと思った。事前にここら辺でどこか食べるところないかしらと思ってお店を調べたりしたんだけど、車ならともかく、歩いて行くのはとてもめんどくさそうだったんだよね。なので新幹線降りてから名古屋駅で弁当を買うことに決めてたんでした。「彼岸花案内所」の方に折れていく前に、こんな案内板があった。

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画像じゃ光っててよく見えないけど「童話『ごんぎつね』の舞台」って書いてある。ちなみにここに書いてある「権現山」だけど、わたしにはどれかよく分かりませんでした(苦笑)付近には小さな山みたいなのはいくつかあって。多分これだろうなってのはあったけど。「ごん」が住んでいると思われる、権現山からここ、矢勝川まで。昭和の初め頃の風景を一生懸命想像してみようと思ったんだけど、無理でした。。ってより、わたしの何十年って頭の中で持ってる「景色」の方が強かったのかな、、

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案内所に着いて、天むすを。案内所は広場みたいなところで、地元の人なのかな?がいくつか、お店を開いて何か売ってました。弁当の類じゃなく、土産物か少しの食べ物、あとは洋服だったか?なんか、こういうと悪いんだけど「こんなところでわざわざ買うかなあ」って思うものが売ってたような気がした(済みません。。)。で、テント張ってある下に椅子と机がいくつか置いてあって、そこで弁当を食べてる人がたくさんいました。ほとんどが地元の人で、わたしが見たところ、結構歳いってる人が多かったなあ。地元の人かなって思ったのは、横で会話を聞いてると、なんか地元っぽい方言だったから。みんな2、3人のグループで来てて、わたしみたいに一人で来てたのは誰もいませんでした(笑)

しばらく休んだあと、記念館の方には向かわずに、取り敢えず終点の弘法橋まで行った。

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弘法橋から来た方向の高田橋方面を望む。弘法橋付近は全然彼岸花なかったけどね。で、わたしはそこから記念館に向かわずに「しんたのむね」に向かいます。「しんたのむね」に行く途中、ススキがあったり、あと、周辺は田んぼでちょうど借り入れ直前、という感じだった。

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こういうのも「南吉童話」を構成しているものなのかなと。

その4に続く。。
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11-18 Tue , 2014
彼岸花を見に(新美南吉記念館) その2
その1を書いてから半月以上経ってしまった(汗)9月29日に行ってきた旅行記を今頃書いても、って気もしてるけど、まぁ、書いて残しておきたい気もするんで、今のところは一応最後まで書く気でいます。

で、どこまで行ったんだっけ。あ、名古屋に着いたところまでか。いや、実は結構前に「その2」を書き始めてたんだけど、画像をアップする上でここのブログ、画像1枚2MBまでっていう制限があるんだよね。それにひっかかる画像が多くて、先に画像を加工してたらこんなに時間が経ってしまった、ということだったんだよね(汗)画像自体の加工は割とすぐに終わったんだけど、それが終わったら書く気と書く時間が失われてました(笑)

「新美南吉記念館」の最寄り駅は名鉄「半田口駅」なんだけど、ここに行くためにはまず、新幹線から名鉄に乗り換えなければいけないわけで、これが結構歩くんだよね。まぁ迷いはしませんでしたけどね。あ、でも名鉄がどこに行くのかよく分からなかったので(今でもよく分かってないが)名鉄乗り場の案内のところに飛行機のマークが書いてあって「あれ、これでいいのかな?」って不安に思ってしまったのは事実。名古屋から飛行機に乗ることはまずないので、飛行場自体どこにあるか分からないし、あと「半田口」って知多半島の方だから、なんかそれとイメージ合わなくてね。

で、名鉄名古屋駅に到着。てか、「名鉄」も駅名に入ってるのね。

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事前に電車の時刻を調べて行ったんだけど、少し前に着いちゃって(思ったより名鉄名古屋駅まで行くのに時間が掛からなかった)行き先の電光表示にまだ載ってなくて、ホームが本当にここでいいのか、かなり迷いました。だって名鉄って、同じホームでも乗る電車によって行き先が全部違うみたいなんだもん!その行き先がわたしが行こうとしている「半田口」と同じなのか、そうでないのか、地名だけでは判断できないので電車来て乗って、本当にそちらの方向に行くのか確認できるまで怖かったです。まぁ、初めて行くところだったしね、、

てなわけで、無事、半田口に到着。名鉄名古屋駅から40分くらいだったかな?1時間掛からなかったと思います。確か途中まで特急だか急行だか途中の駅を飛ばしていく電車で、その後各停に乗り換えた記憶が(ほとんど2ヶ月前なので既におぼろげにしか覚えてない(汗))。

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半田口には昼少し前に着いたんだけど、「まつり」の期間中だから、十数人は降りるだろうと思いきや、数人しか降りなかったのでちょっと拍子抜け。駅は「新美南吉」一色。まぁ当たり前か。

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こんなん、とか、駅を出て踏切を渡ろうとしてみれば

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こんなのがドーンって書いてあったりね。「ごんぎつね」のふるさとなんで、キツネの絵なんかががたくさん書いてあったり、立体の姿のキツネもたくさん見たんだけど、この先も。正直、どれもかわいすぎて、わたしの中の「ごんぎつね」とは掛け離れてた。わたしの中の「ごんぎつね」はもっと不細工な顔をしてます。

ごんは、「へえ、こいつはつまらないな」と、思いました。
「おれが、くりやまつたけをもっていってやるのに、そのおれにはおれいをいわないで、神さまにおれいをいうんじゃ、おれは、ひきあわないなあ」



こんなことを思ってしまう「ごん」だから。もっと眼が細くて、もっと口が尖ってて。不平、不満もたらたら言って。そういうのがわたしの想像している「ごんぎつね」。なにぶんにも、小学生の頃から繰り返し読んでいる「新美南吉」なので、わたしの中では何十年も繰り返し、繰り返し、想像されてきたものなんだよね。だから、描いてある「ごん」、飾ってある「ごん」はどれもかわいすぎるようにわたしには思えてならなかった。

駅を出て、彼岸花を見に、矢勝川に向かう途中でまず見たのがこれ。

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この画像自体は、帰るときに撮ったものなので夕方になっちゃってるけど。わたしはこの「岩滑」って文字を見て「ああ、やっとここに来たんだ」って思ったの。新美南吉の作品の中にはたくさん「岩滑」って地名が出てくる。この地名を初めて見る人は多分、これをどう読むのか分からないだろう。「岩滑」とかいて「やなべ」と読む。岩滑という文字ほど、わたしが「ここに来た」という実感が持てるものはなかった。これを見て、初めて「ここが多くの物語の舞台になったところなんだ」って実感した。

矢勝川に行く途中で、新美南吉の生家があるってことで、寄ってみた。

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生家の中は入ることができたし、階段降りて1階(と言えばいいのか。ここは家の向こうが「がけ」みたいになってて、ここから見ると平屋に見えるんだけど、この部分は実は2階なんだよね。2階というか、ここが1階で下に降りて地下1階、というか。でも別に「地下」ではないので、、表現が難しい)も降りて台所とか、みんなでご飯食べてたところとか、風呂桶とかそういうのも全部見られる。とても小さい家でした。小さいと言えばいいのか、低いと言えばいいのか。ご飯食べてた部屋なんて、多分、わたしは背を伸ばして歩けないくらいの低さだったんじゃないかと思う。「生家」というのは、新美南吉は生まれて8歳くらいで母方のおばあさんの養子になるんだよね。まぁなんかおばあさんと2人暮らしが寂しくて、数ヶ月で戻って来ちゃうらしいんだけど。それから、大きくなってからは離れが近くにあって、弟と一緒に離れに暮らしてたらしいです。ご飯を食べるときに母屋に戻ってきてたとか。

生家に寄ったあと、なんか近くにトイレがあるって言うんで行ってみたら、でかい金木犀の木が植えてあって、それも満開だった。そうそう、これからずっと土手を歩いて行くんだけど、なんかずっと金木犀の香りが漂っていてね。そういうのも思い出の一つとして残ってます。

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生家に寄って矢勝川に行く途中、こんなのを見つけた。

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お地蔵さま。新美南吉の作品にはお地蔵さまの描写ってあったっけ?あったとしても具体的に今、すぐには思い出せないんだけど、ただ、作品とこういう風景はとても合っていて。「ああ、こういう中で南吉はあれらの物語を書いたのだ」って思った。ただ、もうちょっとこういうのに遭遇するかと思ってたんだけど、わたしが気が付いたのはこれだけだった。

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というわけで、ついに矢勝川に着く。ただ、すぐに土手を歩いたわけじゃなく、この進行方向、道路を挟んだ右側に「ごんごろ緑地」という公園みたいなのがあったのでそこに寄る。

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「ごんごろ」といえば、すぐに思い出すのが「ごんごろ鐘」という作品。もちろんこの緑地の「ごんごろ」というのは「ごんごろ鐘」のお話から取ったものだろう。この作品は特に好き、というものではないが、戦時中、鐘を供出するときの出来事を書いた話で、中でもとりわけ印象的なのが

紋次郎君とこのばあさんが、
「三河のごんごろうという鐘師がつくったと書いてねえかン」
と、きいた。
「そんなことは書いてねえ、助九郎という名が書いてある」
と、吉彦さんがこたえると、ばあさんはなにかぶつくさいって、ひっこんだ。



というところだ。「ごんごろ鐘」の「ごんごろ」の由来について、作った鐘師のぜんそくが移っただの、三河のごんごろうが作っただの、最初は「ごんごん鐘」と呼ばれていたのがいつの間にか「ごんごろ鐘」になったのだの、って話が最初の方に出てくるのだが、供出するに当たって鐘を下ろして中を見たときの場面だ。「ごんごろう説」を唱えていたおばあさんが自分の説が正しいと思って聞いてみたら、全然違う人の名前が書いてあったので、ぶつくさ言って引っ込む。ここの場面、本当に目の前に浮かんでくるような感じ(笑)わたしは新美南吉の、時折すごくリアリティがある描写がとても好きだ。

まぁ、だからといってこの公園には名前以外にごんごろ鐘を思い出させるものはなかったのだけど。あ、あとは画像は撮ってこなかったんだけど、なんか石碑(句碑?)みたいなのが入口にあったような気がするな。

というわけで、その3に続く。。

次からやっと、彼岸花の画像、出ます。今回もなんだか前振りみたいなものになってしまった。。まぁでも、わたしにとってはここは一種の「夢の国」みたいな感じで、既にもう気持ちはふわふわしてたんだよね。。
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10-25 Sat , 2014
彼岸花を見に(新美南吉記念館) その1
日記を書こうと思って気が付いたんだけど、カテゴリが「二人で行った旅行」しかないのね。わたし、夏の旅行もそうだったんだけど、一人で旅行に行くことが増えてきたし、今後も一人で行くことが多そうなので、カテゴリ増やそうかな~。それともこのままで行くかな?特に従来のカテゴリも「二人」というところを強調しているつもりはなくって、単に「旅行」カテゴリのつもりだったんだよね。

ただ、以前は「二人で行くことが当たり前のこと」ってどこかで思ってたのが、「別に一人で行ってもいいじゃん」って認識に変わったのは事実だと思います。そしてそれの大きい原因は「猫」ってこともあるだろうね。二人とも出かけてしまうと猫の面倒を見られなくなってしまうので。。

そしてわたし、実は一人旅は昔から大好き、だったんだよね。一人旅は高校生の時から始めたんだけど、夏休みや春休みに青春18切符で電車に乗りまくる、宿はYHに泊まって、という旅行をしてました。二人であれこれ感じたことを言いながらの旅行もいいんだけど、一人で誰と話すこともなく頭の中で思考を巡らせながらの旅行はまた格別。YHではいろんな人と出会うのも好きだった。今はYHも高くなっちゃってほとんど泊まることはないけど「ああ、わたしはこういうのが大好きだったんだ」ということを思い出した。

ってわけで、夏は日記には長崎のことしか書いてないんだけど、東京→長崎→薩摩川内→広島→大阪、って旅行をしてきてかなり楽しかった。そして今回は愛知県半田市にある「新美南吉記念館」に行ってきた。行ってきたと言っても、もう1ヶ月前の話ですが、、その後いろいろ忙しくしてたらこんなになってしまった(汗)

新美南吉、と言えば、ご多分に漏れず、小学校の授業でやったわけだけど、確か低学年の時は「手袋を買いに」、中学年で「ごんぎつね」をやり、高学年で「おじいさんのランプ」をやったんじゃないかと記憶している。ただ、高学年の時の「おじいさんのランプ」は授業でやったのかそれとも個人的に読んだのか、それが定かではなく。。でもあの時期に南吉の「あれいでて 舞うででむしの 角のごと」って詩を知って覚えさせられたりしたので、高学年でも何らかの形で新美南吉のことをやったのは確かなんだよね。

低学年の時の「手袋を買いに」は、著者が誰とか全く気にしてなかったし、何よりこの作品はわたしはあんまり好きではなくて。「ごんぎつね」で著者が新美南吉って知ったような気がするけど、これも当初は「ふーん」って感じだった。「文学」の授業で本当に長期にわたって長く長くやったのを思い出すんだけど、正直、わたしは「文学」の授業はあまり好きではなかったので。。(うちの小学校は私立だったんで、文部省検定の教科書は使ってなくて、独自に「ぶんがく」という教材が作られてて、それを使って授業をやってた)。最後にごんが兵十に撃たれて死んでもあんまりなんとも思ってなかった。

新美南吉にはまりだしたのは、だから「おじいさんのランプ」を読んでからかなー?「わしの、しょうばいのやめかたはこれだ」のところからの一連の文章は思い返すだけで涙が出てくる(今も思い出して泣いてる)。湖のほとりに吊り下げられたランプが一つずつ割られていくシーンは、わたしの頭の中の想像のシーンしかもちろんないんだけど、ものすごく鮮明で、多分わたしが死ぬまでわたしの頭の中に刻み込まれてるんだろう。新美南吉の作品にはそういった「想像なんだけど、ものすごく鮮明に頭の中にあるシーン」がとても多い。

それ以来、わたしは新美南吉という人が他にどういう作品を書いたのかがすごく知りたくて、文庫本2冊とムック本1冊、これはあの当時、本の探し方など知らなかったので、適当に本屋で目に付いた時点で手に入れた。持っているのは、角川文庫「牛をつないだ椿の木」昭和53年6月20日十八版、講談社文庫「ごんぎつね、最後の胡弓ひきほか14編」1991年5月20日第34版、講談社Super文庫「新美南吉童話大全」1989年8月21日第一刷。新美南吉はおそらく全集が出てると思うんだけど、全集とは出会わなかった。全集が置いてあるような本屋には行かないか、行ったとしても全集が置いてあるコーナーなんて行ったことないからなぁ。全集というものがある、ということも多分全然認識してなかったんだろうと思う。こういうとき誰か大人が「こういうのがあるよ」って教えてくれたら、、って思うことが最近よくあるんだよね。興味を持ってても子どもの力では探せる範囲が限られてるから、どうしても狭い範囲で終わっちゃう。そのときに広い世界を知ったら、、また違った経験ができただろうな、と。まぁいいんだけど。

作品をたくさん読むうちに、自分が好きな童話がいくつも増えた。「おじいさんのランプ」はもちろん、「牛をつないだ椿の木」「花のき村と盗人たち」「うた時計」、まぁ一般に「いい」と評価されてる作品なんで、それはちょっとつまらないかなと思うんだけど、好きな作品を挙げろと言われると真っ先に挙げるのはこれらの作品。「九助君の話」から始まる一連の九助君話は正直なところ、わたしはあんまり好きじゃない。なんか背中がヒヤッとする作品なんだよな、あれ。なんか冷たいドロドロしたものが押しつけられてる感じがする話たちなんだよね。こどもたちの生々しい関係性、生々しい感覚の話。そういう感覚がわたしはあまり好きじゃなかった。ただ、今読んだらどうなんだろう、、もしかしたら読んでた当時と全然違った感覚を持つかも知れないです。

ってわけで、新美南吉は好きだったんだけど、ある日、新聞を読んでたら、新美南吉の生まれ故郷半田市に「新美南吉記念館ができた」というのが載っててね。「これはいつかは行きたい!」って思ったのね。多分、平成の初め頃だったと思う。

ただ、ずっと「行きたい」とは思ってたし、名古屋にはあれから何度も行ったけど、そこから足を伸ばしてってことにはならなかった。そのうち「ごんぎつね」にあやかって、矢勝川の土手に彼岸花が植えられて、それが季節になると土手いっぱいに咲いてる彼岸花が見られる、ってことを知った。

わたしは「ごんぎつね」を学校で習っているときは好きとか嫌いとか全然思わなくて、ただ自分の前を通り過ぎてった作品だったんだけど、いつの頃からか、ものすごくグッとくるようになってね。特に彼岸花の描写のところがものすごく好きになって、それで彼岸花って花自体も好きになった。さっき「ごんぎつねにあやかって」って書いたけど、彼岸花を植えてる新美南吉顕彰会の説明文などでは、ごんぎつねの彼岸花のシーンはわたしが好きなシーンとは別のシーンが例に挙げられてる。

墓地には、ひがん花が、赤い布のようにさきつづいていました。



一般的にはそちらのほうの彼岸花のイメージなのかな、、しかし、わたしが彼岸花のシーンで最も好きなのは、兵十のおっかあの葬式の場面に出てくる彼岸花なのだ。

人びとが通ったあとは、ひがん花がふみおられていました。



ってわけで、これはますます行きたくなって、そしてようやく今年「行こう」ってことに決めた。だって、いつか「行こう」と思わなきゃいけないところなんだもん。何かのついでとかは絶対に有り得なさそうなところなんだもん。それに最近思い始めたんだけど「行きたいときに行くことにする」なんだよね。「いつか行けるから」と思ってても、何かがあって行けなくなるかも知れない。そのとき「ずっと行きたかったのに」って悔やむのはイヤなのだ。

ただ!今年は6月に札幌、青森にも行ったし、8月には九州の方まで行ったし、旅行行き過ぎってことで、金がない。なので、「ぷらっとこだま」っておそらく新幹線の中ではもっとも安く行ける方法で名古屋に行って、それから半田まで行き、一日そこで過ごして、夜は高速バスで東京に帰ってくる、というルートにした。まーこれでも交通費1万以上にはなるけど、泊まらないのでその分料金安くあげられるってことで。安く行こうとすると時間が掛かって、結局はそこで泊まらなくちゃならなくなる。タダで泊めてくれる友だちがいればそれでもいいんだろうけど、そんなのはないし、例えばネカフェみたいなところで泊まるにしても、わたしはもともと枕が変わるだけで眠れないタチで、今はそれに病気(うつ病)のせいで輪を掛けて眠りづらくなってるので、泊まったとしても全然眠れないで次の日を迎えて、さらにそこで予定を詰め込むと身体に負担を掛ける、、ってことになるので、それだったら時間をお金で買うということで、行きは高いけど新幹線、帰りは寝れなくてもいいから夜行バスで、あとは帰ってきて家のベッドで寝ればいいやってことにしたのね。夜行バスとか手足のばせなくても普通に眠れる人ってホント、得してると思うわ、、

ってわけで、いつものことながら前置きが長くてなかなか旅行記が進まないんだけど(笑)、9月29日(月)の早朝、東京駅からこだまに乗った。

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どうしてこの日になったかというと、彼岸花の咲く日をずっとずっとここで確認してて、満開になったら行こうと思ってたのだ。もともとこの時期には「ごんの秋まつり」(今年は9月19日から10月5日まで)というのをやってて、人が結構来るそうなのですね。で、わたしは特に人が多いと思われる土日には行きたくなかったし、夜行バスの値段が上がる金曜の夜はイヤだったし、行くならやっぱり天気がいい日がいいよねってことで考えると案外条件が重なる日が少なくて。で、29日になったんですね。

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東京駅の新幹線のホームから見た空。もちろん天気がいい日を選んだからなんだけど、天気がいい日でした。

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ベタなんだけど、車窓から見た富士山。富士山を見ると自動的に小学校の時の校歌が頭の中を流れます。歌い出しで既に「ふじの おやまが にっこりと」というものなので。。(笑)ただ、富士山が校歌の歌詞で出てくる範囲ってどの程度なんだろうなっていつも思う。関東地方の学校だと確率高そうだけど、それ以外の地域は出て来ないよね、多分。いくら「日本一の山」でも見えないところの山を校歌で歌うってことはないだろう。

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ということで、こだまで4時間掛けて名古屋へ。4時間って言うとかなり長く思われるかも知れないけど、電車に乗ってぼーっとしながら車窓を眺めているのが好きなわたしにとって4時間ってのは、あっという間の感覚なのだ。鉄道好きな人でも「撮り鉄」とか「乗り鉄」とかに分かれてるっていうけど、わたしは電車に乗って、窓の外を見ながらボーッとすることがものすごく好き。音楽を聞きながら、頭の中は取り留めのないことを考えてる時間は、すごくのんびりできて気分転換ができてストレス解消になる。普段の生活の中で頭をからっぽにできないわたしにとってはとても貴重な時間なのだ。だけどこういう鉄道の乗り方が好きな人のことはなんて言うんだろう?「乗り鉄」は電車に乗ってることが好きって人ではないよね。全線乗るのが好きな人のことだよね?わたしは電車に乗ること自体が好きなんだけど。。

長くなりそうなのでここで一旦切って、その2に続く。。
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10-23 Thu , 2014
高尾にゃん、4歳のお誕生日おめでとう!
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今日じゃなくて、本当は昨日が高尾にゃんの誕生日でした。昨日はわたしが夜出かけてて都合が悪かったので、今日、恒例のお誕生日会をしました。

お誕生日会、と言っても、人間用のケーキ買ってきて、食べるのは人間で、高尾にゃんはむしろ無理矢理抱っこされて写真撮られたりするのでとってもいい迷惑で、それに誕生日だからと言って特別な餌がもらえるわけでもなく、何一ついいことはないけど(笑)

しかし、高尾にゃんも4歳かぁ~。まだまだ若いと思ってたけど、あと数年で中年になっちゃうのね。。まぁ猫は中年の期間が異様に長い動物らしいので、中年になったからと言ってすぐに年老いちゃうってことはないし、それにわたしは高尾にゃん自身は「永遠の子猫」だと思ってるのでいいんだけどね。まぁ歳を取って心配なのは病気にかかることだけど、まだ4歳だったらそれもないかな。

過去の日記にもちょろっと書いたけど、高尾にゃんは確か7月中旬辺りに嘔吐と下痢を同時にして、それから病院通いが始まった。治ったと思ったらまた下痢して、治ったと思ったらまた嘔吐して、って本当に心配で、いろんな検査をしたんだけど、結局原因は分からなかった。毛玉症だとかいろんなことを言われたけどさ。。しかも「もしかしたら膵炎かも知れないからまた血液検査をしましょう」と言われて(膵炎って何回も検査しなければ出てこない可能性もあると言われた)、でも高尾にゃんは血液検査は本当に大嫌いで、暴れてしまうので手足から血液が採れなくて、毎回首から取ってるのね。それがかわいそうでさ。だから考えに考えた挙げ句、検査は受けさせず、絶食から少量ずつのご飯にして、それでどうなるか見てみた。

そうしたらどうやらある餌が原因だったようで、その餌に戻したら下痢になっちゃった。その餌っていうのは、高尾にゃんが体調を崩す直前ではなく、少し前からやってて、だから原因としては考えにくいなと思ってたんだけど、でも結局下痢になったのはそれが大きかったみたいだ。なので、その前にやってた餌に戻したら下痢はしなくなった。嘔吐はね、見ている限りだけど割と精神的なものが大きいような気がしている。特にばことの関係においてね。

餌は本当に徐々に徐々に元通りにしていったんで、元に戻ったのはつい最近。それまでは1日3回に分けてやってたし。体重が下痢と嘔吐を繰り返して食べられないうちに3.6kg→3.4kgになってしまって、随分気になってたのだ。しかも最初の2日くらいは絶食させてくれと言われ、高尾にゃん、どんなにお腹空いてるだろうかと思うと身が引きちぎれる思いだったんだけど、まぁ心を鬼にして絶食させましたよ。それから少量ずつ1日3回与えたんだけど、やっぱり体重の減少が気になってね。まぁでも少量でも食べてたからそれ以上やせはしなかったかな。ちょっとずつ食べる量を多くして、最後は体重が元通りになるようにちょっと多めに餌をやったところ、無事元の3.6kgに戻ったので、それからは1日2回に餌を戻した。

取り敢えず今はこんな感じの餌。

朝:アーテミス(ドライ)10g、ジウィーピーク(ウエット)25g、お湯60cc
夜:アーテミス(ドライ)10g、ジウィーピーク(ウエット)25g、お湯60cc

しかし、、ばことの関係は本当にあんまりよくなくて。仲がすごく悪いって感じではないんだけど、いいわけではない。高尾にゃんはいつもなんだかイライラしてる感じがするので、何かリラックスできる方法はないかと思ってるんだけど、ばこは高尾にゃんのことが大好きでいつもくっつきまくるんだよね。だからばこを別室に隔離してその間に高尾にゃんとだけ遊ぼうとしても、ばこが泣きわめき、高尾にゃんもそれがとても気になる様子で到底遊びに集中できない。

もうどうすればいいのかね、、しかもわたしがばこと遊ぶと高尾にゃんはとても気に入らないみたいで、それが吐く原因になったりしてるみたい。彼女がばこと遊んでやる分には一向に構わないみたいなんだけど。わたしと高尾にゃんの間の絆って、わたしもそうなんだけど、高尾にゃんにとっても特別みたいなんだよね。もちろんそこまで思われててすごく嬉しいんだけど、そうなるとわたしはあんまりばこを構えないってことになって、それはそれでかわいそうな気もする、、

なんで、2匹にしてよかったかと言われると、うちはとても微妙な感じ。もちろんばこはばこでとてもかわいい猫なので、今さら手放しはしないけど。

まぁばこがもうちょっと大人になってくれればいいのかなあとも思ってるけど、どうなのかな。こればっかりは時間が経ってみないと分からないことだからね。

とにかく、高尾にゃん、今年1年も病気しないで元気に過ごそうね。

4歳のお誕生日おめでとう。
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09-17 Wed , 2014
生きています
あれ。

気が付いたら1ヶ月くらい放置してたね、このブログ。

っていうか、放置してたわけじゃなく、体調が悪かったんですね~。8月の下旬にぐっと涼しくなった時期があって、そこから急に体調が崩れました。お腹痛くなったり、食欲が湧かなくなったり、それに伴って体重が減ったり、肩と背中がガチガチに凝ったり、暑くないのに汗が出たり、夜眠れなくなったり、身体がだるくて仕方がなかったり。あ、微熱もあったな。でもわたしは普段から微熱なんだけどね。とにかく毎日だるくてだるくて。まぁこの症状全部当てはまるのは自律神経失調症なんだろうなと思ってました。

でも本当にだるかったので、なんとかならないかと思って近くの病院に行ったら「食欲なくて、というところは違うけど、もしかしたら甲状腺疾患かも知れないから念のため」と言われ、採血されて結果を見たら「異常なし」。貧血は割と深刻なほどだったけど、その他は全く異常はないので、多分、うつ病もあることだし、自律神経に問題があるんでしょうねー。まぁ様子を見て、それでも回復しないようであれば今掛かってる精神科で診てもらって下さい。うちは専門じゃないからねと言われ。

めちゃくちゃしんどくて病院行ってるのに、何もせずに帰されました。

まぁもう慣れっこだけどね。特に精神系の病気にかかってると、全部「気のせい」にされて、掛かってる精神科に行けと言われます。今、しんどいからなんとかして欲しいと思って行ってるのに、我慢しろって言われてるのと同じですよ、これ。ただでさえしんどいから電車に乗って自分の病院に行く元気がないんですが。。

まぁ、こんな愚痴を書こうと思ってたんじゃなかった(笑)

なのでここ半月近くは何もせずにだらーんとしてました。そうしたら、汗が出るのは治まったんだけど、今度は息苦しい症状が出てきてねー。息苦しくって何もできない。。まぁでも息苦しさはこれまで何度も何度も経験してるので、別に肺に何かできてるとかそういうんじゃなく、やっぱこれも自律神経なんだよね。ワイパックス辺りを飲めば一発で治ることは分かってるんだが。。病院行くのめんどくさくて行ってません。予約を取り直ししなきゃならないし、どうせ主治医がいるのは火曜日しかないし。その主治医もねー、4月に替わってから、なんか信頼できなくてね。ちょっと病院変えようかとすら思ってるとこです。

ってところで、結局は様子見なんだけど、半月くらい休んでるから、もうそろそろやることはやらないとね。。

考えていることはあれこれあって、それをネタに書くことはできるんだけど、なんか最近とても文章にするのがめんどくさく思えてきてね。だからブログは放置してました。

まあ、あれこれ考えてるときは楽しいけど、でも考えるのも調子がよくないとできないんだなと、今回調子が悪くなって分かりました、というか、調子悪いとやっぱり少しうつ傾向が出てくるんだよね。もう考え方のクセみたいなもの?できない自分が嫌になって、普通に生活している人を見るととても怖くなる。嫌な気分になる。図書館で借りてきた本すら見るのが嫌になる。「ああ、これを期限までに読まなきゃならないんだ」と思って。プレッシャーを感じる。

そこですべてを放置して、何も考えずにいられたらいいんだけど、まず状態が悪いときは放置するのが難しくなる。何もできない自分が嫌なんでね。でも、体調悪いからできないんだけどね。そして「何も考えない」というのが無理。人間、起きてるときは何かを考えてるわけなんだよね。その内容はともかく。自分に負担のない適当にくだらないものってのが、わたしにはあまりなくてね。。気が休まる趣味とかないから(笑)本を読めば、この世界が嫌になるような内容だし、その嫌にならない世界にするには自分はどうしなきゃならないのかと考えると、これまたものすごい負担になる。考えても行動に移さないと意味がないし。でも今は自分は何もできないし。ネットで面白いブログ読もうと思っても、わたしが「面白い」と思うものはどれも考えさせられる内容ばかりで、これまた頭が休まらない。「あ~、こういう人もいるんだな、こういう風に考える人もいるんだな」ってあれこれ考える。わたしってつくづく普段から自分に負担を掛けて生きてるんだなあと思う。

まぁ調子が悪くなると毎度毎度このことを再認識するんだが。

一番変えなきゃならないのは、娯楽を「くだらない」と認識しているわたしの頭なのだが、この価値観って年を重ねる後とにどんどん「硬化」している感じなんだよね。もっと若いときはそれこそ音楽を聴くのが好きだったり、そういう別の楽しみもあったのに、そういうものを全部切り捨てちゃった。これはなんとかせねばならないと思うのだが、今のところ、何にもしようがないんだよな~。

まぁこういうことは調子がいいときに考えるべきことなんだよね。でも、調子いいときは自分の頭が考えたとおりにできるので、考えない。

運動でもしようかなと思うんだけど、なかなか思い切りもつかなくて。散歩も三日坊主だし。何か習いに行くには金かかるしね。

あーなんか、調子が悪いので、愚痴愚痴になってしまった。

まぁ取り敢えず生きてます。生きていますって言いたくなるほど、精神状態は悪くないけどね。
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08-20 Wed , 2014
決断
まぁ決断っていっても、そんなに大層なことじゃないんだけど。

そろそろ病気の方も安定し始めて1年半ほどになるし、まぁその中で「休もう」と思って本格的に休み始めたのは去年の6月くらいで、本当に休んで何もしなかったのは今年の3月くらいまでなんだけどね。これから来年に掛けて、ある資格を取るために勉強しようと思っている。

4月から韓国語講座に通ってて、それがわたしの頭を少しずつ刺激していった。この韓国語講座、1つの単元が終わるたびに単語テストがある。その頻度は1週間に1度、もしくは2週間に1度、覚える単語は1回につき約70~100個。これが結構きつくてね。毎回、毎回、本当にヒーヒー言いながら覚えてる。

けど、これはわたしの記憶する能力を知らない間に復活させてくれててね。

実は去年だったか、やっぱり同じ資格の勉強を始めたんだよね。でも、勉強するんだけど全く記憶できる自信がなくて、というより、覚えようとすることがするすると頭の中を滑っていく感覚があって、全く覚えられなかったの。そうしたらすべて恐怖に思えてね。勉強ができなくなった。重い負担としか思えなくなった。そのときに「ああ、今はまだできないんだ」って悟って止めたのね。止めて休んだ。もちろん、いつか、よくなったらまた始めようと思ってたけど、具体的にいつ始められるかは全く見通しが立ってなかったの。

韓国語講座は別にそのきっかけにしようと思って始めたわけじゃない。なんとなく「やりたい」と思ったから始めただけ。始めたときは、単語テストが毎回あるなんて知らなかったし。でも、あとから振り返って考えると、これが結構よかったなあって思った。

単語を覚え始めた頃は、やっぱり頭の中で単語がするする滑る感じがして、とても不安だった。頭の中に記憶される、ということは、頭の中のどこかに引っかかっている、というイメージがあるのね、わたし。だから、その手がかりがない状態っていうのは、記憶されてないように感じられてしまうのだ。それが毎週毎週強制的に覚えさせられていると、引っかかりが少し感じられるようになって来た。「覚えている」という実感が湧き始めた。

それで「あ、来年の試験、受けてみよう」って思ったのね。本当はもっと遅く始める予定だったんだけど、いろいろあって今からできるということで、少し余裕を持って始めてみようってことになった。

もちろん、語学とは全く違う分野なので、勉強を始めたからと言って、覚えられるかどうかはやってみなければ分からない。もしかしたら前と同じく、頭の中をするする滑ってしまうかも知れない。けど、わたし、今の時点では結構楽観的なんだよね。それは病気が少しよくなってきたからかも知れないし、ここ数ヶ月、週1、週2おきに単語が覚えられたという自信かも知れない。とにかく最初は覚えられないかも知れないけど、やってるうちに大丈夫だって思えるだろうという根拠のない自信が今はある。

試験までまだあと1年以上あるんで、じっくりやっていきたいと思っている。
17:13 | 自分の将来について | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
08-09 Sat , 2014
8月9日午前11時2分 ー長崎にて
去年の8月9日、わたしはこのような日記を書いた。

何度目かの長崎の平和祈念式典(最近、特に気になって言うけど、広島は平和「記念」式典で、長崎は平和「祈念」式典で字が違うのよ)を今日、テレビで見て「ああ、いつか長崎の式典に行ってみたいな」って思った。中継時間の関係かも知れないけど、長崎は城山小学校の生徒が歌う「子らのみ魂よ」と純心女子高校の生徒が歌う「千羽鶴」があって、それがかなり後に残る。年に1回聞くだけだけど、メロディーを聞くと思い出す。その歌を、生で聞きたいなあって思ったのだ。



で、ですね。じゃじゃーん。

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昨日、東京を出発し長崎に来た!

うーんと、あのとき考えたのね。「2年後くらいはどうかなあ?」って。でも2年後って70回っていう節目の年なんだよね。単なる「歌が聞きたい」ってだけじゃ、節目の年に行くことはなんか、不謹慎な気がしたの。「じゃ、3年後?」って思ったんだけど、わたし、今後3年間元気で生きてられるかなんて自信がない。ということは、、行くなら今年しかない!ってことで、かなり思い切って今年行くことにしたのだ。

今朝。祈念式典の開場は8時半だというので、8時過ぎに会場に行った。ぼちぼち人が並び始めてるころで、わたしは割と先頭の方だった。座席指定図を見たら一般客の椅子がほんの少ししかなかったので、大丈夫かなと思ったんだけど、何のことはない、開場後に聞いたら一般人でも遺族席に座っていいとのことだったので、遺族席のかなり前の方に座った。

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式典開始時間は10時35分なので、2時間近く待つことになるんだけど、その間、ボランティアの子どもたちが水のペットボトルや冷たいおしぼりを配ったりしてたのでちょっとびっくりした。

前にも日記に書いたかも知れないが、わたしは過去に1度、広島の方の平和記念式典には行ったことがある。もうかなり昔の話でほとんど記憶に残ってないんだけどね。そのときはそういうサービスは全くなかったと思う。これも時代なのかな。

今日の長崎は、台風の影響で風がものすごく強かったんだけど、それでも当初予想されたような雨は全く降らなくて。最初は曇り空かなと思ったんだけど、徐々に晴れて来て、最後の方はめちゃめちゃ天気がよくなってとっても暑かった。

しかし、広島の方は「あの日。。」って想像できるのに、なぜ長崎では想像ができないんだろう?原爆ドームっていう、リアルに残っているものがないからなんだろうか。それともやっぱりここはわたしと「無関係」だからだろうか。。だけどね、こういうことを言ってはなんなんだけど、わたし、広島の原爆で身内が行方不明になってても、全く悲しみはないのよね。だって会ったことない人たちなんだもん。生きてるところが全く想像付かないし。「この人たちが生きていたら」なんてことも思ったことがない。だけど、広島の原爆に対してはなんか知らんが「痛み」があるんだよねえ。昔からちょろちょろ話を聞かされてたからだろうか?正直、広島の平和記念式典にはもう参加したくないんだよね。広島の方はすごく生々しい感じが自分の中でするの。それなら毎年遠く離れた東京で、テレビに向かって黙祷してる方が気が楽なの。なんかとっても不思議な感じだよね〜。

そうそう、会場に入ってから、式典内容が書かれた冊子とレインコートをもらいました。式典内容を見ると、あれ、あれれえ〜?

城山小学校の児童が歌う「子らのみ魂よ」じゃなくて、山里小学校の児童が「あの子」って歌を歌うことになってる〜!@@;

ええーっ、なんでなんで?なんか年ごとに変わるの?これ。でも「子らのみ魂よ」ってわたし、もう数年間聞いた覚えがあって、結構曲も覚えてるんだが。特にこの8月になってから、わたしの頭の中では「せーんせいよー、こらのみたまよー♪」ってメロティが鳴り響くほどになってたんだけど。。正直なところ、これには随分ガッカリしてね。いや、山里小学校の人には全く罪はないのだけれど。ってわけで、当初の目的の半分しか達成できなかったんだよね、実は。しかし、何か歌うローテーションみたいなのが存在してるのかしら??

式典がようやく始まって。献花のときにケネディアメリカ大使が花輪持ってこっちに向かっておじぎをしたとき、結構な数の人たちが立ったり、自分のデジカメや携帯電話などで画像を取ったりね。一体、これは何?って思っちゃった。何かこの人にあるの?それともあのケネディ家の人だから?よー分からん。なんでそこまで人気なのか?本当によく分からなかったです。

てなわけで、あっという間に11時2分になって。立って黙祷しました。鐘の音といくつも重なって聞こえるサイレンの音、それから蝉の鳴き声。それだけが聞こえて来て、なんかとても印象的だった。長い長い1分間でした。ひたすら、鐘の音とサイレンの音と蝉の声に耳を傾けてた1分間でした。

そのあと市長の平和宣言。事前から集団的自衛権について言及するってことで、まぁ広島よりはまともだった。それに核兵器を使った戦争だけじゃなく、戦争自体に反対ということを明確に打ち出してたところもよかった。あと広島市長は全く触れなかった福島の原発事故のこともちゃんと触れてたし、そう考えると広島の方がかなり腰抜けだったんだよね。。本当に情けないな。

ところがそれを上回ったのが、被爆者代表が宣言する「平和への誓い」。実は市長の平和宣言も被爆者の平和へ誓いも事前に式典内容が書いてある冊子の中に既に載ってて、どういうことを言うのか、わたしは事前に読んで知ってた。ところがね。この人の誓いはものすごく説得力があった。事前に読んでたけど「え?こんなに厳しい内容だったっけ?」って思ったもん。

孫娘を亡くしたことの話の中で「自分が被爆者でなかったら」というところでは声を詰まらせていたし、集団的自衛権のこと、武器輸出しないでくれと言ったところ、ものすごく迫力があった。

わたし、思わず涙してしまったんだけど、ふと気がつくと会場整理のために、わたしの近くの通路で正面と反対向いて座ってた市役所のおじさん(わたしより年上だと思いたい(笑))が、うなづいていたか何かで、近くの遺族席に座っている人と目が合ってたのを見ちゃった。おじさん、ちょっと照れ臭そうに笑ってた。

この誓いは来ていた人の共感をかなり得たようで、まだ誓いが終わってない、これから年月日を言おうとするところで既に拍手が起きていた。市役所のおじさんも拍手してた。

児童合唱を挟んで首相の来賓挨拶があったんだが、怒りを感じるほどの内容で。広島のときも思ったが、復興して美しい街にしたのをなんでそんなに強調せねばならないんだろう?この式典は復興したことを褒め称えるものではなく、なぜ原爆が落とされたのか、そもそも戦争になったこと自体を反省し、再びこのようなことをしない、という決意を述べる場ではないのか。確か「先人に感謝する日でもある」みたいなことを言っていたような気もするが、感謝って何?原爆で死んでくれてありがとうと感謝しろというのか?(かなり悪意に取ってます)どうもこの人は復興に身を捧げたことがとてもお気に入りみたいだ。まぁしょうがないよね。ここしか褒め称えるところがないんだもん。この人は「日本人としての誇り」とは先人を褒め称えることだと思っているらしい。その先人とは、国を愛することを強要されて死んだ人だ。戦いなんかせずに生きたいと思った先人はどのくらいいたんだろう?そういう思いを全部無視して死を美化している。おまえなんか先人に呪い殺されてしまえ!と思ってます。まぁ一方でわたしは死んだ人が生きている人を呪うとは全く思ってませんがね。

被爆者による平和への誓い後の、市役所の案内係のおじさんに注目してたんだけど、おじさん、首相の挨拶のときは拍手してなかった(笑)会場の拍手も弱かったです。まぁ当然といえば当然。わたしもしなかったし。

次の県知事の挨拶も首相の挨拶とあまり変わらず。長崎市長と被爆者代表が明確に「戦争はNO」と言ってるのに対し、首相と県知事は「核兵器を使った戦争にNO」と言っただけで、戦争自体には反対は全くしてなかったね。そこが彼らの本音だろう。そしていつの間にか戦争を初めてしまって「こんなときに核兵器に反対なんてできますか」といってなし崩しに使うんだろう。これって今の「近隣諸国が日本を狙っている」というのとあんまり大差ないんだよね、実は。国民に危機感持たせて自分の思い通りに操っているだけだ。

それと県知事の挨拶は事実上、原発容認であったのもとても残念。核兵器による放射能と原発による放射能の違いがあるんだろうか?原発の放射能は安全とでも?前にも書いたけど、わたしは決して原発の技術を人類が捨て去る必要はないと思っている。ただ、国土全体に渡ってこんなに地震が起きる国、それも巨大地震が起こる可能性がある国では原発の技術は使うべきではないと考えている。この地球上ではね、有史以来、地震など起こったことがない地域もたくさんあるのよ。地震があっても何万年に1度とかね。そういうところでは使えるんじゃないかな。ただ、事故の危険性は残っていて、それは人類がどうすべきなんだろうけど。事故が起こり得るから原発技術は捨て去るべき、って考えもわたしにはよく分かるのだ。だって事故が一旦起きれば悲惨だもの。チェルノブイリみたいにね。

ああ、話が逸れた。

市役所のおじさんは県知事の挨拶ではまあまあ拍手してた。最低限、って感じだったかな。もうわたしはあの時点でおじさんに惚れた(笑)ちなみにわたしは拍手しませんでした。

それからいよいよ「千羽鶴」の合唱。これを聞きに来たんだもん、わたし。

言っちゃ悪いけど、決してうまくはないと思うのよ。でも、この曲はもうこんな感じ!ってイメージ出来上がっちゃってるから、これでいいの。しかもやっぱり生の声だと強弱がよく分かってよかった。最後の盛り上がりなんか、あー実際はこんな感じなんだって思ったからね。なんか「合唱聞きに来たんか!不謹慎だ」って感じなんだけど、でも、わたしの中では長崎の平和祈念式典って言ったらこれだからね。

そして広島と比べちゃいけないとは思うんだけど、式典としては長崎の方がわたしは圧倒的に好きです。まぁ広島のは自分が当事者なんで、どうしても自分の中のつらい思いとリンクしてしまってるところはあると思う。なので単純には比較はできないけど、戦争反対のメッセージは広島より長崎の方が上だと思うし、わたしには好感が持てました。本当に今回、思い切って来てよかったと思いました。

ただ残念なのが、最初の方にも書いたけど、城山小学校の「子らのみ魂よ」が聞けなかったこと。いろいろ調べても今回、なんでこの曲じゃなかったのか書いてないし、一体どうしちゃったんだろう?

ってわけで、長崎の方は1回だけじゃなく、もう1回くらいは来たいなあと思ってる。それ以外にも教会を中心にしていろんな行事があるのよね。でもそれも今回、台風の影響で中止になっちゃったりしたのもあってね。これはもう一回来いってことだろうと勝手に決めつけました(笑)ただ、東京からはすごく遠いんで、そう簡単には来られるはずもなく。。まぁ生きてれば5年後くらいに来ようかなと。でも5年後の日本を考えるとどうなってるか恐ろしいね。もしかしたら「時局を考えて」平和祈念式典なんか70回を最後に中止に追い込まれてるかも知れないし。

一回行った広島の平和記念式典はね、実は覚えてることと言ったら、場外で機動隊と中核派みたいなヘルメット被ってタオルで顔隠した人たちがもみ合ってるところなの。わたしあのとき、なんで8月6日にこんなことするんだろう?って思ってた。正直今もそう思ってるところはある。中核派の人たちは何が目的なの?って。

実は今日も式典が始まる少し前から場外で何言ってるんだか分からないけど、シュプレヒコールが聞こえて来てね。「こんなときくらい静かに祈りを捧げろ!」って思っちゃった。でもね、式典が始まって献花くらいの時間になるとその声は静まってたし、きっと彼らも分かってるんだと思うんだ。こんな日に大声を上げることについて。そしてきっとわたしたちと同じように11時2分には黙祷したんだと思う。そのあと少ししてからまたシュプレヒコールが始まったんだけど(笑)でもさ、わたし思ったんだよ。首相に抗議の声が直接あるって分からせるためには、こういう手段しかないってこと。確かにわたしでも彼らが何言ってんだかちっとも分からなかったんで、首相にも分かんなかったと思う。けど、いろんな人が、いろいろな方法で抗議してもいいじゃんって思えたの。被爆者代表の人は、平和への誓いで訴えた。長崎市長は平和宣言の中で訴えた。みんな、同じ方法を取らなくてもいいじゃん、いや、取れないよって。だったらわたしは一体何ができるんだろう?そんなことも思った(ただやっぱ、わたしが広島の記念式典行ったときはこんなに状況が荒れてなかったと思うし、一体あれは何だったのか?と今も思う。。)。

今日という日はもうじき終わるけど、2014年の8月9日はわたしの心の中に深く残った日だった。

 1945年6月半ばになると、一日に何度も警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り始め、当時6歳だった私は、防空頭巾がそばにないと安心して眠ることができなくなっていました。
 8月9日朝、ようやく目が覚めたころ、魔のサイレンが鳴りました。
 「空襲警報よ!」「今日は山までいかんば!」緊迫した祖母の声で、立山町の防空壕(ごう)へ行きました。爆心地から2.4キロ地点、金毘羅山中腹にある現在の長崎中学校校舎の真裏でした。しかし敵機は来ず、「空襲警報解除!」の声で多くの市民や子どもたちは「今のうちー」と防空壕を飛び出しました。
 そのころ、原爆搭載機B29が、長崎上空へ深く侵入して来たのです。
 私も、山の防空壕からちょうど家に戻った時でした。お隣のトミちゃんが「みやちゃーん、あそぼー」と外から呼びました。その瞬間空がキラッと光りました。その後、何が起こったのか、自分がどうなったのか、何も覚えていません。しばらくたって、私は家の床下から助け出されました。外から私を呼んでいたトミちゃんはそのときけがもしていなかったのに、お母さんになってから、突然亡くなりました。
 たった一発の爆弾で、人間が人間でなくなり、たとえその時を生き延びたとしても、突然に現れる原爆症で多くの被爆者が命を落としていきました。私自身には何もなかったのですが、被爆三世である幼い孫娘を亡くしました。わたしが被爆者でなかったら、こんなことにならなかったのではないかと、悲しみ、苦しみました。原爆がもたらした目に見えない放射線の恐ろしさは人間の力ではどうすることもできません。今強く思うことは、この恐ろしい非人道的な核兵器を世界中から一刻も早くなくすことです。
 そのためには、核兵器禁止条約の早期実現が必要です。被爆国である日本は、世界のリーダーとなって、先頭に立つ義務があります。しかし、現在の日本政府は、その役割を果たしているのでしょうか。今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじる暴挙です。日本が戦争できるようになり、武力で守ろうと言うのですか。武器製造、武器輸出は戦争への道です。いったん戦争が始まると、戦争は戦争を呼びます。歴史が証明しているではないですか。日本の未来を担う若者や子どもたちを脅かさないでください。被爆者の苦しみを忘れ、なかったことにしないでください。
 福島には、原発事故の放射能汚染でいまだ故郷に戻れず、仮設住宅暮らしや、よそへ避難を余儀なくされている方々がおられます。小児甲状腺がんの宣告を受けておびえ苦しんでいる親子もいます。このような状況の中で、原発再稼働等を行っていいのでしょうか。使用済み核燃料の処分法もまだ未知数です。早急に廃炉を含め検討すべきです。
 被爆者はサバイバーとして、残された時間を命がけで、語り継ごうとしています。小学一年生も保育園生も私たちの言葉をじっと聴いてくれます。この子どもたちを戦場に送ったり、戦禍に巻き込ませてはならないという、思いいっぱいで語っています。
 長崎市民の皆さん、いいえ、世界中の皆さん、再び愚かな行為を繰り返さないために、被爆者の心に寄り添い、被爆の実相を語り継いでください。日本の真の平和を求めて共に歩みましょう。私も被爆者の一人として、力の続くかぎり被爆体験を伝え残していく決意を皆様にお伝えし、私の平和への誓いといたします。
 平成26年8月9日
 被爆者代表 城薹美彌子



【追記】被爆者の「平和への誓い」、事前に用意してあった式典次第の冊子に書いてあったことと違ってたんですね。今日(10日)、地元の新聞読んで初めて知りました。だから読んだときと印象が違ってたんだー。新聞には「文中にない言葉が、自然とあふれ出た」って書いてあったけど、そうだったんだ。その勇気を賞賛します。

それから、昨日の平和祈念式典は台風の影響で異例ずくめだったようですね。開場時間を1時間繰り下げたり、献茶会、ってものが中止になったり。献茶会ってなんなんだろ?それにあそこ、例年はテントの中でやるのね。あの日差しの中でやったことはなかったのか。いや、ホント、暑かったです。高齢者には酷だったと思いますが、わたしの体験として、あの日差しが経験できてよかった。でもそれを知ってますます「普段の平和祈念式典」を体験してみたくなりました。またここに必ず来たい。
23:31 | 被爆二世・戦争などのこと | トラックバック(0) | page top↑
08-06 Wed , 2014
8月6日午前8時15分
今朝、起きてゴミ出しをするときに、真夏の日差しを浴びながら「今日も暑いな。69年前のあの日もそうだったんだろうか」と思った。

ところが今日の広島は大雨だったらしい。雨の日は43年ぶりとのこと。道理でこの日は「晴天」というイメージしか持ってないわけだ。もし、あの日が雨だったら、、果たして爆弾は落とされたんだろうか。それとも長崎のようにどこか別の「晴れている」ところが選ばれて、その地に落とされたんだろうか。ふとそんなことを考えた。

もう何年も何年も同じ日に同じ日記を書いているけれど、今年も書く。

今日は広島に原爆が投下された日。1945年8月6日、午前8時15分に原爆が落とされて、わたしの身内が行方不明になった。その3日後、行方不明になった身内を捜すために祖父と父が入市、被爆者となった。それゆえわたしは被爆二世である。

身内は69年経った今も行方不明だ。8月6日、たまたま用事があって爆心地に向かったらしい。「らしい」というのは、誰もそこへ向かうのを見た人がいないからだ。そしてそのまま帰ってこなかった。だからおそらくあの日あのときは爆心地にいて原爆に遭い亡くなったのだろう、としか考えられない。まぁ今さら真実がはっきりするわけはない。このまま未来永劫、行方不明のままだろう。

最後の姿が分からないのだから、想像するしかない。広島には原爆投下によって一瞬の内に影だけ残して消えてしまったという、その影が投影された石が残っている(「人影の石」という)。わたしは幼い頃からその石の話を聞くたびに「もしかしたらその影は身内なのかも知れない」と思っている。不思議と被爆して焼けただれて「水をください」と言いながら死んでったという想像はあまりしない。おそらく想像としてはこちらの方がよりつらいからあまり考えたくないというのもあるだろう。だから「人影の石」の話はわたしにとっては「原爆の恐怖」を認識させるものではなく、感覚的なんだけど、あの石の影からわたしは妙に暖かいものを感じるのだ。遺族という当事者ゆえの歪んだ感覚と言えるんじゃないかなと思っている。

一方、「被爆二世」という当事者としての感覚。これは恐怖としか言いようがない。自分の中に病の爆弾を抱えているような感覚が常にある。将来どんな病気にかかるかは被爆者でなくても誰もが知りようがないし、それはわたしも同じなのだけれど、「人より病気になりやすいのではないか」「考えつかない変な病気になったらどうしよう(既に口腔異常感症という一般の人では考えられない変な病気は持ってるけど)」とどうしても考えてしまう。世の中には福島原発の事故で放射能の恐怖に脅えている人に対して「放射脳」と馬鹿にしている人もいるみたいだが、わたしは逆に馬鹿にできる人はおめでたいと思っている。全く人ごととして考えられて羨ましいとさえ思う。

最近ちょっと調べてみて知ったんだが、東京都に住む被爆二世は年に2回無料で健康診断が受けられるそうだ。ただし、健康診断を受けるためには自身が被爆二世だと言うことを証明しなければならなくて、親の原爆手帳の写しや親との関係を示す戸籍抄本、そして東京に住んでいることを証明する住民票の写しなどを申請書に添えて提出しなければならない。

そして認定されたある種の病気にかかると医療費は免除になる。認定されたある種の病気って見てみたらすごく幅広いんだよね。まぁ精神病は除外されてるから、今のところわたしは適用されてないわけだけど。この病気の種類を見て、わたしは「やっぱり被爆の影響によってあらゆる病気にかかりやすいと考えられているんだ」と思った。だから怖かった。ある意味「被爆二世はこういう病気にかかりやすいですよ」って都からのお墨付きを受けているわけだからね。

では逆にこの制度がなくなれば、病への恐怖心はなくなるかというと全然そんなはずないわけで。制度がなくても恐怖心はあるに決まっている(当然のことながら、今年初めてそういう制度があると知った以前から恐怖はずっと持ち続けている。恐怖心は物心付いてからずっと持っている)。逆にこういう制度があってよかったと思うし、「日々恐怖心と闘っているわけだからこのような制度があって当然だ」と思う。しかしね、おそらくこの制度は全国の都道府県のうち、広島、長崎はあるとしても、他は東京くらいしかないんじゃないだろうか(きちんと調べてないので分からないが)。これはひとえに当事者団体の活動によるものなんだろうなと推測する。本当にありがたいと感じると共に、東京以外に住んでいる被爆二世との格差があることに心が痛む。

こういうことを書くと「被爆者特権」っていう人がいるんだろうな。どこが特権だよ。特定の病気に対する医療費が免除されることと引替に、日々恐怖心と闘わなくてはならない身分になってみろと言いたい。わたしはこんな「特権」なんかいらないから「被爆二世」という身分を捨てたい。被爆の影響が自分の中にあるかも知れないという恐怖が全くない人生ってどんなにすがすがしい気持ちになるかと思うと、本当に本当にその方が羨ましい。わたしは被爆二世になんか生まれたくなかった。被爆二世として生まれた恐怖を「特権」などという輩にすべて押しつけることができたら、本当に喜んで押しつけるよ。医療費免除も喜んで押し付けてあげる。そしてわたしは恐怖のない人生を楽しむ。そんなことができたら、どんなにいいだろうと思う。

と同時にわたしがここで毎年同じようなことを書いているのは「わたしは被爆二世になんか生まれたくなかった」という気持ちからだ。このことは翻って「もう二度とわたしのような思いをする人間を作り出してはならない」と思うからだ。未来を生きる人たちにわたしのような思いはさせたくない。だから、わたしは戦争に反対する。

核兵器を使った戦争に反対するんじゃなくて、戦争自体に反対する。今日、広島市長の平和宣言とか、首相の言葉を聞いてて思ったのは「核兵器を使わない戦争ならしてもいいってこの人たちは思ってるのかな」ってことだった。特に首相の言葉は「核兵器廃絶に向けてぼくちゃんこれだけのことをしてますよ~」っていう羅列に過ぎなくて、聞いててすごく気持ちが悪かった。この人も平和、平和と言っているが、わたしが思ってる平和とは全く違うものだからね。広島市長も被爆者援護だけを国に求めるんじゃなくて、もっと積極的に今、国でなされようとしていることに明確に反対すればよかったのにと思う(集団的自衛権のことです)。

しかし今年の平和記念式典はなんだかとてもサラッと終わってしまった感があるな。平和記念式典ってわたしの中のイメージではもっとおどろおどろしいものがあって、本当はとても見るのが嫌なんだけど、今日のは「あれ?」って思った。中継の仕方が変わったのかな、、子ども宣言のとき、子どもたちが「お祖父さんが被爆者です」って紹介されているのを聞いて「へー。お祖父さんが被爆者って、わたしも同じだよ〜」って思ってたら、子ども宣言の中で「お祖父さんは5歳のときに被爆しました」って言ってた。げ。うちの父と同い年だったorz

ただ毎度のことながら、あれを見ると「悲惨な思い」「悲惨な目」「被害者」になりたくないから戦争をしてはならないという論理がねー。まぁ一方でそれは正しく、そして原爆投下されたという点では全くの被害者なので、この場では仕方がないと思うのだが、やっぱりそれだけではいけないと思うのよ、わたし。これも何度も書いてるけど、加害の面もきちんと認識しなければ。戦争では「誰かを殺す」(それが自分の意志に反していたとしても)「誰かを悲惨な目に遭わせる」「誰かの幸せを奪う」可能性があることもきちんと認識しておく必要があると思う。過去の加害の面について目を逸らさずに事実を知り、戦争をすることによって被害者だけじゃなく加害者になる可能性も十分あるということ。被害者だけじゃなく加害者にもなりたくないから戦争をしない、そのことももっと訴えていかなければね。

最後に。

被爆者と被曝者は違うものなんだけど、やはり被爆二世として気になるのは、福島原発の被曝者のことだ。最近新聞で読んだのだが、福島(だけではなくその周辺)の住民に対する健康被害調査、健康被害への国の補助、などの話し合いがされればされるほど「なかったこと」への方向に進んでいるらしい。「なかったこと」、それはイコール「ない」では全くない。「ないことにしたい」のであれば、逆にきちんと調査をして、本当に影響がなかったら「ありません」と言え。調査自体をしない、ということは、すなわち「調査したら何か不都合なことが出てきそうだからやらない」と言っていることと同じことだ。「調査したら不都合なことが出てきて、そのことが今後の原発を存続できないということに繋がるから調査しない」と言っていることと同じだ。福島(及びその周辺の地域)の人たちが自分の健康や自分の子どもへの健康に対してどんなに心細く、不安な気持ちでいるかは、被爆二世という当事者として、本当によく分かる。国民(住民、でもいいんだけど)に対してなすべきことをしない国なんて、それは国としての役割を果たしていない。国は「国土を守る」とか「大切な人を守る」とか国民に言わせようとしているけれど、でも国自体は全く国民を守ってくれないではないか。国を愛することを要求するだけ。国は国民を決して愛さない。大切にしない。しかし本来、国は国民のために存在する。国が存在するために国民が存在するんじゃない(という概念も本当は自明ではなく、非常に新しいものなんだけどね)。

わたしはもちろん原発に反対だが、調査して何か異常なことが出てくればいいとは全く思っていない。それが原発反対するための理屈に使えるとは全く思っていない。逆だ。異常がなければいいと思っている。健康被害調査を受けることによって、一人でも被曝に対する不安を取り去れる人がいたらいい。

こんな思いをする人間はわたしたち、広島長崎の被爆者とその子孫だけで十分なんだよ。
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07-31 Thu , 2014
ばこがうちにきて1年
今日はばこがうちに来てちょうど1年。1年前の7月31日にばこはうちに来た。

あれから1年かあ~。なんかもうずっとうちにいた気がする。1年とは言わず、2年も3年も。いや、高尾にゃんがうちに来てからすらまだ3年半なんだけど(^^;わたしらがこの地に引っ越してきてからもまだ1年半なんだけど。時間の認知の歪みがすごいな、わたし。

ばこは今、1歳と2ヶ月半くらい?1年前に来たときは、体重1kgちょっとだったけど、今は5.0kgの堂々とした体格に。というか、一時は5.3kgくらいあってお腹がたぽたぽしてたんで、今ダイエット中でここまで減らした。動物病院の獣医さんからはばこの体格だったら4kg台まで落とした方がいいかねえ~と言われているので、あと100gか200g減が目標。しかし猫の体重を落とすのは難しい。。

少し前ですが、こんな猫になりました。

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ばこは病気知らず、と言いたいところなんだけど、つい最近血尿を出して治療中。高尾にゃんと違ってばこは水を飲む猫だ!と感動してたんだけど、それでも飲み方が足りなかったみたい。。ばこの場合は石が尿道に詰まっちゃって、一回、膀胱洗浄をした。石って言うか、細かい砂みたいなのがたくさん膀胱に入ってたそうだ。見せてもらったけど。。ただ、今のところ、経過は良好で、昨日、病院におしっこ持って行くつもりだったのに、昨日病院が開いてる時間にばこはおしっこをしなかったので行けず、今日はおしっこ採取に失敗して全く取ることができなかったので、今日も行けず、、明日は行くことができるかな?

実は高尾にゃんとの関係はあんまりよくありません。ばこは高尾ねーちゃんのことが大好きなんだけど、高尾にゃんはばこのことはあんまり好きじゃないみたいなんだよね。。まぁそれは分かる。だってばこっていきなり高尾にゃんのことを後ろから抱きついてきたりするんだもの。。(もちろんばこは去勢済みです)あと、せっかく高尾にゃんの頭をペロペロしてても、これまたいきなり手で高尾にゃんの頭を抑えつけてペロペロしようとするんだもの。。高尾にゃんは乱暴なことが嫌いなんだよね。

乱暴と言えば、ばこは若いからか遊び方が激しい。ちょっとしたおもちゃでも目の前で振ると食いつきがよくてよくて。そして周りのことは全く見えなくなる。ジャンプしてあっちこっちに当たりまくる。だもんで、高尾にゃんはすごい遠慮がちになる。わたしが高尾にゃんと遊ぼうとしてもばこが先に出てくるし、例えばこを別室に閉じ込めて高尾にゃんとだけ遊ぼうと思っても、おもちゃを振るとその音でばこがここから出せ出せと鳴きだし、高尾にゃんはその鳴き声が気になって遊びに身が入らない。正直、もうどうすりゃいいのって思ってる。。

てなわけで、高尾にゃんが今回、体調を崩したのも、一因はばこによるストレスなのかな~なんて思わないこともない。。

ただ、最近はちょっとだけいい関係になってるんだけどね。これは今日の午前中のばこと高尾にゃん。

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こんな感じでちょっとずつ距離は短くなってるような気はするんだけどね。それもこれも、ばこは高尾にゃんが大好きだからなんだけど。。

うちにきて1年経って、ばこの性格もなんとなく分かるようになった。小さい頃は本当に物怖じしなくて人なつっこかったんだけど、その反面、何を考えてるのかさっぱり分からなかった。高尾にゃんはかなり小さいときに「お座り」を覚えさせられたんだけど(餌を与える前に「お座り」と言ったらちゃんとお座りするようになった)ばこは何度言っても分からない。基本的に餌をもらうために何かをする、何かをしたら餌をもらえるという概念自体が分かっていないようだ。高尾にゃんの時はそんなことを教えなくても共通認識としてちゃんとあったもんだから、そこが分からない猫がいるとは全く思わなくて。そしてそこから認識させることすらどうやっていいのか分からなくて。だから「まぁばこは仕方ないよね」で諦めた。

性格は相変わらず人なつっこくて、家に人が来ると誰彼構わずついて回る。うちにきた電気工事のおじさんとか、宅配便の人とかに愛想を振りまいて「こういう猫だったら飼ってみたいですね~」とか「かわいい猫ですね」っていつも言われる。

人に対してまったく恐れがないので、大らかなのかと思いきや、ちょっと神経質なところもある。雷が怖いみたいだし(高尾にゃんは全然怖くないみたい)、おしっこを取られるのが嫌いで、こっちがおしっこを取ろうとする気配を察するとなかなかトイレに行かない。しかもこっちがお風呂に入ってるとか、絶対に取れない状況の時にトイレに行く。こういうところはなかなかの頭脳派だ。

しかもしつこい。ばこは気に入ったおもちゃをガジガジするのが大好きなのだが、遊ばないときはいつも本棚の上の方に引っかけて置いている。それを執念深く下から飛んで取ろうとしたり、上から取ろうとしたり。1日何回もやる。こっちが危ないと思って本棚の中に隠しても(ガラスの扉になっている)外から見えるもんで、なんとかして取ろうと狙っている。絶対に忘れない。この執念深さは別のところにも発揮されてて、「いけません」と言われたことを何度も何度もやる。高尾にゃんなんか「いけません」って言われると、いけないことは人が見ている前ではやらない。いないときにこっそりやったりする。けどばこは怒られても何度も何度もやる。かといってばこも馬鹿じゃない。いけないことをやるときは、ばこがムシャクシャしているときだ。

ばこは高尾にゃんと「怒られる」という認識が違っているらしい。高尾にゃんは「怒られたら嫌だから、ママ達が見てないときにやろう」と思っているらしいが、ばこは「怒られる」ということは「自分に声を掛けてもらえる」と思っている。だからばこ自身が遊んで欲しいとか、何か声を掛けてもらいたいとき、ムシャクシャしてて構って欲しいときにわざと悪いことをする。「ばこ!」と怒ると「にゃーん」と甘えた声を出す。まぁかわいいといえばかわいいんだけどねー。

基本、ばこは高尾ねーちゃん大好きなのだが、人間にも甘えてくる。高尾にゃんのように寝ころんでいると身体の一部にぴたっとくっついてきたりはしないのだが、わたしが寝ている夜中に知らないうちにわたしの枕元に来て寝ているとか、朝、わたしが遅くまで寝ていると、ご飯を食べたあとのばこが「にゃーん」と言いながらベッドに上がってきて、わたしが布団の中に「入る?」と言って空間を空けてやるとその中に入ってきてゴロゴロ言ったりする。「撫でてください」ってやってくることもある。ただ、人間にはあまりくっつきたがらない猫だ。

あとそれから案外忍耐強い。高尾にゃんは拘束されるのが大嫌いだから、ちょっとでも撫で撫でするために拘束したりすると、もうしっぽをぶるんぶるん振って「嫌です!!」ということを主張し、そこから逃れようと抵抗し、一瞬のスキを付いて逃げていく。けどばこは逃げない。嫌な素振りはするけど割と黙って撫でられている。時々諦めたように「ふーっ」と深いため息を付いたりすることがある。まぁこっちもかわいそうだから5分くらいで解放するけどね。

あと、ばこは割と暑がりだと思う。今の季節、高尾にゃんは猫ベッドで寝てるけど、ばこは基本は床の上で伸びている。こんな風に。

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これ、今日の朝です(笑)こんな風に安心しきった様子でどこでも転がるので、うっかりして踏んづけそうになる(笑)

ってわけで、ばこもこの家に来て1年かー。これからも末永く高尾にゃんと2匹で暮らして欲しいと思ってるんだが、高尾にゃんの具合があんまり良くないんだよね、、昨日から3たび下痢をし始めて、今日は嘔吐も復活。夜になってまた動物病院に行ってきた。もう、体重がどんどん減って来ちゃって、わたしは泣きそうです、、どうか1日も早くよくなりますように。。
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07-29 Tue , 2014
高尾にゃんの具合が悪い
彼女のことは一段落付いたと思いきや、今度は高尾にゃんが吐いたり下痢したりしてね。その前はばこが血尿出したりしたんで、わたしは彼女が骨折して以降、自分の病院を含めて本当に病院通いが続いている。まぁ今では彼女の病院には付いて行かないけど、動物病院に連れて行くのは今はどうしてもわたしじゃないとダメだし、うちは車がないので、わたしがその都度動物病院に猫を抱えて自転車で行かなきゃならない。まぁすごい遠くにあるわけじゃないけど、かなり大変な思いをしている。わたし自身、全く別のことで今、精神的に大ダメージ受けてて、調子があんまりよくないんだよね。。ふう、いつになったら終わるんだろ、この試練。まぁ人の人生に試練なんてないとわたしは思ってるんだけどね~。因果関係はあるが。

高尾にゃん、確か7月10日だったかの朝、ご飯を食べたあと吐いてね。午前10時頃だったかな。いつもは吐くとしたらご飯を食べた直後に吐くんで、数時間後ってのはほとんどないことなのね。しかもそのときに発見したんだけど、トイレじゃないところに下痢をしてて。毛布の上だったんだけど、高尾にゃんはよく毛布だったり布だったりラグだったりタオルだったり、まぁそういうところで時たまウンコすることがあって。そういうときは布がぐじゃぐじゃになってるから「あれ?」って感じで分かるんだけど、このときもそうだったから、直感的に「これはばこじゃなくて高尾にゃんだ」って。今まで吐いて下痢をすることなんて1回もなかったんで、すぐに動物病院に連れて行って診てもらった。

「梅雨時は動物もよく体調を崩して吐いたり下痢したりする」って言われて、吐き気止めと下痢止めの注射をされて、吐き気止めと下痢止めの薬が出て「これで様子をみましょう」と言われた。でね、ここから2日間くらいは下痢がまだ出てたんだけど、それ以降はちゃんとしたウンコになって。だけど吐くことだけは止まらなくてね。1日1回は必ず吐いてた。だけど、吐くタイミングがバラバラでね。食べたものをすぐ吐くときもあれば、朝、ご飯を食べる前に吐いたり、内容も透明な中に毛が入ってるのだったり、茶色だったり、いろいろで、何が原因か分からないの。高尾にゃんはもともとグルーミングが好きで、毛を吐くことが多いのね。多いと言っても何もやらないと1週間に1度程度かな。ブラッシングを2日に1回くらいやると吐かない。だけど、このとき毎日ブラッシングしても、毎日吐いてね。明らかに変だと。なんで、この1週間後くらいだったかな、前の晩吐いて、朝ご飯食べたあとも吐いたんで、また動物病院に連れて行った。

実は高尾にゃん、今年の2月にも吐いて病院に行って、そのとき血液検査してもらったのね。結果は全く異常なしで。なので「もう1回血液検査しても前とあんまり変わらないと思います」って言われて、取り敢えずはレントゲンだけ写してもらった。結果は異常なし。考えられるとしたら膵炎だって言われたけど、膵炎はもっとたくさん吐いたりするんだそうだ。で、そのときは下痢は止まってたんで、ちょっと薬が変わって、吐き気止め2種類が出た。ああ、あのときは確か、水分補給のために皮下点滴をしてもらったんだっけ。

家に帰って吐き気止めを飲ませてたんだけど、吐き気は治まらなくて、しかもまた下痢になって来たので、その数日後だったかなー、また病院に連れて行ってね。確かそのときは出した便を持っていったのかな。で、糞便検査をやってもらったんだった。虫はいないって言われたけど、やっぱり腸の調子がよくなくて、悪玉菌が増えている、これはおそらく大腸炎でしょうって言われて、吐き気止めと整腸剤をもらって帰ってきたんだよね。これでよくならなかったら、念のため、血液検査をしましょうってそのときに言われた。

で、その日の夜から朝に掛けて高尾にゃんは6回も下痢してね。しかもまずいことに次の日はいつも行く動物病院は休診日で。でもこれだけ下痢をしてたら放っておけないってことで、ちょっと離れた、初めて行く動物病院に連れて行くことにした。そこで「これこれこうで、病院かかってたんだけど今日は休診日で」って説明して、診察してもらうことになった。

診察室で今までの経緯を詳しく話したら「どこまで治療しますか?」って言われた。まぁそりゃそうだろう。次の日はいつも行ってる動物病院は開くし。取り敢えずつなぎで診てもらってもいいわけだしね。けど、わたしは高尾にゃんがかわいそうで、早く原因を究明して対応して欲しかったので「検査して欲しい」って言った。そこの病院の先生も「これだけ長く吐くのと下痢が続いているのは何か異常がある証拠で心配です」と言った。なので、血液検査とまたレントゲンを取ってもらった。結果は異常なし。だけど、膵炎の可能性があるから、外部に出して検査してもらうって言われた。それからこれからしばらく毎日皮下点滴しに来てくれって言われて、あとはご飯の量をいつもの半分に減らすように言われた。高尾にゃんは食欲だけはいつもと変わらなかったんで、これはちょっとかわいそうだったんだけどね。

それが先週の火曜日のことで、わたしはそこから毎日病院に高尾にゃんを連れて皮下点滴に通った。木曜日に膵炎の結果が出て、膵炎じゃないって言われた。金曜日だけは疲れ果てて頭が痛くて身体が動かなかったので、彼女に行ってもらった。。彼女は今はまだ自転車に乗れないのでタクシーで連れて行った。それでも高尾にゃんは金曜日の夜までは毎日吐いてたんだよね。。下痢も木曜日までしてた。

それだからか「異物を飲み込んでいないか、バリウム検査をしてみましょう」って金曜日言われたそうで、土曜日の朝にわたしが連れて行った。前日の21時以降は飲み食いさせるなって言われて。まるで人間の検査と同じだなって思った(笑)バリウム検査は、バリウムを飲ませて何時間後にレントゲン、って感じで何枚も撮るんだそうだ。検査が終わったら家に電話が来るって言われたんで、待ってたんだけど、18時を過ぎても電話がかかってこなかったんで、こちらから電話しちゃった。そしたら「まだ終わってません」って言われて。高尾にゃん、大丈夫かなって思った。まぁそれから30分くらいしたら「終わりましたから迎えに来てください」って言われたんで、すぐに行ったけど。

結果は何も飲み込んでないってことだった。だけど胃は確かにかなり荒れていると。それに、これから出てくるウンコの中になんか異物っぽいものがある。毛には見えない、でも何か分からないので、ウンコが出てきたらほぐして中身を見て下さい、って言われた。

帰ってきた次の日の夜に高尾にゃんはウンコした。最初の方は黒かったけど、途中からバリウムが混じった白いウンコが出てきた。仕方がないのでその出てきたウンコをジップロックというビニールの袋に入れて、そこの中にお湯を入れて、ロックしてビニールの外側からウンコを揉んで、ウンコの水溶液を作った。もちろんわたしだってこんなことはやりたくないけど、かわいい高尾にゃんのためだものね。そしてウンコの水溶液を今度はペーパータオルで漉した。漉したものを何度か洗ってまた漉して、それで出てきた内容物を調べた。ほとんどが毛だった。でも、毛に混じってなんか、ザラザラした砂粒みたいなのがたくさん出てきた。「これってバリウムの粒なんだろうか?」と思ったが、よく分からなかったので、内容物を取り敢えず乾かして、次の日にラップに包んで病院に持って行った。水溶液を濾過して内容物を調べる、なんて、小学校か中学校の理科の実験みたいで実はちょっと楽しかった(笑)だから理科の実験も日常生活に全く役に立たないわけじゃなく、どこで何が役に立つかなんて全然分からないよなって思った。

バリウム検査で異常がなかったら、最後にエコー検査をしましょうって言われてたので、バリウム検査から1日おいて、エコー検査をした。これが昨日。エコー検査も前日21時以降は絶食だそうだ。

高尾にゃんはもともと病院に連れて行くのはそんなに苦じゃない。キャリーバッグの中に入るのは好きじゃなくて嫌だって言うけど、入ってしまえばにゃんとも鳴かない。自転車で連れて行くときも何も言わない。一方ばこは泣きわめく。まるで「今からこの人は猫を捨てに行くんですー!ばこは捨てられちゃいますー!助けて下さいーーーー!」って言わんばかりに泣きわめく。街行く人に振り返られてとっても恥ずかしい思いをする。でも高尾にゃんは鳴かないのでそういう思いをすることもない。

病院で診察の順番を待っているときも鳴かない。キャリーの中でおとなしくじっとしている。診察室に呼ばれて診察台の上に乗せられても鳴かない。体温を測るために肛門の中に体温計を入れられるのは嫌みたいだけど、だからといって爪を立てたりすることもない。前はフーとかシャーって言うときもあったんだけど、今はされるがままで耐えている。

血液検査はさすがに抵抗するので、手からは取れなくていつも首から取るのだけど、それ以外の、今回やったレントゲンとかバリウムとか、すっごくおとなしくしてたそうで、いつもいつも検査してくれた人から「高尾ちゃんはやりやすかったです」と言われる。

それだから、わたしも高尾にゃんはとっても病院につれて行きやすいんだけど、それがなんだか却って不憫でね。高尾にゃん、ごめんね、ごめんねっていつも思う。さすがにバリウム検査で9時間くらい病院にいたときは一刻も早く帰りたかったらしく、わたしが迎えに行って、先生から検査の結果を聞いているときにニャーニャー小さい声で鳴いて「早く帰りたいよう」って言ってた。

わたしもさ、高尾にゃんが半日家にいないともう寂しくて。高尾にゃんはわたしが家にいるときはなにげにそばにいつもいてくれて、わたしがベッドに寝ころんでいると足元に来るし、わたしが机に向かっていると同じ部屋の中で転がっているし、ほとんどいつも、わたしの視界の中にいるんだよね。それがいないとなると、妙に寂しくてね。「ああ、いつも高尾にゃんの存在に慰められてるんだなあ」って実感したの。

なので、エコー検査でまた半日くらい病院、って言われて「うーん」って思ったんだけど、まぁこれが最後の検査だからと。高尾にゃんは、一時は餌の量が半分になったけど、金曜日の夜からは通常の量に戻ってた(いつも食べてるのじゃなく、療法食だけどね)。けど、土曜日は検査で朝から晩まで食べられず結局1食、日曜日はちゃんと食べたものの次の日の朝は何も与えられないので随分お腹が空いていたと思う。病院で体重測ったらかなり体重が減ってた。そして前日出したウンコの中身、わたしじゃ判断付かないので持っていって見てもらったんだけど、やっぱり何か分からないようだった。明確な異物ではなかったんだよね。まぁ異物って普通、紐とかプラスチックとか、そんなのらしいから。ちなみに出てきた砂粒みたいなのはバリウムじゃないって言われた。バリウムは粒じゃないそうだ。高尾にゃん、あんた、どこで何舐めたの。。??ただ、毛が多く混じっていたことから「毛玉症」と言えるかもと言われた。あ、もしエコー検査で異常がなかったらね。ただ、家に帰ってきて毛玉症(毛球症)について調べたら、消化器官に毛玉がたまる病気なんだってね。最悪の場合はたまった毛玉を手術で取り出さなきゃいけないんだとか。でも、先生はそういう意味で言ったんじゃないみたい。なるべく毛を排出することがこんな状態(吐き気や下痢)にならなくさせる対処法だと。そのためには餌を毛玉ケアの餌に変えるとか(実はもともと高尾にゃんの餌は毛玉ケアの餌なのだが)サプリを与えるとか、そういう対処方法しかないと言われた。要するに根本的な薬はないってことね。今回みたいに吐き気や下痢になったときに、対症療法として吐き気止めとか下痢止めが出るくらいしかないみたい。

まぁそんな説明をされたあと、高尾にゃんはエコー検査で病院に預けて、それからわたしは一旦家に帰った。エコー検査はバリウムとは違ってそんなに長いことかかる検査じゃないって言われてたけど、確かに病院から電話がかかってきたのは16時頃だったかな。なので、電話がかかってきてすぐに迎えに行った。

検査の結果はこれも異常なし。だから、朝に言った毛玉症でしょうねーと言われた。まぁわたしはバリウム検査、エコー検査ともう最悪のことしか考えてなかったので、少しホッとしたんだけどね。だって、ネットで調べれば調べるほど怖い名前の病気しか引っかかってこなかったんだもの。もちろん、最終的には内視鏡検査ってのがあるらしい。けどこの検査は全身麻酔をしなければならないのと、高尾にゃんの年齢を考えたら、そこまでしなくていいんじゃないかなあってことで、一応検査はこれで終了ってことになった。吐くのは金曜日の夜から止まってたし、下痢もその前の夜から止まってたので、餌も療法食から通常のものに変えていいですよー、ただし1週間くらい掛けてちょっとずつね、と言われた。薬はまだ飲ませないとダメで、もしかしたらまた吐き出したり下痢をしてしまう可能性もあるんだと。今止まってるからってずっと止まってるとは限らないですって言われた。ただ、次の通院は何もなければ薬が切れたときで、また吐き始めたりしたらそのときにすぐに来てくださいと言われた。

ってわけで、ようやく今のところは病院通いから解放されたのだけど、高尾にゃんはここ毎日病院に行ってたから警戒してるのか、今日は午前中ずっと部屋の隅のカーテンの影に隠れていた。

もうさ、本当に大変だったですよ!しかも、明日はばこのおしっこを取ってまた病院につれて行かなければならない。。上にも書いたとおり、ばこは病院につれて行く間、ひんひん泣きわめくのでつれて行きにくい。。まぁ病院の建物に入ってしまえばまた鳴かなくなるんだけど(診察室でも泣きわめくことはない。鳴くのは外でだけ。なんでだろ?)。

正直、大変な日々を送っております。。いや、おりましたって過去形にしたい。。今後、高尾にゃんが再び悪くなりませんように!

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昨日、検査が終わったあとの高尾にゃん。「やれやれ、えらい目に遭った」
18:48 | 二人と猫のこと | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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